2018年10月18日木曜日

名倉加代子(舞踊家・振付家)       ・今が一番、私のジャズダンス

名倉加代子(舞踊家・振付家)       ・今が一番、私のジャズダンス
昭和15年新潟市生まれ 77歳、幼いころから踊りが好きでダンスに携わる仕事がしたいという夢をもって育ちました。
高校卒業した名倉さんは徐々に舞台やTV番組にダンサーとして出演するようになります。
順調にダンサーの仕事をしていましたが、29歳の時に思い切ってニューヨークに行きダンスの本場でトレーニングを受けました。
帰国後は東京世田谷区にあるダンススタジオでの指導を中心に振り付けや舞台の演出などジャズダンス界の第一線で活躍を続けています。
歳を重ねるごとに表現や取り組み方など変化してきたと言います。
11月に開催を予定しているスタジオの公演を前に伺いました。

今はライフワークとなっている「CAN'T STOP DANCIN」で大変です。
振付、演出など全てを背負ってやっています。
見るからにジャズを楽しんでいるなという事を見せたい。
シニアクラスでは50人ぐらいの生徒がいます。
80代の方が2~3人います。
皆さん歳を忘れて、青春だと思います。
遠くは長野、福岡などからも来ます。
身体の衰えとかありますが、すこしでも遅くしようという努力をします。
ジャズダンスはジャズという音楽を一番的確に表現できるという要素を持った踊りと思っています。
名倉ジャズの特徴はベースはバレエです。
上体は引き上げておいてねじる。
スピード感が必要なので名倉ジャズはスタンスの広さ、プリヤ?の深さ、引き上げ、ツイストが必要になります。

4人姉妹の2番目、常に音楽が家庭の中にありました。
父は銀行員で音楽が好きでレコードを沢山集めていました。
ピアノを習わされていましたが、踊りは好きでピアノを辞めて児童舞踊に小学校4年生位から通っていました。
転勤になり福井市でバレエに出会いました。
そこでバレエにのめり込みました。
衣裳は母が作ってくれました
「パックの踊り」はとっても好きでした。
竹部玲子先生が東京から来て教えてもらいました。
子供達を教える先生になりたいと言うことが夢でした。
高校卒業してから東京に出てきました。
姉妹3人で東京で暮らしました。
舞台、TVに出演するようになりました。(竹部玲子バレエ団がTVに進出するようになりました。)
レッスン代がかかるのでTVはあまり好きではなかったが出演しました。

TVではセンターの位置を占めるようになる。
練習を人よりも沢山しました、そうすると間違えないのでTVでは生放送が多かったので、私が真ん中になれば間違えないだろうと言うことでした。
29歳でアメリカに行くことになります。
TVでずーっとやってきて、カメラの「寄り」になった時にはオーバーアクションはいやらしく映る場合があり、「引き」になると大きく動かないと棒が動いているみたいになってしまって、踊りが通用するのかどうかと疑問が浮かんで、踊りを続けるかどうかアメリカに行って決めようかと思いました。
全ての契約を断ってアメリカニューヨークに行きました。
踊りに対してもがき続けました。
ジャズクラスがありました。
最初圧倒されました。
通ううちに勝負ができるのでは、という思いが出てきました。
妹がニューヨークにいたのでそこに転がり込んでいました。
帰国して舞台、番組に出るようになり、振付も担当するようになりました。
NHKの「ステージ101」の番組が終わった時に、何人かがこのまま教えてほしいということになり、稽古場を借りて4人ぐらいから始めたのが、実は今の名倉ジャズダンススタジオになったわけです。

教えることもそうですが、レオタードを着た時間を自分の生活の中に長く持ちたいという思いがありました。
35歳で結婚して、支えてくれる人がいるからこんなに仕事ができたと思います。
1979年宝塚歌劇団の振付をするようになりました。
男性の振り付けは得意でしたが、宝塚では女性が男性役をするので、また違った状況にはなります。
如何に男らしくかっこよく見せるかが大事です。
作品に対するイメージ、想いを文書にして伝えると言うことがあります。(詩にしたりとか)

自分が思った世界を自分が作れるので、困ったなということはないです。
生徒から貰えるエネルギーとかパワーとか個性とか、それは凄くあります。
40代、50代の半ばまで体力の衰えは無かったです。
始めたころのような楽しい気持ちに戻りたいと思っていたが、60近くになると、レッスン、仕事があり、甘い気持ちは持っていられないと思って、向かい合うなら真剣にという気持ちになってきています。
ステージに立つ以上は技術は磨かないといけないと思っています。
磨いていけば人間の体は不思議なもので、努力を重ねればそれだけの答えが出る訳です。
駄目になって行く部分は、自分できちっと認めなければいけないが。
毎日トレーニングはしています。
歯を磨く時に足を上げるとか、毎日続けられることを科せばいいんです。
今が一番早い、今が人生で一番早い時なので、今から躊躇せず何か始めて、必ずやり出したら積み重ねれは叶う、実って行く。





























































2018年10月16日火曜日

田部井政伸(登山愛好家)        ・我が妻、田部井淳子の遺したもの

田部井政伸(登山愛好家)        ・我が妻、田部井淳子の遺したもの
女性として世界で初めて世界最高峰のエベレストに登頂した登山家の田部井淳子さんがなくなって今月で2年が経ちます。
亨年77歳でした。
夫の政伸さんも世界の山に多くの登山実績を残したクライマーです。
妻を山に送りだし留守番をしながらサポートを続けた政伸さん、淳子さんが残した言葉や、イベント、生活スタイルについて田部井政伸さんに伺いました。

命日に多くの登山家が埼玉県の西部の日和田山(305m)の山登りに集まります。
以前は私とかみさんがリハリビで行っていました。
亡くなってから私一人で行っていましたが、或る日命日に仲間も一緒に行こうと言うことで行くことになり、川越のNHKの登山教室もやっていてその人達も一緒に、山に行くようになりました。
最近は、僕が行っても来ている方が半分ぐらい判りません。
日和田山は低いが変化に富んだバランスが取れた山です。

我々は登山愛好家で趣味でやっています。
妻は女性として世界で初めて世界最高峰エベレストおよび七大陸最高峰への登頂に成功したことで知られる。
世界76カ国の最高峰を制覇している。
小学4年の時に那須の茶臼岳に登ったことが、登山家への意識の芽生えになったと言われている。
私はロッククライミングが多かったです。
グランドジョラス北壁、マッターホルンの北壁を1シーズンで踏破、世界に多くの登山実勢があります。
世界三大北壁を1シーズンでやったことがないが、3つを昇ろうと挑戦しようとしました。
しかしアイガー北壁は登れず、この二つしか登れませんでした。(1968年)

5月の登山で妻とは知り合いました。
そのうちに会う時間が多くなりました。
1964年に結婚しました。
その頃は男性は会社を辞めるか、山をやるかというようなことで仕事をしていました。
主婦は時間がいっぱいある関係で妻は山へ行く時間が多くなりました。(結婚当初から)
家庭との両立もしっかりやりました。
エベレストの時には娘が3歳になっていました。
その時には妻の姉の処に僕と娘が居候をしました。
連絡はエアーメールで10から15日かかります。
メールランナーがいて走って行ってベースキャンプまで届けます。
お互い信頼して覚悟を決めていました。
7から8割が山がベースでやってきました。
私と一緒に子供も自然の山の中で過ごしたりして来ました。
イベントが好きで色々なことをやってきました。
東日本大震災の時は大人の被災者のハイキングをやっていました。
高校生に自分のおこずかいで参加して行ける計画をしようということで、磐梯山にとの話もあったが、富士山に登ろうという計画を立てました。
10年間で1000人という計画だったが、今は1000人を目標にして、今年7年目でトータル575名が登りました。(今年は96名)
後4年ぐらいかかると思います。

心配な親もいるので説明会をやって、以前登山した高校生だった人達もその体験談を話して、1000人までの目標へのサポートをしてくれています。
その経験を社会人になってから、社会に応援できるきっかけになればいいと思っています。
妻のやるべきことが段々形になってきたと喜んでいます。
一人7から8万円かかりますので、震災で困った生活をしているので一人3000円で参加してもらって、ザックとか靴などを無償で貸し出ししています。
本当に感動しますが、全国から郵便局で毎月1000円送ってきてくれます。
コメント欄があり、励ましの言葉とか色々書いて来て下さいます。
使い方も厳しく妻がやっていました。
私の講演とかイベントなどで募金箱を置いて募金をして貰っています。
富士登山という目的がはっきりしているので募金するのもいいと言って下さいます。
息子が今プロジェクトのリーダーをやっています。
企業や、国、自治体の財団等との交渉などもやってくれています。

10月20日に日和田山登山の計画があります。
抹茶が妻が大好きだったので、野だてをやろうということで準備を進めています。
妻は病気になってベッドに入っていても常に山の事が頭にあり、酸素吸入をするようになって、その量が0.5リットルということだったが、本人がエベレストに登った時の睡眠の時に使った量と同じだと言っていました。
亡くなる3日前に3リットルすることになり、これはエベレスト最終キャンプから頂上に向かう時の酸素の量と同じだと言っていました。
「病気は誰でもなるが、病人にはならない」と言う事を常に言っていました。
死ぬまで山が8割ぐらいの人でした。


























































2018年10月15日月曜日

倉本昌弘(日本プロゴルフ協会会長)    ・【"2020"に託すもの】ゴルフの未来のために

倉本昌弘(日本プロゴルフ協会会長)・【"2020"に託すもの】ゴルフの未来のために
リオデジャネイロで120年ぶりに実施されたゴルフ競技、次の東京オリンピックでも実施されます。
しかし日本のゴルフは競技人口の減少という課題を今抱えています。
ゴルフ界のこれからについて、日本プロゴルフ協会会長、オリンピック対策本部強化委員長の倉本さんにお話を伺います。

会長になった当初は、クラブを握らない日が有ってペースがつかめなかったが、5年にもなるとやらなければやらないでいいかなと段々なってきています。
ヘッドスピードは3日やらないと落ちるが、又初めて3日目になると元のスピードが戻る。
日本プロゴルフ協会はゴルフの仕事に携わっている人間の集まり、と思ってもらえればいいと思います。
レッスンする人、物を売ったり、ゴルフ業界の中で開発に関わったりする人達等も含まれます。
現在5600人ぐらい会員がいます。
2015年には日本のこれからのゴルフ界をどうするかの提言をしました。
最盛期1400から1500万人と言われたゴルファーが、この前の白書では600万人と言われる。
ゴルフ産業は2兆円の産業から1兆円に半減している。

