2016年4月30日土曜日

桂 歌丸(落語家)       ・声の出る限り 噺家人生65年(後編)

桂 歌丸(落語家)       ・声の出る限り 噺家人生65年(後編)
振り返ってみると落語にはめでたい話はない、全部失敗したりするもの等がある。
小話、忠臣蔵の主役の人物、陰の主役は天野屋利兵衛 討ち入りの時に、衣装などを整えた人。
露見して、町奉行松野河内守助義に取り調べられた時に、「天野屋利兵衛は男でござる」と言ってガンとして、口を割らなかった。
大石内蔵之助が病になって天野屋利兵衛が見舞いに行った時に、ゆすっても起きなくて、やわら大石蔵之助が寝とぼけたものか、かいなを掴んで、布団の中に引きずり込もうと思った。
驚いたのが天野屋利兵衛、飛び下がって両手をついて「天野屋利兵衛は男でござる」(笑い)

笑点 5月半ばで丁度50年目、司会者としては5代目、立川談志、前田武彦、三波伸介、先代円楽、そして私です。
談志さんが拵えた番組で、笑点の前身があって、金曜夜席と言いまして、プロレスが盛んなころ隔週にあって、談志さんがオーディションをやった。
私は紋付き袴で高座に上がって、前座がもりそばを持ってきて黙って盛りそばを食べて、手拭いで口の周りを拭いて、「おそばつさまでした」と言って降りてきた、それが受けました。
寄席で談志さんが大喜利を見ていて、それをヒントに金曜夜席が始まった。
先代円楽、春風亭梅橋(先々代の小痴楽)、三遊亭金平、漫才の和子・西〆子の西〆子、私等が出て談志さんが司会で金曜夜席をやり2年弱やって打ち切りになり、半年後に笑点が始まった。
長く続くのは家族全員で安心して見ていられる番組ではないかと思う。
悲惨な事故、陰惨な事件は一切触れてはいけないと言う事がある。(決めてはいないが)
座布団を取ったりやったりは全部司会者任せになっている。
司会者のユーモアセンス、人情が絡んだ判断材料等がある。

しゃれの通じない人間が増えてきて、円楽さんが私のことを攻撃するが、カンカンになって怒る手紙が来ることがある。
繋ぎに悪口、けなしが出たりするんで了解してほしい。
落語の世界は上下の関係が厳しい、一日違いでも先輩は先輩なのでキチンと守っていかなければならない世界です。
舞台に並んだ以上は同格だ言う事で、後輩という事で引かれてしまうとさめちゃう、楽屋に入ると皆さんちゃんとしています。
土台作りは凄い肝腎なことです、杭は一番硬いところまで届いていなかったらぐらついちゃいます。
笑点の高座ではわあわあやっていますが、楽屋へ入ってからは先輩後輩であり、立てることは立てちゃんとしてくれるし、こちらもちゃんとします。

「褒める人間を敵と思え、教えてくれる人、注意してくれる人を味方と思え。」今輔師匠から教わりました。
或る程度木になった時に、褒める人間は揃っている芽を切るのと同じ、これでいいのかと止まってしまう。
教えてくれる人、注意してくれる人は、足元に水を肥料をやって、木を育てて葉を付け、花を咲かせ、実を結ばしてくれる人。
でもこれは難しい言葉ですよ。
修身を復活してほしいが、その代わりに落語を聞く事だと思います。
義理人情が細かく入っているのが落語だと思います。(何かの時に気がついてくれればいい)

先代円楽さんの具合が悪くなって透析をするようになって、落語家を引退する事になり、「歌さん、頼む」と言われて、その一言でやる様になりました。
司会をやってどう変えるのかと言われたが、変えないと言いました、変えようと思っては失敗する、自然に変わってゆく事で波に乗ると思っている。
落語を残したい、会長職になっているので、或る程度は人の見本にならなければいけないとは思っている。
今は若い女性の人が多くなってきています。
笑点から落語を聞く世界に入った人が結構いるようです。
噺家としてはTVで落語をやる場合は会場のお客様を主にしてはいけない、TVの向こう側を主にしなくてはいけない、という教えを受けました。
ラジオでやる場合はTVへ出ていると思え、耳だけなのでTVに出ている様な心持で身振り手振りでやらないと、絵が浮かばない。

扇子が刀に見えないと、自分の芸が未熟なので、形、歌舞伎を見ろといったことにつながってくる。
欲を言えば浮かんだ絵に色がついてなくてはいけない、(白黒から総天然色にならなくてはいけない)
汚い話ほど綺麗にやれと、柳好師匠から言われました。
東京と地方の寄席でやる場合には私は地方の方が間を空けます。
40年ほど前に独演会を年に5回始めたが新作だと、2席ずつやるので作れない。
新作から古典に変えて見ようと思って始めて、古典に移って行った。
古典をやっていて、時間、お金で判らなくなってしまう事があります。
古典を残したいので誰かに継いでもらいたいと思っている。
海外での落語、ニューヨークでやったが、字幕をだしてやったが、笑いがちょっと遅れる。
大失敗だった、文法が違うので「さげ」が先に出てしまう。
パソコンで同時通訳するような方法でやり易くなった。

寄席を皮切りに噺家生活65年、笑点50周年と銘打って、普通の寄席ではやらない様なゲストを迎えてなんかやりたいなと協会と相談しているところです。
今輔師匠は人生の師匠であり、米丸師匠は芸の師匠で、歌丸という名前と顔を売ってくれた恩人は笑点だと思っていて、恩返しをしたいと思っています。
























2016年4月29日金曜日

桂 歌丸(落語家)       ・声の出る限り 噺家人生65年(前編)

