2017年8月17日木曜日

上野麻実(国境なき医師団 助産師)・【戦争・平和インタビュー】

上野麻実(国境なき医師団 助産師)・【戦争・平和インタビュー】
紛争地から世界を変えてみよう!
福井県出身33歳、妊産婦の死亡率の非常に高い紛争地のアフガニスタンやイエメンなどで国境なき医師団の助産師として働いてきました。
戦争が身近にある過酷な環境のなか、7000人以上のお産に立ちあって来ました。
帰国した際には、地元福井、横浜、大阪などの中学生や高校生たちに自分が見た戦争の平和、命の尊さを伝えています。

7000人以上のお産に立ちあって来たこと自身に対して自分でも驚いています。
現場では数を数える時間すらない忙しさなので、帰国してお産を振り返ってみると、すごい数の出産にかかわったんだなあと思います。
2013年からイエメンに6か月、2015年にはアフガニスタンに7カ月派遣されて13カ月間で7000件余りと云うことになります。
アフガニスタンでは月に900人の出産がありましたので、1日に25~30人の赤ちゃんが生まれています。(30分おきに一人の赤ちゃんが生まれる。)
赤ちゃんの産声を聞いたときにはほっとします。
基本的にはアフガニスタンの助産師を支援する働きなので必要な技術、知識の指導したり、薬剤や機材の物品が補充されているか、しっかり動くかどうかを確認する為の指導監督する立場ではありました。
新しい助産師をリクルートすることもしていました。

カブールのその地区には100万人以上の人口がいると言われていましたが、緊急のお産に対応できるのは、私たちが支援していた病院だけでした。
金曜日、土曜日は休みですが(イスラム教のカレンダー)、外に出るのは安全上難しいのでできませんでした。
外国人スタッフは誘拐されるリスクが高い。
病院の隣に家を借りて、病院への移動も5分ぐらいですが、車の移動をしていました。
市場に行ったりすると、アフガニスタンでは普通に暮らしている人たちは居るんだなあとも思いました。
他の国のスタッフとバーベキューをしたり、色々楽しみも見付けました。

イエメンでは紛争で傷ついた兵士が実際に運ばれることもありました。
イエメン人の男性はみんなカラシニコフという旧ソ連の銃を持っていて、ジャンビーアというナイフを身につけて歩いています。
イエメンに初めて行ったときに、6歳ぐらいの少年が銃の隣に坐っている様子を見たが、こういう環境にある国なのだなあとショックでした。
行ったときに、恐怖感よりももっと何が起こっているのかと云う方が強かったように思います。
或る少女との出会いがあり、16歳で結婚、出産するが、初めての赤ちゃんを亡くてしまうことが起きてしまいました。
病院に行く事が出来ず、運ばれた時には赤ちゃんの心臓の音は止まっていました。
誰が一緒にいたのかを聞いた時には、資格を持っていない女性だったようです。
病気にも成っていて、難産で苦しんだ時に直腸と膣がくっついてしまって、意識のない時に失禁失便をしてしまったりする病気(フィスチュラ)でした。(破水もしていました。)
聞いた話だが、3日かかってお産するということは、時間がかかり過ぎている。
フィスチュラという病気も合併していたので、病院で1週間ほど入院しました。(ふつ普通は1日で帰れるが)
彼女は一人ぼっちだったので、彼女とは言葉は通じないが、一緒に涙することもありました。
折り鶴を折ってやったりもしました。

彼女が願っていたのはお産をして、赤ちゃんを胸に抱きたかったろうなあと思います。
紛争によって必ず弊害があり、医療施設が正しく機能しなくなり、人もいなくなり薬品も届かない、安全にお産できる病院も少なくなってしまう。
戦争の背景には絶対に貧困で困っている人がいます。
彼女も同様で学校にも行っていなくて、二番目の奥さんになっており、家族が減ることによって家族の生活としては楽になる。
イエメンでは絶望感を味わいましたが、これを変えるためにどうしたらいいのだろうと考えるきっかけになったと思います。
医療の枠組みからすこし離れて勉強したいという思う様になりました。
公衆衛生という分野で、政策、法律、地域を巻き込んだ保健システムについて勉強したいと考える機会になりました。

高校3年生の時にインドにボランティア旅行に行ったのが、国境なき医師団への一番の始まりになるのではないかと思います。
或るきっかけで母親から行ってきたらどうといわれて、行きたいと思いました。
マザー・テレサも好きだった。
2週間ほど滞在して、そこには孤児院、訓練施設、教会があり、病院での出産を目撃する機会がありました。
突然呼ばれて、マスクとエプロンを渡されて、入るとお母さんが寝ていて、生まれる瞬間だった。
赤ちゃんが生まれてきてて女医さんの手の中で動き出す瞬間、泣き声を目撃して、赤ちゃんはピカピカしていて、命の輝き、平和の瞬間だなあと云うことを思いました。
その出来事が私の進路変更のきっかけになりました。
助産師の仕事が独り立ちできるようになり、新入社員のスタッフに指導できるレベルになってから挑戦しようと思いました。
そういった置かれた環境に感謝しています。

気持が折れてしまって、もう立ち上がれかもしれないと思うときはあります、決して自分は強いとは思わないです、ポジティブな姿勢は常に持っていたいとは思います。
廻りで支えてくれる人も必要です。
中学生、高校生に経験を話す機会を与えられて感謝ですが、自分自身の思春期の悩みと今の10代が抱えている悩みは同じだと思うので、悩みを解決する手助けになればいいなあと思っています。
講演活動を依頼された時には写真を使って、見せて、現地での活動、経験などを話します。
学生さんたちの反応を書いて送ってくれますが、それを見ると私自身が励まされるコメントが色々あります。
日本の若い世代と紛争地の若い世代と比べて、まず環境が一番違うことだと思います。
生まれた場所が違うだけで、こんなにも人生が変わってしまうんだなあと感じます。
望むことは自分の可能性を100%表現できる、そんな将来を一人一人に掴んでもらいたいと思います。
私はいつも希望を持ちたい。
難民がいて、戦争は収まらないし、そういったなかでも希望を持っていたい、一人の心が変わればそれが行動になって、一人の力が沢山の力を借りて何時か大きな力になるのではないかと信じたいし、願っています。
お母さんと赤ちゃんの命を守る、それが本当に大切に育まれて皆が笑顔で赤ちゃんの誕生が迎えられるような、そう云う社会を作ることの助け手になりたいと思います。






































2017年8月16日水曜日

有賀究(福島県石川町)       ・【戦争・平和インタビュー】

有賀究(福島県石川町)       ・【戦争・平和インタビュー】
原爆の原料 ウラン採掘に知らずに動員された少年たち
終戦間際、福島県では秘密裏に原子爆弾の原料となるウラン鉱石の採掘がおこなわれ、その作業に地元の中学生が学徒動員されていました。
場所は福島県の南部の石川町です。
石川町はおよそ150種類の鉱石我採掘できる全国でも有数の産地で、ウランを含む鉱石があったために旧陸軍が原子爆弾の研究場所として目を付けたということです。。
石川町で育った有賀さん(87歳)が当時採掘に従事した中学生の一人でした。
当初その目的が聞かされないまま作業が進められたと言います。
自分達が掘っていた石が原子爆弾の原料と知った時、何を思ったのか、二度と若者が戦争に巻き込まれないようにと戦後教員として平和の尊さを訴えてきた有賀さんに伺います。

昭和20年になると4年生、5年生の上級生はほとんど関東方面に勤労動員されて働いていた。
残ったのは旧制中学3年が最高学年でいずれ勤労動員があるだろうと思っていました。
3月に先生から勤労動員の話がありました。
石川山と沢田、2つ行き先を言われました。
石川山に着いた時にはいったい何をするのか分からなかった。
白い石の層を出してそれをつるはしで掘って石を一定の場所に運ぶのが仕事でした。
わらじばきでモッコに棒を通して運びましたが、大変でした。(雨の日以外は毎日)
4月12日にB29の編隊が飛んできて、石川町が銃撃されました。
人的な被害はなかったが、体育館とか家がぶち抜かれたりしました。
校庭は食べ物がなかったので、野菜を作ったりしていました。
全体的に追い詰められたような感じがあったが、日本は負けそうだとはだれも言わなかった。

或る日将校が皆を集めて、「君たちが掘っている石は、マッチ箱一つで米国の大都市を破壊できるのだから、一生懸命掘れ」との話がありました。
目的がはっきりしたので子供ながらに馬力がかかったような気がしました。
(石川での原爆研究と云うのは終戦後判りました。)
軍部にしてみれば内地は攻撃され、敗戦濃厚になってきて、ひっ迫していた。
出征していった親たちを思うと、子供ながらに勝ってほしいとは思っていました。
或る日キャラメルを渡され、励ます為とは思いますが、おいしかった思い出があります。
制空権、制海権も連合国側になっていたので、自由に飛行機が飛んできました。
8月6日 9日 ラジオで特殊爆弾が落とされたことを聞きました。
戦後、原爆ドームを見に行きましたが、戦争で殺し合うということ、焼けただれた衣類とか見ると、大義名分をいくら言っても、人間が人間を殺し合うということは許せない。

理研は昭和20年4月13日の大空襲で6割方の施設が破壊され、一部の工場が石川町に疎開し、原爆開発の研究が進められた。
私は石川で原子爆弾の研究していたことは判らなかった。
出来なくてよかったと思います。
戦争をしないようにみんなが努力していかなければいけないということだと思います。
作業からは逃れることはできなかった、上からの命令には忠実に従わなければならなかった。
教育勅語を読んで、国を守るために戦えという思想を植え付けられました。
8月15日、家で天皇陛下の放送があってよくきこえなかったが、父親が戦争に負けたと云ったが、ほっとした感じがあった。
平成22年から、「故郷と戦争を語り継ぐ会」を始める。
戦後何年か経つと、出征して戦死したことも忘れられてくるし、若者は8・15も判らない人もいるし、だから具体的に資料を出していかないといけないと思った。
事実を多くの人に知ってもらうことです。
石川の研究所に勤めていた人に手紙を出して、基礎的な研究をしていましたと言っていましたが、今にも爆弾が出来るような状態ではなかったとの回答を貰いました。
広島、長崎、戦争の事実を知ってもらいたいし、きちっとした意思表示をして貰いたい。
伝えていかなければならない責任があります。
































2017年8月15日火曜日

張本勲(元プロ野球選手)     ・【戦争・平和インタビュー】被爆者としての使命

張本勲(元プロ野球選手)     ・【戦争・平和インタビュー】被爆者としての使命
77歳、昭和34年にプロ入り、球界を代表する打者として活躍しますた。
日本のプロ野球で最も多い3085本の安打の記録は今も破られていません。
張本さんは5歳の時、広島の自宅で被爆しました。
爆心地からは山の反対側にあたり、原爆の熱風や爆風を直接受けなかったため、けがはありませんでした。
しかし、4人兄弟の内、長女の点子さんは原爆で亡くなりました。
張本さんはみずからの被爆体験はもとより、自分が被爆者であることも現役時代から引退後しばらくまでは周囲に語りませんでした。
しかし、次第に戦争を経験した人が少なくなり、若い世代に平和への意識が薄れて来ていると感じた10年ほど前からは、積極的に自分の経験を語り伝えようとしてきました。
張本さんの野球人生に原爆はどう影響したのか、被爆体験を語らせるよう張本さんを突き動かした物は何だったのか、被爆者として何を思いを伝えようとしているのか伺いました。

戦争はおわったが被曝者には終わりはないですから、8月になると厭な思いをします。
当時5歳で、路地裏で遊ぼうとしてドアを開けたら、ピカと光ってドンと音がしたということしか覚えていないです。
おふくろが覆いかぶさってかばってくれました。
ぶどう畑に逃げなさいと言われました。
2km先の人たちは全滅でした。
うめき声叫び声がひどかった、人肉の臭いがして、この二つは覚えています。
熱いのでどぶ川に飛び込んでいました。
11歳の姉は勤労奉仕で比治山のてっぺんにいたそうですが、全員全滅だったようです。
翌日担架で運ばれてきた姉は自慢の綺麗な姉だったが、ケロイドでこれが姉さんかと思いました。
朝方おふくろが大きな声で泣いたそうですが、亡くなったのはその時だったような気がします。
韓国から来たおふくろですから、文化の違いで姉の形見は一切残さないです。

今考えると人間の所業ではないと思います。
友人知人は沢山亡くなりました。
被爆した人に対して転校してきた子は一緒に遊ぶなといわれたんです、うつるからと、ケロイドなのでうつるわけがないのに、保護者がそういったんです。
差別されるのではないかと思って、私は物ごころついてから一切言わなかった。
夫婦で先生をやっていた私の担任の先生が、被曝の関係で子を作らなかったそうです。
被害は爆弾だけでなくもろもろの不幸を抱え込んでいる、戦争、原爆は罪が重いですね。
5年後、10年後に亡くなった人もかなりいます。(原爆症)
球団で年に1回健康診断がありますが、なにかあるのではとその時は厭でした。
38,9歳の時に目の病気になりましたが、原爆とは関係なかったのでほっとしました。

私は365日、300回素振りをすることを課しました。
王貞治さんと食事をする時には、お互いに俺の方が振ったと笑いながら言いあったりしますが。
原爆で亡くなった人たちは20万人以上と言われますが、ノーベル賞を貰った人がいるかも知れない、私より凄い選手がいたかもしれない。
犠牲とは言っていない、私たちの身代わりですから。
TVを見ていて若い人たちの座談会で原爆の落ちた土地も知らない、せめて広島、長崎に原爆が落ちたことぐらい知ってほしいと思った。
6日と9日は飛ばして無くしてもらいたいと新聞に投書したが、小学校5年生の子が逆ではないでしょうか、忘れないためにも6日と9日は残した方がいいということが新聞社経由で私のところに届きました。
その小学校5年生の子は原爆資料館に行って怖かったけれど全部見てきたそうです。
以前私は原爆資料館に行ったが手が震えて、汗が出て、入れなかった。(2回行ったが)
その小学生に動かされて私も原爆資料館に行ってきましたが、涙なくして見られませんでした。(10年以上前)

原爆資料館は全世界の人に見てもらいたい。
修学旅行での見学が少なくなったと聞くが、中学、高校生に是非見てもらいたい。
オバマ大統領が来てくれたことに対してはほっとしています。
国連加盟国が193ぐらいと思うが、核廃絶しようと云うのが122カ国ぐらいで、70国ぐらいは核保有国に守られているから一概には言えないが、核廃絶すべきです。
核兵器禁止条約が採択されて、日本が賛成しなかったのは残念だと思うが、一方核の傘に守られていると云うことで難しい問題だと思いますが、核廃絶はしてもらいたい。
我々は最後のメッセンジャーだと思っているので、責任があると思っています。
私は被爆者でもあり、非常に貧乏だったし、王さん、長島さんとはちょっと違った野球道だったと思います。
こんないい国はほかにはそうないですよ、優秀で控えめで、義理人情が強く勇敢な民族だが最近ちょっとずれているような気もします。
今は自分さえよければいい、と云うような雰囲気があり不満です。
そこで色んなところで発言をする訳ですが。
いろんな意見を寄せてくれるので、参考にしながら又TVで発言する訳ですが。
礼儀そして、家族、市、県しいては国を守る人になってもらいたい。

































2017年8月14日月曜日

王貞治(世界少年野球推進財団)・【“2020”に託すもの】世界少年野球から羽ばたく夢

王貞治(世界少年野球推進財団 理事長)・【“2020”に託すもの】世界少年野球から羽ばたく夢
野球の普及を目指して王貞治さんが中心となって、進めている世界少年野球大会がいま横浜市で開かれています。
大会の狙い、自身の少年時代のこと、去年亡くなった恩師の荒川博さんの思い出などを世界少年野球推進財団理事長、王貞治さんに伺いました。

世界少年野球は27回目を迎えました。
子供たちの笑顔、瞳の輝きを毎年見ているので、やっぱり子供達のそばにいたいと思います。
最初彼らに何かプラスになるものがあればと思ってスタートしましたが、今はこちらがパワーを貰うような思いです。
30年間ジャイアンツのユニホームを着ていたので、ユニホームを脱いだ時に何をしたらいいか悩んだが、自分が一番得意なものをやったらいいんじゃないかと友達に薦められて、野球を通して子供達にチャンスを与えることが出来ればと思いました。
ハンク・アーロンにこういうことをやろうと思うがどうかなと云ったら、それはいいじゃないかと、出来たら協力すると言ってくれて、いつの間にか世界と言うよな名前が付くほどになりました。

スタートするまでに1年かかっています。
そのころは日本経済もよかったので、子供達のことをやるのでよろしくお願いしますと言うことでお金、好意を受けましたがバブルがはじけて、予算を組むのに苦労するようになりました。
大会規模も縮小して行って、基本的には子供たちにどういうふうな正しい野球とか、交流の場を与えるという原点に戻りました。
家庭の両親からの手紙を貰って、子供はこんなに変化したというようなことを頂き、やってよかったなあと思います。
体験した人が財団を運営していければと思っていましたので、そういう方向に向かいつつあります。
午前中は野球教室、野球の上手い子も、まるっきり野球をやったことのない国の子も来るので、べそをかいている子もいて差が大きいが、たった1週間でもちゃんと当たるようになって、取れるようになって、ものすごくうれしそうな顔になり、その変化を見るのも楽しみです。
サッカーはボール1つで遊べるが、野球はそうはいかないので、最初セッティングして体験させて、興味を持ってもらえればと思います。

体験させるということが、工夫して率先してやる様になる。
午後食事をした後、観光、歴史、文化に触れる、地元の子供達との交流などがあります。
子供は白紙みたいな物なので、何か体験したことが強く焼き付いて残るので、こういうことがないと絶対日本に来ることがない子が来る訳です。
団体生活をして、すぐ順応してそれなりの対応をします
どういう言葉で話しているのか判らないが、なんとなく話しています。
日本の子は外国から来た子に自分から積極的に話しかけることはあまり上手くいかないが、外国の子が日々近づいてくるので1週間でガラッと変わります。
横浜は外国からのものを受け入れるのがものすごく速いので、他でも色々開催しましたが、今回が一番市長さん初め色々な方が張り切ってくれて、盛り上がるのではないかと思います。

昔は普通の通りでは野球が出来ました、車が来たらタイムと云うことでやっていました。
集まった人数によってルールを決めて、神社、道路、公園などでやりました。
いろんな店の若い人、工場の人とかも相手にして、終わった後の酒屋さんのジュースの味は忘れませんでした。
用具もバット、グローブなどはなくて、工夫して野球ができるということが楽しかったですね。
中学に入って、草野球のチームに入って、勝つと勝丼負けるとカレーで、それで一生懸命やって野球にどんどんのめり込んでいきました。
私はそういったことで年齢の割には或る程度上手になれました。
11月30日か、草野球をやっているときに荒川さんが見に来られて、私はピッチャーで左で投げていて、右で打っていましたら、呼ばれて左利きだから左で打ったらどうかといわれて、左で打ったら2塁打が打てて、それからは左になりました。

その時は中学2年生で、周りは高校生でした。
直ぐに転校するようにと荒川さんに言われました。
結果的に早稲田実業に入ることになりました。
荒川さんとの出会いは運命の出会いでした。
厳しい指導をされれば、されるなりに吸収していく訳です。
荒川さんはマンツーマンで、教える側がどんどん私を引っ張って行ってくれました。
荒川さんも、別当さん、千葉さんも足をあげて打っていました。
私は球に食い込まれてしまい窮屈なバッティングをしていて、10月から8カ月やったが上手くいかなかった。
ピッチャーが足をあげたら足を上げろと言われて、試合で初めてやったらその日にホームランが出ちゃったんです。
その時に4打数ノーヒットだったら、1本足打法はお蔵入りになっていたと思います。

ボールとの距離感がとれれば、芯に当たりさえすれば、早い打球、距離も出るわけで、距離感のタイミングをどうするかということを工夫すれば、今の人ももっと打てると思います。
荒川さんからはぼろくそに言われるが、最後はこれだと打てると、必ず言ってくれて終わるんです、その一言で明日もやる気が出る訳で、コーチはいかに話術が大切かと云うことです。
荒川さんは選手のやる気を引き出す名人でもありました。
荒川さんは私のために自分の生活スケジュールを組んでくれました。
帰れるのは午前2時ぐらいでした。
練習に行く前に荒川さんのところで一汗かいて、みんなと一緒に練習をして、終わったら帰ってきて風呂に入る前に一汗かくわけです。
練習の終わった後は筋肉がほぐれているからバットが振れるわけです、試合後の練習がいかに大事かと思います。
キャンプでも夜ミーティングが終わって9時から大広間でバットスイングが始まりますが、その後荒川さんと12時前後までやりました。(他の人は20~30分)

私は上手くなってゆくということがありましたが、荒川さんは育てたいという情熱だけでずーっとやってくれて感謝の一言です。
昨年荒川さんが亡くなって、あの時に教える予定が組んであったそうですが、食事をして気分が悪いと言って、救急車で運ばれました。
荒川さんは後悔もあるかと思うが、荒川さんぐらい自分の思いを貫き通した人はいないと思うので幸せな方だったと思います。
国際少年野球が終わった後の彼らの活動をもうちょっと調査しておけばよかったと思います。
国に帰ってそのあとの流れが続かない、輪を広げてくれるように、教える側になって広がってくれればいいなあと思います。
































































2017年8月12日土曜日

河原忍(兵庫県警察歯科医会 監事)・父を奪った日航機事故が出発点

河原忍(兵庫県警察歯科医会 監事)・父を奪った日航機事故が出発点 
32年前 昭和60年、8月12日、羽田発大阪行きの日本航空123便のジャンボジェット機が群馬県の御巣鷹の尾根に墜落、乗客乗員524人の内520の方が亡くなる大惨事になりました。(日本航空123便墜落事故
兵庫県豊岡市の歯科医河原さん(68歳)はこの事故で父親を亡くしました。
現場近くに駆け付けた河原さんは地元の群馬県の歯科医師とともに、検死場に入り歯型の照合で遭難した人たちの身元の特定に当たりました。
その後地元の兵庫県で警察に協力する警察歯科医会の結成を呼びかけ、阪神淡路大震災の被災地などで活動してきました。
父親と共に歯科医院を開業していた河原さんはあの日の夜、兵庫県歯科医師会の幹部だった父の出張先の東京から帰ってくるのを待っていました。
NHKが7時のニュースの最後で羽田発大阪行きの日本航空機が消息不明になったことを伝えたのは午後7時26分ごろでした。

