2020年3月12日木曜日

桂文珍(落語家)              ・「落語家の道 50年」

桂文珍(落語家)     ・「落語家の道 50年」
桂文珍さんは兵庫県丹波出身の71歳、大学時代初めて落語を知り、落語研究会を作って、美憂亭 さろん(ビューティーサロン)と名乗り活発な活動をしました、
大学3年の1969年に5代目桂分枝さんに入門、その5年後関西のTV番組『ヤングおー!おー!』のユニット「ザ・パンダ」に参加し大人気となりました。
そして関西大学で非常勤講師やTVのキャスターを務めるなど落語以外でも活躍しました。

今年で芸歴50年、あっという間でした。
兵庫県丹波は黒豆が有名でイノシシ、猿が来たりしていました。
実家は農家で長男した。
山間の村でしたが、空を眺めてパイロットになりたいという思いがありました。
操縦ライセンスは取って2500時間ぐらいは飛んでいます。
小学校の頃家族がラジオの前に集まって笑うんですが、金馬師匠の落語などがありました。
「二十の扉」、「お父さんはお人好し」とかいろいろ楽しんで聞いていました。
笑って和むという事が好きでした。
高校は篠山鳳鳴高校でコーラス部の部長をやっていました。
大学は大阪産業大学へ行きました。
親は公務員か先生を希望していました。
友人が授業中に肩を揺らしていて、落語の本を読んで笑っていたので、今度落語研究会を作りたいという事で一緒にやらないかという事でした。
落語を覚えてくれという事で、それを覚えてみんなのまえで落語をやったら受けました。

落語研究会を作って7名集まってよそのクラスでもやったりしていました。
上方落語学生連盟を作って副理事をやっていまして、東京落語学生連盟などと全国大会をやったりしていました。
プロになってやると学生時代は受けたのに全然受けないんです。
考えてみると世代が違う、お金を払って聞きに来ている、この差は物凄く大きいんです。
大学3年生の時に3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)に入門しました。
1974年に、『ヤングおー!おー!』のユニット「ザ・パンダ」(月亭八方・桂きん枝・林家小染)に参加。
人気があって芸に力がないのがつらかったです。
解散した時にはほっとして、これで落語に集中できると思いました。
上方では前座、二つ目、真打が無くて、稼ぐようになれば真打という事です。
昭和51年に上方お笑い大賞、昭和60年花王名人大賞、平成21年に芸術選奨文部科学大臣賞受賞、平成22年に紫綬褒章受ける。

1988年(40歳)関西大学文学部の非常勤講師を務め15年間やりました。
彼らの質問に答えるのが難しかった。(どうして座っているのかとか、いろいろ)
改めていろいろ学びました。
慶応大学にも非常勤講師として行きました。
伝統芸能という広いくくりの中の講義だったのでいろんな芸能の話をします。
上方歌舞伎、能楽、文楽、義太夫など。
1991年から報道キャスターを14年間やりましたが、これも難しくて勉強させてもらいました。
アウンサンスーチーさんにインタビューさせてもらったり、ペルーに行ったり、ポルポト政権のカンボジアなどいろいろ海外に行きました。
現場に行くといろいろ判ることがありました。
平和であることのありがたさ、皆さんが笑ってすごいしていただけることの大切さなどキャスターをやっている間に学んだことでした。

阪神淡路大震災もこの間にありました。(45,6歳)
地震で壊れないものを大切にしようと思いました。
友情、健康、家族そういうものを大切にしようと、その中に芸というものもあり、重心を芸により傾けていこうというきっかけになりました。
TVはインパクトがありコンパクトのものが受けるので、芸の世界はフィクションでありそこで表現できるものでお客様に届くものがあって楽しんで頂いたらいいなと思っていて、談志師匠はこれは「業の肯定」なんていうようなことですが、これをフィクションの中で描けるのがエンターテーメントとしてのありようだろうと若い時からおっしゃっていますが、そういうのをお伺いしながらそっちの方へ重心を移してゆくと言う風に段々変わってきました。
人様の話も先輩後輩関係なくどの人の話も聞くのが大好きで、落語のみならず漫才も見聞きするのが好きです。
71歳なので徳勝龍が33歳で優勝がありましたが、「もう33歳ではなくてまだ33歳」という事で僕は拍手しましたが、まだ71歳だという意識で健康管理に時間を割きながら長生きして皆さんに少しでも楽しんでいただきたいと思っています。