桂 歌丸(落語家)       ・声の出る限り 噺家人生65年(前編)
15歳でこの世界に入ってから今年で65年、古典落語の名跡です。
40代から幾度となく大病に見舞われますが、必ず復活して高座へと戻ってくる歌丸さんを仲間たちは不死鳥と呼んでいます。
歌丸さんが度重なる病を克服して落語の人生にかける熱い思いを伺います。

80歳になります。
自分では折り返し地点と思っています。
1936年昭和11年8月に横浜で生まれる。
昭和26年 5代目古今亭今輔に入門、今々亭今児と名乗って昭和29年2つ目に昇進。
昭和36年 4代目桂米丸門下になる、昭和39年桂歌丸と名乗り現在にいたる。
昭和41年 「笑点」大喜利メンバーとなる、昭和43年に真打ちに昇進、平成16年落語芸術協会の5代目会長に就任、平成17年芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、平成19年旭日小綬章受章受賞
今年は噺家になって65年目、笑点は50年目になります。

病気のデパートと言われる、一番最初はヘルニアの手術(脱腸)、胃が痛いので見てもらったら胆嚢が機能して無くて胆嚢の手術、腰の手術を3回、肺気腫を患い入院、煙草を吸っていて3度駄目で、今は煙草は完全に辞めて、去年1月5日国立演芸場でしゃべっていて具合が悪くなってお客さまに謝って降りてきて、気がついたら病院のベッドで、寝ていて、インフルエンザを悪化させてしまって、2週間入院しました。
6月になって又具合が悪くなって、腸閉そくで入院しました。
どこの先生でも、転ばないでくれ、風邪をひかないでくれと言われます。
なんで腸閉そくになったんだと聞いたら、痩せてるからで肥ってくれと言われました。
痩せていると患った時などに治りが遅いです。
風邪にかからない様に、去年あたりから手洗いとうがいは絶対欠かせません。
毎年4月と8月は国立演芸場の責任を持たされているので、8月は三遊亭圓朝師匠のものをやることで、4月は変わったものをという事でした。

塩原多助一代記の「青の別れ」をやりましたが長いんですが、今年は多助が出世して店を出すまでをやりたいと思っています。
財産を埋めてておくだけでは何の役にもならないので、掘り起こして見て頂き、聞いていただいて財産は生きると思うんです、話を残すのも噺家の責任だと思っています。
三遊亭圓朝師匠のものは古いので自分なりに脚本を書かなければ行けないし、残っているのは三遊亭圓朝師匠の全集と昭和の名人と言われた師匠連中の音が残っているので、私は三遊亭圓朝師匠の全集と昭和の名人の師匠連中の音を参考に自分なりの三遊亭圓朝を考えていかないといけない。
残していかなくてはいけない、自分で選んだ道ですから。

おばあちゃん子だったので、芝居を見につれて行ってもらったが寄席に入った覚えがないです。
芝居の合間に漫才とかがあって、そういったものの方が面白かったです。
昭和20年代で暗い時代で、NHKのラジオで1週間に2回、寄席の番組があり、それをかじりついて聞いていました。
世の中笑いだなと思って、絶対噺家になろうと心に決めたのが小学校4年の時でした。
しつけは祖母からは厳しくしつけられました。
(お茶の入れ方、畳の端を踏まない、着物の畳み方、言葉使い等)
噺家になりたいとお祖母に言ったら考えこんでしまった。
相談してやりたいことをやらした方がいいと言う事になり、結局古今亭今輔師匠のところに行く事になる。
学校に通いながら師匠に習ったりして、見習い期間が無くて、学校卒業していきなり前座でした。

前座には大勢いますが90%は大学卒業です。
今輔師匠は厳しくなかったです。(掃除などはさせられなかった)
芸にたいしては厳しかった。
最初、歌舞伎を見ろと言われ、見ました。
話の間、何かのきっかけ、鳴りものを覚えろと言われました。
形、煙草の吸い形、身分、歳によって吸い方が違うのでそういったものもよく見ろと言われました。
見るもの聞くもの全部が落語だと思えと言う事が今輔師匠から言われた言葉でした。
前座の終りの頃、「江島屋騒動」を鳴りものを含めて教えてもらいました、
古典を継承させたかったんだと思います。
二つ目当時、今輔師匠には不満が無かったが、協会に不満があった。
予備、高座に上がれなくて、穴があいたら高座に上がれるが、二つ目にそういう事が多かった。
そういうものに不満があり、5~6人で協会に抗議しようと言う事で、給金が物凄く安くて、飛びだして振り向いたら誰もいなかった、私一人でした。

約2年近くブランクがあり、或る方が中に入って今輔師匠のところに謝りに行きました。
結婚していて、娘の赤ちゃんもいた時でメッキ工場に務めたり化粧品のセールス等をやって食いつないできましたが、大変貧乏していました。
おかみさんからも怒られまして、一遍飛び出したものを家に置くわけにはいかないので米丸さんの弟子になりなさいと言われました。
今輔師匠も若い時私と同様なことをやった様です。
米丸師匠には随分助けられました。
自分の子供が増えたと思えなかったら弟子を取るなと今輔師匠からは言われました。
私は弟子には自分の責任は自分で取れと言っています。
我々噺家は職人という気持ちをもたなかったらやって行けないと思っています。
周りから助けてくれることもありますが、最後は自分の努力だと思います。
苦労しないで楽をしようと思っても無理ですよ。












2016年4月28日木曜日

柳原尚之(料理研究家)     ・和食を世界に(後編)

