2017年6月25日日曜日

森田淳悟(日本体育大学特任教授)・【スポーツ名場面の裏側で】ミュンヘンの逆転金メダル

森田淳悟(日本体育大学特任教授)・【スポーツ名場面の裏側で】ミュンヘンの逆転金メダル
森田さんは現在69歳、北海道生まれ、東京日大鶴ケ丘高校でバレーを始めました。
日本体育大学、日本鋼管時代は194cmの長身で全日本のセンタープレーヤーとして活躍して、日本男子バレー全盛期の中心のメンバーでした。
メキシコオリンピックで銀、ミューヘンオリンピック準決勝のブルガリア戦、決勝の東ドイツ戦でいずれも奇跡の逆転勝ちで金メダルを獲得しました。
現役引退後は、森田さんが考案した一人時間差攻撃が世界で認められ、バレーボール国際殿堂入りをはたされました。
日本バレーボール協会の協会委員長も務められ、現在は母校日体大特任教授です。

車はドイツでナンバープレートは8、金メダルを取った時の背番号8です。
1972年ミュンヘンオリンピック大会
12カ国が出場、A,Bに分かれて日本はBで5戦して一つもセットを落とさずに、トップ。
決勝ラウンド、A組はソビエト(優勝候補)、ブルガリア B組は日本と東ドイツ。
ブルガリアと対戦 最初2セット連取される。
(その前に日本に来て3-0、3-0で勝ったが、その時に日本の研究をしてクイック、時間差をマークされた)
松平監督が指示を出すが、「後2時間コートに立っていろ、そうすれば勝てるから」と普通に話すように語っただけでした。
(2年前にブルガリアと世界選手権で戦って、逆に日本が2セットとってそのあと逆転されて、銅メダルだったが、その時の事も言われた)

第3セットも4-7とリードされる。
松平監督がメンバーを変えて中村祐造(30歳)、南将之(31歳)ベテランを使う。
第3セットは15-9、第4セットは15-9を取り、最終セット3-9とリードされる。
ブロックをしてその後ブルガリアのバレーが変わった。(勝ちたいと云う意識)
5-9になり、5連続ポイントなどもあり12-11に逆転、14-12 マッチポイント。
私がサーバーで、来たボールを左手一本で受けたボールが嶋岡健治の所に飛んで行って、彼が後ろにジャンプしながらアタックした。
大逆転で破る。
決勝の相手はオリンプック2連覇を狙っていたソビエトを破った東ドイツ。
第1セットを11-15で落とす。
松平監督は試合前「昨日お前たちは一度死んだんだ、もうこれ以上悪いことはないから今日は思い切って行こう」と話した。
その後日本は第2、3、4セットを連続してとって、セットカウント3-2で金メダルを取る。

45年前のことですが、鮮明に覚えています。
それまでには8年計画があり、松平さんの妥協しない厳しい練習をしました。
徹底したレシーブ練習でした。
松平監督がいたから金メダルを取れたと思っています。
選手を上手くする、チームを強くするのは、①良い指導者、②良い練習をする環境、③一緒に目標を同じにする仲間、この3つだと思います。
松平さんからは、選手から良い監督と言われるようでは駄目だ、選手から徹底的に嫌われるほどの監督になってみろと言われました。
南さんはレシーブが苦手だったが先輩に対して、コーチに言われて思いっきり大古誠司らとともにアタックして練習したりしました。

北海道北見市でお姉さん4人、お兄さん一人の末っ子として生まれる。
中学は東京の狛江市で野球、陸上を、バレーと出会ったのは日大鶴ケ丘高校に入ってからです。
中学の時はハイジャンプだったので、つい身体をひねってしまい最初のスパイクは空振りでした。
2年の夏、東京都の選抜チームの合宿に選ばれ、日本の高校選抜にも選ばれる。
高校卒業直前、全日本合宿にいくように言われ、松平監督と出会う。
日体大に行くことになり、1年からレギュラーで使われて、バレーを始めて3年目で全日本12人のメンバーに選ばれて、1966年世界選手権に出場。
まだまだバレーの右も左もわからないような状況でした。
得意技、ドライブサーブ、一人時間差攻撃。
1967年ポーランドで大会があり、ドライブサーブの練習があり打っていたら松平監督から試合で使ってみるように言われました。
サインに従ってドライブサーブを打ったら、相手ははじいてしまって、それからドライブサーブをするようになりました。

ロシアでは一人時間差のことを「モリタ」と言っているようです。
メキシコオリンピックが終わって、松平さんがミュンヘンに向かってどんなことでもいいから技を開発しろと言って、ブロックを分散する方法はないかを考えた。
或る時にクイックの時にセッターが間違えて私の真上に1mぐらいの時間差のトスを上げてしまって、落ちてくるのを待って打ったらブロックがなかった。
ジャンプするふりをすることによって相手もジャンプさせておいて、もう一回ジャンプして打つ、それを改良していって、一人で時間差をつけて打つやり方を5種類ぐらい作り上げました。
一人時間差攻撃が世界で認められ、バレーボール国際殿堂入りをはたす事が出来ました。
33歳で現役引退、監督として日体大で大学日本一に4回なる。

バレーから得たもの「プライド」
メキシコオリンピックの前にプラハにいて、プラハの春(チェコにワルシャワ軍が侵入)があり、明けに4時ぐらいのドアを叩かれた。
オーストリアへの南の国境でチェコの国旗が立っていれば安全にスルー出来ると言う事で
、乗合バスに乗ったがチェコの選手も一緒に乗ってきて、日本の選手たちは僕らのお客さんだから、お客さんが安全な場所に行ける所まで見届ける義務がる、と云うんです。
ナショナルチームの選手は国旗を背負って、バレーボールが強くてそれだけやっていればいいんじゃないんだなあと強く思いました。
色んなことに配慮することがないと、一流のメンバーではないんだなあと思いました。

バレーから得たもの「我慢」
当時はサーブ権がないと得点にならなかったので、とにかく我慢が必要だった、松平さんから我慢しろということは強く言われました。(人生に通じる言葉です)

ここのところ日本はオリンピックへの出場が出来て居ない。
2020年は開催地で出ることはできるが、メダルを狙えるような力を付けてもらいたいと思っていますが、もう間に合わないかもしれないが。
やはりスターを作らないといけないと思います。
























2017年6月23日金曜日

島袋淑子(ひめゆり平和祈念資料館館長)・“生かされた命”で語り継ぐ

島袋淑子(ひめゆり平和祈念資料館館長)・“生かされた命”で語り継ぐ
島袋さんは17歳のとき、ひめゆり学徒隊員に動員されました。
アメリカ軍の上陸で激しい戦闘となった時、悲惨な光景に出会い戦争のひどさ、虚しさを感じたと言います。
島袋さん達元ひめゆり学徒隊員は28年前ひめゆり平和祈念資料館を立ち上げて平和の大切さを訴え続けて居ます。

現在89歳、車も運転しています。
私たちは語り部とは言わないで、証言員と言っていて体験したことをそのまま伝える。
1989年、資料館が出来る。(61歳の時)
その前は自分たちの体験を二度とこのような戦争があってはだめだと云うことで、北海道から鹿児島まで行って、学校、一般の方に話をしたりしていました。
70歳過ぎてからは無理をしないようにと言うことで、資料館に来て下さった方に話をしています。
55歳のときに先生を退職して、それから資料館を建てるために頑張りました。
亡くなった友達の何かが見つかるかと、何でもいいからと思って、各壕に入って櫛、下敷き(名前が書いてある。)とか持っていったものが見つかり、みんな泣きながら集めました。
資料館を作るときに、それを綺麗にして展示しようとしました。

学徒隊として行った、先輩、同級生とかが学校に勤めて居ましたが、一斉に55歳で依願退職しました。
亡くなった友達、先生方の事をみんなに知らせようと、相談して、資料館を建てようと云うことになり、そのことに必死になって頑張りました。
壕に何か一つでもあればと、探し集めました。
6つの壕には一般の人が入っていましたが、軍が追い出してそこに入ったと云うことを後で聞きました。
6月18日に1kmさきまで敵が来て、解散命令が出されました。
病院が解散だから、これからは自分の自由にということで、皆一緒に死んだ方がいいと云うことで、壕から出ないと云ったがそれを軍が許しませんでした。
19日の朝までにでていかなくてはいけなくなって、何時、何処で、どんなふうにして死んだのかさえもわからない状況でした。

主に那覇、糸満など南部にいる人たちが、相談して27人が証言員として活躍していたが、28年たった今は8人になってしまいました。
建てたらこれで終わりと思っていたが、開館日が6月23日で御遺族に会わす顔がないと言う思いがあり、御遺族に生きて居てすみませんと言ったら、御遺族があなた方が生きてい
たからこれが出来たんでしょう、何処で亡くなったか、どうして亡くなったのかあなた方がいたから判ったので有難う、と言われました。
私達も生きて居ていいんだと思うようになりました。
私たちも時々ここに来て話をしようと言うことになり当番を決めて、辛いけれども話すようにしました。
まずは自分の体験のことでした。(亡くなった友達のことなど)
沖縄戦のことを段々判っていただけるようになりました。
70歳になった時に後継者を集めるようになりました。

終戦後翌年1月、先生になるための文教学校が出来て、そこに行くことにしました。
私は重症を負って右手、右足が不自由だったので、体育は持たなくていいよと言われたが、戸惑うこともありましたが受け持ってやりました。
最初受け持った子供達はみんなそれぞれ家族を亡くしていて、戦争をよく知っていた子供たちでした。
資料館での話すことは、まずは自分の体験してきたことから始まって、段々友達、戦争の事などに広がっていきました。
後継者に対しては話をして聞かせて、正しく伝える様にしました。
後継者としては学芸員が3名、説明員が3名で6名の人がやっています。
28年前の立ち上げ時からの人たちは、私を含めて8人です。

学校によって事前に勉強してくるところと、そうでもないところがありますが、今は私たちはフォローをしっかりやっています。
10年ほど前、生きていく事に悩んだ内科の女医さんが資料館を訪れて、入ったら自分の悩みは何でもないことだと判って、よし生きようと言って、自分の思いを書き残して行きました、人助けにもなっていると思いました。
戦争は災害と違って人が起こすものなので、止めることが出来ると思います。
戦争のこと、広島、長崎の事をもっと深く理解して、戦争はだめですと、言ってほしいと思います。

































2017年6月22日木曜日

小林大祐(加賀の井酒造第18代蔵元)・糸魚川大規模火災から半年(2)

小林大祐(加賀の井酒造第18代蔵元)・糸魚川大規模火災から半年(2)酒蔵復興にかける
江戸時代創業で360年以上の歴史がある加賀の井酒造も一つの蔵を残して消失してしまいました。
蔵元の小林大祐さんは会社勤めをしていた弟久洋さんに酒蔵に戻って来るように永年説得を続けて兄弟二人で新たなスタートを切ろうとした矢先に火災が起きました。
火災の直後、酒蔵の再建を目指す事を表明した大祐さん、富山県の酒蔵の設備を借りて酒作りを行い、先月糸魚川市内の酒店などで販売を再開しました。
弟の久洋さんは酒作りを学ぼうと3か月間岩手県の酒蔵で修行をしました。
火災から半年が経った今、酒蔵の建設の計画が進み、この冬には元の場所で酒作りの再開することを目指しています。
大規模火災を乗り越え加賀の井酒造の復興にかける思いを伺いました。

火事があってみんな焼けてしまったんだなあと云うような感じです。
酒屋の機能を失ってしまって寂しい気持ちはありますが、街も大分無くなり街の一員としても寂しいと感じます。
前田家の参勤交代の本陣でもあった歴史のある街でした。
これから建物は新しくなりますが、建物で伝えられない部分を私たちがしっかり伝えて行くことによって歴史が伝わって行くと思うので、しっかり伝えていかないといけないと思っています。
火事の当日は、すこし煙が見えて火事かなあと思っていましたが、前のブロックに火が点いたら声を掛けてほしいと言って酒造りの方に戻りました。(忙しい時期だった)
前のブロックに火が点いたと云うことで信じられなかったが、確認したら火が点いていて避難の準備をしました。

火事の方向には高い建物があり火事の様子があまり見えなかった。
TV放送では大規模火災の報道があり、自分たちがいる場所からは炎が見える訳ではないので、不思議な感覚、身近で起きて居ることが体感できないままでした。
焼けた臭いがすごかったのは記憶にあります。
目の当たりに見て大変な事になってしまったと思いました。
弟と一緒にやっていこうとしているところに火事が起きてしまいましたが、ここで辞めるという選択肢は無かったです。
多くのお客様から応援していただいていたので、前を向いて進めていきたいという気持ちが一番強かったです。
火事が起きてしまい、今はもう一度酒蔵を建てて酒屋に戻ると云うのが今の目標です。
会社として回せていけるのかということに関しては非常に不安を感じています。
(1年市場から姿を消しているので)

今回全てのものを失っているので、同時に進めなければならないことが余りにも多いので、復興への取り組みを一緒にやってくださる方に、どうやったら進められるのか、くじけそうな気持ちに対して、意識を変えて向き合う様にしています。
兄が頑張って来て、戻ってきてほしいとの話があり、よほど大変なんだなと思って二人で力を合わせれば、もっといろいろなことが出来るのではないかと戻ってきました。
弟は家族もあって、12月は色んな意味で節目の年だったと思います。
こういうことになってしまったが、一緒にと言ってくれたので、私は頑張らなければいけないと思いましたし、有難いと思っています。
酒米の生産者さんにとっては売り先が無くなってしまうと云うことになってしまって、他の蔵元さんとの協力などで酒米をうまく処理でき感謝しています。

弟:1月20日ぐらいの岩手県の酒蔵(廣田酒造)に勉強のためお邪魔することができました。
廣田酒造さんも東日本大震災で被害を受けて、周りからの支援があり、困っている方がいたら支援したいと云う気持があったそうです。
ゼロの状態から復活された方々のお話を直接聞くことが出来たのは、貴重な体験だったと思います。
いろんな人から声を掛けていただいて、有難いと思いました。(一人じゃないんだなと感じました。)
何でお返しが出来るのかなと思ったときに、今の現実を前に進めてしっかりやってますよと見せることがそういった方々に対しての恩返しと言うか、結果をみせることで多くの方へのお答えになるのかなあと感じています。

繋がってこなかったお客様からも応援します、との温かい言葉を頂き、印象的に残っています。
この経験を踏まえて、大変な人達とか、災害とかが起きた時に、手を差し伸べる存在にならなければいけないなあと思いました。
酒は冬場しかできないので、今年の冬には必ず糸魚川でお酒を作って、色んな方々にお届けしたいと云うのが当面の大きな目標です。
当初描いてきたスピード感でここまでやってこれたと思うので、しっかりやりきれるところまで進めて、図面にあるものを現実に持っていきたいなあと思います。
にぎわいの一つにと、期待していただけること対して、行政の方針にお応えできるような形に織りこんできたつもりです、ガラス越しに酒作りの作業の風景を見ていただけるようにレイアウトした酒蔵にしました。
何がゴールか判らないような大きな取り組みだと感じていましが、街の期待、多くの人たちの期待とかありますが、先ずはおいしいお酒を届けたい、糸魚川がよりいい街になって行くために私達に何が出来るのか、取り組んでいくことが大事だと思っています。

































2017年6月21日水曜日

山岸美隆(糸魚川商工会議所副会頭)・糸魚川大規模火災から半年(1)

山岸美隆(糸魚川商工会議所副会頭)・糸魚川大規模火災から半年(1)にぎわいふたた

昨年2月22日、新潟県糸魚川市で大規模火災が発生し、住宅や店舗147棟が焼けました。
町の中心部にある本町通り商店街も半分が被害を受けました。
現在、その糸魚川市の街作りの検討委員会などが、復興に向けて計画作りなどを進めて居ます。
今月上旬に発表された糸魚川市の構想案には消失した商店街に昔の街並みをイメージした新たな商業施設などを
建設することなどが盛り込まれました。
その検討委員会の一人が糸魚川商工会議所副会頭、山岸美隆さん62歳です。
商店街にある呉服店を経営し、店舗の一部が被災しました。
山岸さんは火災直後からにぎわいのある街作りを訴え、ご自身の考えが構想案に反映され始めたと感じていらっしゃいます。 

昨年の大規模災害でおおよそ180mにわたって店舗や住宅が焼けました。
がれきが撤去されて景色は一変しました。
この街そのものが空洞化していて、新たな店を呼び込んで商店街の再生をしたいと思っています。
煙を見て、2~3軒が焼けてしまうのかなあぐらいの感覚で見て居ましたが、なかなか放水が始まらないのでもう少し燃えてしまうのかなあぐらいの感覚でした。
途中から風が一気に出てきて、消火の手伝いなどをしていたが、飛び火がすごくて、100mぐらいずつ飛び火になり、避難指示が出ました。
昼間なので火の粉は見えなくて、風に飛ばされて屋根に落ちて瓦の隙間に火の粉が入って燃えていくパターンです。

子供のころから慣れ親しんできた町なので、一瞬で無くなると云う感覚が受け入れられなくて、暫くすると実感してきました。
一番いい時代の裕福な時代の建物がそのまま残っていたが、それが全部消失してしまったと云うのは寂しいです。
なかなか受け入れられなかった。
私の家は2階から火が出て、消火活動もあり、屋根には穴が開きましたが、全体とすれば残ったと云うことです。
仮店舗での店の再開をして、販売に間に合わせました。
成人式の着物をお正月に展示、販売することが年間のスケジュールにあって案内もすでに出してあったので、見ていただく機会をなんとか作ろうと思いました。
元の場所での再会は2月3日で、あらかじめ2月3日に日程を決めて実行していきました。

残ったところは元気にやっている姿を見せることも大事なので、早く営業してあげることが勇気づけになるのではないかと思いました。
私の店が燃えてしまった、私の店が残ったという感覚で、お互い喜んだり涙して、お客様の店に対する想いがあるのだと思って、嬉しかったです。
火災前中心市街地の空洞化があり、郊外型、インターネットでの販売などで生活の商品を商店街で調達する時代では無くなって、それに火災で追い打ちをかけられて、もう一回再生するには新たなニーズに答えられる再建がでてきたのでやり方次第だと思います。
ただハードルは高いので、ピンチをチャンスにしていきたいと言う思いは強いです。
集客、誘客のための海、新幹線があるので、ちょっとした日帰りで楽しむことができる環境作りが出来ればとの思いはあります。
2040年になると3万人を切りそうな範囲になりますし、内需だけでは右肩下がりになるので、外からのお客さんがおいでいただける街の体系を作っていただきたいと云うのが行政に対するお願いです。

日本海に面していて、新幹線の駅が近くにあり、高速インターもあるので、外から入るには好都合なので、日本海の魚、物産をたのしんでいただくため等を核にしたいと思います。
海の街ということを前面に出せる様にしたいと思います。
長い将来どうするのかとなると、変化が出てくると思っているが、共に暮らしてきた人たちなので理解、協力はでてくると思っていますが、まだ具体的な事が出てきていないが、具体的になって来ると協力が得られると期待しています。
にぎわいを出すのに、人口2万人台がいずれ来てしまうと云うこともあり、長いスパンで商人は生き続けなくてはいけないので、人を呼び込むための努力をしていくための環境作りをしていくことが、大事だと思っていたが、考え方の違う人たちもいて、方向付けに対してせめぎ合いをしたこともありました。
主張が通らない時期もありましたが、段々取り入れていただいてきました。

商工会議所内にも特別委員会を設置して8~9回委員会を開催して、内需型、観光型などもあったが、私どもの考え方を率直に話す機会が出来たことはよかったと思います。
回数を重ねることで溝が埋まってきたんだろうと思っています。
商人としてここで営んできたと云う事実があるので、災害で負けるわけにはいかないと思うので、復興した姿を見ていただくと云うのも商人のプライドだと思っています。
新しい街を作るスタートと言うことで、ゼロからのスタートなので大変な事は事実ですが
、歴史、街並みとかは戻しますが、住まいとする人、商う人は新しい方が入って貰うと云う考え方だと思います。
外に向かって商売をしようという人の集まりを作る訳なので、魅力のある店作りをやって行くと云うことで目的は重なっているので、力を合わせることはできると思っています。









































