2017年9月21日木曜日

佐藤愛子(作家)        ・【特集 佐藤愛子に聞く!】2(H29/5/27 OA)

佐藤愛子(作家)        ・【特集 佐藤愛子に聞く!】2(H29/5/27 OA)
今年1月に「それでもこの世は悪くなかった」を出版。
読者層は従来、50代以上の女性が多くて85%程度だったが、今回の本は10代から40代の若い世代の読者層が増えて、40%を占めているそうです。
男性の読者も増えているそうです。

40代の女性
最近キナ臭くなってきたと戦時中の人がいいますが、今をどう思いますか?
確かにキナ臭いですよね。
日本はどうするかと言うだけでなくて、それを考えるために周りの国々とのあり方と関係してくるので、だから難しいですね。
こちらの価値観だけでは動く訳にはいかない状況になっているので、政治がらみについては意見を言えない。
私たちが知っている範囲はもしかしたら端っこの方だけじゃないかと言う気もします。
そういうわけでどうしていいかわからない。

18歳の女性
佐藤さんはどのように老いることへの絶望と、自分の人生を肯定する統合性の対立を乗り越えましたか?
絶望なんて感じたことはないので、乗り越える必要がないです。
私は自然に従うことをモットーにしているので、それが自然ならしょうがないじゃないかと思うので、人間は衰えなければ死ねないんだし、死ねなきゃ地球の上に一杯になっている場所が無くなる訳じゃないですか、そういう子供らしい素朴な考えです。
若い時死ぬことが判らなかった時代には怖かったが、長く生きてくると馴れていくんですよ。
経験するとどうってことないの、自然に馴れていくんですよ。
体の衰えがそれを教えてくれるんです。
若い時に命を失うのは悲惨ですよ、エネルギーがあるから。
歳を取るとエネルギーが段々無くなるので、長生きすると言うことはありがたいことです。
死は怖くなるし、自然に衰えて消滅して行くという。

68歳の女性
92歳の母と同居して面倒を見ています。
しっかり人だったのに、ボーとしている母を見ているとブルーになってしまいます、どうしたらいいでしょう?
どうしたらいいでしょうと言われたって困りますね。
生きとし生けるものは全て滅びると言う、この基本をしっかりと自分の中に根を生やしておけば、容認できるんですよ。
医学の技術が発達しているので、病気や死ぬとかに対して、身近に感じられないんでしょうね。
何とかなると言う思いで。
自然に滅亡していくと言うのは一番有りがたい終わりではないかと思います。

75歳の女性(視覚に障害を持っていて、主人とは死別、子供や兄弟もいない、悪化して行く目の状態が不安)
孤独感があってとても生きているのが辛い、前向きに生きる生き方を教えていただきたい。
それは辛いですね。
日に日に悪化して行く事実と向き合わないといけないと言うのは、本当に強い精神力が要りますから。
簡単に頑張ってくださいと言う言葉しかない訳だけれども、そんなの頑張れないことがわかっているんですよ。
生きている者は必ず死ぬ訳だから自分一人の問題ではないけれど、こういう問題はこの方一人の問題ですから、それを一人で耐えなければいけないと言うのは、本当に同情します。
ごめんなさい、そばにいって手を握ってオーラが少しでも残っているとしたら、それがこの人に伝わるように握っているしかないですね。
励まして慰めて話し相手になってくれる人がいたとしても、それでまぎれる孤独ではないですからね。
言うのは簡単ですけれども・・・。(佐藤さんの目から涙が流れている。)

岩手県の女性
人生山あり谷あり、そんななかでゆるぎない物があるとしたら一言で言ったら何でしょうか?
私は人生を貫いているのは逃げないと言うことです、来たものは受け入れる。
そういう生き方が性分に合ってるそうです。
昭和42年に夫の経営している会社が倒産して(2億円の負債)、倒産した翌日は小学校の同窓会に行くことになっていたが、当然いけなかった。
整体の先生のところにいって診てもらったら、いつもと違うと言われて、事情を話したら、先生がこれから同窓会に行きなさいと言われて、苦しいことが来たときに逃げようとするともっと苦しくなるのでそれを受け止めて戦う、それをした方が楽なんですよと言われて、楽になると言うことが助けになって、治療後にその足で同窓会に行きました。
その後色々ありましたが逃げないで受け止めると言うことをやって来ましたので、生き続けることが出来ました。
このごろ思うには、人間は一人一人身体が違う、性質も違う、身体が作ってきた私の気質から言うと、逃げないで立ち向かったほうがいいという、整体術からの知識だったのではないかと思うんです、だれにでも言うのではなくて、それぞれ人は違うので、相手のかたがどういう性格かと言うことが判った上で返事をしないといけない。
逃げないと言うことは、私の場合、と思っています。

フランスの哲学者アランの言葉。
「なんらかの不安、何らかの情念、何らかの苦しみがなくては幸福と言うものはうまれてこないのだ。」 この言葉にとても感動した。
「幸福論」を自分が苦労を経験した後で読むと実によくわかる。
苦しみがない時に読んでも何の役にもたたないと思う。
色んな苦労があってこそ、幸福と言うものが判る。
「それでもこの世は悪くなかった」の本の中の、列車のなかで女学生がお菓子を食べているシーン、向き合って試験勉強をしている。
彼女にとっては明日の試験は好ましくない、不幸と言ってもいいような出来事だと思うが、だけどもそれは幸福なんだと言うことを、色んな事を経験してきた人間はそれが判る。
「今は辛いと思っているかもしれないけれど、今こそ幸福なのよ。」と心の中で呼びかけました。
これから辛いことが待っている、どんな現実が来るか判らない。
戦争中には幸福ついて考える人なんか一人もいなかったと思います。
幸福について考える人が増えてると言うことは、世の中が安定していると言うことだと思います。
本当のどん底の時には幸福に付いて考えたりしません、現実と戦う事で精一杯ですから、でも後になって過ぎ去って考えてみると、ああしてシャカリキに戦った事も幸福の一つなんだと、なぜなら戦う力があったと、93歳になるとそう思うんです。

佐藤さんにとって書くことは好きだからですか、生きる為ですか?
両方です。
書くことがなかったら生きている意味がないと思います、書かずにはいられないと言うか。
「晩鐘」を書きあげてから、空っぽになって、書くことがなくて何もしないで暮らしていたらうつ病みたいに成ってしまいました。
生活の全てが書くことに向かっていたんですね。




















2017年9月20日水曜日

佐藤愛子(作家)        ・【特集 佐藤愛子に聞く!】1(H29/5/26 OA)

佐藤愛子(作家)        ・【特集 佐藤愛子に聞く!】1(H29/5/26 OA)
佐藤さんは大正12年生まれ、93歳、昭和44年「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を受賞、お父さんは作家佐藤紅緑さん、お兄さんの詩人のサトウハチローさんら、佐藤家の一家は波乱にとんだ人生を描いた長編小説「血脈」に出ています。
「血脈」は平成12年に菊池寛賞を受賞しています。
佐藤愛子さんが昨年出版したエッセー「九十歳。何がめでたい」は大きな話題となりその歯にきぬ着せぬ物言いと、自分にいいわけしない潔い生き方は幅広い年代から支持されています。
今年の5月の放送では事前にリスナーから佐藤さんへの質問を募集し、その質門にこたえていただきながらお聞きしました。

旭日小綬章を受賞。
90歳を過ぎると色んな事に感動する感受性が鈍感になるのでちょっと途方に暮れて、野蛮人とよく遠藤周作さんから言われ、晴れがましいことは似合わないんで、そういう席に顔出しすることはちょっと忸怩たるものがあり困惑しました。
自分が楽しくて書いてきたんで、書くことは苦しいけど止むにやまれる欲求があって苦しい涙をながしながら書いたというふうなことで、そんな立派な芸術家では有りません。
軍人には金鵄勲章という大変な栄誉だった。
瑞宝章を受章した時には「血脈」に描かれているが、兄が電話を受けてきて大喜びしていました。
彼は不良少年でならした人ですから、大不良少年が勲章を頂く世の中、日本は大丈夫かなと言ったんです。
むっとしたような感じで沈黙していましたが、やっぱり大変な栄誉だったと思います。

質問を募集
279通の便りがあり、①生き方、②死をどう迎えるか、③佐藤愛子さんの作品について、④健康若さの秘訣、⑤そのほか。
年齢18歳から94歳までのお便りでした。
愛知県の山川君子さん 93歳
「血脈」を2回読みました。
90歳以上の方が10人来ました。

私はわがまま自由に生きて来ましたが、私の年代の方は女はかくあるべきという決められた観念に縛られて自分を抑えて辛抱強く生きてきた。
そういう目から見ると異端などうしようもない人間に見えると思いまして、共感を持っていただけないんじゃないかと思います。

三重県北田典子さん
70歳代のころは長生きしたいと思われたか?
70代、80代のころは歳のことを忘れていました。
ここが悪いとかあそこが悪いとか、そういうことを思うことがなくて50代、60代のような元気でいたので長生きするとか、そういうことについて忙しくて考えることがなかったです。
親に感謝するのは健康に産んでくれたと言うことです。
90歳を過ぎたころから、眼は段々見えなくなり、耳が聞こえなくなるし、歯も駄目になってきているがこれは自然であり、あちこち駄目になって死に近づいて行くんだなあと、あるべき道を踏んでいるだけだと思っています。
抵抗してもしょうがない。
健康、若さの秘訣なんてないです。
長生きとかそういうものについて考えたことはないです、健康だったからだと思います。
「それでもこの世は悪くなかった」 表紙に若々しい写真を飾る。

宮城県菅原敦子さんほか
美容健康体力作りに心がけていることは有りますか?
何かを心がけると言うことをしたことのない人間で、その時その時の必要に応じて、例えば写真が若々しく見えても、ヘアメークの人に聞いて下さいとしか言えません。

帯広市山口さん
毎日の生活の中でこれだけは欠かさずやっていますか?
何にもやっていません、何しろ無精者です。
やってはいけないと思っていることは?
栄養剤とか色んな薬はあるが、一切飲まない、健康法は無視する。
わがままに生きていると人間は元気なんでしょう。
好きなものは時に依ります、父はてんぷらは、うなぎは何処のものでないといけないと言うようなものは病人だと言っているのを聞いて育ったので、父の考え方の影響を受けていると思います。
味噌汁は具を入れるな、本来の味噌の味が損なわれると言っていました。
入れるとしたら大根おろしを一つまみ、葱をきざんだものだけで、それ以外の物を入れると叱られました。

今心を寄せている男性はいますか?
いませんね、もう私ぐらいになると男も女もおんなじですよ。
50歳代まででしょうか、寄せると言うより気にいるということだと思います。
寄せるとはほのかな言うに言えない思いがあるが、気にいると言うのははっきりしている。

理想としては大きな人間、小さいことにはあまり気を使わない男性は気にいりますが、今はみんな小さいですね。
昔は男は理性で考えて、女は感情で考えると言うふうに思っていたが、男は女性的に成り、女は男性的になってきて同じ様になってきていると言う感じです。
それがいいとか悪いとかは何とも言いません。
今は男女平等で教育を受けているが、昔は男女別々に教育を受けているので教育の質が違ってくるし、男らしさ、女らしさが有ったが、段々そういうものが無くなってきている。
包容力のある人間の男だったら一番いいと思います。
孫がへなへなを選んできたら、別に文句は言いません。
色んなものにぶつかって、へなへなが直るようなおおきなアクシデントが次々に来ない限りはへなへなのままで終わるかもしれないし、それが生きることだと思います。
人間には無縁の可能性があります。

私は静かさの中に悲しみがあるような気がします。

私は麻雀が趣味で出かけるときに夫との戦いが起こります、自分の趣味と夫の機嫌、どちらを優先したらいいですか?
カラオケに週3回出かけるのが気に入らないのでは?
一人で留守番しているのが厭なのではないか、そこのところをはっきりさせる必要があるかもしれません。
夫婦の間のことなので私に聞かれても判るわけないですよ。
どちらかが最後に諦めるのではないか、それまで待つしかないですね。




































2017年9月19日火曜日

池永康晟(日本画家)       ・新たな美人画をめざして

池永康晟(日本画家)       ・新たな美人画をめざして
1965年大分生まれ51歳、独学で日本画の画法を研究し、独自の画風を確立しました。
画家としてのデビューは遅く本格的な個展は40歳のときだそうです。
インターネットで徐々に評判が広がって2014年に出された第一画集、画集としては異例の1万2000部以上を売り上げてロングセラーを続けています。
日本の近代美人画と言うと上村 松園、鏑木清方が2大巨頭で昭和では伊東 深水を最後に衰退をしてきました。
この途絶えていた美人画というジャンルの復興を目指して描き続けている池永さんです。

モデルの女性は清楚さと妖艶さを持つ複雑な表情で、服装は洋服であったり和服であったりするが、花や植物の柄が多く使われていて装飾性に富んでいる。
顔や肌の色が特徴で背景は褐色。
肌の色を出すのに25歳~35歳まで10年ぐらいかかってしまいました。
その間作品らしいものは描けなかったです。
美人画としては、書かれている女性に見た人が恋が出来るかどうかということが大事だと思います。
モデルが変わっても共通する、好みが半分入っているんだと思います。
僕の理想の造形的な女性もありますが、理想的な顔、振る舞いが私の中に有ります。
観ている人が自分の経験でその絵にかぶせてみることが多いので、内面は見る人の経験なんです。

美人画のジャンルが廃れたのは、美人画を思い浮かべるのは着物を着て、日本髪を結って、うなじを見せながらしどけなくたたずむ女性と言うイメージがあると思うが、戦後はそのような人は居なくなってしまう。
それを描き続けると嘘を描くと言うことになってしまうので、段々描く人が居なくなってしまった。
その後に現代的な女性を描くべきだったんですが、それを続けなかったということです。
グラビア的な役割、写真やグラビア雑誌の発達と同時に写真、グラビアに役割が取って替わってしまって、段々無くなっていったと思います。
今、女性が人物画を描いている人が凄く多くなってきて、男性の作家が少なくなってきた。
昔は写真は男の道具だった。
男性が女性を撮ることが主流だったが、女性の道具になり、女性が自分の暮らしを写真に撮り始めたら男性はなかなかかなわなくなる。
絵画でもそういうことが起こっているのかなあと、今思っています。

私は身の回りの女性を描き始めたが、美人画という意識はなかったです。
絵描きになりたいと強く思った事はなくて、3歳ぐらいの時に自分は絵描きだと思ってしまったんです。
自分の外の世界に気が付くと言うのが自我の目覚めだと思うんですが、その時に自分と言うものがこの世に有るんだなあと思ったときに、自分は絵を描く人なんだなあと思いこんでしまったんです。
3人兄弟の末っ子だったので、放っておかれて、鉛筆と紙だけを渡しておけば静かにしていた子だったようです。
父は絵を描いていて、母親も描いていたみたいです。
親は兄を絵描きにして私を小説家にさせたかったようです。
高校は大分芸術緑丘高校、音楽と美術のクラスだけの芸術の高校です。
日本画をやりたいと思って入ったが、サルバドール・ダリの自伝にはまってしまって、絵描きは普通じゃいけないんだと思ってしまって、絵の具を叩きつけるように人物画を描いていたら、情熱家だねと油絵の先生から言われて油絵を専攻しました。

卒業制作を2人だけ県展に出していいと言われたが、県展には人物画を100号で取り組み、卒業制作の50号には、黄土色、黒、白だけあればどんな絵も描けると言われてやってみようと思って、黄土色のコンクリートの流し台にかぼちゃを置いて蛇口を描いて、卒業制作にしました。
黄土色、黒、白は今思うと、今使っている3色なんです。
今も学校には飾ってあるようです。
美大に行くと言うのは大変だと思って、東京に行きたくて写真専門学校に行きました。
前田信三さんの写真が大好きで写真の勉強をしたいと思いました。
1年通ったが辞めて、国分寺に武蔵野美大があるが、美大にいっていた人たちの高校時代の人達のコミュニティーが出来ていて、そこに転がり込んで点々として油絵を描いていました。
しばらく風景画を描いていました。
岡田 有希子さんのファンだったが、(歌手)自殺して、それがショックで、彼女のために霞草の花束を50号に描こうと思いました。
枝が細く油絵ではどうしてもうまくいかず、友達から日本画で描くものだと言われて、日本画の絵の具をそろえ始めました。
綺麗な女性が好きで岡田さんは理想に近かったですね。
後藤久美子さんが一番の理想で、美意識の原点であり頂点ですね。

絵具の接着のし方から判らなくて、日本画は岩を細かく砕いた絵の具をゼラチンをといで描くが、紙かシルクの上に石をゼラチンで定着させる訳ですが、磨り込むというよりは置くと言う感じで、最初どうしても擦ってしまうんです。
くっつくようになるまで1年ぐらいかかりました。
絵具の分量、ニカワの濃さ、ニカワをとぐ時の温度、絵具を何回擦ったかなど、全部数字でデータを取って、どうしたらくっつくんだろうと言うことばっかりやっていました。
その間アルバイトをしたり、前田信三先生のところで仕事をさせてもらって、そこで構図のきり方の勉強になって、必要なところだけ切り取っても全体が判るんだと言うことが
判るようになり、その後の構図の取り方には随分影響があったと思います。

母の具合が悪くなり故郷に戻り、人物画を描き始め、肌色を探し続けたがどうにもうまくいかなかった。
家の前の蜜柑畑の土をニカワでミキサーにかけてキャンバスに塗り込んだが、失敗したと思ってお湯で洗い流そうと思って、お湯で洗い流した途端にぱっと肌色に発色して吃驚しました。
1年後東京に戻り、再現する事がなかなかうまくいかない。
段々肌色が再現できるようになり、作品を描き始められるようになりました。
キャンバスにまず褐色の土の絵の具を磨り込んで何度か洗って、染まったような形になりその上に肌色の土の絵の具を塗って何度も洗って、地の褐色と上の肌色と糸が織物のような表情が出るんです。
褐色と肌色の織り目があることで、見た人が織り目の表情を拾って、質感に替えてみるんです、それがとっても大事でそれが特徴だと思います。

2003年に青山のカフェで個展を開くが1枚も売れなかった。
人に見てもらえたという満足感はあったが、人物画は売れないんだなと思いました。
2005年 40歳で本格的な個展を開く。(京都のホール)
この時は作品は完売しました。
そのころホームページを始めて、作品を発表できるようになり、人物画を普通に描く人がやっと出てきたねと言う評価でした。
日本国内よりは海外からの作品の画像を使いたいと言う問い合わせが早かったです。

2014年画集「君想ふ百夜の幸福」を出す。
2015年 AKB48の総監督 横山由依さんのファースト写真集が出たが、その中に4枚の絵が入っている。
秋元さんから横山由依さんは京都美人なので日本画の美人画を是非入れたいと言うことで話を頂きました。
安心して絵で生活できるようになったのは、ここ3年ぐらいでしょうか。
貧乏で大変でしたが、自分でやったことなので楽しかったです。
2016年若い女流画家の美人画を集めた画集が出版されたが、この編集にも携わりました。
こんなに人物画を描いていると言うことを世間に見て貰わないといけないので、この本を出すと言うのは、この10年来の目標でした。
嬉しい、満足しています。
若い人は今人物画を描いています、沢山います。
ぼくらが子供のころは、絵画が生活の中に有りました、本の表紙、挿絵、お菓子のパッケージ、ポスターとかに絵画が使われていたので、又そうした時代が来るといいなあ、そうしたいと思っています。



















2017年9月18日月曜日

寺澤康行(日本鳴く虫保存会会長)  ・【にっぽんの音】

寺澤康行(日本鳴く虫保存会会長)  ・【にっぽんの音】
会員150名、今から50年前「カンタン」と言う虫の飼育が難しく誰もできなかったが、小平市の小野さんが子の飼育の成功して、「カンタン」を自分たちで飼育して戻してやろうということで、高度成長期でもあり、虫がいなくなっていて、なんとかしないといけないということとぶつかった訳です。
虫を飼育して還す活動をしています。
鳴く虫のコンクール、今年19回目、鈴虫、松虫、カンタンの三種類です。
虫の習性はそれぞれ違う。
虫の飼育に頑張り鳴く虫の文化をつないでいこうと言う2つが、基本になっている会です。
コンクールには誰でも参加できます。
暗い部屋に持ち込んで有る一定期間(40分間)で審査します。
①声が大きい
②声が長い
③声が綺麗
この三つで採点します。
トップには市長賞として表彰状が与えられます。

審査は6時~6時40分ですが、野生の虫は7時30分から8時頃から鳴くので、その時間に鳴くようにどうしたらいいか、とか環境を考えないといけない。
鳴くことは求愛なので、餌とか、色々な環境をどうしようか考えます。
私が小学4年生の時に担任の先生から、平和が来たら皆が飼うようになるからそれまで飼っておきなさいと、鈴虫を 5匹頂きました。
昭和25年は朝鮮動乱がぼっ発して、立川はジェット機が飛び交っていた時代でした。
そういうのが出発点でした。
風呂桶の古くなったものを貰ってそこで飼って、食料は動物性タンパク質、植物性タンパク質の両方を与えるといいと言われますが、多摩川で魚を釣って干して与えるとかしました。
虫を飼うようになって67,8年になります。
色々な種類の虫を飼いました。