柳原尚之(近茶流嗣家(きんさりゅう・しか)・料理研究家) ・和食を世界に(後編)
次の訪問国ブラジル 日系人が沢山いる国で日系の方々にいろいろ助けて頂きました。
サンパウロ ブラジルの食文化を試めしたかったので大都市に行きました。
アニェンビー大学 調理科で講義、実演、試食を行いました。
ポルトガル語を勉強してこなかったので通訳をしてもらいました。
食の一汁三菜と良くいいますが、バランスのいい食材、普通海外の食事は1回の料理で7~8種類の野菜などを食べるが、日本では14~15種類の食材を食べるのでバランスがいいわけです。
お祭り、正月などの行事食も教えました。
料理に願いを込めると言う事は外国ではないです。
どうして黒豆を食べるのか、まめまめしく、健康的に、という事を英語でしゃべるのは難しい、今回は通訳をお願いしましたが。
そういった話に感激していました。
実演では真鯛が入るので、昆布しめにして刺身盛り、寄せ卵のお椀をだしました。
小池さんという現地の方に食材の仕入れから、試食の用意などもしてもらいました。

クリチバ(サンパウロから飛行機で1時間位内陸) 日系人が沢山いました。
婦人会の皆さんに料理教室を開きました。
30人と聞いていて食材等を用意したが、蓋を開けてみたら60人位出席しました。
NHKTVを見ることができて、私のことを知っていまして感激しました。
筑前煮、いんげんの胡麻和え、茶碗蒸しを作りまして、試食してもらいました。
筑前煮はお婆ちゃんの味がすると言われて嬉しかったです。
マリンガ 日系人のお祭りがありました。
10日間開催 2万人の人口ですが、10万人が来るそうです。
開会式で紹介してもらいました。
ここでも学生、婦人会の皆さんに料理教室を開きました。
ブラジルは日本料理が作り易いです、大体日本の食材が入手できます。
豆腐、油揚げなど現地で作っています。
ブラジリア 日本学校があり、そこで日本語で講義をしました。
IESB大学でも料理科の生徒に講義をしました。
18~70歳位まで幅の広い学生がいました。

一時帰国して次にカナダに行きました。
トロント 総領事館で40名ぐらいのゲストが来て講義と会食をしました。
トマトとだしの話、トマトのスープみたいな煮もの、いぶりがっことクリームチーズ、レッドスナッパー(赤い鯛の昆布しめの刺身仕立て)、鴨丸(鴨のひき肉を丸めたもの)、大根の料理、さわらの竜田揚げなど、食材は主に日本の輸入のものを使いました。
最後のしめはそばにしました。
芸術家の人達のゲストの人たちがたくさん来ました。(ピアノのオスカー・ピーターソンの奥様も来ました)
和食談議をして嬉しい夜を過ごしました。
酒とバラの日々 "The Days of Wine and Roses"」 (曲が流れる)
ジョージブラウン大学でも講義をしました。
魚をさばいてもらったり、キャッチボール的な講義をしました。
教えてもらって作ったものをパック詰めにして、売ってしまいましたのには吃驚しました。
わさびを摺る方法も教えました、わさびは葉っぱの有る方から摺った方が鮮度がいいんです。

オタワの大学 カナダは英語圏とフランス語圏があるがオタワは両方です。
海外の料理は油と香辛料で味を決めてゆくが、日本料理は水と醗酵調味料で決めてゆくので、日本は軟水で硬水を使うと味が出てこない、水がいかに大事かを説明します。
海外でも柔らかいものを選んで使います。
軟水と硬水で使ったものをつくって、それぞれ味わってもらって、軟水の良さを知ってもらう。
カナダ産の松茸、ロブスターを土瓶蒸し、など現地での食材を使った料理を作りました。
現地にフィットした日本和食を残していかないと残っていかない。

アメリカ CIA(料理のほう) と二つ講習をしました。
魚の置き方 頭を左にすることなどを講義する。
4カ国回っていろいろ勉強になりました。
かつおぶし、こんぶの話をしてもこれは利尻昆布だとかを知っていました。
ただ写真でしか知っていない。
日本人も意外と和食を知らないで忘れてきている事を改めて思います。






2016年4月27日水曜日

柳原尚之(料理研究家)     ・和食を世界に(前編)

柳原尚之近茶流嗣家(きんさりゅう・しか)・料理研究家) ・和食を世界に(前編)
懐石料理の近茶流嗣家  嗣家というのは後継者という意味です。
柳原料理教室の副主催を務めています。
平成27年度は文化庁文化交流使として 8月から11月にかけてニュージーランド、ブラジル、カナダ、アメリカを訪ね、大学や高校を中心に講演やでデモストレーションを行いました。

雑煮は伝統的な江戸雑煮です、おすましに焼いた角餅、鳥、蒲鉾、小松菜、近茶流は海老が入ります。
近茶料理が200年前から代々伝わってきて祖父が近茶流と改めました。
東京農業大学の醸造学科、大学在学中は発酵食品学を学ぶ。
祖父、父も東京農業大学でした。
醤油、酒等醸造でないと出来ない。
卒業後小豆島の醤油会社の研究員として勤務しました。
実験と実際との違いを勉強しました。
オランダ帆船スワンファンマッカム号に乗船してキッチンを務める。
オランダ人主体ですがそのほかの国の人も多く乗っていました。
フランス料理が主体ですが、今の和食の仕事にも役に立っています。

