2018年11月14日水曜日

臼井健二(ゲストハウス主人)       ・自然と心地よく暮らす

臼井健二(ゲストハウス主人)       ・自然と心地よく暮らす
長野県生まれ、69歳、30歳で自然農法で取れるお米、野菜、山で取れる山菜やキノコなどを提供するゲストハウスを3年がかりで手作りで建てました。
臼井さんのガーデンは草生栽培と言って草や虫を敵としない、無肥料、無農薬、たがやさないという農業です。
40年前オーストラリアからもたらされた、持続可能な農的生活と同じ農法ですが、これは日本の里山生活がモデルのなっていると臼井さんは言います。
臼井さんは自然とどのように暮らしているのか、うかがいました。

安曇野の保育園児と一緒に種をまき、田植えをして稲刈りおだがけとなりました。
7月はほとんど雨が降らなくて、その後台風が3つきましたが、その後は天気に恵まれて野菜もよく育っています。
ゲストハウスは40年近くなります。
自然農園的なものを提供しながら農法も教えながら営んでいます。
毎年通っている方もいます。
一緒にてつだってもらって食事も一緒に作って、片ずけもして貰って、家族の中に入ってきてもらうような宿です。
持続可能で多様性に富んで調和している、そんな農業を形にしてみたいとなあというのが僕の考えです。

大学卒業後商社に入ったが、生産という事が無かった。
種をまいて育って実を結ぶという、農的なそんな中に本来の人間の幸せがあるのではないと思いました。
小さいころから農的な暮らしがあったような気がします。
1年半で会社を辞めて、山が好きだったので、穂高町でやっている山小屋にお世話になりました。
5年間アルプスで学びました。
写真に撮って年賀状を送っていたりしました。
そのうちに山が飽きてきて、それは生産することが無いからなのではないかと考えました。
これから宿をやるので協力してほしいということで、会員募集をしたら(今でいうクラウドファンディングみたいなもの)2500万円位集まりました。
自己資金と2500万円をベースにしながら考えたが、理想の世界の中では足りなかった。
毎日10人ぐらいは学生が手伝ってくれて、大工さんが刻んだら塗装をするとか、水道工事、電気工事などかなりの事を自分たちで手掛けました。
3年ぐらいかかりました。

当時ペンションブームで、紹介してもらって宿泊人数も増えて順当にやってこられました。
10年位して、地元の利用が無いので、レストランを併設しました。
自給自足的な生活をして行きました。
お客さん達には自分たちで作ったものを提供したり、知り合いから手に入れたりしました。
自然界をよく観察して自然界の良さをその宿の中に生かしたいというのが、自給自足的な暮らしの原点です。
オーストラリアからパーマカルチャーという言葉が入ってきています。
パーマカルチャーは恒久的持続可能な環境を作り出すためのデザイン体系のことです。
1970年代にオーストラリアは大開発が進みました。
工場進出が起きて反対運動あったが、反対運動よりも心地よい暮らしを提言しようとして生まれたのが。パーマカルチャー的な考えです。
持続可能、多様性、調和、倫理的な事が加わって、自然への配慮、人へ配慮、余剰物の公平な分配などです。
私の実践とほとんど同じでした。

1900年代にアメリカでは大規模農業が盛んになり、化学肥料、農薬での農業で土砂流出などもあり農業が立ち行かなくなり、土壌学者のキングという人が持続可能な農業が無いかと世界を周り出会ったのがアジアの農業でした。
それを本に書いて、オーストラリアの人が見てもう少し判り易くしたのがパーマカルチャーなんです。
ルーツはアジアに有っるんです、江戸時時代の文化であり里山の文化かもしれません。
資本主義は分断させ競争させ、マーケットを置くというそんな中に経済がなりたつわけですが、分断するより繋がりの中に生活があると、無駄がなくなる。
ここでは傾斜地に野菜などが植えられている。
草や虫も決して敵ではなく、草や虫を生かしてあげると、大地がより豊かにバランスが取れる訳です。
100点ではなくて60点を目指す、そうするとトータルで150点位になるわけです。
草がある事によって大地は豊かになる。

菌が根を分解して、微生物小動物が分解して腐食を作り、腐食はマイナスの電気を帯びて土の栄養素がくっついてあちこちに空気層がうまれて、それが自然界のたがやすということです。
土は柔らかく豊かになります。
本来バランスはとれているが、人間があれこれやってバランスが崩れる。
虫は急激に増えるということは無くて、いろんな種類が集まって全体的にバランスはとれている。
キャベツでは青虫は外から3~4枚食べるが、青虫がいると夜盗虫は卵を産まない。
たがやさなくて自然界は調和する方向に向かうし、草や虫も敵ではないという方向に行く。
草を刈って、土を出して草の種の表面をどかして野菜の種をまくと草は生えない。
刈った草は横にどての様に置いてやると芽が出ても草は育たない。
もみ殻を燃料として使えば暖房、給湯にも使えるが、原始的なので故障も良くします。
釜戸が登り窯の様になっていて、多様なシステムキッチンになっています。
循環型の暮らしを自分で作って行くという事が大事なことだと思います。

年間3~4回講座を続けていると仲間になり、声をかけると集まってくれるようになります。
壁を取ってしまうと人間関係はとてもいいです。
その中に一番喜びがあると思います。
「種の銀行」 今の種の90%はF1で外国製で、日本では10%です、日本に種が入ってこられないと日本の農業は成り立たなくなります。
在来種、固定種の種を保存してみんなで分かち合いたいというのが「種の銀行」の考え方です。
今は200種類位で種の瓶は500位あります。
お米の種は1粒が3000倍になります、借りた種は倍にして返します、無料でこのシステムは成り立っています。
自然界は素晴らしい教えを一杯与えてくれています。




































2018年11月13日火曜日

岡室美奈子(早稲田大学文学学術院教授 ) ・だからテレビドラマはおもしろい

岡室美奈子(早稲田大学文学学術院教授 ) ・だからテレビドラマはおもしろい
1958年生まれ、「ゴドーを待ちながら」で有名なノーベル文学賞を受賞の劇作家サミュエル・ベケットの日本での代表的な研究者の一人です。
岡村さんがいま力を入れているのが、TVドラマの作品研究でTVドラマ分析の授業も行っています。
岡室さんにTVドラマ研究を始めた理由、その意義、面白さ、最近の視聴傾向などについて伺います。

TVドラマの歴史は1953年からです。
映画などに比べると、消耗品といったイメージで捉えられていた様な気がします。
初期は生放送で映像が残っていなかったことも大きいです。
学術的な対象にはならないと思われてきました。
影響力の大きさは他のメディアに類を見ない様な気がします。
人の心を動かすようなものもあるので、ドラマの良さをどうやって人に伝えて行くか、作り手に私達の思いを届けられるかなど考えて、ドラマの研究を始めました。
ゼミでもTVドラマを取り上げます。
学生は40人ぐらいいて、4チームに分けて、それぞれのチームが違う1作品を研究して発表し、ディスカッションすると言うようなやり方をしています。
若者のTV離れが言われますが、興味を持っています。
テーマを決めてそれに即した候補を決めて学生に選んで貰います。
朝ドラも「カーネーション」と「あまちゃん」をやりましたが、学生もクオリティーの高さに驚いていました。
内容、演出、演技3拍子揃っていたと思います。

①良い作り手を育てたいと言う思いがあります。
②良い視聴者を育てたい。
普通は一回しか見ないが、授業では何回も同じ作品を観て、取りこぼしのない様にしています。
TVドラマの考え方も変わってきます。
TVドラマは日常生活に密接に繋がっている。
映画と違ってTVは共通体験となって行く。
ドラマは極力見るようにしていますが、時間が足りないです。
録画したものを1.3倍速で見たりもします。
「透明なゆりかご」毎回凄く深い内容で素晴らしかったです。
人の生き死にを真摯にきめ細やかに描いています。
「フェイクニュース」 野木亜紀子さんの作品。
この二本が最近印象に残っています。
心に深く突き刺さるドラマの事を、大事にしていただきたいと思います。

幼稚園に行くのが嫌で、TVドラマなど母と一緒に良く見ていました。
俳優さんの名前も良く覚えていました。
高校時代は演劇部に所属して、演出をやっていました。
数学の先生の家に行った時に、別役実清水邦夫と言う劇作家が面白いと言われて、別役実さんの「赤い鳥の居る風景」文庫を読んで吃驚しました。
別役実さんの本を色々読み始めると、劇作家サミュエル・ベケットから影響を受けたと言う事が書いてあって、ベケットに興味が移って行きました。
「ゴドーを待ちながら」
ベケットは生き生きした言葉を書いている人ですが、不条理、つじつまの合わない世界が難解なものとして受け取られていますが、私としては難しくはないですという訳になっています。
大学院の時にアイルランドに留学しました。
司馬遼太郎さんの通訳とガイドを担当、「街道をゆく」のアイルランド紀行で登場します。
ベケットはTVドラマも作っています。(映画、ラジオドラマも作っていたが)
根底にはTVってなんだろう、という問いは常にあります、ベケットも常にそういう事を考えながら作っていたと思います。
ベケット研究とTVドラマについて批評していることは、密接につながっていると思います。

ブラウン管のTVを70台ぐらい集めて、古いドラマをブラウン管のTVで見せるという事をやりました。
相当な数のドラマを取り上げました。
主観的なドラマ史として展示し、好評でした。
去年TV文化論講義という授業を担当して、私が素晴らしいと思うドラマを見せながら解説するという事をやりました。
学生も古いドラマを凄く面白いという事を知ってくれてやって良かったと思います。
好きな人は沢山いますが、宮藤官九郎さん、坂元 裕二さん、古沢良太さん、野木亜紀子さん、大ベテランでは山田太一さん、向田邦子さん、大石静さん等が好きですね。
宮藤官九郎さんについては論文も書いています。
「いだてん〜東京オリムピック噺〜」は宮藤官九郎さんが新たにチャレンジする大河ドラマで、新しい大河の歴史が作られていくのかなあと楽しみにしています。

2007年に学部編成があり、同僚とTVドラマの事をやろうとして、この授業は10年ちょっとになります。
ツイッターなどで批評あったりして、緩やかな繋がりが出来てきています。
作る側の励ましにもなっていると思います。
視聴率で直ぐ語られるが、それに踊らされないで良いドラマを良いと言える人を育てて行きたいと思っています。













2018年11月12日月曜日

的場文男(騎手)             ・【"2020"に託すもの】駆けつづける62歳

的場文男(騎手)     ・【"2020"に託すもの】駆けつづける62歳
~競馬最多勝騎手・的場文男さん~
今年の夏、日本の競馬史に残る大記録が誕生しました。
大井騎手会所属の的場文男騎手が、都道府県や地方公共団体などが主催する、地方競馬で通算7152勝という新記録を達成したのでした。
的場騎手は62歳、いまなおトップジョッキーとして駆け続けています。

1956年9月7日生まれ、福岡県出身。
騎手を目指して中学3年の時に東京に転校して、大井競馬場の小暮嘉久の厩舎に入って、中学卒業した10月には栃木県那須塩原市の地方競馬教養センターに入って騎手として研鑽する。
1973年10月16日、17歳で騎手デビュー、11月には初勝利、以来昨年までには通算3万9981回騎乗して7084勝、リーディングジョッキーで地方競馬全国リーディングを2回、大井競馬で21回取っている。
今年の8月大井競馬の第5レースで勝って佐々木 竹見が保持していた地方競馬通算勝利数を更新する7152勝を上げる。
騎手歴45年。
今4万500回位です、負けも沢山あります。
あの時はスタートした時からお客さんの声援がありました。
お客さんには感謝の一言です。
馬はシルヴェーヌでした、馬が可愛くてしょうがないです。

生まれた時から馬が家にいましたので、馬に乗ったのは小学生の時でした。
幼い頃から騎手になろうと言う夢はありました。
大井競馬場に西田さんがいて、父に息子を東京に来るように言ったそうです。
デビュー戦はあわててしまって人を邪魔してしまい、2日間の出場停止になってしまいました。
最初は新人の中でも勝てる方ではなかった。
朝の調教で人よりも頑張れば、乗る機会が増えると思って頑張りました。
4年目に勝てない時には佐賀に帰ろうかなと思いましたが、とことん東京で頑張れと兄に言われて7,8年は家に帰らなかったです。
6年目ぐらいに少しずつ勝てるようにはなってきました。
絶対一人前の騎手になるんだと思っていました。
登りだしたらぐっと昇るもんですね。
朝3時位には人より早く起きて調教などやっていました。
1997年6月の帝王賞のレースで12頭で疾走、一番人気が武豊さん騎乗のバトルライン、二番人気が岡部幸雄さんのシンコウウインディ、三番人気が石崎隆之さんのアブクマポーロ、私はコンサートボーイで4番人気でした。
最初は遅い馬ですが、あの時は先頭でした。
武豊さんマークだと思ってずーっと行きました。
3頭のマッチレースとなり、コンサートボーイが1位、アブクマポーロが2位となり地方競馬が1,2と言う事でお客さんが物凄く喜びました。

或る時前の馬にくっつきすぎてひっくり返って、馬が僕の顎に当たって、ハンマーで殴られたような感じでした。
顎を複雑骨折、歯は14,5本駄目歯ぐきから持って行かれました。
肋骨は10数回折っていますが、馬が暴れて僕の背中を蹴っていって、内臓の脾臓と腎臓をやられました。(蹴られた瞬間、何か違うなあと思って意識がもうろうとしました。)
MRI検査で脾臓と腎臓が真っ二つになっていて、血が出血して2000cc越えたら命の危険があると言われて、すでに2000ccぐらいでした、手術室に入った時には意識が無かったです。
5時間の手術でした。
集中治療室に3日間いて、その後20日間以上飲み物食べ物は取れませんでした。
1カ月以上血の小便でした。
50日目ぐらいに妻とハワイに行き医者には止められたが、ゴルフをしました。
2カ月後には復帰しました。(医者も驚いていました。)
怖くなったらやめた方がいいなと思っていて、怖くはないです。
鞭で叱っても言う事を聞く馬もいれば余計に暴れる馬がいて、色んな馬がいます。
馬の気性を見抜くことが必要ですが、馬に合った朝の調教が大事です。

体が硬くなったので体力変化をカバーするために踊るような感じの「的場ダンス」をやっています。
トレーニング、ストレッチなど出来る限りの努力はしています。
東京ダービーで2位は10回有りますが、優勝は無いですので後1,2回のチャンスで勝てないともうチャンスが無いと思っています。
目的があると人間は力以上ものが出る様な気がします。
7152勝の目標に向かって本当に楽しかった人生でした。
目的は無くなったが、お客様の声援があるから精一杯乗って、ファンを喜ばしたいと思います。














2018年11月11日日曜日

中野浩一(元競輪選手)         ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】世界自転車選手権10連覇

中野浩一(元競輪選手)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】世界自転車選手権10連覇
63歳、福岡県久留米市出身 福岡県立八女工業高等学校では陸上選手で高校総体400mリレーの優勝メンバーでした。
高校卒業後競輪選手になって二十歳のデビュー戦から 18連勝など一気に競輪界のスターになりました。
世界自転車選手権スプリントでは1977~1986年まで大会10連覇を達成し、日本人が想像する以上の世界のビックスターとなりました。
37歳で引退するまで歴代最多6回の競輪賞金王となって、ミスター競輪と言われ、競輪選手出身者で初の紫綬褒章を受賞しました。
2020年の東京オリンピックの開催が決まった直後に伺った2013年のアンコール放送です。

東京オリンピックの開催発表の晩は起きて見ていました。
日本自転車競技連盟(副会長)としては選手を育てるのが非常に難しいので、オリンピックに向けて自転車競技全種目フルエントリー出来るような形にしたいし、メダルを取ることが一番の命題になります。
日本のレベルも上がってきています。
スプリント種目、2人で戦う競技。
2人で同時にスタートして3周回って先にゴールした方が勝ちとなる。
残り200mまでは何処を走ってもかまわないが、最期の200mは真っ直ぐ走らなくてはいけない。
準々決勝ぐらいから3本の試合となる。
1977年20歳でデビューした翌年、ベネズエラの大会で決勝は菅田順和選手との日本人選手同士の対戦となった。
結果勝つことができる。
それまで日本人は銅メダルが最高だったが、金、銀を取ることが出来た。

1978年、1979年に西ドイツ・ミュンヘン大会、オランダ・アムステルダム大会では決勝ではいずれもディーター・ベルクマン(西ドイツ)と対戦。
共に勝って3連覇を達成する。
この時の国内賞金獲得額は8000万~9000万円余り、長者番付けの常連となる。
1980年フランス・ブザンソン大会 準決勝では、アマチュア時代、メキシコ・ミュンヘンの両五輪大会においてスプリント連覇、世界自転車選手権アマチュア部門のスプリントを7回制し、「スプリントの神様」と称されたダニエル・モレロン(フランス)と対戦することになった。(事実上の決勝と言われた。)
怖さみたいなものは感じなくて、2本とも逃げ切りました。
決勝でも尾崎雅彦を破り、4連覇を達成した。
4年連続賞金獲得王になり、賞金獲得額は競輪史上初めて1億円を越える。
1981年 チェコスロバキア・ブルノ大会。準決勝で、後に名ロードレース・スプリンターとして名を馳せることになる、ギド・ボンテンピ(イタリア)に圧勝。
ゴードン・シングルトン(カナダ)と決勝で対決して勝って5連覇達成する。
その一カ月後の日本国内のレースで最期に僅差で負ける。

1982年 イギリス・レスター大会 ゴードン・シングルトン(カナダ)と2年連続の決勝。
この年、競輪で落車が相次いで骨折をしたりしていた。
1本目、シングルトンと接触して双方転倒、こちらが妨害したと言うことだったがノーカウントの判定となった。
1本目はシングルトンが取り、2本目は私がかわす際にシングルトンは右ひじを出してきたが、私はこれにひっかからず、今度はシングルトンだけが転倒した。
この判定にカナダ側が抗議に出るも却下され、そればかりかシングルトンはこの際に右ひじを骨折。3本目の競走続行不可能となり棄権。薄氷を踏む思いで同種目6連覇を達成した。
1983年 スイスチューリッヒ大会。 決勝はヤーベ・カール(フランス)と対戦、勝って史上初の連覇。46年ぶりに連覇記録を更新した。
1984年 スペイン・バルセロナ大会。 決勝はオッタヴィオ・ダッツァン(イタリア)と対戦、破って8連覇達成。
1985年 イタリア・バッサノ大会。 決勝では、松枝義幸選手をストレートで下して9連覇を達成した。

1986年 5月下旬、久留米競輪場で行っていた、高松宮杯競輪直前の練習中に転倒し、肋骨などを骨折する大怪我をして世界自転車選手権出場自体も危ぶまれた。
驚異的な回復力を見せたが練習の際に又転倒、同じ箇所を痛めてしまい、骨折が完治しないままコロラドスプリングスの世界選手権に出場することになった。
もう開き直るしかないと思った。
アメリカで勝てば競輪の評価も上がると思ったので是非勝ちたいと思いました。
アメリカ・コロラドスプリングス。決勝では、同じ日本の俵信之選手を下した松井英幸選手との対戦となり、ついに10連覇達成。
日本が金、銀、銅を獲得。
中曽根康弘首相より「内閣総理大臣顕彰」が授与されることになった。