①ゴルファーの高齢化が間違いなく進んでいきます。
70歳以上の方が3~4割ぐらいだと思います。
団塊の方が75歳を越えるのが直ぐに来ます。
そうするとその方々がリタイアしてくる、若い方のゴルフ離れがあるので増えてはいかないと思います。
②日本の国民自体が減って行く。
そうするとゴルファーが減る。
2300位のゴルフ場が500万人の適正数は目に見えている。
③練習場も同じです、こちらの方が深刻だと思っています。
地域の土地持ちの方々がゴルフ練習場を開いているが、老朽化してそろそろ設備投資の時期にきている。
廃業しようかということになると練習場もなくなって行く。
AとBの練習場があり、Bが辞めてしまうと、Aにいくかというとそうではなく、辞めてしまうと言うことが多々ある。
これが最も怖いところです。
練習場はコミュニティーの場でもあるので。
若い人たちを増やすことをやっているが、ジュニアについては、親が車を持っていないとなかなか来られない。
地方に行くほど電車では行くところが無くなる。
親が車を持たない世代が増えてきている。
逆風の時代です。

子供達が2人がチームになって、交互に一つのボールを打って対戦相手と戦って行く、ということをアメリカが2011年に始めましたが、当初16チーム170人で始めましたが、現在45000人位の13歳以下の子供達が始めています。
エリートジュニア競技会は日本にはいっぱいあるが、ゴルフを遊びとした競技は日本にはありません、そういったイベントを増やそうと思っています。
情操教育にはゴルフは非常にいいと思っています。
ルールをしっかり覚えてミスをした時に正直に言う。
ゴルフにとっては忖度(他人の気持をおしはかること。)は絶対あるべきだと思っています。
相手がどういうふうに考えているか、自分が相手にどういうふうに接してあげれば、相手は気持ち良く楽しくプレーできるか、それを思って自分が行動する、そうするとみんなが楽しく時間を共有することができる。

ゴルフはお金がかかるが最盛期の1/3位になってきている。
ゴルフの良さは歩くことが成人病対策になったり認知機能の改善になったりすると見直されている。
1万円位で1日楽しんで且つ健康の効用を考えるならば、決して高くはないと思っています。
既婚者で子供を持ってる御主人が1万円の余暇に使うと言うことは、奥さんは反対ですが家族で5万円でレジャー施設などに行くことは、賛成をするという事が調査では出ています。
家族でゴルフ場に行って、ゴルフをやらない人にも楽しめるようなこともできるのではないかと今考えています。
ゴルフ界は遅れていると思っている。
家族観が変わっている中で、お客が来ないという状況にあり、それに合わせたことを考えたゴルフ場の運営をしていこうとしているところは生き抜いていくと思う。

提言書のいくつかはバブル期の考えですと言われた。
今の日本がスタンダードなのでそこを考えてやってくださいと言われました。
ティーチングプロも今までと違ったことが必要だと思います。
現在3000人がティーチングプロで、今までの形では集客がなかなかできないので、これだけの集客をするから使って下さい、というようなやり方を考える。
ゴルフが最も伸びていないのは難しすぎるということがあるけれども、短命なスポーツは早く上手くなるが、スポーツ寿命が長いスポーツはなかなかうまくならないと思っています。
ゴルフは生涯できるスポーツだと思います。

広島出身、高校時代には全日本ジュニアのチャンピオンになり、大学時代には日本学生4連覇、日本アマチュアで3勝、アマチュア時代にプロのトーナメントで優勝する。
プロになって直ぐに優勝、4戦3勝。
日本ツアーでは通産30勝、永久シード選手。
ゴルフを始めたのは10歳で、父がやっていたので一緒に練習場に連れて行ってもらいました。
柔道、剣道、バレーなどもやりましたが、ゴルフが残りました。
中学3年で地元のクラブのクラブチャンピオンになりました。
球は飛ばなかったら面白くないと思っていました、とにかく振れと言われました。
プロになる気はなかった、アメリカに留学したが、父が倒れて家業を継ぐことになりました。
店をやりながら練習していた時代が一番充実していたと思います。
プロになったのは25歳でした。
中部銀次郎さん日本アマチュア6回優勝、彼を尊敬しています。

プロゴルファーは生活があるので、やりたいことができない。
例えばOBでもいいからドライバーで打とうと言うことはしない。
賞金に跳ね返るので、趣味と仕事の違いです。
ゴルフはレベルは違っても一緒に楽しめる、こういうスポーツは他に無いと思います。
身長163cmと小さかったので、ボディービルのトレーニングでやってはいけないことやってもいい事を教わってトレーニングをして、距離も伸びました。
デビュー後にマスコミに「ポパイ」というあだ名がつきましたが、それは嫌いでした。
アメリカでは「MASSY」がいいと、スペルを考えてくれました。
選手の環境改善ということで選手会の会長になり、それが現在の日本ゴルフツアー機構になったわけです。
2020に向けて、追い風に出来なかったら日本のゴルフは大変だと実感しています。
ゴルフは団体戦にすべき、18ホールは長すぎるので短くすべきだと提案したが駄目でした。
松山君はメダル候補であることは間違いないが、東京オリンピックを足がかりにしないと日本のゴルフ界は大変だろうなと思っていて、期待と同時に切羽詰まっているものがあります。






















































2018年10月14日日曜日

加藤澤男(元筑波大学教授 体操)     ・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言

加藤澤男(元筑波大学教授 体操)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
加藤さんは現在72歳、新潟県出身、新潟南高校、東京教育大学(筑波大学)に進み、大学4年で出場したメキシコ大会やミュンヘン、モントリオールと3つのオリンピックに出場しました。
団体は3回とも優勝し、個人総合では、メキシコ、ミュンヘンと連覇を果たすなど世界一の体操選手となりました。
日本男子体操、ローマからモントリオールとオリンピック5連覇を果たしましたが、そのうちの3回の優勝をささえた加藤さん、身長163cm 安定感のある美しい体操が特徴でした。

3つのオリンピックに出場して、8つの金メダルを含めて12個のメダルを取る。
8個の金メダルは日本の全オリンピックの中で歴代一位。
一番最初、メキシコの時の金メダルは印象があります。
最後欲をかいて取れなかったモントリオールの時の銀メダルが二番目に印象深いです。
1968年メキシコ大会(50年前の大会)3連覇目
遠藤選手以外は全員初出場という大会でした。
ライバルはソビエトでした。
遠藤幸雄さん、加藤武司さん、中山彰規さんと、僕と監物永三君、塚原光男君でした。
ベテラン3人と若手3人の構成でした。
規定でソビエトに1.25リードされていた。
自由に入って、ソビエトから差を広げて行く、最後の床を残して優勝を確定的にした。
ボローニン選手は5種目を終えた時点で個人総合で一位だった。
床で9.85ならばボローニン選手と同点となるが、結果は9.90で優勝だった。
ボローニン選手はあん馬で足をひっかけてその差だったと思う。
団体で金を取り、個人総合でチャンピオンになる。
種目別 床で金メダルを取る。(日本が金、銀、銅を取る。)

昭和47年ミュンヘン大会
僕と、中山 彰規さん、塚原 光男君、監物 永三君、笠松 茂君、岡村 輝一君でした。
団体ではソビエトに7.20の大差で優勝する。(4連覇達成)
小野さんからメダル全部持って来いと言われました。
個人戦で5種目終わった時点で、トップの監物選手とは0.075差だった。
監物選手は跳馬で9.60、鉄棒で9.675以上で金メダルとなるが、9.75を取り、逆転で2連覇が決まる。
2位に監物選手、3位に中山選手となり金、銀、銅を獲得する。
メキシコが終わってアキレス腱を切ってしまって、世界選手権には出られなかった。
メキシコでは跳馬の練習中に腰を痛めて(腰椎分離)しまって、跳馬以下は棄権をする。
羽田に帰って来た時には胴周りを石膏で固められていました。
勝つための材料を仕込まなくてはいけないので、色々するので練習も無理がかかります。
種目別の平行棒でも金メダルを取る。
ミュンヘンでは団体、個人総合、平行棒で金メダル3個、銀メダル2個を獲得する。

昭和51年モントリオール大会
日本選手団の主将を務める。
僕と塚原 光男君、監物 永三君、笠松 茂君が残り、笠松選手がエースでしたが、笠松選手が急性の盲腸を患って手術しエースを欠く事態になる。
ソビエトにリードをされる展開になる。
3種目目、吊り輪で藤本選手が9.70の高得点を出すが、着地の時にボキっという音がして右足を痛めて医務室に行き帰ってこなかった。
実は最初の床で痛めているんです。
あん馬は足を使わないのでやりおうせて、吊り輪でも頑張って、着地を踏ん張って床でやったところをもう一回やってしまったんです。
あとは5人で演技をせざるをえなかった。(だれも失敗が許されない状況となってしまった。)
日本が団体で奇跡の逆転優勝をすることになる。
日本人の練習の仕方が出てきたんだと思います。
個人総合ではアンドリアノフ選手に敗れて銀メダルとなる。(3連覇は成らず)
種目別決勝 平行棒で9.90を出して2連覇を達成。

倒立に代表される美しさ。
体操はなにをやるのかと、どういうふうな出来具合なのか、の二つ兼ね合わせですが、自分はO脚で左ひじが曲がっている(中学の時のひじの骨折)ので、美しい姿勢を目指す。
練習では目いっぱい色んな事をやります。(開発的な)
試合を前にすると試合を前提にした練習をしないといけない、色んなことがありますが結局は、敵は自分なんです。
団体戦は6人がお互いに高得点を願うが、個人総合ではチームメイトがライバルとなるが、格闘技ではないので楽ですが、突然切り替えるのはなかなか難しい。
やっぱり練習しかないですね。

何年か前に国際スポーツ記者協会が選んだ20世紀を代表する25人の選手に日本人でただ一人選ばれる。
体操をやってきて思うことは、練習はきつくやれ、あこがれを持っていないと続かない。
有る程度の失敗を許容される所では失敗しないといけない、いざという時にしてはいけないだけの話で、経験を生かしてやるべきこととやってはいけないことを練習の中で区別をつけなければいけない。
モントリオールでのアクシデントみたいなことは、有ってはいけないが有りうるわけです。
内村 航平選手には3連覇の夢を実現すべく頑張ってほしいと思います。





































































