2016年1月31日日曜日

清水マリ(声優)         ・時代を創った声(1)

清水マリ(声優)             ・時代を創った声(1)
声優という呼び方が無かった時代からラジオ、TVで活躍した人々がたくさんいます。
「時代を創った声」は 昭和から平成にかけての時代の声を創ってきた方々にお話しをうかがって後世に残してゆこうというものです。
鉄腕アトムの声を演じ続けてきたのが清水マリさんです。
鉄腕アトムがTVで放送されたのが1963年、それから2003年までの40年間、清水さんはアトムを演じ続けてきました。
清水さんは今年で80歳を迎えます。
何故声優を目指したのか、声だけで演じる魅力、若い人たちに何を伝えてゆきたいのかを伺います。

ロボットの声をどういう風にしていいか判らなかったが、手塚先生が小学校5年生の男の子の気持ちでやってみてくださいといわれて、やり始めました。
先生に気に入っていただきほっとしました。
26歳の時でした、顔を出さない様に男の子なったつもりで影にいる、という様な感じでした。
子供達のアトムのイメージがこんな叔母さんかといわれない様にした方がいいと思っていました。
話が来た時にはマンガの鉄腕アトムは知りませんでした。(新劇を目指していた)
手塚先生に初めて会ったときには、にこにこして優しかったです。

TVのない時代で、NHKの放送劇団に入るか、映画、新劇の女優、3つの選択ぐらいしかなかった。
芝居の勉強をしたいと俳優座の養成所を目指したので、バレエ、日本舞踊など色々やって本等も色々読んでいました。
父は清水元という役者で父の影響で役者を目指しました。
子供のころからそういう環境にいたのでそちらの世界に憧れました。
中学1年の時に父がやっていた劇団で子供劇場をやろうという事で、ピノキオをさせてもらって、そこからはまってしまいました。
高校は演劇の盛んなところに入って、俳優座の養成所を受けたいと思ったが、父は止めさせたいようだった。
父に認められたのは鉄腕アトムをやってTVで見てからだと思います。
こんなに人気が出るとは思わなかった。
手塚先生に会いに行った時に父の劇団の人が隣にいたので、その方が手塚先生に紹介してくれたのだと思います。

手塚先生は男の子であって女の子であって金属的な音を探していたみたいで、丁度私が甲高い金属的な声だったと思います。
パイロット版に声を吹き込んだ時に「魂が入った」といって手塚先生は気にいってくださった。
その後オーディションがあって、手塚先生に推薦してもらって、やらせていただけるようになりました。
人間の心を持ったロボット。
ロボットというよりも正義を貫く少年という感じでやっていたのでそんなに難しいとは思わなかった。
アトムが自分の中に入ってきてしまった様な感じでした。
アトムをやり始めたときには結婚していたので、2年間は子供は作らないでくださいといわれていたが、子供が出来てお産をして、一時期替ってもらった時に声が違うと電話が沢山掛かってきて、早く復帰してほしいという事でなんとか復帰しました。
子供を抱えて舞台は無理だと思って、声優ならば時間の調整なども自由度があるので、舞台は辞めて声優に専念する事にしました。
子供が小さい頃は大変でした。(アトム以外は断る)

アトムが終わった後に、妖怪人間ベムの一人の声優をする事になる。
ベロ君はどうしたらいいか大変苦労をしました。(ついアトムが出てきてしまう)
宝島で少年の役もやりました。
2003年4月7日(アトムの誕生日)にアトムの役を降りることになる。
どうして声が変わるのかと苦情があったようですが。
2003年1月に友達とスウェーデンに旅行に行くが、夜中に一人で空を見ていたときに、物凄く綺麗なオーロラを見て、何故か涙が出てきて、もやもや(アトムの声優の交代に関しての事)がすっきりしました。
本を自費出版する。:「鉄腕アトムと共に生きて ― 声優が語るアニメの世界」

その後若い子たちの指導をしています。
私たちは罵倒されながら勉強したが、今はそうすると直ぐにいなくなってしまうので優しく丁寧にやらなければいけない。
いまの子は感性が育っていない。
日常の自然、自分で感じるアンテナの張り方が、芝居をやりたいと思っている割には、張れていない、喜怒哀楽が少ない。
声優はその人に絵がないと伝わらないことがいっぱいある。
一言一言に感情が入っているか、入っていないか、それが何を表しているのか、加味しないといけないので凄く難しい仕事だと思います。
声優を目指している若い子は純粋で一生懸命やっています。
役者は歳とともに変わるが、声優は声が変わらない限りは、いろんなことが出来てこれは声優の醍醐味です。















2016年1月30日土曜日

室﨑益輝(防災学者)       ・心をつないで命を守る

室﨑益輝(防災学者)         ・心をつないで命を守る
71歳 神戸市にある「人と防災未来センター」を運営する公益財団法人の副理事長を務めています。
この施設では 21年前の阪神淡路大震災の被害の模様をつたえると同時に、地震等の災害に人はどう向き合ったらいいのかを考えるための資料を展示しています。
室崎さんは建築家を志していた学生時代、旅館の火災現場を見て防災の道へと方向展開しました。
神戸大学教授の時に阪神淡路大震災に遭遇、震災直後から被災地の調査と支援に取り組みました。
阪神淡路大震災でそれまでの研究のあり方を根本から見直したと言います。
大きな自然が小さな人間へ生き方を問うているのが災害と語る室崎さん、災害から命を守ることの研究に50年近く取り組んでいる室崎さんに伺いました。

あのときあの場にいた人でなければ、感じられないことはたくさんありますが、いなかった人につたえるということは難しいことだと思わないといけない。
どういう形で伝えるかが難しい。
①自然の大きさに対して人間がいかにちっぽけか、を理解しないといけない。(人間のおごり)
②人間の素晴らしさ、再び生きていく力を得る。(支え、助け合い)
③どうして起きたのか、社会の側にも弱さがあったのではないか。(自然破壊、高齢化等、人間  の愚かさ)
④残酷さ、悲しさをきちっと伝える。(悲しさを理解し起こさない様に出来ることをしっかりする、減災)

大災害は人間が抑え込むのではなく、少しでも被害を少なくする。(減災)
人々は立ち上がり、いかなる困難に出会っても生きることを諦めない人間本来の強さがある。
復興にばねが働く。
①気概(何くそという思い) 
②連帯(助け合い、きずななどが働く) 
③反省(もっとこういう社会を作ろう 目標に向かって進む) 
④事業(再建に向かい、資源、資材が集まってくる)
4つのばねがある。
復興の歴史を見ると失敗したことがない(成功の程度の差はあるが)、それはばねが働いているから。
災害がなければ大学の中に閉じこもって論文を書いて、論文で評価される研究者になっていたと思う。
現場に目をやり、市民が何を求めているか、現場で教えられる。

1968年有馬温泉で起きた旅館の大規模な火災に遭遇、京都大学大学院で学んでいた室崎さんはその火災現場を訪れ衝撃を受ける。
間取り等を見ると、設計が悪かったと感じる。
デザインとしては面白いが、複雑な廊下でつながっている。(逃げ道がない)
こういうことをもっと研究しないといけないと思っていたが、1970年地下鉄工事で大爆発、2年後に千日デパート火災(100名以上が亡くなる)、同年北陸でトンネルで列車火災でたくさん亡くなる。
1995年1月17日阪神淡路大震災、防災に関する国際会議の幹事として大阪にいました。
被災地に入ることが出来たのは翌日でした。
大学の生徒たちがどうなっているのかが心配でした。
瓦礫の山の光景を見て、理解できなかった。
夕方大学に着いたが、学生は場所がなく避難所ではなく大学に集まってきていた。
学生たちを元気にさせるために、実家に帰るように言う。
学生の安否確認は時間がかかった。(1カ月もかかる学生もいた)
多くの学生たちも実家から戻ってきた。

被災者の声を残す、建物の状況など調査ボランティアに学生と一緒に出ようという事で一緒に歩きまわった。
50万戸調査 近畿圏の大学の建築科学生3000人が集まり、50万棟の被害調査をすることができて、助けられる側から助ける側に回って学生も元気になった。
火災原因の調査、建物の被害調査、避難状況調査が出来た。
論文は通常被害を纏めて法則性を明らかにして1~2年かけて学会誌に発表するが、1年後、2年後に論文を書いても何の意味もない、この人達が求めているのは、明日にでも調査結果、提案がほしいと思っているので、論文を書く前に勤労会館のホールを借りて火災調査などの報告会をやる事になる。(超満員になる)
調査票に書き入れたある人が、被災地で困っている人が14.3% この0.1が私ですかといわれた。
一人ひとりを大切にしないといけないと思った。
次の災害に向けてどうするかが我々の仕事ですが、今の災害をどうするかを課せられているので、研究のあり方を根底から変えないといけないという事で、直ぐに被災者に情報を返す、一人一人の声を聞くということだと思います。

最初段階、研究等で被害状況は解っていたが、専門家の知識をどれだけ居住者に伝えていたかというと不十分だったと思う。
行政から頼まれて行政に報告するが、行政に向いていて市民に対しては顔を向けていなかったと思う。
遺族への説明責任があり遺族と向き合わないといけないと思った。
被災者聞き語り調査で6000人の遺族と話をして記録を作ろうしたが、300人の記録しか作れなかったが、遺族と向き合っていかないといけないと思った。
家族を亡くした悲しみがいかに深いか、何人もの人が泣きだしてそれを聞いて私も涙しました。
現場を見る、一人ひとりの人をちゃんと見るようにする、これを若い人たちに伝えていきたい、それが私の役割だと思っています。

東日本大震災、自然と人間が共存する事が豊かな暮らしにつながると思っていたが、あまりにも自然が凶暴であった。
巨大な堤防を作るという局面に追い込まれたが、それは自然と人間の分断、それでいいのかとの思いもあるが難しい問題です。
自然の豊かさと自然の厳しさを被ることを防ぐ事、どう両立させるかを見つけ出さないといけないが、大きな問題です。
どう対応するか、思いをぶつけあい、相手の思いも理解しながらというプロセスが重要です。

阪神大震災の時に多くの人から助けてもらった、3カ月で延べ100万人が駆けつけて貰って、助け合うことが重要で、次に被災地に自分たちが届けることだと思う。
支援の数珠つなぎだと思っている。
台湾での取り組みが、中越に来ますし、又次にという風に支援の輪が広がってゆき、災害ボランティアセンターの仕組みが出来、色々な組織が出来、そのネットワークが出来、支援の数珠つなぎの
土台を作って行っている。
東日本大震災ではもっとボランティアが行っていいと思う。
①若い人は仕事等忙しくて、行けない。
②東北は神戸から遠いいので旅費がかかり、神戸にいて募金活動などをすることになる。
行けない人は旅費を出したり、サポートするとか、もっと日本は寄付文化、ボランティア文化を育てていかないといけない。
ボランティアの帰りの旅費を出してほしいと呼び掛けている。(社会が助ける仕組み)
復興の直後に2つの事をしないといけないと思った。
①立て直し。(元に戻す)
②世直し、(社会の矛盾を直す。)
20年間で立て直しはどうにかできてきたが、世直し、どう作ってゆくのか。
人間復興、社会復興 両輪としてやっていかなくてはいけない。
与えられた宿題をどう作ってゆくかはとても大切なことです。






2016年1月29日金曜日

内田良子(心理カウンセラー)    ・親子に寄り添う癒やしの声

内田良子(心理カウンセラー・子ども相談室「モモの部屋」主宰) ・親子に寄り添う癒やしの声
1942年韓国慶尚南道生まれ 大学卒業後、40年以上にわたって都内の民間病院の心理室や保健所で不登校や引きこもり、乳幼児の子育ての悩みなどの相談などに取り組んできた心理カウンセラーです。
長年NHKラジオの子供と教育電話相談、子供の心相談のアドバイザーもされました。
平成12年からは自宅でモモの部屋という子供相談室を開き、子供や親の声に耳を傾けています。
全国各地で開かれる不登校や子育てに関する講演会や相談会の講師も務めています。

保健所の乳幼児の子育て相談 1週間に3回、モモの部屋でグループ会や個人相談を受けたりしていて、月~土曜日までしています。
人を理解する意味では私にとって心の栄養の場なんです。
1973年からスタート。
民間の病院でぜんそく、アトピーなどの心理的なサポートとして入りました。
大学では心理学を専攻、当時は臨床心理は傍系で、実験心理学が中心でした。
ネズミなどを飼って、行動観察から人間のいろんなことを推測する。
私は臨床に興味がありました。
母親子供の話を聞いて、発作が起きない様にどうしたらいいかという様な事にシフトして、子供と親御さんの相談に乗るという風に仕事の働き方を変えました。
子供が具合が悪くなる時に学校が原因しているみたいだと、思えるようになった。
子供を取り巻く環境をしっかり探り当てることが大事だと心掛けるようになりました。

他のところからの要請も来るようになるが、収益をあげない部屋だったので、病院の経営が悪化すると心理室へのしわ寄せがありました。
病院側と話し合ったり、心理室を存続してほしいという嘆願書等を展開してもらい残ることが出来ました。
当時臨床心理士、当時は無かった。
カウンセリングの方法論、アメリカのロジャースの考え方が日本の業界には一般的に採用されて人気がありました。
相手の話を最後まで聞きましょうという様な方法論です。
相談に来る方は答えを持っていて、悩みを雪だるまの様になっている。
話すことで藪を破っていって自分で話しているうちに気が付き、それをお手伝いする、話の腰を折らない、しっかり聞く。
学校の時間割に合わせて具合が悪くなっている、症状が出る日が決まっている。
子供達は学校の事を聞いてくれたのは初めてだと言ってくれて、登校拒否は学校に対して身体が拒否反応を示している、学校アレルギーが多かった。
いろんな方法に気がついて組み立てていきました。
乳幼児の心理相談員を募集していたが、そこでも仕事が出来るようになり、1973年から今日に至るまでやっていて今年で43年になります。

2歳半で終戦を迎えて韓国から終戦の年の10月に引き揚げてきました。
父の郷里が長野県諏訪郡本郷村でしたので、家族6人の生活が始まりました。
父は国語の教員で、高校の教員になって赴任して、母と子供達の生活になりました。
食糧難で野菜は母が何とか作ったりしたが、米は無くて農協にいってふすま、精米したものを分けてもらったりしました。
小学生のころは着物は洋服で言葉も標準語だったので「東京っぺ」と言われていじめられて、学校に行くのが嫌でたまらなくて頭が痛い、お腹が痛いと言っていました。
自分で身体の弱い子だとおもっていたが、登校拒否だったのかもしれないと、病院で仕事をするようになって後から思いました。
20歳までは生きないだろうと母は思っていたようです。
栄養補給のために卵、かいこのさなぎ、イナゴを食べさせられました、今では大嫌いです。
当時1年のうちの1/3以上は学校を休んでいた様に思います。

兄もいじめに遭い、帰り道雪の中に埋められたりしました。
母がPTA総会の時に指導してほしいと校長先生に直訴するが、古くからある集団に新しいものが入ってくると鶏は突っつき散らすものだと言ったので、母が怒って私は子供を小学校に入れたつもりだけれども、ここは鶏小屋かと怒りました。
母が守ってくれるという安心感の中で育ちました。
1998年「モモの部屋」を立ち上げる。
病院の退職が2000年なので辞める準備をしなくてはという時期に、相談に行ける場所を続けてほしいと言われて「モモの部屋」を作ることにしました。
人の話を聞く事を上手に聞ける様な場を作りたいと子ども相談室「モモの部屋」を作りました。
「人は光を見るために目があり、音を聞くために耳があると同じように、人は時間を感じ取る為に心というものがある」(ミヒャエル・エンデ ドイツの児童文学者 「モモ」という作品の中の一節)

ひと月に1回各テーマ、父親と共に登校拒否を語る会、引きこもりを理解する会、食の悩みを理解する会など家族が家庭で理解すると子供の苦しみ、葛藤も半減するので9つのテーマでやっている。
民間病院に務めていたころもグループ相談会をやっていましたが、それをもうちょっと体制を整えてやるようにしました。
ある人から電話が来て、脳梗塞で倒れてリハリビの最中で、自分が喋っていることをその瞬間で忘れてしまうので自分が喋っている事が筋道が立っているのか、認知症みたいに判らなくなっているのか判別してほしいという事だった。
すじが通って大丈夫だというと、子供達がこんな風に言ったという事で、子供達が登校拒否をした時は身体を張って守ってくれた、これからは私たちが身をていしてお母さんを守るから安心してほしいと、言ってくれて、娘たちから言ってもらって今が一番幸せですと言ってくれて、一時期寝たきりだったが、娘たちのケアに依ってそれに答えるには自分もリハビリを一生懸命やろうという事で杖を付いて歩けるようになったとの事です。