小さいころは走るのは早かったです。
スポーツで身を立てたいと昔から思っていたので、ゴルフでもやりたいと言ったら、お金が掛かるので自転車でも乗ってみたらと言われて、乗ってタイムなどを測ったら早いと周りから言われてそのまま自転車に乗ることになりました。
伊豆の修善寺競輪学校に1年間入りました。
19歳でのデビュー戦から18連勝負けないで九州のハヤブサと呼ばれるようになる。
競輪選手は2700~2800人います。(当時は4400人位いました。)
選手のランクがあり、S級S班は9人しかいません。
毎年格付けの入れ替えがあります。
練習は毎日、最低100km走ります。
若い時はそれを3回やっていました。
私は年間を通して変わらないコンディションを保ちたいと思っています。
国際大会は傾斜が45度ぐらいありますが、国内だと33度位です。
ブレーキが無いので返って安全です。(急ブレーキなどが無い)
レース自身が私を中心に動く所があるのでかえって楽なところがあります。
精神的なものは若い時から知りあいになれていた人とかもあり、最終的には練習の裏付けです。
イギリスではコマーシャルに自転車競技の選手が物凄く多く出ています。
日本のジュニアの層をもっと広げたいと思っています。
底辺を広げればもっともっと強い選手が出てくる可能性が大きくなると思っています。

















2018年11月10日土曜日

今成知美(イッキ飲み防止連絡協議会 事務局長)・若者よ!一気飲み・アルハラで命を落とさないで

今成知美(イッキ飲み防止連絡協議会 事務局長)・若者よ!一気飲み・アルハラで命を落とさないで
アルハラ→アルコールハラスメント
イッキ飲み防止連絡協議会は飲酒事故で大学生の子供を亡くした遺族らが 1992年に活動を始めました。
以来1/4世紀に渡ってポスター、チラシなど様々なグッズを配ってキャンペーン行ってi
ます。
これにはビールや焼酎など酒類業界が協賛、全国大学生活協同組合連合会も協力しています。
それでも学園祭や、ゼミ、バイト先の飲み会での飲酒事故、こういった場所で亡くなる若者は減っていないと言います。
学生だけでなく職場の飲み会、社員寮での行事でも事故は起きています。
遺族が裁判を起こし、幹事や参加者が責任を問われると言う例も相次いでいます。
お酒を短時間に大量に飲むことの危険性や、泥酔した人を放置することによって、引き起こされた飲酒事故の事例から、私達はなにを学ぶべきか、伺います。

毎年若者が亡くなっています。
一気飲みをさせる、これは氷山の一角のデータだと思っています。
1983年から2018年までの間に、156名が亡くなっています。
実際はもっと有ると思っています。
こんな事故を二度と起こしたくないと、東大阪の父親と私達と連絡しあってキャンペーンを始めました。
6大学合同のスキーの合宿があり、ウイスキーの一気飲みをさせられて東大阪の父親の息子の大学生は亡くなりました。
1991年に息子さんが亡くなられて、その翌年にイッキ飲み防止連絡協議会をたちあげ、実態を調査するために事例を寄せてもらいました。
大学向けのキャンペーンをスタートしました。

酔うというのは脳がマヒすると言う事で、先ずは「ほろ酔い」、次に「酩酊」で脳の内部まで麻痺が進んで、足がふらつく、ろれつが回らない、階段から落ちたりして事故が起きやすい。
次が「泥酔」でフラフラとして歩けない、脳の命をつかさどる部分にマヒが進み始めている状態、吐いたものを喉に詰まらせてしまったりして、窒息死が多い、寝ていて低体温になり凍死してしまうようなこともある。
先ずは酒類業界、全国大学生活協同組合連合会、ご遺族と私達のような予防活動をしている団体で一緒にやろうと言う形になりました。
でもまだまだ事故が起きていました。
1985年とんねるずの「一気」という歌がはやって、深夜のTV番組などで一気飲みコーナーなどががんがん飲んだりしてひどい状態でした。
ブームが去ったのかなと思ったが、一気飲みは浸透していきました。
アルコールハラスメント、人権侵害であると言う事で2000年からはアルコールハラスメントに関する注意喚起をしました。
2011年に大震災があり、コンパなどが自粛の時代で、1年後 2012年に又救急搬送が沢山あり、何件も事故が起きました。

1990年代、首都圏の旅行サークルの合宿で専修大学の1年生が参加して焼酎の一気飲みをさせられて亡くなっています。
同年早稲田大学の寮でウオッカの一気飲みで亡くなっています。
1996年に千葉大学新入生の勧誘コンパで焼酎の一気飲みをさせられて亡くなっています。
同年大同工業大学、ユースホステルサークルで日本酒と焼酎のブレンドの一気飲みで亡くなっています。
他に熊本大学医学部ボート部で1999年に焼酎の早飲み競争で、2008年に神戸学院大学ユースホステルサークルの幹部交替で焼酎の4リットルの回し飲みで亡くなっている。
アルコール度の強い酒の一気飲みで亡くなっている。
そのほかの大学でも飲み会で多く亡くなっています。
企業の寮でも同様な事例があります。

熊本大学医学部ではOBのドクターがいるような状況で新入生の歓迎コンパが行われた。
居酒屋で先輩が携帯、財布など預かる。(先輩から言うと酔って無くしたりするといけないので親切でやったということだが、新入生にとっては逃げられない状況 )
酔い潰れた子を運ぶ部屋を用意していた。
新入生は焼酎の早飲み競争をやらされ(新入生がたくさん飲まされるような仕組みで)1時間ほどの間に25度焼酎を8合以上飲まされた。
なかには病院へという指示もあったが、潰れ部屋の方に連れて行ってしまう。
潰れ部屋で巡回して見周りはしていたらしい。
病院に連れて行こうと言う頭をよぎった学生もいたが、また躊躇してしまった。
急性アルコール中毒による、喉に吐いたものを詰まらせたということで亡くなってしまった。
生きている側の学生は口をつぐんでしまう。
裁判に訴えるということになる。
嫌疑不十分ということになって不起訴になる。
民事訴訟で1審で負けてしまい控訴して、安全考慮義務違反と言うところをとって責任を問うと言うことになる。
最高裁まで行って勝訴ということで決着はついて行っています。
大きな一歩でした。

親御さんと活動をしてきましたが、胸がつぶれる思いです。
「なんで潰れ部屋に運んだのか、もし置いていってくれたら店の人が救急車を呼んでくれたと思う。」と言っていました。
助けられない場所に入れられてしまったと嘆いています。
体育系もあるが美術系などもあります。
集団の力は怖くて、先輩後輩、集団心理などで、役割をやらされていたと言うんです。
退学処分になったり、部の廃部、自責を背負っていかなくてはならない。
活動を開始した当時は、大学側も積極的に動いてくれない状況だった。
神戸大学では部活動のリーダーの研修がありました。
医師、大学事務当局から飲酒事故への注意がありました。
今は未成年には飲ませないと言う事で、1年生には飲ませないと言う形が出来てきています。
大学だけでは手が届かないないところもあります。
お断りグッツ等の展開もしています。
「かっこ悪くてくてもいいから逃げなさい」と言っています。
お酒だけがメインで沢山飲ませると言う様な設定があるところ、保険証を持って来いと言うようなこともありますので吃驚します。
潰すことが前提になっている様なところは怖いです。

絶対に酔い潰れた人を一人にさせない。(面倒をみる人がいない状態にはさせない。)
衣服を緩めて毛布等をかけて体温低下を防ぐ。
横向きにして自然に口の中の物を出るような体位を取る。
酔ってない人がちゃんと様子を見ていないといけない。
呼吸中枢が危なくなっている時には、一刻も早く救急車を呼ばなくてはいけない。
絶対に起こしてはいけないと言う気持ちで、このキャンペーンをやっています。




















2018年11月9日金曜日

五味太郎(絵本作家)           ・みんな、人生楽しもうぜ!(1)回目

五味太郎(絵本作家)           ・みんな、人生楽しもうぜ!(1)回目
1945年 東京生まれ、73歳、工業デザイナーを経て28歳で絵本作家としてデビューしました。
手掛けた絵本はおよそ400冊を越え、30年間読み継がれるロングセラーも数多くあります。

昔ポルシェに乗っていて、講演会などに飛ばしてきたが、絵本作家らしくないと言われたが、じゃあ絵本作家とはどういうイメージなのかと言いましたが、電車でとぼとぼ来るような感じだと言われましたが。
ラジオは好きです。
TVは出ると色々めんどくさくて嫌いです。
明け方まで仕事をするタイプなので、どうしても起きるのが昼近くになります。
絵を描いている時に、夜中微妙に筆の音とか紙の音とか耳触りになる時があり、色を塗る時などにはジャズなど音が流れるのがいいです。
言葉を考えるときは、音楽は鳴っていない方がいいなあと思います。
こんな感じを書きたいなあと思う時は直ぐ浮かびます。
纏める時にはあれっと思うようなことが必ずあります。
思い付きは大事にしています。(とんでも無い時に出てきます。)

40年というと、時代の価値観とか色んな意味で変わります。
自分の中に何かあるものをずーっと考えているタイプなので、社会的な問題を描いたものは一冊も無いですね。
手掛かりは日常的なもので、組み合せの中でこれいいとか、組み合わせを楽しんでいるんだと思います。
「絵本図録」を出版、厚さが2cm位。
企画があった時にめんどくさいという思いと、纏めるとまずいと思ったりしました。(全貌を見ない方がいいのではないかと)
全貌を見てしまって、描きにくいなあと思いました。
次に進んでいますが、この前よりも素直でないなあと思ったりします。
1973年 28歳のころ、絵本作家としてデビューしました。
工業デザインは実践的な感じがあって、今も興味がありますが、自分には向いていない部分がありました。
インテリアのデザインなどもやっていましたが、印刷は本を大量に作るので、作るそのものは個人の思いの方法のまま定着出来ていいなあと思いました。
本を出版するのが良いなあと思いました。
みんながチェックして編集会議をやって、読者はどういうふうなものをもとめているとか、工業デザイン的にやっている本もあります。
小説を作る時にそんなことを言っていたら、面白くもなんともない。

絵本も売ろうと思うとみんなが何を求めているか考えるが、僕から見ると工業デザインの作り方の悩み方と同じだと思いました。
絵本=子供の本というイメージがあるが、子供達に何を教えたいんですか、子供たちに何を導きたいのかと言われたが「無いんです」と言っていました。
私は絵で本を描きたいと思いました。
絵だからどこでも通用するんだと思います。
文字はどうしても方向が規定されたり、限定されてしまうが、絵は限定できない、観る人の問題となる。
気配、気分、温度とかは読み手の問題だと思う。
絵本を作っていることは楽しいです、好きなんだと思います。
のんびりダラッとしているのが下手なんです、本を描き終わって編集者に渡ると、やることがなくなるのでがっかりしてしまいます。
気が付いたらこんなに書いてきていました。
自分ではよさそうだなと思っても違ったり、本の反応は判らないです。
意見ではなく気分を伝えたい、体調を含んで気分を整えておく事にめちゃくちゃ努力していることはあります。













2018年11月8日木曜日

荒井伸也(元スーパーマーケット社長・作家) ・"社畜"から抜け出せ

荒井伸也(元スーパーマーケット社長・作家) ・"社畜"から抜け出せ
81歳、1960年大学を卒業して大手商社に入社した荒井さんは人事部で仕事をしていましたが、大きな組織の中で手ごたえが感じられませんでした。
燃えるような仕事ができないかという事で荒井さんが見つけたのは、当時赤字が続いていた子会社のスーパーマーケットでした。
自ら進んで手を挙げた荒井さんは出向し、従業員と対話を重ねながら赤字を克服、大手の食品スーパーマーケットに育て上げました。
親会社の商社からは再三戻るように声が掛かりましたが、これを断り、スーパーマーケットの社長を務めました。
荒井さんは小説も執筆し、「小説スーパーマーケット」は映画「スーパーの女」の原作にもなりました。
子会社での生き方にこだわり、赤字から脱却させた経営手腕とは、小説で訴えようとしたことはなにか、伺いました。

昭和35年(1960年)大手商社に入社しました。
大手商社に入ると海外に行けると思いました。(英語、フランス語が出来たので)
総務部、人事部で衝撃を受けて、そのまま10年間人事部にいました。
女子社員の教育は知的生産があるが、もっと仕事がしたいとうつうつとしていました。
何か面白い仕事がしたいと思いました。
「社畜」、サラリーマンが会社に飼われた家畜みたいになっちゃっているんです。
自分自身が社畜の様で、面白くなかったです、何のために生きているのかと思いました。
苦労してもいいから、面白いことをやりたいと思いました。
街中で、すぐそばの店を通り過ぎてわざわざ遠い店に行くお客達がいて、どうしてなのかと問いかけると、生鮮食品の鮮度がいいということでした。
その店を見に行き比較しました。
鮮度の違いが明確に判りました。
自分で試してみたくなりました。
会社に願い出て、子会社に行くことを決意しました。
当時は子会社に行くと言うことは、サラリーマンのなれのはてで、小会社に行ったらもうおしまいという意味でしたので、子会社に行くことをなんとか避けたいと言う時代でした。
親友たちは止めてくれましたが、結局行きました。

商社がスーパーに進出した第一号なんですが、黒字にならなくて 7年間放っておかれました。
管理職が自分の時代に赤字を出したくないので放っておかれていた。
仕事ぶりが全く駄目でした。
意志を伝えることができない、ちゃんと聞いてくれない所でした。
バックが大商社なので潰れないと、15店舗までの拡大がみとめられていたなど、危機感が無かった。
商品の鮮度も全然駄目だった。
どんないいものを出しても2,3日たてばどんどん鮮度が落ちて来る。
色が悪くなったり、日付が古くなるとパックをやりなおして、日付を新しくしていたので、それを全部なくそうと提案しました。
鮮度を保つための技術、冷たい空気の流れを作る事が重要だが、使っていたケース自体に問題があり、ケースを入れ替えることまでやって何とかなりました。
ケースの性能、陳列の仕方、出し方が重要。
商品の流れをつくる難しさがある。
ベテランはなかなか聞いてくれないので、従業員の若い連中と仲良くなるようにということで、毎晩飲んで話をして仲良くなりまして、段々話を聞いてくれるようになりました。

技術的問題と人間的問題の両方を並行して解決しないと良くならないので、かなり気長にやりました。
関西のスーパーマーケットに行って見て、鮮度が良くて、なんとかコンタクトを取って親切に教えてもらいました。
数年間経ってから売り場が良くなってきました。
モニターの方から色々教えてもらって、問題点を克服してゆき良くなってきました。
黒字になったのは4,5年でした。
スーパーマーケットの難しさと面白さを体験しました。
親会社としては良くやったと言う事で戻って欲しいと言うことで、厚遇を示してきました。
現場の方が面白いと思っていたので、抵抗しましたが、ついに戻される方向に行きましたが、親会社を辞めてスーパーマーケットに飛び込んでいきました。

安土敏というペンネームで小説を書きました。
「小説スーパーマーケット」
日々の人間関係の体験が色濃く反映されている。
中学の終わりごろから高等学校ではうんと書きたいと思った。
現場に行くと現場の数だけ書ける。
一番下の人の情報を中間、上に出来るだけいい形、理解できるよう形に持ちあげると言うことがすごく重要だと思っています。
映画「スーパーの女」の原作にもなる。(伊丹十三による脚本・監督作品。)
私はスーパーマーケットに出会えてよかったなあと思います。
お客様が求めているのは、例えばスーパーマーケットに求めるのは今晩のおかずだとか、明日の弁当の事とか、それが何なのかと一生懸命考えればおのずと答えは出て来ると思います。
目の前の問題を一つずつ解決していけばそれでいいんじゃないかと思います。
現場の問題を変えようと思ったら現場から出発するしかない、だから現場が面白いし現場を経験することが大切だと思う。







































2018年11月7日水曜日

根本一徹(僧侶・いのちに向き合う宗教者の会代表)・もう誰も死なせたくない

根本一徹(僧侶・いのちに向き合う宗教者の会代表) ・もう誰も死なせたくない
昭和47年東京生まれ、24歳の時にバイクを運転していて事故に遭い生死の境をさまよう中で、生きる事の意義を考えるようになりました。
退院後は仏門に入ることを決意し、厳しい修行を重ねました。
現在は岐阜県関市の大禅寺の住職を務めながら、自殺防止の活動に取り組み全国から訪れる人々の話に耳を傾け、寄り添い続けています。

14年ほど前から始めています。
いつでも電話をかけて下さいと全国に発信していましたが、活動をやり過ぎて身体を壊してしまい、救いたい人も救えなくなってしまうので、面会の相談を優先するようにしました。
電話、メールとかで人生を左右してしまっていいのかと、良いと思ったら電話相談、メール相談があるのでそっちに行ってもらって、自分の転機としたいと思ったら来てほしいと、そうしたら自分も命がけで取り組むよと言うことにして数は少なくなりました。
全国各地から、10~80代まで男女同じ様な割合でいらっしゃるようになりました。
緊急状態の時には行って話を聞いたりしています。
電話、メールだと相談して解決した後又戻ってしまうとか、定期的に電話しないと不安を感じたりして依存みたいになってしまうような時があります。
多い時は週に5,6人で、通常は2~3人ということでやっています。
生き方とか人生を見つめてみたり、魂をどう磨いていくかとか一緒に悩んでいます。

来られる方の悩みは様々ですが、誰にも苦しい気持ちを伝えるのが何処にもないと言うんですね。
話せる相手仲間がいればいいんですが、放っておいて手がつけられなくなるような状態になって、周りが動き出すと言う様ではもう遅いので、その手前で早めに気が付いて自分で解決できるような、仲間とかときっかけができればいいなあと思って、そういう活動をしたいと思っています。
とことん話を聞くと言うのが気を付けているところです。(本当の理解)
悩んでいることが判って来るとストーリーが判って来る。
自殺を止めるのには何かできないかなと思って、相談の現場でも色々試したり、みんなで命を見つめる時間にしたいと思って、講座等もやっています。
参加する方に紙に大事なもの(家族、夢など)を書いていただいて、それを一つづ捨てて行く。(真剣に悩みます)
最期の一番大事な一枚も捨てて、死というものは一番大事なものをなくすことなんだよと説明する。
対人関係で悩んでいる方が多い。
心に余裕がなくなって、やらなければいけないと思う事が増えて行って、減らすと言う事が出来なくて、本当に大事なものは何なんだろうと、そこを掴まないと流されてしまう。

大事なことを12枚書いてもらって、一枚ずつなくして行き、そうすると大事なものの優先順位が決まってきて、最期に残るものが残って、色んなことに意識が行っていたなということに気付くと、生き方が変わってくる、人生の羅針盤になって行くのではないかと思う。
最期に二人一組になって20分間この世に言い残したものを言ってもらうが、そうすると感謝の気持ちが出て来て、涙して去っていくんですが、また生まれ変わった時には羅針盤があるので、もう一回生きなおそうと、生まれ変わった友達がそこで出来上がって、命を見つめる場が出来て来ると、なんかあった時に何でも話せる仲間ができるのではないかと思って、やってる訳です。
もし自分が死ぬとどうなるかと言う事を実感してもらうのが大事です。
自分が死ぬとやりたいことも出来なくなり、大事にしている人とも会えなくなる、失いたくないものは何だろうとそこで気が付くと、失いたくないものに時間なり思いなり、自分の生き方を変えて行く上でヒントになるのではないかと思い、模擬葬儀で一回死んでもらうと言う事で気付きがあったり、いざという時の行動にブレがなくなるのではないかと思っています。
模擬葬儀で最期に死ぬ前に一言残して、私がお経をあげて葬儀を始める。
「こんな自分だったけれど皆さんありがとう」と感謝の気持ちを言うと、孤独ではないと気付くこともあります。
今まで苦しんでいたことが小さな事に見えて来ると言うか、昔の事に句読点が打てると言うようなことが起こりやすい。

