2018年7月31日火曜日

石田衣良(作家)             ・【母を語る】

石田衣良(作家)             ・【母を語る】
1960年東京生まれ、成蹊大学を卒業後就職することに疑問を感じて、フリーターをしていましたが、1986年母親が突然亡くなったことをきっかけとして広告会社に就職、その後コピーライターとして独立、1997年池袋ウエストゲートパークでオール読物推理小説新人賞を受賞し作家デビューをします。
2003年『4TEEN』で第129回直木賞受賞
2013年『北斗 ある殺人者の回心』で第8回中央公論文芸賞受賞
今年4月には若者の目を通して今の時代の愛の形を描いた少年シリーズ第3作「爽年」を刊行しました。
時代の空気を敏感に感じ取る作品を次々に書き続ける石井さんに若くして亡くなった母への思いを話していただきます。

今は新聞小説の連載をやっています。
映画も成人映画指定ですがヒットしてくれました。
「娼年」「逝年」「爽年」
主人公が成長するに従って、物語の核になるようなものが字になっている。
タイトルは私が考えました。
本名は石平庄一(いしだいらしょういち)
父と母が商売をやっていたので放っておかれて静かに本を読んで居ました。
兄弟は4人、姉2人、妹が一人です。
男は一人で大切にはされましたが、どこか痛かったりすると周りが大騒ぎするので我慢して過ごしました。
学校でも静かに本を読んでいるようなタイプでした。
手広く商売をやっていたので僕と妹にはそれぞれお手伝いさんが付いていました。

母は仕事が大変だったので、ホワイトカラーになった方がいいのではと言っていました。
母は都立第七高女(女性教師を養成するための学校)をでたあと、商売をしていることに対して、オフィスワーカーをしたかったということはあるかもしれません。
6,7歳ぐらいから自分で本を買って読んでいました。
安い文庫本を片っ端から買っていました。
作家にはなりたいとおもったが、海外の出来のいい作品を読んでいたので、とても太刀打ちができないと思っていました。
小学校の低学年で誕生会で朗読する作品を書いたのが初めてです。
一番楽しかったのはラジオの深夜放送を聞いて話し合ったりした中学時代でした。
高校の時は体制が受験で、これはあまりに程度が低いなあと思って本を読み続けました。
国立大学の経済学部に行けとは母からは言われましたが、理科、社会、数学はめんどくさくて勉強しなかったです。
大学もあまり行かなくて留年して5年かかりました。
本のほかにアルバイトをして低い目線から世の中を見て学びました。

20歳代は棒に振っても30歳代に核になるようなものが見つかればいいと思いました。
母は、この子はエンジンみたいなものを持っていて自分で何かをやるじゃないかと期待感は持っていたと思います。
就職はしないで2年ぐらいアルバイトをしていました。
母が出先で倒れてくも膜下出血で突然亡くなってしまいました。
どっか会社に入って会社というものを勉強してみようと思いました。
母は50代の後半でした。
亡くなったことに対して衝撃でした。
母には一冊でいいから僕の本を見せたかったですね。
母が亡くなる3日間の間に、集中治療室に入っている人の年齢を書いた数字がホワイトボードに10個位書いてあって、3日間の間に72という数字が消えたり、新しい数字が書き足されたりするんですね。
それを見ている3日間は本当にしびれる時間でした。
0の子が亡くなったりもします。
ホワイトボードの事はいつかは書きたいとは思っていました。

コピーライターの広告会社に入りましたが、5,6年働いて自分には合わないと思いました。
その後フリーターとなって、小説を一本書いてみようと思いました。
入社試験では作文が上手くてプレゼンで叔父さんを笑わせられて知識がありそうだ、何かしら考えているんだなとその雰囲気が出せれば受かる。
そういうふうに思いました。
会社って余り仕事ができなくても給料はくれるし優しいなとは思います。
自分の時間を会社に取られるのが厭だった。
周りが忙しくて手伝ってと言われたが、定時で帰っていました。
1.5~2人前は仕事をしていたので余り周りからは言われませんでした。
有名な祈祷師がいて4,5歳の時に連れていかれて腕を持ってぐるぐる振り回されたんです、その後でその人が言ったのがこの子はなにをしても大丈夫、何の心配もいらないので好きなようにさせてください、と母に言ったんです。
この子は中に何かを持っているなということは判る、それに人間の格とか器は年齢とは違う、見ていればそれが判ると思う。

母を20歳代半ばで亡くしているので、マザコン的な作品があるが影響があると思う。
東京大空襲では母は高校生だったが、最初の焼死体見たときには両手を合わせたけれど、それから30分もすると死体をピョンピョン飛び越えて逃げるようになったと。
横になった電柱を飛び越えるように、こんな地獄のようなことは見たことはないと言っていました。
母の学校にはプールが無かったので隅田川のいけすのように囲ってそこで泳いでいたが、泳いでいる所を透明な白魚がキラキラ光りながら泳いでいたそうです。
そんな景色はすばらしい、悪い事ばかりではないと話していました。
音楽の元は自然の風だったり、木々の音だったりしてそれをモーツアルトとかが自分の中の変換装置でああいう音楽として出てくる。

僕の場合の変換装置は清涼感の描写を出す装置になっているんだと思います。
両親から受け継いだものがあるとしたらコツコツ働くことですね。
新聞連載小説「炎のなかへ」 母の話をもとに始めた東京大空襲の夜の小説です。
空襲の3日前からその日までの3日半の話です。
重いけど手ごたえがあります。
悲惨なだけでもない、愛国心だけでもない、普通に生きている人が空襲の夜にどうやって生きたのかという事をちゃんと書ければいいなと思います。
母に感謝するのは自由にしてくれたことです。(時間とか目的とか)
それとこの空襲の話だと思います、母から聞かなければ5~10年資料を集めているがそれが無かったかもしれない。















2018年7月30日月曜日

本田優子(札幌大学教授)         ・アイヌ文化の魅力を伝えたい

本田優子(札幌大学教授)         ・アイヌ文化の魅力を伝えたい
今年2018年は北海道と呼ばれるようになって150年目、2020年には白老町に国立アイヌ民族館が開館します。
そうしたなか北海道庁から150年事業アドバイザーに委嘱され、国のアイヌ総合政策推進作業部会委員をされているのが、札幌大学の本田優子さんです。
本田さんは金沢生まれ北海道大学に進学、そこでアイヌ民族でアイヌ語研究者の萱野茂さんの事を本で知りました。
大学卒業後萱野さんが暮らす二風谷(にぶたに)に移り住みアイヌ語を学びながら過ごしました。
その後札幌大学に着任し2010年、学内にアイヌの学生に対する奨学金制度を創設するとともにアイヌの学生もアイヌではない学生も一緒にアイヌ文化を学ぶ「ウレシパクラブ」を学内に立ち上げました。
ウレシパとはアイヌ語で育て合うと言う意味だそうです。
アイヌ語、アイヌ文化の魅力、今後の夢などを語っていただきます。

おばあちゃん子だったので金沢弁をおばあちゃんとあるいは友達と喋っていました。
チャイムが鳴ると標準語に言葉が切り替わります。
或る時何故だろうと授業中に金沢弁で喋りました。
先生からお前馬鹿にしているのかといわれて、ショックで言葉の裏に権威、権力があるのかなあと思いました。
北海道大学に進学して、あまり勉強しないで居たら友達が本を貸してくれて、その中に萱野茂さんが出て来てアイヌ語を取り戻すために頑張っているのを知りました。
同化政策の為にアイヌ語を捨てさせられたという事を知りました。
自分の中の金沢弁とアイヌ語が結びついてアイヌ語に対する原体験かなと思います。
卒業論文は明治時代の開拓史のアイヌ政策ということで歴史の論文を書きました。
カルチャーセンターで萱野先生がアイヌ語の授業を持たれていてそこに参加しました。
大学院に進もうと思っていましたが、いまのアイヌの方がどのようにされているのか判らなくて1年間萱野先生のところに居候しました。
アイヌのコミュニティーでアイヌの子にアイヌ語を教える事を萱野先生が始めて、その仕事、アイヌ語の辞典編纂の助手としても手伝うことになりました。

先生が夏に病気になりアイヌ語塾をつぶすわけにもいかず、アイヌ語は知らなかったが苫小牧の入院先に通って教わりながらアイヌ語塾で教えることをやっているうちに楽しくなりました。
秋には永住宣言をして住み着いてしまいました。
結婚もして子供も生まれ11年暮らしました。
二風谷(にぶたに)にいて子供達がアイヌのおじいちゃん、おばあちゃんがたが色々教えて下さってうちの子は結構ものしりです。
知的好奇心をアイヌの方からきっちり仕込んでもらったからだと思います。
子供達は自分たちのパワーの全ては二風谷(にぶたに)に有るとしょっちゅう言っています
下の子は物をこぼすんですが、私はつい叱ってしまいますがアイヌのおばあちゃんがたは「怒るんでない、いま床の神様が飲みたかったんだから」とおっしゃいます。
子供はふーっと楽になる訳です。

長男はせわしない子でストーブにぶつかって、ワーッと泣こうとした瞬間に萱野先生は「泣くんでない、今ストーブの神様は痛いんだから撫でてあげなさい」と言うんです。
後で判ったんですが、なんてすごい教育だろうと思いました。
自分が痛い時はぶつかられた相手も痛い、瞬間に痛みを他者と共有する、そういうことを一杯子供は教えていただきました。
アイヌ語は正直難しいところはあります。
音節末子音といって、母音がくっつかないし、音(イン)だけで終わる音がある。
ア(AP)→魚取りの道具 (あっぱれと言う時のぱを言わない)  ア(AT)→おひょうと言う木の皮の内皮(暖かい たを言わない)
ア(AK)→弟(明るいのかを言わない)
舌の位置が違うアイヌ語の独特な発音。

萱野さんはかっこいい人です。
アイヌでは村長(おさ)の3つの条件がある。
①雄弁 ②度胸がある  ③かっこいい(堂々としたかっこよさ)
村同士がいさかいが起こった時には村長(おさ)同士が村人の前で談判をする。
出て行くときに相手が負けたかも知れないという押し出しのきくカッコよさ良さがリーダーの条件だったらしい。
萱野先生は3つの条件を持っていました。
おだやかなひとでしたが子供たちに一度だけ怒りました。
川のそばでおしっこしようとしたら「そこでするんではない、山でしろ」と怒鳴りました、
川には「ワッカカムイ」という水の神様がいて決して汚いものを絶対直接流してはいけないと言う、アイヌ社会のタブーでした。
土の神様は汚いものを綺麗なものに変えて「ワッカカムイ」に運んでゆく役割があると云うことです。

「役割無く天から降ろされた物は一つも無い」という言葉があります。
アイヌの世界観の根底にあります。
萱野先生はだれに対しても変わらない、みんな呼び込んで家に或るものを食べて行きないなさい、だれに対してもとおもてなしをする。
「しょわされた荷物は重いけど、しょった荷物は重くない」と萱野先生が言っていましたが、私の座右の銘にしています。
「ヤイコシラムスイエ」 ヤイ=自分 コ=に対して シ=自分 ラム=心 スイエ=ゆらす
自分に対して自分の心を揺らす→考えるという動詞になる。
それまで考える力は脳みその力だと思っていましたが、アイヌ語から考えると違うんです。
自分に対して自分の心をどういう振れ幅でどう揺らすのか、それが考えると言うことだと思うからそういうアイヌ語が生まれてきたんだと思います。
アイヌ語には世界観が広がっていると学生には言っています。
日本語で「考える」は何だろうと大辞典を引いてみたら 「かむかう」とかいてありました。 か=彼 向こうに向かうが日本語の「考える」 アイヌ語では自分の心を揺らす。
民族の言葉には世界観が広がっていると私は思います。
だから民族の言葉をきちっと守っていかないといけないと思っています。

2005年に札幌大学に採用されて、アイヌ語、アイヌ文化を専門とする教員で採用されたのは日本で初めてのようです。
ゴールデンカムイ」 凄く面白い漫画あり大ヒットしている。
学生たちがアイヌ文化に興味を持ってゼミなどに来てくれます。
二風谷(にぶたに)で教えて頂いて感動したことを学生に教えて行きたい。
人間五感で覚えたものは忘れない、萱野先生は五感で気づかせる教育をやってらっしゃいました。
自然の中でアイヌ語を教えたりしています。
「ウレシパプロジェクト」 「育て合う」 核となるのは「ウレシパ奨学制度」
アイヌの若者達の進学率は全道平均の半分を遥かに下回っていました。
若者たちにアイヌ語文化を学ぶ場を提供したかった。
アイヌの文化を全く知らずにいて何としても教育だと思っていてそういう場を提供したいと思いました。

第一期生の女の子 小学校の時に自分の人生に大学にという選択肢はないと思ったという。
大工さんの専門学校に行って、北海道大工さんコンクールで2位になって、北海道庁に推薦されるはずだったが地元の役場で働くことになり、「ウレシパプロジェクト」の事を知って応募してきました。
自分はアイヌということで物凄く差別されて虐められてきたので、人からはアイヌだと言われても自分からは口が裂けてもアイヌと云わないで生きてきたが、ここでアイヌ文化を学んで生きて行きますとポロポロ泣きながら言って来ました。
ダントツの成績で、自分の縫った民族衣装を着て大ホールの段に上って学長から総代として卒業証書を受け取りました。
プロジェクトを立ち上げて良かったと思います。
プロジェクトの事を提案した前の年、2008年がリーマンショックで影響が厳しく学費未納で沢山の学生が除籍になり、どうしてアイヌの学生だけが良い目に会うのかと言われたが、文化学部の多様性とか理念を謳っていて、多様性はルールだけではなくて多様性を作る場をという事でアイヌの若者と同時に学部が掲げてきた事の他者の為の多様性を真に学ぶための教育プログラムだと言う事を訴えて実現していきました。

「ウレシパプロジェクト」のアイヌではない若者たちは北海道を変えて行くモデルになりうる存在だと私は思っていてとても大事だと思っています。
日本社会がアイヌ文化について理解を深めて行っていただきたいと思います。
2020年に白老町に国立アイヌ民族館が開館します。
アイヌ文化の受け皿 民族共生の象徴空間ということでそこで働きたいという学生は沢山います。
ハワイはアメリカに統合されてからハワイ語が奪われてしまっています。
1983年にハワイ大を出た子が子供をハワイ語で育てたいと言うことで、その後小中校大学までハワイ語だけで授業を行う学校が作られて展開されています。
アイヌ語を北海道の公用語に出来ないかと思っています。(日本語には公用語が無いので)
ニュージーランドの公用語は今3つあり英語、マオリ語、手話です。
公用語は宣言だと思いました。
北海道の公用語のひとつだと宣言しても良いんだと私は思いました。









2018年7月29日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】
*モーツアルト 「交響曲第40番ト短調」
1788年7月25日に完成。
夏に作曲された名曲、夏を描いた名曲・・・今日のクラシックの遺伝子
*「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」も夏に書かれている。 187年8月10日に完成
モーツアルトの親友の中庭でのパーティーで書かれ演奏されたのではないかという有力な説がある。

ヨハネス・ブラームス、グスタフ・マーラーは主に夏に作曲したと言われる。
ブラームスは毎年夏になると避暑のためウィーンを離れ、美しい自然の中にある保養地ペルチャッハで創作活動を進めるのが常だった。 
ヴァイオリン協奏曲 交響曲第二番 ヴァイオリンソナタ 雨の歌を書いた。
*ヴァイオリンソナタ ト長調 「雨の歌」