①キリギリスの鳴き声 ②カンタンの鳴き声(一番低い周波数 2500Hz 鈴虫は3500Hz 松虫は4500~5000Hz) 
馬追い虫 1万500~3000Hzで還暦を過ぎるとほとんど聞こえなくなる。
虫は鳴き始めてから死ぬまでの間で周波数が変わって来るので、人間の年齢にすると30歳とか判りますし、収録した温度もだいたい判ります。
23,4度の声は語り掛けるような音に変わります。
鳴き方には3種類有ります。
①縄張り宣言の一人鳴き
②求愛の鳴き
③喧嘩鳴き(オス同士で餌の取り合い)

エンマコウロギ、ツヅレサセコウロギ
ツヅレサ=繕うという意味
晩秋になったら夜なべに今までボロになったところを、「肩させ、裾させ」と言うふうに縫って下さいと教えている言うふうに聞きまして、その虫の事を「つづれさせ」と言ったようです。
*観世流 能の謡「松虫」
クツワムシ キリギリス科 通称「ガチャガチャ」 庭に放っておくと忍者が来たときに鳴きやむと言われていたが、飼育してみると鳴きだしたらなかなか止まらない。
音も虫の声のなかでは最大ですが、性格はおとなしい。
和泉式部 
「わがせこはこまにまかせてきにけりとききにきかするくつわむしかな」
男の人をクツワムシに例えて詠った。

江戸時代 商売になって来る。(虫売り)
当初千葉で捕まえて江戸で売っていたが江戸末期になると、飼育方法を確立して、問屋さんに渡して、売る人間に渡して販売すると言うことが確立する。
最近は虫を飼育する人が少なくなってきた。
幕末に虫屋清次郎さんが「鈴虫のつくりよう」と言う本を出しましたが、20種類ぐらい取り扱っていた。
生活に困った武士なども飼育していたようです。
売る人は派手な格好をして売っていたようです。
虫の音を愛でることは日本独特のものです。
虫の音には癒されます。
紫式部が「鈴虫の巻」を書いたときに、鈴虫をこんな虫だと書いてますが、時代を越えて同じ声を聞いているんだなあと、そういうふうに思います。
























2017年9月16日土曜日

竹林ヨシミ(元宝塚歌劇団員)   ・いつの時も“すみれの花”咲かせて

竹林ヨシミ(元宝塚歌劇団員)   ・いつの時も“すみれの花”咲かせて
兵庫県宝塚市出身 90歳 1940年に宝塚音楽学校に入学、3年後卒業して初舞台を踏みました。
しかし、翌年、1944年太平洋戦争の激化とともに、宝塚大劇場は閉鎖、海軍に接収されました。
竹林さん達は象徴である緑色の袴を紺色の制服に着替え、移動隊として全国各地の兵舎を慰問して回りました。
戦後、ふたたび宝塚の舞台に立ち、1954年27歳で退団されるまで花組の娘役で副組長をつとめました。
3年前の宝塚歌劇団100周年の記念式典では最高齢の卒業生の一人として式典の開会宣言もしました。

学校に行って歌ったり踊ったりすることが楽しみでした。
宝塚歌劇団100周年の記念式典、歴代のトップスターが集まりました。
最高齢の卒業生の一人として式典の開会宣言もしました。
足腰が悪くてもステージに上がると足が自然に前に出ます。
その時だけ身体がしゃんとします。
2年先輩に淡島千景さん、4年後輩に八千草薫さんがいます。
お客さんを喜ばせると言うより、自分が楽しませてもらったと思います。
宝塚は私の心のふるさと、辛い時も楽しい時も母のような気持で宝塚を愛しています。

1927年横浜市生まれ、母を早く亡くして、父の仕事の関係で8歳のときに大阪に引っ越してきて、私たちは西宮市に引っ越してくる。
宝塚歌劇も見たことはありませんでしたが、担任の先生が宝塚ファンだったので、父に頼んだようで言われる通りに行きました。
歌う試験があり、何小節か楽譜を書くが、私は習っていなくて、前の方が歌う通りに歌ったら何とか歌えました。
黒い水着を着せられて、おおきな部屋に一人台の上に乗せられて、段々恥ずかしくなって赤くなって舞い上がってしまいました。
落ちると思っていたが入っていました。
父がよろこんでくれて、何もかもそろえてくれました。
学校に入って見学の時に行って、始めてみて余りの美しさにびっくりしました。
「すみれの花の咲く頃」美しく良い歌だと思います。

1940年の30期生でした。
朝一番電車で学校に行って、6時30分ごろ着いて当時掃除などは生徒はしませんでした。
ピアノが弾けて、バレエしてみたり、子供が遊んでいるのと同じ気持ちでした。
家庭訪問があり、学科は素晴らしいが実技の方がもう一つですと言われますが、私はやったことが無く、他の人たちは習った方が来るので出来るのは当たり前でした。
当時の体罰は当たり前でした、棒持っていて足を叩かれてみみずばれになる人もいましたが、でもやめないんです。
1943年首席で音楽学校を卒業。
櫻野美也子(さくらのみやこ)という名前になる。
戦争中なので派手な名前はつけられなくて、この名前を持っていったらこれにしなさいと言われました。
雪組で初舞台を踏む、「海軍」というステージでした。
アメリカの海軍の制服を着せられて点呼させられ、サーティーワンそれが私の番号で、それが初めてのセリフです。
ラインダンスも有りました。

昭和19年3月に戦況が悪化するなかで、宝塚歌劇大劇場は海軍に接収されて、移動隊として全国各地を慰問して回ることになりました。
日本ものが多かったです、人数は30人ぐらいでした。
早く戦争は終わってほしいと思いました。
鹿児島の知覧に淡島さんらと紺の制服をまとって汽車で行くんですが、満員で押し込まれて行きました。
娘道成寺を公演しますが、じーっと見ていました。(17,8歳の方たちでした)
終わると規則正しく敬礼して、白いマフラーが印象的でした。
結婚してから主人と知覧に旅行したことがありますが、若い元気な顔の写真がずらーっと飾ってあって思わず涙が出てしまいました。
皆、飛行機で自爆していったのかと思うと、言葉にならなかったです。

舞台の無い時は勤労報国隊として、軍服のボタンつけをしたりみんな頑張ってやりました。
B29が連なってきてそれが怖かったです。
足がすくんでしまって動けなかったが、青年が私を引っ張って家の壁にくっついて身を隠すようにしてくれました。
自分の身を守るだけで精一杯で、舞台に上がりたいなんて言うことは思いもしませんでした。
1945年8月15日、とにかく負けてもうれしかったです、電気が点いて明るいし、おびえないで済むし、舞台に出られるし、戦争が無くなったということは嬉しかったです。
学校の帰り、歩いていたら車に乗った米軍の兵隊がいきなり片手で担がれてしまって、製材所に連れて行かれて、食事をしていた人がいたが「助けて」と言っても助けてくれなかった。
私を降ろした瞬間に階段を降りて逃げました。
父からは坊主にしてズボンを履けと言われたが、それはできませんでした。

昭和21年4月22日に宝塚大劇場の公演が再開。
花組は夏の踊りと言う各地の民謡を集めた舞台で再開、阿波踊りをしました。
越路吹雪さんが「筏流し」を歌ったのが素敵でした。
戦争中は出し物が暗いし、観客も暗いが、華やかでみんなの笑顔が違います。
「源氏物語」で八千草さんが小紫、私が清少納言役でしたが、春日野八千代さんのお父さんが来るとの事で緊張してしまって、「姫君」と言わなければいけないところを「ひめみぎ」と言ってしまって、客席もワーッとわいてしまって、なんで笑っているのか判らなかった。
それが大失敗でした。
1954年、昭和29年27歳で結婚して退団しました。
後ろ髪を引かれる思いと、そろそろ身を固めた方がいいのではないかという事で、結果家庭に入ることにしました。
父からは「刺身につまがなかったらおいしくないだろう、つまあっての刺身だから、お前はつまでずーっと行ったらいいんだよ」と言われました。
退団の時は「すみれの花の咲く頃」を一人で歌うことが出来て、「櫻野美也子」と言って下さった方がいて本当にうれしかったです。
「戦争はいや」、その一言です。
「清く正しく美しく」 清く正しくは身にしみついていて、その通りにやってきていると思います。










































2017年9月14日木曜日

田村潤(元ビール会社副社長)   ・100年続く経営を考える

田村潤(元ビール会社副社長)   ・100年続く経営を考える
1950年生まれ67歳、大学卒業後大手ビール会社に入社、45歳で高知支店長として赴任します。
当時会社はライバル会社の革新的な新商品に押され、長年保っていた売り上げ首位の座を奪われるという危機的状況にありました。
そうした中、田村さんは起死回生を狙うためには現場を生かした営業が最も重要と考え、本社の意向とは違った取り組みをつぎつぎと展開しおおきな成果をあげます。
その手法を高知から四国全域、更には全国へと展開し、会社は再び売上首位の座を奪還しました。
去年体験をまとめた著書を出版、サラリーマンを中心に反響を呼んでいる田村さんに伺いました。

現場から会社を変えるということができるということ、今日本の企業はいろんな問題を抱えていて、一生懸命やっても業績が上がらないというのが、大多数です。
現場に本質がある、現場にお客さんとの接点がある、徹底して現場に入ることによって見えないものが見えてきた。
そこで頑張っているうちに業績が上がってきた。
会社の都合ではなくて、御客さんに喜んでもらう、御客さんの視点で全てやっていれば、かならず成果が出てくるということが実績として証明されました。
20年前の経済的な状況が金融政策の失敗だと思っているが、日本の企業が元気が無くなってなんとかしないといけないという時に、企業の統治、ガバナンスの改革があって、短期的な利益の追求、投資効率を上げて行くとか、そういう風潮の中で時間を掛けて御客様との関係を築いていくとか、ブランド力を築いてゆくとか、お客様に喜んでいただく商品を開発してゆくとか、基礎研究を充実してゆくとか、時間がかかるけれど必要な仕事がないがしろにされて、短期の利益さえ上げればいいというそちらの流れが強化されて、会社の企画部門が強化されるとともに、現場が弱くなってきて、何のために働くのかという理念が弱くなってきた。

日本の企業の強みは御客様の為、会社のため、自分のチームのためにという理念と、現場でこつこつと徹底してやると言う、ふたつが日本の企業の強みだったのが、ふたつとも失われてきて、日本の企業の競争力が失われてくる。
人をコストとして考えるようになってきてしまっている。
イノベーションが大事だが、そこが弱くなっている、それによって新しい価値を見出すことが非常に難しくなっていることが問題だと思っています。
その手法を高知から四国全域、更には全国へと展開し、会社は再び売上首位の座を奪還しました。

出身は東京、小学校2年から6年生まで北海道の遠軽町で育って、自然の中で育ってあそこでの生活が今の自分のバックボーンになっていると思います。
支え合うと言う文化があったんです。
自主自立の文化、昔は屯田兵からスタートしたところで自分たちでやるんだという風土がありました。
プールがなくて川のすぐそばで先生と生徒で穴を掘ってプールにしたりして、困ったら自分たちで何とかするんだという自主自立の風土がありました、それが何らかの影響をしていると思います。
当時の地元の人の集まる会(遠軽会)が有り、一流の漫画家、トップモデル、一流企業の役員、オリンピックのメダリストもいます。
豊かな自然の中で遊んでいましたが、みんなで助け合う、いじめなどは無かった。
異質の文化を受け入れる文化がありました。

高校、大学は東京でした。
山に登ったり、本を読んだり、音楽を楽しんだりしました。
当時安い二級酒を飲んだりしていて、金持ちがビールを飲むものだと思っていました。
会社には偶然はいったという感じです。
人事をやっていたので、学生を見る時にはその人間が努力を積み重ねていくことが出来るかどうか、そこに関心が有りました。
人間の能力はそんなに差がないと思っていて、努力を惜しまないで誠実に仕事をやれる、
性格がいい、そういった人間をいかに見極めるかということを重視して面接をしていました。
人柄の良さを何となく感じる、そういうことが一番大きいような感じがします。
最初は岡山県の工場に配属、労務課では現場の方と毎日のようにビールを飲んで、工場はこうあるべきだとか、自分の職場の問題はこういうふうに改善したいとか、色々話し合っていました。
人間の能力は無限にあると思いました、昨日と全然違うということがあります、愚直に
徹底的に努力しているときに、或る時に変わる、見えるようになる。
会社の業績を上げるには、個人の持っている能力を最大限に伸ばす、そうすればすべて上手くゆくということは体感としてわかったいた。
①現場に本質がある、美辞麗句、机上論はだめ。
②人間の能力は無限大にあるからこれを最大限に伸ばしてゆく。
この二つが自分のバックボーンになりました。
大事なのは情報を共有することです。
意見の対立の原因は持ってる情報量の格差に依るものが多い。
役割は違うが、平等なんだということの思想で、自分の考えを率直に述べて、議論して正しい結論を導き出して責任を持っていく、というスタイルが最初に有ってそのスタイルが営業にも活きました。

仕事は上から指示されるのではなく、自分たちで考えて良いビールを作っていこうという、そういうトライアルをした最初の工場でした。
現場の声をとにかく聞く、対等の立場、平等の原則があるので、上から目線、学歴、男女差など一切関係ないという事で、自分の与えられた役割を全うして行く。
岡山工場の文化の中で自分自身も育てられたと思います。
ライバル企業が画期的な新製品を出して段々シェアーが低下て行く。
高知支店に支店長として転勤する。
それ以上シェアーをあげると、独禁法に触れるので、会社の目標が無くなってしまった。
そうすると内向きになる。
役所的な文化が急激に出てきて、企業の体質が弱くなってきて、そんなときに他社の大ヒット商品がありシェアーが下がっていった。
御客さんからうちのビールの時代は終わったと言われてしまい、何をやってもダメだった。

ワーストワンになってしまって、本社の言うことをそのままやってもボロ負けすることはわかっていた。
すべて本社がやっていて、数字が悪いのは本社のせいにしてもしょうがないと思っていたが、何をしたらいいかわからなかった。
飲み屋さんを回り、一月の回るのを200、300と決めて、セールスを自分で決めてやっていこうと決めました。
ところが出ませんでした、そのたびにスイッチしていたら大変なので変えません。
そのうちに辞めてしまって、それはまずいと思って決めた目標はやると、又廻り始めてそっこからうまく行きました。(やっているうちに慣れて、段々面白くなってくる。)
4~5カ月で変わって来ました。
本当のうちの会社の精神、理念はちゃんとあるんだと、それを忘れたからいけないんだと、もう一度作りなおすんだと、その理念に基づいて、おいしいビールを作って御客さんによろこんでもらう、そういうメーカーになるのだと、最後の一人になってもやるんだとそういう覚悟を持てるまで半年毎日考えていました。

世界一おいしいビールを作る、作っても御客さんがおいしいと思ってくれないとだめなので、高知の人のことだけを大切にしようと覚悟を決めました。
高知限定のキャンペーンなどをして行きました。(上司の承認は得ませんでした。)
①「御客さんの為に」と明確にしました。(それまでは本社からの指示をちゃんとやる為)
今日やる仕事の意味を、何のために仕事をやるのかということを一貫させました。(理念、戦略、今日やる仕事)
②現場の基礎体力を付けることも大事です。
③自分たちで正解を見付けてそれをクリアする。
この三つをやりました。

東京営業本部長、副社長になる。
副社長になって3年目で首位奪還を果たしました。
高知でやった事を全国に広めました。
御客様の心理がどう移り変わってゆくのか、ライバルメーカの動きによって市場がどう変わってゆくのか、現場に入って判るようになりました。
ローカルに徹底的に入ることによって、本質が判るのでそれがグローバルの展開が出来る。
いろいろな変化、県民性、特有の文化を全部包含して、適切な手を打っていくことができる人間が世界のどこに行っても通用します。(本質をつかんだ人間)
首位奪還して社員が泣いていました。
仕事を通じて自分の人生が豊になるということを目の当たりにして、仕事とはとてつもなく素晴らしいものだと思いました。
講演では、「自分の足で立ちあがろう」と言っています。(自立性)
会社の使命、果たす役割を考えて行動する勇気を持とうと言っています、そのためには現場が大事です。
会社と言うのは使命があるので、御客さんに支持されてよろこんでもらう、そのためには時間をかけてより必要とされる会社に育てる。
どうしたら最短距離で御客さんに満足していただけるのか、考え続けることが大事です。
そうしてどうしたらいいかクリアになったら、そこまでやり続ける、回答はそれしかないです。
これからは世の中に御恩返しをしたい。
これまでの経験を率直に話をして、アドバイスがあればしていきたいし、良い仕事、誰かの為にやる仕事、多くの御客さんに喜んでもらう、そこに向かって仕事を集中していると、いい遺伝子がどんどん首をもたげてくるという印象がある。
仕事を通じて素晴らしい人になって行く、そういう経験をして貰いたい、それが恩返しだと思っています。

















































2017年9月13日水曜日

長谷川透(外国車修理工場経営)   ・名車の輝きをよみがえらせる

長谷川透(外国車修理工場経営)   ・名車の輝きをよみがえらせる
埼玉県川越市で外国車修理工場を経営、58歳。
1960年代から80年代にかけての英国車を中心に古い外国車の修理を手掛けています。
長谷川さんが修理をするのは、生産台数が少ない車が多く修理用の部品がないことも珍しくありません。
こういった場合、長谷川さんは可能な限り自分で部品を作っています。
修理が終わると長谷川さんはオーナーに車を引き渡します。
憧れの名車を手に入れたものの、不調が続き味わうことが出来なかった車の性能がよみがえった瞬間、多くのオーナーが喜びの表情を見せると言います。
長谷川さんの修理で名車はどのように輝きを取り戻すのか伺いました。

サイズの規格が日本と英国とは違っているので、今部品を作っています。
修理する車は1960年代から80年代にかけてのコンパクトな車が多いです。
イギリスが多いです、部品が共通されていて、長く車が生き残る為の重要な要素が非常に多いというところがイギリス車のいいところで、イギリス車を多く扱っています。
3~6か月ぐらい待っていただいてしまうこともあります。
工場は祖父の代から始まっていて3代目になります。
父の代が車の環境が一番変わった時代ですので、日本の車を修理することが多かったです。
父からはネクタイをする自動車屋に成れと言われました。(経営者に成れ)
結果として違うことになってしまいましたが、そうなったことは私にとって幸せに感じています。
自分のやりたいことと接点を持ちながらやって行くのが、長く続けられることかなあと思いました。

一時期父と一緒に仕事をしていましたが、技術を受け継ぐと言うことに対しては伝えたいものがあったのではないかと思います。
段々自分でやりたいことが国産車では生かすことが難しくなったという事はあります。
イギリス車に名刺を挟んで、チャンスがあれば自分でやってみたいとは思いました。
御客さんの車を預かって直すことは、やはりそういった関係を作るのは難しいですね。
軽井沢の方に工具を持っていって、修理をさせていただいたこともありました。
古い車が無くなっていってしまうから、この先街の電気屋さんと同じような運命をたどるのかなあとの思いもありましたが、真空管のアンプを使ったようなオーディオのマニアの方が残るということも感じていて、マニアのニーズに答えられるようにしていきたいという気持ちはありました。
人脈を広げる努力に苦労したという感覚はなくて、車が常に間にはいって、人に伝えていただいてその連鎖だったと思います。(口コミが90%以上)

車が持ち込まれて、修理内容、御客さんの要求がどのようなものなのか、一緒に食事をしたり酒を飲んだりして話をします。
趣味、こだわりの世界があるので、そのこだわりに対してどんなことが出来るのかなと思っています。
リフトで持ち上げて、まずは車を良く見るようにします。
初めてみる車があったりするので、車を観察して設計者の意図を考えたりもします。
修理の状況など見て自分の参考にしたりもします。
2日間ぐらい見ていて、手が動かない時もあります。
イギリスの車は大切にされていて、他メーカーでありながら部品が共通しているものがあり、部品が使えないものもあり、違うものを加工して使えるものにしようかということもあります。
交換部品が手に入らない時は、作れるものなら作ってみようということになります。
非常に難しいものだと相談したり、自分で創意工夫したりします。
図面はないですから現場合わせになってしまいます。
御客さんとのコミュニケーションで決めて行く内容もあります。

今の自動車は高性能、高精度、トラブルが少ないということで、旋盤、ボール盤、プレス機、溶接だとかの出番がないのが現実です。
加工することに関しては知り合いに色々聞くこともあります。
オケラ職人(なんでもできる)には一生成れないとは思います、技術が進歩し過ぎてしまったんだと思います。
修理して動くようになる、その瞬間が全てになっています、鳥肌が立つような思いもあり、御客さんがニコッと笑ってくれた充実感がこの仕事をやっていて一番だと思います。
修理を手掛けたのは約9000台になると思います。
今は一人でこなしていますが、ごまかしがきかないプレシャーみたいなものもあり、誰か見てて欲しいというような思いもあります。
プライベートではジムカーナというレースに出たりもしています。(7年前から)
自分で運転することによってより御客さんとの話が理解できるようになったと思います。
出来うる限りより古い車を見てみたい、触ってみたい、1930年代の車とか。

