仏教が好きだった訳ではなくて座禅には興味がありました。
明け方、私のバイクの横っ腹に24歳の女性が突っ込んできて、過失割合が私が0.5で相手が99.5で相手が悪いと言うようなことでした。
私は6時間意識が無くて3か月間入院という事故でした。
膝が曲がらなくなってしまって、ここで終わったら自分の人生は一体何だったろうかと感じるようになりました。
価値観が変わって全てがむなしいようになり、自分を見つめ直したいと思うようになりました。
僧侶募集の記事を見付けて、志望動機をレポート用紙に20枚書いて行って面接に行き受かりました。
厳しい修行をしました。
母の弟が離婚直後に自殺しました。(地域でも凄く人望のあるリーダー格の人でした)
長男が自殺したので動転して、父親が階段から落ちて頭を打って、11年間意識が戻りませんでした。
人生のはかなさ、虚しさ、人間の命ははかないと思ったりして、ショックを受けました。
中学校の同級生で優しくて頭のいい友人が、22歳で自殺しました。
高校時代にバンドをやっていた友人が28歳で骨と皮だけのような状態で自殺しました。
3人の自殺が大きくて、色々悩みました。

どんなに悩んでも自殺だけは避けてほしいと思いました。
生きたいと言うエネルギーのベクトルと、死にたいと思うベクトルは表裏一体で同じなんだと、皆さんおしゃっていて、幸せに生きたいと言っている人間に、死なないと誘っても全然訳がわからない訳で、死ぬことが目的でその先には楽があると言う事がしみ込んでしまっていて、死ぬことだけにプランを作ることだけに集中していて、そこに死ぬなといっても何言ってんのいう感じで、生きたいと死にたいは同じベクトルだと言うんですね。
自殺しようと思って目的地に行ったが大雨で2日間待っていて、切って出血多量だったが、旅館の人が連絡して助かった、と言う事例もあります。
何かのきっかけで死をまぬがれることもある。
きっかけ作りを提供していきたいと思っています。
「いのちの深呼吸」(自殺防止活動に取り組む僧侶・根本一徹さんの日常を追ったドキュメンタリー。 根本さんの活動に魅了されたアメリカ人ラナ・ウィルソン監督が、3年半にわたり日本で撮影を行った。)




























































2018年11月6日火曜日

佐相憲一(詩人・編集者)         ・『沖縄詩歌集』 刊行と詩人の歩み

佐相憲一(詩人・編集者)         ・『沖縄詩歌集』 刊行と詩人の歩み
今年の6月『沖縄詩歌集~琉球・奄美の風~』が出版されました。
沖縄を含めた全国の詩人、歌人、俳人200人余りの作品を集めたアンソロジーです。
佐相憲一さんはこの『沖縄詩歌集』の4人の編者の一人として、現役の詩人たちの参加を呼び掛け自らも寄稿しています。
佐相憲一さんは横浜生まれの50歳、17歳のころから詩を書き始め大学を卒業してからは、横浜、東京、京都、大阪で、料理店のウエーター、学習塾の講師、高層ビルの窓ガラスの清掃など様々な職業につき、その経験が自分の詩の創作に生きているとおっしゃいます。
これまでに『共感』、『永遠の渡来人』、など4冊の詩集をだしました。
7月には初めての小説、『痛みの音階、癒しの色あい』を出しています。

『沖縄詩歌集~琉球・奄美の風~』 320ページ 詩人歌人は200人を越えました。
没故詩人も含まれていますが。
琉球古図は入っている。
沖縄はいろいろ注目されているが、沖縄が占めているものは何なのか、それを現地の沖縄の方々の気持ちに寄りそってみんなが理解しているかというと、なかなかそうは言い難い状況にあると思う。
戦争、平和、琉球文化、歴史的重み、基地問題などで注目されている現在、詩歌の道を通じて、沖縄、奄美等の周辺をもっと知ってもらおうと言う事で刊行されました。
詩歌集を製作する過程で沖縄の詩人さんとの交流が強まったんじゃないかと思います。
沖縄の二つの新聞がこの詩歌集を取り上げて下さいまして大きな反響がありました。
初版発行日が2018年6月23日、沖縄慰霊の日でもあります。
公募趣意書で呼びかけました。
私は現代詩の分野で今活躍している、現役の詩人さんたちに呼びかけて参加してもらいました。

1968年(昭和43年)に横浜で生まれて今年50歳なりました。
家庭環境が複雑だったこともあり、一人で野原、森、海などで親しんでいました。
小さい頃珍しい病気にかかり、30分後遅れていたら死んでいたと医師から言われました。
心臓が止まる恐怖というのが感覚としてあって、これが私のその後の人間観、平和への考えに繋がりました。
世界中のどの国の子供も大人も命を尊重されなければならない、これが私が体で感じた原点となりました。
引っ込み思案でいじめっ子にいじめられました。
小学校3,4,5年の時に担任になったおおわともあき?先生との出会いで大きな転換点がありました。
国語の時間に朗読したら凄く褒めてくれて、作文もとてもいいと言って下さって、私の得意なところをほめてくれて、もっと積極的になるように励ましてくれました。
学級新聞を手掛けるようになり、小説もどきを書いたらみんなに受けて連載になり、これが文芸作品的なものを初めて書いた機会でした。

中学校時代でも学校でも家でも辛いことがありましたが、高校では孤独感が深刻になりました。
17歳のころに死んでしまいたいような気分になっていました。
その時に救ってくれたのがまた文学でした。
ヘルマン・ヘッセの詩と小説に出会ってから、世界文学、日本文学に目覚めて夢中になって、死にたいと言う事も遠のいた様な感じになりました。
詩を書いてみたいと思って書き始めたのが17歳でした。
文学の不思議な魅力に取りつかれました。
早稲田大学の政治経済学部に進みました。
国際関係などを学びましたが、お金を稼ぐために働いて様々な現場を体験して、人と交流する機会があって、生の現実に触れて影響を受けたことが大学時代一番大きかったと思います。
社会人になったときも色々な仕事をしました。
料理店のウエーターとか、工事現場のガードマン、建築現場の荷上げ仕事、学習塾の講師、家庭教師、高層ビルの窓ガラスふきなど色々しました。
住み家も東京、京都、大阪など色々な所に住みました。
ヨーロッパも放浪しました。
様々な人たちと出会う事が出来て良かったと思います。
「この地球自体が詩を書いている」、これを実感しました。
この視点を持った時に初めて色々点々とした人生の全てが繋がりました、全て無駄なことは無くて、繋がっていて受けとめられていて、一つ一つの心臓が地球の中で、地球の詩の中で息づいているんだと感じて励まされました。

20代も人には見せずに詩を書いていましたが、20代の後半に転機が訪れました。
世に出さないとだめだと思って、2冊詩集にまとめて出版しました。
その後投稿するようになり、詩を書くことに自信を持ちまして、第3集を出しました。
『愛、ゴマフアザラ詩』という題名で、小熊秀雄賞を頂きました。
今まで9冊出しました。

「波止場」
夜の港に来ています  しぶきが腹の底に響きます
鳩の公園から霧の中の汽笛まで 夢ばかりみてきました
もしかすると〈希望〉って 前を向いている時の後ろ姿なのかもしれません
昼間の喧騒も闇の中でしずめられ高層ビルや百円ショップや携帯メール
もまれて、もがいて、流されて、ぶつかって
そんな中でも今日、どこかで権利を認められたひとがいて今日、
どこかで結ばれたひとたちがいて 海はつながっています
心の波打ち際から 今夜各地のひとたちの後ろ姿へ この詩を贈ります
ラッシュアワーの駅で聞く人身事故を ダイヤの乱れと苛立つ社会で
夢をばかにしないで生きるひとびとの 人生の波音を わたしは大切にしたいのです

読み手側の意義 テーマについての論文を読むのではなくて、詩の形 文学作品の形で色んな人がいろんな角度で深めているので、それが一堂に会したアンソロジーを読むことで
そのテーマに関心のある方が新鮮にその問題をより掴むと言う事で還元されます。
書き手側、交流の無い詩人と自分の作品が同じテーマで、違う書き方で並んでいると創作意欲にプラスになる。
詩、文学がこの世に存在したお陰で命の根底の処から救われた人間が一人(私ですが)いると言う事を強調したい。
文学を大切にしないあり方は心の問題を疎かにすると言う事で、それは不幸なことだと思います。
詩の心で生きると言うことは、こういう悲惨な今だからこそ大切なんじゃないかと思います。
痛み(心の)というものは人から人へ伝わって共感するんです。
心のキャッチボールが瞬時にできる、それが詩や小説などの文学の魅力だと思います。
子供のころからマイナスモード全開の人生ということで、生きるとか、死ぬとか根源的なところに敏感でした。
もうこの世に生きる希望が無いと言う人が、詩を書いたり読んだりすることで、心の底の方を癒されて新しい自分へと再生して行く、そのお手伝い役の処になぜか私がいると言う事が多くなってきています。
8年前に今の妻に出会って3年前に結婚しました。
愛に関する詩も多くなってきました。
初めて小説文庫を刊行しました。 『痛みの音階、癒しの色あい』
詩の心で小説を書く、これが私の道だと感じました。
『もり』 心の森を総合的にテーマにした詩集です。
「光合成」























































2018年11月5日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】高橋是清

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】高橋是清
講談師 神田蘭
1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)生まれ、1936年2月26日 81歳没。
幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)に生まれ、是清は生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になる。
講談による高橋是清の紹介。
1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)生まれる。
幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)に生まれ、是清は生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になる。
藩の命令でアメリカに留学、帰国後日銀総裁、大蔵大臣、商工大臣、総理大臣を歴任。
留学生としてアメリカに渡った時に、ホストファミリーに騙されて奴隷契約書にサインしてしまう、奴隷としての生活を強いられる。
ここで英会話を習得、奴隷から抜けだして、帰国した。
すでに明治新政府が出来ていて、仙台藩は無くなっていた。
しかし芸者遊びに明け暮れ放蕩三昧。
初代文部大臣森有礼によって農商務省に迎えられる。
特許法を完成させ、特許局長に昇進。
友人からペルーで銀鉱事業で金儲けができると紹介されると、鉱山の経営者になる為、特許局長を辞め全財産をつぎ込み、ペルーへと向かう。
すでに鉱山は廃山と化していた。
帰国して日銀に務めることになる。
日露戦争では見事なまでの資金調達をして、経済から日本を勝利に導く。
「己の運を信じ楽観的に物事を見る、そこから開かれる道がある。
そして私は運のいい男だった。」と述べている。

10歳で横浜でヘボン夫妻(医学者であり宣教師 後明治学院大学を創設する)の元で英語を学ぶ。
酒が大好きで渡航の船の中でべろんべろんになったと言う。(13歳)
酷い目に会っても利用していこうと言うところが凄い。
14歳で帰国、森有礼の部下になる。
しかし、酒を飲んだり遊郭に出入りしたり、放蕩する。
16歳で佐賀県の唐津に行って、唐津藩の英語教授もする。(芸者に諭されて目が覚めて唐津に行ったと言う。)
彼の教え子になったのが東京駅などを作った辰野金吾
18歳で東京に戻り、文部省に入ったりするが、日日新聞の新聞社に英字新聞の翻訳を掲載することもする。
現在の開成高校の初代校長となるが、23歳の時だった。
教え子には俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之がいる。
人に頼まれると断れないたちだったようだ。
乳牛事業に出資して失敗、銀相場詐欺事件に会い失敗とか懲りない人だった。(24歳)
27歳で農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。

1887年(明治20年)33歳の時には商標条例、特許条例を起案して通過させ、発布して非常に特許についての功績があった。
1889年(明治22年)農商務省を辞職、全財産をつぎ込んでペルーに行く。
掘りつくされた銀山だった。
帰国するが、1万5000円(現在の約1億5000万円)の借金をしていて、その後なんとか返す。
ペルーの話を持ち込んだ人が日銀の川田総裁を紹介、日銀に入ることになる。
現在の日銀の建物を建てる責任者になる。(初仕事)
建物の設計者が彼の教え子だった辰野金吾。
明治26年(1893年)39歳の時に日本銀行支部支店として下関に行く。
翌年日清戦争、下関で条約締結。
横浜正金銀行の支配人になる。(経済の仕組みを徹底的に勉強したと言われる。)
高橋是清は外交も、経済も判る。
横浜正金銀行の仕事をやり終えると、日本銀行の副総裁となる。(45歳)
1902年日英同盟が結ばれる。

明治37,8年 日露戦争。(50歳)
日露開戦に備えるために外債を募集するが、英米はなかなか難しい。
イギリスの銀行家達から500万ポンド獲得に成功する。
ロシア陸軍はナポレオンまで破った国なので周りからは勝てないと思われていた。
是清はコミュニケーション能力が人並み外れていたんでしょうね。
アメリカのクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフと知り合い、残りの500万ポンドを引き受けてくれる。
このお金無くしてロシアとは戦えなかった。
明治38年にロシアに勝ってポーツマス条約を締結、戦争が終結する。
領土はとれなかったので、国民の怒りなどもあったが、ルーズベルトの仲介で戦争を終わらせた。(終結の落とし所で、そのまま続けていたらどうなっていたか判らない。)
貴族院議員にも選ばれる。
大蔵大臣に何度もなる。
「1足す1が2、2足す2が4だと思い込んでいる秀才には、生きた財政は判らない」と是清は言っている。
岡田啓介首班の内閣にて6度目の大蔵大臣に就任の時に、軍の膨張主義を戒めて軍からにらまれた。
2・26事件が起きて高橋是清は狙われ暗殺された。
































2018年11月4日日曜日

千葉 繁(声優)             ・【時代を創った声】

千葉 繁(声優)             ・【時代を創った声】
64歳、千葉さんはアニメ「北斗の拳」での悪役やナレーション、アニメ機動警察パトレイバーなど多くの作品に出演されていますが、主役を支える名脇役として知られています。
TV,映画,舞台、ゲームと多くの場で活躍されている千葉さんのスタートはスタントマンでした。

「ハイスクール!奇面組」、一堂零役「機動警察パトレイバー」 などに出演するなど TV、映画、舞台などで活躍しています。
中学ぐらいからアマチュア無線をやっていました。
自分で作ったラジオで色んな放送を聞いていました。
運動が好きで体操部に入って、直ぐに屋上でバク転しろと言われて、なんとか成功して先輩達もほーっと驚きました。
集団就職をしました。(16歳)
寮生活をやっていて、ある友人が歌手になると言いだして、オーディションがあるからついてきてほしいと言われた。
ロビーにいたら、成田三樹夫さんから声を掛けられて、君も受けなさいと言われて、気が付いたら審査員の前で朗読していました。
一週間後に僕が受かっていました。(彼は落ちていました。)
俳優と歌手を養成しているところで、プロの現場を体感していないとだめだと思い、辞めることにして、週刊誌にスタントマンの募集がある記事を見て、電話して事務所に行きました。
バク転が出来ると言う事で、いきなり忍者の恰好をさせられてやることになりました。
忙しくてバイトもできなくなりました。
朝5時半に起きて歩いていたら、ヤギがおいしそうに草を食べていました。
その時には3日食べていませんでした。
ヤギの食べているものを食べてみたが、どうにも食べられなかった。
そんなに食べるものにも苦労した時がありました。
仲間内でお弁当を分けあって食べたりしていましたが、みんな同じような環境だったのであんまりつらいとか思わなかった。

たまに役をいただけて、或る時レンズを見るように言われました。
余り知識も無くて、勉強しなくてはいけないと思いました。
1976年の「ドカベン」で最初の声の仕事をしました。
芝居をもう一度 一から勉強しないといけないと思いました。
研究生として入れていただきました。
徐々に舞台、TV、映画の仕事を貰えるようになりました。
プロダクションを作る話があり、即参加してそれからTV、映画、コマーシャルとかありとあらゆる分野の仕事をやらせていただきました。
TVで洋画をやっていて、声優がやっていることを知りませんでした。
新劇の俳優がやっていることを知りまして、自分でもやってみたいと思いました。
オーディションを受けて、それが「ドカベン」のオーディションでした。
夕方電話がかかってきて、受かったとの事でした。

アニメーションは芝居が決まっていて、間の取り方とか画面に合わせなくてはいけなくて、大変でした。
舞台で体験した感覚をアニメに取り入れたらどうなんだろうと思って、勝手に台詞などを変えて入れていました。
先輩などから怒られたりしましたが、或る方が面白がってくれました。
アドリブを良く言うと言われるが、このキャラクターだったらこんなことを言うんだろうと思って考えながら言っていました。
やっているうちに監督さんとかプロデューサーさんたちから、この線もあるんだよなあと考えてくれるようになりました。
『ニルスのふしぎな旅』 1980年NHKで放送。
それから押井守さんの作品に次々に関わらせてもらいました。
人の財産は人との出会いだと思います。
「北斗の拳」 悪役としての声優
ざこ役にも一人一人の人生があると思うので真剣に思ってやりました。
ナレーションもやる様になりましたが、テンションが上がって倒れたりしました。
あまたいる役者の中からこれやっていただけませんかといわれると、こんな有難いことは無いので、誠心誠意やろうと思っています。
今頂いている仕事を目いっぱいやる、それでいいんじゃないのかなあと思っています。

才能は直ぐ花開くものではなくて、色んな刺激を受けることによって、内在しているものが少しずつしみ出して、或る時パッと開花するもんだと思っていて、好奇心を持って色んなものをなんでだろうと思って、どんどん遊んでもらって、自分の中に表現者としての引き出しにガラクタを持ってきて、そのガラクタは貴方の仕事を助けてくれるのでガラクタを大事にして貰いたい。
一本映画を作ってみたいと真剣に思っています。






























2018年11月3日土曜日

徳永進(医師)              ・"豊かな終わり"を見つめて

徳永進(医師)              ・"豊かな終わり"を見つめて
鳥取市の住宅街でホスピスを備えた診療所を開業しています。
病と戦う人達が最後まで豊かに過ごしてほしいと支えて来ました。
医師になって40年以上、多くの命の終わりに向き合って感じてきたことを伺いました。

家族は深刻な問題に向き合っているので、どうしたら肩の力を柔らかくなるかを考えます。
どうしても過緊張になるのと、良いものを産まない、痛みが強くなったり、睡眠が妨げられる。
過緊張をどうしたらやわらげられるか、「笑う」と言うことはいいことだと考えます。
末期の女性がはう様にしてトイレに行って、最期に間違ってウオシュレットのボタンを押してしまい、娘が大笑いして、本人もそれを見て笑って、笑える状態ではないにもかからわず、思いがけず笑わずにはいられないことに出っくわすことがある。

地元鳥取市の総合病院で20年以上内科医として勤務していました。
そこで出会ったのが死を目の前にしながら、必死に生きようとする患者の姿でした。
自分が死を迎えようとしている患者の、本当の支えになっていないのではないかという疑問でした。
53歳を迎えた時に、患者一人一人とその家族にじっくり向き合う治療を行いたいと診療所を開きました。
どれが正しいか決めるのが好きで、正しい方向をやろうとするが、一人ひとり会って見るとその人なりという感じで、その人に合ったパターンをいかようにでも持てた方が大事だと思いました。
片方で薬によるマネージメントをどうするか、必要ですが、痛みが和らぐ薬物以外を探すのも大切です。
治療だけで無くどうケアするのか、医療に対する考え方が変わっていきました。
ガイドライン、マニュアルなどあることで救われるが、それだけで済まそうと思うと咀嚼できない。
じーっと聞いていると、患者さんの言葉がぼそっと出てきてそれが繕いが無い、不思議な力になる。
ガイドライン、マニュアルに従ったような言葉、上からの言葉は「1の言葉」と呼んでいるが、1の言葉は特徴として言葉に命が無いと言うことです。
自然な言葉は「2の言葉」に沢山あります。
しかし、ついつい1の言葉で走るんです。
「尊厳死」しか言わなかった患者が何が好きかと問うたら「ゆか」と孫の言葉を言って、孫が来た時、「ゆか お帰り、勉強しちょるか」と言ったんです。
これは2の言葉なんです。
2の言葉がどこかで出会ったりすると臨床が和らぐんです。