レナード・バーンスタイン  生誕100年
*バレエ「ファンシー・フリー」から3人の水兵の登場(オープニング)と第3曲ダンソン
 
*「サマータイム」 ジョージ・ガーシュウィンが作曲

*「おもいでの夏」 映画音楽 ミシェル・ルグラン(ピアノ)
 ステファン・グラッペリ(ヴァイオリン)との演奏

2018年7月28日土曜日

中尾 彬(俳優)             ・終活で知る大切なもの

中尾 彬(俳優)             ・終活で知る大切なもの
池波志乃
お二人が身の周りの事を考え始めたのは十数年前の事。
相前後して共に大病した後、志乃さんからそろそろ考えてみない?と言われ、遺書を書くことから始まった二人の終活、しかし暗いイメージはありません。
ゆっくり時間をかけて整理を始める中で、孤独ってなんだろう、夫婦ってなんだろうと考えることが多いそうです。
終活は死に仕度ではないし、どれだけ楽しくやるか自然に委ねていけばいいと言います。

彬:アトリエが千葉の木更津にあり、色んなものを集めていましたが、病気になり、こんなものは使わなくていいというものがいっぱい出て来ました。
志乃:私が沖縄にいた時に倒れてフィッシャー症候群で急に手足がしびれて、目も開かなくなりました。
1カ月半で治りましたが、リハリビが必要でした。
その間私の母が癌になり、千葉に母が入院していました。
彬:私は60歳過ぎまで医者に行ったことがありませんでした。
64歳で肺炎になりました。(最初は風邪だと思った)
一つ良くなると又次にとか、筋肉が溶けるとか、そういう病状になり1カ月以上入院しました。
志乃:その時は何で後から後からと思いましたが、うまい具合に摺りぬけてお互いが偶然一緒にならなかったので何とかなりました。
一緒だったらなんともならないという事に気が付きました。
子供がいないので、自分で始末をなんとかしておかないといけないと思い始めました。
最初はお墓でした。

彬:私の場合は生存率が20%でしたので死と直面しました。
そこでお墓の事を先ず考えました。
志乃のお父さんが志ん生の所に入っていて、一緒に入ろうかと云う話まで行きました。
墓の設計をやろうとして奇抜なものを考えたが、お坊さんがなるべく奇抜なものはやらないでほしいと言われました。
志乃:父と母がなくなってから二人を連れて来て(向こうは美濃部家)、私たちが入ると中尾家なので、横に寝かした石が三つで、母の実家のおじいちゃんとおばちゃんもいるんです。
ちょうど三つになります。
「無」と彬が自分で書きました。
彬:スパッとやらないと何もかたづかないですね。
先ずはアトリエ、沖縄のアトリエと千葉のアトリエを手放すことにしました、絵は取ってありますが。
沖縄のアトリエでは絵をかくつもりでしたが、仲間が多く出来ました。
志乃:ものより人とか自分たちの思いとかの方が財産だと思いました。
沖縄へいっても掃除をしたり、いくこともしんどくなりました。

彬:写真とかも一杯あります。
見ていてもこれ誰だっけということで、一杯取っておいてもしょうがないと思いました。
志乃:写真って残されたら残された人に取っては始末しにくい。
貴重なものを抜いたら後は見ないで捨てる、そうしないと絶対かたづかないですね。
映像のテープも沢山ありましたが、全部捨てました。
VDVに焼き直すこともできますが、そのままだと画像がデブになってしまうので止めました。
彬:思い切りがいいと言われるが、判断だと思います。
志乃:ルールは決めておいた方がいい、それがもとで喧嘩というのは望まないことなので。
もう一段階楽しく過ごすということを目標にする訳ですから。
どちらかが迷った時には見えるところに置いておく。

彬:本は沢山あるが捨てられない。 
落語、料理、映画、絵の本位しかないから、本屋に電話するとむこうでも欲しいものがあるので助かりました。
志乃:体力が必要なので早くやらないといけない。
いろいろ片付けるものはまだ大分片付いたという訳ではなくて進行中です。
これから先ほしいものは今までと違うはずなので、欲しいものがあれば買ってもいいと思う。
これからもう一回新婚生活を始めるつもりで、あたらしいものも買っています。
捨てることが目的ではない。(断捨離ではない)

彬:人との付き合い、段々義理人情に欠けて来ました、いまは横着ですね。
志乃:定年がない商売なのでけじめが無い、義理でしょうがなく付き合っていたものを切れるチャンスだと思った方がいいと思います。
パーティーとかもろもろの付き合い、義理だけで行くようなところは無理はしないようにしようとしています。
彬:リタイアしてから何かやろうと言うのは遅い、40代からすこしでもいいから触れていないとだめですね。
なんか1時間でもいいからやっておかないとだめですね。
筆と万年筆と筆記道具はあります、自分に課してやっています。
孤独感はないです、さばさばした感じです。
志乃:あまり一人が寂しいということはないです。
寂しいというのが孤独で大変というのと、つるんでいるだけというのは違うのではないかと思っていて、友達だと思っていたがひょっとしてちがうかなと、或る程度の歳になると思える瞬間があると思う、なんかの都合でつるんでいたんだなあと。
彬:役者は意外とつるむんですね、つるまないと不安なんでしょう。
私は私たちの世界ではだれも友達はいないし作ろうとは思いません、知り合いは沢山いますが。 
違う職業の方の友達は一杯いますが。
同じ職業で付きあってしまうとある面で悪口が先行する、他の職業の人と付き合うと役作りにヒントを与えてくれます。

彬:映画、音楽、演劇などは無くても生きていけるが、私は遊ぶことが無いと生きていけない。
パチンコだとか競艇だとかではなくて、玄関に小さな絵が飾ってあって,ああ良い暮らしをしているなというよなそういう生活には一番憧れます。
志乃:一緒に同じものを面白がれるというか、根本のところであれば、食、味とか生理的なところが一緒でないと。
彬:老、死だとかは両方が元気な時に明るく話したほうがいいと思う。
志乃:きっかけが有った時に話しておく必要がある。
自分が安心するために。
最初の新婚は何にも判らない時からの新婚ですが、これから新婚と思えば何も怖くない、いらいらしたり喧嘩にならないようにできるんじゃないと、上と前を向こうと思います、あと何年一緒にいられるのか判らないから。
彬:終活は二人でないとできない、二人でやって掛け算して終活した方がいいと思います。
一人の人は何か趣味を見付けてやっていった方がいいと思います。
食事の絵日記を書いています。
旬のことも判るし、絵が浮かんでくるので文字も浮かんできます。
人生を整理すると言うことは全くないです。







2018年7月27日金曜日

安野光雅(画家)             ・【人生のみちしるべ】鏡の国のボク(2)

安野光雅(画家)    ・【人生のみちしるべ】鏡の国のボク(2)
1926年大正15年生まれ、92歳、島根県出身
子供の頃鏡を畳の上に置いてそこに映る世界を覗きこみ、空想を膨らませて遊んでいたと言います。
終戦後徳山市から23歳で上京、小学校の教師として働きながら本の装丁の絵の仕事などを手がけていましたが、36歳で教師を辞め画家として独立、安野さんが絵本作家としてデビューしたのが1968年42歳の時です。
今年は絵本作家デビューから50周年です。
繊細な風景画を始め、多彩なテーマ、楽しいアイディアに満ちた絵本を次々に生み出し、国際アンデルセン賞を始め数々の賞を受賞されています。

旅の絵本、細かく風景が描かれているが、描きながら出来て行きます。
一枚のある一部分を描いたら、又違う紙の一部分を描いたりしながら同時に進めて行きます。
ヨーロッパでは車で走っていると駅に近づいて来るなあとか遠ざかって行くという感じがして、駅、道、川、橋とかだんだん遠ざかって行くといったようなスタイルで描いたりします。
旅をする人物はレンタカーで行ったのを馬に乗ったイメージで旅をして行く。
1977年に1冊目を描きました。
最初にヨーロッパに行った時はまるで違う国だと思っていたが、段々経っていくと、金物屋、質屋さんとか、屋根があり、みんな同じだと思うようになってきた。
「初めて出会う数学の絵本」 これは私も衝撃的で、実は数学の本とは思っていなかった。
仲間はずれはどれかとか、仲間はずれは差別を助長するので良くない。
仲間作りなら問題ない。
いろんな物をくっつけたらどうなるのかと、馬に翼が付いたとか、人に人魚姫のようにうろこのしっぽが付いたりして、藤枝さんがこれはひょっとすると「初めて出会う数学の絵本」にしたらどうかどうか言うことになり、学者の方に確かめに行ったら、数学は物は順序だててものを考えることが数学なんだと言う事を聞いてこれもそうかなと思って、それで出すことにしました。(「初めて出会う数学の絵本」の説明は内容があまり理解できない)
仲間はずれが面白いだろうかとか、背いくらべとはこうなんだよという事を伝えたかった。
子供たちの為の絵本は数学の分野、科学、旅の絵本のように絵が隠されていたり物語が隠せられたりしているが、絵本を見てもパッパッパッとみておしまいにしてしまうのではなくて、中に沢山物語が詰まっているというふうにした方がいいと思ったんです。
パッパッパッと見ておしまいではもったいないと思いました。

鏡を床においてそれを覗きこんで自分で物語、空想して遊んでいたが、さてなという感じがした。
床にどっかに穴があいて、下から電柱が伸びて来る、全部さかさまになっていて、「不思議な絵」は鏡の世界から生まれたようです。
色々空想しました。

「考える子供」を出版。
大人は、子供は物を考えないと思っている。
子供の考えから生まれくることは少ない。
子供は実は考えている、おしゃぶりをしている様な赤ちゃんでも考えている。
数学で考える、歴史を考える、しかし秘かに私は考えていてそれを覚えたからと言って大したことではない。
つまるところは本を読みなさいといいたい。
本を読むことが物凄く大切だと言うことは、子供の時に読んでなかったら大人になっても読まないかもしれない。
自分で考えると言うことは、計算の能力が早いと言うのは考えているようで機械的に考えているだけで自分で考えている訳ではない。
囲碁は小学校で習い始めて高校にはいかないで碁を打ってプロになって、しかしそういう人をコンピューターの方が負かすようになって、ショックだなあと思っています。
人間と人間がやらないと面白くない。
囲碁、将棋、ピアノ、絵などもみんな子供の時から営々とやって、人生をかけて大ばくちをしなければいけない。
大ばくちをして勝つか負けるかということになってしまう。
画家になれたというのは、運もあったかもしれないが好きだったからでしょうね。

小学生の勉強は大学生の勉強よりも大事だと思っている。
小学生の時の勉強が将来を左右するから。
字が読めると言うことは本が読める、本の中には素晴らしいことが一杯書いてある。
小さいころから本に親しんでいることで色んな感動や情報と近くなれる。
時空をこえて近くになれる。
絵は実物そっくり描けることで順位が決まると言うことではなくて、実物より離れていてもいい、絵というものはそういうものだと思う。
絵は自分の気持ちを描いているものだと思う。
「許す」という言葉が無いと絵が出来上がらない。
所が許せないもので、例えば墨を落としてしまって、木にしてしまおうとして、沢山木を描けばよくなってくるが、しかしこの木は整列条件が違う、他の人には永遠に気付かないかもしれないが自分は知っている。
その辺の何とも言えない後ろめたさのようなものが残ってしまう、しかし許すしかない。

自分の道しるべになってきたのは二宮金次郎なんです。
彼は必ず約束を守った。
約束をはたすということは道しるべになりました。





2018年7月26日木曜日

ちばてつや(漫画家)          ・原点は屋根裏(2)

ちばてつや(漫画家)          ・原点は屋根裏(2)
友達とわら半紙などに鉛筆書きで描いてお互いに見せっこをしていました。
母親がひきあげてきた後「主婦の友」に勤めていたが体調を崩して、伏せっていた所母親の友達がお見舞いに来てくれました。
母は私が漫画を描いて困っていることをその人に愚痴ったようです。
児童漫画家募集という新聞広告をその人が母親に内緒で見せてくれました。
仕事を貰えるかと思って今まで描いたものを持って行きました。
見せたたところ鉛筆書きだし、これはひどいねと言われました。
出版社に出入りしている漫画家の原稿が有って、それを見せてくれました。
綺麗に描いてあって吃驚したことを覚えています。
漫画の基本の基本を教えてくれました。
試しになんか書いてみるかと20枚位紙をくれました。
帰りに教わった付けペンとか墨汁を買って帰りました。
母親などに知られないように、寝静まるのを待って少しづつ描きました。
そこの社長が石橋国松さんでした。
その後ですが、少年マガジンで「ハリスの旋風」という漫画を描いた時に、主人公の名前にしました、「石田国松」ですが。

20枚、30枚、25枚描いて持って行って渡しましたが、駄目だとは言わないでその都度紙をくれました。
合計128枚で終了して合格と言ってくれるのかなと思ったら、「御苦労さん」と言ってお金をくれました。(3カ月ぐらいかかって描きました。)
1万2351円でした、私が生まれてはじめてもらった原稿料でした。
1円はこの年に初めて出たアルミの硬貨でした。
当時の大学の初任給位でした。
家は貧しかったので喜んでくれると思って、母親にこのお金をみせたらまだ漫画を描いているのかと怒りましたが、母親が会社に電話をしてお金の出所は信じてくれました。
少女漫画を描くようになり、その後少年漫画の「ちかいの魔球」を描きました。
週刊誌に描かないかと誘いがあり描くのが遅いので逃げ回っていたが、1年後に資料から全部そろえるのでと言われて、引き受けました。
それが「ちかいの魔球」でした。
野球のことはあまり知らなくて担当さんがシンカーとかスライダーとかをキャッチボールで教えてくれました。
座りっぱなしの仕事なので夜良く眠れない事が多くて精神的な病気になっていたようでしたが、キャッチボールをした途端に身体も頭もがすっきりしました。
運動不足だったことが判りました。
他の漫画家さんにも声を掛けて運動をするように勧めました。

「紫電改のタカ(しでんかいのタカ)」戦争もの。
執筆理由は、戦後15年ぐらいたっていたころに、ゼロ戦、とか戦艦武蔵とかの漫画が出ていたが、かっこよくてヒーローになっていて、戦争を賛美しているのではないかと思いました。
怖いなあと思いだして、戦争はヒーローなどいなくて加害者も被害者も全部犠牲者になる、そういうことを忘れてはだめだと思いました。
「きけわだつみの声」なども私は読んでいまして、そう言う人達の気持ちを少しでも伝えられないだろうかと思って、問題提起をするような漫画を描くことにしました。
紫電改は終戦末期の性能のいい戦闘機ですが、特攻で使われる悲しい運命の戦闘機でそれに乗った若者の人生を語る話なので話が重くなってしまうが、描いてよかったなあと思います。
16,7~25,6歳の若者達が武器になって死んだ行った人達、その人たちが残した遺書、手紙などを見ながら書いたので、その人たちの気持ちが少しでも伝わればいいなあと思って描きました。

「ハリスの旋風」でもボクシングが出てくるが、それが「あしたのジョー」に繋がっていきます。
あしたのジョー」は1968年(昭和43年)~1973年(昭和48年)まで29歳~34歳まで描いた作品。
最初から登場人物、筋書きなどはある程度考えていました。
梶原一騎さんと組んでみないかと言われ一緒にはじめました。
私の持っていないものを沢山持っていました。
今思うと梶原さんと組んで良かったと思います。
これは描き始めて50年になります。
漫画を描き始めて疲れが出てきた頃だったのではないかと思います。
色々重なって十二指腸潰瘍とか病気をしましたが、いまは治って元気になりました。
読み返すと直したくなるので、読み直さないようにしています。
力石が死んでしまったということでジョーが苦しむが、キャラクターと同じ気持ちにならないと表情がうまく描けなくて、そんな場面を色々描いているうちに自分がおかしくなってしまいました。
疲れも重なって何度か倒れてしまいました。

