2020年3月31日火曜日

〔「ラジオ深夜便」30周年特集〕

〔「ラジオ深夜便」30周年特集〕アンカー大集合
後藤繁榮アンカー:2014年4月から担当。
「ラジオ深夜便」を担当してくれと言われた時には本当に跳びあがって喜びました。
50歳ぐらいからいつか「ラジオ深夜便」を担当したいと思っていました。
或る人が会場に行くのを楽しみにしていたが、安心感からいつの間にか眠ってしまったという事でしたが、こういう仲間たちが一緒に時間を共有しているんだという、時空を越えた番組だと実感を持ったという話を聞きましたが、こういう番組なら是非やらしてもらいたいと思いました。

高橋淳之アンカー:2011年8月から担当。 アンカーの中に同期が5人います。
夜がめっぽう弱い、アウェイ感があります。
リスナーとアンカーがしっかり作り上げてきた世界がしっかりあるような気がします。

二宮 正博アンカーからのメッセージ:自分が企画立案し番組を制作できる「ラジオ深夜便」は大袈裟に言えば生き甲斐を与えてくれると思います。
取り上げてきた企画は「サイエンスは今」という30分ほどのインタビュー番組です。
様々な先端技術を判り易く伝えようとするものでした。
その道の専門家に話を聞いた方が手っ取り早いと思ったのも、その動機の一つでもありました。
この企画は自己満足だったのかなあとも思いました。
今年度で終わります。

徳田章アンカー:2010年4月からと2016年4月から2度にわたって出演しました。
インタビューで唯一亡くなったのがペギー葉山さんでした。
「夜明けメロディー」「思い出の岬」に2曲を歌っていただきました。
「ドレミの歌」はどうしてできたのかとか話を聞きました。

村上里和アンカー:2014年7月から担当しています。
40代の後半から担当していて命、生きることに深く考えるようになりました。
明日はかならず来ると思っていましたが、明日が来るとは限らない、どう生きてゆくか、どう死んで行くかといったことを考えるようになりました。
リスナーからいろいろ手紙を頂き、どう生きてゆくか、どう死んで行くかといったことを人間だれしも考えなくてはいけないんだなあという事をひしひしと感じるようになりました。
思いがけない言葉が急に聞こえたりして力が湧いてきたりします。

中村博アンカーからのメッセージ:アンカーになって丸10年、自分で製作したインタビューは199本、191人になりました。
子どものころからのあこがれの大村崑さんに会うことができました。
会う前に電話でどんな話が聞きたいのか、とか 再放送の際はお礼の電話がありました。
メールで済ましてしまう事が多くなってきた中で、人間は声と声で話すことで気持ちが通じるものですとおっしゃいました。

住田紘一アンカーからのメッセージ:元NHKアナウンサーの山口岩夫さん(当時96歳)の言葉が一番印象に残っています。太平洋戦争末期には大阪放送で連日空襲警報を伝える勤務についていました。
「戦争って詰まんないですよ。 何か色々戦争の意味とか大義名分を作るようですが、やっぱりやっては駄目です。戦争で解決するというのは愚かですねえ」とおっしゃいました。
二人の兄さんを亡くして悲しみを背負って生きてきたんだと感じました。

迎康子アンカー:2006年6月から担当。 14年になります。 日本列島全部が大家族「深夜便」ファミリーみたいな感覚でお便りが来るのを温かく思っています。
或る中学生からの便りがあり高校、大学、そして社会人になりましたという便りで月日の経つのは早いなあと思い、これからも見守ってゆく、そういったものが「深夜便」かなあと思っています。

石澤典夫アンカー:2009年10月からの担当。 11年目に入ろうとしています。
ラジオはパーソナルなメディアだと思っています。
いろんな人々がそれぞれの生活時間に合わせて聴いています。
毎回全国からたくさんのお葉書を頂きます。
番組の最後に「二度と来ない今日という一日をどうぞ大切にお過ごしください」という風に申しあげるんですが、元気が出たとか、もうちょっと頑張って見ようと思っているから今から計画を立てますとかいろんな言葉を頂きます。
一言一句おろそかにはできないんだなあと意識しながらやっています。

桜井洋子アンカー:1975年にNHKに入りました。
2016年4月から担当しました。
深夜便の集いはリスナーの方と直接会えるのが楽しみですが、陸前高田市にお邪魔した時、平成16年の秋でたんぼ、海などいろんなところへお邪魔してインタビューしました。
2011年の大震災の時にTVから流れてくる映像に冷静に見ることができませんでした。
電話して声が聞こえなかったらどうしようと思って、電話できなかったんです。
大震災から5年経って電話を掛けたら「もしもし」という電話の声が聞こえたんです。
その時に全身から力が抜けてしばらく声が出ませんでした。
集いの時には会場に来てくださって無事を喜び合いました。

須磨佳津江アンカー:2003年5月からです。 最初はピンチヒッターで入りました。
17年になります。 スタジオではリスナーだと思って凄く楽しんでいます。
自然に流れて行くんだんあと思って、それがそれぞれ違うから個性となって喜んでいらっしゃるんだなあと思ったのが最初でした。
色々なハガキを頂きリスナーの方ってつくづく良い方だなあと思います。
人は繋がりたいんだなあ、繋がって安心して夜を過ごせるんだなあとつくづく思います。
妻の手と流されないように木はつかんだが、自分の前でおばあちゃんが流されていくのを見て、しばらくは話すことができなかったが、時を経て話さなければいけないと思うようになったと言っていました。
深夜便は一方通行のようですが、繋がっていてそれで力を持ててる人がいて下さるのなら嬉しいと思っています。

遠藤ふき子アンカー:1993年10月から26年半担当。
あっという間でした。 当時私は最年少でした。
最初早口で聞き取れないと不評で落ち込みました。
企画、出演交渉、編集まで全部やって、やっているうちに母親の介護の事が出てきて、悩んでいるときに色々励ましてくださった方々がいてリスナーに救われました。
ラジオは生放送なので矢張りチームワークだなあと思います。
チームに支えられて、あっという間に26年間過ごしてきたなあと思います。
「母を語る」も24年間続いています。
自分自身の悩みの中から生まれてきました。
午前2時に寝て朝10時に起きて、睡眠はしっかりとります。

*入れ替わり立ち代わりでまとめが難しい、うまく伝えられなかったと思います。













2020年3月29日日曜日

佐塚元章(元NHKアナウンサー・スポーツジャーナリスト)   ・【スポーツ名場面の裏側で】「オリンピック放送の裏側で」

佐塚元章(元NHKアナウンサー・スポーツジャーナリスト)   ・【スポーツ名場面の裏側で】「オリンピック放送の裏側で」
56年前1964年の前回の東京オリンピックの放送が記憶に残っていると思います。
中学2年生でした。
オリンピックを伝えた放送ってすごく創造的で素晴らしいと思いました。
10月10日東京国立競技場で行われた開会式。
鈴木文弥氏のラジオ実況。
*「ラジオ深夜便」でのインタビュー
(絶対にラジオの開会式を完全にものにしようと思いました。 参加94か国を全部覚えて人数が違うのでその時間内に選手団のことを言えるようにしました。
ジョギングしながら架空実況を一か月やりました。 もうひとつは酒井義則君の聖火台でこれには架空実況を何度もしました。 163段の階段でどういったらいいか、53秒でやらないといけないと思って本当によく練習をしました。 本に書いていますが、この開会式は自分の最高傑作であるとうぬぼれています。)

鈴木文弥さんは「ウルトラC」とか「金メダルポイント」という新しい言葉も使って放送しました。
土門正夫さんはローマ大会からロサンゼルス大会まで7つのオリンピック放送を担当しました。
11年前「ラジオ深夜便」に出演した時に一番思い出に残るオリンピック放送で東京オリンピック大会のTVでの閉会式の話をしてくれました。
*(閉会式では何分何秒までびしっと決まっているわけです。 ふっと見たら旗の後ろから選手団が山のようになってくるんです。 あとはめちゃめちゃでした。
こっちは真っ青になってしまって、何にもなし、こういってやろうと思っていたことなど何も言えず、言っていたことは覚えていないです。 放送が終わった瞬間には全員真っ青でした。 放送スタッフの部屋のところに入ったら大拍手でした。
イギリスの有名なスポーツジャーナリストが「東京オリンピックの最高の成功は閉会式である。」と言って嬉しかったです。
それからのオリンピックの閉会式はあのスタイルです、定番になっています。)
伝える夢中さが放送の効果を上げたんだと思います。

1932年ロサンゼルスオリンピックでラジオ実況中継をやろうとしたが、地元の組織委員会との交渉が上手くいかなかった。
見てきたものを実感を込めて伝えるという放送になってしまった。
1936年ベルリンオリンピックから実況中継になりました。
*ベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎの河西三省アナウンサーの実況放送。
「前畑 頑張れ」は30数回、「勝った 勝った」は連続12回言っています。
放送と聴取者が一体となりました。
1964年東京オリンピック TVオリンピックの幕開けとなり1968年メキシコ大会ではスロービデオが開発されてスローモーションビデオでも観られるようになりました。
1984年超高性能の望遠レンズが開発され、機材が小型化され、無線で映像が送れるようになった。
女子マラソンでアンゼルセン選手がS字を描くように動く姿を7分間優勝争いとは別に映して、超高性能の望遠レンズでアンゼルセン選手の表情を克明に映してTV放送の見方が変わってきた出来事でした。

日本のオリンピック放送はNHKと民放が合同でジャパンコンソーシアム( Japan Consortium)という組織を作って一体となって放送しています。
1976年のモントリオールオリンピックから続いています。
前回のリオデジャネイロオリンピックではNHK,民放半分づつで、TV、ラジオを合わせて30人ほどでした。
オリンピック放送機構(Olympic Broadcasting Services OBS)が世界共通の映像を作ります。
世界中のオリンピック放送の拠点となるのが国際放送センター (International Broadcasting Centre, IBC)です。

海外に行って担当すると沢山の競技を担当します。
例えば1992年バロセロナオリンピックでは体操をメインで6日担当、その後卓球、ハンドボール、ヨット、フェンシング、サッカーなど実況しました。
オリンピック放送は体力放送だと思います。
放送する資料を準備しなくてはいけなくて睡眠不足にもなります。
担当内容も流動的になり担当したこともないようなときもあります。
国内放送の環境を10とすると、2,3という様な状況です。
食べる事にも苦労します。
バロセロナオリンピックの女子200m平泳ぎ、岩崎恭子さんの金メダルを取ったときの放送を担当させてもらいました。
ふっと56年前のベルリンオリンピックの河西三省アナウンサーと同じことをしているんだなと思いました。

松本:1984年ロサンゼルスオリンピック体操競技 具志堅9,875 以上なら金メダルといったが正確かどうかわからなくて足がガタガタしたが、9.90でした。
涙が出て放送が続けられなかった。
世界最高の技、スピード、美しさ、戦術、トップ選手の精神力の強さなど垣間見みて、それを表現できる喜びはスポーツアナウンサー冥利に尽きます。




2020年3月28日土曜日

木野花(女優・演出家)          ・「自分を変えたい 芝居の世界で半世紀」

木野花(女優・演出家)        ・「自分を変えたい 芝居の世界で半世紀」
木野花さんは青森県出身、幼少期は青森市や陸奥の横浜町で過ごされました。
弘前大学教育学美術学科を卒業して中学校の美術の教諭になりますが、一年で退職、上京して演劇の世界に入りました。
1974年に女性だけの劇団「青い鳥」を結成、翌年旗揚げ公演をして80年代の小劇場ブームの中で活躍されました。
1986年には劇団を退団されて、以降は女優、演出家として舞台、映画、TVドラマ、コマーシャルなど幅広い分野で活躍されているほか、若い俳優さんたちの育成などにも取り組んでいます。

毎日1時間ぐらいストレットとか筋トレをやっています。
舞台は体力が必要で訓練しています。
NHKの連続TV小説「あまちゃん」の長内かつ枝役(メガネ会計ばばあ)」に出てからのまわりの反応はちょっと半端ではなかったです。
映画「愛しのアイリーン」(2018年9月)キネマ旬報ベスト・テン 助演女優賞受賞。
ハードな映画で、夏は熱中症、冬はインフルエンザにかかりながらふらふらで撮っていました。
息子を溺愛する保守的な母親役でした。
子どもの頃転校が多くて、虐められましたが気が強くて倍返ししていました。
東京に出てきて凄く不器用な人間だという事が判りました。
物心ついてからひねくれて、中学、高校の頃生きているのがむなしいような時期がありました。
引っ込みがちになって行きました。
家で本を読んだりしていて、絵をかくことは一人で好きな時に絵をかくことができ楽で、美術をやり始めました。

大学時代は家から離れたとたんに解放されて気が楽になりました。
教職に就いたのは全く異次元の世界でした。
職員室が一つの社会で、男尊女卑でお茶を出すことも器用に出来ず、失言が多かったです。
このままやって行けるのか考えてしまい、ストレスが重なっていきました。
2か月を過ぎていろいろと体調が悪くなっていって、病院に行ったらストレスだと言われました。
環境を変えるのが一番だと言われて、辞めようと思ったら何かスーッとしました。
自分を変えようと思いました。
たまたま演劇の特集をしていた雑誌があって、アングラの世界でもまれたら相当に強くなるのではないかと思って、自分を鍛えようと思い養成所に履歴書を出していました。
津軽弁なので東京に来ても1か月は何も言えなかったです。
目標は早く自分を変えて青森に帰る事でした。
朝から晩まで働いて、演劇のレッスンもして3年で帰ろうと思っていました。
ふっと周りを見るとみんな演劇を楽しんでいるんです。
やっているうちに健康になって行って、みんなとも話を積極的にやって、人にまみれていきました。

1974年劇団「青い鳥」を5人の女性だけで立ち上げました。
自分を難しい方へと苦労させようとしていました。
役者だけなので台本を書くとか演出とか、すべて自分たちでやる事になりテーマ、ストーリー、役など話し合っていきました。
台本、演出もなんとなくやるようになりました。(1980年代)
55歳まではまだいつかやめてなんかの職に就こうかと思って役者をやっていました。
55歳過ぎてそんな都合のいい仕事はないと言われて、芝居しかないんだよと言われて、変わってきているのに、自分には満足していませんでした。
どこへ向かうのかなと考えたときに、自分を変えるのに期限はないなと思ったんです。
これが私の仕事だと思って自分に言い聞かせて、役者の仕事に向き合う様になったのは55歳からです。
青森の人は割としつこくてとことん行こうと言う事と頑固さはあると思います。
今、目標は置かないことにしています。
今という時間、一瞬一瞬だと思って、目一杯その時間を悔いのない様に生きていったら、どこにたどり着けるのか、どういう人間に自分はなって終わるのかなあという感じで、一日一日を大事にして一年一年を積み重ねていくという感じで、楽しみに生きていこうと思っています。









2020年3月27日金曜日

田島征三(画家・絵本作家)        ・【人生のみちしるべ】「押し寄せる情熱で描く」後編

田島征三(画家・絵本作家)  ・【人生のみちしるべ】「押し寄せる情熱で描く」後編
『しばてん』と『ちからたろう』、『ふきまんぶく』はそれぞれ違う書き方になっています。
『ふきまんぶく』を書いた直後に、「すてきなおかあさん」というフューファミリー向けの雑誌ができて、毎号絵を挟み込みたいという事で編集長が訪ねてきました。
毎月は無理だとお断りしたんですが、隔月でもいいからという事でしたが、それもお断りしましたが、飼っているヤギのことをかくならば隔月でも大丈夫だと思って引き受けました。
『ふきまんぶく』は単行本にもなった凄く売れました。
現金収入が凄く増えてしまいました。(35歳)
これではいいのかという思いがあり、絶版にしてしまえば印税も入ってこないので、不退転な決意で、全く新しい世界を書こうと思いました。
5年掛かりました。
食べ物さえあれば怖くはないと思いました。(野菜、ヤギのミルク、ちゃぼの卵など)
1980年『ほらいしころがおっこちたよね、わすれようよ』ができました。(40歳)
今までとは絵が全然違います。
絵本の一つの規則を踏みにじっているんですが、面白いんです。
考えてみたらこれが売れるわけがないでしょう。
これさえ出したら売れると最初思って出したら案の定売れませんでした。
今までの本は自分の個性の範囲を広げていましたが、これは範囲が広がったが平面上ではないんです、全然違います。
とらわれることなく何をやってもいいという感じなんです。
『はたけうた』という本ですが、畑の四季が歌になって出ていますが、この絵は普通でしょう。
普通でもいいんです、何でもいいんです。
『ガオ』これは木の実で作っているんですね、木の実でも絵本が描けるんです。

高校の時に高知市の公民館で夏期講座をやっていて東京から偉い人たちがきてしゃべっていましたが、岡本太郎さんが来ました。
「芸術家というものは努力を重ねて階段を一つずつ昇って行って成り立つもんじゃないんだよ、毎日真っ白にならなければ駄目なんだよ、昨日の経験を生かして次今日なんか作ってはいけないんだよ、そんなもの毎日捨てなきゃいけないんだよ」と言われました。
縄文の土偶がどんなに素晴らしいものかという事、アトリエに籠っていては駄目だという事も言われ、今それで生きているという様なところがあります。
心酔していたわけではないんですが、いつの間にか聞いてしまったんですね。
僕の尊敬する人達がもう死に絶えてしまったのが残念です。
『つかまえた』 少年と魚の絵本は又新しい展開、これから40年を戦い抜く絵本になるかもしれない。
魚を摑まえたときの話でこれは命懸けで取り組まないと難しいんです。
少年が手づかみにしたときの魚と少年との間に流れた感触を,見る人に伝えないといけない。
魚に対する気持ちを絵で表現するのは結構難しいんじゃないかなあと思います、具体的に感じないといけないので。
最期は逃げられるというシーンがあって、茫然としたそのあとで少年があの魚素晴らしかったなあという愛情というか慈しみの心が少年の心に芽生えてきている。
今度は魚の気持ちになって少年の気持ちを描いてみようと思っています。

