鮫島純子(エッセイスト) ・「祖父・渋沢栄一の教え」
今年は日本資本主義の父と言われる渋沢栄一の生誕180周年に当たります。
来年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、4年後に発行される新1万円札の肖像画も決まって脚光を浴びています。
エッセーイストの鮫島純子さん(97歳)は名付け親だった祖父渋沢栄一を直接知る数少ない生き証人です。
鮫島純子さんにとって渋沢栄一はどんな祖父だったのか、祖父からどんな教えを受けたのか、伺いました。
4年後に発行される新1万円札の肖像画も決まって、講演が多くなってあちこちにお呼ばれされています。
父は渋沢栄一の三男渋沢 正雄 日本製鉄の副社長、石川島飛行機製造所の初代社長、母は岡山藩の池田家の出身。
大正11年に飛鳥山で生まれました。(祖父の家から歩いて5分ぐらい)
父が早く会社を引けた後などには良くご機嫌伺にいって、私たちも一緒に夕食を頂きました。
いとこたちと一緒に歳の順に「ごきげんよう」と申しますと、祖父は一人づつ飴を口の中に入れてくれました。
私は年の離れた孫だったのでペット的な存在でした。
叱られた覚えは全然ありませんでした。
世界中の人がかわいかったのではないかと、グローバルな愛を感じていました。
小学校低学年の頃御木本さんのビルに呼んで頂いて、御木本さんが如何に丸い真珠を作るのに御腐心があったのかという映画を映してくださって、お昼ご飯にあこや貝のフライが出ました。
「皆さんお気を付けください、フライの中には真珠が入っていますから」という事で、ポロンと出ました、それを集めて母が私がかたづくときにブローチにしてくれました。
それは嬉しい楽しい思い出として残っていますが、大きくなって聞きましたら、御木本さんがご商売の資金が無くなったという事を聞いて、祖父がこれは生糸と共に大事な日本の商品だから応援しなければいけない、と言ってお手伝いしたらしくて、その恩返しが御馳走だったという事を聞きました。
世界の日本であるために一生懸命だったという事に後で知りました。
祖父が亡くなったときは9歳何か月でした。
子どもながらに崇高な顔をしていました。
一番驚いたのは天皇家から勅使の方がいらっしゃって、御沙汰書と言って、よく働いたねと言う意味のお言葉を頂戴して、みんなが緊張してお読み上げを伺っていたという思い出があります。
葬列になったときにはあまりにも列が沢山で、82台という車がついて、飛鳥山から青山斎場まで皆さんが沿道に出てきて今の皇室の御大葬のように並んでくれました。
祖父自身も決して贅沢な日常ではなかったのを記憶しています。
叔父の渋沢英雄が書いてあるなかに、祖父が亡くなるころに20名ばかり訪問があり、祖父は肺炎で寝ていましたが、貧しい方が20万人困っていて、議会にその人たちを助けるという法案は通ってるのに実際にはお金が来ないので、なんとか早く頂きたいのでついては大蔵大臣に渋沢さんから頼んでほしいという代表の方たちだとわかったら、臥せっているのにもかかわらず自分が大蔵省にお願い行くという事になって、侍医さんが引き留めたのに大蔵省に伺うという電話を掛けさせたという事が書いてあるので祖父らしいと思って読みました。
大蔵省から「御病気ではこちらから伺います」と言ったが、「お願いする側に来るというのは、それは筋が通らない」と言ってこちらから出かけたそうです。
(500位以上の会社の設立に携わって、日本資本主義の父と呼ばれる。)
一つ一ついろいろ大変だったらしいですね。
亡くなるときに父たちが「お父さん 一生はどうでいたか」と聞いたら「面白かったよ」と言ったというのは私はよく聞かされました。
「世界が平和でなければみんなの幸せはなく、みんなが幸せにならなければ自分も幸せには成れない。」
私は聞かされたた覚えはないのですが、DNAの中にはいっているのか、自分たちの使命は世界の平和を作り上げる
一人一人の使命があるんだと、ふっと考えるとおじいさまのお考えだったんだと思います。
「純子」という名は祖父がつけてくれて命名書がありますが、祖父の考えで付けたのですが、漢文で書いてあるので意味はよくわかりません。
結婚は20歳、大学に行きたかったが、一刻も早くもらってくださる所へとそんな感じでした。
岩倉具視卿のひ孫にあたる方です。
軍服に身を固めてサーベルをして白い手袋をしてのお見合いの席で、もらってくださるならばという事でその姿に直ぐOKしました。
鈴木貫太郎さんが仲人でした。
雅叙園での防空壕にかつらをつけたまま入りました。
夫は慌てて軍服のまま横須賀に跳んでいきました。
結婚してからこの人は嫌だったなあという事は一度もありませんでした。
医師から夫は喉頭がんで直ぐ手術といわれてびっくりしました。
ここまで生かしてもらって十分人生を楽しんだので一切治療はしないで、自然死でいいという事でした。
宣告後1年7か月生きていました。(85歳 私は78歳)
その間に青森と京都に3家族で旅行に行きました。
最期は私一人でいろいろな思い出を思い出しながら見送りました。
車の運転は周りからうるさく言われて95歳で返上しました。
明治神宮がすぐ近くにあり、主人に連れられて一回り回っていました。
今は半周り太陽に感謝しながら歩いています。
歩く姿勢が健康に基本だと言われてそれを守って歩いています。
いつでもポジティブにと言う癖をつけていて、悔しがったり相手を恨んだりという事はまず皆無になりました。
オレオレ詐欺に遭いましたが、過去に頂いたものがこれでゼロになっったのかなあと言う考え方で、悪役を演じてくれてプラスマイナスゼロにしてくれたのを「有り難う」ということと、あの人たちの親は自分の息子がこんなことをしていると親に同情するとともに、あの人たちに人生の仕組みなんて、その時その人にとって得をしたと思うかもしれないけれど、長い目で見ると何処かで又帳消しになるんだからという、人生の仕組みを教えてあげられなかった自分が悔しいというそんな思いでした。
足を骨折してしまいましたが、頭ではなくて良かったなあと、「有り難う」に持って行こうと癖がついています。
癖をつけるために「有り難う」という言葉はいろんなところに貼っていましたが、今はトイレだけになりました。
神様は感謝だけでいいんで、お願い事なんてとうにご存じなんだから、今更御利益のために神社詣でをするのはおかしいという考え方は、そういう会話から自然と身についているんだろうと思います。
列車の二等席に乗ったときにご老人と席が近くあり、「お天道様も大事ですね、神様も大事ですね」と言って、「みんな神様から頂いているご縁なんだと諭していただいて、宇宙に遍満して我々をいつも見守ってくださるのが神様なんだ、お姿は見えないけれどもいつでも守ってくださる鵜ですよ」と、気が付かせていただいて、それが神への感謝の基本だったのかもしれません。
父の一高の時代の校長先生が新渡戸先生で祖父とはごじっこんだった様で、そこでご挨拶してそのご老人が新渡戸先生だと判りました。
一昨年の7月に夜中に胸が苦しくなり、死に時かなあと思いましたが、世界人類が平和でありますようにと祈るとスーッと治ってしまうんです。
でも嫁などから病院に連れていかれて直ぐ手術となり、6時間の手術でした。
健康で居られてまだ方々に行ってお話しするのが私の役目なんだと思っています。