梶原さんは力石の風貌を気に入ってくれました。
ライバルとして生かしていきたいと考えた挙句に地獄の減量の話を思い付いてくれました。
ジョーは生命力の全部を出しつくした、それは自分の為でもあるし、力石などの男たちに対する礼儀として、それをしなくてはいけないということから、炭が真っ赤に燃えて白い灰になる、それをイメージしました。
抜けがらだけが残っているというイメージであの絵を描いたんですが。
ラストは負けてしまいます。
「のたり松太郎」はビックコミックという大人の雑誌からの依頼。
母親がつい私の雑誌を見て夜這いの事などを書くと怒る訳です。
私はもう40代だったし、読む年齢層も30代とかですが、理解してくれない。
母親からいつも検閲されていました。
母親が92歳で亡くなってこれでのびのび描けると思ったが、一度そういったことが刷り込まれているので怪しげなシーンは描けないです。
手伝ってもらっているうちに、兄弟皆漫画の関係の仕事をしています。
宇都宮の文星芸術大学の漫画専攻の先生を13年やっています。
「一日一回暑い汗をかけ」と言っています。
漫画は紙と筆記具があればドラマが描ける。
人間の気持を共感するものを作る、こんなに素晴らしいものはないなと思っています。


2018年7月25日水曜日

ちばてつや(漫画家)          ・原点は屋根裏(1)

ちばてつや(漫画家)          ・原点は屋根裏(1)
社会現象にもなった「あしたのジョー」、連載開始して50年です。
今も多くのファンに読まれています。
ちばさんは1994年に大病して連載を休みましたが、18年振りに単行本「ひねもすのたり日記」を出版して今年第22回手塚治虫文化賞の特別賞を受賞しました。
ちばさんは1939年生まれ、生まれてすぐ中国に渡りました。
父が印刷工場で働いていましたが、終戦で中国人の友達に助けられてその屋根裏で弟たちに漫画を描いて過ごしました。
それがちばさんの漫画家の原点の一つだと言います。
17歳で漫画家デビューしたちばさんに伺いました。

「ひねもすのたり日記」 たった4ページの連載なのでそんなに内容は盛り込めないが、中国から引き揚げてきた時の思い出をぽつぽつと思いだしながら、詩を書くつもりで日常を混ぜながら描きました。
みずきさんが「私の日々」というのをビックコミックの巻末の4ページにずーっと描いていていいなあと思っていました。
みずきさんが体調が崩されて、ピンチヒッターのつもりで描き始めたが、描き始めて3回目の時ぐらいに亡くなられてしまいました。
6歳の時に終戦で日本に帰ろうかなと思ったが、帰れなかった。
短編で近況を語ったり漫画に描いたりしていましたが、休んでいる気はしなかった。
平成6年に心臓疾患、網膜はく離も見つかりドクターストップになってしまった。
妻がもう仕事ができないからということで8人いたスタッフに退職金を払って辞めてもらった。(私が知らないうちにやった事)
今右目はちょっとぼんやりしているが左目はよく見えます。
大病も色々処置をしてもらって徐々に良くなりました。

昭和14年生まれ、79歳、生まれてすぐ中国に行きました。
印刷工場の社宅に住んでいました。
工場の中には中国、朝鮮、モンゴルの人たちもいました。
6歳になったあたりからちょっといづらい雰囲気を感じました。
時には追い払われるようなこともありました。
8月15日終戦になり、工場に回覧板が回って日本人だけ工場長の家に集まれと言う事になりました。
大きな音がしてドアが開いて崩れるように大人たちが出てきて、顔を見たら青ざめていたり、怒鳴ったり、女の人は泣いていたりしていました。
私は何も知らずにいましたが、夕方になると会社の塀の外では物凄い爆竹が鳴ったり嬌声がしたりしていました。
中国人や朝鮮人が塀を登って入ってきましたが、その中に知り合いの大人の人もいました。
駈け寄ろうしたら母親から首を掴まれて家に入るように言われました。
社宅のガラス窓が割られたり悲鳴が聞こえて暴動が始まりました。

父親は身体が弱くて、暴動が始まった時には家にはいなくて、4人兄弟(一番下がまだ赤ん坊)で押し入れに入れて私はその前に立ちはだかるようにしていました。
母親は玄関に色んなものを置いて防御しました。
父親はシベリアに連れていかれそうになったが、身体が弱い人は外されて、父は帰ってきました。
暴動から逃げようとして夜中の12時に社宅を出ようとみんなで相談したようです。
母親は米を焚いておにぎりにして、9月でしたが冬の衣類を着せられて社宅を逃げました。
私と次の弟は歩いて親に付いて行きました。
靴が不良品でくぎがかかとにささってきて遅れないようにしていたが、そのうちにどうしても遅れてしまったが、足に血が出ているという事に父が気が付いて、釘をつぶしてくれました。
その時には我々一家だけが取り残されてしまいました。
周りからはぐれてしまったが、偶然一番仲の良かった除さんの親(父の同僚)と会うことができました。
日本人をかばったら大変なことになるからということでやりとりしたが、一緒に歩いて行って除さんの物置があり、屋根裏に案内されました。(6畳程度の部屋)
冬が来てとにかく寒い部屋だったが、なんとか過ごしました。
父は中国人の恰好をして徐さんと一緒に野菜類などを売っていました。

弟達は部屋の中にいて退屈で、最初母親が話を聞かせたりしていたが、話も底を付いてしまって、私は紙を大事にして持っていたので、ロバを描いてやったら喜んだので、紙芝居みたいに絵を描いて話をしました。
そういったことの繰り返しでした。
後に漫画家になったきっかけは何だったのかを問われる内容についてのことがあったが、自分では判らなかったが、弟が屋根裏での事をちらっと言ってくれてあの場面を思いだして、そのことを漫画のようにかきました。
父が行商みたいなことを手伝っているうちに日本人にもあって一緒に行動していた人達と会うことができて、徐さんと別れて日本人の団体に戻りました。
一冬を越すのに寒さ餓えに苦しみました。
確かな数字ではないが18万~24万人位の人が亡くなったとい言われてます。
亡くなるとその人の衣類、靴などを剥がして生きている人がそれを着る訳です。
帰ってきて歓迎してれた人もいますが、向こうにずーっと住んでいればいいというような感じを子供心に感じました。

母親の兄が世田谷に住んでいるということで尋ねましたが、焼け野原で母親が泣き崩れたのを覚えています。
父親の故郷の千葉に行くことにしました。
父親は食料品を扱う商売を始めて、その後バラックのような家を建てて父親と一緒に東京で暮らすようになりました。
母親は漫画を見ると子供は夢中になってしまって勉強しなくなるということで、それが心配で家には一冊も漫画はありませんでした。
教科書にいたずら描きをしていたら、絵が好きなら友達が漫画を描かないかと言いました。
その友人の家に行ったら漫画がいっぱいあり、むさぶるように読みました。













2018年7月24日火曜日

林 友直(東京大学 名誉教授)       ・宇宙への夢 果てしなく

林 友直(東京大学 名誉教授)       ・宇宙への夢 果てしなく
先月小惑星探査機「はやぶさ2号」が小惑星「リュウグウ」に到着した記憶は新しいと思います。
宇宙開発において日本が初めての人工衛星のうちあげに成功したのは1970年のことです。
人工衛星「おおすみ」 林さんはその「おおすみ」の開発に携わったおひとりです。
専門は電子工学、当時は新しい電気通信技術を用いた人工衛星に関する技術を確立するためには試行錯誤の連続だったそうです。
林さんは「おおすみ」からここまでの日本の宇宙開発の技術の進歩について一言では言い表せない思いがあると言います。
その林さんに「おおすみ」を打ち上げるまでの御苦労や宇宙開発への思い、次世代に伝えて行きたいことなどを伺いました。

日本の宇宙開発は長足の進歩と言っていいと思います。
ロケットの方の能力に合わせて乗せる探査機の方のめかたを軽くしなければいけないということで苦労しました。
私は工学部の電子工学で卒業が昭和25年で、その後15年位はエレクトロニクスの勉強をしていて、糸川秀夫先生が固体ロケットの研究を始めてそれがスタートしたのが昭和30年という事で、そこから10年色々な試験を重ねて行って、人工衛星も夢ではなさそうだということで、宇宙に本格的に取り組もうと言うことで東京大学の中に宇宙航空研究所が併設されて、そこに来ないかという声がかかって昭和39年ごろに宇宙研に出向くようになりました。
宇宙はそれまで全く手掛けたことはなかったが、糸川先生が宇宙を開拓して行くためにはロケット屋のほかに電気屋が必要であるということで声を掛けていただきました。

宇宙に上がる途中などどうやるか、上がってから観測する、自分の状態を知らせるという意味で通信が大事になります。
最初に信号を送る手段に取り組み、ようやくトランジスターが使えるようになってきて、回路をこしらえて送信機、受信機、信号の増幅、アンテナとつなぐと言う仕組みを作り上げないといけないので勉強しながら組み立てて行きました。
打ち上げの時に振動、衝撃が加わるのでそれに耐えなければいけない。
重くてもいけないので小型で軽くしなければいけないという面もありました。
試行錯誤、手直ししながら段々よくなっていきました。
電気信号を地上に記録してその原因を探り出すという仕事が舞い込むわけです。
受信した信号は記録紙の上にペン書きのレコーダーが波形を刻んでいきますが、波形を眺めて具合の悪いのは何処の時点でどこに起こったのか、それは何故かと、そういうことを探りながら進めました。
多段式ロケットで2段目への点火、3段目への点火とかあるが、3段目が燃え上がって切り離した後燃え残りのくすぶりがある。
ロケットのノズルからくすぶり煙が出て行くが、反作用でロケットを推進させる。
燃え終わったはずのロケットの燃えがらがくすぶりの煙で徐々に加速されて後ろから付いてくるわけです。
先に切り離された衛星は惰性で飛んでいるだけですが、燃え終わったはずのロケットが遂に追いついてぶつかってしまうという事故が起こったことがありました。

そのようなことは考えてもいませんでした。
その対策も色々講じました、切り離した後逆推進ロケットを付加して押し戻してしまおうと言う事をしました。
地上からの指令技術も段々とよくなりました。
長野県の佐久市にある大型パラボラアンテナの建設にも携わりました。
「おおすみ」はλロケットで直径75cm位のロケットで、その後1m位のロケットは順調に科学衛星が上がって行きました。
76年の周期で太陽を周回するハレーすい星が1986年に来ると言うことでそれを迎えうって観測しようと言う計画が持ち上がりました。
国際的な研究チームができて宇宙研もそれに参加しました。
日本では「さきがけ」「すいせい」2機の探査機を開発しました。(1986年3月)
ハレー彗星との航行点との距離が1億7000万km(地球から太陽までが1億5000万km 光で約8分)あり、そこから送られてくる電波を地球上で受けなければならないし、指令の電波も出さないといけない。
太陽電池の出力も限られてしまう。

当時の送信電力は2Wという電力でした。
1億7000万kmの先から2Wの電波で送った電波を地球上で受けなければならない。
国内にアンテナを作らなければいけないということで、場所探しから始めて苦労しました。(雑音のない場所)
「はやぶさ」2号機もこのパラボラアンテナを使用します。
ハレーすい星の観測は無事出来ました。
ソビエト連邦が2機、アメリカがICSE探査機、ヨーロッパが1機、日本が「さきがけ」「すいせい」2機の探査機、合計6機の探査機がハレーすい星の周りを群がって探査しました。
前回は1910年で望遠鏡で見るぐらいがやっとでしたが76年たってロケットでそばまででいけると言うことで人類としての知見が増したという状態になりました。
1986年はまだ冷戦時代でしたが、科学観測を通じて同じ舞台で議論しあって一緒に同じ目標に向かって観測したということはよかったと思います。
観測の発表会をイタリアのパトバで行いました。
パトバの教会の中にハレーすい星を描いた壁画が残っています。
100人ぐらいの関係者が集まりました。(ヨハネンパウロ2世の前にも伺いました。)
法王と握手して帰ってきました。

地球を宇宙から見ると人生観が変わると皆さん考えられるようです。
ほうき星の正体が幾分明らかになってきたと思います。
汚れた雪だるまをイメージすればいいと思います。
泥の様なものと氷のまじりあった天体らしくてそれが回っているようです。
噴出されるガス、それによってできたプラズマなどの観測から明らかになりました。
しっぽもよく見ると噴出したガスの状の粒粒の流れと、電離してプラズマがたなびいてるようなしっぽと2つに別れているような構造が見えるようです。

昭和2年生まれ、父が電気関係の仕事をしていたので興味を持ちました。
折り紙で折った小鳥、折るのに100ステップぐらいあります。(手先は器用な方)
宇宙開発は順送りに仕事を進めていくが、各班は待ち時間があり、私は石を磨いたり折り紙をしたりしました。
段々細かなサンドペーパーにして行きピカピカに磨きあげます。
好奇心が大事だと思っています。
中学2年の時に戦争が始まって高校2年に終戦になり、その間農家、工場に勤労動員ででかけました。
色々なことを経験してその後の役に立ったと思います。
いまではいい部品が出来上がってきて、かなり理想的な状態になってきたので良いことが出来るようになってきたと思います。
学会があり行った先の小、中、高校の子供たちへの出張授業をしています。
人工衛星は超高真空でも原子分子はいるのでそれにぶつかり段々遅くなっていって、軌道が小さくなりついには地球の大気圏に突入すると燃えて蒸発してしまう。
ロケットの能力をどんどん大きくするとそれなりに大きな仕事は出来るが、宇宙開発は予算を沢山喰うので、進めていくうえでやりにくい面がある。
電子装置が効果的な量、小電力になれば、大きなロケットでなくても宇宙開発が出来るのではないかと考えていたのでその方向に進むべきではないかと考えています。
小型ロケットで小さな衛星が頻繁に上がるということになれば、多くの若い人が宇宙に関われると思います。














2018年7月22日日曜日

石澤壽惠子(山椒園オーナー)       ・【"美味しい"仕事人】山椒にみせられて

石澤壽惠子(山椒園オーナー)       ・【"美味しい"仕事人】山椒にみせられて
栃木県日光市で山椒園を営む石澤壽惠子さん(82歳)は600本の山椒の木を一人で育てています。
山椒園を始めたのは10年前、それまでは東京の銀座でワインレストランを 30年経営していました。
その店をたたみ実家のあった日光で山椒園を開こうと思ったのは、山椒が身体にとても良いと知って自ら栽培したくなったからだそうです。
山椒の収穫も終盤の6月に話を伺いました。

山椒園の広さは1300坪、そのほかに食べ物を作ったりするところもあります。
山椒の木は600本ぐらいあります。
季節により草刈りの人が入ったりしますが、管理が大変です。
6月初めは実が一番おいしい時です。
太陽が当たったところはヒリヒリ感が違うし、栄養価値が高い気がします。
若芽を摘む時には料亭に届けたりしていて、居酒屋を18店舗経営している人がいて1kgずつ送ろうかと思っていますが、まだです。
2時間で2000円の入園料をいただいて摘み放題です。
日光は山が多いので自生しているのを摘みに行くのが習わしだったようです。
素手で摘むのが理想です。
棘があるのでちょっとぶつかっても痛いです。
春は4月20日位から芽が吹き出してきて3cm位の芽を摘みます。
お酒と醤油で佃煮にして食べます。
実がなる木とならない木がありメスの木になります。
花山椒と言って花だけで実がならない木もあります。
花だけ集めて佃煮にする方法もあります。

69歳の時から苗木を集め出して70歳から植え始めました。
この土地は姉が酪農をやっていてその前はブドウ園でした。
昔から自生している山椒に気が付いて、始めてみました。
山椒は不思議な食べ物という気がします。
この辺の人は身体にいいと言っていました。
お風呂の中に葉っぱを入れると気持ちがいいです。
帝京大学の医真菌研究センターの処から山椒に関する論文が届き、その先生も見に来て下さいました。
老化防止に役に立つとか教えて下さいました。
菌に山椒が有効、山椒の葉っぱを傷口に摺り込むと一発で治ります。
ヒリヒリ感が神経の奥まで開いて来るような気がしますといったら、それなんですよと先生は言っていました。(学問上証明されると面白いと思います。)