当時36歳で家族と漁火をみに行こうとホテルに入った時に、大変な事故があったみたいですとの話を聞き、自宅に帰って来ました。
母親がTVにかじりついていて、歯科医師会の会長と専務が飛行機事故に会ったみたいだと言いました。(父親と一緒に出張していました。)
父親はANAのチケットを取っていたので、一瞬ホッとしたような感じになりました。
歯科医師会の方から歯科医師会の会長と専務が飛行機事故に会ったので、歯科医師会の方に直ぐ戻ってきてほしいとの電話がありました。
TVで父親の名前が出てきて吃驚しました。
タクシーで急いで歯科医師会に行きました。(12時前)
特別便で羽田に行き、そのままバスで群馬に行きました。(10台以上のバスが向かう)
ようやく小学校とかの体育館に入る様に言われて暑い中パイプ椅子だけがあり、情報をじーっと待つだけでした。
上野村の山中に墜落した事が判って麓の藤岡の町に向かったわけです。

遺体安置所は藤岡の市民体育館でした。(棺を置く場所もなかった)
ばらばらになった遺体ばかりでした。
DNAの鑑定もできない時代で、在宅指紋の照合をしようとするが、役に立たなかったりで、歯型の情報が必要だろうということで、警察署から歯医者を探して、歯型の資料を探して調べました。
524名が搭乗していて、520名が亡くなり、歯型身元確認者は45.4%と云うことになっています。
群馬県の歯科医師会では、日本で一番早く医科と歯科が一緒になって、警察医会が組織としてあり非常にスムースに御遺体の確認が出来ました。
群馬県では色々大事件とか、連合赤軍の事件などがあり、検死に対する認識があったのでいち早く組織が出来ました。

群馬県の歯科医師会の会長などから、手が足りないということで一緒に検死所に入りませんかといわれて、検死所に赴きました。
体育館には空調もなく42,3度になっていたと思います。
御遺体の悲惨な形を見ると、絶対父は助かっていないと覚悟決めていたので、お手伝いをしなければいけないということで、検死の手伝いを何週間もやりました。
腕にミッキーマウスの人形を抱えた子供さんの遺体を見た時には、嗚咽と云うか、ワーと・・・(話が途切れる)
自分が歯科医師であるということと、みなさんの御遺体を早く見つけたいと、使命感が一番燃えた時でもありました。
父は当時63歳でした。
父は戦時中、中国に軍医として転々としました。
父はラグビーをやっていたし、頑強な体だったが、現場の状態を見たらいくら元気な父親でも駄目だと打ち砕かれました。

母親も来て、「あそこにお父さんの靴がある」と云った、特殊な靴だった。(片方)
それから何週も遺留品を掻き分けて、ついに両方見つかりました。
8月25日に葬儀を済まそうとしている最中に、御遺体の一部が見つかりましたとの連絡がはいり、大阪から急遽群馬に向かいました。
指紋で左の腕の部分であることが判りました。
東京歯科大学の鈴木和夫教授が見てほしいものがあると言ってきた、確か白髪交じりでウエーブが掛かっていなかったかといわれて、お父さんに近い年代のかたの頭皮があり、髪も綺麗にしてあり元に近いようにしてあるということで、母親と弟と3人で見に行きました。
棺を開けて頭皮を見た瞬間にみんなが「親爺だ」と云いました。
毛髪鑑定をしようと云うことで鑑定依頼して、間違いなかった。
歯科医でありながら、歯型で親を見つけられなかったのが、一番つらかったところですね。

DNAはこの数年で精度が随分上がって来ましたが、高温度の焼死、長年海中に沈んでいて白骨化した遺体などはDNAの判定のしづらい御遺体はあります。
歯からは年齢の推定、性別の判定もできるし、1本あれば歯から得られる情報はいっぱいあります。
硬組織(爪、髪、骨など)の中では歯が一番残ります。
同じ形をした歯はないです。
残存歯、喪失歯の組み合わせも千差万別で43億通りあります。
32本の歯のそれぞれの状況を考え併せると10×16乗あります。
日本人の98%は歯科受診歴があるので、情報が得やすい。
スポーツをやった方、楽器をやった方、美容師(ピンをくわえる)などの判別もできます。

兵庫県にも群馬県のような組織を作ってほしいと要望して、翌年6月には立ちあげることが出来ました。
阪神淡路大震災の時に捜査一課から電話があり、歯科医の先生を集めてほしいということで、そのまま神戸に27日間寝泊まりしていました。
長田で火災があり、焼死体があり、歯からしかわからない御遺体がどんどん増えて来ました。
6千数百名が亡くなりましたが、最終的には70体の検体をしました。
独居老人の死亡、閉鎖されたマンションでは発見が遅れてしまう。
事件とか払拭するために特定ができないといけない。
身元の特定率を上げてゆくためにはどうしたらいいか、もっとデータベースに各医療機関が残して、もっと確認、発見しやすくなるように情報をストックしていかなければならないと思います。
名前、住所など個人情報の取り扱いを慎重にしないことにはなかなか先には進めないので、日本歯科医師会も取り組んでいるのでそのうちにできると思います。
47都道府県全てに警察歯科医師会が出来上がって、臨床以外でも貢献できるようになりました。
発足当時は年間15~6遺体だったのが、その後毎年100件近い要請があります。
家族のもとに一日も早く帰してあげたい、その使命感でやっています。



























2017年8月11日金曜日

小野山亮(日本国際ボランティアセンター)・市民が作るアフガンの平和

小野山亮(日本国際ボランティアセンターアフガニスタン事業統括)・市民が作るアフガンの平和
2001年9月に起きた同時多発テロ事件以来、アフガニスタンではさまざまな勢力いの間で紛争が続いています。
地域社会、家庭の中にも銃や武器が入り込んで状況はさらに悪くなっています。
世界の紛争地などで支援活動をしている、日本国際ボランティアセンターでは、2001年の10月からアフガニスタンで医療支援や保健活動を続けています。
小野山さんは20年にわたってNGO活動に携わっていて、現在はアフガニスタン事業の統括として平和な地域作りの仕事をしています。
小野山さんは力ではなく、話し合いに依って問題解決に導く、アフガニスタンピースアクションという運動を進めようとしています。

アフガニスタンの状況は9・11後、アメリカを中心とする外国の軍隊が現地にいて治安維持活動をしていたが、国内の事情等があって近年撤退している状況で、武装勢力のタリバンが拡大している状況で、国土の半分~7割で支配、戦闘が行われているといわれます。
別の武装集団ISの勢力の影響力も近年拡大している。
米軍を含めて国際勢力の軍事介入が又増やしている状況にあり、治安状況が悪化しています。
都市部での自爆行為とか爆発物を使った攻撃が非常に増えて居て、市民の死傷者数が最悪になってきている状況です。
都市部で起こったISの自爆攻撃で家族、親戚、事業地の村の方も巻き添えで亡くなっています。
緊急救援で9・11後すぐに入り、医療活動、教育活動を行ってきました。
アフガニスタンの東側が紛争が多い。(パキスタンとの国境沿い)
2012年に参加して、アフガニスタンの担当スタッフになりました。
支援団体は人の命を救う為、平和を作るためにはいっているので国によって区別したくはないが、日本人のイメージは中立、勤勉とか製品の質の高さとか評価が高いので、日本人への親近感、尊敬のようなものもしていただくこともあります。

40年ぐらい前、小学校の低学年の時代に、父が韓国に企業の一社員として派遣されて、日韓の問題がある中で、父も色んなこともあって最終的には韓国人の同僚と酒を楽しく飲み交わしているのを見て、国境は無いのではないかとか、戦争、民族とか過去両国間にあったということも気づくようになって、特に戦争の問題に関心をひかれました。
個人として平和を作ることが、国を離れて出来るのではないかと、父親の姿を見て考えるようになって始めたというような状況です。
大学でも戦争に関わる勉強をしましたが、実地、実務と理論は違うものがあることを後で思いました。
現場で起こっている事実は冷酷で厳しくもあり、がんばっても変わらない現実の壁もたくさんあるので、見聞きすることとは違うと思ってはいます。

アフガニスタンピースアクションの活動を始めたきっかけは、現地スタッフからの発案で出てきたものです。
日本人の駐在は難しい状況になっていて、日々の運営は現地スタッフが行っています。
発案した現地スタッフは力が全てを決めるとか、支配する状況を沢山見てきて、彼の父は村の長老の一人で武装勢力側が彼の父を殺そうとしたので、彼は父と一緒に家族でパキスタンに難民として逃れるという少年時代を過ごす。
力で稼ごうとして武装した警備員の仕事、銃撃戦に加わったりして青春時代を過ごした。
彼はアフガニスタンに戻った時に国軍に入ったが、米軍の活動、アフガニスタンの歴史を踏まえて、タリバンに入って米軍を打ち負かそうと思う。
日本国際ボランティアセンター(JVC)にたまたまドライバーとして入る。
変わるきっかけがあり、今のアフガニスタンピースアクションの活動を始めることになりました。
米軍による演習、攻撃によって村人が負傷、診療所の壁に被害が出たりした事件があり、私達は抗議、原因の説明を求めたりしていました。

そういったことを見てきているうちに、武器を持って戦うのではなく、彼は別のやり方があるのではないかと意識する様になったと言っています。
米軍の攻撃の証拠などを集めたり写真を撮ったりして、抗議活動をしました。
昔は銃をとっていた彼が、対話によって物事を解決するということを、団体の中で自分でも行う様になったという経緯があります。
彼は自分が変わってきた過程を、皆にも体験してほしいと言うふうに思ったみたいで、力には力で戦ってきた彼が対話で治めた体験と似たような事例を、日常生活のなかでもあるだろうとみんなに聞きだして発表して貰う、と云う活動を始めました。
集まって体験談を発表して、暴力を使わなくても解決する方法があるのかということをお互いに学び合うきっかけを作りました。

色々事件があると、力を使ってしまう環境があるのは間違いなくて、暴力を振るわない事例を見せることはリアルな問題としてあって、彼自身は出会った活動の中で変わったので、皆にも発表しあって学んでほしいと言う思いで始めたと聞いています。
彼の個人的な活動を団体として支援したいなあと思って、2年ぐらい前から形にしようとして今年の4月からお互いに報告し合うという実際の活動を始めました。
土地をめぐる争いがあり、武装勢力を引き入れようとしようと思ったが、長老たちが止めたという事例もあります。
暴力以外の解決手段があるということを学び合えればいいと思っています。
若者が我々の活動に加わってもらえればいいなあと思っていて、戦闘に向かう若者たちは増えているので、非暴力で解決したと云う事例があると知ってもらう事は非常に大事です。

若者達から女性グループ、地域指導者との話し合いへも始まっています。
日常生活の中での喧嘩をどう解決したのかと云う事例とか、小さなものが大きな暴力に繋がるとか、イラストなども作成中です。
リアルな事例はやはり活動していないとわからないこともあって、現場と繋がって一市民として現地の市民の活動、喜怒哀楽に触れることは大事な点と思っています。
日本人は公正な、誠実なイメージを持っていただいているので、そういった処を生かすことはできると思っています。























2017年8月10日木曜日

鳥越不二夫(広島平和文化センター証言者)・子守唄に救われた命

鳥越不二夫(広島平和文化センター証言者)・子守唄に救われた命
72年前8月6日、中学3年生の鳥越さんは爆心地から2km離れた自宅で被爆、1週間ほど生死をさまよいましたが、お母さんが歌ってくれた子守唄が死にかけた命を引き戻してくれたとおっしゃいます。
小学校の校長を定年後、65歳から生かされた命で原爆の恐ろしさや、平和の大切さを訴える鳥越さん、86歳の今も酸素ボンベをひきながら活動を続けています。

骨髄異形性症候群という病名を貰っています。(血液の癌)
放射能を受けたときに赤血球が壊されている。
赤血球が正常になることが難しい 。
3年ぐらい前から酸素ボンベを使用、1週間に1度は特別な注射をしなくてはいけない。
ABCC、アメリカの医者が来て検査ばかりして治療は一切してくれなかった。
日赤にお世話になっています。

山手町、爆心地から2km離れている。
学徒動員があり、動員中で広島市の祇園の工場で飛行機のプロペラを作っていました。
4日健康診断があり受診したときに、脚気だったようで、8月6日、市内の病院で再検査するように言われました。
6日、爆音が聞こえてきて半袖のシャツ着ていて外に出て見たら、何も姿が見えなかった。
その後黒い物体が空中に見えて、何だろうと思ったその瞬間凄い光が眼に入りました。
あっという間に空がオレンジ色に染まり、きれいだなあと思ったが、物凄い熱風が私の顔等に襲って来ました。
両手で顔を覆って、その先気を失ったようで、気が付いて立ちあがろうとしたときに、凄い地響きと凄い風が巻き起こったような気がしました。
あっという間に空中に浮き上がったように思います、そこからは全く分からなかったです。
気が付いた時には目の前に防火用水があり、立っていたところから10mぐらいのところでした。(防火用水にぶつかって止まったようだった。)

何が起きたのか判らなかった。
しばらくしたら両腕が物凄く痛みました。
見たら真っ赤に焼けただれていて、顔も痛くてどうしようもなかった。
水槽の中に腕を入れて、顔にも水をあてがったりしたがますます痛みが増しました。
母親は爆風で家から飛び出して、私を探していたようでした。
母親の声を聞いたのでここにいると叫びました。
母親は防空壕に連れて行ってくれましたが、痛みと苦しさで狂い回ったような感じでした。
それから意識を失い、夕立のような雨の音で気づきました。
防空壕の中にまで水が流れてきました。
雨があがり外に連れ出されたが、人が右往左往していました。
みんな髪はぼさぼさ、顔は血だらけ、焼けただれている、服はぼろぼろでした。
水が欲しいとあっちこっちで叫んでいました。
廿日市まで軍のトラックで運ばれ、治療を受けたが、薬は無くなっていて小麦粉に酢を掻き混ぜたものをやけどの応急手当の治療として使われました。
ハサミで切り取られて、その上にそれを付けられて包帯で巻かれました。

家に帰ったようですが、その姿を見て母親はお化けの様だと言っていました。
その後まったく意識がなくて、母親は生きているのか死んでいるのか分からない状態だったようで、翌日軍の医者が来てこの子は助からないと云ったようで、天国に送ってやろうと母親が膝に抱きよせて、子守唄を歌ってくれたようです。
私には微かに聞こえて来ました。
その時に身体をちょっと動かしたようで、母親は生き返ったと大変喜んだようです。
新しい命を授かったと今も思います。
入院生活をして、その時にハーモニカを母親が枕元に置いてくれました。
病院で母親の歌ってくれた子守唄を吹きたいと云うのが夢で、吹けるようになりました。
母の心境を考えると辛かっただろうなあと思います。

医者になりたいと思ったが、教職の道に入りました。
山口県に10年いて、その後広島に帰って来て30年余り勤めました。
自分自身原爆を思いだしたくない、やけどを見せたくないと云う思いもあり、いつも丸首のシャツを来てプールでも指導していました。
赤血球が減ってきているので立って授業が出来なくて坐って行なったりしました。
60歳で退職をして、1週間目に社会を勉強したいとサラリーマンになりました。
まるで勝手が違ってましたが、段々コミュニケーションをとりながら続けられて、その後学生の採用の担当官になり、どんなことでもいいからと作文を書かせたことがありました。
その時に1点、原爆について書いている学生がいました。
小学校の卒業前に校長先生から原爆の話を聞いて、命の大切さ、命のことを聞いてとっても忘れることができないと書いてありました。
こういう校長は誰だろうと読んでいるうちに、私だったことが判りました。
原爆は伝えていかなければいけないのではないかと思って、証言をすることに決めました。

広島を語り継ぐ会に所属して証言をしたりして、本格的に平和文化センターの職を受けました。
4年目に、修学旅行生に対して色々話をするようになりました。
広島の蝋人形が撤去されました。
私の証言を伝承したいと云う人が出てきて、今後若い人に伝えてもらわないといけないと思います。
平和教育に対して、学校としての取り組みに差があります。
中学3年生がオバマ大統領が来て謝罪をしなかったことに対して、鳥越さんはどう思うかとの質問があり、戦争はどちらにも責任があり、来られたことの心を理解してあげないといけない、と云うふうに言いました。
①幸せと云うものは何でしょう。②命とは、③平和とは と問いかけて、帰って話し合って自分の考えをまとめてほしいと言います。
私の幸せは息が出来ることが最大の幸せ、命は宝だから一日中大事にしてゆく、周囲から支えられているという感謝の気持ちを持ちたいと思う、平和は身近なことに思いをはせて、友達が仲良くする、思いやりのある優しい心を持っていこうと、そういったことが基本になると話しています。

広島の悲惨さは、あらかじめ指導なり、勉強しておいた方がいいと思う、目で見ないといけないこともある。(広島の蝋人形が撤去)
やけどを負った証言者は本当に少なくなりましたので、伝承者が必要になって来ます。
月に5~6校を対象に話をしています。
今日を大事にしていこうというのが私の思いです。
40歳で薬は止めて、自分の体は自分で鍛えようという思いがあり、実業団、マスターズなどで50歳の時に400mで日本新記録を作ることが出来ました。
子供たちを理解して行く、子供に接近していかなくてはいけない。
被爆した時の年齢差があり、年齢が低ければ低いだけ両親から話を聞いて自分のものとして話をしますが、自分の経験を通して苦しかったことを話す事は出来ます。
母親から、おまえは奇跡的な人間だと、生き返ったことに対して、命を粗末にしたら罰が当たるとよく言われました。










































2017年8月9日水曜日

千田ハル(岩手県釜石市)       ・砲弾の雨をくぐり抜けて

千田ハル(岩手県釜石市)       ・砲弾の雨をくぐり抜けて
1924年大正13年釜石市生まれ 93歳。
昭和17年に盛岡高等女学校を卒業し、上京し商事会社に勤めました。
戦争が激しくなるとともに、釜石に戻り釜石製鉄所でタイピストとして働きました。
昭和20年の夏、釜石市民は突如戦艦3隻を含む連合軍の大艦隊の艦砲射撃に二度もさらされます。
製鉄の街は武器の原料を作るところと連合軍の標的になったのです。
一回目は7月14日、2回目は8月9日でした。
長さ160cm直系40cmの戦艦の砲弾を含め5300発以上の砲弾が釜石の街に降り注ぎました。
空気を引き裂く砲弾の音、大地を揺るがす激しい爆発、艦砲射撃で街は壊滅状態、ハルさん21歳の時でした。
1000人を越えると云う犠牲者の数は今も確定していません。
終戦から2年後、生き延びた職場の仲間と同人誌を立ち上げ、戦争の恐ろしさとその体験を長く伝えて来ました。
いまでは当時の仲間も亡くなり、2年前その体験を後世に残したいと絵本を作りました。

宮沢賢治も釜石に親戚があるので、よく来たそうです。
遠野の街を越えると、山が急峻になる。
600名以上の子供たちが疎開するために仙人峠を荷物を持って歩いて越えました。
1回目は空からの爆撃と思って艦砲射撃とは思わなかった。
翌日艦砲射撃と判りました。
「ああ、わが街に砲弾の雨が降る」と云う絵本を作りました。
卆寿で自費出版しました。
絵は村上 伊三雄さんです。
「7月14日はとても暑い日でした。・・・突然の空襲警報のサイレンが鳴り響きました。 私は釜石製鉄所の総務課のタイピストとして2年ぐらいたっていました。
・・・事務所にいた30人ぐらいと一緒に防空壕に逃げ込みました。・・・大きな衝撃を感じました。・・・空からの爆弾と思っていました。・・・しばらくして爆撃の音がぴたりとやんで不気味に静まり返っていました。・・・最初に目にした光景に大ショックを受けました。街の方は黒い煙で何も見えず、駅前の大きな5本の煙突はみんな破壊され、余りの変貌に声を失いました。」

1回目も2回目も砲撃の時間は2時間ちょっとで、始まった時間もお昼近くでした。
街中は建物らしいものは残らないように一面焼け野原だったが、事務所は進駐軍が後で使ったが、計画的に攻撃してたんだろうなあ後で思いました。

「2度目の艦砲射撃があった8月9日は朝から警報が出たり解除になったりで私は出勤していませんでした。
昼近くになって、急に空襲警報のサイレンが響き渡りました。・・・警報とともに布団にもぐりこみましたが、悪夢の様な音が始まったのです。 私は近くの山に逃げ込みました。素手で山肌の地面を掘って顔をうずめていましたが、突然大きな音がして空から土が降ってきたことが記憶しています。しかし記憶があいまいで多分気絶していたのでしょう。・・・我に返り、家に戻ってみると畑の処に大きなすり鉢状の穴が開いて、背筋が凍りつくようにぞっとしました。」

砲弾の破片が家に入って、暴れまくって、布団が破れたり衣類などがクシャクシャになっていました。
親しくしている人から聞いた話では製鉄所の地下のトンネルに入ったが、折り重なるように様に人が一杯で、そういうトンネルが3つあったがとてもいられなくて、海岸の近くの出口に出たら、山の上には防空壕がいっぱいあって住民が逃げたがそこが攻撃されて71名亡くなったそうです。
駅の方に戻ったら、途中も倒れていたり、けがをした人がいてそれを見て駅の方に行き、防空壕が直撃されて23名が亡くなりました。
1971年ごろ、犠牲者の名前を発表したが、だぶったり、未整理のままでして、それはずっと公式の名簿として通ってきました。
今年3月発表されたのが19人認定で773人となったが、現実はもっと多いと思う。
当時製鉄所には海外の捕虜(アメリカ、イギリス、オランダ、中国、朝鮮等)も500人以上いたといわれている。