2017年6月20日火曜日

高橋はじめ(民話の語り爺)    ・民話の種をまき続けて

高橋はじめ(民話の語り爺)  ・民話の種をまき続けて
新潟県在住 83歳 長く教師として働きながら、故郷秋田の民話を語る活動を重ねてきました。
NHKのラジオでも民話語りをなさったそうです。
3年前秋田県から妻の出身地の新潟県の阿賀野市に移住して、そこでも一人でも多くの人に民話の魅力を伝えたいと奮闘しているそうです。
高橋さんは「民話の語り爺」と云う風に名乗っているそうです。

「昔っこあったぞん、子供たちが遊んでいたあ、鬼がぼーんと来たんだと、おっかねーなあ。
その鬼が何と大きなおならをしたんだと、おかしいなあ。
ところがあんまりい大きなおならをしたんで、腹破けてしまって死んでしまったんだと、かなしいなあ、これでおしまい、とっぴんぱらりーのぷー。」
「とっぴんぱらりーのぷー」は秋田の語りの最後の言葉に成っています。
重要な儀式のときに語ったのが「尊いのはらいたてまつる」としめたのが、どんどん変わってきて「とっぴんぱらりーのぷー」に成ったのではないかと思います。
訛りはもう若い人には無くなってしまった時代なので、せめて昔語りぐらいは故郷の何かが入っていたらと思いました。

「民話の語り爺」の方が親しみがわくと思います。
おばあさんが夜なべをして筵を織りながら話をする場合リズムに乗ったりするんです。
リズムに乗っているそれがどっか身体の中にしみ込んでくる、これが昔の語りでしたなあ。
TVもラジオもない昭和ひとけた生まれなので、昔話を聞くと云うのが創造力をはぐくんでくれたのじゃなかかなあと思いました。
親と子の語りは少ない、孫に語ったったところの家で語りが続いているんです。
子供のころは冬は男も女も関係なく屋根に上って雪を下ろす、これが一番の仕事でした。
小学校に行くのに、雪の道を行くので昼ごろになったこともありました。
婆さんと、兄弟4人で長男でしたので、食糧難の時は村にお手伝いをして米を貰ってきたりしていました。

私は子供のころは無口な子供でした。
高校の日本史の時に、「山の狼よりもとんどのとらよりも」と言う場面が出てくるが、とんどのとらとは何だろうと思ったが、唐土の虎と中国のことだと判ったんです。
どうして猿を嫌うのだろうと思っていたが、菜園をやって取られたり荒らされて猿の恐ろしさがようやく判りました。
しかる時にはああするな、こうするなといわれると弁解と反発しかないが、昔語りはさらりと笑わせてみたり失敗させてみたりして、あの時は親はこういう気持ちで叱ったのかとか、心のどこかに収まるようになっている。
創造力を持たせるような言葉を入れながら、語っていて素晴らしいと今になって思います。
音の面白さもあります。
基本は単純な事から、耳が心が育って行くんじゃないですか。

小学校教員を20代に放課後掃除が終わった後、必ずお話を肉声で毎日連続ものの様にして聞かせました。
自分が聞いて育ったので、聞かせたら喜ぶだろうなあと思って語ったんです。
登校拒否をしていた子も来るようになったりしました。
民話の笑い話は500位あるようです、人間の心を和らげる。
私は本格昔話を主としてやります。
こっちが一生懸命語ると、それ相応のお返しがある、まなざし、顔の表情、喜びはひしひしと伝わります、そういったことが原動力になります。
聞く方にも語る方もどっちにもいい作用するのが昔語りだと思います。

20年前の子供たちは、おばあさんは横手市の出身だとか感想文が出てきたが、よくもお話を本を見ないで出来ますね、というような感想文になり、3年前には、ほんとうに先生の昔話を読んでいただいておもしろかったですという感想文があり、語っているのではなくて読んでいてと言っていました。
今の時代は変わってしまったんだと思います。
いろり、かまど、なべで煮炊きをすると云ってもわからない、話が通用しないことが出てくる。
「闇」ということも理解できない、想像できない。(闇の怖さが判らない)
生活環境、家族構成なども変わってきてしまっている。
過疎化していって、語りなんて余裕が無くなってきて生きて行くのが精いっぱいと云うのが今の世の中だと思います。

語りについて行政が少しでもいいから眼を向けてもらいたい。
お年寄りは知識がある、しかし機会がない。
昔のお年寄りは語り伝えたいと言う気力があったから伝わってきたと思います。
昔話は言葉の博物館です、しかし突然きいても判らない、説明が必要で、ゆっくり子供たちに聞かせる、そうすると成長すると年相応に昔話を思い出す、それが種になるのではないでしょうか。
昔話の語り爺、婆をこういん童話?(聞き取れず)と結び付けて、他の人にもたくさんの人にも聞かせるようになったら、もっと役だつのではないかと言う思いが、私を今まで語らしてきたという結論になります。
種を蒔かなければ苗は育ちません。
語り手養成講座をサポートしていきたいと今やっています。
田舎から出てきて高齢者になられた東北出身の東北の昔語りをしたいと思っています
































2017年6月19日月曜日

一噌幸弘(能楽師笛方・笛演奏家)  ・【にっぽんの音】

一噌幸弘(能楽師笛方・笛演奏家)  ・【にっぽんの音】
お囃子方には、太鼓、小鼓、大鼓、笛方とある。
色んな笛を集めて吹いています。
能管がメインに成っています。(一噌流
家には笛が500本以上あります。
夜中にも笛を吹いて大丈夫なようになっています。
家は100年以上たっていて、周りは森だらけで、ぽつんと家が建っていましたが、最近は家が周りに建ってくるようになりましたが、苦情は来ていません、

唱歌(しょうが)、笛の旋律を口で伝えるもの。
譜面は能の音楽は基本的に8拍子で、8つ線が描いてあって、「おひゃーらーいーほ-ひー」とか線の上に言葉で書いてあります。
簡単なリハーサルとか打ち合わせなどでは唱歌でやったりします。
能管の中では横笛が世界一息がいるのではないかと思います、耳の裏が痛くなったり、耳鳴りがしたり、人によっては酸欠になったりもします。
素材は竹でできて居てしの竹、真竹で、それに漆を塗ります。
吹き口と最初の指孔の間に、のどというもう一つ筒が入っていますので中が狭まっていて(くびれている)、音がだしにくくなります。
能管は音量が大きいのが魅力です。(オーケストラに負けない)

「ヒシギ」、あの世とこの世を結ぶ音、開演ベルの音、最期も「ヒシギ」です。
最期は「ヒシギ」で終わってハッピーエンドと云う意味もあります。
いきなり「ヒシギ」では結構緊張しますので、危険のない笛をつかいます。
(「ヒシギ」:能管の最高音域の鋭い緊張した音で、「ヒィー」と吹く片ヒシギと、「ヒーヤーヒー」と吹く双(もろ)ヒシギがある。双ヒシギは、一声や次第など登場の囃子の冒頭と、能の終曲に吹く。片ヒシギは、早笛や狂言次第の冒頭と、一部の舞事の終わりに奏する。「日吉」「日布」「日」などとも表記する。)
道成寺から、前半のクライマックス、最も早いテンポの曲
鐘に入る前の場面、(間があるが。)
*乱拍子から急之舞 。(演奏)

安土桃山時代から続く家で、一噌流。
能管でクラシックを吹いたり、インド音楽を演奏すると云うことは、結構たいへんでした。
風当たりは大変でした。
妹、弟がいますがやっていません。
笛を持ったのは覚えていませんが、稽古は8歳ごろからでした。
勝手に吹いてみたら面白かったので、稽古を始めました。
父が弟子に稽古をしているのを見て、覚えてしまうことが多かったですね。
父からお前誰から習ったんだと言われました。
初舞台は9歳で、鞍馬天狗の前囃子でした。

この道でやっていこうと云うことはあまり意識していなくて、能管以外にいろんな笛に興味を持って、リコーダーの全盛時代はビバルディー、ヘンデル、バッハ、テレマンとかやっていました。
他の笛を吹くことによって、能管の新たな可能性もあるのではないかと思いました。
能管は特殊で西洋などにはない日本独特の笛で、音程をどう取ればいいのかと思ってしまいます。
フラメンコギターとのディユエットで  *竹田の子守唄(演奏)
笛は何をつかったかは、コンサートに来たら判りますが。
フラメンコギターを考えたのは「泣き」の要素が入っているから、合うのではないかと考えました。
能楽の囃子の新作を作っていこうと思っています。
能楽は8拍子ですが、7拍子とか、能管の協奏曲とか、いわゆる能管の可能性を広げて追及していきたいと思います、勿論古典も追及して行きたい。

7月9日、父の13回忌の公演を国立能楽堂でおこなう予定です。
1部は受けつるがれる伝統(古典)、2部は私の創造する伝統。





























2017年6月15日木曜日

小嶋希恵(元宝塚歌劇団)       ・未来のミュージカルスターを育てる

小嶋希恵(元宝塚歌劇団)  ・未来のミュージカルスターを育てる
長野県佐久市の出身、1981年に宝塚音楽学校を卒業後、雪組男役として 5年間舞台に立ちました。
しかし病気の母の看病をするため、故郷に戻ることに決めました。
25歳の時のことでした。
故郷で開いた小さなダンス教室、そこに未来のタカラジェンヌを目指して二人の生徒が入ってきた事が、プロとしてミュージカルの舞台に立つ子供たちを育てるミュージカルスクールを開くきっかけになりました。

姿勢を悪くしていると、腰も痛くなるし足も太くなる。
立ったその瞬間に、立ち姿が美しくなければ宝塚は駄目です。
宝塚に入りたいと言う子供たちが全国から来て居ます。
宝塚は30~50倍と狭き門で、そこをくりぬけて宝塚音楽学校に入学して、2年間心身ともに鍛えられ卒業した子だけが宝塚に入れます。
スクールからは月影瞳さんはじめ多くのスターが誕生。
私は5年間、雪組男役をして舞台にたっていました。
汀夏子さんに憧れて入りたいと思って、雪組に入れてたんですが、直前に退団されてしまいました。

母が宝塚が大好きで、娘を宝塚に入れたくて、背の高い父を選んで、母から耳元で宝塚に行くのよとずーっと言われて、私自身宝塚に行くものだと思っていました。
3歳からピアノをやったんですが、いまだに上手くはありませんが生徒のためには役に立っています。
小学校4年生の時にベルサイユのばらを見たときに、物凄く感動してここしかないと思いました。
宝塚音楽学校の1年目は掃除の連続でした。
そのほか廊下の歩き方、一般常識を厳しく学びました。
スターであっても上級生が優先です。
25歳のときに母が倒れてしまって、辞めて長野県佐久市に戻りました、
辞める最期の稽古の日にはずーっと泣いていました。
最期の舞台では男役としてかっこよくやりたかった。
黒木瞳さん真矢ミキさんなどが同期でこんな美人とやっていけるのかと思いました。

地元の新聞社でモデルをやりながら、取材などしていたときに町からせっかくタカラジェンヌが来たんだからということで町で教えていたら、編集長から教えることに生きていきなさいと言ってくれて、小さいダンススクールを立ち上げました。
たくさんきてくれて教えるようになりましたが、或る時、月影瞳、麻世さくらが宝塚に入りたいと言ってきて、見たらこの二人なら入ってくれるのではないかと思いました。
厳しく指導して半年後、二人とも宝塚に合格しました。
その後、宝塚に他にも送り込んでいきました。
群馬、埼玉その後東京からも来るようになって、この世界で日本一になれるのではないかと思って、1993年から長野から東京に移動しました。
プロになりたい子だけを対象に厳しく指導しました。
宝塚に入れさせたいと言う思いで怒りますが、感情では決して怒らないです。
生徒の事は自分の子供のように思っています。

この子が今何を思って何を考えているかということを、その子の立場に立って怒ることが私の一番の長所かと思っています。(その子の目線で見れる)
たとえば歌が歌えないと悔しいが、悔しいよねと言ってあげると、自分を出せる、泣いて自分を出せると、本番に強くなれる。
普段から自分を発揮できる人が、本番に強いと私は思っている。
目標を持った人は自分に悔しがる、他人へは悔しがらない。
お互いが判りあえないと私の言っていること気持ちを生徒は受け止めてくれない。
大人は悲しみ、苦しみの思いだしで泣くが、子供たちは出来なくて悔しくて感情を出すことによって泣くので成長する。

三重県亀山市で文化大使、、栃木県足利市で芸術監督をやっているが、ミュージカルをやるが、プロを加えてもらってやっています。
最初は声を出せないような子でも最後には大きな声を出せるようになります。
プロセスを大事にしていきたいと思っています。
宝塚に合格することは目標であって、大切なことは一生懸命宝塚の受験まで頑張り通すことが大事だと思っています。
こんなに頑張れることって一生のうちでそうは無いと思います。
宝塚に受からなくても違う世界で頑張れば、ほぼみんな自分の夢はかなう子は多いです。
結果はどうあれ最期までやり抜くと言うことを、子供たちに教えていきたい思います。
辛いことはいっぱいあるけどその日にとどめ、朝起きたら今日は頑張ろうと思います。
「明日は絶対朝日が昇ってくるので、朝になったら頑張ろう」と思ってやっています。
死ぬ瞬間まで目標を持って、頑張ろうかなと思っています。
スクールの50周年記念パーティーを目指して、出身者全員を集めてやりたいと言うのが私の夢です。(後20年弱)
人と居る時は笑っているといい事がいっぱい来るので、笑ってほしいと思います。





































2017年6月14日水曜日

本川達雄(東京工業大学名誉教授)  ・ナマコに学ぶスローライフ

本川達雄(東京工業大学名誉教授) ・ナマコに学ぶスローライフ
長年ナマコを研究している世界でも数少ない生物学者です。
昭和22年宮城県生まれ、大学進学では悩んだ末東大理学部生物学科に進み、30歳で琉球大学に赴任し、ナマコに出会いました。
ナマコの生態はほんのすこししか解明していませんが、本川さんはナマコは省エネに
徹し、海底で天国を作っている。
この省エネの生き方こそが今地球規模の課題となっているエネルギー、食料、環境問題の解決の糸口になるのではないかとお話になります。
東工大在職中から始めた小学生への出前授業は、ナマコ研究を通して知った命の尊さを判りやすく伝えたいと、これまでにおよそ150の教室を訪ねました。

ナマコの研究は35年ぐらいやって来ましたが、これは何の役にもたたないので研究している人はほとんどいません。
ナマコを食べるのは日本人と中国人だけです。
定年になってナマコとは縁が切れました、ナマコ的な人間にはなっています。
のたっとして何にもしない。
高校2年の時に大学を決めなくてはいけなくて、理科系の好きな人は工学部に行く人が多かった。
豊かさを追う工学部とは関係のない生物学科に行くことを宣言したが、動物は嫌いだった。
大学に行ったが、周りは生物が好きな人ばっかりだった。
最初、貝、それからナマコ、ウニ、ヒトデ、ホヤ、共通はあまり動かない、脳があまりない。(研究者は非常に少ない)

ナマコは毒を持っているが人間には効かないが、魚には効く。
触るとコリコリに皮が硬くなる。
ナマコを輪切りにすると竹輪みたいになるが、竹輪の白い部分は全部皮で、筋肉は6~7%しかない。(人間は50%が筋肉)
皮が軟らかくなったり硬くなったりします。
魚にかみつかれたらそこが柔らかくなって、腸をそこから出して、それを食べているうちに逃げてしまう。
研究するにはまずナマコの生活を一日中見て居ましたが、見て居ても何にもしない。
ナマコは砂を食っています。
砂粒の間に海藻のかけら卵がはいっていたり、バクテリアがいたりしてそれを栄養分にしている。
眼、耳、鼻などの感覚器官がないので、その情報を処理する脳もあまりいらない。
非常にエネルギー消費量が少ない、哺乳類と比べて1/100、貝類とくらべて1/10、それほど食べなくても済む。

食う心配がないと何もしなくていい、働かなくてもいい、と言うことは天国に住んでいると云うことです。
人間も天国を作ろうとせっせと働いている。
3・11の大震災、地球温暖化などエネルギー大量消費型であると地獄に行くかもしれない、その方向はよくないのではないかと思う。
現代人は時間に追われている。
ナマコを見て居ると時間が違うのではないかと思って考えると、これはエネルギー消費量に関係している。
動物の心臓の拍動時間は体重の1/4乗に比例してゆっくりになると云う関係になる。
心臓だけではなく、呼吸、食べてから排泄までの時間、血液の一巡の時間もそうだし、大人になるまでの時間も同様です。
はつかねずみは20日、人間は10月10日、象は600日以上胎内に入っている。
小さいものは早く死ぬ、大きいものは長生きです、寿命は身体の大きさでほぼ決まります。

心臓は15億回打つと象もネズミも死ぬと云う関係が生まれてくる。
身体は平等にできて居て、ゆっくり動かせば長持ちする。
身体の大きさとエネルギー消費量を調べると、体の小さい動物ほどエネルギーをたくさん使っている。
小さな動物の細胞はエネルギーをたくさん使っている。
時間の速度とエネルギー消費量はちょうど正比例する、それが動物の体のなかで起こって来る。
人間に当てはめるとだいたい41歳、しかし人間は70,80歳とか長くなっているが、老いが始まると云うことは身体にガタがくると云うことです。
老いが始まると野生の動物は大概死んでしまう。
縄文時代30歳台、昭和22年で50歳、今は90歳近くまでなってしまったが、社会の状況が変わっただけです。
感染症が無くなる、食料が豊かになった、医療が凄く効いていて、冷蔵庫の影響も大きい、冷暖房も効いていて、技術で寿命を伸ばしている。(人工生命体)

省エネに徹すると天国になる。
定年は寿命とのかかわりでガタが来て程ほどに卒業しなさいよと言うことで決まってきている。
人工生命体として尊厳のある生き方を考えたいなあと云う気がします。
出前授業、私の書いた文章が小学校、中学校、高校などの国語などの教科書に載っていて、顔を見せに行って授業をしています。
生き物のもっとも生き物らしいところは多様ということだが、しかし共通性がある、形の上での判りやすい共通性は円柱形だと云うことだ。
何故円柱形なのか。
木、枝などもしかり。
平らなものもある、掌、表面積が大きいからしっかり握れば摩擦力はおおきく、しっかり握れる、粘着テープは同様。
耳はひらたい、象は耳で熱を発散させる、特にインド象に比べアフリカ象の耳は大きい。
平たいものには意味がある、それぞれ生き物の形には意味がある。
円柱形は弱い方向がない。

資源、エネルギーは次世代が使えるようにしておかないといけない訳で、時間を長く使えばエネルギーを長く使える。
今はエネルギーをどんどん使って時間が早くなってしまっている。
食べるエネルギーの30倍をつかってしまっている。
現役は早くないと負けてしまうのでそれはしょうがない、現役は早くてもしょうがないかもしれないが、定年になったら時間の速度を落として、その分資源もエネルギーも使わなくて済むし、次の世代にも渡せるので、なるべくエネルギーを使わないように心がけたいと思っています。





















































2017年6月13日火曜日

貫行子(日本音楽療法学会評議員)  ・心を和らげる音楽の力

貫行子(日本音楽療法学会評議員)・心を和らげる音楽の力
5歳からピアノを習い音楽に関わる仕事をしたいと東京芸術大学音楽学部学理科に入学し、音楽心理学を学びました。
当時日本ではあまり知られず、研究が始まったばかりの音楽療法と出会いました。
1960年のことでした。
以来音楽療法の研究一筋に取り組み、大学や病院の協力を得て実験をかさね、音楽と自律神経、年代別のストレス解消音楽の違いなど、データで実証しました。
今では音楽療法は心のケアや高齢者の認知症予防にも効果がある事が知られるようになってきています。
来月7月には、茨城県つくば市で世界中の研究者が集まって、音楽療法の世界大会が開かれます。