40歳でドイツワインを専門に30年間ワインの店をやってきました。
ドイツワインが一番おいしかったこと、ワインの紹介の仕方がドイツは独特で、蔵の中で蝋燭の灯のもとで飲ませてくれました。
1967年ごろ醸造会社のワインツアーがあり付いて行きました。(問屋だけだったがもぐりこみました。)
興味を持って通い出しました。
ドイツ語を勉強して一人で歩けるようにしました。
セミナーにも参加して3~4年かかりました。
ワインの蔵を模したインテリアの店を作りました。
ドイツワインは北緯50度北国で酸味が綺麗です。
酸は身体にいいので日本人の体質と合うものだと気が付きました。
ドイツのグラスには必ずデコレーションがあります。
北国に育つ葡萄を表しています。

山椒の実の収穫は6月中旬位ですが、今年は1週間ぐらい早いです。
山椒味噌は実をすりつぶして味噌を入れてすりつぶして、砂糖を入れて、ワインを入れてすりつぶして自分の好きな味にしていきます。
サトイモを串に刺してに味噌を付けて食べる、この辺の昔からの食べ方です。
コンニャク、おでんなどもおいしいです。
ご飯の中に縮緬山椒をあえるとか、山椒の実だけを綺麗に洗って塩もみして炊き立てのご飯の中にパッと入れて混ぜ合わせ、それだけで香りがあり、食べると刺激があり目が覚めるような神経が開くような感じです。
香辛料としてなんにでも使えます。
粉山椒は作り方が難しい、皮だけを取ってすりつぶして粉にする。
葉山椒は鍋に塩をいれて炒ってほしておいて、粉状にしてふりかけとして使います。
いわし、さんまなどを煮る時に山椒の実をすこし多めに入れます、それがポイントです。
山椒の木の剪定しておかないといけない。

日光の山椒園にきて人から解放されたという思いがあります。
さみしさは全然なかったです。
山椒はお客様が増えることが楽しみです。
山椒が好きな方は何故か繊細な感じがします。
知らないことに挑戦することは好きです。
好奇心を持つことは大事なことだと思います。














2018年7月21日土曜日

山崎哲秀(犬ぞり北極探検家)       ・極寒(ごっかん)の地にひかれて

山崎哲秀(犬ぞり北極探検家)       ・極寒(ごっかん)の地にひかれて
50歳、グリーンランドの北西部世界で最も北極点に近い村、シオラパルクを拠点に冬の半年間犬ぞりを使って極地研究者をサポートし、あるいは研究者に代わって気象データを集め、雪や氷のサンプリングを行っています。
又近年は独自の環境調査も行っています。
そんな山崎さんを観測屋と呼ぶ人もいます、その活動は日本国内での寄付を資金にほとんどボランティアで行っていて、企業や行政の支援を受ける為に去年秋、一般社団法人を設立しました。

この防寒手袋、防寒靴は先住民が使っているもので二重構造になっていて、外側がアザラシの毛皮で内側が北極うさぎの毛皮を使っています。
市販されている手袋、防寒靴ではマイナス30から40℃で長時間活動すると防寒性が良くない。
毛皮だと汗を外側に出してくれる働きも持っている。
ブーツはひざ下まであります。
冬はマイナス30から40℃になります。
犬ぞりの鞭はアザラシの皮を細く切って長さが7から8mあって、先端に行くほど細くなっていて、皮ひもに60から70cmの木の棒が付いている。
犬を叩くことはなく基本的な号令があり、それにあわせて行きたい方向に誘導していくために使います。
右に行く時には左側の雪面を叩いて音を立ててやって誘導していきます。
犬は10から15頭つなぎます。
グリーンランドの北西部では扇形に繋ぎます。
方向転換がしやすいという利点があります。(狩りをする時に便利)

シオラパルクはデンマークの自治領ですが、地形的にはカナダと隣り合わせになっています。
北緯75度から80度で、最近は温暖化で凍りにくくなって昔みたいに行き来出来なくなってきています。
20年前まではパスポートなしで行き来していましたが、パスポートが必要になりました。
シオラパルクは最大で人口が80から90人いましたが、ここ5から10年で激減して30から40人になってしまいました。
植村直己さんが犬ぞりの技術をここで学んで、大島育雄さんが現地の女性と結婚して45年に渡って住んでいます。
僕も行ってみたいと思いました。
植村直己さんは有名です、切手になる位ですから。
30歳から犬ぞりを始めて、観測調査関係のサポートをしたりする活動をしています。
冬の間半年間こちらにいます。
北極の夏は5℃から10℃位になり雨が降ることもあります。
海の氷も溶けて海が広がります。
研究者から課題を貰って、雪と氷と空気のサンプリングをしたりしています。
研究者自身のサポートもしています。

きっかけは高校時代今後の方向に悩んでいた。
1年生の終わりに植村さんがアラスカのマッキンレーで遭難したというニュースがあったが、植村さんを知りませんでした。
たまたま本屋で植村さんの「青春を山に賭けて」という本を見付けて読むことにしました。
その本を読んで衝撃を受けました。
早速翌日から体力作りのランニングを始めました。
高校卒業後、一人で京都から東京に出て行ってアルバイトをしながら山登りに連れて行ってもらうような活動をしました。
半年後、東京から実家の京都まで歩いて帰ろうと言う事を思い付いて、直ぐに行動を起こしました。
東京から長野に行き日本海側を通って750kmの道を2週間かけて野宿しながら歩いて帰りました。(18歳の終わりごろ)
不審者と思われて警察に連れていかれたこともありました。
次にアマゾン川をいかだで一人で下ってみたいと思いました。(植村さんが経験)
19歳の時にアマゾン川に行きました。(5000kmをいかだで下りたいという思い)
いかだは自分で木をたおして作る訳です。
下り始めて1週間しないうちに急流でいかだが転覆してしまいました。

荷物、溜めたお金パスポートなど全部川に流されてしまいました。
夕方になってもう駄目かなあと思った時に現地の人が船で通りかかって救出して貰いました。
助けられた後、一回日本に帰ってから20歳の時に再挑戦しました。
上流から5000kmをいかだで44日間かかって下ることができました。
当時若かったので怖さを知りませんでした。
北極に行ってみたいと思うと居たたまれなくなって、21歳の時にグリーンランドの内陸部を北から南まで一人で歩いてみたいと思って行きました。
10年間申請したが、単独での冒険はグリーンランドから許可されていません。
植村さんは有名だったため特別に許可が出ました。
方向転換して犬ぞりの世界に入って行きました。
30歳を機に犬ぞりの扱いを習いました。
北極、南極で観測の研究者と知り合いになって、南極観測隊にも参加しました。
犬ぞりで広い範囲を周りながら観測調査に携わって行こうと思いました。

地球温暖化で地球環境の変化が激しく、地球で一番変化が激しいのが北極地方と言われている。
30年間通い続けてきて、魚の生息場所が変わってきている。
南の方にしかいなかった魚が北上してきている。
たら、金目鯛、シシャモなどが北の海の方でも取れるようになってきている。
海の氷が凍りにくくなっている。
10数年前、割れるはずのなかった氷が割れてしまって、13頭の犬ぞりで行ったが、割れた氷と一緒に13頭全部流して死なせてしまった。
この時に北極の環境が変わったと思いました。(この30年で大きく変わった)
白くまは威嚇発射と犬の吠える声で大概逃げるが、たまに逆切れする白クマがいて、向かって来られてライフルを撃ち対応しましたが、当局に報告しなくてはいけなくて1週間かけて町まで帰ってきて報告しました。
冬は雪と氷で果てしない世界に感動しました。
北極に通うようになって生命力の溢れる世界だと思いました。
陸、海にもいろんな生物が住んでいて、人間界と自然界がバランスよく共存していることに感動しました。

最近は自給自足が出来なくなって、彼等にも現金が必要になって離れてしまう人が多くなってきました。
電気はあります。(30年前にはなかった)
電気が入ってから瞬く間に生活が変わってきました。
電気製品、スマホなどが使われるようになり、ゴミ問題も出て来ました。
ゴミ焼却場が無くてゴミが山のようになってきています。
便利さと引き換えに自然環境が破壊されています。
スノーモービルへの転換期になってきています。
スノーモービルは故障すると修理が大変だが、犬ぞりはコンスタントに走ってくれるのがいいところだと思います。
2006年からアバンナット北極圏環境調査プロジェクトという名前で活動を個人で始めました。
研究者からの依頼項目とかによる採取資料提出とか、データ収集、現地状況の発信とかの活動をしています。
ボランティアでやっていますが、企業の支援金があるがほとんど自分で集めないといけない。
募金などもやっていて最低限の予算で何とかやっています。
日本の南極観測隊は60年以上の歴史があり国家予算で実施されているが、北極に関してはようやく研究者が向け始めて、その先までやっていけるようなサポート体制を民間の立場から整備することができないということで、継続できるようなベースになる場所を10年から15年位掛けて体制作りをやっていきたいと思っています。
グリーンランド北西部地方(親日的)と日本のどこかの地域を姉妹都市として結び付けたい。
妻とは南極観測隊として知り合いました。
先に妻が帰る時に「お嫁さんにしてくれる?」といって日本に帰って行きました。
毎日メールをやり取りをするようになり、日本に帰ってきて結婚しました。
半年日本、半年シオラパルクでの生活が続いていますが、家族からのサポートが有ってのことです。







2018年7月20日金曜日

吉屋えい子(姪)              ・【わが心の人】吉屋信子

吉屋えい子(姪)              ・【わが心の人】吉屋信子
吉屋信子さんは明治29年新潟県生まれ、大正5年に発表した「花物語」がおおくの女性たちの心をとらえ人気作家となりました。
その後も女性を中心にした作品を書き続け、女性たちの支持を受け活躍しました。
昭和48年7月11日亡くなられました。77歳でした。

私の父は信子さんの兄なんですが、2歳上でした。
信子さんの父親は頑固な男尊女卑的考え方を持っていたので信子さんとは合わなかったかも知れません。
祖母も女性はこうであると、父と同様の考え方でいた。
しかし、信子さんは全く逆の道を行ってしまいました。
伯母信子さんは6人兄弟の紅一点でした。
いやいやながらおけいこ事をやらされたようです。
小さいころからものを書くことは好きだったようです。
栃木県で少女時代を過ごす。
栃木高等女学校に入学した際、新渡戸稲造との出会いが有った。
「これからの女性は、女性ということであるだけでなく一人の人間としてやっていける様な人間でなければだめだ」という事を話したそうです。
それに同調し大きくうなずいて、講演の後で学校の先生から注意されたそうです。
一時期代用教員をするが、作家になりたいと東京に出てくる。
(両親は反対するが2番目の兄が応援する)

「花物語」で人気作家となる。
「良人の貞操」ではその頃としては勇気のある作品だったと思います。
非常に信念の人だったと思います。
私は割と短編が好きです。
「安宅家の人々」も好きです。(男性を主人公にして書いている)
主人公は豊かな人物ではあるが、障害を持って生まれてくる。
その後、『大阪朝日新聞』の懸賞小説に当選した『地の果まで』で小説家としてデビュー、徳田秋声らの知遇を得る。(徳田秋声がその小説を一番押しくれた。)
私が読んだ時に平凡な内容ですが、内容があると思いました。
「徳川の夫人たち」などは整って素晴らしい物語ですが、そういったものとは違って彼女の原点というかそういったものを感じる小説です。
数少ない男性を主人公にした小説の中にこれぞ男性の生き方と考えていた男性の姿がその作品の中に現れている。
『底のぬけた柄杓 憂愁の俳人たち』 東大を出て保険会社に入り課長になったりするが、自由人で、長く勤められないで無人のお寺を渡り歩いた人で、信子はその人が非常に気になり彼のことをメモをとったりしていました。
その人のことを信子さんは非常に気になって、人間って生まれた時にすでに底の抜けた柄杓をもって生まれる人がいるんだろうかと、ずっとこの人のことを思い続けて来ました。
人からなんて言われようと自分の生き方を貫く、そういう方が好きだった。
早くから断髪、和服から洋服にする人でした。(自由人に憧れていたと思います。)

父が子供の頃信子さんと喧嘩して、父が味噌汁のお椀を投げつけられたという話だったが、後年或る時にその話は逆で父がお椀を投げたということでした。(父が家を建てる時に騙され、信子さんに他の人が借金の依頼に行った時の話)
父は信子さんの事を一切喋らず亡くなりましたが、嫌いだったかというとそうではなくて
信子さんの小さい記事を含めて切り取ってスクラップしていました。
信子さんと最初に出会ったのは私が小さい頃、親戚の子が出征するということで、上野のレストランに親戚が集まった時でした。
私は高校生の時に短編を書いて、伯母に見てもらおうと考えました。
母からは秘密にして見せようとしましたが、取り次ぎの壁としての門馬千代さん(女学校の数学教師)がいるので・・・。(見せられなかったか?)
信子さんは昭和の初めにヨーロッパのパリで1年近く暮らしたこともありました。
その後ずーっと鎌倉で一緒に住むことになります。
門馬千代さんに短編を渡したが、信子さんが見てくれたかどうかは判らず返してくれまして、門馬千代さんから他の人(北畑さん)に見せるようにとの指示をいただきましたが、その後捨ててしまいました。

二人の方の深い絆を感じました。
戸籍上門馬千代さんを養女にして、信子さんを看取って今は家は鎌倉市の所有の吉屋信子記念館になっています。
中谷宇吉郎さんとは親交が有ったが、中谷宇吉郎さんが亡くなった時に奥さんに宛てた遺言が公表されたが、「人には親切にしましょう」と信子さんはそれを見てなんと美しい遺言だろうと言っていました。
「私の見た人」という随筆の中に中谷宇吉郎さんの事を書いています。
今の時代だったら門馬千代さんと一緒に女性同士で暮らすというようなことは特に問題視されない、多様性のある生き方。








2018年7月19日木曜日

2018年7月18日水曜日

小関智弘(元旋盤工・作家)         ・鉄を削り見えた喜び

小関智弘(元旋盤工・作家)         ・鉄を削り見えた喜び
85歳、東京大森に生まれた小関さんは都立大学付属工業高校を卒業したあと、町工場で旋盤工の見習いとして働き始めました。
元々器用ではなかったという小関さん、どうやったら旋盤で鉄を上手く削れるようになるのか、試行錯誤を重ねながら独自の方法を編み出しました。
鉄を削るのは面白い、そう思えるようになった小関さんが一方で力を入れてきたのが文筆活動でした。
旋盤工としての日常を主なテーマに小説やルポルタージュを書き続け、1977年に直木賞候補に1979年には芥川賞候補になりました。
町工場で仕事を続ける人々のたたずまいや息使いを文学で表現してきた小関さん、自らの体験をどのように伝えてきたのか伺いました。

元気そうに見えますが、毎朝5から6錠の薬を飲んでいます、それほど大きな病気はしていないですが。
私の生活を支えているのはあくまで旋盤工でして、書いてきたことはほとんど旋盤工として働いて得たものを書いてきました。
元旋盤工が第一義だと思って通してきました。
1951年から2002年まで旋盤工として働いてきました、正味51年間になります。
家が魚屋で次男坊です。
父は酒好きで樽が家に置いてありました。
羽ぶりのいい魚屋だったが、戦争がはじまると魚屋を辞めてしまって、父は弟と二人で小さな町工場を始めました。
自分の工場を持った途端に空襲で焼かれてしまって、その3日後に父は軍隊への召集の命令が有りました。
戦後、父はアル中になってしまいました。
貧乏な生活を送ってバラックで7年間近く暮らすことになりました。
工業学校に入ったが、戦後新しい学制が出来て、工業学校が無くなってしまって、普通の中学、高校になりました。
その後又工業高校になってしまいました。

