2017年12月24日日曜日

池谷幸雄(体操クラブ代表)       ・【スポーツ名場面の裏側で】高校生メダリストから30年

池谷幸雄(体操クラブ代表)・【スポーツ名場面の裏側で】高校生メダリストから30年
1988年のソウルオリンピックで日本男子体操史上初めて高校生として出場、現在47歳。
大阪の清風高校3年の時、同級生西川大輔さんとともにソウルオリンピックで団体銅メダルの立役者となり、人気を集めました。
バルセロナオリンピックでも種目別の床で銀メダルを獲得し、現在の男子体操の復活のきっかけを作ったと言われています。
タレントと体操指導者として活躍している池谷さんに伺います。

あっという間に30年が経ちました。
西川さんは日本大学スポーツ科学部教授、入試関係でどうしても来られないと言うことでした。
1988年のソウルオリンピック。
日本体操は5連覇を達成後、1984年ロサンゼルス大会の3位以降メダルは取れず苦しい状況でした。
ソウルオリンピック、男子団体の規定でソビエト、東ドイツに次いで3位につく。
床、跳馬、てつぼうの3種目で9.90をマーク、西川選手との活躍で4位中国に1.25の差を付ける。
団体自由、ソビエトが1位、2位が東ドイツが確定。
3位は日本、中国、ブルガリアの3チームが大接戦となる。
日本は5種目修了後、4位に落ちる。
あん馬で西川選手、水島選手が共に10点満点を出して3位に入る。(4位中国とは0.75差)
団体でとれたことは一番の喜びでした。
個人総合に3人(池谷、西川、水島)が出場、8位(池谷)に入る。
プレッシャーはなかった、立場的に楽でした。(初出場だったのが良かった。)
韓国なので日本の応援がメチャクチャ多かった。
個人床運動、9.950で銅メダルを獲得。

清風中学で全国中学大会3連覇をして清風高校に入り、高校1年の時に高校総体で優勝。
1年の終わりころ、当時の山口 彦則監督からソウルオリンピックを目指さないかと西川選手とともに誘われる。
オリンピックなんて夢のまた夢の話だと感じ、ポカンとしていました。
最終代表選考会までは1年半しかなかった。
代表選考用の規定演技はほとんどやっていなかった。
日体大にお世話になって、泊りながら、合宿をやってました。
具志堅 幸司さんの処に泊らせてもらってやったりもしました。
全日本選手権がオリンピックの第一次予選としてあるが、その前に高校総体予選(大阪の市予選、府大会、近畿予選、インターハイ)、1ヶ月後にそこから上位24名が高校選抜に出て、そこから上位7名が全日本選手権に出られる。
高校の規定内容と全日本選手権での規定内容は違う。

西川選手は25位だったが、わたしが3位に入ったので、同じ実力と言うことで推薦で 二次予選に通してもらった。
二次予選は西川選手が1位、わたしが2位だった。
NHK杯代表選手権では西川選手が1位で私が2位でした。
注目されていたので凄くプレッシャーを感じました。
ソウルオリンピックから帰って来て吃驚しました。
送りだされた時にはメダルは多分取れないだろうと言う雰囲気で報道陣もいなかったが、帰って来て空港ではもみくちゃでした。
私はどちらかと言うとダイナミック(床、跳馬、鉄棒が得意)な感じが特徴で、西川選手はしなやかさ(鞍馬、平行棒が得意)で対照的。
気の強さなど性格は同じ。
彼は繊細で日本人の審判には受けるが、外国に行くと私の方が受ける。

1992年バルセロナオリンピック 当時21歳。
団体で銅メダル。
もうメダリストだったので、今度は金メダルをとってこいと言うような使命を帯びたオリンピックだったのでメチャクチャ大変でした。
種目別決勝床、前の選手の演技で時間が凄く待たされた。
その間世界中に自分が映っているんで嬉しかった。
床の最後ムーンサルトを決めることが出来た。
得点が9.787で銀メダルを獲得する。
チャンスはあるかなと思ったがメダルは取れるかどうかはわからなかった。
22歳で現役引退を発表する。
次のオリンピックには出られるかとは思ったが、メダルは取れる自信はなかった。
怪我にも悩まされていて、だましだまし練習をしてバルセロナには出られた。
芸能界の世界は自分の性格にも合っていて、芸能界に入りたいと言う気持ちはありました。
 
日本体操協会の理事をしていたり、現在全日本ジュニア体操クラブ連盟理事として、体操指導者として8割、タレント2割の比率です。
体操教室をたちあげ、全国で1200人の子供を指導。
夢目標を持つ事、人間としてちゃんとしていないといけない。
私の目標値としては
①自分のクラブからオリンピックの金メダリストを出すこと。
②街に体操教室がある環境を全国に作っていきたい。
10月モントリオール世界選手権で女子種目別床で村上茉愛(まい)選手(1期生)が金メダルを取る。