子供の時はピアノを勉強していて、東京芸術大学、音楽学部楽理科に入学し、音楽史、音楽美学、音楽心理学を主に勉強して、ピアノに、歌のレッスンも毎週あります。
桜林仁先生が日本に音楽心理学を導入した先生で、お手伝いをするようになって
続けてやってきました。
聞いて癒されると考えるかもしれませんが、認知症予防、介護予防とか実際に身体をつかって貰ったりして歌ったり、楽器をつかったりして脳を活性化する方に重点があります。
中高年の方の場合はストレス解消と言うことで素敵な音楽を聞くと云うことになります。
大学卒業後、筑波大学の理療科教員養成施設に行って、生理学的反応(心拍数、脈拍、血流量を測る装置がある)を測定して、音楽を聞いたりした時の生理的反応を調べたのが始まりです。
20世紀になってからアメリカで、戦争での帰還兵の心身症がなかなか治らなくて、音楽療法が始まった経緯があります。

実際にダンスをしたり歌ったり身体を動かす、実践する音楽療法がなされていました。
93歳の女性の方、音楽療法が自分の生きがいと言っていた人ですが、昨年複雑骨折で背中が痛いということだったが、音楽療法のその時だけは痛みを忘れると云って下さって、痛みの緩和と高齢者の音楽療法の研究をまとめて今年発表することになっています。
イギリスでチェロを障害児に聞かせて、障害児への音楽療法を始めて音楽療法協会の会長をされて、日本にも来られて、著書が2冊在り、その1冊を私と桜林仁先生で共訳して、日本ではじめて「音楽療法」というタイトルで出版されました。(1969年)
研究をしてデータを出すのが好きでした。(生理的反応、脳波)
ベータ波アルファ波があり緊張するとベーター波が増え、リラックスするとアルファ波が増える。
アルファ波が増えるような音楽を提供すれば役に立つのではないかと思って、バイオミュジックとして世に出しました。
1980年代の最期の頃 発表して後にCDとなる。

データを取りだしたころはコンピューターがなくて、物差しで測って解析したりして大変でした。
大きい振幅は活性化していると言うデータ、裏付けが出せました。
聞く人の年齢差、男女差でも色々違いがあります。
クラシック、ロック、せせらぎの音を実験した時には、60代ではモーツアルトのクラシックが一番安らぎを感じて、20代ではロックミュージックで一番安らぎを感じると云う事がありました。
音楽の訓練を受けた人と受けて居ない人でもリラックスの傾向が違ってくる。
育った環境によって自分がリラックスする音楽も違ってきたりします。
クラシックが一番リラックスしたと言う人が実は秋田民謡が脳波では一番リラックスしたと云うような結果もあります。
フィーリングミュージック(癒し音楽)を使ってストレスホルモンの研究を東京大学の先生と一緒に研究したことがありますが、音楽を聞く前、直後、15分経過後の血液を採取して調査をしたら、音楽を聞いた後にはストレスホルモンが減っている事が判りました。

この研究成果は世界音楽療法大会で発表しました。
モーツアルトの曲を牛に聞かせると良いとか、胎教にいいとかありましが、乳の出方が多かったと言うが、絞る人が心地よくなって手の技がさえたのか牛なのかは判りませんが。
胎教音楽の研究もしましたが、妊娠7か月のおかあさんのベッドで色んな音楽を聞いてもらったのですが、モーツアルトよりもディズニーの音楽がお母さんは好きで、ディズニーの音楽を聞いた時の方が、超音波診断であかちゃんが好ましいような動きをしたということでした。
自分の好きな音楽が一番いいということですね。

2000年に日本音楽療法学会が出来ましたが、理事長は今年105歳の日野原先生で、昨年辞められました。
音楽療法士はそれなりの経験および資格が必要になります。
高齢者音楽、1990年頃から施設に行ってやるようになりました。
ある患者さんに色々な曲が入っているものを4週間聞いてもらって、「ヤシの実」と言う曲が入っています。
通常認知症の方は我々のまどろみの脳波、シータ波が出ているが、音楽を聞く事によって少し活性化してアルファー波になる、健常の人はアルファ波だとリラックスですが、認知症の人がアルファ波に変わったと云うことは少し活性化したということです。
音楽療法をやったあとで実際に自分が歌ったり、弾いたり、身体を動かすことをやってきて、20年ぐらいになります。
うつむいて居た方が上を向いて顔色が良くなったりして、予防医学という観点からも高齢者の音楽療法は必要だと思いました。

スキンシップをすると云うことも喜ばれます。
解放される音楽は人によって育った地域、思い出などによって違ってくる。
感覚統合理論に基づいておこなっていて、聴覚だけでなくて、視覚、触覚等たくさんの感覚刺激を同時に行うことで、いっそう脳が刺激されます。
プログラムとしては「こんにちわの歌」を歌って、挨拶をして、時、所、人を認識してもらって、体操をして、腹式呼吸をして、発声練習をします。
その後季節に合った唱歌を二つ歌います。
脳刺激のために歌いながらじゃんけんするとか、並行して色々動作するとかも行います。
回想療法、若かったころを思い出して意識の回復を促す為に昔の歌謡曲、演歌などを歌います。
器楽でテンポの速いリズミックな曲で活性化します。
そこでプログラムを終了して、クールダウンとして穏やかな曲を私が歌ったり弾いたりしています、最期にさようならの歌を歌います。
何のためにこれをやるのかということを理解してもらいます。

7月に茨城県つくば市で世界音楽療法大会が開かれます。(2000人 そのうち500人は海外から)
今はホスピスでも音楽療法が行われて居ます。
たとえ治らなくても精神的に生き甲斐を持って、人生を全うしていただけるようにと音楽療法が役立っていますが、手を握ってるだけでもいいといわれて居ます。
気持ちいいとか、楽しいとかそういう時には、幸せホルモンが出るそうです。
幸せホルモンとはβエンドルフィンというもので、痛みを忘れさせたり、気持が高揚して、脳を刺激して老化を防いでくれて、免疫力を高めてくれて健康長寿にも繋がります、と言うことを免疫学の先生から聞きました。




















2017年6月12日月曜日

鯉川なつえ(順天堂大学先任准教授)  ・炎天下のマラソンから得たもの

鯉川なつえ(順天堂大学スポーツ健康科学部先任准教授)・炎天下のマラソンから得たもの
高校生のころから長距離種目で活躍されて、現在は女性スポーツの研究をされている順天堂大学スポーツ健康科学部先任准教授、順天堂大学陸上部女子監督の鯉川さんに伺います。

今の高校生は速くなっているなと思います。
3000mを女子は走りますが、9分10秒を切って走る選手がたくさんいますし、5000mも一般の種目になりますが、15分台で走る選手がたくさんいます。
シニアになった時に強くなっているかと考えるとちょっと問題があるかもしれません。
1989年、第一回高校女子駅伝、私は筑紫女学園高等学校の2年生で出場、アンカー5区で初代区間賞でした。
中学まではバレーの選手でした。(全国大会出場)
身長が157cmしかなくて、今後続けていくには通用しないかなと思いました。
長距離もはやかったので、長距離をやってみようかなと思いました。

1984年のオリンピックから女子の正式マラソンになって行く。
オリンピックが自分の夢、目標だと思ってやっていました。
区間賞は取ってもチームとしては優勝できなかった、(第二位)
技術的なもの、メンタル的なもので自分は劣っていると思っていたので、そういうものを教えてくれる所に行こうと思って大学に進学しました。
科学的な事、血液など医学的な事をもってしてどう自分にプラスになるだろうと興味はありました。
男子の大学でしたが、女子一期生でしたが、入学に対しては周りからは大反対でした。
色々な事を学んで、食べるもの、練習のリカバリーを考えたりしたら、より競技が楽しくなりました。

大学卒業後、実業団に入り、95年の福岡ユニバーシアードの代表に成り、マラソンを走るが、30km過ぎた頃、フラフラになりました。
9月3日で残暑、湿度が高かったがとっても調子がよかったので良いタイムで優勝したら、オリンピックの代表にもなれるといわれていたが、当日のウオーミングアップが駄目でした。(後からの感想)
15km付近でスコールのような雨が降って、そのあと又照りだして湿度が98%まで上がって、30kmの給水を取ったところまでは覚えて居ましたが、そのあとは意識がないです。
脱水症状と言うより、熱中症は意識障害、脱水症、痙攣などを含めた総称なのでそれが一気に出たものだと思います。(当時は熱中症と言う言葉はなかった)
救急で搬送されたところにアメリカのドクターがいて、日本の医師が指示した酸素吸入ではなくて、全てウエアーを脱がせて氷漬けにするようにして、その後アイスマッサージをして、20分後に意識が戻って、救急病院に搬送されましたが、その時にアメリカのドクターがいなかったら死んでいたかも知れません。
点滴を受けて次の日には戻りました。

湿度の高いレースの時には、スポンジを絞って乾かして身体を拭きなさいと言う指導をしています。
コーチに成ってからはそのことが色々役立っていると思います。
26歳のときに競技は辞めました。(会社の倒産とともに陸上部も廃部になる)
1年間助手をして、自分との違いにどうしたらいいかわからなかった。
翌年大学院に入りました。
生徒と話し合いをしながら、調べて行く作業で、一つだけ駄目でも結果は出ないものだと改めて感じました。
もう少し、女性アスリートたちがもっと長く競技を継続できないものかということが一番の思いです。
怪我、結婚して出産して続ける選択肢がなかった。
女性アスリートたちが長く競技を続けられるような指導者になりたいと思いました。

①身体生理的課題、小学校3~4年生で1年間に10cmぐらい伸びる、身長スパートと呼んでいるが、一緒に体重も増えないと骨密度、筋肉も増えていかないので、この時期に、きちんと栄養が取れて居るかどうか、適切な運動がとれているかどうか、月経がきちんと来てるかどうかによって、疲労骨折とか色んな障害が出てきてしまうので、身体生理的課題を理解したうえでやりましょうと云うことです。
②心理社会的課題、女性はメンタルが弱いといわれる人が多いが、その子たちに対してどうアプローチしてゆくのか、声のかけ方が違うと云うことを中心に研究して居ます。
③組織環境的課題、妊娠、出産を経ても競技が出来る環境を作ってほしい。
この3つがクリアできれば救われるアスリートは多いと思います。

もっとも影響が大きいのは中学校の先生だと思います。
先生に言われた厭な言葉トップテン。
ご飯食べるな、揚げ物食べるな、もっと痩せろ、毎日体重を計れとか厳しいことを言われる。
ご飯を食べるなと言われて育ってきているので、大学に入ってきた人たちの一番最初にやるのはご飯を食べさせるところからです。
痩せれば速くなるといわれて学んできているので、貧血、生理が止まったり起きるので、痩せただけでは早くなれない、しっかり食べてしっかり練習することによって身体は絞れる。
インポスターシンドローム(詐欺師症候群)、自分自身をいつわるという意味合いがあり、自分が成功したことは自分の努力のおかげではなくて、自分は強くて素晴らしいアスリートではないと思い込むことが女の子の特徴らしいです。
女性の方が詐欺師症候群に成りやすい。(自分を低く見積もってしまう)

男性の指導者は強くさせたいと思い、女の子は鵜呑みにしてしまうが、自己評価を高めてあげる様なコーチングをすることで女の子は変わってくると思います。
残念ですが、全く変わっていないと思います。
海外の選手は生理がないと走ってはいけないとかあるが、日本ではごまかしごまかし来て居るような気がします。
ほとんどの選手が月経が止まった経験があるので、当たり前だとおもわないでほしい。
無月経はエネルギー不足が全ての原因だとわかってきて、食べて体重を気にせずにいかにスポーツできるかということを大事にしながらコーチしています。

私が大学生の時に、国際千葉駅伝で、ロシアの選手に区間賞に1秒差で負けて、ロシアの選手はゴール後に子供に授乳していて、こういう女性に負けたのかと、その姿に対してショッキングでした。
海外では出産の直前までトレーニングをやって、出産後1カ月半位で元の生活に戻ることを自然にやっていて、日本では妊娠したら引退するという概念があるので、妊娠してもトレーニングが出来るので引退する必要はないんだと云うことを発信してあげたい。
女性の心をわかってくれる指導者が男子でも女子でも必要だと思いますが、女性のコーチをもっと増やすことが女性アスリートの活躍には直結してくることだと思います。
JOCの女性役員の数は10%と言われているが、世界では30%位に来て居て、2020年までに40%にしましょうと云うことです。
日本ではポジションがない、自信がない、数少ない女性コーチの苦労を見て、あんな苦労はしたくないと思うらしい。

子供がいる今は9時に寝て居ますが、子供がいなかった時は10時まで大学にいて仕事をして12時、1時に寝て6時には朝練習だったのでむしろ辛かった。
コーチライセンスを作ってもらいたいと思います。
知識のない人がコーチになると不幸を招いてしまうことがあるので、特に女性の場合は知識のない人が携わらないようにしてもらいたいと思います。
2020年に向けて女性アスリートの支援に莫大なお金が付いているが、2020年の先へも継続できるようなシステムを作ってほしいと思っています。
女性のスポーツ参加率、30代、40代の女性参加率が日本では少ない。
生活の中にアクティブがあれば、それはスポーツになると言う考え方を変えることで色んな障壁、ハードルが低くなると思います。







































2017年6月10日土曜日

金城馨(関西沖縄文庫主宰)     ・大阪の“リトル沖縄”からのメッセージ

金城馨(関西沖縄文庫主宰)・大阪の“リトル沖縄”からのメッセージ
大阪大正区はリトル沖縄とよばれていて、住民の4人の一人が沖縄にゆかりがあるといわれて居ます。
中心部の商店街には沖縄の物産を扱う店が多くあり、大阪府内だけでなく、遠方からも観光客が訪れています。
関西沖縄文庫は金城さんの自宅の中に設けられ、沖縄に関する書物を読んだり沖縄の文化に触れたり出来る場所です。
沖縄の歴史は常に差別とともにあったと話す金城さん、6/23の沖縄慰霊の日を前に、金城さんに差別や暴力をなくし、平和を築くために何が必要かを伺いました。

本以外のレコード、映像を含めて1万点になります。
1985年に作って、集まって支え合う空間を作って、誰にでもこられるようにしたらいいかと思って作りました。
大阪大正区はリトル沖縄とよばれていて、住民の4人の一人が沖縄にゆかりがあるといわれて居ます。
100年前に(1910年代)日本経済が活性化してゆく時期で、大阪に紡績工場がたくさんありました。
大正区には近代紡績の発祥の地として碑が建っていて、大きな紡績工場がありました。
沖縄の産業はサトウキビで、砂糖の暴落が世界中で起こった時に、本土に働き口を求めてきたことが1920年代にありました。
大阪、沖縄航路が発達していて移動しやすかった。

求人の張り紙があったが朝鮮人、琉球人はお断りと書かれていたり、賃金が日本人よりも安いとか、結婚のことも言われるし、アパートを借りる時なども差別されていた。
住環境に適していない場所で(低い土地とか水害の発生しやすいところ)住んで居ました。
そういった時にみんなで支え合おうと云うことで、大正区の一角で沖縄人の集落が形成されてゆきました。
琉球人は日本社会の中における初期の外国人と言うことになると思います。
1879年、明治政府が併合して、日本人とは違うと云うことで、差別していった。
1990年代の人の結婚差別の話は聞きましたし、就職差別の話も聞きました。
判らないように、名前を変えたり、沖縄語を喋らなくなったりして行きました。
自由でありたいと言う人間の本質を否定される。

沖縄市生まれ、1歳のときに両親と一緒に兵庫県の尼崎市に住む。
小学校5年のクラス替えの時に、沖縄出身の金城ですと云ったときに周りがざわめきました。
それまでは何も感じなかったがそこで初めて日本人とは違うと言われました。
沖縄であることを出せなくなりました。
三線(サンシン)と言う楽器があり、泡盛があり、歌って踊っている。
食べ物もヘチマ、ゴーヤを食べて居て、そこの集落の半数以上がブタを飼って生計を立てて居る。
そういったことで違っていることがわかって行って、それが差別につながる物であると思いました。
日本人と同じでありたいと思いました。(日本人になると言うもがき)

高校で差別問題研究会を立ち上げる。
部落差別があって、差別問題研究会という形で継続的に日常的にやる組織を作ろうと云うことに成りました。
沖縄を否定する生き方は沖縄人を馬鹿にしている、もっと見えないようにする、沖縄を差別する側に成っている自分の差別性を蓋をする方法は、他に差別があって(朝鮮人、部落)そういうことに向き合ってると云うことで自分を差別をしていることをおそらく隠せる訳です。(沖縄は取り上げない)
在日朝鮮人の高校生と話す機会があり、あなたは沖縄のことをちゃんとしろと言われました。(一番逃げて居たこと)
自分の中の沖縄を出そうと思ったが、沖縄を否定してきているので、自分の中に沖縄が空っぽになっているということを実感せざるを得なかった。

在日朝鮮人では全校集会で本名を名乗り始めると云うことから始めるが、彼は沈黙をしながら涙を堪えるシーンになる訳ですがそれでも本名を名乗らなかった。
名前を名乗ると云うことは、正しい行為だが、それを押し付けて行く形で暴力として機能してしまった。
彼の沈黙によって、正しさの中に暴力があるんだと云うことを、教わりました。
いい大学に入れば、沖縄人である差別は受けないであろうと思いこんでいて、いい大学に入りたいと思いましたが、受験におちてしまい、自分探しに日本を旅することになりまし
た。
青森の下北半島にいって、猿の話を聞いていましたら、突然私たちはアイヌの子孫だという話になりました。
内容を聞いていると、坂上田村麻呂という東北を制圧をしている人がいるが、アイヌの人に女性を出せと要求して、リーダーの娘が誰が行っても不幸なので自ら行きますと言って行きます。
その娘は身ごもり、リーダーのその娘は身投げをしたと、伝説の話をしました。(1000年前のこと)
1000年たってもアイヌだと言っている訳です。

アイヌ民族と言う誇りを持っている人で、沖縄人て何なのかということを突き付けられる出会いでした。
それから思考が方向転換しました。
突然沖縄に行きたくなって翌年沖縄に行きました。
抱いていた沖縄とは現実は違っていて離島に行きたくなって、宮古島、竹富島に行ったときに原風景みたいなものを感じました。
他人であろうと言葉は出さないが、にこっと笑って擦れ違う、無視しないで他人を受け入れる。
自分が探しているものにたどり着いたような感じがしました。
公設市場のおばさんに沖縄人に見えるか、日本人に見えるか聞いて回りました。
自分自身の沖縄というのは何なのかを他人との関係で最期の整理をすることだったが結論的に言うと半々だった。

他人のまなざしはいい加減だと思って、自分自身の問題だと思いました。(周りに意識しすぎて居たことに気付いた  20歳の時)
沖縄から多くの若者が集団就職してきて、青年たちが組織化してきます。
青年のお祭りでエイサーを踊ることになり、そこで初めてエイサーに出会います。
エイサーは先祖供養の盆踊りです。
私としては異質な文化ですが、本人たちは生き生きしている訳です。
そこには土着性の凄さがあり、でも拒絶がどこかに残され居ました。
エイサーをやりながら5~6年たってから、やっている自分が野蛮だと思った時に初めて身体が喜んでいる感覚になりました。

差別を受けてもちゃんと誇りを持っていたら、跳ね返すことはできると思います。
1975年に始めたエイサー祭り、1985年には関西沖縄文庫を作りました。
若者の中で孤立して行って孤立して行く過程で、結果的に仕事が無くなって犯罪をする形であらわれてくる場合があって、皆で支援しようということになり、やっていく過程で拘置所で自殺するという事件がありました。
他にも自ら死を選んでいった仲間が結構いました。
オープンスペースの場を作ることによって、悩みを抱える人が安心できる場所にしたかった。
地域の先輩の人たちがひょこっと顔を出してくれる場所だったらいいと思って、その人たちから色々聞くことは大事だと思います。

