2018年9月20日木曜日

香取章子(ちよだニャンとなる会代表理事) ・ペットは終生責任をもって!

香取章子(ちよだニャンとなる会代表理事) ・ペットは終生責任をもって!
今日から動物愛護週間、犬や猫を家族の様に可愛がっている家族も多いと思います。
一方で飼い主がなく殺処分されてしまった犬や猫は、平成28年度1年間で全国で5万6000頭にのぼります。
実にその8割に当たる4万6000頭が猫です。
東京都千代田区では2011年から猫の殺処分ゼロが7年間も続いています。
行政とボランティアがうまく連携した猫の保護、譲渡活動は千代田モデルと言われ全国の注目を集めています。
そのボランティアグループ「ちよだニャンとなる会」代表理事の香取さんに先駆的な千代田モデルの活動の実態と猫と人間のあるべき環境について伺いました。

5匹飼っていますが、全部飼い主がいなかった猫です。
私は千代田区に生まれ育ちました。
かつては千代田区内でも飼い主がいない猫が暮らしていました。
ビル街にも猫がいました。
元々猫が好きでしたが、悲惨な状態が目について仕方なかった。
当時は雑誌の編集の仕事をしていて時間が無かった。
18年近い取り組みがあって、2011年から猫の殺処分ゼロが7年間も続いています。
2011年から千代田区内で保護された猫が東京都動物愛護相談センターで取り扱われて処分になることはないということになっています。
2000年に千代田区の飼い主の居ない猫の去勢不妊手術費助成事業を始めました。
繁殖を抑えようと立ち上がりました。

2000年は動物愛護管理法、動物愛護法が施行された年でもありました。
猫の繁殖力は生後半年の雌猫が妊娠し始めたりして、年に2~3回出産します。
1度の出産で4~5頭の子猫を出産します。
一生に200頭の子猫を産むと言われています。
交尾するとほとんど100%妊娠します。
猫は爆発的に増えて行きますので、不妊去勢手術が一番の猫問題を解決に向けての鍵になります。
手術の費用が雄が1万7000円、雌が2万円。(妊娠中は2万5000円)
ボランティアも募集しました。
会報を作り始めたりしました。
「ちよだニャンとなる会」という名前がいつの間にか出来ました。
2011年に殺処分ゼロになりました。

歩きたばこの禁止も全国で一番最初に千代田区が始めました。
猫の飼い主がいるかどうかを調べ、一時保護して協力動物病院に運んで去勢手術をして、耳先をV字カットをして手術をしたという目印にしました。(ピアスを付けたが取れてしまう)
TNR活動(トラップ(Trap)、ニューター(Nyuta 去勢不妊手術)、リターン(Return)を千代田区が事業を推進して行く中で、相当猫の繁殖が押さえられてきて、劇的に減っていきました。
猫の譲渡活動も進めて来ました。
2014年から保護、譲渡にお金が掛かるので、検査医療処置費を1頭6000円助成するようになりました。
TNTA活動、(ニューター、テイム(Tame 人に慣らす)、アダプト(Adapt 譲渡する))
人に慣れていない猫を人に慣らす、そして譲渡する。
協力動物病院に安価で預かっていただくことになりましたが、その費用が一番おおいです。
1匹7万5000円を上限に預かり費用を助成されるようになりました。

ワクチン、病気も治す、そして初めて譲渡できることになる。
ウイルス検査、ダニ、寄生虫の駆虫もして、ワクチン接種、去勢手術、個体識別のマイクロチップも埋め込んで責任譲渡します。
譲渡会は年間5~6回開催しています。
次は10月14日、千代田区役所で行います。
譲渡は年間50頭位です。(おとなの猫が多い、病気障害のある猫を含めるので)
情報の受発信を大事にしています。(インターネット、フェイスブック、会報など)
イベントもやっています。(2016年から開催)
今年は1万4000人が来ました。
イベントの収益は経費を引いて猫の医療費に活用しています。
このイベントでも譲渡会を行っています。

「千代田モデル」と言われています。
行政、ボランティア、区民、在勤者も巻き込んで、みんなで取り組んでいこうと言うことでやってきました。
年間予算は750万円位です。
今年4月に動物愛護係を創設して珍しい係だそうです。
猫の活動を通して物凄く知り合いが増え、話ができたりして楽しいです。
人口は6万人を越えましたが、一時期3万人台だった時もあります。
昼間は85万人位になります。
6万人の9割がたはマンションに住んでいますが、猫の繋がりから話が盛り上がったりしています。
17年間の活動で猫を介在して、コミュニケーションネットワークが広がってきました。
一番の課題は殺処分ゼロの記録を続けて行くためには、譲渡しにくい猫ばかりで、譲渡型保護猫カフェを秋葉原地区でオープンする予定です。
旧旅館を使ってやります。(古民家再生ということで)

3・11の時に仙台市からの要請を千代田区が受けて、被災地で生まれた子猫を引き受けて譲渡先を見つける活動を行っています。
ペットを災害時にどうするか、という問題がある。
人命優先とはいえ、ペットも家族の一員であるという認識はたててほしい。
逆の言い方をすると、被災したとはいえ、その人、家族に終生飼育を全うしてもらいたい。(同行避難)
高齢者の多頭飼育の崩壊の問題もあります。
世話をし切れなくなって不妊去勢手術を怠り、増えて行ってついに世話をしきれないまま
不衛生な環境の中で共にいると言う、多頭飼育の崩壊が全国各地で発生しています。
これからの課題となって行くと思います。
ペットが行き場を失わないように、最低限のことをしていかないといけないのかと思います。(次の飼育者を紹介等)
公正証書の遺言、ペットとお金を一緒に遺贈するという形の遺言。
養育費、医療費、謝礼の3つの意味を込めて金額を設定すればいいのかと思います。
私は猫を引き受けてくれる人を指定して、公正証書に書いてあります。
動物愛護管理法という法律が有るが、飼い主が終生責任を持って飼育すべき愛護動物と定められている。












































2018年9月19日水曜日

美輪明宏(歌手)             ・平和への思いを歌に込め(2)

美輪明宏(歌手)             ・平和への思いを歌に込め(2)
美輪さんが見た戦時中の親子の愛、無償の愛を歌った「愛の賛歌」に込められた想いなどを伺います。

原爆の後で死体を掘り起こすが、焼けただれた親子の死体が出てきて、自分は焼けただれても子供だけは助けたいと、必ず覆いかぶさってお腹の下にしっかり子供を抱き込んで亡くなっている。
親子というものはやっぱりこうでありたいと思います。
炭みたいにまっ黒けでした、それを見ました。
うちに勤めていたボーイさんが出征して、駅に行ってホステスさんらとともに「万歳、万歳」と言って汽車を送り出しゆっくりと動き出して行きました。
さんちゃんはタラップに立っていました。
出発し始めた時に、さんちゃんのお母さんが人々を押しのけて、タラップに立っているさんちゃんの足元にしがみついて「死ぬなよ どげんしても死ぬなよ、生きて帰ってこい」と言ったんです。
軍属みたいな人が立っていて、「貴様」といってお婆さんの襟首を掴んで放り投げたんです。
鉄柱が有り鉄柱に頭をぶつけて、即死しなかっただけ不思議でした。
さんちゃんが最後に見たのは、母親が憲兵に突き飛ばされて、血だらけの顔を見ながら出征して行ったわけです。
さんちゃんの顔はすさまじい顔でした。
二度と徴兵制度なんかしてはだめですよ。

愛の中でも色んな種類の愛が有ると思う。
恋愛、恋が先で愛が後、愛恋とは言わない。
恋の段階では待ち合わせをした時に遅れたりすると、待たされた自分の方のプライドや怒りの方が大事で、相手のことは考えていない。
愛迄行くと、自分が待たされているという事よりも、相手のことが心配になり、やっと来てくれると「アー良かった」と言って相手を気遣う言葉を言ってあげたりする。
買い物をしても相手のことばかり考える。
そういうことができるのが愛だと思います。
愛だけになると、永遠、与えっぱなし、見返りが返ってこなくてもそんなの平気なんです。
だから私の「愛の賛歌」がNHKの紅白で歌った時は、「花子とアン」での柳原白蓮の駆け落ちのシーンで「愛の賛歌」の歌がまるまる4分使われて大反響がありましたが、それが愛だからです。
原詩がそういうふうにできているんです。
色んな方が「愛の賛歌」を歌いますが、みんな恋なんです。
越路吹雪さんが歌ったのは、あれはあれでポピュラーにするには、あれで必然性があってそれはそれで良かったと思いますが、でも愛ではないんです。
岩谷時子 日本語詞
「あなたの燃える手で 私を抱きしめて ただ二人だけで生きて行きたいの
ただ命のある限り私は愛したい 命の限り私は愛したい ・・・・」

原詩をよく読んでみると、それとはどうもしっくりしない。
「高く碧い空が 頭の上に落ちてきたって この大地が割れてひっくり返ったって
世界中のどんな重要などんな出来事だってどうってことはありゃしない
貴方のこの愛の前には  
朝目が覚めた時 あなたの掌の下で私の身体が愛に震えている
私はそれだけで十分 
もし貴方が行けと言うんだったら 世界の果てまでだって付いてゆくし
もし貴方が盗めと言うんだったら どんな高い宝物だって お月さまだって盗みにいくわ
もし貴方がそうしろと言うんだったら ブロンドだって染めるし
もし貴方が言うんだったら 愛する祖国も友達もみんな裏切ってみせるわ
もし貴方が言うんだったら どんな恥ずかしい事だって 人前であろうとなんだろうとやってのける
そしてやがて時が過ぎて死が、私から貴方を引き裂いたとしても それも平気よ
だって私も必ず死ぬのだから そして死んだ後でも 二人は手に手を取って
あのどこまでもどこまでも広がる真っ青な空の碧の中で 
永遠の愛を誓い合うのよ そしてそういう私達を神様が永遠に結びつけて下さる
祝福して下さるだろう」
そういった歌詞だったんです。
ピアフはそういう人だったんです。

(インターネットからの美輪明宏 日本語詞
「高く碧い空が 落ちてきたとしても 海が轟いて 押し寄せたとて
あなたがいる限り 私は恐れない 愛する心に 恐れるものは無い
貴方が言うなら この黒髪を何色にでも
貴方が言うなら たとえ地の涯(は)て 世界の涯ても
貴方が言うなら どんな恥でも 耐え忍びます
貴方が言うなら 愛する国も 友も捨てよう」)

皆さんに愛というものはこういうものですよ、という事を知って欲しかったんです。
フランスで2本映画が出来ているが、全部中途半端で恋なんです。(我まま、無教養)
私は若い皆さんに気付いてもらおうと、何度も何度もお芝居にしてやっています。
今はIT社会、デジタル社会は便利で利便性ばっかり考えて作られたもので、それの引き換えに健康を失ってしまった。
人間は肉体と精神で出来ているが、健康を維持する食料は過剰なぐらい出回っている。
精神の健康を維持するものは何かというと良質な文化です。
若者が大音響で歌う歌はエネルギーを発散させるにはいいかもしれないが、優しくする、安らぎ、癒す、それには程遠い。
名曲はメロディーが美しい、音楽はメロディー、ハーモニー、リズム、強弱の4つがそろって良質な音楽となる。

人間は自分の身を守ろうとしてアップアップする。
親が子を殺し、子が親を殺す恐ろしい時代になり、無差別殺人事件などが起きてきている、言葉、文化です。
昔は言葉が綺麗でした。
丁寧語を使っていた。
ねぎらいの言葉、感謝の言葉を気前よく使っていた。
そうすると節度、儀礼、人としてちゃんと尊敬されていると思う。
感情を理性で抑えたりバランスを取って、自分が自由自在に感情を処理することは一番難しい。
怒るは感情的、叱るは諭すという事(主体性を持たせて自分で答えを出させるように順々と説いてゆく。)
親子では無くて、子供でも人間としてとらえる事が大事です。
人間として世の中を上手くしていくための通行手形が「微笑み」です。
微笑んでいる人間を嫌いな人はいないと思います。
愛にも色んな愛があるので、秋のコンサートにはそれを並べて曲にして進行していくことにしています。
人間はみんな天命を持っている、この世の中に役目を授かっていない人は誰もいません、だから私はこうやって元気に生かされているんだと思います。。






























2018年9月18日火曜日

美輪明宏(歌手)             ・平和への思いを歌に込め(1)

美輪明宏(歌手)             ・平和への思いを歌に込め(1)
歌手、俳優、演出家など様々な活躍をされている美輪さん、1935年長崎県で生まれました。
料亭やカフェなどを営む裕福な家庭で育ちました。
15歳で歌手を目指し上京、音楽学校に進学します。
しかし実家が破産し、学費が払えず退学を余儀なくされ生活は行き詰まります。
その状況を救ったのが、東京銀座に開店したばかりのシャンソン喫茶「銀巴里」でした。
17歳だった美輪さんはそれからおよそ40年店のステージで、愛と平和をテーマに歌い続けました。
今日は美輪さんの戦後と重なる思い出の地「銀巴里」、そして代表曲「ヨイトマケの唄」の誕生についての話を伺います。

「銀巴里」跡という石碑が建っています。
喫茶店が一軒潰れただけで、その喫茶店の跡に石碑があって記念碑が建つなんてないですよ。
入口から地下に入って行くようになって、壁一面パリの街の景色が見下ろすように描いてあって、中に入ると廊下があって広々としていました。
ソフトドリンクを飲みながらシャンソンを聞くわけです。
普通のお客さんではない方が多かった。
美術、文学、音楽、政治、経済、スポーツなどんな話をしても丁々発止でやっていけるだけの凄い知識をもった文化人が多かった。
有名人も沢山いました。(三島由紀夫、川端康成、野坂昭如、大江健三郎、なかにし礼、吉行淳之介、寺山修司、中原淳一、遠藤周作、絵描きだと岡本太郎ら 数えきれないほど)
北海道の青年たちが冬に仕事が無いので出稼ぎに来て、なかにはなけなしのお金をはらって来てくれますが、はたしてこのお金に匹敵するだけの歌を歌っているんだろうかと思いました。
それが原点になっています。
「銀巴里」からプロとしての私の歩みが始まりました。

お客さんが悲しみ、苦しみやいろんなものを抱いて来る方もいるので、私が苦しいとか悲しいとかうちひしがれて、内的な問題をそのまま抱えてお店の中をうろうろすると雰囲気が悪くなるので、だから私はプライベートをお客様の前に持ち出してはならないという気概で接します。
お客さんと顔見知りになり色々話をしますが、自分のことは一切しない、聞くだけです。
思い出が山ほどできます、それが私の宝物になっています。
お国訛りには暖かくて愛が有ると思います、
15歳まで長崎にいました。
お風呂屋さんもやっていて番台にいて、当時中流の上の人でも来ますが見ると、着物は皆立派でも裸になると情けない気の毒な身体をしていました。
逆にヨイトマケの若者、労働者は粗末なものを脱ぐが、ギリシャ彫刻のような素晴らしい身体をしていました。
着る物ってなんだろうと思いました。

カフェ(バーに近いような)もやっていましたが、要職にあるような方(政治家、お坊さん、学校の先生など)がお忍びで来る訳です。
酔うほどに正体を現して、ホステスさんのスカートに手を突っ込んだり、頭を突っ込んだりして、頭にビールを掛けられてへらへらしている、一体昼間の顔はなんなの嘘じゃないかと思いました、ですから私の前に権威は通じなくなりました。
人を見る時に、年齢、性別、国籍、肩書き、容姿、一切吹っ飛ばしてしまって見えないものを見る、それは心、目の前にいる人の心が綺麗か汚いか、清らかか、まともか、それだけが問題であって、それを見る癖が付いてしまいました。
小学校の低学年の時に、父兄会が有り皆さんおしゃれしてきていて、遅れてきたお母さんがハッピ姿で臭いも凄かった。
一番できの悪い子のお母さんだった。
休憩時間になって自分の子が鼻を垂らしていて、そのお母さんは自分の口で鼻をすすって窓から吐いたんです。
どうして手拭を使わないのかと思ったら、頭にかぶる商売ものだから手拭いは使えなかったということだった。(後から聞いた話)
可愛くてしょうがないと言う様に、一生懸命自分の子供の身なりなどを整えてやっていました。

気取っていてお互いに着ているものを品定めしているお母さんたちが、凄く卑しく見えました。
汚いお母さんが光明皇后の前に現れた薬師如来の様に見えたんです。
或る時その子がいじめられてお母さんの所に戻って行く時に、一緒に付いて言ったら、貧乏人だからと言っていじめられたというようなことを言ったら、金持ちだからと言って偉いんじゃない、勉強ができると言っても偉くはない、人間で一番偉いのは神様の前できちっと立って真っ直ぐに神様の目を見える、優しくて清らかで、一生懸命働いて、正直でそれが一番偉いんだとだから泣くな、お前は一番偉いんだ、と言いました。
それを聞いた時に、感動しました。
 
