頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】「梶井基次郎」
3月24に日は彼の代表作「「檸檬」(レモン)」にちなみ梶井基次郎をしのぶ「檸檬忌」(レモン忌)です。
31歳で亡くなった梶井基次郎の名言。
「太陽を憎むことばかり考えていた。 結局は私を生かさないであろう太陽。
しかもうっとりとした生の幻影で私を騙そうとする太陽。
生の幻影は絶望と重なっている。」 梶井基次郎
「檸檬」の作品の出だしの部分。
「得体のしれない不吉な塊が私の心を終始押さえつけていた。・・・」
「櫻の樹の下には」の作品の中の有名な文章。
「櫻の樹の下には屍体が埋まっている。」
31歳で亡くなっているのでその作品数は少なくて、習作、遺稿を別にしたら20の短編しかないです。
最期の一作以外は全部同人誌に掲載されたものなので、同人誌しか読んだ人にしか知られていなかった。
1901年大阪生まれ、1932年に結核で亡くなる。
梶井基次郎が日光浴をしているが、元気になったような気がするだけで、いくら日光を浴びても梶井基次郎の場合は病気で元気にはならない。
太陽を浴びると希望を感じるが、その希望は幻影だとわかっているので絶望を感じてしまうわけです。
「人間が昇りうるまでの精神的の高嶺に達し得られない最も悲劇的なものは短命だと自分は思う。
100年、1000年とは生きられないが、寿命だけは生き延びたい。
短命を考えるとみじめになってしまう。」 梶井基次郎
「何故だかそのころ私はみすぼらしくて美しいものに強く引き付けられたものを覚えている。
風景にしても壊れかかった街とか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある汚い洗濯物が干してあったり、がらくたが転がしてあったり、むさくるしい部屋が覗けたりする裏通りが好きであった。」 梶井基次郎
共感するところがある。
おしゃれで清潔なものってどこかちょっとよそよそしい感じがする、それは人間味を拒絶しているところがあるからだと思います。
汚れる方が自然なわけです。
綺麗でいるためには精神的エネルギーが必要です。
衰え弱ってくると段々汚い街並みに惹かれてくるという事はあると思います。
弱りすぎると又汚いものには耐えられなくなる。(頭木弘樹)
「美しいものを見る、そして愉快になる。 ふっと心の中に喜ばないものを感じてそれを追ってゆき、彼の突き当たるものはやはり病気のことであった。
そんな時喬(たかし)は暗いものに、いたるところ待ち伏せされているような自分を感じないではいられなかった。」 「ある心の風景」より 梶井基次郎
楽しくやっていてもなんだか心の中に喜ばないものがある。
それを追ってゆくと何かに突き当たる、梶井基次郎の場合はそれが病気だった。
「暗いものにいたるところ待ち伏せされているような」というのは何か怖い、幽霊みたいな感じで。
持病を持つという事は幽霊に取りつかれたようなところがあり、いくら気を付けていてもふっとしたことで調子を崩したり、全く油断がならない。
「街を歩くと堯(たかし)は自分が敏感な水準器になってしまったのを感じた。
彼は段々呼吸が切迫してくる自分に気が付く。
そして振り返ってみるとその道は彼が知らなかったほどの傾斜をしているのだった。」
「冬の日」の短編の一節 梶井基次郎
気が付かない緩やかな坂でも病気をしてしまうと、それに気づいてしまう。
水準器という表現が面白い。
*「憾み」 作曲:滝廉太郎
「私にも何か私を生かし、そしていつか私を殺してしまう気まぐれな条件があるような気がしたからであった。」 「冬の蠅」短編小説から 梶井基次郎
主人公が冬の痩せて弱った蠅につい目が行く。(自分も病気だから)
ふいに数日間留守にするが、部屋に戻ってみると蠅が一匹もいなくなっている。
部屋を暖める人間がいなくなったために寒さと飢えで死んでしまったから。
気まぐれで自分が部屋を開けたせいで蠅は死んでしまった。
自分自身もまったく気まぐれな条件で、生き延びたり死んだりしているのではないかと、そんな風に思うんですね。
生きる事にも意味が欲しいが、死ぬ時にもそれなりの意味があってほしい。
意味のない死はつらいことである。
病気も流れ弾に当たるような感じで、理不尽なものです。
受け入れがたいものです。
「自分の不如意や病気の苦しみに力つよく耐えてゆく事の出来る人間もあれば、そのいずれにも耐えることのできない人間もずいぶん多いに違いない。
しかし病気というものは決して学校の行軍の様に、弱いそれに耐える事の出来ない人間をその行軍から除外してくれるものではなく、最後の死のゴールへ行くまではどんな豪傑でも弱虫でも、みんな同列にならばしていやおうなしに引きずってゆく。」
「のんきな患者」短編小説の一節 梶井基次郎最後の作品
続編を出すつもりで友達への手紙に「のん気な患者がのんきな患者でいられなくなるところまで書いて、あの題材を大きく完成したいのです。」と書いているがそれを果たせなかった。
さっと読むと死は誰にでも訪れると言っているようだが、よく読むと平等とか公平という事ではなく、むしろ逆のことを言っています。
お金持ちでも貧乏人でも善人でも悪人でもみんな死ぬという点では同じですが、実際には死もかなり不平等です。
その前の部分で貧富の差について書いています。
「吉田は平常をよく思い出す或る統計の数字があった。
肺結核で死んだ人間の百分率で、その統計によると肺結核で死んだ人間100人について、そのうちの90人以上は極貧者、上流階級の人間はそのうちの一人にはまだ足りないという統計であった。
つまりそれは今非常におおくの肺結核患者が死に急ぎつつある。
そしてその中で人間の望みうるもっとも行き届いた手当を受けている人間を、100人に一人もないぐらいでそのうちの90何人かはほとんど薬らしい薬も飲まずに死に急いでいるという事であった。」 梶井基次郎
お金持ちは手厚い医療を受けるお陰で死ににくくて、貧乏の人は医療が不足するために死にやすい、死にやすさの不平等を指摘している。
社会的な不平等で、梶井基次郎はさらに別の不平等を指摘している。
「自分の不如意や病気の苦しみに力つよく耐えてゆく事の出来る人間もあれば、そのいずれにも耐えることのできない人間もずいぶん多いに違いない。」この指摘が素晴らしい。
苦しみに耐える事ができる人もいればできない人もいるわけです。
ついその差をつい無視しがちです。
病気というものは決して弱いそれに耐えることのできない人間をその行軍から除外してくれるものでは無いと言っていて、最後の死のゴールへ行くまではどんな豪傑でも弱虫でもみんな同列にならばしていやおうなしに引きずってゆくわけです。
平等なようで実は凄く理不尽で不平等なわけです。
医療については社会的不平等で、こちらの方は自然界の不平等というか、死というものが根源的に持ってる不平等です。
走れないのに走らされている、力を出して頑張れる人もいるけど頑張れない人も無理やり
頑張らされているところがつらいわけです。
「愛撫」という短編小説の一節で、猫と戯れながら考えるという内容ですが、その中の
「しみじみとしたこの世のではない休息が伝わってくる。」ところが胸に沁みます。
「猫を顔の上にあげてくる。
二本の前足をつかんできて、柔らかいその足の裏を一つずつ私の瞼にあてがう。
心地よいの重量、暖かいその足の裏、私の疲れた眼球にはしみじみとしたこの世のではない休息が伝わってくる。」 梶井基次郎