①沖縄戦、②沖縄の先人たちの大阪での足跡、②基地問題、取り組みをしています。
沖縄は本土を守るための防波堤にするということでしか無かった、と言っている。
子供も兵士にされて、多くの命が奪われてゆく。
戦争が終わって、沖縄人は収容所に入れられる、住んでいるところを潰して基地にされていかれる。
本土復帰を果たした後も、日本にある米軍専用基地の約7割が沖縄にある。
米兵による殺人、強姦など多くの事件があるが、地位協定のもとにアメリカ軍人は守られている。
沖縄に基地を押し付けることによって得る平和、そんなに問題だと思わなってゆく、いつの間にか結果的にやっていると云う場合がある。
基地が必要だと云うことなら県外にと云うような議論が必要だと思います。








































































2017年6月9日金曜日

泰川恵吾(医師)         ・南の島でいのちを診る

泰川恵吾(医師)    ・南の島でいのちを診る
泰川さんは東京女子医大の救急医療センターの医長時代、高齢者の患者があまりにも多い事から高齢者のための在宅医療の必要性を感じて、故郷宮古島に在宅診療所 ドクターゴンを開院、そして13年前に古都鎌倉にも同じような医院を開院しました。

宮古島は沖縄本島とは300km離れて居ます。
20年ほど前に宮古島でドクターゴンを開院しました。
泰川恵吾という名前で、「けいご」ですがゴンちゃんと呼ばれていましたので、ゴンになりました。
3歳まで宮古島にいて、父が医院をしていたので、その後行ったり来たりしていました。
小学校のころから東京にいましたが、医者に成ってからすぐに救急医療センターの外科医を10年ぐらいやっていました。
その頃から高齢化が問題になりはじめて、高齢者、障害を持った人、末期の患者さんとか、本来の救急の人たちではない人が入ってきてしまって、そこから動かない状況になってしまった。(高齢者の増加)
患者を依り分けるところがなかった。

20歳ぐらいの子が大けがをしても受け入れられない状況が生じてしまった。
状況別に助ける人と助けない人を分ける必要があると云うことだが、みんな心臓は止まっていて分けることはできない、そうすると決めようが出来ない、家庭までいかないと出来ない、家の中で見て行くしかない。
医療の大概の事は出来ると思っていたので、在宅医療しかないと思いました。
当時在宅医療は日本には内科医で数人しかいなくて、外科としてやろうと救急医療の出来る在宅医療をやろうとしました。
最初新宿にと思いましたが、どうせやるなら故郷の宮古島でやろうと思いました。
宮古島は20年前も高齢化率は21%で、今でも21%で変わっていなくて、日本が10%ぐらいの時もすでに超高齢化地域でした。
団塊の世代が居ない地域が僻地になるが、宮古島はよくわかっていてモデルケースとして宮古島にし開院したが、全く反響は無かった。

3歳までは宮古島で、那覇に引っ越して、ロンドン、スコットランドエジンバラにいて、後は東京育ちでした。
小学校に入ってイギリスに行って3年生になるまで学校には行っていませんでした。
日本で学校に入った時は言葉が通じないので大変でした。(沖縄弁、英語)
救命救急センターは当時本当に3Kの仕事でやり手がなかった。
救命救急医だと言うと、廊下のはじっこを歩けといわれて、外科医、内科医、整形外科医
でもないから、一緒じゃないと言うふうに言われました。
後からマスコミなどで評価されるようになってから初めて今に到ります。
在宅医療をやると云った時にはもっと大変でした。
部下もたくさんいて、医長に成っているのに何だと云う風な状況でした。
救命救急に人気が出てきて、むしろふるい落とすような状況になって来ました。
自分では一通り出来るので後進に道を譲った方がいいと思ったし、次のことをやろうと思いました。

自分しかできないことをやろうと云うのが姿勢としては基本にあります。
看取りをやっていますが、専門は命ですと言っています。
宮古島に開業して最初は患者がいなくて2週間ぐらいは電話もなにもなかった。
現在両方合わせて70名ぐらいいますが、取り巻く人たちも何百人、何千人と居ますが、そういうのを自分で作って行くのが得意ですが、苦労は多いです。
宮古島の周りにある大神島 当時80人(現在は30人ぐらい)いたが島には医者がずーっといなくて医者はどういうことをやるのか説明して歩きました。
文化圏が全然違っています。
まずは話をして信頼を得てからのことです。
小学校の時に言葉を矯正して、今は沖縄弁は全然しゃべれませんので、地元の人は違和感を感じたと思います。
当時給与を貰ったら後輩におごって翌朝は無かったです。
開院する時には生命保険を解約してそれを使いました。
医長だったら、2000万円のベンツ買うのだったら銀行としては貸すが、宮古島で開院するのだったらびた一文貸さないと言われました。

3年も出来たら成功だなと思っていました。
3年たったら忙しかった、100人ぐらい患者さんを抱えていました。
宮古島の周りには5島あり、全部行きます。(橋で渡れるところもあり)
フェリーで行ったり、ジェットスキーでいったりしますが、ジェットスキーが便利です。(水上オートバイ)
医療道具はさまざま用意しています、超小型のもの、外科手術用とかいろいろです。
今はバリエーションがあって、普通の病院入院並みの装備を持って患者さんの所にいけます。
ほとんど全部の機械を工夫して居て、メーカーと一緒に開発したものもあります。
宮古島発の工夫と云うのはいろんなところで出ています。
不便な場所でも使える、電源がないところ(リチウム電池でとかで動く)でもいいとか、振動に強い、条件が悪くても使えるとかの工夫をしています。
血液検査もその場でできますし、心電図も出来るし、ちょっとしたことはできます。

宮古島では安定してきたが看護学校はないし、医学部もないし、スタッフを養成しようとしても難しい。
日本の高齢化の問題、私たちの10年下の子供は一番多い、団塊世代の子供より多い、そのあとは人口が減っている。
団塊ジュニアの世代の人たちが死んでゆくまでやらないと意味がないので、どこに作ろうかと考えたが、神奈川の100歳のおじいさんがいて、私の話を聞いて宮古島まで見に来て気に入って、そのおじいさんが診療所を作ったとのことで、お前にやらすからこちらに来いと言うことで、宮古島は代わりの医者を探して任せて、鎌倉で新たに始めました。
今は患者さんの数は鎌倉の方が多いです。
こちらの中核スタッフは宮古島から来ています。

宮古島20年、鎌倉13年、こういうやり方があってスタッフ自身が、幸せにやれるよと言うモデルケースを作りたい、こういう考え方だよと言うことを真似してもらいたい。
環境、文化全然違いますが、宮古島も鎌倉も、どちらも人を疑わないのが本質的に同じです。
東京の人は疑います。
ハイテク機械はできれば使いたくない、お年寄りだったら注射一本、検査一つしないで、最期を看取るまでただ行って手を握って話をするだけと言うのが一番、これは最高の技術ですが、これが出来るまでには時間がかかります。
これは教えて出来るものではなくて、雰囲気を自分の中に入れなければだめです。
医療の教育はエビデンス(効果があることを示す証拠検証結果・臨床結果を指す)といわれるが、それはそれで正しいが、高齢者を看取るにはエビデンスも必要だが、エクスペリエンス(経験)も非常に必要で、ほとんどの人が望んでいるのは静かにふっと息を引き取って死にたいと望んでいるが、望みを叶えるのであれば、何にもしない方が良いに決まっているが。
しかし、ほとんどの医者はできないと思う。
家族が後で心の底から有難うございましたと言えるような、亡くなったときに思いっきり泣いて泣いてとか、笑ってよかったねと言えるような、そういった環境作りは大事で、できたら良いなと思っています。




















































2017年6月8日木曜日

跡部治賢(オオムラサキセンター館長)・里山にはばたけ“森の宝石”

跡部治賢(北杜市オオムラサキセンター館長)・里山にはばたけ“森の宝石”
きらきらと輝くオオムラサキの羽の美しさから、森の宝石と呼ばれることもあるオオムラサキ。
日本蝶学会が日本を代表する蝶として国蝶に制定してから、今年でちょうど60年に成ったそうです。
かつては日本各地で見られて身近な蝶でしたけれども、生息地である里山が消滅したり、荒れてしまったりする中で、絶滅が心配される地域も出てきていると言うことです。
山梨県の北杜市で長年オオムラサキの保護と里山の保全活動に取り組んできた北杜市オオムラサキセンター館長にお伺いました。

タテハ蝶の種類の蝶のなかでは日本では一番大きい蝶で、オスが羽を広げると10cmくらい、メスは12cmぐらいあります。
飛び方も勇壮で、飛ぶ音もしますし、滑空もします。
テリトリー意識も強くて、鳥が来ても追いかけたりします。
紫色、コバルトブルーと言うか姿は美しくて里山の宝石とも呼ばれます。
戦後、日本を代表する国蝶を選ぼうという議論があり、オオムラサキは里山に住み勇ましい、美しいといういくつか条件があり、いいのではないかとの意見がでて居たが、なかなか決まらなかった。
昭和32年に国蝶に決まったが、その前年に日本で初めて蝶の切手を作ろうと云うことになった時に、オオムラサキを推薦した先生がいてオオムラサキが切手に成り、それが後押しをしてオオムラサキになったということです。(本当かどうかは定かでないが)

県に依ってはほとんど見られなくなってしまった県もあるが、オオムラサキは里山周りの樹液を吸って生きて居る蝶で、里山がないと生きていけない。
里山の減少、農家の人が腐葉土などを里山から得ていたが、里山に行って手入れをする人たちが少なくなったり、高齢化によって里山へ行く人が少なくなったりしてしいました。
このまま行くと絶滅してしまう種に成ってきてしまった。
昭和55年から長坂中学校の生徒が調べているが、減ってしまっているという状況が続いていたが、ここですこし復元してきている。
里山をつかって生活している人が多いのと、炭焼きで里山を大事にしているということもあります。
オオムラサキは里山の環境のバロメーターです。
クヌギなどは樹液をたくさん出すが、手入れをしないと原生林になってしまって、オオムラサキの住む環境では無くなってしまう。

複雑な里山の環境に順応してきた。(生物多様性)
樹液を出し続けることを促すような生き物もいて、複雑な生態系に成っています。
北杜市にも昔はオオムラサキがたくさんいました。
社会が便利になった半面生き物たちにとっては、住みにくくなった部分があると思います。
子供のころ見たオオムラサキが少なくなったり、里山がすこし違ってきて何かしなければと話し合ったりしたのが、昭和53,54年の頃でした。
地域の人たちが保全、保護しようと云うことは考えていませんでしたし、相手にされませんでした。
オオムラサキの羽化するシーンは生命の躍動感を感じるし、感動は見たものでないとわからないかと思うが、オオムラサキの乱舞しているものを大事にしたいと思いました。
故郷を愛しているからこそ大事にしたいなあと思いました。
やっているうちに仲間を少しずつ増やしていきました。

63年のころに、NHKとかが地域の若者が保護していると言うことをニュースにしていて、63年にオオムラサキ祭りをしようと言うことになり、行政が主導して、その頃から機運が高まって来ました。
平成4年にオオムラサキの里整備事業を行政が取り上げて、そのなかにオオムラサキセンターと云うものを活動拠点として作ろうと云うことになりました。
その前に北杜市にギャンブル施設を作ろうという話があり、それは故郷には合わないのではないかと反対の運動をしていたが、それにお母さんたち(婦人会)が賛同してくれて、段々賛同者が増えて行政の人たちも断念しました。
オオムラサキを大勢の人が見に来てくれて、地域も経済的な活動も活発になるのでということで、そういう方向もあると云うこともあったと思います。

平成7年にオオムラサキセンターが出来ました。
広さは6ヘクタールあります。(ちいさな集落があるという広さ)
オオムラサキだけでなく、虫取りしたり遊んだ体験は大人になっても記憶が残ると思うので、思い出として残してもらえるといいと思います。(体験施設)
子供たちが一時期虫に触らないようなこともありましたが、段々変ってきています。
北杜市にアカマツと広葉樹の混合林が多いがアカマツが枯れてしまうことがあり、枯れる前に伐採して放置していたが、そこにクヌギなどを1年間に1万本ぐらい植えて居ます。
荒れたところを下刈りをして、山を程良くいい状態に管理したり、健全な里山にしようと言うことで年間30ヘクタールの保全活動をやっています。
規模が大きくなったのは平成20年ぐらいからです。
北杜市は別荘が多くて薪ストーブがはやって、薪を売ったりして、そうすると地域の人にも波及してゆくということになってきて、結果として山を綺麗にする人が増えて来ました。

若い人たちに引き継いでゆくときに経済性も考えないと持続が難しいので、そういうことも考えながら若い人たちと一緒にやって来ています。
長くやってきましたが一番の原点は、オオムラサキを愛してしまった事と、故郷が好きだと云うことで次の世代に残していきたいと思っています。
羽化したばかりの美しさは言うことはないですね。




































2017年6月7日水曜日

福田尚武(舞台写真家)      ・“心の眼”で撮る歌舞伎役者

福田尚武(舞台写真家)      ・“心の眼”で撮る歌舞伎役者
1944年(昭和19年)山梨県生まれ。
映画とカメラ遊びの好きな少年時代を過ごし、小学5年生の時に上京。
高校大学時代は芝居に興味を持ち民間の同好の人たちで作る歌舞伎研究会に入りました。
歌舞伎座に出入りしながら写真を撮り始めて居ましたが、17代目中村勘三郎の写真を撮ったことが縁で本格的に舞台写真を撮るようになったとのことです。
15年ほどで歌舞伎役者全員のプロマイド写真を撮るようになりましたが、52歳の時に重い糖尿病が原因で視力の著しい低下と両足切断という事態に見舞われました。
その後、心臓病も患い義足と車椅子の生活を送っていますが、ハンディーを克服して、現在も歌舞伎の舞台写真を撮り続けて居ます
これまでに坂東玉三郎の舞台写真集を2冊出しているほか、2年前には自分が住んでいる東京豊島区で歌舞伎写真展を開いています。

今、ひと月に1劇場に行って1週間から10日ぐらいかかってしまいます。
11時から仕事を始めて9時から9時半ぐらいまでかかります。
間に休憩が15分~30分ぐらいなので、体力勝負です。
歌舞伎座が新しくなって、撮りやすくなったところと撮りにくくなったところとがあります。(いけなくなってしまった場所もあります)
車いすだと色々支障があります。
一時期、失明寸前まで行きました。
カメラも色々変えながら今日に至りました。
ミラーレスのカメラを使っていてモニターを見ながら撮影が出来るので、普通の一眼レフのようにファインダーから見ることがないので比較的楽です。

山梨県切石で生まれ、引っ越してきて豊富村で5年生まで育ちました。
母親始め兄弟が豊富村に住んでいて、父親は東京にいて、東京に遊び行くとボックスカメラがあり遊んでいました。
カメラ屋からカメラを借りて撮るようになりました。
犬を撮った時に写真募集があり送ったら入選してしまいました。(アルバムを貰いました)
映画も大好きで、毎週見て居ました。
高校の時に写真部に入ろうと友達に誘われて、写真部に入りました。
チャンバラ映画が好きで、舞踊会を見に行って舞台の写真を撮るきっかけになりました。
歌舞伎研究会がありそれに入りました。
その会長と話をして、いきなり歌舞伎の舞台を撮れるようになってしまって、竹之丞、猿之助、由次郎さん等の写真を撮ることになりました。

その後歌舞伎研究会に行ったときに17代目中村勘三郎さんの来られる日で、今まで撮った写真をスクラップブックにしていましたが、その中に勘三郎さんの写真もあって、勘三郎さんのものを見せて手の口元への位置について離れて居るのだがどうしてかと質問したら、それはシャッターチャンスの問題だと指摘されてしまいました。
11代目団十郎さんの写真もあり、しばらく見て居て僕の写真も撮ってくれないかと言われました。
1週間後に写真を撮りに行ったら何のことでしょうかといわれてしまいましたが、説明したらそれから本格的に撮れる様になりました。
ファンのかたから猿之助さんにも紹介されて、撮影も始まりました。
二枚目でればあるほど欠点は撮ってはいけない、まずその人の欠点(小さな欠点ですが)を探します。
役者に全て写真を見せて、OKになったもののみ使えることになっています。

元々きまりきったところを撮るのが厭で、芝居の流れの中で決まりと決まりがあるが、その中間にも必ずいい場面があるはずだと思っていて、女形には興味がなく、立役には動きがありその動きの途中が好きで立役を専門に撮っていました。
或る時、玉三郎さんにあなたの写真には動きがあるのでとてもおもしろいと思いますと言われ、女形にも動きがあるのかと思うようになり、女形も積極的に撮影するようになりました。
52歳の時に重度の糖尿病になり闘病生活に入り、両足切断、視力も低下することになる。
最初眼に来て、暗い場面をみると見えなくて医者に行って治療をするように言われて、レーザー光線で焼いて血を止める治療をしましたが、血は止まったが暗めに見えるようになりました。
眼から足に来まして、治療してよくなって治ったと思ってしまって、治療に行かなくなり、悪化してきてしまって歩けなくなって寝て居るような状態になってしまいました。

足を両方とも切りますと言われて、足の先を切るのかなあと思っていたら、段々起きられるようになって見たら足がなくてこんなに切ったのかなあと思いました。
その時も写真を撮る事は諦めることはありませんでした、未来に対する希望であふれて居ました。
20年前に入院して、退院してから写真を撮って写真を見てみたら、いつも黄色い衣装でやっている者が紫色に見えて、写真仲間に聞いてみたら変えて居ない黄色だといわれてしまいました。
以前の写真も黄色ではなく紫に見えて居ました。
右目はほとんど見えなくて、左目を使ってその場をしのぎました。
2度目に心臓病で入院して手術した後は、まるっきり動体がうまく見えない。
一日目は撮れなくて段々撮れるようになってきて、どうやったらいい写真が撮れるか、それには使いやすいカメラを考えなくてはいけないと思ってミラーレスに行きつきました。

玉三郎さんとは40年近い付き合いになります。
役者全員の写真を撮れるようになって、玉三郎さんと知り合ったばっかりの時、何百枚持って行くが4~5枚しかOKにならなかった。
或る日、「あなたはいい写真を撮ろうと思って狙ってるでしょう、狙っているからいい写真が撮れない、自分の思う通りにシャッターを切ってご覧なさい、そうすればいい写真が撮れるようになると思う」と言われました。
どうしてもわからなくて、或る時玉三郎さんが斜め後ろを向いてそれを何気なく撮ってみたらその写真を大変気に入ってくれて、3階から撮ってみたらそれも気に入ってくれました。
玉三郎さんはどこからでも撮れるのかなあと思って、正面、横、1階、3階とかいろいろのところから撮ってみようと実行したら玉三郎さんのOKがたくさん貰えるるようになりました。

それから気持ちが楽になって、撮る場所だけ考えて後は何にも考えずに撮りまして、OKがどんどん出ました。
30年間ぐらいになりますが、玉三郎さんほど楽に取れる役者はいませんでした。
ほかの役者も数人いますが別の意味で玉三郎さんは楽でした。
玉三郎さんの写真集の三冊目を出そうと思って急いで準備をしています。
撮った回数だったら何百万枚と云うことに成りますが、いいと言ったら何百あるかどうか、数えたことはありません。
死ぬまで歌舞伎の写真は撮っていきたいと思っています。














































2017年6月6日火曜日

須藤宰(ビニール傘製造販売会社社長)・ものづくりフォーユー

須藤宰(ビニール傘製造販売会社社長)・ものづくりフォーユー
東京のビニール傘の製造販売会社の社長、須藤さん62歳。
高価なビニール傘を販売して好調な売り上げが続いているということです。
須藤さんの先代の社長が初めて商品化に成功して、当時は月給の1/3程したという値段ですが、1980年代以降、外国からの輸入品が急増して須藤さんの会社の売り上げも大きく落ち込みました。
しかし、或る注文がきっかけとなって新しいビニール傘の開発に成功し、その良さが口コミで広がって、高価なビニール傘という新しい市場を切り開いたそうです。
須藤さんの客の顔が見えるもの作り、そこから生まれたものは何だったのか、伺いました。