2018年10月13日土曜日

2018年10月12日金曜日

岩渕宜輝(NPO法人理事)       ・一人で始めた遺骨探しの51年

岩渕宜輝(NPO法人理事)       ・一人で始めた遺骨探しの51年
岩渕さんは1941年(昭和16年)生まれで今年77歳です。
岩渕さんが2歳の時に父親がニューギニアで戦死、戦死の知らせが届いたのは終戦の翌年、昭和21年の7月でした。
しかし父親の戦死の状況はさっぱり判りませんでした。
岩淵さんが父親への思いを強くしたのは小学校1年生の頃。
家族が疎開先から東京に戻るときも、長男だから一の関に残り墓を守れと、祖父母に引き取られて一人残ります。
高校卒業のころには父の戦死したニューギニアに行ってみたいと心に決めます。
父親の眠るニューギニアに行くにはどうすればよいのか、岩渕さんは高校卒業後上京し働きながらニューギニアに行く手段を模索します。
そして働きながら英語を学び貿易会社や航空会社など英語が身に付く仕事を転々とします。
苦学6年、東京オリンピックの翌年念願の航空会社に就職することができて、入社2年目1967年、長い間念願だった父の眠るニューギニアを訪れたることができたのです。
初めて現地を訪れた岩渕さんはなにを思い、その後どのような活動を続けたのか伺いました。

太平洋戦史館の前には田園地帯が広がっていて、2km先に中尊寺があります。
おびただしい戦時下の遺品が展示されています。
遺留品を展示して遺族の方に持ち帰ってもらいたいと思っています。
戦争の悲惨さを知って欲しいと思います。
父親は33歳と6カ月で亡くなり辛い思いをしました。
父親の記憶は全然ありません。(2歳の時父親は亡くなる)
父親がどんな所で亡くなったのか、一遍ニューギニアに行ってみたいと思いました。
1960年代のころは海外への渡航は簡単にはいけない状況でした。
航空会社に入ればひょっとするとタダでいけるのではないかと思ったりしました。
英語の勉強をしなければいけないと思って、給料の中から通うためのお金をなんとか捻出して、原宿のワシントンハイツへ行って生の英語を聞きました。
求人広告でハウスボーイを見付けて雇ってもらいました。

父親が亡くなった場所は後に判るが、キャセイ航空に務めた時代は何処で死んだか全くわからなかった。
昭和42年に「ラエ」というところに行った時に、神父さんに言われたのが、「貴方の立っている芝生の下に何百という日本の兵隊さんの屍が埋まったままですよ」と言われた時の衝撃は大変なものでした。
1978年(昭和53年)の時に遺骨を収容している写真などが展示されている。
政府が1975年を持って遺骨帰還運動をおおむね完了ということになった。
ブーゲンビル島のタンタリキという場所を掘ったらシャレコウベが沢山出てきました。
(野戦病院の跡だった)
100万を超える兵隊さんが未帰還で、やれるのに何故やらないのか、政府の怠慢としか言いようがないです。
日本とインドネシアの間に遺骨帰還の協力覚書が有るのですが、2015年9月に行って10月にはそのままゼロ帰還で返されました。
11月に遺骨帰還の協力覚書が失効してしまった。
再調印できるようなことをやってもらえればいいが、2018年4月なっても何にも進んでいない。

魂があるとするならば、ご飯茶わん、水筒など形のあるものに魂が宿っており、私はこういうものが残っているんですよ、と伝えたい。
現地では銃弾、手投げ弾などの解体などで腕を飛ばしたり、命を落としたという事を聞かされている中で、まだあちこちに散らばっているという事実を伝えたい。
色々な未処理の問題 次世代の子供達に先送りはしたくない。
戦争が終わって73年経ってもこの体たらく。
非戦をどうすればいいのか子供達と考えながらやっているのが現状です。
3,4年前までは先生が熱心に連れてきているが、ここ3,4年総合学習関係の訪問者が消えてしまいました。
事実を伝えて行くこと、語り部は必要だと思います。




























2018年10月11日木曜日

西脇義訓(指揮者・録音プロデューサー)  ・ホールが楽器 目指せ空間力

西脇義訓(指揮者・録音プロデューサー)  ・ホールが楽器 目指せ空間力
愛知県出身、70歳、小さいころから音楽に親しみ大学を卒業した後は、レコード会社に勤務し、営業や製作畑を歩きました。
50歳の時に独立し、現在もクラシック音楽の録音、CD製作に携わっています。
その一方で入社間もないころに聞いたドイツ、バイロイト祝祭劇場でのライブ録音のレコードが忘れなかった西脇さんは、2009年にようやくバイロイト祝祭音楽祭に行って、そのオーケストラの響きを体験、この響きこそ自分が理想とする響きであると確信し、ついに2013年、65歳の時にご自分のオーケストラを創設するに至りました。
響きを追求するために、今までの常識にとらわれない画期的なオーケストラ「デア・リング東京オーケストラ」です。
すでにCDを6枚発表し 、この夏初めて公開コンサートが開かれました。

8月に末にコンサートが行われました。
前代未聞画期的革命と言われ、指揮者から全てがお客様の方を向いていた。
立って演奏すると目線が下を向くので、上を向いて演奏しましょうということでそうしました。
ホールを楽器としてその楽器をいい状態で響かせる、空間力を発揮する為に半円形になってすることはやり易いが、空間を響かせるのに一番大事なのは聞きあう事なんです。
「デア・リング東京オーケストラ」では指揮者の方を向いていない。
一般的には指揮者を扇のかなめとして、半円状に広がる。
通常は指揮者の左から第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、チェロうしろにコントラバス、管楽器が弦楽器の後ろにいて、左奥位に打楽器がならぶ。
「デア・リング東京オーケストラ」では弦楽器、管楽器もばらばらでやっていて、チェロ以外は立ってやります。
メンデルスゾーンの時代は立って演奏していたという記録が残っています。
方向もどっちを向いてもいいと指揮者の方を向かなくてもいいと言ったら、向こう見てやっている人も何人かいました。
ボウイング(運弓法。弦楽器の運弓法(弓の使い方)。)をみんなと合わせるために神経を使うことも事実なんで、演奏として合っているかが一番大事なことなのでボウイングは自由にしてみようという考え方でやっています。

*メンデルスゾーン交響曲 第4番 「イタリア」

柔らかくて透明な響きが来て、バイロイトの響きを普通の舞台の上で、それに近い響きを作れるのではないかということで設立しました。(「デア・リング東京オーケストラ」)
核になる人が何人かいましたが芸大、桐朋学園とか卒業したての人に声を掛けました。
「デア・リング」の名称は、先進性、独創性、開拓者精神で世界を席巻したワーグナーの代表作「ニーベルングの指環」 Der Ring des Nibelungen からの連想で、「輪」や「和」にも通じる、このオーケストラの基本理念を示しています。
2013年にオーケストラを編成しました。
第一弾はブルックナーの交響曲第3番「ワグネル」を演奏して録音して世に出しました。
最初みんな疑問に思っていましたが演奏するに従って、この配置でやるのが弾きやすかったと言っていました。
奏者が自立して一人一人がやるということが、大事なことだと思うの空間力と自発ですね。
僕の役目はそういう方向付けをすることと、指揮者として大きな振りはしていないが遠くの人も、ちょっとした動きに物凄く反応してくれました。

幼稚園の入園式の時にスキップして出てきて、母は音楽が好きなのかもしれないということで、母が木琴の先生を探して6年までレッスンに通いました。
小学校5,6年は音楽の先生でアンサンブルなどをやっていました。
中学校はレコードを一杯聞きました。
ヴェートーベンの全集が出て、親に買ってほしいと泣きついて買ってもらって毎日のように聞いていました。
弦楽器を始めたいと思ったが、ヴァイオリンはもう手遅れだと思って、高校に入った時にオーケストラを作ろうと思って、日比谷高校、慶応高校、麻布高校とか一流高校の処にはオーケストラがあり、うちの学校が一流になる為にはオーケストラがなければならないという記事(校内新聞)を書いて、チェロを始めました。
3年の時に受験間際に名古屋私立大学の管弦楽団が演奏をするので、チェロで出なさいと先生から言われて、受験そっちのけで演奏しました。
大学に入ったらオーケストラをやりたいと、慶應義塾ワグネルソサィエティーがあり上京しました。
高校には弟の時代にはオーケストラが出来、今や素晴らしいオーケストラが出来ました。

就職にあたって名古屋の銀行に試験は通ったが、悶々としていました。
レコード会社の新聞広告で募集があり、たまたま最後の一人として受かりました。
営業を希望し親とも喧嘩した名古屋に戻りました。
オーケストラでチェロが足りないということで呼ばれたが、下手なのでちょいと言ったらお前がやれということになり、ソリストと指揮者をやりながらどっぷりと入ってしまいました。
東京の本社に戻りクラシック部に入ることになりました。
その後独立しました。
二人で自分たちの納得のいく録音、音楽制作、CD制作をやっていこうと決めました。(50歳の時)
青木十良さんに会いに行く機会が出来ました。
バッハの無伴奏6番からやりたいと言うことだった。(一番難しい曲)
演奏する空間が大事だと言うことで、日本で会場を探したいと言うことだった。
松戸の美術館に行って実際に弾いてみたら響きが良くて、6番を演奏してもらって録音をしました。
空間の大切さを身にしみて判りました。
*バッハの無伴奏組曲第6番

青木さんから「50,60で頑張れば70,80で花が咲く」とおっしゃったんです、それが胸にギンと来て、頑張らなくて行けないと思いました。(50歳過ぎのころ)
70歳になった時にオーケストラの演奏会を開くことができました。
オーケストラがどうしたらいい状態になるか、オーケストラの人達が幸せになるような演奏を出来ればオーケストラの人達が幸せになるし、聞いている人たちも幸せになるので、どうしたら幸せな演奏ができるか、幸せな音楽にみんな一緒に協力できるか考えていました。
空間力があれば幸せな状態で演奏出来て、幸せな状態で聞けるのではないかというそういうふうに思っています。
日本人でしかない様な気配を感じる、呼吸を感じるそういうのは、日本人独特な感性なので、それをオーケストラで取り入れて日本独特の響きを、世界に出していく時期に来ているのではないかと思います。
*ヴェートーベン交響曲第7番二楽章



































2018年10月10日水曜日

町田 康(作家・ミュージシャン)     ・古典を読む楽しみ

町田 康(作家・ミュージシャン)     ・古典を読む楽しみ
町田さんは56歳、19歳でパンクロックバンド 「INU」のボーカルとしてデビュー、解散後も音楽活動を続けるかたわら映画への出演、詩やエッセーを発表し、小説家としては1996年に処女作、「くっすん大黒」で野間文芸新人賞、2000年には「きれぎれ」で第123回芥川賞受賞。
以降も数多くの文学賞を受賞しています。
最近力を入れているのが古典の現代語訳です。
今は「ギケイキ」に取り組んでいます。
日常や小説を初めとする創作の流儀、古典の楽しみ方などについてお聞きします。

