2012年7月28日土曜日

小山明子(女優)         ・今日も二人で 夫大島渚との介護の日々



小山明子(女優)   今日も二人で 夫大島渚との介護の日々  
 (1935年1月27日 - ) は、日本の女優。千葉県生まれで神奈川県横浜市鶴見区育ち
1955年 映画でデビュー 1996年に大島監督が脳出血で倒れて以来16年間 に渡る介護が続いています
その間精神的にも疲弊し自身でも鬱と戦う日々であったと言われます  
それらをつづった図書「パパはマイナス50点」は日本文芸大賞エッセー賞を受賞
人生生きていれば何もないなんてことはない  61歳 大島が64歳の時に彼が倒れた  
これからいろいろ楽しい事をと思っていた矢先に倒れた
どこにも行けなくなった  イギリスのヒースロー空港に行く自動車の中で倒れた  
脳出血であったがその気配さえなかった

3週間イギリスの病院に入院した 手当がすぐに出来た  30分が勝負だと言われている 
早く病院に行けたので大事には至らなかったが 後遺症があった 
「御法度」の映画を取る予定だった  私は鬱に成ってしまって1か月入院してしまった  
畳の家だったので座って立ち上がろうとしても立ち上がれなかったので絨毯を引いて生活できるようにした(畳→洋風)
兎に角この身体の不自由な人とやっていかなくてはいけなくなった  
家政婦協会に電話して通いで週6日来てもらう様にした
何とか体制が整い さあ食事をしようとして唖然とする  
女優をやってきたので三食ご飯を作ったことが無かった

カルテ 1200kcal 血糖値が高い 一切判らず 主人は朝から酒を飲んでいたりしていた  オーバーワーク 等がたたって倒れてしまった
料理の本を一杯買ってきて勉強を始めた  
リハリビは本人のやる気次第 家族のサポート サポートが無いと成り立たない
理学療法 作業療法 言語療法 を真面目に彼はやった   単純作業を繰り返す 
 黙々と繰り返した  自分を受け入れた 八つ当たりをしなくなった
感謝の言葉が出てきた   介護鬱になってしまった(熱心すぎた)   
みそ汁の具に玉ねぎを入れる(玉ねぎは血液サラサラに成るので)

自分は駄目だ駄目だと追い詰めてしまった  入退院を4回繰り返した  
 鬱病になると食べられない 眠れない  15kg痩せた
何で鬱病を卒業で来たのかを考えると大島が早く復帰できた 優等生の患者だった 
言葉も魚の名前 花の名前を言ってくれと言われて最初全然出なかった
段々訓練で言葉を訓練して刺激を与えて(音楽を聞かせるとか) TVに出るまで復活した  
リハリビ室で倒れた MRI撮ったら何でもなかった 心電図  超音波何でもなかった 
胸部レントゲンで肺炎であることが判った
入院することになる(入院だけは私は嫌だった)  夫の入院後3日目に病院から電話がある
 お宅のお手伝いさんが心筋梗塞で倒れたとの事だった
又追い込まれた   近所の方々が事情を判ってくれて親切に助けてくれた  
ボランティアへの参加意識が湧いてきた 近所との付き合いができるようになった
生き方が変わった 

見なりがひどかったが努力をし始めた(64歳の時)   水泳教室に入ろうと思った 
料理教室、ヨガの教室にも入った
いまでも水泳教室に通っている  継続は力なり 現在77歳   血圧を測ってから入る  
自分との折り合いをつけながらやっている
女優に復活しようとTVのトークショーに出て帰ってきたら大島がお腹が痛いと言いだして救急車で運んで貰ったら十二指腸潰瘍穿孔  破裂していた
集中治療室に入ってこじれていたので中々一般病棟に入れなかった  
生きるってなんて大変なんだろうと凄く感じました

お早うと言って部屋に入ると失語症で中々返事ができない状態だったが2か月位過ぎてからようやく「おはよう」と言えるようになった
病院内の図書館で沢山の本を読んで、これから生きるヒントをとっても沢山本から得ました  
沢山の良い本にであって良い言葉を貰いました
一番大切なものは目に見えない   
なせば成るなさねばならぬ何事も なさぬは人のなさぬなりけり(上杉鷹山の藩立て直しの言葉)
やればできる して見せて、言って聞かせて、やらせて見せ褒めてやらねば、人は動かず
(山本五十六)
先生は夫が帰ってきたら歩けるようにはならないだろうと言われたが絶対に寝たきりにしては成るものかと思って 掴まるバーを付けたり リハリビの人を、来て貰う様にして歩けるようにもなって言葉も出るようになりました  そのまま諦めたら駄目      任せる所は任せる  
自分で発散出来る処が必要   
 
幸せの基準は 海外旅行とか 美味しいものを食べたいとか なんか見たいとか それは幸せなことですが 今望めないこと 今私はそういう生活は出来ない
その中で私が幸せなのは あんなに管につながって駄目かもしれない 
でも家に帰って最後を迎えさせたいと思って連れて帰ってきた喜び
すこしずつものを食べれば元気に成る  ビールはどうしますかと言ったら「当然」 と言った
機嫌良く一日を楽しく生きられれば良いと思っている  
いずれ人間は死ぬ 最後の時に自分は良い人生だったなと思って貰いたいなと思っている
かきくけこの精神  か=感謝する 感動する心  き=興味をもつ  く=工夫する  け=健康に注意する  こ=好奇心

2012年7月27日金曜日

中橋安彦(野馬追い組頭)     ・妻への鎮魂相馬野馬追い

中橋安彦(野馬追い組頭)         妻への鎮魂相馬野馬追い  
相馬野馬追い  28~30日の日程で元の形でおこなわれる 
15歳からまいとし伝統行事に参加している  
旧相馬藩の流れをくむ武士の出身で、100騎の騎馬武者を統率する先頭組頭を務めてきました東日本大震災の時には中橋さんの家は津波で流され 長年連れ添った奥さんも亡くされました  
伝統の祭りを元通りに復活させる事が死者に報いる事になるという思いから今年の祭にも自らも甲冑を身につけて参加することになりました
現在9頭の馬を飼っている  体調がいいと毛並みも良くなってくる  
微妙に気の入り方がたずなに伝わってくる
軍者の役割を担当することになる   
相馬の馬追いの全体を指揮するものと組頭への統卒の役目  
今年は昨年と違って5つの集落が全部参加することになる  昨年は2つの集落が参加
宵祭 本祭  野馬駆け   平将門が千葉県流山に騎が有って軍事訓練をしていた  
野馬駆けの内で一番良い馬を奉納して五穀豊穣を祈った
途中からそういうお祭りになってきた 
 
先祖代々馬追いに参加していた  
3/11には当日会社に出勤して、会議中だった 凄い揺れで天井のエアコンは半分落ち込んで 地震で駄目に成るかと思った
地震が終わって妙な静寂があった 
表に出て電柱が斜めに成っていて 震災の状況を受け入れられなかった  
情報で津波が来そうだという事になって現実にもどされるような感じだった  
家が海岸近くだったので 非難はしたという情報が入り ほっとした感じではあったがどの程度の津波が来たかは分からなかった  
地震がおさまってから1時間後に自宅に戻ったが、母親は避難していた  

自宅まで5kmだったが2km帰った時点で畑にまで波が来ているので、状況をみても津浪だとは受け入れられなかった  
胸騒ぎがして自宅に帰った時に、津波が来たのだと理解した  
既に更地になっており なにも無かった  
愕然としたと言ったのが正直な気持ち   
妻からメールが入っていた(勤めに行っていた)  こっちは大丈夫だったよ 
落ちついたら戻るという内容だった
気を付けて戻れよとメールした  その時点では安心していた  
自宅に戻る途中で津波に呑まれてしまったようだ
息子も成人していて地元の消防団に入っていてその状況を遠くから見ていた様だ   
今思うと息子も辛かったと思う
  
鳴るはずの無い電話に電話を掛け続けた  信じたくなかった 
どこかにいるのではないかと思って、余震がまだあったので6時には、暗くなっていて避難所に入った 
夜も携帯を鳴らしてみたりした 
翌日早くに息子と出掛けて7時ごろに妻を見付けた  
抱きあげられたのが唯一の幸運というか自分の手で見付けられたというのは そういう風に言い聞かせている
会えたのだからという風に考えるしかなかった 
 
女性なのにぐちを言わずに快活な人だった
元気な姿でやっていることがやっぱり女房への供養になると思うし、天で見ていて今年もちゃんとした格好で出なさいよと見ていてくれると思う
下向いてばかりでは駄目なので お祭りが有ってこうやって自分も出続けている 
お祭りなので元気な姿を見せるのが女房に対しての供養になるのではないか、と思って昨年は出ました  
多分喜んでくれていると思う     
鎧を身に付けた時点で侍になった様な、侍になってますね

2012年7月26日木曜日

増永広春(走墨書家70歳)     ・筆が走るアスリートが跳ねる

増永広春(走墨書家70歳)         筆が走るアスリートが跳ねる  
埼玉県大宮生まれ
筆で手紙を書く母の美しさにひかれ20年間の修行の末 芸術の道に進みました  
華道 茶道 陶芸 織物 デッサンを学びその中から書でも無く絵でも無く
イラストでも無い独自の処方 走墨の世界を生み出しました  
陸上 競泳 体操 フギアースケート等の選手の姿は 花 舞等の漢字に通じた書となります
これらの作品は外国の人達から高い評価を得ています  
侘び 錆びを越えた新しい世界の創造 書と絵画の融合の世界を描く 
増永さんに走墨に込めた心を伺います
    
小さい頃からスポーツは大好きだった  
人間の身体の醸し出す美しさ  高橋 浅田真央の回転を文字に表現
水墨画でも無い,デッサンでも無い、絵画でも無い、華道 茶道 陶芸等の勉強をして反映している
無駄を省く  残った物を生かす  
如何に空間が美しく見えるか  見ている人がどうとらえてくれるか  
デッサン帳にいろいろ書いて行きながらその中から浮かぶ
今は墨で手紙を書く人はほとんどいません 残念です  
母の勧めで15年間 習う 公募展に出したが2度挫折 3回目に出したら賞を貰う事ができた 中国の先生に漢字を習う その後独立する  
芸術の世界に入る その時にいろいろな芸術を勉強した  最終的に書になる  
「走墨」  銀座で個展を開く ポスターの仕事 競輪のポスターの製作依頼が有った 
 待ってましたという感じだった

20数年ポスターを続けて書いてきた  凄く勉強になった 
88年 NHK ソウルオリンピック 総集編のタイトル を担当する 激励の言葉が来る 
作品展を年に1~2回は開く事を念頭にやっていて70回ぐらいになる
用即美 用をなすものは美しい   
スポーツ選手からのコメントは 中野浩一 「額の中に自分がいるようだ」
アルジェリアで作品展をした  
真っ白な帯に字を書いて出席した際の周りから大いに称賛された
外国の人達  走墨体験 「育む」・・・ 母親が抱っこしている姿にする  
中国は昔 象形文字 字になって 又字が進化している
手紙を筆で書いて貰いたいと思っている

海外でも個展をいろいろ開いている  
会場で日本の音楽を掛けていると中々子供達が帰らない 
どうしてかと問い合わせたら 「気持ちがいい」との事
作品はいくらなのかと言うのでどうしてかと問い合わしたら 親にクリスマスのプレゼントをするとのことで 僅かな額ではあるが渡した
墨汁は一切使わない 墨をすることが大事  心を静めて想像をめぐらす  
白黒のはずが色が脳裏に浮かんでくる(見る人の感性が広がる)
茶道の茶室  無駄のない世界  空間を旨く感じさせる  書の世界も同様
日本の文字とかひらがなを世界に向けてもっと軽やかに伸びやかな線で表現して発信してゆきたいと思っている

2012年7月25日水曜日

天野隆子(時代考証家)       ・ドラマの時代を忠実に再現する為に

天野隆子(時代考証家)        ドラマの時代を忠実に再現する為に      
子供の頃から歴史が好きで子育てが終わって改めて勉強する  
それがきっかけれTVドラマの時代考証をするようになった
連続TV小説はいからさん おしん 梅ちゃん先生まで 明治大正昭和の時代考証を始めて30年になりまた
坂の上の雲等の風俗考証など沢山のドラマの裏方を支えてきました
梅ちゃん先生  父が医者で彼女も先生になる  
台本を最初に拝見してチェックを入れてディレクターに返してその後現場からも質問がある
作家と監督がどのような視点でとらえているかによっていろいろ変わってくる 
過ごした年代年齢過ごし方によってどんどん時代考証の立場としては取材が変わってくる 
 