家出した子が暫らく家に来ていた時があるが、算数、絵を描いたり楽しそうにやっていたが、計算をやって掛け算はこうやるのよ、といったらピタッと辞めてしまった。
正しい答えを求めるのではなくただ楽しんでやっていたことであり、指摘したが良かれと思う事でいいことはないと教えられました。
その子はしょっぱくてまずい味噌汁が食べたいという、即ち家に帰りたいというメッセージであり、家に電話をしてあげて家に帰って行った。
夫は内田雄造 都市計画、大学で教鞭取りながら各地の様々な街作りに参加、アドバイスをして来た。
二人で子育てをしてきました。
上の子が中学に行った時に管理教育に疑問を持って退学届を出して学校に行かなくなって、長期欠席という事で除籍になり中学卒業にはならなかった。
信頼のおける他の方に教えてもらうという事で兄弟2人ともホームエデュケーションになりました。
下は小学校の1年生の時に学校の先生は教科書を持って黒板に字を書くお巡りさん、だと言ってあれはいけませんこれはいけませんと私にはあわないといって学校には行かなくなってしまった。
子供達は今自分のやりたいことを身の丈に合わせてやっているのでそれぞれいい人生をやっていると思います。
私はいろんな子供達の第二のお母さん役をやってきたと思います、やりがいがあります。

子育ては我が家にやってきた子供と一緒に暮らす事、そのものが子育てで特別なことをやる必要がない。
子供はできないことが出来るようになり判らないことが判るようになるので、ちょっと気長に待っていれば子供は自分の力で育ってゆくので、子供の育つ力を信頼していただきたい。
子供は信頼していれば、ほんとうに健やかに育ちます。
困っている時に親が理解してあげる事が子供にとっては親の最大の愛情なんです。







2016年1月28日木曜日

篠原勝之(ゲージツ家・KUMA)   ・人生行きあたりばったり(2)

篠原勝之(ゲージツ家・KUMA)   ・人生行きあたりばったり(2)
山梨県北杜市にアトリエを構えて20年になる。 北杜市が3/4過ごします。  
4時過ぎには野鳥の声で目をさまします。
そして抹茶をたてます。 独茶(ひとりちゃ)、自分をもてなす。
竹細工もやるが、鉄の製作とは同じ思いです、手を動かすのが好きです。
色々作品を作るのに物々交換でやっていたりしてきました。(金とは縁のない経済活動)  
深沢さんが味噌を作って売っていて、飽きたので味噌のかまどを壊すために呼ばれていった。
それで良い仕事をするので深沢さんに気にいられた。

17歳で家出をして、東京に来る。(中学の時から家出を考えていた)
今の家出と違い、家出は決死の覚悟だった。
母親には相談し金を貯めた。
とにかく父親から逃げたかった。
家出したきり、父親とは36年間会っていなくて、植物人間になっていた。
改めて会った時に、写真を取ろうとしてフラッシュをたいたら瞬間ガバっと起きて怖くて逃げだしたが、後で元に戻ったが、後になってなんで暴力を振るったのか、聞きたかった。(会話はできなかったが)
父は戦争に行って悲惨な思いをして来たことで、心の一部が壊れたのかもしれない。
父は戦争の事等はなにも言わなかった、それはいかんと思ったが。
怖いからいつも逃げる事ばかり考えていた。

東京に行けば何とかなると思った。
生活は大変だったけれども、父から怒られないというだけで毎日が嬉しかった。
或るときこのまんま食わないで消えてゆくのも悪くはないと思ったが、これも苦しい。
そうこうするうちに、別な想像をするようになり、鉛筆で絵を描いたりしているうちに、絵本作家になりたいと思ったりしたが、絵が暗いといわれ、出版社から断られる。
絵本を自費出版して売るが、駄目だった。
年金生活者だが、もう一度生きる力を見せる、と言う思いがある。
20代後半から30代前半 喧嘩師と言われた時代があった。(気持ちがささくれている時)
かつあげにあってしまって、叩かれた揚句にお金を持って行かれてしまうので、ちょっと暴れてみようかと思ったら勝ってしまって、小突かれたら小突き返したりしていた。

自分が普通の社会に戻れない様にしてしまえと思って23歳の頃、頭を剃って退路を断って、それ以来こうなってしまっている。
アングラ(30代)を経てゲージツ家(40代)めざし、妻にさよならされて、身勝手、ひとでなしと周りからののしられた。
40代になって鉄の彫刻家と言われるようになった。
建物を壊すとスクラップがいっぱい出てきて、鉄を集めてそれで始めた。
TVに出る事によって企画も持ち込んだ。
金なんてといいながら、そういうところは計算高くて、それがまたバチが当たる。
借金しか残らなかったが、今は少しは残るようにした。
3m×2m位のおおきさの鉄とガラスをコラボレーションする様なものを昨年末に作った。
チャンスがあれば鉄は当分やりたいと思う。
アフリカに行った時に子供達と土を練って彫刻を作って、それが風化して土に戻ってゆくと思うが、200人位の子供らと作った。
サインしろと言ったら子供達は指を差し込みそれがサインだというが、その何百の穴が夕日で動いている様で良かった。
ひと夏の土の彫刻もいいのかなあと思う。
思い付きが生きている証拠だと思う。









2016年1月27日水曜日

篠原勝之(ゲージツ家・KUMA)   ・人生行きあたりばったり(1)

篠原勝之(ゲージツ家・KUMA)   ・人生行きあたりばったり(1)
連作短編集「骨風」で去年第43回和泉鏡花文学賞受賞した篠原さんの前半です。
1942年北海道札幌市生まれ、室蘭市で少年時代を過ごし、17歳で家を飛び出し上京、肉体労働、舞台美術などの仕事で20代、30代を過ごしました。
1980年代以降は鉄のゲージツ家を名乗り、国内外で鉄を素材にした巨大なモニュメントを製作するようになります。
トレードマークの坊主頭、着流し姿でTVのバラエティー番組に出演して、熊さんの愛称で広く知られるようになりました。
2009年に「走れUMI」で小学館児童出版文学賞を受賞するなど文筆家としても高い評価を受けている熊さん、執筆活動などを伺います。

和泉鏡花文学賞受賞は吃驚した。
和泉鏡さんの故郷が金沢なので、金沢まで行って貰うわけですが、困ったのは受賞スピーチを25分ぐらいしゃべらなくてはいけないので考えたりメモったりしたが纏まらずに本番になってしまった。
初心者の自転車乗りに例えて、手を離されたというな状況である、という様な事をしゃべりました。
父の事を書いたが、父の骨が風に飛んで行く様な、自然と骨風という言葉が出てきた。
実際にあったことをベースに書いているが内容的には1/3は作り話です。
父の骨をガンジス川に散骨したが、ぱっと消えてしまったが、フィクションにしてしまうといいなあと思って、モンゴルでの作り話の面白さを思った。
いろいろな死んでゆく話を書きたかった。
死ぬということはしんみりしてしまうが、時間がたつと少しづつ薄れてゆくが、人の死んだ話を読んでしんみりしてもらっては申し訳ない。
死ぬということは生きていると同じ位の重みがあり、軽さもある。
生きていることでも辛くて悲しいことは色々ある。

本にしようとは思わなかったが、描いて面白かった、書く事は考えることでもあるし。
死がテーマになっていて、家族の事も多く描かれている。(父、弟)
行旅者 行ったきり帰ってこない者の事を言う。
弟はやりたい放題で羨ましいと言えば羨ましいが、行旅者になり、最後は一人で亡くなっているところ、俺に連絡があった。
無縁墓に入ることもなく無事お弔いをして、お墓にもいれましょうという話。
身うちの話、俺との関係をどういう関係で終わって行ったのかを、俺が感じることを書いてみたいと思った。
父は警察官をやっていたが俺は知らない、いいお巡りさんだったのかもしれない。
父は戦争から帰ってから乱暴な人になった。
家庭における戦後史みたいなものもあったのかと感じたりしていた。
家族というものは厄介なものでもあるし、自分の影みたいな部分もある。

生きている間は怖いとか、あの野郎とか思っているが、死んじゃったら割とさらっとしている。
父にしても弟にしても死んじゃったら、生きている事を知らないわけだから、俺はもうちょっと書くということは感じられている、生きているという事を感じられているという事。
歳を取ってくるとふっとそういうことを感じる。
通過した時間、体験したことをテーマにして考えると、生きてくるとネタはいっぱいあると思う。
若いころはあんまりものを見ていないし、考えない。
この頃はちょっと考える。
書くということ自体、今まで手にしたことのないおもちゃだと思っている。
これで飯を食っていくとなると大変だが。
若いころ、深沢七郎さんに「文学は人を殺すぞ、文学は変に近寄ると死ぬぞ。」といわたことがあるが、何のことを言っているのか判らなかったが、この年になってみると面白いじゃないかと思っているが、おいしいものに近寄るなと言っていたのかもしれない。
まだない世界を言葉で構築する、そこが面白いと思う。

鉄のオブジェと本を書く事は 言葉は嘘も言えれば騙したりできるので形のない分、面白いと思う。
オブジェは頭の中にあるものを再現する、それをみんなに見えるようにする。
言葉は頭の中にはなくて体験だけがあり、言葉を使って別の世界を作れればいいなと思う。
70歳中盤にきているので、書きたいときに書けばいいという様なわがままな状態になっている。
書きたいことはいっぱいあるが、全部かける訳ではないので、やれることをやればいい。
終りが来ることはざっくりは判るが、今日やることはいくつあるかなどを数えるぐらいかな、それもまんざら悪くない、しかしそんなにやることはない。
昔は エッセーを書くために人と付き合ったり、飲んでみたりとかあったが、こういう生活は駄目だと思ったが、今は「骨風」ともうちょっと同じようなテーマがあるなと思うので、集中してみようかなあと思っている。
鉄(鉄の性格)は自分の体が向いていると思う。

初版は3000部、絶版への道かと思っていた。
糸井重里さんがお勧めの本ですよという事(糸井秘本)で売られる事を聞かされた。
書くということはこういうことだなという事を自分で実感した。
言葉で面白い世界を作れればいいなあと思っています。





2016年1月26日火曜日

丹野智文(若年性認知症患者)   ・41歳、認知症。でも、働いています。

丹野智文(若年性認知症患者)   ・41歳、認知症。でも、働いています。
若年性認知症は64歳以下で認知症になった人で全国に約37000人いると言われています。
自動車販売店の営業の最前線にいた丹野さんが認知症と言われたのが、3年前です。
30歳台の働き盛りの時でした。
厚生労働省の調査に依りますと若年性認知症と言われると約8割が辞職したり、解雇されたりして職を失っています。
丹野さんも職、家族はどうなるのかと不安を抱いたと言いますが、周囲の理解、協力があって今もも同じ会社で働き続けています。
職場の飲み会、ゴルフに出かけたり、認知症になる前と同じように充実した生活を送っています。
例え記憶力が衰えても楽しく生きられるという丹野さんに伺いました。

アルツハイマー型認知症、脳が縮んできて、海馬が少しづつ縮んできて記憶力が無くなってきていると診断されました。
忘れるときもあるし、状況に依っても変わってきます。
回数を重ねると顔を思いだしたり、思い出さない人もあったり、色々あります。
35歳の時から(6~7年前)仕事をしていて、少しずつもの忘れが多いと感じていたが病気だとは思っていなかった。
段々お客さんの顔が判らなくなってきて、おかしいなあと思いはじめた。
一緒に働いているスタッフの顔も判らなくなって、病院に行ったのが38歳の時でした。
病気だとは思っていなかったので、ばれない様に相談は誰にもしてこなかった。
悟られない様に嘘をついたり、言い訳するしかなかった。
年末休みの日に近くの脳神経外科に行って、色々検査を受けて、大きい病院に行くように言われました。
年明けに直ぐ行って、2週間検査入院しました。
若年性アルツハイマーだと思うが、こんな若さでは例がないので、大学病院の先生に会う様に言われる。(自分としては違うだろうとの思いはあった)

認知症=終わり だと思った。
お客さんを全部バトンタッチをするように上司から言われ、そこからがつらかった。
家族のことが心配になる。
大学病院でも2週間検査入院するが、若年性認知症だと言われたので、愕然としたが話は淡々と聞きました。
直ぐ入院で病室でずーっと泣いていました。
認知症の知識がなかったので、あばれた時、徘徊した時などに周りがどう接するのか見えなかった。
退院して支援がないか、区役所にったが、39歳だったので何もありませんと言われたが、認知症と家族の会に行って、若年の集いがあるというので繋がりを持つ事が出来ました。
60歳以下がまわりにはいなかった。
自分の病気をしゃべった時に共感してくれる人が多かった。

50歳後半の認知症の人で元気な人に出会って、この人の様になりたいと思った。
認知症のイメージが違っていたことに気付いた。
その人の言葉が素直に入ってきました。
家族の会でも一番若いし、会場作りを手伝うとか、何でもやってもいいんだと思う様になりました。
中学、高校時代の部活の飲み会で、認知症の事を話しました。
酒を飲んでいる時に、「次にみんなの顔を忘れたらごめんね」と言ったら、先輩が「だいじょうぶ、お前が忘れてもおれたちが覚えているから定期的に会おう」と、言ってくれ、その言葉を聞いて行って良かったと思った。
友達との接点が全部消えてゆくのではないかと思っていたが、言ったことによって周りが支えてくれることに対して嬉しかった。
隠して辛い思いをするんだったら病気をオープンにして助けてと言った方がみんな助けてくれると感じました。

退院後社長のところに行って話したら、戻って来いと言われて、会社に戻れたことが嬉しかった。
今は営業から事務の仕事をしています。
給料計算、人の管理とかの部分での仕事をしています。
困るのは記憶力だけなので、ノートに書けばいいと思ってかきながら仕事をしました。
どんな内容のファイルがどこにあるかとか、パソコンの仕事の順番とか、プリントアウトの順番とか事細かく記入してあります。
周りの人に認知症を理解してもらい、自由に教えてという環境ができ上っているので不便なく仕事ができています。
出来ないことだけサポートして、できることは一緒に楽しくやればいいと感じています。
自信を取り戻すためにも、仕事、社会に繋がることが当事者にとっての自信を取り戻す一番の材料だと思います。
仕事をしている事が自分が生活する中で一番大切だと思っています。
家族を安心させるためにはやはり仕事をすることは重要だと思います。

認知症で8割ぐらいが仕事を辞めざるを得ない状況にあります。
自分の中で認知症だから周りに迷惑をかけるというふうに思わないでほしい。
認知症になる前から適当な仕事をしていると、戻ってこいとも言われないので、しっかり仕事をしていると周りも何とか助けないと行けないと思うし、今が大切なんだと思います。
人にやさしくなったのではないかと思います。
人から優しさを与えてもらってることで人にも優しくしてあげたいと思って、病気になる前よりもつよく感じるようになりました。
徘徊する人に対して、この人も病気で、大丈夫かなあ、声をかけようかという様になりました。
今は仕事以外の事、一日一日を楽しく生きるためにはどうしたらいいか考えると、本当に楽しいです、楽しいことが増えてきています。
















2016年1月24日日曜日

2016年1月23日土曜日

石倉三郎(俳優 )        ・俳優を目指した原点

石倉三郎(俳優 )           ・俳優を目指した原点
69歳、名脇役としてTVや映画に欠かせない存在となっています。
俳優の原点は中学1年まで暮らした小豆島です。
戦後の混乱期で貧しい生活をを強いられた中、石倉さんにとって唯一の心の支えが映画でした。
母や兄が地元の映画館で働いていたことがあり、何度も映画館に通って次第に映画の世界にあこがれを抱く様になって行きました。
役者を目指す原点となった小豆島時代の思い出や、芸名に一字を貰った高倉健さんとの出会いなど、役者人生の原点や転機などを伺いました。