或る屋台でトラブルがあって、やくざが縄張りの件で青年を脅かしていた。
その親分がシャンソンファンで「銀巴里」に来ていて知っていたので、可愛そうなので赦して貰える様に話をしました。
そうしたらその青年が売り物の香水を持って「銀巴里」に来ました。
売り物の香水は受け取りませんでした。
その青年が時々来るようになって、話を聞いたら波乱万丈の人生でした。
満州で終戦後にロシア兵が襲ってきて、父親がエンジニアだったが、その両親が目の前で殺されて、お手伝いの中国人が私の子だと言って助けてくれたそうです。
船に乗せてもらって九州に帰ってきて、廃品回収業のおじいさんの元に引き取られたが、お爺さんが亡くなってしまって、遺体をリヤカーに積んで、焼き場に持って行って、これからどうしようかと考えたそうです。
戦争孤児を引き取る施設があって、そこへ自分から行ったが、中学になると追い出されてしまう。
あらゆることをやって、今大学に行っているとの事であった。

ヘルメットで工事現場にいたので、その若者はエンジニアを目指していたが、なれなかったのかと聞いたら、なれたということだった。
別れて「銀巴里」に向かう途中に単純なメロディーが聞こえてきた。
忘れていた小学校時代の同級生のお母さんのヨイトマケの姿が焼き付いていたのが蘇ってきて、直ぐうちに帰って譜面を書いて詩を書いたら、1~2時間足らずで出来上がってしまいました。
「銀巴里」から帰って、友達呼んで赤飯炊いてお祝いしたら、彼が両手をついて泣きだしました。
自分は生まれてこの方、自分のことでお赤飯を炊いて祝ってくれた人は一人もいなかったということで嬉しいと言って、一生忘れませんと言って、みんな貰い泣きしました。
その時私はこういう歌が出来たといって、披露したら皆良い歌だと言って泣いてくれました。

ビジュアル系の「メケメケ」を辞めて、素顔でワイシャツ一枚で歌う様になったもんだから、商品価値がなくなったということで、仕事が全然来なくなりました。
戦争反対というようなものはだめだと言われました。
或るTV局から電話があり、歌ってほしいということで、歌ったら凄い反響でした。
2万通の手紙が来ました。(労働者、母子家庭などから)
TV局からアンコールが有り、そうしたら5万通の手紙がまた来ました。
社会派と言われていたが、それから受け入れてもらえるようになりました。




























2018年9月17日月曜日

寺澤康行(日本鳴く虫保存会)       ・【にっぽんの音】能楽師狂言方 大藏基誠

寺澤康行(日本鳴く虫保存会)       ・【にっぽんの音】
能楽師狂言方 大藏基誠
くさひばり 
ラフカディオ・ハーンがこの虫が好きで自宅で飼っていた。
午前中にも鳴くので、朝鈴という別名もあります。
1cm程度の大きさ。
11月位まで聞ける。
この会が出来てから51年目で、私が虫を飼い始めたのが昭和25年です。
担任の先生が5匹鈴虫をくれて、そこから始まりました。
作ったきっかけはカンタンという虫がいますが、この虫の人工飼育がなかなかできなかった。
小野さんという方が成功して、その技術をみんなに広げたいと言うことと、鳴く虫全部をやろうじゃないかと言うことになりました。(都市開発で虫が段々居なくなってきた)
①虫の飼育能力の向上。
②虫の文化を皆さんに知ってもらおう。
この二つの目的で活動しています。

鈴虫を無料配布をやってその時にアンケートをやりましたが、なんで飼いたいのかというと男性は郷愁なんですね。
今年3月には去年よりも3.1℃平均気温が高かった、4月は2.5℃高かった。
そうすると虫に対しる影響が有り早く孵化して、早く成長することになる。
9月にコンクールをやるが、その時にはお爺さんになってしまって鳴かなくなってしまうと言うことがある。
虫の寿命は大雑把に、土の中に8カ月、地上に出てきてから4カ月です。
暑いとどんどん成長してしまう。
鳴く虫コンクールは20回目になります。
鈴虫、松虫、カンタンの3種類の競技を行います。
この3種類は声がいいので選びました。
鈴虫は地面に卵を産みますが、松虫、カンタンは草の茎に産みます。
カンタンは茎の20cm以上の処に産む、松虫は地面の近くの茎の処に産む。
鈴虫は黒、松虫は茶色、カンタンは黄色から緑色。
体色が保護色になっている。(場所を住み分けている)
審査員は15名程度で、①綺麗な声、澄んだ声、②大きな声、③長く鳴く
この三つでポイントが入ります。

鳴き声もある程度飼育で工夫ができます。
コンクールで優勝した虫の子供がそれを引き継ぐかどうかですが、、卵を100個以上産むので、どれが引き継いでいるのかどうか判らないので、中途で匙を投げてしまいます。
審査の時間が夕方6時~6時40分ぐらいで、普通これらの虫が鳴くのは7時30分過ぎなので、早いからなかなか鳴かない。
暗くするがそれだけでは鳴かない、がっかりして帰ると電車の中で鳴いたりするわけです。
ですから誰が優勝するかはやってみないと判らない。
一緒に鳴くので聞き分けが難しい。
鈴虫は リーン リーン リーンと3回鳴いてお休みします。
松虫は チンチロリン チン チン チンチロリンと鳴いて休みます。
カンタンはルー ルー ルー・・・、と1時間以上鳴いています。

カンタンの鳴く好きな温度は24~26℃位です。
それ以上高いと声が高くなって行って、それ以上になると鳴かなくなります。
求愛の声なので、鳴くのは雄です。
実験で若い雄、ちょっと歳取った雄と、雌を置いて同時に鳴かせた時にどっちに行くかというと、雌は高い音、澄んだ音の方に行くということが判りました。
雌は、若くて大きな声で元気に鳴くのがいい、結局若い方に行きました。
人間が聞いても澄んだ声で大きな声で鳴く方がいいですね。

かねたたき くさひありとおなじ位の大きさ
くつわむし  6cm位の大きさ 馬のくつわのガチャガチャする音から来たらしい。
       昔には何処にでも居たが今は東京にはいないと思う。
綴れ刺せ (つづれさせ) 着物のボロを刺す様に鳴く。
 10月ごろでも鳴く。 ぼろを繕って春からの野良着に使いなさいよと鳴いている。(肩刺せ、裾刺せ というふうに聞こえると言う訳です)
つづれさせコウロギの誘い鳴きを録音したが本当に貴重なものです。
エンマコウロギ 閻魔様に似ているということだがいかつい顔をしています。
        縄張り宣言の声、求愛だと違っている。

ピアノの一番高い音が4100ヘルツだが、カンタンが2500~3500ヘルツ、
エンマコウロギもほぼ同等。
それよりも他の虫は全部高い、ウマオイは高い方は1万4000ヘルツ位あります。
「スィーッチョン スィーッチョン」と聞こえる。
高い周波数は歳をとると聞こえなくなる。
5種類位鳴いていてもどの虫かどの虫かは判ります。
青松虫は「リ リ リ リ リ リ」と鳴いて鈴虫と間違われますが、鈴虫は東京にはいません。
青松虫は都会の街路樹などでも鳴いています。
虫の声には自分が癒されます。
















2018年9月16日日曜日

小池理雄(お米マイスター)        ・【"美味しい"仕事人】お米の魅力を伝えたい

小池理雄(お米マイスター)  ・【"美味しい"仕事人】お米の魅力を伝えたい
小池さんは東京原宿精米店の3代目です。
原宿はファッションの街として、若者や外国からの訪問客で賑わう町です。
町からお米屋さんが消えて行く中で、小池さんは生産者と消費者を結ぶ活動を続けています。
お米マイスターとしてお米の魅力を伝えている小池さんのお話です。

お米マイスターはお米屋さんが持っている資格で、お米屋さんの組合が認定している資格です。
お米マイスターは日本全国のお米の特徴をきちんと説明出来たり、お米の食べ方、お米の特徴、稲の育ち方等、お米に関すること全て詳しい人で、且消費者の人に判り易く説明できる人です。
三つ星と五つ星があって、私は五つ星の方で難しい試験もあります。
試験の事前にお米が送られてきて食べて感想を述べるなど、口述試験、どういう品種なのかなど、お米を知らないと受かることができない試験です。
お米屋さんなので精米技術が大事なので、精米のやり過ぎ、少な過ぎなど食べてみたり触って見て判るのでそういう試験もあります。
精米は玄米のぬかの部分を取って白米にする作業で、目方の約1割がぬかですが、玄米のぬか層と白米の層の間に亜糊粉層(あこふんそう)という、うま味が詰まっている薄い層が有り、それを残しつつ、お米粒が割れないように精米する。
品種、気温湿度によって違ってくるので、お米を見ながら精米するというのが我々の仕事です。
生産者さんのお米の種の選択、どうやって栽培、収穫後の調整、我々がどうやって精米するのか、おいしさジャンクションがあります。

色々なイベントにも出かけて行きます。
皆さんは品種は判っていると思いますが、食べ比べは無いと思います。
お米に関心を持ってもらうことが、お米消費拡大の大事なことだと思っています。
毎年農家さんとも10か所ぐらい話をします。
生産者と消費者は興味の持ちどころが違うので、それをつなげるのが私の役目だと思っています。
今年は石垣島まで行きます。
稲は元々南方、東南アジアから伝わってきたので、沖縄も一つのルートで稲作の歴史は古い。
沖縄の早場米、「ひとめぼれ」が6月には都内に出て来る。
田んぼが有ることで治水が出来て、里山の風景も守られている。
田んぼは自然と調和をして作物を作っている、優れた設備だと思っています。
佐渡島に朱鷺(とき)が300羽ぐらいいるが、そこは田んぼが餌場になっていて、そこには魚、昆虫がいないと絶滅してしまう。
農薬を使わない、田んぼの面積を増やそうと言う取り組みを佐渡ではしています。
今はおいしいだけでは差別化できなくなって、そこから先はどうするのかということが今の話のようになるわけです。

原宿でやっているが、情報発信がしやすい。
サラリーマンを10年前までやっていて父の具合が良くなくて継ぎました。(3代目)
日本全国でお米屋さんから買っているのは、
7%位と言われて少ない。
お客さんへのヒアリングをして、粘り、甘味、もっちりさ、価格などを聞いて新しい別のお米の紹介などをします。
レストラン、食べ物屋さんが多いが、お付き合いをして販売しています。
お届けするものはブレンド米が多いです。
以前は一般的には価格調整などでしたが、それぞれの美味さの要望に合わせたものを調整します。
要望に対して単一銘柄では表現できなくなってきている。
原宿の「穏田キャットストリート商店街」で80年以上やっています。
昔、穏田川が流れていたが、暗渠になってしまっていて、猫が結構いまして、このような名前になりました。
「おんでん」には二つあって隠田、穏田 江戸時代の葛飾北斎の冨嶽三十六景の中の一つに「おんでん」の水車と言う絵が有り、その水車は穏田川にかかっていた。
元々は伊賀者の忍者の里がこのあたりと言われて、穏田と言われた。
当時水車が結構あって、水車で精米をしていた、歴史のある街です。

大学卒業後出版社に勤務して編集の仕事をしていました。
社会保険労務士の試験を取って、コンサルティング会社に入って7,8年勤務しました。
父が倒れた時に、周りを見渡すと私しかいなかった。(長男の末っ子だった)
小学校時代から手伝っていたので、すんなり入れました。
やって見て本当に奥が深いなと思いました。
10年近くやっているが、判らないことが一杯あります。
お米を食べて評価する時に、お米面接表を付けていて、8つの切り口で評価して作文して点数を出しています。

最近の代表格は山形の「つや姫」と、北海道の「ゆめぴりか」です。
新潟県の「新之助」、福井県の「いちほまれ」、富山県の「富富富(ふふふ)」、石川県の「百万石」、宮城県は「だて正夢」などが出てきています。
生産量では「コシヒカリ」が30%を越えています。
「コシヒカリ」の子供である「あきたこまち」「ひとめぼれ」「ヒノヒカリ」と合わせると全体の6割を占めています。
新しくいろいろ出てきているが、まだ少ないのが現状です。
お米の消費量は毎年さがってきていますが、広めるためには新しい品種は大事だと思います。
ブレンドもみなさんがやってみても、いいのかなと思います。
そういった楽しみ方もあると思います。
玄米を食べたがるのが奥さんで、白米を食べたがるのは旦那さんでそういった時に、5分突きのものもあります。

精米機の性能がいいので、今はヌカが取れている。
研ぐのもいい加減でいいと思う。
米を水に浸けるのに、冬は1時間、夏は30分と言われているが、できればその倍は浸けてほしい。
お米の中にしっかり水が浸透します。
水が熱伝導の役割をして、しっかり熱が行き渡って結果として、でんぷんがもっちりと仕上がる。(アルファー化米
水に浸けておいた方が、でんぷんを糖化するアミラーゼが活発に動くといわれていて、水に浸けておくとそれだけで全然違います。
炊飯器は水を浸けないことを前提に設計されている事が多いので、浸けたものを普通のモードでやると間違えるかもしれないのでモードの確認が必要です。
土鍋も結構いいと思います。
お米は精米した時点から酸化が始まります。
できれば空気を密閉した状態で低温で保存するといいと思います。
お米は呼吸しているので、呼吸すると養分が失われて行くので、呼吸しないようにした方がいいと思います。
玄米は保存していると臭いが付きやすいので気を付けてほしい。
地域が発展するように一つの商店として頑張っていきたいと思います。
稲作文化を守る最前線にいると思っているので、少しでも寄与できればと思っています。




















2018年9月15日土曜日

延原武春(日本テレマン協会音楽監督)   ・大阪からバロック音楽を広めて55年

延原武春(日本テレマン協会音楽監督)   ・大阪からバロック音楽を広めて55年
この楽団はステージのある大きなホールではなく、室内楽にふさわしい場所を求めて演奏活動行って来ました。
大阪、船場の大正末期に建てられたレトロなビル大阪倶楽部の一室や、阪神間の閑静な住宅街にあるカトリック夙川教会の聖堂、大阪中之島にあるレンガ作りの大阪市中央公会堂などで定期的に演奏会を開催しています。
17世紀から18世紀にかけて活躍した作曲家、ゲオルク・フィリップ・テレマン(Georg Philipp Telemann) このテレマンに魅せられた延原武春さんが、室内楽団や合唱団を立ち上げて音楽活動を続けて来ました。
今年活動を続けて55年になります。

バロック音楽、1700年代に入ってからのバッハ、ヘンデル、テレマン、ビバルディーを中心に始めた楽団です。
特にテレマン 有名な作曲家です。
いままでの作曲家で一番沢山曲を作った人と言われています。
ヘンデルとはライプツィヒ大学時代からの友人です。
バッハとも交友関係が長く、バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの名付け親にもなった。

私は小学校の頃、絵とヴァイオリンを習っていました。(戦後間もない頃)
中学ではコーラス部を立ち上げたりしました。
ヴァイオリンはあまり一生懸命ではなかったが、オーケストラを立ち上げてた時に役に立っています。
大阪音楽大学付属高校に入って、宮本先生から大笛を始める様に言われて始める。
クラリネットに似ているが、2枚リードになっていて難しい木管楽器です。
リードを自分で削って作らなくてはいけなかった。
リードは葦(フランスのある場所で取れる葦)
毎日8時間位勉強しました。
そこでテレマンの楽譜と偶然に出会うことになりました。
テレマンの研究会を作ってテレマンの事を調べだしたりしました。
バロック音楽に魅力を感じました。
外交官のお別れなどの会で呼ばれて、演奏して素敵な経験を何回かしました。
大阪音楽大学に入って、テレマンアンサンブルを結成し、本格的な活動を始める。
1963年 始めて外で演奏会を正式にしました。(名古屋)
大笛、リコーダー、チェンバロ、チェロ 4人でやりました。

根拠地となったライブハウスが、伯母がやっていたバーのような店をやっていて、そこを強引にバロックが出来るスナックにしたいと言うことで、チェンバロを置いてやりました。
本当に酒を飲みながら聞いてくれる人が聞いてくれるのだろうか、ちゃんと生活に結びついてるのだろうかとか、自分で実験したかったが沢山のお客が来てくれました。
しかし、店の経営は回転が悪くて駄目でした。(2,3年は続いた)
仲間も増えてきて、津村別院に理解あるお坊さんがいて、バロックをやってもいいと言うことで、チェンバロを運んで月例会を行いました。
その後人も増えてマネージメント出来る様な体制を作りました。
合唱団も作る事になり昭和44年に、バッハの作ったカンタータという宗教音楽をやってみたかった。
大阪テレマン協会になり、1979年には日本テレマン協会になる。
日本と言うふうに名前を付けた方が動きやすいということで日本テレマン協会としました。(ほかにも理由があるが)
教会ではなかなか演奏会はさせてもらえなかった。

1980年代は外国からやって来るアーティストとの共演も増えた時代でした。
1984年12月にライプツィヒのゲヴァントハウス・バッハオーケストラを、1985年にズール・フィルハーモニー、1989年にはライプツィヒ放送管弦楽団を客演指揮しました。
ヨーロッパでは産業革命以降、沢山のオーケストラが出来ました。
1990年ぐらいから古楽器を使おうと言うことで、日本テレマン協会でもやり始めました。
援助もして貰いながら楽器を集めて、できるようにしました。(大変だったが)
1995年にはほとんど集まりました。
2015年から中之島にあるレンガ作りの大阪市中央公会堂の集会室で演奏会を始めました。
ヴェートーベンのピアノ協奏曲が5曲あるが、それを全部やりたいと言うことで、探して中央公会堂の集会室でやったらすごくいい音がしたんです。
天井が高いのと響きが良くて、大正時代に建ったというのが凄いですね、宮殿のようです。(建て27m 横35m)
演奏者のステージとお客さんが同じ床面。

ヨーロッパでは凄く古楽器が盛んで、館、教会、お城などが有り盛んになります。
中之島ではいい場所が有ったと思っています。
中之島を中心にもう一回新しい文化を上げたいと思います。































2018年9月14日金曜日

桜沢エリカ(漫画家)          ・人生55(GOGO)!