時代考証とは時代劇に出てくる道具衣装風俗作法等がその時代に合っているかどうかの確認の作業  
近年(明治、大正、昭和)は難しい  
昔のことほど易しい 昔のことは誰も知らないから  
明治以降は文献、写真等があるので沢山あって難しい
大学は経済を勉強 子供への手が離れて 小木新造先生に歴史を勉強し始める  
何年かしてからNHKから依頼されて手伝う事になった 昭和57年
朝ドラマはそれから11本になる  最初のドラマは明治の後半の話  
テニスのラケットも調べて四角っぽいものだったのでそれを作って貰った
おしん昭和58年 台本を作る前からひそかにこういう事を書きたいんだけれどもと言われて 貧しい農家の日常生活について(山形)調べる

自分達が食べるものは大根飯 それを調査 資料をガリ版刷りで年寄りから聞いたことを記してあった 3:7 大根:屑米   実際は逆なようだったようだ
住まい 布団も満足にない時にどうしたら暖をとれるか調べたら わらの中に裸で寝るのが暖をとれるという事を知った
予備稿を数回先ず読んでチェックして調べることは調べる  
ほとんどは国会図書館 中央図書館 国立公文書館等いろいろなところで調べる
昔はカードだったので調べるのが大変 3冊までだったので内容が違う場合もあり時間がたいへん掛かった
今はコンピューターなのでコンピューターが使えなと検索できない 
調べるのは時間がかかる仕事  確固たる裏付けが無いと報告できない,ずっと貫いている

坂の上の雲  3年に渡って放映  風俗考証を担当   
軍隊を離れての生活の様子を担当する  
秋山 好古 秋山真之   結婚相手の家紋を調べてくれとの要請  
青山墓地の埋葬場所を訪ねる  
家紋が付けられている墓があるのでそれに着目して調べたら有った,こんなことまでやるのかと思う事もあるが      
白洲次郎の物語で,お母さんの気持ちになって書いてくださいとの要請があり対応する    
兄、姉から学生時代のこととかをいろいろ聞く事ができた
姉の家計簿は一番参考になった  
薬代 初診料等  生活の状況が判る  
周りのいろいろな方から情報が得られた(母、おば等々)
「負けて勝つ」  吉田茂の物語  マッカーサーと対等に渡り合う

2012年7月23日月曜日

今井通子(登山家)        ・時代を創った女達 2

今井通子(登山家)         時代を創った女達 2   
1970年代の後半からヨーロッパアルプスからヒマラヤに変わってきて、ダウワギリの4,2,3,5峰の縦走を成功させた
コンセプトそのものをどうするかと言うものの緻密な論議とデータの収集が大事 それさえやっておくと自信持ってやれる、でも200mぐらいの滑落があった  
チョモランマの冬期に登れるだろうと思った   
主人はネパール側から計画していた  私達は中国側から登ることにした  
風がぶつかって(ジェット気流)岩が落ちてくる  8200m位のところまでしか行けなかった  
マイナス60度位になった ほとんどの隊員が下痢を起こす  
人間の身体は寒くなると震えて熱量を増して身体の体温を上げる  脂肪を糖分に変える 
そういう動きも駄目になるとアディポネクチンというものが筋肉に直接あったりするが、脂肪をどんどん燃やしてあげる    2重のシステムを持っている  
バランスを取るためのサポートをする機材をもっと増さなければいけなかった (反省点)  
反省点を直してもう一度行く  
8400m位の処で雪崩のように石が降りてくるのでだめだと言って結局下山する  
もういいやと思った  スパッと諦められた
失敗には二つある   自分達が真剣に努力してなかった 
あるいは状況が判らなくて他に何かあると思って悔いが残った時
この様な時は改めて努力するもしくは悔いが残らないように挑戦する
自分達の力では到底及ばない何かがある場合の失敗は爽やかに失敗を受け入れる
(べストを尽くしたので受け入れる)

今は技術を持っていれば或る程度シェルパを雇って行っている  (冬期は除いて)
森林シェラピー 森林に行く事によって身体が癒される  
2007年ぐらいからやっていてそこの理事長をやっている
これを科学的に証明したのが日本  学会は「国際自然と森林の医学会」 を作って今は14カ国20名のテクニカル委員をしている
自然は人間を癒す力を持っている 
ヨーロッパは産業革命で生活が変わってしまったので それまでは一次産業で動物に近い生活をしていたが(農業とか漁業とか) 人間という動物としての生活 、が太陽のもとで起きて、星の下で眠るという普通の動物の生活をしていた  
それが工場の中で仕事をし、家の中で仕事をし 外にはあまり行かない  
そして石炭をどんどんたいて、結局は気管支ぜんそくが多くなったり 霧のロンドン(雨粒に核となる石炭の粒がつく  大気汚染)

大気汚染による霧、温暖化を経験  (氷河が無くなる)   
フランスはバカンスを作った 景気浮揚との事ではあるが日光浴の促進 
ドイツは人間は自然とともにあるべきだと始めたのがワンダーホーゲル   
根っこの部分で自然とのかかわりをきっちり押さえてやっていた
それを知ったから日本は欧米諸国の文化をパーツごとに受け入れている 
そこにある哲学的なものをなにもしらない
自然とともに生きることの意義からなにからも人に知らしめておかないといけないと思った
自然が人間にどういう事をしてくれるか気になっていた  
1982年に林野庁長官だった秋山さんが森林浴と言う言葉を作った

ソ連の学者が森林が持っている揮発性物質を全体をひっくるめてフィトンチッドと呼びその物質には消炎作用 殺菌作用 人の心をハイにしてくれる作用等、論文に出していてそれを元にした私はそれだけでいいと思った   
皆さんを森に連れてゆく (森林マラソン ウォーキング  コンサート 等)  
森林を元気にしなくてはいけない  
2000年ホルモン検査機器が発達して NK細胞を活性化するとかの研究が段々進んだ
森林セラピー基地48箇所ある(全国)  森に2日間 いると1か月後までNK活性化が高いままにいる  
免疫系の疾患がある程度癒される
森林は気候緩和能力がある   棚田とかひっそりとあった 
森林セラピーに行く人はいないのに棚田ツアーが盛んになったりして波及効果がある
WHO始め予防医学に注目している  
日本人は森林を科学したといって注目した  
昨年 1月に「国際自然と森林の医学会」を立ち上げた  
環境と健康 これに経済がくっ付いてくる  
熱心にやっているとなにをやっていても楽しい  
そういう点では極楽とんぼぽいかもしれないが
自分自身のモチベーションを常に元気なところに持って行っておく   

2012年7月22日日曜日

今井通子(登山家)        ・時代を創った女達

今井通子(登山家)         時代を創った女達   
(1942年2月1日 - )は、東京都出身の医師・登山家
1960年東京女子医科大学に入学 山岳部に入りやがて岩登りに魅了される様になる  
1967年マッターホルン  69年にアイガー71年グランドスジョラスと言うヨーロッパで
一番難しと言われた三大北壁に挑戦して日本女性としては初めての快挙  
泌尿器科の医師として働く傍ら夫とともにヒマラヤトレッキングの魅力を広げるなど今も忙しい日々を過ごしています  古希を迎えた  
体力とか気力とか其の時に持っているものに今は逆に山に合わせている
最近天候がおかしい 1980年代から  肌で感じていた  
当時は誰も信じてくれなかったが、山の中にいると急激に温度が変わる    
大雪渓を登るときに名古屋が38度の時に20度位だったが急に寒くなる(4度だった)
 
泌尿器科の医者だった   前立腺の研究をしていた  
登山の時は健康診断している  医学全般は一応勉強する
子供のころに親にいろいろ連れて行かれた 親は両親ともに医者  
東京で育てていたらひ弱に成るのではないかと山、海に連れて行ってもらった
高校卒業するまでには親のいう通りに自然に親しんでいた  
休日は全然違う事をやろうと自然に親しむようにして、文化も学ぶには雨だったら映画館に行くとか、食事をするとかをしていた  
大学に行っても日曜日だけは山とかに行くという事をしていた  
月曜日に残務の勉強、仕事 をこなそうとすると3時間はかかると思っていたことが30分でこなせてしまうようなことがままある

積極的休養 頭を全部違う事に回していて、その間に今まで使ってきた神経とかそこでメンテナンスができて クリアに成って 効率がいい
自然の中ってただ単に楽しいという事だけで無くて人の頭の中から始まって全部メンテナンスする能力があるのではないかと思う
大学に入って最初に登山に行ったときは縦列でのってゆく形式に全然なれていなかった
(それまでは親と一緒だったので勝手に自分でペースを作れた)
辛かった 花があったり、鳥がいても休むことは出来ずにいた   岩にも登るようになった  自分で働き自分で自活するのが当たり前だと思っていた(親の教育がその様にしつけられた)    
ヨーロッパアルプスに登りたいと思った時にトラブルが有った時に、新聞社にホットラインを使わしてもらいたくて行ったのに 「女だてらに」と言うように見られた
実積を気を作らなくてはいけないと思った   
2人でマッターホルンに行った(下の1/3が氷壁 中が岩場 上が逆層) 4500m位の山
マッターホルンの場合は女性がどうのこうのと言う前に実積を作りたかった   
技術は持っていると思っていた  
ロッククライミングは自分を上げてくれる力があればいい  
人間の身体は生き伸びられる様に出来ている  
降りて来る時には余り感じなかったが 降りてしまってからやったとこれから自分が生きて行きたい道が開けたと思った 
 
その時にウーマンリブとか女の人が何かをしたいと思った時に実績でものを言わないと駄目なんじゃないかなあと思った  
各人がやりたい人が自分達だけでやればいいわけで皆で徒党を組んで地位の向上とか何とか云わなくてもいいのではないかと思った  (個人主義になった)
アイガー北壁  沢山の人が亡くなっているが研究してルートを考えた  
1963年より文化交流だとか、国益になる人でないとパスポートは得られなかった  
「高所登山時における人体の生理学的変化の研究」と言うテーマに人工的な処で研究した結果を自然の中で実験するというテーマにしていくという事にした
肺活量、血液、尿 検査を全部やって行った   
歴史を見ると死の歴史なので天候に左右されるとかで ダイレクトに登ぼることによって天候に左右されない方法を選んだ
  
とりあえず観察して洞察する  
マッターホルンの経験があるので技術的にはいけると思った
 1971年グランドジョラスは3大北壁を登った人が若干名いた  
グランドジョラスを登ったことが無い人間がアイガーだとかマッターホルンの凄さを言うなと 3つ登ってから言えと言われる  
それじゃあ登っちゃおうかなあと思っていたら 頂上で結婚式をやろうと今の主人から言われる(5人で登りにいって3人が立ち合い)  
グランドジョラス山頂で高橋和之と結婚

2012年7月21日土曜日

石井裕子(ケアリングクラウン)      ・生きる力を引き出すケアリングクラウン活動記

 石井裕子(ケアリングクラウン63歳)  生きる力を引き出すケアリングクラウン活動記  
ピエロの衣装で病院を訪ねて入院中の子供達と遊ぶボランティアの人達の事(クリニクラウン)  
老人ホームや障害者施設などで幅広く活動するのがケアリングクラウン
夫と友人夫婦 4人で作ったケアリングクラウン グループとんちゃん一座 の代表 その活動は国内だけでなく海外にも広がります
ケアリングクラウンの取り組をお聞きしました

赤い鼻をつけ「トンちゃん」の愛称で親しまれる石井さんが「ケアリングクラウン トンちゃん一座」を結成したのは10年前
衣装はピエロの衣装とは若干違って,じみ 人が落ち込んだりしている人のところに行ってその人が持っている力を引き出す為のお手伝いをするのがケアリングクラウンと思っています   
「とんちゃん」 というニックネームがついていたのでその様に即座に決めました  
人との巡り合いとか 自分の知らなかったことを知った事によって これって私の周りに悩んでいる人達に少しでも元気が出るようにと思って 3人の子供が 世話を焼く必要が無くなったのを機にたまたまケアリングクラウンに目覚めた 
 
地域福祉のことは 民生児童委員は15年間させてもらった  
ケアリングクラウンを見たのはTVの衛星放送  その後研修にいって世話役を頼まれた 
広島を選ぶ  兄がレストランを経営していてそこで食べればみんなが喜ぶと思ってそこに決めたが 兄が面白い人がいると紹介してくれた 
障害者を招いてのハロウインパーティーもどきをして そこに招待された  
あれってTVで見たものに似ていると思って始めた 
アメリカに5回行って大学でおこなわれていた初級コース 中級コースを受ける
皿回し お手玉 身体を動かすこと パフォーマンス マジック  自分の顔に合ったメーク  
全部自分で手作りで衣装も作る 