昭和21年生まれ 父は大阪で仕出し屋を営んでいましたが、戦争で焼失、大叔母を頼って小豆島に移住、移住後に生まれる、4人兄弟の末っ子、中学2年で大阪に戻る、兵庫県で働く、20歳の時に俳優を目指して上京、高倉健さんに出会い東映に入り俳優デビュー、34歳の時コントレオナルドを結成、コメディアンとして全国的な人気を博し、解散後、俳優としてTV、映画にて活躍。
夏は港が泳ぎ場所、冬は山へ登ってチャンバラ等をやって、いつも親分でした。
母がチケット売り場で務めていたので、毎晩の様に映画を見ていました。
東映の時代劇、ありとあらゆるものを見ました。
自分の顔を見て三木のり平タイプだなと思いました。
謝恩会をやった時に受けて、先生から面白いと言われたのが、きっかけになったのかなと思いました。
中学2年で大阪に戻って、あたらしくできた学校で1期生だった。
勉強も嫌いだったので、兄の務めている尼崎の部品工場で働く様になる。
仕事が面白くなくて、或るときに専務から名古屋に営業として行かないかと言われて、ふっと役者になりたいと思った。
植木等にあこがれていたが、弟子の小松政夫の活躍を目のあたりにして、諦める。

劇団で勉強してと思って、劇団の試験に受かるが、研究生なので月謝を払わなくてはいけなくて、諦めざるを得ず、挫折する。
アルバイトを取り合えずやってゆく事にする。
青山のスーパーマーケットに行ったら芸能人の手形があり、入ると石原裕次郎さんがいたので吃驚した。(その店で7年間働くことになる)
店の近くの喫茶店で高倉健さんと出会うことになる。
或るときに高倉健さんから声を掛けられて、喫茶店のママが俳優になりたいと思っていると紹介してくれて、ギャラももらえるし東映に来ないかと言われる。
本名は石原三郎で、同じ名前の人がいて紛らわしいと周りから言われ、倉の字を貰う事になる。
競馬場のお客の役が最初だったが、その後ありとあらゆる職業の役をやってきた。
東映入社後半年で新網走番外地で高倉健さんと共演する事になる。
高倉健さんは自分の部屋に浴室があるのに我々と同じ大浴場に来て、腕立て伏せなどをやらされたりもした。

4年目に演技科の人とけんかをして辞めざるを得ない状況になる。
高倉健さんに話をしたら、脛まで泥水につかるという言葉があるが、首まで浸かる自信はあるかと言われ、自信はありますと言ったら、それならば頑張れという事で辞めました。
健さんとの約束がなかったら、この世界はとっくに辞めてますね。
その後、司会、舞台中心になる。
コントレオナルドを結成する事になる。
相手が病院で酸素吸入器を付けていたりして、持病などと言っていたが、何とか組んでストリップ劇場を半年間 10日単位で廻った。
その間に7本ネタが出来て、演芸場に出した時に大受けして、笑点にレギュラーにとの話もあったが、矢先に熊さんが倒れて、半年間一人で食いつないでいたが、4回倒れてもう駄目だと思って解散した。

バイト先の先輩が水耕栽培をやると言うので、芸能界での足を洗おうと思って、土木作業をやって3カ月やっていたが、漫才ブームが来て、熊さんと出てくれと言われて、1回付き合うと言ってやることになる。
芸能界に戻るかどうか悩んでいたが、水耕栽培の会社も空中分解して、芸能界に戻ってきた。
コンビ解散後、俳優として活躍する事になる。
平成 4年NHK朝ドラ 「ひらり」 の深川銀次役が市川昆監督の眼にとまって、平成6年「四十七人の刺客」に出演、その時の大石内蔵助の役が高倉健さんでした。
「サブちゃん やっと潮が満ちてきたな おまえ」と言われて嬉しかった。
脇で私のマネージャーが泣いていました、こっちが泣きたかったが。
「あなたへ」でも高倉健さんと共演する事になる。
健さんとの出会いがなかったら、ここにはいませんもの。
「つむぐもの」で初めての主役をすることになる。(介護がテーマの映画)

「見てござる」  人は見ていなくても天は見てござる。
「棚からぼた餅」 どんなぼた餅か、どこに落ちるか、そこにいなくてはいけない。
「濡れ手に泡」  手を濡らさないと泡は付かない、真冬に泡を掴むのにお湯でやっていると泡は直ぐに腐る、氷水に手を付けて泡を取らないと泡は腐る。
やろうとしたらしっかり準備し、やらないと駄目。
「人生は瞬き」 人生の早さはあっという間、目があいているうちになにかしないといけない。





2016年1月22日金曜日

2016年1月21日木曜日

砂川啓介(俳優)         ・妻が認知症になったら

砂川啓介(俳優)            ・妻が認知症になったら
昭和12年生まれ 78歳、妻はドラえもんの声で親しまれた大山のぶ代さん。 
舞台の共演で出合い、昭和39年に結婚、二人で料理本を出すなどおしどり夫婦として人気を集めました。
大山さんは2008年に脳梗塞をわずらい、緊急入院一命は取り留めましたが、会話や記憶に障害が残りました。
一時は回復の兆しがありましたが、2012年にアルツハイマー型認知症を発症しました。
佐川さんは外出を控えて介護中心の生活になりました。
妻のイメージを壊したくないと病名を公に出来ずにいました。
佐川さんは胃がんになり帯状疱疹、肺気腫をわずらい心身共に追い詰められたと言います。
2015年このままではいけないと、親友の毒蝮三太夫さんの勧めで民放のラジオ番組に出演し、大山さんの認知症を公表しました。
妻の認知症に向き合い、どう支えているか、妻への想いなどを伺いました。

妻が脳梗塞で倒れてから、僕は一切新しい仕事をしていなかった。
去年の5月ぐらいから、ラジオ、TV、講演などが多くなって、かみさんをどうするかが大変です。
昨年10月「娘になった妻 のぶ代へ」という本を出しました。
反響が凄かったです、手紙など色々貰いました。
最近は落ちついてはいますが、烈しく怒ったり、そとへ出て行ったりといった事は一切ないです、よく眠っています。
2008年に脳梗塞で倒れてから、後遺症が良くなるまでに2,3年掛かって、よくなってきたなあと思うころから認知症になってきたようです。
後遺症が戻ってきたのかなと思ったが、認知症だったようです。
病院に行って検査をしてもらったら、アルツハイマー型認知症でした。
聞いた時には悔しさ、苛立たしさなどもあり、ショックだった。

まず記憶などが一切なくなり、よくなってきたなあと思っていると、1,2分前に言ったことが全然覚えていないという事が始まった。
自分の言っている事が僕に伝わらないので、自分が苛立たしくなり力を入れたり、怒ってみたりした。
180度変わってしまったという感じだった。
公表する気はなかったが、しんどかった。
経済的なことから全て妻がやっていたが、倒れてから以降全て自分でやらなくてはいけなくなって、私も帯状疱疹、肺気腫をわずらい、胃がんにもなって、入院して手術して、病院に妻が見舞いに来たが、大丈夫?とか元気か?とかのセリフは全然なかった。
50年以上の付き合いの毒蝮三太夫さんが介護に関することなどの知識があった。

彼と会って話をしたら、一人で抱えていたらお前が先に逝っちゃうぞと言われ、ラジオで公表した方がいいよと言われたが、まだ迷いがあったが、彼が番組を決めてしまって、出演する事になるが、マイクの前に座るまでどこまでしゃべったらいいか迷っていました。
大沢悠里の引き出し方がうまくて、知らないうちに全部しゃべっていました。
電話、メール、ファックス等が入ってきてよくしゃべってくれたとか、頑張ってほしいという内容が入ってきた。(2015年5月13日の民放の生放送。)
のぶ代のイメージを壊したくないという思いはありました。
しゃべってしまってからはストレスからは解放された様な感覚はありました。
怒ったり怒鳴ったりしていましたが、それからは優しくなった様に思います。
照れくさかったが、褒めてやったり、触れることを段々出来るようになりそうしてやると穏やかになってきた。

深川生まれで、79歳にもうすぐなります。
小さい頃は運動神経抜群で、野球少年で将来野球選手になりたかった。
中学に入ってから野球部に入って、私立で中高一緒だったので高校3年生と一緒にやっていました。
中学3年の時にツベルクリン反応で陽性になり、過激な運動はしない様にという事で野球部を辞めました。
中学1年から高校3年までが演劇コンクールがあり、演劇部以外でドラマをやることになり、主人公をやれと先生がいうので、夢中でやったら最優秀演技賞を貰う事になった。
直ぐに演劇部からスカウトが来て、演劇部に入って、そとから映画の話とかが舞い込んできた。
スカウトされ独立プロの映画で、縮図、村八分、太陽のない町、足摺岬とかに出ましたが、暗い映画をつくった会社だった。
最近まで上がり症だった。
オーディションは受けた事はない、出たら上がって自分の実力の半分も出ないと思う。
大学に行くつもりでいたが、この世界に入るようになってしまった。

最初から主役をやって自分の器用さに問題があると思う様になる。
ダブルキャストで同じ芝居を別の人とやると、最初から演出家、お客さんが喜ぶ芝居を僕はするが、片方はセリフもなかなか入らず怒られ怒られやるが、ひと月たつと後半になるとむこうのほうがよくなり、僕は変わらない。
彼の芝居の方が頭に残っているという事を聞いた。
そこを辞めることにした。(18,9歳の頃)
しっかりしたものを掴まないといけないと思って、江口舞踊研究所に一人で乗り込んで弟子にしてもらおうと思って乗り込んだ。
早く身についてしまって、2年経たないうちに先生の代稽古をやるようになってしまった。
NHKのヨネヤマママコさんが「不思議なパック」というTV番組があり、そこに行くようになり、江口さんが振付をしているという事ですが僕がやっていました。
プロデューサーの方が体操をやりませんか、という事でNHKの「歌の絵本」の初代お兄さんとして出演する事になる。(1961年 今の「お母さんと一緒」)

子供にさせる体操だった、振りもモダンダンスの人と早川先生(児童心理)と一緒に考えました。
子供も一緒に出ることも出来るのですか、との問い合わせがありそれがきっかけで子供が一緒に出るようになった。
1963年に孫悟空のミュージカルをやることになり、僕が主人公で厚生年金ホールでひと月やることになり、猪八戒に岸井明さん、三蔵法師に九里千春さん、孫悟空(砂川啓介)が山の中で暴れているお猿さんの時に恋人猿が出てくるが、それが大山のぶ代だった。
以前から知ってはいたが、嫌いではなかったが、何か起きるのが嫌だなと、感じるものがあった。
恋人猿をやったのがきっかけでした。(半年ちょっとで結婚する。)
27歳で結婚、その子がお腹で7カ月の時に死産、7年後に女の子が出来て、7か月たった時に普通に分娩して未熟児で3カ月生きて、呼び出しがあり残念でしたと言われた。
心臓と肺の両方が未熟だったようですが、今だったら医学が進歩しており大丈夫だったと思う。
亡くなってはいたが、一応抱っこする事は出来ました。
今度妊娠したら母体が危険という事で、子供はあきらめました。

妻が1979年にドラえもんの声をするようになる。
しばらくしてから仕事をしてもいい?といわれて、どんどんやったらいいんじゃないのと言って、色々やりました。
その後ドラえもんをやるようになりました。
1980年 私は「お昼のワイドショー」 大変でしたが、器用なんでしょうか、やっちゃって上がらなくもなりました(43歳の頃)
のぶ代が2001年直腸癌になり、ドラえもんを辞めたいという話になった。
ドラえもんが有名になってしまって、二人で建てたうちなのに、ドラえもん御殿だと周りから言われたり、僕はドラえもんは好きではなかった、挨拶のあの声でやっていて、その内にドラえもんグッツで一杯になり、段々好きにはなりました。
周りから止められて辞めないでいたが、2004年に交代する事になる。
ライフワークという感覚でやっていました。
いまこういう状態でいるから先は考えても実現できるかどうか分からない年齢ですが、本を出した事でいろいろオファーがあり、認知症に効く体操をやってみませんかとか、ライブもやって来たので、認知症の介護をする人たちの役に立つようなことが出来たら、恩返しになるのではないかと思っています。
旅行も温泉に行ったりしていましたが、連れて行ってやりたいと思いますが、今年は厳しいと思います。
明るく常に笑顔で、というのが僕の今のテーマです。









2016年1月20日水曜日

中本忠子(元 保護司)      ・ばっちゃんと食べて話そう

中本忠子(元 保護司)        ・ばっちゃんと食べて話そう
81歳 広島市で保護司として活動していた中本さんは保護観察中の少年と向きあっていた時に空腹が非行に走らせることに気付きました。
少年に食事をさせ弁当を持ち帰らせるうちに中本さんの家には行き場のない少年が集まる様になりました。
少年たちは中本さんを「ばっちゃん」と言う様になり、手料理を食べさせながら少年たちと話を続けました。
中本さんと一緒に食事をしながら気持ちを通わせ学校に戻ったり、仕事に付いて成長した少年たちは 100人に昇ると言う事です。
どの様な気持ちで少年たちと向き合ったのか、少年たちはどう変化していったのか、中本さんが得たものはなんだったのかを伺いました。

今も食事を作って少年たちと話をしています。
土、日、祭日は給食がないので、昼前から来ます。
平日は夜だけ学校の帰りに来ます、夏休み、冬休み、は昼と夜と、あくる朝弁当を持って帰る子もいますが大勢ではありません。
手伝いをしてくれる人がいるので一人では無理です。
私の子供は3人いますが、もう孫も6人います。
昭和55年に保護司になりました。
中学校の役員をしていて、中学校、警察関係からも押されて、やってみようかと思いましたが、別世界の様で戸惑いもありました。
少年院に入る前の子供達、仮退院の子供、大人は保護観察付きの執行猶予の人を担当、仮出獄は満期までを保護司が担当します。

子供達の環境、貧困から来た非行が多かったと思いますが、これらの子は立ち直りは早い。
溺愛とか放任で育てられた子は非常に難しい。
親が食事を作らない家庭の子は更生する確率が少なかったと思います。
食べるのが一番、腹いっぱい食べることをモットーにやってきたら、万引きは無くなりました。
シンナー少年を受け持った時は空腹であるためそれを紛らわすために、シンナーを吸うという事が判った段階で、ご飯を食べてもらう様にしたらシンナーは止めました。(段階的に)
具体的には家に来てもらって有るもので食べてもらって、弁当を持って帰らせるようにしました。
お婆さんとの生活だったのでお婆さんもその弁当を頂いた様で感謝の電話が来ました。
他の子にも自分の体験を話した結果、その様な子供のたまり場になったわけです。
集まる数が増えて、最終的には私の居場所がない様な状態になり、私はいらいらしたりして、子供に当たる様な時もあり、もう帰れという様な声を掛け、友達の家が溜まり場となり、食べものを作ってそこに私が通う様になりました。

私の家は狭いのですが、一番多く来たのは12人のときです。
大変なことがたびたびありました。
丼物、カレー、はやしライス等を作りました。
親が食べさせてこなかったために、好ききらいが多い子も結構います。
ご飯は9合炊きの釜で3回炊きますが、足りないときにはソーメン、うどんを作ったりします。
カレーは足りないときには、水をどんどん増したりしますが、それでも子供達はそれを食べます。
満腹になると子供達は気持ちが落ちつきます、いらいらしない、切れない。
切れた子は空腹ですし、お腹がすいていると犯罪に結びつく事は長年の経験で判ります。
初めの7から8年は自前だったので経済的に大変でしたが、広島市にお願いをし3年は駄目だったが、共同募金を自分たちで集めてバックマージンとして貰う方法で運営をしています。
周りから食材を送って貰ったりして、助かりました。

家にそういった子が来るので地域からクレームが来ることが心配だったので、先に地域の事に精を出して力を入れるが良いと思って、みんなが嫌う清掃、地域の役員を請け負った。
段々支援の輪が広がってきた。
或る子が私に数珠みたいなものを買ってくれたが、指輪も買ってくれる様なことを言ったが食事を作るのには不具合があるので断った、口紅はどうかと言ってきたりした、自分の親が綺麗に着飾っていると、1週間ぐらい帰らない、私が同じようにしていると帰らないのではないかと、親と私とをだぶって考えたようだ。
後にこの子が「春を売るという事はどういう事」と聞いてきた。
言い様がないので「つくしが春になると出てくるので、あれを佃煮にして売るのかな」と言ってごまかしたが、誰が言ったのかなあと思ったが、「お前の母さん 春を売る」と言われた、との事だった。
しかし、意味はわからなかったようだ。
月日がたってその子も成長して、自分のお母さんの仕事の内容が判ったようだった。
親の職業も判ってきて哀れさを感じるが、初めは暗い子だったが、今はとっても明るい子に成っている。
親子が仲良く人に迷惑をかけなければいいという様に、今は思っています。