『とべバッタ』も少年期の思い出が重なってできているが、『とべバッタ』ももうないという事にして、そのためには僕自身が登場して、魚自信が登場するという、今までの僕の肉の中に潜んでいたものを白日の下にさらしてしまうという暴挙に出るわけです。
3年前から始まっています。
体力もないし、才能もないし、何にもないが情熱という事で生き抜いてきましたね。
新しいものを作りたいという気持ちですね。
自分が驚く作品は作り続けたいです。










2020年3月25日水曜日

涌井史郎(造園家・東京都市大学特別教授) ・「心に花を咲かせて ~庭から見える日本人の生き方」

涌井史郎(造園家・東京都市大学特別教授) ・「心に花を咲かせて ~庭から見える日本人の生き方」
涌井さんは大学で教えるだけでなく、国際博覧会の総合プロデューサーを務めたり地域計画にかかわったりと日本の内外で活躍されています。
庭には日本人の生き方が表れているという事です。
自然との付き合い方が日本人は巧みで知恵があるというのですが、どういうことなのでしょうか。
庭を見て未来に向けて学ぶことはあるのでしょうか。

自然との付き合い方が日本人は巧みであるという事ですが、日本列島の特殊性にあります。
一つは花ずがれ列島といわれるぐらいに、桜も沖縄の2月からの満開から8月の終りにかけて樺太桜が咲くように、ずーっと花で繋がれている南北に細長い列島です。
火山列島なので非常に火山性の自然災害が多い。
急流河川が多くて、水害も多い。
じつは日本列島は災害によって作り出された美しさであるという風に見ても言い過ぎではない。
災害といかに付き合うか、自然をどうリスペクトして災害の力を最大化させないために土地利用の仕方をどうするのか、一生懸命考えてきた歴史があるわけです。
災害は予測がつかないから、しのぐという方法と、いなすという方法が非常に重要です。
例えば洪水があるとすると、日本人は堤防をやたら高くして洪水から身を守ろうとは考えなかった。
武田信玄の「かすみ提」、日本の水の勢いは怖いが、勢いを失った水の流れは逆に利用したらいいのではないかという考え方です。
水の勢いをそぐためにいろいろな方法をとるわけです。
そして水を溢れさせてあふれさせたところには竹藪などがあり、内陸に入らないようにして、その水を農地の方に誘導して、サトイモなどをつくったりするわけです。

建築物も同じで、木造軸組み構造は地震に対してどれだけ頑張るか、そういう建て方ではなくて、揺れればかしがっても外れない仕組みを作るわけです、揺れても壊れない。
五重塔などはまさにそうで心柱が上からつるしてあって、下にはついていなくて、揺れを吸収しながら周りはいろんな組み合わせをして、全体の地震は心柱が吸収して、周りのところは継ぎ手と仕口で様々な複雑な構造で、揺れを吸収するという事で倒壊しないという方法をとってきた。
免振、制振は昔から日本人が培ってきた知恵です。
正倉院の柱は平らな台石には乗っていなくて、わざわざでこぼこの石を基礎にして、それに合わせてノミなどででこぼこのある形にして、その石の上に柱を載せている。
揺れは或る程度吸収できる。
災害は不幸な出来事だがそれを受け止めようと、受けとめながら恵みを引っ張り出す。
恵みを最大化して、災害は最小化するという考え方です。

庭の見方、見せ方。
ベルサイユ宮殿は歩きなが全体像は判らない、空中写真を見ればわかる。
ベルサイユ宮殿の庭は一義的には神様に捧げている庭です。
アンドレ・ル・ノートルという人が造園しているが、目線が神の目線なんです。
イスラム庭園もそうですが、絶対神が一人だからです。
おのずと三角形になる、絶対神がいて、キリストという伝達者がいて、イスラム教であればマホメッドという伝達者がいて、その下に人間がいて、その下にありとあらゆる生物がいる、ピラミッド構造になっている。
日本人を含めアジアの国々では「八百万の神」(やおよろずのかみ)という様にどこにも神様がいるんだという風に考えているので、ピラミッド構造に対して、円環の構造を持っている。
人間とほかの生物は差別化されていない。
それが庭に現れています。
日本の多くの庭は座観(座って観る)なんです、見下ろすというよりは見上げる構造になっている。

日本人は月を愛でるが、太陽はありとあらゆる生命の根源ですが、生命に力を与えるのは月だという風に考えたんです。
人間の体液は全部月の引力に引っ張られている。
女性の生理もそうです。
木材の伐採も新月伐採が良くて、2月の新月の月の引力が働いていない時に伐採する。
木材の中にある水分が全部根っこの方に降りているからです。
今は乾燥システムが良くなっているので行われていないが。
時間のプロセスと共に自然が移り変わることを知ることが大事で日本独特です。
日本庭園には滝を作り、急流を作り、緩やかな流れを作り、池に導く。
どのように洪水が起きるのかというメカニズムをミニチュアにしている。
水を知るという事です。
枯山水でも同様で場所場所での石の組み方が全く違うわけです。
「見立て」、自然の景観を庭に持ってくる。
縮景庭園とも言われます、常に自然から学ぼうとしている姿勢だと思います。

日本の植裁は刈り込むという方法をとることがままありますが、徹底的に人工物にするという事はしません。
西洋庭園ではトピアリーという形でいろいろな形に、造形物のようにする。
同じ日本庭園でも江戸時代に見た景色と今観た景色は違ってくる、木が成長するからです。(時間のデザインでもある)
「桃太郎」の冒頭のおじいさんは山へ「しば」刈りに、おばあさんは川へ洗濯に・・・。
「しば」は芝ではなくて、薪であるとか小枝のようなものを「しば」といいます。
里山を大事にする行為です。
野辺という地があるが、採草放牧地という草原で馬や牛を育てると同時に草を刈って馬糞などと共に農地の肥料に替えて行く。
森林性低帯と草地生態系がいっしょに里の周りをくるんでいて、自立循環的に上手に自己完結する、そういうものを持っていた。
おばあさんが川へ洗濯に行く、というのは日本は湿気が多いので清潔にして病気などにならないようにという事で、娘も手伝いなさいと子どもたちに教えて行くわけです。
その延長線上に庭があり、常に自然を観察して、自然の恵みに感謝して、手入れを怠らずにして、自然の厳しさも庭を通じて学ぶ、それが日本の庭です。
庭は命との共鳴です。

鎌倉に育ったので四季折々の変化を体感しました。
昭和20年生まれで、古い日本を代表するような家でした。
時代が変わる時期で翻弄されました。
父は戦犯にはならなかったが、かなりな地位に居たので追放され、私は養子になりました。
屋敷も進駐軍に接収されて将校クラブにされるとか色んな激動がありました。
子ども心に傷ついたものを自然が癒してくれました。
自然を奥深く観るという事の習慣は身に付いたかもしれません。
自然の本質を損なわないで自然を、ちょっと止まっていてねという事で、あなたの本質は侵さないからここの土地だけは利用させてよ、という使い方を日本人はしてきたと思います。
里山を守るという事が日本人には凄く大事だった。
地球は庭なんです。
半径6400kmという膨大な地球ですが、多様な生き物がにぎわっているのはたった3kmです、生存ができるかどうかというところで30kmぐらいの厚みしかないです。

日本は度重なる災害と戦ってきたわけですが、同時に日本列島ほど豊かな命のさんざめいている列島はないという事実もあります。
箱庭のような列島です。
それぞれのライフスタイルを編み出してきた。
今、絶滅危惧種の筆頭にあるのは人間だと思っています。
地球人口はどんどん増え続けているが、好き勝手に資源を浪費して、生命圏の庭をゆがめさせたら、我々自身が地球の上で存在できなくなるという事です。
2050年 自然と共生した世界をこしらえようという目標がありますが、重要なテーマは自然とどう共生するのか、共生のメカニズムとしての自然の資源の再生循環をどう担保するのかという事です。
昔から日本人が大事にしてきたことです。
作りまわし、使いまわしは日本では当たり前にやってきたことです。
豊かさを追い求めるライフスタイルではなくて、常に豊かさをどうやって深めてゆくのか、こういうライフスタイルを選択してきた訳です。
我々が再生循環してお互いが上手にシェアしてゆくのか、それしか道が無いんです。































2020年3月24日火曜日

村松修(プラネタリウム解説コンサルタント)・「きのうの自分よりも一歩先に」

村松修(プラネタリウム解説コンサルタント)・「きのうの自分よりも一歩先に」
村松修さんは1949年生まれ71歳、短期大学卒後、一度はプラネタリウムとは縁のない会社に入社しました。
やがてプラネタリウムの技術者に転じ、解説員も務めることになりました。
村松さんは古希を経た今も、元気に解説員をなさっています。

プラネタリウム解説コンサルタントは基本的にはプラネタリウムでやる番組、投影の解説などをサポートするのが役目で、自分でもしゃべらせてもらっています。
解説が週3日、投影は2回ぐらいです。
「星空散歩」という番組があり解説員が好きにテーマを選んで喋れる番組がります。
その季節その季節の珍しい天体、天文現象などのCGを自分で作ってしゃべっています。
お客さんとは「一期一会」の出会いと思って解説を心がけています。
ボイストレーニングとか一切教わっていません。
小学生の時に学習投影というのがあって、プラネタリウムとの出合いは一回経験があります。
天文少年ではありませんでいた。
NHKのTV番組でほうき星を発見した関勉さんが出演されて、素人が発見するんだという事に衝撃を受けて、本屋で天文の雑誌を見たりして、それがきっかけで星を見上げるようになりました。(高校時代)
会社に勤める時に航空関係の会社を選びました。
五島プラネタリウムに行く機会もあり段々はまっていきました。
五島プラネタリウムから技術係の募集があり、採用されました。

プラネタリウムは精巧な機械などで普段メンテナンスをしないと、いろんなトラブルが起きてしまうので普段から保守点検が必要で、部品の寿命が近づいてきたら交換、ランプが切れる前に交換、そういった事をメインにやっています。
今まで経験してきた航空機の保守と似ていました。
投影中一番困るのが星が消えてしまうので解説員は全然しゃべれなくなるので、緊急でランプ交換することがあります。
夏休みは忙しくて解説員のローテーションが難しくなったり、病気になったりもするので、技術係にもやってもらってはという話が起きました。
解説員の話は自然と耳に入ってくるし、星座の説明の手順なども判ってきました。
気が付いてみるとシフトに組み込まれていました。
天文学の知識が必要になり、勉強もしました。
東京天文台のご指導いただく機会が多かったので、判らないことがあるといろいろ教えてもらいました。
夜になると空を見上げるようになります。
仲間たちと一緒に八ヶ岳の方に出かけて行って一晩中星を見つめて、話のネタを自分なりにメモって帰ってくるわけです。

先輩説明員にはかなわないので、実況中継風にやればいいんじゃないかと思いました。
シュミレーションして今晩何を見たらいいのかという様なスタイルにしようと思いました。
やっぱり本物を見ていただかなければいけないと思うので、どうやって本物の魅力を伝えるのかそこに苦心するわけです。
高校生の頃気になったのが、地球にもクレータがありアリゾナの隕石孔という有名なクレーターがあります。
小惑星のいくつかが地球にぶつかることがあるわけです。
我々が知らない小惑星がもしかして地球にぶつかってくるかもしれないので、監視して危険性のある小惑星を発見しなければいけないという記事が頭に残っていました。
小淵沢に自前の観測所を仲間と建てて、星を見たり写真を撮っていたりしていましたが、もう少し意味のあることをしないかという事になり、未発見の小惑星を見つけたらいいのではないかという事になりました。
仲間が本当に小惑星を見つけることになりました。
そしていくつか自分たちでも見つけることになりました。
小惑星だと思っていたらほうき星だという事がありました。
天文台に報告にいったら、新発見という事で名前が付いたりしました。
共同の発見だったので「串田・村松彗星」という事になって行きました。

自宅で出来る観測はやろうと思って、一等星は見えるので、オリオン座のベテルギウスという一等星があり変光星で普段より暗いという事で、それならばできると思いました。
現在それをやっていてわくわくしています。
昔ながらの星座、ロマンチックなギリシャ神話などもありますが、生の新しい情報は接するようにして、知識の補給は続けないといけないと思っています。
「昨日の自分よりは一歩先を進む今日でありたい。」という言葉が好きです。
出来るだけ時間を割いて自分に鞭打つように口で唱えています。
ちょっとでも新しいことが増えたらいいなあと思っています。
プラネタリウムは自治体も学校学校教育に使うために建ててきたという事もありますが、あの空間をどれだけ生かされるかという事が大事だと思います。
今は技術の進歩でいろんなことができて新しい技術を取り入れた空間になってきているわけです。

一般の方にも星に興味がない方たちがそこに来て楽しんでいただける様な工夫も必要だと思っています。
人と人とのつながりを芽生えさせたり、星と芸術を結び付けたり、音楽で楽しんでもらったり、和歌俳句を詠みながらプラネタリウムで演出をするという様な文学との結びつきとか、そういう様な人たちが出てきています。
星と結びつくものならば何でもいいと思っています。
結婚式、ポロポーズの場、ファッションショー、朗読主体のものなど。
次の世代の最新型のプラネタリウムを使って解説ができるように努力は続けたいと思っています。
人に恵まれた人生だったと思います、その人たちへの感謝しかないです。
感謝があるからこそ若い人に私が持っているものを伝えたいと思います。












2020年3月23日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】「梶井基次郎」

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】「梶井基次郎
3月24に日は彼の代表作「「檸檬」(レモン)」にちなみ梶井基次郎をしのぶ「檸檬忌」(レモン忌)です。
31歳で亡くなった梶井基次郎の名言。
「太陽を憎むことばかり考えていた。 結局は私を生かさないであろう太陽。
しかもうっとりとした生の幻影で私を騙そうとする太陽。
生の幻影は絶望と重なっている。」  梶井基次郎

「檸檬」の作品の出だしの部分。
「得体のしれない不吉な塊が私の心を終始押さえつけていた。・・・」
「櫻の樹の下には」の作品の中の有名な文章。
「櫻の樹の下には屍体が埋まっている。」
31歳で亡くなっているのでその作品数は少なくて、習作、遺稿を別にしたら20の短編しかないです。
最期の一作以外は全部同人誌に掲載されたものなので、同人誌しか読んだ人にしか知られていなかった。
1901年大阪生まれ、1932年に結核で亡くなる。

梶井基次郎が日光浴をしているが、元気になったような気がするだけで、いくら日光を浴びても梶井基次郎の場合は病気で元気にはならない。
太陽を浴びると希望を感じるが、その希望は幻影だとわかっているので絶望を感じてしまうわけです。
「人間が昇りうるまでの精神的の高嶺に達し得られない最も悲劇的なものは短命だと自分は思う。
100年、1000年とは生きられないが、寿命だけは生き延びたい。
短命を考えるとみじめになってしまう。」  梶井基次郎

「何故だかそのころ私はみすぼらしくて美しいものに強く引き付けられたものを覚えている。
風景にしても壊れかかった街とか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある汚い洗濯物が干してあったり、がらくたが転がしてあったり、むさくるしい部屋が覗けたりする裏通りが好きであった。」  梶井基次郎
共感するところがある。
おしゃれで清潔なものってどこかちょっとよそよそしい感じがする、それは人間味を拒絶しているところがあるからだと思います。
汚れる方が自然なわけです。
綺麗でいるためには精神的エネルギーが必要です。
衰え弱ってくると段々汚い街並みに惹かれてくるという事はあると思います。
弱りすぎると又汚いものには耐えられなくなる。(頭木弘樹)

「美しいものを見る、そして愉快になる。 ふっと心の中に喜ばないものを感じてそれを追ってゆき、彼の突き当たるものはやはり病気のことであった。
そんな時喬(たかし)は暗いものに、いたるところ待ち伏せされているような自分を感じないではいられなかった。」 「ある心の風景」より 梶井基次郎
楽しくやっていてもなんだか心の中に喜ばないものがある。
それを追ってゆくと何かに突き当たる、梶井基次郎の場合はそれが病気だった。
「暗いものにいたるところ待ち伏せされているような」というのは何か怖い、幽霊みたいな感じで。
持病を持つという事は幽霊に取りつかれたようなところがあり、いくら気を付けていてもふっとしたことで調子を崩したり、全く油断がならない。

「街を歩くと堯(たかし)は自分が敏感な水準器になってしまったのを感じた。
彼は段々呼吸が切迫してくる自分に気が付く。
そして振り返ってみるとその道は彼が知らなかったほどの傾斜をしているのだった。」
  「冬の日」の短編の一節  梶井基次郎
気が付かない緩やかな坂でも病気をしてしまうと、それに気づいてしまう。
水準器という表現が面白い。
*「憾み」 作曲:滝廉太郎

「私にも何か私を生かし、そしていつか私を殺してしまう気まぐれな条件があるような気がしたからであった。」    「冬の蠅」短編小説から 梶井基次郎
主人公が冬の痩せて弱った蠅につい目が行く。(自分も病気だから)
ふいに数日間留守にするが、部屋に戻ってみると蠅が一匹もいなくなっている。
部屋を暖める人間がいなくなったために寒さと飢えで死んでしまったから。
気まぐれで自分が部屋を開けたせいで蠅は死んでしまった。
自分自身もまったく気まぐれな条件で、生き延びたり死んだりしているのではないかと、そんな風に思うんですね。
生きる事にも意味が欲しいが、死ぬ時にもそれなりの意味があってほしい。
意味のない死はつらいことである。
病気も流れ弾に当たるような感じで、理不尽なものです。
受け入れがたいものです。