2017年9月11日月曜日

大河正明(B.LEAGUEチェアマン)・【“2020”に託すもの】Bリーグが拓く未来

大河正明(B・LEAGUEチェアマン)・【“2020”に託すもの】Bリーグが拓く未来
男子バスケットボールのBリーグは日本の統一された新しいトップリーグとして、去年9月に華やかなLEDの照明を仕込んだコートでの開幕戦から始まり,今年5月に栃木ブレックスが初代チャンピオンに輝いて最初のシーズンを終えました。
そして間もなく新しいシーズンを迎えようとしています。
男子バスケットボールのチェアマン大河さんに伺います。

リーグ戦がない期間は3~4カ月ありますが、その間に新しいリーグをどうやって盛り上げて行くか、中長期ビジョンをどう作成して行くかがこの時期になります。
2015年4月に発足して、1年半後にリーグを開幕しなくてはいけなくて、お金、人がいない中よく無事に開幕したことは奇跡に近いと思いました。
開幕戦、試合中LEDが消えてしまわないか緊張はしましたが、大きなインパクトを与えられ物凄い反響でした。
田臥 勇太選手の執念で栃木ブレックスが初代チャンピオンに輝いて、Bリーグが出来て良かったと思います。
1100試合以上の試合が行われましたが、御客さんの数も226万人、B1で50%、B2で33%の御客様の増加と言うことで、50%ぐらい伸びればいいなあと思っていましたが、B1はほぼ達成、B2はもう少し入ってくれればよかったなあと思いました。

日本の男子代表が強くなったり、コーチ、審判のレベルも上げていかなくてはいけないのでまだ第一歩が始まったばっかりと思っています。
2019年中国のワールドカップの予選が始まるので、これからが真価を問われると思っています。
最初は川渕三郎さんがバスケットボール界の改革に登場されて、元々バスケットボールに携わっていた人にとってはなんでサッカーの川渕だと凄く思っていたと思います。
私もそこにも加わりサッカー界にバスケット界は乗っ取られたのかと、最初はそんな意見も多々ありましたが、着実に一つ一つ成果を出してゆく、国際試合出場停止が解除され、良い方に向かっていると感じて、今はそういったことは全く無くなったと思います。
アリーナスポーツに着目して、快適に試合が見られる、お客様との距離感も近く、ハーフタイムでの御客様の参加型のイベント、チアのダンスなど、試合以外のイベントでも盛り上がる様な気配があり、音と光を使ったエンターテイメント、豊かな楽しいアリーナスポーツにしていきたいと強く思いました。

実業団チームもあればプロとして独立して行く流れから来ているチームもありますが、選手は融合していたので、選手の気持ちにはわだかまりはなかったが、経営側が少しうち解けなかった状況だったので、ふたつのリーグが一つになって選手が正真正銘の日本一を決めるんだということなので、チャレンジする気持ちは増えてきたと思います。
今はほとんど体育館でやっていて、エンターテイメント性を最大限表現したことにチャレレンジしてくれたと思います。
24秒以内にはシュートしなくてはいけなくて、攻守の切り替えが激しい、アリーナと一体となった観戦環境があるという意味では、TVで見るよりも面白さは迫力のあるスポーツだと思います。
体育館では靴を履き替えるという処もまだ残っていて、まだ見る側に配慮している訳ではないので、アリーナは履き替えなくていいとか、飲食が出来るとか、良いシートがあるとかは大事でそちらの方向に向かっていきたいと思います。

欧米に比べると見る環境が2周、3周遅れていると思います。
もっともっと快適に見て、皆が幸せ感、地元を感じる日本にしていきたいと大きな目標があります。
支えていただいているのはそこの市民、行政、企業に支えていただいてチームが成り立っているので、地元を意識したクラブを目指してやっています。
スマホの使い方で、飲み物のオーダー、チケットの購入などを色々使えるようになりました。
単にデータを蓄積するのではなく、その利用法を双方向型のサービスを提供できるように考えています。
チケットの購入も1割ぐらいかなあと思っていましたが3~4倍も増えています。
コンサートとスポーツが一体化しているような空間を提供できるということがバスケットのいいところだと思います。

私は中学3年の時は代々木第二体育館での全国大会に出場してベスト4までいきました。
若い頃楽しませて貰ったバスケットボールに何らかの恩返しができればと思って、仕事をすることになりました。
銀行に勤めていましたが、或る時1995年銀行から執行と言うことで、サッカーのJリーグに行くことになり、(当時のチェアマンが川渕さん)又銀行に戻った後、次に執行ではなく辞めてJリーグに行きました。
そしてJリーグからBリーグに移りました。
バスケットボールがプロとして成功する芽はあると思っていました。
どういうふうに見せて行くか、どう強くしていくか、相乗効果により盛り上がると思っていました。
NBAに対するあこがれもあり、日本で出来ないことはないなあと思って、目指してやっていきたいと思っています。
NBAのアリーナ、そういった姿を日本で実現したいと思います。

Jリーグ、Bリーグの違い、両方とも地域に根差したチームを作って行く、全国に広がりが出来て行くと言う根本的な考え方は同じです。
紆余曲折があるが、経営危機に面しても色々な手段を使ってJリーグのクラブの健全経営が実現している。
Bリーグもまずは経営を健全にしてアリーナ、見る側に優しい観戦環境を目指してやっています。
2020年オリンピック オリンピックに向かって日本を世界に売り込むチャンス、スポーツ文化として根付いてスポーツを楽しむ風景、スポーツを見る風景が見られることになる、これが私の一番大きな夢です。
みんなが楽しめて見てよろこんで、これがスポーツだと思っているのでスポーツが文化として根付けば見るのに優しいものがたくさんできて、アリーナ自体が稼げる施設に変わってくれば無駄使いにならないので、そんな世界を早く実現したい、それが私の一番の仕事です。
理想のアリーナが現実にはまだないが、楽しいアリーナを日本にいくつか作っていきたいと思っています。
ワールドカップ予選に代表が活躍してバスケットボールがあるんだぞ、Bリーグがあるんだぞ、ということを国民のみなさんに知ってもらうような、2シーズン目にしたいと思っています。















































2017年9月9日土曜日

中島明子(元看護師)       ・水没したバスの屋根で生き抜いた37人

中島明子(元看護師)       ・水没したバスの屋根で生き抜いた37人
2004年10月20日の夜、台風23号に依る大雨で兵庫県や京都府の北部を中心に、被害が広がりました。
京都府の舞鶴市では由良川が氾濫し、国道175号で立ち往生した大型観光バスは完全に水没、乗客はこのバスの屋根の上に登って救助を待ち翌朝全員が救助されました。
乗っていたのは兵庫県豊岡市の公務員の退職者グループの35人と引率者、運転手、乗客の平均年齢は67歳、福井県内の温泉に泊まって永平寺を回って帰って来る1泊2日の帰り道での出来事でした。
この日のNHKニュースは、夜10時過ぎ、川からあふれた水が入り込みお年寄りを含む30人が救助を待っていると伝えました。
その後バスの中で人が立った状態で腰から胸の高さまで水が迫っている、乗客乗員全員がバスの屋根に上がって救助を待っているが、屋根まで水につかっている。
そして午前1時半ごろには膝の高さまで水が来ていてまだ増えていると報じました。
37人は台風の夜、濁流の水かさが増す中、バスの屋根の上でどのようにしてこの危機的な状況を乗り越えたのか、乗客の一人で手記を出版した元看護師の中島さんに伺いました。

このバスツアーは兵庫県市町村職員年金者連盟の豊岡市部が主催する恒例の行事だった。
私達病院から13名参加しましたが、看護師の資格を持っている人が9人いました。
市役所の職員、消防署の職員の3つの団体でした。
10月19日に出発、台風が来ている情報はありましたが、中止との情報はきませんでした。(台風のコースは違っていた)
芦原温泉に泊って帰路に着くときは、台風のコースが変わってきて早く帰りたいと話し合っていました。
短縮しながら帰ろうとしましたが、なかなかそうはいきませんでした。
夕方5時にトイレ休憩があり、バスに乗ろうとしたときに、台風接近のために5時半を持って閉店しますとの放送があり、その直後に出発しましたが、なかなか進みませんでした。
道は冠水しかかっておりましたが、バスは車高が高かったので大丈夫でした。
渋滞がすごくて、峠を越えてから由良川を渡って後から車の動きが益々遅くなってしまった。
水かさも増してきました。

今晩帰れなくなるかもしれないとの電話をしました。
175号に入って、乗用車の人達が車を捨てて避難していました。
動けない状態になりました。
9時ごろにキャーッという声が聞こえてきて、波が来るように水が流れ込んできました。
膝のあたりまでがずぶ濡れになりました。
非難するということで、非常口からまず女性、お年寄りから出ようということになり、足が付かないという声が聞こえました。
ロープはないかとの声がありましたが、ありませんでした。
窓のカーテンを使おうということになり、ハサミで切ってロープ状にしました。
水かさがさらに増してきて屋根の上に登ろうという結論になりました。
窓を開けて身を乗り出し、非常口を開けてちょうつがいに足をかけて屋根に登り始めました。
先に登った人達が協力して引き揚げたり、車内から押し上げたりして屋根に全員が昇って行きました。

その間に窓を閉めろとの声がありましたが、窓を閉めてしまうとバスが浮いてしまう可能性があるのでヤメテと大声で言いました。
私が出ようとした時には首に辺りまで水が来るところでした。
携帯電話があるのでバッグを水につからないように苦労して、引っ張り上げてもらいました。
風がひどいので身を低くするようにとの元看護師長の声があり、坐っていました。
最期の人が水に潜る様にして上がって来ました。
屋根のところまで5cmぐらいになってしまいました。
屋根の上で点呼を取りましたが、30過ぎたらごちゃごちゃになってしまいました。
逆からやってみたら37名いたことが確認できました。
益々水が増してきて坐っていられなくなりました。
午後10時20分ごろバスは水没して、膝のあたりを越えて更に上昇する。
バスの屋根は狭く、幅2.5m、長さ12mの細長いスペース。
カーテンのロープを最後部の座席に括りつけて屋根に上げ、対角線状にしてロープを握り転落しないように支え合いました。

その頃は風速20mを越えて、雨量が15mmの強い雨でした。
みなさん携帯電話で色々なところに電話するが、自分は大丈夫との声が聞こえたりしました。
10時57分ごろに119番をするが、頑張ってくださいとのことでした。
携帯電話の電池も尽きてしまいました。
午前0時前後に竹の棒が流れてくる。
竹を数本拾うことが出来ました。(一番長いのが5m以上ありました)
午前0時過ぎに2人の男性が相次いで濁流に飛び込み近くの街路樹に泳ぎ着き、バスと街路樹の間に竹の棒を渡して、一方は木の上の男性達がつかみ、一方はバスの上の人達が握ってバスが流れないようにつなぎとめていました。
横転していたら一人も助からなかったと思います。

トラックの運転手が落ちたのを見た人もいました。(後で聞いた話だと亡くなってしまったそうです)
水に浸かって下半身は感覚が無くなってしまいました。
過呼吸の人がいたが、近くにいた看護師が抱きかかえてやっていました。
身体がふらふらとなった人もいて同じように近くの人が背中に覆うようにしていました。
ある女性に異変が起きて、「なんで助けに来ないのか」と盛んに言いだして、「あのばばあ、静かにさせろ」と声が聞こえてきましたが、「少し静かにしなさい」と私がいって、それから冷静になってゆきました。
由良川の川を挟んだ処からサーチライトが見えて、助けに来てくれると思ったっら消えてしまい、駄目だったとがっかりしました。

元市役所職員の携帯電話が突然鳴りだしました。
「流れが厳しくて行けないので、夜明けを見て直ぐ救助に向かうので頑張ってください、多分6時ごろになるでしょう」、との連絡を受けました。(3時頃の時)
3時から4時は一番眠たい時間で、居眠りしてしまいそうな人もいましたので、眠らないようにしようと思って、誰かが呼吸をするためには歌を歌いましょうということになりました。
歌は苦手だったが賛成しました。
「上を向いて歩こう」を歌おうという事になったが、なかなか歌い出さないので、まずは小さい声で歌い出したら、次のフレーズからは皆がワーッと歌ってくれました。
歌詞の替え歌を歌ったたら誰かがクスッと笑ってくれて、それが又元気を貰いした。

5時には完全に屋根には水が無くなっていました。
ヘリコプターが来てくれて、みんなワーワーと言いました。
一番年齢が高く弱っていた人(88歳)から釣り上げることになりましたが、4~5m上がった時に手が上がってしまってベルトが外れて落ちてしまって、レスキュー隊の人が受け止めようとしたが、一緒にドボーンと入ってしまったが、助け上げて今度はレスキュー隊の人と一緒につりあがって行きました。
8時頃に私たちが最後に救出されました。
しばらく水が怖かったです、天井の木目が渦を巻いているようで厭でした。
バスは車高が高いからという安心感がどこかで有ったと思います。
屋根の上での連帯感があったように思います。
その場で持っているみんなの一番いい知恵を採用しようという決断もありました。
いつどこで何があるかわからないということを、常に頭に入れながら行動しないといけないと感じています。

































2017年9月8日金曜日

織田哲郎(音楽プロデューサー)   ・いつまでも変わらぬ歌

織田哲郎(音楽プロデューサー)   ・いつまでも変わらぬ歌
高校時代にバンド活動を始めた織田さんは、21歳でプロデビュー、バンドやソロシンガーとしての活動と並行して、他の歌手やバンドへの楽曲提供やプロデュースを手掛けるようになります。
1990年代にはアニメ番組のテーマソングとして提供した「おどるポンポコリン」ZARDの「負けないで」「揺れる想い、自身が歌った「いつまでも変わらぬ愛を 」など、手がけた楽曲が次々とミリオンセラーとなり音楽業界で一つの時代を築きました。
一方で忙しさのあまり、心身のバランスを崩した時期もあったと言います。
傷つくことが多かった子供時代から、大好きなロックギターを弾く思いまで伺いました。

『CAFE BROKEN HEART』(カフェ・ブロークン・ハート)の反応は、自分から何も言っていないのに母親から「聞いたよ」と言ってきたのは初めてでした。
話があったときに、じっくり聞いてもらえるのを作れるなと言うのが一番最初に考えたことです。
いつもゆっくり流してもらえるということは、トータルをキチンと聞いてもらうことを前提で作れるということはありがたかったですね。
自分自身で詩はどう作っていくのかよく判らない、潜在意識のぬか床みたいなものがあるが、ぬか床に自分の思い、日々の出来事などを漬けこんでおいて、ぬか床に手を突っ込んでみると出てきたものです。
感じたことが、感じ方が強いことが投げ込まれている方が、結果的に後で良い味が出てくる。
これはどうやら昔からそうなっていたようです。
小学校の頃は漫画家になりたいと思っていて、中学の頃は画家になろうと決めていました。

とにかく何かを取り入れてはそれを外に出す、表現する手段を常に求めていて、一番身近なものに飛びついていた。(漫画、絵画)
日本に戻って来た時がフォークソングブームだった。
学校の寮に入ったらみんなギターを持っていて、弾いてみたらそこからは音楽のプロになるということしか考え無くなった。
何人かでなんかやろうとするということが音楽の場合必要になりがちで、それがすでに辛くなったということが、20代前半であり、一人だけで何か作るものの方が向いているのではないかと思って、一時期止めようと思った時期もありました。
たまたま入った喫茶店で占い師がいて、あなたは音楽とか芸能が向いていると言われて、自分の中ですっきりした物があって、やりたいことしかやらないからと宣言してやっていこうと思って、自分で事務所を作ってしまった。

当時は傍目には物凄い自信があったと言いますが、物凄く自信のないものが自分のなかにはありました。
積み重ねる事で、地に足が付いたところでのやって行き方がやっとできるようになったと思います。
子供が出来たということが、子供の成長を見て行く中で、ちょっとずつ変わっていったというのも、本質的なところで大きかったと思います。
小さい頃はほめられたことはなかった。
音楽とかでたまに褒められると嬉しかった。
子供の時は、基本的に親はすごく大きいものじゃないですか、完全なもの見たいで、完全なものに否定されるということは、とても自分が駄目なものだということになる。
自分が子供の親になると、ひどい親だなと言うところから始まる。
そうすると色んな事が解消して行く部分があった。
何かを作るということが、何かを発散できるシステムになっていたんだと思います。
子供のころはひたすら騒ぎまわっているタイプだった。
しかし、可愛いと思ってくれた女子がいました、それは支えになりました。
友達もできたし、自分の日常の中での楽しい生活スタンスは自分で作れた。
皆と言うもの、不明瞭な皆がこうしているというところに合わせなくてはいけない圧力は特に日本には強く、しかし意外に人間は気の合う人達の小さな社会でやっていければ、全然問題ないということを、そういった子どもたちに言ってあげたいと思います。

色んなめぐりあわせが上手く回っているという実感がありました。
曲がヒットするというのは何か一つの要素だけで売れるということではなくて、売れるものは条件がきちんと揃うことがヒットするということには重要です。
めぐり合わせのいい時はどれも上手くいくことばっかりが結びついてゆく。
私の場合、めぐり合わせが上手くはまるときに、とてもいい形で活動できたということだと思います。
30代の時、90年代になってヒット曲が多くて、30代に多く仕事をしていると思われがちですが、本当は20代の方がしていました。
忙しいから80点でいいやということに気が付いて、一遍休んでどうするか見つめ直そうと思いました。
自分が出来る範囲でしかやらないことにしよう、と思い到りました。
音楽界からのフェードアウトでも良いかなあとも思っていました。
休んでいる間に来た話が、ちびまるこちゃんの主題歌「おどるポンポコリン」で、音楽で子供が喜ぶことはしたことはなかった。
異様なヒットになり、ミリオンセラーになりました。

「想い出の九十九里浜」を出したら、これもヒットしてしまいました。
音楽の神様が俺にやれと言っているのかなと思って、きちんと腹を決めて戻ったわけです。
自分が楽しいことが一番じゃないの、と思いました。
40代は戻ってこれなくなってしまうので、酒に逃げるようになってしまって、仕事はしていたが心身ともにおかしくなっていたときに、スペインで首絞め強盗に会って、財布、パスポートなどを奪われて、首を強く絞められたため声が戻らなくなってしまった。
高い声だったが、病院に行ったら声帯の骨が曲がっていますと言われて、治らないと言われました。
音楽に対しておろそかになっていたと思った、仕事としてはまじめに働いていたが楽しんでいないし、忙しく自分が歌を歌うということもできなくなっていた。
音楽を義務としてやっている状態だったのを、音楽の神様がおしおきをしたんだという実感がありました。

事件があったことで、もう一回人生を考えろと言われてしまったと思って、断酒して仕事も整理して、もう一回音楽とどう向き合っていくか、見つめ直す日々を送りました。
発声練習をしながら、子供の頃の好きだった歌を歌って半年から1年やっていました。
あれがなかったら、確実に音楽家としても人間としても終わっていただろうと思っています。
来年還暦ですが、余り思いはないですね。
ただ自分で出来る時間が限られているなかで、やりたいことは全部やっておきたい、出したいという音楽は出しておきたいという思いは強くなっています。




































2017年9月7日木曜日

原和夫(銭湯経営者)        ・番台から子どもを見守る

原和夫(銭湯経営者)        ・番台から子どもを見守る
東京駒込の近くで4代続く銭湯の経営者原さんは70歳、40歳の頃サラリーマンから家業の銭湯を継いで、今まで気付かなかった地域の子供たちを取り巻く問題が見えてきたと言います。
娘さんの学校のPTA会長を引き受けざるを得なくなって以来、学校の先生とは違った立場から不登校、いじめ、親の貧困など、子供たちの抱える問題の解決に走り回る原さんの忙しい日々が始まりました。
番台に座っていても子供達から気軽に声を掛けられ、世間話から悩みの相談まで親身に聞いてくれる原さんは子供たちの人気のおじさんです。
昔ながらの風情の銭湯を訪ねて、原さんが地域の子供たちとどのように向き合っているのか伺いました。

文京区でおじいさんの代にやってたときに、空襲で焼失して、戦後こちらに移り住みました。
明治末のころからは営業してたということです。
大杉栄、伊藤野枝とかお風呂に来ていたようです。
大杉栄は恰幅が良くて、気風が良くて人気があったそうです。
「殿上湯」と言う名前ですが、将軍家の直轄地で狩りをしたとき等に、休んだりする土地だったようで、その由来から来たようです。
138mと深く井戸を掘ったので水質が凄くいいです。
備長炭を風呂の中に入れています。(ろ過する)
入湯料460円です。
おおきい富士山の絵が書かれています。(男湯と女湯にまたがっている。)

サラリーマンをやっていましたが、40歳のころに継ぎました。
低迷していて、これからは大変だとはいやっと言うほどわかっていましたが、無くしてしまうのには惜しいと思いました。
一番下の子が小学校に入っ時に祖母と母親が体調を悪くしてしまって、妻から替わりに学校に行って欲しいと言われました。
男だと目立って、そのうちにPTAの会長の話があり、受けざるを得なくなりました。
出来る範囲のサポートはしたいと思うようになりました。
不登校、非行で苦しんでいる時に、断罪して済むかと言うとそうはいかない。
否応なしに色んな事に気が付いてくる訳で、不思議と色々飛び込んできました。
我が家では、おじいさんや父親たちを見ていると、朝起きたらおじいさんが上野駅から知らない人を連れて来て、お腹がすいているということで、朝ごはんを食べさせたり、その人がしばらく家で働いているとか、そういったことがざらにありました。(子供の頃)