親が刑務所に入ると、刑務所に面会は行かなければいけないし、差し入れなどもある。
面会に行きたい人がいるが、行きたい人は面会の許可が下りない。(そういうたぐいの人なので)
中で孤独になり、孤独になると人を怨む気持ちが強くなり、凄くひがみ根性が出る。
それをしないがためには、逮捕されたら面会に行くようにしている。
貧困が大きな課題にはなるが、孤独感を感じ取る人はなかなか立ち直りが難しい。
差別なく受け入れてあげられるような地域社会にしたいというのが私の狙いですが、人の心はなかなか変えることは難しいところはある。
子供と親を離すことは出来ないから、狙いはどうしても親と子をひっ付けたいと思っている。
中には親から早く逃げた方がいいという様なこともある、親が子供を食い物にする場合などがある。(行政に言ってでもお願いして離す方法も取っています。)
年もとってきたので個人ではできなくなってきたので、NPO法人になる。
いままでは親子に気を使えばいいという事だったが、皆さんに気を使わなくてはいけなくなり、非常にてんてこ舞いをしています。
先に進みづらい、組織で動かないといけない、みんなの足並みで動く。
子供達は「まった」がきかない、そういった組織になると決まるまで時間がかかる。

保護司として35年間やってきたが、全く知らない世界を見せてもらっている、それを体験させてもらったということはありがたいです。
わたし自身が成長し、いろんなことを知って、勉強させてもらったと思います。
或る子が少年院に入って、介護の勉強を受けて、「ばっちゃんを見てあげるからね」と言う事を聞いて、嬉しく思った。
出てきて介護の仕事をしている、介護は給料は安いが、電話で「ばっちゃん 足大丈夫」とかいろいろ気を使って心配してくれる。
子供達はみんな恩を感じてくれていると思う。
どの子でも見棄ててはいけない。
ずーっと子供達との付き合いが続いています、良かったと思う。
「ばっちゃん おれ税金を払えるようになったよ」、と言って 「ばっちゃんの年金おれのではらってあげる」という様な事を言ってくれます。
①嘘をつかない
②挨拶をする
③時間を守る 
ここに来るのに、これさえ守ってくれたら、少々のやんちゃは目をつぶってあげると言っている。
















2016年1月19日火曜日

2016年1月18日月曜日

佐藤憲雄(曹洞宗 永林寺住職)  ・動かざれば 道は拓けず

佐藤憲雄(曹洞宗 永林寺住職)  ・動かざれば 道は拓けず
宗派の別名は、みなの宗、にこにこ宗という二つの双本山、全て佐藤住職の洒落とユーモアから産まれた呼び名です。
永林寺の本堂の欄間、風通しや明るさを取りこむための天井と鴨居の間にはめ込んだ板には目にも鮮やかな彫り物があります。
龍やクジャク、楽器を奏でるふくよかな天女が彫られています。
江戸時代後期の名をはせた石川雲蝶の作品です。
その本堂を見ながら住職の楽しい話を聞きますと、にこにこ宗の名の通り、笑顔になり幸せがあふれる「幸齢者」になるという不思議なお寺です。

「楽をするより楽しく生きろ」 
丸、三角、四角
丸→まだまだ角がある、角があっては傷が付くからもうちょっと丸く成れと右の余白に書いてあったが、左に丸いばかりが能じゃないと書かれてあった。
三角→人生なんて字を書く、恥をかく、汗をかく、この三つを持って生きなさい。
気にいった言葉を石碑にする。
日本四大イシ会 副会長が私と、宝井馬琴
意志、慰師会の会があり、私が慰し会の会長をやっています。  
不便なところですが、年にお客さんは3万人位来ます。

「しく日」 4と9のつく日に頭を剃っています。
いつもなら2m位積雪があるのですが、今年は本当に少ないです。
生まれる という字は土に人が傾いている少し関わっている仕事をするから生まれるという字が出来たといわれる。
寺という字も土がある。
昔は人が亡くなると山や野原に捨ててきた。
下に草を敷き、屍を載せて、上に草をかけたというので、葬式の葬は草かんむりの間に死がある。
獣が来て死体に群がるので、弓の中に矢を入れて、入れっぱなしにして追っ払った。
それが弔うという字になる。
浅草でやっているゆうゆう会(遊びの会) 明日 美しい(あすうつくしい)があそびになって、(語源)
教養が脱して趣味になって、趣味が脱したのが遊びになるから遊びが一番高尚。
自分が楽しければいい。
ゆうゆう会に作品を送っていますが、忘れました。
忘れるの文字は心を亡くす、忙しいもりっしんべんに心を亡くす。
仏教で言う馬鹿は熱中するという事、同じ馬鹿でも頭の悪い馬鹿とは違う。

78歳、住職歴は50年になります。
永林寺は530年以上経っています。
宗教は家庭のしつけ、宗教の宗 うかんむりに示すと書く、家の中で示す教え。
人に名前を呼ばれたらハイと言う返事をすなおな心でする、ハイという字を漢字で書くと、拝という字になる。
「ねんねんころりよ・・・」のねんは念仏の念ですから。
昔の歌 「お寺の和尚さんが、かぼちゃの種をまきました。 芽が出て膨らんで、花が咲いて、じゃんけんぽん」
良い種をまけば良い花が咲いて、よい実がなります、人の物を泥棒したり、悪い事をすることを仏教では邪見と言うが、そういう心が起きて来たら邪見をぽいと捨てなさいと言う事から、じゃんけんぽんとなった。

みなの宗、にこにこ宗(2×5×2×5=100)→百薬の長になる。
彫りものがいっぱいあり、美術館の中に住んでいる様なものです。
石川雲蝶作  昔の博打は丁半博打で、丁にばっかり賭けたから雲を丁に任せたという事で雲蝶にしたといわれるが。
200年前に越後の三条で大地震があり、この辺も被害に遭い、本堂を造り変えるのに申請書を出したが、石川ちかのぶ(安兵衛 宮大工)を派遣、作ったのが波に菊の花、波は水、この部屋では仏さまの話をもう一度見ずに聞くという事を表している。
赤ちゃんが胎内に生命を宿った時の子供を、親はまだ子供を見ていないので見ず子といったがこれが「水子」になる。
死んでから第3の人生、亡くなった日から数えると1周忌、翌年は3回忌、これはお母さんから授かった生命から数えだすから3になる。
菊の花を一杯飾るのはこの寺がもとです。(波に菊の模様)

雲蝶という名前を付けたのが当時の住職だったそうです。
住職は今25代目。
10年前(平成16年10月26日)中越大地震がある、この寺も被害を受けました。
池田材木の娘さんが永平寺の副貫首のお嫁さんなり、雲蝶展をやった時に訪ねてきて酷くなった土台を見てうちのひのきでやりましょうと言う事になりました。
地震で香炉が3m位吹っ飛んでいました。
地震の時は大分修理費が掛かりました。(億単位?)
人間のありがたみは、お付き合い、人と人とのつながり。
世界古武道連盟の居合い斬り道(真剣を使う)をやっているが、色々な人が来て協力してもらって、そういう家のなかに家訓があるが、「大才のある人は人を大事にし、人を活かす、中才は縁があっても縁を活かさず、小才は縁があっても縁を気付かず」という事で縁の合った人を大事にしようとしています。
人間の価値は一生懸命やる過程を楽しまなければいけない。
地震があったから新しい会えない人に会えたんだと、思う。

焦らず、腐らず、負けずに生きればいいんじゃないでしょうか。
頭文字を取ると、あくま(悪魔)となるが、悪魔退治は飽くまで
43歳のころに脳卒中を患う、悪魔退治は飽くまでという思いでやってきました。
病気して言語障害を直すために当時、だれもお金出してまで電話で説教は聞かなかったが、テレホン法話を日本で一番最初に始めたので、それを聞いた人が話し方の練習の為に、あちこち呼んでくださって、テレホン法話を聞いてある出版社の教育顧問になり、そのひとたちが始めたのが居合い斬りなんです。
プラス思考はいいことなんですね。
人の為にというのは一番嫌いな言葉で、偽となり、人の為に良い事をしたというのは偽善者と言います、自分の為に面白くなかったら人に強いてはならない。
「過去と他人は変えられないが、自分と未来は変えられる」
自分が面白ければ他人も面白いだろう、という思いの発想ですね。

自分で好きにならなかったら、いい作品はできない。
蛙と牛の彫りもの  お客さんが牛を撫でて、蛙を撫でると猛烈に儲かって帰る、蛙を撫でたあと牛を撫でると、お客さんが帰った後でお寺が儲かる、賽銭を入れず撫でると猛烈に早くひっくりかえる。
お金がなかったころは、細かいお金の代わりに貝殻の種類によってやり取りした、賽銭という。
お金に関する文字は貝が付く。
人間には煩悩は108つある、人間の悩み 四苦八苦 4×9 8×9で108になる。
50円玉の周りにはぎざぎざがあり120個ある、100円玉の周りには130個位あります。
永林寺に来た時には100円玉以上入れなさいと言っているが、みんな笑っています。
本はもらったものは読まないが、買ったものは読む。
昔は永林寺の鳶職と言われた。(飛び歩いた)
人が動くで働く 、儲けは金だけではなく、人の財産でもある、お金の財産は減るが、人間の財産は減らない。
私の和尚は 「和笑」と言っています。





2016年1月16日土曜日

臼井 真(音楽専科教諭)     ・「しあわせ運べるように」はこうして生まれた

臼井 真(神戸市立西灘小学校 音楽専科教諭)・「しあわせ運べるように」はこうして生まれた
21年前(平成 7年)1月17日阪神淡路大震災が発生 6400人越える人達が犠牲になり、建物の倒壊によって多くの人達が学校の教室や体育館等で長期間の避難生活を余儀なくされました。
愛する人たちを亡くした絶望と先の見えない避難生活、そんな中或る小学校のスピーカーから流れたこの歌が市内だけでなく広く被災地に広がり多くの人たちを勇気付けました。
その後新潟中越地震、東日本大震災の被災地でも歌われ、今では各国語に訳され世界の被災地で歌われています。
この歌を作ったのが臼井さん(55歳)現在神戸市立西灘小学校の音楽専科の教諭です。
この歌が産まれるまで、どのようなドラマがあったのか伺いました。

本当にあっという間だったと思いますが、去年成人式に参加して、時の流れを感じました。
当日は4時半ぐらいに起きて、朝食後2階に上がった直後に地震に遭いました。
1階は完全に潰されてしまいました。
叔母も1階にいたのですが、奇跡的に助かりました、わたしも1階にいたらと思うとぞっとしました。
情報が入ってこなくて、状況が掴めませんでした。
校長先生から電話があり、学校は2000人位が避難している事を知りました。
音楽なんて役に立たないと思う様な状況でした。
1月の末ぐらいに交代勤務で9時頃帰れた時に、ニュースで三ノ宮が映ってそれは自分の慣れ親しんでいた街ではないことがショックで、突然込みあげた思いを走り書きをして、その後作曲をしました。(10分ぐらいだったと思います)

「しあわせ運べるように」
「地震にも負けない強い心を持って 亡くなった方々の分も毎日を大切に生きてゆこう。
傷ついた神戸を元の姿にもどそう。 支え合う心と明日への希望を胸に
響きわたれぼくたちの歌 生まれ変わる神戸のまちに 届けたいわたしたちの歌
しあわせ運べるように  地震にも負けない 強い絆をつくり  亡くなった方々のぶんも
毎日を大切に生きてゆこう。
傷ついた神戸を元の姿にもどそう。  やさしい春の光のような未来を夢み
響きわたれぼくたちの歌  生まれ変わる神戸のまちに 届けたいわたしたちの歌
しあわせ運べるように
響きわたれぼくたちの歌  生まれ変わる神戸のまちに 届けたいわたしたちの歌
しあわせ運べるように」

願いを書きました。
授業ができるようになったのが2月末なので、黒板に摸造紙を張って、こんな状態になってしまった神戸の街に曲を作ったので、みんなで歌ってほしいという話をして当時3年生だった子供が一番最初に歌いました。

ピアノに手を触れた時に、授業が出来たという事がこんなに幸せだという事に涙が出ました。
学校にもボランティアの方がいて、ボランティアの方に歌をプレゼントしようと歌いましたが、多くの方が涙を流して聞いて頂きました。
ラジオ体操の前に流したいという様な申し出もあり、徐々に避難者の方にも覚えて頂きました。
この歌を全校生徒と避難者を繋ぐ橋渡しにと言ってくださったときに、沢山の方の強い拍手が起こりました。
何もできないと思っていた時に拍手がおこった時に感動して涙が出ました。
「心のハーモニー」というキャンプファイアーの歌を作ったのが最初でした。(先生になった翌年)
高校生のころはシンガーソングライターになりたいと思ったりしました。
「大和撫子」という歌を作って、ポピュラーソングコンテストに出てましたが、曲はいまいちだと言われました。(そのときの優勝者が中島みゆきの「時代」でした。)

よそ見をしている子に対して、注意するときに歌で注意したりします。
100曲ぐらいあります。
怒鳴るよりも効果があります。
入学してくる1年生に対してとか、卒業式とかいろんな場面ごとの曲を350曲ぐらい作りました。
卒業生が先生の作った歌は絶対忘れませんという様な手紙を貰いました。
子供たちが「ふるさと」を歌った歌を聞いて調理師さんたちが涙を流してくれたりして、それが子供達の表現力が増したり、子供たち自身も感動したりします。
「しあわせ運べるように」は神戸復興のシンボル曲になってゆく。
新潟中越地震、東日本大震災の被災地でも歌われるようになってゆく。
福島県の杉田小学校が「しあわせ運べるように」を歌ってくれていて、私が行かせていただいて、逆に杉田小学校の生徒が来てくれて一緒に歌ったりとかの交流をさせていただいています。
浪江町の被災地の避難所にこちらの生徒が伺って歌ったりもしています。

海外でも10カ国に翻訳して歌ってもらっています。
自然災害はどこでも起こり、どこであろうと神戸のところを被災地の名前に変えれば、被災地の思いは全く同じだと知りました。
NHK取材でイランで歌っている光景を見て、イラン語で初めて聞いて感動しました。
歌のCD、本の印税を全額東日本大震災で被災した子供達のための支援に使います。
あえて著作権を取らなかった。
自分が言葉で語るよりも、歌自体が語り部になって沢山の人の心に届いているのがたいへんうれしいです。
子供が歌っていて涙を流しながら歌っている子もいます。
ボランティアの方が涙を溜めて手を握ってくれて、「このに世に音楽の神がいるとしたらきっとこの歌はそばにいて聞いていてくださっていますよ」と言ってくれた。
20年以上たって歌の広がりをみるとまさに音楽の神様がそばで何か力を与えてくれたのかなという感覚を持っています。
人の役に立つ事が出来たなと思っています。
全国に知られていないこともあるのでこの歌を知っていただく事、多くの出会いについていろんなところで話が出来たらいいなと思っています。



















2016年1月15日金曜日

鈴木隆史(アルミ鋳造会社社長)   ・難民や外国人と会社再建を

鈴木隆史(アルミ鋳造会社社長)   ・難民や外国人と会社再建を
東京八王子に工場があります。 鈴木さんは42歳 女性の管理職も男性に交じって働いています。
人手不足に悩む中小企業を魅力ある職場に変えたいと10年余りかけて、取り組んできた事でした。
数年前から日本だけでなく世界を舞台に営業活動を始めました。
会社が成長する事が人材確保を可能にし、活力ある中小企業に変革できるとの信念からでした。
しかしその道のりは平坦ではありませんでした。
困難を乗り越え新しい事に挑戦し続ける鈴木さんに伺いました。

20から70歳台までいますが20歳台が40%位です。
アフリカからから3名来ていますが、2013年から来ています。
難民として日本に来た人たちです。
年間5000人難民申請しても、年間11人しか認定が下りないという国なので、認定待ちの方の中から、働いてもいいと許可が出た人達です。
指導はスタッフが教えています。
3人のうち一人は正社員で、2人は研修中です。
祖父が会社を立上げ、父の代で研修制度を利用してインドネシアから来た人3名受け入れました。
父が亡くなり、リーマンショックで正社員をリストラしなくてはいけなくて、彼らを残して、日本人を5人リストラしました。
苦労して育てた3人はそれぞれ鋳造とは違った職種に行ってしまい、そういう思いをしてまでやってきたことに何の意味があるのかと疑問符を感じました。
いまいるスタッフはそれなりの経緯があって雇用しているので不安は無いです。