1本の販売価格が7000円、ワンコインの傘との違い、全ての部分で違います。
傘はカバー、骨、手元、という3つの部分からできていますが、カバーは透明ですが、濡れてもべたつきにくくて、マイナス20度まで無変化、穴があいていて逆止弁が付いていて、内側から風が抜けて外から雨が入らない穴があいていて、骨はグラスファイバーの太い物を使っていて風速20~30mぐらいまで耐えられます。
年間1万5000本部ぐらいしか作れないが、全部売り切れて、シーズンには2カ月待ちと云うような状態です。
初代は享保6年(1721年)吉宗の時代です。
初代武田長五郎はきざみ煙草の卸業で暖簾を出しました。
2~3代目がきざみ煙草を保管する油紙をつかってカッパを作って、参勤交代などに使われるトラベルレインコートみたいになって、それがきっかけで雨具の世界に入って来ました。

和傘から明治になって洋傘を作って、売ってという形になりました。
9代目(父)がシベリアに抑留されていて、昭和24年に帰って来て、4年間の出遅れがあり後発と言うことになってしまいました。
みなさんが考えて居ないものを作ろうと画期的な物を開発して、それが傘カバーです。
当時カバーの素材は綿で色落ちしやすい防水性がない、という欠点があった。
その上にビニールでできたカバーをかぶせて傘を濡らさないで、という発想だった。
凄く売れました。
コピー商品もできたり、ナイロン素材の合成繊維が開発されて、よく売れたのは3~4年でした。
ナイロンでは傘カバーはいらなくなってしまいました。
ビニールは絶対に漏れないと云うことで、骨に直接張ることを開発しました。
アメリカの軍人家族からテーブルクロスがもたらされ、日本でも売られるようになって、その素材に着目したのが先代とビニールとの出会いでした。

最初切断して、接着したがよくなくて、文献から高周波ウエルダー加工があることを知り、それを日本で部品集めで組み立てることから、ビニール傘の開発が始まり5年ぐらいかかりました。
作った方としては大満足でしたが、販売の方からは置いていただけませんでした。
縫製職人の手をつかって作るものではないので、業界を壊すものだという評価を貰ってしまいました。(既存の販売ルートが使えなかった。)
商品が店先に出るような努力をしました。
布の傘という既成概念は変えられなかった。
東京オリンピックが行われて、アメリカの傘屋のバイヤーが着目して、アメリカで売ろうと話を持ちかけて来ました。
出来るだけ量産するラインを作らなければと言う段階になりました。
4~5年で注文がぴたりと止まってしまいました。
アメリカの業者が台湾で作ってしまうという状況になりました。

国内販売をするしかないと云うことになり、国内販売に注力しました。
デザイン、色などが外国人とは微妙に違って居ました。
透明な傘はだれでも使える傘で、いくら作っても問題がない傘と言うことで、海外で作られるようになってしまいました。
海外で作られるものの7割が日本向けになりました。
生産は最初台湾でその後中国で作られるようになりました。
私は父の会社に入ることになりましたが、その時は半年ごとに売り上げは半分に成っていくような状態でした。
国内の同業他社が段々辞めて行きました。(最大で50社ありました)
なんとか辞めないで少しでもいいからということで作っていました。
お客様の要望の傘で転機を迎えることになります。
透明で大きくて壊れない傘を作ってほしいとのことでした。(選挙のときに使用)

交通事故加害者向けの傘の強靭な骨があり、それを使って1本作りました。
加害者は現場検証に付き合わされるが、その時に2重の事故を起こしてしまい、大きい黄色い色の目立つ物を作りました。(数十本レベル)
傘にはバランスが必要、安定して持ち続けられることが必要。
注文のレベルにとどまらず当時のノウハウを全部つぎ込みました。(3か月ちょっとかかる)
大変納得してもらいまして、口こみで増えて量産レベルになりました。
お客様の顔が見えるようなもの作りをして、お客様が喜んでくれたところでゴールだなとというふうに思うようなもの作りに徹すれば、必ずニーズはあるだろうと思っています。
要望があったものに対して我々なりの提案をする中に、商機が見えるのではないかと思います。
材料を扱っている人はこちらからの課題がないと情報、ノウハウをいかし切れないので、お願いするテーマをいかにお伝えするか、と言うことによって結果は全く変わってきてしまう。

公務の場、お寺の住職が読経する時、芸能人スポーツ選手の屋外の移動の時、16本の骨の傘等色々です。
お客様の要望を聞いて具体的なものに繋がっていきます。
新しい考え方でお客様から認められるようになった来たということでしょうか。
空から降って来るものに対して人間は無防備なので、唯一対応できるのが傘だと思っていて、人を守る道具として扱うのかどうか、行く道は随分変わってくると思います。
お客様の顔を見失わないようにして、もの作りをしていけばもっと役になるものを作れるものと思います。
ビニールの折りたたみは難しいのですが、ビニールの折りたたみ傘を今提案しようと考えています。

























2017年6月5日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)・伊藤博文【近代日本150年 明治の群像】

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)・伊藤博文【近代日本150年 明治の群像】
神田蘭(講談師)
伊藤博文は大日本帝国憲法を作り、初代内閣総理大臣になった。
一方色好みで巧みな世渡りで出世した軽佻浮薄な人物と云うような見方もある。
本郷:現場の人、仕事をしながら自分で自分を教育して 才覚を伸ばしていったというイメージです。
伊藤博文を見て居ると学歴はいらないのではないかと思ってしまう。
本当の意味で人間に必要なのは地頭の良さ、伊藤さんを見て居るとそう思います。
神田:私の知っている人で親が付けた名前で博文という人が2人います、やっぱり英雄なのかなあと思います。
光とともに深い闇も感じる人だと思います。

講談で伊藤博文を披露
近代日本の礎を作った偉い方。
44歳2カ月で初代総理大臣、その後5,7,10代と4度にわたって総理大臣を歴任
大日本帝国憲法の立案、国民を政治に参加させようとしたアジア初の立憲政治の生みの親でもある。
女子教育の重要性を説いて東京女学館を建てた。
円という貨幣制度を作った。
山口県の貧しい農民の子として生まれ、17歳のときに松下村塾入門、吉田松陰のもとで学ぶ、尊王攘夷運動に身をささげて居た時に藩の命令でイギリスに留学。
西洋文明を目の当たりにして大きな衝撃を受け、開国論者になる。
命を狙われるようになるが刺客から博文を救ったのが、お梅、後の梅子夫人でした。
英雄色を好むごとく、女遊びが激しくなる。
政ごとに関してはだれにも話さなかったが、梅子夫人だけには打ち明けて居たそうです。

梅子夫人の写真が残っているが綺麗、下関の芸者だった。
木戸孝允の奥さん松子 、(幾松) も芸者だった。(当時の元勲たちは芸者を妻にしている人は多い)
ランドセルの原形も考案した。
ふぐ食の解禁なども行った。
イギリスに留学することによって、もの凄く大きな衝撃を受けたと思う。
教育の重要性を感じて官僚育成のための帝国大学、東京大学、女子教育も大事だと言って
東京女学館を建てた。
津田塾大学を創設した津田梅子さんとも交流があった。

伊藤博文は若い頃、テロリストだった。(人殺しもやっている)
尊王 孝明天皇(明治天皇の父親)を攘夷させるということで、塙保己一の息子の塙次郎が先例を調べて居ると云うことで暗殺してしまったと云うことである。
桂小五郎が親分だったが、大久保利通がでかい人間だと云うことになると、桂さんから離れて大久保に近づいてゆく。
明治政府の第一人者としての地位を自ら切りひらいて行った。
現実主義者だったようである。
明治10年木戸が死亡、明治11年に大久保が暗殺されて、伊藤博文がトップの方に上がってきてしまう。
大久保よりは一段下のレベルではあったようだ。

大隈重信とはライバル関係。
明治14年の政変、大隈一派を排斥する。
ここから伊藤の天下となる。
全国の各藩の優秀な人物が官僚として力をふるっており、面白いと思う。(能力主義)
明治18年近代的な内閣制度が出来て、初代内閣総理大臣になる。(44歳2カ月)
海外の憲法を学んで、憲法を作る。
明治を作った人たちは武士で何かあったら腹を切る、失敗は死であると、命を惜しまず働く覚悟があったと思う。
明治22年2月11日に大日本帝国憲法を発布する。
評価は色々あるようだが、今の学会の評価としては民権を配慮していると思う。
天皇の権利には一定の歯止めがあって、国民の権利にも目配りがされていると、学会の主流派の考えではないかと思います。

政党政治に道を開いた。
立憲政友会を自ら立ち上げる。
民主主義の第一歩にも手を貸している。
伊藤は日露戦争に関しては消極的だったといわれる。
軍部の台頭には慎重だった。
韓国統監に就任して、任期が終わったとハルビンで安重根に暗殺された。
朝鮮半島に関して宥和的な姿勢を示していたが、テロリスト(韓国では義士と呼ばれるが)に暗殺されてしまう。
女性遍歴の事に関する本などもある。
女優第一号になった川上貞奴を芸者時代に水揚げしたのが、伊藤博文だった。
(内閣総理大臣の時)
岩倉具視の娘の戸田極子さん 鹿鳴館の美人として有名だったがこの人とも浮名を流した。
下田歌子さん 当時の女性教育の第一人者とも浮名を流す。

「近代政治家評伝」の著作者阿部 眞之助 NHKの第9代の会長(かつての政治記者)の伊藤博文評価。
理想がなくて無思想の権謀術数の政治家として終始生きてきた。
あらゆる職分において初物喰いだった。(内閣総理大臣、貴族院議長、枢密院議長の初代についている)
天皇家の権勢持続のためを考えて居て、民主化と云う事はあんまり考えて居なかったのではないかと評価している。
この評価は厳しすぎるのではないかと思うが。








































2017年6月4日日曜日

増山江威子(声優)        ・【時代を創った声】

増山江威子(声優)     ・【時代を創った声】
増山さんはルパン三世の峰不二子、キューティーハニーのキサラギハニー、天才バカボンのバカボンのママなどの役で知られています。
ルパン三世の峰不二子は35年にもわたって演じてこられました。
増山さんはそれぞれのキャラクターにイメージを損なわないように、との理由でTVへの出演はほとんどされてきませんでした。

ルパン三世の峯不二子は2代目。
オーディションを2本作って、1本はのざわなちさんがルパン、私が峰不二子、広川 太一郎さんのルパンでそれも私が峰不二子をやりました。
蓋を開けてみたら、峰不二子が二階堂有希子さんに成っていて、ルパンが山田康雄さんに成っていて、結局駄目だったんです。
パート1が終わって6年経っていて、新たにオーディションがあり峰不二子への思いが強かったのでオーディションを受けてて受かりました。
キサラギハニーはサイボーグだったので、人間の色っぽい女の人の役をやってみたかったので。
絵が主役なので、絵がないと色々役をやっているので混ざってしまいます。
アニメの魅了は自分の姿がでないので、どれだけわくわくドキドキして次の役を作るかということ、そういう楽しみはあります。

ルパンのメンバーはみんな大人なのであまり私語もないし、一緒にご飯を食べに行ったりとかはなくてみんなバラバラですが、目的が一緒だとパッとまとまると言う感じでした。
昼はみんなで頂いていましたが。
全員が舞台出身なんで、仕事に対する姿勢が違います。
私は4人姉妹の末っ子で小さい時は喋ることが不得手でした。
ゆっくりしか話せなくて、コンプレックスでした。
12歳のときに、話すことをちゃんと勉強しようと思って、劇団の試験を受けて「新児童劇団」にはいりました。
麻生美代子さんが先生でした。
父が観世流の謡いをやっていまして、水道橋の能楽堂に父が出たりしていました。
劇団では周りの人がフランクに接してくれたので、自然に直りました。
ラジオドラマから入りました。
当時は生放送をやっていたので度胸は付いたと思います。

新たに劇団を作ろうと云うことに成って出来たのが劇団「山王」なんです。
浅利慶太さんの奥さんに成られた影万里江さんと一緒に「山王」にいたんです。
劇団四季にスカウトされて、私と影万里江さんが四季に行きました。(四季が出来て1年目)
四季の芝居は早口で、翻訳ものだったのでそれに付いていけなくて、外国映画、アニメなどが出てきて、そういったものをやっているうちに、結婚したので両立するにはどちらがいいかということで、声に切り替えてしまいました。
(時間的な面でTV、舞台は無理だと思いました)
全部ちゃんとやりたいので、子供のお弁当などもずーっと作って来ました。
ルパンのメンバーはみんな舞台からきているので掘り下げ方が違います。

最初の主役はハニーだと思います。
私自身が天才バカボンの絵を見たときに絶対私にぴったりだと思いました。
4シリーズやりましたが、2回までは同じキャスティングでやりましたが、3,4シリーズは全取り換えだったんですが、赤塚富士夫さんがママだけは変えないでやってほしいと言って下さってずーっと出来ました。
役に恵まれ幸せです。
宇野誠一郎さんは役者に歌を歌わせるのが好きで、そのうちにテーマなどを歌えるようになりました。
歌の喜びは得をした気分でした。(私でいいのというような感じです。)

若い人にはなるべく本をたくさん読んで色んなキャラクターの勉強をするべきだと思います。
本を読む事が少ないですね。
何十年と生き残って行くためには、アニメの声だけやってればいいと云うものではないと思います。
歌ったり踊ったりする、そういう声優もいいとは思います。
なんにでも対応出来る準備は絶対しておいた方がいいと思います。
今のヒロインはどれを観ても同じ様な気がするので、どの人も同じ様な声に聞こえてしまう事があるかもしれない。
やはり絵があってのアニメーションなので絵に合わす事が私たちの仕事ですから。
今後は高齢者が勇気を持てるような番組を出来たら嬉しいと思います。
























2017年6月3日土曜日

菅原直樹(劇団「OiBokkeShi」主宰)・“いま”をともに楽しむ

菅原直樹(劇団「OiBokkeShi」主宰)  ・“いま”をともに楽しむ~演じて輝く いのちのひかり~
岡山県を拠点に認知症のお年寄りの介護をテーマにした演劇の公演やワークショップを行っています。
老人ホームで介護職人をしていた菅原さんが実践するのはボケを受け入れる演技です。
介護者が演技をすることで認知症の人と心を通わせることが出来ると云うのです。
地域の中で介護と演劇を組み合わせたユニークな活動を続ける菅原さんにだれもが避けて通れない老いとの向き合い方を伺います。

岡山県内で劇団をたちあげたのが3年前。
劇団「OiBokkeShi」 意味は「老いとぼけと死」です。
多くのお年寄りと接しているうちに老い、ボケ、死からえる大切な事があるのではないかと気づきました。
老人ホームで暮らしている人たちの姿を見ると僕の求めている演劇の姿に近いなあと思いました。
ドラマチックな事だけではなくしずかな淡々とした日常、人間の存在そのものに価値をみいだすような演劇でした。
地域で演劇でやろうと思ったときに、参加していただく方も地域の人たちに成りました。
岡田忠雄さん 劇団の看板役者で2人が出会ったのは3年前でした。
演劇ワークショップを体験した時に物凄く生き生きと演技をしていて参加者の全員が驚きました。
岡田さんは昔から芸事が好きで定年退職後、数々のオーディションを受けてきたとのことで、劇団「OiBokkeShi」の一員なってほしいと依頼しました。

最初に会ったときに僕の事を監督と呼んでくれまして、岡田さんは役割を求めて居るのではないか、自分が俳優という役割を全うするためには、僕が監督をやるという、よし監督を演じようと思いました。
人はそれぞれ役割を持って生きてきて、老人ホームに入る事によって段々役割を持つことができなくなってしまったんではないかと思いました。
人は最期まで何らかの役割を持ちたいのではないかなあと思います。
岡田さんは舞台の上で死ねれば本望だと言っていて、岡田さんが言うとリアルだし、重いんです。
どういった芝居を作るか考えて居なくて、岡田さんの話を聞いて、介護の話を聞いていて、最近妻が徘徊して困ったと言う話があって、徘徊をテーマに演劇を作ってみようと思いました。
徘徊を入り口に認知症の人が観て居る世界を想像することが出来るような芝居が出来たら面白いのではないかと思いました。

劇はこの街そのものが舞台です。
認知症の妻が徘徊していなくなってしまって、みんなで探すが意外な事実を知らされる。
おばあさんはすでに亡くなっていて、その悲しみからおじいさんが認知症に成ってしまったということです。
観客はおじいさんの妄想の世界に付き合わされていたことに気付く。
第一回公演から地域一体型にしました。
面白い融合が地域の中で生まれました。
地域の人たちの支えは重要になって来る、地域全体で見守るようにして、認知症のお年寄りは買い物したり散歩すたりすることができるかも知れない。
認知症に対して理解していないと、家に閉じ込めたり監視したりするようになってしまう。

岡田さんは90歳に近いので、迎えにいったり、いろいろフォローをしました。
或る意味デイサービスのような感じです。
原点となったのは、広島で一人暮らしだった祖母を栃木に呼び寄せたことでした。
ボケを受けいれた方がいいか、ただした方がいいのか悩みました。
認知症を感じ始めた最初の時期でした。
現実に戻ってきてほしいと云う風な関わりをしたが、祖母はキョトンとしていました。
高校入学したときに演劇部に入り、脚本、演出の勉強をしたいと思いました。
俳優の体験もして驚きでした、僕のような人間でも居場所、役割があるんだなと気付き、演劇は面白いと思いました。
その後東京の劇団でさまざま現代の問題を見つめる舞台に立ち続けました。
特別養護老人ホームでも働き始め、介護と演劇は相性がいいということに気付きました。
ボケは受け入れた方がいいんじゃないかと思うようになりました。
ボケを正していては介護する方もされる方も、幸せにならないのではないかと思いました。

認知症の人はすぐ忘れたり、論理的にはおかしなことをしますが、感情は残っています。
論理や理屈にこだわるのでなくて、感情に寄り添う関わり方をした方がいいんじゃないかと思いました。
人を思いやる気持はしっかりあって、しかしそれは中核症状によっておかしなアウトプットに成ってしまっているのかもしれない、介護者は行動にそのまま反応するのではなくてその奥にある気持ちを察する必要があるんじゃないかと思っています。
そうすることによって、認知症のその人の気持ちを受け取ることが出来るかも知れない。
介護現場で働くことによって認知症への考え方が変わりました、認知症の人は色々な事は出来なくなるかもしれないが、今この瞬間を楽しむことが出来ると云うことに気付いたからです。
演劇という表現形式の最大の特徴は、今この瞬間を楽しむ、だと思います。
今この瞬間を楽しんでくれたらすぐに忘れてくれてもいいや、というような感じになりました。

活動するときに必ず守っていること
①相手に寄り添うこと。
②自分の価値観を押し付けず、相手の気持ちを一番に尊重する事。
劇団を立ち上げる時に長兄が自ら命を絶つ。
兄は体が弱くて、職場でも人間関係がうまくいかなくて仕事を辞めてしまいました。(3年前)
相談にのったりしていたが、自分で死を選んでしまいました。
僕は演劇とか介護に出会ったのでたまたま運よく自立できたが、兄とは共通点が多くて根っこは似て居ると思いました。
兄に対してこちら側の価値観を押し付けてしまっていた事はあると思います。
ああした方がいい、こうした方がいいとか仕事を見つけたら楽になるとか、励ましてましたが、結局は兄の心には響いていなかったんだと思います。
こっちの価値観を押し付けると云うことは、人を動かさないんだなあと、当たり前のことを知ったという感じです。

劇団を立ち上げてつっぱしろうと言う気持ちがありましたが、その矢先に兄が亡くなったのでつっぱしらなくてもいいかなあ思いました。
岡田さんのペースに合わせながら芝居が出来たらいいなあと思いました。
目標をしっかり決めずに、いまこの瞬間を共に楽しみながら、演劇をゆるゆると出来たらなあと思いました。
人は段々老い衰えて行く存在で、出来なくなってゆくが、無理をして成長させるのか。
.お年寄りは今この瞬間が一番いい状態で明日は更に衰えて行く、今この瞬間を楽しまないで何時楽しむのか、そうするとお年寄りの認知症のボケも受け入れた方がいいんじゃないのかと思ったわけです。

岡田さんは90歳を超えて居てるのでいつ何が起こるか分からない、岡田さんと一緒に作っているとこれが遺作に成るのではないのかと思ってしまって、そうすると岡田さんが輝きだすんです。
稽古の一つ一つ、この瞬間をたのしむことが大切なんだなと実感します。
次回は看取り演劇ですかね、死と向き合うと云うことになりハードですが、必ずしなければいけないテーマだと思っています。





