「死は豊かだ」→死は豊かでありたい、豊かととらえたいと思うんですが、死はあってはならないものというか、閉じふさぎたいものみたいにネガティブな言葉に置きがちだが、「そうなんだろうか」という問いを含んでいる言い方なんですが。
臨床に行くとそこで初めて死した人をみるわけで、人間の姿は生まれてから死体になるところまでをみんなが持っている。
死も全体の中の一つの姿ですから。
死を前にした時の人の心の動きはとても真剣で、表情、言葉、心の動きは真実感あって見事だと思います。
末期の女性に対して看護師が髪、足などを洗ってあげようとして、洗ってあげた後暖かいタオルを顔に置いてあげて10~15秒してから、患者さんが「気持いい!!」と言ったんです、見事でした。
ここからここまでは治療、その後はケアと言うのではなく、ことの始まりからケアも治療も入り混じっている、と言うふうに思います。

自宅での緩和ケアを広める取り組み始めています。
今から半世紀前までは半数以上が自宅で亡くなっていましたが、今は1割程度です。
多くの人は慣れ親しんだ家で死を全うしたいと思っていますが、設備、家族の負担の重さから病院に頼ることになってしまうのが現状です。
人体、人間の命には別の命の仕組みの限界があって、ほどよい人数がこの人口の中では命を閉じてもらって行こうという仕組みが、CT、MRI、PETを越えてあるのではないかと思うんです。
次は別の介護の方法があるが、そっちには意外と目が向かない。
庭の花が見える、孫がいる、近所の人の声が聞こえる、海、風の音、家の料理、香りなど
そういったものは表情も良くなって、死を迎えやすい支えになっている。
訪問看護、訪問介護など介護保険の充実で様々な機器、資源を使えるようになった。
家で亡くなってうまく行ったと思ったが、しかし、娘さんが落ち込んでこられて、「私はなにをしたんでしょう」と言って来たんです。
「しまった」と思いました。
迷惑をかけたくないと言う事があるが、少しぐらいの迷惑を与えたと言う思いが、或る程度あった方がいいのではないかということなんですね。
迷惑なしにしてしまうと、別な後悔が生まれるんですね。
残されたものの後悔を少しでも減らすには、社会資源を使い切ると言う事を目標値にしてはいけない。
人の死に、本人は勿論、家族、そばにいる人がどう死を見つめるか。

或る娘の介護の例、父が嫌いでしたが、1カ月の介護で父との向き合い方があったおかげで、父が好きになったんだと気づかせてもらえました。(死の豊かさ)
出来るだけ後悔しない為には、家族で意見を言い合い、死に参加する、そうしたりすると死が自分の中で溶けて来る。
死の瞬間をこうありたいと言うことは絶対できない。
身体は一つの宇宙なので、自分たちの意志ではどうにもできない。
死を迎える力を見ていると、人間やるなあと思います。
死を前にするとほんとんどの人が誠実にそこの方に向かって行かれます。
命の回路が生まれる時からあって死への回路があって、何処からその回路が始まるのか、そこが判らないところが面白い。



















2018年11月2日金曜日

斉藤隆(元メジャーリーガー)       ・【インタビュー明日へのことば】

斉藤隆(元メジャーリーガー)       ・【インタビュー明日へのことば】 
仙台市出身 、野球の名門東北高校に入学、甲子園に出場、東北福祉大学を卒業後、プロ野球横浜大洋ホエールズに入団、その後、アメリカメジャーリーグでドジャースを始め、5つの球団でマウンドにたちました。
東日本大震災をきっかけに、故郷の球団 楽天イーグルスに入団、チーム初の日本一に貢献、その後選手を卒業します。今は野球解説やアメリカを行き来しながら、メジャーリーグの球団でのアドバイザー業務に当たっています。
少年時代について、人生の節目節目でどのように向き合ってきたのか伺います。

仙台市若林区出身、東日本大震災で若林区は津波で大きな被害をうける。
アメリカのTVで若林区の津波の様子を見ました。
実家は幸いに大丈夫でした。
ひどかったのは父親の実家で、建物が根こそぎ無くなりました。
東京、大阪から特待生を取っていた学校だったが、我々の年は東北地区の人しか特待生を取っていなくて東北高校にしては珍しく地元の力で甲子園に行ったと言われていました。
高校時代はただただ8割がた野球の生活でした。
授業中は寝ていることもありました。
母からは2つ弁当を作ってもらっていました。
母は70代後半です。
母:心の優しい子でした。
  毎日手でユニフォームを手洗いしてから洗濯機に入れました。
  ご飯は1升5合釜で炊きました。(男3人兄弟 末っ子)

会社の方が家に来てリビングは職人さんの酒盛りの場でした。
2階は野球部の部室みたいでした。(兄弟が野球をやっていたので)
野球以外の選択肢が無かったような雰囲気でした。
父が少年野球の監督をしていて見て覚えた感じです。
甲子園には兄が行っていました。
東北福祉大学に進むが、ピッチャーに転向する。(監督の勧め)
やって見て駄目だったら辞めようと思いました。
想像の付かない展開がありました。
大学には佐々木のほか、上岡、矢野、金本、浜名、大塚などがいた。
後には監督になるような人もいて、凄い環境で野球をやらせてもらっていたと後で思いました。

卒業後プロ野球選手として大洋ホエールズに入団、先発投手として1998年の日本一に大きく貢献する。
36歳で大きな決断をする、アメリカのメジャーリーグに挑戦、ドジャースと契約してマイナーリーグからの出発だった。
その後5つ球団でマウンドに立つ。
メジャーリーグに飛び込んだ経験が今に大きな影響を与えた。
野球をやることに対する喜び、感謝が若いころ思っていたころとは違う感じがして、自分に残された時間がそんなに長くないと気付いて、メジャーリーグを目指して行こうと思いました。
スポーツカーに乗ったり家も建てたり夢が現実になるが、その恰好に対して全然活躍で来ていないギャップに埋まらなくなってくる。
虚しいと言うか、違うなあと自問自答が始まりました。(33,4歳のころ)
しかし、不安は感じませんでした。

日本でプレーしている時は相手は5チームでバッターのデータは全部揃っていて、やるべきことは決まっていました。
アメリカに行ったら僕のことを全然知らなくて、ぎりぎりボトムの所で楽しんでいました。
野球の楽しさを教わったのは、子供の頃とメジャー以外の中間は無かったような気がします。
出来ないことを楽しめるか、どうかだと思います。
メジャーに行くと出来ない事、人に対する尊敬の念とかも教わりますし、出来ないことがあって、よし次頑張ろうというシンプルで、そんな戦いなんです。
そういった事を知れて良かったと思います。
緊張する嬉しさがあり楽しかったです。
欠点、自分の苦手な部分と向き合う時間がもてない時は、本当に自分のいいところを理解出来ていないのと良く似ている話で、良いところだけで表面的に頑張ろうとすると、アスリートにとって一流にはりきれないところだと思います。
「楽しめ」とバッティングコーチ(メジャーで有名な選手だった人)に言われました。
アメリカと日本のスポーツの根底の概念が違うと凄く感じました。

引退して3年目ですが、色々見えてきてはいます。
「何故」を紐解いて行くと、判ったこともあるが、野球を支えてくれた方がたをこれからどうリスペクトしながら、新しいいいものといままで続いてきたいいものを、どんな形で継続して行くか、理想的な野球界になるのだろうが一番なんですが。
ゲームで13兆円が動き、MLB(Major League Baseball)が1兆円で、日本の野球は半分以下なので、どうしようかと思った時に、それは感動だと思います。
今後日本の野球界はどう進んでいくのか、どうなったとしても必要だと言われる人間になるために一生懸命スキルアップしています。
選手の年金が無いので選手の保証を上げたいと思いますが、僕の力ではどうしようもないので、頑張ろうと思いますが大変なところがあります。
ほんのちょっとでもいいから野球界の力になりたいと言う思いがあります。







































2018年11月1日木曜日

辻 哲夫(東京大学特任教授)       ・高齢者に安心な団地を目指して

辻 哲夫(東京大学特任教授)       ・高齢者に安心な団地を目指して
高齢化する千葉県柏市の豊四季台団地を安心して住みやすくする取り組みの話です。
昭和39年に誕生した豊四季台団地には首都圏で働くサラリーマンが暮らし、高度経済成長を支えました。
半世紀過ぎた今、高齢化率が40%となって次第に活力が失われてきました。
東京大学と柏市などでは医師会と協力して在宅医療を取り入れ高齢者が安心して生活できるようにし、更に高齢化が進む市町村の医療と介護ケアシステムのモデルにしようと、柏プロジェクトを展開しています。
辻さんはそのリーダーです。
これまで厚生労働省で社会保証制度作りに携わり、事務次官を退任してからは東京大学高齢者社会総合研究機構の特任教授して柏プロジェクトに取り組んでいます。

70歳ですが、ずーっといままで人生現役です。
日本は世界第一の高齢国で、65歳以上の人口が総人口に占める割合が世界で一番で、ダントツでトップで、今後も世界のトップを走って行くわけですが、これからどのようなことが課題かというと、75歳以上の人口が物凄く増えて行きます。
75歳ぐらいから身体が弱り始めます。
世界で経験したことのないことで、最終的には75歳以上の人口が総人口の1/4位になる時代が来ます。
団塊の世代は日本の経済発展の過程で都市部に移動し団地などで暮らしました。
団地の未来をどう考えるかが、一つの象徴です。
典型モデルが豊四季台団地という昭和39年に出来た大きな団地です。
そこがどのような町になっていったらいいのか、ということに取り組んでいます。
今後の日本のあり方を探っているのが柏プロジェクトです。

当時団地はサラリーマンの夢の住み家でした。
安心で活力があって良い街にしようという試みをしています。
東京大学の柏キャンパスがあり、緊密な関係になっていますので、柏で取り組み始めました。
柏市の元保健福祉部長の木村誠一さんとは、現職の時に一定の提案をしました。
モデル図を柏市に提案したが、私もいいと思ってURにも提案したが、まだ停滞していると言うことでした。
やっと私が目指した事に全国でただ一人やりたいと思っている部長に会い、感激でした。
木村さんとの出会いがプロジェクトの入り口になった訳です。
「エイジング・イン・プレイス」、自分が住み慣れたところで最後まで住み切ると言う概念。
世界の共通目標になっている。
弱ってくると病院に行って、日本では約8割の人が病院で亡くなっています。
理由は
①家族に迷惑をかけるから。
②医療上の不安がある。
医療は救急車で病院に行くしかないので、そこで寝たきりになり、施設とかでは多くて困ってる。
家に医師が来てくれれば、在宅介護ができる。
訪問診療の医療が及んでいないと言うことが非常に問題になっています。
在宅医療はどうしても必要で、どうするかが問題となる。
医療、介護もしっかりしたものを地域に埋め込んでゆくこと、このモデルを作ろうとしました。
5年計画でやりまして、現在動いています。
75歳以上の人が一杯いる社会では、一番大事なのは歳をとっても出来るだけ元気でいることだと思う。
東大で飯島先生の研究でフレイル(虚弱)をやっている。
歳をとって弱るのはなぜか、しっかり食べることが大事です。
タンパク質と野菜をしっかり食べる、そのためには口の機能(歯、飲みもく力等)を大事にする。
運動、社会参加、社会とかかわる接点を持つ。
最初に弱る兆候が見えるのは、社会とのかかわりが減り始める時なんです。
出かける回数が減る、友達が減るとか。
いかに社会とかかわるかという事を如何に長く持って行くようにするかということが、みんなが元気でいられると言うことがはっきりわかってきました。
一日一回以上でかける人は、1週間に一回出かける人に比べ、足が弱る危険度は1/4になると言う事。
認知症になる危険度は1/3.5と言う事が判ってきました。
閉じこもらない最たるものは、地域で働くこと。
秋山弘子先生は生涯現役を強く唱えています。
3人で一人分とか、6人で一人分とかで組んで、お互いに相談して、分担して働く。
農業、子育て支援(保育所、幼稚園のお手伝い)、施設での家事のお手伝いなど友達関係を持ちながら手伝う。
その普及に柏では取り組んでいます。
柏では地域で生きがいを持って働ける場所を作りだしている。
柏からいかに全国に広げていくか、厚労省が取り上げて動き始めています。

弱っても、安心、在宅医療が絶対の要件になります。
医師個人の力量に頼るのではなく、システムとして成り立たせる、そうなると地域の医師会が在宅医療を取り組む医師を、増やしてゆく方針を取っていかないといけない。
フォローする為には医師をグループ化してゆく必要がある。
医師の研修プログラムを開発して柏では普及していて、研修プログラムを全国にも紹介されています。
医師としては判断することが重要で、医師と他職種(看護師、ケア関係とか)が連携することが重要です。
連携システムは市役所がやる必要がある。
医師会と市役所が組んで初めて在宅医療が実現するんです。
モデルが柏プロジェクトで全国に知られるようになりました。
市町村と医師会が組む、これがこれからの医療のあり方です。
木村さんとは考え方がなにもかも一致しました、これも非常に幸運でした。
地元の医師会も理解があり、すんなり進みました。
システムなので何処でもやれるはずだと思います。

地域医療連携センターという建物があり、医師会、市役所の保健福祉部、他職種も入っています。
医師会館の移転の話があり、医師会と市役所が同じ場所を作ったら判りやすいと思って出来ました。
地域包括ケアそのものでした。
介護予防政策支援、要介護にならないようにする予防が大事。
これからは一人暮らしが多くなるので、段々買い物が出来なくなって、食べるものがおろそかになったり、ゴミ捨てが大変になったりするが、見守り、相談、困りごとの対応とか、こういうことに地域がきちっと対応出来るようにしていかなくてはいけない。
柏プロジェクトパート2、介護予防と、生活支援システムの整備のモデル化に取り組んでいます。
介護予防は閉じこもらない、コミュニティーで色んな役割を持って閉じこもらない生き方をする。
住民が主体になってコミュニティーを作っていくことが重要で、ようやく着手しました。
出会い、ふれ合い、支え合い、「あい」が最後にみんな付くので「3あい祭り」と言っています。
住み心地のいい、みんなが主役になれるような街作りをしようという方向にむかっていてそれがこれからです。

柏でも40万人の大都市なのでこういう仕組みがあることを知らない人達がいます。
「我が家」という在宅医療の一枚の新聞ですが、柏で全国配付していますが、読んでいる人はそう多くはないと思います。
市民に情報が到達すると言うことは、本当に大変なことですが、一番大切なことだと思います。
日常生活圏(30分で歩いて動けるようなコミュニティー 中学校区単位)の地域ごとに色んな事が整っていないと、安心して過ごしていけないので、日常生活圏単位にそういうものがちゃんとできると言う方向に向かわなくてはいけない。
厚労省では生活支援体制整備事業、見守り、相談、困りごとの対応が出来るような圏域ごとにたすけあいの体制を作りましょうと言う事業がある。
2025年に向けて体制を作って行こうと言うことがどういうふうにできて行くのか、今後の大きな課題です。
「老いては子に従え」という言葉があるが、それはこれからは間違いで「老いてもまず自らが自らのことを考える」そういう時代が来たんです。
先ずは自分が弱らないような努力をする、それと合わせて自分の行動範囲が狭くなるので、地域で自分が何ができるかという事を考える。
地域で仲間ができる。
人生は職場の肩書だけで過ごすには長すぎる。
仕上げは地域に戻って、自分が自分として地域の中で生きる、これからはそう言う社会ではないかと思う。

柏プロジェクトで得たことを論理化する、最初の5年に関しては本を出しました。
次の5年のものも書籍に出したいと思っています。
モデル化して転用できる、それを参考にして自分たちがもっと良い物をつくろう、というような中身の仕事をちゃんとやって行くことが大事だと思っています。
未知の超高齢者社会に対して、新しい方向を出してトライしないといけないと思います。










































































2018年10月31日水曜日

岩楯幸雄(ブックカフェ店主)       ・街の本屋の灯は消えず

岩楯幸雄(ブックカフェ店主)       ・街の本屋の灯は消えず
今年 2月20日小田急線代々木上原駅で、40年続いた小さな書店が大勢の人に惜しまれながら店を閉じました。
店の名前は「幸福書房」、岩楯幸雄さん夫妻と弟の敏夫さん夫妻の4人で朝8時から夜11時まで365日年中無休で切り盛りしてきました。
お客様の顔を思いうかべながら仕入れをし、書棚を通してお客様と会話をすると言う経営方針、こんなに小さな本屋さんなのにほしい本が揃っていると 、多くの読書ファンから熱烈に支持されました。
しかし出版業界の不況の波は容赦なく押し寄せて遂に閉店に追い込まれました。
地元はもちろん全国の幸福書房のファンからは、今なお閉店を惜しむ声が数多く寄せられています。
近くに住む作家の林真理子さんもそんな熱心なファンだった一人です。
閉店から8カ月後、今月22日、岩楯さんは豊島区南長崎の自宅に小さな手作りのブックカフェを開きました。

ブックカフェは手作りで始めて、知らないことばかりで、大変でした。
43,4年前に初めて店を出した土地でもあります。
電機メーカーの営業職をしていました。
通勤途中暇なので、雑誌などを毎日読んでいました。
結果的には本屋が好きで弟とやり始めました。
兄弟喧嘩になるので別の店を出した方がいいと周りから言われ、代々木上原の方に支店を出しました。(兄弟喧嘩はありませんでしたが)
「岩楯」では書店名が読めるかなと思って、名前が「幸雄」なのと、北海道の駅名にもあったし「幸福書房」としました。
代々木上原の店は駅前で広さは20坪の店舗でした。
8時から沢山の本を並べてやってきました。
夜11時までやりました。
八百屋さんのように本を積み上げて、当時50万円の売り上げがありました。
40年間程度本屋をやってきて、30年間は本が売れましたが、最後の10年間は売れなくなってきて、最後の5年間は売れずに辛かったです。
弟と月給10万円ずつになってしまいました。

南長崎を出るのが6時15分ごろで、7時に店に着いて梱包を開いて準備をします。
朝食は後から妻が持ってきて店で食べました。
昼食は弁当で、その後1時間位寝袋で昼寝をして、7時までレジにいて、交替で11時頃までやって自転車で帰ってきて12時半位になり、シャワーを浴びたり食事をして寝るのが2時頃になります。
翌朝6時には起きます。
妻は夜の食事を作ってから寝て、4時ごろ起きたので大変でした。
365日元日もやっていましたが、10数年前に元日ぐらい休もうと言うことで元日は休むようになりました。
学校では緊張してトイレを我慢して、うちの店に来てトイレを借りに来る子が10人ぐらいいました。
電車賃を貸してあげたりして、地域としての存在価値はあったと思います。

林真理子さんが引っ越してきて、サインをしていただくことがとっかかりになり、秘書の方が手提げ袋が一杯になるほど本持ち帰って、サインをして持ってくるとい言う事を続けていました。
TVでそのようなことが放映され、サインをしてくださいと凄い人が集まりました。
それこそ2万冊位になりました。
閉店してから真理子さんの家に伺いましたが、本屋さんに足が向かなくなってしまったと言っていました。
レジにいてお客さんの好みの本が判るので、仕入れを色々考えます。
ここの本屋さんは良い本屋さんだと言うふうにおほめをいただいたのは、自分で仕入れに行くという事が、お客さんの好みの本が手に入れられることからだと思います。
口には出さないが貴方の為にこの本を揃えましたよ、と言うようなことの積み重ねでやってきたので、品揃えのいい本屋だと思われるようになりました。