番台では子供達とは話を良くします。
ある子は将来はお風呂の経営者になりたいといってきて、お風呂の自由研究をさせてほしいと、母親と一緒に来たこともあります。
小学校、中学校では対応できないケースがいっぱいあります。
父親、母親が仕事がうまくいかない、失業している、病気で働かないとか、そういうときに前ならば学校がうけ皿になり得たが、今は学校は凄く忙しくて対応が出来なくなってきている。
子ども家庭支援センターとか児童相談所とかあるが、まだハードルが高い。
そういった中でPTAの会長だと、そういったことに対して話しやすい。
いきなり専門機関行くということは、なかなかしない。
不登校の子に聞いたが、学校の先生には相談しないというわけです。
教員ではないのでハードルが低い。
いろんな理由が複合的にあり、聞いたなかで最大公約数みたいなものを学校に持っていってそれでやりましょうと、言うことになりました。
キーパーソンは保健の先生です、先生のなかでは子供にとっては一番相談しやすい。

銭湯の開店前には学校にいたり地域のことなどをやります。(夜は1時になってしまう)
ボランティアで大学生たちも応援してくれました。
子供達からのSOSは夏休み、冬休みが多いです。(学校がないということが大きい)
生活上の問題で給食が命綱と言うようなことがざらにあります。
給食は凄く大切で、私は不登校の子の教室があるが、無理しても一緒に食べるようにしています。
家庭が脆弱な家庭環境にとっては夏休み、クリスマス、冬休みなどは行き場がなくて辛いと思います。
家庭のウイークポイントがさらされてしまう。
家で厭なことがあっても学校へ行けばと言うような事があるが、学校でも居場所が無くなると厳しいと思う。
不登校の居場所作りをさせてもらっています。
虐待、親が病気など大人の問題に子供が巻き込まれる。
今は学校も家庭が見えにくくなっている。
対応のノウハウを学校ではなかなか持つことは出来ない。

家出の子の親との対応も色々あります。
子供の話をちゃんと聞いてやると言うことが大事です。
基本は子供がどうしたいのかということを考えてあげる。
大人が声を掛けてあげないと何にも子供には響きませんよ。
昔面倒見た子が訪ねてくることがありますが凄くうれしいです。
辛い環境で良くこの子を高校卒業して、社会人になったという子もいますし、大学生で頑張っている子もいます。
長いスパンで声をかけ続けるということが大事です。
私が3歳の時に火事に巻き込まれたが、家族ではないどなたかが救出してくれて助かりました。
私は戦争直後に生まれましたが、母親が栄養失調から来る乳腺炎でおっぱいがでなくなり、商売柄どの人がおっぱいが出るかが判るので、色々な人におっぱいを貰いました。
いろんな方に助けられたお陰で今の私があるわけで、たまたまご縁のあった方に出来ることをしてあげられればと思っています。




































2017年9月6日水曜日

日野原重明(聖路加国際病院名誉院長)・母を語る(H9/7/21 OA)

日野原重明(聖路加国際病院名誉院長)・母を語る(H9/7/21 OA)
今年7月荷105歳で亡くなられた、日野原さんの話を再放送でお送りします。
明治44年に山口県で生まれ、聖路加国際病院名誉院長、聖路加看護大学学長を務め、2005年には文化勲章を受賞されました。
生活習慣病という言葉を定着させて、予防医学や終末期医療の普及に尽力した日野原さんですが、著作も多くて90歳で出版し「生き方上手」はミリオンセラーになりました。
新老人の会を立ちあげたり、小学生を対象にした「命の授業」を行うなど100歳を越えても現役として活躍したその生き方は、高齢化社会のモデル像ともなりました。
日野原さんは成人するまでに2度の大病を経験されています。
その都度、母親の看病と励ましで克服することが出来たとおっしゃいます。
自分の医師としての原点は母の生き方にあるという、お話を伺います。

あと3か月で86歳になります。
午後の回診を1時から3時まで行います。
医学生が見学実習に来ていますので、診察の仕方や患者の問診のことなどを教えています。
最初の病気は10歳のときで、急性腎炎になり、当時1年は休養しなくてはならないと言われて、腎臓炎になると生涯運動はだめだと言われていましたが、幸い3か月学校を休んで学校に出られるようになりましたが、運動は絶対だめだと言われてしまいました。
それを聞いて母親は教会にピアノを教えてほしいと頼みに行きました。
少しずつ学校に行き出したが、皆が運動しているのに見学だけしていました。
それを見た母親がピアノを習う様に話を付けてくれました。
私は好奇心は強かったので、何故か音楽には関心がありました。
私は張り切ってピアノを習いに行きました。

父親は牧師で、母親もクリスチャンでした。
母親は山口県の出身で、毛利藩の士族の出身で仏教の信者だった。
明治20年ごろ宣教師が来て、母は10歳代の時にクリスチャンになりたいと教会に行って、宣教師からオルガンを習いました。
私は教会ではピアノ、家にはオルガンがあったので、家ではオルガンで練習しました。
ピアノの先生は厳しかった。
忙しくて練習ができなくて、或る時先生に誤魔化しを言ったことがあるが、その時のことは嘘を言ってしまったということで涙を出るような思いがあり、今でもわたしが嘘を言った最初の時はピアノの誤魔化しをやったということでした。
中学の2年の時から5年までチャペルで賛美歌を歌うときは、私がピアノの伴奏をやっていました。
4人の友達をカルテットを組んで歌で演奏旅行をやってお金を取ってやっていました。
半分は旅行の小遣い、半分は世話をしてくれた教会などの施設に献金をしました。

5年生の時に母は尿毒症と言う腎臓で死にかけました。
後で判ったのは仮性尿毒症だったようでしたが、その時に危篤ですと言われ時は母が死ぬんだったら僕も一緒に死にたいと思いました。
弟が出来た時、母が弟を抱くわけですが、背中でもいいからと言っていたそうで、母親が大好きでした。
私が医者になったのは、母を助けて下さった安永先生、あんな人になりたいと思いました。
牧師の収入が少なくて、安永先生は往診料を請求しなかった。
母は私が牧師になることを望むよりも、あんな医者になってほしいと心の中に持っているんだと、子供心に察知しました。
小学校6年から神戸の名門校の一中に4人入りました。(その中に私も含まれていました。)
父が関西学院で神学を教えていたので、教職の子供は授業料免除があり、経済的な事を考えて関西学院に行こうかとも考えた。
二つ受かったが、一中ではなくて関西学院に行って、その後三高に入りました。

高校では同人雑誌を出したりしていて、刺激され文系も考えたが、医者になろうと言うことで医学部を受けてストレートで通りました。
母は最高に喜んでいました。
関西学院から三高は非常に厳しかったが、試験を受けるときに母親は経済的に厳しい中、最高級の鰻丼を注文してくれて、その時の味を今でも覚えています。
大学に入って、スキーに行って40度の熱で肋膜に水がたまってしまった。
父は広島女学院の院長になり牧師を辞めていて、私は療養のため院長館で1年間過ごすことになる。
8か月間は38度前後の熱で、寝たきりでした。
母は4時間ごとに私のベッドのそばの畳の上に寝て、熱湯で温湿布をして、慢性腎臓、高血圧で身体の弱いなか昼となく夜となく看護してくれました。
薬のない中、栄養を摂るために、1日3合の牛乳の中に1回の牛乳に卵の黄身が4個入れてくれたようです。
10か月過ぎたころから動けるようになって、ピアノの練習を始めました。(広島女学院)

音楽の先生の前で弾いたら才能があるからと言うことで、教えてくれました。
医学ではなくて音楽に転向しませんかと言われましたが、結局医学の道に進みました。
卒業して昭和16年から東京の聖路加病院に行きました。
昭和17年父が定年になり引っ越して来て、両親と一緒に住むようになりました。
翌年結婚して両親とは離れた生活をしましたが、母親の血圧が高いのでしょっちゅう診察をしました。
アメリカに留学して帰ってから2カ月後に母親が亡くなってしまいました。
病院で6時間、7時間の手術をして、翌日は患者さんは腰が痛いので腰の下に手を入れてあげると患者さんは喜ぶが、それは私に母親がやってくれた手の暖かさが支えてくれたことを思い出して、患者さんにしてあげればいいという気持ちになって来る。
断食して母はよくお祈りしていました、そして聖書をよく読んでいました。
自分を前面に出さないで、影の仕事をするということが母の生き方でした。
日本的な奥ゆかしさを持っていました。

父は28歳の時に4年間留学して、その後2年留学して、父の方はすっかりアメリカ的でした。
広島女学院が発展するためには街は駄目だからということで戦争中に8万坪の山を買って、戦後、山は開けていまはキャンパスは移って立派な広島女学院になっています。
母は強くて行動力のある人でした、それを支えていたのは純粋な信仰だと思います。
父も仏教徒の家でしたが、家を出されてクリスチャンになって関西学院に入って、アメリカから帰った時に、本間俊平さんがに金子満子さんとの結婚をさせました。
人間が真実に生きるという生き方は、母の生き方を見て飾りではない、メッキではないと言うことを、母の生活した中から教えられていると思います。
「いのちの響き」 父の遺稿集を出しました。
出会ってから、子供が生まれて歩んだ道乗りを書いてあります。
母の物凄い忙しい姿を子供の時からみているので、どんなに忙しくても母親には及ばないと思っているので、ちっとも辛くはない、努力することを母から学びました。



















2017年9月5日火曜日

砂川啓介(俳優)         ・砂川啓介さんをしのんで(H28/1/21 OA)

砂川啓介(俳優)     ・砂川啓介さんをしのんで(H28/1/21 OA)
1937年、東京生まれ、高校時代から演劇で活躍し、映画の出演、NHKの体操のお兄さん、ワイドショーの司会などでも活躍しました。
今年7月11日尿管がんで亡くなりました。
80歳でした。
大山のぶ代さんとは舞台の共演で出会って昭和39年に結婚おしどり夫婦として人気を集めました。
大山さんは2008年に脳梗塞をわずらい、緊急入院一命は取り留めましたが、会話や記憶に障害が残りました。
2015年「娘になった妻のぶ代へ」という本も発表しています。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/01/blog-post_21.htmlをご覧ください。

2017年9月4日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・津田梅子【近代日本150年 明治の群像】

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・津田梅子【近代日本150年 明治の群像】
講談師 神田蘭

留学生の草分け、津田塾大学の創設者。
6歳でアメリカに行っている。
 
津田梅子の紹介(講談)
「1871年、明治4年 明治新政府は岩倉使節団を欧米に派遣、その中には60人ほどの留学生が含まれていた。
うちアメリカ留学に送られたのが5名の女子、その中に6歳の女の子(津田梅子)がいた。
アメリカでホストファミリーに囲まれ、10年以上生活、英語はペラペラ話せるようになる。
日本に帰るとすっかり日本語を忘れていた。
日本で女性のための学校を作るのだと、大きな志を持って帰ってきたが、日本の世間がそれを許してはくれなかった。
女性がすべきは、炊事、洗濯、針仕事、即ち結婚して母になること、梅子も結婚するようにと攻め立てられる。
彼女は生涯結婚をしなかった。

女子教育がしたいと、政府が作った華族の子女たちが通う学校で教師として働きます。
自立して社会に出なさい、使命があるはずだと説くが、自分が伝えたい指導方針とは違うと思って、再びアメリカに行く。
帰国後、明治33年、麹町に女性教育者を育てる女子英学塾を開校、10名から始まる。
(津田塾大学の前身)
資金難を援助したのが、共に使節団でアメリカに渡った、大山捨松ら。
その卒業生には多くの求人が寄せられる。
梅子が目指した女性教育とは、女性の権利を主張し要求する前に、女性が自らを高めなければならないということ。
女性は結婚するものと言う一般的な生き方に抗い、日本女性の地位向上のため教育のため、人生を全うした。」

父親は教育者になる人、教育熱心だった。
父親は津田仙、キリスト教の信奉者で海外に行っている。
進んだ見識の持ち主で、福沢諭吉の3回目の洋行の時に、津田仙も同じ船に乗っている。
5人の女の子は全員戊辰戦争の負け組の武士の娘だった。
そのなかで梅子は6歳だった。
他の女子は吉益亮(よしますりょう)14歳、上田悌(うえだてい)16歳 この二人は10カ月で帰る。
他には山川捨松(のちの大山捨松11歳、永井繁子(のちの瓜生繁子8歳だった。
3人はアメリカで自我を目覚めさせ、成長させて自分を作り上げたと思われる。
チャールズ・ランマン夫妻に梅子はお世話になる。
ラテン語フランス語などの語学英文学のほか、自然科学心理学芸術などを学ぶ。
11年間留学、明治15年 18歳で卒業して日本に帰国する。(結婚適齢期)
女は家に入れというような事が、当時の世間の目だった。

国費で留学しているので何とか恩返しをしようという思いがあったと思う。
山川捨松は大山巌元帥陸軍大将)に嫁ぐ、永井繁子は瓜生外吉(海軍大将男爵)に嫁ぐ。
梅子は英語の先生になる。(伊藤博文の家庭教師)
私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介される。
明治22年再度渡米、3年間勉強、生物学を専攻する。(一緒に研究していた人が後にノーベル賞を貰う。)
明治25年(1892年)8月に帰国。再び華族女学校に勤める。
明治31年 梅子34歳のときに3回目の渡米する。(ヘレン・ケラー、ナイチン・ゲール等の有名人と会う。)
少ない資金で自分の教育方針を貫く事が凄い。
明治33年(1900年) 父の仙やアリス・ベーコン、大山、瓜生、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、同年7月に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立。

厳しい教育を行った。
大正8年(1919年)1月に塾長を辞任する。
昭和4年(1929年)に脳出血のため64歳で死去。
墓所は、東京都小平市に在る津田塾大学の構内にある。
津田梅子の卒業式の式辞(英語での生のスピーチの録音見つかる)
「学校を卒業することは、風や波の試練に立ち向かう旅へ出発する船の進水にたとえることができます。
この学校に限らず他のどの学校においても、学校だけでみなさんの行く手にあるものに対処できる力を完全に付けてあげることはできません。
一人ひとりの人生の行路には一人で立ち向かわなければならない、それぞれの困難と問題があります。
わたしたちはあらゆる面においてみなさんを助ける努力をしてきました、しかし将来は皆さんの手中にあり、みなさんは実際の体験における試練と教訓を待たねばなりません。
しかし、わたしたちが願うみなさんの無事で幸せな航路には灯台の明かりと危険を知らせる信号があり、それらは行く手に横たわる危険なサンゴ礁や狭い海路にあっても、きっとみなさんを安全に導くことでしょう。
灯台や信号が指し示す進路に眼をつぶることなく、忠実にその意義を受け入れてください。・・・・・。」




















2017年9月3日日曜日

堀江美都子(アニメソング歌手・声優)・【時代を創った声】 

堀江美都子(アニメソング歌手・声優)・【時代を創った声】 
堀江さんはアニメソング歌手としてデビューして48年、アニメ「キャンディーキャンディー」の主題歌を歌われたことで知られている。
「キャンディーキャンディー」の主題歌が余りにも有名になって、自分のライブではこの曲を歌わなかった時期もあると言います。
さまざまなアニメの主題歌を歌いながら声優としても活躍している掘江さんですが、声優の難しさ、歌手とはなにかなどについて伺いました。

「キャンディーキャンディー」は1976年からTVで放送されました。
歌い始めて今年で40年になります。
レコードの売り上げが100万枚でした。
体で感じたヒットする様な予感はありました。
「キャンディーキャンディー」を歌ってヒットしたきっかけで、表舞台に出て行くアーティストとしての立場が出来て来ると、自分の歌を歌いたいという気持ちが強くなり、オリジナルの曲を出す様になるが、ライブコンサートをやるようになるが、突っ張ったところがあったようで、オリジナルとアニメを同じステージでは歌わないとか、自分の中で決めたんですが、或る日駅の構内でイベントをやるようになったが、オリジナルの曲を歌うがだれも足を止めてくれなかったが、「キャンディーキャンディー」を歌うと遠くのほうの人も集まってきて沢山の人が聞いてくれました。
改めて考えて、自分が作り出すものは、自分が自分の中を通して作りだすものに、変わりはないんじゃないかと思いました。
わだかまりは無くなり、自分が楽になりました。
「キャンディーキャンディー」の堀江美都子といわれていたのを逆転しようと思っていたが、今はそれは本当に与えられた有難いものだと思います。

1969年アニメ「紅三四郎」でデビュー、小学校6年生の頃でした。
4年生の時に「ちびっこのど自慢」に出たところ、フォークシングだったが、チャンピオンにはなれなかったが(準優勝)、TV局の合唱団に入らないかといわれてそこに入りました。
自分の歌が流れてきたのを正座して見ていました。
少年のような声でもあり、少女のような声でもあり、どんなアニメの主題歌にも合うということで歌うことになっていきました。
その後多い時で1週間に10曲近く流れているという状況もありました。
本格的に活動するようになったのは高校卒業してからです。
1978年「宇宙魔神ダイケンゴー」で声優としてもデビュー、主題歌も担当する。
オーディションを受けてヒロインの役を行う。
声優は何も分からない中で、先輩の役者さんに一つ一つ教わりながらやりました。
納谷悟朗さん、筈見純さん、石丸博也さんなどの中でやりました。

私はなにもいわれなかったが、まだ指導するレベルではないと言われてしまいました。
歌手だという看板(自分の武器)を先ず掲げないようにしようと思いました。
先輩のやることを見て色々自分なりに研究するようにしました。
リズム感と間が大事だと思いました。
「魔法少女ララベル」、「ひみつのアッコちゃん(第2期)」の時も大先輩に囲まれてやりました。
横浜の田舎から行くので、遅刻を良くしてしまいましたが、先輩を待たせて、今思うと本当に冷や汗です。
1986年「愛少女ポリアンナ物語」 どんな辛い時でもよかったと思う気持ちを探しながら生きていくんだというのをやっていく子なんです。
1週間に10曲流れた時代もあったが、何も無くなっていて、声のオーディションにいって、受かって、「良かった」というセリフが何十回とでてきて、口癖のようになって、私生活でもそうなって、気が付いたらいい方に向かって居るのではと思うようになり、キャラクターシングを歌ってみないかと言われて、歌ったら、歌が上手くなったねと言われました。

全てが良かったという方向に回り始めました。
「愛少女ポリアンナ物語」のオーディションに受かったのが、本当に自分の人生で大きな分岐点になったと思います。
主題歌を作品のイメージに合わせて歌うこと、要求されることを出来ることが一番の仕事としての役割ですが、それがうまく表現できなかったときには一番辛かったです。
その場で乗り越えられることもあるが、何年か掛けて自分が成長した自分があるとき、
今やっと歌えるという歌もあります。
歌は完壁がないと思っていて、自分が望む限りどこまでも向上できると思っている。
アニメソングは歌詞の普遍性、メロディーの素晴らしさ、歌一曲一曲のパワーとか、そういうものがいつまでも変わらないので、歌う方も歳を重ねていってもいつまでも新鮮に歌っていけるだけの歌のパワーがある事は有難いことです。
1200曲ぐらい歌った歌があります。
音楽って、感覚で伝わるものがあるんだと思います。

私が子供だった時代と環境が違ってきているので、即戦力でなくてはいけない時代で、難しいが、自分の今いる環境に受け身で無くて自分から何かをしたり、自分がそこで何が出来るのか、自分自身の充実感、満足感を得てほしい。
そこから何か新しいものが浮かんでくると思います。
聞く人に声が変わらないねと言われるように、そう歌うように自分がかわってゆくという努力をする事、自分が思うように上手くなっていきたい、教えて頂いたこと、経験したことに対して次の人たちに伝えたいと思います。






















2017年9月2日土曜日

森下伸也(日本笑い学会会長)   ・豊かな笑いの文化

森下伸也(日本笑い学会会長・関西大学教授)・豊かな笑いの文化
海外では日本人は笑わない、ユーモアがないとみられがちですが、森下さんが宗教社会学者として全国で調査したところ、神様に笑いを奉納する祭りや民俗行事が全国各地に残り、日本には古来豊な笑いの文化があったことが改めてわかったということです。
森下さんは日本笑い学会の仲間たちの調査結果も併せて、去年「笑いの民俗行事ガイドブック」にまとめました。
どんな笑いの祭りがあるのか、森下さんに伺いました。

専門は宗教社会学、宗教についてあれこれ社会学するということですが、周辺的な学問に見えるが、宗教は社会全体を束ねているような力を持っていて、社会を束ねるという意味で宗教は重要な役割を果たしている、社会学の中心的な部分だったりもする。
我執、ということに興味を持っていて、我執から宗教は解き放ってくれる。
笑いもそういう力があるのではないかと思い始めて、段々と笑いの学問に集中する様になりました。
自分から離れて自分を見ると滑稽なところが見えてくる、それが自分を成長させてくれる。
国際ユーモア学会があり、国際的にもやっている。
笑いについて本を出したら前の会長から誘いがあり、日本笑い学会にはいることになりました。