「ギケイキ」の冒頭部分を朗読。
歌も歌いますが、歌は伴奏があるが、朗読は他の音が全然なくて自分の声だけなので緊張します、厳粛な気持ちになります。
熱海には12年住んでいます。
東京に住んでいたが猫の数が増えてきて 手狭になり田舎にということで引っ越しました。
10匹以上いましたが今は7匹です。
熱海に来て犬も3匹飼っています。
朝6時位には起きます。
猫にご飯をあげたりすることから始めて朝食をとり、8時ぐらいから小説の原稿に取り掛かります。
11時ぐらいまでしてから、雑用をして、また猫の世話などをします。
夕方には犬の散歩などをして、夜は資料とか仕事で読みたい本とか、自分の読みたい本を読んだりしています。
夜は9時~11時頃には眠ります。
音楽活動はずーっと続けて来ましたが、小説を本格的にやるようになってからは余りやっていませんでした。
36歳まで音楽活動をして、56歳位までは小説のことをやって今は両方やっています。

執筆と音楽活動はお互いに刺激し合うような所があります。
ロックが好きでしたが漫才、落語、浪曲、など日本の古くからある演芸は好きで聞いていました。
本は子供のころは児童文学、10代のころは筒井康隆さん、野坂 昭如さん、大江健三郎さんとか読みました。
読んだものの影響は全て受けていると思いますが、筒井さんは判り易く影響を受けていると思います。
自分のこと、身の周りのことを書くのは苦手です。
エッセーも面白く読んでもらうための工夫を入れたくなる方なので、フィクションとの境界が割とあいまいな感じです。
1996年「くっすん大黒」を発表。
その本の前に書いた本を読んだ編集者が、小説を書いてみませんかというのがきっかけでしたが、小説を書こううという強い気持ちがあったということはあります。
誰も書いたことのない様な小説を書きたいとは思っていました。
文章自体が好きです。(音楽と音とに例えると音色が好きです)
自分が一番かっこいい、一番渋いというような、いいなというもの、そんな感じの言葉の選び方です。
子供のころから親しんだ演芸(漫才、落語、浪曲、など日本の古くからある演芸)が耳に残っていて昔と繋がっています。

古典文学のことをやっていると古典を勉強しているのかとか、思われるかもしれないが、学校では興味はなかった。
中学で平家物語を朗読させられる授業があり、いまだに耳に覚えているところはありますが、ロックの方がかっこいいというような気持ちはありました。
子供向け日本史の通史の本があり、物語風に書かれていた。
それが面白くて何度も読みました。
語り口による昔に興味を惹かれるようになりました。
19歳の時にデビューしたものに落語の一節も入っています。
古典は今の常識では考えられないよいなことが起こっていたりしますが、判らないところは流してしまって判る所だけ読んで、つじつまが合わないところが出て来る。
アレっと思って立ち止まって考えると、こういうことだったのかという驚きがある。
段々分って来るのは、昔の人がやっていることといまの人と余りベーシックのところでは変わらないんだなとわかった時には、時間的に通じる喜びがあります。
そうすると頭の中ではすでに翻訳している訳です。

「浄土」短編集 古事記を一部翻訳したような話を書いていたりしました。
古典の翻訳を本格的にやったのが「宇治拾遺物語」です。
置き換えること自体の面白さはあります。
古典は重々しいものの様に感じてしまうが、自分の本当の身の回りのものに置き換えると急に楽しくなります。
下人とか出てくるがスタッフと言って置き換えてしまっても成立する。
聖、私度僧(自分で勝手に僧になった人)はインディーズ系の僧というと非常に判りやすい。
そんなことをやってもいいのかといわれるが、仏教は難しいが、かなり面白くして判りやすくして一般の人に言っていた。

「ギケイキ」 室町時代に成立した話で、源義経の生涯を面白おかしく書いた話です。
原典を読んで直訳する
「常盤と申すは日本一の美人なり。 九条院はことこのませたまいければ洛中より
容顔美麗なる女を千人めされて、その中より百人、百人の中より十人、十人の中より一人得らりけるたる美女なり」
そしてこれは私の訳した訳し方です。
「母は極度に美しかった。 母は、藤原の呈子さん通称九条院さんの家に雇われて働いていた。 ・・・九条院さんは華美を好んで超美人しか雇わない。 そのためにオーディションをするわけね。・・・」
藤原の呈子に関する説明をさりげなく入れる。
装束なども現代風に大胆に翻訳する。
軽薄なファッション雑誌風の文体を取り入れたりする。
原文に付けくわえたらどうなるか、補って書くことによって面白おかしくして、つじつまが合う様に考えたりする。
①直訳をする、②少し異訳の部分を増やす、③足りないところを補うこの三つをやると翻訳が物凄く面白くなる。
「ギケイキ」は予定では4巻で収めたいと思っています。






























2018年10月9日火曜日

石橋恵三子(番組「消え物」担当)     ・テレビに"華"を添えて50年

石橋恵三子(番組「消え物」担当)     ・テレビに"華"を添えて50年
TVのスタジオやロケの現場で使われる花や料理は、収録後には残らないことから業界用語で「消えもの」と呼ばれています。
石橋さんは今から50年ほど前、姉の嫁ぎ先の花屋さんを手伝って、民放TV局のスタジオに飾る花を納入したことがきっかけで、TV業界の「消えもの」の草分けになりました。
放送開始から42年を迎えた「徹子の部屋」では第一回からこれまで1万回以上スタジオの花を活け続けています。
石橋さんはその42年の間、様々なエピソードを「徹子の部屋」の花しごと、という本にまとめています。
もう一つ石橋さんが得意なのは料理です。
ドラマやバラエティーで出演者の食事シーンも任されるようになりました。
NHKでは「キッチンが走る」という番組の調理補助として、6年半名シェフ達と共にロケに随行し、地元の食材集めと調理に活躍してきました。
花や料理を中心とした「消えもの」担当者としての、50年さまさまなできごとや仕事への思いをうかがいます。

家には床の間があったので必ず母が花を活けたりしていました。
花のある家でした。
中学では部に入らなければいけなくて、ソフト部に入りたかったが、華道部は少なかったし花嫁修業にもなるかと思い華道部に入ることにしました。
先生の処に個人的にいって学んで中学の終わり頃位に免除を頂きました。
姉が嫁いだ先が麻布十番に花屋さんを2軒持っていて、義理の兄が草月流の先生で名が売れれいた方で、兄のもとで草月流の勉強をしました。
仕入れの市場にも一緒に行ったりして花に接することが多かったです。
美術学校に入ってデッサン、色に関する勉強もしました。
TVの生番組に花を飾って欲しいという要望があり、スタジオにおいたりしていました。
専属でという話があり、やらせていただくことになりました。
TVも白黒からカラーになってきて造花から生の花にということになってきました。

放送開始から42年を迎えた「徹子の部屋」では第一回からこれまで1万回以上スタジオの花を活け続けています。
1週間の早さ、のんびりできるのは水曜日だけでした。
月、火で7本収録する訳で徹子さんは打ち合わせなど大変だと思います
次週の出演者は木曜日に伝えてもらいます。
話の内容は私は聞きません。
ゲストの先取りをしてしまうようであえて聞きません。
花の仕入れは太田市場です。
仕入れは金曜日に行きます。
8時には着くようにしていて、9時半には店が閉まってしまうところもあります。
どうしてもも欲しいものがあるときには7時に行ったりします。

セットには花が一番最初に入り、徹子さんが入り、その後ゲストが入って来るので、そこで手を加えることはありません。
男性がゲストだと徹子さんは派手な衣裳にするので、花は目立たないようにします。
女性の場合は女性が目立つようにするので徹子さんは控えめな衣装にしています。
お花とゲストと徹子さんの写真を撮っておいています。
記録として撮っておかなくてはいてないと思っています。
ゲストの人は飲み物をリクエストすることができますので、美味しいものフレッシュなものを提供するようにしています。
カクテルの色の勉強をしようと思ってカクテルの学校にも通いました。
番組が12時からなので、病院では花を見て下さる方も多いです。

データを取っていた時に、いつかは本にしたいと思ってはいました。
「徹子の部屋」の花しごと
徹子さんから花は第二のゲストと言って下さってくれて、それにこたえていかないといけないと思いました。
美輪明宏さんの時には衣装と花が同じものになりましたが、まったく偶然でした。
黄色、紫など割と派手な色で、斜めに入っていて、花もそういった色が斜めに入っていました。
美輪さんから思わず「霊感があるの」と言われました。
イメージが合う瞬間があるものだと思いました。
葉加瀬 太郎さんの場合は、明るいヒマワリ、NHKの朝ドラの「てっぱん」で番組の中で歌っていたのがヒマワリで8月だったので、全部ヒマワリで活けました。
番組でもヒマワリを歌ったんです。
お嬢さんの名前もひまわりちゃんと言うことで、終了後全部ヒマワリを差し上げました。
高倉健さんが好きなのは「都忘れ」という紫色の小さな花なんです。
その時は季節外れでしたが、房総まで行って100本手に入れ、「都忘れ」だけで活けたら物凄く喜んでくれました。
お帰りになる時に花束にしてお渡ししたら、「有難う」と言って一本だけ私に渡してくれまして、感激しました。
吉永小百合さん 「北の桜守」に出演しましたが、、「徹子の部屋」の収録が2月で、セットにも桜を飾りました。
啓翁桜を咲かせなければいけなくて、工夫をして昼間は日に当て、夜は温度管理をして5日間繰り返して当日は満開になり、吉永さんも徹子さんもとっても喜ばれました。

料理は「消えもの」の係はいなかったので、ご飯に味噌汁、煮ものは得意だったので番組で出すようになりました。
調理師の免許も持っています。
桃井かおりさんなども私の料理のファンとなったりしてくれました。
「キッチンが走る」という番組の調理補助として、6年半名シェフ達と共にロケに随行し、地元の食材集めと調理に参加しました。
アシスタントとして調理の手伝いをしました。
朝5時、6時からスタンバイします。
TVの世界は憧れはあるが、時間的な拘束が長くて若い人たちが続かなくて、レシピ通りにつくる時代になってきているので要望されることも多くて、ちゃんと料理の勉強をしていないと付いていけない場合もあるので、最後まで続かないということもあります。
今はなんとなく落ち着いてきています。
花と料理と両方できる方は今なかなかいないですね。
相手の気持を大事にすると言うか、相手の気持ちになってあげる、厭なものでも笑顔で受けると言うのをモットーにしています。




