2017年6月2日金曜日

髙橋幸枝(医療法人社団理事長・精神科医)・100歳の女医の“さじ加減”

髙橋幸枝(医療法人社団理事長・精神科医) ・100歳の女医の“さじ加減”
現在も病院を始めリハリビ、デイサービス、就労支援施設など医療法人理事長として現役で仕事をしています。
高橋さんは人生元気に生きてゆく為には心のさじ加減が大切とおっしゃいます。
100歳の人生の先輩として、精神科医として私たちの生きるヒントになる心のさじ加減を伺いました。

あと5カ月もすると101歳です。
昔は薬を乳鉢で磨って匙で分けて居ました。
「小さなことの積み重ね」出版。
生きて行くと云うことはさじ加減を見極めて行く営みに他ならない。
全部が全部人が違うので、その時によって考えて強く言ったり弱く言ったり優しく言ったり違います。
出身は新潟で、父は医者をしていました。
男の兄弟は大学に行って、私は女学校を出て、職業婦人憧れて居ました。
東京で、海軍省のタイピストとして勤務。
退職し、中国の青島に、その後中国北京にて、日本人牧師の元で秘書として働く。
中国なら青島はいいところだと言われ、ほんとうにいいところでした。
青島の教会に行っていたので牧師さんとして清水安三氏が講演に来られて、感激してお願いして、北京の清水先生のところに変わりました。
北京で清水先生は貧しい人のために学校とか慈善事業などをやっていました。
先生が医者にならないかと勧められ、受けてみようかと思って3~4カ月勉強しました。
戦争が終わって5~6年してインターンをして33歳で医者に成りました。
ここにきてから50年に成ります。

ずーっと内科、小児科をやっていましたが、段々患者の心の中の痛みが身体に潜航するんですね、それで精神科、心の病気に興味をもって勉強しました。
骨折を2回やっています。
初めては92歳の時に大腿骨骨折、歩けるまで1カ月ぐらいかかりました。
家では3階まであるので、頑張りました。
最初の一歩が怖かったです、なにをやるにも同じですが。
一往復100段です、それで筋トレに成ります。
趣味は水彩画で80歳から始めました。(それまでは忙しくてできなかった)
出来ないことをやってみようと思い、NHK通信教育に手紙を出して、描いて送ると添削してくれました。
何ヶ月か描いているうちに楽しくなってカルチャーセンターに行って、知り合いもできました。
山で花を見たり景色を見たりして、きれいだなあと思っても、描くとなるとよく見ないと描けないので観察が細かくなっていきました。
今まで見えなかった美しさが見えるようになります。

そういったことが診察にも応用できます。
100歳になるとなかなか長く描けないし、いい作品も描けません。
数独、数字のパズルは骨折した時に暇なので病院で始めて、それがきっかけです。
食生活はごく普通です、肉、魚、野菜も均等に食べます、サプリメントみたいなものは使用していません。
食べる量は少ないですが、お茶わんに軽くいっぱいぐらいです。
人間にはたんぱく質も炭水化物も必要です。
食欲がないと云う時には抜いてしまうこともあります、身体が要求するときに食べればいいと思っています。
料理は自分でやりますし、楽しいですよ。
新玉葱を電子レンジで5から6分してマヨネーズで食べるのが甘くてうまいです。
風呂は気を付けて入ります、転んだりしてけがをしたりするので気を付けて居ます。
風呂の温度は冬は43度、今は42度にしています。

6時ぐらいには朝起きて居ます。
起きたらすぐに着替えて、朝食の準備をして、新聞を下に取りに行って食べてそれが1時間半かかります。
病院での診察はしませんが、用事があったり会議があったりします。
2回目の骨折をした昨年の3月ごろまでは診察をしていました。
薬を出すのにパソコンを使わなくてはいけないので最小限パソコンはやります。
患者で一番多いのが不眠で、あらゆる病気に関わって来ます。
鬱にしても不眠で訴えて来ます。
患者にたいしてよーく聞きます。
私も身体を動かさないので不眠に成りますが、睡眠剤を飲んだりしています、我慢するよりも飲んだ方がいいと思います。(先生に相談して飲めばいいと思います)

精神科の病気では鬱状態に成りますから、それは鬱病ではないです。
人には悩みはなかなか言えない、人に言えるようになった時は楽になった時だと思います。
先生に会って楽になったとおっしゃる方が居て嬉しく思います。
薬の使用は自分で勝手にしないで先生に相談した方がいいと思います。
よくなったからと言って薬をぱっと止めてしまわないで、徐々に薬を減らしていくようにした方がいいと思います。
私は薬はたくさんは出しません、最小限にしています。
高齢化社会を迎えて、体力、心も弱くなるのであんまり頑張らなくてもいい、自分を甘やかすということもまずいと思います。
我慢しないで苦しかったら我慢しすぎなくて良いと思います。










































2017年6月1日木曜日

笠原博司(染織家)        ・里山の手仕事をつなぐ

笠原博司(染織家)  ・里山の手仕事をつなぐ
57歳、故郷宮城県加美町小野田地区に染めと織りの工房を開いておよそ30年に成ります。
東北有数のコメどころ、宮城県加美町小野田地区はかつて養蚕が盛んで自家用に着物が織られていました。
笠原さんは使われなくなった幡織機を譲り受けたことがきっかけで、織りの世界に出会います。
そして信州松本で植物を使った染めと織りの本格的な技術を学びました。
笠原さんは自ら作品を作る傍ら後進の育成にも取り組んでいます。
染色を始め、木工、陶芸など古くから里山で行われてきた手仕事を発表する場を作って
東北の工芸界に新しい風を吹き込んでいます。

植物染料はデリケートで定着するまで不安定な時間があります。
藍染めで使うので灰汁を大量に保管しています。
たまねぎの皮、栗のイガなどもあり染めの材料に成ります。
薪を燃やした灰を回収して灰汁を使って、使い終わった灰は陶芸家に差しあげて居ます。
紫草の根をつかった染め、薬用に使われていてそれを利用して染めでも使えないかと試験染色しています。
紫草が絶滅危惧種に成っていて貴重なものです。
聖徳太子の時代に一番官位の高い人が紫を着られて、それを紫染料として取ったのが紫根といわれています。

振袖も手掛けて居て、薄い紫で構成されています。
織りは2割程度の作業で残りの8割は糸を作ったり染めたり柄をこさえたりするために糸を並べたり、下ごしらえが非常に大事で前段階に時間がかかります。
骨董好きで、古い織り機を手に入れてそれを動かしてみようと思ったのがきっかけです。
この辺全体が養蚕が盛んで町中で養蚕する家が多かったです。
この地区では一部自家消費するために自分の家で糸をつむいで、織ると云うこともしていました。
織り機を動かすために、あるおばあさん(高嶋なつゑさん)がいるから聞いてみたらと言われて、好奇心から始まりました。(23歳の頃)
この地区では生糸をそのまま白い糸で織る方法でした。
自分でデザインしたいという衝動に駆られて、山形県の学校に通って基礎を勉強して、植物で染めた色を見て、植物染料の魅力を探ってみたいと思ったときに、絹工房を探していました。
見つからず絹をおいといてまず藍染めとかすりを先に習得しておきたいと思いました。
その後紹介されて、信州松本の本郷大二さんのもとに弟子入りすることに成ります。

松本自体が凄くいい町でこういう環境で仕事が出来たらいいなと思いました。
工房を案内してもらったが、私がやりたいことを全部やっていました。
絹織物、信州紬、植物染料、糸のより、藍染めもやっていて、絶対ここで仕事をしたいと思いました。
反物にして湯のしという最期の仕上げまでやっていました。
柳宗悦さんの民芸運動を起こした方が足跡を残されていて、松本、倉敷、沖縄、益子、盛岡など、松本は松本民芸家具の池田三四郎、漆の丸山太郎さんとかが居てその中の一人に本郷大二さんがいた訳です。
色々な先生とも出会えて凄く密着度が高かったです。
息子さんの本郷孝文さんは白馬にセカンドハウス(大きな古民家)を持っていて、一緒にかやの修理、雪下ろしなどもやりました。
工芸に関わると云うことは生活にかかわると云うことですから、本郷孝文さんから色々学びました。

自分なりのものを作り上げて行くと云うことで現在に至っています。
着物と言うと伝統とか過去のものみたいなアプローチの方もいますが、最終的にはファッションで、今の生活の中で衣料としての着物をきちんと着れないといけないという考えがあるので、晴れの場で着ることが多いから、そういった環境のなかでもマッチするデザイン、色とかが必要だと思いますので、そういったものを目指しています。
伝統と言うことだけではなく今なんですよ、と言うことを押さえておかないといけないと思っています。
地域の中だけでなしえるかと言うと今は無理に成ってきて居て、伝える相手がどれだけ共感してくれるのかいうことも含めて言えば、もっともっとその広がりはあってしかるべきであると思うので、この里山の環境で行われていましたと言う事がマインドとして伝えるのも一つの方法だと思っています。

織物、染物を勉強したいと言う人が遠くから来てくれていて、この織物が広がってそこで文化の花が開いてくれればいいと思っています。
終了するまで180色ぐらいの染色資料を作って、織りは織りの色んな技術を学んで自分の作品を作ります。
着物に仕立てて着用して、みなさんに観ていただきたいと思って、動いているところを見ていただいて卒業式と言うことに成ります。
糸から染められて織られた無地の着物は非常に深みがあります。
家内が工芸ギャラリーをやっていて、若い人の発表の場があったほうがいいと思いますが、難しいのでそのためのギャラリーが必要です。
北杜工芸展を立ち上げて、「新風展」で若い人を集めて発表しています。
求める人がさまざまなのでそういうものに対応できる技術がないとできないので、そういったものを含めて工芸だと思います。
生活のなかに溶け込んで使われてなんぼ、でいて美しい、存在感があってみたいな、工芸ってそういう部分だと思います。

























2017年5月31日水曜日

吉井久夫(暖房器具製造会社社長) ・みんなで“一歩前進”

吉井久夫(暖房器具製造会社社長)  ・みんなで“一歩前進”
吉井さんの経営する会社は新潟平野の水田地帯にあります。
吉井さんは地方都市にありながら石油ファンヒーターのトップ企業として、長年黒字経営を行っています。
また、社員や協力会社のひとを大事にし、地域とともに豊かにという経営方針で知られています。
吉井さんは芝浦工業大学で電気工学を学び父親と地元で電気店を営んでいましたが、石油ストーブの技術が急激に変化する時代、電気の知識、技術を買われ先代の社長にスカウトされて入社し、現在の石油ファンヒーターを作り上げました。
吉井さんは会社に関わって40年余りに成りますが、石油スト―ブという冬場にしか売れない商品を、年間を通して安定して製造販売する体制が出来たのは、社員や協力会社のお陰で次の世代にもこの経営を引き継ぎたいと言っています。

ふつう冬物は10月から12月が販売のピークですが、生産の方ははほぼ平準化して生産をやるようにしています。
必要な時に必要だけ作ると云うことになると3か月で対応しなくてはならず、今の4倍の人と4倍の設備が必要になります。
平準化すると働いている人にとっても安心しますし、協力会社さんも安定した生産が出来ます。
50%は内製で残りは協力会社さんにお願いしています。
社員は500名強いますが、協力工場さんも500名近くいます。
ストーブを始めて40年近くなりますが。20年弱前から何とかそういうふうにしようと、毎年努力しながらこういう状態に成りました。
働く人を大事にする会社ということで、2名は臨時でいますが、パート、季節社員などはいません。
小泉さんの改革の時に派遣がゆるくなったんですが、出荷担当で臨時に雇った時はありますが、臨時の人の半分を正社員にして派遣は中止にしました。
そして正社員を100%にするようにしました。

現場で生産している人も出荷が大変な冬場の時には、やりくりして手助けをするようにしました。(多能工化により平準化)
QC活動は活発にやっていると言われますが、QC活動は当たり前にやっています。
QC活動はコストダウンなどが評価されますが、当社では半分以上は難しい仕事、辛い仕事などを楽にすることも評価しています。
障害のある方も入ってきて、先生とかその後輩たちが雇用した人が長く雇用されていることを評価して、新たに雇用する様になりました。
ごく当たり前に入って仕事をしているので、あまり目立ちません。
営業担当は全国にいますが、工場を中心にして車で通える範囲の人が働いています。
地元が好きな人がたくさんいる訳で、郷土愛のためにここで生活できればという思いがあると思います。

海外生産をして利益を上げようと、新潟県内でも結構海外生産に出たところもありますが、石油ファンヒーターは日本の得意な商品なんです。
競争相手が外から来なかったということもあり、海外に出て行って生産する方がリスクが多かったと言う良い背景もありました。
自分の利益が儲かっても、ここで生活する人にはなんにも還元されないので、日本での雇用を成立させる方の価値が大きい様な気がしました。
100%海外展開した会社もありますが、雇用されていた人達は大変だろうと思って、ここの人たちと一緒に働くことが大事だと思いました。

会社創業者は佐々木文雄さんで彼にスカウトされました。
ストーブは電気の部分が50%ぐらいに成り、電気の専門家を探していて、手伝ってほしいといわれて、電気の担当を一気に引き受けました。(昭和48年)
53年前は加圧式の石油ストーブを作っていて最先端を行っていました。
芯上式はだれでも簡単に付けられるので、その新製品に駆逐されて倒産することに成ります。(社長が42歳の時)
18人で再開し、電気を使って新しい石油ストーブを開発しました。
電気を使うことで安全な石油ストーブを作ることに成功しました。
最初電気での故障が多くて、その商品が出来て2年目ぐらいの時に入ってきて、故障しないようにして急激に伸びていきました。
先代社長は倒産の危機を経験して胃潰瘍に成り、大手術をしました。
200人ぐらいの人は失業するし、倒産は絶対あってはいけないと思いました。
その後悪い時期もありましたが、先代の社長は解雇しないと云うことにしました。

倒産すると云うことは、従業員を路頭に迷わすということは、罪というか悪さは凄く感じます。
うちの会社は独自の商品でお客様に提供しようと云う事があります。
効果、効用のないものを売ってはいけないと思っています。
マイナスイオンがはやったことがありますが、本当に効果があるかどうかは証明されていないので、それはまやかしではないかと思ってそういったことで売ってはいけないと思います。
使用者に何時までも愛される良い商品を提供する。
社是で良い商品を作ることを唱和しています。
意見は自由に言えるような雰囲気になっています。
自由に言えるとか、こうなって貰いたいとか、こっち側からそういった雰囲気、環境を作ることが大事だと思います。
発揮する能力は意欲で差が出て来ると思います。
そして結果が悪いのは社長で成果は社員だと思います。
上場するときにマイカンパニー、アウアカンパニーからユアカンパニーに替わるんだと言われたが、我々の会社じゃないかと思ったが、或る時に在庫が多くなったときにうちは内部留保があったので生産をそれ程しなくても会社として問題無かったが、協力工場が50%になったらやっていけないと思って、アウアカンパニーではなくてユアカンパニーーだと言うことを実感じました。









































2017年5月30日火曜日

新村拓(北里大学名誉教授)      ・ほどほどの生を生きる

新村拓(北里大学名誉教授)  ・ほどほどの生を生きる
1946年生まれ、早稲田大学で学び、人の死、病、老い、看取りについて日本人がどのように考え対処してきたのかを研究してこられました。
医療技術の発達と社会制度の充実がもたらした高度の治療と延命、高齢化に直面している現代、新村さんはほどほどの養生によるほどほどの健康を得て生きることを生き甲斐とするのが理想ではないかと考えています。
ほどほどの生が何よりと言う新村さんのお話を伺います。

20代の半ばから生老病死を研究するようになりました。
中学生のころから自分がどう生きたらいいのかと言う、生きることの意味について非常に悩みました。
勉強しなくなって本を乱読しました。(年間300冊ぐらい)
大学を受けようとしたときに、農業しながら晴耕雨読ということを考えて農学部を受けたが落ちまして浪人生活に入りました。
哲学をやろうと思ったが裏付けがない、頭でつくりだす。
過去には人が自分なりの結論を出し死んでいった人たちが何か書き遺したものはないかと調べてみようと思って歴史を選びました。
生老病死を考える様になりました。
病気の時にどういうふうに考え、どういう行動をとったのかを調べ始めました。
医学史、医療史との分野にも入ってゆくわけです。

古代は不老長寿を理想として、中国の道教の思想が強かった訳ですが、平安時代の半ばぐらいになると、来世の思想「欣求浄土」極楽の世界を目指すと言う仏教の教えが非常に影響力を持ち始めます。
鎌倉、室町時代に成ると今までの不老長寿は否定されてくるようになり、長く生きたところでそんなに意味があるのかと、一人だけ取り残されてしまう事に成る、それよりもその日その日を大事に生きると言うことの方がいいという教えが出てくる。
それぞれの年代ごとに課題を設定しろと、それを一つ一つクリアしていけば後で振り返った時に自分の人生は充実していたと、そういう思いを持って死ねる、それが人生生きることの最大のいい生き方であろうと云うふうに変わってくる訳です。
江戸時代になると、儒教の考え方が非常に強まってきて、長生きすることは重要だと云うことで養生に努めることになる。
歳をとって人の道が成就する、老熟、人道の成就、人間の価値は老熟すること、人格の完成が生きる事の人としての目的なんだと云うことで、長生きしないと意味がないということに成るわけです。
また自分を産んでくれ親に孝行を尽くさないといけない。
親孝行するためには長生きしないといけないと云うことが言われるわけです。

養生の考え方は元々中国が源泉で、それが古代に入ってきて受け繋がれ、養生の事について書いている、貝原益軒はそれらを集大成した。
その後も養生論が出てきて内容も変化してきている。
長生きのためには日々の生活を律していかなければいけない、そのためには3つある。
①好色を慎まなければいけない。
②食欲についても慎む必要がある。
③寝ることを慎む。
欲を抑えることによって疲れもしなくなり、体調も良くなり、長生きできるということになる訳です。
自分の体は先祖から受け継いできているものなので、大事に次の世代に受け継いでゆく必要があると言うことも云われる訳です。

江戸時代の半ばから後期にかけて、長生きしてもボケてしまえば意味がないと云うことになる、ほどほどの所でいいのではないかということになる。
養生もほどほどということになる。(生活が楽しめない)
ほどほどに養生してほどほどの所で死ねばいいということに成る。
江戸時代の初めは大家族制(奉公人含め15人とか)、それが小家族制(5~6人)に移行して行く。
介護が必要になると手がないから大変で、放っておかれてしまって、そういうのを見ると迷惑をかけるし、老醜をさらすことに成り、ボケる前のほどほどにということに変わってくる。
幕末に成ると健康なんてない、十全健康と云うものはあり得ない話だと、帯患健康が普通なんだと、多少病気があっても日常生活で折り合いをつけて、不便も感じない、それが健康なんだと変わってくる。

明治を迎えると儒教思想が無くなり、生理学を裏付けとした健康論に変わってくる。
富国強兵、国のために、公益のために、と重心が移って来る。
国の為健康が強制されるようになる。(健康チェックがいろいろされるようになる)
現代は強制される健康、医療費削減という大前提のもとに自分で健康を管理する、健康の自己責任と云う事が言われ始めている。
迷惑をかけないということは非常に重要な徳目に成っているわけです。
どの程度ならいいのかということですが、貝原益軒は100歳が人間の限界だろうと云っていますが、ほどほどの限界は60歳まで生きれば結構だろうといわれる訳です。
跡取りにまかせ楽隠居が人生の目的だと、いろいろな事に縛られないで自由に生きる、それが60歳代だといわれる。

だれでも自分が住み慣れた所で最期を終えたいと云う希望はある訳です。
1990年代の終わりごろの全国調査で在宅死を希望したお年寄りが8割、今は6割を切っているようなところです。
1951年では8割が在宅で亡くなっていたが、1977年病院死の方が増える、現在は8割が病院死、在宅死が13%、7~8%が老人ホーム老人施設で亡くなっている。
希望と現実の違いが6割ぐらいあった。
在宅死を支えるのにはどうしたらいいかということを、研究のテーマとして沢山の人に協力をいただいてやっています。
歴史を踏まえて考えていった場合に、以前は家で看取る為の技術、知識を持っていた為に、家で看取れた。
病院で死ぬ方が増えて行って、77年以降は病院死が増えて行き8割程度に成り、家族地域の人たちの中から看取る為の知識、技術が無くなって行く。