芸人、NHKの方もいます、放送作家等笑いに関係する人達もいます、笑いに関係する人たちのほかにサラリーマン、医療関係者もいます。
ユーモア療法が最近注目されて沢山医療関係者が入っています、学会全体で約1000人ぐらいです。
笑い学研究と言う学術雑誌を出していて、研究会、講演会をやります。
全国に16の支部があり活動展開しています。
小牧市に豊年祭りという変わったお祭りがあり、3月15日にあるが、田縣神社のお祭りで、男性のシンボルが出てくる、長さが2m、太さが60cmでピンク色していて、それが御神体として練り歩きます。
それが大で、中、小(50cmの長さ)があり、巫女さんたちが担いでそれに触ると、豊年万作、商売繁盛という力があるといわれる。
それを見たことをきっかけにフィールドワークをやる様になりました。
一番中心的なのは笑いそのものを神様に奉納する祭りが結構多くあります。

一番有名なのは山口県防府市の小俣八幡宮、笑い講というお祭りがあり、12月第一日曜日にやっていて、氏子代表が20人集まり大笑いをすることによって神様に笑いを届ける。
今年の豊年に感謝、来年の豊作を祈る、一年間に有った厭なことをみんな忘れる、そういった意味があります。
酒を飲んで、御馳走を食べて、向かい有った者同士がペアになり榊を見て3回づつワッハハと笑う訳です。
これは800年前から続いています。
和歌山県日高川町、丹生神社で秋祭りの一環で笑う訳です。
沿道の人たちに笑えと言って、皆が笑って、お神輿の上にいる神様に笑いを届ける。
顔に「笑い」と書いてある。
神無月に全国の神様が出雲に集まるが、丹生神社の神様も行かなければいけないが、寝坊してしまってふさぎこんでいるると、皆が笑えといって神様に陽気になってもらったという伝説があるが、伝説が本当かどうかはわからない。

名古屋の熱田神宮の酔笑人神事(えようどしんじ)、酔っぱらって笑う人、笑って酔っぱらう人という二つのパターンがある。
5月4日午後7時からやっている。
真っ暗な中、神社の4か所で笑うが、神主が17人出てくる、まず神様の面を叩いて、オホホと小さな声で笑う、わざとへたに笛を吹き、それを合図に17人全員がワハハと笑う。
1300年前から続いていると云われている。
御神体は草薙の剣だが、1300年前に盗まれたが、帰ってきてこれをよろこんで笑っていると神社の説明では言っている。

高知県の室戸市、御田八幡宮があり、御田祭り、隔年5月3日にやっている。
一年間の農耕行事を15の場面に分けてやってみせる。
演者は全部男性で、牛の恰好をして田んぼを作ったり、田植え、神様の子供を奪うとか、色々なシーンがあり、演じてそれを笑う。
800年の歴史があると言われている。
奈良県川西町六縣神社(むつがたじんじゃ)、子出来オンダという祭りがある。
水を見まわり、牛を使って田んぼを作るとか、田植えとかをやる。
神殿に小学生が30人ぐらいいて、合間に男たちに乱暴する。
怖がりながら笑いながらそれに耐えている様子が面白い。
子出来オンダ、男性が妊婦のふりをして、懐から太鼓(子供ということになっている)を出す、廻りが「ぼんできた、ぼんできた」と囃したててめでたい跡取りが出来たと、やります。
他にその近くのところでは烏帽子をかぶった男が出てきてモミを手に持って一面にモミをばらまく。
雨の代わりに砂をまいて、雨が降って田んぼが良い具合に出来ますようにという祭りがあります。
笑いのパターンは主に4つ
①笑いそのものを神様に届ける。
②漫才狂言のような形で、笑わせる芸能をやって神様に笑ってもらう。
③性的な要素が強いもの、日本には物凄くある。
④祭りのルーティーンの中で笑いがなんかのきっかけで起きて、笑いを求めて祭りをやってくるような派生的な笑い。

柳田國男 「笑いの本願」 日本人は本来笑いが好きで笑いすぎるようだと言っている。
幕末から明治に入り西洋人が入ってくるが、陽気でいつも笑っている、西洋人はそのような笑う文化にショックを受けている。
日本人は狂言、落語、など豊かな文化を育んできた。
国際ユーモア学会でこのような祭りなどについて、ユーモア学会で発表したが、海外ではないそうです。
幕末から明治初期までは笑う姿勢があったが、富国強兵で笑うと言うのは不道徳のような感じになって、笑う量が少なくなってきたのかなあと思います。
古事紀にも太陽神である天照大神が隠れ、世界が真っ暗になった岩戸隠れの話があり、天宇受賣命(アメノウズメ)が神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊って、まわりが大笑いした話もある。
「笑いの民族行事ガイドブック」の本を作りました。(40ぐらいの笑い祭りを纏めました。)

出来るだけ早く調査して保存していきたいと思っています。
インターネットで調査のきっかけが出来るので、出かけていき写真、ビデオ等に取ります。
私は40か所ぐらいの所に行って見て来ました。
山形県の上山市に出かけて、裸でふんどしに蓑をまとった男性たちが「かせ鳥かせ鳥 カカカア 豊年万作カカカア」と言って練り歩くが、2月の山形は滅茶苦茶寒くて、沿道の人たちはバケツに水を汲んで待っていて、ぶっかけるんです、これが豊年になるための雨の替わりみたいで水をぶっかける、何時間もやるわけです。
全国にはまだまだ沢山あると思っています。























2017年9月1日金曜日

仲川恭司(書家)         ・一文字で世界を表す

仲川恭司(書家)         ・一文字で世界を表す
昭和20年8月、新潟県佐渡市の出身、72歳。
大きな紙にひと文字や少ない文字で作品を作り上げる独立書人団理事長を務めています。
仲川さんは去年の毎日書道展で、魁と云う一文字の作品を書いて、最高賞の文部科学大臣賞を受賞しました。
佐渡高校時代、高校の図書室で中国の昔の書を見て、より深く勉強したいと卒業後、大東文化大学で学び、昭和の三筆と言われた、手島右卿(てしまゆうけい)氏の弟子になりました。
その後専修大学で教授となり若い人を指導してきました。
現在専修大学の名誉教授を務めています。

手島右卿先生が一字書をどんどん開拓された方で、その分野で私も夢中になって行って、そのところで賞を頂けたことはありがたかったです。
「魁」 文字の原点から考えながら構成して行って、自分でも納得する作品でした。
筆のタイミング、タッチの姿勢などがでてきて初めてできるんですが、右から左に移っていった時に潤渇の変化が出てきて、潤渇の変化が一つの書の美を出す大きな要素だと思います。
墨の色をこのくらいすると出来るとわかっていたのと、偶然的なものもありますが、全くの偶然ではなく、或る程度の経験、体験から出来る偶然です。
それが出てこないと自分を越えた作品にはならない。
例えば20文字でいろいろ変化を付けて、その中に山場を設けて行って、最後にまとめていって全体に潤渇変化を付けてまとめるという、多字の難しさはあるが、それを一字に持ってくる訳でそういう難しさはあります。
ゆっくり書いたりスピードを出したり、いろいろ工夫してやるわけです。

自分の独自の世界を作るためにはいろんな工夫が必要です。
ふすまの絵、屏風だとかを勉強したり、構成の面白さなどを考えていきます。
音楽がヒントになる場合もあります。
書は一つの芸術ではなくて、沢山の芸術が集まった総合的な芸術だと私は考えています。
自分の中に色んなものを取りこんで、引き出しを一杯持っているかどうかになると思います。(財産)
今は大学を退職したのでフリーになるはずですが、独立書人団理事長を務めています。
毎日書道展の理事として、書道の楽しさを海外に紹介などもしています。
佐渡には高校生まで居ました。
佐渡島は芸能、文化の豊かなところで育ったことは私を作り上げてくれたと思います。
小さい頃は鞄を置いてそのままアユを取ったり、ナマズを取ったりして家に帰ってきたりしていました。(やんちゃでした。)
小学校4年から書道の授業があり、中学は陸上競技、野球をして、高校では選択で音楽の勉強に専念する方向に進みました。

小学校ではコンクールの選抜のメンバーにも選ばれました。
書の方はそれほど真面目にはやっていませんでした。
高校の図書室に行った時に、偏と旁が整っていなくて、こんな字でいいのかと聞いたが、中国のいい字だといわれて、それまでの概念と違った字がどんどん出てきた。
字から何か迫って来るものがあり、後でも忘れられなかった。
担任の先生に選択を変えたいと言ったが、駄目だと言われた。
書道の先生の所に行って、書道をやりたいといったら、駄目と言われたが、専門家になるかといわれて、やりますと言ってOKを貰いました。
2年生の時から始めました。
本を渡されて最初から最後まで読んで真似て書いて持って来いと言われました。(特別授業だった、)
書いたものを持っていって、それを綴じて、一番上にレポートを書くわけです。
(どの時代、誰が書いたものか、特徴、感想など)
それを見ると、次のものを出されて、繰り返し繰り返しそれをやる訳です。

学校の図書館で感動したのは、中国の北魏の時代の鄭道昭(てい どうしょう)と云う人の書いたものでした。
(*道昭の作品は山に登って現地で彫っているため、その作品は全て磨崖である。)
図書館には書道の本がたくさんあり参考になりました。
臨書だけでなく創作もあり、漢詩を書くわけですが、楷書、行書、草書で書く訳です。
草書で書いたものをどう読むのかといわれて、読めなくて、一般の人には読めないのでは、そういうものを夢中にやっていても果たして広がっていくのかと思った。
字数が少ないものを書けば、楷書で書けば判るし、芸術的に書いていって、みなさんに広がっていたらいいし、海外でも1~2字だったら読めるだろうと思ったわけです。
図書館の本を調べていって、自分の考えと一致した書を書いているのが手島右卿先生でした。
本を調べると淡墨、滲んだり、濃い墨でかすれたりしていて、それが判らなくて、大学ではそういう勉強をしないといけないと思いました。
大学に行くためにはお金もなくて工面して母親には迷惑をかけて、申し訳ないという気持ちはずーっとありました。

大東文化大学に入学して手島右卿先生(大学の先生ではなかったが)に師事しました。
手島右卿先生は新古典派、古典のものを生かしてそれを作り変えて、新しい時代に合わせた作品を作るという考え方でした。
貪欲で行けと言われました。
先生の言ったことは全部ノートには書きませんでした。(咀嚼し身につけた。)
卒業後新潟に帰って教員をやりますと先生に行ったら、帰ってはだめだといわれてしまいました。
東京に残れと言われ、たまたま高島屋での書の仕事があるということで、先生に了解してもらいました。
その後、二股をかけない方がいいといわれ、講師、専任の助教授でいって、学生たちと勉強しながらやりました。
専修大学に行くことになりました。
現在は独立書人団の理事長をやっています。
今年正月に現代書道20人展に初めて選ばれて、日展にも出したことがないのに、声がかかってきたことに恐縮しました。
30年ほど前に佐渡で展覧会をやって母親にみてもらい、感激していました。
9月に個展を行います。
自分の中に色んなドラマがあり、ドラマがあることを題材にして作品にしていく、それが今回特に多いです。(大きな作品17点)





































2017年8月31日木曜日

野際陽子(女優)           ・女優が語る私の人生

野際陽子(女優)     ・女優が語る私の人生
富山市出身、立教大学を卒業後、昭和33年にNHKアナウンサーとして勤務、その後
女優として「キーハンター」、冬彦さん現象を起こした「ずっとあなたが好きだった」、「ダブル・キッチン」等話題のドラマに数多く出演されました。
司会者やナレーターとしても活躍されました、今年6月13日に亡くなられました。
81歳でした。
平成22年8月に放送した「女優が語る私の人生」から。

「ゲゲゲの女房」のヒロインのおばあさんの役、ナレーションも担当。
ナレーションはアナウンサーであったことは余り強く出さないようにしています。
ドラマに添って溶け込んでいくように意識しています。
私はインタビューしているときは、NHKのアナウンサー時代に身についてしまった性(さが)というか、そういうものがどうしても抜けきれないものがあります。
4年間は相当濃密だったと思います。(昭和33~37年)
当時は女子学生の氷河期だった。
NHKのアナウンサーをやりながらも、詩の朗読とかそういう雰囲気のものをやりたいとは思っていました。
誘いがあって、女優の道に入りました。
昭和38年に「赤いダイヤ」に出演、その後フランスに1年行きました。(30歳)
とにかくフランスに行きたいという思いが強かった。(先のことは何とかなるだろうと思っていました)

フランスでの体験は私の無駄には成っていないと思います。
「キーハンター」昭和43年から5年続きました。
元フランス情報局の諜報部員、何カ国語も操ると云う役。
「スパイ大作戦」のベースが企画の中にあったようです。
フランスから帰るときに1着ぐらい買おうと思って、フランスでは全部ミニスカートだったので、ミニスカートを買いました。
ミニスカートをはいて帰ってきたら、その後あっと言う間にミニスカートになりました。(ミニスカートの第一号と言われているが)
母親役、姑役で新たな境地を見出す。
冬彦のドラマはあんなに反響があるとは思いませんでした。
佐野史郎演じる冬彦のお母さん役で、ちょっと怖いような役柄。
非の打ちどころがないと思っていた息子が嫁を貰ったらうまくいかなくなってしまった。
「冬彦さん」、「マザーーコンプレクス」が流行語になった。
息子を溺愛して息子に期待をかけてしまうお母さんは、全世界的にあるようです。

冬彦は変ですが、私は凄く素直に役をやっていたように思います。
「ダブル・キッチン」はコメディーですが、いくらなんでもこんな言葉は言わないと思いましたが。
しかし、周りを見渡すと居るんですね。
どんな人でもいる可能性があると言うつもりでいると、どんな役でもできるということにあの役で気が付きました。
嫁と姑の新しいホームドラマ、お互いに主張してあっさりすると云う、ドロドロ感は無かった。
あくまで息子の事を思って演じたつもりです。
私自身は嫁がいないし、娘ですから、私は小心者だと思っているので、ああいうところは全くないです。
言いたいと思ったことは一度自分の心の中で考えて、言っていいかどうか考えてから発言する方なので、何も考えないでポロっと云う人は不思議な気がするくらいなんです。
収録が終わると、とたんにあの役の事はほとんど切れてしまっていますから、うちにいるときは仕事の事は考えていないという感じでした。

生まれは富山のしないです。
3歳と10カ月で父と家族で東京に出てきて、杉並に住みました。
5人兄弟の長女で、初孫だったのでちやほやされて内弁慶でした。
親は忙しかったので一人遊びをしていました。
おばさんたちの着物を引っ張り出して来て、踊ったり、流行歌を歌ったりしていました。
叔母が琴をやっていたので琴をやってみたり、真似をしていました。
映画の中の主人公になりたいと思って、綺麗になりたいと思って、そちらの方に関心を持ちました。
いっとき女優になりたいと思っていましたが、母親から女優(高峰秀子)の写真を見せられて、女優とはこういう人だと言われ、駄目なんだと諦めました。
中学高校は立教女学院で6年間過ごしました。
男女平等、民主主義が入ってきて、海綿のように吸い取っていた時代でした。
制服もなかったし、禁止事項が無かったような思いがあり、映画も一人で行っても何にも言われませんでした。
つつましさ、しとやかさも失っていない少女時代だったと思います。

映画が好きだったので映画部つくって、日本映画、アメリカ映画など観て、段々とフランス映画も見るようになり、フランスにあこがれるようになりました。
本もフランスの本を読むようになりました。
大学時代はフランスの演劇もやるようになりました。
現在は、水彩で花を夢中で描いています。
自然のものと向かい合っているので、疲れないし、忠実に描こうと思ってやっています。
道端にも色んな花が咲いています。
じーっと見るので、本当に凝視するので、これってなんでこんなふうなんだろうとか発見があって面白いです。
これからは色々なおばあさん役をやっていきたいと思っています。


























2017年8月30日水曜日

小沢信男(作家)         ・【ぼくの“東京今昔物語”】アンコール

小沢信男(作家)         ・【ぼくの“東京今昔物語”】アンコール
*「明日への言葉」が今日で累積投稿数 2000回を迎える事になりました。
最初の投稿が2011年2月22日で、奇しくも東日本大震災が発生した3月11日の21日程前のことでした。
その後、2014年10月23日から頸椎を痛めてしまい、左腕が痛くて投稿を中止して、もしかしたらこれで投稿を終了するようかとも思いましたが、その後大分回復したため、改めて続けることが出来ました。
但し、現在でもその後遺症が若干残っており、左の親指と人差し指に若干しびれがありますが、キーボードを叩くにはほぼ影響がありません。
これまで、高校時代からの友人、Mさんからは何時も励ましの言葉をいただきました。
又Kさんには或る時期から、私の誤字、脱字に見かねて、指摘して頂きまして(校正)、読み易い文章にすることが出来ました。
時々一緒に飲む仲間のHさんからも励ましの言葉をいただきました。
改めてこの方々にこの場を借りて御礼申し上げます。
風邪をひいたり、二日酔いになった時も何とか続けてこられました、しかしこれからどの位続けられるか判りませんが、一歩一歩進んでいきたいと思います。
累積投稿数 2000回記念と云うことで、これにかこつけて飲み仲間4人で飲み会を行う予定です。

トラブルにより録音できませんでしたが、改めてパソコンの「聞き逃し」で対応します。
1927年生まれ、90歳
小説、詩、俳句、評論、エッセー、ルポルタージュ等多くのジャンルを行き来しながら60年以上に渡って執筆活動を続けて来ました。
代表作「犯罪紳士録」、東京の各地を歩いて書き上げた『東京骨灰紀行』,『裸の大将一代記 山下清の見た夢』などがあります。

新しい処、商店街などを歩くのが好きです。
今は元気ですが、若い時は病気(結核)をしました。
若い時から詩を書いていました。
50歳代から俳句をやりだしました。
垣根をまたいで行くのが好きです。
小学校2年生の時に綴り方をまとめるようにと、先生から言われました。
花電車 (2年生の1学期)
「この間、家の人と花電車を見にゆきましたが、 人が大勢いるので一番前で見ていると、お父さんが一番後の方が見えると言うので、後ろの方に行ったが良く見えないので、僕良く見えないと言ったら、お父さんは僕をおんぶしてくれました。
良く見えました。
花電車を数えてみたら、10台ありました。
そのうち一番綺麗なのは一番うしろでした。
孔雀が羽根を広げているところでした。
帰りに花電社の絵葉書や満州国の皇帝陛下の絵葉書を買って帰りました。」

花電車が出るときはみんな見物に行きました。
色んな絵葉書があり、集めている人もいました。
父は銀座でハイヤー業をやっていました。
アメリカの中古車で6~8人乗っていました。
銀座西8丁目地図
蕎麦屋、民芸品店、魚屋、風呂屋、芸者置き場などがありました。
このへんが新橋芸者の本拠です。
芸者が風呂屋に来るが、母親に連れられて小学校3年生ぐらいまで女風呂に入っていました。
芸者さんは人力車で来ていたので、人力車を見ると芸者が来ているかどうか判りました。
谷中銀座みたいに銀座もごちゃごちゃしていました。

戦争は時期に終わると思っていました。
支那事変がはじまって南京が陥落して、もうおしまいだと思っていた。
旗行列、提灯行列が何日も続いた。
ところがちっとも終わらない、ガソリンが入らなくなり商売ができなくなり、米が配給制になりひどい世の中になっていった。
日本は経済封鎖されて(今北朝鮮に対して行っているが危ない)今のうちに戦争をしないとガソリンが入らないということで、真珠湾攻撃をすることになる。
空襲は無茶苦茶だった。
8月15日戦争が終わって、戦争に負けるのは良かったですよ。
宮城前の二重橋でみんなが土下座をしているということで見に行ったら、有楽町で証拠書類を皆焼いていました。
占領軍が来たら、女性陣を揃えるとか、大人はしょうがない奴だと段々見えてくる。
権力が変わるということは面白いですよ。

銀座で商売できないから世田谷に引っ越して、渋谷によく遊びに行きました。
結核になり何年もぶらぶらしていました。
日大芸術学部に入り(池袋)、一つ一つ街を体験してそのことが面白かった。
東京は面白い、現在と歴史が重なっている。
総じて言うと世の中がつまらなくなる一方で、人類は滅びる方向に向かっているんだろうと、大まかに見るとそう思います。
お茶の水の本屋街だったところが、楽器街になって行ってあれは今の若者たちは楽器で表現するというふうになってきているんだと思う。

それぞれの分野が、実を言うと、文壇、俳壇、歌壇とか○壇があって階級社会ですね。
保守的ですね。
私はそういうことにとらわれることはありません、ジャンルをまたいでゆく楽しさです。
割と喜怒哀楽があるが、それが長生きの秘訣かもしれません。
2020年東京オリンピックがありますが、オリンピックはあっという間に終わります。
大工事をしてゼネコンが儲かる、それだけの話ですよ。
前回のオリンピックでは都市改造がありプラスの面がありましたが、マイナスもありました。
東京は江戸と云う街を薩長土肥に占領された非占領都市であって、薩長土肥が占領者、いまだに占領されている。
占領者が勝手気ままにいじくりまわしている。