桜沢エリカ(漫画家)          ・人生55(GOGO)!
東京都出身、55歳 10代でデビューして以来、コミック誌やファッション誌などで活躍、1990年代に発表された「メイキン・ハッピィ」で人気漫画家としての地位を確立しました。
時代や社会の制約に負けず、しなやかにしたたかに生きるヒロインの姿に声援を送るファンも多く、女性の気持をリアルに表現した作品には定評があります。
そのほか、猫との生活を描いた「シッポがともだち」や、「もふっ・とさせて」ご自身の出産、育児といった経験をもとに描いた「今日もお天気」など、エッセー漫画も桜沢さんのプライベートを垣間見えると好評です。
最近では趣味やファッションにまつわる記事を発信するブログなど、活躍の場を広げています。

よく続けてきたなという感じがします。
平成前後のバブル期は謳歌していないです。
その頃の代表作が「メイキン・ハッピィ」です。
宝くじが当たって、豪邸を経て東京に戻ってアパートに戻るがそこから又一歩踏み出してゆく。(主人公が女性だったからよかったのかもしれない)
お金よりも大事なものが有るのかもということ、最終的に残るものはなんだろうと言うことですかね。
その後飛ばして書いたが、失恋とかあって落ち込んで半年休業しました。(30歳前位)
その間に貯金を使い尽くしてしまった。
働いていたからお金が有ったんだと気が付きました。
そこから生きて行くために書くんだ、という方向にチェンジしました。
その5年間ぐらいは辛かったです。
その後結婚して子供が授かって、子供のためにとかということで辛いという気持ちが無くなりました。

現在「こまどりの詩(うた)」を週間誌に連載。
20代の女の子が主人公。 母親、おばあちゃんに遡って行く。
その前が「スタアの時代」 昭和の映画スターを主人公にして書いている。
女性週刊誌らしいものをと思ったが、今では考えられない様なお金の使い方とか色々なエピソードが出て来ます。
「スタアの時代」の1,2,3巻は高倉健さんと江利チエミさんを中心にお話を作っています。
義理のお姉さんと一緒に住んでいて、そのお姉さんに邪魔をされて高倉健さんと離婚したんです。
本当の原因が何だったのかはわからないところが多くて、創作して書いた部分もあります。
週刊誌は毎週流れて行くので「つづく」でいいんです。
一番難しいのが背景(風景、小物、着ているものなど)で、資料を集めてやっています。
黒電話の実物を買ったりしました。
男性のズボンの履き方の位置も昔よりも下がってきています、そういったことも注意しています。
水、木、金で仕事をしていて金曜日にアップします。
夫には家事の事を色々やってもらっています。

夫とは5年付き合ってきて、子供が授かり結婚することにしました。
専業主夫としてやってもらっていますが、当時としては目立ちました。
私は子供におっぱいをやっただけで、後は夫に全部やって貰いました。
今は猫が3匹いてエッセー漫画を描きました。
仕事は自分の為だけにやっていたら息詰まりすね、誰かの為でないと続けられないのかなと思います。
上の子が小学校卒業ぐらいでエッセーを止めました。(今は18歳)
男の子は優しいと思います。
夫は3年前から友達のカレー屋さんの手伝いをするようになりました。(週1~2、3日)
ベビーシッターも始めて、5歳児から大人気だそうです。(才能かも)
子供に手がかからなくなって、夫は持て余してジムに行っていたりしていました。
夫はお金も稼ぐようになり旅行に連れて行ってもらったりしました。

私の趣味はバレイ、歌舞伎などの観賞。
バレエに関する漫画も描いています。
若いころはセックスシーンを描くのが有る意味楽しかったが、今はバレエを描くのが好きです。
和服も好きです。
3年前にお茶を始めて和服にのめり込みました。
20歳で着付け教室に行ったりして、30代になる頃に友人が着ているのに触発されました。
妊娠して着物との付き合いは無くなり、40代にはいった時に地味な訪問着などを作りました。
3年前にお茶を始めて又、和服にのめり込みました。
お茶はそのことに集中して無になれるので面白いです。(日常の生活と切り離せる)
今の目標は60歳で赤い振袖を着ることかもしれない。(20歳で振りそでを着れなかったから)
知られざる人にスポットを当てたものを書いてみたい。






























2018年9月13日木曜日

桑田ミサオ(笹餅製造販売業)      ・75歳で起業・やればできた、私の会社

桑田ミサオ(笹餅製造販売業)  ・75歳で起業・やればできた、私の会社
1927年昭和2年生まれ 91歳、笹餅は笹の葉で包んだ素朴な餅菓子ですが、桑田さんが本格的に笹餅作りを始めたのは保育所の用務員を60歳で定年退職した31年前の事でした。
きっかけは農協婦人部から局売所での農産物の出品を誘われたことでした。
人に買っていただける商品を出す事になり、桑田さんは改めて母親から笹餅作りを習い直します。
或る時特別養護老人ホームの慰問に誘われお餅を持って行った処、お年寄りたちが涙をながして喜んでくれたと言います。
桑田さんはこんなに喜んで頂ける笹餅作りを一生続けようと思います。
75歳の時に総菜や菓子製造業の許可を取り、一人で会社を立ち上げます。
79歳の時には赤字続きの地元津軽鉄道の支援活動に車内販売で協力、歌う笹餅売りのおばあちゃんと評判になります。
84歳の時、農山漁村の地域を元気付けたということで、農林水産大臣賞を受賞します。
笹餅は人と人とのつながりを広げ、桑田さんにさらなる飛躍をもたらすことになりました。

餅は見た目羊羹のような感じで、半分こしあんを使っています。
粘り気があり、笹の葉の香りが少しします。
母から教わったものから工夫して作りました。
「1を聞いたら10覚えなさい」と母から言われました。
母の言うとおりにやっても食べ物の時代が違ってきていると思って、自分なりに工夫しました。
元々は端午の節句に食べる餅でした。
ひ孫がいますが、今一生懸命習っています。
保育所の用務員を60歳で定年退職して、調理師の免許も取りました。
「までなお餅」 までだなあ→丁寧に作っている。
小学4年生に教えたりしていますが、上手に作ります。

最初笹餅ではなく、農協婦人部から頼まれ赤飯、大福餅などを作っていました。
或る時特別養護老人ホームの慰問に誘われ、あわ餅を120個作って持って行きました。
あわ餅を食べてねといったら、いままでにこにこしていたおばあちゃんが下を向いて涙を流してくれました。
自分で作ったのを思い出したのかもしれません。
これからずーっと作ろうと思ってお餅作りを始めました。
販売には許可が必要で、一定の設備も必要です。
段々評判が良くなってスーパーストアなどから頼まれて、ちゃんとした加工場が必要ということで許可を取り、一人で会社を立ち上げます。
地元津軽鉄道が赤字続きで、すこしでも役に立ったらと思って入りました。
電車の中で販売も担当しました。
お客さんから「津軽平野」を歌ってほしいと言われましたがそれは歌えないが、「津軽じょんがら節」なら歌えると言いました。
歌う前から大拍手を受けました。
なんて言って歌ったらいいのか判らず考えた時に、岩木山を歌おうと思って「津軽平野はお山で飾る、今日の皆さん手拍子で飾る、私この場を歌っこで飾る」と即興でやり一曲歌えました。
大拍手を受けました。
その後津軽民謡を習うことになりました。

84歳の時、農山漁村の地域を元気付けたということで、農林水産大臣賞を受賞します。
賞を受けた翌日に東日本大震災が起こりました。
自分に何かできることは無いかと模索しましたが、心配で体調を崩してしまいました。
植村教授からお見舞いの電話があり、涙が止まりませんでした。
お餅を送りました。(食べた学生さんから御礼の手紙をいただきました。)
久慈高校、陸前高田高校(600個位)、山田高校とか被害の大きかった高等学校に千羽鶴ならぬ千個餅を送りました。
6km位ある所に自転車で笹を取りに行ったりしていましたが、熊が出るということで控えるようにして他の人に頼むようになりました。
入る学校があれば入って勉強したい、そう思います。
遠慮が有ったが今はみんなが私に対して恵みの態度で接してくれるから、怒りとか悩みとかないです。
お客さんから聞いたり話したりして、得るものがありますし、これからも気持ち次第で人生充実していきます。
セミナーに呼ばれて学生に何を求めるかということが有ったが、母から生まれていろんなことを経験して、母から学んだことを言って、最後に皆さんには能力、実力が有ります、これからどうか幸せな人生を得ることを念じて私の話を終わります、と言って帰ってきました。
生徒さんからメッセージをいただき、私も母が大好きでこれから色んな事を母と話をして、子供の親になった時に誇れる親になりますとの内容があり、それを見て泣きました。





















2018年9月12日水曜日

宮脇 修(フィギュアメーカー創業者)   ・九十にして夢見る小僧

宮脇 修(フィギュアメーカー創業者)   ・九十にして夢見る小僧
2001年には卵型のチョコレートのおまけ食玩が大ヒット、その作品は国内だけでなく海外でも人気をあつめクールジャパンと呼ばれる新しい日本の文化となっています。
高知県黒潮町の出身、青春時代は15歳で職を求めて旧満州に行って終戦を迎えました。
満州ではB29による空襲や、敗戦国となって外国人から襲撃を受けるなど、日本に引き揚げるまでに、常に命の危険を感じながらの生活だったということです。
その時代を生き抜いたことが、何事にも前向きに取り組める原点になったと言います。
日本に引き揚げた後は、職が安定せず36歳で起業しました。
一代で時代の最先端のフィギュアメーカーを築きあげた原動力は、子供のような純粋な気持ちを忘れず、夢を描き続けることだと話しています。
90歳になったいまも、新しいことに取り組む宮脇さんに伺います。

たえず新しい試み、一つの夢を次々に果たしていきたいと思います。
冒険する心、自分が90歳になって餓鬼(子供)になったと思います。
6年生の時に父親が病気になり、14,5歳で朝3時~7時ごろまで漁業の網上げをやってそれから学校に行きました。
帰ってくると網の準備などをしていました。(今までで一番仕事をした時代だった)
性格はガキ大将で悪かったと思います。
楽しみは魚、獲物を取った時の感動でした。
満鉄は中国の東北地方にあり、そこは給料が良かったので、満鉄に行こうと思いました。
少年雑誌で見たゴビの砂漠で馬族の大将をやっている日本人がおり、それに物凄くあこがれました。
この二つの理由で満鉄に就職しました。

満州製鉄に出入りする単純な記録係をしました。
一番怖かったのがB29が重慶から100機位飛んできて、1トン爆弾を落とすわけです。
二回目の時には直撃を受けて防空壕の近くに1トン爆弾が20個位落ちました。
首が飛んだのを見たり、先輩の背中に火が付いてそれを消したりしました。
ただ恐怖だけでした。
ロシア軍の侵攻、国民軍の侵攻が有り、略奪が有りました。
日本人であるという誇りだけは持っていたので、生きなければいけないという思いでした。
日本に帰れるかどうかが心配でした。
引き揚げるまでは給料は貰えました。(ソ連の荷物運びの手伝いをやらされました)
ソ連が略奪したものを持って帰る作業の手伝いだった、というこは後で知る訳ですが。
先輩たちは抑留され連れて行かれました。

満州から日本に戻り職を転々(30位の職)として、昭和40年ごろ家族もできて、30代半ばで当時流行していたプラモデル店の開業を思い立つ。
大阪に広さ5平方メートルの小さな店を始め、「海洋堂」という名前にしました。
子供達を楽しませるアイデアを次々次に実現させてゆく。
子供達が喜ぶことが商売の第一条件です。
たえず新しい夢を追ってお金をつぎ込むので、経営という話にはならないわけです。
2001年には卵型のチョコレートの食玩が大ヒットする。
現在では年商25億円となる。
原型師の作った作品に僕は全部名前を入れた、それが原型師の始まりです。
ものつくりは不器用でもできる、待つという事、それをするといいものが出来て来る。
昔はお寺に泊って食べさせて、泊った人に絵を描いてもらったりして、日本全国のお寺の襖絵などになっているので、それを真似てフィギュア作りにやって見ようと思って、全国からものつくりの子が来て何日か泊って出て行く。

信頼関係が一番で、評価されると言う事、みんなで喜べるという形になる。
もう会社は大きくしなくていいと思っている。
有る金で上手くやりくりしようと思うと夢が小さくなってしまう。
90になって人生楽しい、反対する人がいないから。
これからどれだけ生きられるか判らないが、生きていたら何かしないと申し訳ない。
90歳になると明日死ぬかも知れないが、あれしようこれしようと思って夢を持っていたら死も怖くは無い、そう思う。
生きている限りは、特に歳を取ったら、それを世の中の人達に自分の知識なり、経験なりを還元してゆく、一つも残さないようにやっていけたら最高だと思う。

































2018年9月11日火曜日

古庄紀治(染織家)            ・藍染に生きる

古庄紀治(染織家)            ・藍染に生きる
70歳、藍染の青は古くから生活に密着した、すがすがしい色として親しまれてきました。
江戸幕府は庶民の着る物の色を制限しましたが鼠、藍、茶は例外としたため、渋くて美しい藍色が様々に工夫されました。
藍色は多くの植物から染めだされますが、なかでも蓼藍(たであい)は桃山時代から阿波地方で栽培が盛んとなって、徳川家御用の高級品から庶民向け物まで生活用品に幅広く使われてきました。
所が明治に入って化学染料の流入によって、植物染料の藍の利用は一気にすたれてゆくことになりました。
そんな中で徳島市の古庄家は代々植物染料の藍を使った藍染めに取り組み、6代目の紀治さんも昔ながらの手法による藍染めを受け継いでいます。
特に紀治さんは難しいと敬遠されていた絹の藍染めを復活させ、国から現代の名工に、徳島県からは無形文化財保持者に選ばれています。

藍染めの注文が増えて来ましたが、藍を知らない人からの注文が多いので、日にちが間に合わないということが多いです。
せめて1カ月半ぐらいが欲しい。
オリンピックの影響が強いと思う。(オリンピックのマークが藍の色に指定された)
戦争中に食べ物しか育てなくてはいけないということで藍は1年草なので種を育てるが大変だった。
戦後は食料優先で後回しにされた。
私は次男で継ぐ気持ちは無かったが、回り回って継ぐことになりました。
継ぐにあたって全国の染めている家を回って、目は肥えました。
絹は触るなよということは言われました。(絹は染まりにくい)
阿波藩の城主が徳島の藍以外を継ぐはずは無いと思って、藍色の昔のやり方を勉強しました。
そうすると生地を選ぶが、染まるようになりました。

現在やっている方法は江戸中期のやり方です。
天然藍でやると染まり具合を自分の意志で調節ができます。
天然藍は繊維の間に入って行きやすい。(深く染まる)
人工だと表面につきやすい。
木綿、麻などを天然で染めると10g位重くなる。(500g位に対して)
そうすると強さが増してくるし、虫が寄ってこない。
樟脳の代わりに藍の風呂敷で着物を包むと言うことをしていました。(防虫効果)
個人差はある様ですが、アトピーの皮膚表面に弱い子供達にも効果がある。

藍の原料 すくも 藍の葉っぱを腐葉土にしたようなもので色素が入っています。
アルカリの液でないと溶けださないので、木の灰の上澄み、石灰、糖蜜、強力粉を使っています。
以前は酒を使っていましたが、ドバイの方の注文で酒は使わないで染めてほしい(宗教上)ということが有り糖蜜、強力粉でやっています。
江戸時代京都では上職人がお公家さん侍、下職人は町人のものを染めていました。
上職人が酒を使っていた。 下職人はふすまなどを使っていた。
徳島では酒の搾りかすと糖蜜を使っていた。
1週間から10日掛けて作ります。(その1週間前から色々準備が有ります)
藍の特徴が一番出しやすいのは絞り染めだと思います。
絹を染める時には木綿を染める時よりも少しアルカリの度合いを低くします。
絹の素材が関係してくる。
絹の繊維の中にたんぱく質・フィブロインという成分が有り、そのふちにセリシンというものがひっついていて、藍はそのセリシンに付くわけです。
セリシンを取ってしまっている方が、くさび染めとか化学染料で染める時には綺麗に染まります。
ですからセリシンを取ってしまった布が多い訳です。