柳原料理教室で日本料理を父と共にやっています。
2009~2013年まで東大寺のお水取りで練行衆(料理を作る隠者)を務める。
お坊さんは1カ月間東大寺の房にこもるのでその間精進料理を食べる。
ご縁があり中に入って精進料理の仕事をしていました。
3月に入ると本業に入るので、一日一食になるので食べる量、調理法も変わってきます。
前のメニューは昭和27年(食糧事情が悪かった)からずーっと同じだったが私が頼まれましてメニューを新たに考えました。
東大寺の江戸時代の文献などを見て昔に戻る様にして、品数も増えました。
2010年アメリカのカリフォルニア州にある大学で食の国際会議に参加。
日本の「だし」を英語で話しました。
39人のシェフが行きましたが、一番若かったです。
かつおぶし、こんぶなどについてどうしたら判り易く説明出来るのだとうかと自分でも勉強しました。
イスラエルで開催された寿司コンテストで審査員長を担当、2014年アメリカ フロリダ州で開催された文化庁、外務省主催の現代日本の工芸展で和食の専門家として現地で、講演、デモンストレーションをしています。
TV番組で料理の考証、所作指導を行っています。
文献を開いて料理を作ったりしました。

文化交流使 伝統芸能の方を選んで海外に派遣して日本の文化を広めてもらう。
2013年和食が文化遺産になり、料理の人を出そうと言う事になりました。
2013年は大学の先生、2014年は私が派遣されました。
3カ月行くわけで、日本のすべてを見せたいと思って、器なども選んで50人分持って行きました。
トランク4つと段ボール3つになりました。
学生さんたちに教えたいと思いましてニュージーランドが最初となりました。
4日間の和食講座で、一日は和菓子、3日間は和食。
1日目は日本の全体の文化歴史的なこと、2日目は実演(普通1時間だが4時間かけてやりました)
学生の手をもって包丁の操作などを教えたので喜ばれました。(外国では見せるだけ)
出刃包丁は魚をおろす、柳刃包丁は刺身を引く時の包丁なので薄くて細長くなっている。
切れ味があると刺身の劣化が遅くなる。(生臭さが遅くなる)

人が北を背に南を向いていて、太陽が上がるのが東で左に相当するので左に重きを置くのでご飯になる。 (南半球では違う事に気付いた)
鳥獣戯画の容器、塗りのお椀は人気があった。
同じだしでもスプーンで飲むのと口を直にお椀から飲むのも味が違う。
ニュージーランドは自分の中でも試行錯誤でした。
パーマストンノース 中学と高校が合わさった様な学校で5年生の学校で講義。
クイズ形式でやりました、日本で食べたいものを5つ?(寿司とか)、これはなんの機械か、4択?(流しそうめん) うどんの話をして「だし」の話にもって行きました。
よせ卵のお椀での試食もしました。
首都ウェリントンでの講義、ヴィクトリア大学では飲食ができなかったので一口のだしを飲んでもらいました。
皆さん、いい香りですと言っていただきました。
今は当たり前のように生の刺身を食べるようになり、日本の味にも慣れてきている様に思います。
ウェリントン工科大学では魚のおろし方に特化して話ました。
ニュージーランドは島国なので新鮮な魚が手に入りますので、魚のおろし方がいいのではないかと思い、ほうぼうが手に入ったので刺身の薄作りにして出しました。
教えると日本人は同じようにしますが、盛り付けになると自由に盛り付けていました。






2016年4月26日火曜日

水谷八重子(女優)       ・いつも輝いて(後編)

水谷八重子(女優)       ・いつも輝いて(後編)
映画デビュー 1957年 「青い山脈」 いきなり中津川に連れて行かれました。
アフレコでした、撮影の事をあまり知りませんでした。
踊り、日舞は6つの時に花柳流の家元に弟子入りしましたが、直ぐ戦争になり疎開しました。
あまり日本舞踊は好きではありませんでした。
ダンスは好きで自分でもできると思って3週間アメリカの学校に行ってみたりしましたが、クラシックという基本があって初めてジャズダンスをやる、プロのダンサーになるためにはあくまでもクラシックの基本が大切で私には遅すぎるという諦めはありました。
草笛さんの番組(1961年)に出た時には踊りが出来るところだけをなんとか撮ってもらって、その後日劇でショーダンスができるようには成りました。
同じ1961年 NHK放送「若い季節」に出演(3年間)ビデオに移行する段階だったが生放送だった。
生放送だったのでハプニングがいろいろありました。
台本の遅い小野田先生だったし、生放送だったので余計大変だった。
穴を空けずによく出来たと思いました。

その前の「お父さんの季節」で黒柳さんと一緒だったので、その頃からお付き合いをしていました。
黒柳さんが紅白歌合戦の司会をした時に歌手として出演しました。
ミュージカルの曲は皆さんが知らない曲が多くて、皆さんが知っている曲を自分で消化して歌えたらいいなあと思っています。
最近10年朗読にも取り組んでいます。
住大夫先生の素浄瑠璃を聞いた時に、語りを聞いているうちにドラマの風景が見えてきた。
もし朗読が住大夫先生の様にお客さんが思ってもらえるところまでいけたらいいなあと思います。
朗読もやりたいという欲望があります。
CD2枚組の朗読の作品。
読みあげてくるとリズムがあり、自然と読みなれてくるとリズムに乗っていける。

樋口一葉の「大つごもり_」という作品も毎年12月に続けています。
明治時代の作品は日常とは離れてしまっているので難しい、言葉が細胞と同じ、日々入れ替わっていきますので時代に依りイントネーションが違うので、明治、大正、昭和の時代を舞台にしている新派はそういう日本語の勉強を常日頃勉強していないといけないと思っています。
同じ言葉でも時代によってアクセントとか使い分けをしないといけない。
使われなくなった小道具の使い方を使って、出来ると言う事を勉強していかなければならない。
そういったことを伝えていかなくてはいけない。
たすき掛け 自然に動作できるようになるまで、たすきを渡して練習してもらって本番では自然にうまくできるようになりました。