信頼できる著者の本ならば2冊置こうと思いました。
気付いてほしいと言う思いがあります。
2月に閉店しましたが、2年半前に更新の時期が来て、契約を2年半にしました。
お客さんには3か月前に連絡しましたが、辞めないでほしいと言う声が一杯ありました。
周りからのお金の支えがあったとしても、体力的に持たなくなってきていて、閉店を決意しました。
最後の5日間で出来上がった本「幸福書房の四十年 ピカピカの本屋でなくちゃ!」などを2000冊買っていただきました。
普段一日15から20万円の売り上げでしたが、最後の日は250万円の売り上げでした。
最後の数時間は真理子さんに『西郷どん!』を200から300冊サインしていただきました。
最後の最後に何百人と言うお客さんの前で真理子さんに挨拶をしていただきました。
「文化の灯が消える」とおっしゃって涙が出ました。

最終日は11時頃までかかりまして、「打ち上げ」どころではなくなりました。
閉店して2カ月位は何もする気がありませんでした。
ブックカフェをなんとか立ち上げました。
私のブックカフェは返品の出来なかった商品で、それなりに価値のある本があります。
2020年にときわ荘ミュージアムが出来るので、手塚治虫などそうそうたるメンバーの本が2年後に並び変えられればいいなあと思います。









































2018年10月30日火曜日

佐藤康光(棋士)             ・【母を語る】

佐藤康光(棋士)             ・【母を語る】
京都府出身、6歳で将棋に興味を持ち6年生で小学生将棋名人戦に出場して3位人ります。
1982年中学1年の冬に関西将励会に入会、間もなく父親の転勤で東京に転居、関東奨励会に移籍、1987年に4段プロデユー、1993年6段の時に当時の羽生 善治竜王を破り竜王位につき初タイトルを獲得します。
1998年56期名人戦で谷川浩司名人に挑戦し、名人位を獲得、9段となります。
2017年2月谷川9段の後を継いで、日本将棋連盟の会長となりました。
子供のころは母親に勧められて様々な習い事を経験してと言う佐藤さんですが、友達と遊んだ将棋でおもしろさに目覚めてゆきます。

日本将棋連盟の会長になって1年半になります。(48歳)
棋士としてはベテランの部類に入ります。
藤井聡太7段、国民栄誉賞を受賞した羽生善治竜王、最近脱サラ棋士・瀬川晶司五段の映画、「泣き虫しょったんの奇跡」が話題になり、将棋が注目されてきています。
藤井聡太7段はデビュー以来29連勝を達成とか、羽生永世7冠を達成とか、11人
で争う戦いで6人が同じ勝率で名人挑戦を争ったとか、色々な事が立て続けに起こっています。
若手棋士がタイトルを取る時代になりつつあります。
小学校1年生の時に友達が将棋盤を持ってきて興味を持ちました。
4歳でヴァイオリンも習い始めました。(母の勧め)
3人兄弟で私は長男で弟(歌舞伎をやっている。)、妹がいます。
ヴァイオリンは8年ぐらいやっていました。
将棋は色んな面白さがあります。
勝負、自分なりに表現できる、1対1のゲーム、1局1局のドラマがある、そういった面白さに惹かれて行きました。
段々やっているうちにプロ棋士を目指すようになりました。

母は何事にも積極的に習わせました。
弟とはいっとき将棋を指していた時期はあります。
京都府八幡市で生まれましたが、竹が有名でエジソンが八幡の竹を使って電球に灯を点けたと言うことは地元で習った記憶はあります。
小学校6年生で小学生将棋名人戦に出場し準決勝でNHKに父親と来た覚えがあります。
中学2年で東京に来ました。
初めてのタイトル戦で戦ったのが谷川先生でした。
小学生の頃、大会に行くときは父親に連れて行ってもらいました。
一生の仕事を小学生、中学生の時に選ぶと言うことは、母親も色々大変だったのではないかと思います。(背中を押してくれた。)
口には出さなかったが、母親は結構心配していたと思います。
算盤とかも習いましたが、中学の時には学習塾にも行っていました。(高校受験の為)
プロの対局の記録係を務めるため中学校を頻繁に休んでいたことから、「学校やすみつ君」とからかわれてました。

千駄ヶ谷の将棋会館に近い高校と言うことで國學院高校に進学しました。
17歳デプロになる。(高校2年の時)
正確に早く読むと言われていました。(緻密流と言われたりしました。)
将棋は様々な要素が必要で、計算だけということはないです。
長時間いかに坐っていられるか、持久力が必要になります。
一局で2kg痩せてしまうような対局もあります。
将棋、歌舞伎も江戸時代初期で栄え始めたと言う共通項はある。
将棋も世襲制の時期があったが、80年ぐらい前から実力制に移行しました。
初めてタイトルを取ったのが24歳で竜王位、28歳が名人位、そのほかにも色々タイトルは取りましたが、王将戦で最初3連敗してその後3連勝して、最後の試合で負けてしまったと言うこともありました。(3連敗後に4連勝すれば初ということだったが)
プロになってから32年目になりますが、子供の時と変わらず情熱を持って将棋に接すれると言う事を持ち続けられると言うことは、将棋の世界に入って良かったと思います。
子供のころは負けると良く泣きましたが、将棋が嫌いになると言う訳ではなくて、自分が厭になるという意味合いが強いですね、自分との闘いですね。



















































2018年10月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】萩原朔太郎

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】萩原朔太郎
「学校時代のことを考えると、今でも寒々とした悪寒が走るほどである。
その頃の生徒や教師に対して、みな一人ひとりに復讐をしてやりたいほど、僕は皆から憎まれ虐められ仲間はずれにされ通してきた。
小学校から中学校にかけ学生時代の僕の過去は、今から考えてみて僕の生涯の中での最も呪わしく、陰鬱な時代であり、まさしく悪夢の追憶だった。
学校にいる時は教室の一番の隅に小さく隠れ、休業時間の時には誰も見えない運動場の隅に息を殺して隠れていた。」(萩原朔太郎

頭木さんは20歳の時に難病潰瘍性大腸炎を発病し、13年間に渡る療養生活を送りました。
その悩み苦しんだ時期に心に染みた言葉を「絶望名言」として御自分で紹介していらしゃいます。

1886年11月1日生まれ、1942年に亡くなっています。(56歳)
萩原朔太郎はラジオ好きだったらしい。
39歳の時に東京に出て来る。(1925年)
日本で最初にラジオ放送がされたのが同年3月。
新しいもの好きでラジオに夢中になる。
石川啄木、谷崎純一郎は同い歳。
カフカが生まれたのが1883年、ほぼ同年代。
萩原朔太郎は芥川龍之介と交流があった。
学校では辛い目に会っていた。
「僕は比較的良家に生まれ、子供の時に甘やかされて育ったために、他人との社交について自己を抑制することができないのである。
そのうえ、僕の風変わりな性格が小学生時代から仲間の子供と違っていたので、学校では一人だけのけ者にされ、周囲から冷たい敵意で憎まれていた。」

父親は東大の医学部を首席で卒業して前橋で病院を開いていた。
経済的に豊かだった。
温室育ちで、繊細で過敏になって行ってしまう。
朔太郎は中学で落第し、高校の受験でも失敗してしまう。
熊本の高校にはいるが翌年落第して、岡山に転校するが落第して、大学に入るが退学する。
もう一度大学にはいるが又退学する。
その後京大の試験を受けるが不合格、早稲田を受験しようとするが、ミスがあって駄目になってしまう。
結局そのまま家にいて詩を書きながら、マンドリンを弾くという事になってしまう。

「特に強迫観念が激しかった。
校門を出る時にいつも左足からでないと踏み出せなかった。
四ツ角を曲がるときにはいつも 3べんずつぐるぐる回った。
そんな馬鹿馬鹿しいつまらぬことが、僕には脅迫的な絶対命令だった。
だが、一番困ったのは意識の反対衝動に駆られることだった。
例えば町に行こうとして家を出るとき、逆に森へ行けと脅迫命令が起こってくる。
そうするといつの間にか僕の足はその命令を巡行して反対の森の方に行っているのである。」
一番困ったのは意識の反対衝動に駆られること、これは人間関係が難しい。
好きな友人でも「馬鹿野郎」と言ってしまったりする。
朔太郎はドストエフスキーが好きだった。
ドストエフスキーの登場人物が強迫性障害みたいな症状があり、自分が共感して好きになったと言う。
朔太郎は年齢を重ねて来ると、強迫性障害みたいな症状が少なくなってきて、生きるのが楽になったという。
しかし創作能力が衰えてきてしまう。

生きることはいつも辛くて毎日が試練を乗り越える連続であると、そうするとどうしてもいろんなことを考えなければいけない。
こんなにつらいのに何で生きて行かなければいけないのか、とかと言う事を考えないといけない。
さーっと生きられる人に比べてものは考える、試練を乗り越えなくてはいけないと言うことになると人間的な魅力が高まって来る。
そういうところが創作に繋がるのかと思います。

朔太郎は音楽が好きで最初音楽家になろうとしていた。
17歳で銀座の店に輸入された3つしかないマンドリンを購入して、本格的に勉強した。
前橋市でマンドリン倶楽部の演奏会を頻繁に開催、それが群馬交響楽団の礎になる。
マンドリンの独奏曲を作っている。
*「機(はた)織る乙女」 萩原朔太郎作曲
「食い物が全く尽きてしまった時、彼は自分の足をもいで食った。
かくして、たこは彼の身体全体を食いつくしてしまった。
何処もかしこも残る全て残るくまなく完全に。
けれどもたこは死ななかった。
彼が消えてしまった後ですらも、なおかつ永遠にそこに生きていた。
ある物凄い欠乏と不満をもった人に目に見えない動物が生きていた」
(「死なない蛸」 短編)
僕の場合は20歳でもうベットに寝たままだと言われ、どうなっていくんだろうと、満たされない思いだけが残っていた。
亡くなった人も居ただろうし、ベッドに色んな人の思いが凄く残っているのではないかとその時に思いました。

「僕は初めて芸術という言葉の意味を知ったような気がしました。
それは一般に世間の人が考えているようなものではなく、それよりもずっと恐るべきものです。
生存欲の本能から「助けてくれ」と絶叫する被殺害者の声のようなものです。
その悲鳴が第三者に聞こえた時に、その人間の生命が救われるのです。
そして芸術の価値はその絶叫、真実の度合いの強弱によって定まるものと考えます。」
(北原白秋への手紙から引用)
とっても面白い考え方です。

「一番深い地獄にいる者ほど清らかな言葉で歌う事が出来ます。
天使の歌だと思っているのは、実は彼等の歌なのです」 (カフカ)
同じ様なことを言っていると思います。
「その悲鳴が第三者に聞こえた時に、その人間の生命が救われるのです。」このことは大事で、芸術は悲鳴である、その悲鳴を聞かれると言うことが大事だと言っている。

「私が魂かぎり、生かぎり叫ぶ声を、多くの人は空耳にしか聞いてくれない。
私の頭の上を踏みつけて、この国の賢明な人達がこう言っている。
「詩人の寝言だ」。」
詩とか小説とか芸術とか必要としていない人がいるが、本当はおかしな話だと思う。
色んな現実の中から、一つの現実の典型的パターンを取りだしたのが物語とか詩だと思うので、それを意味無いと言って現実が好きということは判らない。
寝言かもしれないが寝言の何処が悪いと反論したい。
その悲鳴が第三者に聞こえた時に、その人間の生命が救われるのです。
朔太郎は正直な人だと思います。
「詩はただ病める魂の所有者と、孤独者との寂しい慰めである」、と朔太郎は言っている。
「絶望名言」と同じだと思います。



















































2018年10月28日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】
*チャイコフスキー作曲 四季から「10月」 秋の歌 チェロ
今日はチャイコフスキーの遺伝子。
洗練されたウイーン、パリの音楽とチャイコフスキー音楽は相思相愛なんですね。
チャイコフスキーが一番尊敬していた作曲家はモーツアルト。
*「モーツアルトピアーナ」 第3楽章 祈り  
1791年作曲 
元々は宗教曲を編曲
調べはモーツアルトですが、弦の響かせ方はロシアンロマンが入っている。
*タンゴ・パセティック  チャイコフスキーの交響曲 第6番「悲愴」の要素も入っているが、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のメロディー。
「アリア」のメロディーも聞こえてくる。
*ジャンゴロジーから「悲愴のインプロヴィゼーション」   ジャンゴ・ラインハルト(ギター)とステファン・グラッペリ(ヴァイオリン)の共演 1949年録音 

セルゲイ・ラフマニノフ
一番チャイコフスキーと繋がりが深い、格調高いロマンティックなメロディーを紡ぎ、ラフマニノフの音楽はアメリカの映画音楽とかミュージックの音楽に伝播していった。
*「ヴォカリーズ」 セルゲイ・ラフマニノフ作曲 1912年
歌詞がなく、母音のみで歌われる歌曲のこと。様々な編成に編曲され親しまれている。

*チャイコフスキーの交響曲 第6番「悲愴」第二楽章 ワルツの部分
(普通3拍子だが5拍子のワルツ)


2018年10月27日土曜日

山崎 亮(コミュニティーデザイナー)   ・人と人を結ぶデザイン

山崎 亮(コミュニティーデザイナー)   ・人と人を結ぶデザイン
1973年愛知県生まれ、大学で景観デザインを学び、設計会社では公園や街並み保存の設計を手掛けていました。
1995年の阪神淡路大震災ではボランティアとして、被災状況の調査に立ち会い被災者がお互いの助け合いによって再生した事例に数多く出合いました。
コミュニティーデザイナーという新しい仕事を立ち上げたのです。
人口が減少する社会では、新たに人と人の交わりを結び直すデザイナーが必要と考え、島根県海士町町おこしなどを展開しています。

コミュニティーデザイナー、デザインと言うと専門家が何か美しく作ってくれる印象があるかと思いますが、アマチュアの人々が沢山集まってそれにプロの人も関わってデザインすることは、何デザイナーと言うのかと言うと、コミュニティーのかたがたと一緒に何かをデザインして行く行為だと考えました。
地域の方々と一緒にこの地域がどんなふうになったらいいのかなあとか、どんなふうに描いていったらいいか一緒に考えて、未来を一緒に作って行くこと、これをコミュニティーデザインと呼んでいます。
繋がりを作って行くきっかけにもなるし、繋がった方々が自分たちの地域の課題を解決して行くような、未来を一緒にデザインして行くような場を作り出したいと思っています。

島根県海士町では町長がどのように元気にして行くのかという事を色々考えられていて、我々が関わる前から様々な事業を進めていました。
2007年の時から次の10年間に何をしたいか計画を作りたいと言うことで、総合計画と言われていました。
住民の意見を聞きながら計画を作りたいと我々に依頼してくれました。
住民の方々の意見を聞くことになり80人の人々が来て、気になるテーマについて話し合いを繰り返し2年ぐらい続けました。
それを計画書に纏めて、未来に向けて活動を実現させる為に、結びつてけていきました。
地方自治体から仕事を頂いたのは海士町が最初でした。
そのことは新聞、TV、雑誌などで全国に広がりました。
町民一丸となって取り組みました。
大阪の泉佐野市にある丘陵緑地の所を手作りで公園を作り続けている状態が続いています。
パークレンジャー(市民の方が講習を受けて公園を作る人達)が来ていて、どの木を切ってもいいかどうかとか、公園を作ってくれていて9年ぐらい続いています。
自分たちで公園を作って自分たちで遊ぶ。
65~75歳の方がたが多く集まってくれました。

秋田県の秋田市から高齢で元気に生きて行く人たちを増やしていきましょうと言うプロジェクトが始まり、手伝ってほしいとの依頼が来ました。
高齢で元気で楽しそうに生きている人達を取材して、その人たちが何故こんなに元気なのかを分析した結果を美術館で展覧会として纏めましょうと言うことで、展覧会を作りたい人を募集しました。
50人ぐらいが応募してくれて、それにスタッフと一緒に高齢で元気で楽しそうに生きている人達を見付けて回りました。
29人取材、撮影したりして展示のきっかけにしました。
女子高生とおばあちゃんがSNSで毎日のように会話をしたりしていました。
色々活動を起こして行ってくれました。
市民の方々が関わってくれるのには、えっと思うようなことから入らないと参加してくれないことがある。
病院をどうしたらいいのか、お寺が元気が無いのでどうしたらいいのか、公園をもっと良く作るにはどうしたらいいのか、社会の課題を解決してゆくタイプの仕事が多いです。
社会の課題に対して市民の参加を募りたいと思った時には、解決するための正しさだけでなく、楽しさ、面白そうと言うような感性に訴えかける方法もいっしょに入っていた方が、より多くの方に興味を持ってもらえる。

最初にインタビューしてどんな地位かを探ることから始まります。
面白い人を10人紹介してもらって色々話を伺います、そして友達になる。
そしてそれぞれ面白い人を3人紹介して貰って、またそこから紹介してもらって90人ぐらいになります。(50~90人の人との話を聞く)
ワークショップを開いて、多くの人に来ていただいて話し合いをしていただきます。
最初の声をかけた数十人の人にも来ていただきます。
7~8人ずつぐらいで話し合いをしていただきます、
地域の課題、その解決法、事例を学びながら、地域の課題をどう解決して行くのか決めてもらいます。(1年間に10回位会合を続けていきます)
チームビルディング(組織を作って行く 主体形成 信頼関係をより作って行くゲームなどをやります。)
活動を起こしてくれたらそれをサポートして行く。
①インタビューをして→②ワークショップをやって→③チームビルディングをやって→④活動をサポートして行く。
途中は試行錯誤の連続です。
一人でいた方がいいと思う方がいるかもしれないが、ずーっと一人でいていいかというと、誰かと出会いたいという気持ちになることもあると思うので、こういう場をどううまく作ってゆくのかということは我々の仕事だと思います。

1995年の阪神淡路大震災の時に大阪にいて、都市計画、建築設計、庭、公園の設計などを学んでいました。
被災地に行って被災状況を調査するプロジェクトに関わりました。
被災の光景をみてデザインは一体何が出来るんだろうと悩む時期がありました。
地域の方々がお互い励まし合っている光景に出合いました。
話し合う場が地域にあったらいいんじゃないかと思いました。
大学院修了後建築会社に入りましたが、公共施設を作る時に市長とか会社の課長とかの考えではなく、地域に住んでいる方がどんな建築になったらいいか、という話をしてその内容を設計に反映した方が、正直なのではないかと考えるようになりました。
人と人とが話し合う場を作って行く方が、魅力だと感じるようになりました。
2005年にコミュニティーデザインの専門の事務所を作りました。
最初は来てくれませんでしたが、2007年の時に海士町の仕事をさせてもらって知ってもらうきっかけになりました。
2011年に東日本大震災があり、復興の時には地域の方々の意見を聞きながら復興計画をした方がいいのでは無いかということになりました。

我々も色んなところに呼んでもらうことが出てきました。
スタジオLは20人ぐらいのチームでやっています。
インターネットを通じて仕事ができる様になったのは大きなきっかけだったと思います。
プロジェクトリーダーをまず育てて、また次を育てるにと言うふうにしてやってきました。
年に一回は必ず全スタッフが集まって、1年間自分たちがどんな仕事をやってきたかを共有する場として2泊3日の合宿を行い厳しい意見の交換をやっています。
福祉、介護はとても大切になるだろうと思っています。
これは地域と繋がらないとうまくいかないだろうという問題意識があると言うことがわかってきました。
呼ばれた講演で、福祉、介護のプロジェクトもみんながあっと驚くような、楽しいと思うようなきっかけをつくりだしたらどうですかと話をすることが多かったが、どうしたらいいかといわれることが多かった。
これからの介護、福祉を考える方々、現場の方々、デザイナーの方々、クリエーターの方々などが一緒に話し合いの場を作ろうとしました。
全国6ブロックに分けて、ワークショップを6回繰り返して、福祉介護クリエータの方々がチームを作って10チーム(全国で80チーム)がいっしょに介護福祉の事を考えて、解決の道を生み出して活動をやってみる、それをお手伝いをするのがデザインスクールです。