いまは7割が海外と取引しています。
ダイバーシティー 多様性、 外国人、女性、障害者、高齢者を積極的に雇用する経営。
企画、人との会話が好きで会社を継ぐ気が無かった。(サービス業に就職)
4年目の夏、アルミの鋳物を作るプラントを父が設備導入するが、職人からは脅威となり、職人からは手伝ってもらえず父が一人でやっていて、母から助けてくれるように言われたが、突っぱねた。半年間説得されて、半年後に折れ諦めの境地で入りました。
職人は教えてくれるわけではなくて、初日の晩は風呂で泣きました。
当時私以外はすぐ上が40歳台だった。
20年後はどうなるのかと思って、友人等にアルバイトに来てもらって、うちの会社の駄目なところを書いてきてもらった。
一つずつ潰してゆきました。
典型的な3Kの仕事場でした。

2年目から営業に出されました。
95%は車両業界(車)で、安全基準が変わる、消費税が5%になるので軽自動車の替え変え時期になっていて、バブル崩壊後だったが、仕事は沢山取ることができた。
23,4歳で手取りで80万円ぐらい貰っていて、俺って凄いと勘違いしました。
人生そのものをなめていた瞬間でした。
1999年を境に50から60人いた従業員が3人に減って、売り上げも1/20になり、事実上の倒産となる。
私が代表取締役になり新たにスタートしたのが2000年でした。
母もガンで亡くなり、精神的支柱も失う中で、どん底の時に結婚しましたが、妻から今が底だと思えば後は上がっていくだけだと言われて、底に蓋ができたのかなと思いました。
いろんな業種に展開してゆくうちに回復してゆきました。
2008年に父が交通事故で亡くなって、リーマンショックとなってしまいました。
負債を含めると数億円と言う事実も発覚して、人生初めて夜逃げしようと思いましたが、従業員も20人いるので逃げるわけにもいかなかった。
負債は年金事務所、税務署に行って地道に返してゆく計画を出したり、リストラという事でインドネシアから来ている3人は残して、5人を解雇しました。

或る交流会でパン屋さんを紹介するという事で、話しているうちに、タイ焼きの型屋さんを探しているという事で、タイ焼きの型をやらせてもらって、利益は出なかったが固定費は稼げたのでなんとか一命を取りとめたという様な感じでした。
負債もあるし廃業はできなかった。
或る大手メーカーがコールドプレートの開発をするところを探していて、是非やらしてほしいという事で行ったが若い社長だしということで相手にされなかったが、自分たちで材料を調達して作って持って行ったら、できるという事で、試作をやらしていただいて共同開発をさせてもらった。
これで高付加価値の鋳物を実現できると思って、V字回復の基になりました。
今も主力で作っています、半導体の装置の中に基板が入るが、そこで熱が出るので空冷では追いつかず、水冷のコールドプレートをそこに使っています。

タイの工場見学をさせてもらって、わたしに分厚いファイルを差しだしてQC(品質を維持する本)をやれば、原価もさがるし、競争力も付くという事で、日本でやってきた単価の競い合い、納期の競い合いがまさにここで行われるのではないかと、海外に生産拠点を持つ事は止めようと思いました。
ヨーロッパ、シリコンバレー等に視察に行きました。
シリコンバレーに製造業、町工場が5000から6000社あることを知らなかった。
9割が中国、韓国、台湾でショックだった。
中国の工場を見せてもらったが傷だらけの製品だったのにはカルチャーショックを受けた。
2年先まで仕事が埋まっているという事だった。
日本はいくら品質が良いと言ってもビジネスでは完全に負けている現実を目のあたりにした。
言葉の壁、マインド 心の距離を感じました。
会社全体の意識改革が必要だと思いました。
外国語が話せる人を探しましたが、たまたま難民でした。(難民支援協会と知り合えた)

ミャンマーの人が最初に来たが、1年半で辞めました。
文化の違い、通勤時間が長い等で辞めました。
現在はカメルーン、エジプト等から来ています。
従業員は何故日本語を話せない外国人を雇うのかと大反発でした。
英語の環境作りがまず必須だったが、雇う事に奔走した専務と軋轢があった。
専務が辞めさせてくれと言ってきたが、これをやらないと先に進めないと思って、従業員全部やめさせても専務は辞めさせないと言って、一緒にやってきた工場長が辞めただけで済んで専務は辞めずに済んだ。
英会話をやり始めて、意識改革のスタートをきれました。
海外の大学と直接契約をして受け入れています。
3年前、韓国の学生をインターンで受け入れて、新卒で雇うことになり、インターンシップもありだなと思いました。
日本に興味のある若い人に体験してもらって、賃金も払って仕事をしてもらう。
就業中に外国人が日本語を学び、日本人が外国語を学ぶような形にしています。
難民はトータル9人雇いましたが、3人いるので3勝6敗と言っている。















2016年1月14日木曜日

2016年1月13日水曜日

いとうひろし(絵本作家)      ・孫に届くことば「だいじょうぶ」

いとうひろし(絵本作家)        ・孫に届くことば「だいじょうぶ」
1957年 昭和32年東京生まれ  早稲田大学在学中から絵本を書き、30歳で絵本作家としてデビューしました。
現在は絵本と童話を書く作家として数多くの作品を発表しています。
いとうさんは一人で絵と物語を書きます。
作品にはユーモラスで温かみのある人間や動物が登場するという特徴があります。
代表作 「だいじょうぶ だいじょうぶ」はこの大丈夫という言葉を使って孫とのコミュニケーションを描いた作品です。
絵本では人と動物の関わりを書いた「ルラルさん」シリ-ズ  ルラルさんは主人公中年のおじさんの名前です。
童話では猿の遊びや世界を通して子供の日常における出来事や夢、希望をとどけるお猿シリーズなどが代表的作品です。

図書館では絵本、児童童話、幼年童話と区分けされているが、僕としては不満です。
違いは無いです。
絵と文を一人で描いていて、ユーモラスです。
余裕のある時のユーモアと余裕のない時のユーモアは違っていて、余裕のない時のユーモアの方が好きです。
今まで見ていた視点をちょっとずらしてみる、大変だと思っていたことがどうにかやっていけるという様な、大げさに言うと命綱みたいな意味のユーモアが自分にとって凄く重要なユーモアです。
代表作 「だいじょうぶ だいじょうぶ」は出版されてから20年になるが、昨日書いた様に思うし、自分の作品ではない様な気がします。
うちは兄弟4人で末っ子で、父母、祖父母がいて、祖父は物ごころついた時には寝たり起きたりで祖母に世話になっていました。
祖父は怖くて近寄りがたかったが、具合が悪くなり 医者を呼ぶ前に目の前で亡くなった。
人は死ぬんだという事が判って、或る意味有難かった。(小学生の時)
いつか自分も死ぬんだとその時強烈に思って、初めて眠れない位の恐さを感じた。

たいへんな時は祖母に相談するのが鉄則だったので、お婆さんに相談したら軽く「死んじゃったね」と言われた。
「死んだらどうなるの」と聞いたら、「? うーん ・・・  死んだことがないから判らない」と言われ、 
それでその一言ですごい楽になりました。
一瞬だけでも  間を置いてくれたことが、こっちの疑問、恐怖などを正当なものとして受け止めてくれたものと思う。
お婆さんでも判らないことがあり、答えはでない、という事だと思い、納得した。
おばあちゃん子だった。
本の中ではお爺さんが孫をつれて歩くいて、だいじょうぶ だいじょうぶと言ってくれる。

最近はお爺さんお婆さん達が親の様な言い方をして、ちょっと子供にあまり良くない様に思う。
親は責任があり、色々要求するが、お爺さんお婆さんは違う対応をしていた、なにはともあれ受けとめてくれる存在としてあったと思う。
それでいてすじが一本通っていた。
年寄りは長く生きているので長いスパンで物を見ることができる。
こっちが完全に行き詰まってしまっていても、ごめんねと言って行ってみようよ、平気だからと、言葉ではなく行動で教えてくれた。
今のお爺さんお婆さんは元気でお父さんお母さんと同じように元気に行動するので、そのスピードで物事を見てしまう。
世の中の動きを親と同じような物の見方をしてしまう、しかし孫はかわいいと変なふうになる。
病気になったり、老いてゆく事を見せてほしいと思う。

30代後半で親になっていて、親になることが不安だった。
子供が生まれてくること自体が本当に幸せなんだろうか等を考えて、だいじょうぶと思える自分、だいじょうぶと思える自分がどっかで欲しかったと思う。
その意味でずーっとあの形の本になったし、最初はそうだったんだろうなと思います。
そのうちに色々なことを考えるようになりました。
「だいじょうぶ」という言葉は無責任なようにもなるし、とっても重要で力強い言葉にもなる。
「お猿のシリーズ」  「お猿はお猿」
本を作ろうとかして作ってはいない、普段感じられる事、思っている事を誰かと共有したり、共感してほしいという事で何か形にして、それを綴ってゆくよな事です。
忘れることにより、知らない間に解決する事もあると思う。
全体のストーリーを子供は楽しんでいただければいいと思うが、深く読めていける本として自分は作っているつもりです。
お猿を通して人間に生き方、死に方全部描いている。

読む側がどのようなところまで読むかしっかり読めば、そこに何が描かれているか、を書いているつもりでいます。
「クグノタカラバコ」 文字を食べる虫とか出てくるが、あれって日常なんです。
日常的に思っているだけです。
集中して本が読めない時などに、文字が逃げてゆく感覚がある、そうすると食べられた様な感覚になる。
アイディアを練っている様なことは無い、むこうから来てくれる、それが結果的に本になる。
ああでもないこうでもないと色々な事を考えている事が好きなんですね。
人間は相手によって、自分の姿を使い分けている、という事があると思う。 
(猿のシリーズのお猿の真似っこ)
本を読むのは同じくらい創造的であって、本は読んだ人のものであって、本は読んだ人の中で出来上がるものだと思っています。














2016年1月12日火曜日

堤 剛(サントリーホール館長)    ・「響きのホール」と歩む

堤 剛(サントリーホール館長)    ・「響きのホール」と歩む
東京赤坂サントリーホールが開館30周年を迎えます。
サントリーホールは東京で初めてのコンサート専用ホールとして1986年に開館しました。
堤さんは77歳、2007年から館長を務めています。
ホールの設計段階から深く関わってきた堤さん、ホールができるまでを初め、ここから生み出された新しいサービス、これからのコンサートホールの在り方まで、堤さんがチェリストとして歩んだ道を交えながら伺います。

響きも世界一を目指したり、斬新なものを作っていこうというのが初代館長佐治敬三がめざしたものができあがって、アーチストから世界でも5指に入るぐらいのいいホールだといわれる位になった事は素晴らしい事で、責任も生まれてくると思います。
わたしの家内が佐治敬三の娘だったので、義父から色々聞かされていた。
佐治敬三は徹底的に調べつくして、自分が100%納得いった上で新しい分野、開拓する人でした。
ホールができ上る2年まえにヨーロッパに行き主だったホールを体験しました。
音楽ホールとして存在価値がどういったものか、実地に体験したいという思いが強くあった。
サントリーホールを東京で作るんだったら、ヴィンヤード型が良いとカラヤンから言われました。
お客さんが演奏者を取り囲む形になる、近く感じられるし、コミュニケーションが取り易い。(楕円形)
工夫に工夫を凝らしてヴィンヤード型が赤坂に出来ました。

カラヤン先生曰く、ヨーロッパの一流のホールにはパイプオルガンある、パイプがたくさんあることによって音響の補強になるという事も言ってくださって、億単位になるが、どういう風にいかしたらいいか判らなかったが、作ることになり、目玉になっていった。
ヨーロッパでは休憩時間が長い、皆さんドリンクコーナーに行ってワインとかシャンペン、ビール、コーヒー等を飲みながら談笑している、社交的な面があるのではないかという事で取り入れてみたらという事になった。
当時は偉い先生方から音楽を冒涜するものだとお叱りを受けたぐらいでした。
座席の案内、判らない人に対して案内、プログラムの配布、ちょっとした説明も出来る事を目指した。(男性は燕尾服)
欧米に比べて日本の入場券は高い。
1986年開館公演、NHK交響楽団 佐治がパイプオルガンの「ラ」を押してチューニングを行った。
ベートーベンの第9を行う、4楽章にコーラスが出てくるが、佐治は最初化学者になりたかったという経緯があり、化学的なマインドがあり、又ドイツ語も得意で、自分が合唱団の中に入ってドイツ語で歌いたいという事で、プロの先生に習って歌って満足したという事でした。

直接音、またいろんな残響が返ってきて、全体が響きになるが、ここが満たされた思いをするのは良く通ることもあるが、音の返り、返ってきた音の質の良さが新しい啓示、それまでになかった新しいものがあるからこそでインスピレーション、イマジネーションが大事になってくるが、それをホールが演奏家に与えてくれる、サントリーホールに来ると一歩上のものがここではできるように気がする、と皆さんおっしゃいます。
ホールが一緒になって鳴ってくれている、ホールが生きていると思います。
30年経って、ホールの特徴が出てくるし、木で出来ているので乾いて益々いいホールになってくると言われます。
素晴らしい音を出すことによってホールも嬉しがって、ハードな面ではあるが人間的な臭いのするホールだと思っています。

チェロは父の手ほどきを受ける。
父はNHK放送交響管弦楽団でコントラバスをやっていて、音楽教育の分野で楽器はぜんぶ弾けなければいけないという事で、父は器用にできた。
実は父はチェロをやりたかったようで、私は2年間バイオリンをやった後、最初父からチェロを習いました。
その後齋藤秀雄先生に習う様になりました。
バッハの全曲演奏会もやらせていただいていますが、ルーツは斎藤先生が小学校3年生の私に懇切丁寧にバッハを教えてくださったおかげです。
先生は私の不器用を見抜いていて、人と同じくらいに弾こうと思ったら人の3倍練習しないと駄目だよと言われて大ショックだった。
段々練習量は増えていったと思います。
アメリカに留学して、時間をたくさんやるのはそんなにいい事ではない、練習で大事なのは内容だと言います。
集中してやることが一番大事で、集中力を注ぐためには長くはできない、一番良くないのは考えもなしに同じことを何回もやることだと言われてちょっとほっとしましたが。

壁、難しい事に出っくわしたら、原因が判ればおのずから答えが出てくるので、がむしゃらにぶつかるのではなく、身を引いて色々考えて、余った時間を別の勉強して、広くやることによって違う面から壁に光をあててやる、という習慣ができてきたと思います。
プログラムの内容を見ると世界のどのホールと比較しても遜色ないと思うが、一般的に見て認知されていないと思う。
外国からもお客様が来て下さる様な、ホールにもっともっとしなければいけないと思います。
インターナショナルにはなれていないので、もっともっと情報発信を活発化させていきたい。















2016年1月11日月曜日

2016年1月10日日曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・昭和史を味わう第24回 東京裁判

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・昭和史を味わう第24回  東京裁判
極東国際軍事裁判 極東国際軍事裁判所条例をマッカーサーが昭和21年1月19日にだす。
それに基づいて開かれた。
昭和21年5月3日から始まる、判決の言い渡しが昭和23年11月12日
市ヶ谷の陸軍士官学校の建物で開かれた。
天皇を訴追しないことが前提に開かれた。
そうしたした背景は推測であるが
①日本を統治するのに日本国民を反米的にすることなく、マッカーサーは統治手腕は立派だという歴史的評価を得たいというので、天皇という権威を利用しないと日本の統治は難しいと判断した。
②戦争責任、天皇の権力は軍に一方的に利用されたと言う判断をした様に思う。

ドイツ ニュールンベルグ栽判 ナチス党国家社会主義労働者党 
昭和20年11月20日から昭和21年10月1日まで開かれる。

20世紀にはじめて行われた裁判。(戦争に勝った国が戦争に負けた国の責任を問う)
人道に対する罪、残虐行為等の概念を載せて進めた、連合国の文明の裁判。
戦敗国から見ると、全く知らない事が東京裁判では一杯明らかになってくる、情報公開の役割も果たした。
検事団団長 米国ジョセフ・キーナン検事  11カ国が参加
①平和に対する罪・・・・・・・・・・・・・・A級
②殺人、戦時放棄に対する罪・・・・・B級
③人道に対する罪・・・・・・・・・・・・・・C級   3つの類に分類(罪の重さではない)
東京裁判ではA,Bが主体
28人が被告席に座る。(東条英機ほか)
15人が陸軍 海軍が3人 外交官5人 官僚5人
昭和21年4月29日 起訴状を手渡す。
(忘れぬなという事でアメリカではよく日付けを意識して行う 天皇誕生日)