欧米化してゆく生活の中で新派を観て、故郷のおばあちゃんちに帰ってきたようだと言う気がしたと思っていただけたらしめたと言う様な感じです。
久保田万太郎先生の作品をこれだけ持っている新派なので次に繋げてゆくという役目を持たされて当然だと思います。
リュウさん(冬のソナタ』のテーマ曲を歌う)との共演の歌「キッス」
今年も舞台が続きます。






2016年4月25日月曜日

水谷八重子(女優)       ・いつも輝いて(前編)

水谷八重子(女優)       ・いつも輝いて(前編)
昭和30年に女優デビュー、その年レコードも発表し、歌手としてもデビューしました。
映画、舞台、TVと幅広く活躍しています。
平成7年に2代目水谷八重子を襲名しました。
去年芸能生活60周年を迎え忙しい日々を送っています。

正月は唯一のお休みですが、2日が初芝居の初日と決まっているので、前日も落ち着かない。
昭和30年に女優デビュー  芸能生活60周年 2代目水谷八重子を襲名してから20年。
襲名直後 良重と呼ばれるが判っていないと、ちょっとカチンと来た時もありますが、しばらく時がたつと「良重ちゃん」と呼ばれると、あの女優を覚えてくれていたんだと喜びに変わりました。
新派を次の世代に渡していかなければいけないと言う役目を背負ってしまいました。
新しいCDを2枚、本も出版しました。(そのうちの一枚は1978年のレコードのもの)
新しい一枚はスタンダードジャズを集めたもの。
1950年代の曲ばっかりを集めてみたものです。
解説は湯川れい子。
「先生のお気に入り」 ドリス・デイの声を聞いてこうなりたいと思った。
旗照夫さんと一緒に歌いました。 (曲が流れる)

1955年8月5日がレコードの発売日、歌舞伎座の新派公演初舞台が同じ8月5日でした。
親の七光りでと、ずーっと感じていたんですが、新派は新劇運動を母がやっていて、一番その時代の先端のものを取り入れていたティーンエージャーが私でした。
勝手にその役の衣装を選んで着たんだから、翌日違う衣装でいいのではないかと変えようとしたら、母から舞台のルールを勝手に変えてはいけないと厳しく怒られました。
小道具の扱いにしても厳しくしつけられました。(舞台は戦場だと教えたかったと思います)
初めての時代劇は長谷川一夫先生に預けられましたので、映画が最初でした。
時代ものの着物は初めてでした。
この角度が一番似合うだとかを映画では、いやでも学んで行きました。
女は女の線があるからいろんなものを巻きつけて平らにしてしまったら、女が女形のマネ事をしてどうする、女の曲線が着物の上からでも自然にみえるのが女優だと、長谷川先生から言われて、詰め物は一切しなくなりました。

LPレコードを「ATASI」というCDする。
新派の名作のヒロインを歌で綴ったもの。
越路吹雪さんから歌詩に私と書いてあっても「わたし」と歌うと色気がないので、「あたし」と発音しなさいと言われた翌日に母から私のセリフで「わたし」は硬いから「あたし」と言いなさいと言われたのが同時期だった。
そういう事で「ATASI」にしました。
女系図から「あなたがいれば」 (曲が流れる)

仕事の話は一切家に持ち帰らないので、家では母からは直接言われませんでした。
舞台の事を「お舞台」と母は言っていました。
国立劇場をお国の劇場と言っていましたが、歌舞伎しか出られないと言う事を知った時はしょげかえっていました。
母は「滝の白糸」で舞台に立つ事が出来た時は喜び輝いていました。
母は力んではいないのに良く通る声でした、ゾクっとくるようなセクシーな声でした。
声の質は母と似てると回りから言われます。



2016年4月24日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)     ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子”

奥田佳道(音楽評論家)     ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子”
映画やミュージカルなど様々なシーンで使われ、華やかな色どりを添えるクラシック音楽。
クラシック音楽の聴きどころなどを伺い名曲の数々を送ります。
3月 超絶技巧、リスト作曲  ラ・カンパネッラ ピアノ反田恭平演奏
ニコロ・パガニーニの遺伝子と題して、ヴァイオリニスト、ニコロパガニーニの音楽がどのようにクラシックに影響したか。
カンパネッラ=イタリア語で鐘
リストに影響を与えて、ピアノ曲に影響を与えた。
パガニーニは1782年にまれ、1940年に亡くなる。
パガニーニ作曲 ヴァイオリン協奏曲 第2番第三楽章 ロンド  ラ・カンパネッラ
当時のお客さんが驚愕した。
ヴァイオリン演奏のあまりの上手さに、「パガニーニの演奏技術は、悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ」と噂されたという。
パガニーニ風ワルツの名曲をヨハン・シュトラウスのお父さんが書いた。
パガニーニ風ワルツ」 ヨハン・シュトラウスの父作曲
ラ・カンパネッラがいかにウイーンではやっていたか、ラ・カンパネッラで踊りたかった。
最先端の曲で踊りたいと言う事が反映された、
ロシアのラフマニノフのピアノ曲 編曲

2016年4月23日土曜日

岩田美津子(ふれあい文庫代表) ・”理想の絵本”をめざして

岩田美津子(NPOてんやく絵本ふれあい文庫代表) ・”理想の絵本”をめざして
視覚に障害がある岩田さんは子供に絵本を読んでと言われ、試行錯誤のうえ指で触って楽しむ絵本を考えだしました。
絵本が増えるに従って他の視覚障害者にも絵本を貸し出すために文庫を作り点字で読む絵本の輪を広げてきました。
見える人見えない人が同じ絵本を楽しめる日が早く来るように頑張る岩田さんに伺いました。