家を建て直すには働くしかないと思って、旋盤工見習い募集の張り紙があり尋ねて行ってそこで働くようになりました。(私を入れて3人の工場)
たまたま旋盤が一台空いていたため、雑用の合間に旋盤を使うことができました。
それが幸運でした。
旋盤は鉄の棒を回転させて刃物をあてがって鉄を丸く削る機械です。
1975年「粋な旋盤工」は働き始めた頃の内容。
鉄を削ると言うことはどういう事なのかを親切に上手に教えてくれました。
精度1/100mmとはどういったものなのかを髪の毛を使って具体的に教えてくれました。
私が鉄を削る感覚を最初に教わった出来事でした。
或る時鉄材を吹っ飛ばしてしまい、危うく職人さんの頭に当たるところだったが、大丈夫だったがその人から怒鳴られて頭を殴られてしまって、その工場をやめることにしました。
その後転々といくつかの工場を渡り歩くことになりました。
他の機械の操作を学んだり、そこでの職人、女工さんの生活を見聞きしたりしました。
その後結婚して子供が3人になりました。
給料が不足して5000円アップする交渉をしたが、そのことは他へは内密という条件だったがそれはできないと言ったら、恩をあだで返すのかといわれて辞めることになりました。
4万円を出すという会社に行く機会が出来たが、一緒に入った藤井さんという人が非常に優れた職人さんでした。
道具を非常に工夫する人でした。

この人から学ばなけばいけないと思って、技術を盗めるだけ盗もうと思いました。
自分は不器用なので、メモを取っていきました。
ノートを取りながら鋼を削る楽しさを段々発見していきました。
あたらしい鋼がどんどん開発されて、その鋼を工場で削ると言う事をやって行きました。
藤井さんとの話の中から、日本の工場には私の知らない色んなことが蓄積されているんだと言う事に気が付きました。(本には書いていないもの)
ノートに記載されている具体例:タービン翼車 材質がインコロイ901 この時代にようやく開発されたもの。 具体的な加工条件、作業が記載。
記載されたものをもとにして新たに色々と工夫する。(工具、時間などを工夫)
鋼を削ることの面白さを益々感じました。
現場に蓄積されてきたものの技能は凄いものがあると言うことに気が付きました。
削ってきた人たちの姿があらためて見えて来ました。

本の好きな人が集まって読書会をやろうと言うことになり、文集も出そうと言うことになり、1959年に出しました。
いつか1冊でいいから人々の心を揺さぶれるような小説を書きたいという夢を持っていました。
1960年に『ファンキー・ジャズ・デモ』という原稿用紙20枚程度のものを書きました。
それが認められて野間宏さんが書評をつけて下さったということがありました。
1973年に「思想の科学」という雑誌が有り編集者が来て書かないかとの話がありました。
「粋な旋盤工」というものを書きました。
それが注文が来るようになったきっかけです。
その後書いていって30冊ぐらいになりました。
小説、ルポルタージュ、エッセーといったものです。
1977年に直木賞候補に1979年には芥川賞候補になりました。
まさか候補になるとは思いませんでした。
1981年 『大森界隈職人往来』で日本ノンフィクション賞受賞。
旋盤の前に立って、その目線でありのままに書いてくれればいいと言われてて書くことになりました。
2足のわらじとか言われるが鉄を削る楽しさが判って、旋盤工だと言う思いが自分の中にあります。





2018年7月17日火曜日

櫻川直太朗(幇間)           ・62歳からの幇間デビュー〜二足のわらじ人生〜

櫻川直太朗(幇間)     ・62歳からの幇間デビュー〜二足のわらじ人生〜
今から5年前、62歳で幇間としてデビューしました。
幇間はお座敷などの場を盛りあげ座を取り持つことを職業とする男性。
男芸者や太鼓持ちを言われることもあります。
幇間では全国でも数が少なくなっています。
本名は近藤直樹さん、本業は不動産会社の社長です。
昼と夜、それぞれ二つの顔を持つ2足のわらじ人生について伺いました。

幇間は男芸者や太鼓持ちと言われることもあります。
江戸吉原で元禄時代に認められた生業です。
遊女、大夫と旦那さんを結びつける、あるいは芸者と旦那さんを結びつける。
旦那さんの悩みを聞いたり座敷のコンサルタント、お妾さんのお世話をといったこと。
現代は接待する方と接待される側を取り持つ。
会話の相手をしたり片苦しい世界をリラックスさせたり芸をしたりするのが仕事です。
67歳になります。
名古屋で生まれて実家は木材業でした。
父が継いでほしいと言われたが、なかなか合わなくて父とか従業員と喧嘩をしたりして2年半ほどして叔父の所に修行に行って来いと父から言われて、そこは不動産会社のデベロッパーで不動産の勉強をしました。
戻ってから建て売り業をやったいましたが、32歳で3回目(小学校、中学校)の結核になりました。
今まで懸命に頑張ったのに何だったんだだろうと思いました。
後は余命だと思って人生を捨てまして、楽しもうと思って遊興の世界に入りました。

不動産は遊びにたけた人が多くて、名古屋の錦3丁目の歓楽街に行き興奮しました。
歌を作ったり歌手でデビューもしました。
お座敷芸人もなりました。
叔父が中古販売の社長をやっていて或る時三河漫才の相手をして欲しいと言われました。
そこから舞台に立って感動を味わいました。
母のアドバイスで結婚式場専門の歌手になりました。
褒めて褒めて褒めまくる当日だけに歌う歌を作って歌いました。
昭和63年に悠玄亭 玉介(ゆうげんてい たますけ)の新聞記事を見ました。
悠玄亭 玉介さんの料亭での様子をTVで放映されました。
その芸を見て歳を取ったら艶のある色気のある男でありたいと思って太鼓持ちになりたいと思いました。
年老いた良さがありました。
60歳になったらこれをやろうと決意しました。(38歳の時でした)
悠玄亭 玉介さんは当時81歳でした。
清潔感があり踊りに熟練された神がかり的な雰囲気がありました。

57歳位の時に名古屋のNHK文化センターでカッポレの踊りの教室があって、そこへ勉強に行きました。
3年たって櫻川流の名取りになりました。
櫻川千代助師匠(幇間名「悠玄亭千代介」)が悠玄亭 玉介師匠の直弟子でした。
師範になったら教えてあげるということで幇間の芸を教えていただきました。
平成25年に幇間に正式になりました。
名古屋界隈の財界にバックアップしてもらってデビューし、感激しました。
52歳で脳梗塞をして舞台には出られないと思いました。
妻はあまり理解しない様な立場でしたが、脳梗塞のリハリビをして9カ月後に老人ホームに慰問に行く約束があり、行きました。
妻から健康回復のために幇間をやらしてもらえればと言われました。
しかし、或る時芸人の妻にはなりたくはありませんと言われてしまいました。
私は近藤直樹の妻ですが、櫻川直太朗の妻ではありませんとビシッと言われました。
娘たちは舞台に手伝いに来たりしています。

本業あっての幇間です。
一に仕事です。
幇間は憩いの場、リフレッシュの場です。
社長と芸人の考え方のずれは本当に感じます。
幇間は下からの目線でやらないといけない。
お客さんによっては色々立場が逆転してしまうようなことがあり、「よいしょ」をしなければいけないこともあります。
空気を呼んで「よいしょ」をする。(相手の気持ちを読む)
守秘義務は守らないといけない。
若い人はなかなか難しい、あらゆる方とあらゆる話題に付いていかないといけない、且つ否定してはいけない。
幇間を知ってもらう取り組みをしていますが、料亭にいけるものしか見れない。

芸を見ていただくためにホテルで見てもら事もありますが、本来お酒の席での芸なので
難しい面もあります。
敷居を下げることはなかなかできない。
親の面倒を見ていたが老人ホームに入ることになり、母が食べなかったり話さなかったりストライキをして、ヘルパーさんから私達も助けるから腹をくくって面倒みなさいと言われました。
夜中の10時~2時が私の担当時間になりました。
排泄の処理が大変でした。
(地震報道の為中途ですが、終了間近)














2018年7月16日月曜日

中井智弥(筝演奏家・作曲家)        ・【にっぽんの音】

中井智弥(筝演奏家・作曲家)        ・【にっぽんの音】
39歳、お琴は普通13弦ですが、ここにあるのは25本あります。
幅も普通のお琴よりも倍近くになっています。
主に25弦を使っています。
13弦はチューニングが5音階になっているが、25弦の場合は「ドレミファソラシド」になっていて音域も広くて、左手で伴奏をしながら右手でメロディーを奏でることが出来るという特徴があります。
ピアノとかハープをイメージしていただけるといいと思います。
6オクターブ半位まで行ける楽器です。
13弦は爪だけで演奏しますが、旋律が主で簡潔な音楽、無駄なものが無いという感じで、文学でいうと俳句とか短歌のようで、25弦は詩のような感じです。

6世紀の中頃に雅楽と一緒に伝わってきた楽器です。
お琴は和楽器でも相当進化た楽器です。
宮城道夫先生が作られた80弦が昭和4年に発表されている。(いまは弾く人はいない)
普通に楽器としてあるのは30弦まであります。
13弦、17弦、20弦、25弦、30弦があります。
自分には25弦が会っているともいます。

*インフィニティー(『infinity』)のなかから「紅蓮の炎」 作曲 中井智弥
 紅蓮地獄を表現したもの。

20年前にこのような事をやっていたら破門だったと思います。
コラボをして又違うものをせっかくだから生み出したいなと言うところまでいきたい。
琴との出会いは6歳の時に母親が地歌の三味線を習っていて、その場にいたが先生が退屈だったらお琴を弾いてみたらと言われて凄くいい音がして感動だった。
大学が東京芸術大学の邦楽部で13弦の古典を勉強しました。
芸大で25弦を開発した野坂操壽先生に3年間お願いすることが出来て、影響を受けて大学を出てから25弦を始めました。
高校2年の時にプロになりたいと決心しました。

芦垣美穂先生には高校1年からお世話になり今でも習っています。
古典をこよなく愛している先生です。
*「辿る」というアルバムから「融」(とおる) 作曲 石川勾当
 19世紀後半に作曲したもの。(30分近くの大作)
光源氏のモデルとなった平安時代の左大臣源融の舞を見せる場面の能、三味線と琴に置き換えて作曲されたもの。

20から30曲 お能をテーマにしたものを作曲しています。
25弦での曲は新しいので無くて(25弦は27年になる)、西洋の方が作曲してくれるが現代的過ぎて難しい。
自分で曲を書いて見ようと思って、能が浮かんで能の曲を書くようになりました。
能のドラマを音楽で表現したいと思いました。(演者にもなれる)
20代は能のドロドロした世界を書いたので、これからはハッピーになれる曲を書きたいと思います。
日本の音とは、母親の音かもしれないが朝起きてまな板の包丁を叩く音、日本でしか聞けない音だと思います。

*フィンランドの伝統楽器カンテレとのユニット 13弦 「ラウル」(日本語で「歌」)から「モーション」



2018年7月15日日曜日

三宅義信(ゴールドメダリストを育てる会理事長)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言(2008/10/24OA)

三宅義信(ゴールドメダリストを育てる会理事長)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言(2008/10/24OA)
昭和39年東京オリンピックの金メダル第一号は重量挙げの三宅義信さんでした。
身長が155cmと小柄ながらローマで銀、東京で金、メキシコ金、ミュンヘン4位と4回のオリンピックに出場し、オリンピック二連覇と、世界選手権では6連覇を達成し、当時重量挙げの代名詞と呼ばれました。
そっくりの弟さんとはメキシコ大会で 金と銅、同じ表彰台に兄弟で上がって話題になりました。
その弟の義行さんの娘さん三宅宏美さんもロンドンで銀、リオデジャネイロで銅メダルを獲得しています。
自衛隊体育学校の校長を務められた後、選手の育成や御自身が立ち上げたゴールドメダリストを育てる会の理事長として活躍する三宅義信さんに伺いました。

東京オリンピックでは金メダルを期待されていた。
ローマでは金を取るつもりだったが、取れずこの悔しさをどうぶつけていいかわからなかった。
金を取るためにはどうするか、ローマで1460日のトレーニングスケジュールを組みました。
ローマでは法政大学3年生、20歳でした。
昭和38年の世界選手権で世界新記録で優勝したので、金メダルの期待が有った。
昭和39年東京オリンピックでは競技の2日目だった。(昭和39年10月12日)
凄いプレッシャーだった。
会場は渋谷の公会堂でした。
代々木の宿泊所から歩いて10分位の所でした。
スナッチ、ジャーク、プレス3種目有った。
最初はプレスで重量が115kg、苦手の種目だった。
スナッチも115kgで予定通りだった、得意種目。115kgのスタートで6本失敗も無く通過しました。
順位はトップに立ちました。
ジャークは145kgでスタート、ほぼ金を手中にしました。
プレスは会場にいた母親の為にあげました。
スナッチは父親の為、122.5kgは親族や私を助けてくれた人の為にあげる。
一つ一つメンタルを作りました、そんな中でやっていました。
ジャークは145kgはこれを上げなければ今までの苦労が水の泡となるので、国民の皆さんの為にあげると、そういう思いであげて150kgは自分の為にあげる、152.5kgは世界タイ記録でしたが、皇太子殿下のまえであげることができました。
合計397.5kg 驚異的な世界新記録で金メダルを獲得することができました。
先生方の教育、周りとの勝たなければならないということが一致したものと思います。

宮城県柴田郡村田町生まれ、7人兄弟の5番目、6番目が義行。
養子に出され中学卒業後就職するが、自分の将来を考え自分で宮城県立大河原商業高等学校に進学を決める。
1956年メルボルンオリンピックを見て初めてオリンピックと重量挙げという競技を知る。
同じ高校生が重量挙げで8位になったのを見て自分の立場との差を感じる。
高校時代は柔道をやっていましたが、無差別だった。
肩を痛めていてウエイトリフティングを思い出して、パワーを付けようと思った。
トロッコの車輪(約50kg)を挙げる人は5人ぐらいしかいなくて彼らは柴田農林高へ行っていた。
そこでトレーニングを教えていただき、センスあるなあと褒められました。
3年の春の宮城県大会で3位になりました。
ユニホームも無く借りて、靴はなくて地下足袋だった。
10月の秋の国体ではチャンピオンになる。
いつも何で負けたの、という事を追及してきました。
法政大学在学中、1960年ローマオリンピック大会で銀メダルを取る。
金メダルを取れず東京オリンピックまでの長期計画を立てる。

練習は辛くはなかった。
メンタルな部分、人との調和、食べられないのが苦しかった。
マメができるが焼け火箸でそのマメを焼くと、水分が出て皮が剥けなくて済むので、そういったことを自分で考えてやりました。(皮が剥けなくて済むので直ぐ練習ができる)
国体で優勝して校長先生が全校生徒の前で褒めてくれて、この褒められたということが感動しました。
大学に行くお金も無く校長先生とかと話を進めて1年間は面倒を見てもらえることになる。(2年目以降は自分で対応)
何のために大学に行くのか、大学には重量あげをやる為、重量あげはご飯を食べていけない、それにはオリンピックで金を取らなければいけない、そういう思いでやってきました。
法政大学に小暮さんという軽量級アジアチャンピオンがいてこの人のものを全部盗んでこの人をやっつけないとオリンピックでは勝てないと思いました。
練習をやり過ぎだと言っては殴られたりしました。

ウエイトリフティングはスピード、タイミング、バランス、パワー、呼吸などいろんな要素がある。
呼吸は非常に大事なこと。
スピードは肝心な時にないと駄目。
タイミングは全体的なタイミングが必要。
バランスは身体全体のバランス。
パワーは親から貰った土台、自分のパワー。
この5つの要素をマスターしないと強くはならない。

明日のことを5分間考えてそれに集中することが、事故の未然の防止、練習にも影響してくる。
日常生活の中で親から、兄弟から貰ったものを身につけてければいい、人生に大きなプラスになる。
「俺がやらずに誰がやる、今やらずしていつできる」
今やらずしていつできるんだと言う事、望んでくる時にそれをやるという事が信念。
見て見ぬふりをしては駄目。
それが積み重なっていって夢、目標が到達されると思う。
オリンピックが私に与えてくれたもの、人の模範になる、いつも明るく、極めたものを真似していただきたい。