昭和3年~20年9月2日まで共同謀議を持って侵略戦争を始めたというのが、検事側の骨格になっているが、日本には当てはまらない、次々に為政者が変わるので無理がある。
陸軍軍人が中心になって戦争に向かったというのが、この裁判の特徴。
日本の検事側の証人に立った人、田中隆吉木戸孝一など400人が立つが、言論弾圧、政府は立法府こう抑圧したとか表現するが、国民が知らない事実がいっぱいあった。
大本営発表、政府発表が虚偽、捏造だったことが明らかになってゆく。
国民にとって戦争を客観的に見るという事、反省、批判、が可なりに肉付けされてゆく。
弁護側 米国の弁護士もつく。  (公平性)
日本の指導者の責任回避の姿などを見ることになる。
インドのパル判事  日本の立場を全面的に擁護しているのではなく、西欧の植民地主義を批判している。
西欧の植民地主義が日本の戦争の背後にもある、貴方たちは裁けるのか、日本が戦争を起こしたのもやむを得ない、という様な論陣を張る。
インド、フィリピンの受けとめ方は連合国とは違うという感じがする。
パルの全面的な理解を日本人はしなくなったのが、不幸なことであったと思う。

判決の言い渡しが昭和23年11月12日
11月4日から読み渡しが始まり、中断があり8日から再開、12日が最終日。
オーストラリアのウェブ裁判長が判決の言い渡しを行う。
刑の執行が昭和23年12月23日(現天皇の誕生日)
昭和23年12月24日 岸信介 児玉誉士夫などA級戦犯19人が釈放される。
B,C級裁判 有名なのは バターン死の行進での 本間雅晴 、シンガポール華僑粛清事件など山下奉文 絞首刑になっている。
B,C級裁判はそれぞれの国の法律で裁かれたが、復讐的な意味合いは有った様に思う。
死刑の数は1000人ぐらいいたと思う。(起訴は5700人位)

この国が戦前から戦後に移る時の線引きになると思う、東京裁判で示されたデータ、記録、文章、により具体的に評価できる。
人道に対する罪、平和に対する罪を日本は責任を自覚しなければいけない、20世紀後半裁いたアメリカなどに対して、貴方たちは私達を裁いたけれど、貴方たちも私たちと同じ事をやったんじゃないかと、国際社会に対して発言する権利を持ったと思う。
その権利を余り使わなかったことは残念だと思う。
昭和24年11月3日 湯川秀樹氏がノーベル賞受賞決定。
昭和25年1月19日 田中絹代さんがアメリカから帰国。






















2016年1月9日土曜日

上西 勇(災害モニュメント記録活動)  ・慰霊碑は次の世代へのメッセージ

上西 勇(災害モニュメントの記録活動を続けている方)  ・慰霊碑は次の世代へのメッセージ
1995年1月17日の阪神淡路大震災で 当時95歳の父親を亡くした上西さんの話です。
父親の死をきっかけに神戸阪神間の慰霊碑やモニュメントを自転車で巡り、記録を加えてゆきました。
全国各地の地震や津波、台風など自然災害の様々な碑も訪ねるようになりました。
これまでに1100か所のモニュメントをめぐり碑文を書き写し、11冊の冊子にまとめています。
何故慰霊碑を訪ねるのか、碑文は何を語りかけているのか伺いました。

「忘れるな 三陸沿岸 大津波 惨禍を語る路傍の石碑」 は改訂版となっている。
この改訂版は306ページになります。
きっかけは父の死、「がんばろう神戸」が モニュメントの冊子を作ったのを入手して、慰霊碑を訪ねました。
忘れない為に冊子を作るようになりました。
大震災の時は父は別棟におり、大丈夫だったが翌日18日に液化天然ガスの貯蔵タンクに亀裂が入っているという放送があり、爆発の恐れありとの事だった。
父にとっては家を離れることは死に等しい事だと判断したが、逃げてゆきました。
国道はごった返しており、その後小学校に辿りついたが状況が悪く甲南大学に行きました。
一夜明かしたが、寒気のための温度変化でうわごとを言いだして、危ないと感じた。
避難勧告が解除されて家に戻ることになる。
22日には体が硬直していて、医者を呼んだが駄目だった。(震災関連死と市から認定された)
東遊園地の公園にある慰霊碑に名前は刻まれた。

私は旧逓信省で14歳で入り通信士になり、1987年に退職後、自転車旅行を趣味にして旅をするようになりました。
今度は阪神淡路大震災の慰霊碑を自転車で廻るようになりました。
皆無念な思いをしているであろうと御慰めしようと廻り出しました。
慰霊碑を建てるには皆さんは色々苦労していると思う。
慰霊碑は言葉はありませんが、皆さん私たちと同じような目に遭わないでくださいという、死者の願い、慰霊碑を建てた人達は災害について気を付けてくださいと言う意味が込められている、という風に解釈するようになりました。
調べていこうという機運になりました。
昭和9年 室戸台風に遭い、女性の死体を見る体験もしました。
昭和13年 住吉川氾濫、阪神大水害も小学校5年生で体験しました。

2000年、2004年にモニュメント集を纏める。
全国各地の災害慰霊碑を廻る、最初は紀伊半島の突端です。
1999年 岩手県釜石、宮古市等に行きました。
「ここから下に家を建てるな」という碑が山肌にあった。
まずは逃げることが基本だということは、大なり小なり警鐘の文章が書かれています。
碑の場所はインターネットが頼りですが、最終的には行って見ないと判らない。
折りたたみの自転車を持って最寄りの駅まで行きます。
土地の人に聞いたりもしています、たまたま尋ねた人が碑を建てたゆかりの人だったりすることもあり、いろんな出会いがあります。
2007年伊勢志摩紀伊半島の津波の慰霊碑、2008年には三陸沿岸津波の慰霊碑 (300か所)

大地震の後には津波の用心等、被害の状況など碑の裏面に書いてあります。
大船渡市綾里地区 被害戸数298戸 溺死者1350名 38mの高さを記録・・・・抱いて慟哭するものあり。(明治三陸大津波伝承)
2011年東日本大震災 歩いたところでもあり、TVを見てしばらく実感がなかった。
災害は一つの歴史であり、歴史を直視しなくてはいけない。
碑の訴えている内容を理解して頭に入れて、思いだして行動に移る様にしなければいけない。
関東大震災 神奈川県編 根府川駅周辺では地滑り、土石流で列車が駅ごと海に転落、集落の亡くなった人の名、年齢が記載されている。(300名位)
工場でも160名が亡くなり、従業員への感謝の意味を込めて建てられている。
その他児童が各地学校で亡くなっている。
横浜市裁判所では裁判長以下全員が亡くなっている。
木々があって、水道管が破裂して水たまりができて火災から逃れられたと言う記録の碑もある。

災害があってたくさんの人が亡くなって、ちゃんと覚えて災害に備えてほしいと、遺言だと思っています。








2016年1月8日金曜日

小堀鴎一郎(往診医)         ・「心に響く医の道」を求めて

小堀鴎一郎(往診医)         ・「心に響く医の道」を求めて
1938年東京生まれ 父親は画家の小堀四朗、母親は小堀杏奴 (森鴎外の次女) 
1965年東京大学医学部を卒業した後、東大付属病院第一外科と国立国際医療研究センターの外科で40年間上部消化管の診療と研究に従事されました。
定年退職後、埼玉県新座市の掘ノ内病院に赴任して、以後10年間往診医として訪問医療に携わってきました。
現在までにおよそ500人の訪問診療を行い、半数の方の臨終にかかわっているという事です。
往診医としての10年は貴重な年月で有り、この10年がなかったら自分の医師人生は完結できなかっただろうと言います。
在宅医療の世界は死と隣り合わせの面が強く綺麗事ではないネガティブな側面が付きまとうと言います。

週4回訪問診療していますが、私が持っている患者さんは40名です。
私は自分で運転して自分の車で行っています。
専門的医療、高度な医療を要する場合は病院に行っていただくが、私は病院と同じ医療を在宅でも出来る、それを目指しています。
往診医若林ドクター 大学の外科の1年先輩 可なり立ち入ったきめ細かい治療をしています。
成城学園の教育 小学校には教壇も試験も無く、通信簿も無く、宿題もない、そういう状態だった。
好きなことをやっていて良いという雰囲気で、私は俳句を作って後は遊んでいました。
母が私と2歳上の姉とを連れて、学校を休んでフランス映画を見に行ったりしました。
中学3年の時に、塚原君から成城池に呼び出されて、将来君はどうするんだと言われて、彼の両親は医者なので自分は医者になると言って、医者ほど世の中で素晴らしい職業は無いといわれて私もその道に進むことにした。
彼は早く亡くなり医者に成れずに終わってしまった。
その後都立戸山高校に進む。

東京大学理科2類に進学、医師の道を選ぶ。(400人のうち40名が医学部に行く)
25名が外科に行きました、専門は腹部外科(消化器)
2年目から初期手術をするが。手術する前に消毒をするが、そんなことから厳しくしごかれました。
糸を的確に結ぶ事等毎晩練習をしていました。(手袋をしたり、石鹸を塗ったりして難しい条件で)
当時の勤務医 結果がすべての短期決戦の連続みたいなもので成り立っているので、一人の患者さんとの話は表面的になる。
現象的、手術そのものに癖(へき)がありました、患者さんが先生は本当に手術だけなんですねと言われたことが印象に残っています。
65歳で定年退職後、埼玉県新座市の掘ノ内病院に勤務する事になる。
掘ノ内病院に行ったのは手術を続けたかったが、3年手術をしたがいよいよそのうちに出来なくなって、個人的に往診している寝たきりの患者が2人いるので替って診てほしいと言われて、(2005年2月)違うジャンルがあることに気付かされた。

訪問診療をすることでありとあらゆる経験をしました。
東大付属病院、国立国際医療研究センター等の患者さんと話をしても患者さんのスタンスが違う、国を背にしてふんぞり返るという様な印象を持つと思うが、堀ノ内病院では、死を間近になってきた場合は猜疑心、不信感、失望、落胆とかネガティブな意味での人との接触なので、本当の人間的な付き合いと言える。
極端にいえば、権威を背にしている限り患者さんは本当のことは言わない。
ポジティブな面もたくさんあります。
この10年がなかったら、外科医としての生涯が全うしたと言えるかもしれないが、一人の医者として生涯を完結したとは言えないと思う。
掘ノ内病院では10年間で、75%が在宅死となっているが、全国レベルでは97%から100%在宅死があるという診療所が日本には有る、どういうからくりでそうなるのか理解できないが。
日本の全国統計は在宅死は12%、著名人の在宅死は1%という数字になっている。
やり始めて3年後は50%でしたが、いろいろ在宅死、自然死とかを話しているうちに75%になりましたが、長い時間も必要です。
私の関わっている患者さんとの触れあった期間は平均4年6カ月です、その間話しあう時間がある訳です、その先に看取りがあります。

98歳の女性、或る日ベッドに上がれなくなった。
介護用のベッドにする等介護的なことをやっていたが、2週間したら食事をしなくなって、ペットボトルに清涼飲料を飲んで、2日たってこれが最後だと思って、延命する必要がないのではないかと家族と話し合って、息を吐くときにかすかに音がして、聞いた家族がかわいそうだという事で入院していただいた。
若いドクターが高カロリー胃液とか、肺炎併発した時は家族の要望に応じて処置をした結果、10ケ月間病棟で生きておられて、家族は段々足が遠のいてゆき、9カ月間ぐらいは一人暗い病棟で合併症を抱えて、最後は夜勤のナースがモニターを見て平坦になっていて亡くなられた。
これこそ孤独死だと思った。
どんな形でもいいから生きていてほしいという人がいるが、4年6か月の患者さんとの付き合うなかで75%の方が家で看取りますということになる。
2025年には65歳以上の高齢者が3658万人になります、人口の3人に1人です。
昨年9月 3384万人 26.7% 4人に1人です。
問題は65歳以上の高齢者の4~5人に1人は要介護になる。
介護の手がないと生活ができない。
介護スタッフは中心的な役割をするケアマネージャーが現在14万人、2025年には24万人必要になる、ヘルパーは100万人必要となる。
介護施設、介護する人たちが足りなくなる、これは地震と違って確実に起こることです。

国の施策、患者家族の考え、医療従事者の考え、など色々あるが、1年間に亡くなる方は124万人と言われているが、160~170万人になり、それを「多死時代」と言っているが、それに対応したヘルパー、介護施設を期待するが、期待できないからと言って国を非難するのは間違っている様に思う。
社会と医療サイドが価値観を変えなければ満足なケアができないと私は思います。
2025年には団塊の世代が後期高齢者になり介護が必要になる。
地域で何とかやろうと施策を打ち出しているが、全てをカバーするとはとても思えない。
10年現場で学んだ事は3点あります。
①社会の患者側にとって、身内の在宅死は最初から想定外。(病院で死ぬのが当たり前)
②医療側は在宅医療には関心が無く、理解が乏しい。(国家試験にそのようなことが出ない
  在宅医療、介護に関する項目の出題率は0.67% 平成25年度医師国家試験)
③患者自身が死ぬと思っていない。

ヒポクラテスの誓い(自らに課した戒め 9つ)
紀元前450年前に生まれたギリシャで生まれた人物。
医学、医療の定義
①病者の苦痛を完全に取り除く。
②病気の暴力を減少させる。
③重病に依って打ち負かされている場合は、私は医療の無力さを知っているがゆえに何もしない。
重病、現代で言うと、老衰と悪性腫瘍の末期。
現代医療、現代医学を別の観点から考えなおすひとつのきっかけになる言葉だと思います。













2016年1月7日木曜日

名知仁子(NPO法人 代表)     ・ミャンマーの医療支援に取り組む

名知仁子(NPO法人 ミャンマーファミリー・ クリニックと菜園の会代表)
・ミャンマーの医療支援に取り組む

1963年新潟県生まれ埼玉県育ち 大学病院の勤務医として働いた後 、2002年国境なき医師団に加わり タイ、ミャンマーなどの難民緊急医療活動などに携わってきました。
名知さんを国際医療活動に進めさせたのは、人間として人生をどう生きるか悩んでいたときに出会ったマザー・テレサの言葉でした。
「もしあなたの愛を誰かに与えたら、それは貴方を豊かにする」という言葉でした。
そして2012年NPO法人 ミャンマーファミリー・ クリニックと菜園の会を立ち上げました。

NPO法人 ミャンマーファミリー・ クリニックと菜園の会
立ちあげる時に支援者と共に決めた名前です。
ミャンマーの人口は約5200万人 日本の半分位です。
「人生はジグソーパズルの様なもの、位置が決まれば自分もそのピースになれる。
自分が荷なえないピースは誰かにお願いする。」
医師になったのは26歳、28歳になった時にいろんな職種の方のところに行き初めて、その人たちが手をつなぐことによって、良い社会にできれば、そうでない社会にもなり、自分の立ち位置さえしっかっり決めれば、ジグソーパズルの1片となり、理想、夢を持って生きる人達と手をつなげば世界は変わってくる。
自分も豊かになり、他の方も豊かに出来る。

いろんな本を読み始めて、31歳の時にマザー・テレサの本に出会って、「もしあなたの愛を誰かに与えたら、それは貴方を豊かにする」という言葉にであって衝撃を受けました。
そういう社会に医師として働きたいと思いました。
マザー・テレサは一人インドに行って、道路で虫けらの様な人を抱きかかえて、「貴方は生きていて
良かったの」と言いました。
医師としてどう働けばいいかと思った時に、国際医療に行こうと思いました。
たまたまTVで記者会見をやっていたものを母が見ていてそれを教えてくれました。
大学病院は病気は診れるかもしれないが人間は観れないと思っていた。
今の日本に医療は最先端で凄いと思うが、医者はどんなに知識、スキルがあっても人とどうやって向き合ってゆくかというのが、根底にあっての治療かなと思います。
疑問をずーっと持っていました。
2002年ボランティア医師として登録する。

タイとミャンマーとの間の難民キャンプで3万5000人いて、聴診器一本で診ました。
医者としての原点に戻りました。
腱反射も聴診器の縁で叩いてやりました。
学校は無くて、そこで結婚して亡くなってゆく、1,2,3も言えなくて、それを体重計に乗ると体重が判るようになり、脈の取り方も教えて、聴診器の当て方も教える。
医師がいないので、医療技術も教えないといけない。
国境なき医師団は私を含めて医者は5人位です。
ヨルダンで中東のイラク戦争で逃れてきたクルド人、イラク人を見る難民キャンプで働かせてもらいました。
緊急援助団体だったので、テントに来た人たちを診療しますが、水が無かったので辛かったです。
2008年にミャンマーで大きなサイクロンがあり、活動に参加しました。
物資をヤンゴンから現場に送ってもらって、分配しますが、必要な薬は無くて、申し訳有りませんと言いましたが、不甲斐なかったです。