ヨーロッパにも勉強に行く  研修を受けたりして知り合いになる  
パッチアダムス に2001年に東京で研修を受ける
自分の信念をこつこつと貫いてゆく姿勢をパッチアダムスから学んだ 
最初の活動は 子育て講座に行ったら子供に泣かれた  
この子供達がどのように変わってゆくかがテーマ  
遊んでいる間に泣く事よりも遊ぶことが段々大好きに成って遊ぶ ルールを教える      
最初は私一人でやっていたが、友人が荷物を持ってくれて、アメリカの講座に誘って 一緒に活動するようになった 
手が欲しくなり 夫に助けを頼んだ   友人のご主人も巻き込んでしまった  
現在4人で活動している

自分達の人生のよりよい人生を送ってゆく 自分達の為にもなっている  
最初幼稚園 老人ホーム 病院の方にも話してサーカスのような衣装で病院に入った  
車椅子の人と話をして会えてうれしくて泣いてくれた 
周りは理解できなくてあわてたが理由を説明したら理解してくれた
音楽はいい バルーンを作って持ってゆく 組み立てていろいろなものを作る  タコとか プロセスの中でいろいろなものになってゆく  アンパンマンになる
デイケアーセンター 年明けに獅子舞いの獅子が頭を噛む格好をすると いい事があると言うのでみんながやってほしいと賑わう。
心の中に眠っている自分の生きる力を色んな事をしてコミュニケーションを取ることによってその人がもともと持っていることをだしてくれるのではないかと思う

いろんな人がいるので身近で出合う人達との係わりの中からいろんな人たちとの出合う訓練になっていくんじゃないかなあと思います
だから身近な人達との生活を大事にしたいなあと思います
夢 沢山の人と出会って沢山友達を作って にこにこと最後を迎えたいと思います

2012年7月20日金曜日

池田邦彦(漫画家)        ・漫画家として43歳からの挑戦

池田邦彦(漫画家)          漫画家として43歳からの挑戦  
フリーライターをしていた池田さんは 43歳の時に出版社の漫画新人賞に応募した 
漫画家として新たなスタートを切りました
人と人とのつながりを描きたいという思いからスタートした漫画家としての日々 昭和40年代の国鉄を舞台にした連載中の作品 「カレチ」には鉄道ファンだけでなく 多くの読者が引きつけられています  
作品を通じて伝えたいものは、何なのかをお聞きしました  
月に1回の連載なのでそれほど締め切りに、苦しくめられることはそれほどなく、進められている
43歳で漫画家に転身 珍しい事  青木雄二先生に次ぐ高齢デビューになるらしい  
自分では意識していない  現在4年目
家でそれまではイラストレーションの仕事をしていた
「カレチ」  客扱い専門車掌を国鉄ではそう呼んでいた   
荻野憲二の若者が新米 カレチとして登場する 
彼を中心にして様々な人達が登場する
車掌さんは多岐にわたる仕事がある   客扱い専門車掌は人との繋がりが多い  
大阪車掌区に勤める荻野は非常に広く活躍する 

南は鹿児島 北は青森
成長してゆく過程で様々な人達と交わってゆく    
電車が当たり前に動くために多くの人が働いている事が鮮明に判る
いろんなところに色んなプロが要素要素で見えていた  書物を中心に調べる  
国鉄の坂本さん等が面白い本を出版していてそれを調べた
熟読すると非常に面白い    
人々の誇りを掛けたプロフェッショナルの人達の物語かなあと思って読んだ   
プロフェショナルになりたい 主人公が七転八倒して対応してゆく    
現在では開いている席はここだと携帯パソコンみたいなものでおこなっていたが同様なことを当時の人も一生懸命にやっていた  
当時はある意味のんびりした時代であった
  
書店を9年間勤務 実際自分が書くように成るにはさらに10年程度かかる
時代に対する興味は有った  
人々は鉄道に対してどのように思っていたのか 興味はあった
「列車紳士録」          
昭和40年に父親が亡くなって仕舞う  古いものに興味があった(父が生きていた時代)
物ごころついたときから鉄道が好きだった   
鉄道に関するイラストレーターをやる様になってこの仕事が一番沢山こなすようになった
物語を書きたいとの欲求は有った  
より自分にしかできない事を押し進めてきた結果が最終的に漫画になった
漫画新人賞に応募して大賞に輝く  雑誌に連載される 
  
人生を描き出す或る一断面を紡ぎ出す喜びがある
漫画家になることに対して イラストレーターとして既に独立していたのでギャップは無かった イラストレーターの仕事も並行してやっていたので、コンピューター出現以前の仕事の仕方  鉄道だけに拘わらず 興味がある     
読者からの反応  この作品を書いてよかったということ 、昔旦那さんがカレチをされていた  もう亡くなってしまって現在一人で暮らしている
カレチが新聞の書評欄に紹介された事がある  
それをご覧になって 書評の文章の中にちりばめられた単語に反応してこれはおじいちゃんの話の中に、出てきた色んな単語があったので 今まで漫画を読んだことが無かったが 憑かれたように書店に行ってカレチという漫画を探してもらって読んだが、涙が流れてしようがなかった  
とブログに書いてありこれを読んで矢張りこの作品を書いてよかったと本当に思った  
何物にも代えがたい喜びです  
まだ描きたいことはいろいろある  
人間がからんだ事になってしまう  自然にそうなってしまう 

2012年7月19日木曜日

横井美保子(故横井庄一夫人)   ・平和への願い横井庄一の心を残したい


横井美保子(故横井庄一夫人84歳)  平和への願い横井庄一の心を残したい
1927年東京都生まれ  1972年 横井庄一さんと結婚  1915年生まれの横井庄一さんは戦後28年してグアム島から生環  (57歳)
「恥ずかしながら帰ってきました」 帰国の時の言葉  戦争の終結を知らず ジャングルでの生活を生き抜き,ものを大切にし命を大事にするという生き方に人間的な横井さんの人柄に美穂子さんは感銘しました  1997年82歳で亡くなる   
2006年自宅を横井庄一記念館として ゆかりの品々を展示しています  
記念館をスタートして6年 和室3つ グアム島で生活していた穴の再現  
本当に使っていたものはグアム島の博物館に半分 名古屋市の博物館に半分ある
幡織り機 作成 して自分の根性だけで成し遂げた  
 
1941年に召集を受けて 19年満州からグアムに配属 戦後28年 57歳で帰国 
帰国の第一声は実直な気持ちが出ている
横井さんとは見合い結婚  居候の身だと一日も早く結婚したかったようだ 
以前に他に見合いをしたが受諾したが断られた 見合い後の3か月で結婚 
私は父の仕事の関係で転校が多く有った     美保子さんは「鎮魂の旅路」を出版
司会者の人から 奥さんはどうですかと問われて おもむろに 紙を取り出して 「神のみぞ知る」と言ったが その紙には何も書いてなかった 「紙のみぞ知る」

ユーモアの有る人だった  「済んだことは済んだことなのであかるく生きなけりゃ損だ」 という気持ちがあった  57歳で私は44歳の時に結婚 
お参りにグアム島に旅行に行った際に「出来る事なら 海が沈まないものなら 一足一足でも歩いて日本に帰りたかった」とポツリと言いました
海と砂浜と空の綺麗なあの島に2万人の守備兵の内 1900人の遺骨が埋まっているとはとても思えませんね
彼の良いところは真正直でまっすぐで燃えるような自立心を持っていた    
晩年陶芸に打ち込んでいた 暇さえあれば土に向かっていた 

灯油たいて焼くやり方であった 窯は小さい  個展 作品展を実施した  
凄い盛況だった 3日で凄くくたくたに成ってしまった 
記念館には外国からも見学に来る  台湾 アメリカ等   子供達は沢山来てくれた  
日曜日(毎週日曜日に開館)にどんな人が来てくれるか楽しみです  私の生き甲斐です   
横井はストレスから胃が重い  病院に行ったらどこで切開しますかと言われ癌だと判った  
手術をして年齢的に堪えて仕舞っていろいろな病気が出てきて,パーキンソン病になり身体が動かなくなり 亡くなった  
4つの願い  
1.グアム島で,でんでん虫、蛙、鼠を殺して彼らの命を奪って生きながらえた人間だから彼らの碑を   建ててくれやなあ と言う
2.私自身の陶芸品を民芸館に寄贈してほしい  
3.横井記念館を作ってほしい(世の中からどうしたら戦争を無くせるか,人間がもっと無欲に成ること)  
4.自分はグアムでの生活は書いたが その後の日本での生活を妻に書いてほしい
(「鎮魂の旅路」)

広島のことは夫婦で行くが あれほどのショックを受けたことはない  
世界の人にあの惨状を見てほしいと思う
記念館をやってみて初めて私が会いたいと思っていた方が来てくれてよかったなあと思います
「幾万の命奪いし この島で 「ぬかずき祈る戦なき世を」  
「眼を閉じて 開きて思う 玉砕の グアム島の事 庄一の事」 
303部隊(横井が所属していた部隊)の遺族の方との 鎮魂の旅だった   
むなしいとの家族の人達の思い  心が癒える事が無い

2012年7月18日水曜日

安藤久蔵(珈琲豆卸売専門店店主) ・101歳途上国支援をフェアトレードで

安藤久蔵(珈琲豆卸売専門店店主101歳)  101歳途上国支援をフェアトレードで   
1911年生まれ 12歳で関東大震災を経験 大学卒業後貿易会社を経て家業の水産業を継ぎました 
戦争から復員後遠洋漁業で世界中を航海しました 
50歳で引退後は大学時代にやっていた登山を再開し世界各地を遠征しました   
この遠征で知り合ったアフリカの人達から頼まれてフェアトレードによる
コーヒー豆の輸入、卸、小売店を始めました  
 これが今から16年前安藤さんが85歳の時です
 
有名な登山家でもあり、現在は西荻の善福寺にある「アロマフレッシュ」という珈琲豆卸売専門店の店主さんです
フェアトレードとは発展途上国の農産物などを適正な価格で購入輸入し、消費しようとするものです 低賃金で労働を強いられる傾向の有る途上国に雇用を、生み出し貧困を解消しようという狙いがあります    
101歳の今も得意先に自転車で行く お宅の声と顔が見たい為 絆が違った形ができるんじゃないかと思って 又苦労して送るので品物を大事に使ってもらえる
九死に一生を得た事がある  
喫水線よりも多く獲れたものを持ち帰ろうとして 船がひっくり返った 
瞬間に板につかまり2日間漂流した 女浜に着いた
魚を取る家業を引退したのが50歳  3か月は短い方 半年ぐらいは船に乗っている  
自分として趣味をやってみたいものがあったので余生を送ろうと50歳で止めた 
 
山をやっていたので日本全国の山を歩こうと思った   感動です  
辛ければ辛いほど感動が大きい それを味わいたかった  
国内のみに捉われずに世界に目を向けた  キリマンジェロ アンデス とか    国内の山とは違う 気圧は低くなる 空気は薄くなる  幻覚症状を起こした
右の靴を左に入れようとしていた  友人に指摘されて判った  
気圧の関係だろうと思う 幻覚症状 
ポーターを雇って何カ月も一緒に過ごす  段々情が移ってくる  
マサイ族をポーターとして雇った  別れの時はお互いに涙を流して泣いていた
2~3人が日当は要らないという  要らないから日本に連れて行ってくれと言われる  
クリスマスが2度あったら又来るからまた会おうではないかと話す

その約束は守ってきたが段々と少なくなって84歳の時に私が行くが その時にコーヒーの話が出た   
コーヒーを貴方が売ってくれないかと提案してくる
コーヒー屋ではないのでと、断ってきた   
事情を聞いたら作っても作っても生活が良くならない 値段を叩かれる 
他の流通経路がないため、やるだけやってみようと思って了解した 85歳の時だった    
コーヒーの業者を調べて交渉するが 商社ではないので相手が不安を感じる  
見本の豆を見せて豆は好評だった  
焙煎屋は価格は何百分の一の値段を提示された 
いろいろ判っていたら断っていたと思うが知らなかった
何故そういう事をやるのかと言われた  
いきさつを話すが人情だけでは取引は成り立たないので止めなさいと言われる  
そこを何とかとお願いする

商売抜きにして人間と人間の話し合いになった 
100kgばかり情でやってみようかと言ってくれる  
戦後は打算が大きくなったが、まだまだいるものだと思った
フェアトレード制は一方的ではない 
生産者の賃金労働 生活を保証してやる事が必要、商売以上の人間性が必要  
人と言うのは欲に限りが無い、どこで抑制するかです  
それが段々緩んできて最後には赤い血を流すようなこともするわけです
生産者にも変化が出始めている  
経済的に身なりが 靴を履いたり洋服も良くなった   
マサイ族にアドバイス 個人対個人では駄目なので連帯性にして、(組合制)今は値段もそこで決めて取引をするようになった   
お互い共存するという事が大事