2018年10月8日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】大石誠之助

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)・【近代日本150年 明治の群像】大石誠之助
大逆事件~
講談師 神田 蘭

太逆事件で死刑になった大石誠之助
2018年1月に人権思想や平和思想の基礎を築いた人物として、新宮市の名誉市民に認定している。
講談による紹介。
1867年和歌山県新宮市生まれ、明治44年に1月24日に亡くなっている。
京都の同志社英学校英語普通科中退後、神田共立学校で英語を学び中退。
1891年6月渡米し、ワシントン州ワラワラ市のセントポーロ中学校入学。
1892年オレゴン州立大学医科に入学、1895年卒業。
同年4月から7月までモントリオール大学で外科学を学び、10月に帰国する。
翌1896年新宮町で医院を開業。
3年後、1899年伝染病研究のためシンガポールを経てインドのムンバイ大学に留学。
インドへの留学が彼に大きな影響を与えました。

カースト制の実態を知り、社会主義の思想に目覚める。
帰国した大石は又病院を開業する。
裕福な患者からは医療費を頂き、貧し人からは無償で行う。
「太平洋食堂」(レストラン)も開き、洋食の普及、西洋の合理的な生活の普及にも尽力する。
都々逸(どどいつ)についても宗匠の地位まで上り詰め、都々逸の普及にも尽力する。
社会問題に関するエッセー、論評を発表し、自由、平等、平和を唱え、活発な言論活動を展開して行く。
その中で堺利彦幸徳秋水と交流し彼等の活動資金の援助をしていた。
明治43年に大逆事件が発覚、共同謀議の罪で大石も処刑されてしまった。
大逆事件とは何だったのか、彼の人生はまだまだわからないことだらけです。

郷土愛が強くて上方志向は感じられないし、いい人だったんだろうなあと思います。
長兄大石余平の長男は西村伊作
アメリカではアルバイトとしてコックをやっていた関係でレストランも開いた。
母方の西村家は奈良県一帯の山林王だった。
農地解放では山林は除外されていて、後々まで金持だった。
南紀は温暖で解放感を感じる。
和歌山県は高知県と似ている所がある。
当時の文化人に共通するのはキリスト教です、自由、平等に親しむと言う事。
明治32年(1899年)伝染病研究のためシンガポールを経てインドのムンバイ大学に留学、カースト制の実態を知り、社会主義の思想に目覚める。
インドのスタール奏者はバラモンに所属していて一番上の階級、観客に頭を下げると言うことはない。(今は違うが)
和歌山では社会主義として新宮、田辺が拠点となる。
田辺には社会主義を推進する人たちが集まっていたが、その一人が大逆事件に関わってくる菅野スガ、彼女と結婚する荒畑寒村らであった。

大逆事件、当時の皇族に対する謀反とか皇族を否定するようなこと。
大逆事件と認定されているのが4つあるが、その中でも一番規模が大きくて大逆事件と言った時に、幸徳事件(明治43年、45年)、大石誠之助 が命を落とすことになる。
虎ノ門事件、朴烈事件、桜田門事件などがある。
明治天皇を爆弾で吹っ飛ばしてしまえと言うような、思い。
何処まで具体的な計画があったのか、明らかにならない。
綿密な爆殺計画を立てたようにはとても思えない。
官憲が動いて、これを契機として反政府を標榜している奴らをみんな捕まえてしまえということになったらしい。
一番標的にしていたのが幸徳秋水であった。
宮下太吉、新村忠雄等がいるが、そこに菅野スガが関わっていて、その愛人が幸徳秋水であった。
濡れ衣であった可能性は高い。
平成13年高知県中村市の市議会が「彼は無実であった」ということで幸徳秋水を検証する決議を全会一致で議決している。
明治は怖さ、暗さを持っていた時代でもあった。
大杉栄、荒畑寒村、堺利彦等は獄中にいたために助かった。

荒畑寒村が獄中にいるときの菅野スガは幸徳秋水(妻がいた)と愛人関係になり離婚を迫っている。(荒畑寒村は幸徳秋水の文書に心酔していて、それまで幸徳秋水を心の師と思っていた。)
仲間内でも相当評判が悪かった。
明治の時代は女性は社会進出が抑え込まれていたが、進歩的な自由を求める女性にとって一番の武器になるのは恋愛だったと思う。
恋愛は男の人と平等に渡りあえるので、そこは責められないのかなあと思うが。
思想で自由恋愛している人もいるかもしれないが、元々持っている体質の人もいるのかもしれない。
市川房江さんはそういった類は無く立派な人だと思います。
大石誠之助さんにとっては、いい迷惑だった様な気がします。
大石誠之助さんは友達になりたいと言うような人だと思います。


















































2018年10月7日日曜日

島本須美(声優)            ・【時代を創った声】

島本須美(声優)            ・【時代を創った声】
映画「風の谷のナウシカ」のナウシカ役、映画「ルパン三世 カリオストロの城」でのゲストヒロインのクラリス役などで知られています。
高校で演劇部に入ったことが演技に興味を持つきっかけだったという島本さん、来年で声優としてデビューして40年になります。

多くのアニメ作品 に出演しながら洋画の吹き替え、舞台などでも活躍しています。
映画「風の谷のナウシカ」1984年の宮崎駿監督の作品、戦争による科学文化が崩壊した後、汚染した大地に住む虫と人間たちと自然との共存について、風の谷という村の姫の役。
初めての主役を頂きました。
アニメーションって、「声出せ声出せ」とよく言われてたが、心の中をつくっていないんだ、薄っぺらな芝居をしているんだ、だから声を出しなさいと言っているんだと言うことが今は判ります。
大先輩たちに囲まれてやっていました。
1979年映画「ルパン三世 カリオストロの城」宮崎駿監督 初めての宮崎駿監督との出合いでした。
『赤毛のアン』の主役のアンのオーディションの最終選考まで残り、結果は山田栄子さんに決まったが、宮崎駿監督の指名で『ルパン三世 カリオストロの城』のオーディションに参加、結果クラリス役に決まりました。
クラリス役は声優デビュー1年目の時で、凄く緊張しました。
いろいろドジを踏んでしまいました。

高知県高知市出身。
おてんばで、気が強い子供でした。
高知商業高校で演劇部に入りました。
役者の道を目指そうと思いました。
桐朋学園大学短期大学は俳優座の受験資格が出来たので、そこに行こうかなと思い、受験して受かりました。
運動神経はよくて、中学は体操選手、高校では体操部が無くて演劇部に入りました。
人の前で演じるということと、それを見た人達の反応が生で感じられて、嬉しい気持ちがありました。
俳優座の受験資格は3年でしたので、専攻科に進みました。
その間、仲間と小さい劇団をつくろうと言うことになりましたが、色々大変なことが判ってきて、迷って、結果私だけ逃げて劇団青年座を受けました。
初井 言榮 (はつい ことえ)さんから私の付き人になって現場に付いてきなさいと言われて、1,2カ月やらせていただきました。
そこでは一杯色んな事を学びました。

青年座には10年いました。
色んな中の仕事の一つとして声優の仕事をやりました。
『ザ☆ウルトラマン』ではヒロインの星川ムツミを演じて初レギュラーになりました。
同じ年に劇場用アニメ『ルパン三世 カリオストロの城』でゲストヒロインのクラリスを演じることになりました。(青年座で2、3年目の頃)
声優は声だけで表現しているから、一言に心を込めている。
映像の世界で頑張っている人が声の世界に来た時に、自分の姿が見えているうえでの声の出し方をしているので、アニメーションが余り描かれていない場合は声が薄くなってしまうことがある。
私達は補いながら心をこめて言っているので、そこに大きな違いを感じたりしています。

私は声帯が弱くて声が全く出なくなってしまった時も有ります。
声が出るまで1カ月ぐらいかかりました。(2回程ある。)
風邪をひかないように注意するように心がけています。(食べ物、予防措置)
自然の大切さ、人への思いやり、優しさ、色んなものを教える事が出来るということはいいなと思います。
そういったことが声優の一つの仕事なのかなと思います。
若い人たちはアイドル声優に憧れている。
アイドル声優は歌が歌えて、ダンスが出来て、イベントに参加してと言うふうに昔のTVのアイドルと同じようなことを声優に求めているところがある。
アイドルの期間は短い。
本当の自分の声で勝負できるところを見つけておかないと、ある時期で終わってしまいますよと言っています。
オリジナリティーが無いと残るのは難しいと思う、個性を大事にして欲しいと思います。
辛いと思いながら長い人生を過ごすよりも、毎日楽しいことを一杯考えて生活してほしいと思います。






















































2018年10月6日土曜日

原田禎夫(大阪商業大学准教授)      ・川ごみが海をよごす

原田禎夫(大阪商業大学准教授)      ・川ごみが海をよごす
京都府亀岡市から京都市の嵐山まで、船で下る保津川下りは保津峡の美しい景観が魅力的で多くの観光客が訪れています。
しかし岸辺を歩くとごみが目立つということです。
近年増えているのが、ペットボトルやプラスチックごみで、川の流れに乗って大阪湾、瀬戸内海に流れ込んでいます。
亀岡市在住で大阪商業大学准教授の原田さんは2007年にNPO法人「プロジェクト保津川」をつくり、代表理事として川の清掃や一般への啓蒙活動をしています。
今、世界的な問題になっているという川ゴミ、特にプラスチックによる海洋汚染と、「プロジェクト保津川」について伺います。

トロッコ列車には年間100万人以上が乗り、保津川下りも20~30万人が来ています。
京野菜を求めにきて大人気ですが、そのほとんどが亀岡市と南丹市で作られています。
京都駅から亀岡駅まで20分位です。
2007年にNPO法人「プロジェクト保津川」をつくり、川の清掃や一般への啓蒙活動をしています。
大学院生のころから水の研究をしていました。
水道料金はどうやって決まるだろうと研究しているうちに、水はコストのお金しか考慮していなかった。
或る日保津川下りの船頭さんたちが来て、「保津川のゴミがひどいのでどうしたらいいでしょうか」と相談に来られました。
写真を見てびっくりしました。
地域の皆さん、船頭さん達とNPOを作って、清掃活動を行ったり、川のごみの問題をどうしたらいいのかを、考えるようになりました。
会員は100人弱います。
清掃活動を毎月やっていて、今年の2月で100回を迎えました。