「自分の不如意や病気の苦しみに力つよく耐えてゆく事の出来る人間もあれば、そのいずれにも耐えることのできない人間もずいぶん多いに違いない。
しかし病気というものは決して学校の行軍の様に、弱いそれに耐える事の出来ない人間をその行軍から除外してくれるものではなく、最後の死のゴールへ行くまではどんな豪傑でも弱虫でも、みんな同列にならばしていやおうなしに引きずってゆく。」 
「のんきな患者」短編小説の一節 梶井基次郎最後の作品
続編を出すつもりで友達への手紙に「のん気な患者がのんきな患者でいられなくなるところまで書いて、あの題材を大きく完成したいのです。」と書いているがそれを果たせなかった。
さっと読むと死は誰にでも訪れると言っているようだが、よく読むと平等とか公平という事ではなく、むしろ逆のことを言っています。
お金持ちでも貧乏人でも善人でも悪人でもみんな死ぬという点では同じですが、実際には死もかなり不平等です。

その前の部分で貧富の差について書いています。
「吉田は平常をよく思い出す或る統計の数字があった。
肺結核で死んだ人間の百分率で、その統計によると肺結核で死んだ人間100人について、そのうちの90人以上は極貧者、上流階級の人間はそのうちの一人にはまだ足りないという統計であった。
つまりそれは今非常におおくの肺結核患者が死に急ぎつつある。
そしてその中で人間の望みうるもっとも行き届いた手当を受けている人間を、100人に一人もないぐらいでそのうちの90何人かはほとんど薬らしい薬も飲まずに死に急いでいるという事であった。」 梶井基次郎
お金持ちは手厚い医療を受けるお陰で死ににくくて、貧乏の人は医療が不足するために死にやすい、死にやすさの不平等を指摘している。
社会的な不平等で、梶井基次郎はさらに別の不平等を指摘している。

「自分の不如意や病気の苦しみに力つよく耐えてゆく事の出来る人間もあれば、そのいずれにも耐えることのできない人間もずいぶん多いに違いない。」この指摘が素晴らしい。
苦しみに耐える事ができる人もいればできない人もいるわけです。
ついその差をつい無視しがちです。
病気というものは決して弱いそれに耐えることのできない人間をその行軍から除外してくれるものでは無いと言っていて、最後の死のゴールへ行くまではどんな豪傑でも弱虫でもみんな同列にならばしていやおうなしに引きずってゆくわけです。
平等なようで実は凄く理不尽で不平等なわけです。
医療については社会的不平等で、こちらの方は自然界の不平等というか、死というものが根源的に持ってる不平等です。
走れないのに走らされている、力を出して頑張れる人もいるけど頑張れない人も無理やり
頑張らされているところがつらいわけです。

「愛撫」という短編小説の一節で、猫と戯れながら考えるという内容ですが、その中の
「しみじみとしたこの世のではない休息が伝わってくる。」ところが胸に沁みます。
「猫を顔の上にあげてくる。
二本の前足をつかんできて、柔らかいその足の裏を一つずつ私の瞼にあてがう。
心地よいの重量、暖かいその足の裏、私の疲れた眼球にはしみじみとしたこの世のではない休息が伝わってくる。」 梶井基次郎





























2020年3月22日日曜日

田村隆(日本料理店 三代目)       ・【美味しい仕事人】三代で伝える「うま味」

田村隆(日本料理店 三代目)     ・【美味しい仕事人】三代で伝える「うま味」
平成25年和食が文化遺産に登録されまいた。
日本料理は世界の多くの人々から注目を集め、おおくの訪日外国人が器用に箸を使って和食を楽しんでいる光景を目にするようなりました。
東京築地に3代続く日本料理店があります。
和食の名人といわれた田村平治さんが始めた店は今年で74年になります。
四季の素材を椀に盛り香り豊かな汁を張り木の芽や柚子を添え、その熱々を客に勧めますが、そこに出汁という目に見えないうま味で客は心を動かされます。
現在3代目主人としいて腕を振るうのは田村隆さん(62歳)、NHK「今日の料理」などで和食を家庭でも気軽に楽しく作れるレシピを提案しています。
子どもたちに出汁のうま味を伝える活動にも取り組んでいます。
少しでも多くの人々にうま味のおいしさを伝えていきたいと語る田村さんにお聞きします。

昭和21年に空き地を借りて、大工さんと一緒に祖父は家を建てたそうです。
伝えることに関しては祖父の場合は女子栄養大学に行って香川綾先生がいらっしゃって、これからは世に料理を広めなさいという事でしたが、一料理人なので矢張り下に見られたと言っていました。
香川綾先生からは人に教える時には「このぐらいです」といっても判らないので、小さじが5cc、大さじが15cc、1カップが200cc、という事で3つを作りました。
祖父は魚とかカボチャの大きさ、季節、水分量とかは一つずつ違う、何グラムという中に入っている栄養価、甘みも違うので表記するのは無理だと言って、講義を始めたが伝わらい訳です。
そこで考えて準備している壺に入れたものを全部測っておいて、祖父が使って減った分を測ってそれを黒板に書いたそうです。
そういう料理教室をやっていたようです。
日本料理はその時その時によって違うので、火の入れ方などそれぞれ違うので、同じ料理を作ったとしてもゴールは同じであっても違うんだといつも言っていました。

2代目の父の暉昭は今は引退して絵を描いたりしています。
席に着いた時に季節を感じていただければという事でお敷きに父が始めたのが俳絵画でした。
玉川大学文学部英米文学科を卒業後、大阪の料亭「高麗橋吉兆」に入門し、3年間の修業の後、「つきぢ田村」に戻りました。
「NHK「今日の料理」、「ごごナマ」とかいろんな番組に出させていただきました。
29歳の時に番組の話がありました。
まだ教える立場ではないと思って断ったが、祖父からは言われたからには出なさいと言われて、最終的に出ることになりました。
エッセーイストとして今度4冊目を出す事になりました。
本を書いてみませんかという話があり、文章などはあまり書いていなかったが、書いているうちにだんだん面白くなってきて、最初の1冊ができました。
先人のことが多かったです。
2010年「現代の名工」厚生労働大臣賞受賞しました。

祖父は福井県小浜市出身、生家は魚問屋で、14歳で京都の料亭に入門しました。
暖簾に「五味調和」という文字が書かれてあって、常に自分の銘にしていました。
六つ目がうま味で、最近はピリピリ辛い唐辛子は香辛料という事で味ではないという事で、今はうま味が五つ目になっています。
祖父は昭和7年に築地の料理屋さんに料理長としてきました。
白身の魚は関西、赤身マグロは関東です。
ハモの料理は東京では無かった。
「人に聞く事が大事、判っていても聞きなさい」と言われました。
「同じ料理でも違っていたら増えるではないか」といわれました。
「いいものは高いが高いものを買えと、高いものは尻尾の方も美味いから適材適所に使え」と言われました。
尻尾を使って安く提供するお昼のコースにして、今の前身となったものです。
材料を生かし切るという事は祖父から常に言われていました。
祖父は料理屋仲間から「平治はけち臭い、何でも金にする。」という様なことを言われたそうで悔しい思いをしたでしょうが、今はやっと祖父の悔しさがこの世の中に根付いてきて嬉しいと言っていました。
大根を薄くむくと捨てるしかないし、繊維が残るので美味しいところまで硬くなる。
厚く残った皮は干して戻すと一つの野菜になる。
「母校を訪ねる」という番組があり祖父が行って私も付いていって大根の事をやりました。

小さいころは父親は包丁を持たせなかったです、皿洗いでした。
大学を卒業してから修行に行きました。
力が無くてできないのに、店の御主人が来られて「つきぢ田村」の息子か、仕事さしてやってな、といわれ、そのギャップたるや、半年かかりました。
そこで3年の約束でやりましたが、私の礎になっています。
祖父からは「3年ぐらいで料理を覚えられる訳が無いので、人の嫌がることをやってこい、関西人になってこい」という言い方をしました。
地域に一緒になって仕事をしなさいという事でした。
ゴミ箱の掃除、風呂掃除、どぶ掃除、鍋洗いなどやってきて、やっていなかったので魚一本おろせなかった。
実家に帰ってきたが、先輩から「鯛もおろせないのか」といわれた時はガーンとやられた感じでした。
その一言があって今があるのではないかと感謝しています。

日本料理をどうしたら楽しく伝わるかという事から、私なりに考えました。
フライパンを日本料理に使ってもいいんじゃないかと思って工夫してやりました。
落し蓋も木ではなくてアルミ箔でもいい訳です。
ボランティアで「味覚の一週間」という活動をしています。
フランスで30年以上前からやっているイベントを日本に取り入れたのが15年ぐらい前です。
色んなシェフたちがそれぞれの全国の小学校に行って、自分のジャンルのうま味、甘み、しょっぱさなどを教えます。
対象は3,4,5年生ぐらいです。
鰹節と昆布を持って行って、味噌汁を作るわけですが、うま味が多いと言ことは塩分とかの濃度を少なくする。
減塩にも繋がるし、味も美味しい深みもある。
お湯だけに味噌を入れると味噌の香りはするが味は薄くなる。
両方飲ませると、出汁を利かした味噌汁は美味しい、いい香りがすると言います。
全員が出汁を利かした味噌汁の方に手を挙げるのかとおもったら、何人かは違っていた。
どうしてかと聞いたら、「お母さんの味がする。」といったんです。
それはそれで良しだと思いました。
和食料理を繋げてゆくためには、家庭でできることは出汁をひくという事は大事ですが、出来なければ調味料にほんのちょっと本物を入れてゆく事が大事だと思います、加えることによって味に深みが出ます。




















2020年3月21日土曜日

臼井真 ほか(神戸市 小学校音楽教諭)  ・「被災地をつなぐ"しあわせを運べるように"」

臼井真 ほか(神戸市 小学校音楽教諭)・「被災地をつなぐ"しあわせを運べるよう
に"」
"しあわせを運べるように"という歌をご存じですか?
25年前の阪神淡路大震災の直後、神戸市の小学校の音楽の先生臼井真さんが作詞作曲した歌です。
神戸の小学生に歌い継がれその後新潟、東北、熊本など地震の被災地に伝わりました。
この"しあわせを運べるように"という歌を通して震災に向きう神戸と福島の先生と子どもたちを取材しました。

希望の歌として子どもたちに歌い継がれています。
阪神淡路大震災から25年、歌を通して繋がった神戸と福島の教師と子どもたちの物語です。
神戸の小学校の先生森田明美先生は阪神淡路大震災が発生した当時、"しあわせを運べるように"を作った臼井真先生と同じ神戸市立西灘小学校に勤務していました。
以来25年"しあわせを運べるように"を通して震災学習に取り組んでいます。
授業では歌詞の意味やどんな思いを込めて歌うのか、震災を知らない子どもたちに震災の意味を考えさせます。
2015年夏、森田先生と当時の教え子たちは福島県を訪れました。
東日本大震災の後、福島県二本松市で"しあわせを運べるように"を歌ってる小学校を訪ねました。
福島と神戸の合同で特別授業が行われました。
二本松市の小学校の音楽の先生、佐藤敬子さんはビニールに入った土を子どもたちに見せました。
前年神戸に行って神戸の園芸店で購入した土を福島の土だと言ってビニールに入った土を見せました。
子どもたちは静かに見つめるだけで、近づいたり触ったりすることはありませんでした。
その時から1年、ふたたび子どもたちの問い合わせます。

5年前当時中学1年生だった伊藤まりなさん、福島の土を怖く感じたといった男の子の申し訳ないという気持ちの涙をこらえるよ言うに語り始めました。
「・・・判っているのに心がついていかない。」
先生:普通の反応だと思う。 涙の色までわからないといけない。 涙の色を判っていますか?
想像することはできると言ったが、想像することは難しい。
バスの中で当時小学6年生だった二人こどもが「涙の色」について語っていました。
その後神戸の子どもたちが訪れたのは全町避難を余儀なくされた福島県浪江町の人たちが暮らす避難所でした。
話を聞かせてもらい"しあわせを運べるように"を歌いました。

神戸と福島の子どもたちの福島での震災授業、神戸の子どもたちは2日目原発30km圏の南相馬市に向かいました。
小高は当時震災から4年半が過ぎていましたが、避難指示が続いていましたが、日中は自由に立ち入ることができました。
子どもたちは話を聞きたいと街を歩きました。
理髪店の加藤さんに質問します。
子ども:福島の未来は?
加藤:一番難しい質問だが、でもみんな頑張っている。
帰りのバスの中で加藤さんとのやり取りについて子どもたちが語り合っている。

2016年3月福島の合宿から戻った子どもたちは卒業の日が近づいていました。
"しあわせを運べるように"を通して歌詞の意味やどう歌うかを考える震災学習は、人の気持ちに寄り添う時間でもありました。
卒業から9か月後、2016年12月 中学1年生になった子どもたちが神戸市立西灘小学校の森田先生の元に集まっていました。
南相馬市の小高で開かれるイベントで福島の子どもたちと一緒に"しあわせを運べるように"を歌う事になりました。
集まった子どもたちは自然と福島の話を始めました。
1年ぶりに福島を訪れる。
津波で流されて更地だったところには除染された土や廃棄物が山のように積み上げられていました。
理髪店の加藤さんの店に向かいます。
来られなかった子が加藤さんの夢を見たという事などを話す。
その後二本松の子どもたちとの再会もありました。
クリスマスの夜に"しあわせを運べるように"を一緒に歌います。

一緒に歌った二本松市の小学校の佐藤先生は歌で福島を勇気付けたいと、二本松に新しい合唱団を作っていました、「福島"しあわせを運べるように"合唱団」です。
幼稚園から高校生までおよそ40人が参加しています。
最初「しあわせを運べるように」という歌詞が受け入れられなくて複雑な気持ちだったという村田あまねさんがいました。
家を流され避難しなければいけない状況でどいうやったら強い心を持てるんだろう、という様な気持ちでした。
村田あまねさんは家も流され曾祖母、祖父母の3人を亡くし、今は二本松で避難生活を続けています。
合唱団入団当初は自分の体験を誰にも話す事はできませんでした。
村田あまねさんと友達は小高を訪れました。
誰もいない学校、更地になった自宅跡、寂しいはずの景色があまねさんには違って見えました。
あまねさんの心に溢れたのは、あの日の前にあった8年分の思い出でした。
友達は新潟、仙台、関東など全国各地で暮らしています。
あまねさんは懐かしい同級生の前で合唱団の仲間たちと"しあわせを運べるように"を歌いました。
故郷の思い出を胸に寄り添ってくれる新しい仲間と"しあわせを運べるように"を自然と歌えるようになっていました。

去年12月阪神淡路大震災から25年経とうとしている神戸の街に、「福島"しあわせを運べるように"合唱団」の姿がありました。
佐藤先生は福島の子どもたちに今の神戸の姿を見せたいと思ったのです。
村田あまねさんも一緒です。
訪れたのは神戸の長田区の商店街でした。
商店街の復興を先頭になって進めてきた伊藤正和?さんに話を聞きました。
「・・・被災者だが心に被災者になっては駄目、みんなの街はみんなが作り上げていばいい・・・」
神戸の佐藤先生と福島の森田先生はもう一度一緒に授業をすることにしました。
前回の子どもの話「福島に行って震災を学ぶことの意味、得たものが凄くあったと思います。・・・その人の涙の色までわからないとその人に寄り添ったとはいえない、と佐藤先生に教えてもらって凄くいい言葉だと思って一番胸に刺さった言葉です。・・・人を思いやる気持ちとか大切なことを教わったと思います。」
加藤さんとの出会い、話を話す子もいました。

臼井真:「地震にも負けない強い心」と書いたのは、自分自身が負けそうだった。
亡くなられた人の事を思ったらやっぱり強い心で前に向かって生きていかなければいけないと、街に対する愛情もこみあげてきて神戸の街は怪我をしたが、死んではいない、絶対よみがえるんだという思いを込めて「生まれ変わる」という歌詞も書きました。
命の大切さ、未来に向かって行く時にいろんな人にみんなの持っている幸せを運んでほしいと思います。
村田あまね:小高で被災しましたが、自分の中での恐怖があったりするが、その日からの自分の心を震災と向き合うために歌っています。
福島の未来かなあと思う神戸の25年を迎えた神戸の人たちの笑顔を思い描いています。






2020年3月20日金曜日

沢部ひとみ(ノンフィクションライター)   ・【わが心の人】「市原悦子」

沢部ひとみ(ノンフィクションライター)   ・【わが心の人】「市原悦子
市原悦子さんは昭和11年千葉県生まれ、俳優座に入団し卓越した演技力で舞台、映画、TVで活躍しました。
漫画「日本昔ばなし」を初め声の出演でも存在感を発揮しています。
平成31年1月亡くなりました。(82歳)
沢辺さんは市原さんと取材を通じて知り合い20年以上交流を深めて来ました。
市原さんの晩年には闘病生活も支えています。
昨年12月「いいことだけ考える  市原悦子のことば」という本を出版しました。

自分の外を流れる時間はすごいスピードで過ぎ去りましたが、自分の内側では流れるのは遅くて1年ぐらい前をふらふらしている感じです。
市原さんが体調を崩して、市原さんの姉妹他4人で看護チームを作ってその中に入れさせてもらっていました。
2016年の秋に入院されまして、翌年8月まで入院していて、その後自宅療養をして最後は又入院しました。
良くなったと思うと背骨が骨折していたりして別のところが悪くなったりしました。
自宅療養していた時に車椅子でのNHKの「日本昔ばなし」を朗読しました。
歌が大好きで前向きの闘病生活を送っていました。
「いいことだけ考える  市原悦子のことば」という本を出版しました。
市原さんの友達が亡くなる直前に市原さんが「今何を考えているの」と聞いたら「いいことだけ」とおしゃったそうで、私が同じように市原さんにも同じように聞いた時にも「いいことだけ」とおっしゃいました。
市原さんの遺言だと思いました。