コーヒーを始めて350人の人と知り合いになった  その人達と花見を開催した  
老いるとどうしてもお年寄りはお年寄りで固まるがそうではなくて年寄こそ、若い人の事を吸収するようにする必要がある  之が一番大事だと思う  
年寄りだけ集まると歩き方も同じに成ってしまう   
話も皆愚痴になってしまう   
健康の話足が痛いだの 腰が痛いだのと言った話になってしまう   
若い人がなぜいいかと言うと前向きだから    ニートも来る その時に褒める  
遊んでて食べて行かれる  仕事が嫌いで勤めないのではない、殆ど人間関係
自分より若い人がああだこうだきついことを、言うとの事で こういうことは親にも言われたことはない  もう止めるという    
或る時に母親が来た  うちの息子が働き始めたと言ってきた
 
働く気になった心境はと聞いたら 旦那が100歳にもなって働いているのに自分が30歳足らずで遊んでいる訳にもいかないと働く気になったとの事
昔からある そういう教えは 無言の教えといって、背中を見せた、私の行動で  
口で言ったのではかえって反動になっちゃう
貰った給料を母親に渡して これをこずかいにしてくれと母親に言った  
人間もそういう風に変わる  
貰う時と人様に上げるのとどっちがいいかと問うたら、それは上げる方がいいと答えた   
人生それが良いと  人が喜ぶことが一番       
フェアトレードで今後やってみたい事   
一人でも多く喜ぶこと  ありがとうよ と  お客さん生産者に対して    
日曜日になるとお客さんと奥多摩に出掛ける  歩くという事は身体にいい

2012年7月17日火曜日

榊原茂(水族館館長)       ・水族館が教えてくれた事


榊原茂(水族館館長)        水族館が教えてくれた事
昭和19年生れ  日本の代表的な水族館での仕事を経て現在今年3月に開館した京都水族館の館長を務めています
京都の観光スポットとして目玉になる  111日目に100万人を達成  現在250種  
楽しみながら学んで貰う 子供達に飽きないでじっくり見てもらうためには珍しい魚ではなくて一般的な魚をきちんと見ていただく為に魚の本当の素晴らしさを引っ張り出すような展示をして行こうといろいろと工夫をしている  
魚と対話して見ていただくようにしている    昔 川で取っていた魚を展示されている   
魚が増えたら自然の川に戻してやるというようなこともやっている

100館以上水族館が日本ではある   日本は魚食文化で 魚との生活が密接している  
全部名前が付いているのは日本のみ 
タイという名のついた魚の種類は400ぐらいある    
下関 イルカ アシカ担当という事でオーストラリアの担当の人と休みの日に動物園 とか水族館に行くが、水族館の時には何も言わないが動物園に行くとこの動物は個々がおいしいとか眼を輝かして話す     日本人は絶対にこの動物のここがおいしいとか言わない  
水族館の役割  魚を知ったり 泳ぐ姿を見たいというような自然との対話   
我々は経験に基づいていろんなことを考える  色んな事を沢山知っていた方がいい 
自然が無くなっている現在 水族館がその代わりになって海辺まで行かなくてもすぐ近くで年中魚と接することができる

精神的なものを含めて心をいやすような大自然というものを感じるというのは同じだと思っている この道に入るきっかけは→小さい時からの山で昆虫採集したり 川であるいは海で魚を捕ったり大自然の中で遊ぶのが大好きだった  
小学校3年生の時にいとこのところに遊びに行って、川崎の海辺に行ったら、弁慶がにとか潮まねきとか 色んな蟹が一杯あり 遠浅の砂浜に何千という蟹がいた
翌年行ってみたら ずっと浜が埋め立てたれていて その翌年行ってみたら、さらに埋め立てられていて 何とか自然を取り戻せないだろうかと子供心に考えた

大学も水産学部に進む  大学2年の時によみうりランド海水水族館が作られていた 
飼育係などまだ決まっていなくてアルバイトの要請があった
そこに行ってそれがきっかけで卒業すると同時にそこに勤めるようになった
光化学スモッグが発生 東京の空を見ると 黒い雲が押し寄せてくる様で それよりは海辺に住みたいと思って鴨川シーワールドを作ったり する仕事、沖縄の海洋博の教育係としてお手伝いしたりした      
大阪の海遊館  飼育のヘッドになる人がいなくてそこに行った  
ジンベイざめを展示する計画があった  沖縄でジンベイざめが取れるが大きいので輸送する のが大変  6時間以上かけて輸送すると生きないと言われていた  
大阪に運ぶのは不可能だろうと言われた(20年前)  

輸送する図面を見たがアメリカのシーワールドから貰ったとの事であったがこれを書いたのは私だよと云って聞かせた
輸送も沖縄から48時間かけてヘリで運んで来て無事に展示出来た    
サメの心臓はそんなに大きくない  血管の方々に弁が有る 動かしてやると弁が動く
弁がポンプのような役割をする  血液をちゃんと流れるようにしてやらなければいけない  
胃袋に餌が入っていたりすると輸送するときに吐き出してしまう
胃袋の機能を低下させる必要があるので餌止めをしてやる   
じっとしていると身体の方に血液を送らない  動かしてあげないと血が動かない

サメの場合も同様で輸送中に人が2名 水槽の中に入って身体をゆすってやる 
マンボウを長く生きられるようにする  背びれと尻びれの一部が繋がって舵びれになっている卵型の魚で 変わった形をしたふぐの仲間
マンボウにとってはちょっと泳いだら壁というようになって 当ると脳挫傷を起こしてしまう  
3日ぐらいで死んでしまう
鮭の孵化場で小さい10cm位の鮭 茶色い水槽で育てた鮭は100%生きるが青い水槽に飼った鮭は15%ぐらいしか生存しないで脳挫傷を起こして死んでしまう
調べた結果ホルモンバランスが変わって親と同じに成ってしまっている 
眼からはいって来た刺激でそういう風に変わると論文にあった

海の色は青い色 川から海にいった場合は青い世界に鮭は入ってゆく  
マンボウも黒潮に乗って生活している魚だから水族館の水槽もどこまで行っても海だと、考えているんじゃないかと考えた   
ぶりなんかだと30cmから50cmに育ったぶりを、貰ってきて水槽に入れてやると、青い壁面にぶつかるが3回ぐらいでそれは無くなるが マンボウは何度でもぶつかる 魚の違いがある   
水槽から30cm離れた処にポリエチレンのネットを張り当ると歪むようにしてやり  そういう飼い方を したら長生きするようになった  
鳥の糞から出た物をプランクトンが食べてそれを魚が食べて鳥が又食べるという循環があり凝縮される  

腸の中の状態は見た目には判らない  海老のすり身とか与えるが 腸の中で腸閉そくを起こしたり 水温と餌とか全部が旨く行かないと旨く出来ない
今のマンボウは8年2か月が最長記録がある  1年飼う事が先ず基本    
水族館は8時間とかの作業になっているが相手は24時間なので 70mぐらいのところに居を構えてすぐ見られるようにしている
海の環境変化 魚もそうだが貝だとか海藻にしても 昔と比べたらかなり違うと思う  
水とともに繋がる命とコンセプトとしているが 水の中に生活している生き物はある意味異次元の世界にいる   
人間はアクアラング、潜水艇 とか大きな装備をしないとずっと水の中に居られない   
ガラス面を一つ隔てた中で見る事ができる   守る自然というものでは無くなってきている

今は自然が無くなり  自然はこういう風に付き合わなくてはいけないという付き合い方を残していかなくってはいけなかった
インターネット情報は実際に自分で経験したものではなくて こうなんだよと決め付けられた情報で満足してしまっている 本当は自分で見付ける事によってもっと楽しい大発見が見つかるかもしれないのに、この魚が自分だったらどうしようかみたいな事を魚の気持ちになって考える事も必要なのでは  
動植物が住みにくくなることは人間も住みにくくなるという事  魚との立場を変えて考える事は大事なことだと思う

賀茂川にはオオサンショウウオが住んでいる シナサンショウウオ(中国種)が食用として入ってきたが逃げたのかのかオオサンショウウオと雑種化してしまった
本来のオオサンショウウオは1~2%程度と考えられている   
京都大学と一緒に調査して オオサンショウウオを展示してシナサンショウウオは食欲旺盛で 活動的なサンショウウオなんで日本のサンショウウオは少なくなってしまったので何とか復活させなければなりませんよそういう事をやっていかなければいけない  
サンショウウオは長生きで70歳ぐらいといわれているので何十年もかかってやらなければならない  すこしでも前進させたいと取り組んでいる

2012年7月16日月曜日

渋谷正信(プロ潜水士63歳)    ・心をこめて海と付き合う 2

 渋谷正信(プロ潜水士63歳)       心をこめて海と付き合う 2  
アクアラインの基礎工事の杭を打った調査をしたら黒鯛が杭に付いたなと思った 
工事をやるのは環境を破壊しているんだなと思っていたらそうではなさそう と思った 
8年間工事に携わってその間に魚、藤壺、海藻類の付き具合を調査した   
そうすると季節 季節の海が見えてきた    
記録を取り始めた  纏めて発表したらいいよと言われて国際会議にて発表したら、凄い反響だった

作り方次第では海藻、魚が住みうる場に成り得ると発表した   
作る時にどんな風に作ったらいいのか そういう視点で海の中のものを作る必要性を発表した 経験則としては知っていた  沈没船の魚の住みつき等      
魚の住みやすい 穴の大きさ等  形状で違ってくる   
工事をするが 8年間やりながら見て(当時最初は環境は見ないで工事一辺倒だった) 
それが段々環境も見られるようになってきたそれが良かった
日常定期的に潜っている人の眼は大事だと大学の先生も認識した
港はヘドロがたまりやすい   閉塞空間になってしまって溜まりやすい    
陸からの汚れたものがそこに溜まってヘドロになる

陸の生活の有り方が全部海に来てしまう   
海を見るとそこの陸の上がどんな生き方をしているか判る
河がコンクリートになっているので直接流れる 
 雨が降ると昔だったら3~4日経つと濁りが消えるが1週間たっても濁りが取れない  
地域のものが海に流れて込んでしまって 海の中が浮遊物がある状態になり 浮遊物が沈下してゆき海の底に沈んでゆきヘドロ化してゆく
海も見るけど 河も見るし、山を見るし 街も見る    綺麗さ  
ただ水がきれいなだけじゃなくて 土地土地によって違うのでそれが保てていればいい
黒潮は綺麗だけれども余り栄養分が入っていない 
 
親潮は透明度は良くないが、栄養分はたくさん入っている
浮遊物が日本の海の周りは多い   海を見る事によって山は大事だと判ってくるし 畑も川も街もなんですね
海の中の森作り  海藻  そこに生えているべき海藻が少なくなってきている  
昆布 あらべ かじめ はんだわら 生えなくなってきている
それはヘドロだけのせいではなく 水温が上がってきているのも原因の一つ 複合している 
日本の場所場所によって違う
日本海側の場合は黒潮の流れが入ってきているが強くなってきている 
冬に水温が下がらなくてはいけない時に黒潮がいつまでも水温が高くて水温が下がらない  
海藻と言うのは水温の低い冬の間によく成長する  
下がるべき水温が下がらない(温暖化)  海藻が中々生えにくい環境にある

なおかつ 黒潮に生息している魚の中に海藻を食べる魚がいる  
冬になるとその魚はかつては其の活動を止めていた
水温が高いから冬になってもその魚は海藻を食べ続けるんです    
だから海藻が成長する暇が無い その悪循環でどんどん海藻が減ってくる 
汚れがどんどん出てくる 海の構造物(港、防波堤等)もやたらめったら作ってしまうので 良い面もあるが海藻を食べる住み家になってきてしまう
有用な魚が住みかになっていればいいのだが、海藻をいつまでも食べる場所になってしまうところもある   壱岐等はそうなっている
海藻を食べる魚たちが住みついて海藻を食べつくしてゆく   どんどん無くなってきている
昆布の有るところなどはうにが増えてきている  うにも海藻を食べなくてはいけないので昆布が少なくなってきている  うにの中身は海藻が無いので身が無い
うにの間引きをしている状態   これも悪循環   一回でも海藻が枯れると復活するのに時間がかかる  安心してはいけない