20年前ぐらいから医療費が増えて行くなかで、なるべく病院にかからないように、病院で死なないように家でという方向性が打ち出されるが、知識、技術がないのでまだ家で看取る覚悟がない。
本人が家で死にたい、それを支えるためには看取りのための知識、技術を家族、地域の人達がふたたび取り戻す必要がある。
そのためには高校の授業の中で教えればいい。
昔は家政学の授業の中で、末期の症状はこうなんだ、どうすればやすらぐとか、死亡の確認はどうすればいいかとかを教えるわけです。
昔は高齢者が25%、75%は若い人が死んでいる、乳幼児の死亡も多かった。
今は亡くなるのは年寄りは9割です。

死というものに対して受容する能力が以前は高かったが、今は看取りの技術、知識も無くなって全部病院任せに成ってしまっている。
だから高校の授業で教えればいい。
人間が歳をとって死ぬと云うことはどういう状況に成って死ぬのか、ということを家族が見ることによって、人生を学べる訳です。
限りある時間の中で自分の人生を燃焼し尽くすと言う気持が湧いてくるわけです。
2000年から介護保険が始まり、それがあり助かりました。
父の介護で母と12時間ずつ担当する訳ですが、一番困ったのは人手であり、大変でした。
地域包括ケアシステムが出来つつある、医療機関、介護施設、その他の施設を統合連携して在宅で継続的に安心して療養生活が出来るシステムを立ち上げようとしているが、それは結構なことだと思います。

地域で見て行く体制、地域のかかわりが薄くなってきているので、もう少し昔にかえって見てみることも必要なんだとは思いますが、家に入ってきて他人に介入されることも厭と云うこともあります。
戦前は地域の人が家に入って結婚葬式など手伝うことがあり、その延長で看取りがあったわけです。
一日一日しっかり生きていれば何時死んでもいいという気持ちになれる訳です。
それぞれの年代ごとに目標を決めて課題を設定して、一つ一つ課題をクリアしてゆくと言う計画的に人生を生きると言う生き方をしていれば、そんなに死を恐れる必要がないかと思う。
「ほどほどの養生でほどほどの生を」ということですね。



















































2017年5月29日月曜日

松本隆(作詞家)          ・【謎解き うたことば】

松本隆(作詞家)     ・【謎解き うたことば】
松本さんの作った歌は2100を超えて居て 400組近いアーティストに歌詞を書いて居ます。
「赤いスートピー」や「ルビーの指輪」など多くのヒット曲を生んでいます。

日本語学者 金田一秀穂:「はっぴいえんど 」は衝撃的でした。
松本:はっぴいえんど から洋楽ファンがファンに成ってくれました。
金田:フォークソンブがはやったが、新しい音楽だといっていた若者がいたが、演歌みたいじゃないのとは思いましたが。
「はっぴいえんど 」の詩の様に歌う詩と詠む詩はどう違うんですか?
松本:音楽が好きでロックバンドのドラムをやっていて、詩は趣味で中学ぐらいから興味を持っていました。
混じることはないと思っていたが「はっぴいえんど 」で交差したんです。
その前に2から3の秀作はあるんですが、いきなり「はっぴいえんど 」でした。
現代詩は難しすぎて、読者には判らないと思いました。
ジャン・コクトーは判る言葉で書いていて、なるほどと思いました。
日本の詩人は中原中也、萩原朔太郎、宮沢賢治などが好きでした。
僕は中原中也、宮沢賢治に育てられたと思います。
中原中也に教わったのは音楽的なリズム。

日本語は表意、意味があってそれを表している、形がその中に暗に含まれている。
漢字は綺麗だなと思いました。
追求してみる価値があると思いました。
見た目が美しい様に、音としてもロックのビートに乗るように両方兼ね備えたらパーフェクトに表現できるのではないかと思いました。
「はっぴいえんど 」と平仮名で書きました。
それで70年代平仮名がはやって、いろんなものが平仮名に成って、場末のスナックなども平仮名になったりして真似されすぎました。
作曲は細野晴臣さんであの人は天才ですね。

幼児体験が大事だと思っていて、幼児の時に知っている言葉で表現していかないとリズムに乗り遅れるみたいに感じます。
一音一語に付けて行くと綺麗です。
字余りの曲はあんまりないです。
*「風をあつめて」
「風と詩」にしようかと思ったが、他に使われてしまって、アルバムのタイトルは色々考えて「風街ろまん」に成りました。
マックスロードというコーヒー屋さんが好きだった。
田舎で育った青年が上京してくると渋谷のマックスロードを探すらしいです。
今は京都と神戸の両方に住んでいます。(ずーっと東京暮らしだったので他に住みたかった)
東京は行き過ぎた都会に成ってしまっているように思う。
渋谷をガングロが占拠してしまって宇宙が近所にある様な気がして違和感を感じました。

京都のいいところは10割のうち2割が学生で、毎年入れ替わって来る。
そういう人たちに紛れ込んでいる。
神戸は港町で何となく良い風が吹いています。
山からくる風と海からくる風と切り替わります、その切り替わる時は無風状態に成り凪ぎに成ります。
日常と非日常の隙間に詩が入っていて、隙間が大事で、その隙間を掘るんですが日常も非日常もちゃんと描いてやらないといけない。
優秀な作品はみんなそれがちゃんとしている。
京都、神戸は自転車で回れるのがいいですね。

















鈴木文弥(元NHKアナウンサー)・【特選スポーツ名場面の裏側で】(H19/10/11 OA)

鈴木文弥(元NHKアナウンサー)・【特選スポーツ名場面の裏側で】(H19/10/11 OA)
平成25年1月に88歳で亡くなられた鈴木さん、戦後の昭和23年にNHKに入り、以来34年間スポーツアナウンサーとして数々の名放送を残してきました。
昭和39年の東京オリンピックのラジオの開会式や女子バレーボールの金メダル実況等、名調子の文弥節は多くのスポーツファンを魅了しました。

NHKを退職して24年、82歳。
*昭和39年の東京オリンピックのラジオの開会式の実況放送。
昨日のことのように思い出します。
私はTVをやりたかったが、呼ばれてラジオをやってほしいと言われました。
妻から「オリンピックの開会式の実況するってすばらしいことじゃない。」と言われてはっと目が覚めました。
絶対ラジオの開会式を完全にものにしようと思いました。
私は原稿を持たない、参加94カ国を全部覚えました。
163段の階段を上がる坂井義則君が一つのポイント、それから選手の入場。
国によって人数が違うのでたとえばフランスは25秒かかる、25秒間にその選手団の事が全部云えるようなアナウンスを考えるんです。
毎日94カ国を1カ月やりました。(実況の練習)

開会式の実況放送のなかで、
「開会式の最大の演出家それは太陽です。今日の主役は太陽です。」という言葉があるが、前の日は大雨で、志村正順さんから最初の文句を考えて居たかといわれて、私は考えて居なくて、志村さんが「この天気を見てみろ昨日は大雨で、これは神風が吹いた、元寇の役だ」と言って、「神風が吹きました、と言え」と言いました。
部長の命令でもさすがに神風はいけないと思って、席に座った時に青い空を見てこれは主役は太陽だと思いました。
その場でぱっと出た言葉です。
163段の階段を上がる坂井義則君の実況、「・・・聖火台の右手に立ちました。」これが53秒で、52秒でも54秒でもいけない。
そのために練習をしました、努力ですよ。
原稿は無くて目と大きな時計だけです。
1カ月以上かかりました。

「一世一代の放送をしてやろう。この開会式は自分の最高傑作であるとうぬぼれている。」と本に書いたが、人間は天才はいないと思う、努力ですよ。
王貞治さんにいろいろ教えられました。
人間って、毎日毎日努力を重ねることによって出来て来るんです。
新しい言葉が出てくる、体燥の「ウルトラC」、バレーの「金メダルポイント」
技のなかで易しい順からA,B、Cとあり、日本は二つCをやっていてダブルCにしようとしたらそれはだめということで、「ウルトラC」にしようと言うことが最終的になりました。
「ウルトラマン」はここから来ました。

「金メダルポイント」 当時女子バレーの日紡貝塚が金メダル候補だった。
大松監督は厳しくて練習風景を見せないが、私だけは練習風景を見させていただきまして、2時ごろ見に行きましたが、7時、8時に成っても終わらない、やっと終わったのが10時半ですよ。
毎日そういう練習をするんです、見て居て涙が出ました。
無敗同士のソビエトとの対戦で、第1,2セットを日本がとり、第3セット 14対9ここでマッチポイントを日本が迎えるが、その時ぱっと出たのが「日本金メダルポイントです。」という言葉ですが、その後決まらないで14対13まで追いあげられる。
6回の金メダルポイントを発言することになる。
終わった瞬間に涙があふれて止まらなかったです。
予定していた言葉と云うのは心に響かない。

昭和44年高校野球決勝の松山商業、三沢高校 延長18回で0対084時間16分の激闘)で再試合。
昭和29年から高校野球の実況を担当していましたが、こんな名勝負はいまだにはっきり頭に残っています。
あんなにしゃべりっぱなしなのは初めてでした。
本当に優勝旗が二本欲しかったという思いです。
決着がつくかどうかのボールかストライクかの場面、即時描写は遅くても早くてもいけない。

スポーツ放送の一番の魅力は筋書きのないドラマだと思います。
それをいかに描写するかがアナウンサーーだと思います。
スポーツアナウンサーの条件は4つ
①即自描写力 ②必要かつ十分なスピード ③豊富なボキャブラリー ④人並み以上の体力と気力
本を読むとボキャブラリーが増える。
普段努力しなくてはいけない。
人と同じことをしていては人と同じことしかできない。
自分のたった一回の人生で人と同じでは面白くない、そのためには努力する。
生きて居ると辛いこと悲しいことがいっぱいあるが、誰も助けてはくれない。
楽しいなあ、嬉しいなあと思うと変わってくる、自分の人生は一回しかないから。

定年退職した翌年、58歳で脳内出血で危篤状態に成り、左半身不随、言葉も十分に喋れることができなくなってしまった。
入院して言葉もしゃべれなくなってしまって、よしもう一度喋ろうと決心した。
朝起きて、あいうえお順を何回も繰り返す、毎日やる。
そうすると最初は喋れなくても段々言葉が出てくる。
人一倍の努力をしました。
「闘病生活のなかで自分の気持ちにピリオドを打ってはいけない。」というふうに本の中で書いています、そこで止まってしまったらそこでおしまいです。
生きて居る限りは人と同じ事をしてはいけない、自分の人生は自分で作っていかなくてはいけない。
「あいうえお」を忘れて居る日本人の数が増えて居るのが、日本が元気がない原因です。
「あ」は相手の立場を考えよう。
「い」は厭なことを進んでやろう。
「う」は上を向いたらきりがない。
「え」は笑顔は自分で作れ。
「お」は御礼の気持ちを忘れるな。

「あいうえお」を毎日やると人生が変わってくる、たった一回しかない人生に大論の花を咲かせてもらいたい。













2017年5月27日土曜日

山川静夫(エッセイスト)     ・美空ひばり 幻のインタビュー

山川静夫(エッセイスト)・美空ひばり 幻のインタビュー
5月29日は美空ひばりさんの80回目の誕生日、今年は美空ひばりさんの生誕80周年にちなんで、記念のコンサート、CD、DVD等のリリースが行われています。
そんな中貴重な録音が見つかりました。
1988年昭和63年4月12日、NHKの国際放送で南米向けに放送した、「この人に聞く」の録音テープでした。(日本向けには放送されず幻のインタビュー)

病気の後だったので、ガウンみたいなものを着て録音が始まりました。
弟さん二人を亡くしてお母さんを亡くして一人ぼっちの時でしかも一人で静養していた時でした。
寂しさが心をむしばんでいたが歌には情熱を持っていて、1カ月あとに東京ドームのコンサートを控えて居ました。
私の最初のひばりさんへのインタビューは昭和44年8月18日でした。
オーラがすごかった、歌にかける情熱がすごかった。
リハーサルでも決しておろそかにしなかった、「悲しい酒」でリハーサルで全部泣きました。
昭和45年8月24~28日で「ひばりの5日間」という番組があって、うちあげをして飲んだんですがその時に親しくなりました。
ひばりさんは何時も必死でした。

昭和63年4月12日でのインタビュー
今まで命として思って歌ってきた大好きな歌を歌えなくなってしまうのかと思って恐ろしかったです。
何時自分が立ち直れるのかと毎日悩んでいました。
自分の歌でも掛ける気になれなかった。
先生と話すうちに光が見えてきて、今度歌いだすのは何時だろうと考え出すと、自分が大事にしてきたことをこんなにお休みしていることが勿体なくなってきて一日も早く歌いたと思いました。
一番つらかったのは友人が来てくれて会うと、言葉がでなくてベッドの上にいるひばりが見られる自分が情けなくて胸が痛みました。
昭和23年がデビュー、40年たちました。

私の中に青春があったのかなあと考えるときがありますが、私が歌ってきたことが自分の青春だったのかなとこの頃解説できます。
母の力で防波堤に成ってもらったりしてここまで作り上げてもらえたのかなあと思います。
のんびり構えて居てもいいんですが、なにかがひばりを歌わせようとせかすんですね。
歌に対する執念ですかね。
カラオケにも行きますが他人の歌です。
自分の歌を歌うと仕事をしているみたいに成ってしまいます。
酒を飲むのは雰囲気に酔って飲んでいました。(大勢で)
田中角栄さんに歌を披露したことがありますが、批評していただいて、1番は良いが2番は良くない、3番はいいとおっしゃいました。
作詞家は歌は2番がどうしてもおとしてしまう傾向にある。

プロは出だしで失敗しても最後に取り戻そうとしますが素人にはできないと思います。
自分がこういう歌を歌いたいと自分から言ったことはないが、色々持ってこられると厭とはいえない、必ずやってみようと思います。
それが全部私の大好きな演歌にプラスに成って来ます。
古賀先生は私にとっても宝物で「悲しい酒」と言う名曲を残していただいて、いまだに「悲しい酒」を歌っています。
マンネリと思う時もありますが、「悲しき口笛」「りんご追分」などを避けて構成すると却ってファンの方々がさびしがります。
慎重派ではありますが、わがままで完璧主義者で母がいる間は私の代わりに鬼婆となってカバーしてやってくれていました。
自分が敵も作らず良い子になろうと考え出したら、美空ひばりは良い仕事はできないと思います。

美空ひばりの怖さはどういう所にあるんでしょうか?
会うととっても違いますねとおっしゃるんです。
山川:大スターと云うのは必ず何かを持ってるし、大勢の人を魅了する力を持っている、その目に見えない力に圧倒されて、必要以上に書きたてるもしますし、だからかもしれません。
4月11日東京ドームのコンサート 活躍する時期が早すぎると思うが。
親しい人からもテープでやるのと言われたりするが、生で歌っているのにテープと思われるのがかなわないので、命がけでやるのでそういうことをちらっとでも思われては困るので、スタッフに申し入れました。

「私の歩いた道」 美空ひばりの詩
9歳のころから母と二人で芸能界に漕ぎ出した。
その時から私は歌うほかには誰にも心の窓を開かなかった。
好きな歌を歌うことだけが、そんな私の生き甲斐だった。
キューピットではないけれど、みんなに幸せあげたいの。
これがそのころ私が作ったロマンチックなキューピット。
しかし本当に多くの人に幸せを与えることが出来たのかしらと私はいつでも
心の中で思っている。
私の歌をだれよりも理解してくれたのが母だった。
命を掛けて守ってくれたのも母だった。
その母も遠いところへ旅だっていった。
それでも私は歌い続けた。

歌は母が命をかけて残してくれた何物にも代えがたい遺産だから。
こんな私を置き去りにして弟たちも遠いところへ旅立っていった。
それでも歌を歌い続けた。
私っていったいなんだろう。
涙を忘れてしまったのかしら。
暗い部屋に一人ぼっちになってしまった私。
心の窓をちょっぴり開いてそっと外を眺めてみよう。
色んなことも体に感じさせてみたい。
私だって人間だもの、寂しい時だってある、悲しくって大声で叫びたい時もある。
しかし、それは私には許されない。
何故って、私はひばりだから。
いつも私は一人ぼっち。

たとえ自分を傷つけたって、笑顔で元気なひばりでいなくちゃいけない。
そのたびに心の窓を閉めてしまう私。
人は優しく言ってくれる。
ひばりちゃんゆっくり休養してくださいって。
でもこんな温かい言葉にじっとしていられない私が体の中には棲んでいる。
それは私の身体の中で今も生き続けている母。
私の心の中で今も燃えている母の執念。
そして天のどこかで私の人生に悔いのないようにと祈っていてくれる母の声。
母は私と一緒に生き返り、私と一緒に燃えている。
今度こそ心の窓を思いっきり開いてみよう。
そして広い世界を見つめてみよう。
歌の星は何時でもそっとこんな私を守ってくれるでしょう。
命よ、命を有難う、私の歌よ有難う、ファンのみなさん有難う。
(涙ぐんでいました)

録音が昭和63年2月26日 その1年4カ月後には亡くなってしまう。

























2017年5月26日金曜日

髙木聖雨(書家)         ・父に反発、でも同じ道

髙木聖雨(書家)  ・父に反発、でも同じ道
3月に28年度の日本芸術院賞恩賜賞を受賞しました。
父親は岡山県の高木聖鶴さん、かなの書家で平成25年に文化勲章受賞し、日展の顧問でもありました。
今年2月93歳で亡くなりました。
家庭的ではなった父に反発して、書家にだけはならないと心に決めて会社員を目指していました。
しかし大学受験に失敗、ふと書に掛けてみようと言う思いが湧きあがって、書の道にすすむ人が多い大東文化大学に入学、青山 杉雨(あおやま さんう)さんに師事しました。
大学卒業後は、都内の高校の非常勤講師、平成12年に大東文化大学の書道学科非常勤講師、平成23年からは教授として多くの若者を指導したり、自らの作品作りをしたりしています。

日本芸術院賞恩賜賞を受賞したことは大変な喜びでした。
作品に対してはこれが最後の賞なのでこんな喜びはないです。
67歳ですが、80,90歳になるまで書道の世界のために働きなさいよと言う激励の賞でもあると思います。
父親が芸術院賞を受賞した時には意識がなくて、耳元で受賞してきたことを報告しました。
天井を紙に見立てて意識のないまま手をあげて天井に字を書いて居るしぐさを、亡くなる4、5日前やっていました。
父は会社員だったが20歳のころから書道が好きで、書の道を選んだと聞いています。
本格的に始めたのは40歳の後半で、会社を辞めて書道の道一本に絞ったようです。
書壇で頑張るには2足のわらじは難しいのでけじめをつけたんだと思います。

岡山県 昭和24年生まれ。
一人っ子で、普通の子でした。
父が書道塾を開いていて、近所の子と1~2年やりました。
野球が好きだったので中学の時に野球部に入りましたが、親の介入があり退部届が出て居て、悔しくてより反発する時期でもありました。
父親は会社から帰って、6時ごろから自分の部屋に入って夜中の2時頃まで字を書いていて一切顔を見せなかったので親子の対話は高校時代までなかったです。
10時間ぐらい字を書いていました。
当時は何処へも父親には連れて行ってもらうことはありませんでした。
父親に対しての反発は強かったです。
高校時代はサラリーマンに成りたいと思って勉強したんですが、どこにも入れず浪人しました。
浪人のときはパチンコ、マージャンをやったりしていまして、あるきっかけで書道をやろうと決めて、父親に言ったら拒否されて、「書道でもやろうか」という「でも」が良くないと言われて、本当にやるのなら「でも」を撤回しなさいと言われました。