21年前にある雑誌で書くことになって、半年密着取材をしました。
北海道の電車の中で隣り合わせになって聞く機会がありました。
いろんなことを正直に話してくれてそれがきっかけになりました。
長い付き合いになるだろうとその時思いました。
私の誕生日の時にテープに「歳をとることはまずいことではない。 年を取ることに希望を持ってね」と言ってくださいました。
「50代は50代でいろんなことがあるだろうけれども、60代はもっと良くなる」という様なことを言ってくださって凄く嬉しかったです。(市原さんが63歳の時でした。)
市原さんの声は大好きで心に触ってきます。
*「どんぐりと山猫」 作:宮沢賢治 朗読:市原悦子

身体全体で話をしていたようです。
「日本昔ばなし」 1975年に始まる。
高度成長期のあわただしい時代でしたが、この番組は居眠りをしてもいい、そんなオアシスのような時間にしようという意味で「眠くなるように」語ると言っていました。
20年続いた長寿番組でした。
マンネリを恐れて工夫をしたり精進したりしていました。
TVドラマ「家政婦は見た」 市原さんは冷酷な性悪な主人公に情、人間らしさを付け加えようとしました。(72歳まで出演)
お芝居である役を演じる時にはその人との共通点を自分の中に見出して、自分としてやっていたのが市原さんのリアリティーの普通と違う感じでした。
役に入り切っている市原さんはあんまり知りませんし、夫(舞台演出家の塩見哲さん)が亡くなる前まではプライベートな生活はきちっと分けていまして、家では会いませんでした。
明るくて正直で一緒にいて気持ちのいい人でして、スターという感じはありませんでした、謙虚でした。

風の音とか自然の音が好きな方でした。
夫(舞台演出家の塩見哲さん)が亡くなったときには樹木葬にしたようで、自分もそうすると言っていました。
歌と朗読のコンサートを晩年に楽しんでやっていました。
歌詞に対する思い入れが強いです。
稽古か本番かわからなくなるぐらい稽古をしていました。
*「翼」 作詞作曲:武満徹 ピアノ伴奏:ミッキー吉野 歌:市原悦子













2020年3月19日木曜日

梶原千沙都(日本ヘルマンハープ振興会会長) ・「バリアフリーな音色を求めて」

梶原千沙都(日本ヘルマンハープ振興会会長) ・「バリアフリーな音色を求めて」
梶原さんは1960年大阪生まれ、夫の赴任先で出会った楽器ヘルマンハープを日本で普及させたいと帰国に合わせて2004年から本格的に活動を始めました。
ダウン症の息子にメロディーを弾かせてやりたいというドイツ人のヘルマン・フェーさんの親心から生まれた楽器ヘルマンハープ、日本ではまず音色の美しさに惹かれたシニア世代の女性を中心に広がりました。
現在では地道な普及活動が実り知的障害のある人たちも愛好者が広がりおよそ5000台の楽器が音楽教室をはじめ福祉施設などで演奏されています。

ヘルマンハープは25本の弦が張ってあって幅が34cm高さ65cmの大きさになります。
弦と表の板の間にヘルマンハープ専用の楽譜がありそれを差し込みます。
弦の真下に音符が表れています(黒い丸とか白い丸。)
それが直線で繋いでありその本を読むように上から下に弾いてゆくとすぐにメロディーを弾くことができます。
伴奏もできます。
1987年にドイツ人の農場主ヘルマン・フェーさんが4番目の子どもさんがダウン症で音楽が好きでしたが、好きな歌も歌えずこの子にメロディーを弾かせてあげられる楽器をあげたいと思ったが、いい楽器がなくて自分で息子アンドレアのために楽器を作るという事を10年ぐらいかかって取り組んだのがこのヘルマンハープいです。
息子の跳び上がるような喜びを見て、自分たちの楽器だけいしてはいけないと思って、ヘルマンハープを家内工業でやるという事を決心しました。
数がとても多くなってきて、健常者もやりたいというう事でシニア世代の人も増えていきました。

1987年に夫の都合でドイツに赴任してまた日本に戻ったりスイスにも住むことになり、2003年に旅行先のドイツで楽器の展示会で見つけました。
介護に関して興味を持っていました。
ヘルマンハープを弾いてみるととてもきれいな音がしました。
口コミでいい楽器だという事が伝わっていました。
ウイーンに戻って、娘が18歳の時に脳腫瘍になってしまって、手術をすることになり日本で手術をすることになりました。
後遺症が心配でした。
夫が帰国することになり、ヘルマンハープを思い出すことになりました。
夫と一緒にヘルマン・フェーさんのところに伺いました。
ドイツの教会でヘルマンハープの演奏会があるという事でうかがいました。 
障害のある方、健常者、高齢者、若者、音楽経験も様々で多くの方々が演奏していました。
音色も美しくて、ヘルマン・フェーさんの話もあり、感動して人類の宝として日本に伝えたいと思いました。

大坂で生まれて奈良女子大に行って、古い建築物の研究をしていました。
大学院に行って1年間行って身体を壊して、縁あって主人と結婚しました。
ドイツの小さな街で実践面で鍛えられて、ドイツの方々と親せきのような付き合いあをしました。
ドイツ語はいろいろ工夫して一生懸命勉強しました。
初めにしたかったのは介護のお店でした。
ヘルマンハープも介護に関係ある楽器でした。
子どもの頃は恥ずかしがり屋で赤面症で親も心配していました。
転機になったのが小学校の3年生の白雪姫で抜擢されて、そうすると勉強も段々できるようになりました。
合唱団にも入るようになりました。
ドイツに行っても合唱団に入ってやるようになりました。(20代後半で子どもを育てながら)
ヘリマンさんからは綺麗で簡素な声で歌いなさいと言われました。
*「アメージンググレース」の弾き語り  梶原千沙都

ヨーロッパにいる時から持ち帰りの準備を始めました。
運搬方法についても気圧、温度などを気にしないといけないので、運送屋さんを訪ね歩きました。
日本に持ち帰って広めていくために、ヘルマンハープを背負っていろんなところを訪ね歩きました。
簡単には広まらず、福祉のお祭りがあるから弾いてみないかとか、機会があるごとに演奏していきました。
大坂では段々広まっていきました。
みんなが安心して習える基礎が必要だと思って、メソッドの開発を自分自身がやらなければいけないような状況になって行きました。
2007年あたりから年間延べ3000人ぐらいを毎年教えるようになりました。
ヘルマンハープは今は全国に広がって5000台に近づいてきました。
令和元年に日本ヘルマンハープ振興会が障害者の障害学習支援にかかる文部科学愛人賞を頂きました。
千葉県教育委員会主催の障害のある人たちの学習の活動、「さわやか千葉音楽隊」というところでヘルマンハープのケーススタディーのようなことで始めさせていただいていて2年目になります。
ボランティアの人たちが育ってきていて、3年目はこちらが手を離せる状態になってきています。
コミュニティー活動の自立だと思います。

音楽療法にも使えるし、緩和ケア、リハリビテーション、高齢者介護などいろんな風に活用されるようになっています。
パラリンピックのフォーラムに参加したことがありますが、障害者初の競技をどう作り出していくかというのが議論の対象でした。
そこでヘルマンハープは凄いと思いました、障害者初の楽器ですから。
障害者初の楽器の愛好する人の9割は実は健常者なんです。
ダウン症の人のために作られた楽器だが、健常者の方もダウン症について思ってもらうきっかけになるんですね。
共生社会は思っている以上に障害者を助けるとかというよりも、健常者の心の壁を崩す、そこから一挙に進んでいくと思うんです。
教えてて思うのは、健常者って色々やる事があるので教わったことを結構忘れてしまうんですね、知的障害の人は習った事をあまり忘れないんです。
パフォーマンスで、健常者は舞台などでは上手に弾こうとか、間違ったらどうしようとか思うのですが、知的障害の人は淡々と自分のペースで弾きます。

ウイーンの知的障碍者の施設で研修生としてヘルマンハープを導入しているところに行きましたが、ウイーンではカバンなどはすぐに盗まれるんですが、ロッカーが無くてその辺に置いて踊りの輪の中に飛び込みました。
ハッと気が付いたらここはカバンを盗む人はいないんだと気が付きました。
バリアーフリーステージというものを自分のライフワークにしてきました。
ヘルマンハープは音に余韻があり、ゆっくりと自分に合ったテンポでいいんだと安心感を与えます。
とても癒されるのでストレスの解消にはぴったりの楽器だと思います。















2020年3月18日水曜日

杉浦正則(日本生命野球部元監督)     ・【スポーツ明日への伝言】「ミスターアマチュア野球が語るオリンピック」

杉浦正則(日本生命野球部元監督)・【スポーツ明日への伝言】「ミスターアマチュア野球が語るオリンピック」
社会人野球のエースとして活躍、オリンピック3大会に出場してミスターアマチュア野球といわれた日本生命野球部元監督の杉浦正則さんに伺います。

オリンピックの野球で通算5勝、オリンピック記録になっています。
バロセロナオリンピックでは銅メダル、アトランタオリンピックでは銀メダル。
1968年生まれ、和歌山県伊都郡九度山町出身。
和歌山県立橋本高等学校から同志社大学、日本生命に入社、社会人野球で投手として活躍。
都市対抗野球では最優秀選手賞にあたる橋戸賞を2回受賞。
プロからの誘いを断り続けてオリンピック出場を目指し、3回代表に選ばれて「ミスターアアマチュア野球」といわれ、現役引退後は日本生命のコーチ、監督を務めて、現在は社業に専念。
NHKでは2010年から高校野球の解説をお願いしています。

小学校の3年生の時から野球をやっています。
兄たちが野球をやっていたので始めました。
ピッチャーは小学校4年生ぐらいからちょっと始めましたが、6年で専門になりました。
夏の大会では3回戦で負けてしまい、高校では甲子園にはいくことができませんでした。
春には近畿大会ではベスト4まで行きました。
野球部の人数が少なくて、3年生がいなくなってからは全部で11人でやっていました。
高校の時にはドラフトの対象にはなりましたが、ほかに和歌山ではいい選手がいたのでプロの道は考えませんでした。
同志社大学に進み、1990年の秋季リーグで5勝を挙げ14季ぶりの優勝に貢献、最優秀選手に選ばれました。
ライバルは立命館大学で長谷川 滋利投手(のちに大リーグのエンゼルスに行く)がいました。
彼は1年生の時から勝利を挙げていました。

全日本候補として私も選ばれましたが、びっくりしました。
合宿に参加して監督がオリンピックで金メダルを取るんだという事を言われて、そこからオリンピックを意識するようになりました。
社会人野球に行くことを決めていて日本生命に内定していました。
アジア予選が北京であり4チームが戦いましたが、弱そうとの前評判だったオーストラリアに負けてしまって後がなくなりました。
韓国、台湾に勝たないとだめとなり、韓国戦の先発に起用されることになりました。
4-1で勝利、結果としてオリンピックの出場権を獲得する。
8回で3ランが出て、9回1点を取られましたが、それ以前の回はどう投げたのか記憶にないです、そんな追い詰められた経験はこの試合だけでした。
バロセロナでは金メダルを目指してましたが、準決勝で台湾と対戦してリリーフで出ましたが、2本のホームランを打たれて負けてしまいました。
その悔しさがずーっと残っています。
落ち込んでいるところをチームメートからいろいろ声を掛けられて、3位決定戦では力を出せたかなと思います。
3位決定戦の相手はアメリカで8-3で勝利することができました。

バロセロナでは悔しい思いをしたので、28歳のアトランタオリンピックでは金メダルを取ろうという思いが強かったです。
キャンプ中に内転筋を痛めてしまいました。
キューバ、オーストラリア、アメリカに負けて非常に厳しい状況でした。
ニカラグア戦で登板することになりました。
これに負けると予選敗退という事になりますが、結果は勝つことができました。
その後韓国、イタリアに勝って決勝トーナメントに行くことができ、準決勝でアメリカに勝ちました。
ニカラグア戦からの5試合のうち4試合に登板となりました。
決勝のキューバには敗退しました。
我々のチームは個の強いチームでしたが、ニカラグア戦からチームがまとまってきたのかなと思います。
銀メダル獲得という事になりました。

もう一回オリンピックにチャレンジしたいという思いがありました。
プロからの誘いはありましたが。
2000年のシドニーオリンピックではプロ参加OKという事になり、プロとアマの合同チームに変わりました。
色々あってちょっと腹立たしいものがありました。
代表落ちという様な報道がされて、悔しい思いをしました。
一応当確と言うようなことになってきたが、精神的に落ち込んでいたので辞めようかと思いました
後輩の宮本選手から電話があり、「僕に金メダルを見せてください。・・・」などなど言われてもう一度頑張ってみようと思いました。
準決勝でキューバに敗れて、3位決定戦で韓国に敗れて4位となる。
一緒に練習する機会の少ないチームで、チームとしてまとまるのには時間のなかったチームだったと思います。
大会、大会で自分を成長させてくれたオリンピックの大会だったと思います。
東京オリンピックでは金メダルを目指して一戦一戦戦ってほしいと思います。























2020年3月17日火曜日

石川梵(ドキュメンタリー映画監督・写真家)・「自然の恐れや祈りを撮って」

石川梵(ドキュメンタリー映画監督・写真家)・「自然の恐れや祈りを撮って」
石川さんは大分県出身の60歳、将棋連盟奨励会で将棋の棋士を目指していましたが、やがてカメラマンに転向、AFP通信の報道担当を経て独立、世界の秘境や現地の人々の自然への祈りをテーマに多くの写真集を出版してきました。
なかでも写真集「海人」はいまもインドネシアで行われているモリ一本をかかえてマッコウクジラに挑む捕鯨の様子を20年間かけて撮影してきた作品で講談社出版文化賞、日本写真協会新人賞を受賞しました。
2011年の東日本大震災ではボランティア活動をしながら撮影、写真集「東日本大震災の記憶」は日本写真協会作家賞を受賞しました。
4年後の2015年ネパール大地震では大震災の際に援助を受けたお返しをしようと、ヒマラヤ山脈の村の支援をしながら初めてのドキュメンタリー映画「世界で一番美しい村」を製作しました。
映画は2017年春から全国で公開され今でも各地で上映会が行われています。
石川さんの映画第二弾は「「くじらびと」(世界でいちばん美しい海の村)」、以前から取材してきたインドネシアのレンバタ島、ラマレラ村という小さな村のクジラ漁の様子や、人々の暮らしをおよそ3年間取材した作品です。
ロケは去年終わって今年の夏の公開を目指しています。
石川さんの写真家、映画監督としての歩みや地球の大自然や人々の祈りに対する思いなどに付いて語っていただきます。

大分で高校の頃将棋大会で活躍して、たまたま宮崎に関根8段が来ていて、弟子入りして東京に出てきました。
一日十何時間も将棋をする生活が何年も続いて、本当にこれでいいのかと考えているときに映画に出会って衝撃を受けて、本当にやりたいのは将棋ではないのではないかと考えました。
実体験すべきだと思って、まずは写真家になって見たいものを世界中を回って体験した後にその後映画を作ってゆくようなことはできないかと考えました。
周りからの餞別でカメラを買いました。
写真学校に進んで、空撮の会社に入って空撮でノウハウを学びました。(20歳ごろ )
お金をためてたまたま日本に来ていたアフガニスタンの反政府軍の地区司令官と知り合って、アフガニスタンに行きました。(23歳)
自分自身を試したいと言う気持ちがありました。
インドではいい被写体があってもうまく撮れないという事がありました。
海外には60か国以上になります。

インドでは衝撃を受けました。
沐浴をしているところに死体が流れてきていました。
人間と信仰についていろいろ考えました。
アフガニスタンに行ったとき、戦車用、人用の地雷源があり、若者が私の前に立って私を守ってくれて、現状を伝えてほしいという気持ちがあったんだと思います。
私を守って地雷よけになってくれた人間を見たときに、これは何でこんなことができるのかなと考えたときに、信仰の力ではないかと思いました。
イスラム教徒は戦場に行っても1日5回の礼拝を欠かさず、ラマダーンの時には戦争状態であれば断食しなくてもいいんですが、彼らは断食する訳です。
イスラム教のことが判らなければ彼らのことは永遠に判らないと思いました。
イスラム教を理解するためには自分の宗教をちゃんと知っていないと物差しがないわけですので、もう一回勉強しないといけないと思って伊勢神宮を通して日本の古来の仏教以前の神道を勉強しながら、伊勢神宮の写真を撮る時期がありました。

2年間住んで伊勢神宮の連載などもやったりして、毎日撮りに行きました。
鳥居は神界と俗界を分ける意味というのがあって、鳥居を越えるたびに神界に近づいてゆく、清められてゆくという考え方がありますが、鳥居越しに星空が見える神界を見たときに、俗界から神界を見たような気がして、インスピレーションが湧きました。
伊勢神宮は規制が厳しくて建物を撮ることができなくて、どうして伊勢神宮を撮ったらいいのか考えあぐねていましたが、或るとき大きな木が呼吸をしているように感じました。伊勢神宮に漂う神聖な気を撮ればいいと思いました。
伊勢神宮を学んで新たに海外に周っていきました。。
それが「祈り」に対するの撮影の原点かもしれません。

1991年にインドネシアに行って、鯨獲りの写真を撮りました。
私の大きなテーマは「人間と祈り」というもので、もともとは「大自然とともに生きる人間」というのが大きなテーマでした。
インドネシアを旅しながらモリ一本で鯨を突く人たちがいるという話を聞きました。
半信半疑で行きましたが本当であったのには吃驚しました。
鯨獲り船(11~12mの木造船で鯨は15mぐらいもある)には魂があるというんです、生きていると、鯨獲り船はすべて手作りで生きているから釘を使わず、帆はやしの葉で編んだ帆です。
当時は手漕ぎでした。
伊勢神宮でも釘は使わず、共通性があるのが面白いです。
「海人」という写真集。
鯨をしとめるまでに何時間もかかりますが、最後に鯨が断末魔の叫びを上げました。
吃驚して海の中の物語を撮るべきではないかと思いました。(4年目の時)
どうしたら鯨の気持ちを撮れるのかということを考えて、哺乳類と魚の一番の違いは死んだときに、魚は目を開いたままですが、哺乳類は鯨は目をつぶるんです。
鯨の気持ちを撮るのには目を撮れば、撮れるのではないかと考えました。
眼を撮るのに成功するのには3年後で、合計7年かけて写真集が完成しました。
「海人」の作品で講談社出版文化賞、日本写真協会新人賞を受賞しました。
海外からも高い評価を得ました。