あっという間に海藻は無くなる  すると復活に時間とお金がかかる    
鉄鋼スラグ  を置いて海藻が取れるようになった(北海道)   
鉄鋼スラグには鉄分が残っている  海藻は鉄分を好む  鉄分を吸収して育つ
ただそのままでは鉄分を吸収してくれない     山の木が枯れて葉が枯れて地面に落ちる 腐葉土になる  腐葉土と鉄分を混ぜると海藻が吸収しやすい鉄分になる  
吸収しやすい鉄分にならなくてはいけない    
鉄鋼スラグに腐葉土に混ぜる事をやってみた  東大の定勝先生と一緒にやってみた  
今は色んな企業の方とやっている最中   一つのヒントになったのは昔北海道の漁師さんが うにも一杯いたけれど昆布も一杯いたよと言われた

その頃海で取れてきたものは海に捨てていたよと言っていた  
(貝殻 はらわた  昔は加工場が浜辺にありそこでの廃棄物を捨てていた)
それが魚、海藻の栄養になっていたのではないかと考えた   
今は海藻が生えていたのは加工場の水が流れている回り  それがヒントになった
日本海側は栄養分が少ない  海藻が育つための栄養分が少なくなっていている  
昔は魚を取ってきたものから流れていたもんだろうし  本来だったら山から腐葉土と一緒に鉄分が川を通っていたんだろうと  しかし今は川がコンクリート浸けになる 
道は全部コクリート アスファルト  当然流れて来ない状況  
それだったら人間が栄養分を与えられないだろうかと (施肥)  北海道で成功していたのでそれにヒントを得て やってみようと,はらわた、頭だとか腐ることで色んな微生物が出たり 色んな元素が出てきて吸収しやすくなると思うんです

鉄鋼スラグだけではなくてそういうものときちっと混ぜ合わせ、さらに魚の腐ったやつを発酵させた物をやってみたらさらに良かった  昆布が良く生えた
そこにうにが沢山付いて身も沢山有った     海藻を増やす  海の森作り 
海藻を増やすことが生物を増やすための一番の基礎生産の場なんですよ
今まで気がつかなかった 魚、魚と言って魚ばっかり眼が行ってしまっていて 魚が育つために何が必要かという事をずっと追って行ったら植物プランクトンが,最初の出発点になっていることが判った       だから海の中に森を作るということは非常に重要なことなんです   
日本中の海は凄い面積減ってきている   それを再生させようと30数か所でやっている   
旨く行かないところもある

10年ぐらいやってきて 技術だけじゃなくてそこに係わる人の気持ちというか心がとっても大事だと思います。
工事、森作り 人作り が大事   技術も大事ではあるが人の心が凄く大事で どのくらい地元の人が大事に思うか 地元の人が大事に思わないと海は良くなりません   
地域にどのくらいいるか  最後は人の心が大事     
海を考えるなら 家庭の排水 山が如何なっているか、畑 化学肥料をどうやって使っているか 下水処理が如何なっているかが、大きくなってくる そうなると手を付けない 
しかし海を見ると少しずつでもやっていかなくてはいけないと言えると思う
 
水中塾  心を優しくする泳ぎ   海をいつくしむ 大事だと思った  
ダイビング指導者だったので 技術を教えるが海とどうかかわってゆくかという事が薄い
ここに魚はいますよというような観光地を巡るようなダイビングをやってきたが そうじゃなくて本当にそこにいる生き物たちとのかかわりを深くする
そこの海というのはどういう風に私達の生活、生き方に関係しているかという事を判って貰う
一番いいのは海の心地よさを感じ取って貰う   
そんな事を思っている時にイルカと泳ぐと癒されるという事を聞いた  
野生のイルカ と泳いで見て(世界中のイルカのいる場所に行って)黒潮に流れた 海に全身ゆだねて流されていた時に2匹のイルカが私の横にピッと付いた
私を中心に川の字になって 触れるような距離 その時にいるかが来てくれたなあと思い一緒にいるかと居るような気持ちになった

イルカと眼が合った  
本当に慈悲深い目をしていてその目を見た途端に私の身体中に電撃みたいなものが走った 瞬間的にバーっと有り難さみたいなものが出てきた   胸が熱くなって涙がバーっとこぼれた  私と一緒に泳いでくれる感覚が嬉しくて涙で一杯になった  
世界中を追いかけていたがそれで満たされてもういいよと思った   
もう満たされたから家族の元に戻ってもいいよと心の中で思ったらその瞬間に2匹のイルカは サーっと離れた      初めて癒されるということが判った 
   
いるかと泳ぐという事はガンガン泳ぐのではなくて こっちの心と体の力を抜いて泳いでいればいいんだなと思ったわけです   心の持ち方が非常に大事だという事が判った   
それからはそういう泳ぎを出来るような心作りを始めた  
そういう心作りを一般の人にもやり始めたら心作りを始めたら皆泳ぎが上手になったという事が判った  先ず心ありきだという事が判った
イルカと泳ぐ  水の中に入る という事を通して心作りをする すなわち 人作りをする   
海と調和する人を作る 仲間を増やしてゆくという風に変わってきた

2012年7月15日日曜日

渋谷正信(プロ潜水士)      ・心をこめて海と付き合う


渋谷正信(プロ潜水士)       心をこめて海と付き合う
1949年北海道生まれ 24歳で水中で作業するプロの潜水士になり 35000時間の潜水経験を持つという日本でも有数の潜水士です
湾岸工事、東京アクアラインの建設その他多くのプロジェクトに係わってきました  
水の中の森作りや泳ぎを通した人作りにも取り組んでいます
壱岐は海女さんが沢山いるが漁獲量が減っている 藻場の調査をする  
レオタードで潜っている ウエットスーツで潜ると長い時間作業ができるので取り過ぎる
傾向がある  それでレオタードにした模様    藻場が少なくなってきている  
春と秋きちっと押さえておくと海藻が生えるパターンが判る 
その生えるパターンが判るのには3年~5年は掛かる   
全国で係わりの有る場所  35箇所(藻場の調査対象の場所)

工事 1日平均10か所の持ち場が有り順番に回ってみて歩く  安全にやっているかどうかの確認チェック も行っている
東京湾アクアラインの場合  海底調査をまずダイバー行う 金属探知機で危険物の有無   戦争中に不発弾があるかどうかの確認をする
それを基に杭打ち等の設計を行う 最初水中に杭を打つ(杭打ち船) 水の中の杭の誘導はダイバーが行う 1~2cmの誤差以内で杭を打たなくてはいけない  
海上の人と電話でやり取りしながら作業する  危険は何度もある  
不発弾の確認の為に3mのところに入るが見えなくて探しているうちにロープが足に絡まって
それにおもりが付いていて ボンベに空気が無くなってきて 完全に空気が無くなった 
 
上がろうとばかり思っていたが潜っておもりを持って思い切りけったら
水面に顔が出た 又沈んでしまう 3回ぐらいやっているうちに船に乗っている人が気付いてくれて助けてもらった 慢心はいけない 絶対甘く見ない
石をきちっと並べるのもダイバーが行う   
阪神大震災の時に応援に行って港が破壊されたのを見て愕然とする  
汚水が流れている処を入る 頼まれれば油の中、コンクリート(固まってない)の中にでも入る
東日本大震災の時は救援物資を運ぶのに船を使う予定だが港には瓦礫が散乱してしまっていて船が入れないため瓦礫を除去する作業を要請される

遺体を上げたり捜索は今までも有った   遺体捜査も行った   
海の森作り  きっかけ  苦い経験が有った  それまでは強さを求めていた  
プロのダイバーになったらなおさらそれを求めていた
右腕だった人に 2か月出張中に会社が乗っ取られた状態になっていた  
家から出られないような状態になった  
自分て弱いんだなあと思う事によって楽になった 弱い者にも目がいくようになった  
海も綺麗な方がいいよなと思うようになった

湾岸戦争でペルシャ湾に原油が流れ出した光景を見て ワーッと海が叫んでいるように思えた
行くまでにいろいろハードルが高かった   オイルフェンス 日常的にやっている 
日本の政府がオイルフェンスを提供したと言うのでこれなら手伝いができると思った
政府と掛け合ったが駄目だと言われてしまった   
イラク、バクダットに救援物資を運ぶボランティアの団体が有りそこを紹介してもらった
自分の会社の仕事をほっぽり出して出掛けた 
アクアラインの基礎工事の場所に魚が付いてきた 
他の現場でもしばらくして行ってみたら魚がいた事を思い出す

2012年7月14日土曜日

川浪剛(僧侶51歳)        ・縁を結び支え合う

 川浪剛(僧侶51歳)          縁を結び支え合う  
日雇い労働者が多く集まる釜ケ崎で活動を行ってきた 
路上やアパートで誰にも看取られずに亡くなってきた人々の生きたあかしを残すとともにホームレスの人達の自立を支援するという活動にとりくんでいます  
川浪さんが釜ケ崎の人々と係わる様になったのはこの地で日雇い労働者として働いていた父親の影響が有ったからです
父親の仕事に劣等感を抱いた川浪さんは中学生で不登校になり 卒業後も職を転々として自殺願望に苦しみます
そんなときに出会ったのが親鸞の教えです 僧侶になることで自分を見つめ直します
多くの人の相談に乗るうちにアルコール依存や摂食障害に苦しむ一人の女性に出会います
自分は仏教に出会って支えられた 今度は彼女を支えようと結婚  治療の為に上京するものの2年で離婚  その後自ら命を断ちます
無力感にさいなまれた川浪さんは自分自身がホームレスになるという経験を経て釜ケ崎で生きる人々と共に歩もうと決意します
東日本大震災の被災地の支援にも携わってきた川浪さんに困難に有る人と同じ目線で向き合いながら共に悩み共に生きて来たものは何かを伺います

震災が起こってから4日目に全国でホームレスを支援する団体を束ねている処が有り その理事長さんが牧師さんで私に電話が有った
私も3/18に仙台に入った    釜ケ崎の活動  毎年合同で法要をしている  
1年間に亡くなった方を追悼する場です   お骨を預かっている
共同墓地を作ろうと計画を立てている    投げやりな態度で生活してきた人達   
ホームレス支援の活動を民間、行政委託の仕事を受けて行っていたが、ここで見聞きした色んなことが有りまして深い深い宗教心が有ると気付きました

ドヤを転業してケア付きのアパートに替わった所で住み込みの仕事をしてたりしていたが そこにいる時に矢張り兄ちゃんここで観音さんてどこやと言われたりする
どういうことかを聞いたら奈良で育って幼い時から母親に連れられて観音さんにお参りしていた 大阪で観音さんはどこに有るのと聞かれた
6年ほど前に路上で生活する人と友達になっていたが、 彼がこの街にはお地蔵さんがたくさんある  そこに手を合わせる人がたくさんいるので この夏にお地蔵さんすべて回ってお経をあげさせて貰ったらどうだろうかとの提案が有った  
それに賛同し練り歩いた(2時間ぐらい)
 
ある地蔵さんの裏から3~4人の人が現れて手に小銭を持っていてこれで弟分のお経をあげてくれと言われた
電柱の陰でやくざに刺されてしまって 弟分を亡くしてしまったとの事   短いお経を務めた  其の人は大きな涙を流して良かった良かったと言ってくれた
最初の葬儀  内の住職が労働組合関係の方が亡くなった方たちを毎年葬式に行っていた 
ある日 きん役(音を出す役)で来てくれと言われた
住職がお経をあげた時にお焼香は5人ぐらいしかいなかったが号泣していた  
街で炊き出しをしていた仲間たちでそのうちの一人が亡くなったとのことだった
血が繋がっていないのにこんなにも仲間の事を思われるのは、本当に尊いことだなあと思った
父親は私が生れるぐらいから鎌ケ崎で日雇い労働者をしていた  
父は昔の中等学校に通っていた  戦争の時代で 青春を謳歌することができないまま
戦場に行き、帰ってきたが積極的に社会に働いて生きてゆく道を中々見付けられなかったようです      
建築関係の仕事の後に釜ケ崎に行って日雇い労働する
自分は父親の存在を友達に言えなかった  一人悩んでいた  中学3年の時に不登校になる 家に引きこもっていた 祖母にも姉にも期待されていたが自分はそれを果たすことができるのかと段々自分を追い詰めてしまった  こんなことだったら死んでしまいたい 
人間いずれ死ぬのに何で生れて来たのだろう  

何で生きて行かなければならないのだろう  一日一日命を削ってしまう 矛盾に突き当たってしまう      にっちもさっちも行かなくなってしまった
古本屋である問答集に出会う   例えば 悟りと言っても自分が迷っていることを知る事が悟りなんだ 宗教の道と言うのは不安の中に立つ  と言っていた
その先生が浄土真宗の人だったので親鸞の言葉にいろいろ触れました
「石河原礫のごとくなる我らなり」 自分達が石や河原や礫 瓦礫のようにあつかわれていても皆さまの光を受けて一つ一つが輝きを放つ
歎異抄 唯円の書 悪人正機説 善人なおもて往生をとぐ いわんや 悪人をや 善人でさえ救われえるのだから 悪人はなおさら救われるわけではない