父から「やるんだったらどうぞ、一切手助けはしない」と言われました。
大東文化大学に入学しました。
書道を徹底的にやろうと決意しました。
全くゼロから始めるので周りの人たちに追いつくのには、千倍も努力しないと追いつけないという気持ちも持ちましたし、書道に関する言葉も判らず初めて父親に聞きました。
大東文化大学の書道部だけで400人ぐらいいました。
仲間がたくさんいると言うことが、頑張れる導引になったと思います。
入ってすぐに青山 杉雨(あおやま さんう)先生に師事しました。
手あかが付いていない状態だったので、先生に言われたことはすぐ実行できる立場にあったので、書道をやっていなくて逆によかったと言うのが実感です。
父の事は先生には黙っていましたが、2年間休まず励んだので父も本気でやりそうだと感じて父が先生にお会いして初めて挨拶しました。

漢字を始めて漢字をマスターした後でかなに転向する人がほとんどで、漢字の書けないかな作家はかな作家ではないと言われている。
父親がかな作家だからいずれ岡山に帰ってかな作家をやるんだろうと先生は思っていたようですが、かな作家をやるつもりはありません、一生先生の元で漢字作家をやりますと言ったときに、先生の眼の色が変わって、本気で鍛えてやろうと思ったんだと思います。
大学4年間で先生に名前を覚えてもらえない人が結構いるほど生徒もたくさんいました。
青山先生の授業は3年にならないと受けられなくて、1週間にひとこま習うだけで、それだけで上手くなるはずはなくて、人の何倍もやらなくてはいけない。
4年生までで100人以上青山先生には弟子がいまして、熱心に指導していただきました。
父はかなの世界、私は漢字の世界に入ってゆくわけですが、「富士山を表から昇っても裏から昇っても頂上では一緒になれるから、お互いが違った道でも頑張ればいいんだ」と父の文章に書いてあって、なるほどなと思い立派な考え方だと思いました。

親子展は35年ぐらい前に岡山でやりましたが、親子という関係は表に出さずにやりました。(1回のみでした)
朝日20人展で20人選んでもらう訳ですが、それが2回目の親子の共演だったかもしれません。(4作品ずつ出展)
相当親に反発して親に迷惑かけたりして、母親をいじめてしまったこともありますが、今はよく頑張ってくれたと母は思ってくれていると思います。
日本芸術院賞恩賜賞を受賞出来たのは両親のお陰だと思います。
都内の高校の非常勤講師、平成12年に大東文化大学の書道学科非常勤講師、平成23年からは教授となりました。
書道の世界としては順調に来たように思います。

書道人口はかなり減っています。
書というものに対して理解を一般国民に知らしめて居ないと言うことがあると思います。
毛筆を1年生からやらせるようにと言うことが、文科省の方針で許可された様で書道の盛んなところに持っていける一つの要因になると思います。
日本の書道文化をユネスコの世界向け文化財に登録しようと言う運動をやっていて、登録されれば書道に目を向けてくれる人が多くなると言うこともあると思うので僕のライフワークとして一生懸命やらないといけないと思っていますが、非常に将来を心配しています。
90歳の人も頑張ってやっているので、その年代に成るまで自分の技術を高め精神性も高めていい書を書きたいと思っています。
技術は自分で努力しないといけないものなので、相当根性が坐っていないとだめだと思います。
父は書道が大好きだった人なので、尊敬しています。
書道の世界での戦友のような気持が、父が亡くなった時に涙を流させた様に思います。
10時間も書を書いて努力をしていた親の背中を見せてもらって、本当に感謝しないといけないと思っています。










































2017年5月25日木曜日

窪内隆起(司馬遼太郎担当編集者) ・歴史を学ぶ意味とは

窪内隆起(司馬遼太郎担当編集者) ・歴史を学ぶ意味とは
今年は大政奉還からちょうど 150年、立役者である坂本龍馬の名が広く知られるようになるきっかけになったのは、1962年に新聞連載が始まった司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」です。
窪内さん84歳は新聞社の後輩として司馬遼太郎と出会い、編集者として 4年1300回をこえる連載を支え、担当を外れた後も司馬遼太郎と交流を続けました。
龍馬の故郷,高知で暮らす窪内さんに今なお読み継がれる作品の執筆の舞台裏や歴史を学ぶ意味について伺いました。

産経新聞の大阪本社、昭和30年入社、社会部に配属、デスクに呼ばれ天王山についての解説を15行で書くようにいわれ、「あのおっさんのところに行って聞いてこい」と言われて、文化部の福田さん(司馬遼太郎)だった。
天王山に関して30分福田さんが話してくれました。
今後歴史的な事にぶつかると、辞書代わりに聞きに行ったらいいなあと思いました。
昭和35年1月21日、NHKのニュースを見ていたら、芥川賞、直木賞のニュースをやっていて直木賞梟の城司馬遼太郎、経歴紹介があり、本名福田定一、産経新聞大阪本社文化部部長と言う紹介があり飛び起きました。
福田さんが小説を書いていることを知りませんでした。
私は2月1日付けで北陸の福井支局に転勤になりました。
知り合いがいっぱいいるから会うように言われて、道元禅師、柴田勝家、お市の方、松平慶永(春嶽)など31人ぐらい名前を挙げて福井は歴史の宝庫だからといわれました。

昭和37年6月から「竜馬がゆく」が始まる。
支社で私だけがはしゃぎまわっていました。
坂本竜馬の知名度は少なかった。
昭和28年の初め頃、支局に新聞の購読の申し込みがどんどんかかってくる。
理由は「竜馬がゆく」が読みたいからということだった。
昭和40年2月1日付けで大阪本社文化部への転勤を命じられた。
社会部から文化部への転勤は後方部隊のような感じを抱いたが、「竜馬がゆく」を担当するように言われて、がっかりしていたのが吹っ飛びました。
一番頭にあったのは長編にしたいとのことで、維新に関することを古書店に頼んだら3000冊だった。
そこで坂本竜馬のことを書こうと思ったとのことだった。
どうして略字なのかを聞いたら、歴史学者、歴史研究者でもない、竜馬の事実とは違う、フィクションでもあるので 僕の竜馬として活躍してもらいたいと思った、ということだった。

ハンガリーのスティーブン・トロク(24歳) 旧ソ連軍がハンガリーに侵入してて アメリカに亡命、そのあと京都に来て勉強して、司馬家にやってきて、僕は将来帰ってハンガリーの大統領に成るんだと喋ったそうです。
キャラクター作りにふっきれないところがあったそうで、トロク君の亡命と、竜馬の脱藩とがだぶってきて、暗い境遇にありながら将来大統領に成るというそのキャラクターを竜馬に植え付けてみたらどうだろうと云うヒントをそこで得たと言うことでした。
人柄などは半分以上はフィクションだと思います。
身分制度が厳しい時代に家老家のおたず様と竜馬が京都の茶屋で逢引をするというようなことは当然フィクションです。
ファクト(事実)とツルー(真実)で行くと、真実は「竜馬がゆく」に関して言えば、薩長同盟、大政奉還、船中八策でいえば、長編では読者がついてきてくれなければ無意味なものに成ってしまうので、読者をひきつけておかないといけない。
そうすると面白おかしく読者が逃げないようにしてフィクションで繋いでゆくしかない。

司馬さんが一番力を入れて書いた部分と云うのは、竜馬に言わせた心情、「こういう青年を神様がこの時代必要だと思って、地上に送り出してきて、いろいろ働かしたんだ」、と言うのはどうだと言っていました。
最終回の一月前ぐらいのことでした。
結末文に関しては訂正がなかった。
相当頭の中で練っていたのではないかと思う。

結末文
天に意志があるとしかこの若者の場合思えない。
天がこの国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上に下し、その使命が終わった時惜しげもなく天に召し返した。
この夜京の天は雨気が満ち、星がない、しかし時代は旋回している。
若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押し開けた。

一番大事なのは誤植なしに載せることが大事で、違う漢字一字で意味が逆になるような大失態があるので、校正は20回読めと前任者から言われました。
司馬さんは文章の流れがいいので、見逃す可能性が多分にあるので、注意しないといけない。
私の担当期間中は司馬さんに対しては全くだぶりのミスなどは無かった。
司馬さんは陸軍の戦車隊の少尉で終戦前の3月前、栃木県の佐野に引き揚げてきて、米軍を迎え撃つ訓練をしていた。
軍の参謀が激励に来ていて、「戦車で対応するときに逃げて来る国民と出会ったらどうしますか?」と福田少尉が聞いた。
しばらく考えて参謀が「曳き殺して進め」といった。

こんなくだらない人間の指揮のもとに我々は戦争をしているのかとふっと湧いていた。
これまでの日本にはずっとましな人間がいて日本を作ってきたのではないか、もし戦争が終わってそういうのを書いてみようと思ったと言っていました。
70歳のときに文化勲章を頂き、その記者会見で「私の作品は22歳の自分への手紙です」、と言ったんです。
或る時かつての日本にはもっとましな人間がいて、いままで日本をつくってきたと思った、それが22歳だった。
「竜馬がゆく」から見習ってもらいたいのは、「万事観てみないとわからん」、という精神は全ての事に通じると思う。
殺害しようとして勝海舟との面会で、竜馬は話が終わった後、先生弟子にしてくださいと言っています。
戦後70年で転機を迎えており、竜馬の存在を自分の頭に置き換えて、読者が今後の生き方についていろいろ考える、自分にあてはめながら生き方を学べるのではないかと思う。










































2017年5月24日水曜日

河瀬直美(映画監督)       ・届けたい まっすぐな光を

河瀬直美(映画監督) ・届けたい まっすぐな光を
48歳、1997年に劇場映画デビュー作「萌の朱雀」でカンヌ国際映画祭で新人監督賞を2007年の「殯(もがり)の森」で審査員特別大賞を受賞しました。
河瀬さん自身が脚本を手掛けた最新作「光」が現在フランスで開催中の第70回カンヌ国際映画祭の最優秀賞パルム・ドール(Palme d'Or)を競うコンペティション部門にノミネートされ注目を集めて居ます。
今年は「萌の朱雀」から20年の節目の年、映画に掛ける意気込みと故郷奈良に寄せる思いを伺いました。

「光」は徐々に視力がなくなってゆく男性カメラマンと音声ガイドを製作している女性が心を通わせてゆく物語。
字幕などは日本語の意味合いが英語に無かったりして、そんな中言葉の選び方が思い入れのある人たちだなと思って、音声ガイドはどのぐらいの歴史があるのかと思ったら15~20年ぐらいしかなかった。
こんな人たちがいると言うことを知ってもらった方がいいのではないかと思って映画にしたいと思いました。
音声ガイドは映像を言葉で説明してゆく。
セリフは映画の中で言ってるのでいいが、部屋の状況などを説明したりするが、答えのない世界で四苦八苦している。
今回映画を作るにあたって視覚障害の人などに取材を重ねて行くうちに、町で見る接していない時のイメージと実際に接して観ると、前向きで明るくてと言う方が居て違っていて、私たちの方が気付かされることが多かったです。

生れ付きの先天盲と中途失明の方が居て、先天盲の方が私達の中にイメージとしてあって聴覚が発達してゆくとか言われるが、途中まで見えて居た人が見えなくなる人の方が見えて居た時のことに凄く執着があって苦悩されている。
そこから前向きな自分に成るまでには時間がかかる。
苦脳して自分の役割を見出すことができなくて心がすさんできたりする。
主人公雅哉は眼を使った仕事をしている、それを奪われると言うことは自分の人生が終わってしまったかのような思いをする。
雅哉はどのように前を向いて生きて行くのか葛藤がある。
具体的ではない何か「光」があるのではないかと思う、心の奥にある光の世界。

1969年生まれ、48歳になります。
40歳ぐらいから自分の役割を考えるようになり、次の世代に繋いでいかなければいけないものがあるのではないかと思うようになりました。
子供は今年中学生に成りました。
私は空想癖の或る子供でした。
両親と一緒に暮らしていたことがなくて、父親を知らずに育って、母方の遠い親戚の老夫婦のところに養女として育てられました。
自分を見るもう一つの目を小さいころから持っていたのではないかと思います。
近所に同世代の子がいなくて、一人ぼっちになってしまうので、一人で遊んだらいいと養父(おじいちゃん)から言われました。
養父は自然の中で育った人でそれに影響されて、自然、季節を感じるような日常を過ごしていました。
養父は県庁に勤めて居て、とにかく規則正しい生活をしていました。

自分にとって映画、TVは遠い世界の話でした。
高校卒業するときに、このままいい大学、いいところに就職をしてゆくことが楽しいかなと思ったらあまり楽しくなさそうだなと思って、もっと決められていないけれど楽しい世界があるのではないかと思って、自分で自分でしか作れないものを作って生きていけたらいいなあと、いずれ死んでしまう時にそれが後悔しない生き方なのではないかと考えました。
たまたま映像、映画、その時間を切り取りたいと思いました。
入った学校が映画が盛んでした。
映像の持つ力は今ではない時間を今に持ってこれると言うのは、初めて学校で8mmフィルムを撮影し、現像から上がってきた映像を見たときに物凄く驚きました、タイムマシンを手に入れたように思いました。

両親と暮らしていなかった事に対して、養父母と楽しく暮らしていたので寂しいとは思わなかった。
そのあと映画を撮り始めて、寂しくはなかったが父とは逢いたいと思っていたので、逢いたいと言う気持ちを友達など近い人たちに伝えたが伝わらなかった。
映画にしたら物凄く共感してくれて私を見る目が変わり、友達と深い話をするようになった。
これから先に出会う人とはもっと深い関係をつなげていける可能性があるわけで、過去の寂しさよりも未来の喜びの方に目を向けた方がいいじゃないですか。
この映画を撮るにあたって悲しみを見つめようとしたのではなくて、そこから先を見つけたかったからそれに眼を向けたんです。
時間って、わたしたちの中にある様でないのではないか、過去は記憶の中にあり、時間は時計が生み出しているが、実際それってあるのかなあと思います。
生も死も越えた輝きがあるのではないのかと思います。
命、魂とかは人間が言語化できたり、認識して記憶できたりするから一番すぐれた生き物のように思われるが大きな木、大地、空、星等もそういうものを持っているかもしれない。
わたしたちが計り知れないものがあるなあと思います。

なんで奈良に生まれ落ちたのかなあと思いますが、1000年の歴史の息吹が自分の中に入り込んで、そういうスケール感のある考え方に成っているような気がします。
1000年前の人が万葉集で好きな人を思ってこの川のことなどを詠んだんだと思うと、スーっと1000年の時が繋がるんです。
私の撮った映画もそうなんじゃないかと思います。
2007年の「殯(もがり)の森」で審査員特別大賞を受賞し、2010年が平城遷都1300年記念、それから7年たっているが、地元の社長さんたちが協力してくれて映画祭をやろうと言うことに成って1回目終わったらほとんど辞めてしまって、やることが大変で、(カンヌでも同じで、)2回目でもやろうとして同世代の人たちがやって、海外のゲストが話題にしてくれました。
日本人のおもてなし、アテンド力は心があるんです、これが評判になって3回目になり、4回目をどうしようと言うことに成って大きくしようと言うこともあったが、そのままの規模でやることになりました。
奈良市が助成金のカットをしてしまって、開催まで半年の時で、規模の縮小なども考えたが時間がなかった、そのニュースが流れた時にこれまで以上の協賛が集まりました。

奈良では新しいことをするのなら奈良をでて行った方がいいといわれるが、ここには歴史と文化があり万葉集に歌われている川や山があり、これはにわかにお金で買おうと思っても買えないもので、これを今の時代のニーズに合うように継承していって宝物に変えて行くことはできるのではないかと思っている。
奈良では自分が出来る役割をやっていこうと思っています。
私にしか作れないものを作っている、それがユニークと言うか、とことん人と人とのつながりを描くとか、家族のありようを描いたりとか、目に見えないもの、そういったつながりを具体的なストーリーを通して描くことに共感していただくことが多い。
誰しもお母さんから生まれ、家族があり、離れてしまったり不幸な関係に成ってしまうかもしれないが、元をただすと決して一人ではなく、必ず誰かとコネクトしている、根源的な事を描いている事だと思います。
映画は表現なので誰かが評価するので、審査員のまなざしとどれだけ共有できるかということなので運とか縁とかそういうものが物凄く影響するのですが、「光」は私は世界一の映画だと自分では思っています。




















































2017年5月22日月曜日

中村仁樹(尺八演奏家)      ・【にっぽんの音】

中村仁樹(尺八演奏家) ・【にっぽんの音】 

中村:34歳に成ります。
能楽師狂言方 大藏基誠:尺八界のプリンスといわれていますね、私は25歳のころは狂言界プリンスと言われていましたが、最近は呼ばれなくなりました。
吹いている姿吹き方がきれいだなと言われますね。
中村:日本舞踊は習ったこともあり、お茶も小さい頃やっていて物の扱い方の基本みたいな事は勉強しました。
尺八は道具と云うよりも楽器と言いますが、竹と言ったりもします。
尺八は乾燥しすぎると割れてしまうし、湿気を含み過ぎても普通の場所に行っても湿度の差でわれてしまうので一定にしておきたい。
海外にいっても息を吹き込んでからしまったりして大事に扱えば割れることはそうないです。
日本の音と言うと響き豊かなさわり(障り)の音ですね。
*(尺八で表現 いろんな音が立ちあがって行く)

大藏:祖父が言っていたが「あってあわすの間」狂言もお囃子に合わせて謡いをうたうときがあるが、若干ずらした方が面白いという美学があります。
中村:日本音楽の場合はそれぞれの楽器が個性的なので、それぞれソロで聞かすために発達したものでもあるので、西洋の楽器よりも主張の強い音だと思います。
尺八の一番の魅力は日本独自の風の音を表現できるところ、それがわびさびを生む。
*(尺八で表現)
こういったものを曲に盛り込んでゆく。
尺八の穴は全部で5つあります。(民謡の音階)
これは小さい穴が2つたされていてドレミファが出せます。

プラスチック、竹の材質の差 音の硬さ、抜け、響き方が違います。
プラスチックは1万円、実際にある素晴らしい楽器を型取りして作ったものなので音もいい音が鳴ります。
楽器もあらゆるメーカーの楽器も試して、そのなかにプラスチックもあったと言うことです。
尺八は40本ぐらいありますが、実際に使うのは15本で全部竹でできています。
柔らかい材質は柔らかい音が出て、硬いものは硬い音が出ます。
長さが長くなると低い音が出ます。
近くで聞くとあまり違わないが、コンサートホールなどで遠くで聞くと音が違います。
*「祈り」を演奏。
この曲は兄の結婚式のお祝いのために作った曲です。
頭の中をまっさらにして、兄を思う、故郷を思うと言うような形でピュアな気持ちを持って作ります。(作るモードにしておく)
作ったのは100曲ぐらいになります。

作曲できると言うのは一つの強みだと思っています。
機材を自分にあったものを集めたりしています。(マイクとか)
小学校3年生の時に父親が尺八を吹いていて、その時に初めて接しました。
17歳のころまでに、クラシックピアノなどをやったり、エレキギターをやったりあらゆる音楽を聞いてきていたが、日本のものは無かった。
高校のころ父の尺八で吹き始めて、お琴もやっていていました。
3年生の時に東京芸大に行こうと決めました。
大学では師匠と1対1でお稽古を週1~2回やって、音楽や普通の国語英語などの勉強をしていました。
尺八で有名な曲「鹿の遠音」が一番有名です。
尺八は1500年前ぐらいに伝わったと言われていて、「越天楽」とかの宮中の楽部の楽器の一つとして吹かれていて、そのあとで雅楽の楽器ではなくなって、また中国からお経の称名にふしをなぞるために再輸入されてきて、700年ごろと言われて居る。
普化宗(虚無僧)が吹いていた。
禅の修行の一環として尺八を吹いていたといわれる。
法具として使われていた。

*「鹿の遠音」 (本来20分以上かかる。)
秋深い山奥で鹿と鹿同士が呼び合う様子を描いた曲。
江戸時代中期の頃の作品で口伝だったが明治期に普化宗が廃宗になったので残そうと言うことになり譜面に書き残しました。
いろんなところで僕の曲が僕の演奏で、流れるようになってくれればいいなあと思います。