医療は大きく分けて、巡回診療と保健衛生の啓蒙活動です。
巡回診療は村を自分たちで廻って病気を診させてて頂く。
もうひとつは手洗い励行(食事の前、トイレの後、食べものを作る前等)、飲み水の管理、(ボウフラがわかない様にカメに蓋をする等) 知識を得ることがたいせつです。
赤ちゃんが生まれるのが、1000人居たとして一年経って77人(日本は2~3人)が亡くなり、5年間生きられないのが52人(日本は1人位)。
大きな要因は出産時の事と栄養不良です。
食べものがない、食料をどうやって健康に育つための食べ方をしているかどうか、バランス良く身体に入らないと育たない。
食べるものは米だけだったりするので、偏った食事だと病気になる。

2カ月に一回しか巡回診療にいけないので、教育を受けることで健康状態が良くなるシステムを作りたい。
家庭菜園の様なものを作って、ビタミンを摂取できるように有機栽培の指導をしています。
孤児院の持っている農地が40エーカー有、米しか作っていなくて、池を作って魚を食べるとか、発展させて販売まで出来るようにしたい、雇用まで出来れば、さらに食生活も良くなる。
アヒルを飼うと、そのうち卵が生まれ、売れるし卵が自分たちも食べれて、2カ月に一回は肉も食べれるようになり、バランスの良い食事になり健康になってゆく。
ミャンマーは134の種族がいて、各々が自分独自の言葉を持っている。
通訳が必要で、一緒に巡回しなければいけなくて複雑な要素を持っている。
カレン語が判って、農業の知識、その土地が判る人でないと思っている事が出来ないので、たまたま栃木県にアジア学院がありそこに相談しました、そこは発展途上国の農業のリーダーと言われる人達、オーガニックの農業を根底から教える、そういう使命を持っていて、家畜の飼育も教えている。
ミャンマーで出来るのかを問い合わせたら、できると言われてやろうと思った。
そこの卒業生にその指導をしてもらった。

やることはいっぱいあるが、家族ごとの生活が地域を作ってゆく、地域が活性化すると、他の地域も真似したいという事になる。
電気がないと連絡の方法がないので、金曜日にミーティングを行うが、ほんとうに問題は何か、彼等にとって本当に必要なのか等、確かめます。
急病人が出た時の搬送の仕方がないので、そのステムを作ろうと提案します。
例えば、500世帯でお金を集めて、村で管理して急病人が出たときには責任者が判断して、そのお金を使う様にする。
連絡網がないので、いいシステムを村を廻って地域全体にいい情報を入れて、地域全体のレベルアップしてゆく、そういう事をしています。
私たちの団体に必要なのはお金とマンパワーです。
スーチーさん自身が日本に来て、京都大学に学んだり、早稲田に来たりしているので近しいと思います。

人生はデコレーションケーキ 土台は決まっているがクリームは自分次第、自分で選べる、いろんなことができる。
タイミングに依って変えてもいい、楽しい人生が待っている可能性もあると思います。
でもアンテナは張っておく必要がある、いつのタイミングで変えるのかの判断が必要。

45歳の時に進行ガンの乳がんになりましたが、もっとつらかったのは、37歳の時に副交感神経縮症になって全く下半身が動かなくてずーっとベッドに寝ていて、動くのが頭と両手だけだった。
大学を辞めて次の面談をしようと思って辞めた数日後に症状が出てきて、寝返りができない様な状態だった。
足が紫色になり足を切断するようかと思った、第二の人生をやろうとしていたときに、なんで私なのか、どうしていまなのだろうかという事に対して回答がない、4カ月ぐらいそんな感じでした。
神様は両手と頭で何をしなさいと言っているのだろうかと思い、又本を読み始めました。
そのうちにどういうわけか良くなり始めました。
私の人生に意味があるはずだと思いました。
問題だと思うからこそ問題であって、問題ではないと思うと問題ではなくなることがいっぱいあるなあと思いました。
宗教の信仰はありませんが、導く人はあると思います。

国際医療は大変だと皆さんが言いますが確かに大変です、98%辛いです、残りの2%が98%を超すほどの喜びを与えてくれます。
感謝、お互いの気持ちが通じたりすること、たった一つの言葉が物凄いです。
病気で3時間歩いてきて、待っていて薬がなくて診れませんと言われても、「有難う」と言われる、喜びを感じます、すごいと思う。
一つ一つがつながることによって、社会ができる、それが村、国単位であり、繋がって命を育むという事に感じて、それを助けるという事に感じてくれて、お互いが嬉しい。
ミャンマーファミリー・ クリニックと菜園の会では薬一つ渡す時も「日本のみんなが応援しています」と必ず言います。








2016年1月6日水曜日

山澤 清(ハーブ研究所代表)    ・伝統野菜を守る

山澤 清(ハーブ研究所代表)    ・伝統野菜を守る
山形県 1947年生まれ 最上川流域で野菜栽培をしています。
若いころは農業機械の技術指導者をしていましたが、地域の生態系が崩れているのを見て、自然と共栄する農業を志すことにしました。
現在私たちの食卓に上る野菜の多くはFIと呼ばれる一代限りの種の品種です。
F1は毎年新しく種を買わなくてはならないものの、生育が早く、多収穫、形の揃ったものが取れる為に高度成長期以降、市場の大勢を占めるようになってきました。
山澤さんはこれとは違って長い間地域に伝えられてきた、伝統野菜の栽培をしています。
毎年自分の畑で種をとり、農薬や化学肥料をつかわずに土づくりをする手間のかかる農業の実践です。
健康で栄養豊かな土からは故郷の昔ながらの味が育っています。

300坪のビニールハウス、種をまき花が咲いて実がなるまで、植物の一生を見せるところです。
アブラナ科で184 ナス科で65 菊科で25ぐらい 大根で60種類ぐらい。
伝承野菜として集めている。
きゅうりでも同じ形になるはずがない、便利さを求めてのF1になった。
地球上はすべて共生している。
農薬、化学肥料は使わず35年です。
嫌地 植物が嫌うが日本各地が嫌地になりつつある。
日本の季節は大陸と違って、春が来て、梅雨があり、夏があり、秋梅雨、秋が来て、冬が来る6つの季節がある。
日本はややこしいから、人間の英知があって、農業の歴史があったが、今は技術が凄くなって、その植物の季節をずらしても植えられるが、そうすると虫が付き、農薬をまかなければいけないし洗わなくてはいけない、50年ぐらいそうなってきた。

一年中野菜がある、季節感が無くなる。
F1は繋がらない、50年もこのようにしていると、自然界が何か起こすかもしれない。
伝統野菜は味がいいし、こえられない。
昔生野菜はあまり食わなかった、付け物にしたり、乳酸菌で別なものに加工して色々食べていた。
もともと自然界は様々な僅かに毒を持っていて、山菜等はあく抜きをする。
めんどくさいという形をうけいれれば、伝統野菜は味はいい。
キャベツなどは青虫は外側しか食わない、葉っぱの外側を食って葉脈は食わない、植物にダメージを与えず、食われることによって刺激で茎が太くなる様で、食われた方がいいみたい。
秋になると青虫はいなくなるので食われない、さなぎになり、蝶になって受粉してくれる、サイクルの中で植物は生きている。
外側の方が生物学的にはうまい、昆虫はうまいところを食べるが、硬いから人間は食べない、わがまま放題、人間は火を使ってうまくして食べる。

昔は春一番に食うのはあさつき。
生産性をあげようと農薬が必要だったが、田んぼの生態が変わってきた、どじよう、おたまじゃくし、めだかがいなくなり、子供時代のイメージが違ってきて赤とんぼもいなくなり、こうもりもいなくなって5年ぐらいして気づいて、結婚して子供がアトピーになり、別なものにペナルティーが来ると思って農薬を辞めた。(31歳の時)
しかし最初の頃殆ど出来なかったが、続けていたら植物から教えてもらった。
勝手な時期に植えていたが、大根はいつ撒いたら秋大根はいいのかとか、10何年掛かりました。
やり始めて30年になるが、500種類やっているが、同じアブラナ科でも交雑してしまって隔離して取らなければ行けなくて、1本から取ってもダメで10数本から取らないと次の世代につながらない、だから畑を20万平米作っている。

植物は65度以上で進化はしていない、ゆでることはあくを取ること。
辛い株でもぬかずけにすればからくないものができる、菌類、熱を使って人間は料理しているんだと思います。
農薬、化学肥料はいらないと思う。
取った分だけ少し返さないと、土壌が正常な微生物の体系にならない、化学肥料は微生物のえさにはならない、ゆっくりした時間10年後50年後、変わらない土壌を目指してやっている、そうすると連作障害は無い。
土壌が基本、野菜の葉っぱ、残さ等を入れ、みみず、モグラなどもいきている生態系、バランスだと思う、人間は効率化を求めてバランスを失っている。
植物も自分の空間を守りたい、密生すると自分も参ってしまう。
伝統野菜は適度な距離と適度の堆肥で、農薬はいらないし、蝶ちょも飛んで自然にいられる。

土が健全な、表面は好気性群、(酸素を使う生物)、下が嫌気性群(酸素はいらない生物)植物は嫌気性のところまで根が行くので、なるべく好気性群が20cm位まで行くように葉っぱなどを入れる。
葉っぱだけでなく、食用鳩を飼って(鶏はワクチンを打つ必要あり)糞を一緒に入れる。
最近は若い人が協賛してくれるようになった。
精進料理のレシピは昔でも、材料の野菜は今の野菜を使うので、野菜も昔のものをしたいという。
日本全国で種のネットワークを作りたい、800種類もあるものを残し続ければそうすると素晴らしい日本になると思う。
未来の赤ちゃん、人達にそういったものを食べさせたい。

からしなは交雑してしまったりして7年掛かった。
人間は苦難があった方が力はでると思う。
日本は湿気があるから赤ちゃんに汗もができるが、そのために白い粉を付けるが、白い粉は昔はからすうりを加工してでんぷんを取っていた。
今、数年後を目指してからすうりを何十万本もやっている。
かわしじみ 別名「かんしじみ」と言って冬に食べる、とってもうまい。
効率化を求めると何かを失う、生態系を戻してかわしじみも少しずつ増えてきている。
沢ガニもいなくなって何十年にもなるが、里山に杉を植えて、広葉樹が無くなりドングリが落ちなくて蟹がいなくなる。
蟹がいなくなるということは、そのうち海が変わると思う、先々が怖い。
川にいけばメダカが見られる生活空間があることが夢、小学校の頃の風景を形的に表すのが目的で、まだまだ入り口で全然達していない。
今、かやの実を植えていて、かやは何百年も生きるので、それの何百年後を思いやっています。

土に葉っぱを入れたりして自然界は与えることから始まる、人間は搾取から始まるからおかしくなる。
苦しいと悩みは別、肉体的に苦しいとか、仕事が大変だとか悩みではない、悩みは脳、心がよった時?(聞きとれず 病んだ?)だから、有るがままに生きれば問題は無い。
悩みは勝手に自分が優位な立場に立って見る、空想の世界だと思う。









2016年1月5日火曜日

吉住小三代(三味線音楽普及の会理事長)・三味線の響きを世界に

吉住小三代(NPO法人 三味線音楽普及の会理事長)・三味線の響きを世界に
能楽梅若流の家に生まれ幼いころから伝統芸能に慣れ親しんできた、吉住さんは長唄吉住流の6世吉住小三郎さんと結婚、三味線演奏家の道を歩んできました。
吉住さんは三味線の良さを判ってもらおうと2000年に、NPO法人三味線音楽普及の会を立上げこの15年間で3400か所あまりの小中学校に主張授業を行っています。
去年ウズベキスタンで開かれた第10回世界伝統音楽の祭典で、太鼓とコラボして第一位になり国内外の三味線の普及に自信がついたと言います。

去年ウズベキスタンで66ヶ国の国々から楽器を持ち寄ったり合唱等で参加して行われました。
シルクロードの中間あたりのところで、オアシスの国で水も緑が豊かで為政者が欲しい国で、長い歴史の中で、征服されてしまったりしました。
20年前の大地震があった時に劇場だけが残ったが、その劇場があり、戦争でソ連の日本人の抑留された方がウズベキスタンまで連れて来られて、労働をさせられて、その時に日本人によって建てられたのがその劇場です。
地震でその建物だけが残ったのでウズベキスタンの人は日本人を凄く尊敬してくださる。
埋葬されている日本人墓地に桜を植えて供養したという事があり、ウズベキスタンの人は私たちが演奏すると大喝さいしてくれました、非常にうれしかったし、先人たちは凄いと思って涙涙(るいるい)しました。
演奏者が6人、踊りがちょっとですが、三味線でエントリーしました。
太鼓とコラボして第一位になりました。
楽器を通して日本語を伝えたかったので、日本の花鳥風月、風土などをテーマにしたものをつなぎ合わせて演奏しました。 15分ぐらいの演奏でした。
「さくら さくら」とか虫の声、水の流れ、お祭り、獅子(日本の伝統に欠かせないので)が狂っているさま等をつないで、太鼓を入れてやりました。

三味線のルーツがシルクロードなんです、シルクロードから中国大陸から沖縄に入ってきて、三線(さんしん)になったのが今の三味線のルーツと言われています。
似たのはあったが4本だったり、長さも、大きさも色々あり、どれがそうなのかは分からなかった。
日本では三味線は大劣勢です、音楽教育の問題があると思います。
明治の教育で和楽器は学校教育から追い出されてしまいました。
三味線を見たことがあるかどうか子供に聞くと200人で3人位です。
2000年に文部科学省が、音楽に和楽器をひとつ教えなさいと変わって、音楽の先生たちは何をしていいか判らず、太鼓が取り入れられたが、三味線をなんとかして和楽器として習ってもらいたいと思ったが、個人が動いても相手にされないと思って、NPOを組織して指導法も確立して手探りでNPOを立ち上げました。
4代目吉住小三郎がいまして、文化勲章を頂戴したり、文化功労者、人間国宝にもなり、祖父が後世に伝えなくてはいけないという思いになったのは福沢諭吉だったそうです。
福沢先生自身も三味線の音を聞くと筆が進んだそうです。
祖父は西洋音楽が全国を覆ってしまうので廃業しようと言ったら、福沢先生が「君は何を言っているんだ、これから日本の文明が世界に出てゆくときに日本人が日本の楽器をすててしまってどうするんだ」と言われて、4代目吉住小三郎は家庭の中の皆さんに習っていただく事を主体とする流儀にしようと思った。

長唄研精会を作ったり、芸大に邦楽科を作ったりという作業をしました。
100年経って文部科学省が和楽器に目を向けてくれた。
祖父の流れを汲んでいる家のものとしては、これはやらなければいけないと思って、全国の学校に行ったり、皆さんに伝えることが務めだと思いました。
今の音楽とリズムが違うのですが、判ってくれる人が欲しいです。
和楽器に触ってほしい、日本文化を語ってくれる人が欲しい。
パリで能をやったが、日本大使館にいた超エリートの人達の能に対する知識が全くなくて、恥ずかしい思いをしたという事もあり、梅若流に生まれた人として、その国の文化をそれなりに理解をしてほしいと思う。
日本人の感性、そういうものをこの楽器を通して感じてほしいと思います。
三味線は難しいので、リズム遊びをしたり、音階を弾いてみたり、水の音を表して見せたりします。

40分で構えさせて色々するのには、大変です。
弦楽器と打楽器として組み合わせたりもします。
ドとミの音の間には無数の音のつながりがあり、色に例えると白と黒は合い反する色であるがその間には無数の灰色があり、いろんな事を考える事に相当するので、白のA君、黒のB君の間に相いれないところにも無数の解決策がある事を理解するように言っています。
3000校、延べ12万人弱の生徒が三味線を持って弾いてくれました。
本当に弾くところまではなかなかいかないです。
三味線は歌を歌う方の伴奏楽器ですが、楽器としての三味線を日本人の中に根付かせるのは、難しい。
音色そのものはウズベキスタンで世界の人が綺麗だと言ってもらえたので、これからどうやっていこうかというのが一つの課題です。
ボストンからオファーがありました。
繋げてゆく辛抱強さは女性に向いていると思います。














2016年1月4日月曜日

八木忠栄(詩人)        ・ふるさとを詠む

八木忠栄(詩人)            ・ふるさとを詠む
昨年出版した詩集「雪 おんおん」が現代詩人賞、詩歌文学館賞とダブル受賞して注目を集めている詩人です。
昭和16年生まれ 新潟県出身 東京の大学を出て現代詩の編集員として活動してきました。
その一方で自分でも多くの作品を世に問うてきました。
いつも疾走している詩人と言われてきましたが、最近ではじっくりとふるさとを歌うようになったそうです。
ふるさとから眺める弥彦山、良寛さんが暮らした国上山の庵など、地元を愛する詩や俳句の作品を数多く発表しています。