東日本大震災で戦争記念館が被害を受けて資料も散逸しました。
当時集団疎開した子供たちは9月に遠野から帰ってきたが、家族が被害を色々受けていた。

「8月15日重大放送があると聞き、ラジオ放送に耳を傾けました。
初めて聞く天皇陛下のお声でした。内容は良く判りませんでしたが、日本が全面降伏したらしいと云うことは理解できました。何の疑いもなく、聖戦と思い大本営発表を信じてきた私たちにはよくわからないながら、涙がとめどもなく流れたのでした。」
言葉はさっぱり分からなかったが、負けたんだということで、私は何の疑いもなくそのうち神風が吹いて助かるからと思ってきたので、考えの及ばないことがわかって立っていられないほどのショックでした。
詩人集団「花貌」を12,3人で立ち上げる。
憲法の草案が発表されて、憲法の草案を勉強しました。
言論の自由、書ける、読める、そういう自由な雰囲気のグループを作ろうと云うことで「花貌」を立ち上げました。
花はそれぞれの持ち味で咲くし、だれにも遠慮もなく自由に生きて行きたいという気持ちで決めました。
自分は詩人ではないが自分の気持ちを発表する場にしたかった。

昭和22年に創刊、57年間続いた。
最初は紙すらなかなか手に入らなかった。
2004年に終刊、先輩たちも亡くなり、私が編集長になり、その後はっきりと幕を下ろそうと云うことになりました。
齢90歳、聖戦と信じた日本の戦争はひどい侵略戦争と判って、当時の自分の無知を思い知らされました。
この絵本は測り知れぬ命の犠牲の中から生まれた日本国憲法の戦争放棄を詠った精神とその意義を改めて考えるきっかけになればと念願し、戦後70年の大きな節目の年に次の世代へのメッセージとしたいと思いました。

ひ孫のここみちゃんが作文コンクールで平和についての作文募集があり優秀賞になる。
「・・・砲撃を受けた人たちはどんなに怖くて辛かったことでしょう。釜石の街中は一面焼け野原になり、ひいおばちゃんの家も焼けてしまったそうです。その後家族全員無事に生きて会えた時にはおいおいと涙を流して抱き合ったそうです。2回の艦砲射撃で1000人以上の人が亡くなりました。・・・この釜石にそんな悲しいことがあったと知って怒りがこみ上げて来ました。なんで戦争なんかするのでしょうか。どんな理由があっても人が人を殺し合う残酷な戦争をしてはいけないと思います。なぜなら戦争は憎しみと悲しみしか残さないからです。残さなければならないのは人々の優しさと笑顔だと思います。・・・人が人を思いやって仲良く暮らして笑顔があふれる幸せな世界を私達が作っていかなければならないと強く思います。」















































2017年8月8日火曜日

佐野博敏(元東京都立大学総長)   ・原爆投下 川を泳ぐ焼き魚

佐野博敏(入市被爆者・元東京都立大学総長) ・原爆投下 川を泳ぐ焼き魚
89歳 1945年8月6日、当時17歳だった佐野さんは広島工業専門学校(現広島大学工学部)の学生でした。
学徒動員されていた広島県内の工場で原爆投下を目撃、翌7日の早朝に広島市に入った佐野さんは市内を流れる川で背びれを失いうろこが焼け落ちた魚が水面に漂っているのを見ました。
死んでいるのかと思って手を差し伸べて見ると魚はふらふらと泳ぎ去って行ったそうです。
その後市内で原爆の惨状を聞いた佐野さんは魚は被爆したのだと知ったと云うことです。
被爆の翌年、佐野さんは記憶を元にこの魚の絵を描いています。
佐野さんはその後大学に進んで放射化学を専門に研究して、ビキニの水爆実験の際は死の灰の分析等にも携わりました。
被爆から72年を迎えた今年、佐野さんは自らの被爆体験について語ってくださいました。

大腸がんを2回やりましたが治療してからは、元気にしています。
母親が被爆者で、被爆者づらをするなと当時時々耳にして、高度成長期で被爆の体験を人にいうことはあまり受け入れられなかった。
東京都立大学の弟子にも被爆の話をしませんでした。
大妻女子大学の学長になってしばらくして、経験した極限状態を学生に話してほしいとの話があり、原爆の体験の話をしました。
非常に熱心に聞いてくれて提出されたレポートも細やかなな感受性で受け取った印象がありました。
若い人にも話をしなければいけないと気付きまして、大学、高校、私のいましたお茶の水女子大学などで話をするようになりました。

8月6日、17歳で広島工業専門学校の生徒でした。
三菱化学で働いていました。(勤労動員)
8月6日の午前中は授業があり、軍事教練の将校が来る時間帯になっていて、寮を出て教室に行くために8時過ぎに玄関を出ようとしたときに、ぴかっと光りました。
外へ出て数歩歩いた時にドンという大きな爆音がしました。(ピカドンと云う現象)
広島からは約30km離れた場所でした。
その時はまだそんな大変なことが起こっているとは判りませんでした。
キノコ雲の成長過程が見えました。(変な入道雲だと言っていました)
将校が8時半過ぎても来なくて、9時半になっても来ない。(来ないことによろこんでいました)
11時頃になって、山陽本線の列車が通っていないと、誰かがいい始めて、原爆のせいだとはだれも想像できなかった。
負傷者が沢山入って来ることが判り、広島で大変なことが起こったと云う噂が入ってきた。

着物はぼろぼろ、皮膚は焼けて皮が垂れ下がっている、5~10人並びながら帰って来る。
広島は火の海だと云う話を聞いて、ますます何が起こったのか判らなかった。
B29が沢山飛来して焼夷弾を落としたと云う訳でもないのに、なんかが燃えていると云うのは考えられなかった。
暗くなるに従って、真っ赤な空になって、広島方向は全面赤くなっていました。
工場が蒸気船を何艘か出すから希望者は広島に帰る様にと云うことで私も夜中2時ごろ出発して、朝の4時半ごろにつきました。
太田川の河口に着く予定になってました。
そこで川を「泳ぐ焼き魚」に出会いました。
30cmぐらいの鮒がよろよろ泳いでいる。
鮒の背中の背びれがなくて、中の肉が見えました。
手を伸ばすと手から逃れてうろうろしている。
1946年に「泳ぐ焼き魚」を色鉛筆で書きました。
背びれは無く、頭の部分からしっぽの部分まで背中が裂けていて、裂けた肉の部分が黄色に描かれれている。

丘に上がって負傷者の肌を見てから、あーそうだったのかと思いました。
街の様子は動けない人が道端にうずくまって痛いよーと叫んでいる人、息絶えている人も沢山いました。
母は富士見町という爆心から1.1kmのところなので、私は自宅まで歩いて帰りました。
家は完全に焼け崩れていて、2本の石の門柱だけが残っていました。
門柱の間に女性の焼死体がありました。(足は無く顔はどうなのか判らなかった)
母親は亡くなったと判断ました。
罹災証明書をもらって、親戚に連絡したところ、遺体を取りに行かなければいけない葬式をしなければいけないと云うことでリアカーを曳いて歩いて広島まで帰りました。
親戚の方が母親かどうか確認しないといけないと云うことで、歯を見ることになり、口を開けてみたら、母親とは違っていた(母親は虫歯が多かった)

それからは親戚の方と行方不明の母親を探すことになりました。
6日間探しまわりました。(テントだけの収容所など市内を歩き回りました)
母親の識別はできなかった。(負傷者にお母さんと云いながら反応を見ました)
川にも沢山の死体もあり、川の中の死体までは近付くことはできなかった。
眠るのが怖かった、眠ると母親が夢枕に立つのではないか、夢枕に立たれたらもうおしまいだと思って、眠らないようにしようと思ったが、6日目の朝にうとうととして、夢の中に母親が出て来ました。
その夢を見たとたんにしまったと思いました。
絶望的6日目の朝でしたが、お寺から連絡があり酒蔵?(酒蔵通り?)の国民学校に収容されていると連絡がありました。
酒蔵?(酒蔵通り?)の国民学校に行って、東京の暁部隊の下士官に案内され聞いたところ、母親が「博敏、博敏」とうわごとのように叫んでいたそうです。
お寺の連絡網を使って連絡してもらえたそうです。

母親は右半身ガラスが刺さって、右腕の付け根の動脈が切れて出血多量で、逃げたが意識不明となり、そこに暁部隊のトラックが通って幸いに母親を助けてくれて暁部隊に収容されて、余りにも子供の名前を呼ぶんで気にかけてくだすったと思います。
あれだけ博敏、博敏とうわごとのように叫んでいたのに、私と出会うと、「博敏、どうしてここに来たの」と言って、私も母親がそこにいるのは生きていて当然だと云う気がしました。
6日間、死体を見たり、けが人を見たり、死体を焼くところを見たり、首が焼け落ちて又火の中に入れられるところを見て、無感動のまま6日間を過ごして、極限状態だったと思う。
極限状態だと人間は何の感動もしない、平気でいられる。
その後その話をすることもありましたが、ほんとうに感動しなかったのかといわれましが、感動らしい感動がないぐらい感動したのかもしれません。

広島工業専門学校から東京大学理学部に進学、放射化学を専攻する。
放射性元素、人工の放射線元素など 始まったばかりでGHQは放射能の研究はしてはいけないことになっていました。
ビキニ事件が発生して、私の先生は放射能の専門家でビキニの灰の分析などが木村研究室に依頼が来ました。
ビキニの水爆は汚い水爆だと判りました。
核分裂に使われないウランを原爆の周りに取り囲んでおくと、核分裂が出来ないウランですが、非常に高速の中性子が出るためにそれまで核分裂するので、放射性物質が沢山出る。
その後東京都立大学の教授、総長、大妻女子大学の学長を歴任する。
わたしが専攻したテーマの一つにホットアトム(周囲の熱平衡系のエネルギーをはるかに超えるエネルギーを持ったり、高電荷を帯びた原子のこと)化学があり、高速の粒子を物質の中に叩きこむと色んな相互作用を起こすわけですが、人間社会に突然原爆が落ちて広島の社会が滅茶苦茶になったような、そういう現象と、原子分子の世界と人間の社会と割に似ているんですね。
一回破壊されたものが完全ではないが少しずつ復元すると云うことが、原子分子の世界でもあるわけです。

物質を壊す最大限の壊し方なので、普通の化学反応とは違うわけで、世界全体を壊すような兵器に核兵器は成ったんだなあと云う気がします。
この経験を忘れたら、人類社会が最終的な面を迎えるのかなあと云う気がします。
人間自身が作った核兵器が人間社会を壊すんだろうと云う気がします。
どう実感出来るように伝えることができるかと云うとこれは、よほど皆さんの想像力に期待するよりしょうがない。
被曝者としてだけではなくて科学者として、人類が得られた真実を伝えることが一番の目的だと思います。
誇張でもなく縮小でもなく、公平な実感として伝えることが大切なことだと思います。































2017年8月7日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)・福澤諭吉【近代日本150年 明治の群像】

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)・福澤諭吉【近代日本150年 明治の群像】
講談師 神田蘭
文明開化の時代の啓蒙思想家、慶応義塾大学を作った教育者。

福澤諭吉の紹介(講談)
「天は人の上に作らず、人の下に人を作らず。・・・」 「学門のすゝめ」
明治5年刊行 340万部が売れる。(当時の日本の人口 3300万人)
1835年1月10日 大阪の下級武士の息子として生まれる。
当時の識字率は男子50~60%、女子がおよそ30%。
多くの人に読まれました。
人間みな平等と云うが世の中を見ると、賢い人、愚かな人、貧しい人、富める人がいる。
そのような違いが生まれるのは、ただその人が学問をするか、しないかにある。
難しい字を知り和歌をたのしむ様な実なき文学ではなく、実践に役立つ、実学である。
いろは47文字、手紙の書き方、そろばんの稽古等簡単なことから始まり、地理、物理、歴史、経済などである。
西郷隆盛なども激賞、広く読まれる。
文章がとても判りやすかった。(お手伝いに読ませて、判らないと書きなおした)

現代と比べる識字率は低いが、当時の世界で比べると、日本の識字率は世界一だった。
福澤諭吉は机上の学問を嫌った。
福澤先生が人権、人間は平等であると云ったことが、日本の社会に根付いた結果として現在の我々があると云うことです。
当時の社会にとってみれば吃驚するような内容だった。(身分制度があった)
中津藩(福澤諭吉の藩)は門閥制度が厳しいので有名だった。
諭吉の父親は才能があったが出世できなかった。
福澤諭吉は1回目1860年(27歳)咸臨丸に乗ってアメリカに行った。
福澤諭吉は懇願して乗せてもらった。
勝海舟は福沢諭吉とはそりが合わなかった。
西海岸を見て帰って来た。
1862年 29歳 ヨーロッパに1年間行って来た。
銀行制度、保険制度など色んなものを見てきて、後に日本にしっかり紹介するのが凄いところ。(他にも一杯行ったが実際に動いたのは彼だけだった)
フランス、イギリス、オランダ、プロシャ、ロシア、ポルトガルに行って、各地で写真なども撮っている。
ほかに病院を見たり郵便局を見たり、選挙制度、議会制度を勉強したりしている。

1867年 34歳の時にアメリカに行く、ニューヨーク、ワシントン等。
福沢諭吉はアメリカへの1回目の時の質問でジョージ・ワシントンの子孫は今何しているのと聞いたら「さあ」と云うことで吃驚するが、世襲がないことに感銘を受けた。
「独立自尊」(気高く生きよ、日本人たる誇りを忘れるな)慶応義塾では一番有名な言葉。
人に迷惑をかけるなと良く言っている。
「一身独立、一国独立」 
当時の日本は列強が植民地にしようとして虎視眈々と狙っている。
一人一人の国民が独立すれば一国がきちんと自分の足で立つ、日本が一つの国として植民地ではなく立派な国として世界に伍してゆくことができると云う思想。
一人ひとりの国民の責任がある、と云う気がします。

今泉みね(蘭学者桂川甫周(7代目))の娘『名ごりの夢』に福沢諭吉のことが書いてある。
「・・・始終懐は本で膨らんでいました。
何時も本のことばかり心にかけて桂川から洋書を借りていましたが、他の人がそれを写すのにひと月、ふた月かかるのにあの人は大抵4~7日で写して返しました。
福沢さんのおなりは一番質素でした。・・・
父の前できちんと足を重ねて話を聞いている時に、私は足袋の穴に気づいて、松葉を10本ぐらい束にして突っつきましたが、話に聞き入っていて、動くには動かれず大分お困りのようでした。
福沢さんはめったにお遊びになりませんでしたが、時には私の相手をして下さることがありました。・・・
なにをしてもお上手で面白く、物知りで色々お話していただきました。
私が6つのころ、福沢さんにおぶさって行ったことがあります。
その背中が広かったことを思い出します。・・・
外国から戻って頂いたものは二品、一品は羊羹のようなもので食べるものではなくいい匂いがして水にぬらせば泡が出てくるものでした。
今から思えばシャボンでした。
もうひとつはリボンぐらいの幅の綺麗な布を頂ききました。
今も手元にあるので時々出してみてはその昔を思いだしております。・・・」

明治新政府とは付かず離れずの関係だった。
やろうと思えば明治政府の中で出世できたが、あえて距離を取った、これはできることではない、武士を辞めて平民になる。
本当にやりたいのは日本国民を教育したいという志、その実現のために生きている、そういうところが偉い人だと思う。
大隈重信との関係は仲良かったようで、家族ぐるみの付き合いだったようです。
大学院教育は日本では日本語でできるが、アジアのほかの国は自分の国の言葉では大学院教育はできないため積極的に留学しないといけない。
福澤諭吉はヨーロッパの言語、アメリカの言語を日本の言葉に置き換えてくれたので、大学院の教育まで日本語で出来ると云う事なんです。(経済 動物園 授業料とか・・・)
明治34年に亡くなる。

小泉信三氏 
小さいころ福澤諭吉の屋敷の中に一緒に住んでいた。慶応義塾の塾長、天皇陛下の先生。
美智子さんとの出会いを演出した方。






















2017年8月6日日曜日

山寺宏一(声優)          ・【時代を創った声】

山寺宏一(声優)          ・【時代を創った声】
山寺宏一(第二回目)
子供のころは内弁慶で、家庭内ではふざけたりしていました。
小学校のころ、3,4年生は物まねとか始めていました。
5,6年生で思春期を迎えて、そこから高3まで女子と話が出来ない、そういった時期でした。
高校3年生の時に仲のいい女の子が出来て、それをきっかけにそこから他の子とも話せるようになりました。
でも女子の前では物まねはできませんでした。
宮城県で生まれ、大学まで仙台でした。
物まねタレントを目指そうとは思ったが、TVを見てとても駄目だと思って、大学で落研にはいってた友人がいて、誘われて入りました。
直ぐに落語が好きになって落語にどっぷりはまりました。
最初小話からはいって毎日稽古をして、発声練習したりしました。

訛っていたので訛らないようにするのが大変でした。
大学で勉強することはほとんどなかったが、毎日部室にはいっていました。
CMのオファーが落語研究会に来て、でないかといわれてそれに出て、就職が決まったのか聞かれたときにまだと言ったら、うちに来ればいいじゃないと言われた。(広告代理店)
「声優になるためには」という本を読んだら、養成所があると云うことが分かった。
広告代理店への誘いは辞めて、演技の基礎から学ぶことになりました。(週5日)
舞台の面白さが判りました。
大学まで親に面倒見てもらっていたので、養成所に入る前は不安はありましたが。
養成所に入ってからは何の不安もなく楽しかったです。
2年間通ってオーディションを受けて、合格して事務所所属になりました。

1985年メガゾーン23のロボットアニメの主人公の友人役がデビューでした。
そこから徐々に仕事が増えていきました。
「別撮り」と云う意味もわからず、やってしまってひどく怒られた時もあります。
他の人がやっているのを聞くのも凄く勉強になります。
観察力が演技力に繋がって来る。
印象に残ったものは一杯あります。
「どんどんドメルとロン」のポリス役でセリフは無くて、ホイッスルで表現する。
(変わった役)
難しかったのは一杯あり、大変だったのはセリフの量が大変なのはデンゼル・ワシントンが主役をやった映画『マルコムX』という作品は演説がすごく多くて、演説にオーバーラップして芝居する様なことがあって、大長編もののふきかえで、リハーサルの時間(徹夜になてしまう)と喉がやられず声が持つ時間を考えてやったのを覚えています。
名優がやるのを違う言語で吹き替えすると云うのは難しいと思ったのは一杯あります。
どれもこれも難しいです。

先輩の引き継ぎはやりたくないが、他の人がやるんだったらやってみたいと思います。
「銭形警部」「ヤマト」など大好きでした。
富山敬さんの後を色々継がせてもらいました。
声優はやる幅が広いので、色んなものに興味を持って引き出しを多くしておくことは大事だと思います。
いろんな俳優さんの吹き替えをするときに、余り自分のクセが強すぎると全部同じになってしまうと云うことがあるので、己を知る、自分の癖は難しい、人のは直ぐ判る、それを何とかしようとすることは大事なのかなあと思います。
個性は必要だが、クセとはだれもがもっていると思う。
KUSE へこんだUを伸ばしてOにしてKOSE そのあとにIを付けるとKOSEI
個性になる。
ときめくような役に出会いたいし、準備を怠ってはいけないと思います。
舞台の方も充実させていきたいと思います。

2017年8月5日土曜日

岸博実(日本盲教育史研究会事務局長) ・視覚障害者と戦争

岸博実(日本盲教育史研究会事務局長) ・視覚障害者と戦争
戦争中視覚障害者はどういう状況に置かれていたのでしょうか?
資料が乏しい中 30年以上資料を集め体験者の聞き取りを行うなど、ライフワークとして調査研究しているのが、日本盲教育史研究会事務局長で京都府立盲学校非常勤講師の岸博実さん68歳です。
戦後72年、戦争中に視覚障害者が直面した悲惨な状況と戦争のむごさを後世に残していこうと活動している岸さんに伺いました。

日本盲教育史研究会は全国の盲学校の現職、あるいはOBの教員、大学の先生だった人、若い学生さんを含めて有志が集まっている研究会です。
盲教育に関する資料が散逸して行く状況を心配して保存のことなどを考えたい、歴史そのものをしっかり調べて論文などにまとめて学びあって行きたい、今後に生かせるものはなにかということを探って行きたいと云う団体で、5年経とうとしていて全国で会員が190人います。
京都府立盲学校に勤めはじめて間もなく創立100周年記念の300ページを超える本を作られて、戦時中のことが10数ページしかなくて、これでいいのかなあと考えたのが最初のきっかけです。
調べて、①障害のある子たちが差別を受けた側面、②盲学校、見えない子供たちが空襲で被害を受けた側面でした。
その後③見えない子供達なども戦争の体制に組み込まれて、参加した事も判ってきて驚きでした。

明治時代に富国強兵政策が設けられ、徴兵制度が敷かれ、体に障害のある人たちが合格できない、国の役に立たない存在と見られがちになって行った、心ない言葉を浴びせられる。
空襲をうけると、どちらに逃げると安全なのか、そういう情報が入って来にくいことになるので逃げまどうと云う風になりやすかったと聞いています。
逃げるときに悲惨な状況にあったと云うことが書かれていました。
障害のある子たちは戦力にならないので後回しにされた。(学童疎開等)
疎開先も行った先が危ないところだったりしました。
盲学校そのものが空襲に会い、学び場が失われたと云うことも沢山報告があります。
沖縄の場合は本当に激しい空襲があり、その中で見えない人たちも逃げ回らねければならなかった。

盲教育、ろう教育の義務化は明治39年から国に要望していたが、国家余算の使い方が軍備の方に偏っていったので、義務教育の実施が遅れた。
見えなくても戦争への参加の仕方があると云うヒント、呼び掛けを色んな形で与えられると、取り組んでみたいというきもちに駆られていったということは判るような気がする。
昭和15年奈良の橿原で全国盲人大会が行われて、決議として全国の盲人の募金を集めることによって海軍にゼロ戦をプレゼントしようと云う取り組みがあり、それには日本盲人号と云う名前が付いている。
お披露目の式には大阪の歌舞伎座で行ったことを示す絵葉書、案内の文書が残っています。
盲人防空監視哨員、見えない人が耳で敵機が近づくのをいち早く察知する、そのことを求められる役割だった。(主に夜だったそうです。)
石川県で盲人を集めて実験して、多少早く聞きわけたと云うことで募集をして10人選び出して配置したそうです。(どれだけ役に立ったのかは微妙とのこと。)