2018年7月14日土曜日

蓬萊泰三(合唱組曲『チコタン』の作詞家)  ・89歳、反骨の"ドラマ屋"人生

蓬萊泰三(こどものための合唱組曲『チコタン』の作詞家)・89歳、反骨の"ドラマ屋"人生
こどものための合唱組曲『チコタン』組曲 「ぼくのおよめさん」 ダンプに轢かれて亡くなった少女、チコタンことちえこに想いを寄せる少年のその心情をつづった合唱組曲。
こどものための合唱組曲『チコタン』は昭和44年度文化庁芸術祭のレコード部門で優秀賞を受賞しました。
この歌を作詞したのは脚本家の蓬萊泰三さんです。
蓬莱泰三さんはこれまでNHKTV「中学生日記」、教育TV「できるかな」を初め多くのTV番組の脚本を手掛けて来ました。
若い頃の作品は関西弁にこだわったストーリーが多く、「中学生日記」では教育の在り方を問う作品をブラウン管を通して送りだしてきました。
子供の為の合唱曲の作詞にも取り組み劇的な展開の歌詞は多くの子供達の胸に突き刺さる作品として知られています。
これまでの65年、どのようなまなざしを子供達に向けてドラマや合唱曲の作品を作り続けてきたのか伺います。

兵庫県加古川市生まれ、父親がメリヤス工場を経営していたが、第一次世界大戦後の大恐慌で倒産しました。
物心付いた時にはからっぽな工場で遊んでいました。
母親は呉服屋の店をはじめて、それで食いつないで上の学校に行かせてもらえました。
(今の姫路西高等学校)
兄が優秀で朝礼の時に全校生徒1000人位に号令を掛けていました。
勉強が嫌いでハーモニカを買ったが、譜面が無くて面白くなく、合唱を始めました。
それが合唱との最初の付き合いになりました。
旧制の姫路高校に入って合唱部に入って、いつの間にかコーラスの棒を振るようになりました。
戦争が終わったのは中学の4年か、5年で落第もしていて、旧制の姫路高校に入るために浪人もしていて、同級生よりも2年遅れています。
神戸大学文学部に入りました。

合唱団があり入ったが馴染めなくて、旧制校で一緒に行った人もほとんど辞めてしまいました。
友達にテノールの人がいて、演劇研究会募集のチラシがあり友人と一緒に入りました。
NHK大阪が学生校放送劇連盟での自作自演のコンテストをやっていて、6校位が参加、真船豊の本を真似て父親と息子の物語を書いて、出たら1位になってしまった。
色々新聞社など受けたが全て落ちてしまった。
或る人が知り合いの新聞社(神港新聞)を紹介してくれました。
入って1週間ぐらいで、いきなりサツ周りに出されました。
新聞社が厭になりました。
或る時学校放送劇連盟の面倒を観て下さったNHK大阪のプロデューサーの女性から声を掛けられて、うちの劇団で募集しているということで受けました。
NHK大阪放送劇団に受かってしまいました。
人気番組「お父さんはお人好し」(昭和29~40年まで放送)にも参加することになる。
その番組の5女静子の婚約者(岡野)として登場する。

NHKの東京の脚本コンテストの募集をしているのを知って、応募したら2位に入りました。
後で聞くと、審査委員長の久保田万太郎さんが、結末が暗すぎるから1位には出来ないので2位になったんだと言われて、描き続けてみようかなあと思って書き続けました。
子供のTVドラマを大阪で書かせてもらうようになって、昭和33年(1958年)「がんばれ土管隊」の脚本を手掛ける。
空き地にある土管を基地にして腕白坊主たちが遊んでいる姿を書いたものです。
関西弁で行いましたが、東京から標準語やるようにとの電話があり怒りを覚えました。
やりとりがあったが、関西弁でやることになりました。(東京に対する反抗心)
劇団を辞めることにしまたが、NHKからは切られてしまいまして、2,3年は満足に食べられなかった。

昭和35年「がんばれ!ヒデヨシくん」、昭和43年「海から来た平太」、昭和44年少年ドラマシリーズ「幕末未来人」など幅広く活躍。
1974年から2000年まで26年間「中学生日記」、批判されたこともありました。
子供が色々問題を起こすのはその原因は、我々大人が作っているんだということが私の根本的な考え方なので、そういうことをやっている大人から見れば自分が責められているような気がするんだと思うんです。
だから不愉快なんだと思います。
1978年から1990年まで「できるかな」を担当。
山元護久さんがやっていたが急死してしまった。(『ひょっこりひょうたん島』など担当)
明後日の分が無いので書いてくれと頼まれました。
引き受けてみたら面白い番組でした。

昭和44年(1969年)「チコタン ぼくのおよめさん」の作詞をする。
「なんでかな?
なんでかな?
なんでチコタン 好きなんかな?
なんでこないに 好きなんかな?

チコタン チコタン チコタン チコタン
・・・・なんでこないに 好きなんかな?」

最終章ではチコタンがダンプに轢かれて死んでしまう。
それまでの明るい曲から最終章では突然悲しい曲に変わる。

「二人でゆびきりしたのに・・・・・・・・・
おとなになったら ケッコンしようと
二人でゆびきりしたのに・・・・・・・・・
ケッコンしたら
日本一のサカナヤになろうと
二人でゆびきりしたのに・・・・・・・・・
チコタン 死んだ
ダンプにひかれて チコタン死んだ
横断歩道で
黄色い旗にぎって チコタン死んだ
・・・・・
だれや!?
チコタン殺したのんだれや!?
ぼくのチコタン殺したのんだれや!?
ぼくのおよめさん殺したのんだれや!?
だれや だれや!?
だれや だれや だれや!?
だれや だれや だれや!?
アホーーーーーーーーーゥ!!」

交通戦争 最後は「アホウ」と叫ぶしかない、子供の叫びと同時に僕自身の叫びです。
昭和59年 交響詩劇「海に落ちたピアノ」はイタリア賞。 
文化庁芸術祭賞、放送批評懇談会ギャラクシー賞、放送文化基金賞など。
私の根っこにあるものは敗戦の経験です、通った旧制中学は県下で指折りの軍国主義的名門校でした。
或る朝突然、朝礼の整列が悪いということで全校生を配属教官が一人で殴った。
掌が真っ赤だったのを私が見て、なんだその顔はということでビンタを縦に一杯殴られて目じりが切れた経験があります。
抑圧されっぱなしの時代でした。
抑圧しているものは単純に見て行くと大人であると、最終的には大人に対する抗議のようなものが根っこにある訳で、「アホウ」という叫びの言葉になるわけです。

















2018年7月13日金曜日

米田佐代子(らいてうの家館長)       ・平塚らいてうの思いを受けついで

米田佐代子(らいてうの家館長)       ・平塚らいてうの思いを受けついで
1934年(昭和9年)東京生まれ。
1950年戦後の男女共学の一期生として米田さんは長野北高校に入学します。
その後東京の都立大学で学び、1958年東京都立大学人文学部(史学専攻)卒業後、山梨県立女子短期大学教授として日本近現代女性史、主に平塚らいてうの研究に取り組んできました。
戦前女性は選挙権も無く、自由に意見を述べることができない時代でした。
「元始女性は太陽であった」の言葉を残した平塚らいてうは女性の自立、男女同権、命を大切にする、という考えを広く訴えて来ました。
米田さんは平塚らいてうの考えに共鳴し、その考え方を知ってもらいたいと人生をかけてこられました。

平塚らいてうの研究に50年以上関わっている。
最近これが平塚らいてうかなというふうに思うようになりました。
ペンネーム 「森のやまんば」 やまんばは恐ろしいイメージがあるが。
らいてうの家は標高1500m近い山中にあり、そに通っているから「森のやまんば」と呼ばれたのが始まりです。
野上八重子さんもやまんばと言っているし、、鶴見和子さんもやまんばについての短歌を残している。
人間はいつか歳を取っていくが、自然に還って行くのがやまんばという発祥の根底にあると鶴見さんがが言っていて、私もやまんばになりたいと思いました。
やまんばは決して恐ろしいイメージではない。

平塚らいてうは明治19年生まれで昭和46年まで健在だった。
平塚らいてうさんには一度も会っていませんでした。
「新しい女」「未婚の母」ということで大変な非難を受ける。
戦後憲法9条に共鳴し、戦争反対ということで強い信念で活動した方。
私が学生のころは関心が無かった。
私達のころは女性が学問をするということは独身でないと務まらないと思われていました。
それはおかしいと思って結婚して子供を産んだが、大変非難されました。
今から100年ほど前に平塚らいてうは奥村博史と出会って、奥村家の嫁になるのをしたくないということで結婚届けをださないで、平塚姓のままで同居する、いまでいう事実婚のはしりです。
子供は産まないと言っていたが身ごもって産むことにして、子供を産んでから子供の素晴らしさを思う。
命を生む女たちは子供達の為に戦争に反対し、貧しさを無くしていかなければいけないと社会運動を始める。
それで私は気に入ってしまったんです。
私も平塚らいてうみたいになろうと思いました。
女性の権利が全くなかった時代にそのことに気がついて発言したということが私を平塚らいてう研究に惹きつけた一番大きな理由です。
私は職場結婚で同姓になるのは不都合なこともあるので、そのまま米田の姓を名乗りましたが大変でした。

戦後学校ががらりと変わって、旧制中学と旧制女学校があったが、旧制中学は新制高校になって男女共学、旧制女学校は名門女学校だったので男性を入れない学校で、どっちにしようかと思ったが、女子ばっかりの学校には物足りないものを感じて長野北高に願書を出したら女性は2人しかいなかった。
二人とも合格してしまった。
一人女性の転校生が来て、全校で三人しかいなかった。
体育の更衣室も無く、女子トイレも無く全部一緒でした。
男子校に入ったからと言って女の子らしくすると言うことはありませんでした。
差別されずに面白かったです。

1945年8月15日は10歳で国民学校の5年生、兵庫県の福知山の近くの山の中に疎開していました。
玉音放送を聞きましたが雑音だらけで聞き取れなかった。
校長先生も聞き取れなかったらしく間違ったことを言っていました。
家に帰ったら戦争が終わったことを知りました。
姉が旧制女学校に行っていたが、私達との落差はありました。
私たちは軍国少女とか玉砕と言われても何のことか良く判らなかった。
戦後私たちは比較的素直に民主教育に順応しました。
兄や姉はそうはいかなかった様です。
終戦で電気を明るく点けていいということが最大の解放感でした。

母が一番喜んだのが、戦争に行った次男がまだ国内にいて帰ってくるはずだと思っていた。
しかし9月になっても帰ってこなかった。
9月中旬に戦死という通知がありました。
兄は15歳で海軍少年飛行士に応募して行きました。
1945年6月10日に茨城県土浦海軍航空隊で米軍の空襲の為爆死、16歳だった。
考え込んでいる次男(芳次?)の望みをかなえてやりたいという不思議な気分になってしまって、「海軍の飛行隊なら志願してもいい」と言ってしまった。
母は「今思えば一生の不覚でした」、と思い悩んでいたことを吐露している。
人間の魂は自分が一番大事にしているところに、誰にも知られないで死んでしまうのが辛いので知らせに現れるというふうに書いている人もいる。
松谷みよ子さんが母の本を読んでくださってこれは本当よと言って下さいました。
夢に現れると言う経験を母がして、心のつながりという事を求め続けているんだと凄く思いました。

インドネシアのカリマンタン(ボルネオ島)で父は軍人ではなかったが(今の郵政省の役人)、派遣されて行政を担当していて、ポンティアナックの街で日本軍による住民虐殺事件が起こっている。
現地では沢山の人が殺されている。
穏やかな町だったが陰謀があるという噂に海軍が震えあがって、罪のない人達を殺してしまったという事件で1944年6月ごろでした。
父親がいたならば虐殺事件にかかわったのではないかと記録を調べてカリマンタンに行って現地の人に聞きました。
結論的に言うと事件は事実として間違いがないが、2000人説、2万人説とかがあり研究中だが、虐殺現場には大きなレリーフが飾ってある。
しかしこの事件は日本ではあまり知られていない、父が関与したのではないかという事、もしそうだとしたら見過ごすことはできないと思っていた。
結論的に言うと父親はその事件がある何カ月前に、別の街バンジャルマシンという都市に転勤していたので事件には直接かかわっていないことが分かった。
親日的なインドネシアで日本のやった行為は忘れてはいけないと思います。
日本の戦争を反省する時に、そういった知られていないことがまだまだ沢山あると言う事を、世の中に出していきたいと思って出しました。

どんな場合であれ必ず戦争は無辜(むこ)の人々に犠牲を強いるという事を痛感しました。
戦争は二度としてはいけないのは、母の辛い思い、身近な父親たちも一歩間違えれば戦犯になっていたかもしれない様な、そういう経験を繰り返してはいけないと思います。
第一次世界対戦の後、平塚らいてうは新婦人協会という団体を作って市川房枝さんらと婦人参政権運動をやりますが、男性と同じ権利をと言うだけだと、男たちが戦争を引き起こしたと同じようなことを女たちがやってしまってはいけない、女性に参政権を与えると言うことは世の中が差別を無くすということになる訳で、差別が無いということは世の中が平和になること。
平塚らいてうはインタビューで言っているが、女性の権利は大事だと思ったが、権利を何のために使うのかといったら、平和のために使うふうにしたいと思った。
平和は女性の文化としての平和としての立場がある。
女性にとっての平和は戦争が無い状態だけではなくて、女性が文化的に豊かに生きて行ける。だから権利もあるし、幸せに生きて行く、子供を育てることができるというそれが平和なんだと言う事を発言しているが、それは本当に大事なことだと思います。
女性たちが平和を作りだすということは、命を産む、命を守るという立場なんだなあと思います。
自分の産んだ子が戦争にはいかないでほしいと思いました。
「私の生涯に無知による犯した数々の戦争犯罪を一人悔しむ。
意志?も叫ぶ、何百万の若者の死を何百万の母を忘れぬ。
戦争を引き起こしたものの重罪を一矢報いて墓に入ろう母たちは」と書きつけて90歳で母は亡くなりました。
平塚らいてうのいった女性が自ら立ち上がらなくてはいけないという思いと、母の思いが、私が何かやらなければいけないという原動力になっています。


















2018年7月10日火曜日

秋山邦雄(歴史環境計画研究所代表)      ・東奔西走"遺跡デザイナー"

秋山邦雄(歴史環境計画研究所代表)        ・東奔西走"遺跡デザイナー"
1943年(昭和18)年東京生まれ、大学の建築学科を卒業後、建築設計事務所に 18年間務めました。
その後文化保存関連の団体を経て昭和61年に歴史環境計画研究所を設立。
秋山さんの研究所では全国の史跡、保存指定された遺跡を保存し、整備し、公開し、活用されるまで計画の立案から実際の環境作りを行っています。
研究所の設立から32年間で130件あまりの実績があり、中には当時の通産省選定のグッドデザイン賞や当時の建設省の手作り郷土賞を受賞した作品もあります。
秋山さんは遺跡現場を訪れた見学者が、自分で考え歴史を体感できる様な環境作りを称して遺跡をデザインすると言っています。
自らを遺跡デザイナーと言っています。

東京都の利島、縄文時代の敷石住居、竪穴住居の中に石を敷いている様な遺跡がある。
(5000から4000年前のもの)
本格的には調査はこれから進めます。
愛媛大学の下条先生が遺跡クリエーターはどうかとのサゼスチョンが有ったが、一回使ったが辞めてしまって、考えた挙句に「遺跡デザイナー」ということにしました。(自称)
考古学者、古墳屋さんと間違えられる。
遺跡そのものをどうするか、遺跡を保存し、整備し、公開し、活用されるまで計画の立案から実際の環境作りを行っています。
資料館などを含めトータルに対応しています。
遺跡の整備には、
①調査研究がまず必要でそれを理解する。
②保存整備を考える。
③公開して活用する。
遺跡の説明のための看板だらけだった。
雰囲気をどういうふうに出すか、自然の状態をつくる。(縄文時代ならその時代の雰囲気)