10分と30分浸けるとでは藍の濃さは違います、30分をめどに染めて行きます。
12分以上浸けた方がむらができにくい。
藍色を濃くするためには繰り返します。
木綿、麻は色がきれいになるまで時間がかかります(6から8分位)、絹は時間が短い(1分30秒から2分位)。
それ以上長いと下が濃くなって、短いと上が濃くなる。
技術的には絹は難しい。
45年藍染めをやっていますが、防染方法も常に新しい技術が出来ているので、それを試さなくてはいけなくて勉強しなくてはいけない事が沢山あります。
抜染という色を抜く方法、無地の布を紺に染めたものに対して模様を型で糊をおいて、日光に当てて色を抜く方法があるが、6年ぐらいで出来て来ました。
レーヨンを染めるのに染まらない様なレーヨンが出てきたりしています。
ナイロンはよく染まるが、ポリになるといくらやっても染まらない。
染まらないレーヨンはポリ系の再生繊維だと思う。
染まらないものは大豆を摺って、その絞った液を布に塗って染めていたが、早く良く染まっていたが、レーヨンにそれをすれば染まるかもしれないが、はがれる可能性がある。

徳島のすくもが少なくなっているので、それをなんとかしないといけないと思っている。
藍の苗を作る人が少なくなってきている。(高齢化、機械化もされていない)
買った物を使ってもらった方が色が綺麗になる(不純物がなくなって行く)ので使ってもらいたい、置いておくと焼けたりする原因になる。
天然藍は折った所が色あせても戻ってくるが、化学藍は戻ってはこない。
沼津の灰の入手も難しくなってきています。
バイオマスの灰が上手く利用できれば安心ですが。
藍の色を出す方法も沢山あるので(薬品、天然等)、ものによっては色が直ぐ抜けてしまうことが有るので、聞いてからにした方がいいと思います。


















2018年9月9日日曜日

桜庭吉彦(釜石シーウェイブス GM)  ・【"2020"に託すもの】楕円球にのせた釜石の夢

桜庭吉彦(釜石シーウェイブス GM)  ・【"2020"に託すもの】楕円球にのせた釜石の夢~ワールドカップ・ラグビーまであと1年~

身長192cmです。
ポジションは前から2列目、押しと空中戦を求められる。
1966年9月22日 秋田県生まれ。
秋田工業高校、3年生で全国高校ラグビー花園優勝。
前年度まで日本選手権7連覇を達成した新日本製鐵釜石製鉄所に入社。
同製鉄所に勤務しながら、法政大学通信課程を卒業。
1986年からは日本代表にも選ばれ、W杯にも1987・1995・1999の3大会に出場した。
2001年に新日鐵釜石は「釜石シーウェイブス」となり、2002年ヘッドコーチに就任。
いっとき現役復帰するが現在は監督。
2019年のワールドカップのアンバサダーも兼任。
アンバサダーはより多く皆さんにラグビーを知ってもらう役割です。

ワールドカップは2019年9月20日から11月2日まで行われます。
大分盛り上がってきています。
釜石市ではスタジアムもできて、間近に迫ってきているという感じです。
被災地では唯一震災からの復興を世界に発信するいい機会にもなると思います。
人口は3万5000人です。
スタジアムを作った所一帯は非常に被害が大きかった地域で、地元の小学校と中学校が建っていたところでした。
手に手をとって高台に避難をして、子供たちは一人も犠牲者を出さなかった、釜石の奇跡と言われている地域です。
3・11の時には事務所で地震を迎えました。
揺れが今まで経験したことのない揺れで、大津波警報が発令されて川を上がってきた津波があふれて、駅前は50cm位でしたが車が取り残された人を引き上げる手伝いをしました。
まずは生活をいかにして行くかが第一歩でした。

チームメイトの家族が被災したりしているので、何か出来ることは無いかということでスタートしました。
ボランティアをする中で、ラグビーで勇気付けてほしいということでチームで活動することになりました。
釜石に何か未来に残すものとして、ラグビーワールドカップ招致に繋がっていったと思います。
ワールドカップ第3回の時にニュージーランドに17対145というスコアで負けた試合が本当に悔しかったです。(1995年 南アフリカで行われる)
でも得たものも多かった。
振り返ってみるともっと自分たちで出来ることが有ったというのが一番悔しいです。
精神的なものがあったと思います。(闘争心とか)
スタジアムで彼等は歌を歌うんですが、それにも圧倒されました。
家族が、地域が一つになれる場面かと思います、釜石では是非そうしたいと思います。

ラグビーを始めたのは高校2年生からです。(それまでは野球のピッチャー)
当時身長は190cmありました。
僕にとっては大きいボールが合っていたと思います。
最初からポジションはフォワードで、走るのは早くはなかったです。
高校のコーチに言われたのは、「フォワードというのはお姫様を運ぶ馬車でいいんだ」と言われました。
そういう思いでプレーしてきました。
ラグビーが本当に好きになったのが、新日鉄釜石が7連覇をする前の前座の試合で、高校の東西対抗で試合をした時でした。
その時に釜石の応援団がスタンドから非常に熱い応援をしてくれました。
凄いエネルギーが出てきて、楽しくラグビーを無我夢中でした瞬間でした。
1985年から新日鉄釜石に入りました。(7連覇の翌年)
新日鉄釜石は7連覇をして、地方の人達に勇気を与えるチームだったと思います。

冬は実践的な練習ができなかったとかのハンディーはあったと思うが、むしろそれを強みにするような心構えとか取り組みが、強さに繋がって行ったと思います。
逆境の中でこそ付く力が有ると思っていて、苦しい場面、逆境の中で取り組んで得るものがあって、それが今でも生きていると思います。
2001年から「釜石シーウェイブス」となりました。(クラブチーム)
2005年現役に復帰(39歳)、自分が先頭に立ってチームを鼓舞したいと思いましたが力不足でした。
釜石のラグビーはひたむきなラグビーだと思います、倒されても倒されても起き上がって前に進んでいく、これだと思います。
現在「釜石シーウェイブス」はジャパンラグビートップリーグの2部にあたるジャパンラグビートップチャレンジリーグに所属しています。
今シーズンはワールドカップに向けた最後のシーズンなので、4位以内に入ってトップリーグの入れ替え戦に出場することが目標で、あわよくば勝ってトップリーグに名を連ねることがベストだと思います。

選手を集めてきて多様な選手を纏めて行くのは大変なことですが、一方で釜石だから出来ることでもあるので、魅力あるチームになって行く事は日本のラグビー界にとっても貴重な存在になって行くと思うので、是非いいチームを作っていきたいと思います。
来年のワールドカップには海外からもワールドカップを見に来ますので、主体的に参加することでラグビーワールドカップは成功に繋がって行くと思いますので、是非一人一人が主役になってワールドカップに参加してほしいと思います。





























山下泰裕(全日本柔道連盟会長)      ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言

山下泰裕(全日本柔道連盟会長)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言

山下泰裕さんは現在61歳、熊本県出身、熊本九州学院から東海大学相模高校に転校、東海大学に進学し、全日本選手権9連覇、3回の世界選手権とロサンゼルスオリンピックは金メダルを獲得。
その間、対外国人選手には無敗を含めて、28歳で引退するまで203連勝を続け、アマチュアスポーツ界で初めて国民栄誉賞を受賞しました。
2016年2月のアンコール放送。

12月中旬にブラジルに出張しました。
リオオリンピックのオリンピック村、試合会場などの視察に約90名のメンバーで訪問しました。
現在の肩書きが東海大学体育学部教授,副学長、理事、全日本柔道連盟副会長兼強化委員長、JOC理事で強化副本部長、日本のナショナルトレーニングセンターのセンター長など。
2020年の東京オリンピックまでは腹をくくってやるが、それ以後は若い人にバトンタッチしたいと思います。
いい形で強化は進んでいると思います。
今と未来に生きる自分でありたいと思っています。
現役を辞めた時には、数十年後に私が亡くなった時にはあの山下はオリンピックでも勝っていたんだと、言われるぐらい次の人生を頑張りたいと思いました。
でも不可能だと思いました。
いつも紹介の時には金メダルを取ったことと、国民栄誉賞で終わるんです。

1980年モスクワオリンピックは日本は不参加。
その前のモントリオールオリンピックは高校3年生で補欠でした。
世界選手権は79年のパリ、81年のオランダ、83年のモスクワ、3つの世界選手権の95Kg超級は3連覇、全日本選手権も8連覇中だったが、ロサンゼルスオリンピックは27歳の時で絶頂期ではなかった。(体力的にも落ちてきていた。)
モスクワオリンピック当時が一番良かった時期でした。
ロサンゼルスオリンピック大会は231人の日本選手団のキャプテン。
公式戦は連勝記録が194連勝を続けていた。
やることをやりつくしてこれが最後のオリンピックになるだろうと思っていました。
60kg、65kg級で細川選手、松岡選手が金メダルを取り、それ以後4つの階級一つも取れずにいた。
その後95kg超級斎藤選手が金メダルを取る。

私は無差別級に出場、15名が参加。
1回戦は試合開始27秒大外刈りを返しての一本勝ち。
2回戦で西ドイツのアルトゥール・シュナーベルと対戦、2分50秒寝技で勝利。
一礼したあと、足を引きずる。
内またを仕掛けた時に軸足である右足に痛みが走って、肉離れを起こしてしまった。
得意技は右足一本で支えて相手に技を仕掛けるので、私にとっては非常に厳しかった。
準決勝の相手はフランスのデル・コロンボ戦、(過去全て一本勝ちをした相手だった)
10cm背が高い相手で、奥襟を取られて肩から倒れて「効果」を取られてしまう。
無意識に体が反応するはずだったが、けがをした足が動かなかったから棒立ちで受けて相手の大外刈りをもろに食らってしまった。
「お前が一生懸命頑張ります、頑張りますと言ってきた頑張りはこの程度のものか、足をけがしてこんな無様な試合をするためにオリンピックに来たのか」と、こんな声が私の内側から聞こえて来ました。
この程度の足のけがで負けてたまるものかと、鬼のような顔をして立ち上がって行ったと思います。
私の本能の叫びだと思います。
そこから相手は守りに入って行きました。
大内刈りと横四方固めの合わせ技で逆転した。(2分10秒)

決勝は巨漢エジプトのモハメド・ラシュワン選手。
ラシュワンのコーチは「初めの一分間は我慢して攻めないように」とラシュワンに指示したそうです。
師匠の佐藤先生は「投げられても一本取られなければいい、寝技に持ち込んで勝つ方法もある」と冷静にアドバイスする。
又「この試合で俺と思えの師弟関係は最後にしよう。」言う話が有りました。
「現役最後の試合と思って行け」と先生は言いたかったんだと思います。
いかに戦うかというしかなかった。
払い腰をし掛けてきた時に無意識に身体を開いてかわして、ラシュワン選手の身体が崩れる。
その瞬間を捉えて押さえ込みに持っていき、横四方固めに入り一本勝ちで金メダル獲得する。
中学2年生の時に「将来の夢」という作文の中で一生懸命柔道に励んでオリンピックに出て日の丸を仰ぎ見ながら金メダルを、というのが俺の夢だと言うようなことを書きました。
自分の夢が現実になった瞬間でした。
あーっ俺は世界で一番幸せな男なんじゃないかなと心の底から思いました。

1984年10月9日にはこれまでの活躍が高く評価されて国民栄誉賞を授与されました。
1985年4月には最後となる全日本選手権に出場して、決勝では斉藤仁選手が相手。
判定勝ちして、全日本選手権9連覇を達成した。
斎藤選手は去年に亡くなってしまって残念です。(2015年1月20日に亡くなる。)
自分の夢、目標が明確であった、それは極めて大事なことだと思います。
身体が自らその方向を向いて行動をし始める。
なすべきことがなんなのかということが見えてくる。
素直な心を持っているといろんな人から色んなことを学ぶ事が出来る。
恩師の佐藤先生はマスコミに「何か教えると山下は吸い取り紙が水を吸い込むように吸収して行く」と言っていました。 
中学の時の恩師は私に常に高い目標を設定しました。(高校生では全日本に出ろとか)
「普通の人間は10教えて4か5吸収する方がいい方で、6つか7つ位吸収うするのがなかななかで、お前は俺が10言ったら12吸収した」、と言っていました。
素直な心で聞き、流されないで自分の考えを持っていることが大事。

自分が目ざしているいただき、選手時代にこんなものではいかんこんなものではいかんという思いが、現役を辞めて初めて自分が登って来た道を振り返って、こんなに頑張ってこんな結果を残したのか、いや俺自分をほめてもいいんじゃないかと現役を辞めた時に思いました。
自分で現役と引退後で自分の評価は変わりました。(引退が28歳)
現役を引退して
①全ては終わった、これから全てゼロからのスタートだ。
②柔道の指導者として生きて行きたい、自分の手で世界に通用する選手を育ててみたい。
③柔道日本の復活に微力を尽くしたい。
④選手山下の頑張りだけには負けたくない、選手山下以上の情熱と創意工夫で第二の人生を生きて行きたい。
その後30年間頑張ってきたが、選手時代に貫いてきた生き方の過去は振り返らない、今とこれからに生きる自分でありたい、という思いは私自身の人生に対する姿勢は選手時代も今も変わらないのではないかと思います。
私が一番大事にしているのは「活き活きと生きる」なんです。
ただがむしゃらに頑張るのではなく、じっくり考えることも大事です。
ありのままの自分で生きて行きたい。
人間は人生を通して成長し続けること、学び続けることができると言う思いがあるので、自分の生き方に繋がってきているのかもしれません。



























2018年9月8日土曜日

9/6 9/7日 9/8は中止

北海道で地震が発生し、その臨時ニュース報道及び雨天情報等の為、9/6 9/7 9/8の明日への言葉は中止になっています。

「6日午前3時7分頃、北海道南西部の胆振(いぶり)地方を震源とする地震があり、厚真(あつま)町で震度7を観測した。
厚真町では大規模な土砂崩れが起きるなど、9人が死亡,305人が負傷し、行方不明者や連絡が取れない人は28人に上る。
道内のほぼ全世帯の約295万戸が一時停電、今日時点で約1/4余りが回復、完全復旧には1週間ほどかかる見通し。
震源の深さは37キロ、地震の規模を示すマグニチュード(M)は6・7と推定される。
今回の地震は、地盤が押されて上下にずれる「逆断層型」の直下型地震で、2004年の新潟県中越地震と同じタイプ。
「平成30年(18年)北海道胆振東部地震」と命名した。」

亡くなった方へのご冥福と、出来るだけ早く復興されることをお祈りいたします。

2018年9月5日水曜日

蜂谷久美子(シベリア抑留者の娘)     ・2人の妻と生きた父

蜂谷久美子(シベリア抑留者の娘)     ・2人の妻と生きた父
73歳、終戦の年現在のピョンヤンで生まれました。
その一年後に父弥三郎さんが家に突然乗り込んできた旧ソ連兵に連行されてしまいます。
「何も悪いことはしていないから直ぐ戻る」、そう言い残した父弥三郎さんはついに家に帰って来ませんでした。
弥三郎さんはスパイ容疑をかけられ、シベリアの強制収容所に抑留され過酷な日々を過ごすことになります。
久美子さんと母の久子さんは戦後の混乱期を必死に乗り切り、シベリア抑留から引き上げてくる人の情報を探し続けました。
しかし、消息はつかめないままでした。
ところが終戦から50年が経ったある日、弥三郎さんがロシアで生存しているという情報が突然と入り、事態は大きく動いていきます。
半世紀に渡り父と離れ離れの生活を余儀なくされた蜂谷久美子さんに伺いました。

母が亡くなって8年父と一緒に過ごしましたが、日本でも18年間過ごせました。
最新医療の病院で亡くなり、父も本望では無かったかと思います。
思いだすのは自分が良き時代に覚えた歌であるとか、口ずさみました。
一緒にいて私も覚えてしまいました。
口がほとんどきけなくなった状況でも「久美子、久美子」と言って私の手をしっかり握って感謝の気持ちを伝えました。
最後娘と一緒に暮せたことは嬉しかったのではないかと思います。
父については小さい頃の記憶は全く残っていません。(別れたのは1歳の頃)
母に育ててもらって大学にまで行かせてもらいました。
母の口癖は「どんな状況になるか判らないから、一人でも生きれるように資格などを取っておかないといけない」とずーっと言われました。

1995年ソ連が崩壊したが、それまで父はソ連から監視された状態だった。
1995年ごろに日本につてのある人を探して、その人に自分はこうこうですと言うメモを託しました。
その人が日本に帰って来た時に、本籍の滋賀県草津市に持っていかれました。
向こうからうちに連絡がありました。
翌年に私と主人とで会いに行きました。
ハバロフスクから又飛行機に乗り継いでいったら、父が空港に来ていました。
一瞬抱きあい泣きました。
日本語でしっかり話ができ嬉しかったです。
日本語を忘れまいと百人一首、教育勅語、日本の歌などで忘れまいとしたそうです。
深夜放送で「おしん」を欠かさず聞いていたそうです。
いつかは帰りたいという思いが有ったそうです。