関東ブロックで第1回目を行って60名位が参加して、実際の介護現場を見に行って今後問題点を見付けだして、活動して行くと言うことになっています。
他のブロックでも進め始めています。
「縮充する日本」を出版。
毛糸で編んだセーターは洗濯すると縮むが暖かくなる、わざとするんですが、それを縮充ウールと言います。
日本の人口は今後減っていきますが、縮減、縮退は良くないと思う。
人口は減って行くが、社会課題に参加型で取り組んでゆく人達の数が増えて行くことを「縮充」と呼べないかなあと思いました。
定住人口は減って行っているが、活動人口が増えて行っている状態になると地域としては縮充になるのではないかと思う。
自分たちの地域は自分たちが関わって、作って行こうと思う人の数が増えてゆくという社会を目指したいと思っています。










































2018年10月26日金曜日

ヨシタケ シンスケ(絵本作家)      ・【人生のみちしるべ】コドモのミカタ

ヨシタケ シンスケ(絵本作家)      ・【人生のみちしるべ】コドモのミカタ
1973年神奈川県生まれ、45歳。
2013年に初めてのオリジナル絵本、「りんごかもしれない」を出版し大ヒット、これまでに「ぼくのニセモノをつくるには」、「もうぬげない」など10冊あまりを出版し、数々の絵本賞を受賞する絵本作家です。
ヨシタケさんの最新の絵本のタイトルは「みえるとかみえないとか」、ヨシタケさんにとって目が見えないという障害をどう表現し、子供達が面白いと思うような絵本にするか、そこが挑戦だったと言います。
ヨシタケさんはどんな方なのか、最新作に込める思い、これまでの人生で大切にしてきた道しるべについて伺いました。

会社を辞めて坊主頭にして20年ぐらい坊主頭です。
中学生の頃にバレーボールをしていたが、体育系の乗りが理解できなくて辞めてしまいました。
高校では美術部に入りました。
2013年「りんごかもしれない」という絵本でデビューして子供達に大人気になりました。
日常の何でもないことを題材にして、話がどんどん展開して行く。
人一倍常識のとにとらわれる子だったような気がします。
イラストレーターとして、絵本を描く前10年やっていまして、ひとつのネタに対して色んな答えを出す訓練をしてきました。
子供ができたということも大きかったと思います。
小さい頃の自分に喜んでもらうため、絵の本を心がけて来ました。
シンプルな線で描くが、絵が実はへたくそで、筑波大学大学院芸術研究科総合造形コースに入りましたが、デッサンが下手でした。
見ないで描こうと思って、或る時から見ないで描くことにしたら、絵が描けるようになりました。

或る程度の基本を押さえれば、人に伝わると言うことが、僕の好きなものが伝わると言うことが分かった時に、○に点々で顔を描くことにちょっと進化したバージョンと言った感じです。
大学、大学院では現代美術を勉強するところでした。
着ぐるみを作る職業になりたいと思っていました。
卒業してから会社(ゲーム会社)に入りましたが、半年間で辞めました。
企画書をいかにも書いているふりをして落書きしていました。
或る時見られてしまったが、経理の女性で「可愛い」と言ってくれました。
人に見せてもいい絵なんだと気がつきました。
自費出版で出したが、売れなくていたが、或る時出版社から他のものも見せてほしいと言われました。
イラスト集を出さないかと言われて、30歳の時にイラスト集を出しました。
それがきっかけでイラストの仕事を引き受けるようになりました。
40歳でデビューして2013年「りんごかもしれない」という絵本を出しましたが、売れるはずはないと思っていました。
思いのほか売れることになりました。
自分で嫌いなことをやらないようにしました。

最新絵本「みえるとかみえないとか」 東京工業大学準教授の伊藤亜紗さんが、4年前に出版した「目が見えない人は世界をどう見ているのか」を元に作った絵本ですが3年かかりました。
(通常他の絵本は約半年)
難しいテーマでした。
絵に描くとかわいそうに見えてしまった。
主人公は地球では普通だが、ある星ではその宇宙人が後ろも見えることが出来、「君後ろが見えないの」と宇宙人から障害者扱いされる。
普通の人ということが無くなる。
舞台を宇宙にすると言うことに凄く時間がかかりました。
不謹慎なものになってはいけないし、当事者がいらっしゃる時に勝手な事を言うなと、我々はそんななまやさしいものではない、勝手に笑いものにするなと言われてしまうと、こちらとしてどうしようもない。
探りながら作った本です。
みえるとかみえないとか」
「僕は宇宙飛行士。・・・・この星の人は後ろにも目があるので、前も後ろも一度に見えるらしい。・・・あっ、君後ろが見えないの。・・・不便じゃない、可愛そう。君は後ろが見えないから背中の話はしないでおこう。・・・凄いちゃんと歩いている、みんなよけてあげて。・・・見え方が違うだけなのに、みんなすごく気を使ってくれて変な気持だった。・・・生まれつき後ろだけ目が見えない人がいる。一緒だ僕と同じだと思うと安心する。・・・いろんな星があったなあ。・・・うまれつき全部の目が見えないと言う人がいた。その人の世界の感じ方はずいぶん僕と感じが違っていた。 自分の予定はメモをしないで録音しておく。・・・外を歩く時は杖を使う。・・・入れ物が同じだと食べてみるまで判らない。・・・音楽など耳を使う仕事、マッサージなど手を使う人が多い。・・・目の見えない人は音、匂い、手触りで色んなことが判る。
…見えないからこそできることも沢山ある。・・・見える人と見えない人では世界の感じ方が全然違う、と言うことは全然別の世界に住んでいると言うことだろうか。
・・・「見えいないってなんか面白そう?」、「えーっ僕は見える方がおもしろそうだと思うな。」時々取り替えられればいいのにね。」
・・・そもそも僕たちはみんなちょっとずつ違う、その人だけの見え方や感じ方を持っている。
・・・どんなにやることや考え方が違っていても、自分と同じところは必ずあると思う。
・・・うーん、宇宙も地球も一緒だな。・・・同じところを探しながら、違うところをお互いにおもしろがればいいんだね。それは凄く難しい様な気がするがじつは簡単なものなのかもしれない。・・・君手が二本しかない、えーっ可愛そう、厭やっぱり不便そうに見えちゃうよね。」

自分とは違う世界の感じ方をすると言うこと自体に「面白そう」と感情を抱くこと自体は、悪いことではないと思うが、どういえばいいのか、タブー視することもよくない。
視覚障害の絵本を描く時に「面白そう」ということに対して、どういう返事ができるのか悩んでいた部分でもあり、僕がみつけた答えの一つが見えない人に対して「見えないことが面白そう?」と聞いた時に、見えない人から「僕は見える方が面白そうだと思うな」、と言うふうなお互いを知ることの面白さに繋がればいいと思う。
無理なのかなあとくじけそうになった時もあります。
次のページめくりたいと思っている訳なので、読後感が「面白かった」と言うふうになってくれたのが成功です。
みんなが触れにくいテーマと、どうでもいいと思われているテーマを同じ熱量で扱って行きたい。
小さいころ自分が感じていたことに、嘘を付かないことが一つの目標です。

















2018年10月24日水曜日

柳家花緑(噺家)             ・噺家でよかった

柳家花緑(噺家)             ・噺家でよかった
人間国宝で5代目柳家小さんさんの孫で22歳で真打ちになった柳家花禄さんですが、9歳から落語を始めて中学卒業後、おじいさんの小さん師匠に弟子入りして、戦後最年少の22歳で真打ちに昇進しました。
現在弟子が11人、古典も新作もこなします。
また俳優としても舞台、ドラマに出演して、幅広い活躍をしています。
花緑さんは昨年「花緑の幸せ入門」という本を出版して、御自身の発達障害を告白して話題になりました。

落語家は世襲制ではなくて、2世の方が少ない。
800~900人いる中で、東西合わせて2世は30人いないと思います。
持ちネタは190幾つといった感じです。
落語家の記憶力は普通の人と変わらないので、やっていない話はどんどん忘れて行きます。
20~30席位が頭にあって放っておくと、どんどん消えて行くような印象です。
稽古をして思いだし稽古をしています。
覚えること自体楽にはならない。
『落語家はなぜ噺を忘れないのか』という本を出しました。
どんな気持ちで上がっているのかとか、祖父、古今亭 志ん朝師匠のことなど書かせてもらっています。
本当に言って下さるのがどれほどありがたいことか、1つを発見するのに10年掛かるかもしれないところを、違うよと気付かないところを言って下さったときに本当に有難いと思います。

洋服で椅子に座ってやることもやっていて、私だけです。(新作落語だけ)
大事なのはちゃんと演じる演技であって、もし批判されることがあるのであれば、僕の演技が問題であると思っています。
1971年8月2日生まれ、母親の父が小さん師匠、兄がバレエダンサー。
兄は腰を痛めて教えています。
母は元々バレエが好きだったので影響で兄は10歳からバレエにうちこみました。
私もいっとき兄とバレエをした時期がありました。
9歳から落語をやるようになりました。
最初叔父の6代目柳家小さんから落語を習いました。
部活をやりたければ、落語家にはならない、落語家になるならば部活をしないで、日本舞踊、三味線など落語に役立つことをやりなさいと母から言われて、僕は落語を9歳からやってきたので落語家になることを決めました。(小学校6年で母に宣言)
中学3年の時に高校に行かなくていいのかと母から言われましたが、落語家の道に入ってきました。
落語家は厳しい世界だと思います。
1987年正式入門しました。
1989年に「小緑」で二つ目、1994年真打昇進、「花緑」に改名。(22歳)
当時かなりプレッシャーはありました。
かなり自信を持てるようになった時には30歳になっていました。
平成9年度国立演芸場花形演芸大賞(1998年)
彩の国落語大賞(2000年)
平成12年度国立演芸場花形演芸大賞(2001年)

小さい時は勉強が出来ずに、多弁な子でした。
去年発売の「花緑の幸せ入門」で子供時代の学習障害を公表。
正直に自分のことを書きたかった。
子さんの孫ということが自分の中に不満の様にあって、色眼鏡で見られているような思いが強かった。
本当の自分を見て好きとか嫌いとかを言ってほしいという欲求があった様で、自分をさらけ出したいと思った。
学習障害についてネットで調べてみると、全く自分のことだという思いがあり、今まで感じたことのない安らぎを得ました。
脳の病気だと言うことでストレスがたまったり、疲れやすいということも判りました。
治る病気ではない、生涯治らない。
空気が読めないということもある。
落語家になって僕は幸せです。
小学生からテストで0点を取って、ついていけなくなって中学ではチンプンカンプンでした。
字が読み書きができない、テストの問題すら読めない。

ナレーションなどはルビを振っています。
「芝浜」をやった時にサイン会をやったが、その時に相手の名前を書いて貰って、それを見て書いて渡していたが、聞いた「芝浜」聞いたが良かったから「芝浜」と書いてほしいと言われて、先に「浜」を書いてしまってその後に「松」と書いてしまって、ハッとして書き直しました。(その時は大変疲れていた。)
何時もかける文字でも急に書けなくなってしまうこともある。
ひらがなでも書けなくなる可能性がある。
状況に応じて読めなくなる可能性がある。
人によって大分症状が違う、個人差がある。
学習障害と言ったようなことが、広く知れ渡ることによって周りが理解してくれて、当人がまず自覚してそれを受け入れて、発信してほしいと思う。
弟子は11人います。
最初弟子を取っていいかどうか迷った時に、小さん師匠から直ぐに「取りなさい」と言われました。
「教えることは学ぶことだ」と言われました。
祖父は40人から弟子を育てて、実感から出た言葉だったと思います。
師匠に返すものはなにも無くて、下に送って行く、伝統芸能を続けて行くことが、師匠に対する恩返しではないかと思いました。



































2018年10月23日火曜日

渡邉妙子(美術館館長)          ・女子(おなご)が伝える刀の魅力

渡邉妙子(美術館館長)          ・女子(おなご)が伝える刀の魅力
今若い女性の間で日本刀が大変なブームになっています。
日本刀を扱う美術館には多くの若者達が訪れ、実際に日本刀を触るイベントにも殺到しているそうです。
渡邉妙子さんは日本刀のコレクションを有する美術館で、80歳を越えた今も現役で館長を勤め、全国を回って講演会を行っています。
しかし、渡邉さんが美術館で学芸員として働き始めたころは、女性の学芸員は少なく日本刀の世界は非常に険しいものでした。
日本刀は武士の魂、女が手にすると穢れると言われ、最初は展示の為に日本刀を触ることすら許されなかったと言います。
いまでこそ日本刀を所蔵する美術館で、多くの女性学芸員が活躍していますが、その草分け的な存在の渡邉さんに学芸員として日本刀を扱える様になるまでの御苦労や日本刀の魅力などについて伺います。

昭和41年に美術館が開館するときに、初めて日本刀を目にすることになりました。
その時に持つことを許されなかったことはショックでした。
本阿弥日洲さんという(後に人間国宝になった)研ぎ師に女が手にすると刀が錆びると言われました。
別に怒りは出ませんでした。
かたずける時にどうしましょうと言ったら人をつかわしますということだった。
どのように手入れをするかなどを見つめていました。
これは刀がかわいそうだと固く心に誓いました。
もう少し丁寧に扱わないといけないと思いました。
本間先生が刀の先生で先生のところに行って、手入れをする方法を教えてほしいと言いました。
先生が本阿弥日洲さんに電話をして渡邉妙子という女性を向けますから、貴方は刀の手入れの方法を教えなさいと連絡してくれました。
奥さんも入れたことのない研ぎの仕事場まで案内していただいて、懇切丁寧に本阿弥家の伝統的な手入れ方法を教えていただきました。

小さいころから一つ事を始めるとずーっとやるような性分でした。
家は古美術が周辺にありまして、日本刀を床の間に飾ってありました。
とにかく綺麗で清淨感があり怖さはあんまり持たなかったです。
本間先生の豊城塾に三島から東京まで10年間通いました。
毎回違う刀が出てきて勉強しました。
どの時代の誰が作ったのかを当てる訳ですが、最初のころは全然判りませんでしたが、段々判る様になって来てから楽しくなりました。
先生は質問すると丁寧に説明してくれます。
鉄は面白いです、世の中には鉄がいっぱいありますが、年中手入れをする必要がある。
そうすると鉄は何百年でも持つ訳です。
日本人は世界一鉄を美しくしてきました。
刀の柄は鉄釜の錆びと同じで黒錆(化学式Fe3O4 鉄の表面にできる酸化膜)で中の鉄は錆びない。

刀をぬぐうには奉書紙という紙を1時間揉みます。
紙を揉むのが最初でした。
刀は油を塗って保存してあるので、最初に油を取るためにぬぐう訳です。
うじこ(水に浮いたものから取った細かな砥石の粉)を打って塗ってまたぬぐう。
表面を綺麗にして鑑賞する。
粉が固まると表面に傷が付くのでそれが一番悪い手入れになる。
唾をかけない、かけると錆びが出て来る。
光り輝いているところには穢れが寄らないというとこかで、そう言った処を信じているところがあります。

銀行に勤めていて英文のタイピストでした。
男性は物凄く優秀で、私も勉強しようと思って学芸員になろうと思って慶応に入りました。
絵とか焼き物なども家にあり、判ろうと思って学芸員になろうと思いました。
41年に卒業したが東京中で募集が無かった。
文化庁で学芸員の募集がありたまたま決まってしまいました。(52年目になります。)
美術館では色んな刀剣の会がありましたが、女性はいなかったです。
美術品としては美しい反りのある姿、世界で日本刀しかないです。
直刀が大陸から入ってきて奈良時代、平安時代も直刀でした。
平安中期に中国的な文化を日本的な文化に創造していった。
漢字から平仮名へ、平仮名は曲線の美がある。
平安時代の創造的な文化の一つとして曲線の日本刀が生まれたと思っています。
貴族の感性を生かした文化が、一つのエネルギーとして生かされ来る、それが源平合戦のころです。
その時代に武士たちは文武両道で大鎧に太刀姿が出来た訳です。
日本刀を世界の人が美術品として認めています。

武器でなければあんな美しい刀は出来ないです。
一発で切らなければいけない、だから腕も磨かなくてはいけない。
刀で自分の命、家族を守らなくはいけない。
名刀は重心が非常に良くできていて、反りでバランスが非常に良く、手にもった瞬間に名刀かどうか判ります。
名刀は姿に品格があり研ぎ澄まされていて静かな澄んだ光を放っている。
鞘は平安時代は儀式の時に身に付けていた。
鍔は色んな紋様のある古墳時代から日本独特の形が出来ている。
平らな丸い鍔は世界にない日本独特な形状です。
日本人が生み出した工芸の中でも、最も日本的なものを勉強させてもらって、有難いことだと思っています。
女性の刀剣ブームは、まず日本刀をやると武士が絡んできて、武士の周辺の歴史があって、趣味的はこしらえものがあって、これは尽きなく面白いと言う人が結構います。
いまは中国、東南アジアなどにも広がってきています。
刀剣の男性学芸員が少なくなってきました。
刀は手入れによって変わってくるので守っていかなければいけない。
若い方には出来るだけ良い形で伝えて行きたいと思います。



































2018年10月22日月曜日

新内多賀太夫(新内節冨士元派七代目家元)  ・【にっぽんの音】

新内多賀太夫(新内節冨士元派七代目家元)  ・【にっぽんの音】
能楽師狂言方 大藏基誠
今年36歳になりました。
新内節は江戸浄瑠璃のカテゴリーの一つ。
今から260年前くらい前に京都で一中節の音曲が出来て、その一中節が豊後節に別れてゆくが、それが江戸に下って行き大変流行する。
流行し過ぎて他流、幕府から迫害を受けてしまって、江戸で演奏することができなくなってしまった。
男性なのに女性のような髪形をしたり、うちかけを長く引きづりながら歩いたりして、お客さんを目でも音楽でも惹きつけて行って、それが風紀を乱すことになり、音楽ともに禁止になってしまった。
音楽は残したいと思って3人の弟子が豊後節の音楽に替わるものを考え出した。
それが常磐津節、富本節、新内節だった。
富本節から今の清元節が生まれて、常磐津節、清元節、新内節がそれぞれ歌舞伎に入った。
創設した人が使ってた特徴的な声色、歌い方だったりするので、それが一つのスタイルになる。

東京都1982年生まれ、36歳、父親が人間国宝の新内仲三郎。
稽古は6歳から始め、東京藝術大学音楽学部邦楽科に入学。
平成17年3月 東京藝術大学音楽学部邦楽科卒業
三味線音楽について研究、新内の演奏のほか、歌舞伎の音楽や舞台音楽の作曲なども手掛け多彩な活動をする。
笛、琴、尺八、チェロ、ビオラなどを使って、お芝居の中の音楽の全体的な作曲をする活動をしてきています。
大学では常磐津節が一番新内に近いと思って、専門的な三味線をやりつつ色んな研究をしていました。
新内節は最初歌舞伎音楽とかに入っていたが、そこから抜け出して演奏だけを聞かせようという音楽の流れがあります。
新内節は映像が浮かんでくるように演奏することが一番魅力的です。
*「明烏夢泡雪」(あけがらすゆめのあわゆき)
新吉原・山名屋の客、春日屋の時次郎は、遊女の浦里と相思相愛の仲となる。
そのうちお金が払えなくなり心中すると言うことなる。
今日の演奏場面は、二人が春の雨に起こされてこれからどうしようかとしている所。