建築設計の仕事は40歳ごろまで大阪に住んでやっていました。
その後東京に戻ってきて筑波学園都市の仕事があり、その後こっちの世界に入ってきました。
大阪芸術大学を作った時に環境が意外と影響していました。
キャンパスの近くには古墳があり、大阪から通うと古い古墳群を通っていて、いわば遺跡の中にいました。
最初歴史的なことを知りませんでしたが、目の当たりにして面白いと思っていました。
建築の対象を旧石器時代まで広げました。
1986年(昭和61年)に歴史環境計画研究所を設立しました。
32年間で130件あまりの実績があります。
範囲は旧石器時代から現代まで、場所は日本全国に渡ります。
第一号、群馬にある岩宿遺跡、考古学的にも非常に重要な日本の歴史を変えた。
黒曜石がそこから見つかった。
(*相沢忠洋によって発見された。この発見によって、それまで土器時代以前の日本列島に人類は居住していなかったとされた定説を覆し、日本にも旧石器時代が存在したことが証明された。)
掘った後なので地形を復元すればいいと思って土の中に発掘した時の状況を見せようと言うことで土の中に建物を作ってしまおうと考えました。
良い雰囲気になりました。

ほぼ同時期に千葉市にある加曽利貝塚の仕事をいただきました。
貝層をどういうふうに見せるか、発掘調査で溝状に掘られたところがあり、そこに土中のなかに建物をデザインし貝層を見せるようにしました。
加曽利の周りの植物を調べてもらったら、縄文時代の植物の残存種が残っていました。
環境全体は重要なんだと感じました。
秋田県、4000年前ぐらいのものでストーンサークルがふたつある。
秋田県鹿角市十和田大湯にある縄文時代後期の大型の配石遺跡。(大湯環状列石
遺跡の範囲が段々広がって最終的には30ヘクタールになり、世界遺産になる寸前というところです。
縄文時代の景観が保護されている。
伊勢堂岱遺跡 秋田県北秋田市脇神にある縄文時代後期前半の遺跡。
大湯環状列石よりももっと静かなところ、環境を大事にしています。
水子貝塚、埼玉県富士見市にある貝塚遺跡。縄文時代前期(約5500~6000年前)の遺跡
東京のベッドタウンが予想され、遺跡の周りを縄文時代の樹木でうめようと思い、縄文の森を作り真ん中は縄文の広場を作りました。

古墳時代のもので妙見山古墳、愛媛県今治市大西町宮脇にある古墳。形状は前方後円墳。
竪穴石室で石室を掘る時に雨水がぬけるように排水溝を作っている。
石室を横から見えるようにした。
通産省のグッドデザイン賞を受賞する。
秋田県 払田柵跡 89.4ヘクタールが指定面積、周囲3.6kmで30cm角で高さ2.7mぐらいの杉の柱で囲っている。(801年に作っていることが判るが一切文献が無い)
通産省のグッドデザイン賞を受賞する。

最初に自然の環境、歴史的環境、現代の環境をチェックするために市内を回ります。
建築の設計をやっていなかったら出来なかったことが色々あります。
本質的な価値を掴む迄が大変です。
吉野ヶ里遺跡、伊勢堂岱遺跡など住民運動が大きな影響をしています。
府中市の武蔵府中熊野神社古墳 上円下方墳。
府中に国府を埼玉から持ってくるが、持ってきた主が熊野神社の豪族であったのではないかと言われている。
保存会があり300人ぐらいいてお祭りなどもやっていると言うことです。
仕事をして一番大事なのは時代の背景、歴史の流れが重要だという気がします。
客観的に歴史を見て行くことが重要だと思います。
日本の国家が成立して行く時期は面白いと思います。
縄文人は国家の概念がなかったと思うので、大陸から入ってきた政治、経済、権力が日本の国を作り上げて行ったと思う。
1998年から始めているが、遺跡展をやって、今年もパリでやることになっていますが、ブルガリアでもやってほしいと云うことでブルガリアでもやりました。
縄文時代の展示をやりましたが、弥生時代もやって欲しいとの要望があります。






















2018年7月9日月曜日

渡辺元智(横浜高校野球部前監督)     ・【“2020”に託すもの】人生の勝利者たれ

渡辺元智(横浜高校野球部前監督) ・【“2020”に託すもの】人生の勝利者たれ
高校野球の地方大会が行われているが、今年の夏の高校野球は100回を迎えます。
およそ50年コーチとして監督として野球の指導にあたってこられた、横浜高校野球部前監督の渡辺元智に伺います。
1944年(昭和19年)11月3日神奈川県生まれ、73歳。
横浜高校に入学して野球部に入部して外野手として活躍、甲子園への出場はかなわなかった。
神奈川大学に入学するが右肩を痛めて野球部を退部、大学も中途退学するが、恩師笹尾監督の推薦もあり当時黒土校長からの依頼を受け、母校横浜高校のコーチに就任したのが1965年(昭和40年)、1968年に24歳で監督に就任、2015年まで監督を退任するまで指導歴が50年、その間関東学院大学の夜間部に通って教員免許を取得、春夏27回の甲子園併せて5回の全国優勝、多くの名選手を育てていかれました。

生まれて直ぐに父が結核を患ってい平塚の結核療養所に移ってきた為、両親がいないむなしさを癒す為野球をやっていました。
田んぼの稲を刈った後の凸凹のところとか、細い道路でやったりして気持を癒していました。
法政二高は当時憧れていて補欠入学が決まったが、学費は無理ということで諦めました。
横浜高校の試験を受けて入学しました。
笹尾監督に出会いました。
厳しくて、上級生も厳しくて良く殴られていました。
親のことを思うとしがみついてやり通しました。
法政二高が全盛で他にも強い学校がありました。
横浜高校は当時荒れていて笹尾先生が横浜高校に呼ばれてスポーツによってそういった私学の学校に仲間入りしたいとスタートしたと思います。
神奈川大学に入学するが右肩を痛めて、バットで頭を殴られたような衝撃を受けました。
十何年間の思いが全て消えて行きどうしたらいいのかと思いました。

即千葉の方に逃げて来ました。
一途にやってきたことが頭の中は真っ白で見当が付きませんでした。(目標を失った人生)
荒れた生活をして喧嘩をしたり、酒を飲んだりしていました。
恩師笹尾監督のコーチへの推薦があったが、野球をやれるということで一つ返事でしたが、心構えはなにも無かった。
荒れた学校で脅かされたりしたが、にらみ合って、はったりを効かせたりしました。
お金も無くて、物をもらったものを売りさばいたりして生活の足しにしました。
監督になったときにはいまの女房と一緒になろうと思いました。
妻のお金で生徒への補助をしてやったりして、感謝感謝でした。
理念は特になかったが、笹尾監督の踏襲、他校をみてそれを見習うとかしていきました。
日本一長い練習、厳しい練習をすれば全国優勝できるであろうと邁進しました。
昭和48年に選抜で初出場、初優勝したが、夏は行けなかった。
渡辺では夏は行けないのではない化ということで、監督交代の声が耳に入ってきました。
北海道に逃避旅行をしたりしたが、生徒は気持ちよく迎えてくれて何かを変えないといけないと思って、「会話と、忍耐」という事を位置付けて練習に臨みました。
打倒原貢さん、東海大相模の存在は大きかった。
打倒東海大相模に執念を燃やしました。(家族にもめちゃくちゃ迷惑をかけました)

「青い山脈」の歌には癒されました。
昭和55年愛甲投手を擁して全国制覇を果たしました。(早稲田実業を破って優勝)
この時が分水嶺だったと思います。
愛甲選手が入ってきて物凄い選手が入ってきてくれたと思いましたが、冬に辞めてしまいました。
原因を色々考えたりしましたが、愛甲選手を家に置いたりして寝食共にしているうちに、もっと選手のきずなを強くしないといけないと思って目標を明確にたてました。
全国制覇を狙おうと、明確にしました。(愛甲投手が3年の時)
愛甲選手も不遇な子でした。
内面的に入って絆を作ろうと思いました。
愛甲選手さえしっかりすれば後は付いてくるだろうと思いました。

2年の夏に愛甲選手が戻ってきた時に、ピッチャーとして支えてくれてていた川戸選手が辞めてしまった。
川戸投手も愛甲選手とともにエースだといって、或る選手に呼びに行かせたら戻ってきてくれました。
詫びを入れて初めて二人のエースが誕生しました。
3年の夏には二人のエースで優勝することができました。
決勝は川戸投手に託すと愛甲投手も私の考えと同じで愛甲投手がグラブを川戸に託してマウンドに上がりました。
この時高校野球の理念を確立することができたと思いました。
選手を信頼する事、選手がやることであると、そういうことが分かった大会でした。
その後松坂、涌井投手など排出するこちになる。
その陰には多くの生徒が犠牲になっています。
それらの生徒たちに贈る言葉として「人生の勝利者たれ」という言葉が浮かんできました。
言霊のように毎日ミ―ティングがあるたびに「人生の勝利者たれ」という言葉を掛け続けました。
頭の中に残ってくれたのかユニホームを着れない子たちが今会うと、「人生の勝利者目指して頑張っています」と言ってくれてそれを聞いてやっていて良かったと思います。

「愛情が人を動かす」、愛情をどうやって気づきあげるか、絆とか真剣に向き合うことによって確立され、努力によって愛情という言葉が動き出す。
愛情の中には育てる為の厳しさも必要。
今後の若い指導者に対してはスポーツ、野球によって力強く生き抜くんだと人生論を教えてもらいたい。
助言者から教訓を受けて私の人生に役立っています、そこから姿勢を正さなないといけないと思っています。
高校野球を外野から立体的に見てみたいです、人生そのものだと思います。























2018年7月6日金曜日

伊藤昌輝(元ベネズエラ大使)       ・スペイン語で百人一首

伊藤昌輝(元ベネズエラ大使)       ・スペイン語で百人一首
1941年昭和18年大阪市生まれ、高校生時代に見たスペイン映画でスペイン語の発音に魅せられ、スペイン語を人生の伴侶として過ごされました。
大阪外国語大学でスペイン語を学び外交官となりその大半をスペイン語圏の中南米で勤務し、ホンジュラス、ベネズエラの大使を歴任し退官されました。
伊藤さんは在任中日本へのファンを増やそうと日本の古典方丈記をスペイン語で出版しました。
これが中南米で大きな反響を呼び、退官後は次々と古典の対訳版日本語とスペイン語を併記した本を出版。
2年前に「小倉百人一首」を出版しました。
スペイン語で読む小倉百人一首はピアニストによりコンサートが開かれるなど思わぬ展開を見せています。

詩は比較的やり易いと思われるが、百人一首は5、7、5、7、7という規則があるし、中身も平安、鎌倉時代で簡単ではないが、百人一首は日本人の心を一番伝える古典であろうと言うことで、出来たら自分の手でスペイン語に訳したいと以前から持っていました。
高校時代から日本の古典にはかなり関心を持っていました。
大学でスペイン語を習い始めてから、日本文学をスペイン語の世界に紹介できればなあと思っていました。
日本から外に向かって発信できないかなあと思っていました。
日本人の心を伝えるには古典ではないかなあと思いました。
現役を退く頃から「方丈記」、「閑吟集」(16世紀初めの室町時代の小歌集)、「梁塵秘抄」(平安時代末期に編まれた歌謡集)、「芭蕉の日記紀行文集」(『奥の細道』『野ざらし紀行』『笈の小文』など6品)、井原西鶴の「世間胸算用」などスペイン語で海外(ベネズエラ、アルゼンチンなど)で出版しました。
日本で日本語とスペイン語の対訳版を3冊(「方丈記」、「小倉百人一首」、石川啄木の「一握の砂」)を出版しました。

「スペイン語で詠う小倉百人一首」という本。
表紙には小野小町。
「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」小野小町
(現代訳:桜の花の色は、むなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降っている間に。
ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。)
スペイン語では5、7、5、7、7に合せるのは不可能に近い。
作者が言いたいことを出来るだけその通りに気持ちを伝えることを重点にしています。
掛け言葉はなかなか難しい。

「奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき」  猿丸太夫(5番)
(現代訳:人里離れた奥山で、散り敷かれた紅葉を踏み分けながら、雌鹿が恋しいと鳴いている雄の鹿の声を聞くときこそ、いよいよ秋は悲しいものだと感じられる。)
スペイン語は論理的で必ず主語はどれかとなっているので、「奥山に 紅葉踏みわけ」
の主語は人なのか、鹿なのかという事を決断しないといけない。
2説あるようだが私は鹿が主語と捉えて訳しました。

スペイン語で詠う百人一首コンサートを去年から発足して、ピアノを弾きながらコンサートをする。
百首について作曲していて、スペイン語で読んでもらいながら弾くことを昨年3回やりました。
ゆくゆくはスペインにも海外公演をというグループが出来ました。
「方丈記」はベネズエラの大使をしていて帰る直前に現地で出版しました。
詩が美しい、人生の教訓にも満ちているといった反響がありました。
本を読んで信じがたいほど内面の安らぎを感じます、(弟が事故に遭ったが意識不明の状態に一入り苦しいい時だったので)と言っていただいたりしました。
退官後ホンジュラスに行く機会があり、カルロス・ロベルト・フローレス大統領に方丈記を贈呈しましたが、ギリシャの哲人のヘラクレイトスにそっくりですとおっしゃいました。
「何もとどまらない。全てが流転する、君は同じ川に二度はいることができない。
なぜなら私が二度目に浸かった時には、川の流れも私自身もすでに変わっているから」
無常感は世界の色んなところにある感情だと思いました。
世界中に日本のシンパをじわじわと作って、日本の政策、考え方を理解してもらう。
そうすると外交もやりやすくなるのではと思います。
日本のにじみ出た教養、文化は向こうの首脳も当然惹きつけられて理解しようという気持ちになると思います。

高校時代に大阪でスペイン映画「汚れなき悪戯」をやっていて、スペイン語が綺麗だなあという思いがありました。
スペイン文学も深いものがあるに違いないと思って魅せられて、大阪外国語大学のスペイン語学科に行くことにしました。
スペイン語ははっきりしていて発音は日本人にはしやすい。
当時は生のスペイン語と接する機会が無く、色々考え行動しました。
スペイン語の国に住みたいと思っていて、商社か外務省位だと思って外務省に入ることになりました。
現役生活のうち30年は向こうに勤務して良かったと思います。
メキシコ(2回)、アルゼンチン(2回)、ドミニカ共和国、リオデジャネイロ、ホンジュラス、ベネズエラなどの国に勤務して来ました。
ホンジュラスではハリケーンがあり自衛隊が初めて海外派遣があり印象深かったです。
要人と知り合えたのは良かったです。
昭和天皇の通役を担当したりスペイン国王夫妻と食事を共にしたり、中南米のいろんな大統領と通訳を通して知り合えたのも貴重な経験でした。

中南米は親日的です。
日系人の方が沢山行っています。
日本人は真面目で正直だと言うことで何処に行っても定評があります。
中南米は対米感情はあまりよく思っていなくて、負けてしまったがアメリカと戦争をしたことに対しては凄いというような思いは持っています。
戦後日本が民主化して経済成長をして自分たちに援助してくれた経済援助、それに物凄く感謝しています。
そういったことで仕事はしやすかったということは言えます。
中南米に対して政府も一般の人もメディアももうちょっと目を向けて欲しいと思います。
ベネズエラの現地のラジオ番組で俳句の話をしました。
俳句をスペイン語で読んだり俳句のことについて3回位番組に呼ばれました。
退官したら、次に何を訳そうかなあと思っていましたが、関心を持ってくれる作品、その選択が難しいです。
スペインの出版社から要請があり石川啄木の「悲しき玩具」、「ローマ字日記」が今年中にスペインで出る予定です。
「奥の細道」対訳版、前にアルゼンチンから出ているが翻訳も見直しをして秋に出そうと思っています。
スペイン語は私にとって人生の伴侶だと思います。
