盲学校で良く行われたのは鍼灸で、工場で疲れた人の回復、戦場で失明した軍人たちの治療などにも、間接的に国の役に立とうと云うことが多くありました。
海軍技療手、健常のマッサージ師、弱視の人を全国から募集して、選抜をして技療手として養成して、国内の基地に配置、南方の基地などへ配置して疲れた兵士の疲労回復、けがをした人の治療などに従事させようとしたようです。
軍に属して南方に行き、戦艦に乗り組んで魚雷により沈没して戦死した人もいるそうです。
盲学校の生徒たちへの教育、昭和18、19年に満州建国大学の教授を招いて京都府立盲学校で講演、その3回目に「見えないあなた方は敵に体当たりして散って行く若い人たちに比べて役にたたない存在だと行って、そんな諸君でもできることがある、自分の事は自分ですることにより親への負担を掛けるのをへらす、そうすることで国の役に立っていける、
国のためになると云うことを考えて取り組まなくてはいけない」、そういう講演がありました。

「盲人でさえもこの様に頑張っている・・・」と云うような記事がよく掲載されていた。
国民の士気を高める材料として、盲人の頑張りが扱われていた。
厭戦の言葉を発した盲学校の生徒がいたことも文献から知り始めているところです。
小野兼次郎がエスペラントを学ぶ中で、日本の軍備増強、対外的な争いを求めて行くような動きは反対だと云うことで、ビラまきに参加して治安維持法に引っ掛かって逮捕されたという例もあります。
失明軍人へのリハリビは新職業の開拓という側面を持って展開されました。
それも戦争初期ことで戦争末期には扱いは段々ぞんざいになって行った。
戦争と云うものは最も大量に障害者を作る、命を奪うので、戦争は起こすべきではない、起こしてはならないものと思います。
戦争と障害と云うことについて過去の例から学ぶ必要があると強く思っています。
若い世代に伝えていきたいがそこがカギだと思います。
文字、映像、資料にして次の世代に見聞きして頂ける条件を作っていきたいと思います。






































2017年8月3日木曜日

村田浩一(よこはま動物園ズーラシア園長)・動物たちが開く扉

村田浩一(よこはま動物園ズーラシア園長)・動物たちが開く扉
神戸出身 65歳、宮崎大学で獣医学を学んだ獣医師で、地元神戸の王子動物園で20年間勤務した後、日大で動物園学を教えるかたわら、2011年から横浜動物園ズーラシアの園長に就任しました。
動物園は単に動物を見せるだけではなく、動物と人が同じレベルで接し、自然界の仕組みを知り、人の生き方、地球環境の大切さを知ってほしいと言っています。

ズーラシアは愛称で、よこはま動物園です。
ズー=動物園 ライア(ユーラシア) 広い地球の動物たちを一日で見て回れる 、と云うようなイメージです。
人の暮らしと動物と、生息環境の3つを体感してもらうというコンセプトです。
楽しみながら学んでもらいたいと云う思いはあります。
明治時代に初めて動物園が出来たときに、明治天皇に大久保利通が博物館建設の義という意見書をあげるが、動物園は博物館付属でした。(植物園も同様です)
歩きながら、楽しみながら過ごしている間に知識が付く、そういうところなんだと、明治天皇に説明しているが、今世界中の動物園の目指しているところです。
動物から学ばなくてはいけないし、動物を通して自然、地球環境を守って行く、動物を保全してゆく、そう言うことを学ぶ場として動物園が存在している。
1999年4月にズーラシアが出来て、2011年にここに来ました。
理想の動物園が出来たとのうわさがあり、見に来た時は木もすくなかったりして一部砂漠のような状態で、大丈夫かと思ったが、今は当初建設した人たちの予想通り素晴らしい場所になっています。

ズーラシアは動物病院の規模も日本一です。(規模、人員、施設等)
繁殖センターがあり、希少種繁殖に関する研究をしています。
バク、カンムリシロムクを増やして、カンムリシロムクをバリ島の西部に140羽以上送っています。(野生に戻す協力)
希少種を増やすのは難易度が高い。
人間に依る開発、密猟などで減ってきています。
100年ぐらいかけて元に戻せるようにしようとしています、100年ぐらいたてばもう少し人間も賢くなり、自然を守るような方向に人は変わってきているだろうと、それまで希少な動物を何とか動物園で維持し続けようと云う考えに元づいています。
100年を設定したのは30年前です。
一番顕著なのが地球温暖化です、北極熊、ペンギン、クジラなどが影響を受けています。
そのうちに人間にも影響が及ぶと考えられています。

ホモサピエンスと云う動物の一種である人間が、他の動物の危機と同じような状態に陥ると云うのは生物多様性の危機の象徴のようなものです。
人間が変わらなければ地球の危機は救えないと思います。
人間が変わらないと環境も変わらないし、最終的に人間の生活自体が崩壊してゆくと云うことでしょうね。
地球温暖化で、海表面上昇し島が水没、気候変動等に対して人間はなかなか動かない。
重要なことは体で感じることだと思います。
動物園は絶えず進化ています。
ゴリラは従来オスメス1匹で飼っていましたが、社会性を持っているので集団で飼うようにしています。(自然の状態を動物園でも再現する)
心の健康まで補償する様にします。(ストレスから守ることが世界的な潮流になっている)
餌の与え方、餌を探して歩けるような仕組みなどを考えています。

雨、雷で繁殖行動がうながされると云うこともあります。(或る種のワニとか)
1年間同じ食事内容を全く同じ量を与えると云うことはやっていません、なるべく野生に近いものを手に入る範囲(出来るだけ四季に応じて)で与える様にしています。
動物園の4つの役割
①環境教育、保全教育 ②調査研究 ③保全(絶滅危機種の保全) ④レクレーション(人々の楽しみ、慰安)
人間の医者になりたいと思った時もあったが、北杜夫の本を読んで船医にあこがれ、そのうちに獣医の道に進みました。(40年以上前)
動物園にしばらく勤務するようになって、動物の医者になってよかったなあと思います。
動物の死因を突き止めるために解剖するが、臭いが染み付いてしまっていくら風呂に入っても消えなくて、通勤電車で誰だと大声をあげられたこともあります。
動物園で自然に触れて動物の生きざまを見て、自分のライフスタイルを見つめ直す、これが人間の生き方なんだろうかという再認識を抱くことが、地球環境への保全につながって行くと思います。








































2017年8月2日水曜日

祖父江真一(JAXAミッションマネージャー)・すごいぞ地球観測衛星

祖父江真一(JAXAミッションマネージャー)・すごいぞ地球観測衛星
今年は日本初の地球観測衛星が打ち上げられてから30年になります。
地球観測衛星はオゾン層の破壊、地球温暖化などの気候変動や、台風、地震、火山などの災害に対応するために、宇宙から地球を見つめて必要なデータを集める人工衛星です。
東日本大震災や熊本地震の時などに衛星から送られてきた画像をご覧なった方も多分おいでになると思います。
祖父江真一さんは52歳、平成元年に現在のJAXAに入社しました。
以来地球観測衛星の開発、運用などに携わり日本の観測衛星を熟知されている方です。
祖父江さんにご自身の社会人人生と重なる日本の地球観測衛星の開発を振り返りながら開発に挑む熱い思いを聞きました。

役割は上がった後の人工衛星を、どういうふうに色んな形で使っていくかを調整して行くかという様なことをやっています。
2011年東日本大震災の時に、沢山の衛星写真を送って、被害状況の把握、災害対応計画の立案に役立ちました。
その時の衛星は「大地」と云う衛星でした。
衛星としては定年(5年)を迎えましたが、働くことが出来ました。(その2カ月後に終了)
1987年初めての衛星を打ち上げ、海洋観測衛星1号「もも1号」
陸と海を観測する衛星両方を検討していたが、先に海洋衛星をと云うことになり、海洋衛星を打ち上げました。
JAXAは技術の進歩に合わせて高性能化する、高機能化すると云うこともやりますが、地球の環境を見ると云うことは、30年は少なくとも観測しないといけないと言われている。
30年間同じような観測装置で同じように観測した方が、変化が判りやすいと云うこともある。

私が関わるようになったのは「もも2号」からです。(1990年2月打ち上げ)
種子島で打ち上げを見た後に、埼玉県の鳩山町に地球観測センターがあり、もも2号の衛星のデータを受け取ってどういうふうにやるかと云うところから参加しました。
日本が打ち上げた観測衛星は10個で、運用中は4つです。
①「だいち」後継機の「だいち2号」 陸上の状況を見ている。 災害など。
②二酸化炭素を測る衛星「いぶき
③雨を測る衛星「しずく」 気候変動が一番出てくるのが雨の降り方、台風。
④アメリカと一緒にやっているGPM 衛星は米国、日本の観測装置を搭載。3次元で雨が判る、台風の構造がより判る。
いかに海の上の情報を多くするかで予測精度が高まる。

最も残念なのは、「みどり」(ADEOS)、「みどり2号」(ADEOS2号)です。
衛星が大きくなると大きな観測装置を載せることができるので、1つの衛星に8個の観測装置を載せて、同規模の衛星をアメリカも先にあげるはずだったが遅れて、日本は世界トップの衛星を上げることになり、最初打ちあげて動き出した時には凄い成果を出して期待されたが、10カ月の運用で止まってしまった。(太陽電池が壊れてしまった)
「みどり」の失敗の轍を踏むまいと、「みどり2号」を打ち上げたが、太陽電池パネルのところの問題が起こって約10カ月で止まってしまった。
この二つの失敗でその後冬の時代でした。
もし失敗していなかったら、完全に日本のデータがスタンダードになって、国際的な環境、気候変動の変化では日本のデータを使わないとしょうがなくなっていて、日本に対する依存度が違ったような気がします。

やっと失敗を繰り返さないとうことで、みどり、みどり2号は太陽電池が一つだったが、しずく、だいち2号は両側になり、片方が壊れても衛星は死なないという形になり安定して動けるようになりました。
ようやく気候変動の観測衛星が今年度中に打ちあげるのを予定しています。
しずく(GCONW)と今度打ち上げる衛星(GCOMC)で二つ合わせてみどり2号と同様な機能をはたしています。
みどり2号のさらに進化したものが「いぶき」になっていて、GCOMCが上がればみどり2号のあとのものが全部そろう形です。
こういった仕事を判り易く説明できるように心がけています。
2011年東日本大震災があり、タイで大規模な水害があった年で、自分たちの生活には影響がないように思われるが、日本の工場も被害に会って車の部品が入らないと云うことになりました。
アジアで被害があった時には、もろに日本の生活、経済に影響があるので、一つの国だけで何かという話ではないと云うことです。

名古屋市生まれ。
宇宙もののアニメがあり一生懸命読んだりして、小学校の頃に天体望遠鏡を買ってもらって木星、土星を見ていました。
大学の研究生の時に、コンピューターシュミレションをやる研究室に行って、宇宙に近くなってきた感じがしました。
1989年NASUDAに入社。
2003年に「みどり2号」が運用停止して、「しずく」が打ち上げられたのが2009年になります。
「いぶき」をあげようとするまでに、組織的な管理の問題があるのではないかとか、組織の改善、地球観測をこれからもやるのかとか、議論があり、先が見えなくてそのころが一番つらかったです。
環境省が一緒にやりましょうと云うことになり、京都議定書の問題もあり「いぶき」が動き出しました。

地球の問題は日本人がよければいいと云う話ではなくて、世界に利益があれば必ず日本にも戻ってくることを信じていること、仏教でいう自捨他利、自分を捨てていかに他人に利するか、と云う処の話が原点にないと、地球観測をなんでやるの、日本の為だけなら衛星をあげなくてもいいんじゃないのという話になりがちだが、将来のことを考えたら地球全
体のために貢献しないと意味がない。
或る程度部下を使う立場になった時には、一度こうだと決めたらよほどのことがない限り
変えないと云うことは信条にしています。(頑固だとは言われますが)
仕事だけが人生のすべてではないと云うのもあるので、いかに効率的に仕事をして行って、自分の時間を大切にすると云うこともあると思います。
判断をする時に、自分の狭い立場で正しいと云う風に考えるのではなくて、広い立場、人として他の人のことも考えて判断して何が正しいかを判断してもらいたい。
さらに観測することによって、地球はどう変わりつつあるのか、これから20年の観測が重要で北極の氷の融け方の傾向を見ていると、ここ何十年で北極の氷はゼロになるかも知れなと云うペースで氷が減ってきている。
今の現実がどうなっているのか、正しく把握して明日に備えることが大切だと思っています。
「いぶき」「だいち2号」の次が動き出しているが、そのあとは明確ではなくて、継続的に人工衛星を使って地球を見ていくことを日本としてやっていこうと、できるところまではやっていければと思っています。
































2017年8月1日火曜日

リチャード・フレイビン(和紙アーティスト)・漉き舟がわたしのカンバス

リチャード・フレイビン(和紙アーティスト)・漉き舟がわたしのカンバス
1943年アメリカ、ボストン生まれ 73歳。
美術大学を卒業し、広告代理店で仕事をしながらボストン美術館に通い、浮世絵、水墨画、日本画など日本美術に魅かれ、25歳で来日しました。
以来48年日本に在住し、和紙をすいてアート作品を製作しています。
作品はふすまや屏風、和紙のインテリア、壁紙、かみこなど多彩です。
こうぞの素材の魅力を巧みに生かしています。
来日して2年間、東京芸術大学で学び、その後日本各地にある和紙の産地を訪ね歩き、埼玉県小川町で手すき和紙の技術を身に付け、小川町を拠点にアート活動を続けています。
日本に長年伝えられてきた手すき和紙の技をこれからもしっかりひき継いで行きたいということです。

紙を薄い藍色に染めるが、染め方がいろいろある。
刷毛そめ、スプレイに入れて染める、その後乾燥させる。
これは千切って張って、壁紙にします。
漉き舟は畳1畳ぐらいあります。
けたにすだれを敷いて、濡らして紙すきが始まります。
からまりがいい、こうぞの繊維が長い、薄くてもできあがった紙はとても丈夫です。
紙すきは重労働です。
特に展示会などがある前には漉き舟の前に立ちます。
もみじの葉を漉き込むときは位置など色々考えます。
紙を作る技術を覚えれば自分の作る作品の発想が変わる。

現在は二つ目のアトリエ、最初は慈恩寺があり、そこに蔵がありお布施によりそこで暮らして、工房がほしかったが、それは簡単に建物は立てられなくて、京都の本山と話し合い、座禅堂という名目でアトリエを作ってもいいと云うことになり(紙を作ることも禅の一つと云うことで)そこで紙すきが出来ましたが、2005年に大火事に会って消失してしまいました。
縁がありこちらの方に来ました。
4枚のふすまの作品があります。
上の方はごつごつした岩があり、下は青い水が流れている図になっています。
和紙の中にかえで、花などを配置したりしています。
書を書いて漉き込んだり、古い紙を生かして入れる。
漉き込むことと染めることで色々な和紙の作品を作り上げます。
紙を触ってみると味がないが、和紙の魅力は、和紙を触ってみると、音を感じたり、丈夫でもある。
これは杉の皮、こうずの黒い皮をアクセントのために入れています。
繊維が長いからにじみが多い、綺麗に滲みます。
かみこ、着物の羽織、帯を作りました。

ボストン美術学校にいたときに、ボストン美術館があり東洋のコレクションが沢山あって、浮世絵、水墨画などがありました。
浮世絵はできないが、ぼかしたやりかた、抽象的な作品に浮世絵を取り入れたいと思いました。
25歳の時に、日本に行きたいと思い両親に話ました。
東京芸術大学に入って、木版教室に入りました。(2年間勉強)
和紙に魅力を感じて全国を回りました。(金沢、美濃、高知など)
紙すきは家族、地元の人だったら入りやすいが、地元の人は入りたがらない。
体験センターがあり、いろんな先生がいて、1年間紙すきのやり方を覚えました。
小川町でスタートしました。

小川町は和紙の産地として有名でむかしはこうぞなど原料もたくさん作っていたが、最近は無くなってしまって、対策としてこうずの苗を栃木県から買ってきて、こうずの畑が増えました。(その声かけ運動をしました)
25年前は100本植えて、いまは600本になりました。
小川町にこうずをよみがえらせる事が出来ました。
里山クラブのメンバーで畑を管理しています。
会長は学校の先生で若い人も入っていて自然保護したいと、さまざまな活動していて、そのひとつがこうぞの栽培ということになります。
和紙の保存、和紙の展示会も増えて和紙を理解してくれる人は多くなったと感じています。
ダイニング以外は坐る生活をしています。
夕食はご飯を食べます。(毎日和食です。)

楽しめればいい、アートの場合は、発想を色々変えて自分の作品に満足すれば金よりも宝物だと思います。
宇都宮で二人展を妻と一緒にやりました。
和紙を沢山使って家の壁を和紙で飾る事を考えています。
和紙の作り1300年の歴史があり、和紙を大事に守りたい。


















2017年7月31日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)       ・【絶望名言】 ゲーテ

頭木弘樹(文学紹介者)       ・【絶望名言】 ゲーテ
「絶望することが出来ないものは生きるに値しない。」
「快適な暮らしの中で創造力を失った人達は無限の苦悩と云うものを認めようとしない、でもある、あるんだ。」
「どんな慰めも恥ずべき物でしかなく、絶望が義務であるような場合が。」(ゲーテ

病気、事故災害あるいは裏切り、失恋、孤独、受け入れがたい現実に直面した時、人は絶望します。

絶望の言葉を紹介すると云うことでお叱りを受けるかと思ったが、以外にそういうことはなくて心に響いたとか、絶望の言葉なのに生きる糧になるとおっしゃって頂き嬉しかったです。
人間は昼と同じく夜も必要としないだろうか、とゲーテは言っています。

ドイツの世界的作家、25歳の時に書いた「若きウエルテルの悩み」で有名になる。
「ファウスト」を完成した直後に82歳で亡くなる。
第二次大戦中にユダヤ人の少女がナチスの収容所に入れられて、どうにも耐えられないと云う時に、倉庫の隅で半分破れた国語の本を見つけて、そこにゲーテのファウストの一節が書かれていて、凄く感動して救われたと云う話を書いています。
「陽気さと真っ直ぐな心があれば、最終的には上手くいく」、と云うようなことも言っています。
沢山の恋をして74歳の時に19歳の少女に結婚を申し込んだりしている。
ゲーテ自身が絶望を多く体験している。
最初6歳の時、(1755年11月1日)地震、津波で6万人の人が亡くなる。
この時に非常に強いショックを受けて、これが一生ゲーテの心に響き続ける。
神にたいして怒りを感ずる。
自然の中に神が存在すると云うような考え方になって、自然信仰みたいな境地に達する。
自然は豊かさももたらすが、恐ろしい災害をもたらす。
ただ祈るしかない境地と云うのは宮古島に行ってから理解出来るようになった。
(台風の恐ろしさ)

「私はいつも皆から幸運に恵まれた人間だと褒めそやされてきた。
私は愚痴などこぼしたくないし、自分のこれまでの人生にケチをつけるつもりもない。
しかし実際には苦労と仕事以外の何物でもなかった。
75年の生涯で本当に幸福だった時は1か月もなかったと言っていい。
石を上に押し上げようと、繰り返し永遠に転がしているようなものだった。」(ゲーテ)
ゲーテは幸福な人生を送った人だと思っているが、伝記絵?がない、人生が上手くいっているのでドラマチックにならない。
82歳でファウストを完成させて 数カ月後に亡くなる。
あらすじで見るとゲーテの人生は幸福だが、ひそかな悲しみを秘めている。
ヴァイマル公国という国で大臣になるが、ちいさくまずしくて、人口は6000人、面積は埼玉県の半分ぐらいで、ゲーテは財政、外交、農業、鉱山開発、軍備の縮小なんでもやらなければならなかった。
この時代は作品をなにも書けなかった。

作品が世の中に評価されないことを嘆いて、塵の中でうごめく虫の努力にすぎないと、言っている。
ゲーテの周りでは大切な人が次々に亡くなって行く。
4人の弟、妹を亡くしている。
親友シラー(10歳下)もゲーテよりもだいぶ前に亡くなってしまう。
母、妻も亡くなり、81歳の時に息子が一人いたが、亡くなってしまう。
多くの喜びの一方で、多くの悲しみもゲーテは経験している。(光の強いところでは影も濃い)
人生をあらすじで見てしまいがちだが、細やかに見て行くと幸福な人の人生も沢山の悲しみがあったり、不幸な人生の中にも沢山の喜びがあったりする。
あらすじで生きたかった時には、昼の味噌汁がうまかったかなどはどうでもいいと思っていたが、今は寒い時に飲んだ味噌汁が温かかったとか、そういうことが人生で大きく、細やかな部分に段々目が行くようになると人生に対する感じ方も大きく変わって来ると思います。
病気をしてみると、花の綺麗さ、自然などの一つ一つが身にしみて感ずることがあります。

曲「魔王」 息子に対する父親の愛があふれている。(ゲーテが実際に目撃したことで、父親病気の息子を抱えて馬で医者の所へ走って行った。それを書いている。)
祖父は蹄鉄を作る職人で苦労して巨万の富を得るが、父親は苦労知らずで育って、地位、名誉は無かったので、ゲーテに全てを託す。
ゲーテは作家になりたかったが父は法律を学ばせる。
大学に行くが、初めての一人暮らしで羽目を外して結核になり、ぼろぼろで家に戻って来る。
命が危ない時もあり、その時に父親とは決定的にこじれてしまう。
「父の家から出ることにあこがれた、父との間がうまくいかなかった。
私の病気が再発した時や、なかなか良くならなかった時に父は短気を起こした。
・・・・そのことをおもうとどうしても父の事をゆるす事が出来なかった。」
父親はゲーテの病気が治らないことにいらいらしてきて、息子への失望を隠しきれなくなる。
弱った時に冷たくされるともはや元の気持ちでは付き合い切れず、不仲であれば決定的な駄目押しになってしまう。
カフカとゲーテは似通った境遇にあるが、カフカの父親はカフカが病気になると非常に心配し借金して対応した。
内臓の病気は気の持ちようだと言われやすい。
対応してくれる人が「変わらない」と云うことは、一番感謝します。
当たり前に接してくれる事はとっても有難かったです。