裁判が有り、実刑が下り10年の刑が下って強制労働にでるなかで、それが非常に苦しかったようです。
そんな状況の中でよく生きられたなあと思います。
理髪、指圧の仕事を覚えたりしながら、ソ連の人達から信用を少しずつ得ながら生活していたようです。
日本から何年もたってから小包が届いたようで、その中に私たちの写真が入っていて、日本に帰ってるんだと言うことが確認できたようで、本人もいずれ日本に帰りたいと強く思ったようです。
再会したその日の夜には、お土産を渡したり母からの手紙、友達の手紙を渡したりしました。
日本の歌のカセットテープ等も準備していきました。
日本で暮らしていた当時のことなど一晩中話し合いました。

母からの手紙にはずーっと今まで生きてきた状況が書いてあり、最後に一度顔をみせてくださいと最後に書いてありました。
父はロシアで知り合ったクラウディアさんと結婚していました。
35年も一緒に過ごしていました。
父は「ここで最期を迎えさせてもらいたい」という話をするんです。
私達が帰国する前の日に、クラウディアさんが「日本に帰った方がいいんじゃないか」と切り出しました。
クラウディアさんを残しては帰れないとその日は言っていました。
クラウディアさんは「こんな楽しそうな弥三郎さんを見るのは初めてだ」とその日に言っていました。
私達の状況が判るに従って、私だけこんなことを思っていてもだめだと言うようなことを感じられたんでしょうか。

一旦帰国して父の決断を待ちました。
7カ月後父は日本への帰国を決断、改めてロシアに行きました。
クラウディアさんにとっては凄く複雑だったと思います。
明日帰るという夜、二人の話す様子が判りました。
新潟に飛行機が降りるんですが、ずーっと下を見ていました。
本来父は外国人扱いになるはずですが、日本人と同じ出口から出させてもらいまして、感激していました。
母は鳥取で待っていました。
抱き合って泣き出すしかないという感じでした。
81歳と79歳になっていました。
家に帰ってからは結婚する前、結婚後の4年間等の昔話をしていました。
母が亡くなる91歳で亡くなりますが、最初の4年間と最後の10年間一緒に過ごしました。
クラウディアさんとはずーっと文通していました。(1カ月に2~3通位)

クラウディアさんが日本に来た時に母は「クラウディアさんがいてくれたおかげで弥三郎は元気でおれたんです」と気持をしっかり伝えていました、私もそう思います。
クラウディアさんは温厚な情の厚い方です。
戦争によって人生が狂った人は沢山いると思います、そういう様なことを考えた時に、戦争って国と国との争いだけではなくて、人の一生を左右することが沢山ある訳で、むごいもので戦争ってだめですね。
人の運命ってわからないものだと思います。
戦争はむごいものだと思います。
どんな状況の中でも自分を見失わないに様に、生きることが大事なんじゃないかと思います。




























2018年9月4日火曜日

村木厚子(元厚生労働省事務次官)     ・私はなかなかしぶとい

村木厚子(元厚生労働省事務次官)     ・私はなかなかしぶとい
高知県出身62歳、1978年昭和53年に当時の労働省に入省、女性政策、障害者政策などに携わってきました。
2009年当時雇用均等児童家庭局長だった村木さん、郵便の割引制度をめぐる事件で突然逮捕され、無実を訴えたものの半年間拘置所で拘留されました。
2010年大阪地裁は検察が描いた事件を否定、村木さんに無罪判決を言い渡しました。
村木さんは復職し、2013年から2015年まで厚生労働省の事務次官を務めました。
退職後は大学の客員教授などに就任し、人権や共生社会の講演を行っています。

役所に37年半いたので違ったことをやりたいと思って,大学とか民間企業で働きましたが、やはり違って新しい経験をさせてもらいました。
教授も初めての経験なので物凄く面白いです。
大学でも1年生を教えているので、自分の娘よりもはるかに若い人を教えているのでこれも面白いです。
当時学校の先生か公務員になるかしか選択肢がなかったので、公務員という道になりました。
労働省が一番女性の雇用に積極的だったので労働省に入りました。
最初の日に初めて会った上司に、お茶くみをさせるかどうかで課が真っ二つになり、激論したが負けてしまったのでお茶くみをしてくれと言われました。
国会の答弁の準備の作業等で夜中まで仕事をしていました。
働く女性の為の政策が一番多かったんですが、障害のある人の政策、子供支援、働き方改革の関連の仕事もしました。
5年で係長、10年で地方の課長。
後半は男性女性ということは無くなってきました。

郵便の割引制度をめぐる事件に突然巻き込まれ、うその証明書の発行に関わったとして、虚偽誘引公文書作成などの罪に問われた。
偽の証明書を使って障害者団体と偽ってダイレクトメールを送って儲けている団体が有ると言うことが沢山報道されていた。
係長が逮捕されたので吃驚しました。
その上司、関係者が地検に呼び出されて、事情聴取を受けました。
取り調べを受けた人が「村木さんから言われてやりました」という様な報道がどんどん
されて、一方で私だけが呼び出されないということが長くありました。
いったい何が起こっているんだろうと当惑していました。
地検からようやく呼び出しがあり、大阪地検に出かけて行きました。
偽の障害者団体の人に会ったかどうか、証明書を頼まれたか、部下に指示をしたのかどうか、部下の作った証明書を受け取って自分が団体に渡したのではないかというようなことを聞かれました。

5年前だったので、物凄く色んな人に会っていたのであっていないという自信は無かった。
偽の障害者団体に偽の証明書を出してくれと誰からも言われていないし、支持したことも無いので証明書を渡すことなどあり得ないと言いました。
その日の夕方に「逮捕します」と言うことになってしまいました。
一番心配していたのは当時高校3年生の娘と社会人の娘がいて、夫は海外に出張中でしたので、報道でいきなり娘たちが知ると言う事なのでそれだけは避けたいと思いました。
なんとかメールで「たいほ」という文字だけを夫に知らせました。
事態を察知して娘たちの面倒を見てくれるのではないかと思いました。
拘置所に連れていかれて、取り調べが始まりました。
拘留期間は10日、一回延長ができるので合計20日間取り調べると言うことで、貴方の場合は起訴されることになるでしょうと最初に言われました。
もう一つ私の仕事は貴方の供述を変えさせることですと言いました。

調書は検事さんに聞かれてそれに対して喋ったら、要約して文書にするものだと思っていたが全く違っていた。
事件のストーリーがあり、それに沿わない話は私がいくら話をしても調書に作られない。
身に覚えのない調書についてはサインを拒否しました。
私はやっていません、ということを最後の最後に作った調書にサインをしました。
虚偽誘引公文書作成で起訴される。
ほんとうは何が起こったのか、何処で検事は間違えているのか、何を主張すれば間違いが正せるのか、探していかなければと覚悟しました。
保釈は私だけされませんでした。(他の方は罪を認めたので保釈されました)
拘置所は大変規則正しくて、7時30分起床、9時就寝、3食きちんと出て来ます。
週2,3回は風呂に入ります。(脱ぎ始めてから風呂に入り着るまでの時間は15分と決まっているので色々工夫をしました。)
面会は途中からOKとなり一日一組15分位です。

取り調べは最初の20日間が終わると取り調べが出来ないので、一日中拘置所の中にいるという生活をすることになります。
私は変わったのか、私は失ったのかということを自分に問いかけました。
私は変わっていない、私はなにもやっていないし変わってはいない。
私から離れて行く人が沢山いるかもしれないと思いました。
ずーっと応援している人がいて頑張れというメッセージが届きました。
失ったこともあるかもしれないが、こんなに自分は持っているじゃないかと思って、落ちつきました。
家族は信じていると思っていたが、弁護士さんとは会えるので、紙を持って来て下さって「真実を貫け」と書いてあってその下に同僚とか友達の名前がずらーっと書いてあってそれが大きな支えになりました。
証言に立った人たちが村木さんが関わったという供述調書の内容を、裁判で覆して行っていくつか客観的な証拠が出て来ました。
フロッピーディスクの内容が検察側のストーリーとは違う日付になっていたり、頼まれたはずの国会議員がゴルフ場にいたとか、どんどん当初言われていたストーリーとは違って裁判は動いていきました。

当初にどうしてサインしたのかという事に対しては、脅されたり、誤解するような誘導とかがどんどん出てきて、裁判が少しづついい方向に向かう感じがしました。
4回目でようやく保釈申請が認められました。
拘留期間が164日になります。
拘置所の中の生活はとっても落ち着いて辛い感じは無かったが、冷暖房が無いので体調を考えると、冬いたくないなあと思いました。
11月に保釈が決まってホッとしました。
マスコミに追いかけられた経緯があり、今後も続くことは辛いと思って記者会見を開いて立場、気持ちを説明して暴力的な取材は辞めてくれ、というお願いもしていこうと言うことになり、記者会見を行いました。
それをきっかけにマスコミの対応は変わったと思います。
裁判長から無罪の言い渡しが有りました。
ほっとはしたが控訴が有るのではないのかと思いました。
いくら供述調書が具体性があり、整合性があり、迫真性があっても人の記憶、供述は色んな間違いが入り込むことが有る、客観証拠と照らし合わせながら見ていかなければいけないと、裁判官が言ってくれたことは嬉しかったです。

長い裁判を闘うと言う覚悟でいたが、1年3カ月で終わってくれてほっとしています。
職場に戻れることが確定してとてもうれしかったです。
担当したのが子供の政策で遣り甲斐が有り嬉しかった。
2013年に厚生労働省の事務次官になる。
組織の縦割りを排除するのは、大変難しいと改めて感じました。
部下というのは上から見ていても実態はなかなか判らなくて、彼等の部下から話を聞くと非常にそれが良く見えると言うのが判ってとても面白かった。
実は下の方が正しい評価をしているということを実感しました。
如何に組織、部署が連携できるかを一生懸命やりました。
若い人達の話を直接聞くとか、勉強会をやると言うことが刺激になりました。
その時その時が精一杯でそれしかやりようがなかったと思います。
子供を大切にできる社会にする、これが自分の一番の関心事項かなと思っています。

























































2018年9月3日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・近代日本150年 明治の群像】荻野吟子

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・近代日本150年 明治の群像】荻野吟子
講談師 神田 蘭
近代日本における最初の女性の医師免許を取得した荻野吟子を取り上げる。

講談による紹介
明治の初めこの日本には女医さんはおりませんでした。
強い意志で苦難を乗り越え日本の女医第一号になった。
1851年3月3日(嘉永4年) - 武蔵国幡羅郡(はたらぐん)俵瀬(たわらせ)村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬)に代々苗字帯刀を許された名主の荻野綾三郎、嘉与(かよ)の五女(末娘)として生をうける。
10歳のころは四書五経をそらんじていたとか。
17歳で荻野吟子は北埼玉郡上川上村(現在の熊谷市上川上)の名主の長男の元へと嫁ぐ。
結婚して1年もたたぬうちに淋病にかかってしまう。
夫の女遊びが原因で淋病をうつされた。
激しい痛みと精神の苦痛、療養の為実家に帰るとその夫とは協議離婚となる。
周りの冷たい目もあり家に引きこもることになる。
順天堂医院に入院し婦人科治療をうける事になる。
治療にあたった方が全員男性で恥ずかしさ、恐ろしさ、情けなさで頭が真っ白になり、こんな恥ずかしい思いをするなら死んだほうがましだと思った。
せめて女性の医者がいてくれたらと吟子は思いました。
入院生活は1年に及び屈辱的な診療の度にその思いを強くしていきます。
自分が医者になればいいんだと決意をする。

江戸時代に素晴らしい教育をしていたからこそ明治時代に花開いて発展していったと思う。
勉強の仕方が桁違いに凄かったと思う。
やってから理屈を付ける方がいいのかもしれない。
1873年(明治6年) - 上京し、国学者で皇漢医の井上頼圀(よりくに)に師事。(23歳)
本当に幅広く勉強する。
1875年(明治8年) - 東京女子師範学校お茶の水女子大学の前身)の一期生として入学。
生徒74人で明治12年卒業するが首席で卒業。
高階経徳が経営する下谷練塀(ねりべい)町(現在の秋葉原)の私立医学校・好寿院に特別に入学を許される。
優秀な成績で卒業(31歳)。(周りからいじめにあいながら)
医師試験を受けさせてもらえなかった。(今まで前例がない女医が居ないという理由)
東京府に医術開業試験願を提出したが却下、翌年も同様であった。
つづいて埼玉県にも提出したが同じ結果だった。
医師試験を受けさせてもいいのではないかという人も出て来る 、その一人が森鴎外の上司の軍医監で子爵の石黒忠悳(ただのり)で知遇を得て長與 專齋という方(医師免許制度の父と言われる)に石黒忠悳さんが談判に行ってくれた。
井上頼圀先生も資料をあさってくれたらしい。
その資料の中に古代に女性の医学博士がいるとの記載があった。
井上頼圀先生は吟子さんを好きだったらしくて後妻にならないかと持ちかけたが断ったが、先生と弟子との関係は続いた。

1884年(明治17年)9月 - 医術開業試験前期試験を他の女性3人と受験、吟子1人のみ合格。(物理学、化学などなど)
1885年(明治18年)3月 - 後期試験を受験し合格。
外科学、内科学、産科学、婦人科学、眼科学、細菌学、臨床実験など非常に難しい。(34歳)
新聞や雑誌で「女医第一号」として大きく扱われる。
湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業。
女性がたくさん来て、花柳病が如何に多いか実感したそうです。
1886年(明治19年) - 海老名弾正から『日本開化小史』の著書で有名な田口卯吉らとともにキリスト教の洗礼を受ける。
キリスト教婦人矯風会にも参加し、その風俗部長に就任するとともに、廃娼運動にも取り組む。

江戸時代の墓が多く発掘されたりするが、多いのは子供の骨と梅毒になった人の骨(骨が黒くなるので判る)
男は吉原に行って梅毒に感染することが多かったようだ。

1890年(明治23年)11月25日 - 39歳の時、13歳年下の同志社の学生で、新島襄から洗礼を受け敬虔なキリスト教徒だった志方之善(しかたゆきよし)と周囲の反対を押し切り再婚する。
夫の之善はキリスト教徒の理想郷をつくるという信念から北海道へ渡る決意を吟子に告げる。
吟子も東京の医者をたたんで北海道に移る。
1897年(明治30年)海辺の瀬棚の会津町(現 本町の一部)で診療所を開業する。
夫の之善はいろいろな方面に手を出して腰の定まらない人間だった。
1905年(明治38年)夫の之善は病を得て9月23日瀬棚で逝去。
1908年(明治41年) - 荻野吟子は帰京、本所区小梅町に医院を開業し晩年を送る。
1913年(大正2年)荻野吟子は逝去した。満62歳。

「荻野吟子の命とありぬ冬の利根」 金子兜太 



2018年9月2日日曜日

石丸博也(声優)             ・【時代を創った声】

石丸博也(声優)             ・【時代を創った声】
77歳、高校卒業後劇団ひまわりで演技の勉強をしました。
アニメ マジンガーZでは兜甲児役、吹き替えではジャッキー・チェンの役を40年以上担当しています。

1982年の『スネーキーモンキー 蛇拳』が最初の作品。
ジャッキー・チェンの映画ととも発展してゆく香港とか、景色が判ります。
マジンガーの兜甲児役を付けてくれたのが録音ディレクターの春日正伸さんで怖かった。
最初声優になろうとは思わなかった。
声優の仕事は月1回で給料も安かった。(声優という言葉も無かった。)
小学校、中学校時代勉強をやらなかった。
日記を書けなくて母親から頭を殴られたりしました。
高校卒業後、予備校に行くが、予備校にはいかずに友達が競輪が好きで一緒に学費を使って競輪、競馬などで遊びました。
映画が当時全盛で憧れていました。
それで劇団ひまわりに入って演技の勉強をしていたら面白くなりました。
劇団ひまわりで児童劇をやって、東京都演劇コンクールで最優秀賞を貰いました。(私が主役でした。)
当時はただただ一生懸命やっていたような感じでした。(プロになろうと言うことはあまり考えてはいなかった。)
お金が無かったが、28歳ぐらいで結婚しました。(相手の父親は反対したようですが)

小さな汚いアパートを借りて過ごしますが、ファンが来てくれるが恥ずかしくて逢えなかった。(マジンガーZでは兜甲児役をやっていた。)
テレ症で上手くやろうとか、間違いなくやろうと言う思いが先立ち、つい周りのことを気にしてしまうので、集中力が足りないのでなかなかうまくできなかった。
役に没頭すればやれるはずだと、周りを気にしなくなってから面白くなりました。
ジャッキー・チェンの役をもらった時は、ちゃんとやってやろうと腹の中で思って戦いました。
収録現場では先輩から「トチ丸」と言われていましたが、何くそという思いがありました。
なぜかファンクラブが出来て、その頃アニメの火付けになったと思います。
仙台では盛況のサイン会だったが、九州に行った時にはサイン会が有ったが人がいなかった、そんな時もありました。
声優は表には出ないようにした方がいいというようなことを言われました。