文化文政のころに新内流しが流行して、三味線を歩きながら弾き流して、お客さんに聞いていただいて、良かったらお座敷に上がって演奏するスタイルが当時はやりました。
新内流しがはやって、新内というと新内流しが有名になってしまった。
三味線に枷(かせ)と言う道具を付けて音の高さを付けて、低い三味線と高い三味線で高低の差を付けて合奏させる手法があり、高いパートが上調子、で二人一組で歩く。
週刊誌ふうに実際にあった話などを弾き語りした。
「明烏夢泡雪」も実際にあった話ですが、幕府の目から逃れるために、夢であったとフィクションに仕立ている。
「蘭蝶」は不倫に関する話です。
流行ったので芸を磨かなくてもお金を稼げたので、隆盛は極めたが芸は荒れてしまったという一面はあります。

三味線をもったのは6歳の6月6日でした。
最初祖母に教えてもらいました。
伊豆の旅館に行った時に入口が竹やぶになっていて、笹の揺れると音、木漏れ日とかと、流れていた三味線の音楽と子供ながら鳥肌が立ちました。(4,5歳の時)
それは父親が演奏していたBGMだった。(後で判った事)
子供用の三味線を作ってもらいました。
子供のころはバスケットボールをやっていましたので、左の弦を使う指だけは突き指をしなくて、なんとかできました。
小学校から高校までバスケットをやっていました。
弁護士の道に進みたいと思っていたが、三味線をやっていこうかなと言ったら、先生が三味線をやって何になるのと言われてしまいました。
芸大に受かって見返してやろうと思いました。
昨年4月に家元を継ぐことになりました。

日本の音 邦楽はそぎ落とされてシンプルな音になる、しかし壮大な世界がそこにあったり、一つの音で表現しなければいけなかったりするが、一つの音で世界観を広げて行くというのが日本の音、邦楽の本質であり、本来の魅力だと思っています。
作曲はどんどんやっていきたい。
視覚的なものと音楽もやりつつ、新内のシンプルなもので世界を広がらせてゆく表現を追求して行きたい。
それと逆のものも両方やって両方のいいところを判っておきたい。
*「蘭蝶」
蘭蝶は男芸者で、女房のお宮がいるが、遊女此糸に通ってしまう。
蘭蝶,その妻お宮,遊女此糸の三角関係、その後蘭蝶と遊女此糸は心中してしまう。
今日は蘭蝶,その妻お宮の話の場面。





































2018年10月21日日曜日

田中啓昭(こども園理事長)        ・【"美味しい"仕事人】食育は畑仕事から

田中啓昭(こども園理事長)        ・【"美味しい"仕事人】食育は畑仕事から
大阪府寝屋川市の保育園では子供達が専用の畑で、子供達が野菜や米を栽培しています。
子供達は土に触れながら、小さな種がやがて食べ物へと姿を変えて、自分の健康や身体を作ってくれる、そんなプロセスを体験しています。
大阪府寝屋川市の特定子供園、ねやがわ寝屋の森こども園、ねやがわ成美の森こども園、ねやがわくこの木保育園では、食を通じて豊かな人間性をはぐくもうという、食育に実践的に取り組んでいます。
子供達が収穫した食材は、給食となりそのレシピは保護者にも提供されて、家庭での食育にもつながっています。
3つの園を運営している社会福祉法人大阪誠昭会理事長の田中さんに伺いました。

稲刈りをもうすぐします。
稲穂が成長する姿を子供達はズーっと見続けて来ました。
専用の畑は300坪ぐらいあります。
地元の農家の方からお借りしています。
全部で200名位います。
0歳児から6歳児迄います。
雑草抜き、水やり等も嫌がらずにやっています。
夏野菜はピーマン、なすび、きゅうり、トマト、オクラなどを栽培し、その後は大根、サツマイモ、玉ねぎ、シイタケもやります。
シイタケが原木から出て来ると子供達は吃驚します。
夏野菜の収穫は随時収穫しますが、嬉しそうにやっています。
自分が植えた苗から収穫すると、子供達の喜びもひとしおです。
住宅街にある畑では虫たちもやってきます。

苗床で農家の方が子供の見えるところで育てて、それを見学して、田植えの前段から見てもらっています。
田んぼに入る時の子供の声は凄くて、泣く声とかはしゃぐ声とか色々な光景が見られます。
稲を刈るときには鎌の説明などもします。
収穫した米は給食で使います。
他に農家で作った米を100%使っています。
保護者への販売もして貰っています。
農家の方には感謝しています。
夏野菜が使いきれない時には、野菜屋さんに販売させてもらっています。
その集めたお金で来年の苗を買う様に循環しています。
ピーマンが好きでなくても、畑から自分で収穫したものは食べます。

「子供を産み育てる感動を地域から社会に広げたい」
昨今幼児虐待などがあるが、密室の中で母親が行き詰まってしまうような閉塞感があるが、親子の絆を広げていただく、強固なものにしていただくという取り組みです。
根本の親子関係から見直しましょう、ということで色々提案しています。
6年間を預かる訳ですが、教育の根幹は家庭にやっていただきたい。
その一つとして食育があるわけです。
①コンビニとか自由に食材がはいるが、食に乱れが起きやすいので、正しい知識を入れて、旬のものを食べて行こうと言う事。
②食育基本法が制定されたが、感謝の気持ちを持つ事、色んな人のかかわりとプロセスがあって出来上がることを知ってもらう。

本当に小さな種から大根ができる、あんなに大きくなることが子供達は体験することになる。
ご飯が楽しくなるための7つの提案。
①季節感を肌で感じていただきたい。
②買い物に子供と一緒に行く。
③図鑑があると子供の探究心を育てる。
④母親とクッキングを一緒にやってお手伝いをする。
⑤プランターでもいいから家庭で育てていただきたい。
⑥作るだけでなくて、片付けもやっていただきたい。
⑦家族で会話を持って食べていただきたい。

取れた野菜やお米を使った料理のレシピを開発しています。
「保育園産のお米」というタイトルで、多くのレシピを掲載しています。
先生とか給食の業者さんを交えて、色々相談して本に纏めました。
色々反響をいただいて嬉しく思っています。
54のレシピを掲載しましたが、試作の段階では300を持ち寄りました。
美味しいものを厳選しました。
企画から4年間かかりました。
54のレシピは給食にも使われています。
園児の家庭とか、園と直接に関係ない方にも広がって嬉しく思います。
きゅうりと蒸し鳥の酢みそがけは一番のお薦めメニューです。
ジャコ、ピーマン乗せスライスポテト 子供が嫌いなものを、カルシュウムへの対応。
おやつは捕食ということで栄養価のあるもの、サツマイモミルクジャムとかがあります。
武庫川女子大学国際健康開発研究所と共同で監修を頂きながら、栄養学の部分を食育に落して保護者の方へ啓発するような活動をしています。

母が学校の先生で幼稚園を開きました。
小さいころから幼稚園の手伝いなどをしていましたので、この仕事に抵抗は無かったです。
普段の食から関係性を持って広げていただきたいと思います。(コミュニケーション)
食を通じて関わりが広がっていけばいいかなあと思います。
































2018年10月20日土曜日

伊東ひとみ(文筆家)           ・【人ありて、街は生き】キラキラネームの人気の秘密

伊東ひとみ(文筆家)    ・【人ありて、街は生き】キラキラネームの人気の秘密
最近今までにない音の響きをもった子供の名前が増えています。
俗にキラキラネームと呼ばれる名前です。
人気の名前は可愛くて音の響きはいいのですが、振り仮名が無いと読めないことがあります。
こうした名前は今主流になっています。
その人気の秘密は何なのか、日本人の名前の歴史を古代まで遡って調べ、「キラキラネームの大研究」という著書に纏め、NHK総合TVの「視点論点」でも命名と漢字文化のテーマで解説した文筆家の伊東ひとみさんに最近の子供の名付けの傾向とその背景を伺いました。

最近名簿を見ても読めないものがあります。
キラキラネームというのは従来の常識とは異なる漢字の読み方をしたり、これまでの日本にはない音の響きをもっていたりする難読の名前の事を言います。
1990年代半ば以降に増え始めて、ここ10年でさらに増え始めました。
2017年に生まれた赤ちゃんの人気ランキングが出ましたが、男の1位が「悠真」と書いて「ゆうま」「はるま」「ゆうしん」と読みます。
「悠人」で「ゆうと」、「はると」、「はるひと」
「陽飛」で「はると」、「ひなと」、「あきと」、「はるひ」、「ひなた」と色々な呼び名があります。
女の子の1位は、「結奈」で 「ゆうな」、「ゆいな」、「ゆな」とか色々です。
「咲良」で「さくら」、「さら」とも読みます。
最近は音の響きから名前を考えて、そこに親の思い、願いを託してイメージにいい漢字を当てはめる傾向があります。

7年前に古代漢字に関する本を執筆していました。
インターネットで「ぴかちゅう」(光宙)とか「ありえる」(泡姫)と言う名前に遭遇しました。
命名の現場で一体なにが起きているのだろうと思いました。
それでキラキラネームについて調べ始めました。
しゅがあ(紗冬) さ(紗)とう(冬)=砂糖=シュガア
凄い技だと思いました。
あげは→愛夜姫 イメージで作られた名前だと思います。
ぴかちゅう(光宙)は実在しているかどうかは確認できませんでした。
みつおきさん 光宙と書きますが、名家の方で江戸時代からの家で8代目の当主の名前。 

実際に或る名前を探すために、地方の広報誌に慶弔欄がありここで調べました。
予想以上に男女ともに読めないような個性的な名前ばかりでした。
ふりがながあっても違和感が感じるようなものがありますが、一回知ってしまうと読めると言うこともあります。
「さくら」で「咲愛」というものがありましたが、ラブの「ら」だと思います。
先に音の響きを決めて表記を選ぶ傾向があります。
音に合う良い漢字を使う。
パソコン等が普及したので条件をクリアする名前は容易に調べられる。
それなりのパターンがあり、漢字の訓読み、音読みの一部を切り取る。
例えば「こはる」は「心春」と書くが、心の「こ」に春を足す。
「ここあ」は「心愛」 心の「ここ」と愛の「あ」です。
「大輝」は「だいや」 ダイヤモンドが輝くとか。
「そうた」は「颯太」、  「かなと」は「奏和」 大和(やまと)の和を取って「と」。
外国語読みする、「王冠」と書いて「てぃあら」、「海」と書いて「まりん」とかあります。
外国語の音に漢字を当てはめると言うのもあります。
世代、環境によって境界線がまちまちです。

漢字を繙いて行くと、中国の文字を導入したもので、大和言葉はそのまま書き表すことは出来なかった。
地名、人名はその音に合う漢字を借りてきて一字一音で表した。
例えば邪馬台国、卑弥呼など魏志倭人伝で書かれているが、日本の言葉を中国人が聞いて自分たちの言葉、音に表して、そして同じ様に日本人がやるようになる。
訓読をするようになって漢字を音と訓でやるようになる。
日本語は無理読みの宿命を持っている。
「生きる」 うまれる、なまにも使えると柔軟に解釈するようになる。
辞典によって収録が変わるので音と読みが本来揺れ動いていた。

藤原明子 (あきらけいこ)  徳川家茂(いえもち) 楠木正成(まさしげ)など
明治以来の国語 国字政策だったのではないかと思う。
漢字観の断層というか漢字観が変わったことが、キラキラネームになってしまうような日本語の社会の土壌を作ってきた、と考えられるのではないかと思っています。
明治4年に戸籍法が制定されたが、名乗り辞典に明治から昭和初期に珍しい名前が表されている。
その中に有るのが「元素」は「はじめ」と読みます。
「日露英仏」は「ひろえ」と読みます。
「阿幌」は「あぽろ」 「七分」は「すちーぶん」 真柄は「まーがれっと」
「六花」は「ゆき」(雪の結晶)
昔からあったが絶対量が全然違っていた。
終戦後当用漢字が採用されて漢字制限が実施されるようになる。
1850字に限って使う様にするということになる。
字の形も簡単にする、戀(糸が絡まったように言葉がでないせつない心)→恋(AにしようかBにしようかというような亦に心) 語源が全く違ってきてしまっている。
稽古→けい古、斡旋→あっ旋 などまぜ書きになってしまっている。

漢字の基本を弱めるようになってしまった。
漢字をイメージで捉えるようになって行ったんだと思います。
昭和56年常用漢字に切り替わったが、漢字観がすでに作られてしまっていて、1990年代半ばあたりから当て字が出てきた。
漢字のカジュアル化がキラキラネームの母体になったのではないかと思います。
「和子」「かずこ」が一般的になっているが、本居宣長は「かつこ」と読むべきだと言っているが。
日本語の漢字の体系が壊れかけているから、キラキラネームが増えているのではないかと思います。
地名は過去の歴史の事をすべて含み込んでいるが、人名は新陳代謝が激しい分、今の動きを凄く知らせてくれる。
若い世代を非難するだけではなくて、漢字の体系が壊れかけているのではないかという事実を、もう少し見つめて気が付いたほうがいいのではないかと思っています。














































2018年10月19日金曜日

垣井道弘(映画評論家)          ・【わが心の人】緒形拳

垣井道弘(映画評論家)          ・【わが心の人】緒形拳
昭和12年東京生まれ、新国劇に入団し活躍しましたが、31歳で退団以来、舞台、映画、TVと個性溢れる演技で多くの人を魅了しました。
今から10年前平成20年10月5日亡くなられました、71歳でした。
垣井さんは緒形拳さんを密着取材したことから縁が出来意気投合しました。
24年間に渡り親交を深めました。
2006年には緒形拳さんの素顔を紹介する評伝を出版しています。

人間の記憶というものは不思議なもので、昨日何を食べたかなど覚えていないが、10年前を鮮明に覚えたりします。
10年はあっという間でした。
緒形拳さんはNHKの大河ドラマ「太閤記」の主役で演じられていました。
ぱっとした笑顔を見て精悍な顔をしている人がいると強烈に思いました。
翌年に、「源義経」で弁慶役を演じていました。
緒形拳さんに関心を抱くようになりました。
僕は駆け出しの映画評論家でしたが、緒方さんは165本の映画に出ていまして、そのほとんどが主役か準主役でした。
一本だけ日本で劇場公開されなかった「ミシマ」がありました。
日米合作で、制作総指揮がフランシス・フォード・コッポラ、もう一人はジョージ・ルーカス
緒形拳さんが作家に三島由紀夫を演じました。
私は2カ月毎日撮影所に通いました。
緒形さんが「ガムを頂戴」と言ってきたが、全部食べちゃったので替わりにのど飴を渡して、段々親しくなりました。
緒形さんは一生懸命な人が好きなんです。
緒形さんは私よりも9歳年上です。

緒形さんも僕も映画が好きですが、緒形さんは俳優を見ていて、僕はストーリーとかカメラアングルとか総合的に見ているわけで、そういう見方があるんだと言う事でお互いに刺激しあえる関係でいい関係を保っていました。
話始めるとどんどん色んな事を話せるようになって行きました。
緒形さんはインタビュー嫌いで業界では有名でしたが、誤解されやすい。
恥ずかしがりやで、いちいち説明するのが難しいタイプ。
兄が俳優座養成所の一期生で影響をうけていたが、事故で亡くなってしまう。
緒形さんは文化祭で坂田三吉を演じて凄い人気で父兄の為にもう一回やって欲しいということでした、新国劇と縁が出来て、新国劇で働きたいと言うことになってきた。
(当時島田正吾辰巳柳太郎が全盛)
劇団員が150人いた。
兄の仲のいい友達(北條秀司の娘さん)に頼んで、紹介状を書いてもらって持って行ったら、明日から来なさいと即決になった。
辰巳柳太郎の内弟子になる。
辰巳柳太郎は弟子に読ませて、耳で覚えると言う俳優で、毎日台本を読む訳です。
それが緒形さんに取って非常に役に立ったわけです。
才能を見出したのは島田正吾さんで、いきなり主役に抜擢しました。(入団して3年後ぐらい)

緒形さんは機敏な人でその「遠い一本の道」で主役をやり、それが受けて、映画化もされ主役を演じました。
段々新国劇のホープになり、「太閤記」にも抜擢されて国民的スターになりました。
辰巳柳太郎さんは豪快、島田正吾さんは繊細で細かい芝居をする。
緒形拳さんは二人の師匠の両方のいいところを身につけました。
20代の俳優が歳を取った俳優を演じるのは難しいが、二人が男の一代記を演じていたので、高齢の秀吉を演じることが難しくなかったということです。
翌年の弁慶役もTV史に残ると思う、弁慶の有名な立ち往生も本当に迫力がある。
「太閤記」をやりながら新国劇をやすんではいけないということで、大変な苦労をしました。
新国劇が下降線になって、TV、映画にも出たいと言う事で悩んでいたが、北條秀司さんが退団を勧めて一大決心をして反対を押し切って退団をする訳です。
二人の師匠については生涯に渡って尊敬して、人情の厚い俳優でした。
1968年31歳で退団。
新国劇の劇団の解散公演では 昼、夜の部で主役として点滴を打ちながら舞台に出続けて、二人の師匠の花道を作ってあげたと言われる。

「復讐するは我にあり」今村昌平監督と緒形さんが出会った作品です。
連続殺人犯の映画ですが、見ているうちに悪い奴なんだけれども、憎めなくなってくる、こういうこともあり得ると言うふうになって来る。
映画のことが後になってもぶり返してくる、人間の二面性、闇の部分みたいなものをリアルに描いている。
「自分は俳優として人を殺すことをおろそかにしてこなかった」という事を緒形さんは言いました。
何故殺すのかという事を突き詰めて、突き詰めて、殺人者を好きになるんです、好きにならないと演じられないわけです。
「楢山節考」(ならやまぶしこう) カンヌ国際映画祭で最高賞を貰った。
演技は一切していないと言っていました。
おかあさんを背負って山に捨てに行くが、雪が降り始めて「おっかあ、雪がふってよかったなあ」というセリフしか後半の20分には無い。
何故良かったかというと楽に死ねるから。
直ぐに眠れて楽に死ぬことができる、台詞の少ない映画なのにどんどん心に響いて来る。
母親のことだけを考えてやっていたと、そういうこともあるんだなと思いました。
見直すほど味が出る作品です。
人には見えないところで凄く努力していました。
ロケに行くときも他の俳優よりも1週間早く行って、そこの土地の空気なじむと言う事をおっしゃっていました。
脚本を何度も何度も読んで、肉体化する、自分のものにする。

病気のことは知っていました。
ご自宅に訪ねた時に「俺、癌なん
だよ」と言われて物凄くショックを受けました。
10分位で行ける駅に30分位かかってうろうろしていました。(ショックで逆に緒方さんに送ってあげるよと言われて送って貰いました。)
生きている人の評伝はあまりないが、僕は緒形さんに読んでもらいたかった。
亡くなる前に評伝を出しました。
感想はあまりありませんでしたが、何を書けばいいか迷っていると言うと、虚飾のない話を書けばいいんだと言われました。
とにかくスケールの大きな俳優さんで、「仕事が全て、演技が全て」といつもおっしゃっていました。












































2018年10月18日木曜日

名倉加代子(舞踊家・振付家)       ・今が一番、私のジャズダンス

名倉加代子(舞踊家・振付家)       ・今が一番、私のジャズダンス
昭和15年新潟市生まれ 77歳、幼いころから踊りが好きでダンスに携わる仕事がしたいという夢をもって育ちました。
高校卒業した名倉さんは徐々に舞台やTV番組にダンサーとして出演するようになります。
順調にダンサーの仕事をしていましたが、29歳の時に思い切ってニューヨークに行きダンスの本場でトレーニングを受けました。
帰国後は東京世田谷区にあるダンススタジオでの指導を中心に振り付けや舞台の演出などジャズダンス界の第一線で活躍を続けています。
歳を重ねるごとに表現や取り組み方など変化してきたと言います。
11月に開催を予定しているスタジオの公演を前に伺いました。