東日本大震災の時にはボランティアと取材を兼ねていきました。
われわれの生き方を問われたように思いました。
空撮ではヒマラヤを上空から撮ったことがありました。
ヒマラヤの山々を見ると下から見る景色と違って連なる巨大な皴に見えました。
空から見ると地球のダイナミズムが見えることが判りました。
地球の活動の怖さを感じながらいたもので、東日本大震災の時には最初は空撮だと思って、翌日千葉から気仙沼まで撮りました。
何かできることがあるのではないかと考えて、東日本大震災ではたくさんの犬とか猫とかペットがなくなっていて、彼らはそういったペットを置き去りにして助かって避難所に来ているので、僕は犬を連れて行って犬を介して会話が交流が広がっていきました。

2015年 ネパールで大きな地震があり取材と支援のためにネパールに地震後3日目に行きました。
震源地のラプラックという村が全滅したという記事がありそれを頼りに行きました。
日本で報告会、新聞雑誌に状況を発表しましたが、写真家としての取材はそこまでしかできませんでした。
何かできないかと思って、映画を作って公開してゆけば支援金も集まって村の復興に役立つのではないかと考えました。
モンスーンが近づいていて、3か月続くと聞いたので、仮のテントも水浸しになってしまうので、高床式にすればいいと思って板を運んで600世帯に配って対応しましたが、落ち着いてきてからいろいろな問題が起きてきます。
地盤が緩んできて元の場所には住めなくなる。
学校にいけない子がたくさんいてその子らを支援していきました。
なかには短大を出て狭い門のシンガポール警察に入る子も出てきました。
一人の女の子を日本に呼んで今日本語学校で学びながら、大学進学に備えているところです。
いろいろ具体的に進んでいます。
映画「世界で一番美しい村」 劇場公開で1年間のロングランになり、自主上映、2月からは3日置きぐらいに全国で上映されています。

第二弾はインドネシアの鯨漁。(生存捕鯨)
貧しくて鯨を獲ることによって生活できるような村で鯨一頭で2か月生活できるといわれています。
肉のほかにマッコウクジラの脳油を灯火に使ったり、食べ物に混ぜたりしていました。
映画でやってみようと思って、始めたが全く来なかった。
3年間鯨が来なくてビザも切れてしまうので帰ろうとしたが、もう一週間頑張ってみようとして帰ると決めた前の日に鯨が現れました。
立つことも難しい揺れる船の上から立って重圧のなかで鯨にモリで撃つわけです。
モリの技術もいろいろあるが、何が一番大切かと言うと名人は精神力だと言うんです。
江戸時代の鯨漁に似ているが日本ではモリを投げるが、ここでは体長が15mぐらいの鯨にモリ一本で跳びかかってゆくんですから。
鯨漁というよりは決闘という様な感じです。
この村にはキリスト教が入ってきているところで、現地の宗教とが合体していて、漁に出る時には必ずお祈りをして出掛けます。
鯨を獲った後も感謝のお祈りを捧げます。
この映画は見ていろいろ感じ取ってほしいと思います。
「世界で一番美しい村」の続編を撮ってほしいという意見もあり、ほかにもいろいろ自然のものを中心に撮っていきたいものがあります。




 














2020年3月15日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】
*トルコ行進曲  作曲:ヴェートーベン
今年生誕250年を迎えたヴェートーベンのトルコ行進曲。
今日は時空を超えた行進曲の遺伝子と題してお送りします。

レオポルド・ストコフスキー
モーツアルトのトルコ行進曲を壮大なオーケストラに編曲した。
20世紀半ばアメリカで活躍した指揮者。
1912年にフィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者に就任。
*トルコ行進曲  作曲:モーツアルト 編曲:ストコフスキー
勇壮な感じ。

*軍隊行進曲  作曲:シューベルト  オリジナルのピアノの連弾
シューベルトが教えていたハンガリー系の貴族の令嬢の連弾のために作った。

イーゴリ・ストラヴィンスキー  ロシアの作曲家
シューベルトの軍隊行進曲のメロディーを使って、楽しい曲を作りました。
ニューヨークのバーナム&ベイリー・サーカス団の象の行進曲を依頼される。
沢山の像がダンスをするために書きました。
*サーカス・ポルカ  作曲:ストラヴィンスキー
ストラヴィンスキーは『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』で知られる。

ヨハン・シュトラウス1世が作曲した行進曲、「ラデツキー行進曲」をモチーフに息子たちが勇ましい行進曲を書きました。
*祖国行進曲  作曲:ヨハン・シュトラウスII世 / ヨーゼフ・シュトラウス

カール・ミヒャエル・ツィーラー
1843年生まれ、1922年に亡くなる。
オーストリア=ハンガリー帝国最後の宮廷舞踏会音楽監督を1908年から1918年まで務めた。
*星条旗行進曲  作曲:ツィーラー
最期に出てくるのはアメリカのヤンキードゥードゥル(Yankee Doodle) 愛国的な民謡
 日本では「アルプス一万 尺」の題の訳詞(歌詞の内容は無関係)で知られている。

*レイダース・マーチ(映画「インディー・ジョーンズ」主題曲、行進曲ヴァージョン)
  作曲:ジョン・ウィリアムズ


2020年3月14日土曜日

苅谷由佳(「泉北レモンの街ストーリー」リーダー)・「ニュータウンにレモンを植えよう」

苅谷由佳(「泉北レモンの街ストーリー」リーダー)・「ニュータウンにレモンを植えよう」
大阪府南部の堺市を中心に広がる泉北ニュータウン、昭和42年に入居が始まりました。
開発が始まってから53年という事になります。
このマンションや団地、宅地が広がる街ニュータウンにレモンの木を植えていこうというグループ「泉北レモンの街ストーリー」が活動を始めて今年で5年になります。
メンバーは現在15人、3月上旬の日曜日にレモンを使ったお菓子を持ち寄って試食会が行われます。

試食会には30代から70代まで年齢幅も広く、このグループに入った動機も様々です。
レモンの木を植えてきて800本を越えました。
15×20cmの板に「泉北レモンの街ストーリー」というスタンプが押してあり、新しく苗木を植えたいという人に1枚500円で購入していただき、苗木、門扉、玄関などに付けて苗木を育ててもらいます。
これが活動資金になります。
レモンの木をアゲハ蝶が好きで、春先は幼虫が食べているので取っていただくぐらいで、後は年に3,4回肥料をやる程度、水やりで育て易いです。
レモンは柑橘類なので実は1,2月に収穫で、4月ぐらいからつぼみができて5月に花が咲きます。
白い花で凄く甘い良い香りがします。
葉っぱは常緑樹でいつもついています。
レモンは完熟しても木に付いていて鳥も突っつかないです。

2014年に自分たちでもっと泉北の魅力を見つけて泉北の素晴らしい所を発信してゆこうというプロジェクトが広報に載っていたりして、メンバーに応募しました。
庭で出来たレモン、ハッサク、ミカンとか大根をたくさん持って行ってグループのところに持って行って貰っていただいていました。
レモン、ハッサクでママレードを作るとおいしいという事で作ったりしていました。
泉北で何かしたい人があればプレゼンテーションしてくださいと言う事で、レモンが特産品になればいいと思ったので、プレゼンテーションしました。
同調してくれる人が13人いました。
家には2本のレモンの木があり300個ぐらい獲れます。
昔からこの辺の地域には柑橘類がよく植えられていました。
大坂では鎌倉時代から柑橘類が植えられるようになり、200年前ぐらいからは温州ミカンが入ってきて、明治時代にミカンの栽培が広がり大正2年には全国柑橘大会が開催されるほど著名な産地になりました。
レモンがこの地の特産品になることを確信しました。
泉北の駅を降り経ったら春にはレモンの甘い香りで包まれるような街に成ったらなあと思いました。

堺市南区は1993年には16万人いた人口が4万人減ってきて、高齢化率も31%を超え、市の平均を上回っていて、空き家も増えてきている。
街の潤いをどうするかという事ですが。
新しく植えたられた木は「N」が入り、既存の木でプレート希望の方は「K」が入っています。
レモンの実はいろんなものに使われます。
今前にあるのがマーマレードだったり、刻んでフロマージュをビスケットに載せています、
シロップはレモンを輪切りにしてはちみつも入れて、作ります。
こういったものは一部商品化しています。
活動も丸5年になりました。
堺市南区の人たちは自然への感度が強く、レモンの街にしようという事に対して受け入れていただけたものと思います。
色々な土地で暮らした経験があるので泉北の戻ってきたときには、地元にずーっと住んでいた方より泉北の良さに気付かされたのかもしれません。
























2020年3月13日金曜日

武井照子(元NHKアナウンサー)      ・「戦中戦後の放送を生きて」

武井照子(元NHKアナウンサー)      ・「戦中戦後の放送を生きて」
武井さんは大正14年埼玉県生まれ、昭和19年戦争中にお国のためにとNHKに入りアナウンサーとして働き始めます。
戦後ラジオ番組「婦人の時間」の司会を担当しているときに結婚、一人のお子さんに恵まれます。
当時子育てしながら働き続ける女性はほとんどいない時代で、武井さんはNHKの働く母親第一号となりました。
28歳でディレクターに転身後は子育ての経験を生かし、子どもたちが言葉やお話を楽しめるような番組つくりに力を注ぎました。
武井さんは今も子どもに朗読する活動を続けています。

現在94歳です。
健康という事は一番大事です。
子どもの頃は本当に自由でした。
自然の中で暮らしていました。
健康の土台を作ってくれたような気がします。
小さいころからマザーグースを聞いて育ちました。
母が身体が弱かった分、叔父叔母が良く面倒を見てくれました。
言葉は意味が分からなくても楽しいものだと思いました、音韻も大事だと思っています。
健康だけでなく、精神的なもの、音楽もレコードがあってクラシックも聞きました。
昭和19年NHKに入社しました。
当時空襲が来るようになって、勉強ができない状態でした。
昭和19年9月に繰り上げ卒業になって、NHKから募集があり、やってみたらお国のためになるのではないかと考えて、受けたら通ってしまって、親に話したら母親は東京には空襲があり行くと命にもかかわる事なので大反対でした。
父は放送は大事だし、放送局は返って危なくないかもしれないと思ったらしくて最後には許してくれました。

5月に空襲があり叔父の家で一人でいました。
防空頭巾をかぶり逃げる途中に防火用水がありその水をかぶって目黒川まで逃げていきました。
朝までいて放送局まで歩いていきました。
放送局にその日泊まって、翌日また空襲があり放送会館の周りに焼夷弾が一杯落ちて、これは死ぬと思いました。
朝になって放送会館は無事でしたが、周り中廃墟で、太陽を見ても煙っていて見えないんですね。
戦災者慰問激励吹奏楽の楽団が演奏していて演奏の中で「どんな困難がありましょうとも、必ず試練に耐えて勝利の日のために、長大な最期のひと押しを送りましょう。
一機でも多く特攻機を、一機でも早く翼で仇を討つために共に頑張りましょう。」こういうことを言っていた時代です。
戦後にいろんな本を読んだ時に、単純にこの程度のことならばたいしたことはないなあとおもっていることがだんだん積もってくると、やはり大変なことが起こってくるんじゃないかなあと思います。
今の社会でも同様なことを思います。

戦後、GHQのCIEという民間情報教育局の指導による「婦人の時間」が始まる。
或る日スタジオに呼ばれて録音したんですが、それがオーディションだった様で、私に決まったようでした。
*当時の「婦人の時間」についての放送
23歳で結婚、翌年妊娠したがへその緒が絡んで亡くなってしまった。
亡くなって初めて子どもの大切さを感じて、泣き泣き暮らしていましたが、仕事に戻っていきました。
子どもの番組の担当になって行きました。
子どもたちが私の周りに取り付いてきて、子どもに対する考え方とか、かわいさとかがもう一回私に叩きつけられたかなと思って、次に子供が生まれた時にはそれがよくわかりました。(25歳)
当時国中が貧乏で大変でした。
当時子育てをしながら仕事を持つという事は大変でした。
追い詰められていて「仕事を辞めてもう一回初めからやり直す、何をやっても私は駄目」と長岡輝子さん言ったら、「辞めたら全部今までできなかったことができるの?」と聞いてきて、そういわれたらできないと思いました。
「人間は全部は出来ない、頑張る事しかない、50点でもいいから頑張りなさい、私もそうしてやってきたの、それでよかったと思っている。」と言ってくださって、心がすっとなって、できないことを人のせいに、仕事のせいにしていると思いました。
出来ないで当然、やってみようと思いました。

28歳の時にアナウンサーからディレクターに転身しました。
ディレクターは何にもない所から作るので、発想の楽しさがあるので子どものものをやっていきたいと思いました。
今やりたいことは何かを考えたときに、子どものことをやってみたいと思いました。
昭和29年「お話でてこい」が始まりました。(今も親しまれている。)
子どものものは女の人がいいと言われていたが、男性の語りで進めていきました。
周りからは反対されたが、段々慣れていきました。
自分の子どもを見て考えられたので良かったと思います。
昭和52年から「ことばあそびの会」を作って、昭和57年に朗読「ベルクの会」を作りました。
NHK退職後も朗読の活動を続けています。
大事なことは文字を読むのではなくて、意味を子どもに伝えて子どもの反応を引き出したいと思っています。
新美南吉「狐」 脚色:武井照子 話:武井照子

エリック・C. ホガード という人の「小さな魚」を読んだときに胸を突かれました。
イタリアの戦争の中での元教師が、「自分は一生懸命に沢山の本を読んだが、その中に書いてある作品の余白について知らなかった。
イタリアで自分は全体主義者だった。
ムッソリーニがイタリアの栄光について語ったが、戦争の悲惨さとかは語っていない。
語ったことは判るけれども、語らなかったことを知らなかった、それはみんながそうだったからということは言い訳なんだ」、と言っています。
何べん読んでもそれが心にあります。
「小さな魚」を子どもたちに読んであげています。
文学作品の中にある大事なテーマみたいなものを、今の子どもにわかってもらいたい、考える子どもになってほしいというのが願いです。










2020年3月12日木曜日

桂文珍(落語家)              ・「落語家の道 50年」

桂文珍(落語家)     ・「落語家の道 50年」
桂文珍さんは兵庫県丹波出身の71歳、大学時代初めて落語を知り、落語研究会を作って、美憂亭 さろん(ビューティーサロン)と名乗り活発な活動をしました、
大学3年の1969年に5代目桂分枝さんに入門、その5年後関西のTV番組『ヤングおー!おー!』のユニット「ザ・パンダ」に参加し大人気となりました。
そして関西大学で非常勤講師やTVのキャスターを務めるなど落語以外でも活躍しました。

今年で芸歴50年、あっという間でした。
兵庫県丹波は黒豆が有名でイノシシ、猿が来たりしていました。
実家は農家で長男した。
山間の村でしたが、空を眺めてパイロットになりたいという思いがありました。
操縦ライセンスは取って2500時間ぐらいは飛んでいます。
小学校の頃家族がラジオの前に集まって笑うんですが、金馬師匠の落語などがありました。
「二十の扉」、「お父さんはお人好し」とかいろいろ楽しんで聞いていました。
笑って和むという事が好きでした。
高校は篠山鳳鳴高校でコーラス部の部長をやっていました。
大学は大阪産業大学へ行きました。
親は公務員か先生を希望していました。
友人が授業中に肩を揺らしていて、落語の本を読んで笑っていたので、今度落語研究会を作りたいという事で一緒にやらないかという事でした。
落語を覚えてくれという事で、それを覚えてみんなのまえで落語をやったら受けました。

落語研究会を作って7名集まってよそのクラスでもやったりしていました。
上方落語学生連盟を作って副理事をやっていまして、東京落語学生連盟などと全国大会をやったりしていました。
プロになってやると学生時代は受けたのに全然受けないんです。
考えてみると世代が違う、お金を払って聞きに来ている、この差は物凄く大きいんです。
大学3年生の時に3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)に入門しました。
1974年に、『ヤングおー!おー!』のユニット「ザ・パンダ」(月亭八方・桂きん枝・林家小染)に参加。
人気があって芸に力がないのがつらかったです。
解散した時にはほっとして、これで落語に集中できると思いました。
上方では前座、二つ目、真打が無くて、稼ぐようになれば真打という事です。
昭和51年に上方お笑い大賞、昭和60年花王名人大賞、平成21年に芸術選奨文部科学大臣賞受賞、平成22年に紫綬褒章受ける。

1988年(40歳)関西大学文学部の非常勤講師を務め15年間やりました。
彼らの質問に答えるのが難しかった。(どうして座っているのかとか、いろいろ)
改めていろいろ学びました。
慶応大学にも非常勤講師として行きました。
伝統芸能という広いくくりの中の講義だったのでいろんな芸能の話をします。
上方歌舞伎、能楽、文楽、義太夫など。
1991年から報道キャスターを14年間やりましたが、これも難しくて勉強させてもらいました。
アウンサンスーチーさんにインタビューさせてもらったり、ペルーに行ったり、ポルポト政権のカンボジアなどいろいろ海外に行きました。
現場に行くといろいろ判ることがありました。
平和であることのありがたさ、皆さんが笑ってすごいしていただけることの大切さなどキャスターをやっている間に学んだことでした。