映画は月に一本程度でぶつかると声優の仕事を断ったりしていて、或る人からどっちかにした方がいいと言われました。
自分を成長させないと俳優も声優も上手くならないのではないかと思いました。
人間成長していけば色んな見方が出来るし、色んな考え方を自分の中で成長させていかないと、上手い役者にはなれないのではないかと思いました。
アルバイトの仕事、日常の生活の中でも考えて勉強になりました。
ジャッキーの映画はこんなに長く続くとは思いませんでした。
ジャッキーの演技も変わってきて、景色なども都会化して時代の流れを感じます。
お互いに歳をとってきているので、そういう面では自然体で演じることができて良かったです。
今、兜甲児役やろうとしたら多少若ぶったりして作りますがそうだとだめですね、でもやってみたい気はします。
若い人たちは売れようと思って一生懸命やっているが、売れないからと言ってがっかりするな、売れたからと言ってのぼせるな、だと思います。
一回や二回は誰にでもチャンスはあるので、そのチャンスは必ず逃がさないようにすることが大事だと思います。
それには人と人との出会いと、普段いろいろ観察してどんな役が来ても大丈夫なようにするとか、あと自分を知ること(自分に合ったものはこれだというもの)だと思います。
声のいい悪いは関係無い、上手い下手はあるが。























2018年9月1日土曜日

白井聡(政治学者)保阪正康(評論家)   ・対談「平成最後の夏に」~後編~

白井聡(政治学者)保阪正康(評論家)   ・対談「平成最後の夏に」~後編~

白井:平成になっても日本の社会構造というのは、戦前から引き継いでいる国体なるものが、いまだもって生きているのではないかということになったが、それを証するような事件、出来事が起きているような感じがする。
戦後日本はあの戦争への後悔と反省とに立ち、いろんな場面で言ったり書いたりしているが「本当かよ」、という事が問われている。
3・11福島原発事故の時に、事故対処のあり様を見て、あの戦争の時と同じではないのかと思いました。
最近では日大のアメリカンフットボールの問題、ボクシング協会の問題、とか本当にそっくりなんです。
神風特攻隊にどうやって上官は兵を送りこんだか、全員熱烈志願という体裁を作って志願させる。
それとそっくりなんです。
国体というものを清算できていないということが明らかになっていて、国体の核心とはどこにあるんだと考えた時に、「国体論 菊と星条旗」の本で着目しているのは、支配の現実が有るのにもかかわらず、それを否認するような支配という変な支配です。

戦前、天皇陛下と赤子(民族の父である天皇とその子供)の関係だから、そこには愛が有るだけで支配は無いということになって、家族国家観といわれるが、これが引き継がれていて、アメリカが父のように日本を愛してくれているというのが、根本的な妄想としてあって、そういう中で国体が引き継がれてしまった。
そのことによる社会の腐食みたいなものが、いま本当に深刻な形でおきているのではないか、これが平成の末期の姿だと思う。

保阪:平成の時代の基本的問題はいくつかあると思うが、日本的共同体が清算しきれていないと言うのが、今の話の通りだと僕も思います。
日本人が共同体を作る時の原形は江戸時代の農村社会にあるわけで、それがずーっと延長する形で明治、大正、昭和そして今も続いている。
日本の軍隊は典型的な家族共同体で、上官を父と思え母と思え、上等兵を兄と思えというような疑似的な国家共同体を作って、俺とおまえは生死を共にするんだと言う形で軍隊の構造が出来る訳ですが、その構造体のある単位では、ある局面では強いが、戦争が機械的な局面、広範囲な戦略、戦術を使う段になると途端に破綻してしまう。
何故かと言うと、戦争は見えない形で戦う時には想像力、分析力などが必要であるのに、目の前の敵と戦うのみが戦争であるという妙な戦争観を持ってしまって、戦闘そのものが何よりも尊っとばれるということになってしまう。
平成の時代の基本的な問題の中にオウムの問題は昭和から引きずっているが、オウムの問題が象徴的なんだろうなと思います。
あそこに入っていった人達は共同体の中での何か安寧とか、現実社会から逃避するものを求めての共同体が有ると思って入っていったんだろうと思いますが、入っていく動機というのは以外に知的な階層が多かった。
知的な人達であるからこそ、精神的な空洞化に恐れをなしたり、気付いて入って行くと言うこともある。

白井:あの事件は衝撃を受けたが、僕と同世代の人が書いている人の中では、ひょっとすると自分は行きかねなかったんだと論じる方がいますが、僕個人としてはそういう感覚は無いです。
死刑が執行されてオウムを葬り去ったということになったのか、というのが大いに疑問です。
知的レベルの高い人がはいっていったが、それに比すべきものは今は何かというと、ある種の歴史修正主義、陰謀論などにはまる人も知的レベルの高い人がはまる可能性がある。
陰謀論などを信じてしまうというのは、その前提として世界で起こることを統一的な手段によってすべてを理解したいという欲望が有るから、唯一原因ということで陰謀組織を想定するわけです。
ある種オウム的想像力みたいなもの、これは葬られたかのように見えて、歴史修正主義の陰謀論の燎原の火のような広がりというものを見ると、オウム的なものは勝利しているんじゃないかという気がしています。

保阪:歴史修正主義の広がりというのに対して、僕らはある不気味さを感じました。
不気味さはオウムと繋がるような精神構造があるんだというね。
歴史修正主義に対しては可成り注意をする必要がある。
先達の生きた姿を語るときには良いも悪いも無く、それを客観化しながらそこから、教訓を学ぶことは大事だと思うと言うことで、私はいうけれども、なぜあれほど国家というものに対して自分が遺棄をする。
その遺棄をすることの精神性というものを課題にそこに求めてしまうのだろう。
この求めてしまう国家というものが、実は白井さんのいう様にアメリカという国体が出来上がっているならば、むしろこれは非日本なわけで、この矛盾というものがどういうふうにしてこれから形になっていくのか僕は不安です。

白井:戦後史は結局アメリカの機密文書の公開というところに物凄く事実の確定をそれに頼らざるを得ない。
私達は私達の歴史を自ら書けない構造の中にいる。
保阪:戦争が終わった時、資料を全部といいほど焼却した。
指導者の無責任さが有る。
それは次の世代に対する侮辱なんだと、如何に卑劣なんだと怒らなければいけない。
基本的に国策に関わった資料を残すという事は、次の世代への責任なんだよね。
責任をこんなに軽く考えている。
政策決定し、実行したことに対しては、その責任はその時代に対して負うだろうけど、問題はそうやって託された人が歴史の中でも託された責任をどう考えるかということです。
どうして国民があんなに玉砕、特攻等国民の命をあれほど酷い状態にしたのか、その権利は歴史の将来、過去の人達からあなたに付与されているのかという視点、僕はこれをかなりいいたい。
過去、未来の私達の歴史を背負った責任というものを、戦争指導者たちが考えていないというのが日本の特徴だと思います。

今私たちが生きている、非軍事の時代の政策は一番日本の個性、性格、考え方が出来るはっきりさせているはずだが、アメリカを国体とするような形で属国化しているというような政治が進められているとするならば、私達の国の基本的な問題がそこにあると思う。
その最大の問題はなんなんでしょうか、と言うことです。
白井:今は二度目の国体の崩壊の局面に立ち会っているとみなしていますが、一番明瞭に知らしめたのは、今上天皇のお言葉だったと思います、ご自身が真剣に考え抜いて実践してこられた。
結論は日本国民の統合の象徴なんだ、この事を何度も強調された。
今統合がズタズタになってきていますよね、ということに対する危機感だと思うし、国民の統合が存在しないのならば、統合の象徴もあり得ないし、そこまでの危機感がにじんだ言葉だと思います。
保阪:天皇は最後に「国民の理解を求めます。」と言っている。
これは天皇と国民の間に介在するものがないという事。
ジャーナリズムの側で判断すると、天皇と内閣の間に齟齬をきたしている、ということだと思う。
属国化の中の中心にいる、国体、アメリカ側の政治なんだと言うふうにかんぐることもできる。

白井:おかしな方達の対米従属、属国であることを否認するような属国というおかしなことをやっていることによって、国民統合がズタズタになってきているという訳で。
そこをみなおさないと国民統合は回復できないというふうにならざるを得ない。
保阪:日本人本来の基本的な立脚点、日本人固有の伝統的な精神が崩れている。
かつての国体の代わりにアメリカを据えることで、私たちはある精神作用、気持ちがならされているそれが延長している。
それを変えるとするならば、個人の発想法、歴史に対する目、日常の視点、生活の小さな規範を変えなければいけないということで、それを言う意味で言うと個人の個人の自己意識の変革ですね。
白井:大変な時代になった。
権威と権力、この分業が良好であるとこのシステムはうまく回るが、動乱期には権力と権威が対立する関係になってしまう。
大きな社会的な混乱を伴うような変革が訪れて、次の時代に行く。
例えば、鎌倉幕府の北条宗家と後醍醐天皇の対立とか。

保阪:江戸時代は権威と権力を上手く分立していたと思う。
いい答案、合格点だと思う。
昭和10年代の答案は天皇と国民の間に軍が入ってきて、軍の教育の上の天皇が入ると言うことで、天皇のために命を捨てる、天皇は神であるというような事が入り込んで、それを国民に強要するというような形で答案が出来上がって、歴史的にああいうふうになった。
あれは落第点だった。
今の答案は実は答案は天皇からこういうふうに私はやっている、皆さん私と一緒に考えて下さい、答案を書きましょうと言っている。
今上天皇のビデオのメッセージは凄く重いものを持っている。
白井:ボールは天皇から国民の側に投げられた。
これに誰が答えるのか、もし誰も答えなければ、天皇制というのは必要ないという結論が出る。
保阪:我々も答案を書いて一緒に書くことによって、この時代の天皇と私達の存在理由、絆を確かめましょうと講演などで言うんですが、日常の旧来のあるものが日本の形を崩してきているので、それをきちんと見抜く様にすればおのずから変えざるを得ないという結論だと思うのですが。

白井:天皇自らが一定の幕引きをしているのではないかと思うことが有る。
天皇の仕事として一番大事なのは祈りであるということをはっきり言ったわけです。
天皇自身による祈りが一瞬でも途絶えてはいけないということで、日本国民が幸福になるのも不幸になるのも祈りにかかっているんだと、これはきわめて前近代的なものです。
前近代的な仕事にこそ天皇の神髄が有ると言うことを述べた。
古代的なものに見えるが、実は近代化を推進するための装置だった訳です。
天皇制は近代性そのものだと言うことが判ってくる。
それは実は天皇制の本質ではないと、天皇自身がおっしゃったということである。
保阪:天皇の重要な手段、一番重要なのは祈りで、一瞬たりとも絶えてはいけない。
普遍的な役割りがあり、ある時代には憲法や管領としての要求されるものに対して、応じて行くと言うことも目的を達成する為の手段だと思うが、手段に戦争というものを選んだ時代があった。
戦争という手段を選んだが故の昭和天皇の奉納はかなり深いものが有ったと思う。
戦争という手段を選ぶという恐怖、崩壊解体するという意識はあったと思う。
軍はそこに入りこんで戦争しないとこの国は潰れると恫喝したと思う。
戦争という形を通じて私たちは天皇制は温存された。(国体護持は達せられた)
国体は普遍的な意味で存在する国体ではなくて或る流動性を持っている。
例えば、天皇はアメリカになったり、天皇を支える国民の意識によってそれが変化してゆくことを言っている訳です。

天皇という制度が今後新しい天皇になった時に、どういう像を作るんだろうと言うことに関心があります。
今の皇太子が天皇になっても3つで語ることができるだろうと予測します。
①天皇、②科学技術、③ナショナリズム 
イギリスの王室との皇室が中心になって、王室サミットを開くのではないかと思う。
白井:元号がいつまで続くのか。
この制度をどう持ち続けるのか。
みやび、文化的価値というか、みやびであることと客観的前提が崩壊してきてしまった。
グローバリゼーションの結果かもしれない。
こういったことを直視することから始まるだろうと思います。
保阪:次の時代の呼吸はどんなものかわからないし、その呼吸と折りあいが付くかどうか判らない。
(内容を上手く伝えられなかったかも知れません)



























2018年8月31日金曜日

白井聡(政治学者)保阪正康(評論家)   ・対談「平成最後の夏に」~前編~

白井聡(政治学者)保阪正康(評論家)   ・対談「平成最後の夏に」~前編~
来年天皇陛下が退位され、平成が終わります。
残すところ8か月、今日と明日の二日間、その平成という時代を振り返ります。
対談するのは京都精華大学専任講師の政治学者白井聡さん、ノンフィクション作家で評論家の保阪正康さんです。
白井さんがこの春出版した「国体論 菊と星条旗」は、明治維新から現在に至るまでの日本の政治状況を国体という概念から、読み解き注目を集めました。
昭和14年生まれの保坂さんに対して、昭和52年生まれの白井さん、世代の異なる二人が平成はどんな時代だったのか、そしてポスト平成時代はどんな日本になるかを語りあいます。

白井:来年天皇陛下が退位され、平成が終わりますが、30年ぐらいがいったいどんな時代だったのかを語るにいい機会だと思います。
明治維新から150年の節目になり、近代の日本の歴史が何だったのか考えるいい機会ではないかと思います。
保阪:明治150年を分析する方法が色々あると思うが、軍事が中心の77年と、非軍事の73年が有ると思うが、アメリカを軸とした150年が有ると思う。
「起承転結」と見ると 明治が「起」で、大正が「承」で、昭和が「転」(クライマックス)で、平成が「結」と思うが。
白井:明治から150年ということで、途中で折り返し点が有ると思っていて、それが1945年8月15日であるわけですが、挫折が有ったわけで再出発の時点でもあった訳です。
戦前の77年間に関しては明快なイメージが有る、封建社会だった日本を急速に近代国家を建設してやっていった時代が明治としてあって、大正時代は大正デモクラシーといわれ自由主義化、民主主義化が幾分進んだ。
しかし、民主主義的な国家となると思いきや、昭和のファシズム時代を迎えてしまう。
戦後はどうなんだろうと思うと、1868年から1945年までで77年間、1945年から2018年までで73年となるが、戦後の時代を上手く区分を持ってこられるのか。
戦後はのっぺりした連続性で取られてしまいがちである。

保阪:日本人のある種の歴史観、現実と向き合う姿勢のあいまいさを全部含んでいる。
戦後という言葉自体が一つの元号と化すような形で使われている所に、明治大正昭和平成と私達はいうけれども、その戦後という意味づけして使う元号の骨格、国体というのが白井さんが言うところのアメリカだと思う。
白井さんの本を読んだ時に、戦後というのを元号として考えるとよくわかる本だと思いました。
白井:元号とは国内的にしか意味がない訳で、国内では戦後がずーっと続いているような感じがするが、世界の秩序はどうかと言うと冷戦構造が始まるぞいうところだった。
1990年前後に冷戦構造が崩壊してEUが出来、中国の国力が強くなってきてアジアの秩序も大きく変わろうとしている。
日本だけは戦後という時空を生きている。

保阪:冷戦が終わると言うのは戦争が終わったということで、戦争の概念が我々が言うのと冷戦というのと、我々が考えている戦争の概念は近代日本の概念で世界的に通用するものではないということも判りました。
のんびり続いているところに、緊張感の無さの連続性のもっている背景になにがあるかという所を突きつめてゆくと、答えがいいか悪いかは別にしてアメリカなんだよね。
その着眼点は凄く大事だと思います。
1945年戦争が終わって1952年4月28日まで、占領国の中心の国家でアメリカンデモクラシーというのが日本の国の一つの軸になっていた。
アメリカの占領下の中に組み込まれることによって安全、日常生活の保障があって、それは歴然たる事実です。
我々が学生の時に日米安保条約の時など、アメリカ帝国主義とかを実態を何一つ知らないでアメリカ帝国主義を論じている。
昭和21年から昭和27年まで札幌で過ごしたが、食べ物も無くノートも無い時に助けてくれたのアメリカなんですね。
父がアメリカ兵から道を尋ねられ教えてあげたら、僕たち子供にチョコレートを一杯くれたが、父はそれを取り上げて川に投げ捨てました。(鮮烈だった)
GHQが列車からチョコレートなどを投げてくれたり、長靴を送ってくれたり、給食はある、アメリカの恩義が一方であり、複雑なアメリカ観になっている。
頭ではアメリカ帝国主義と言いながら、実際はアメリカに対してかなりシンパシーを持っている。
アメリカは日本にとってどういう国と言われたら判らなかった。

白井:アイデンティティーをどうしたらいいのか躓き、それが今でも尾を引いているのではないか?
保阪:突きつめて行くと親アメリカなんですね。
白井:日本が元気だった頃、バブル経済の頃、日本の経済成長は永久に続くのではないかと感じがした時代を子供の頃の記憶として覚えています。
平成になり万年不況の時代となりおかしいと思ったが、段々見えてきたものがある。
とどのつまりは属国であるということは、ほとんどの日本人は意識していなくなったと思う。
所が冷戦構造が崩壊し、日本がアメリカに従属している姿勢は変わらない。
露骨な形で従属が見えてきた。(政治的な事)
沖縄においては残酷な形態をとってあらわれ、沖縄の人は爆発する。
経済レベルで見ると多国籍資本の横暴が、益々露骨に強くなって行く事態が進行したわけで、日本がどう対応対応してきたのかというと、グローバリゼーションに騙され続けてきたというか、本質を何にも考えないままに社会の内実をすかすかに荒廃させてしまったのが平成時代だと思う。
グローバリゼーションはアメリカ発のものであって、戦後日本の対米従属はただごとならぬ事だと思う。
政治力、軍事力の面で従属している。
魂の次元、価値観に入りこんでいるような、極めて異様な姿になっているというのが、最近強く感じるようになりました。