私自身が全盲で母親になった時に何気なく絵本を与えましたら、私に読めという仕草があり、1歳半の時で、絵本は親に読んでほしいものだと初めて知り、絵本にかかわるきっかけになりました。
夫も非常に弱視で本を読めるような状況ではありませんでした。
自分自身で読んであげようと思っていて、他の人に読んでもらうという発想はなかったです。
透明なビニールシートを普通の絵本に重ねて点字があれば読めるようになるのではないかと考えました。
絵を判るには、透明なビニールシートを絵の形に切ってやれば輪郭が判ると思って試しました。
色彩は判らないが、形を触ることによって子供はここを面白がっていると言う事が、なんとなく伝わってきます。
1冊目が出来た時には長男が5歳になり、ボランティアの人に作ってもらった本を郵便で送ってもらって、子供にポンと渡しました。
親は読めないと思っていたので、点字もあり、子供は大喜びでした。(5歳と2歳がいました)
こんなに読んでもらいたかったのかと感動しました。

改良しながら本の数が増えていきました。
子供の為に読むことで無我夢中でした。
2,3年経つと100冊近くに溜まり、本を選ぶ喜びもありました。
友人に話をしたら、他の見えないお母さんに貸してあげたらと言われて愕然としました。
自分のことしか考えていない自分に愕然としました。
他の親子にも読んでもらいたいと思って、貸し出すための本だと意識は変わったがどうしたらいいか判らなかった。
手始めに視覚障害の友人の2,3人の人に貸し出しました。
資金の問題も出てきて、助成金の為の書類を書かなければならなくて、なんとか助成金をもらえる様になりました。
年齢により対応できる本の種類の問題もあり、それにも対応してゆきました。
昭和59年、マスコミにも取り上げられて情報が広がりました。
そのころから資金、ボランティアの提供が来るようになりました。

1000冊までは場所が無くて家具を放り出して、絵本だらけになりました。
そのうち本屋に泣きついて、2年世話になりました。
点字の本等は無料で郵送するので点訳絵本も無料で郵送できると思ったが、郵政省は駄目だと言う事でした。
透明なシートが張ってあるので見える人が普通に利用できるという事と、絵本を読んであげる人は目が見える人ではないかという事が理由だった。
実績を作るしかないと思って、企業の支援を得ながら3年間必死で貸し出しを増やす努力をしました。
郵政省に文章にして改めて掛け合って、帰ってきて、新聞社の知り合いが取り上げてくれて、記事を見た国会議員が、国会で取り上げてくれて、郵送料が無料になりました。(昭和62年)
それがなかったらいまの文庫は無かったと思います。
メディアにも取り上げられて、さらに資金、点訳のボランティア等の提供が増えました。
ボランティアの人も30人になり、そこからボランティアと関わる勉強が始まりました。

1996年にプロジェクトを作って「ちょきちょきちょっきん」を自費出版しました。
透明な樹脂インクを使って盛り上げて点字を作る機械があることを知りました。
透明な樹脂インクを使って絵を盛りあげることはできないかを尋ねたら、心を動かしてなんとか試作品を作ってくれることになりました。
発行元、ふれあい文庫 販売元は一緒にやってくださった出版社にやっていただきました。
8000部位出版しました。
それから6年後に次を出版することになりました。
出版社に集まってもらってどうしたらいいかを話をしてもらいました。
この類の本は儲からないが一種の社会貢献の様な意識があったのではないかと思う。
どうしたら広がらないのか、2002年に集まってもらいました。
情報交換からスタートしました。(録音中途で終了)












2016年4月22日金曜日

中西正司(ヒューマンケア協会代表)・障害者とつくる暮らしやすい街

中西正司(ヒューマンケア協会代表) ・障害者とつくる暮らしやすい街
今年四月から障害者差別解消法が施行されました。
障害がある人も無い人も同じように暮らせる社会を作ることを目的としています。
中西さんは昭和19年東京生まれ 71歳 大学3年生の時に交通事故に遭い脊髄を損傷し、車椅子生活となりました。
昭和61年 仲間と共に東京八王子市にヒューマンケア協会を作りました。
ピアカウンセリングと言う障害者自身の手に依る自立生活をするためのマニュアルを作り障害者が社会で普通に暮らせるような運動を進めています。
平成2年にはDPI→ 様々な障害者団体が集まる世界組織の事 DPI日本会議の議長に就任します。
駅にエレベーターを設置する運動を進めました。
この運動を契機に障害者、高齢者にとって暮らしやすい街作りが行われるようになりました。
障害は環境に依って作られる、とおっしゃる中西さんは障害者差別解消法に依り、障害のある人と無い人との真の共生社会に近づく事が出来ると期待を寄せています。