「涙とともにパンを食べたことのないものには人生の本当の味は判らない。」
「ベッドの上で泣き明かしたことのないものには人生の本当の安らぎは判らない。」
「暑さ寒さにくるしんだものでなければ人間と云う物の値打ちは判らない。」
「人間は昼と同じく夜を必要としないだろうか。」
絶望を踏まえたうえでの希望ですね。
陽気なゲーテではあるが、人生には苦しみ悲しみ悩み暗さが必要だと何度も繰り返し言っている。
雨の日の魅力にも気付きたい。
絶望を踏まえたうえでなお陽気に生きてゆく、こういう人こそ本当の明るい人だと思います。










ゲーテは父親とは上手くいっていなくて、













2017年7月29日土曜日

松原仁(公立はこだて未来大学副理事長)・鉄腕アトムに憧れて

松原仁(公立はこだて未来大学副理事長)・鉄腕アトムに憧れて~AI(人工知能)と歩んだ道
最近AI(人工知能)いう言葉を良く聞くと思います。
学習をしたり、推し量ったり認識をしたり判断をしたりといった人間の様な知能をもたせたコンピューターシステムのことです。
データを蓄積して状況に応じた適切な対応を選択できると云うものです。
コンピューター将棋、車の自動運転等AIが大きな役割をはたしています。
そんな人工知能研究の日本における第一人者が函館にいます。
公立はこだて未来大学副理事長で人工知能学会の前の会長の松原さんです。
57歳、東京出身、東京大学大学院を卒業後、電子技術総合研究所に勤務、2000年から公立はこだて未来大学に赴任してAIの研究をリードしてきました。
AIに短編小説を書かせて、文学賞の選考を通過するなど、まるで映画のような未来を現実のものにしています。
鉄腕アトムにあこがれて研究の世界に入ったんですが、かつては人工知能研究に対するアレルギーが理系の中でさえ存在したといいます。
平坦ではなかった研究者人生を振り返って頂くとともに、AIが私達の暮らしにもたらすものについて語っていただきます。

1959年に東京で生まれました。
1963年に日本初のアニメ、鉄腕アトムが始まってそれを非常に喜んで見ていました。
天馬博士が自分の子供が亡くなって替わりに鉄腕アトムを作ったが、成長しないのでサーカスに売り飛ばすが、お茶の水博士が引き取って正義の味方として育てる。
何故か天馬博士が好きになりました。
小学校低学年の時には極々普通の目立たない子供でした。
母親が本好きで、本を買うと云うとこづかいを出してくれて、本好きで育ちました。
TVは30分しか見られなくて、鉄腕アトムは貴重でした。
将来はエンジニアになりたいと思っていました。(ロボットを作る博士)
星新一さんのファンになって、全作品を読みました。
中学に入って数学だけは勉強しました。
フロイトの本を読んだが、何か良く判らないが、意識とは何かというような内容でした。
アトムは心を持ったロボットで、心とはなんだろうと、そのあとの人工知能にも繋がったと思います。
中学の時に将棋も好きだったので将棋の研究もしました。

1977年東京大学に入って、コンピューターの勉強を始めて、最初から将棋のプログラミングをやりました。
人工知能は人間がどう考えているか、人間の心はどうなっているのかを学ぶもので、人工知能が自分のやりたい事ではなかったのかと思いました。
人工知能のブームが3回あり今が3回目です。(1、2回目は期待外れだった)
私が始めたころは1回目のブームの後で冬の時代でした。
井上博允先生、ロボットの第一人者で研究テーマの最後に人工知能と書いてあった。
井上先生の研究室に入ることになりました。
最初に言われたのが、君は人工知能をやりたいと言っているが、僕は判らないからと言われました。
アメリカは人工知能の研究が進んでいて、人工知能の研究室があって楽しそうだったので、もしやりたいと思う学生がいたらやらせてもいいかなと思ったら、君が引っ掛かったと云うようなことを言われました。
君は自習したまえと言われました。

他の研究室にも人工知能に関して興味のある学生がいて、そのメンバーで勉強会を2週間おきに勉強しました。
当時日本には人工知能に関する物は無かったので、英語の論文、英語の本を読む。
中島秀之さん(元学長)、片桐 恭弘さん(今の学長)、など10人ぐらいでした。
2回目のブームが来るが、そこが唯一の勉強会(あいうえおの会)で、85年頃には100人ぐらいに急に膨らみました。(その頃学会が出来ました)
井上先生からは将棋のことなどは表に出さず、ロボットのAIと云うことで研究しなさいと言われました。(夜に将棋のプログラムをこつこつやっていました)
86年に電子技術総合研究所(つくば市)日本で一番人工知能研究者が集まっているということでそこ行きました。
研究所に入っても3~4年ロボットのAIをやっていました。
30歳になった時にそろそろ将棋を公式に研究題材として始めました。

将棋の本の購入などには苦労しました。(研究のためのものなのかどうか)
2010年~2015年ぐらいにプロ棋士に勝つと書いていました。
当時は絶対にそんなことはないと周りでは言われていました。
日本初の世界標準を作ろうと思いました。
何にしようかということから始まって、野球、サッカーなどがありましたが、サッカーは
世界で最も人気のあるスポーツなので始めた。
1997年第一回世界大会を名古屋でロボサッカーをやりました。
目標を立てて、2050年までにワールドカップ優勝チームに勝つ人間型ロボットチームを作る、という無謀と思われるかもしれませんがそうして始めました。
ロボット同士を無線でつなぐが、サッカー場だといろんな無線が飛び交ってるので無線がとどかなくて、動かなかった。
毎年やっていて、今は40~50カ国でサッカーロボットの研究をやっています。

災害救助、ロボットがマネキンを探す。
二酸化炭素を出すようなマネキンがあり、それは生存していることになる。
ロボカップで、当初は日本のロボットが強かったが、最近は外国のロボットが強くなってきています。
観光、農業、漁業、共同での研究開発、沢山のデータから学習するのが得意なのでデータがほしい。
地方都市はデータから近い。
定置網は環境に優しいが、どの魚が入っているか、あげてみないと判らない。
メジマグロ(小さいマグロを取るとペネルティー)を取る前に知りたいと云う事があり、魚群探知機を取り付けて実際にどんな魚がどれくらい捕れたか、大量に毎日データを取って、コンピューター学習させることによって、或る程度網を上げる前に魚の種類が判るようになってきました。
もう一歩進めようとしていて、メジマグロがこれぐらいいるから今回は網を上げないとか、メジマグロが少ないから網を上げると云うように指示できるようになって来ると思います。

人工知能の研究は、考えることとは、心とは、感情とはどういうこととかを考えることなので、人間を考えると云うことなんです。
人工知能は道具なので、仲間として取り入れて、その技術によって仕事の内容が変わると思います。
実社会は範囲が区切れないので人工知能には解けないので、人間の出番だと思います。
人工知能を人間が上手く使いこなして、より良い社会が実現されることを祈っています。







































2017年7月28日金曜日

2017年7月27日木曜日

大場信義(全国ホタル研究会名誉会長)・ホタルのヒミツ(2)

大場信義(全国ホタル研究会名誉会長)・ホタルのヒミツ(2)
蛍の生態調査をやっていたりすると、次の年に行ったら無くなってしまったりして、群生地があっと驚くような光景で見えた場所がなくなっていると云う、そういう場面を何回か味わってすごくショックでした。
見れないと云うことでそれが一つのきっかけでした。
水質汚濁、河川改修が進んで行ってコンクリート化されて、住宅地が増えて蛍がどんどんいなくなってしまった。
ゲンジボタルを中心にしてこれをきっかけにして、岩戸川のところで蛍が消える寸前で大発生して、そのあと水質汚濁でいなくなってしまった。
地域の人たちが元の様に戻してほしいと市に陳情に行きました。
私も含めて論議を重ねて、河川形態を蛍が住めるような環境に入れ込んでいこうとしました。

行政が動いてくれて、一緒に論議を重ねて行き、改修が始まりました。
下水工事、コンクリート護岸に色々工夫して行って、10年、20年継続して、続けるうちに今は沢山の蛍が飛ぶようになりました。
そういう場所が横須賀で30か所ぐらいになりました。
地元の人が熱心になればなるほどこちらも動かされて支援したいと思いました。
そうすることが今までやってきた研究を市民のみなさんに還元する一つになって行くんじゃないかなあと思いました。
出来ることとできないことがあるので、現実的な対応は何かと云うことを話し合って、出来ることをやっていきます。
地域の人たちが主体になって行かない限りそこまではなかなかできない。
私のキーワードは継続です。
ドキドキワクワク、楽しさ、やる方がそう思っていないと継続できない。
市内だけでなく周辺に広がってきています。
自生する環境を作って行く、そのためには蛍のメッセージを聞くしかない。(辛抱強く)

蛍の光の揺らぎ、初めて見ても日本人のDNAに刻み込まれているというか、同じようなベースに立ってしまう。
蛍たちがこのままいったらどうなるの、私たちが消えたらあなた達は将来どうなると思っているのと、問いかけられているような気がします。
良い米が取れるところは水資源が豊かで、トンボがいたり蛍がいた。
経済は変化するが、日本人が培ってきた文化性の問題は営々と続いてきているので、これを失ったら日本人のステータスが無くなると思う。
わたしたちが心豊かに平和に生きるための、感性を子供たちにも伝えて行くそういう役割を担っている。
街興しにも必要だと思うが、観光資源として活用するのもいいと思うが、自生する様な中でやる分には良いが、度を越してはいけないと思います。
生物多様性ということもあるが、蛍の種の多様性ということもあり、同じ源氏蛍でも多様性を重要視しています。(なんでも蛍が増えればいいと云うことではない)

西は九州、東は青森県まで自分の目で見て蛍の記録を取って行きました。
西と東で光り方が違うことが判りました。
西日本はせっかち、約2秒に一回光る。(オスの光り方)
東日本では約4秒に一回光ります。
東日本に西日本から持ってきた蛍はそのまま変わらない。
東日本と西日本の文学性でも感性の違いがある。
蛍がいるところにはトンボ等いろいろいるので、それを包括して私たちは蛍の里作りを通して後ろを押してゆく、それが問われていると思っています。
西日本と東日本の違い、中部日本でフォッサマグナがあり、いろんな生き物の分布境界域になっていてバリアになっていて蛍でも同様だと思われる。
東日本と西日本の蛍の光り方の違いは、ある集団が東に広がって行き、フォッサマグナとか突然変異などで2秒発光が1回抑えられると4秒になる。
これは推論です。

増やそうと思ったときに西日本は集団が大きいので、手っ取り早くやるのには、西日本の蛍を持ってくればいいが、それは困ったことになる、一旦はいると元に戻すことはできなくなる。
元に戻そうと云う動きが多摩動物公園、世田谷区などで始まっています。
当時西日本の蛍を取り入れたが、昔のような蛍に戻したいと云う話が持ち上がって、東日本蛍の卵を取って増やしていって、西日本蛍を排除して行って、完全にというのは、今後の問題だと思います。
皇居外苑の蛍、皇居のお堀の水質が悪くてアオコが発生、大浄化作戦が始まり、そんななかで蛍が見つかり、極限定された場所に細々と残っていた。
環境省が遺伝子を調べてみたら、元々いた集団だということがわかった。
400年前の地図を見ると、東京湾が江戸城のすぐ近くまで広がっていて、バッファーとして湿地が沢山ありました。
湿地には水生生物、蛍など沢山いて、湿地を埋め立てて江戸城の築城に伴って新たなお堀に奇跡的な状況下で適応した、まさに奇跡としか思えない。(400年前)

その蛍の子孫が今も現存している、そういうことからプロジェクトは始まっている。
年間10匹ぐらいしか出てこない、絶滅的な危機。
来年か再来年 100匹でたら10匹とっても絶滅はしないと提言。
その年の5月に100匹近く出てくれた、奇跡に近い。(翌年はそんなに出ていない)
その中から採卵して、累代を続けて今は3000匹になりました。
2か所で生き飼い保全の実験をしているが、放したらでてくるがぬかよろこびできない。
来年引き継いでちゃんと出てくれるかどうか、モニタリングしないといけないと言っています。
千代田区での照明の問題など配慮して行く事は必要だと思います。
今後の蛍との付き合い方、蛍の言い分を聞いてゆくことが必要だと思います。
試行錯誤しながら蛍に聞いて付き合ってゆく事が必要です。

































2017年7月26日水曜日

大場信義(全国ホタル研究会名誉会長)・ホタルのヒミツ(1)

大場信義(全国ホタル研究会名誉会長)・ホタルのヒミツ(1)
72歳、神奈川県鎌倉市出身、東京理科大学を卒業後、企業の研究所に勤務してから横須賀市の自然人文博物館の学芸員として長年螢研究に取り組みました。
全国各地で蛍の調査を行って新種の発見や不思議な生態の解明をしたほか、海外に出向いて日本ののルーツを探る調査もしてきました。
一方で蛍の生息環境を守る取り組みをしている人たちにさまざまなアドバイスを行っています。

蛍研究45年になりますが、昆虫が好きでした。
職業についたときに、命に触れ合うと云う事が最低限譲れないところでした。
バクテリア等の微生物とか、酵素とか分子生物学的な背景の方の企業の研究に入って、やっていました。
研究が一段落して、昆虫の研究をしたいと思っていた矢先に発光反応に上司が眼を付けて、横須賀市に博物館があるが、そこの館長さんが世界的な発光生物の研究者で羽根田弥太先生でした。
その先生にお会いしてから、昆虫と発光生物で蛍ということになりました。
学校の先生も一時経験しました。
企業の研究でも学校でも同質でそれぞれドキドキわくわくしました。
蛍研究は独自でやって来ました。
面白い、楽しい、不思議、何故だろうと云う思いに支えられてきました。
同じ源氏蛍でも環境が違うと、全然違う挙動を示すとか色いろありました。
蛍は物を言わない生き物で、環境の問題とか最終的なジャッジは蛍がすべきだと思っていて、私自身が蛍から教わりました。(蛍のメッセンジャーだと思っています)

蛍が光っているのは雄雌のコミュニケーションだと思っていて、他に身を防衛する、相手をびっくりさせるために光る。
蛍はにおいを出します、捕食者が食べた時に苦かったりすると、学習して光っているものは苦いと云うことで、止めようと云うような構図が出来ると思います。
食べられる頻度が下がって来る。
オスはメスを見つけなければいけないので、卵を産むためにはオスと交尾しないといけない。
自分がオス、メスであることを判らせるために光るが、オスとメスで光り方が違う。
源氏蛍がこれがオスだとかメスだとか、判別が非常に難しい。
平家蛍は明らかにオスとメスでの光り方が違う。
源氏蛍はオスはメスを探すときに一斉に飛び出して、集団で同時についたり消えたりします。
メスは下の方でぼーっと光ります。
そういう行動によってたがいに識別します。
種類によって固有なコミュニケーションのやり方をしています。
2000種類世界にいますがそれぞれ違います、中には光らないホタルもいます。

新種の蛍、30年前西表蛍が見つかりました。
冬に飛ぶ蛍がいたが、それを雨の中を調査していたが、或る時一日中降る中に雨がぱっと15分間止んだ時があり、見たことのない様な幼虫のようなお尻を上げて光る蛍がいたんです。
どう見ても幼虫に見えたが、足の形態、口の様子などを見ると成虫の形質をしていた。
それはメスでオスが違う処にいるのではないかと思って探し求めたが、メスしか見つからなかった。
その後も行ったがメスしか見つからなかった。
オスは光からないと云う事がその後に判った。
オスの活動する時間帯は冬に出てくる。(12月~1月)
メスがオスと会うために光っていた。
オスが飛んでいてまっしぐらに飛んで行って交尾をして、交尾が終わると直ぐにメスは無駄な光を放たなくなる。
パタパタと消えてしまって、あとは何も無くなってしまって、それがオスを探すのが困難だという背景が判りました。

メスは産卵するが、土に潜って卵を産む。(陸生の蛍)
日本には源氏蛍、平家蛍、久米島蛍の3種が水生の蛍で、世界では8種しかいない。
日本では陸生の蛍が約50種いるが、そのひとつが西表蛍です。
里地の石垣など、学校の校庭などにいます。
世界的にみても貴重な蛍で、石垣、西表、浜島の3島にいますが、世界に類をみないほど生息密度が高い。
メスの体長は1cmぐらいで卵を産む時に身体を丸めこみ、30個ぐらいを産卵して抱きかかえる。
卵を産んでリング上に成った時に光る位置をお尻から変えてしまう。
卵を守るために身体のふしぶしに3点づつ発光器があり、丸く光って見える。
身体が丸くなっているので、相手を脅かすために目玉のような模様となっている。
オスもメスも強烈なにおいを出すので、鳥などは食べたくないと思う。
光る為の2つの回答を私に与えてくれた(コミュニケーションと防衛)

幼虫型蛍はいったいどこからやってきたんだろうと思いました。
台湾を調査すると似たような蛍がみつかりました。
大陸を調査すると、マレー半島、シンガポールには似たようなほしむし?(星虫?)と云うのがいることが判り、タイなどにも西表蛍そっくりの蛍が見つかりました。
中国大陸雲南省2000mぐらいのところで共同研究者と10年間調査を続けましたが、中国大陸には色んな種類の蛍が見つかり、新種も見つかりました。
南米ブラジルなどに鉄道虫がいて頭から赤い光を出して、メス成虫は幼虫型で防衛シグナルも全く同じです。
蛍が大陸間を移動できるわけがなく、大陸が繋がっていた頃でないと説明がつかない、その頃に祖先が出てきて、大陸移動とともにそれぞれの大陸で固有の進化を遂げて、今現存している、歴史的背景が、気が遠くなる時間を掛けて成立していった。
それを西表島の西表蛍が示してくれた。

羽根田先生が戦前、パプアニューギニア、ニューブリテン、ラバウルなどで木に蛍の大群が光っているのを見ました。(一晩中光っているという話だった)
木の伐採が進んで木がきわめて少なくなってきた。
木で蛍がどうして大群で光っているのだろうという疑問があった。
密林の中のオスとメスの出会いの場所だった。
集まれる数が木のサイズによって違う。
幼虫は陸生の貝を食べるので、餌不足の問題もあり、それを回避するために、卵を産むときに分散する。
餌問題で木のサイズをどうやって判断しているのかも判らない、生命の不思議、命の営みの不思議です。

キリギリスの身体が手足は普通の緑色、身体は黒、頭は赤で蛍のようなキリギリスが蛍の木の周りにいます、擬態といいますが。
蛍に似た恰好をしてなんらかの仕組みで外敵から身を守ってると云うことだと思います。
そのような昆虫が1本の木に10数種類います。
甲虫、キリギリス、蛾がいたりしていて本当に吃驚で、それが現実に起こっている訳ですが、それは謎です。
森林伐採が進んでいて、どんどん消えてしまうので、このようなミステリーは全部消えてしまい、取り返しができないので、二度と省みることが出来ない状況で、余りに大きな喪失感がぼくにはあってならない、これは消してはいけない。
しかし大変難しい。
せめて多くの人に伝え、蛍は光っていることによって伝えているんだと云う風に感じています。












































2017年7月25日火曜日

天野安喜子(鍵屋15代目花火師)   ・夜空と畳に華咲かせ

天野安喜子(鍵屋15代目花火師、国際柔道連盟審判員)・夜空と畳に華咲かせ
花火が打ち上がる時にかかるおなじみの掛け声、玉屋、鍵屋は共に江戸時代に名をはせた花火店の名前ですが、今もなお商売を続けているのは鍵屋だけです。
天野さんはその鍵屋の15代目を2000年30歳の若さで襲名しました。
天野さんは花火師として多忙を極める一方で、女性審判員のさきがけとして、2008年の北京オリンピックや今年の全日本選手権など大舞台にも立ち、審判員としても活躍しています。

7月、8月は花火の打ち上げが忙しい時期で、6月は安全に対する対策を主催者と協議したり、花火がきちんと思うようなものが出来ているかどうかの確認作業だったりします。
火薬に火を付ける時には、集客するのでもっと対策があるのではないかと神経をすり減らしているところです。
江戸川区と、市川市で見られるので合計で139万人の集客を誇っています。
音楽を入れたり新しい要素を取り入れたりしていますが、私は一番間の取り方を意識しています。
鍵屋の場合100%、遠隔操作で打ち上げを行っていて(電気点火)、コンピューター制御と、手動制御があり、コンピューター制御は事前にプログラミングするので、穏やかな中で間を取ってしまうので、私が手を振りおろすと瞬時にボタンを押す、間の取り方を自由自在に行うようにしています。(300回近く手を振ってやっています)
視線は花火の筒口の方を見ています。(花火そのものはあまり見られません)

春先に試験打ちをしたりして、花火の組み合わせ、薬品の付けくわえ方など、想像しながら試験打ちしています。
物語性を醸し出して舞台として打ち出しているのが鍵屋の特徴かも知れません。
同じ様なピンク色でも表現により主催者側と協議しながら決めていきます。
花火の特質は、色、形、光、音(リズムを含め)あるが、私が一番魅力を感じているのが音で、音の演出をすると迫力が見ているお客さんに伝えることができる。
花火の置く位置で船の上と土の上では若干音が違っていて、船では鉄板をはじくような音に成り、土だとドスンというような低い音に成る。
①地面から出るときの音 ②上空にヒューというように上がって行く音、③花火がさく裂する音 ④花火自体が持っている音 4種類あるので工夫を凝らして音を楽しんでもらう。

小学校2年生ぐらいの時に私パパみたいになる、と云ったようです。(記憶にはありませんが)
柔道も館長をやっていて父がカッコよかった。
母からも父はかっこいい人だと言われ続けました。
仕事としては父親、女性としては母親という身近に目標がありました。
継いだあとから人柄まで見られるようになり、人間性を磨かなければいけないんだと云うことでプレシャーを感じ始めました。
信頼関係が結ばれていると自分のことは関係なくなってくる。
トラブルが対処できるようになって、職人と意見を交わしたりして来てからは、自分の角がとれたと思います。
自分の目標として人より3倍は動くと云うことを決めていました。
子供を育てる事によって、自分も成長して大きな視野の中で相手を捉えるられようになりました。(35歳以後)