今はライフワークとなっている「CAN'T STOP DANCIN」で大変です。
振付、演出など全てを背負ってやっています。
見るからにジャズを楽しんでいるなという事を見せたい。
シニアクラスでは50人ぐらいの生徒がいます。
80代の方が2~3人います。
皆さん歳を忘れて、青春だと思います。
遠くは長野、福岡などからも来ます。
身体の衰えとかありますが、すこしでも遅くしようという努力をします。
ジャズダンスはジャズという音楽を一番的確に表現できるという要素を持った踊りと思っています。
名倉ジャズの特徴はベースはバレエです。
上体は引き上げておいてねじる。
スピード感が必要なので名倉ジャズはスタンスの広さ、プリヤ?の深さ、引き上げ、ツイストが必要になります。

4人姉妹の2番目、常に音楽が家庭の中にありました。
父は銀行員で音楽が好きでレコードを沢山集めていました。
ピアノを習わされていましたが、踊りは好きでピアノを辞めて児童舞踊に小学校4年生位から通っていました。
転勤になり福井市でバレエに出会いました。
そこでバレエにのめり込みました。
衣裳は母が作ってくれました
「パックの踊り」はとっても好きでした。
竹部玲子先生が東京から来て教えてもらいました。
子供達を教える先生になりたいと言うことが夢でした。
高校卒業してから東京に出てきました。
姉妹3人で東京で暮らしました。
舞台、TVに出演するようになりました。(竹部玲子バレエ団がTVに進出するようになりました。)
レッスン代がかかるのでTVはあまり好きではなかったが出演しました。

TVではセンターの位置を占めるようになる。
練習を人よりも沢山しました、そうすると間違えないのでTVでは生放送が多かったので、私が真ん中になれば間違えないだろうと言うことでした。
29歳でアメリカに行くことになります。
TVでずーっとやってきて、カメラの「寄り」になった時にはオーバーアクションはいやらしく映る場合があり、「引き」になると大きく動かないと棒が動いているみたいになってしまって、踊りが通用するのかどうかと疑問が浮かんで、踊りを続けるかどうかアメリカに行って決めようかと思いました。
全ての契約を断ってアメリカニューヨークに行きました。
踊りに対してもがき続けました。
ジャズクラスがありました。
最初圧倒されました。
通ううちに勝負ができるのでは、という思いが出てきました。
妹がニューヨークにいたのでそこに転がり込んでいました。
帰国して舞台、番組に出るようになり、振付も担当するようになりました。
NHKの「ステージ101」の番組が終わった時に、何人かがこのまま教えてほしいということになり、稽古場を借りて4人ぐらいから始めたのが、実は今の名倉ジャズダンススタジオになったわけです。

教えることもそうですが、レオタードを着た時間を自分の生活の中に長く持ちたいという思いがありました。
35歳で結婚して、支えてくれる人がいるからこんなに仕事ができたと思います。
1979年宝塚歌劇団の振付をするようになりました。
男性の振り付けは得意でしたが、宝塚では女性が男性役をするので、また違った状況にはなります。
如何に男らしくかっこよく見せるかが大事です。
作品に対するイメージ、想いを文書にして伝えると言うことがあります。(詩にしたりとか)

自分が思った世界を自分が作れるので、困ったなということはないです。
生徒から貰えるエネルギーとかパワーとか個性とか、それは凄くあります。
40代、50代の半ばまで体力の衰えは無かったです。
始めたころのような楽しい気持ちに戻りたいと思っていたが、60近くになると、レッスン、仕事があり、甘い気持ちは持っていられないと思って、向かい合うなら真剣にという気持ちになってきています。
ステージに立つ以上は技術は磨かないといけないと思っています。
磨いていけば人間の体は不思議なもので、努力を重ねればそれだけの答えが出る訳です。
駄目になって行く部分は、自分できちっと認めなければいけないが。
毎日トレーニングはしています。
歯を磨く時に足を上げるとか、毎日続けられることを科せばいいんです。
今が一番早い、今が人生で一番早い時なので、今から躊躇せず何か始めて、必ずやり出したら積み重ねれは叶う、実って行く。





























































2018年10月16日火曜日

田部井政伸(登山愛好家)        ・我が妻、田部井淳子の遺したもの

田部井政伸(登山愛好家)        ・我が妻、田部井淳子の遺したもの
女性として世界で初めて世界最高峰のエベレストに登頂した登山家の田部井淳子さんがなくなって今月で2年が経ちます。
亨年77歳でした。
夫の政伸さんも世界の山に多くの登山実績を残したクライマーです。
妻を山に送りだし留守番をしながらサポートを続けた政伸さん、淳子さんが残した言葉や、イベント、生活スタイルについて田部井政伸さんに伺いました。

命日に多くの登山家が埼玉県の西部の日和田山(305m)の山登りに集まります。
以前は私とかみさんがリハリビで行っていました。
亡くなってから私一人で行っていましたが、或る日命日に仲間も一緒に行こうと言うことで行くことになり、川越のNHKの登山教室もやっていてその人達も一緒に、山に行くようになりました。
最近は、僕が行っても来ている方が半分ぐらい判りません。
日和田山は低いが変化に富んだバランスが取れた山です。

我々は登山愛好家で趣味でやっています。
妻は女性として世界で初めて世界最高峰エベレストおよび七大陸最高峰への登頂に成功したことで知られる。
世界76カ国の最高峰を制覇している。
小学4年の時に那須の茶臼岳に登ったことが、登山家への意識の芽生えになったと言われている。
私はロッククライミングが多かったです。
グランドジョラス北壁、マッターホルンの北壁を1シーズンで踏破、世界に多くの登山実勢があります。
世界三大北壁を1シーズンでやったことがないが、3つを昇ろうと挑戦しようとしました。
しかしアイガー北壁は登れず、この二つしか登れませんでした。(1968年)

5月の登山で妻とは知り合いました。
そのうちに会う時間が多くなりました。
1964年に結婚しました。
その頃は男性は会社を辞めるか、山をやるかというようなことで仕事をしていました。
主婦は時間がいっぱいある関係で妻は山へ行く時間が多くなりました。(結婚当初から)
家庭との両立もしっかりやりました。
エベレストの時には娘が3歳になっていました。
その時には妻の姉の処に僕と娘が居候をしました。
連絡はエアーメールで10から15日かかります。
メールランナーがいて走って行ってベースキャンプまで届けます。
お互い信頼して覚悟を決めていました。
7から8割が山がベースでやってきました。
私と一緒に子供も自然の山の中で過ごしたりして来ました。
イベントが好きで色々なことをやってきました。
東日本大震災の時は大人の被災者のハイキングをやっていました。
高校生に自分のおこずかいで参加して行ける計画をしようということで、磐梯山にとの話もあったが、富士山に登ろうという計画を立てました。
10年間で1000人という計画だったが、今は1000人を目標にして、今年7年目でトータル575名が登りました。(今年は96名)
後4年ぐらいかかると思います。

心配な親もいるので説明会をやって、以前登山した高校生だった人達もその体験談を話して、1000人までの目標へのサポートをしてくれています。
その経験を社会人になってから、社会に応援できるきっかけになればいいと思っています。
妻のやるべきことが段々形になってきたと喜んでいます。
一人7から8万円かかりますので、震災で困った生活をしているので一人3000円で参加してもらって、ザックとか靴などを無償で貸し出ししています。
本当に感動しますが、全国から郵便局で毎月1000円送ってきてくれます。
コメント欄があり、励ましの言葉とか色々書いて来て下さいます。
使い方も厳しく妻がやっていました。
私の講演とかイベントなどで募金箱を置いて募金をして貰っています。
富士登山という目的がはっきりしているので募金するのもいいと言って下さいます。
息子が今プロジェクトのリーダーをやっています。
企業や、国、自治体の財団等との交渉などもやってくれています。

10月20日に日和田山登山の計画があります。
抹茶が妻が大好きだったので、野だてをやろうということで準備を進めています。
妻は病気になってベッドに入っていても常に山の事が頭にあり、酸素吸入をするようになって、その量が0.5リットルということだったが、本人がエベレストに登った時の睡眠の時に使った量と同じだと言っていました。
亡くなる3日前に3リットルすることになり、これはエベレスト最終キャンプから頂上に向かう時の酸素の量と同じだと言っていました。
「病気は誰でもなるが、病人にはならない」と言う事を常に言っていました。
死ぬまで山が8割ぐらいの人でした。


























































2018年10月15日月曜日

倉本昌弘(日本プロゴルフ協会会長)    ・【"2020"に託すもの】ゴルフの未来のために

倉本昌弘(日本プロゴルフ協会会長)・【"2020"に託すもの】ゴルフの未来のために
リオデジャネイロで120年ぶりに実施されたゴルフ競技、次の東京オリンピックでも実施されます。
しかし日本のゴルフは競技人口の減少という課題を今抱えています。
ゴルフ界のこれからについて、日本プロゴルフ協会会長、オリンピック対策本部強化委員長の倉本さんにお話を伺います。

会長になった当初は、クラブを握らない日が有ってペースがつかめなかったが、5年にもなるとやらなければやらないでいいかなと段々なってきています。
ヘッドスピードは3日やらないと落ちるが、又初めて3日目になると元のスピードが戻る。
日本プロゴルフ協会はゴルフの仕事に携わっている人間の集まり、と思ってもらえればいいと思います。
レッスンする人、物を売ったり、ゴルフ業界の中で開発に関わったりする人達等も含まれます。
現在5600人ぐらい会員がいます。
2015年には日本のこれからのゴルフ界をどうするかの提言をしました。
最盛期1400から1500万人と言われたゴルファーが、この前の白書では600万人と言われる。
ゴルフ産業は2兆円の産業から1兆円に半減している。

①ゴルファーの高齢化が間違いなく進んでいきます。
70歳以上の方が3~4割ぐらいだと思います。
団塊の方が75歳を越えるのが直ぐに来ます。
そうするとその方々がリタイアしてくる、若い方のゴルフ離れがあるので増えてはいかないと思います。
②日本の国民自体が減って行く。
そうするとゴルファーが減る。
2300位のゴルフ場が500万人の適正数は目に見えている。
③練習場も同じです、こちらの方が深刻だと思っています。
地域の土地持ちの方々がゴルフ練習場を開いているが、老朽化してそろそろ設備投資の時期にきている。
廃業しようかということになると練習場もなくなって行く。
AとBの練習場があり、Bが辞めてしまうと、Aにいくかというとそうではなく、辞めてしまうと言うことが多々ある。
これが最も怖いところです。
練習場はコミュニティーの場でもあるので。
若い人たちを増やすことをやっているが、ジュニアについては、親が車を持っていないとなかなか来られない。
地方に行くほど電車では行くところが無くなる。
親が車を持たない世代が増えてきている。
逆風の時代です。

子供達が2人がチームになって、交互に一つのボールを打って対戦相手と戦って行く、ということをアメリカが2011年に始めましたが、当初16チーム170人で始めましたが、現在45000人位の13歳以下の子供達が始めています。
エリートジュニア競技会は日本にはいっぱいあるが、ゴルフを遊びとした競技は日本にはありません、そういったイベントを増やそうと思っています。
情操教育にはゴルフは非常にいいと思っています。
ルールをしっかり覚えてミスをした時に正直に言う。
ゴルフにとっては忖度(他人の気持をおしはかること。)は絶対あるべきだと思っています。
相手がどういうふうに考えているか、自分が相手にどういうふうに接してあげれば、相手は気持ち良く楽しくプレーできるか、それを思って自分が行動する、そうするとみんなが楽しく時間を共有することができる。

ゴルフはお金がかかるが最盛期の1/3位になってきている。
ゴルフの良さは歩くことが成人病対策になったり認知機能の改善になったりすると見直されている。
1万円位で1日楽しんで且つ健康の効用を考えるならば、決して高くはないと思っています。
既婚者で子供を持ってる御主人が1万円の余暇に使うと言うことは、奥さんは反対ですが家族で5万円でレジャー施設などに行くことは、賛成をするという事が調査では出ています。
家族でゴルフ場に行って、ゴルフをやらない人にも楽しめるようなこともできるのではないかと今考えています。
ゴルフ界は遅れていると思っている。
家族観が変わっている中で、お客が来ないという状況にあり、それに合わせたことを考えたゴルフ場の運営をしていこうとしているところは生き抜いていくと思う。

提言書のいくつかはバブル期の考えですと言われた。
今の日本がスタンダードなのでそこを考えてやってくださいと言われました。
ティーチングプロも今までと違ったことが必要だと思います。
現在3000人がティーチングプロで、今までの形では集客がなかなかできないので、これだけの集客をするから使って下さい、というようなやり方を考える。
ゴルフが最も伸びていないのは難しすぎるということがあるけれども、短命なスポーツは早く上手くなるが、スポーツ寿命が長いスポーツはなかなかうまくならないと思っています。
ゴルフは生涯できるスポーツだと思います。

広島出身、高校時代には全日本ジュニアのチャンピオンになり、大学時代には日本学生4連覇、日本アマチュアで3勝、アマチュア時代にプロのトーナメントで優勝する。
プロになって直ぐに優勝、4戦3勝。
日本ツアーでは通産30勝、永久シード選手。
ゴルフを始めたのは10歳で、父がやっていたので一緒に練習場に連れて行ってもらいました。
柔道、剣道、バレーなどもやりましたが、ゴルフが残りました。
中学3年で地元のクラブのクラブチャンピオンになりました。
球は飛ばなかったら面白くないと思っていました、とにかく振れと言われました。
プロになる気はなかった、アメリカに留学したが、父が倒れて家業を継ぐことになりました。
店をやりながら練習していた時代が一番充実していたと思います。
プロになったのは25歳でした。
中部銀次郎さん日本アマチュア6回優勝、彼を尊敬しています。

プロゴルファーは生活があるので、やりたいことができない。
例えばOBでもいいからドライバーで打とうと言うことはしない。
賞金に跳ね返るので、趣味と仕事の違いです。
ゴルフはレベルは違っても一緒に楽しめる、こういうスポーツは他に無いと思います。
身長163cmと小さかったので、ボディービルのトレーニングでやってはいけないことやってもいい事を教わってトレーニングをして、距離も伸びました。
デビュー後にマスコミに「ポパイ」というあだ名がつきましたが、それは嫌いでした。
アメリカでは「MASSY」がいいと、スペルを考えてくれました。
選手の環境改善ということで選手会の会長になり、それが現在の日本ゴルフツアー機構になったわけです。
2020に向けて、追い風に出来なかったら日本のゴルフは大変だと実感しています。
ゴルフは団体戦にすべき、18ホールは長すぎるので短くすべきだと提案したが駄目でした。
松山君はメダル候補であることは間違いないが、東京オリンピックを足がかりにしないと日本のゴルフ界は大変だろうなと思っていて、期待と同時に切羽詰まっているものがあります。






















































2018年10月14日日曜日

加藤澤男(元筑波大学教授 体操)     ・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言

加藤澤男(元筑波大学教授 体操)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
加藤さんは現在72歳、新潟県出身、新潟南高校、東京教育大学(筑波大学)に進み、大学4年で出場したメキシコ大会やミュンヘン、モントリオールと3つのオリンピックに出場しました。
団体は3回とも優勝し、個人総合では、メキシコ、ミュンヘンと連覇を果たすなど世界一の体操選手となりました。
日本男子体操、ローマからモントリオールとオリンピック5連覇を果たしましたが、そのうちの3回の優勝をささえた加藤さん、身長163cm 安定感のある美しい体操が特徴でした。

3つのオリンピックに出場して、8つの金メダルを含めて12個のメダルを取る。
8個の金メダルは日本の全オリンピックの中で歴代一位。
一番最初、メキシコの時の金メダルは印象があります。
最後欲をかいて取れなかったモントリオールの時の銀メダルが二番目に印象深いです。
1968年メキシコ大会(50年前の大会)3連覇目
遠藤選手以外は全員初出場という大会でした。
ライバルはソビエトでした。
遠藤幸雄さん、加藤武司さん、中山彰規さんと、僕と監物永三君、塚原光男君でした。
ベテラン3人と若手3人の構成でした。
規定でソビエトに1.25リードされていた。
自由に入って、ソビエトから差を広げて行く、最後の床を残して優勝を確定的にした。
ボローニン選手は5種目を終えた時点で個人総合で一位だった。
床で9.85ならばボローニン選手と同点となるが、結果は9.90で優勝だった。
ボローニン選手はあん馬で足をひっかけてその差だったと思う。
団体で金を取り、個人総合でチャンピオンになる。
種目別 床で金メダルを取る。(日本が金、銀、銅を取る。)

昭和47年ミュンヘン大会
僕と、中山 彰規さん、塚原 光男君、監物 永三君、笠松 茂君、岡村 輝一君でした。
団体ではソビエトに7.20の大差で優勝する。(4連覇達成)
小野さんからメダル全部持って来いと言われました。
個人戦で5種目終わった時点で、トップの監物選手とは0.075差だった。
監物選手は跳馬で9.60、鉄棒で9.675以上で金メダルとなるが、9.75を取り、逆転で2連覇が決まる。
2位に監物選手、3位に中山選手となり金、銀、銅を獲得する。
メキシコが終わってアキレス腱を切ってしまって、世界選手権には出られなかった。
メキシコでは跳馬の練習中に腰を痛めて(腰椎分離)しまって、跳馬以下は棄権をする。
羽田に帰って来た時には胴周りを石膏で固められていました。
勝つための材料を仕込まなくてはいけないので、色々するので練習も無理がかかります。
種目別の平行棒でも金メダルを取る。
ミュンヘンでは団体、個人総合、平行棒で金メダル3個、銀メダル2個を獲得する。

昭和51年モントリオール大会
日本選手団の主将を務める。
僕と塚原 光男君、監物 永三君、笠松 茂君が残り、笠松選手がエースでしたが、笠松選手が急性の盲腸を患って手術しエースを欠く事態になる。
ソビエトにリードをされる展開になる。
3種目目、吊り輪で藤本選手が9.70の高得点を出すが、着地の時にボキっという音がして右足を痛めて医務室に行き帰ってこなかった。
実は最初の床で痛めているんです。
あん馬は足を使わないのでやりおうせて、吊り輪でも頑張って、着地を踏ん張って床でやったところをもう一回やってしまったんです。
あとは5人で演技をせざるをえなかった。(だれも失敗が許されない状況となってしまった。)
日本が団体で奇跡の逆転優勝をすることになる。
日本人の練習の仕方が出てきたんだと思います。
個人総合ではアンドリアノフ選手に敗れて銀メダルとなる。(3連覇は成らず)
種目別決勝 平行棒で9.90を出して2連覇を達成。

倒立に代表される美しさ。
体操はなにをやるのかと、どういうふうな出来具合なのか、の二つ兼ね合わせですが、自分はO脚で左ひじが曲がっている(中学の時のひじの骨折)ので、美しい姿勢を目指す。
練習では目いっぱい色んな事をやります。(開発的な)
試合を前にすると試合を前提にした練習をしないといけない、色んなことがありますが結局は、敵は自分なんです。
団体戦は6人がお互いに高得点を願うが、個人総合ではチームメイトがライバルとなるが、格闘技ではないので楽ですが、突然切り替えるのはなかなか難しい。
やっぱり練習しかないですね。

何年か前に国際スポーツ記者協会が選んだ20世紀を代表する25人の選手に日本人でただ一人選ばれる。
体操をやってきて思うことは、練習はきつくやれ、あこがれを持っていないと続かない。
有る程度の失敗を許容される所では失敗しないといけない、いざという時にしてはいけないだけの話で、経験を生かしてやるべきこととやってはいけないことを練習の中で区別をつけなければいけない。
モントリオールでのアクシデントみたいなことは、有ってはいけないが有りうるわけです。
内村 航平選手には3連覇の夢を実現すべく頑張ってほしいと思います。