DPI 今年はエジプトで行われた、アラブリージョンの新しい支部ができてお祝いでアラブでやりたかった。(DPI Asia and the Pacific Region=DPIアジア太平洋ブロック評議会)
世界中の障害者サービスが随分向上しました、DPIの成果だと思います。
障害者は自立して生活をしなければいけない、これが一番大きな狙いです、自分の経験から発している。
大学3年で交通事故で首を折って、家族に面倒を見てもらいながら7年間家で寝たきりの生活をする中で、医者も半年で死ぬから好きなようにさせてやるようにという様な生活でした。
その間どの様に社会に貢献しようかと、こんな自分が生きていると迷惑だろうと、罪の意識を感じて、生きている意味を問いつめてゆく。
哲学、思想、歴史の本等を読みあさって、どういう考え方で生きればいいんだろうと、思った。
アメリカでは障害者はリハビリを受けて、暮らしていて、地域の中で生活して、普通の生活を送っている事を知って、日本でもそういう風に介助を受けて暮らしてゆくことは可能だろうと思った。
洋服の着替えに1時間で自分でやるよりは介助に依り、10分で終わらせて社会貢献した方がいいだろうと言う考え方があった。
その方が良いだろうと思想革命がアメリカから起こってきた。
第二次世界大戦でアメリカは大勢の障害者を生みだしたので、、出来るだけ高待遇で迎えようとした。

障害者用の市営住宅として1階にスロープを付けて入れるようにしてほしいと要望した。
いろいろ生活に困ることを改善してもらった住宅がこれです。(八王寺市の市営住宅)
ヒューマンケアという日本で初めての自立化センターの職員が着替え、車椅子に乗せたり、歯ブラシ用意、食事用意等を40~50分で家を出て職場に行けると言う生活環境が作り上げられたので、普通の人と変わらない生活ができていると思います。
自分自身がこう言ったサービスを受けて、こういうサービスがほしいと声をあげないかぎりこういうサービスはできない。
利用者の声を聞かないと判らない問題は色々ある。
ハワイサミットでアメリカとの会議があったが、日本は介助者が付いて行って、アメリカでは介助者はいなくて、今では日本の方がよくなってしまった。
世界のトップレベルのサービスに日本はなってしまった、アメリカをすでに超えている。
美濃部東京都が率先して介助サービスを作った、介助の歴史は遡って、そこで方向転換した。

ピアカウンセリング 画期的な事業 障害を持つ事は違う人生を強いられるので、そのなかで自分なりの考え方、思想を持たないと生きれない。
生活技術的にも介助者に依存しながら暮らすことを余儀なくされるので介助者との関係をどう対等に持っていくか、決定するのは自分であって、それにサポートしてくれるのが介助者であると言う事にはっきりしない限りそこを乗り越えられない。
自分の要求は正しいことだと言う事を理解してもらわないといけないし、理解してもらう、説得する、そういったプログラムを行っています。
マニュアルは80ページのものを作っていて、優れているので8~10カ国語に翻訳されて世界に廻っています。
国内障害者団体にも増やしてきたので、全国にピアカウンセリングを通じて仲間を増やしてきたので、全国に派遣されて講習会を開いたりしながら広めてきました。
全国に128か所に自立化センターがありますが、同じプログラムを使っています。
アジア12カ国に広がっています。

駅にエレベーターを設置する法律ができたが、画期的なものでした。
15年前、DPIの日本会議の議長になった時に、知的障害者は駅の漢字が読めない、視覚障害者はアナウンスが無いと降りる駅が判らない、身体障害者は階段がある駅はエレベータが無くて列車に乗れないとか、困っていた。
日本の交通アクセスを替えてゆく運動をしようという事で、全国の障害者が動かないと駄目なので、全国の20大都市で一斉蜂起しようとして、全国の主要駅に集まろうとして、土日、祭日にやろうと、新宿から上野駅に行こうと言う事で、アクセスの一番悪い駅で、デモに参加してほしいと呼び掛けました。(新宿駅には300台の車椅子の人達が集まりました)
だれでも乗れるエレベータを駅に設置しようと運動をしました。
駅の職員が担ぎあげたり、一緒に行って上野駅でもやりました。
全国3000駅の内2%はエレベータがあるが98%は無かった。
段差などの細かいデータを含めて、毎年毎年10年間続けて報告しました。
7年目で国土交通省の職員がバリアフリー法を作って頂きました。
2000年の時に出来ました。

昔は文句を言われましたが、今は混んだ列車に乗っても文句を言われなくなり、意識は変わってきています。
データがなければ行政は説得できないだろうと思って、予算面で実現可能かどうかを問われると思ったが、市民の意識次第だと思って、かなりハードルの高い事業ではあるが、儲かる企業もあるし、実現可能ではないかと思った。
障害者は700万人と言われているが、1億2000万人の人を説得しなければいけないので、かなり無理なことであるが、市民も助かるので、車椅子でも入れるような街作りを推し進められ、道路の段差の問題、低床バスなど障害だったものが取り除かれてきました。
アメリカのバスはリフトがついていて、床面は変わらず階段がスロープに変わるが、故障が多かった。
日本で作る場合はどの方式がいいか、展示会をやろうと言う事になった。(メーカーは3社位)
3社で共同開発する事になり、製造コスト5%アップで済み、国土交通省が5%補助しようと言う事になって低床バスが実現しました。
障害になることは悪いことでもなんでもない、障害者は何故不便なんだと言う事で、教育問題、就労問題は障害者にたいする偏見や差別があるんだろうと、障害者は環境さえ整えば普通に働ける。
あとは社会側の問題だろうと、課題が移ってきたと思う。
福祉サービス、高齢者サービスの充実は日本社会自体からは変わっていかない問題だと思った。
変える手立てとして国連に障害者差別禁止法 障害者権利条約を作ってそれを元に差別禁止法みたいなものを施行してゆくしかないだろうと言う事で、アジアのブロック会議があり、DPI日本会議案としての権利条約素案ドラフトを持って行きました。
それが採択されて、国連の総会に臨んで私は提案しました。
DPI日本提案、Sキャップ提案の二つが基本になって世界の障害者権利条約が出来たんです。
運動なきところに変革なしと思っています。
障害者差別解消法がスタートしています。
社会にはハンディーを持っている人がいるので、社会が普通に対応しましょうよと、日本もそういう風にして、障害者にも不利が被らない様な社会を作っていこうという内容を含んでいるものです。