保阪:3つのキーワードで語る発想を直ぐします。昭和天皇、戦争、国民。
昭和天皇が神格化した天皇と人間天皇。
国民が臣民と市民
戦争が軍事と非軍事
これを組み合わせると昭和が語れる。
平成は天皇と政治と災害だと思う。
天皇は昭和天皇の戦争の精算を行うものと、象徴天皇。
政治は人と制度、55年体制の崩壊(平成5年頃)、平成の政治はそこから始まる。
小選挙区制が政治を日本の社会の根本を変えてきているのではないか、平成の政治に対しては可成り問題だと思う。
災害は天災と人災が有る。
阪神大震災、東日本大震災、熊本地震などが有る。
一方で東京電力の原発の問題もあった。
災害というものの影響が平成時代はまだ十分に現れてなくて、これから出てくるだろうと言う感じを持っています。
関東大震災の時には二つ兆候があって一つは虚無感が社会全体に広がってゆく、大正末期から昭和の初めにかけて都市文化の退廃化、昭和に入っての自殺ブーム、虚無感の延長だと思う。
平成の災害もそういうことが有るのではないか。
原発は人災である。(天災に摺りかえるような分離が出て来る所に何か誤魔化しが有るのではないかと思う。)

白井:平成がどういう時に始まったのかというと、1989年に代替わりが起きているが、ここが大きな転換点だったと思います。
東西対立の構造が終わった。
アメリカにとって日本はアジアで一番大事なパートナーであるということで、庇護しないといけないということで日本は凄く受益をしてきた。
基礎構造が崩れてしまった。
91年にはバブル経済が崩壊してゆく、右肩上がりの構造が崩れる。
日本人のナショナルアイデンティティーの核心は経済成長だと思う。(経済大国化)
90年当たりは曲がり角として凄く大きいと思う。
たまたまそういう時に昭和天皇が亡くなる。
失われた10年失われた20年ということになり、平成時代は丸ごと失われた時代だったという結論にならざるを得ない。
平成時代には虚無観みたいなものが漂っている。
戦後の日本のアメリカの属国性という事、それがソ連が崩壊して属国であることの合理性がなくなったにもかかわらず、むしろ益々属国になっているということが、社会全般を腐敗させている、虚無的にさせていることが有るのではないか。

保阪:こういったことの議論が世代を越えて広がってもいいと思う。
我々の時代は反米という意識を政治化していて、デモをしたりして反米の意志表示をしたが、我々の魂の価値観、精神構造の中に入りこんでこのことに気付くと言うことは、単に反米などというよりも遥かに越える深刻な問題が有ると思う。
我々古い世代がそれを言うと政治化する。
白井:或る意味アメリカナイゼーションして行くそれが正義なんだと言うふうに、覚悟を決めたのならアメリカンデモクラシーを真剣に追求して、全面的、社会的変革に行くかというとそうではない。
アメリカナイズされているようで、実は上手いことやり過ごしている、という奇妙なことをやっている。
こういうあり方は戦前の天皇制の延長線上にあるんだ、ということに仮説を立てるにいたった。
国体論、戦前の天皇中心の体制、敗戦で国体は日本の民主主義の限界を隠すものだった。
ファシズムの温床であるということで解体されたということになっているが、国体の存在感は無くなったが、僕が提示している仮説は国体は二度にわたって形成され、一回安定してそして崩壊にはいってしまう、ということを二度くり返しているという仮説を立ててる訳です。
明治の天皇中心の国作りで一等国へと躍進をする、大正で安定して、その後破滅へと向かってしまう。
戦後もアメリカを頂点に置いていると考えれば、アメリカの子分になることによって見事に復興して経済大国にまでなる。
ジャパン イズ NO1ということでアメリカ何するものぞ、ということで安定期になる。
平成時代に入って或る意味国体の崩壊期に入っていく、というビジョンを出しているが、歴史的存在としての自己を自覚してほしい、私たちはいったい今どこに立っているんだろうか、何を見ているんだろうかということです。

保阪:僕は78歳で講師として大学生と接して、昭和50年代生まれ、平成の人達と近現代史を語ってきたが、社会の中で歴史はどうやって咀嚼され、人はその歴史をどういうふうによすがとして、自己を確立してゆくのかという話で、生きた学問をする。
学生に昭和9年と思って天皇機関説に類する憲法の話をすると学生にいう訳ですが、
そういう授業は案外おもしろがります。
白井:どうしたら忘れずにいられるかというと、或る種何度も何度も思いだす作業が必要で、今起きている現実を過去に起こったことと二重写しにして重ね合わせて見て行くというある種の思考習慣が必要。
アメリカが細かいことを日本に指図してきているのかというと判らないが、アメリカの意志を日本で上手く演出できる人たちが、日本の中で上手い事実権を握っていると思う。。










































2018年8月30日木曜日

平野悠(ライブハウス経営)       ・ライブハウスは文化のるつぼ

平野悠(ライブハウス経営)                 ・ライブハウスは文化のるつぼ
74歳、ライブハウスのオーナーとして50年近く経営に携わってきました。
ライブハウスは音楽の生演奏を聴かせるお店ですが、いまではトーク専門のライブハウスも盛況です。
平野さんの活動はいまや全国2000軒以上といわれる全国のライブハウスの先駆けとなりその定着に大きな影響を与えました。
平野さんに波乱にとんだライブハウス人生を振り返っていただき、ライブハウスの醍醐味や社会に対する役割などをお聞きします。

東京、大阪に9つのライブハウスに携わっています、音楽系が4つ、トーク専門のライブハウスが5つです。
1995年7月にトークライブハウスを始めて作りました。
初めは僕の遊び場でした。
隠れ家的な店を作って自分の気になる人、呼んでみたい人、話してみたい人を呼んで話をお客さんにも聞いてもらいという発想でやりました。
最初数人程度で駄目だと思って、トーク内容を変えてマスコミに無視された人達を呼ぼうということで、佐川 一政(人肉を食った人)、奥崎謙三(20数年間刑務所に入って無茶苦茶ちゃな事をした人)を呼び始めたらお客さんがどんどん来るようになった。
トークハウスが成立し始めた。
質問タイムが最後にある。
新宿のヤクザを呼んだこともあり、質問が沢山出るとちゃんと答えていました。

23年経ち私のところだけでも5軒あり、東京でもかなりある。
最初は無視されたのが段々増えてきて、映画館、図書館、本屋などでもトークを始めた。
社会から抹殺された人から聞こうと言うことで、世界で初めてのことだった。
物議をかもしたのは奥崎謙三が出所の日に、うちでイベントをやると言うことだった。
『靖国 YASUKUNI』というドキュメンタリー映画が有り、ほとんどの映画館が右翼に襲われると言うことでやれなくてうちでやりました。
全国の右翼の親分衆に声を掛けて、映画を見ないのに反対はないだろうと思って、タダで見せるからと言って、上映会をやってその後討論会をやりました。
警察は必ず見に来ていました。(スリリングな情報の発生基地)
面白いので多くの客が集まってきました。
「噂の真相」に有料広告を出して色んな人がひっ掛かって来て色んな人が来るようになりました。(今はインターネットがあり便利になりました。)
誰でも受けて、楽しかったと言えるようなイベントをやるのが中心になってきました。
サブカルチャーであるとは思っています。
トークはマイクとプロジェクターさえあれば出来てしまう、安上がりです。
1000人のお客さんだとミュージシャンとお客さんと通じるところまではいかない様な気がするが、小さいライブハウスだと息吹が感じられて、一緒にものを作っているという感覚になれると思っています。

最初にジャズ喫茶をやりました。
職が無くアルバイトをしていたが、100枚近くのジャズのレコードをもっていて、これでジャズスナックをやろうと思いました。
お客さんがレコードを持ってきて話に花が咲くようになった。
店のPRは当時は大変だった。(一人ひとりに店のポリシーを説明した。)
ジャズ喫茶を始めたのが1971年で、その後生演奏ができる店を作りました。
ロックって面白いと思って、ハッピーエンドというバンドを生演奏を聴くには僕が作るしかないと思って店を作りました。
70年代前半は新しいミュージシャンが沢山出て来ました。
店は騒音で苦情が沢山来ました。
ロックが市民権を得てどんどん増えて行きました。
76年に新宿に300人入れる店を作って、ニューミュジックがはやります。
山下達郎、ハッピーエンド、坂本龍一だったり、そういう連中の時代が終わるのが80年代になります。
当時は無名だったアーティストがいたわけです。
自分たちが自由に演奏することができたとミュージシャンから有難がれました。
自由に練習もしてもいいよということでサザンオールスターズ等もやっていました。

大手プロダクション、レコード会社が参入してきて、その後ロックの僕の立ち位置が無くなったなと思って、ロックの興味が無くなりました。
僕は2軒作りましたが、世の中2000軒もできました。
新宿ロフトはロックの聖地だと言われていました。
新宿ロフトの立ち退き問題があって日本に帰ってきました。
音楽はもういい、世界に出たいと思いました。(7年間の放浪の旅)
自分の勝手な店を作ろうと思って、それがトークライブハウスでした。
音楽、トークのライブハウスに共通するものは空間だと思います。
ライブハウス経営のだいご味はいろんな人達と知りあえることだと思います。
出演してくれる人は熱意さえあれば来てくれます、後はお客さんを集めるだけですから。
サブカルチャーは陽に当たることは少ないと思います。
店を作ってから45年になりますが、今の若者は何でもあるが、本当に幸せなのか、僕等の若い時代は何にもなかったけれども夢だけはあった。
吃驚したのは学生と話したことがあるが、音楽に感動した事は無いと言うんですよ。
ライブハウスはコミュニケーション、一つの世界を共有することだと思います。
10から20人程度の小さな空間でライブをやって、そこで表現してゆくことが基本だと思ったらライブはつぶれないと思います。





















2018年8月29日水曜日

エム・ナマエ(イラストレータ)      ・色とことばとゆめぞうと

エム・ナマエ(イラストレータ)      ・色とことばとゆめぞうと
69歳、線描画にパステルを乗せた優しい色あいのイラストが特徴で、この番組のマスコットフクロウのゆめぞう君の作者でもあります。
この春からは月刊誌ラジオ深夜便にエッセー「しじまのおもちゃ箱」を連載、少年時代の思い出を軽やかなタッチでつづっています。
エムさんは大学時代からイラストレーターとして活躍していましたが、38歳で視力を失いました。
全盲になっても表現者として生きて行きたいと作家に転向、絵本やエッセー集を数多く出版しました。
そして1990年それまでの経験や色の記憶を生かして、イラストレーターとして再スタートしました。
エムさんの作品に込める思い、創作活動の工夫や支えになっているのは何なのかなどを伺います。

番組の放送開始15周年を記念して、2005年にエムさんがデザインしたゆめぞう君。
ラジオ深夜便が好きで、夜型人間だった、一番好きな生き物がふくろうで、ゆめぞう君を考えました。
絵の描き方
強い筆圧で線を描くと紙の上にへこんだ線が描ける。
輪郭線を頼りにパステルで色を塗っていきます。(アシスタントが手伝ってくれる)
粉をこすりつける。(パステルはチョークのようなもの)
ゴシゴシ塗れば粉が付着する。
その粉をティッシュペーパーで丁寧に擦ってひろげてやる。
別の色を横に塗ってやって、ティッシュペーパーで擦ると色と色がうまくなじんでくる。
赤、青、黄を混ぜると濁色になるが、二つの色だと清色の清らかな雰囲気の絵になる。
混合を計算しながら採色していきます。
目が見えていたころにさんざん描いてきた絵なので、計算しながら勘でやります。

目が見えているころは細かい絵を描いていました。(メカニカルな絵が好きだった)
最初に失明してからは絵を描くつもりはなかったが、絵を描いて見ないかと言ってくれて、それが現在の奥さんです。
失明後に知り合ったんですが、私は人工透析もしていて、彼女はその時の看護師でした。
絵を書いていたんだから描けるはずだと言ったんです。
彼女の前で猫の絵を描いたらバカ受けでした。
絵の前には文字を見えないながらに書いていましたが、最初紙に10円玉を置いて、10円玉を起点に横書きで文字を刻みつけるように書いていきます。
10円玉を下にずらすと一行下の文字を書くことになります。
原稿用紙150枚の長編童話を書いてそれが新人賞になりました。
猫の絵を描いた後、スケッチブックを買ってきて一晩でそのスケッチブックを埋めてしまいました。
翌日彼女に見せたら描いた絵をみんな判ってくれて面白かった。
噂を聞いて新聞社の方などが僕の絵を使うようになりました。

一番難しいのはアクリル系絵具、油絵と一緒でかなりのテクニックが必要。
透明水彩は目が見えないとコントロールはできない。(水を使うので)
コントロールできるのはパステルで色をぼかすのは、ティシュペーパーで行えば水彩と同じように再現できるのではないかと思ってやってきました。
必要な色を手渡してもらって場所にもって行ってもらえば、線がへこんでいるので判ります。
絵を見た妻からの感動とかの感触で、どのようなものかは大体感じることができます。
今150色のパステルセットを使っていますが、それぞれの色にそれぞれの感動があり僕の中に刻み込まれていて、頭の中で再現できるわけです。
絶対色感があります。
出来栄えは彼女が喜んでくれればいいわけ、僕が確かめなくてもいい訳です。
色々な人にサポートを受けながら外を歩いたりするので、失明後の人生は他者にゆだねて生きてきています。

小さいころから絵を描くことは好きでした。
寄席に連れて行ってもらったことがあり、それをわら半紙に描いたら祖母が喜んでくれました。(3歳)
小学校に入って初めて書いた絵が、先生が学校の玄関に貼ってくれたりしました。
高校生の時にやなせたかし先生が書いた漫画入門の本に、漫画は絵で描くポエムだと書いてありましたが、それを見て僕も漫画家になれるのかなと思いました。
イラストレータの道に進みました。
その後、目が段々かすんできて眼科に行ったらアレルギーから来ていると言われたが、もっと悪くなり別の医者に行ったら内臓から来ていると言われ、内科に行ったら腎臓がめちゃくちゃに悪いと言われ、大きな病院にいったら糖尿病だと言われ、眼を見た眼科医からはもうすぐ失明しますと言われました。(34歳)
人生が暗転しました。
子供のころからアレルギーだと言われたが、実は2型(遺伝性)の若年性糖尿病でした。
かすんでいたのがとうとう失明してしまいました。(失明は死の恐怖に勝りました。)

人工透析を失明と共に始めたら不均衡症候群となり、普段聞こえていなかった声が聞こえてくるんです。
僕の人生これから面白のかもと思えました、不思議な転換ですが。
或る晩、一晩中泣いていて神よもしこの世界にいるんだとしたらその答えをくれと訴え続けていた時に、明け方の瞬間に金色の光がはじけました。
天はあまねく全てを愛しているという答えをくれて、その瞬間僕は気が楽になりました。
神が与えてくれた人生だったら、どんなひどい人生でも最後まで見てみようと、その時思えました。
透析導入後の退院から直ぐに僕は文章を書き始めました。
自分の中の世界は目が見えようが見えまいが変わらない。
この春から月刊誌ラジオ深夜便のエッセーも連載を始める。

第一回に書かれたエッセーから一部抜粋。
「しじまのおもちゃ箱」
「気が付けば僕らは仲良し3人組だった。・・・一年坊主で当時珍獣扱いだったデブの僕には、頭でっかちの山下君と美少年だった山口君という大の仲良しがいた。・・・
山下君は和菓子店の息子・・・山口君は画科の息子・・・。
美少年は薄命なのか山口君は若くしてがんで亡くなり、山下君は一昨年骨髄腫で虹の橋を渡った。
僕が書かない限り僕たち3人組の無垢な思い出は、永久にこの地上から消え去ってしまう。・・・3人組時代のかけがえのない時間の流れをピンナップしていきたいと思う。」
子供の頃のできごとはいい事悪い事克明に覚えています。
昭和30年よりも前の時代、焼け野原で遊んでいた貴重な思い出です。
原風景を思い起こしながら書いていきたいと思います。
言葉を書くと風景がバーっと出て来てそれが繋がってきて思いだされます。
1990年にイラストレーターとしても再開。

