2017年12月9日土曜日

尾崎健一(元少年通信兵)          ・少年兵の見た“地獄” ルソン島からの生還

尾崎健一(元少年通信兵)       ・少年兵の見た“地獄” ルソン島からの生還
高知県出身、89歳、12月8日は76年前人本がアメリカ、イギリスなどを相手に太平洋戦争を始めた日です。
尾崎さんは開戦から3年後、すでに戦況が悪化していた昭和19年(1944年)12月に通信兵としてルソン島に送られました。
16歳の少年でした。
着任早々アメリカ軍の猛攻に会い、ジャングルに逃げこんだ尾崎さんたち、それからおよそ7か月間飢えや病気、アメリカ軍やゲリラの攻撃にさらされ、何度も死を覚悟しながらさまよい続けました。
そこで尾崎さんが見たのは人が人で無くなって行く地獄だったと言います。
戦後尾崎さんが長い間、この体験を人に語りませんでしたが、戦争の記憶が風化するのを防ぎたいと、自らルソン島現場を訪れ戦死者の記録を調べ手記にまとめ、公表しました。
少年兵が見た戦争の姿とはどのようなものだったのか伺いました。

手記の一部。
「配属された部隊が壊滅し食糧が無くなり、山へ逃げ込んだ私たちは文字通り草木をかじって生き延びた。
アメリカ軍の執拗な空爆砲撃、ゲリラの狙撃があって死亡者が続出した。
あの時から70年過ぎたが、今でも思い出すと眠れない夜がある。
彼ら兵隊は使い捨てにされた消耗品だったのではないか、単なる犬死ではなかったのか。
いまでもなお、彼らの遺骨は山奥に雨ざらしのまま散乱しており、、見捨てられ寂しく眠っていると思うと、胸が締め付けられる思いがして、わたしの心の中の戦後はいつまでも終わらない。」

73年もたつが、私にとってはまるで昨日のように思い出される。
実に悲惨でした、それを考えると今でも眠ることはできない。
当時旧制中学の4年だったが、中退して志願しました。
戦況は悪化しつつありまして、志願兵の募集をしていました。
相当に危機と云う風な気持ちがあり、親に話しましたが大反対でしたが、親を説得して一人で決めました。
15歳の時に東京陸軍通信少年兵学校に入学しました。(2年の予定)
10カ月後に30人が選抜されて私もその中に入りました。
行き先は中隊長が小声でいったんです。
兄から死ぬなよ、絶対帰ってこいよと言われました。
当時の戦況についての説明が全く無かった、1944年の秋にレイテ島の海戦で日本軍が負けていて、フィリピンの戦況は悪化していたが知らなかった。

九州の門司から出発しますが、行くときに「貴様ら全員が目的地に着けると思うな、輸送船に積み込んだ物資、船員の半分が着けば成功である。」こう言うんです。
半分死んでもいいと言う事で、消耗品扱いする軍の考え方に失望と怒りを覚えました。
志願をしたことを後悔し始めました。
1944年11月に門司港を出発。
畳1枚の広さに10人以上、横になって寝ることが不可能で、蒸し暑くてたまに30度を超える状況だった。
トイレに行くのもやっと行くような状況だった。
潜水艦が来てることが判り、爆発音が響きましたが、後の記録では30分間魚雷を投下し続けて何とか逃げ切りました。
20日間恐怖を帯びながら行きました。
幸いに私が乗った船だけが着くことが出来ました。
12月の初めにルソン島の北に上陸、南下してマニラで配属される。

日本が管理する航空基地があったが、そこが毎日のようにアメリカ軍の空爆を受けていた。(一方的)
1月9日に米軍が上陸してマニラの方に侵攻した。
私達の通信隊は海外との交信で発信出力が非常に大きいために探知されて、戦闘機による爆撃でたちまち破壊されました。
通信が出来なくなり、約10km程上流に移動しました。
今までにない数の戦闘機の爆撃に会い怖かったです。
川から上がった時は20人ぐらい死者が居て、周辺はわたし一人でした。
部隊が壊滅しまして、敗残兵として山の中を逃げまわる生活、それから7カ月大変な経験をしました。
武器は小銃弾が20発位、他に飯合ほか(良く聞き取れず)、食糧は靴下に7合ぐらい入れて持っていた。

食糧はすぐに無くなり、食える雑草はあまりなくて、雑草を飯合で煮て食うが腹の足しにならないから水をがぶ飲みして何とか我慢できるようになるが、後は蛇、とかげ、かえるおたまじゃくし、沢ガニ、バッタ、食えるものは何でも食いました。
靴底がはがれて、最後には靴を捨てて後は裸足でした。
足から血が出てきてしまい辛かった。
病魔、マラリア、熱帯性胃潰瘍、(そのほか良く聞き取れず)全部かかりました。
身体はガラガラに痩せて歩くのがやっとでした。
新しい死体の肉を切り取ってある跡があるのを2回ほど見たことがあります。
私たちは3人で行動していましたが、或る部隊が肉を焼いていてトカゲだと言ったが、人肉だろうと口から出かかったが出来なかった。
人が人ではなくなる。

白骨化した死体を70体は見たと思います。
怖いと言うよりも、今日も何とか生き延びた、明日の食うものはどうしようか、その事ばかり考えるだけでした。
これ以上逃げても仕方がない一か所にとどまって、農耕作しようと言うことになり、30人ぐらい集まってそういう生活をしているうちに、出す煙を段々警戒しないようになって、大変な惨劇に会いました。
攻撃がやんでから恐る恐る元の所に戻ったら、一人の兵隊が呻いていた。
同期の戦友だった、歯が吹っ飛んでいて無かった。
朝小屋に戻った時にはこの世の地獄絵を見ました。
30人ぐらいが色んな形になり、ちぎれたり、内臓が出たりして死んでいました。
残っていたのは他にも一人でした。(重症)
どうせ生きてはいられないと思ってその人は名前を言いませんでした。

山の中の生活を生き延びて、飛行機が低空を飛んでビラをまいていました。
ビラを見たら、日本軍の無条件降伏と、武装解除の勧告が書いてありました。
戦陣訓で、帝国軍人は捕虜になってはいけないと言うことを徹底的に学校で鍛えられました。
その後も1カ月程雑草を食う生活を続けましたが、限界にきてもうこれ以上耐えられない、死を待つばかりに残った3人は追い詰められて、死を覚悟の上で武装解除をしようと山を降りました。
おおきなトラックが来て真っ先に小銃を取り上げられ、荷台に放りあげられました。

1946年11月、18歳になってから日本に戻ることになりました。
家に帰ると焼け野原で家も焼けていました。
親戚の家に行って迎えてくれました。
家族は母と兄が疎開をしていました。
父は空襲で壕の中で焼け死んだと聞きました。
戦後、戦争の体験は話しませんでした、山中の逃避行、戦友の無残な死など到底理解してもらえないと思いました。
1978年、偶然に街を歩いていたら卒業生に出会い、ある会合に行きましたが、来ていた当時の教官に「全滅した彼らのことを忘れたのか」と大声で抗議しました。
当時の苦しみなどを知らせる義務があると思ってそれから手記を書き始めました。
この戦争は何だったんだろうと思います。
極限状態になると人間は鬼にも獣になることも知りました。
戦争は人類が犯す最大の悪だと思います。
平和を大切にしてほしい。
誤った過去の歴史を学んでそれを教訓にして、二度と戦争を起こすことの無いように恒久的な平和の確立をして欲しい。