悪人と言う言葉が私が学校に行けなかったり、なかなか就職ができなかったりする部分である、このコンプレックスと深く共鳴してそういったものの中に道が開けるという啓示が有った   
入学案内が有り 2点解せないことが書いてあった  内は僧侶の養成学校なんだけれども仕事は斡旋しません  内の学校は仏教と言うもので生徒を教育する事は出来ない   
一人一人の中に救いを求める気持ちはある が そこを我々教師と言うもの本当は御縁を支えるだけなんだという意味合い  
例えば 自分がどんなものであっても世界中の人々が貴方をみすてたとしても貴方自身が貴方を身捨ててはいけない  自分が身捨てないという事が仏様も貴方を身捨てないことなんですよ     
阿弥陀様の本願に出会ったということはどういうことか と言うと これから自分が仲間を見出して一緒に苦労するということができる事が本願に合ったこと
「差別視線の内面化」  皆が見てる視線で自分自身で自分を切り刻んでしまう  
「選ばず、嫌わず、見捨てず」 と言う精神が浄土に精神  釜ケ崎の街を自分が見捨て、嫌い 選んでたというのを気付かされた
瀬戸内海の島のお寺を紹介されて行った  教えられた事を伝えよう伝えようとしていた  
どうしてそんなに熱心に教えを説いているのかと言われる
短い間に本当に自分がこれを生きたんだという証が欲しかった  
あれだけ悩んで浄土真宗の道にようやくたどり着けたことができたが御門徒のおばあちゃんたちは子供を産み孫の顔を見る 

その中に自分の分身が宿り永遠に生き続けると言われた時に自分はどうしたら判らなくなってた  
大阪に戻り 介護等の勉強をしたいと思った  
友人が坊主バーをやっていてそこに行ってみた 
出合いこそが人生だと 2代目マスターになった
父親の歩んでいた場所はどんなところだったのかと 釜ケ崎に戻った  
お金が実際に殆ど無かった  ホームレス詩人(橘安純氏)に出会う 意気投合してしまった
なにもかも捨てたい人達の中に入って生活してみようと思った  
私達の慈悲 其の人を最後まで助けるということは勿論出来ない  
支援者 何かをしてあげなければいけない
一緒になって生きてゆく  笑ったり 一緒にお酒を飲んだり 悲しんだり  する普通の有り方でいいんじゃないかと思った  
無縁社会  孤独死 人と人との繋がり  縁を失ってきた  
地縁 血縁 無くなる方向にきたようだが 改めて問題として浮かびあがってきたように思う

2012年7月13日金曜日

桑村綾(料亭・和久傳女将)     ・料亭を立ち上げる 2

 桑村綾(料亭・和久傳女将)         料亭を立ち上げる 2         
各方面に進出 成功する  丹後への想いはあり 果たしたと思っていた  
何らかの方法で帰ろうと思っていた 
弁当に入っていたレンコンのお菓子が独り歩きし始めて それが物販に繋がって行った。  
物販が東京進出になる
京都の工房が狭くなり丹後に持ってゆくことを考えた  丹後に8000坪の土地を購入  
当面は300坪の場所があれば問題ない 
宮脇昭さんに(植樹の大家)即合いに行く  私の苗木は380円です  2万本    
地元の人を中心に人を集める 婦人雑誌 折り込みを通して1600人が集まる
植樹  森と言ってもピンとこなかったが 見に行ったが 大きな森に成っていた
先生の植樹の方法は 混植密植  いろいろな木を密植させて木に競争させる方法 
残った木が本物の木であるという

5年経って完全な森に成っている  工房の周りには森に成っている  
自分が植えた木がこんなに成ったと感動する       東北の津波対策にもなる
久美浜の食材工房  1日賞味期限以外は全部久美浜で作っている   
佃煮  物販でのあらゆるもの  全員が地元の人が従業員
山椒園を作る  森の中にも山椒を植えてあるよと言われて見ると有った  
原材料から加工、販売まで出来る体制がある  6次産業 (結果的に)    
時代のニーズに合っている
切磋琢磨していかないといけないと思う(契約農家はそうではないので)  
出来不出来が有る 厳しさが必要と思う

後継者がいない 田んぼを買ってくれないかと言われて 土作りをして山菜を作ろうとしている 
休耕田を借りて米作りを従業員が進める 丹後米  ブランド化してゆきたい
古里 丹後への恩返し  発想  子供達の教育が良いのではないかと考えた   
知るよりも好む方がいい  好むよりも楽しむにしかず       
社員にも論語に置き換えて学ぶ    いなかは情報の少なさ 
子供論語塾   人を育てる   従業員への教育  精神性を教えるのは書けない   
現場でいろいろなことが有った時に対応して貰う
6年前に娘に料亭飲食店部門を任せる  経験主義は教えられるようで教えられない 
娘の母親に対する見方  主食は逆境  おかずはトラブル  デザートはクレーム処理ですと紹介する  旨く言うなあと感心した
観光を思っていたが 丹後ワールドにしたい  観光を含めて食べ物も食べてもらいたい  
丹後半島は風光明媚なところ 
計画停電が有り 日持ちの悪いものを真空パックにしたら20%アップした

2012年7月12日木曜日

桑村綾(料亭・和久傳女将)     ・料亭を立ち上げる

 桑村綾(料亭・和久傳女将)         料亭を立ち上げる          
京都府丹後地方 峰山の老舗料理旅館に嫁ぐ 丹後ちりめんが衰退する中 思いきって京都中心地に料亭を開きました 
駅ビルの中に和食店を経営したり、お弁当や加工食品の販売などのビジネスにも乗り出して次々に成功してきました  
その一方丹後地方にも思いは強く食材工房を京丹後市に建設、広大な敷地を利用して森を育てようと植樹も始めました  
子供達の為の論語塾を開催するなど人材の育成などにも力を入れています
 
昭和39年に嫁いでくる  縮緬産業の集散地なので単なるいなかではなかった 
料亭旅館、お茶屋さんが有り芸姑さんがいて 衣装が良い 
お茶屋も10軒ぐらいは有った  芸姑さんも50人ぐらいはいた    
丹後縮緬  はたや 着物が盛んな土地 木造で中心地だったので旅館には適さなかった  
デパートとかスーパーにしたかったが商売変えしないでくれと200人の人が10万円/人出してくれた このご恩は忘れられないと思った 
こちらからお願いしたのではなく自然に後援会を作ってくれた  
銀行に買ってもらって山の方に移った 山を利用して平屋にして43年に変わった 
丹後地方全体が後援会を作ってくれたのが後に成るほど夢のように感じる

昭和2年に丹後大震災が有って3000人が亡くなった (1万人の街で) 
夕方だったので火事が凄かった 
大震災の後に一番最初に3階建ての料理旅館を作った
そのことで勇気付けられたとの新聞が記載していた   
丹後縮緬に陰りが出てきて料理を出来るので法事、お祝い事が無いかと出前を出来ないかを考えた
リヤカーが有ったので(お風呂を沸かすために材木を運搬していた)それを利用してやったりしていた
3000坪の土地が有るが厳しくなってきた  宿泊に力を入れようと思った 
客を取り込むのは並大抵ではなかった  料理に特徴を出した
蟹が有名なのでカニ料理を(1等蟹を使った料理  焼いてみようと思った)やってみた  
試食してもらったら好評だった 全国紙に乗って全国から来てくれた

衰退は免れず京都に進出することにした  (毎月毎月赤字で 京都への進出には二の足を踏むというのは考えられなかった) 周りから反対された
応援した方たちには申し訳ないと思った  (縮緬の衰退を判ってくれなかった)   
 最後に潰す時には署名運動もされた 
自分にあえてプッレッシャーを掛ける  
銀行に頼んでいい物件を一緒に探してもらったが気にいらなかった 
たまたまお茶屋さんからの情報である場所を提案して貰う
購入するにはお金が足りず今回は後援会を作ってくださいと廻って歩いて最終的には銀行も動いてくれた
料理は同じことをしても駄目だと思った 輸送が昔と全然違うので工夫をした  
いなかの特徴を出したかった  今とれたものをそのまま 蟹の最盛期
家は典型的な数寄屋作り  いろりを作りたいと言ったらそれは面白いと言ってくれた (桑の木でつくるので数寄屋作りとは真反対)

どこにもなく珍しがられた  蟹が終わったら一人も来なくなったが段々と認められるようになったコンピューター管理によって2度と同じ料理は出さないようにした
料亭の欠点は自分が今日これを食べたいなと思っても食べられない 
それを何とか料亭に持ちこめないかと考えたが、それは大変無理で板場と相当話あった
お客さん管理をしてすべて予約制にしたら仕込みの時から変えられるじゃないかと管理を仕掛けた
6部屋とも料理が違う  夜中の2時3時まで話しこみましたといまだに板場がいう   
日本料理は先付けから始まって 向こう付け お椀 と言うのは決まりものであります   
工夫をして段々盛況になる   娘が禅宗のお寺に2年間修業にいく   
堀炬燵式が好評(足が楽)
カジュアルな室町を開店させる  京都駅に出店  
丹後から京都に進出した時は尻に火が付いた状態だったので怖いもの知らずの状況だったが 京都駅の場合は当初は断ってたが 何ベんも足を運んでくるので 又京都駅の工事をしている状況をみてこれは凄いので是非入ろうと思った  
切り口を変えて出した方がいいと言われた  1品ずつ出すようにした  
当初は大分文句を言われた
知らないということは強い  図々しさ  教えていただく  

2012年7月11日水曜日

三宅純(音楽家)         ・パリで培った音楽観を日本へ

 三宅純(音楽家)            パリで培った音楽観を日本へ  
(1958年1月7日 - )は、日本の作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、トランペット奏者
世界的なジャズトランペット奏者の日野皓正さんに見出され ボストンバーキュリー音楽大学に留学 1981年に帰国 日本で3000曲を越えるコマーシャル曲を始め映画 ドキュメンタリー 舞台 ダンス等ジャンルを超えて様々な音楽に係わってきました  
2005年突然パリに移住 作曲家音楽プロデユ-サー トランペット奏者としてパリに溶け込み多方面で活躍しています
今年のアカデミー賞にドキュメント部門でノミネートされたドイツの天才舞踊家を追ったドキュメンタリー映画 「ピナバウシュ 踊り続ける命」の音楽を担当されたのが三宅さん
3年前に亡くなったピナバウシュの追悼公演に今回来日しました

パリへの移住の理由  1981年 音楽大学に行っていてジャズ一筋で音楽家になろうとしていましたが 尊敬していたマイルス・デューイ・デイヴィスのカムバックコンサートが有ることを知って 聞いてから帰国しようとしていた 
コンサートを聞いて狂信的にのめり込んでいたジャズがその瞬間死んだと思いました  
その都度進化してゆくのがジャズだと思っていたが 彼には新しいものがなにも有りませんでした日本に帰るがTVで゙コマーシャルが流れていてこれがジャズより ジャズらしいと思った  
TDKのコマーシャルを担当してコマーッシャル業界と繋がった  
とんでもない発注が有りそれに巻き込まれた 楽しんで作曲した  
1995年にバブル崩壊  関西の震災 オーム事件 が有りそこで世の中が大きくシフトしたのを感じた  

アーティストとして活動してゆくと思っていたのに軸足が一色先に傾き過ぎていた  
そこで国を出ようと思った  出稼ぎは出来るとは思った 
その年に離婚することになり子供が高校を出るまでと思っていたら9・11事件が発生  
脱出先がアメリカというものが消えて仕舞う 
2005年にどうしようかと考えて 日本の島国の閉塞性は合わないと思って、世界のハブとしての街はどこだろうと思った時に自分の電話帳にフランス人の友達が多いこともあってパリ にした 先ず自分の立ち位置と場面を変えたかったので、どこまで通用するか 
舞台とかいろいろのジャンルで仕事をした 内容的には変わっていない  
ドキュメンタリー映画 「ピナバウシュ 踊り続ける命」 「ピナバウシュは常に世界の有名なダンサーを抱えている
人種を問わず人間が持っている感情 普遍性 を表現するために必然的にそうなった
映画の途中で亡くなってしまったが再度やることになった   
彼女は製作方法が独特で初演の日まで身体表現が固まらない 
音楽を書きおろすことができない
幕を開けて初めて判る場合が多い  
能動的に係われないだろうかと、リハーサルのビデオを見せてもらえないかと言ったが、リハーサルでも変わって行ってしまう
日本はまず仕事の発注を頂く時に、スケジュールと予算から聞かれる  
向こうはこういう企画が有って作品だけれども、貴方のこういうところが作品に合っていて、こうこうこうなんだけれどもどうだろうか から始まる  
海外はスケジュール、予算からは入ってこない  
経済よりも人生だろうと  バケーションに対しても日本は有給休暇を取って行うが  時期もフレキシブルに取れるし フランスはバケーションは一大大国
日本は豊かさを追求してこなかった 
 