近代が行き詰っているというのは、世界の常識じゃないですかね。
近代をどう乗り越えて行くかと云うことが、人類に課された課題だと思います。
そういう意味では私は絶望はしていません、若い人たちを頼もしく思います。
グローバルがやってきているのに、支配階級は国民に向けて教育勅語など冗談ではない。
我々も国境を越えればいい。
民衆次元で国境を越えて行く、近代の限界を越えて行く。
私の元気の秘訣は好奇心だろうね。
友人が大事ですよ、女の友達も大事ですよ。




















2017年8月29日火曜日

鶴丸礼子(服飾デザイナー)     ・身体の個性が輝く服を

鶴丸礼子(服飾デザイナー)     ・身体の個性が輝く服を
60歳、幼いころから服を作ることが大好きだった鶴丸さんは、服飾の専門学校を卒業し、
フランスブランドのオートクチュールで働いた後、服飾デザイナーになりました。
やがて障害や身体の痛みで既製服を着る事が難しい人たちがいることを知り、試行錯誤の後、10年掛けてどんな体形にもあう独自の製図法を生み出しました。
ことしの3月には一人一人の希望をかなえ、身体の個性を輝かせる服を紹介した写真集を出版しました。

写真集から3点
①バタフライジャケット、高齢の女性が椅子に坐っている。(足の具合がちょっと悪い方)娘、孫が両脇にいる。濃い青の生地に鶴が描かれているデザインを3人が着ている。
布を自分でオリジナルで作ることをやって来ました。
車椅子に坐ったままで手の全く動かない人でも、他の人が簡単に着せることができる。

②黒いマオカラージャケット、普段は電動車椅子で生活する人、1歳8カ月でポリオ(急性灰白髄炎)に感染して、就寝以外は身体の周りにコルセットを巻いている。
背中がつっぱたり、右手が細くて、依頼がありました。
左手だけしか動かないので、内ポケットも左手が使えるようにしました。
首が楽、とおしゃっていました。
生地はなめらか、カシミヤ・ドスキンという生地で皺にはならず家でも洗えます。

③目の見えない女性が、点字服を着ている。
袖のところと肩の処にきらきら光るラインストーンが付いている。
この人は右目が義眼で、左目が僅かに見える。
障害の重い方をベースに考えて作るので、この洋服も全く見えないという事を想定して作っています。
ラインストーン(コバルトブルーを使っている)、点字の形にして服に付けるアイディアは私が出しました。
彼女はメイクに目覚めて、自分と同じように見えない人のためにお化粧するやり方を教えられる人になりたいということで、彼女はコスメの勉強をしています。

障害を洋服で解消したり、治したりすることはできないが、今ある自分を人と違うおしゃれが出来ることで、ジロジロ見られることが厭だったことが、注目されることが快感なってどんどん変わってきて、前向きになって来ます。
どうせ生きていくのなら楽しく生きていかなければいけないと思います。
洋服は着たら脱ぐことができるので、ずーっと変えることができる。
ジャージで過ごすよりは、人と違ったおしゃれが出来る訳です。
ファッション性だけではなくて、20分かかって着ていたのが4分でできるとか、そうすると自信にも繋がっていきます。

小学校の時に列車事故で片足になった1つ先輩の女性がいました。
大人になって最初に出会った障害のある方は藍染の個展をしたときに洋服を買って下さった人で、自分の体形に合わせて作ってくださいと言われました。
日本にバリアフリーと云う概念が入ってきて、そういう方たちと会って行く中で、こういう人たちのためになんで服を作ってこなかったのだろうと、猛反省しました。
色んな障害者が集まる施設等に行ったときに、なんとかしなければいけないと思いました。
最低、バストと背丈で計算方式があり、コンピューターで平均値を出すわけで、複雑な計算があるが、私は身体にメジャーを当てて前後左右をきちっと測って、腕を伸ばした時、曲げた時なども違うし、ゆがみもあり、一回でピッタリいく製図法を模索していて、そうしているうちにどんどん測るところが増えて来ました。
解決するための共通項が出来たりして、46か所を測ってそのうちの26か所を使って一回で正確な原形を作ることを確立しましたが、自分でもびっくりしました。
一般的には補正が必要だが。

鶴丸式製図法が生まれました。
測るところと測るところに1cm弱のシールを貼って、その中心間を測ります。
他の人と共有して作ることができます。
鶴丸式の採寸士というライセンスを持っていただいて、測ったデータが来て、会ったことのない方の洋服が作れるようになったらいいなあと思って、そういう学校も作っていきたい。
一つずつ出来ることからやって実現に向けてやっています。
スーツで10万円ぐらいで、保健が適用されれば安くできると思っています。
繊維筋痛症の方、身体が触っても痙攣が来るぐらい痛い難病、痛みは治らないが最後はおしゃれしかないということで来ましたと言っていました。

測定が非常にに難しいと立体裁断という手法を使うが、カーブしていたりしていて、難易度が高くて、直接布を体に当てていって、ピンを打って型紙を作って行く立体裁断をやらないと無理です。
(身体のゆがみにも対応できる)
オートクチュール、フランスのオートクチュールの組合に入っていないといけない。
最高級の製縫技術で、全て手作業で行います。
ハ差し、片仮名のハの字のように掬いながら布にカーブを付けて行く。
弟子たちには世界にどんどん出て行ってほしい。
弟子は30人ぐらいいますが、2年ぐらいしたらだいたいみなさんプロになります。
難しい仕事、めんどくさい仕事ほどなるべく授業料を払う気持ちで少し安くしています。

幼稚園の時から人形の洋服をつくっていました。
中学の時に初めて自分のワンピースを作って、高校でも作っていて、短大ではほとんど洋服を作っていました。
短大は初等教育の学校の先生になるための短大でしたが、被服科の教室を無断で使っていました。
あなたは面白い物を作るから、卒業したらうちの学院にいらっしゃいと言われました。
文化服装学院の夜間に行きながら仕事に行っていました。
20歳から睡眠が3時間と云う生活になりました。
自分の服を1年間に365枚作ったことがあります。(翌日着る服を作った)
体調を崩して、仕事を辞めて、世界の色々なところに旅行しました。
その後自分のブランドの立ち上げてやろうと思いました。
アメリカから日本を見たときにいいなと思いました。(藍染、シルクスキン・・・)
どんな人にも着る喜びを味わっていただきたい。
技術者をどんどん育成していきたいと思っていて、洋服のリフォームに関して自分の経験してきたことを情報提供して、やり方が綺麗に上手になっていただきたいと思っています。
大分は自分の人生の半分居るので、障害者たちのファッションは大分が頑張っているな、というようになりたいと思っている。
障害を持たれた方、高齢の方、洋服を身体に会わせて作って行くと、ゆがんでいる者がゆがんでいないように見えるので、後ろ姿を見てもらいたい、後ろ姿に自信を持っていただく、そうすると気分も変わってきて人にも優しくなれると思います。










2017年8月28日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)       ・シェークスピア【絶望名言】

頭木弘樹(文学紹介者)       ・シェークスピア【絶望名言】
「後で1週間嘆くことになるとわかっていて、誰が1分間の快楽を求めるだろうか。
これから先の人生の喜びの全てと引き換えに、今欲しいものを手に入れる人がいるだろうか。
甘いブドウ一粒の為にブドウの木を切り倒してしまう人がいるだろうか」シェークスピア

代表作は4代悲劇、「ハムレット」、「オセロ」、「リア王」、「マクベス」のほか「ロミオとジュリエット」、「ベニスの商人」など多くの作品に渡ります。

「甘いブドウ一粒の為にブドウの木を切り倒してしまう人がいるだろうか」
後になったら後悔するに決まっているわけだが、でもやってしまう。
痩せたいと思っているのに目の前のおいしそうなケーキを食べてしまう、等々。
人間の弱さを見事に表している。
健康管理、体重管理、感情管理・・・。
病院に入院しているときに50歳代の人が入院していて、血液がサラサラになってはいけないという人で、納豆を食べると血液がサラサラになってしまうので、納豆を食べないようにと云う風に言われていたが、或る晩血が流れて来ていて、夜中に処置して命は大丈夫だったが、あなたは納豆を食べたでしょうということで、その方は大出血をするのがわかっていて、その人は納豆を食べてしまった。
逆にきちんとコントロールできる人には、判らないこと、出来ないことがあると思う。
人間はここまで逸脱してしまうということがわかっているからこそ、人を使えるということもありうる。
一概にコントロールできているからいいとはいえない、出来てないからこそ判ることもある、出来ることもあるという面もあると思います。

ハムレット
「不幸は一人ではやってこない、群れをなしてやって来る。」
右手でグラス、左手でお皿を持っているとして、うっかり右手のグラスを落として割ってしまうと、あわてて左手のお皿を割ってしまうということは、ありがちです。
不幸、失敗があったときは更にそれが次を呼び込んでしまうかもしれないということは、気持ちの中に持っていたほうがいいと思う。
一病息災と云うが、一病あると合併症、副作用、そこをかばうあまり他に問題が起きたりする。
次の不幸を呼び込まないようにする。

リア王
「どん底まで落ちたと言えるうちは、まだ本当にどん底ではない。」
20歳で病気になった時はどん底だと思っていたが、まだまだ底があった。
生きているうちはまだ本当のどん底ではないのかなとも思います。
息しているだけでも、本当のどん底ではないかもしれない。
恐れ、は大事だと思う。
人生を恐れないからいい加減に生きてしまう。
宮古島で物凄い台風が来た時には、どうしようもなくて、ただ祈るしかない、何に祈っているわけでもないがただ祈る、そう言う境地も大事なのではないかと思うようになりました、宗教心とも違ってどうしようもない状況に恐れを感じて、ただ恐れて祈る、そういう境地もあった方がいいような気がします。
*「わが涙よあふれよ」 ジョン・ダウランド作曲  演奏

「明けない夜もある。」
「明けない夜は無い」と云う言い方があるがこれは一般的、マクベスに出てくる言葉。
嘆き始めたばっかりなのに、「明けない夜は無い」は早くはないですか。
「明けない夜は長い」と云う意味でもあるわけで、泣きだしたばっかりの人に涙はいずれ乾くよといきなり云うのはおかしいと思う。
覚悟を促す言葉ではないかと思って、「朝が来なければ、夜は永遠に続くからな」と松岡さんは訳した。
私としては更に「明けない夜もある。」と訳したい。
自然現象のように時間が経てば自然に消えてゆくと思われるが、心の闇はそうはいかないと思う。(時間とともに癒されない悲しさもあると思う)
そういったことを知っておくことも必要だと思います。

お気に召すまま
「逆境がもたらしてくれるものは素晴らしい、それはヒキガエルの様に見苦しく、毒があるが、頭の中に貴重な宝石が隠れている。」
ヒキガエルは身体の表面に毒を分泌している。
頭の中に貴重な宝石が隠れている。 当時宝石でトード(toad=蛙)ストーンと云うのがあってヒキガエル石、指輪に使われていたが、魔よけ、毒消しとかに効果がありといわれていた。
トードストーンはヒキガエルの胎内に発生するものだといわれていて、頭の中に出来たトードストーンは貴重だといわれていた。
トードストーンは本当は魚の化石らしい。
逆境の中で素晴らしいものを見るけることは、ヒキガエルの中の頭の中に綺麗な宝石を見つけると云うふうにたとえられている訳です。
辛い目に会うと初めて気づくことはあります。
正直には逆境がない方がいいと思うが。(無理だとは思うが)
不幸なことがあって逆境に陥ってしまったときに、周りの人が求めるのは、元に復活してくるか、別の分野で頭角を現してくることを求める、逆境の中から何か大切なものを見つけて、それを教えてほしいというようなことがあるが、逆境に陥って必ず宝石が見つかることがないかもしれない。
私が逆境を経験して得た宝石は、文学です、絶望名言は私にとって宝石ですが、立ち直れるという宝石よりは倒れたままでいさせてくれる枕のようなものだと思っています。

マクベス
「明日、また明日、そしてまた明日、一日一日をとぼとぼと歩んでゆき、ついには人生の最期の瞬間にたどり着く、昨日と云う日はすべておろかものたちが塵と化して行く死への道を照らしてきた。
消えろ、消えろ、つかの間のともしび、人生は歩き回る影法師、哀れな役者だ。
舞台の上では大見えを切っても出番が終わればそれっきり、我を忘れた人間のたわごとだ。
劇場にとらわれてわめきたてているが、そこに意味などないのだ。」
いまの世の中にも通じるよう感じがしました。
太宰治のような感じがします。
ろうそくと云う感覚は凄くあります、ちょっとしたことで大きく揺らいで消えかねない、何とか風の中で頑張って、消えそうになっても点いて居てくれる危うさがあります。
まだまだ自分の知らないもっと深い悲しみ、どん底があるかもしれない、現実に対する畏敬の念を持つことは人生に対して、他人に対しても、もっと優しく丁寧に接する事に繋がるのではないかと思います。








































2017年8月27日日曜日

江夏豊(プロ野球評論家)・【スポーツ名場面の裏側で】勝負に生きた男

江夏豊(プロ野球評論家)・【スポーツ名場面の裏側で】勝負に生きた男
阪神、南海、広島、日本ハム、西武のプロ野球5球団で通算18年間で206勝193セーブを挙げた江夏さんに伺います。
69歳、大阪学院高校からドラフト1位で阪神タイガースに入団しました。
新人時代から6年連続奪三振王となり、2年目、20歳のシーズンでは25勝を挙げ、最多勝、沢村賞、ベストナインでリーグ最高のピッチャーとなりました。
その後南海に移籍してからはリリーフに転向し、4球団8年間で 5度の最優秀救援投手になりました。
その間、広島で2回、日本ハムで1回チームのリーグ優勝に貢献し、優勝請負人といわれました。
しかし、リリーフ転向当時は日本球界にリードして8回か9回にマウンドに上がる専門の ピッチャーはいませんでした。
ゲームの後半から準備する調整法をめぐってチームメートから批判を受けるなど、抑え役の先駆者としてつらい体験もあったそうです。

高校時代の甲子園は歳をとっても、僕にとってはいまだに憧れです。
開会式、行進、選手宣誓などが終わるまでは、大概正座して見守っています。
昭和42年阪神に入団、12勝マークして、奪三振王となり、6年間続くことになる。
村山さんから5勝したら背広をプレゼントするといわれて、貰う事が出来ました。
2年目からはライバルとして見られて、村山さんからは話もして貰えませんでした。
昭和43年には25勝を挙げ、最多勝、沢村賞、ベストナインに選ばれる。
1シーズンの奪三振記録401、50年間日本記録として残っている大記録を作った。

3つの名場面
①昭和43年日本新記録達成、それまでは稲尾選手の353個、9月17日の巨人戦
記録を作るんだったら、王さんから三振取りたいと言いました。(願望)
1回2三振、2回2三振、3回2三振、4回に王さんから三振を取り(この回も2三  振)、新記録だと思ったら、キャッチャー辻さんからタイ記録だといわれてしまった。
5,6,7回まで点を取られないようにして、(ピッチャーからは三振を取れたと思うが)
王さんと3回目の対決となった。
1ボール、2ストライクからの4球目、胸元へ投げる。
355個目の三振を取る、その後延長戦に入り、12回裏2アウト1,2塁、江夏が高橋一三
投手から打って1-0で勝つことになる。

②入団5年目、昭和46年オールスターゲーム、第一戦に先発、1回三者連続三振、2回三者連続三振、3回2三振、9人目はファールフライになるが、スタンドに入るので追うなと田淵選手に言った。(早くこの緊張感から逃れたいとの思いがあったと思う)
結局3人目も三振に打ち取る。(固唾を飲んで見守っていてシーンとした状況だった。)
王さんが記念のボールを取ってきてくれました。
あのときは田淵捕手とノーサインでやりました。
2回の表に阪急の米田投手から3ランホームランを打って、このゲームのMVPに選ばれる。

昭和48年8月30日、甲子園球場で対中日戦、延長11回、1-0、サヨナラゲームでノーヒットノーランを達成する。

③昭和54年 広島が4年ぶりに優勝した時、近鉄との日本シリーズ。
3勝3敗の後の第7戦、4-3で広島がリード、7回から江夏がマウンドに上がる。
9回裏ノーアウト満塁となる。
逃げ切るのは難しいと当然思いました。
ブルペンが動いて、池谷、北別府をリリーフ練習場に走らせたが、それは僕にとっては納得できなかったし、悔しかった。
腹立たしさが先に来て、古葉監督を見つめていました。
衣笠さんが投球練習場を見るな、次のバッターに全力を掛けろと言ってきた。
後からの話では、衣笠さんがきて「もし辞めるならおれも一緒に辞めてやる」と言い、
古葉監督は「同点になったとき、次の延長10回の裏のピッチャーをだれにするかは当然で、二人のピッチャーをリリーフの投球練習に行かせました、監督としては当たり前でしょう」と言いました。
前年の首位打者佐々木選手を三振、石綿選手の時にスクイズを外す。
何球目にスクイズ来るかが、駆け引きだった。
動く気配があった。
カーブのサインだったので、その握りで投げました。
スクイズを外し2アウト、2,3塁になりました。
3人目を三振に打ち取り、優勝することが出来ました。
カープ創設30周年でした。

いい時代に野球をやらせてもらったと思います。
王さん、長島さんと勝負ができたということはピッチャーとしての財産だと思います。
昭和52年野村監督からリリーフをやってみないかといわれたのが、大きな転換点となった。
当時はリリーフは完全に先発できない投手として、ワンランク下だった。
100球は無理だが、30から40球ならばまだ放れると、野村監督がリリーフを考え出してくれました。
基本的にはピッチャーをやるからにはやはり先発ですよ。
王さんと対決した時に、首を7回振ったが、田淵選手からは直球とカーブしかないのに、なんで7回も首を振るのかと言われたことがあります。
相手に対して効果があればやっていきます。
暑い時にはわざとピッチャーを歩かせたりしたこともあります。
色々考えることで工夫して面白いです、工夫が大事です。

酒は一滴も頂けません、大の甘党で食べること自体が大好きです。
食べて食べてシュークリームはもう食べあきました。
昭和43年生まれて初めてピザを頂いた時には、世の中にこんな美味いものがあるのかと思いました。
焼き肉は良く食いに行きましたが、23歳のときに尿酸値が上がって痛風になりました。
心臓は持って生まれた病気でWPWと云う病名です。
肩肘の痛み止めの薬を何百本と打ってきました。
足の甲が高くて両足首は7か所ひびが入っています。
本が好きで司馬遼太郎、浅田次郎さんの作品が大好きです。
本は自分で好きなように想像できるので素晴らしい世界だと思います。
平成5年に覚せい剤取り締まり法違反で2年余りの懲役刑をうけて、社会的制裁も受けて、
もうあの件は思い出したくもないし、2度と同じ過ちはしない、それだけです。
天狗になる事はあるが、鼻が折れても、もう一度又同じ階段を一歩一歩昇っていって二度と鼻が折れない様なしっかりした自分を作ればいいんじゃないかと思います。
精一杯燃え尽きることと、同じ泣くんだったら勝って泣いてくれ、負けて泣くのはつまらないと言いたいです。


















佐々木











2017年8月26日土曜日

池澤夏樹(作家)          ・母を語る(H26/2/18 OA)

池澤夏樹(作家)          ・母を語る(H26/2/18 OA)
池澤さんは1945年、北海道生まれ、母は詩人の原條あき子、父は作家の福永武彦です。
幼い頃に、両親は離婚、母は間もなく夏樹さんを連れ再婚、高校生になるまで実父のことは知らずに育ちます。
埼玉大学工学部に入学しますが中退、世界各地を旅し、ギリシャで3年間暮らし、帰国後に初の詩集「塩の道」を出版、1988年「スティル・ライフ」で第98回芥川賞を受賞します。
その後沖縄、パリに住み、現在は北海道の札幌市で暮らしながら、小説、評論などを発表しています。
小説「花を運ぶ妹」で毎日出版文化賞、「すばらしい新世界」で芸術選奨文部科学大臣賞、評論「楽しい終末」で伊藤整文学賞を受賞しました。
2007年に紫綬褒章を受賞、池澤さんが物書きとして絶対的な信頼をおいていたというお母様について伺います。

札幌の前はフランスに5年間住んでいて、その前は沖縄にいました。
段々歳なのか、郷里に近い気候の所がいいと思って、帯広だと不便で、札幌にしました。
道路が広くて、札幌はアメリカの地方都市がモデルだと思います。
知らないところに行ってみるのが好きで、何か感じるし、それをきっかけに何か書けるかもしれない。
私の名前は相談して付けたのではないかと思います。
2歳ちょっとで別々になりました。
父が結核になり、治療のために、東京清瀬に移って、介護のために母親も東京に行ってしまって、祖父母、叔母に育てられました。
父は完全に記憶から無くなっています。
小学校に入る直前に東京に行きますが、その時には離婚していて、新しい父がいました。
福永のことは高校生になるまで知りませんでした。(母はなにも言わなかった)
池澤の父は僕とは16歳違いです。(可笑しいはずだが)
何の疑問も持っていなかった。