阪神淡路大震災もこの間にありました。(45,6歳)
地震で壊れないものを大切にしようと思いました。
友情、健康、家族そういうものを大切にしようと、その中に芸というものもあり、重心を芸により傾けていこうというきっかけになりました。
TVはインパクトがありコンパクトのものが受けるので、芸の世界はフィクションでありそこで表現できるものでお客様に届くものがあって楽しんで頂いたらいいなと思っていて、談志師匠はこれは「業の肯定」なんていうようなことですが、これをフィクションの中で描けるのがエンターテーメントとしてのありようだろうと若い時からおっしゃっていますが、そういうのをお伺いしながらそっちの方へ重心を移してゆくと言う風に段々変わってきました。
人様の話も先輩後輩関係なくどの人の話も聞くのが大好きで、落語のみならず漫才も見聞きするのが好きです。
71歳なので徳勝龍が33歳で優勝がありましたが、「もう33歳ではなくてまだ33歳」という事で僕は拍手しましたが、まだ71歳だという意識で健康管理に時間を割きながら長生きして皆さんに少しでも楽しんでいただきたいと思っています。










2020年3月11日水曜日

山田洋次(映画監督)           ・「震災を語る~映画監督 山田洋次」

山田洋次(映画監督)  ・「震災を語る~映画監督 山田洋次」
山田さんは現在88歳、最近では映画「男はつらいよ」の50作目を手掛け今も精力的に作品を生み出しています。
これまで日本が震災に見舞われるたびに被災地に心を寄せてきた山田さん、25年前の阪神淡路大震災が起きたときには兵庫県神戸市の被災地で「男はつらいよ」の撮影を行い、東日本大震災の後は岩手、宮城、福島に何度も足を運んで被災した人たちの声にも耳を傾けてきました。
震災と原発事故から9年、今東北の被災地をどう見ているのか、山田さんが考える復興とは何か、山田さんが見据える被災地の希望とは何か、伺いました。

TVで見た恐ろしい映像を見たときの衝撃は、日常生活の中に理解できない突然刃物でぶった切りに入ってきたような、そういう思いを日本中の人がみんなしたわけで、強烈な記憶は今でも生々しく残っています。
震災に出会った人にとっては昨日のことのような思いがしているのではないかなあ。
あの日は家にいて大きい地震だなあと体験したぐらいでした。
「東京家族」を4月にクランクインする予定でしたが、1年間延期しました。
数日してスタッフルームでこのまま撮影をしていいのかどうか、3月11日以降日本が大きく変わっていくのではないかと感じていました。
3月11日以前の脚本で撮り続けていいのか、違うのではないかと、この国が大きな変わり方をするとすれば、その時点でこそその映画を作らなければいけない、今この映画を作ることは一旦中止した方がいいのではないかと大決断をしました。
物語をもう一遍構築しなおそうと考えて、その映画を再開した訳です。

早い時期に海沿いの街を茫然と歩いてみたりしましたが、「陸前高田に黄色いハンカチが翻っていますよ」と、家を流されてしまった大工さんが若い時に見た映画を思い出して、これはくじけられるかという事で流された敷地の庭に柱を立てて黄色いハンカチを何枚も下げて、のっぺらぼうになってしまっているんで道行く人の目印になっているんですよと言う話を聞いて吃驚して、「黄色いハンカチ」の作者としては嬉しかったというか、感動したというか、見に行きたくなって見に行きました。
柱とか黄色の布地を寄せ集めでできていて、「幸せの黄色いハンカチ」のリメイクをやってた放送局に頼んでそこで使っていた本格的なものを譲ってもらって、その横に柱を立ててもらって黄色いハンカチを取り付けて、大工の菅野さんもとても喜んでくれました。
今でも菅野さんとは手紙のやり取りをしています。
当時見た被災地の光景はただ茫然と見ていました。
街が消えてしまって、亡くなった人も多くいて、何百年という歴史も一緒に消えてしまった訳で、隣近所とのコミュニティーも全部消えてしまったわけです。
回復するのには100年も200年もの歳月が必要になるんだろうなあと思います。
これから先大変なんだろうなあと思います。
人の横のつながりと縦の時間軸のつながりがあって初めて街が成り立つという事を詩人の田村隆一さんから聞いたことがあります。
一つの街として形成するのには少なくとも3代の年月が必要なんだと、いう事を聞いています。

人と人との間には時々どうしようもなくトラブルが起きることがある。
そのトラブルを何とか乗り越えようとする、乗り越えたときには新しい人間関係が生まれる。
それが家族であり地域でもあるのではないのか、そんな体験を追体験を観客は寅さんの映画の中でして思わず笑ったり涙ぐんだりする。
寅さんは迷惑をかける男だから寅さんの失言によって家族が大混乱する。
大喧嘩して最期にはお前なんか出て行けという事になるが、あの寅さんという邪魔者が大変必要な邪魔者なんです。
寅さんがいるからもめ事を起こして、再生しようとする努力をすることによって生活経験を積んでゆくわけです。
前は変なおじさんさんおばさんがいたりして、みんな苦労しるという体験を知っていたから、だから寅さんの家族と一緒に笑ったり泣いたりできたんじゃないですかね、段々そういう体験が少なくなってきているのではないか、日本の家族の家族関係が段々希薄になってきているからね。

僕たちの国は果たして幸福な国かという大きな課題をみんなが考えるようになったのは、大震災前とはずいぶん違うのではないか。
問題は幸福な国、幸福な社会に向かって僕たちの国は進んでいるんだろうかという検討は必要なんじゃないかと思います。
家族、隣近所との絆が大事なんだなという事、コミュニティーはそういう力を持っているのだと気が付いたという事はあると思います。
阪神淡路大震災の時に、寅さんの撮影に来てくれと言われて、寅さんのロケーションをやったことがありました。
街の人と人との厚いつながり方、具体的な暮らしの上でも精神的な支えあいという上でもみんな求めていたし、100年、200年かけて作り上げてきたのにそれが消えてしまっている。
建物道路は立派になっても、そっちの方はどうしたら回復できるのだろうとか、行政はどう考えているんだろうかとか考えさせられました。

地域のつながりを作るのは難しい、年月がかかるわけです。
これからに日本で地方が豊かになってゆくという風にはどうしても思えない。
都心に集中して行ってしまう。
被災地を含めて日本の大きな課題だと思います。
地域を纏めるのは若い人の力が必要だと思うし、子どもが沢山いないといけない、子どもを通して親たちがが仲良くなってゆくので。
避難指示が解除される中で、戻れる状態にはなりつつあるが、違うところで生活のスペースができているので、若い人が戻れない戻らないという様な状況があります。
家族、隣近所のつながりは目に見えないことで、目に見えないものを回復するという事は大変難しい問題はあるが、しかし回復しなければいけないと思うが、家族の繋がりが薄れていって回復しづらいというのは被災地だけでなく日本全体の問題だと思います。

浪江町では2万人いた人口が今戻ってきている人は1000人ぐらいです。
地域がどんどん消えてゆくというか、地域における人と人との温かい繋がり、コニュニティーが消えつつあるような不安感を抱いているようなときにあの大震災が起きてしまった。
一層そういったことを考えざるを得なくなった。
役所でお互いに名前を呼びあうとか人間臭い努力が沢山沢山必要なのではないかと思います。
日本中の人がもっともっと東北の人たちに関心を持たなくてはいけないし、応援しないといけないのではないかと思います。












2020年3月10日火曜日

竹内静代(東京大空襲体験者)        ・「私は東京大空襲を生き延びた」

竹内静代(東京大空襲体験者)   ・「私は東京大空襲を生き延びた」
竹内さんは75年前の昭和20年、13歳の時に空襲を受けました。
昭和19年第一東京私立高等女学校(現在の深川高校)の2年生だった竹内さんは毎日軍需工場で働いていました。
年が明けると空襲は一段と激しくなり2月下旬の空襲で家財と家屋を焼失、3月10日に東京大空襲に見舞われました。
この空襲でおよそ10万人が焼死したと言われています。
竹内さんは戦後中学校の教師になりました。
子どもや多くの人たちに空襲や戦争を伝えていたつもりだが、戦争の風化は止まらない、今こそ当時の出来事を正確に伝えることが大事と、講演会や若い世代との朗読会を通して戦争と空襲を伝えています。

戦争に負けて75年経ったというのは、本当に75年あったのかなあと言う思いがあります。
1945年の1年間はいつまでたっても忘れられない一年です。
色々なところで自分の体験を話すのですが、防空壕といってもイメージできない、それ以外にも言葉が通じなくなってきている。
大事なことを消してゆくような風潮があるような気がしてそれが怖さにもなります。
昭和18年11月から勤労学徒動員で藤倉電線という工場に勤めていて、11月の末頃から空襲が激しくなっていきました。
昭和19年元日から空襲があり着の身着のままで寝起きしていました。
2月25日は雪が降っていて、午後空襲がありあっという間に木造の家が焼けてしまいました。
防空壕から出てみると家が燃えているのが見えてバケツで消火活動しましたが、全く無理で逃げようという事になりました。
母が台所に仕掛けてあった釜を取りに行ったら、炎が入ってきて頭などを火傷しました。
母と火のトンネルをくぐって雪の原っぱまで逃げていきました。
非難している人が沢山いました。
飛行機の爆音とともに機銃掃射もあり凄く怖かったです。
何棟も何棟も家屋が大きな音と共に崩れ落ちて行く姿も目に入りました。

焼け出されて2月に14歳になり、3月9日午後10時30分ごろには13,4人は入れる共同防空壕にいました。
様子を見るという事で叔父さんが入り口を開けてみると、砂町銀座の方が真っ赤に燃えていました。
防空壕にいた人達は気が付いたらどこかに逃げたらしくて、私たち親子3人だけでした。
逃げて行く間もいろんななものが飛んできました。
荒川放水路にかかっている葛西橋まで行きました。
母はみんなが逃げて行く方向に逃げようと言いましたが、父は橋を渡って暗い方に逃げなければ駄目だという事で、強風の中揺れる橋を渡って逃げていきました。
これが助かった大きな原因でした。

一つの2mぐらいの収束焼夷弾に50cmほどの焼夷弾が38本が入っています。
高度800mぐらいのところで38本がばらけて落ちてきます。
2時間半の空襲でそれを36万発落としたと言われています。
3月11日父の実家の出雲に帰ろうという事になり、飲まず食わず眠らず、東京駅まで歩いて行きました。
焼け焦げた原っぱがずーっと続いていました。
防火用水に頭から突っ込んで焼け死んだ人、コンクリートの建物から上半身出して焼け死んだ人など目にしました。
歩いていると焼け死んだ人たちが一杯いて、焼けこんだ匂いが鼻を突きました。
やっと東京駅に着いた時には夕方でした。
最初は焼け死んだ人は熱かっただろうなあとか可哀そうとか思っていましたが、そのうちにただ目に映っているのを見ているだけ、何の感情もないそういう感じでした。

終戦は出雲で迎えました。
ラジオの放送は聞いたが、ガーがー言っていて何の話だか分からなかった。
戦争が負けたと言われたが、勝つまでは・・・といわれてずーっときたので、負けるという語彙が私の中には無いんです、理解できなかった。
祖母が大事にしていた叔父の弁当箱を、教室に出さざるを得なかったことがとっても残念でした。
終戦の直前、先生が戦争で鉄砲球などに使うから金属を持ってくるように言われ、何もなくてふっと思ったのがアルミのお弁当箱で、それは叔父の形見で祖母が大事にしていたものでした。
母はとんでもないという事でしたが、祖母に言って「持って行かないと非国民になってしまう」と言ったら、悲しそうな顔をしていたが出してくれました。
あくる日先生のところに持って行ったら、はいと言って受取ってくれたが、それから10日ぐらいして戦争は終わってしまいました。
弁当箱を金づちでぺしゃんこにしているときに祖母は涙を流していたが、どうしてあの時に「おばあちゃん ごめんね」と一言が言えなかったんだろうと思います。
今でも胸に突き刺さるような辛い思い出です。

今でも戦争を語り継ぐ会をやっています。
本を3冊作りました。
戦争の悲惨さをあちこちで「ひつじの会」3人で語っています。
75年続いてきた平和は絶対に手放してはいけないし、あんな思いを若い人には絶対させたくない。
明日に先生に教えてもらえる、明日に友達と会える、明日という事がとっても大事に思えたんです。
明日のことを何気なく考えるという事はなんて幸せなんだろう思います。
あの頃は明日が判らなかった、明日が死ぬか生きるかわからない毎日でしたから。



























2020年3月9日月曜日

畠山聖子(新体操日本代表 畠山愛理の母)   ・【アスリート誕生物語】

畠山聖子(新体操日本代表 畠山愛理の母)  ・【アスリート誕生物語】
子育ての秘訣を聞いています。
畠山愛理さんはロンドンオリンピック団体7位入賞、2015年世界選手権団体種目別リボンで銅メダル、リオデジャネイロオリンピック団体8位入賞と活躍し、現在NHKのサンデースポーツのレポーターなどとしても忙しい毎日を送っています。

昨年プロ野球広島カープの鈴木誠也選手と結婚して、東京と広島を往復の生活をしています。
広島で試合があるときには絶対居たいという希望が強いんです。
アスリートフードマイスターの資格も取ったようです。
自分もアスリートだったので食べる事が大事だと実感していると思うのでそういった点でも支えたいという思いが強いようです。
名前には愛という言葉を入れたかった、愛を配れるようになってほしいという思いを込めて愛という字をつけたかった。
夫が理という言葉を考えてくれました。
上に兄が二人いたので、自分が出来ないことがあるとすごく悔しがって、負けず嫌いな性格も育ってきたと思います。
食べ物は珍しくカレーが嫌いでしたが、大人になったら食べられるようになりました。
小学校の1年生の時に運動をやらせたいと思って、近所で新体操をやっていて、そこに行くことになりました。
ピアノも習いました。(新体操に役に立ちました。)

楽しそうにやっていたので嬉しい気持ちになりました。
新体操にはあまり男性は関わらないので、夫は発表会とか試合にはあまり行かずにいて、その後大きな大会には見に行くようになりました。
子育ての方針は、本人の意志をなるべく尊重してあげるという考え方です。
脚力、瞬発力、バランスなどは遊びの中でちゃんとついてきていたのかなあと思いました。
ただ身体は硬かったので、風呂上りに毎日柔軟体操をやっていました。
小学校6年生の時に日本チャイルド選手権という全国規模の試合があって、入賞出来て今度はオリンピック選手だと卒業文集にも書いていました。
オリンピックという言葉が出てきて嬉しく感じました。
都心の練習場に行くので駅までの送迎の時間が楽しかったです。
技のこととかいろいろ話す貴重な時間でした。
中学1年生の頃強度の貧血になり、疲れやすくなってしまって、病院に連れていったら貧血だという事でした。
病院での鉄分の処方と食事も気を使いました。

中学2年の時に演技中に腰に激痛が走って演技は終えたものの、次のリボンの種目は無理で病院に行ったら全治3か月といわれてしまいました。
疲労骨折でした。
1か月後に団体の演技があり、先生から出てほしいという事だったが、その後の子どもの健康を考えるとできないと思って、最終的に2週間は安静にするという事で決着がつきました。
2週間で痛みも引いてきて徐々に練習もできるようになったが、精神的の追い詰められて体育館のドアのところで吐き気がしてしまったりして、新体操も辞めたいと思ってしまいました。
授業中に新体操のことを考えだしたら涙が止まらなくなり、保健室に行って自分の気持ちを全部ぶつけて話を聞いてもらったら保健室の先生が「辞めたいんだったらやめた方が、もし全日本ジュニアの大会に出るのであれば、コーチとかほかの人のことは考えずに自分のためにやったらいいんじゃない」と言ってくれたそうです。
気持ちが前向きになって、その先生の言葉が無かったら新体操は続けていなかったと思います。

その保健室の先生はロンドンオリンピックの時にはロンドンまで応援に来てくださいました。
先生の言葉は一人の人間の人生を変えるだけの力があるものだと思いました。
全日本ジュニアの大会の種目別フープでは2位になり、総合では8位でした。
中学3年生でフェアリージャパンオーディションに合格、新体操日本ナショナル選抜団体チームに入ることができました。
オーディションに合格後3日目にロシアに長期合宿に行くことになりました。
2012年17歳でロンドンオリンピックの出場が決まりましたが、前年の世界選手権で切符を獲得できました。
まさか夢が叶うとは思っていなかったので、周りの方々のお陰で有難かったです。
ロンドンでは7位入賞、立派だと思いました。
日本女子体育大学に進学、2015年世界選手権団体種目別リボンで銅メダル。
2016年リオデジャネイロオリンピック代表に選ばれ、団体8位入賞。
2分半の演技ですが、4年間かけて練習してきているので、息をつめてみてしまうほど一生懸命応援しました。
その後引退を表明する。
スポーツコメンテーターとして進路を進むことになるが、ほかのスポーツのルールが全く分からなかったのでノートを作って必死に勉強しています。
親子の会話が多い家族だとは思っています。
一番の親孝行は愛理が幸せに暮らしているというのを親に見せてくれることです、子どもが幸せなのが親の一番の幸せです。







2020年3月8日日曜日

山田栄子(声優)               ・【時代を創った声】

山田栄子(声優)                           ・【時代を創った声】
山田さんはアニメ「赤毛のアン」のアン役やNHKの人形劇「ざわざわ森のがんこちゃん」のお母さん役など多くの作品に出演されました。
3人のお子さんを育てられた山田さん、20年前に乳がんを患いました。
いまは完治していますが、仕事ばかりしていた山田さんは子どもときちんと向き合うきっかけになったと言います。
現在も様々な仕事に取り組んでいる山田さんに伺いました。