仕事を休んで休暇を取っていると日本では取り残されてしまうような傾向が有る
先ずは横並びと言う感覚を捨てた方がいいと思いますね   
行動を起こす時にも隣のどなたかがそうしていないかとか そうしていないから自分もしないとか そういう意識が有るのではないか 日本だけとは云わないが 極めて少数派の感覚 ですね  グローバルに見ると、多人種なので横並びと言う感覚すらなくて 行動を組織の中で起こすにしても 個ですよね  
個人の感覚、価値観として私はこう信じこう考えるから   
こうしたい 考えが違うのが当たり前  それが根底にある    
いい方向に出ると統制が取れていいと思うが、地方に行くほど習慣的に教えられてきたことをそのまま受け入れ それが習性になっているということが前提に有ると思いますし 一種決め事みたいなものだけ が先ずは最初独り歩きしていて こうあるべきだという 日本はそういう情報に弱いのではないか
 
日本の若手のミュージシャン  小粒に成ってきているように思う  
技術的には優秀ではあるが生活感を伴っていないというか 勉強した物をやっていますという感じの方が増えてしまった感じです    
破天荒の人は押さえつけられるか  破天荒だったからミュージシャンになったという感じですかね 国外にはどんどんでるべきだと思います   
日本に居る時には大変だと思っていた感覚が当たり前のようにやっている  
高校を出てアメリカの大学に行ったことが 色んな人種に接することができた  
何でもありなんだなと思った 
父は音がするのが嫌いだった  4~5歳の時に 父が単身2年留学した  
其の時に母がピアノを購入した 重いのでそのままになった
それを勝手に弾いていた   学校でトランペットをブラスバンドの練習の終了後にやっていた 中学1年からトランペットを吹き始めた

日野皓正さんに17歳の時に合いに行って聞いてもらって駄目だったら駄目と諦めようと思った 日野皓正の地元に一緒に行って海で吹いた
途轍もなくレベルの差を感じてこれは駄目だろうと思った   
駄目な個所をいくつか指摘されて駄目だと思っていたら泊って行けと言われる
母親から電話がかかってきて日野さんが電話口に出てお宅のお子さんはアメリカの大学に行く事が決まりましたと告げた
僕聞いてませんけどと言ったが 父親とも会って説得してくれた   
日野皓正自体を父は知らないし認めないわけなので 内の家系から音楽家が出る訳がない  と言う    
最後に1年だけ行って来いという事になった  日野さんに合わなければ今の自分は無かった

2012年7月10日火曜日

大田堯(たかし 教育研究者94歳) ・教育を問い続ける94歳の日々 2

大田堯(たかし 教育研究者94歳) ・教育を問い続ける94歳の日々
現在の教育  私が教育の研究を選んだ動機は 教育によって立派な人間を育てて
それによって社会を良くしてゆくという、こういう大切な仕事で有ると思って教育という仕事を選んだ
この考え方は実は問題ではないかと、戦争体験を通じて考えるようになった
教育とはよい人間をつくって社会を変えるなんて、そういう上から人間を眺めて或る計画の方向に
向けてゆくような、そういうことは命の尊厳な一人一人が
持っている貴重な設計図を持った命を大事にするという   
そういうすじから考えると無理があると考えるようになった

そこのへんの処を頭に入れながら 実際にどういう風な教育の状況が我々を包んでいるのかと
言う現実の教育の状況を見つめ直してみる
最近の経験を申し上げたいが 10/19から22まで韓国に行った  
1986年 日本の教育学会の会長の任務を与えられた時 韓国に一言お詫びを言わなくては
いけないと思った  朝鮮や中国に対して責任が有る 先ず朝鮮からと思った 
分裂状態でやむを得ず諦めた 私の命が有る時に朝鮮全体に対して朝鮮に謝罪
するという機会が無くなる 急に去年の10月に思い起こして謝罪したいと思った 
何を謝るかが問題  どんな植民地だったのか 称氏改名(日本人になれ)
日本語をしゃべりなさい 神社を尊敬しなさい そういう植民地政策なんですよ

白黒をはっきり区別する と言うある意味合理的なはっきり判る様な差別に対して
片一方は心の内面まで入って「日本人になれ」というそういう植民地政策をやってきた  
そこをお詫びしなければならない
其の話をした 朝鮮人の人には涙を流す人がいた  
しかしながら実は其の時に同時に日本は植民地にそういう日本人に成れという教育をしながら
教育勅語に同化せよという そういうような教育は日本の人民に対しては行われていた  
教育とうようよりも教化  「教え化かす」 内面まで支配するという
そういう教育 日本人を束にして教育をする   
そのことが我々人民にまでしたと言う事を、同時に朝鮮の人達に話をした
謝罪の時に私達が受けた教育もそうなんだと、そいう問題を持っていたんだと告げたんです

戦前の教育は忘れられたけれども、実は今も上から束にして教育して国益に沿うように
育てるという、古い教育感がずーっと尾を引いている まだある
そうでなければ私が教科書で28年間も裁判に携わることはない   
国が自分達の国益に沿うように人々の心を束にして変えようとしている
国定教科書は止めたけれど検定教科書で国民を教え化するという、教育の感念はずーっと
我々の底に流れている教育観なんです
この教育観  教育と言う言葉をいうときは よい教育によって人を育ててそして国家に貢献する様
な物の考え方は消える事無く残っている
1945年の敗戦で始末を付けることを怠っている、積み残している  
積み残しの上下関係の教育観と言うのは親の頭にも有るし先生にも有るし文部省にも有る
この現実を一遍清算しない限り 新しいアートとしての教育は表れようがない
 
学校の教師と言うのは使役動詞が多い 座りなさい 立ちなさい 日記を書きなさい  
何でも・・しなさい  じゃないですか
イギリスで言うと もしよかったら 読んでくださいとか 座って下さいとか  そういう助動詞が
ちゃんと有る  
日本は上下関係の言葉は多いが上からさせるとか 先生の言葉自体が子供を刺激するというか 
一段身分の低いものとして考える
其の考え方が生活の場の中や言葉の中にずーっと尾を引いている  
これはそれだけに影響力が多いと考えなければならない
親も自分に同化しなくてはいけないというふうに、自分の思い通りにさせたいという感じが、
いつも親にはあるんじゃないですか

処が親と子は違う  設計図が違う  父親のDNAと 母親のDNAとは 30億対の分子が
入り混ざっている 入り混ざっているのが子供なんだから違うんですよ 
同化政策と言うのは違いを認めないで全体を束にして、上から下に同化を求めるという気風は
ずーっと我々 尾を引いている訳ですよ
それは命の特性がしっかりと認識されてないという事だと思う  
一人一人の生命の母体と言うのは、一人一人違った設計図を持っている
「違っていいんだ」じゃなくて「違っている」と言う、動かしがたい科学的な事実の元に、教育は
営まれなくてはいけない  一人一人は掛け替えのない人なんです
それを安易に束にして同化しようというのは自然の摂理に反する   そこが大事なポイント
其の人の未来と言うのは予測しえない   どういう事になるかは言えない  
それぐらい可能性を一杯持った存在だという風に考えなくてはいけない
他の人とは違っているという事と同時に自ら変わる可能性を持っている 
  
そのうえで拘わりを持つ 拘わり合わないと人間という動物は生きられない
拘わり合いの中には人間同士の係わりもあるが 他の動物も食べているし 太陽を浴びている 
水を飲んでるし 空気も吸っている
他者との係わりの中で命はあるんですよ   
そういうのっぴきならない命の有り方と言うのは、しっかり認識するということは一人の子供と出会った時に
一人の他人と出会った時にもそういう生き物としての特徴をしっかりと自覚できれば
(中々難しいが) それが人権なんですよ
人権なんて法律に書いてあるものだと、皆簡単に思うけれども、そうじゃないわけです
生き物が持っているのっぴきならない特徴をお互いに尊敬しましょうという、そこのところに之からの
人間関係というものが展開していかなければならない、筋道だと思います
人間と言う者は 或はあらゆる動物たちは自分中心 先ずは自分の命を大事にしようとしている
そのくせおかしいのは 太陽に 或は他の動物に 空気に頼らないと生きられない 

自分の命を大事にしようと思っても 同時に他者に依存しないと生きられない
自分を大事にしなくてはいけないという内向きの力と 外のものに依存するという力は矛盾した
話だけれども人間はその二つの方向を持っている
二つの違う方向を統一するという事をやらなければいけない   
それを解決するのは実は右脳なんです
脳では外から情報が入ってくる  必要なものは記憶にとどめる  要らないものは排除する  
非常に巧妙に内向きの力と外向きの力を脳は最終的には統一している  それが学習なんです
学習によって変わるわけです   瞬間ごとに学んで変わってゆく  
生き物は全て学習をして自分を創り出している    教育が先にあるのではなくて、
学習から始まる     それを助けてゆくと言うのが、教育の仕事ですね
内向きの力と外向きの力を調整しながらやっている脳の新陳代謝の事を学習と私は考えている
人間は生まれながらに学んでいる 瞬間ごとに学んで変わってゆく  
それを生涯続けてゆく 
 
学習がやんだときが脳死  学習は生存権の一部
だからご飯を食べるとか空気を吸うのと同じように情報を吸って生きている訳です   
それが無かったら生きていられない
他の動物も皆それをやっている  長い進化の過程でそれぞれがやっている 
教育は人間が作った物で 学習は生命の歴史に繋がっている  
生き物は全て学習によって自分と言う者を作り出している
教育が先に有るのではなくて赤ちゃんのように学習から始まって それを助けていくというのが
教育の仕事ですよ
子供が母親の胎盤から出ると社会と文化が人間の場合は待っている  
用意されている社会、文化に適応しなくてはいけない
そうすると学習が必要と同時に教えてあげるということが(社会、文化)必要に成ってくる   
教育と言うのは人間の生存権である教育と言う厳粛なものを、世話をする仕事なんです

だから物凄く大事な仕事であり 命そのものを育てるという厳粛な仕事  
教えるものと教えられるもの 一人一人が違う
そこが同化するんじゃなくて響き合って変わり合う  之が共に育つ  「共育」  
これはアートとしか言いようがない 命と命が響き合う 違う存在が響き合う
演出家 それが先生 響き合うという演出をする  環境を用意する、教材を用意する 
そういう重要な仕事が教育なんだという事です
教育する場は学校とは限らない 余りにも学校を重視し過ぎる  
習ったことをどれだけ覚えているか というとあまり覚えていない
或る一冊の本で大いに心を動かされる  或はこの人に会った時に心を動かされる  
そういう様な事の中で人間は自分と言うものをつくってゆく

それが人間の育ち方だという 風に考えてもいいのかなと思います  
この国では学校というものがあまりにも重視され過ぎている 
いい学校を出たとか、でないとか そういう風な学校教育と人間の値打ちというものを簡単に
結び付けている
学校には上がらなくてもユニークな設計図と言うものをちゃんと自分らしい将来を築きあげるという人
はいくらでもいる訳ですよ
それぞれが違っているからそれぞれの持ち味を発見して 社会に出番を持つというような状態に
なった時に、人格の完成と言うことが言える
人格の完成と言うと、道徳的で型が決まっているように思えるけれどもとんでもない  
そういう風に人格の完成と言うものを、広く社会的、文化的胎盤の中で
考えるようにならないと、点数と順番に捉われている
 
そういうことで人間を評価することが、日本人の頭の中に入りこんでしまっている
一人一人のユニークさが、出番を待って社会的な貢献をするように、多様な教育が有っていい
教育と言うものの有り方を、学校教育等に捉えないで広く色んな局面の中で、人間は人格の完成
の可能性を、蓄えることができる存在なんだと
こういう風に考え合うという様な、気風に成らないかなあと考えるんですが
広島県本郷子ども図書館 地域の人達に何か役に立つ事は何かないかと 考えてきたのですが
 本郷町の家内の実家が潰れ、後は私の妻しかいない
妻の土地は公共に返すべきであろうと寄附することにしました 
木造の家で子供達がゆっくり寝ころんで楽しむような絵本図書館をつくろうと思いまして
他の処からも寄贈していただいたりして 今は6000~7000冊有る  