眼がみえなくなったぼくが、再び絵筆を持つということは全く考えていませんでした。
1998年にニューヨークで僕の展示会が有り、偶然にジョン・レノンの絵を子供のアパレルにアレンジしようとしていた全米最大のメディアの或る副社長が訪れて、ジョンの次はお前だと言ってくれて2000年からジョン・レノンの絵のシリーズと僕の絵のシリーズが全米でならんで展開されるんです。
そういう奇跡が起きるんです。
色んな活動のチャンスをあたえてくれたことに、全力で努力をするということがこれからの僕の夢だと思っています。
どんなことがあってもなんとかなると思っていて、僕は楽観主義です。
ヘレン・ケラーが言っています、「楽観主義が未来を拓く」
諦めたら何とかなる、失明した時に上手く諦められたと思う。
見えなくなったことに対して諦めたら、そこから新しい未来が拓けて来る。
泣いて暮らそうと笑って暮らそうと、どちらも自分の作る一日です。


















































2018年8月28日火曜日

國中 均(宇宙科学研究所所長)      ・日本型宇宙探査 

國中 均(宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究所所長) ・日本型宇宙探査 
日本の小惑星探査機はやぶさ2号は目的地であるリュウグウに到達していよいよ探査を始める。
小惑星は地球から3億km以上離れたはるか遠くにあります。
探査機が地球と小惑星との間を往復できるのは、イオンエンジンという新しいエンジンが積まれているからです。
このイオンエンジンを手にしたことで日本の宇宙探査が大きく変わろうとしています。
イオンエンジンの開発者、今年4月宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究所所長に就任した國中 均(58歳)に日本型宇宙探査と題して伺いました。

小惑星探査機はやぶさ2号が6月27日にリュウグウに到着できました。
打ち上げたのは2014年12月、3年半かけて到達しました。
この部分は読める部分です。(出来て当然と思っている)
ここからは本当に判らない、難しいミッションに挑戦します。
小惑星の形は着くまでは全然情報が無くて判らなかった。
丸ければ自転軸がどういうふうに回転しているのか判りにくい。(課題)
最悪自転軸が横倒しになっている状態を想定して計画を立てていましたが、幸いに自転軸が垂直に立っていて凄く私たちにとって有難いことでした。
つまり北極、南極が見えるし、赤道はいつも回っているので小惑星を1日見れば全部判ることになります。
はやぶさ1号のイオンエンジンの改良型が搭載されている。

イオンエンジンの特徴はジェット噴射の速度が速いということを最大の特徴としています。
H2ロケット等は燃焼を使う方式で噴射速度は秒速3kmの速さです。
イオンエンジンのはそれより10倍速い秒速30kmです。
速いほど使う燃料の総量が減るという特性がありますから、燃料は1/10で済みます。
世界の宇宙研究開発者はジェット噴射をどうやったら速くできるかという事を研究してきました。
アメリカ方式のイオンエンジンのは家庭にある蛍光灯を思い浮かべていただいて、あの中で起こっていることとほとんど同じです。
両端に電極が有り電圧をかけて中に入っている電子を加速して、中に入っている薄いガスにぶつけて電離をする。
プラズマができてイオンが出来る。
イオンは発光する(紫外線)、紫外線がガラス管に塗ってある蛍光塗料にぶつかって、可視光線に変わって照明器具として用をなす。
古くなると両端が黒くなって点かなくなってしまうが、アメリカ方式のイオンエンジンにも発生する。

できたイオンも今度は逆側に加速されてゆく。
電子はマイナスの電気を持っていてイオンはプラスの電気をもっているので、イオンはものすごい速度で電極に突進します。
ぶつかると電極が溶けて行き、溶けた粉末がガラス管に付くので両端が黒くなる。
電極が削れてきて結果として最後には点かなくなる。
ほぼ同じことがアメリカ方式のイオンにも起きて寿命を縮める要因にもなる。
私達はアメリカよりも20年遅れて研究開発をしたので、アメリカよりも優れたエンジンを実現しようと言うことで、マイクロ波という電波を使う方式のイオンエンジンを考えました。
電子レンジと同じ様な原理です。
皿は温まらないが食材だけが温まる。(選択的加熱)
電子だけ選んで温めてイオンは温めない。
温まった電子がガスにぶつかって電離がおきて冷たいイオンが出来る、こういうことを狙った。
冷たいイオンであればイオンエンジンを壊さないで済む。
長寿命で長く運転できるシステムが実現するかもしれないということでした。
太陽電池で出来る電力に見合う推力が出来る。
数グラムの推力をだすことができる。
はやぶさは500から600kgですが、それを2~3gの力で押し続ける。

この開発は他に例が無かったので苦しかった事ばっかりでした。
一番苦しかったのは中和機、これは加速したイオンが安定に速度を維持して飛んでいくように後から電子を混ぜるために、電子を発生させる装置ですが大変難しかった。
解決策を見出す為に2~3年かかりました。
初代のはやぶさは中和機が思う様に動かなくて苦労させられました。
地球帰還が危ぶまれたが、イオンエンジンのクロス運転でエンジンを復活させて地球に戻すことができました。
同時期にアメリカがディープスペース1という探査機を打ち上げたが、アメリカの方が技術の蓄積が格段に高い。
日本では打ち上げを決めてから探査機を作り上げるまでに7年かかりました。
アメリカでは3年で作りあげてエンジンは一式しか搭載しませんでした。(自信が有った)
日本では一機の推力が少ないので3機必要で、予備を1機搭載しました。(日本は劣る)
普通イオンエンジンと中和機は一対だが他のエンジンとの組み合わせも考えた。(奥の手)
いろいろプレッシャーで一時食堂に行って食べられなくなってしまったこともありました。

1960年愛知県生まれ。
子供のころは新しい電気製品などに興味を持って分解したりしていました。
飛行機も大好きでした。
天文観測も好きでした。
小学生高学年には望遠鏡を買ってもらって天体観察しました。
写真を撮って現像などもしました。
高校では天文クラブが有り、太陽観測部で黒点の数の観測などしていました。
幼稚園の時に研究者へというようなイメージは持っていました。
京都大学航空工学科から東大の大学院に行きました。
ロケットの研究をしたかったが、研究になるような課題は残っていないと言われました。
電気推進ロケットがあるが,まだこれは研究もされていないということでした。
栗木恭一先生の所でやっているので見学させてもらいました。
当時はミューロケットを取り扱っていたが、早晩限界が来る、日本ではもっと大きなロケットという訳にはいかないので、そのためにはロケットを大きくするのではなくて人工衛星に乗せる推進装置を高性能化する手立てしかない、ということで日本独自の研究開発が必要になると言うことで、電気推進を研究開発して将来に適応できる電気推進をラインアップするべきだと言うことになりました。

500kgのサイズに見合う電気推進をラインアップするということが栗木先生の未来設定でした。
1KWで動く電気推進ロケットでした。
私が担当したのがイオンエンジンでした。
予算は潤沢ではありませんでした。
研究室では工作機械が有り自分で図面を書いて、技官さんに工作機械を教えてもらって、自分で作ったりしてきました。(サイクルの早い研究が必要だと思います)
人と違う事を挑戦する。
みんなが簡単に思い付くことをやったんだとすると、きっと誰かが気が付いているはずだと思います。
マイクロ波は当時通信に使うもので、電波を発生させる装置は効率が悪く10から30%程度。
効率が良くなると電波でプラズマを作ろうという考え方は理にかなっている。
10月にはベピ・コロンボというヨーロッパとの共同ミッションで水星に探査機を打ち上げます。

火星には二つの月が回っていますが、そこにたどり着いてサンプルを採取する計画MMX
があり、小惑星をフライバイする計画とか、彗星からサンプル取ってくる計画とか、木星のガニメデという衛星を調べる計画とかを温めています。
10年後には水星から木星まで日本の探査機を送り込むことができる。
金星探査機「あかつき」が今金星の周りをまわっています。
太陽系に探査機を沢山打ち上げてデータを総合して太陽系の生い立ちを調べることができると思います。
地球の水や大気は木星の向こう側から運ばれてきて、岩石の地球が出来上がった後に気体や水があとから送られてきたという仮説が有ります。
水や大気を送りこんできた主体は小惑星、彗星、コスミックダストが太陽系の物質移動になっていて、後から水や大気が地球に持ち込まれて、アミノ酸などの有機物も一緒に入っていて、地球で合成されて私たちのような生物になったという仮説があるが、こういった証拠を調べて探査機を使って証明していきたいと私は考えています。

















































2018年8月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者}           ・【絶望名言】宮沢賢治

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】宮沢賢治
「私のようなものはこれから沢山できます。
私よりもっともっと何でもできる人が。
私よりもっと立派にもっと美しく仕事をしたり笑ったりしていくのですから。」

宮沢賢治は『銀河鉄道の夜』、『風の又三郎』、注文の多い料理店』とか沢山の童話でよく知られています。
『雨ニモマケズ』という詩も有名です。

フランツ・カフカの名言集を本で出した時に、読んだ方からカフカは宮沢賢治とよく似ていますねという反響をかなりの方から頂きました。
読んでみたら似てるんですね。
父との確執、妹を凄く好きという所も似ているし、二人とも菜食主義ということです。
二人とも生涯独身で子供もいなかった。
二人とも生前は可成り無名に近くて、サラリーマンをしていた。
二人とも若くして結核で亡くなった。
亡くなる前に自分の原稿を処分してほしいと遺言した事も同じ。
死後に頑張ってくれた人がいて、今ではとっても有名、ということも同じです。

清六という弟がいたが、宮沢賢治に関する本を書いているが、「正面陽気に見えながらも、実は何とも言えないほど悲しいものをうちに持っていたと思うのである」、と言っている。
イーハトーブは地名で宮沢賢治の理想の世界で、イーハトーブに対して宮沢賢治はこう説明している、「そこではあらゆることが可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し、大循環の風を従えて北に旅することもあれば、赤い花盃の下を行く蟻と語ることもできる。罪や悲しみでさえそこでは清く綺麗に輝いている。」と言っている。
理想郷なのに罪や悲しみが有る、だけどそこでは罪や悲しみでさえそこでは清く綺麗に輝いている訳です。
これが宮沢賢治の作品の特徴なんではないでしょうか。

「私のようなものはこれから沢山できます。
私よりもっともっと何でもできる人が。
私よりもっと立派にもっと美しく仕事をしたり笑ったりしていくのですから。」
は童話の中の作品の中の言葉ですが、宮沢賢治自身にもこのような気持ちが有ったのではないでしょうか。

「お前たちはなにをしているか。 やめてしまえ。  エイ、解散を命ずる。
こうして事務所は廃止になりました。 僕は半分獅子に同感です。」
(寓話「猫の事務所」の最後のシーン)
「猫の事務所」のあらすじ
猫の事務所には大きな黒猫の事務長、一番書記の白猫、二番書記の虎猫、三番書記の三毛猫、そして、四番書記のかま猫(釜猫は夜釜戸の中に入って寝る癖があるから釜猫という) がいる。
釜戸ではいつも薄汚れているので釜猫は煤で汚れている。
優秀だったのと事務長が黒猫だったので、本来なれない第四書記になっている。
かま猫は三人の書記にいじめられながらも、黒猫の支えやかま猫仲間の応援もあり、仕事に励み続ける。
或る日かま猫が風邪をひいて事務所を休んだ日、三匹の書記の讒言により、黒猫もそれを信じてしまう。
病み上がりでかま猫がやってくると黒猫の事務長含め全員が無視してしまう。
かま猫は仕事を取上げられて呆然と座って泣き出してしまう。
そこでさっきのラストがやって来る。
外から獅子が見ていて辞めてしまえ、という事になる。
語り手が急に顔を出す。(宮沢賢治自身)
僕は半分獅子に同感です。」と云うんです。

いまあるパワハラ、差別、いじめとかそういうものそのまま。
なんで半分しか賛成していないのか、色んな説がある。
解散ではパワハラとかの根本的な解決策にはならない。
かま猫も職を失ってしまうので半分なのではないかという説がある。
「猫の事務所」には下書きがあって、「みんなみんなあはれです。かあいさうです。かあいさう、かあいさう。」となっており、発表版とは大きく異なっている。
3匹の猫も可愛そう、事務長も、獅子もかわいそうと言っている。
虐めの加害者だけではなくて加害者も黙認した人もそれをしかりつけた人も全員がかわいそうというんです。
だれの心の中にも加害者側の気持ち、傍観者の気持ち等がある、どこか全部弱さだし、良いことではない、人間はそういう弱さを持っている、だから可愛そう。
やってしまう方もやられてしまう方もみんな人間は哀れで、可愛そうなもんだなあと思います。
罪のないものだけが石を投げろと言ったら、誰も投げられない、それが悲しいということではないですかね、だから半分なんでしょうね。

自分がいじめる側に立ってしまったことから、成長してからそういうことをしないようにしようと繋がった面がある、反省する気持が自分を止める気持ちに、それが後あとあった。

「永訣の朝」 宮沢賢治
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっさう陰惨いんさんな雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜じゅんさいのもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀たうわんに
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛さうえんいろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系にさうけいをたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて
    こんどはこたにわりやのごとばかりで
    くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに

わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

37歳で宮沢賢治亡くなっているが、残したした作品の分量は大変なもの。

「カンパネルラ 又僕たち二人きりになったね。 何処までもどこまでも一緒に行こう。
僕はもうあのサソリのように本当にみんなの幸いの為ならば、僕の身体なんか百遍焼いてもかまわない。
ウン 僕だってそうだ。 カンパネルラの眼には綺麗な涙が浮かんでいました。
けれどもほんとうの幸いは一体何だろう。 ジョバンニが言いました。
僕わからない。カンパネルラがぼんやり言いました。
(「銀河鉄道の夜」の一節)
ジョバンニが持っている切符はどこまでへもいける特別な切符。
何を探すのかというとほんとうの幸い。
ほんとうの幸い、宮沢賢治の作品の全ての根底にあるテーマかもしれません。
僕はもうあのサソリのように本当にみんなの幸いの為ならば、僕の身体なんか遍焼いてもかまわない。」
その前にサソリの話が出て来る。
サソリは色んな虫を食べて生きているが、或る日自分がイタチに食べられそうになって、井戸に逃げて溺れそうになりながら、以下のようなことを言う。
「ああ、あたしは今まで幾つもの命を取ったかわからない。
そしてその私が今度はイタチに取られようとした時はあんなに一生懸命逃げた。
それでもとうとうこんなになってしまった。
ああ、何にも当てにならない。
どうして私は私の体を黙ってイタチにくれてやらなかったろう。
そしたらイタチも一日生き延びたろうに。」

サソリ食べられた側の気持ちが判ってしまう。
むなしく命をすてるのではなく、誰かのために生きたいと思うと、サソリの身体は真っかな美しい火になって燃え始める。
気が付くと夜空にいて、闇を照らして星になれた。
自己犠牲の素晴らしさを物語っている。
僕はもうあのサソリのように本当にみんなの幸いの為ならば、僕の身体なんか遍焼いてもかまわない。」と言っている。
本当の幸いはこれだ、という様になった時にジョバンニは
「けれどもほんとうの幸いは一体何だろう。」 とジョバンニが言って
「僕わからない。」 カンパネルラがぼんやり言いました。
この展開は凄い。
本当の幸い、自己犠牲の素晴らしさを物語っていながら、本当にそうなのかなという迷いが出て来る。
「僕わからない。」というカンパネルルラは実は自己犠牲をしてる、なのに「僕わからない。」と言っている。
「新たなるよき道を得しということは、ただ新たなる悩みの道を得しと言うのみ」
新しくいい道を知ったと、真実の道、本当の幸いの道だと知ると、新たなる悩みの道を知ったということなんだと、これがいいんだと思ってもでも本当にそうなのかなと思う。
何処までも迷い続ける。

若い時には大きな幸せを考えるが、病後はハードルがずっと下がって来る。

「僅かばかりの才能とか、器量とか身分とか財産とかいうものが、何か自分の身体に付いたものでもあるかと思い、自分の仕事をいやしみ同輩をあざけり、今に何処からか自分をいわゆる
社会の高みへ引き上げに来るものがあるように思い、空想にのみ生活をしてかえって完全な現在の生活をば味わうこともせず、幾年かが虚しく過ぎてようやく自分の築いていた蜃気楼の消えるのを観てはただもう人を怒り世間をいきどおり、したがって親友を失い幽門、病を得ると言った順序です。」
(1933年9月11日に元の教え子に書いた手紙の一節 亡くなる10日前の最後の手紙)

文語詩
「いたつきてゆめみなやみし」
病気になってしまい夢はみんな終わった。
私(頭木弘樹)が20代、30代病気で過ごして、そこから社会に出るのがきつく、こういう人生でこれだけで、この歳で何も起きないなあと思うと泣けたりしました。

「風の中を自由に歩けるとか、はっきりした声で何時間も話が出来るとか、自分の兄弟のために何円かを手伝えるとか言うようなことは、できないものから見れば神の技にも等しいものです。
そんなことはもう人間の当然の権利だなどというような考えでは、本気に観察した世界の実際とあまり遠いものです。」 (亡くなる10日前の最後の手紙の一節)
賢治は病気になって日常が奇跡だという様な事を感じる。

「どうかいまのご生活を大切にお守りください。
上の空ではなしにしっかり落ち着いて一時の感激や興奮を避け楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きてゆきましょう。」亡くなる10日前の最後の手紙の一節)
1933年宮沢賢治が亡くなる。