初代が1659年に店を開いて、代ごとに何かを残しているので15代目も何かを残せよと父から受け継ぎました。
父は遠隔操作の手法を、13代は本を残すとか、その前は色々形、色を付けるとかやってきました。
花火を芸術の面で研究、大学院に行って博士号を取る。
今までは花火師がこの花火良いんですよと云う文献は多かったが、見ている側がどういう印象を持ったかの研究がなされてなかった。
このリンクによって花火の音から迫力を味わうとか、美的感覚とか、心理的部分と花火の特質を結び付ける事が出来ました。

柔道の審判員としてオリンピックとかで畳に上がっています。
一階は柔道場になっていて父が開きました。
私は第一期門下生になり、福岡国際柔道では銅メダルを貰うことが出来ました。
ハングリー精神が理解できなくて、柔道の選手時代を過ごしました。
それがあったからこそ今の自分があると思います。
柔道を止めるころに女性の審判員も育てたいとの話があり、審判員へのきっかけになりました。
S,A,B,C級のランクがあり、Cから始まりその都度筆記試験実地試験があります。
アジア圏から推薦されインターナショナルの試験があり、世界ジュニアの大会にエントリーして裁いて、次に世界選手権、それからオリンピックになっても競技中ずーっと試験をさせられていて、一握りの審判員だけがファイナルブロックで決勝を裁けるようになります。
お陰さまで男子重量級の主審を仰せつかりました。

審判員は裁く仕事ではあるが演出をも一種担っている部分もあります。
瞬時の判断も必要で花火との共通性があると思います。
嬉しかったのは天野先生にしごかれてまけるのなら悔いはない、とおっしゃってくださる監督コーチがいると云うことと、主審は天野審判員と言われたときに、それだったら間違いないとおしゃって頂く、信頼されていることが嬉しいし、公平に期待にこたえられるような審判員に訓練を重ねていかなければいけないと思います。
今出来きることイコール今やらなければいけないことでしょうと、押しているような感じがします。
辛い経験をしてきたからこそ今がある、雑草の様に生きるから人への感謝の気持ちを忘れないという、変わらぬ自分に対して一応は〇印をあげたいと思います。
リズムを含めた音、魅力的だった、面白かったといわれる花火師になりたいと思います。









































2017年7月24日月曜日

松本隆(作詞家)          ・【謎解き うたことば】

松本隆(作詞家)   ・【謎解き うたことば】
日本語学者 金田一秀穂
言葉の魔術師といわれている松本さんの作った歌は2100を越えて400組近くのアーティストに歌詞を書いています。
松本隆さんに日本語学者 金田一秀穂が聞きます。

「木綿のハンカチーフ」
普遍 木綿は一番安いもの 木綿は死語に近い、死語は好きです。
スニーカーではなくて「ズック」が好きです。
「ビー玉」 京都の一流料亭で食事した時に、いとさん(女将さん)が最後に出てきて、あらかじめ用意する間がなかったと思うが、ポケットからビー玉出したんです、嬉しかった。(「硝子の少年」がヒットした半年後ぐらい)

「木綿のハンカチーフ」
恋人よ ぼくは旅立つ
東へと向かう 列車で
はなやいだ街で 君への贈りもの
探す 探すつもりだ
いいえ あなた 私は
欲しいものは ないのよ
ただ都会の絵の具に
染まらないで 帰って
染まらないで 帰って




ハンカチーフも死語です。
恋人よ という呼びかけも死語に近いかもしれない。

「セクシャルバイオレットナンバー1 」・・・
外来語と日本語の組み合わせが多い、反対語を組み合わせるのも多い。
「しあわせ未満」、「ふられてBANZAI」・・・
ジャンルを超えています、派閥にも属してもいないし、作詞家協会にも入っていません。
詩を作ってから曲を作って行ったり、逆もあります。
順番的には詩が先にあるとは思いますが、抑揚がついて、メロディーになって、それに膨らませるとサウンドになって、日本の場合真逆になっていて、それが音楽が衰退している一つの原因になっていると思います。

漠然と何となくこんな形かなあと最初浮かびます。
自分の日常のなかで心は動いていて、詩を書くようなポジションの心の位置があって、そこに持っていくのが大変です。
もやもやとしたものが詩に成って行くと思います。
タイトルが思い付いて半年後ぐらいに詩が出来ると云うようなこともあります。
長い詩を2時間ぐらいで作って、吉田拓郎に渡してたら、3分ぐらいで作ってしまったものもあります。
「はいからはくち」
ノスタルジック つげ義春さんの絵の世界に似ている気がします。
「・・・です」「・・・ます」 は話し言葉と書き言葉の合間をねらいたいと思いました。
「・・・だぜ」石原裕次郎の言葉に良く出てくる、ちょっと不良っぽい湘南言葉。

今の日本の言葉は荒っぽい、いい加減さがあるが、言葉は大体いい加減で、地方によっても時代によっても違う。
曖昧模糊としたまんま流れて、行ってその時代の日本語になって行く、それはしょうがない。
最近僕の詩を朗読するのが流行っていて、「初恋」をすーちゃん(田中好子)が朗読してくれたが、物凄いインパクトだった。
朗読すると凄く新鮮で、音楽を取っ払っても歌詞は成立すると思いました。

中原中也にささげる詩 「砂時計」 松本隆作詞 つんく作曲

海鳴りのもっと深くで
人魚たち 泣いてるみたい
無理やりに鋏で切った
愛だから逆に縺れる


運命を遮りたくて
出した手がもう折れそうで
ほら雨が雪になりそう
泣き言は喉で封じた














2017年7月23日日曜日

河西昌枝(東京五輪女子バレーボール主将)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】

河西昌枝(東京五輪女子バレーボール主将)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】
東洋の魔女の金メダル
山梨県の出身、昭和39年東京オリンピック女子バレーで日本が金メダルを取った時のセッターでキャプテンでした。
大松監督のもと大阪の実業団チーム日紡貝塚のメンバーで全日本チームを構成し、当時日本国内では6年間、175連勝無敗で海外からは「東洋の魔女」と呼ばれました。
東京オリンピックのチームは世界バレーボール連盟から2001年20世紀の最優秀チームに選ばれ河西さんは個人として2008年世界バレーボールの殿堂入りも果たしました。
日本バレーボール協会女子強化委員長を務め、2004年のアテネオリンピックでは女子バレーの団長でした。
亡くなる3年前、喜寿77歳の年の平成22年10月15日の再放送。

現役時代174cm、今は171cmです、いまは中村昌枝です。
動ける間はなるべく出てみなさんに会いたいと思います。
昭和39年10月10日 東京オリンピック開会式
女子は金メダル、男子は銅メダルを獲得。
決勝は日本対ソビエト。(共に全勝で決勝を迎える)
10月23日 駒沢体育館で始まる。
日本が2セット連取、第3セット14-9 あと1ポイントで日本が優勝。
鈴木文弥アナウンサーは金メダルポイントと連呼するが、ここから4連続ポイント14-13
まで追い上げてくる。
普段ないようなミスがあり、焦りが出て追いつかれるが、自分では「大丈夫だから」とみんなに言っていたが(冷静さをよそおっていたが一番ドキドキしていたのは自分だったかもしれないが)、6回のローテーションがあって宮本さんのサーブを相手がレシーブしたが、放っておけば日本に入ってきたところをバックプレイヤーが手をだしてネット上で日本の方に手が出たと云うことで、オーバーネットで15-13日本優勝と決まった時は「終わった」と思いました。
もしジュースに成って取られたらと思うと必死でした。
視聴率は80%を超えた。

審判はオーバーネットを良く見ていたと思います。
大きな期待で日本の女子バレーは金メダルといわれながらやってきたので、期待にこたえることが出来て良かったと云う嬉しさと、これを最後にみんな辞めるつもりだったので、こういうところで試合をするのは、これが最後だったと云う思いもありました。
プレッシャーと感じるのか、応援と感じるのか、個人と団体だと違うと思います。
応援しているのだから勝つしかないと思っていました。
前の晩は普通に寝て、プレッシャー(当時はこういう言葉はなかったが)はなかったです。
当時は一段高い所にキャプテンだけが上がる訳ですから、キャプテンの役目としてそこまでは泣かなかったです。

バレーボールはオリンピック種目ではなかった。
日本が世界のヒノキ舞台に立ったのは1960年ブラジルの世界選手権でした。
あれよあれよと勝っていって決勝でソ連に負けて2位だった。
ソ連に勝てば世界一になれるんだと思いました。
そこから世界一を目指して死に物狂いの練習を4年間しました。
1962年モスクワで世界選手権があり、日本が初めてソ連を破って優勝する。
(モスクワへ行く前に東京オリンピックでバレーボールが正式種目になることが決まる)
オリンピックまでやりますかと質問されて、私はオリンピックまではやりませんと云いました。
世界選手権で優勝したら世界一周旅行をさせてくださいと約束しました。
優勝してイギリス、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、ハワイと回って来ました。
大阪に帰って来て凄い人盛りで、あらゆるところからこのメンバーでという話もありましたが、29歳で辞める覚悟でいました。
4歳下の宮本さんにキャプテンをと思っていました。

それぞれ家族との相談をしてとの事で、正月明けメンバーが集まって「やりますからお願いします」と云うことになりました。
それからの2年間は内容的にも時間的にも全然違う2年間でした。
応援にこたえるには勝つしかないと思いました。
昭和34年から6年連続の無敗の175連勝。
オリンピック前年、日紡貝塚単独チームがヨーロッパに遠征してソビエト、東ドイツに圧勝してこの時の余りの強さに対して「東洋の魔女」といわれた。(遠征戦22戦全勝)
回転レシーブなど当時はやらないことをやって、人間業ではないと云うことでそういう表現に成ったものと思います。

受けたらすぐ立って次のボールの行方を追ってという一連の動作をする、ということを大松監督が考えて、なんでっもいいから転がってみろといわれて、小さい人の転がり方がいいと云うことで、毎日やってるうちに先生の思うような見本が出来てきて、左右前後どこに投げられても飛び込んであげられる様になって行くが、それまでに1年ぐらいかかる。
とにかく打撲がひどかった、頭、首、肩、肘、一番ひどいのが腰の骨、背骨、膝、体中打撲だらけでした。
回転レシーブの時は恰好が悪くてシャットアウトとしていました。(マスコミからは秘密練習しているといわれましたが)
練習でできるようになると、かするぐらいで何処も打たなくなる。
「やればできる」と云うことは一つ一つの練習から身につけていきました。
できたと云うことは結果であって、できるまでの過程で何を身に付けるかと云う事が物凄く人間を強くして来ました。

大松監督は一口でいえば格好よかった。
当時は練習の時などは男性は常に先生一人でした。
男女の遠征でのバスのなかで喋ったり笑ったりするのが先生は厭で、それから男女は別々でした。
大松監督の本の中に、
ソ連に勝つためにはソ連の一倍半は練習した。
精神鍛錬こそがアマチュアスポーツ本来の目的であり世界制覇はその副産物である。
バレーボールにヒロインはいらない。
精神力でしっかり支えられて6つの歯車がかみ合ってさえいればそれで十分。
勝たねばならぬと考える前に、やらねばならぬ根性、人間の限界を超えた苦しい練習で鍛えることによってそれが培われる。













































2017年7月22日土曜日

岩根順子(三方よし研究所 専務理事) ・ 近江商人の商いに学ぶ

岩根順子(三方よし研究所 専務理事) ・ 近江商人の商いに学ぶ
かつて近江を本拠地に全国各地で商いを展開したのが近江商人です、八幡商人、日野商人、琵琶湖の東の湖東商人など、今の滋賀県から生まれた商人達のことで、その経理理念は売り手よし、買い手よし、世間よし、の三方よしの精神だったといわれています。
近年企業の倫理が問題になる中、その近江商人の経営理念を学ぼうと、滋賀県内で研修を行う企業が増えています。
そんな三方よしの精神を広げようと活動しているのが、滋賀県彦根市に拠点がある、NPO法人三方よし研究所です。

三方よしは昭和10年~20年に急に広まった言葉で、近江商人が共通の経営理念として考えていたのが、三方よしといわれ、売り手によし、買い手によし、世間によし、三つをまとめて商売するのが一番大事だと云うことでした。
中村治兵衛が孫にいい伝えたことを書いた巻物があります。
自分の商売を子々孫々に残してゆくためにはこういった心がけが必要だと云う事が書かれています。
以前県庁の仕事をしていまして、近江商人の事についてのイベントをすると云うことで、手伝うことになり、近江商人の考え方を滋賀県の産業おこし、街作りに生かしていこうと云うプロジェクトでした。
全国各地の近江商人の足跡を調べて、平成3年の世界あきんどフォーラムを迎えました。
記念品を作ろうと、滋賀大学の小倉栄一郎先生に『近江商人の理念 近江商人家訓撰集』を作っていただきました。

小倉先生が講演とか本で紹介していて、近江商人の理念を本にして三方よしがトップに出ていました。
堤清二さん(セゾングループのトップ)が新聞で素晴らしいことで学ばなければならないということ言っていました。
そういったことから急速に広まりました。
近江商人あきんど委員会を発展的に解消しようということになり、もったいないと云うことでNPO法人をたちあげ啓蒙運動を始めました。(会員30名+賛助会員30名ぐらい)
世界あきんどフォーラムを迎えるにあたって、江南 良三さんが本を作りたいと云うことでそれが「近江商人列伝」と云う本でした。(反響がすごかった)
近江商人をルーツにしている企業としては伊藤忠、西川産業、高島屋、日本生命、東洋紡など他にもたくさんあり、初代豊田自動車の社長の豊田利三郎さんは彦根藩士の方で豊田家に婿入り、住友鉱山の広瀬 宰平さん、伊庭貞剛さんも滋賀県の出身です。
全国にある近江屋と呼ばれるのもそうだと思います。

海の国(琵琶湖)、道の国(街道が一杯走っている)、仏の国(比叡山延暦寺)この3つの要素が沢山の商人を生んだ源泉ではないかと話しています。
最澄の「利他」と云う言葉、それがイコール「三方よし」じゃないかと思います。
近江商人が長い時間を掛けて理念を積みかさねてきたんだと思っています。
信長が安土に城を作って楽市楽座を作って、商売の源泉を作りました。
幕末に成って来ると先進的な藩主が出てきて、百姓をやりながら暇なときは他のことで稼いでもいいと云う御触れをだしています。
そういう人が繊維を紡いだりとか、よそから仕入れたものをよそに売ったりしていました。
東北には手形なしで行けたという特権があります。
近江は87万石で半分は彦根藩、膳所藩であとの半分はほとんどお殿さまが複合している。
山形の紅花を持ち帰って京都でべにに変えて売りに行くと云う、「諸国産物回し」という商売をしていました。(ニシン、昆布、アワビとか北前船を使っていました、そして肥料にしたり綿業を盛んにしていて、行きも帰りも商売する)
本宅は近江において、あちこちに商店を設ける。
よその国で商売するので、その藩としては面白くないので排斥しようと云う圧力があり、他国で商いする時にはその土地の人の気持ちをくみ取って商売する、いい加減な商売はだめ、高く売ってはだめ、という風な商いをした。

秩父事件が起きた時、大きな店は全部略奪されるようなことがあったが、矢野喜兵衛さんところだけはなかった、事件から50年前に天保の大飢饉のときに殿様の命令ではなくて矢野さん自身で布施米を出しました。
そのことが地元の人にずーっと云い伝えられ地元の事を思って商売しているということで、秩父事件の時にもあそこには手をかけてはいけないと云うことになったらしい。
この土地のために何か役に立ちたいと云うことで塚本 定右衛門さんは山梨に植林をして100年たって素晴らしいヒノキの山に成っているらしいです。

伊藤忠兵衛さんは「商いは菩薩の行」と云っていて、利益はこちらから設けてやろうという事では無くて、高望みするのではなくて、成る様になると云う考え方だと思います。
近江八幡、西川利右衛門さん、「先義後利栄」と言っている、いい事を先に施しをすると利益は後から付いてくる、そして栄える。
豊郷小学校 土地、建物を寄付した。
当地出身の豪商・薩摩治兵衛をはじめとする有力者から寄付金を得て、校舎を新築
丸紅の専務取締役であった古川鉄治郎が学校の新築費用の寄付を申し出、2代目校舎が建築された。
自分の家を建てる時にも、世の中が不景気の時に自宅を普請すると云う事が良くあった様です。(そのほかに橋の普請とかもいとまがありませんでした)
若い人にこの現実を良く知ってもらいたいと活動しています。
民間の経済団体が多いですが、婦人会の方が近江商人の奥さんはどのような暮らしをしていたのかと云う問いがありました。
近江商人は単身赴任だったんです、上り口に男の下駄を並べていたり(亭主はちゃんといます)、奥さんは読み書きそろばんを指導したり、人事権を持っていて、仕事ができるようになったら出店先に送り込んだりします。

三方よし研究所では、今年から講師養成講座を設けました。
堅実に企業存続させて行く時に何が必要か考えた時に、社員のための会社に成っているか、それがあって始めて相手さんが満足していただける、そういう関係が持続することによって社会が潤ってくるのではないかと、今振り返る時期ではないかと思います。
先人の工夫を改めて見直されています。
日本は長寿企業が多いので、海外からの研修があります。
企業の歴史が少ない中国、韓国、台湾が多いです。
月に2~3社来ます。
一番大きな世間と云う輪の中がうまく収まる様に二つの物(売り手よし、買い手よし)が調子よくリンクして行くという、そういうふうな社会になればいいと思うので、本来の世間よしと云う考え方を広めて行く必要性があるのではないかと思います。
いい事は密やかにする、そして自分がやったと威張らない。



















2017年7月21日金曜日

大野義夫(カントリー歌手)     ・アイ・ラブ・ヨーデル!

大野義夫(カントリー歌手)     ・アイ・ラブ・ヨーデル!
昭和6年東京杉並生まれ。
中学生の頃お兄さんからウクレレを教わり、その後自作自演のスチ-ルギターでハワイアンバンドを作って、お祭りの演芸会などで演奏していました。
法政大学入学と同時にウエスタンジョリーボーイズを結成、6大学音楽リーグ戦、アメリカ軍のキャンプなどで活躍しました。
その後、マウンテンボーイズ、サンズオブドリフターズ等いくつかのバンドに参加、1957年3月、「堀威夫とスイングウエスト」発足と同時に参加し、以後60年余りにわたって、戦後のカントリーアンドウエスタンの世界をリードしてきました。
1960年にオーストラリア、ハワイ、アメリカ本土をバンジョーとヨーデルの武者修行で回ったことが今日の大野さんを作ったと言います。
85歳の今も現役歌手としてライブやコンサートで活躍しています。

今は月に2から3回やっています。(1時間を2回で一つ)
声は最近歳とともに出るようになった感じはしています。
ヨーデルの場合が半音下げて歌います。
風呂に入って20~25分歌っています、それが練習です。
ヘッドホーンして30分ぐらい歌ったりもします。
以前は腕立て伏せ100回やっていたりしました。
ヨーデルはアメリカからレコードを取り寄せて擦り切れるまで聞き練習しました。
1945年 14歳の時にウクレレが置いてあるのでいじってそこから始まりました。
或る時スチ-ルギターの音が聞こえてきて凄い音だと思って、購入するには高かったので作ろうと云うことになりました。
友人が楽器屋のスチ―ルギターのメッキ屋で失敗したものから集めて作りました。
買うと7000円が1000円ぐらいでできました。
9月にお祭りがあり申し込んで出演しました。

昭和26年5月11日に新橋のRAAビアホール米軍専門のホールに行ったときに原田さんのスチールギターを聞いたときに凄く上手くて自分では無理だと思って辞めると言ったら、歌も歌うと云うことでそこに入りました。
ウクレレ、ギターをやっていたら、バンジョーを頂き(オーストラリアのジョン・ベスパーさんがヨーデルを歌う、バンジョーを弾く人)周りは誰も弾いていなくて、弾き方が判らなくて、オーストラリアにいい先生がいるのでいかないかと堀さんからいわれて、それが本気になってきてほんとうに行く事に成りました。
ヨーデルはスイスのアルプス地方とは違うが、ウエスタンスタイルはステージでもうけるように自分なりに勉強しました。
ウイリー沖山さんとはヨーデルの言葉が違いますが、共演するようにもなりました。
23年前喉にポリープが出来て、ヨーデルの声が出にくくなりました。
平成6年6月6日に手術をして貰って、声が出るのかと思って心配だったが声が出て嬉しかったです。

法政大学に入学して、6大学音楽リーグ戦がありそこでやっていました。
法政大学ではウエスタンジヨリーボーイズで2年ちょっとやっていました。
サンズオブドリフターズには変遷してゆきますが、坂本九、井上ひろし、岸部清、桜井輝夫などがいました。
1957年(昭和32年)3月に「堀威夫とスイングウエスト」を結成し、そこに加わりました。(9人バンド 今も全員生きています)
昭和34年8月から12月までオーストラリアでバンジョーの勉強をしました。
午前中は庭で練習して、自分が思っている習いたいバンジョーのスタイルではなかったが、一生懸命やりました。
週末にはパーティーがあり、日本の歌を歌えと云うことで黒田節などを歌い他にも向こうの歌も歌いました。

ハワイ経由でアメリカに渡って、グランド・オール・オプリ(テネシー州ナッシュヴィルのラジオ局WSMの毎週土曜夜のカントリー・ミュージックの公開ライブ放送のラジオ番組 「カントリーの最も有名な舞台」と呼ばれる)に東洋人として初めての出演となりました。
テンポが早くてヨーデルを入れてみんなを知っている曲を選べと云うことで、「コロンブス監獄のブルース」をやったら大喝采を浴び、一生忘れられない思い出です。(1960年5月7日)
帰国後、スイングウエストから独立して、自分のバンドを作って3人で始めて、その後編成が増えて行きました。
米軍キャンプがまだ華やかだったので、稚内から青森から関東、横浜、九州、沖縄(返還前)まで行きました。
韓国、グアム、フィリピンなどに行きました。
「大野義夫&カントリー メイツ」と「マウンテンプレイボーイ」(ジミー時田)と一緒に成って「フォーークソングとカントリーの夕べ」と云うことで日本国中回りました。
頑張って新しい歌も挑戦しています。


