母は詩人の原條あき子
福永武彦さんの戦後日記、最初帯広のサナトリュウムにいて、その後東京の清瀬に移ったが、非常に不安な精神的混乱の時期を書いたのがあの日記です。
母親は英語が専門でしたから手紙のやり取りで、半分冗談、半分日本語で言いにくいことを英語で言い変えてみるということはあったようです。
女子大を9月に繰り上げ卒業して、卒業式の3日後に結婚しました。
私が生まれたのが終戦一か月前なので、混乱の時期で食べるものがない、職もない、住むところがないという時期に夫が結核になり、絶望みたいな感じで、余裕がなくて、いま読み返しても心痛むような日々です。
二人とも詩を書くので、文学の話をすればきりが無かったが、帯広で中学の英語の先生になったがこれで安心と思ったら結核になった。
辛い時期が7,8年続く訳です。
進駐軍が手紙の検閲をしていたが、そこで働いたり、軍人専用のデパートで売り子をしていたりしました。(母は英語が役に立ちました。)

しかし母は疲れ果ててしまい、それが数年続いて、妻が働いてお金を得ていると夫の医療費の補充が無くなるようなことになって、形式的に別れるということが、気持ちの上でも離婚になりました。
小学校にあがるときに東京に行ったがその時には新しい父親でした。
その時の印象はありません、受け入れただけでした。
池澤が小さな広告代理店をやりますが、必死で手伝って文章を書いていましたが、あれをやったので詩が書けなくなったというようなことを言っていました。
高校生のころに母は又長い詩を書いていましたが、テーマは福永との別れのことですね。
自分の方が福永を捨てたんだと、悔恨の思いが最後までついてまわって、何とか表現したいというようなものでした。(私が20歳の頃よんだが、意味付けまでは判りませんでした。)
高校生の時に、両親から事情を教えてもらいました。(それまでは何の疑いもなかった)
大学(理系)は中退してぶらぶらしていて、それぞれにいろいろな思いを抱えていたと思います。
そうそうまっすぐそっちの道(文系)に行ってたまるかと云うような思いもありました。
理系への限界を感じて、中退しました。
親たちが思う自分になったのは芥川賞を貰った時だと思います。(43歳頃)

小学生のころに父と知らされずに会ったこともありました。
母親は干渉しない人でした。
芥川賞を受賞して受賞式のあいさつで、ここまで育ててくれた池澤の父に感謝しますと言いましたが、その時には母親は亡くなっていましたが。
文章を書くようになってから、理系の物の考え方は残っています。(良かったと思う)
心の深いところでは自分も書く側に回りたいと思っていたんだろうと思うが、うかつに試してみて自分にその才能が一切ないとわかったら、その先の人生何していいかわからない、憶病なんです。
先に伸ばしていて、一つのきっかけは福永が亡くなったことです。
父がいる間はとても小説などを書くことを想像もしなかった。(抑圧していた)
父親はうっとうしいもんです。

翻訳家はお米を買うためにやっていました。
詩は書いてみたけれども、詩人として身を立てられるとは思わなかった。
母のような抒情的な言葉使いはできませんでした。
今になって考えると、母と僕は近くて、出口が見つからないでうろうろしていたときに、母親は透け透けに見えていたと思うので、ほっておくしかないと思っていたと思います。
書いたものを見せていましたが、面白いんじゃないというぐらいで干渉はしませんでした。
うかつな事を言って先を狭めてしまう、気にしながら知らん顔していたんでしょうね。
やることなすこと、母親が気にいる、受け入れてくれるようにふるまってきた。
それがなかなかできなかったのは力がなかったからで、人生の物差しとしては母親の審美眼といいますか、文学感、社会感、言葉のセンスが一番です。
母の一族は淡路島で明治の初期に開拓移民として北海道に来てさんざん苦労するんですが、その話は子供のころからきいていて、いずれ書かなければいけないのではと思っていました。
「静かな大地」を新聞に連載して、これで随分気が楽になりました。
文学的センスを母から僕は継承できたと、思ってくれればそれは親孝行ですね。
「やがて麗しい春の訪れ」(「やがて麗しい五月が訪れ」?)という詩集(原條あき子)を一冊まとめました。(母の死後)
自分の中にあった、父親、母親のタブーが歳を取るとほどけるものだなあと思っています。




















2017年8月25日金曜日

2017年8月24日木曜日

大田昌秀(元沖縄県知事)     ・明日の沖縄を信じて(1)(H24/5/15 OA)

大田昌秀(元沖縄県知事)     ・明日の沖縄を信じて(1)(H24/5/15 OA)
太田さんは今年6月12日に92歳でお亡くなりになり、先月26日に県民葬が行われました。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/05/40.htmlをご覧ください。 

2017年8月23日水曜日

田原和夫(中国の歴史と文化を学ぶ会会員)・昭和20年夏、満州

田原和夫(中国の歴史と文化を学ぶ会会員)・昭和20年夏、満州
1930年北京生まれ、87歳、昭和20年5月 旧満州の新京一中3年生15歳の時、およそ130人の同級生とともに旧ソ連との国境にある農場で勤労奉仕を言い渡されました。
8月9日の未明、重爆撃機の爆音で目を覚まされました。
ソ連軍のソ満国境の侵攻でした。
以降、言葉では言い尽くせない逃避行や、捕虜生活の後、餓死寸前の状態で10月20日新京にたどり着きました。
田原さんは満州から引き上げ後、会社員として働きながら、当時の出来事を正確に記録して後世に残そうと10数年かけて「ソ満国境15歳の夏」という著書を書き上げました。
この本は映画監督の目にとまり、日中合作の映画にもなりました。

私にとってはあの夏は私の人生を支配するほどのショックを受けた夏でした。
全ての中学生が動員、必勝の信念で頑張っていた夏でした。
日本が負けたことを聞いたときに、我慢して苦労して頑張ってきたのになんで負けたんだろう、よもや負けるとは思っていなかった。
敗戦はその後の私の人生を支配する異常な体験でした。
新京一中3年生15歳の時、250人のうちの130人がソ連との国境の東寧という所に農場(東寧報国農場)があり、そこに動員されていきました。
5月28日に130人が国境に向かいました。
5月30日に到着、作業を始めました。
水田、麦作があり、軍のために食料を作るところでした。
国のためと云うことでみんな頑張りました。
タンパク質が足りなくて、鯉を取ったりしておかずにして食べたりしました。
水質が悪いので水は飲むなといわれましたが、こっそり生水を飲んで赤痢にかかったり、腸の病気になりながらやっていました。

ガス、電気、水道もないところで、空が明るくなったら作業を始め、夕方暗くなりはじめたら帰ってくるという状態でした。
後から分かったことは農作業が必ずしも目的ではなかったようです。
関東軍は5月ぐらいから撤退して、日本軍の陣地はもぬけの殻ですが、我々はそこに残されて、カモフラージュ、ソ連側から見れば子供達は働いているので軍隊はいるだろうと思わせる、そういう役割もあったようです。(後で調べて判る。)
8月9日が来ました。
事態だけを話すと、9日午前零時を期してソ連軍は日本に参戦するということをモスクワで日本の大使に宣戦布告をしてきました。
8日の夜、ソ連軍の陣地がざわついていた。(準備をしていたようだった。)
宿舎は国境から1kmぐらいのところに掘っ立て小屋を立てて住んでいました。
午前3時ごろ重爆撃機が満州からソ連に向けて飛んで行って、その音に目を覚ましました。
日本軍が攻め込んでいると思って、また寝ました。

作業の準備をしていたらソ連領から砲撃が始まりました。
作業にはならないということで、撤退だと決断して引き揚げました。
子供を攻撃しても仕方がないと推定している。
本部にたどり着いて、昼ごろ生徒隊は帰りなさいということで、避難列車に乗れるのではないかと云うことで、徒歩で出発しました。
砲撃を逃れながら迂回して行ったので、4時の列車に間に合わないで6時ごろ着きました。
次の駅を目指して徹夜で歩きましたが、列車は無くて又歩き始めました。
山地を逃げているので水がなくて、倒れそうな状況の中で先頭の人が水があるということで、ぼうふらが湧いている水をがぶがぶ飲んで助かりました。(宝の水でした)
又生徒みんなで歩き始めました。
10日間逃げ回り捕虜収容所に収容されました。
17日、石頭と云う所にたどり着いて、日本は負けたと言って兵隊が右往左往していました。
虚脱して茫然としました。

先生が説明しても聞き入れられず、ソ連軍からは少年兵として収容されました。
一般の兵隊はシベリアに送られていきましたが、シベリアに連れていっても使い物にならないと思ったのかそのまま収容されました。
一日おかゆ二杯、それだけでした。
着るものも着たきりで虱が湧いて大変でした。
一度だけ煮沸消毒してくれましたが、3日目には又虱が湧きました。
寝るところは藁をかき集めてきて敷いて寝ていました。
餓死寸前に10月12日に解放されました。
越冬するのかと思って絶望感が漂っていたときに言われました。
新京には鉄道があるということで北に向かっていきました。
村人たちに事情を話したら助けてくれました。
お粥と卵とオンドルの寝床を提供してくれました。
敵国の子供を助けるということは政治的には非常に危険だったと思います。
石頭村自身も食べるものがなくて、100人以上を助けるのに各家に分散して家庭料理をつくってたべさせてもらいました。

我々も還暦を迎えて、40人ぐらいで報恩の旅と云うことで石頭村を訪ねました。
当時我々を知っている人が2人いました。
御礼を申し上げたら、我々も貧しくて何もしてあげることが出来ず御礼を言われるほどのことはしていない、困った人がいれば助けるということは人間の本心なのでやることをやっただけだと言われました。

昭和21年に日本に引き揚げて来ました。
東京大学を卒業して会社員になり、会社勤めを終わる頃、調べて「ソ満国境15歳の夏」を本にしました。
10月20日に家に着いたときに母親が号泣して、体が弱っていて下痢をしていて医者に診てもらって、重湯を食べました。
その後、食べ物を即座に作ってくれて食べて、下痢が止まりました。
生命を再び得たという実感がしたが、どうしてこんな目に合わなければいけないのか、それを知りたくて、いろいろ読んで日本の軍、政府の問題などを考えたがなかなかわからなかった。
自分の真相を書いて訴えたいと思ったのが、書く動機です。
正確に伝えたいと思って筆を取りました、そのために時間もかかりました。
何故15歳の少年をソ満国境に配置したのかはわかりませんが、配置した理由はソ連に対しておとりにして子供を置いておけば軍隊もいるであろうと思われるので撤退をかくすために、子供を最前線に置いたということだと思うが、それを決定した人がいたはずだがそれはだれかということはいまだにわからない。
結局は官僚は責任を取らない。

「ソ満国境 15歳の夏」は映画にもなったが反響が大きかったです。
日本大学の映画学科の教授の松島哲也先生のお力で、脚本から監督、製作まで全部先生がやりました。
全国各地の映画館で上映されて、色んな組織のところで並行して行われ、こんにちでも続いています。
当時のことは記憶と云うよりは体が覚えています。
父は59歳、母も64歳で亡くなり、もう少し長生きしていたら、もう少し孝行もできたと思っています。
軍国少年で苦労しても勝つんだとものの考え方があったが、敗戦に立ち会うことになり、ショックを受けて自分の人生観を決定的に影響を与えました。

自分に死生観、価値観、処世訓、食生活、思想を信状と、5つのことを自分なりにまとめています。
死生観、人間は生きるときは生きる、死ぬ時は死ぬんだということ。
価値観、この世には絶対の正義は無い、声高に唱えられる正義ほど疑わしい。
処世訓、物事は全て何とかなるが、しかし物事はなるようにしかならない、だが絶望はしない、希望は失うな、でも諦めも必要。
(自分さえ生きればいい、だけど人間は仲間がいないと生きていけない、と云うことを実感を持って認識しました。)









































2017年8月22日火曜日

さかもととしえ(絵本作家)    ・子どもがみた戦争

さかもととしえ(絵本作家)    ・子どもがみた戦争
金沢出身の絵本作家、さかもとさんは長い間忘れようとしても忘れられなかった戦争の記憶を、思い出すままに少女の目線で語り始め、勧められて絵本にして出版しました、2002年のことです。
平和の大切さを知ってもらおうと戦争を知らない子供や親、先生たちに頼まれて絵本の読み聞かせを行っています。

終戦の時は小学校3年生でした。
国民学校に入った時に教えてもらった音楽の歌詞、国語教科書を読んだものは覚えているのでいかに教育が大事かが判ります。
終戦の時は新潟にいました。
父の転勤で新潟に来て強制疎開が全市に命令があり、市内から郡部に疎開しました。
食べ物は悲しい思い出ばかりです。
次の世代を育てることが必要と云うことで最初東京、横浜、大阪に給食が行われその後6大都市に展開しましたが、すごくまずかったです。
フスマ、ヌカ、ドングリの粉で作ったパンなので想像が付くと思います。
そのコッペパンとお汁が出て、おかずはなしです。
お汁には一切れの豚肉が出ましが、学校で飼っていた豚を給食につかっていたことが判った時にかわいそうで食べられませんでした。(お汁だけすすりました。)

焼夷弾の怖さ、夜な夜な敵機が来て空襲警報が鳴る怖さよりも、親から離れて経験した悲しさ、恐ろしさの体験がはじめてでした。
横浜では2年生まで居ましたが、その3月10日に東京大空襲がありました。
窓に映った真っ赤な美しい景色が綺麗で思わず「綺麗」と云いましたが、東京大空襲の時の景色でしたが、あの下で10万人が亡くなった命の炎だったということが、心の重荷になっていました。
絵本の字が読めるぐらい明るかったです。
トラウマになっていて夕焼けが厭です。
新潟の海岸での夕焼けを見ているときに横浜での記憶が戻ってきて、太陽が沈んでゆく絵を書いていました。(私は記憶がなかったが大人になって妹から言われました。)
焼夷弾の音と花火の音は同じで、江の島での花火は近くでは見れません。

焼夷弾が落ちる前に照明弾が落ちてきて、目標を定めてそのあとにバラバラ焼夷弾が落ちるわけです。
空襲は夜だけだったが、その後昼間も行われるようになりました。
登校の中途で空襲警報が鳴って戦闘機が来ると、地面にぱたっとして動いてはいけなかった。
新潟で8月の初めころ、父が来て特殊爆弾で広島は全滅だと言いました。
その後だったと思いますが、毎日グラフを父が見せてくれて、めくるページが炭のように鼠色か黒で、眼を凝らすと電信柱を折ったもの、薪が燃えているような形がうっすら見えて、それが手や足が曲がっている人間の焦げた姿だと判ったページがありました。
しかし、それは直ぐに発売禁止になったようでした。
見た衝撃は忘れられません。

広島に落ちる前に、行政は新潟に原子爆弾が落ちるという秘密情報を入手して市民を強制疎開させたわけです。
新潟に原爆を積んだ飛行機が来たが、天気が悪くて引き返したということを後で知りました。
天気がもしよかったら、私は今こうして生きていなかったです。
8月15日は特別な放送があるから集まるようにと云うことで、村長さんの家に行きラジオを聞きましたが、良く判りませんでした。
大人の人たちが泣いていました。
その時よりも私は真珠湾攻撃に高揚した大人の人のほうが強い記憶がありました。(5歳)
1942年に初めて大きな飛行機(B29)を見た覚えがあり、恐怖感がありました。
父は疎開のためのキップを購入するのに、攻撃の飛行機が来る中桜木町の駅で5日間かかりました。
上野駅から金沢に経つわけですが、2日間地べたに待ちました。
20時間ぐらいかかって直江津に行きました。
新潟はアルミニュームの精錬工場があると言うので、原爆投下の対象になったようです。
色々親戚をたらいまわしになったりして、学校は6回ぐらい転向しました。

友達と佐々木 禎子さんの話しているときに、戦争体験を本にしたらどうということがきっかけになって、本を出すようになりました。
映像を文にしただけですが。
子供は強烈に残ったところは忘れられません、消せません。
小学校4年生の教科書に「一つの花」今西祐行さんが書かれた戦争の物語が出てくるが、平和教育として私が呼ばれて、朗読して話をする機会が何回もありました。
2度とあの怖さは体験したくないし、子供に体験させたくはないです。
当時の日常は生と死の境目ですが、子供はそんなことは考えずに、空襲警報が終わったら遊ぼうと云う感じでした。
焼夷弾などで何時死ぬか判らないので、「行ってらっしゃい」の後ろに言葉にならない通じ合うものがありました。
緑内障といわれて、いずれ両目失明する状況ですと云われました。
最近、頸動脈に狭窄があり、小脳が委縮してゆく病気だと宣告されてしまって、そのうち歩けなくなるといわれてしまいました。
喋れるうちに喋ろうと、出来るうちに出来ることをしていれば悔いがないのではないかと思います。

























2017年8月21日月曜日

大藏基誠(能楽師狂言方)      ・【にっぽんの音】聴きどき和楽器 2017夏編

大藏基誠(能楽師狂言方)         ・【にっぽんの音】聴きどき和楽器 2017夏編
一噌幸弘さん(能楽師笛方・笛演奏家) 6月にも出演。
わらぶき 日本のうたのCDから 
*「五木の子守唄」演奏 一噌幸弘さんの田楽笛とギターリストの高木潤一さんとの共演

*「ねぶた」 津軽三味線 はなわちえさん演奏 「Hello,World.」から
  2004年CDデビュー 世界20カ国以上の舞台で演奏

LEO(今野玲央) 16歳でくまもと全国邦楽コンクール最優秀賞・文部科学大臣賞に輝いた。
父親がアメリカ人、母親が日本人の1998年横浜生まれ。
*「さくら変奏曲」 LEO(今野玲央)さん琴の演奏(17弦琴)

箏曲演奏家  高橋雅芳さん
5歳より母(高橋雅楽郁)から箏(こと)をならい始める。15歳より箏・三味線を安藤政輝に師事。
第17回万里の長城杯国際音楽コンクール、邦楽部門第2位。第16回大阪国際音楽コンクール民族音楽部門第3位。
箏(こと)の魅力を海外の人たちに紹介しています。
*「à Paris」より 「ミステリアスな女性」 高橋雅芳さん 箏(こと)の演奏

小山豊さん 父は津軽三味線小山流家元小山貢。
国際交流基金派遣事業にてアフリカ・ヨーロッパ・アジア諸国など様々な国々を訪れ、日本文化の伝承に貢献している。
古典芸能という概念にとらわれない津軽三味線の新しい魅力、可能性と発展への活動も精力的に行っている。
*"YO" から「りゅうじゅ?」 小山豊さん(津軽三味線)小湊昭尚さん(尺八)Ty Burhoeさん(タブラ)の演奏
 インド音楽と邦楽のミックス

HANABIプロジェクト スターマイン 狂言バージョン
津軽三味線 久保田 祐司さん 尺八 中村仁樹さん(なかむら まさき)の演奏 大藏基誠さん 狂言





2017年8月19日土曜日

菅野寛也(日米戦没者の慰霊を続ける医師)・【戦争・平和インタビュー】

菅野寛也(日米戦没者の慰霊を続ける医師)・【戦争・平和インタビュー】
真珠湾、たったひとりの慰霊祭
84歳、少年時代2000人以上が犠牲になった静岡空襲を体験した菅野さんは、昭和47年から45年間にわたって空襲の犠牲となった市民と、静岡市内に墜落したB29のアメリカ軍兵士の合同慰霊祭を続けて来ました
平成3年からはハワイの真珠湾を毎年訪問し、真珠湾攻撃で沈んだ戦艦アリゾナの上に作られた記念館、アリゾナメモリアルで日米戦没者の慰霊を続けています。
その活動は年々広がり、去年初めて開かれた日米両国の公式の追悼式典の実現に繋がりました。
安陪総理大臣とアメリカの当時のオバマ大統領の共同会見も行われ、菅野さんも出席しました。
菅野さんは敵味方無く死者を悼むことこそ、平和への道筋だと考えています。

静岡に空襲のあった6月に静岡で、真珠湾攻撃のあった12月にはハワイで、それぞれ慰霊祭を開催しています。
毎年200人ぐらい、横田の米国軍の人達40~50人ぐらいが参列してくださっています。
真珠湾の方は真珠湾攻撃の生き残り、生存者協会があるが、一般の人も多くなった感じです。
小さいが厳かな雰囲気で行われます。
鎮魂慰霊ということは国境とか民族、時代も越えて、人類共通の気持ちだろうと思います。
静岡では日米双方に犠牲者が出ている、日本の市民だけの慰霊祭をやっていたらアメリカの人たちにはその気持ちは通じないです、逆も同じです。
死んでしまえば敵も味方もない。
両国の合同慰霊祭をやらなければ、ほんとうの和解とか理解は得られないんじゃないかと思います。

当時11歳、毎晩B29が大編隊で空襲に来ました。
富士山を目標に来ていて、東京がまたやられているなあと言っていました。
11時過ぎにラジオで少数機が伊豆半島を西北進行と云う放送が入って、父がこれはいつもと違うと言ってました、市の中心街に火の手があげりました。(焼夷弾攻撃)
安陪川に逃げて、河原の近くにあった土管の中に隠れていました。
「落ちるぞ」と云う声があり、爆弾かと思ったら敵機が衝突して落ちたようだった。
一機が安陪川橋の近くに、もう一機川向こうによたよた飛んで行った。
町は黒こげの真っ平らな土地だった。(皆焼けてしまった)
防火用水の中に上半身を突っ込んで黒こげで死んでいるのを見ました。
敵愾心もわいてきたし、これでは戦争は負けではないかと思ったりしました。
アメリカ軍23人いたが、何人かの遺体をみました。
中には石をぶつける人もいました。
私はこいつらも戦争の犠牲者だとは一瞬思いましたが、口には言えませんでした、回りから袋叩きに会いますから。