「煮菜」 大きい菜をたるに漬けて冬の貯蔵食、それを塩出しして煮たり潰した豆を入れて食べたり、そればっかりだった。
新潟の見附市生まれ、買い物など長岡が多かった。
故郷の詩はこのごろは多い、若いころは嫌だなという感じがあったが。

「母が笑う」
「母が笑う  20cm余りも降りまして 人はてんやわんや 人は滑って転んで転んで おめでとうございます  雪は滑る滑る滑る滑るとも こたつでTV、茶を吸いながら 雪国の母はあきれ顔で笑う
ばーかめ すってんころりと町も転ぶ せがれやかかあも 滑って転ぶ転ぶ 雪降る町はなぜか
うれしい  母の笑いの小さな渦巻き、 ばーかめ 電車も会社も滑って転んで転んで はいおめでとうござんす」

父も、母も、弟も死んでしまったので、昔の故郷に帰る機会が少ない、そうすると逆に故郷を思い出す。
昔、親が花札をやるのを見るのが楽しかった。
最近は百人一首を子供や孫たちとやります。

「姿正しき」  (「姿正しき・・・」は子供のころの校歌)
「姿正しき 弥彦山と歌い 俺たち裸足で板の廊下を走った。 滑って転んだ。 先生に怒鳴られた。 守門岳のてっぺんには 冬の印がもう夜明け前から 座りこんでいた。 刈谷田川の浅瀬でちぢこまっているちいさな巻貝たちも一緒になって校歌を歌った。 姿正しき  その言葉で俺たちは背筋をすっと伸ばした。  浅瀬は冷え込んで 傾くだけ 流れは小さな巻貝達を あっさりひっくり返した。  それでも新年の餅はまぶしくよく伸びた。 廊下も伸びた。 伸びて伸びて弥彦さままで 向こうは佐渡よ。 小さな巻貝達 今朝も姿を正して歌え。」

高校時代に新潟日報に詩の欄があり、投稿して活字になるのが嬉しかった、それがきっかけで、詩を書く様になった。
編集者にはなりたいとぼんやり考えていた。
昨年、詩集「雪 おんおん」が現代詩人賞、詩歌文学館賞する。
詩集の最後に富岡多恵子さんが疾走を志す詩人だと書いている。
若いころはそういう自覚はあった。

「リヤカー走る」
「どろんこの道をリヤカー走る。 赤い風にあおられ 風ダルマになった父が引くリヤカー
ぐんぐん走る走る。 リヤカーにもうろくしたじじばば乗せて  楽しいなうれしいなせつないな
ひょーい じばばは立ちあがってがっぷり四つ。 照国 葉黒山 よーいはっけよい。  やんやの声援を惜しまない。 道の草々 風ダルマになった父は どこまで走る。 
野良着はだけて泥跳ね飛ばし 勝手知ったる田んぼの道。 でこぼこ 渡り鳥は整然と 弥彦山を越え北を目指す。 あたりは寒く暗くなってきやがった。  赤い風が煽る煽る。 じじばばは抱き合ってけったけった笑い  時に飛び上がってどなりわめく。  構わずひた走る父のリヤカー。 
千切れ飛びすっとび 蛇は石垣に身を隠す。 出べそが邪魔だなあと田の神様。 うっうるさい。  日は無常にも大きく傾く まだまだ走る。」

書きだして書いているうちにぱっと言葉が出てくる、頭で考えていると出てこない。
全部わかっていたら書いてもしょうがない。
静かなところが良いかというとそうでもない、酒を飲んでいると駄目です。
俳句も20年ちょっとになりますが、これは遊びです。
短歌と詩は近い、俳句は全く詩とは切れるので両立できます。

「長き夜は うつらうつらと 故郷(ふるさと 又はさと)の酒」
「春の雪 ごぜさんたちの せにやさし」  ごぜさん(お爺さんの知り合いで、親戚とか近所の人、 外から来る人)
「ふるさとへ ゆきつもどりつ 青田風」
「つくしんぼ みな良寛さまの 立ち姿」

俳句はスパッと決めてゆく、俳句の面白さは詩にはない面白さ、だから両方続けられると思う。
良寛さんの歩いた後を何度も歩きました、五合庵にも何度も行きました。
田村隆一さんは三代が一緒になってようやく文化は引き継がれていくと言ったが本当にそうですね、今はそれが崩れてきている。

「あの柿の木の股」
「お前はのう  あの柿の木の股から 産まれたがんだ。 窓の外の柿の木を指差し ばあさまはにっこりして  私にくり返しそう語って聞かせた。  そのたびに柿の木の股をしげしげと
眺めながら こどもごころにちょっと淋しかった。   ごつごつして妙になまなましい股。  
ばあさまの言葉を私は信じて疑わなかった。   けれどもばあさま! 
弟の場合はある秋の日の午後、かあさんのサルマタのなかにオギャーと産まれ落ちたんだよなあ。 家中みんなが騒いていたじゃないか。  小学一年生の私はそれとなく知っていたぞ。  
「でも せがれであるおまえはおまえ、、、、」  柿の木の股がほんとうのかあさんだとすれば  
毎年たわわに実るあの柿の実は ひとつ残らず私の兄弟姉妹ーー 幼い私にも世のなかのことが  少しだけわかりかけてきた。」

詩に満足はできずに、次へ次へとやっていくうちに何十年もたってしまう。
意識的に故郷を書くつもりはないが、お爺さんお婆さんに自分の年齢が重なってゆくとそうなるんですかね。
詩を書く時間も自分の人生に中で見いだせれば素晴らしい事だと思います。
物をよく見る、自分の言葉で書く。
詩には約束事がない、自分が書きたいことを書けばいい。













2016年1月3日日曜日

茂出木雅章(日本の凧の会会長)  ・凧揚げと私

茂出木雅章(日本の凧の会会長 西洋料理店社長)   ・凧揚げと私
昭和14年生まれ  老舗西洋料理店の二代目社長  全国に会員がおよそ1100人いる日本の凧の会会長として全国の凧揚げ大会を廻り、いそがしい日々を送っています。
凧揚げの楽しみ、凧揚げの糸で結ばれた人との繋がり等を話していただきます。

2~10m以内が手ごろな風です。
1月に入ると、新春凧揚げ大会があり、何十か所で行われます。
東京方面では日本の凧の会の新春凧揚げ大会を板橋の河川敷でやっています。
子供のころは広場がありました、私は3階の屋上に父につれて行かれて、江戸凧、やっこ凧を揚げました。
やっこ凧は庶民に人気があり、目にロウを塗って揚げるときらきら光りました。
地方で毎週あり、土日はいませんでした、海外にも誘いがあり、行きました。
地方では端午の節句に凧を揚げるのが多いです。
保存会では地域の祭りの密着が多いです、浜松の凧揚げ祭り、凧合戦でお互いの糸を切り合う勇壮な凧揚げです。
新潟では白根、根付、三条が盛んです。
長崎、愛媛県でも有名です。  長崎では凧のことを「はた」と言います。

浜松の場合は畳一畳位の凧に初孫の名前を書いて、2枚を作って一枚は飾って一枚を揚げます。
糸は麻で出来ていて、町は240町ありそれぞれそこの初孫の凧を揚げ、お互いの糸が絡んで引っ張りっこして段々煙が出てきます、お互いに糸を切り合います。
昔凧は「いか」と言っていました。 江戸時代「いかのぼり」といっていて それが「たこのぼり」という様になりました。
正月に凧を揚げるのは江戸の習慣で、地方では端午の節句とか、風のいい時に行いました。
参勤交代で江戸ではやった絵柄を持ち帰って地方のものにして行った。
風のない時は軽い凧を使って糸を長くして風を読んで揚げて、上空に場がると風があるので
何とかなる。
強い風だと凧の欠点が出てくる、バランスが悪いとかあり、調整をする。
凧は絵を描いて、竹ひごを削って、運動する、3拍子揃っている。

池波正太郎さんが店に来て「坊主 凧あげばっかりやってるんじゃないぞ」と言われたことがありました。
子供は凧を渡すと走り出すが、これは不思議です、風を読んでふっと揚げてやるわけです。
最近は無風凧があり、風がなくても揚がる様な凧があります。
飾り凧 お正月の気分が出ます。
日本の凧揚げ大会は前夜祭があって、次の日があって、次の日の午後は解散です。
外国は盛んで、最低1週間、2週間とか、ひと月とかもあります。
竹と紙 ファイバーグラスとナイロン とがあり、ヨーロッパに行くとでかい凧ばっかりです。
私が持っているのが45m×20mで、連凧は日本人が記録を持っています。
五並中学校で19850枚位の世界記録があります、大きさははがき2枚位。
風がないとばさっと落ちてきて、風が強いと凧が反って下に落ちてきて、丁度いいとまっすぐ登り竜みたいに気持ちよく揚がります。

100畳の凧は直径5~6cmの糸を持って揚げます。
小さい方では5mm4方に絵を描いて、京都の方が揚げました。
武者絵、出世した人、宝船、だるまさん、龍等の絵柄が多い。
字凧も多いです。
ナイアガラの滝でアメリカ側からカナダ側に対してアーチをかけたことがあります、800枚の連凧でした。
150年前から凧あげがあり、凧がカナダ側に飛んでいってしまって、凧を探して、探っている糸を段々太くしてロープにしてワイアーにして吊り橋がかかった。
ホーマン・ウォルシュ(HomanWalsh)という人の凧だったがアメリカの銀行家で全米一の銀行家になり、その人を記念した大会が毎年あり、その時の大会で賞をもらいました。(800枚の連凧)
「カイト」全天候型の凧(NASA開発) 雨が降ってもいい。

和凧 竹ひごをうまく平均に削って、絵を描いて、糸を一か所に纏めて、糸目の中心を定めて、角度を決めて作る。
江戸凧は糸目が綺麗に揃っていると、江戸凧は綺麗、金に糸目をつけないというのはそういうところからきていると思う。
私のところに小さな凧の博物館があるが外人の人の方が多い。















2016年1月2日土曜日

西畠清順(植物卸問屋5代目)    ・プラントハンター世界を駆ける

*録音のセットが悪くて、うまく録音できませんでした。

西畠清順(植物卸問屋5代目)    ・プラントハンター世界を駆ける
35歳世界を旅して珍しい植物を探すプラントハンター、1年間で地球を 10周分移動するという事です。
時にはジャングルの奥に入り崖に登り危険を冒すこともあるという事です。
兵庫県川西市で明治元年から続く花と植木の卸問屋の5代目です。
生産している植物は数千種類に及び、生け花、各種イベント、大規模な再開発のプロジェクトなどに参加し、海外からの依頼にも応えています。
おととしの春NHKスペシャル「地球を活け花する プラントハンター世界をゆく」で公開され反響を呼びました。
見たこともない珍しい植物を日本で公開し、多くの人を感動させてきた西畑さんに伺いました。


2016年1月1日金曜日

栗原小巻(女優)          ・舞台、旅、出会い 

栗原小巻(女優)            ・舞台、旅、出会い 
栗原小巻さんは1970年代前後に、NHKの大河ドラマの看板女優として次々とヒロインを務めました。
1967年の「三姉妹」、1970年の「樅の木は残った」など、可憐な姿は皆さんの記憶に残っている事でしょう。
栗原小巻さんはその後人気女優街道を驀進し、TV、映画、舞台に大活躍しました。
映画では「戦争と人間」や「しのぶ川」など、演劇ではアンナカレーニナ、マイフェアレディー等で主役を演じています。
最近は舞台公演が活動の主体になっています。
去年の後半からはシラーの名作メアリースチュアートのタイトルロール役に専念しており、年をまたいで3月前半まで全国各地で公演を続けています。
そのほか、中国やロシアとの文化交流にも力を注ぎ、去年2015年6月に開かれた上海国際映画祭では日中文化交流協会副会長として、上海を訪れています。

NHKの大河ドラマ 「三姉妹」、「樅の木は残った」、「新平家物語」、「黄金の日々」、4作出演
三姉妹では岡田茉莉子さん、藤村志保さんと一緒だったが、大ぜいの記者の前、諸先輩の前大変緊張しました。
元日の放送でした、俳優人生の幕が開いた様な瞬間だったと思います。
撮影が始まった時は21歳でした。(劇団に入ったのも直ぐでした)
三番目の雪という役で、三姉妹が中心になって展開する明治維新に生きる人々の群像劇、初めての時代劇でした。
お茶の稽古をしたり、着物を借りて自宅で着物を着ての稽古をしたりしました。
大先輩の人と話ができたり、大変勉強になりました。
「樅の木は残った」 原作は山本周五郎 原田甲斐の人間像を深めるために青春時代を描く事が必要だという事で五味康祐先生が原田甲斐の青春時代を書いて、私は「たよ」という大事な役だと言われて、受けることになりました。 「うの」が吉永小百合さんでした。
いきなり裸馬で乗馬の訓練から始まりました。

映画では1972年「忍ぶ川」 毎日映画コンクールの女優演技賞を受賞。
雪のシーンを明るく撮りたくないという事でモノクロの作品でした。
その時監督が病での撮影で、監督さんには厳しい時でした。
この時のテーマは命なので二人が結ばれるシーンも、祝言の場面と同じような厳粛な気持ちで臨みました。
「男はつらいよ」にも2作出演 4作目「新・男はつらいよ」 36作目「柴又より愛を込めて」
日本人の心情を描いた国民映画だと思うので、2作出演できたのは嬉しいです。
4作目は脚本が山田洋次さんメガホンが小林俊一監督で、もともとはTVドラマでしたが、TVドラマの時のディレクターの方でした。
どちらも先生役でした。
そのほかには「サンダカン八番娼館_望郷」「愛と死」「子育てごっこ」、「姫ゆりの塔」等。

舞台では外国の作品が多い。
演出家、千田是也 俳優座からの恩師です。
1年に一本一緒に作品創造があり、1994年に先生が亡くなるまで続きました。
毎年どういう作品を作ったらいいか、先生の書斎に伺って作品を探すところからさせていただきました。
資料が山のように積まれていました。
今その社会の中でどの様な作品を選ぶべきかなどを学び、私にとって今何が必要か等、考えてくださいました。
「ルル」という作品 久しぶりに先生の演出をしていただいた作品。
ブレヒト、シェークスピア、ロシアの作家の作品等に出会う事が出来ました。
現在は実の弟の演出家の加来英治 の舞台に上がることが多い。
1995年に先生がいらっしゃらなくなり、「欲望という名の電車」に出演後、は加来英治と一緒にやってきました。
「メアリースチュアート」 シラーの原作  メアリースチュアートが私、エリザベス一世が樫山文枝さん。
奔放に生きた女性。 豊かな感情もあり精神の自由を求める姿に深い共感をおぼえました。
当時スコットランドとイングランドは全然別の国で、単なる歴史劇ではなく、今の政治状況にも通じる問題も抱えています。

舞台の衣装デザインも担当していて、その時間もとっても必要です。
全国72ステージ 上演します、演劇鑑賞運動の中で上演されています。
演劇鑑賞運動の会員になると、舞台との交流、会員同士の交流が生まれます、一体感が生まれます。
その日その日、舞台では作り上げてゆくものだと思います。
TV、映画、舞台 それぞれいいところがあります。
海外との文化交流、1979年中国における日本映画週間 「愛と死」を上演して、翌年「望郷の星」日中合作映画 長谷川テルの役 等に出演。
去年2015年6月に開かれた上海国際映画祭では日中文化交流協会副会長として、上海を訪れました。
日中の交流は平和への道と信じて活動させて頂いています。
挨拶などもありますし、中国語を勉強しています。

バレエでロシアとの交流があり、合作映画3本ありますし、「桜の園」など上演しました。
現在、ロシア文化フェスティバル日本組織委員会副委員長として、芸術全般の交流を進めさせて頂いています。
政治的にぎくしゃくしている時こそ文化交流が必要になってくると思います。
昨年フィギュアースケートのグランプリファイナルでロシアのエフゲニア・メドベデワ、ショートプログラムで1位になった彼女が選んだ曲が「白夜の調べ」、私がヒロインを務めた日ソ合作映画の曲です。
それは日本とロシアの心の交流でした、関係者から伺って感動しました。
中国の北京大学で講演した時に、日本語学科の人と話をした時に「愛と死」のセリフを教材にして日本語を学んでいるという事を聞いて驚き喜びでいっぱいでした。
演劇活動、文化交流が人生の二本の柱だと思っています。