涌井史郎(造園家・東京都市大学特別教授) ・「心に花を咲かせて ~庭から見える日本人の生き方」
涌井さんは大学で教えるだけでなく、国際博覧会の総合プロデューサーを務めたり地域計画にかかわったりと日本の内外で活躍されています。
庭には日本人の生き方が表れているという事です。
自然との付き合い方が日本人は巧みで知恵があるというのですが、どういうことなのでしょうか。
庭を見て未来に向けて学ぶことはあるのでしょうか。
自然との付き合い方が日本人は巧みであるという事ですが、日本列島の特殊性にあります。
一つは花ずがれ列島といわれるぐらいに、桜も沖縄の2月からの満開から8月の終りにかけて樺太桜が咲くように、ずーっと花で繋がれている南北に細長い列島です。
火山列島なので非常に火山性の自然災害が多い。
急流河川が多くて、水害も多い。
じつは日本列島は災害によって作り出された美しさであるという風に見ても言い過ぎではない。
災害といかに付き合うか、自然をどうリスペクトして災害の力を最大化させないために土地利用の仕方をどうするのか、一生懸命考えてきた歴史があるわけです。
災害は予測がつかないから、しのぐという方法と、いなすという方法が非常に重要です。
例えば洪水があるとすると、日本人は堤防をやたら高くして洪水から身を守ろうとは考えなかった。
武田信玄の「かすみ提」、日本の水の勢いは怖いが、勢いを失った水の流れは逆に利用したらいいのではないかという考え方です。
水の勢いをそぐためにいろいろな方法をとるわけです。
そして水を溢れさせてあふれさせたところには竹藪などがあり、内陸に入らないようにして、その水を農地の方に誘導して、サトイモなどをつくったりするわけです。
建築物も同じで、木造軸組み構造は地震に対してどれだけ頑張るか、そういう建て方ではなくて、揺れればかしがっても外れない仕組みを作るわけです、揺れても壊れない。
五重塔などはまさにそうで心柱が上からつるしてあって、下にはついていなくて、揺れを吸収しながら周りはいろんな組み合わせをして、全体の地震は心柱が吸収して、周りのところは継ぎ手と仕口で様々な複雑な構造で、揺れを吸収するという事で倒壊しないという方法をとってきた。
免振、制振は昔から日本人が培ってきた知恵です。
正倉院の柱は平らな台石には乗っていなくて、わざわざでこぼこの石を基礎にして、それに合わせてノミなどででこぼこのある形にして、その石の上に柱を載せている。
揺れは或る程度吸収できる。
災害は不幸な出来事だがそれを受け止めようと、受けとめながら恵みを引っ張り出す。
恵みを最大化して、災害は最小化するという考え方です。
庭の見方、見せ方。
ベルサイユ宮殿は歩きなが全体像は判らない、空中写真を見ればわかる。
ベルサイユ宮殿の庭は一義的には神様に捧げている庭です。
アンドレ・ル・ノートルという人が造園しているが、目線が神の目線なんです。
イスラム庭園もそうですが、絶対神が一人だからです。
おのずと三角形になる、絶対神がいて、キリストという伝達者がいて、イスラム教であればマホメッドという伝達者がいて、その下に人間がいて、その下にありとあらゆる生物がいる、ピラミッド構造になっている。
日本人を含めアジアの国々では「八百万の神」(やおよろずのかみ)という様にどこにも神様がいるんだという風に考えているので、ピラミッド構造に対して、円環の構造を持っている。
人間とほかの生物は差別化されていない。
それが庭に現れています。
日本の多くの庭は座観(座って観る)なんです、見下ろすというよりは見上げる構造になっている。
日本人は月を愛でるが、太陽はありとあらゆる生命の根源ですが、生命に力を与えるのは月だという風に考えたんです。
人間の体液は全部月の引力に引っ張られている。
女性の生理もそうです。