到るところにペットボトル、レジ袋、食品の発砲スチロールのトレーなど様々なゴミが大量に流れついています。
ポイ捨てもあるが、フェルトペン、筋肉痛の薬、納豆の容器などもある。
ゴミ捨て場の管理が悪いのかどうか判らない。
ゴミの原因、生活の中にプラスチック製品が多過ぎて、雨が降った時などにどっと川に流れ込む。
「貴方の家の前がごみの出発点ですよ」と言っています。(カラスが突っついて中身が出てしまいそれが雨で流れだす。)
見付けたら一個でもいいから拾う人になって欲しいと言っています。
多い時は何トンという量が集まります。(保津川河原だけで)
保津川から淀川に入って行き大阪湾に、瀬戸内海、太平洋に出て行く訳です。

マイクロプラスチック、全長が5mm以下の物をそう呼んでいる。
顕微鏡レベルまで小さくなってゆくものがあります。
ペットボトルの蓋の細い部分、価格票の留める細いT状の物、人工芝の破片とか、足ふきマットの破片など、水路を伝わってやがて海へと行きます。
悪意が無いけれども、結果としてプラスチックゴミの原因をになってしまっている。
そういったことはなかなか気付かない。
紫外線を受けてプラスチックは劣化し、波の力で岩に砕けられどんどん細かくなってゆく。
プラスチックそのものが、製造過程で様々な添加物が含まれている。
添加物が及ぼす影響については未知の部分もあり、大量に摂取すると人体に影響を及ぼすものがある。

知らず知らずに食物連鎖の中で、我々は摂り込んでしまうという危険性がある。
小さなプラスチックをプランクトンが食べると言うことは研究で明らかになっている。
食物連鎖のなかで濃縮されてゆくので、プラスチックの持っている毒性も濃縮されて行く。
元は石油なので非常に色んな有害物質を吸着し易いという性質がある。
台風などでまぜっかえされると、かつて高度成長時代に使われた有害物質が巻き上がってしまう。
そこに含まれていた有害物質が再びプラスチックに吸着されてしまう。
プラスチックごみが過去の有害物質の運び屋になってしまう、その影響も深刻です。
どの程度摂取したらどんな影響が出るのかまだ判らない、リスクが判らないということが一番の問題だと思います。

海水に流出したプラスチックは海水と反応する中で、鳥たちが好きな餌と同じようなにおいを発生しているので、最近の研究では鳥たちは好んでプラスチックを食べているのではないかと言われています。
防ごうと思えが防げるものなので、放っておくと数十年後は10倍になってしまうかもしれない。
瀬戸内海は沿岸からの流入が70%程度は我々の街から出ていると思う。
そのうちの60%位は淀川から瀬戸内海に流れ込んでいると思われる。
清掃活動して一旦は綺麗になるが、大雨、台風が来ると元の木阿弥になってしまう。
でも食いとめないと、まずは続けて行くことが大事です。

「水に流す」などという言葉があるが、昔はプラスチックは無くごみを捨てる影響度は少なかったかもしれないし、川が生活と密着していたが、最近は川とともに生活するということは無くなってしまって、川の水を飲むなどということはもってのほか、ということになってしまった。
ゴミ拾いするだけではなくて、川を暮らしに近づけたいなあと思って、色々啓蒙活動を行っています
何処にどんなゴミがあるのか、スマホで調べるようなアプリも開発したりしています。
写真を投稿してもらって考えていただき、清掃活動が盛んになった地域もあります。
2012年に内陸部で海ごみサミットを行いました。
3回目の川ゴミサミットも開催します。

海洋ゴミが深刻な問題として、地球温暖化などと並ぶ主要議題になっています。
世界では色々取り組みが進んでいて、レジ袋禁止という国も有ります。
ペットボトルを店に返すとお金が返ってくる、デポジット制度が導入している国が出てきています。(ヨーロッパ、アメリカなど)
瓶、缶、ペットボトルなど機械が勝手に分別してくれて、お金がもらえるような機械が出てきています。
機械は店のコンテナに自動的に分別されて、処理工場に行きます。
処理工場では何処の店からどんな製品が回収されたのか、一瞬で機械で仕分けて表示されます。
アメリカでは米を計り売りをしていたりします、紙の袋を使っています。
先ずは問題を知っていただいて、海岸、川がどうなっているかを周りに広げて頂いて取り組んでいただき、行政の人には仕組み作りをして頂きたいと思っています。
衣類の化学繊維の埃も(洗濯で出て来る)マイクロプラスチックです。
我々は意識を変えて行かないといけないと思います。



























2018年10月5日金曜日

島袋清徳(伊江島元村長)        ・基地とひきかえの村おこし

島袋清徳(伊江島元村長)        ・基地とひきかえの村おこし
先日の沖縄県知事選挙でも争点の一つになったのが、アメリカ軍基地の問題。
沖縄で基地闘争の原点の島と呼ばれるのが伊江島です。
戦後伊江島ではアメリカ軍による土地の強制接収に対し、住民による激しい反対運動が行われました。
しかし、平成元年に村長に就任した島袋さんは島の振興策などと引き換えに、新たな戦闘機の訓練所の受け入れを決断します。
現在80歳、戦争体験もある島袋さんは、何故その時基地を受け入れたのか、今も基地問題に揺れ続ける沖縄でその決断をどう振り返るのか、伺いました。

伊江島は沖縄本島の北部の沖合にあり、周囲20km余り、人口4500人ほどで、面積の1/3が軍用地になっている。
戦争中に日本の基地になり、戦後米軍基地になり振り回されてきました。
よく忍耐強く来たなという思いはあります。
国民学校に入学して、机に座ったという記憶はないです。
竹槍を突く訓練をやるとかといった記憶しか無いです。
第二次世界大戦が勃発してから、沖縄防衛の砦として小さな伊江島に2つの飛行場を建設して、それが有ったため、米軍の攻撃ターゲットになってしまいました。
空襲があり強制疎開となり、夜中に島の東の海岸から沖縄本島の浜元というところに行きました。
1945年4月16日に伊江島にアメリカ人が上陸、3000人が残っていたが、6日間の戦争で半分の1500人が亡くなる。
残りの1500人は島外の収容所に移される。
見つかって私も収容所に移される。
大きな火災があり私の家も焼かれてしまいました。
当時のことは言い尽くしがたいです。
終戦後2年が経ってようやく伊江島に帰ることが許される。
目にしたのは故郷ではなくて、廃墟と化した島で、米軍の大きな基地と錯覚するほど、米軍車両が往来していました。
小学校で集団生活が4,5カ月続いて、その後自分の土地に掘立小屋を建てたり畑を開墾したりしました。

そんな時、港のLCT事故に直面しました。
LCT=輸送船 1948年にアメリカ軍の弾薬輸送船が伊江島の港で爆発する。
民家の台所で水を飲もうとした時に、耳を引き裂かれるような爆音があり、真っ黒くなり視界がなくなりました。
20秒位は真っ暗闇で、あまり意識も無いまま死体を飛び越えたりして家に帰りました。
家に帰ったら母がいましたが、父はいませんでした。
探しに行ったが白い海岸が真っ黒になっていました。
顔は判別できなくて右手のひじから先が無い死体があり、父だと思いました。
(以前に父は右腕を無くしていたから。)
ただぼんやりと立ちすくんでいるだけでした。
後ろから「生きていたか」と声を掛けられて、振り向いたら父でした。
この事故で100人以上が亡くなり、70名位が負傷しました。
他の地域に比べて戦後は遅かった。

1950年代に入ってアメリカ軍が伊江島の土地の強制接収を行う。
農家の多くが軍用地になり、一時期島の面積の68%が軍用地になる。

通信施設を強化するために一つの集落をつぶすことになる。(「強制立ち退き)
伊江島の土地を守る会があり、メンバーがハンガーストライキを断行した。
当時私は役場に勤めていて、財政課長をやっていました。
農業所得が厳しかった。
各家庭は遺族で遺族年金が29億円あり、強制接収した土地に対して5億円支払われていて、伊江島は豊かであるというふうに誤解されていた、生活には不自由はしなかった。
その後助役を経て1989年に村長に就任する。
基地が本当に無くなって、平和な古き良き時代の心豊かな地域作りをしたいなあという思いがありました。
村長就任後翌月に、ハリヤーと呼ばれる戦闘機の訓練場を建設する問題が持ち上がる。
国頭村(くにがみそん)に最初予定されていたが、地元の猛烈な反対があり向こうでは出来なくなった。
騒音があり危険な飛行機だと言うことだった。

那覇局の幹部が来て、日米安保に関わることで重要な基地だと言うことで、是非なんとかして欲しいということだった。
島の現状をかんがえて、現実を考えると、遺族年金、土地使用料も段々少なくなってきていて、生きるための施設が絶対必要だと、病院が無い、島に勤められない、水に悩まされれてきた(豊作、凶作)、そう言ったこと、将来の事などもを考えていました。
議長と二人で会って、指定している場所では危険性があり、騒音などでとても無理だと言う事で絶対反対だと話しました。
翌日、二人司令官が来て言うとおりに場所を移すということで、政府との条件闘争に入ったわけです。
島の将来の事を考えて、訓練場の場所を集落から離れた所に移す、島の振興策を条件に容認しました。
はっきり言って、個人的には反対ですよ。

自分の中で振り回されてきた現実、葛藤しながら何とも言えない心境でした。
綺麗事では絶対この島は救えない、という思いが有ってそういう決断に至りました。
「あんたは助役から村長になって、助役の時は優秀だったが、村長になってぼろがでてもうやめた方がいい」と言われたり、「ロッキード事件よりももっと賄賂を貰ったという噂があるが、今日、表明しなさい」と言われたりしました。
決断が良かったか悪かったかどうか、30年間の過程と、現在を直視して判断を村民にゆだねると、そういうふうに思っています。
伊江島の農業が盛んになり、観光客も増えたが、島の1/3は基地になっており、トラブルも起きているが、基地が有る所以であるが、村民を守る立場からすると、私は決断せざるをえなかったし、他の人でもそう決断せざるを得なかったのではないかと思う。
村長を退任して10年以上になる。
充実した人生とは思わないが、耐えてよくやってきたなとは思います。
戦争とはどんな事があってもやってはいけない事だが、戦争に加担しているのではないかと言われたり、予算を多く貰うためにと、ただこの一言の言葉でかたずけられてしまう。
それが残念でたまらない。
基地を容認し、基地関連の予算で色んな島の繁栄をもたらしてきているが、村民は満足はしていない。
真の願いは心豊かな平和な村を望んでる。
島をよりよくするための手段であるということで、県全体もそうなっていければなあと思います。