2017年7月20日木曜日

渡辺祥二(農業生産法人代表)     ・新しい発想で魅力ある農業を

渡辺祥二(農業生産法人代表)     ・新しい発想で魅力ある農業を
岐阜県出身、元々建設関係の仕事をしていました。
あるとき自然を守る農業の仕事をしたいと、思いたち作物を探していたところ、熱帯原産のドラゴンフルーツという珍しい果物に出会いました。
10数年前にこの植物の苗木を輸入して栽培に取り組み、今では果物として食べるほか、ジュースやジャムに加工して商品化に成功しました。
一方渡辺さんはヤギさん除草隊と云うものを組織して、ヤギを利用して緑地などの除草にあたり里山の保全や景観の保持に努めています。
これらのユニークな活動が認められて、今年の2月には第46回日本農業賞の食の架け橋の部の特別賞を受賞しました。

家畜ではなく益畜、昔からある言葉ですがもう一回復活させようとするのが今のとりくみです。(除草管理)
第46回日本農業賞の食の架け橋の部の特別賞を受賞。
農業に挑戦し始めた頃は冷ややかに見られていたが、10年余り継続して大きな賞を取れるまでになりましたが、評価が一転するのは明らかに時代の流れが変わったと云う印象の方が強いです。
高校大学でも農業は学んだことは無く、何をするんだろうなと云う目で見られていたのではないかと思います。
建設業の仕事を10年ちょっとやっていました。
当時公共工事の減少の時代で、不安を漠然と抱えていました。
農業用水、ため池、インフラ整備など農業の方々との接点はありました。
年何回も収穫できるもの、熱帯果樹に着目して、経験も一年のうちに何回かはできるので、アセロラ(フロリダスイーツ)にこだわってスタートしました。
アセロラの苗を買い付けに行ったときにドラゴンフルーツを知って、そこからドラゴンフルーツにはまって行きました。

今はドラゴンフルーツは3次ブームに成っています。
元々はサボテンの実です。
ドラゴンフルーツにも色々あり30品種があって、果肉の色、味も違うので、本来持っているポテンシャルをどう引き出すか、答えがないのでそういったところに魅かれました。
海外と日本では栽培環境が違うので、最初温度を上げないといけないのかなと思っていましたが、一番重要なのは5月6月太陽の光がどれだけ浴びれるかによって、蕾を出すタイミングとかがあると思っていて、冬場、収穫時期を考えて行くことによって案外いいものが出来るのではないかと思いました。
一番ネックになるのは冬場の温度ですが、重油を炊いていたが、温泉を使えばいいと地元の方からの助言もあって、是非やってみようと思いました。
ドラゴンフルーツは夜に花が咲くので、花を見に来る温泉観光客もいて、観光業とリンクする形になっていて、出荷先もなかったので観光客に食べてもらう仕組みをどう作っていくか、地域に循環できるような仕組み作りに心掛けました。
始めた当初、人脈もなかったし、資金もなかったし、その中でどうやるか、苦肉の策でした。

ハウス栽培なので梅雨の時期も問題ないです。
月下美人よりも1周り2周り大きくて、直径30cmある様な大輪を夜咲かせます。
花も営業ツールの一つでもあります。
ヤギを使った除草。
建設業時代公園なども作って森林の開発をやったりしていて、測量で入ってゆくと開発行為自体に対してあまりいい思いは無くて、その後の維持管理をしっかりしなくてはいけないと思っていた。
ベトナムに行った時に道路の土手に牛と牛飼いさんを見て、なんとなくいいなあとおもいました。
九州でヤギをレンタルすると云う話題を耳にしました。
ハウス脇の銀杏畑で高齢で面倒見れないと云うことで、ヤギが草を食べて除草管理ができるし、動物がいることで従業員が毎日元気かなと思って、仕事に来るのが楽しみになると言われて、それに魅かれて銀杏畑の管理を始めました。

2頭から7頭へと増えて行って、市の職員が草刈りをやっている光景を見て、ヤギでやってみようと実験が始まりました。
業務としてスタートしました。
ヤギさん除草隊として業務を遂行するためには、コストの管理もしっかりして行かないといけないと思いました。
人との比較計算が必要になり、岐阜大学の先生達と実証実験を始めて、一緒にやらせてもらっています。
大学、自治体と私達とで始めて、5年目になります。
食性が保たれるか、健康管理も見ていかないといけない。
現状人力よりも1/3削減できているが、安くなった分をコストをあげて農業
者の収入を増やすか、あるいはどこに投資するのか、地域全体を見た仕組みを作れないかやっています。

次の世代のためにも3/3でもいいのではないかと思っていて、焦点を当て直して、昔あったいい循環を今の形にどう展開するかが、次の世代を育てることに良いヒントになるのではないかと思います。
ヤギさんと学生のふれあい授業などもやったり、ヤギの堆肥を使ってヤギとともに耕作放棄地などの開墾してスイーツをと云うような活動もしています。
日本は学生がやる研究費をサポートする仕組みがないので、やれる範囲で研究費を出したり一緒にやったりしています。
地元の若い優秀な人たちが残る仕組みを作れるようにして行かないといけないし、現実に岐阜大学の学生が入ってくれています。
地域の子供は地域で育てると云う仕組みのことに対してヤギさん達はヒントを与えてくれていると思います
農業は夢があります、政府の云うような儲かる農業もありますが、お金ではなくて夢を
実現できる、夢に向かって突き進む様な人がいないといけない、そういった選択肢を提供する必要があると思います。
コミュニケーションさえ生まれれば、何とかなるような気がします。




















































2017年7月19日水曜日

池田澄江(中国帰国者・日中友好の会 理事長)・三つの名前で生きて(2)

池田澄江(NPO法人中国帰国者・日中友好の会 理事長)・三つの名前で生きて(2)
今村明子の名前は1982年に国籍取得のために付けました。
日本に永住が出来て、中国から主人も来てもらいました。
正式な仕事を探さなければいけないと河合弁護士に相談しました。
河合弁護士は残留孤児の戸籍を取るための仕事を進めていました。
河合弁護士に仕事の手伝いをすることになり、使用期間が2年間在り、そののちに正社員になる様に先生に相談しました処、承諾してもらいました。
厚労省の残留孤児の肉親捜しが代々木のオリンピックセンターで行われていた。
1994年12月14日の肉親探し説明会での通訳をした後に、喫茶店で60歳台の女性と出会いました。
姉も中国もに残されていて、話す中で同じ土地にいたことが判りました。
段々話すうちにどこの家に住んでいたのかを絵に書きました。
まさか姉ではあるまいかと思ったが、連絡先を確認して河合弁護士と相談して、DNA鑑定することになりました。
1995年2月にDNA鑑定してもらい、結果が1996年7月31日でした。
姉妹であることが間違いないといわれました。
51歳の時でした。

戸籍には死亡と書かれていました。
本当の名前は「池田澄江」と云う事が判り、心から安心しました。
親に逢いたかったが、母親は半年まえに亡くなっていました。
養母は立派な人で養母の思想、想うことが私に伝わってきたので養母には本当に感謝しています。
戦争がなかったらみんな親がいる、兄弟がいる、自分の幸せな家庭がある。
残留孤児に対する政府の政策を作ってほしいと思って、113万人の署名をして貰って、政府にも対応を持ちかけました。
2002年から帰国者の待遇改善の裁判を日本各地で行って、全国の代表として活動しました。
原告側に参加たのは2212人でした。

生活保護の人がほとんどでした。(国民の税)
言葉が出来ないと働く場がない、全国で同じような思いをしていた。
2007年に裁判が終わりました。
15か所で控訴した結果、7か所は敗訴、1か所は勝訴、7か所は和解となりました。
残留孤児20歳~60歳までの国民年金全額6万6000円が日本にいなかった期間があっても65歳になったら貰えるようになりました。(2008年4月~)
帰国した配偶者も4万4000円貰えるようになりました。
生活をするために他に支援金もあります。(二人で17万円位になり生活は安定する)
2009年に日中友好の会をスタートさせる。
裁判の時は団結したが、その後はバラバラになってしまって、組織があった方がいいと思いもあり、日中友好の会を作りました。
5回訪問しましたが、会の最高齢は83歳です。
2世、3世も訪問団に参加しましたが、今後は若い世代に続けてほしいと思います。
日本に帰って来て、言葉が通じないとか、生活習慣の違いがあり、高齢化してきて、政府として残留孤児の介護、老人ホームの事を考えてほしい。
日中の関係がぎくしゃくしていることに対して心が痛みます。
仲良くするとみんな温かい心になる、行き来して友達に成り、戦争は絶対にしないでほしい。





























2017年7月18日火曜日

池田澄江(中国帰国者・日中友好の会 理事長)・三つの名前で生きて(1)

池田澄(NPO法人中国帰国者・日中友好の会 理事長)・三つの名前で生きて(1)
1944年旧満州黒竜江省生まれ。
終戦の混乱の中、中国人に預けられ、養父母の元で育ちます。
36年前肉親を探し求めて来日した池田さん、長い時間を掛けやっと実の姉達との出会いを果たし、日本で生活しています。
日中国交正常化45周年の今年、NPOの会員102人で中国を訪ね養父母の墓参りや、現地の人たちとの交流を深めて帰国しました。

6月の末、1週間日中友好の会102人とともに中国に行ってきました。
黒竜江省に行ってその後北京に行きました。
黒竜江省は残留孤児の70%が生まれ育ちました。
中国は第二の祖国です。
ほとんどの養父母は亡くなっています。
お墓参りをしてきました。
戦争がなかったら外国に残されることはなかった。
その後北京大学で交流会が行われました。
わたしたちの命は中国の養父母、みなさんによって支えられました。
今回で4回目になりますが、北京大学で若い人たちと交流を持ったのは初めてです。
去年の12月3日に北京大学のいん?教授が日中友好会の事務所にきて、残留孤児の歴史を研究する仕事で、先生の大学に行って若い人と交流が出来たらいいなあと話したら、最初快い返事ではなかったが、大使館にお願いして日中友好協会から向こうにお願いして、OKに成りました。

1944年(昭和19年)10月14日生まれで、戦争が終わった時には10カ月だった。
実の親は母乳が出なくて、泣く泣くB?さんという中国人に渡しました。
子供がいなかった除さん夫妻がお金を出して引き取ってくれて、「徐明」という名前になりました。
明るく優しい人でした。
8歳のときに(1953年)養母と日本の公安局2人と話をして日本人の児だと云うことでしたが、養母は反対して違いますと云ったそうです。
しかしその時に初めて日本人の子だと云う事が判りました。 
当時同級生達は日本人は鬼と呼ばれていて子供は小鬼といわれていました。
先生はいじめはだめですと、当時は助けてくれました。
養母に私は悪い人の子供ですかと云ったら、(人を殺す、家は焼く)みんな悪いのではなく兵隊ですと。
子供でも日本人は挨拶をするし、女性は優しくて、当時はその事を教えてくれました。

小学2年生、3年生の前半までは徐さんの家では人を雇ったりしていて裕福でした。
私は一人でいた時は衣服も綺麗にしていましたが、3から4歳のときに突然子供が来て、食べ物などいいものはその子にあげて残ったものを私にくれて、凄くやきもちを持ちました。
男の子は母親が亡くなりお父さんも仕事で面倒を見る人がいない、それに比べてあなたにはお母さんがいる、この子はかわいそうだと教えてくれてくれました。
9歳の時にお父さんが商売に失敗して、借金の取り立てに来て、お母さんは朝マイナス40度の寒いところで商売をしました。
夜中にそばにお母さんがいなくて台所に行ったら、お母さんが自殺しようとしていて、今の生活はどうにもならないが、子供を育てるのは自分の責任だと云うことで自殺は止めました。
服は買えませんでいたが、正月だけは嫁入りの時に持ってきた服のサイズを変えて、作ってくれた服を着ました。(血のつながりはないけど凄いお母さんでした)
教師になるため師範学校を卒業して、目標だった先生になって、結婚もして3人の子にも恵まれました。

1972年 日中国交正常化、1978年日中平和友好条約が結ばれる。
文化大革命の時には、初めて日本人、やばいなあと思いました。
中国にいるといくら頑張っても優秀な人間に成れない、公安局の人が来てあなたは日本人だから登録しなさいと言われました。
近くに日本人の女性が居てその女性と付き合うようになって、日本は悪いところではなくて、肉親を探すことはできると言われました。
養母にも話をして承諾して貰って申請をしました。
自分の親兄弟など本当のことを知りたかった。
1981年(36歳) 子供3人とともに帰国しました。
1980年の時に肉親捜しの件を朝日新聞の菅原さんに書面で渡して、そのことが朝日新聞にでて、北海道から直ぐに手紙が来ました。
中国では血液型は調べて無かったので病院で調べて、その人に送りました。
あなたは私の娘だと言われました。

戸籍取得にはまだ不足なのでDNA鑑定をすることになったが結果は違っていました。
中国に帰るだけのお金もなくて、法務局に行って日本での親捜しをしたいと云うことで
交渉したが、期間が切れたら強制送還するといわれてしまいました。
7つの遺書を書いて、自殺しようと思いましたが、3人の子供を見て、子供への責任を感じて生きる力を得ました。
東京では助けてくれる人がいるかもしれないと思って、菅原さんを介して東京に来ました。(1981年12月17日着)
12月24日、朝日新聞に大きな記事で全国から凄く応援してもらって、桜共同法律事務所の河合弁護士が電話をかけてきてくれて、助けてくれました。
1982年5月31日、日本の戸籍が取れました。
親の欄は親不詳、名前は通訳の方が今村と云う人で今村という姓を使ってもいいと云うことで、「今村明子」と云う名前になり、日本国籍を取得しました。(身元未判明孤児として初めて取れました)















2017年7月17日月曜日

豊竹呂太夫(文楽太夫)      ・【にっぽんの音】

豊竹呂太夫(文楽太夫)      ・【にっぽんの音】
5月29日に6代目豊竹呂太夫襲名披露公演を行ったばかり。
文楽とは、人形浄瑠璃、人形使いが居て、太夫、三味線の3つの仕事から成り立っている。
私は太夫として、メーンステージの右手に小さなステージがあるが、そこに三味線師さんとともに、舞台の進行を義太夫節と云うものでナレーション役、登場人物のせりふをみんな一人で語るという役です。(基本は一人)
どこに合わせると云うこてゃなくて、阿吽の呼吸で同時に演技すると云うことです。
文楽、淡路国出身の初世植村文楽軒と云う方が座主だったと云う時代が結構有名で、文楽というふうになった。(文楽=人形浄瑠璃)

豊竹英大夫(とよたけ はなふさだゆう)と言われていたが、段々呂太夫と云う名前に慣れて来ました。
人間国宝のおじいさんも呂太夫を名乗っていました。
文楽人生は今年で50年、20歳でこの道に入りました。
祖父が太夫でもあったし、5代目から声も大きいし、大夫にならないかといわれた。
当時ははやらない芸で、やる気はなかった。
小石川高校に通っていて東大に行きたかったが、2回落ちてしまって、小説家になりたいと小説ばっかり読んでいた。
環境も変えたいと思って大阪に行って、祖父の弟子の竹本春子太夫の内弟子として入りました。
その時期があったから今があると思います。

日本の音、三味線の音ですかね。
文楽、江戸時代の庶民が聞いた言葉をそのままやっていて、何を言っているのか判らなかった。
目指していたシュルレアリスムだと思って、小説と同じ世界だと思ってしばらくいようと思いました。
古典芸能と云うけれども、初めての体験ですのですごく新鮮でした。
古典芸能は観に行く機会がなかなか、ないのではないかと思います。
最近はお客さんが入って来るようになりました。
橋下市長が文楽の予算をカットすると言ったので、逆に良い波としてきました。
これからが大事だと思います。

*侍の「笑い」実演
狂言の笑いは 小笑い、中笑い、大笑いの3つしかない。
文楽ではいろいろある。(写実的)
男、女、侍、おじいさん、おばあさん等全部一人でやります。
口伝で勉強していきます。(体で覚える)
いくらテープで聞いて居ても、眼の前で言われると勘違いしていたことが判ります。
ソウルミュージックは大好きです。(魂が語っている)
舞台前では音楽は聞かないです。
今まで無我夢中でやっていたが、この2,3年、大きな役を与えられると1日6時間7時間勉強しなくてはいけなくて、薄氷を踏む思いでやっている訳で、そうすると見えてきたものがある。
今までばらばらであった骨が、むすばれてきて、骸骨の形になってきた様な感じです。
先に明かりが点ったような感じです。
思いっきり軽くやると云うような、そういうイメージがわいてきました。

狂言は仏様の教えだったり神様の教えだったりと云うものが根付いている演目だとおもっていて、狂言を見てもらいたいと云う先に、狂言は人をあやめていいと云うことではなくて、最後は許す気持を持ちなさいと云うメッセージ性でもあるので、狂言を見てもらいたい先に、人間もっとゆっくり行こうよ、穏やかに行こうよと云うメッセージをみんなに伝えたいと思ってやっているんですが、文楽はどうでしょうか?(能楽師狂言方 大藏基誠)
本当に人に仕える、本当に人を愛するのは命がけ、命をも辞さないのが、ほんとうに人に仕えるのではないかと思います。
人を愛すると云うことは本当に命を掛けると云うテーマが文楽の中に流れていると思います。
究極の愛はいのちを捧げる。
夫の全てを愛する、夫がもし愛人が居ても愛人ごと夫を愛している。
夫もきっちり仕事もできるし、不条理の中にあって本当の愛はこうだよと、人を許す。
人を許す事は一番大事だと云うこと。(狂言と同じですね)
一番得をするのは許してあげること、そうすれば自分が楽になる。
日本の芸能にはなんかそういうものがあるのかもしれない、だから名作として残っている。
祖父は物凄く情熱で語り続けていて、祖父の語りの1%でも目標にしていきたいと思っています。

































2017年7月15日土曜日

おーなり由子(絵本作家)      ・目にみえるもの、みえないもの

おーなり由子(絵本作家)      ・目にみえるもの、みえないもの
52歳、「幸福な質問」、「あかちゃんが笑うから」等、だれもがいやされ微笑んでしまう、おーなりさんの絵本はどのようにして生まれたのでしょうか。
今回のステージでは作品を朗読で紹介しながら、おーなりさんに大きな影響を与えた故郷大阪茨木市での出会いや作品に込めた思いなどを伺いました。

「モーラと私」 モーラはソーセージのような形をしたピンク色の生き物で目と口、細い4本脚としっぽを持っています。
「モーラと一緒にいるとうれしい。私とモーラは友達だもの。
モーラは或る日忘れたキャラメルみたいに私のポケットに入っていた。・・・・
家に帰ってミルクをあげた。・・・バナナは大好きみたい。・・・
モーラはお父さんとお母さんからは見えない。だからご飯の時モーラが隣りに座っても気が付かないの。・・・・
モーラはいつも面白いことを思いついて私を笑わしてくれる。・・・
モーラは言葉が喋れない、嬉しいと泣く、悲しいと泣く。・・・
モーラは時々眠れない夜などに夜を飛び越えて空を飛び越えて私をそこに連れて行ってくれる。・・・
私は温かい草の上をモーラところころ転がる、光みたいに。

私はモーラのお腹に足を載せていつの間にか眠ってしまう。・・・
モーラ、モーラずっと友達。・・・
或る時夏のキャンプから帰ったら、モーラがいなくなっていた。・・・
あの緑の野原に遊びに行ってたんだって。・・・
もうモーラは時々しかやってこない。・・・
私の小さな現実に綺麗な野原を見付ける。
そして嬉しいこと悲しいこと、同じように抱きしめながら尊敬する大人や恋人、沢山の人とめぐり合う。・・・
大人になっても私はモーラのことを忘れない。
多分もっとたくさん歳をとっても。」

茨木市は大事な人もたくさんいるし、懐かしい思い出も沢山あるし、自分の根っこを育ててくれたような場所です。
人前で話すのが得意ではなく、余り出たくないと思っていました。
モーラはどの人の心の中にもある自由な場所に連れて行ってくれる、小さな生き物と云う感じです。
自由な場所は絵本の中では野原になっています。
1965年大阪市に生まれて、8歳の時に茨木に引っ越してきました。
絵と詩を書くのが好きでした。
本にして自分の絵の世界を作っていました。
小学校5年生から3年間子供の漫画教室に通いました。
近所に浮田要三さん(抽象画家)が住んでいて、絵のことを見てくれたりしました。
道に長く絵を描いて母親に怒られて、浮田さんの家に謝りに行ったら気に入っていると言ってくれて、気持を見抜かれたような感じがしました、判る大人の人がいると云うことの体験が大きかったです。

井上直久先生 高校の美術部の顧問の先生。
宮沢賢治が好きな先生でした。
茨木市をイバラーロというふうに絵を描いていた先生です。
眼の前にあるものを面白く見る、日常の見えるものに魔法を掛けるようなことで、物の見方が豊かに広がって行くような感じを学びました。
高校2年生の時に少女漫画誌に応募して入選する。
翌年 入選作 「路地裏の風景」で漫画家デビュー。
京都の大学に進学、美術学部で学びながら、漫画家として書き続ける。
1990年25歳で結婚、茨木から東京に引っ越しをする。

「言葉の形」
「もしも話す言葉が目に見えたらどんな形をしているだろう。
例えば美しい言葉は花の形、・・・・恋によって色は変わるのかなあ。
きっぱりとした声ならオレンジの花、静かな声なら青い花、優しい声は桜色・・・
誰かを傷付ける言葉が針の形をしているとしたらどうだろう。
話すたびにとがった針が口から発射されて相手にささるのがみえたとしたら。・・・
刺さった場所や血の滲んだ傷口まで見えるとしたら、言葉の使い方は変わるだろうか。
だけど厳しく傷つけるような言葉でも、それが大事な忠告だった時には見分けがつくとしたらどうだろう。
例えばそんな言葉は木の実の形をしていたら、投げつけられた時は痛いけど、拾って育てたら実ることもある木の実。
観て直ぐ分ったら素直に受け取ることができるだろか。
恋人がささやく愛の言葉はどんな色や形をしているだろう。・・・・
虹色に光ってパチンと消えるシャボン玉?・・・