祖父が日露戦争で満州で戦っていたときに、弾が飛び交う中で、ロシア兵の戦傷者にも手当をしたと、これが軍医の務めだと、私が小さい頃祖父から聞いていました。
敵兵だけどもし生きていれば祖父だったら手当をしたんではないかと私は考えたんでしょうね。
昭和47年に静岡市で初めて日米合同慰霊祭をしました。
医者になって静岡に帰って来て、浅間神社のある賤機山(しずはたやま)に登った時に、平和観音像の横にB29墜落搭乗者の碑を見て、一瞬思い出したが、慰霊碑を建てた人がいたことが吃驚したと同時に山の上に石文を作る人が凄い人だなと思いました。
伊藤福松さんが建てたということが判り、話をしたいと思いました。
死んでしまえば敵も味方もないということでした。
伊藤さんは当時市会議員だったそうで、伊藤さんのお兄さんの桑畑に落ちたそうです。
最初木の十字架を立てたそうですが、その後伊藤さんはB29の死者を弔うために修行をして坊さんに成ったと聞いています。
私財をなげうって、静岡市民のための慰霊の観音像と、B29の石文の碑をつくったということです。

米軍にそのことを連絡して、2~3人と後で電話がかかってきて、アメリカ兵の人たちと一緒に慰霊祭をやりませんかと云うことで、大使館のひとを含めてバス2台で80人ぐらい来ました。
それが日米合同慰霊祭のスタートでしたが、抵抗はありました。
間接的にもありましたが、直に私の方に2~3人来て言われました。
或るおばあさんが最初反対だったが、2から3年してから有難うと私に言って下さって、判ってくれて良かったと思いました。
あとの懇親会で、或る人が「ここへきて日本に対する印象が全く変わりました、有難うございました」と言ってくれました。
亡くなった方は新婚早々の御主人だったそうです。
それを聞いた時には慰霊祭をやって本当によかったと思いました。
遺品の軍用水筒、燃えさかるB29の中で関節の跡までくっきりと残っている、死の瞬間まで握っていたんでしょう。
たった一つの遺品で、慰霊祭の時にバーボンを入れて慰霊碑に注ぐというセレモニーを行っています。

兵士の死の瞬間を記録する様な水筒でも水はもらない。
墜落しないで帰っていたら、バーボンを飲んでいるだろうなと思って、この水筒にバーボンを入れて献酒する、インパクトの強い行事の様で献酒をしてきたことが広がる訳です。
この水筒は宝物、平和の武器かもしれません。
慰霊祭、鎮魂式、戦死者に対する行事はよりアメリカでの反響の方がはっきりしている。
評価してくれています。
真珠湾攻撃ではアメリカ側は民間人を含む約2400人、日本側は65人でした。
平成3年(日米開戦50年)ハワイの真珠湾でも慰霊を行おうと決心しました。
戦争のはじまった土地で慰霊祭をするということは意義があるのではないかと、その年の夏にハワイに行きましたが、大変厳しい空気でした。
想像は或る程度していたが、アメリカ人に知ってもらわなければならないと思って、自分はこういうことをしている知ってもらいたいと思って、12月にたった一人で慰霊に向かいました。

聖水を桟橋で献水して帰って来ました。(たった一人の慰霊祭)
一回だけでは意味がないと思った。(続けなければ成果は出ないと思いました)
恨みつらみはあると思います、数年は突っかかって来る人はいました。
しかし、水筒を見せて、説明をすると全然ガラッと変わってしまいます。
日本に対するイメージを打破しようと、そういう意味では20数年かかったけれども、それなりの目的、成果はあったと思います。
2年目からはアメリカ海軍の人たちがプライベートでエスコートしてくれました。
段々広がってきて、たった一人で慰霊祭で行ったことが、きっかけにはなったかなあと思います。
あなたと水筒がないと始まらないよといわれました。

日米双方の戦死者の慰霊をアメリカの海軍と日本の領事館の主催で行われ、80名ぐらいでやりましたが、吃驚したのは両国の国旗が入場してきて、両国国家の吹奏が行われました。
恨みつらみのある場所で君が代を聞いた時は身震いするほど感激しました。
12月には日本の総理大臣とアメリカ大統領が真珠湾で一緒に戦没者の慰霊が行われました。
もっと早く実現してほしかったなあと思うことと、安陪総理もオバマ大統領もまず第一に慰霊鎮魂と云う意を表してくれました。
かつての敵同士は本当に心底から理解しあえるかどうか、判りませんがお互いの犠牲者を鎮魂するということは、心に伝える行事だから、親善だとか、和解だとかの結果をもたらすには、まず第一にそのようなことをやらなければ始まらないと思います。
心が通じなければそれ以上は進まない。
謝罪と云うことは物凄く難しい、謝罪をしても謝りにならないこともあるわけです、却って恨みつらみに火を付けることもあり、難しい。
後何年続けられるか、できるだけ続けられるように活動するのが目標です。
国家とか自治体とか、力を持った者が顔を向けてほしいです。
私がいけなくなった時にはどうしようとすることは、相談しようと思っています。












































2017年8月18日金曜日

井上万吉男(全国強制抑留者協会元理事長)・【戦争・平和インタビュー】

井上万吉男(全国強制抑留者協会元理事長)・【戦争・平和インタビュー】
今こそ語り継ぐシベリア抑留 最後の証言
井上さんは1925年今年92歳、19歳で軍隊に入り、終戦は北朝鮮で迎えました。
当時のソ連によって3年間北朝鮮やウラジオストックに抑留され、厳しい食糧事情の中、炊事班長として抑留者たちの食事作りを担当しました。
日本に帰国してからは平成元年に設立された全国強制抑留者協会の一員として、何度もロシアを訪問し抑留中の労働に対する賃金の支払いなどを求める活動に取り組んできました。
また地元の鳥取県では抑留体験を語り継ぐ会を毎年開催し、戦争を知らない世代にシベリア抑留の悲劇を伝え続けて来ました。

抑留体験を語り継ぐ会を今年は5月に開催しました。
体験者は若くて91歳ぐらいで、体力的になかなか難しいと思っています。
この辺で区切りをつけようと思っています。
戦争は二度と起こしてはいけないので子や孫、国民に伝えたいというのが、思いです。
19歳で軍隊に入りましたが、よろこんで入ったのは事実でした。
郷土の繁栄を願いながら、戦争はやらねばいけないというのが本音でした。
北朝鮮に行き、教育を受けて、幹部候補生になりたいという思いがあり、夜も勉強しました。
日本が敗戦と云うことは全然頭にありませんでした。
重大な放送があるということで非常招集があり、戦争に負けたんだということが判りました。
日本を出る時にはもう二度と家族には会えないだろうというような気持で出ていたのですが、ラジオ放送を聞いた後、冷静になって考えたときに、故郷に帰れるかもしれないと思ったのも事実です。

日本に帰れるかもしれないということで、テントを使ってリュックサックを作り、出来るだけ色々な物を詰め込みましたが、ソ連兵に全部没収されてしまいました。
脱走した者もいますが、成功したのは1割ぐらいであとは射殺されたりしました。
誘われたが言われるままにした方がいいという思いがあり、脱走すると云うことは思いませんでした。
北朝鮮に1年いて、その後ソ連に行くことになります。
満州鉄道で行き、その後3日3晩歩いて着きました。
その間、道端に疲れきって倒れている日本兵もいましたが、我々自身も疲れきっているので助けるということはできませんでした。
強制抑留されたのは約60万人、そのうち亡くなったのは6万人といわれるが、不明が何万人かいます。
ウラジオストック郊外だといわれて場所が判りました。
ウラジオストックから船で日本に帰してやろうとうそを言っていました。

厚生労働省によると、57万5000人が抑留されてそのうち5万5000人が命を落としたといわれています。
体育館のような建物があり、そこに収容されていました。
寒さは零下40度ぐらいの寒さがありました。
ウラジオストックは1mぐらいの氷が張ります。
防寒具は日本の兵隊の防寒具ですが、零下30度ぐらいまでにはぬくもりを感じますが、零下30度を過ぎると動けば動くほど寒いです。
漁船が捕ってきて冷凍された魚を箱詰めしたり、箱作り樽作りしたり、缶詰め工場の作業をしたりしました。
50~70kgの魚の箱を一人で担いで貨車に積み込み、ノルマがあり終わらないと帰してもらえない。
私は水虫で靴が履けなくて、下駄ばきで出来るのは炊事が出来るということで、炊事班長と云う役割でやっていました。

器具はあるが薪がなくて、魚の箱があるのでかっぱらってきて炊き上げました。
ソ連兵に尋問されて、魚の箱は国家の財産だということで、鉄格子の暗闇の中にぶち込まれ、これで人生はおしまいかなと思い一夜を過ごしました。
一夜明けて又尋問されて、帰ることが出来ました。
主食は粟、稗、こうりゃん(モロコシ)、大豆かす、小豆など。
栄養もたらないし、栄養失調になったりして亡くなって行った人もいます。
食べるものでは、誤魔化したのではないかと云うことで、喧嘩になるようなこともありました。
或る晩夜中の12時ごろソ連の兵隊に起こされて、棚にパン、肉が残っていてくれといわれて、日本人のものだからやらないと言ったが、撃つといって足元に撃ってきたので、とびかかって行きました。
銃声を聞いて向こうの憲兵がきて、私が事情を説明すると、兵隊は連れていかれました。
1週間後、ソ連の囚人を50~60人を見かけ、その中にその兵隊がいました。
捕虜として取り扱っていたものの、我々に対するソ連兵への規律も厳しいものもあると思いました。

ここでは死んではならないという思いがあるので、何とかしのげたと自分では思っています。
何時本土に帰れるかわからなかったが、船に乗れといわれて、そのまま日本に帰ることができました。

ソ連に抑留されていた時期は青春の時期でした。
無謀な国策によって奪われたという腹立たしさは全体に感じています。
戦争自身は愚かなものであって、我々の青春が奪われと云う気がしてなりません。
捕虜は国際法で或る程度労働を課してもいいが、我々はそうではない。
ポツダム宣言があるが、ソ連だけがそれを破って、北朝鮮、満州にいた日本の連中を強制的に自分の国に引っ張って行って、重労働させたと云うことで、我々は捕虜ではない。
労働に対する報酬を出してほしいと要望した。
戦友が亡くなって、いい加減な埋葬されてるので、我々が行って整理しなくてはいけないということ、遺族を含めて墓参したい、と交渉したが全然できてなくて残念に思います。
抑留体験を語り継ぐ会では、基本的には戦争をしてはならないと云うことが根本で、事例を挙げて事実を話す、どういう労働をしたか、道路作り、鉄道作り、木の伐採、建築などを話しています。
三重苦即ち、寒さ、栄養失調、重労働に悩まされながら、何年か働いてきました。
語り部が繋がって行ってくれればいいと思っています。
ソ連に対する憎しみ悲しみはありますが、それを乗り越えて平和でなければならないと思っています。




























2017年8月17日木曜日

上野麻実(国境なき医師団 助産師)・【戦争・平和インタビュー】

上野麻実(国境なき医師団 助産師)・【戦争・平和インタビュー】
紛争地から世界を変えてみよう!
福井県出身33歳、妊産婦の死亡率の非常に高い紛争地のアフガニスタンやイエメンなどで国境なき医師団の助産師として働いてきました。
戦争が身近にある過酷な環境のなか、7000人以上のお産に立ちあって来ました。
帰国した際には、地元福井、横浜、大阪などの中学生や高校生たちに自分が見た戦争の平和、命の尊さを伝えています。

7000人以上のお産に立ちあって来たこと自身に対して自分でも驚いています。
現場では数を数える時間すらない忙しさなので、帰国してお産を振り返ってみると、すごい数の出産にかかわったんだなあと思います。
2013年からイエメンに6か月、2015年にはアフガニスタンに7カ月派遣されて13カ月間で7000件余りと云うことになります。
アフガニスタンでは月に900人の出産がありましたので、1日に25~30人の赤ちゃんが生まれています。(30分おきに一人の赤ちゃんが生まれる。)
赤ちゃんの産声を聞いたときにはほっとします。
基本的にはアフガニスタンの助産師を支援する働きなので必要な技術、知識の指導したり、薬剤や機材の物品が補充されているか、しっかり動くかどうかを確認する為の指導監督する立場ではありました。
新しい助産師をリクルートすることもしていました。

カブールのその地区には100万人以上の人口がいると言われていましたが、緊急のお産に対応できるのは、私たちが支援していた病院だけでした。
金曜日、土曜日は休みですが(イスラム教のカレンダー)、外に出るのは安全上難しいのでできませんでした。
外国人スタッフは誘拐されるリスクが高い。
病院の隣に家を借りて、病院への移動も5分ぐらいですが、車の移動をしていました。
市場に行ったりすると、アフガニスタンでは普通に暮らしている人たちは居るんだなあとも思いました。
他の国のスタッフとバーベキューをしたり、色々楽しみも見付けました。

イエメンでは紛争で傷ついた兵士が実際に運ばれることもありました。
イエメン人の男性はみんなカラシニコフという旧ソ連の銃を持っていて、ジャンビーアというナイフを身につけて歩いています。
イエメンに初めて行ったときに、6歳ぐらいの少年が銃の隣に坐っている様子を見たが、こういう環境にある国なのだなあとショックでした。
行ったときに、恐怖感よりももっと何が起こっているのかと云う方が強かったように思います。
或る少女との出会いがあり、16歳で結婚、出産するが、初めての赤ちゃんを亡くてしまうことが起きてしまいました。
病院に行く事が出来ず、運ばれた時には赤ちゃんの心臓の音は止まっていました。
誰が一緒にいたのかを聞いた時には、資格を持っていない女性だったようです。
病気にも成っていて、難産で苦しんだ時に直腸と膣がくっついてしまって、意識のない時に失禁失便をしてしまったりする病気(フィスチュラ)でした。(破水もしていました。)
聞いた話だが、3日かかってお産するということは、時間がかかり過ぎている。
フィスチュラという病気も合併していたので、病院で1週間ほど入院しました。(ふつ普通は1日で帰れるが)
彼女は一人ぼっちだったので、彼女とは言葉は通じないが、一緒に涙することもありました。
折り鶴を折ってやったりもしました。

彼女が願っていたのはお産をして、赤ちゃんを胸に抱きたかったろうなあと思います。
紛争によって必ず弊害があり、医療施設が正しく機能しなくなり、人もいなくなり薬品も届かない、安全にお産できる病院も少なくなってしまう。
戦争の背景には絶対に貧困で困っている人がいます。
彼女も同様で学校にも行っていなくて、二番目の奥さんになっており、家族が減ることによって家族の生活としては楽になる。
イエメンでは絶望感を味わいましたが、これを変えるためにどうしたらいいのだろうと考えるきっかけになったと思います。
医療の枠組みからすこし離れて勉強したいという思う様になりました。
公衆衛生という分野で、政策、法律、地域を巻き込んだ保健システムについて勉強したいと考える機会になりました。

高校3年生の時にインドにボランティア旅行に行ったのが、国境なき医師団への一番の始まりになるのではないかと思います。
或るきっかけで母親から行ってきたらどうといわれて、行きたいと思いました。
マザー・テレサも好きだった。
2週間ほど滞在して、そこには孤児院、訓練施設、教会があり、病院での出産を目撃する機会がありました。
突然呼ばれて、マスクとエプロンを渡されて、入るとお母さんが寝ていて、生まれる瞬間だった。
赤ちゃんが生まれてきてて女医さんの手の中で動き出す瞬間、泣き声を目撃して、赤ちゃんはピカピカしていて、命の輝き、平和の瞬間だなあと云うことを思いました。
その出来事が私の進路変更のきっかけになりました。
助産師の仕事が独り立ちできるようになり、新入社員のスタッフに指導できるレベルになってから挑戦しようと思いました。
そういった置かれた環境に感謝しています。

気持が折れてしまって、もう立ち上がれかもしれないと思うときはあります、決して自分は強いとは思わないです、ポジティブな姿勢は常に持っていたいとは思います。
廻りで支えてくれる人も必要です。
中学生、高校生に経験を話す機会を与えられて感謝ですが、自分自身の思春期の悩みと今の10代が抱えている悩みは同じだと思うので、悩みを解決する手助けになればいいなあと思っています。
講演活動を依頼された時には写真を使って、見せて、現地での活動、経験などを話します。
学生さんたちの反応を書いて送ってくれますが、それを見ると私自身が励まされるコメントが色々あります。
日本の若い世代と紛争地の若い世代と比べて、まず環境が一番違うことだと思います。
生まれた場所が違うだけで、こんなにも人生が変わってしまうんだなあと感じます。
望むことは自分の可能性を100%表現できる、そんな将来を一人一人に掴んでもらいたいと思います。
私はいつも希望を持ちたい。
難民がいて、戦争は収まらないし、そういったなかでも希望を持っていたい、一人の心が変わればそれが行動になって、一人の力が沢山の力を借りて何時か大きな力になるのではないかと信じたいし、願っています。
お母さんと赤ちゃんの命を守る、それが本当に大切に育まれて皆が笑顔で赤ちゃんの誕生が迎えられるような、そう云う社会を作ることの助け手になりたいと思います。






































2017年8月16日水曜日

有賀究(福島県石川町)       ・【戦争・平和インタビュー】

有賀究(福島県石川町)       ・【戦争・平和インタビュー】
原爆の原料 ウラン採掘に知らずに動員された少年たち
終戦間際、福島県では秘密裏に原子爆弾の原料となるウラン鉱石の採掘がおこなわれ、その作業に地元の中学生が学徒動員されていました。
場所は福島県の南部の石川町です。
石川町はおよそ150種類の鉱石我採掘できる全国でも有数の産地で、ウランを含む鉱石があったために旧陸軍が原子爆弾の研究場所として目を付けたということです。。
石川町で育った有賀さん(87歳)が当時採掘に従事した中学生の一人でした。
当初その目的が聞かされないまま作業が進められたと言います。
自分達が掘っていた石が原子爆弾の原料と知った時、何を思ったのか、二度と若者が戦争に巻き込まれないようにと戦後教員として平和の尊さを訴えてきた有賀さんに伺います。

昭和20年になると4年生、5年生の上級生はほとんど関東方面に勤労動員されて働いていた。
残ったのは旧制中学3年が最高学年でいずれ勤労動員があるだろうと思っていました。
3月に先生から勤労動員の話がありました。
石川山と沢田、2つ行き先を言われました。
石川山に着いた時にはいったい何をするのか分からなかった。
白い石の層を出してそれをつるはしで掘って石を一定の場所に運ぶのが仕事でした。
わらじばきでモッコに棒を通して運びましたが、大変でした。(雨の日以外は毎日)
4月12日にB29の編隊が飛んできて、石川町が銃撃されました。
人的な被害はなかったが、体育館とか家がぶち抜かれたりしました。
校庭は食べ物がなかったので、野菜を作ったりしていました。
全体的に追い詰められたような感じがあったが、日本は負けそうだとはだれも言わなかった。

或る日将校が皆を集めて、「君たちが掘っている石は、マッチ箱一つで米国の大都市を破壊できるのだから、一生懸命掘れ」との話がありました。
目的がはっきりしたので子供ながらに馬力がかかったような気がしました。
(石川での原爆研究と云うのは終戦後判りました。)
軍部にしてみれば内地は攻撃され、敗戦濃厚になってきて、ひっ迫していた。
出征していった親たちを思うと、子供ながらに勝ってほしいとは思っていました。
或る日キャラメルを渡され、励ます為とは思いますが、おいしかった思い出があります。
制空権、制海権も連合国側になっていたので、自由に飛行機が飛んできました。
8月6日 9日 ラジオで特殊爆弾が落とされたことを聞きました。
戦後、原爆ドームを見に行きましたが、戦争で殺し合うということ、焼けただれた衣類とか見ると、大義名分をいくら言っても、人間が人間を殺し合うということは許せない。

理研は昭和20年4月13日の大空襲で6割方の施設が破壊され、一部の工場が石川町に疎開し、原爆開発の研究が進められた。
私は石川で原子爆弾の研究していたことは判らなかった。
出来なくてよかったと思います。
戦争をしないようにみんなが努力していかなければいけないということだと思います。
作業からは逃れることはできなかった、上からの命令には忠実に従わなければならなかった。
教育勅語を読んで、国を守るために戦えという思想を植え付けられました。
8月15日、家で天皇陛下の放送があってよくきこえなかったが、父親が戦争に負けたと云ったが、ほっとした感じがあった。
平成22年から、「故郷と戦争を語り継ぐ会」を始める。
戦後何年か経つと、出征して戦死したことも忘れられてくるし、若者は8・15も判らない人もいるし、だから具体的に資料を出していかないといけないと思った。
事実を多くの人に知ってもらうことです。
石川の研究所に勤めていた人に手紙を出して、基礎的な研究をしていましたと言っていましたが、今にも爆弾が出来るような状態ではなかったとの回答を貰いました。
広島、長崎、戦争の事実を知ってもらいたいし、きちっとした意思表示をして貰いたい。
伝えていかなければならない責任があります。