2018年10月4日木曜日

保坂衣子(日中戦争兵士の娘)      ・父が残した424通の真実

保坂衣子(日中戦争兵士の娘)      ・父が残した424通の真実
今年77歳、10年前実家の蔵を整理している時に、偶然沢山の手紙の束を見付けます。
日中戦争の時、出兵した父が家族にあてた手紙でした。
保坂さんの父五味民啓(たみよし)さんは陸軍兵として召集され、昭和12年から3年間中国上海を中心に戦いました。
戦地からの手紙は実に424通、そこには戦場の凄惨な実態が克明に記されていました。
保坂さんは父の手紙を保存するだけでなく、県内各地に展示したり、手紙について講演を行ったりして、そこに記された戦争体験を父に替わって、次の世代に語り継ごうと活動しています。

手紙の紙の色は茶色になっていて、かなり年季を感じます。
4~5kg位はあります。
2008年9月(父が亡くなったのは9月ですが)、蔵を開けた時に見つけました。
戦地に行ったのは昭和12年、23歳でその後3年間に書いたものです。
出兵したその日から書かれています。
戦地から母、父の弟、祖母に宛てた手紙でしたが、戦争の生々しいことが書かれていまして本当にショックでした。
手紙の一部
「5日間、敵弾激しき為、後方から食料は来ず、弾は尽きる。
雨は降り続ける、惨憺たる地獄以上の生活が始まった。
空腹に耐えかねて食料を取りに行く戦友が一人二人とはじからやられた。
攻撃前進命令が来たり、どうする事も出来ず、壕を掘り掘り前進した。
空腹を隠して 一尺、二尺と掘って、一日に僅か15mしか前進しない日もあった。
倒れる戦友をかばう間もなく、自分もやれれるような悲壮な場面を展開してかろうじて第一番に突入を敢行した。・・・」
この後の文章も戦死した部隊の名前が次々と書かれていて、過酷な戦場の様子が描写されている。

私にとっては映画の世界の様でよく判りませんが、凄まじい中で生きていたんだなあと思いました。
上海の当時の治安、軍の規律の乱れなど、あまり知られていない戦場の実態も言及されている。
その一部
「暗殺団がいて危険、上海の夜を満喫していると、突然拳銃の響きと人の悲鳴が起こり、全く物凄い騒ぎです。
撃たれたのは日本人で世界の魔窟と言われる上海であれば、こんなテロ行為もスリルも何も恐ろしいことは無く、むしろ当然のことなのです。
戦場に来た兵隊の中でも殺人、強盗、傷害とよくもこんなに事件があると思うほど毎日逮捕されます。」

当時の報道も批判している。
敵は刃向かう勇気もなし、なりを潜めてただ蹂躙に任すのみと、華々しく報道は伝えているが、手紙では、
「大抵は新聞記者の付いて来る戦場は勝ち目のある場所です。
苦戦の場合の決死隊など数限り無くあります。
新聞で伝えるのはほんの一部分であると思えば間違いありません。」
離れているところから記事を書いて、勝った勝ったと送っているけれどもそれは嘘であるというふうに書いたところもあります。
最初は墨で消されたものがあったが、途中から自分の思いを沢山書かれていました。
最初は皆さんと同じように戦っていたようですが、途中から憲兵になってスパイの規律維持などをやっていたようですが、主にやっていたのは事務処理係をやっていたようでした。
手紙の検閲なども担当したので、こんなことを書いて大丈夫なのかなと思っている文章も幾つもあります。
でも相当リスクはあったと思います。
自分も生きて帰れないという思いもあったのではないかと思います。

兵士として相手を殺したこともある、その部分。
「毎日2,3人で付近の偵察を行い、怪しいものは銃殺や刺殺に処しています。
さんざん人殺しをした後なので、少し人間も変わっているし、顔つきは凄いでしょう、お笑いください。」
職務だったとしてもそう言うことがあったということは恐ろしい、戦争というものは本当に恐ろしい。
とても受け入れられなかった、父はとっても穏やかで怒鳴り声など一度も聞いたことも無く、父と戦争ということ自体が全く結びつかなくて、いまだ納得できていないところもあります。
私はこの手紙が出て来るまで、父が戦争に行ったということは知りませんでした。
私は父が戦争から帰ってから翌年に生まれました。(昭和16年5月)
父は戦争の話は一切しませんでした。

どんなに純朴な青年でもそういう世界に投げ出されると、自分が生きるか死ぬかで、そういう中で戦うしか無かったんでしょうね。
私は受け入れられない思いだったが、父はもっと忘れたかっただろうと思いました。
父は左大腿部貫通という大けがをして、戦争から帰って来て、途中から役場に勤めるようになりました。
父は文字を綺麗に書くと言うことで戸籍係になりました。
傷痕はあまり見せないようにしていました。(傷が有ったことは覚えているが)
15年に帰ってきて、16年に又太平洋戦争がはじまり、戸籍係として村の青年に赤紙を発行しなければいけなくて、戦争は厭だと心の中で思っているのに、自分の知り合いなどに対して戦争に駆り出さなければいけない立場ということが、凄く腹の中が煮えくりかえるように辛い立場だったと思います。
父は気が狂ったように泣いたという祖母の言葉が、この手紙を読んで理解できました。

父の弟、おじさんが突然現れた時に、異様な情景が目に焼き付いています。
叔父は東京で働いていましたが、東京に召集令状が来て、ルソン島に出兵していきましたがなんとか無事に帰ってきました。
帰って来たその日から田んぼの中をはいずりまわって、蛇、鼠、とかげ、みみず、虫とかを取ってきて、食事時になると手につかんで家の中に入ってきた姿は、私にとってとっても怖いおじさんというイメージがありました。
祖母が「戦争は終わったんだから、みんなと同じご飯を食べていいんだよ、ご飯をお食べ」とすすめるが、「仲間のみんなに申し訳なくて、飯なんか食えるか」と言って泣きながら畑の方に走ってゆく姿を何回か見ました。(私が5,6歳の頃)
物凄い飢餓状態で戦っていたんだと思いました。
生きて帰ってきても辛い思い出は付いて回ったと思います。
父は66歳でがんで亡くなりましたが、時々大きな声で叫んだという事を聞いたりしました。
戦争の事が脳裏から消えなかったんだと思います。
戦争は恐ろしい、絶対に有ってはいけないことだと思います。
戦争が有ったという事、歴史の真実を若い人達にも知っていただいて、そういうことが有った中で自分たちの命があると言うことに感謝しながら、生きて行かなければいけないん
じゃないかなと思います。

生きて帰ることの願いも書かれている。
「長い戦いの間に思うのは、功績とか戦功とかに捉われることは小さな問題です。
現在は命があると言うことが、一番の手柄であり有難いことです。」
昭和22年に選挙が有って、その時に若い人たちが担ぎ出されて村長になったりしたが、真っ先にしたのが、戦争の被災者の為の住宅の確保して生活ができるようにしたのが、一番先にした仕事だったような気がします。
生きるためにみんな一生懸命働いて、今の時代を作り上げてきた、というようなことを書いていますが、父は自分が人間らしく生きられるように、周りの人がそうなれるようにということはメッセージとして残しているような気がします。
自分が手紙を見付けて3カ月後に悪性リンパ腫と告げられて、12月になってはっきり悪性リンパ腫と言われ手術をして、抗がん剤と放射線を浴びて治療が始まったが、毎日死と向き合って、あとどうしたらいいかをずーっと思っていました。
命がけで書いてくれた父の手紙の内容を伝えて行くことが、私の生かされている意味かもしれないと受け取るようになりました。

先生のおっしゃるよりも遥かに長生きしています。(10年生きています。)
自分が生きていること自体奇跡の様に思って、自分の命のある限りはこれを伝えて行くことが、私が生かされている意味の様な気がします。
こういったことが有ったんだと言うことが、生かされている使命の様な気がして講演会などでお話をさせていただいています。
私の処に通って、女子大生が卒論に纏めて下さった人もいます。
同じ過ちを起こさないように、父の想いを伝えて行きたいと思ってお話をしています。
















































2018年10月3日水曜日

森 康行(ドキュメンタリー映画監督)   ・被災地を見つめて

森 康行(ドキュメンタリー映画監督)   ・被災地を見つめて
昭和25年生まれ静岡県出身、昭和53年短編映画「下町の民家」で初監督を務めました。
以来、映画監督、記録映画監督、TVドキュメンタリーの演出を手掛けています。
この秋東日本大震災の被災の被災地を舞台にした映画「ワーカーズ 被災地に立つ」を完成させました。

延べで22カ月ぐらい行ったり来たり、被災地に行きました。
岩手県大槌町、宮城県亘理町、登米と言うところ、3か所に行きました。
一昨年から去年の12月に掛けて行きました。
街が消えてしまったとよく言いますが、まさに大槌町は市街地の95~99%位やられて、原形をとどめていない。
街が有って文化が有ってと言うところだったという話は聞いていました
かさ上げ工事はほぼ完成して、最後に行ったころは家がちらほら建つという状況だった。
復興ということでいいんだろうかと感じました。
今までに築きあげてきた生活、生きて行く価値観も変えて行かないと本当の意味での街が又新たに興ってくることができないのではないかと思う。
映画を撮るにあたって、私は信頼されているかどうか判らないが、私がやっている仕事は記録映画なので、あくまでも映される人たちが主人公なので、その人達の中に今という現実が含まれている。
その人たちが厭と思えば撮ってはいけないと思う。
すこしでも語っていただければ、そこから糸口を見つけて考えることができるのではないかと思いました。

3年前、関東東北豪雨で妻の実家が大きな被害を受けました。
豪雨ではないが、雨が1週間やまなかった。
川が決壊して、義理の父母、義理の兄、姉が住んでいたが、1階に水が入ってきてあっという間も無くてなすすべも無かった。
2階に避難して、夕方自衛隊のヘリコプターに救助され、避難所に行きました。
1週間後に家を見に行きましたが、1階の全ての家具がごちゃごちゃになっていてどうしたらいいんだろうか、というような状況だった。
3カ月かけてなんとかかたづけましたが、ボランティアの人達に助けて貰って本当に助かりました。
家はリホームしましたが、義父は1年後に亡くなりました。
片づけた時にはアルバムとかいろいろ出てきたが、思い出さえも奪って行ってしまう、これが災害の実際なんだと思いました。

高知の高校生がビキニ環礁の核実験について取り上げた映画があるが「ビキニの海は忘れない」という映画で1990年に出来上がったものです。
1950年3月1日ビキニ事件が会って、第五福竜丸が被曝して久保山愛吉さんが亡くなって、長い間伝えられてきた事件です。
沖縄で高校生の平和学習をしている先生たちの集まりが有って、ビキニ事件をやっているということだった。
被害は第五福竜丸、久保山さんだけではない事が判って、そこから映画を作ろうと思いました。(他の漁船、他の人達も被害を受けた)
調べ直して、高校生たちは凄いなあと思いました。