もしも言葉が目に見えたら、楽しい言葉はタンバリン、悲しい言葉は冷たい水滴。
自分を立派に見せるための言葉が、すぐに光をうしなって砂のように枯れて行くのを見るかもしれない。・・・
黙っているという言葉の裏側に豊かな森が広がっているかもしれない。・・・
私の話す言葉はどんな形や色をしているだろう。
誰かを守るためについた嘘なら、それはきっと静かで柔らかな毛布になり、涙を笑い飛ばす言葉は光る入道雲のように明るく湧いて雨のあとの虹を作る。
短い正直な言葉が心の湖の深い場所にすーっと差し込む透明な光のように。・・・
毎日消えて行く話し言葉のむこうの心の形を探す。
大切な人に花のような言葉を届けることができるように。
届いた言葉が木漏れ日の様に笑いますように。」

誰かと話した時に心の中にとどまっている言葉は忘れられない言葉はあります。
「なにがどうっちゅうことはない」と父がよく言っていました。
無事に生きて居るんだから、他の小さな事はどうでもいい、と云うような感じ。
「言葉の形」は絵よりも先に文章が出来ました。
夫は、絵本作家のはたこうしろうさん。
2005年長男誕生、中学1年になります。
「抱っこ」
「抱っこ 抱っこ  一杯触っているといっぱいかわいくなってくる
抱っこ 抱っこ  抱っこしていると思っていたら抱っこされていた
小さい指が私の背中をギュッと掴んで、子供の腕の中は私で一杯」
「くっつく」
「昨日は頭のてっぺん、おとといはお尻、このあいだはおでこだったっけ
寝て居る時、身体のどこかが私にくっつていると安心している赤ん坊
今朝は足の裏 小さい足の裏がパスっと私の頭を蹴っ飛ばして私のあごのすぐ下に
そうしてでんくるりんとさかさま 今はお尻突き出してスースー眠っているよ」

「お母さん お母さん お母さん 声がする・・・・」 (涙ぐんで言葉がつまる)
台所にいてもお風呂場にいてもトイレに入っていても服を着替えて居ても
お母さん その声が何度も何度も夕方に溶けて行く 
お母さん 怒った声で言う
お母さん 泣きながら言う
お母さん 跳ねるように言う
お母さん お母さん お母さん 呼ばれながら私はお母さんになって行く」

「赤ちゃんが笑うから」
「私が嬉しい時、赤ちゃんが笑う 私が悲しい時 赤ちゃんが笑う
私が心を心配事でいっぱいにしている時、赤ちゃんが笑う
母さんは弱い、時々凄く弱くなる
お乳をあげながら不安はあちこちからこぼれおちてくる。
悲しいニュースを見るたびに世界は土砂降りのように感じられ、未来は何処までも灰色の雲で一杯で、何処までも何処までも 何処までも何処までも
そんな時バアーキション 大きなヘンテコなくしゃみ
赤ちゃんから大人見たいなくしゃみが出て私は正気にかえる
そうだった、世界は何時だって始まったばかり
生まれてきた子供達は言う、これから生きて行く世界をひどいと決めつけないでよ
僕らを弱いと決めつけないでよ

僕らは生きたい、僕らは愛したい、僕らは触りたい、僕らは感じたい
登り坂でも下り坂でも僕らはいっぱい遊びたい。
土砂降りの中で歌おう、がれきを蹴飛ばし歌おう
そうしてトランペットのようなおならがぱんぱんぱんと鳴り響いて、雲を吹き飛ばすと新しい空の幕が上がる。
噴水みたいな光を撒き散らして、子供達が笑う声 赤やんが笑う声
ねえねえ 何もないのにどうして笑ってるの
嬉しいことあるよ ここに全部あるよ ここに全部
うれしいことは抱っこ 嬉しいことは胸の中 嬉しいことは朝の匂い
嬉しいことは暖かな日だまり 嬉しい事は優しい声
手 柔らかい小さい手 その手が触れるとどこからか光る泉が不思議な強さであふれてくる
弱いかあさんの胸にもあふれてくる
ほら ほら ほら ほら ほらここに私を抱きしめてくれる小さな手
嬉しいことあるよ 全部ここにあるよ」


































2017年7月14日金曜日

山下惣一(農民作家)        ・“小さな農業”が日本を支える

山下惣一(農民作家)        ・“小さな農業”が日本を支える
今年の4月に福岡市で開かれた小農学会のシンポジウムで、佐賀県唐津市の農民作家山下さんが日本の農業は儲かったから続いてきたからではなく、農業が必要だったから続いてきたと指摘しました。
生産者の得ている対価があまりにも低いので、仕方なく出稼ぎに出て居るのだとおっしゃいます。

一昨年小農学会をたちあげる。
日本の農業は戦後の農地解放でみんな小さな農家に成ってしまって全部小農じゃないですか。
面積で区切るのではなくて、目的で区別した。
家族で働いて暮らしてゆくことを目的にしている、それが小農です。
守田志郎と云う人が最初に「小農」と使っている。
生活の糧を稼ぐためにやるのが労働であって、暮らしのためにやる。
小農だということは、家族が、これは私たちのやっている農業だ、ということのできる農業生活と生産となので、他人の働きに頼ったり、他人の働きでもうけたりしようとしない農業をいうのである。
松田喜一先生は仕事を労働にしてはいけないと、仕事を楽しむ、道楽にしなさいと言っている。
35歳の頃、規模拡大路線で蜜柑などを植えたりしていたが、中山間地の棚田が多かったので3段か4段で31枚という棚田があった。
それを1枚にしたいと思って、そばに兼業農家の帯のような棚田がありそれがないと形が取れないので交渉して譲り受けました。
そこには藁人形を燃やした跡があり、田んぼは先祖からあずかってるものなので、先祖別れの儀式をしたと云うことで、衝撃的でした。
自分が大きくなることだけを考えて居て、相手のことを考えていなかったということに気がつきました。

それからは規模拡大は目指しませんでした。
単作にしないで色々作り、一年中収入が絶えないようにやっています。
身の丈サイズが一番いいと思います。
2014年に国連が国際家族農業年と定めて報告書を出した。
「家族農業が世界の未来を開く」といって、本を読んだら自分が言っていることが全部書いてあるような気がした。
世界の農家の70%が1ヘクタール以下、世界の農業の90%は家族農業だと言っています。
①世界の農業の90%は家族農業、家族農業は世界の農業の土台である。
②飢えている人たちは8憶いると言われて居て、その半分は農民。(土地なし、零細農民)
 農業をやる人を手助けする。
③大規模農業に比べて小規模農業は土地生産性が高い、面積当たりの収量は多い、環境保全的である。
④多くの人にとって故郷であり、文化、芸能の伝承者でもある。
 民俗芸能はそこでしか残っていない。
⑤農業の専門特化でやるのは非常にリスクは高い。
 リーマンショック後の不況時にヨーロッパの企業農業はバタバタ倒産した。
兼業農家がリスク回避の有効な手段だと書いてある。

オランダの農家の90%は兼業農家、大面積でやっているフランスでは60%は農業以外で収入を得て居る
日本の兼業農家は75%、アメリカでは70%近くが兼業(日本とは兼業の形態が違うが)
農産物輸出国は悲惨です、余っている物を作っているから。
ブラジルなどは悲惨です。
九州で智慧を出し合って展開を始めて居ます。
将来的にはオーガニックに成って行くのではないか、地産地消。
富裕層を目指して米を作ろうとは思っていない、日本人の為の農業をやりたい。

人間は向学心があると思う。
父親は養子で家をつぶすのが怖かった。
教育のため子供を都会に出すが帰ってこない、そうするうちに家は潰れる、教育は家をつぶし、村を滅ぼすと云う事で高校に行かせてくれなかった。
通信教育で2年間勉強して、試験だけ受けてみたいと言ったら、田んぼから突き落されてドロンコに成り泣きました。
2回家出をしました、自分が逃げても農業も家も辛い労働も残るわけで、逃げることはまずいと思って逃げなくてもいいような村を作るべきだと思った。
小説を読み始めました、主に太宰治でした。
自分でも書けるのではないかと思って、文芸雑誌に投稿したりしました。
32歳のころに草刈り機で足を切ってしまって、田んぼに入れなくなり、佐賀県での文学賞があると云うことを新聞で知って、改めて書きました。
地元の同人雑誌に入って、書いた小説で農民文学賞を貰いました(「海鳴り」)

NHKのTV  『ひこばえの歌』
ひこばえ:樹木の切り株や根元から生えてくる若芽。
枯れても枯れても芽が出てくる、農家の永遠みたいなものを象徴させたかった。
今は雑誌と新聞のコラムを書いているぐらいで書く気はしません。
書くと云うことは書くことに責任を取ることなので、勉強はします、ずーっと人生勉強でした。
悔いはないです、81歳でも現役でやっていますので。
食べるのは他の命を頂くことだと云うことは、今の日本には全く無くなってしまっている。
農家に嫁いだ女性たちは農業は好きだと云う人は居なくて、仕方なくやっているうちに好きになってくる、植物、農作物、家畜も決して裏切らない、これが一番いいですね。
娯楽の楽しみは生産の喜びには及ばない。
棒の一方の端が苦、他方が楽だとすると、人間は真ん中にいて、苦を克服していくと苦が減って楽が増える、これは農業では良く判る。


















2017年7月13日木曜日

吉沢久子(家事評論家・エッセイスト)・今が一番幸せ

吉沢久子(家事評論家・エッセイスト)・今が一番幸せ
今年白寿を迎えた日本の家事評論家の草分け的存在、吉沢さんはお姑さんと御主人を看取った後、33年間一人暮らしを続けています。
ニュースキャスターだった古谷綱正さんのお兄さんで、文芸評論家だった御主人の古谷綱武さんと元外交官夫人だったお姑さんからは、目に見えない素敵なプレゼントを沢山いただいたと言います。
その最も大きなプレゼントが自由気ままな時間を一人占めできる、一人暮らしだと云います。

閑静なところで向かいの隣の家が谷川俊太郎さんの家で、 曾孫が出来たそうです。
主人が亡くなってから、33年間一人暮らしを続けています。
一人暮らしは素敵で、自分が思った通りに暮らせてこんなに快適なのかと思います。
夫からものを買ってもらったことは一度もないですが、言葉ではいろいろ残してもらいました。
自分の生き方を考えることになり、言葉のプレゼントだと思います。
「人は一人では生きられない、みんなと一緒に生きていくものなので、それを考えて生きなさい」といわれました。(一人誇らしげに生きるなと云うような事)
友達関係を残してくれたりもしました。
昨日も数人集まって一緒にご飯を食べて、勉強会をやっていました。
人との繋がりは本当に大事だと思います。
「美しいもの綺麗なものはどんな小さいものでも見逃すな」とも云われました。
花だけではなくて、人の動作、言葉なども暖かかったりするとハッと感じます。
自宅で咲いた小さな花を飾っています。
「人が死んだらだれも言ってくれないぞ」といわれました。(言ってくれるうちが花)
「人の言葉をちゃんと聞け」といわれました。
「言葉を大事にしろ」といわれました。

お姑さんからは「この年にならないと判らないないことがたくさんある」といわれました。
「今日を大事にしなさい」と云うことなんですが。
最後まで毎日お化粧をするし、朝晩違う着物を着てきたりとか、外交官の奥さんの生活をしていました。
朝ご飯が出来ましたと云うと、「今行きます、有難う」と自然に出てきて良いなと思いました。(有難うと云う感謝の言葉の素晴らしさが自然と出てきていた)
言葉に出すと云う事が大事だと思います。(日本人は言葉に出すと云う事が下手)
人間は自立しなければいけない。
自分の生活を自分で律してゆくことが自立だと思っていまして、食事でも一人になるとめんどくさくなってコンビニに行って買ってきたりするが、自分が大事だと思ったら身体を大事にしなければならないので、きちんと作って食べる、それも自立の一つではないかと思います。
小さな事の積み重ねだと思います。
自分の足で立って、自分の頭で考える、そういうものを生涯持って生きたいと思います。
自分で決めたことは自分でやります。

畑をやっていて今は菜っ葉が沢山あり、青汁にして飲んでいます。
紫陽花が咲いて、その時に何をしないといけないか、虫干ししておこうとか、衣料を風に当てておこうとか、花に教えてもらい家事をやります。
萩が咲けば冬仕度とか。
犬は大好きですが、散歩に連れて行ってやれないので、今は飼えません。
メダカを飼っていましたが、鷺が来て嬉しいと思っていたら、メダカも金魚も居無くなってしまいました、それが自然界ですね。
白鷺町という地名がありますが、昔は沢山いたんでしょうね。
歳をとると変な事にこだわって頑張っている人がいますが、ちょっと良くないと思いますね。(外が見え無くなって来る)
若かぶることをすると失敗が多いんじゃないでしょうか。

97歳まで病院に行ったことがなかったですが、変だと思って病院にいきましたが、貧血と云うことで時々輸血をして貰ったりします。
人生の下り坂での喪失感と云うものはないです、その時その時で楽しみ方を知っているので、下り坂の風景もなかなかいいものだと思っています。
昔は落ち着いて見る暇がなかったが、暇が出来てゆっくり見られるようになったのも歳を取ったお陰だと思います。
下り坂の風景は落ち着いて見られるし、しっかり見られます。
失ってゆく機能を嘆いていてはいけない、生きていけるし、文明の利器も一杯あるし、その中で感謝してして生きていけば面白いです。
断捨離、いらないものを持つ必要がないので普段からそうしていればいいと思います。
大事だと思ったら取っておいてもいいと思います、自分を大事にしているものは何かと思ったら、必要だと云うものはあると思います。

昔、新聞に連載を書くことになったが、肩書きが必要と云うことで家事評論家ではどうかと言われて、それでも良いかと思いました。(家事評論家第一号と云うことだそうです)
文章を書くことは昔から好きでした、速記もやりました。
台所の戦後史を書きたくて、戦後変わったのは台所でした。(場所、道具など)
台所の歴史と女性が繋がっています、それを書きたかった。
自分で何かあった時に書き残してあるとか、普段から誰かに言っておくとかは必要だと思います。
献体はしている(40年前)ので、処置は考えてあるので、なんかの連絡がつけばいいと思います。
遺言も書いてあります。
生き方は死に方でもあるし、どういうふうに死にたいか、その後の自分のことを多少は考えておかないと他人に迷惑をかけるので。
葬式はしないと云う風にしています。(夫もそうだった)
だれにでもそういう日は来るので、人には迷惑をかけないようにしたいと思います。
今のところ本当に幸せです。
歳を取ったら幸せになりたいですね、それはその人の思い方で成るんでしょうね。




























2017年7月12日水曜日

浜口真弓(浜口庫之助夫人)     ・夫からの贈り物

浜口真弓(浜口庫之助夫人)     ・夫からの贈り物
浜口庫之助さんは大正6年、神戸市生まれ、生誕100年にあたります。
昭和34年黄色いサクランボで作曲家デビュー、作詞にもさいのうを発揮し、「僕は泣いちっち」「星のフラメンコ」「バラが咲いた」「夜霧よ今夜も有難う」など数多くのヒット曲を手掛け、ソングライターとして活躍しました。
浜口真弓さんは渚まゆみの芸名で活動していた29歳の時、浜口庫之助さんと結婚しました。
長女にも恵まれ仲睦まじい日々を送りましたが、平成2年浜口庫之助さんは73歳で亡くなってしまいます。
自宅には未発表の作品が数多く見つかりました。
残された楽譜や草稿を大切な贈り物として浜口庫之助さんの音楽世界を少しでも多くの人に知って貰いたいと活動しています。

生誕100年で主人の残した作品をみなさんに忘れてほしくないので、頑張っています。
7月22日が誕生日です。 73歳で亡くなる。
私は16歳で大映のニューフェイスで受かって、主役で『夕やけ小やけの赤とんぼ』デビュー、「渚まゆみ」は作曲家の山田耕作さんが命名しました。
紹介してもらって、歌わせてもらえず発声練習など受けました。
そのうち演歌っぽい歌を練習して、歌ったら、肩を触ってごらんと言われて、泣くような感じで震えていて、こういうふうに歌わなければね、といわれました。
でもその時はどんなことかわからなかった。(感情で歌いなさい、と云うことでしょうか)
浜口庫之助さんはリズムが凄いですね。
歌のことで怒られたことはないです、人間的な面での基本は厳しいです。

地方へ行った時に電話をやり取りしていましたが、必ず「愛してる?」って聞くんです電話の度にそうでした、そうすると私は「愛してるわよ」と云っていました。
会話の内容が「空に太陽がある限り」と云う歌に成ってでたんです。
見合いの話があったが、結婚するんだったら先生みたいな人が良いと言ったら、その後先生のほうから結婚を云われました。(主人が妻を亡くして10年後)
結婚生活では1年後に娘(あんず)が生まれましたが、私に対する生活態度には厳しかったです。
今思うとありがたいと思いました。
育児についての歌もいろいろな歌を作りました。
娘が15歳の時に主人は亡くなりました。
私は娘を留学をさせたいと思っていましたが、主人はミュージカルなどを書くために英語を勉強するというようならば賛成するが、英語をしゃべりさせたいだけで行くのであれば賛成しないと言われました、それよりも日本の事をしっかり勉強させなさいと云っていました。

娘は結局留学しませんでした。
その後、ロンドンに行って博士を取ったんで、主人も喜んでいると思います。
娘も母親になりました。
孫アナベルちゃんが英語で歌う「バラが咲いた」浜口庫之助さんが歌う「バラが咲いた」のディユエットCD作成。(2年前 6歳)
実感したことをだいたい歌にしていました。 「主婦とロマン」
喧嘩したことなども歌にしていますが、そうすると仲良くなってしまいます。
点滴していてもリズムをとったりしていました。
「バラが咲いた」薔薇が散っても心の中に薔薇が咲いていると云うのが凄いと思っています。
結婚期間は17年間で、主人は7年間は元気で10年間は病気でした。
亡くなる時も「君が明るくて助かった、有難う」だけでしたが、今思うとよく主人はわかってくれたなあと思います。
主人であり、先生であり、父親のような存在でした。
厳しいことをいろいろ云われましたが、今思うと何もかも有難たいと思います。







2017年7月11日火曜日

保坂紀夫(竹造形作家・工業デザイナー)・竹に魅了された男

保坂紀夫(竹造形作家・工業デザイナー)・竹に魅了された男
1940年山梨県生まれ、77歳。
子供のころから竹林など自然に囲まれて暮らしてきました。
武蔵野美術大学を卒業し、企業デザイナーとして15年間働いた後、会社を辞めて山梨県に戻り甲府にデザイン会社を設立しました。
学生時代から考えていた念願の竹を素材にした創作活動に入りました。
少しづつ学んでいた竹の編み方の技術を本格的に習得するため、全国各地に修行にでかけ、竹アートの世界に入りました。
カゴ、ザル、花器、オブジェなど、さまざまな作品を作って展覧会に出品し、多くの賞を受賞されています。
2006年には山梨県北杜市大泉町に創作活動の場と作品を展示する場として竹の造形美術館を作り今年で11年目を迎えました。

100点以上が展示、面積はおよそ100坪あまり。
地元の杉とヒノキで作っていて塗装は柿渋、壁も全部和紙で貼ってあります。
標高は1100mぐらいのところなので、冬場は閉館に成っています。
①伝統的な技法を用いた実用のもの、②伝統的な技法+独自技術を用いたデザイン性と実用性を兼ねたもの、③素材としての竹を実用性をとも合わない自由な作品
大学では工業デザインをやっていましたが、細かな立体設計などを15年間やって、その間に修行して竹の作家に移行していきました。
竹の持っている特性は素晴らしいと思いました。
竹は1200種類ぐらいありますが、こういうものに向いているのは真竹だと思います。
精密なものから何mと云う大きなものまで作ります。
作品に応じて竹を選んで作ります。

最初アトリエだけつくりました、大きなものまで作れます。
色んな素材を扱ってきたが、精密なものは作れる、反発するし、光も通すし、その人の技術によって生きてくれるところに魅力を感じます。
できるだけ長く持たしたいものは、さらし竹といって、竹を煮沸してアクを抜いて干して、編み取る?と狂わない。
節があるので、作品によって節を考えて作ります。
始めようと思った時には竹林は全国に何十か所もあったが、減ってきてしまいました。
使い方、入れるものによって編み方が120種類以上ありました。
編み方について修行して歩きました。
竹の種類は日本には600~700種類あります。
竹の産地により編み方がちがうという事もあります。
真竹系は繊維が緻密で正確なものを作れるし細いものから太いものまであり、節間が長い、それは強いと云うことでもあります。

子供のころは風よけの竹があり、竹やぶで遊んだりしていました。
絵は好きでした。
父親は教員で色々な情報が入りました。
中学の時に甲府に転校して美術部に入り、高校でも美術部に入りました。
工業デザイナーを目指して武蔵野美術大学に入りました。
3年から工業デザイナーの方の勉強をしました。
就職はプラスチックのメーカーに入ってプラスチックの製品をデザインしました。
ビールの箱、家庭用品、などのデザインをやっていました。
15年ぐらいやっているうちにプラスチックのゴミの問題が出てきて、もう良いかなあと思いまして、竹に興味を持つようにもなりました。
デザインは注文でやるので自分で作りたいものをやるわけではないので、転換したいとの思いがありました。

会社の人も減らされ宣伝もやらされるようになり、両親の面倒を見なければいけなくなって山梨に戻りました。
デザイン会社を立ちあげデザイン会社をやりながら、竹の作品を展覧会に出品して行きました。
工芸品のショップもやりながら、全国を回って竹の技術を磨いていきました。(40歳台)
段々個展もできるようになり、珍しいと云うことで色々開きました。
そのうちに海外の展覧会にも出品するようになりました。
フィンランドが最初でしたが、竹が好評で海外での個展の話も持ち上がりました。
竹は職人の仕事と云うことだったがファインアートとして美術大学では扱っていなかったが、東京芸術大学から特別授業をやってほしいと云うことでそこから色々な大学で授業をやる様になりました。

60種類の編み方がありますが、編み方を色々応用して無限と云っていいほどの沢山の編み方に広がっていきました。(時代編みという編み方も生み出しました)
「矢鱈かご」 衝撃的な編み方でした。
綺麗に編んであると云うよりも、繊細なものと実用的で荒々しくて強さを持ったかごを作ってみたかった。
作っているうちに、ああやってみようこうやってみようという事が浮かんできます。
3~4年の真竹を使っています、年がとってしまうと硬くなってしまいます。
新作を考えて居て試作を作っていますが、新作を作るまでに5~6個の試作品を作ります。