『赤毛のアン』のアン・シャーリー役、『小公女セーラ』では、主人公セーラのいじめ役・ラビニアを担当、『キャプテン翼』での岬太郎役など多くのキャラクターを演じてきた。
NHKの人形劇「ざわざわ森のがんこちゃん」のお母さん役など多くの作品に出演してきた。
小さいころは男の子と一緒に遊んでいました。
結婚するまでずーっと横浜にいました。
一旦中目黒の住みましたが、今も横浜に住んでいます。
中学生の時にバレーボール部に入っていましたが、演劇部のシンデレラを見て自分もやってみたいと思いました。
演劇部に中学2年の時に入り、高校3年まで演劇部にいました。
たまたま東欧で芝居する機会があり一か月ぐらい行きました、それを機会に劇団芸協に入りました。
東欧では私の方が感動しました。

劇団では下手なのがよくわかりました。
怒られるのも楽しかったです。
アニメ「赤毛のアン」のアン役を初めてやって、1年間通して終わったときに悲しくて悲しくてしょうがなかったです。
1979年 声優としてのデビューでした。
宮内浩平さんから赤毛のアンというオーディションをやっているという事で、行けば2000円もらえるという事で行きました。
合格するとは思っていなくて、言われたところをいろいろ1時間ぐらい読んでいて、もう一回来てくれという事で、赤毛のアンの本を慌てて買って読んで,余計なことをいろいろ考えてしまって、再度やったときには「このあいだ来た人ですか」といわれて、もう結構ですと言われ帰って来ましたが、帰りに泣いてしまいました。
テープが1時間ぐらい取ってあったので、それを聞いて高畑勲さんが決めてくれました。
気合を入れ過ぎてしまうのは駄目だと思いました。

島本 須美さんの「ルパン三世」に出てくるお姫様の声は凄く好きで、何と純粋な声なんだろうと思いました。
アンでは変な声の方がいいと言われて、素直にやればいいんだと思って後は楽しくやりました。
最初の頃は高い声でやっていて段々落ち着いてきました。
私とアンは似ているようなところがあると思いました。
『小公女セーラ』ではラビニアを担当して、難しかったです。
島本 須美さんの主人公セーラのいじめ役ですが、ねちねちといじめるのが上手く出来なくて、イライラしてきました。
「忍者ハットリくん」の影千代(ケムマキの弟子の忍者猫)は苦労しました。
そのまんまで出来るので少年役は楽しいです。
影千代はアドリブが多くて、アドリブが出来なくて大変でした。
最初の2か月が胃が痛くなりました。
家でいろいろ訓練してゆき、半年後には自分でアドリブが言えるようになりました。

子どもは30歳、25歳、と23歳の3人です。
子どもが3人目の時に乳がんになってしまって、子どもをちゃんと見ていなかったんだなあと反省しました。
初期だったので先生は大丈夫だと言いましたが、自分としては子どもより仕事優先で来ていたのに気が付いて、辞めるという決心がつきました。
毎日ではないので責任をとるから人形劇「ざわざわ森のがんこちゃん」だけは辞めないでといわれて、それ以外は一切やめました。
死ぬんだったら子どもとは最後まで一緒にいてやるんだと思ってそういいました。
10年間そうしました。
病院に来なくていいと言われて、やっぱり芝居がしたいと思ってしまって、舞台をいろいろやるようになりました。
今は楽しくてしょうがないです。
新劇協会にはずーっと入っていましたが、10年経って新劇協会で年に一度「詩と朗読の夕べ」があり、それに参加してみようと思いました。
その練習するときが面白くて、観客賞を頂いてそれが励みになりもう一度やってみようと思いました。

歳を取ってくると演技に対して言ってくれる人が少なくなりました。
先輩のところに2か所に行って勉強しています。
声だけですと、声の表現をするにはさらにお腹から気持ちを込めて言わないと伝わらないといつも思っています。
小さい声でもお腹から、魂から言わないと、という思いです。
若い人へのアドバイスとしては、芝居をちゃんとやりたいと思ったら、自分でいい先生を見つけて、仕事しながらでも勉強してほしいと思います。
自分の演技をテープに取って聞いて、自分で自分にダメ出しを毎回してみる。
そうすると絶対によくなっていきます。
本当に自分は何をやりたいのか、どんな役者になりたいのか自分のビジョンをしっかり持って行くことが大切かと思います。
語りを始めたので一人語りでお客さんが呼べて満足していただける、そういう私になりたいと思っています。



2020年3月7日土曜日

2020年3月6日金曜日

松浦常子(みかん農家)          ・「視力を失って得た人生」

松浦常子(みかん農家)          ・「視力を失って得た人生」
松浦さんは71歳、ミカン農家として生き生きと働いていた36歳の時に網膜色素変性症と診断され、いずれ失明すると告げられました。
将来への希望が持てず20年近く辛い日々を過ごしましたが、インターネットを通じて同じ境遇の人たちと出会ったことで生きる意欲を取り戻したと言います。
その後愛媛県に患者会を設立、地元宇和島市でも視覚障害者の交流会を開催するなどして、仲間の輪を少しずつ広げています。
そうした体験をつづった手記「私が歩んできた二つの人生」がNHK障害福祉賞を受けました。

「私が歩んできた二つの人生」は私が晴眼者であったら知らなかった世界ですが、別の世界を知って別の人生が生きられるという事が判りました。
一生懸命ミカン作りをしてきたときと、ミカン作りを辞めて同じ障害を持ち同じ悩みを持つ人たちと歩み始めて、二つの人生だなと思いました。
真っ暗かなあと思ったら白くて何も見えない感じです。
有難いことにほんのぼんやりとは見えるんです。
見えなくなってきたのが判ったのは40代後半ぐらいです。
36歳の時に網膜色素変性症だと言われたときには何にも感じていませんでした。
コンタクトをしていて目にゴミが入ってごろごろしていたので病院に行ったら、目の奥に重大な病気があります、網膜色素変性症という事でまず夜見えにくくなり段々視野が欠けていって最後にはいずれ失明しますと言われました。
そのうち失明してしまうのかと、いつも頭に隅にありました。
子どもは長男が中学1年、次男が4年生、娘が1年生の時でした。
夫はそれほど深刻にはとらえていなかったと思います。

50歳になってミカンの取り残しをしたりまぶしく感じたりして、夕方には見えにくくなりました。
人から具合はどうといわれて、段々人に会う事も嫌になってきました。
地域の婦人会もその時期に辞めてしまいました。
そのころJRPS(日本網膜色素変性症協会)を知りました。
東京に本部があり当時28支部ありました。
情報を知りたいと思ってネットで調べましたら、JRPSが判ってここに入ろうと思いました。
その日のうちに会員登録の手続きをしました。
私一人ではなく同じ思いをしているのがこんなに沢山いるんだと思えて気が楽になりました。
愛媛県では休会中だったので本部から西日本ML(メーリングリスト)を紹介されてそちらに入りました。
不自由な思いをぶつけました。
周りからいろんなアイディアを出してくれたり、障害者手帳を申請した方がいいとかアドバイスしてくれました。
障害者2級でした。
色々な情報を得ることができました。
便利グッズをいろいろ紹介させてもらいました。

愛媛にもこんな交流の場があればいいなあと思いました。
友達から「無ければつくればいいんじゃない」といわれてそれでは作ろうと思いました。
まずは仲間集めをしないといけないと思って、新聞に載せてもらおうと思いました。
電話を頂いたりして何人かの仲間ができました。
立ち上げるのには学術会員が1名必要という事で、会員が30名以上とか条件がありました。
愛媛県大学のロービジョン外来を受診して、その医師に協力してもらえないかどうか伺ったら、快く引き受けていただけました。
会が発足したのは平成19年でした。
最初は40名足らずでしたが、今は103名になりました。
大きな柱が病気の治療法の確立ですので、病気について知ろうという事で医療講演会などはよく開催します。
情報を得るのにはパソコンを習いましょうという事で、月に一回午前中に学習して、あと点字を習う方もいて、午後はいろんなことをやります。
最初来られる方は沈んでいますが、そのうちに笑えるようになります。


中学生の頃にパール・バックの『 大地』という本を読んで、土に生きるという事はいいなあと思ってミカン農家に嫁ぎたいと思いました。
ミカン農家が斜陽になりミカンだけでは食べていけないような時代になり、ミカンの温室栽培をやり、品種の改良などもして、いちご栽培、ブロッコリー栽培したりして何とか苦労しながら続けてきました。
今は夫が一人でミカン栽培はやっています。
申し訳ないとは思って感謝しています。
豪雨で被害を受けて1か月以上断水にもあって大変でした。
全国から励ましを一杯頂きました。
人と人とのつながりをつくづく感じました。
ミカンはこれからは剪定作用があり、4月末5月ごろに花が咲くころに成ったら消毒作業などもあります。
今はスプリンクラーで楽にはなりましたが。
色んな人とかかわりあいながら、全国の皆さんにいろんなことを発信していきたいと思います。

























2020年3月5日木曜日

今泉吉晴(動物生態学者)         ・「森の動物ヒミズを知っていますか」

今泉吉晴(動物生態学者)         ・「森の動物ヒミズを知っていますか」
今泉さんは昭和15年東京生まれ、79歳。
子どものころから東京郊外の野山にいた生き物を観察するのが大好きな少年でした。
小学生の時に動物学者の父親から森の動物ヒミズを初めて見せてもらいます。
子どもの手のひらに乗るようなヒミズはビロードのような黒い毛に覆われ心地の良い手触りのする可愛らしい動物でした。
ヒミズはモグラの一種で森に住んでいます。
モグラの様に強力な前足を持たないため、落ち葉をそっと横にそえる程度の穴を掘ります。
ヒミズはなぜ森の中で暮らしどんな行動をしているのだろうか。
この好奇心が森の動物たちの研究に入る発端でした。
動物学は動物の分類が学問の中心でしたが、今泉さんは動物の暮らしの中にお邪魔してその生態や、行動を学ばせてもらう研究を行ってきました。
山梨県都留市でムササビと森を守る運動をおこし、東京から都留市に移住、森に山小屋を作り、住み込んで動物たちの観察を続けました。
現在は岩手県花巻市に住み研究を続けています。

モグラの仲間は雪で覆われると一段と地下が安全な場所になるので、ほっとしているかもしれません。
モグラはトンネルの中に居れば安心しています。
モグラを飼う方法を考えて、金網を丸くしてトンネルのようにするとモグラは落ち着きます。
小学校の低学年の時に、父が動物学者で富士山に調査に行って帰ってきて夜中に起こされて、真っ黒な小さなモグラのような動物で、それがヒミズでびっくりしました。
父も初めてで見せたかったようです。
ヒミズは地下で何をハンターしているのか、ミミズをどうやってハンターしているのかという論文でした。
ミミズがどうやって逃げるかを知っていて、摑まえる時にどうするかというと噛みついてミミズは引きずられると静かになる、そういったことを研究しました。
臭いを察知して、いろいろの行動を一つのパターンにして記憶させているわけです。
ヒミズの狩りの行動を解明していこうという研究です。

子どものころはザリガニなどをみたりするのが好きでした。
ヒミズの自然な行動を知りたいと森の中に住みたいと思いました。
モグラは都会にもいるが、ヒミズは山にしかいなくてそれはどうしてかという事が不思議でした。
動物行動学の理論を使って理論を研究することも山では研究できる。
都会、畑などは地面が赤裸、山に行くと露出した地面はなくて落ち葉の層がありその下には落ち葉が腐った層がありその下が普通の土で、地面の構造が違う。
ヒミズは落ち葉の層と土の層の境界にトンネルを掘るんです。
ヒミズは土だけの層には住めないという言ことが判りました。
モグラはブルトーザーのような手をして爪も長くて掻きとって、それを手で押してゆき、垂直に彫ってゆき、地面に土を押し上げて、モグラ塚ができる。
ヒミズは柔らかい土を掘っていく。
雪が降ると落ち葉と雪の間を掘ってエサを探すので新しい領域の餌場ができる。

1985年に山小屋を建てて、ムササビとも仲良くなり2階建てにしました。
本来の暮らしを研究するためには仲良くしないといけない。
摑まえて無理やり馴らすとか、餌付けをするとかはしない。
人間は嫌われています、行くとみんな逃げてしまいます。
そっとしてないと姿を見せてはくれない。
ムササビも見るのがとっても難しい動物だと言われていました。
中学時代から高尾山にムササビを見にしょっちゅう行っていました。
都留でムササビを見る会を作りました。
ムササビは高さの3倍は飛びます。
山小屋でのムササビを見ようとしたが出てきませんでした。
ムササビは春には強風などで赤ちゃんが落ちていることもあり、拾う事ができて肌身離さず育てました。
育てる手順も段々判ってきて、遊んであげたり、掌に載せたりしているうちにいろんな欲求が出てきて、山小屋からちょっと出たりしているうちに滑空ができるようになり、そのうちに出て行って、朝戻ってくるようにもなる。
肩にぽとんと乗って朝の迎える楽しさがあります。

ムササビが壁の隙間に巣をつくって子育てをしましたが、絶対的な信頼を得たと思いました。
壁の部分をガラスにしていろんな行動を観察することができました。
山小屋にいるといろんな接点ができて、共同体として迎え入れられました。
動物がこっちを見ているし、こっちもみて、お互いが了解してゆく関係が進展して深い関係になってゆくわけです。
共存の関係になってゆく前提はどうしたらいいかという事で、動物もほかの関係の中で生きているが、人間は自然を自分の利益のために行動するので、動物と上手くやってゆくにはそれを最小限にしないといけない。
対等になるには人間が持っているいろんな無茶なことに使うと本当の姿を見せてくれない。

シートンの動物記とかいろいろ翻訳しています。
面白いと思ったのはソローが山のなかでの生活とか、お金持ちにしかできないと思うが誰にでもできると言っているんですね。
一日だけ働いてほかの日は自分のために使う、そういう生活ができるよと言うところから始まるんです。
幾つも発想の展開をしないと山小屋での暮らしというものはできないと思います。
シートンは大学なんか行かない方がいいという事で開拓地に行くわけで、そこが大学でもあるわけです。
そこで学んだことから新しい動物学、自然学というか新しい世界を捉える哲学を組み立ててゆくという事をやった訳です。
動物分類学からあたらしい動物行動学に衣替えした訳です。
人間が歩いて土が固まってくるとヒミズが進めなくなってキツネなどにやられてしまうのでヒミズにとっていい土の状態を落ち葉に替わる安心空間、例えば竹の枝を使ってできないかとかそんなことをやっています。































2020年3月4日水曜日

佐々木勝年(NPO理事長)        ・「もったいない精神で建築を変える」

佐々木勝年(NPO理事長)        ・「もったいない精神で建築を変える」
佐々木さんは1944年千葉県生まれ、法政大学大学院で経済学を学び会社勤務の後1980年にマーケティングや地域開発、事業戦略を手がける会社を設立しました。
20年後の2000年に大学教授や一級建築士らと特定非営利活動法人NPO持続建築を立ち上げ、今日まで活動を続けています。
自然環境と社会環境がバランスよく調和し快適な生活が持続出来るような建築を基本理念に様々な事業を展開しています。
住宅やビルの建築では30年から50年で建て替えるスクラップ&ビルド方式ではなく、もったいない精神で出来るだけ長持ちする方式を推奨しています。

「中小建物の100年建築物語」というセミナーを昨年11月に開催しました。
まだ使える建物を改修して使って行こうという事なんです。
木造建築は大体30年で寿命が来ているのではないか、コンクリートの建物だと大体60年ぐらいで寿命が来ると考えているわけです。
こういう建築物に対してもう一度再検討すべきではないかと考えました。
もったいない精神をベースにして発想の転換を図っていかなくてはいけない。
中古ビルの建物を改修して診断して一生懸命メンテをやってできるだけ長く伸ばして、建物の改修をして建物の価値を高めて行くという方法がありうると考えたんです。
4事例あったんですが、その中の一つ、健康マンションの事例。
小さな事業所ビルです。
レイアウトの変更、従来事務所と屋上バルコニースペースがあったんですが、その中に一部張り出すようにバッファー空間、使用領域が曖昧なスペースを作って、レイアウトの変更をしました。
使い続ける100年改修 
電気配線、配管が露出する様な形にして何が問題かが判る様にする。
杉の木材を床材として使いました。
壁と天井は漆喰塗装。

35歳で会社を立ち上げました。
事業領域は①事業の開発、建物の開発、②農業の分野での農業の経営関係③マーケティングとか事業計画を作ってゆく。
リゾート開発とか進めてゆくうちに、環境の問題が大きく立ちはだかってきました。
環境を守り環境を作ってゆく、環境創業というよな立場で考えてゆくべきではないかと思いました。
開発との両立も十分ありうるのではないかと思いました。
農業でも同じような環境の問題(農薬とか)が解決すべき問題としてあるように思いました。
2000年にNPOを作ったときには、秋田県の大潟村に新しい環境の新村を作り上げようという構想を村の方から委託されました。
その時に東大の名誉教授の高橋先生が環境持続という形と建築、構造物というものを一致させて、自然環境と人工的な環境、社会環境とバランスよく調和して持続的に快適な生活が営むような建築、環境持続建築ということを目的に発足することができました。

自然再生エネルギーを利用して最終的にはZEHの開発を行いました。
(ZEH ゼッチ とは、Net Zero Energy House(ネット・ゼロ・エネルギー・ハウス)の略。 住まいの断熱性・省エネ性能を上げること、そして太陽光発電などでエネルギーを創ることにより、年間の一次消費エネルギー量(空調・給湯・照明・換気)の収支をプラスマイナス「ゼロ」にする住宅)
病院のエネルギー消費分析、21世紀はどういう住まい方とか、などのセミナー事業など多様なことをやっています。
我々の大きな特徴とするものが二つあって
①セミナー事業
②ワークショップ 子どもたちと遊ぶ住環境教育