ボランティアで運営して運用を住民がすると言う図書館を作った
あそこでは読み聞かせとは言いません 読み語りと言います   やらせとは違う
絵本を見るだけでは十分ではない  自然と言う大地の上での、子供の自発的な遊びは非常に
難しくなってきている  川は立ち入り禁止 道路はアスファルト
今の子供にとっての不幸は、非常に自然と言うものが、自分達の遊びの舞台とはなりにくい 
本当は人間が成長してゆくためには 周りの自然の生き物と付き合いながら色んな発見が
有ったり驚きが有ったり そういう発見や驚きを友達と一緒に分ちあう
そういう本物を仲立ちにして、実際に触れながら感動を分かち合う  
そういう機会が物凄く少ない 

図書館は駅前なので自然はどうしても遠ざかりますが、裏の方は自然が有るので広場を用意してある
埼玉県 野外ミュージアム構想  1260ヘクタール 広大な地域 芦ノ湖の2倍 さいたま市を南北に
貫いて湿地帯 幕府がそこを水田にしたという歴史が有る
見沼田んぼ  住宅等が進出 虫食い状態になっている   廃棄物を投入する者がいる 
そういう場所は経済成長の遺跡と言う札を立てなさいと
ああせいぜいそんなことですよと  そして出来るだけありのままで大事にしましょう  
其の大事さを分かち合おうと そういう風な空間であるという印象を
回りの人々にして貰うと  これがフィールドミュージアムと名付ける所以なんだと
 しかしそれだけではもの足りないというんで 大学に講座をお願いして
学生諸君はフィールドに来て 農民と話したり 実際に農民を助けたり そこで別の話を聞いたりして 
そういう講座を作って2年続いている

あの映画「かすかな光へ」の一番鍵になることは 命と言うものである 
命と言うものがものと金によって二の次になっている
先ずお金とか 先ず物とかに考え方に対して頭がむいてしまって 肝心な命というものに大事に
するそういう方向に頭が働きにくくなっているというのが、現実だと思います 
そのことが人をばらばらにしている  そして子供達の成長も阻んでいる   
次の世代への贈り物というそんな社会を送り渡すわけには行きません
だから命の為に金を使い 命の為に仕事を作りだす  そして命を中心に社会を前に進めてゆく  
そういう命の絆によるセーフティーネットを世界的な規模で考えなければならない
単なる見沼ミュージアムではないんです 
 
見沼が世界中に有る 世界中が命の問題に直面している
原子力、原子爆弾、その他戦争  テロ その他いろいろ それらも物と金に非常に関係が有る   
そうだから地球的な規模で 見沼対人間と言うようなものが有ると思うんですよね
そういうスケールに展開するというのが私の夢なんですね
夢が有ると夢に一歩でも近づこうという思いになれる様な気がする   
なかなか思い通りには行かない  かすかな光を目指して一歩一歩余生はわずかだ
けれども そこに期待を持ち続けてあの世に行くかなあ
余り後ろを見ないで前を見てきた人間なので 「夢に始まり夢に終わる」というのが
 私の味わいと言うかそんなものをわずかに自覚していますが
残された日もそうしたいと思っている

2012年7月9日月曜日

大田堯(たかし 教育研究者94歳) ・教育を問い続ける94歳の日々

大田堯(たかし 教育研究者94歳) ・教育を問い続ける94歳の日々
大正12年広島県生まれ  東京帝大文学部教育学科卒業 東大教授 都留文科大学学長 
子供を守る会会長歴任
昨年 教育の夢を描く映画「かすかな光へ」に出演されました 
この映画は映画館や学校のイベントなどに上映され関係者に共感を呼んでいます
戦前と戦後の教育を体験した教育者は少なくなりました
 一兵卒として体験した戦争は教育論に大きく影響したと言っています
生き物との付き合いというものは矢張り命が維持される事と深い関係があると思います
色んな理屈はいうけれど偶然 と言う事 これは非常に命が続く事と関係があるので 
人間万事何事が途中に起こっても仕方ない
特に第二次大戦に参加して、辛くも生き残って、ここにあると言うこと自体が偶然だと言わなければ
ならないし、戦争に行って魚雷に遭遇するということもあってからくも生き伸びたし、
もし南方に居なくて広島に居たとしても原子爆弾で壊滅的に成っていたのでそういう偶然
と言うものは人間の生存に取ってみては非常に大きな意味を持っていると思う
毎日の過ごし方  65歳までは学長をやっていたので規則正しい生活は出来なかったが、
65歳以上は一日一日のリズムを決めて朝5時に起きて散歩をして
掃除をして自然と付き合って 仕事にかかるという  体操を挟みながら一日を過ごす

生きながらえると言うことは、人との付き合いが生きているという事に非常に重要な関係があると
思っている  人との交わりを大切にする
毎月勉強会をしている  4種類のサークルがあり(月2回もあるので) 6回をしている  
それ以外にも朝散しているので行き合う人達がいる
散歩の時などに、現代は眼を合わさないようにしている人がいるがその様な時にワンちゃん 
お早うと言うようになって関係が段々出来てくる
積極的に拘わりを持つことで自分の生きざまを見るというか そういうことが励ましになって
いるのではないかと思う サークルでも同じこと 
いろんな方が表れていろんな考えを教わる 
之が常に自分をリフレッシュさせてくれる

中小企業家同友会 日本の経済を支えている90%が中小企業  265回話し合いを重ねている
去年 映画「かすかな光へ」に参加  2006年に教育基本法改定が有った 
曙の様な社会の期待があったが 教育基本法、憲法に対して夢を持ったが
いままでの曙の時代が曙が明けきらないで元にそれが少し戻ってくるような状況  
其の一つに教育基本法の改正を心配する人達がいてその人達と
良い教育とはどのような教育なのか等の事を世間に判って貰う必要があると 
そういうことから映画を考えて 良い教育を全国から拾い上げて行って
私がコメントするという役をやるという事で引き受けた 
出来るまでに5年掛った 中途で挫折が有って 最後にどうしても背骨がいるという事で
背骨になってくれと言われた

この映画「かすかな光へ」は、老いたる研究者が夢を持っていて教育はこうであってほしいとの
願いをしめしたものです
冒頭 谷川俊太郎が登場 「赤ん坊は歯の無い口で舐める 柔らかい優しい手でも、ちいさな手で
持って舐める、触れる事の中に既に学びが潜んでいる」
自ら読む  反響は悪い反響は戻ってこない  見た感想が文章に成って返ってくる 
映画を元にしていろいろな討論が行われている リピーターが有る
戦前、戦後に携わった人は少なくなった 戦争を体験した人は非常に少ない   
戦争直後の食べるものも無く貧しい状態で暗闇の時代から曙の時代を目指す瞬間が有った
之が戦後 戦争の闇を抜けたというのは強い印象を持った (5年ぐらいの間)  
朝鮮戦争によって占領政策が手のひらをくるっと変わる様に
変わって憲法9条が有るが直ぐに警察予備隊ができて 教育界でいえば教育勅語はいいものだと
文部大臣の発言が出る(1950年に)

大きな反動がなかなか収まらない 忘れられない曙に固守してそこから夢をいまの状況のなかでも
打ち出していかなくてはいけない
4年間 私は軍隊に居て 内地に2年間いて 2年間は南太平洋の最前線にいる 
昭和17年に補従兵として召集された  不器用で病弱だった
普通なら兵隊になれないような身体だった   野間寛に「真空地帯」と言う本が有ると思うが 
軍隊と言うところは何時敵が攻めてきても直ぐに反応できるという
戦闘団体としての緊張がずーっと持続する様に作られている 
朝から晩まで緊張状態を維持しなければならない 常にお互いに監視をしあう  
事故が起きた場合には誰誰に連絡するかと言う事を直属の上官の名を全部覚えていないと
いけないので上下関係が物凄く強調されるという社会なんですよ

個人の自由は最小限に限られてくる トイレと消灯後の時間のみが自分に自由な時  
単行本を隠して読もうと思ったが監視兵が見回っているので読めなかった
南太平洋戦線に配属され魚雷に遭遇して船が撃沈されて36時間筏にぶら下がって 
人に何とか助け出された 
自分の持っているひ弱さを非常に感じた  私自身の教養と教育を見直さなくてはならない 
命はお互い持っているものであり 命を守られて今は生きている
命と言うところからもう一遍 教育とか教養を観なおさなくてはならないと 原点として経験の中に
入りこんだ 

農民兵 漁民兵は自分の命をしっかり守る 守りぬける体力、知恵、教育が有った  
今までの自分が身に付けた教育とは何だったんだろうかと
屈辱感が有ったり劣等感が有ったり そういうような中でやっぱり俺自身の本当の成長とか
人間らしさを捉えなおさないといけないなと思った
そういう経験が後にいろいろな試みをする中に徐々に出てくるという 原点と言うのはそういう
性質のものだと思います
復員して 今までの様な国家中心の、国の為に死になさいというようなそれに近い様なそういう
方向での教育の方向を支配していた
そうではなくて命を大事にするという教育をしなくてはいけない
  
命をこそと考えて身近な地域の中から命を大事にし合うような教育を自主的に組み立てましょう
と だから新しい学校、教育を作りなおそうと 之が大きな夢だった 失敗するのですが  
思惑通りに行かないのが命の特徴なんですよ
皆を束ねてこっちを向けと言うんで計画を立てて何か人間を変えようという様な事を考えたって
そんなものは命を大事にするよりも命の特徴を全部殺してしまう
遺伝子という設計図はほかのだれよりも違う設計図で有って、又遺伝子の設計図は生れた時に
決まるわけではなくて 常に外からの情報によって変わってゆく
柔軟な豊かな選択の可能性を秘めた設計図なんで固まってはいない 
 
柔軟な設計図をお互いが励まし合って育ち合ってゆく  教育は共に育つ(共育)
命と命が共に響き合って共に育つ 戦争直後には教科書などにもこの様なことが見えていた 
あくまでこの教科書は未熟なものであるかも知れないから参考書として扱って下さいという事を
文部省の教科書の裏側に書いてあった  そういう時代が有った
其の時にいろんなことを教師たちはやった   
例えば、弁当が盗まれたときに犯人捜しをするのではなく だいたいこういうことが起こることはどういうこと
何だろうかと 皆で考えようと3日間議論したという先生もあった  
埼玉での共同学習  学校から外れた不良仲間と思われた人達と一緒に 青年学級と言う事に
して3年間付き合いをした

たいへん多くの事をまなんだ  皆がそれぞれ主役 いわゆる不良と言われた人が主役 
ひたすら喋る事を記録する 次の機会に読んであげて又皆で話し合う
話し合いの記録  一人一人が主人公出番を持って記録の中に登場する  
学校では考えられないこと 自分のいったことが書いてくれている 彼等は感動する  
彼等は自分を取り戻す チャンスを持ったのではないか   教育ではなくて共育   
教育と言うのは一つのドラマ  それぞれが自分のユニークな設計図で持って自己表現する 
 其の表現したことを皆で認め合ってゆく
教育と言うのは命と命が対等に響き合う そういうドラマティックな雰囲気の中で成り立ってゆくのか
なあと思う  「教育はアートである」
「はらぺこあおむし」 さなぎになり蝶になる 

人間の場合も同じような形ですが 社会と文化の中に生まれるという特殊な動物ですから 
社会と文化と言う大きな
胎盤の中で人間はユニークな自分の設計図を開いてゆく舞台になると思う  
ドラマの舞台の始まり 誕生は
ユニークな設計図を持った生き物として人間が生れ出て次の世代として種が持続する 
人類が続いてゆく  そういう貴重な存在ですよ 一人一人が
「人間は何で二本の足で立って歩くんですか」 と言う生徒からの質問が有り、その問いに
答えられなかった  調べてくるが納得する話ができなかった
いろいろ調べたけれど判らなかったと正直にいおうとしたら ぽっと浮かんできたことが有った
「人間がその気になったからだ」と言った 
  
ある生徒が「人間は其の気になったんだなあ」と感心をした
実はその気と言うものは凄く重要な人間の持っている特徴だというように後で段々判ってくるわけで
すけれども、「その気」は選択であり 決断であるので、それは運命を決定する
人間は選択肢の多い動物であるので  ドラマじゃないですか、まるで
子供が生れ出るのは母親の胎盤から出てくるのだけれど その胎盤から出てくる世界とは
どういった世界かと言うと 社会的 文化的な胎盤と言うものが
待ち受けているというのが人間の誕生 それが特徴なんですよね
  
その中に学校などと云うのはほんの一部 一部にすぎない
学校だけで受ける教養だけで人間になるんじゃなくて 谷川さんのいう通り 赤ちゃんが触ったり
する事で、学習が始まっている
いろんな経験を重ね 母親との対話 他人との対話 自分が読んだ本 たまたま増えた友達 
そういうものの中で人間形成が行われる
学校だけで勝負すると言うそういう雰囲気自体を克服しなくてはいけないと言うのが、
日本の教育の課題なんですよ