夜間中学に学ぶ人達「こんばんわ」を作りました。
バブルがはじけたころで、自分はこういうふうに生きて行っていいんだろうか、と悩んでいた時期でした。
義務教育を受けられなかった人達、不登校の子などが入ってきて自分を取り戻していくという形で、2003年に公開しました。
私も1年間一緒にクラスに入れさせてもらって勉強したり、一緒に話をしたりしました。
世代を越えた連携で、競争が無いわけです。
自分にとってどういう学びをするのか、学びの原点があると思いました。
自分が生きて行く為に学ぶんだと言う事を目の当たりにした映画、映画を撮る時間でした。
昼間の学校ではそうはいかない、価値観を転換させるような学校でした。

福島の冬から春になる時に雪渓が残っていて、ウサギに見えるころ種をまくと言うことで、種まきウサギという名前で呼ばれていました。
福島の高校生による朗読グループ・たねまきうさぎの活動を追ったドキュメンタリー。
高校生が詩の朗読をするグループを作って、どういうふうに生きていくのか、高校生活をどう過ごすのかという事を描いたものですが、被災した中で色んな知恵と希望を尽くして生き残っていくんだと言う、サバイバルという言葉が映画の中で印象に残りました。
地域の人ならではの困りごとを色んな形で助け合って、仕事にして行くと言うことが素晴らしいと思います。
「困っています、それではみんなでそれを仕事にして何とかしましょう」ということで解決をしていくなかで、色んな仕事をすることになった。
新しい価値観のもとでの仕事起こし、ではそうするためにはどうするんだ、これは色んなことに通じて来るものだと思いました。

宮城県の亘理町でも新しい仕事を生み出す取り組みがなされている。
池田道明さん(多機能型福祉施設の所長) 元仙台空港の整備士で大変な目に遭われた。
仕事も無くなって、社会からの疎外感を味わって、自分が仕事を作ればいいという働き方もあると言うことで、地元の産直野菜販売から始まって就労者支援とかで、仕事をつくっていくっというような事を進めています。(協同労働)
農村と若者たちとの交流を描いた。
地元の人でない人達が林業をやったりする。
最初、撮影については警戒されましたが、農業、林業のことは判らないので地元の人に教わり始めて、交流も進んで行って信頼を勝ち得て行ったと思います。
地域地域で協力してもらった人達にも観ていただきたい。
一体どういうふうに生きて行ったらいいんだろうかと、いうこの映画の問いが又問われているんじゃないかと思います。
一極集中がはたしてどうなんだろうかと、言う思いがあります。
地域地域で自分たちがどうやって生きて行くのか考えて、今までの価値観を変えて行くための時なのかなあと思います。


























2018年10月2日火曜日

大塚宣夫(医師)            ・大往生をつくる

大塚宣夫(医師)            ・大往生をつくる
大塚さんは都内で老人病院を経営し、最晩年の高齢者にとって一番大切なのは、医療では無く豊かな一日一日の生活です、と言い切る一風変わったお医者さんです。
医療と介護を同時に必要とする高齢者には、身体に苦痛や負担をかける無理な延命治療をせずに、痛みやつらさを少なくする医療だけを施し、穏やかな最晩年を送ってもらう事を目指しています。
そういう理念に沿って、高齢者が自分が大事にされていると実感できる病院をつくって38年、大塚さんはこれまでの経験から、最晩年の医療は大往生を作っていく道筋であるべきだと言います。
大塚さんの考える大往生とは、75歳以上が1800万人という今日の新しい大往生観について伺いました。

ベッド数は240、入っている人の平均年齢は88歳、100歳を越えている人が12人います。
人生の最後が見えた人達が来られて、3か月から1年位過ごして、大部分の方がそこで旅立たれるといった病院です。
高齢者の施設を始めたが、最初のうちは医療の力でなんとか高齢者を少しでも幸せにしようと思って色々なことをしました。
しかし、医療の力だけでは高齢者をもっと幸せにすることはできないと痛いほど思い知らされました。
本当にお年寄りを幸せにするには、医療よりも介護、介護よりもっと日常の生活、これの大切さに気付いた次第です。
衰え、病気、障害によって独立して生活できなくなった人が多い。
我々がそこに手を掛けて、すこしでも良い時間を持ってもらうように色々工夫するのが基本だと思います。
その人その人の能力、何を持って快適かはそれぞれ違うので、対応は色々工夫を凝らさなくてはいけない。

アルコールも全く自由です。
外から持ってきたものを食べてもらうということも自由です、
食べることは人間最後の最後まで残る楽しみという印象を持っています。
話掛けて反応が無くても、しっかりそのことを理解されている機能は最後まで残っているような気がします。
どういう生き方をしてこられたか、どういう時期が一番輝いたか、そういった情報を知っておくことは凄く大事です。
情報を共有して働きかける時に使うと言うことはあります。
男性は会社で活躍していた頃、女性は一番多いのは子育てをしていた頃、お孫さんを世話をしている頃が、と言うような話は出てきます。

医学部を卒業した後、精神科を専攻、1974年(32歳)の時に友人のお婆さんのことで相談を受けました。
83歳、3年来の寝たきり、認知症の症状が加わって、夜になると大きな声をあげて騒ぐようになり、家族の生活が成り立たないということで施設を探しました。
見学に付き合ったが老人病院で、20畳の畳敷きの病室に12,3人がただ転がされていて、大変不快な臭い、奇妙な静けさが印象的でした。
3か月ぐらいでなくなられるということだった。
衝撃を受けて、自分の親を安心して預けられるような施設を作ろうと言うのがきっかけでした。
親、伴侶などは家族で最後まで自分の家で看ると言うのが日本の価値観だった。
高度経済成長期を経て、日本の家族の構成が一気に変わって、核家族化が進み、高齢者が増えてきて、自宅で看られないような状況が発生してきた。
預け先を探さなければいけないような状況になり、先ほど話したような老人病院みたいな形態が発生した。
居心地のいい場所をつくれないだろうかというふうに考えて、それが私の病院のスタートだった。
38年経って思うことは、以前は預ける後ろめたさが有ったが、今は御家族は最後はこれこれの病院で過ごして、親孝行ができたというような話をされるようになりました。

医療という力を何処まで評価すると言うことかもしれない。
医療は進歩してきて万能の様に思われがちだが、本人の持っている免疫力等がしっかりしていないと医療的な働きをしても効果が出ない。
70歳を過ぎるあたりから、治癒力はどんどん落ちて来る。
効果が表さないということも起こってくる。
我慢すればその先にそれ以上にいい事があると言うことが前提だが、治癒力が落ちてきてそこに医療を受けたとしても、効果が期待できなくなった時、我々はどう受け止めていくかということになる。
試行錯誤して方向が変わっていきました。
一番大事なのは日常生活を少しでも豊かにすることが大事で、そのために介護があり、医療も貢献するんだという枠組みが定まると、我々が何をしないといけないかということが見えてくる。
傷害、病気、老いによって他人からの介護の必要性、そういう状態になっても居心地のいい生活空間にするということが基本になる。

最大のストレスは気兼ねしながら生きなければいけないということです。
それを少しでも減らすことができれば意味があると思う。
家族の介護が一番いいと思うかもしれないが、しかしそれなりの難しさがある。
例え親子、夫婦でもそれがゆえの難しさがある。
介護する親への描いていた像が、どんどん崩れて行ってしまったりする。(精神的苦痛)
好きな言葉に「我親を人に預けてボランティア」というものがある。
①自分ですべてを抱え込むな。
②介護は長帳場なので、完璧を目指すな。(60点でいいから長く続けることを考える)
食事、お風呂、おむつ(最近は高性能)の交換など、必要に応じて対応してもかまわない。
③人の手にゆだねることを考える。

自分の最後の姿は、80点位でもあそこで決着がつきそうだと思うと、人生覚悟して生きられるということがある。
老いというのはいつから始まるのか定義は難しいが、70歳を過ぎたあたりからだと思う。
70歳を過ぎたあたりから下降のスピードが早くなってくる。
下り坂を生きると言うことは思ってもみなかったことが起こる。(辛いことでもある)
今日出来ることは、人生一番高い所にあると言う事。
今できることを自分の身体を目いっぱい使って、如何に豊かに生きるか、と捉えることもできる。
そうすると今日一日がいとおしい日、貴重な日になり、その連続で毎日を生きて行けばいい。
上り坂の時には自分で色々努力しなくてはいけないが、下降線の時には何にもしなくてもその日その日は過ぎて行く。
何もしなくてもその先には終点が見えている。
そう考えると気楽でもある。
今日一日楽しい事、今までやれなかったことをやってみようと思っただけで人生気楽に生きられると思う。
大往生とは、①十分に長生きをしていること、②社会的な役割をそれなりに果たしてそれを卒業している。
自分の能力を目一杯使うことに自分としての務めがあると思えばポジティブに生きられる。

大往生とは、①十分に長生きをしていること
②周りの人に惜しまれながら旅立つ。
③最後が静かである、穏やかである。(蝋燭が消えるように)
④自分が旅だった後に、残された人達がこういう形で良かったなと思ってもらえる。
最近はは②、③が難しくなってきている。
②周りの人に惜しまれながら旅立つ、ここをどう解決するか。
③最後が静かである、穏やかである、長く生かすような手立てを講じようとする。
救急車を呼んで救急病院では1時間でも長生きさせてくれということで、徹底的な医療手立てをするが、どう見ても助からないと言う人にもそれをやって、残念でしたというようなケースが多い。
延命治療は助からないことを前提に事が進んでいるが、病院は助かるか助からないか判らないところからスタートする。
介護されると思われる医師との人間関係をとっておけば、医者はそれなりの対応をしてくれると思うが、突然に自分に意思表示もできない時に、何もやらないでくれということは医師としては非常に難しい。
かなり用意周到な人間関係の中で自分の意志、希望を叶えてもらえる様な人間関係は必要だと思う。
④については、最後の瞬間が静かであると言うことは、家族としっかり別れを惜しむために時間はそれなりに必要です。
体に負担を与えないようにして静かに命が消えてゆくことを待つということは可能です。
死というものがこんなに厳かなものだとは思わなかった、という御家族も結構あります。
残された人に感動を与えながら命を終えると言うことは、我々今から挑戦してみる価値のあるものだと思います。