木材の伐採も新月伐採が良くて、2月の新月の月の引力が働いていない時に伐採する。
木材の中にある水分が全部根っこの方に降りているからです。
今は乾燥システムが良くなっているので行われていないが。
時間のプロセスと共に自然が移り変わることを知ることが大事で日本独特です。
日本庭園には滝を作り、急流を作り、緩やかな流れを作り、池に導く。
どのように洪水が起きるのかというメカニズムをミニチュアにしている。
水を知るという事です。
枯山水でも同様で場所場所での石の組み方が全く違うわけです。
「見立て」、自然の景観を庭に持ってくる。
縮景庭園とも言われます、常に自然から学ぼうとしている姿勢だと思います。
日本の植裁は刈り込むという方法をとることがままありますが、徹底的に人工物にするという事はしません。
西洋庭園ではトピアリーという形でいろいろな形に、造形物のようにする。
同じ日本庭園でも江戸時代に見た景色と今観た景色は違ってくる、木が成長するからです。(時間のデザインでもある)
「桃太郎」の冒頭のおじいさんは山へ「しば」刈りに、おばあさんは川へ洗濯に・・・。
「しば」は芝ではなくて、薪であるとか小枝のようなものを「しば」といいます。
里山を大事にする行為です。
野辺という地があるが、採草放牧地という草原で馬や牛を育てると同時に草を刈って馬糞などと共に農地の肥料に替えて行く。
森林性低帯と草地生態系がいっしょに里の周りをくるんでいて、自立循環的に上手に自己完結する、そういうものを持っていた。
おばあさんが川へ洗濯に行く、というのは日本は湿気が多いので清潔にして病気などにならないようにという事で、娘も手伝いなさいと子どもたちに教えて行くわけです。
その延長線上に庭があり、常に自然を観察して、自然の恵みに感謝して、手入れを怠らずにして、自然の厳しさも庭を通じて学ぶ、それが日本の庭です。
庭は命との共鳴です。
鎌倉に育ったので四季折々の変化を体感しました。
昭和20年生まれで、古い日本を代表するような家でした。
時代が変わる時期で翻弄されました。
父は戦犯にはならなかったが、かなりな地位に居たので追放され、私は養子になりました。
屋敷も進駐軍に接収されて将校クラブにされるとか色んな激動がありました。
子ども心に傷ついたものを自然が癒してくれました。
自然を奥深く観るという事の習慣は身に付いたかもしれません。
自然の本質を損なわないで自然を、ちょっと止まっていてねという事で、あなたの本質は侵さないからここの土地だけは利用させてよ、という使い方を日本人はしてきたと思います。
里山を守るという事が日本人には凄く大事だった。
地球は庭なんです。
半径6400kmという膨大な地球ですが、多様な生き物がにぎわっているのはたった3kmです、生存ができるかどうかというところで30kmぐらいの厚みしかないです。
日本は度重なる災害と戦ってきたわけですが、同時に日本列島ほど豊かな命のさんざめいている列島はないという事実もあります。
箱庭のような列島です。
それぞれのライフスタイルを編み出してきた。
今、絶滅危惧種の筆頭にあるのは人間だと思っています。
地球人口はどんどん増え続けているが、好き勝手に資源を浪費して、生命圏の庭をゆがめさせたら、我々自身が地球の上で存在できなくなるという事です。
2050年 自然と共生した世界をこしらえようという目標がありますが、重要なテーマは自然とどう共生するのか、共生のメカニズムとしての自然の資源の再生循環をどう担保するのかという事です。
昔から日本人が大事にしてきたことです。
作りまわし、使いまわしは日本では当たり前にやってきたことです。
豊かさを追い求めるライフスタイルではなくて、常に豊かさをどうやって深めてゆくのか、こういうライフスタイルを選択してきた訳です。
我々が再生循環してお互いが上手にシェアしてゆくのか、それしか道が無いんです。