2018年7月5日木曜日

権田和幸(印章彫刻工)          ・"信用"を彫り刻む

権田和幸(印章彫刻工)          ・"信用"を彫り刻む
東京八王子市で親の代から小さなハンコ店を営む権田さんは59歳。
機械彫りが主流になったハンコの業界で、手彫りにこだわってハンコを製作し、東京マイスター、現代の名工などに認定されてこの春黄綬褒章を受章しました。
サインで代用される場面が増える中で銀行印、実印など日本の社会ではまだまだ信用の証としてのハンコが重要な役割をはたしています。
ハンコにまつわる様々な話や手彫りにこだわる熱意、難しさなどを伺いました。

店は私が生まれるちょっと前60年前位、父が店を始めて私が2代目になります。
継ぐことに関しては父は私自身にはあまり態度では示さなかったが、知り合いに対しては喜んでいた様に聞いています。
継ぐことに対して彫る修行だけはするようにと言われました。
10年ぐらいしてからお客様の仕事をする様にはなりました。
1987年に大阪知事賞、東京印章協同組合技術講習会の講師、東京都青年優秀技能者、、労働大臣検定 印章彫刻一級技能士合格、東京都優秀技能者知事賞(東京マイスター)受賞。
平成24年には厚生労働省認定卓越した技能者(現代の名工)に選出される。

ハンコの本体と紙に残った方の二つに分けて、本体の方は印章、ハンコ、とか言われます。
印鑑は実は紙に移った方のことを言います。
ハンコはもともとメソポタミア文明とかのころに粘土で凸凹を作ったのが起源と言われるが中国に渡ってそれが日本に来たと言われています。
明治初期に政府により実印登録制度が出来て、一般の人もハンコを持たなくていけなくなって、普及していきました。
ハンコを使ってる国は韓国、台湾にもあったが制度は無くなったという事を聞いているので現在は日本だけだと思います。
ハンコの使用は日本でも使う場面は減ってきています。
役所に登録した時点で実印となり、それ以外は全部認め印で、その中に銀行印など色々使い道によって分かれます。
家の購入、車などの購入、相続の時などには実印が必要になります。

銀行印も大事ですが、使われ方は少なくなりましたが、カードが無かった時代はお金を下ろすごとに使用していました。
三文判は「二束三文」から来ていると言われています。(出来合いの安い判)
書体は何種類かあるが、実印に使われるのは篆書体が多く、2000~2500年前に中国で発達した文字です。
お札に使わているハンコも篆書体です。
他には古印体とか他の書体も出ます。
篆書、隷書、楷書、行書、草書、古印体の6つがあるが、普段見る文字は隷書、楷書、行書、草書が多いが、ハンコでは篆書、古印体が多い。
女性の実印では名前だけというのが多いです。(結婚すると姓が変わるので)

材質はうちでは手で彫るのである程度限られていて、柘植、黒水牛、牛の角、象牙が多いです。
柘植は均一で手で彫るのに適していて木では柘植だけです。(柘植が一番安い)
黒水牛が一番多いです。
牛の角は白くて女性が好みます。
象牙は材料の値段も高くて硬さも高いので値段も高くなります。
お客さんと打ち合わせをして要望を確認して彫り始めます。
篆書、古印体は文字を逆にして直接書きます。
のみを10種類位用意して先ず粗彫りをして、仕上げで文字を整えていきます。
刃物を作ってくれる方がいたが、今はその職人さんもいなくなってしまいました。
最後に朱肉で押しながら細部の調整をしながらやっています。
文字が簡単な方が簡単かと思われるかもしれないが作るには難しさは同じです。
簡単な文字ほど恰好を取るのが難しい。
荒彫りの空間の多いところぐらいは機械彫りを取り入れて安く提供できるようにしています。

じーっとしての細かい仕事なので身体が固まってしまうので休み休みやっています。
自分で作ったものを直接お客さんから御礼を言ってもらうのは、やり甲斐があるものだと思います。
通常は1~2週間いただいて、1~2日位は余裕を見てもらって作業をしています。
実印は2~3万円が良く出ます、銀行印は1~2万円が多いです。
保管はケースに入れて引き出しに入れておけば問題ないです。
小さいものなので保管場所をしっかり覚えておくことは必要です。
朱肉を付ける時に一回で付けないで回数を多くして付ける、均一に付ける。
お客さんが喜んでくれるのが仕事の励みになっています。









2018年7月4日水曜日

夢枕 獏(作家)             ・生れ変っても物語を紡ぎたい

夢枕 獏(作家)             ・生れ変っても物語を紡ぎたい
67歳、1977年に作家デビューして40年が過ぎました。
「陰陽師シリーズ」や、柴田錬三郎賞を受賞した「神々の山嶺」、泉鏡花文学賞を受賞した「大江戸釣客伝」など数多くの作品があります。
夢枕さんにその創作方法やデビュー迄の道のり、今後書きたい作品などについて伺います。

昨年までで320冊出している。
今年3月に新聞に全面広告を出す。
「東天の獅子」、「大江戸恐竜伝」この2冊をもっと読んでもらおうと出しました。
「東天の獅子」は前田光代(柔道家)を書こうと思いました。
 前田光代は20代の頃海外に渡って二度と帰ってこないで、プロレス、ボクサー、その他力自慢と戦って他流試合などをしていた。
2000試合して無敗で最後はブラジルに帰化してブラジルで一生を終える。
ブラジリアン柔術は前田光代が広めた柔道がブラジリアン柔術となって残っていた。
前田光代の一生を書こうかと思ったが、全4巻書いたところで前田光代の子供時代が出てきたところでとりあえず完結して、続きはこれから書かなければいけない。
「大江戸恐竜伝」 ゴジラが大好きだったが段々怖く無くなってきたのが不満だった。
黒沢さんがゴジラを撮らないかなあと思っていたが、駄目だと思って、自分で書くしかないと思って江戸時代を設定して人間との対等の戦いをと思いました。
主人公の平賀源内が南の島まで恐竜を取りに行くが、檻から抜けだして大暴れする。
平賀源内が好きな恐竜を色々考えて泣く泣く退治する。
雲南省は恐竜の宝庫で行って調べて来ました。
構想は10~20年、執筆だけで10年かかっています。
書きながらラストが段々に判って来るので3,4年で書き上げるつもりだったが、ああなってしまいました。

長編が多いです。
アイディアはある日突然来ます。
平賀源内まではある程度スムーズに来て、それ以後はとにかく調べまくります。
面白いエピソードは恐竜が乗る船はどのぐらいの大きさなのか、恐竜が暴れたらどうするのか、麻酔で眠らさなければいけない。
ヘロインを使ったらいいのではないかとか考えました。
連れて帰るのに相談したりしたら気道確保が必要だと言うことで、そういったアイデアは沢山あります。
先ず事実関係だけを書く年表を作ります。
その隙間をこうだったことにしようとか考えますが、資料などをいろいろ参考にします。
丸山応挙(写生の大家) 龍を書くためにそれぞれの部分の写生をしている。
平賀源内と丸山応挙が会ったことなどを書いてゆく。
月表を作って最後には日表を作ります。
そこに誰がどうしたなどを書き込んでいきます。
原稿に書き込みます。(手書きが慣れていてパソコンは駄目ですね)
パソコンは変換の問題、漢字の選択が問題だと思います。

朝は7時ぐらいには起きて、8時に朝食、9時以降に始めて、食事をして夕方まで書いて7~8時に食事をして、9時頃から2時ごろまでやります。(日程が詰まっている時)
時間にゆとりがある時は資料を読んだり、映画、釣りに行ったりします。
旅行に行っている時は雑音が無いので出先で相当書きます。
連載は今小説が13本、エッセーが2本、短編とかなどがそのほかにあります。
作家になろうと思ったのは10代、中学生のころ思いました。
幼い頃父親から寝る時に話をして貰って、続きに話を自分で物語を作っていました。
お金がもらえない同人誌に出したりしていました。
デビューが26,7歳だったと思います。
筒井康隆さん、小松左京さん、星新一さんとか、面白い話を書きたくて書いてるのですが、或る人からお前の原風景は何だと、原風景の話をされた時にないということが判って、ちょっと落ち込んで原風景が無いものは書いてはいけないのかなあと思いました。
自分は面白いものを目指していて自分の本は一番面白いと思っていたが、最初の本が店舗に並んだ時に、筒井康隆さん、小松左京さん、星新一さんとかがならんでいる中で自分が一番駄目だと思いました。

現実を見てショックでした。
いつか本気を出そうと思った時に今しかないと思って、カメラなど売り払って、家にお金を払って2~3カ月家にこもりきりで150枚書きました。(「巨人伝」)
あの時本気を出してよかったと思いました。
現在連載しているのが13本あるが、一番早いもので1年半はかかるのではないかと思います。
書きたいものはかなりあります。
やりたいのは縄文小説と俳句小説。
縄文時代は文字資料が無くて、縄文時代に人が何を考えていたかというのは、土器、貝塚、土偶、石器などで、彼らどんな神話を持っていたんだろうと思いました。
彼ら信仰していた神話を作ろうと思いました。
古事記、日本書紀、神社など、長野県の諏訪に残っているのは宝庫です。

思い付いたのはちゃんとした縄文人を主人公にして旅をする話を書こうとしました。
諏訪から糸魚川、姫川沿いにでて、日本海にでて信濃川を遡って縄文の遺跡を伝いながら山内丸山遺跡までヒスイを運んで縄文時代の商人がいた。
ヒスイはほとんどは糸魚川産なんですね。
糸魚川にはヒスイを扱っていた姫がいて沼河比売(ぬなかわひめ)という。
調べてみたらめちゃくちゃ面白くてこれを書きたい。
波乱万丈で縄文という設定でないと書けないというような現代が有るんです。
現代は神様が一人しかいないという人達が一杯いすぎて駄目なんです。(一神教)
一神教は他の神様を悪魔という。
相手の信仰している神を認める土壌はあったと思う。
縄文時代は戦争をしたという痕跡がどうも無さそう。
縄文時代は不思議な1万2000年間で、その後半の話を書こうと思っています。
3,4年先に始めたいと思っていて、3年位で書き上げたいと思っています。

俳句小説はファンタジーの俳句をやろうと思います。
それを300句位並べるとドラマが出来ると思いました。
10年位俳句を作ってきましたが、これは大変な世界であったということが後で判りました。
小説を書いているとこの一行は抜群に素晴らしいと思うことがあり、俳句はその素晴らしい一行を俳句に整えればいいと思っていました。
しかしやってみるとぜんぜん別物で、とんでも無い世界で、いい一行を整えたら俳句になるという世界ではないことに気が付きました。
季語の素晴らしさに気がつきました。
季語によって縄文の香りがして来て、季語は神と同意義語のような気がして来ます。
縄文時代の人があれにも神様が宿っている、これにも神様がと言っていたものが、それが今は季語だと僕は思っています。
季語があることによって俳句の深みが出てくる。
僕が理想としている俳句に近づこうという作業をしていて、見切り発車しかないと思って
来年俳句小説を書き出すことにしました。
手口は「奥の細道」にたどり着きました。










2018年7月2日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】滝廉太郎

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】滝廉太郎
講談師 神田蘭
滝廉太郎は明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人。
23歳と10カ月で肺結核で亡くなる。

講談による紹介。
代表曲、「花」、「お正月」、「箱根ハ里」、「荒城の月」など沢山ある。
「荒城の月」はヨーロッパでも親しまれていて、ベルギーの修道院ではおよそ30年前から聖歌として歌われている。
ドイツでは世界的ロックバンドスコーピオンズ迄もがライブで歌ったことがある。
滝廉太郎は現:東京都港区西新橋で明治12年に生まれる。
滝家は江戸時代に、豊後国日出藩の家老職を代々つとめた上級武士の家柄。
父・吉弘は大蔵省から内務省に転じ、神奈川県横浜や富山県富山市、大分県竹田市などを移り住む。
横浜では幼い廉太郎はキリスト教に触れ教会に行って聖歌やパイプオルガンの音を聞いていたのかもしれない。
姉が二人いてヴァイオリンやアコーディオンを習っていて、彼も幼いころから楽器に触れていたそうです。

大分県竹田市に移り住んだころからオルガンを習い始めて、またたくまに才能を開花させてゆく。
音楽家を目指し上京、15歳で東京音楽学校(現:東京藝術大学)に入学する。
ピアノと作曲を勉強して17歳で「日本男子」という曲を発表。
首席で卒業する。
数々の唱歌、童謡を世に送り出す。
明治の前半は文部省の唱歌は西洋の音楽に日本語の歌詞をただ当てていただけだった。
日本語の曲を作るべきだと言うことで、彼が作り始めた曲の特徴は西洋音楽の旋律を取り入れつつ日本語が違和感なく乗っかっている。
明治34年廉太郎22歳の時に文部省音楽留学生としてドイツのライプツィヒ音楽院に入学する。
入学から5か月で肺結核にかかり、翌年帰国する。
大分の両親のもとで静養するが、23歳という若さで亡くなってしまう。
彼が病床で最後に作った曲が「憾(うらみ)」。(残念に思う、心残り、未練)

廉太郎の父は大久保利通の近くで仕事をしていたが、大久保利通の暗殺と共に上手くいかなくなり、中央での出世をあきらめざるを得なかったようだ。
父は廉太郎には立身出世を希望していて音楽活動には反対していた。
従兄弟の滝大吉は建築家で廉太郎に音楽をやらせたらどうかと廉太郎の父を説得した。
音楽留学生としては第3号で幸田露伴の妹2人が第1,2号で幸田延が東京音楽学校教授となり、廉太郎はその弟子になる。
彼が残した曲の半分以上がドイツ留学前。
ラファエル・フォン・ケーベルにピアノを私淑。
ケーベルは夏目漱石も教えていて、東京帝国大学では哲学を教え、芸大ではピアノを教えている。
同級生にもう一人の妹幸田幸がいたが、ピアノが物凄く上手くて、ピアノは諦めたというふうな話もある。
廉太郎の幼い頃の横浜での教会音楽の影響は大きかったのではないか。

彼の音楽を海外で聞いたかたはブラームスに似ていると言うそうです。
「荒城の月」を作る時に日本の旋律から変えた。
「花」は日本の曲では初めて西洋の音階で作られた。(「花」はモーツアルトぽい)
「荒城の月」の春高楼の花の宴 宴の「ん」にシャープがついているが、海外に紹介する時に山田耕作はそれをとってしまっているが、このシャープがこの曲の一番大事なところ魂だと思う。
シャープが付いたほうがその時の情況が浮かぶような気がする。
*「荒城の月」
1.春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして
千代の松が枝わけいでし むかしの光いまいずこ
2.秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて
植うるつるぎに照りそいし むかしの光いまいずこ
3.いま荒城のよわの月 替わらぬ光たがためぞ
垣に残るはただかつら 松に歌うはただあらし
4.天上影は替わらねど 栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなお 嗚呼荒城のよわの月

*「箱根ハ里」(「箱根の山」)
1.箱根の山は、天下の嶮(けん)
函谷關(かんこくかん)も ものならず
萬丈(ばんじょう)の山、千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え、後方(しりへ)にささふ
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小徑(しょうけい)は苔(こけ)滑らか
一夫關に当たるや、萬夫も開くなし
天下に旅する剛氣の武士(もののふ)
大刀腰に足駄がけ
八里の碞根(いはね)踏みならす、
かくこそありしか、往時の武士

*「花」
1.春のうららの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂のしずくも 花と散る
ながめを何に たとうべき
2.見ずやあけぼの 露あびて
われにもの言う 桜木を
見ずや夕ぐれ 手をのべて
われさしまねく 青柳を
3.錦おりなす 長堤に
暮くるればのぼる おぼろ月
げに一刻も 千金の
ながめを何に たとうべき

「お正月」作詞は東くめで滝廉太郎の芸大の同級生。
「若くして友は逝けども 荒城の月の光は世に輝けり」 東くめが偲ぶ歌を残している。