①セミナー事業 
地域を支える拠点と施設環境作り、幼稚園や保育施設、高齢者施設、学校、病院とか診療所こういったものが地域には不可欠なもので地域の特性を踏まえて作り出さなければいけない建物に入っていくんじゃないかと思います。。
高齢者施設、施設というものから住まいという考え方に替える方がいいという考え方があります。
最初にその考え方を提案したのが京都大学の外山先生でした。(ユニットケア
個室が一つの家になって生活している。

②ワークショップ 子どもたちと遊ぶ住環境教育
熱というものを中心に置きながら、冬に暖かい住宅、夏に涼しい住宅、ダンボールを使いながらいろんな工夫をして作ってみる。
暖かい家を維持するのにはどうしたらいいのか、涼しい家を作るのにはどうしたらいいのか、みんなと一緒に子どもたちと考えて行くというものです。
それぞれ温度湿度を計測する。
子どもたちはそれなりに考えてやっていきます。
どうしてて涼しいのかが判ってくるわけです。
病院は非常にエネルギーを消費します。
空調もしっかりかけるので、例えば1平米当たりどの程度エネルギーを消費しているのか算出します。
1平米当たりエネルギーをどのぐらい下げてゆくのか、目標ができてゆきます。
ある私立病院では2006年に比較して下げて来ています。
CTとか瞬間的に大量にエネルギーを使う装置もいろいろ増えてきているので、増加するという現状もあります。

圧倒的に多いのは古くなった4,5階程度の中小のビル群です、あとは住宅です。
それが街の表情や形を示してきている。
新しい顔を少し変えて作ってゆくという事が重要なことだと思います。
「中小建物の100年建築物語」というセミナーを昨年11月に開催しましたが、ビルのオーナーに参加していただきました。
改修も視野に入れなければいけないと思っています。
建築廃棄物が廃棄物の中で一番多いので、どのように減らしていったらいいのか、あらかじめ作ったり改修したりするときに考える必要があると思います。
資源循環型の社会のシステムというものを考えていかなければいけないんじゃないかと思います。
来年も「中小建物の100年建築物語」というセミナーを具体例を示しながら行いたいと思っています。
今までの成果の報告もしていきます。












2020年3月3日火曜日

小坂忠(シンガーソングライター・牧師)  ・「音楽は生きる支え」

小坂忠(シンガーソングライター・牧師)  ・「音楽は生きる支え」
小坂さんは1948年東京生まれ、1966年ロックグループ「ザ・フローラル」でデビューしました。
その後細野晴臣さん、松本隆さん、柳田ヒロさんらと「エイプリル・フール」を結成、数々の曲を発表して若者の心をつかみました。
1976年からクリスチャンとして教会を中心にゴスペルソングを歌うようになりました。
そして20年余りの時を経て再び細野晴臣さんたちと音楽活動を再開しました。
以来円熟味の有る歌声でますます多くの人を魅了しています。

ユニット“茂 忠(しげちゅう)のコンサートを大阪で3月に行います。
大学に入ったときに学生運動が盛んで学校が封鎖されてやる事がないので、音楽仲間でバンドを作って活動をしていました。
その時に新人バンドのオーディションがあり受けに行きました、それでプロに成っちゃました。
1966年ロックグループ「ザ・フローラル」でデビューしました。
モンキーズの前座でした。
その後細野晴臣さん松本隆さん、柳田ヒロさんらと「エイプリル・フール」を結成しました。
60年代の後半は新しい文化がふつふつと湧いてくる面白い時代でした。
演劇、デザイン、映画、音楽、京築の世界など、それまでの世界と違うカウンターカルチャー的な新しい世界が生まれた時代でした。
そういった同じ土俵に居たかった。
ロックミュージカル「HAIR」に出演しました。
次のバンドの構想もありましたが、断念しましたが、彼らははっぴいえんどの前身バンド「ヴァレンタイン・ブルー」を結成しました。
その後ソロとしても音楽活動をするようになりました。
1975年、細野晴臣さん、鈴木茂さん、林立夫さん、松任谷正隆さんを中心に結成されたティン・パン・アレーの演奏によるオリジナルアルバム『HORO』リリースしました。
*『HORO』 作詞、作曲:細野晴臣

ソロ活動もしながら作詞作曲の活動もしていきました。
子ども向けの「おかあさんと一緒」の番組の曲も作りました。
しかし音楽活動を辞めて1976年からクリスチャンとして教会を中心にゴスペルソングを歌うようになりました。
1976年に娘が全身に熱湯を浴びてしまうという大やけどを負ってしまい、ショックをうけて、教会に行って祈ってもらいなさいと言われて、娘のことなら何でもやろうと思って教会に行きました。
不思議なことに娘は火傷が回復して、それから真剣に神様はいるんだと思いはじめ、教会に通い始めました。
1991年に牧師になりました。
刑務所とか少年院にいって歌うようになり始めました。
クリスチャンになって歌う意味合いが大分変りました。
僕が歌う事で誰かが励まされたり、希望が持てたりして僕が歌う意味があるわけです。
ホスピルソングを自分でも作るようになりましたが、新しいものなので非難を受けましたが、若い人たちはすごく喜んでくれました。

チャペルコンサートもしています。
日曜日には礼拝があり、いろいろ相談もあります。
一番大きいのは家庭の問題です。
20年ぐらいそういった活動があり、2000年からティン・パン・アレーのコンサートにゲスト出演。25年ぶりの共演となった。
2016年、デビューから50周年となりました。
娘も歌手になってアメリカで音楽活動をしています。
2017年にがんが見つかりました。
熊本の被災支援コンサートをやってお腹が痛くて我慢して帰ってきて、医師に診てもらったら深刻だというんです、緊急入院しました。
大腸がんのステージ4で、胃がんも見つかり、大腸のがんの摘出と、胃を2/3切除、胆嚢炎で3つを一緒に取りました。
入院生活は2か月半で50日絶食でした。
退院したその足でウナギを食べに行きました。
歌えるように毎日リハビリをしていたので1か月後には90分コンサートをやりました。

今は体調はすこぶるいいです。
2018年夏70歳になりコンサートを行いました。
*上を向いて歩こう  歌:小坂忠
どんなに歳をとっていても夢を持つことは大事だと思います。
支援コンサート 東北、気仙沼でやる計画でしたが、コロナウイスのことで中止になってしまって残念です。
200回ぐらい支援コンサートを積み重ねてやってきました。
*明日になれば   歌:小坂忠 





























2020年3月2日月曜日

穂村弘(歌人)              ・【ほむほむのふむふむ】

穂村弘(歌人)              ・【ほむほむのふむふむ】
この一年多くの変化もなく、父と八丈島に行って山に登ったりしてきました。
健康に気を使いながら過ごしてきました。
3月という事で春の歌を選びました。
昔からひな祭りやお人形の歌はたくさんありましたが、楽しいとかハッピーとか愉快な歌は見た記憶がないので、不思議に思って岩波現代短歌辞典を開いてみたら、ひな祭りの項目に、近代にいたるまでの女性に忍従を強いられた生き方の象徴としてひな人形が連想されるからであろうと書かれていて、又「嬉しいひな祭り」という童謡があるが、タイトルは嬉しいだが、曲が何故かさびしい感じです。
そういう事かと思いました。

「われにふかき 睡魔は来たる ひとりづつ 雛人形を醒まして 飾り終ふれば」 小島ゆかり
一人づつ目覚めさせて飾ってゆくと、今度は自分がなんだか眠くなってしまったという歌で、彼女たちと自分がどこか深いところで繋がっているのかもしれなというそんなことを感じさせる歌です。

「雛のある部屋に足し算教えつつ雪ふるように切なさがふる」      東直子
お母さんが娘に足し算を教えているような光景が浮かびます。
切なさという事で女性から女性へのつながりがあるようで、ひな人形にも三人官女、五人囃しとか七段飾りとか数が一杯出てきます。
深いところで数というものがつながっているのかもしれません。
ふわっとした切なさが全体に流れている様ないい歌だと思います。

「屋上でサンドイッチを食べていた卒業なんて信じなかった」      加藤千恵
高校生が屋上でサンドイッチを食べているとなんだかどの時間がいつまでも続くような感じがする、勿論そんなことはないのは知っているが、卒業なんて信じないという感じがあるのかなあと思います。
なんか普遍的な感じがします。
屋上で、というのは自由があるぎりぎりの線というところですね。

「海だけのページが卒業アルバムにあってそれから閉じていません」   伊舎堂仁
伊舎堂仁さんは1988年生まれ、卒業アルバムの歌で、修学旅行、臨海学校とかでいった海のページが入っている。
みんなが一杯写っている写真よりも海だけのページが青春のきらめきのピークにあるような不思議な感じ。
その感覚が判る様な気がします。
心の中のページをいつまでもきらめきのページを閉じたくないような、今も心の中に広がっているようなそんな歌だと思います。
「まとめると穂村さんからくださいを斎藤さんからそれ本当を」 最近の作品 伊舎堂仁

「桜花いのちいっぱいに咲くからに命をかけてわが眺めたり」      岡本かの子
 岡本太郎の母親、桜と対決するような凄い歌です。
桜の歌はいっぱいあるが以前は人間の向こうにある大きなものという様な自然の捉え方がそうだったんですが、近代に入って私というものを強く意識するようになって、桜対自分のような、当時としては衝撃的だったんだと思います 。

「水流にさくら零(ふ)る日よ魚の見るさくらはいかに美しから ん」    小島ゆかり
人間は桜が地上から水に落ちて行くのを見えるが、凄いのは魚の視線を想像している。
水がレンズの様になるかもしれないし、我々にはないアングルだから新鮮な桜の歌だと思いました。

「桜という母の歌集にポトリと春の涎を垂らしてしまう」       小島なお
桜という題名の本に外では桜が咲いている時に、眠くて涎を落としてしまった。
面白い季節感の捉え方です。
母親は小島ゆかり。

「ひな壇に誰もいなくてきらきらと笛や刀が散らばっている」     穂村弘
空想ですが、誰もいなくて何があったんだろうと、不穏な世界を描きたかった。
時空のはざま的なところがあります。

「母のいない桜の季節父のために買う簡単な携帯電話」        穂村弘
母が亡くなって父のために簡単な携帯電話を買いに行くが、買う事が母の不在感を逆に感じさせる。
華やかな季節だがでも父は一人。

「節分の豆をつまんで子どもらに三粒、五粒手のひらに湯気」   リスナー原沢源治?
大人だけでは盛り上がらない、子どもがいるとイベント感が盛り上がる。
子どもたちの生命力の湯気では。
クローズアップがいいと思います。

「ふためいて270度回転す今晩は鍋今晩は鍋」        リスナー松村麻衣子?
パニックしている状態を270度と言う角度で表現しているのが面白いです。

(短歌の漢字ひらがななど間違っているかもしれません)




















2020年3月1日日曜日

鮫島純子(エッセイスト)         ・「祖父・渋沢栄一の教え」

鮫島純子(エッセイスト)         ・「祖父・渋沢栄一の教え」
今年は日本資本主義の父と言われる渋沢栄一の生誕180周年に当たります。
来年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、4年後に発行される新1万円札の肖像画も決まって脚光を浴びています。
エッセーイストの鮫島純子さん(97歳)は名付け親だった祖父渋沢栄一を直接知る数少ない生き証人です。
鮫島純子さんにとって渋沢栄一はどんな祖父だったのか、祖父からどんな教えを受けたのか、伺いました。

4年後に発行される新1万円札の肖像画も決まって、講演が多くなってあちこちにお呼ばれされています。
父は渋沢栄一の三男渋沢 正雄 日本製鉄の副社長、石川島飛行機製造所の初代社長、母は岡山藩の池田家の出身。
大正11年に飛鳥山で生まれました。(祖父の家から歩いて5分ぐらい)
父が早く会社を引けた後などには良くご機嫌伺にいって、私たちも一緒に夕食を頂きました。
いとこたちと一緒に歳の順に「ごきげんよう」と申しますと、祖父は一人づつ飴を口の中に入れてくれました。
私は年の離れた孫だったのでペット的な存在でした。
叱られた覚えは全然ありませんでした。
世界中の人がかわいかったのではないかと、グローバルな愛を感じていました。

小学校低学年の頃御木本さんのビルに呼んで頂いて、御木本さんが如何に丸い真珠を作るのに御腐心があったのかという映画を映してくださって、お昼ご飯にあこや貝のフライが出ました。
「皆さんお気を付けください、フライの中には真珠が入っていますから」という事で、ポロンと出ました、それを集めて母が私がかたづくときにブローチにしてくれました。
それは嬉しい楽しい思い出として残っていますが、大きくなって聞きましたら、御木本さんがご商売の資金が無くなったという事を聞いて、祖父がこれは生糸と共に大事な日本の商品だから応援しなければいけない、と言ってお手伝いしたらしくて、その恩返しが御馳走だったという事を聞きました。
世界の日本であるために一生懸命だったという事に後で知りました。
祖父が亡くなったときは9歳何か月でした。
子どもながらに崇高な顔をしていました。
一番驚いたのは天皇家から勅使の方がいらっしゃって、御沙汰書と言って、よく働いたねと言う意味のお言葉を頂戴して、みんなが緊張してお読み上げを伺っていたという思い出があります。
葬列になったときにはあまりにも列が沢山で、82台という車がついて、飛鳥山から青山斎場まで皆さんが沿道に出てきて今の皇室の御大葬のように並んでくれました。

祖父自身も決して贅沢な日常ではなかったのを記憶しています。
叔父の渋沢英雄が書いてあるなかに、祖父が亡くなるころに20名ばかり訪問があり、祖父は肺炎で寝ていましたが、貧しい方が20万人困っていて、議会にその人たちを助けるという法案は通ってるのに実際にはお金が来ないので、なんとか早く頂きたいのでついては大蔵大臣に渋沢さんから頼んでほしいという代表の方たちだとわかったら、臥せっているのにもかかわらず自分が大蔵省にお願い行くという事になって、侍医さんが引き留めたのに大蔵省に伺うという電話を掛けさせたという事が書いてあるので祖父らしいと思って読みました。
大蔵省から「御病気ではこちらから伺います」と言ったが、「お願いする側に来るというのは、それは筋が通らない」と言ってこちらから出かけたそうです。
(500位以上の会社の設立に携わって、日本資本主義の父と呼ばれる。)
一つ一ついろいろ大変だったらしいですね。
亡くなるときに父たちが「お父さん 一生はどうでいたか」と聞いたら「面白かったよ」と言ったというのは私はよく聞かされました。

「世界が平和でなければみんなの幸せはなく、みんなが幸せにならなければ自分も幸せには成れない。」
私は聞かされたた覚えはないのですが、DNAの中にはいっているのか、自分たちの使命は世界の平和を作り上げる
一人一人の使命があるんだと、ふっと考えるとおじいさまのお考えだったんだと思います。
「純子」という名は祖父がつけてくれて命名書がありますが、祖父の考えで付けたのですが、漢文で書いてあるので意味はよくわかりません。

結婚は20歳、大学に行きたかったが、一刻も早くもらってくださる所へとそんな感じでした。
岩倉具視卿のひ孫にあたる方です。
軍服に身を固めてサーベルをして白い手袋をしてのお見合いの席で、もらってくださるならばという事でその姿に直ぐOKしました。
鈴木貫太郎さんが仲人でした。
雅叙園での防空壕にかつらをつけたまま入りました。
夫は慌てて軍服のまま横須賀に跳んでいきました。
結婚してからこの人は嫌だったなあという事は一度もありませんでした。
医師から夫は喉頭がんで直ぐ手術といわれてびっくりしました。
ここまで生かしてもらって十分人生を楽しんだので一切治療はしないで、自然死でいいという事でした。
宣告後1年7か月生きていました。(85歳 私は78歳)
その間に青森と京都に3家族で旅行に行きました。
最期は私一人でいろいろな思い出を思い出しながら見送りました。

車の運転は周りからうるさく言われて95歳で返上しました。
明治神宮がすぐ近くにあり、主人に連れられて一回り回っていました。
今は半周り太陽に感謝しながら歩いています。
歩く姿勢が健康に基本だと言われてそれを守って歩いています。
いつでもポジティブにと言う癖をつけていて、悔しがったり相手を恨んだりという事はまず皆無になりました。
オレオレ詐欺に遭いましたが、過去に頂いたものがこれでゼロになっったのかなあと言う考え方で、悪役を演じてくれてプラスマイナスゼロにしてくれたのを「有り難う」ということと、あの人たちの親は自分の息子がこんなことをしていると親に同情するとともに、あの人たちに人生の仕組みなんて、その時その人にとって得をしたと思うかもしれないけれど、長い目で見ると何処かで又帳消しになるんだからという、人生の仕組みを教えてあげられなかった自分が悔しいというそんな思いでした。
足を骨折してしまいましたが、頭ではなくて良かったなあと、「有り難う」に持って行こうと癖がついています。
癖をつけるために「有り難う」という言葉はいろんなところに貼っていましたが、今はトイレだけになりました。
神様は感謝だけでいいんで、お願い事なんてとうにご存じなんだから、今更御利益のために神社詣でをするのはおかしいという考え方は、そういう会話から自然と身についているんだろうと思います。

列車の二等席に乗ったときにご老人と席が近くあり、「お天道様も大事ですね、神様も大事ですね」と言って、「みんな神様から頂いているご縁なんだと諭していただいて、宇宙に遍満して我々をいつも見守ってくださるのが神様なんだ、お姿は見えないけれどもいつでも守ってくださる鵜ですよ」と、気が付かせていただいて、それが神への感謝の基本だったのかもしれません。
父の一高の時代の校長先生が新渡戸先生で祖父とはごじっこんだった様で、そこでご挨拶してそのご老人が新渡戸先生だと判りました。
一昨年の7月に夜中に胸が苦しくなり、死に時かなあと思いましたが、世界人類が平和でありますようにと祈るとスーッと治ってしまうんです。
でも嫁などから病院に連れていかれて直ぐ手術となり、6時間の手術でした。
健康で居られてまだ方々に行ってお話しするのが私の役目なんだと思っています。