2016年4月20日水曜日

2016年4月19日火曜日

タケカワユキヒデ(ミュージシャン)  ・ゴダイゴ40年の軌跡

タケカワユキヒデ(ミュージシャン)  ・ゴダイゴ40年の軌跡
昭和27年さいたま市浦和区の生まれ 昭和50年東京外国語大学在学中にソロ歌手としてデビューし翌年ゴダイゴを結成しました。
ガンダーラ、モンキーマジック、ビューティフルネームなど ゴダイゴのヒット曲の殆どを作曲しました。
日本の音楽史に大きな影響を与えました。
昭和60年活動を休止してしまいます。
10年前本格的にグループを再開し、今年はゴダイゴ結成40年を迎えます。

40周年は凄いと思いますが、ゴダイゴはまだ20年目に入ったぐらいなので新鮮です。
4月22,23日に上野文化会館で大規模なコンサートが行われます。
合唱等含め全部で90人位のコンサートになります。
結成1年前にソロ歌手としてスタートしました。(東京外国語大学在学中)
ミュージシャンの人とのコミュニケーションがうまくいかなくて、プロデューサーがミッキー吉野がアメリカのバークレー音楽院を卒業して帰ってくると言う事だった。
会いに行く事が出来たが、バンドを日本で作って又アメリカに音楽を持って行ってむこうでヒットさせるんだとプロデューサーに話をしていた。
バンドの名前だけは決めていた様だ。(「ゴダイゴ」)
レコーディンブに来てくれて彼が入ると急にミュージシャンが良くなるんです。
アルバムができ上って、バックバンドを作って、一緒にツアーをしようと言ってくれて、「タケカワユキヒデとミッキー吉野グループ」となって1975年の半分ぐらい活動をする訳です。

アルバムが全編英語でオリジナルだったので、売れなくて、ミッキーから電話がかかってきて、一緒にやろうかという話になって1976年にバンド(「ゴダイゴ」)にしようと言う事になった。
デビューアルバムは全部私の作曲でした。
化粧品のCMの曲を受け持つ事になりました。
英語を持ってアメリカの音楽業界の中に戦いを挑んでいくと言う様な、ミッキー吉野の考えと私の考えがぴったり合ったわけです。
フォークブームと重なっていた時期でしたが、世の中の知識人は日本語のという方が嬉しくてしょうがなくて、方向が全く逆だったので理解してもらえなかった。
音楽家には受けたんですが、評論家には物凄く嫌われました。
評論家は頭で考えるので、今英語でアメリカを征服しに行く事はどうしても現実的ではないと捉えていた。
3~4年経つとイギリスのチャートには乗るわけですが、判りやすいメロディーでやってゆくフォークの方にみんな肩入れしたんです。
1978年TVドラマが大ヒットして「ガンダーラ」が注目される。
初めて出した日本語のシングルでした。
グループを維持することは大変だったんですが、ビックチャンスだと思ってヒットしなかったら解散だと言う事を決めて、出来る限りのことをやろうと言う事で、日本語でも歌おうと、TVも出来るだけ出してもらおうと、ちゃんとした身なりになろうと、いろいろやりました。

楽器なしで歌うのは初めてでしたが、ガンダーラは大変なヒットになってしまって、モンキーマジックは全て英語でしたが、これも大ヒットしました。
沢山ヒットしましたが半信半疑でした、理解してもらえなかった時期が長かったので、どこで気に入ったのか判らなかった。
世界でもヒットチャートに乗る様な曲も、西遊記のおかげでイギリス、オーストラリア、ニュージーランド等で乗りました。
1980年海外公演、ネパール、中国、アメリカ(ロサンゼルスの市制200年祭)でやりました。
ネパールは6万人が来て、国始まって以来との事でした。
日本からスピーカー等を持って行って初めての野外コンサートをやりました。
ゴダイゴと言うグループの事は知らず、口コミで広がった様だ。
凄く盛り上がって、いまだにネパールでは伝説になっています。

中国はみんな人民服の時代で、みんな行儀が良くてビューティフルネームを中国語でやりました。
最後に皆さんが立ち上がってスタンディングオベーションがあって凄かったです。
照明も日本から持って行ったが、むこうの照明の人と筆談でやって一緒にやりました。
ロックが初めて中国に流れて、感動してくれてやってよかったと思いました。
1985年結成から10年後、ゴダイゴが活動休止する事になる。
ものを書きたくて、小説を発表して、漫画の原作をしましたが、相手が子供の雑誌だったので、ギターのロボット(引っ込み思案のギタロウ)が自分を弾いて歌う。
インターネットでも展開する事をやったが、駄目だった。(相手が携帯もっていない小学校低学年)
私が書いたギタロウはベトナムで単行本になって発売されています。

教育論、若い連中は見る幅も狭いし、深さもないので、我々がサッと言ったことに対してどの程度理解しているのか、という事に関して難しいと思う。
どういう事を伝えたら一番響いてくれるのか、謎ですね。
講演はよくやるが、同世代に近い上下の人たちは何を言っても通じるが、若い人たちとの対話にはギャップを感じます。
1999年期間限定再結成をして、2006年(結成後30年)に本格的なゴダイゴとしての活動が再開された。
ゴダイゴは二つ目の家族の様な感じがします。
20年やっていない分、新鮮な感じがします。
お客さんも一緒に歌ってもらうライブをしようとしています。(メインをお客様に歌ってもらったり)
インターネットのブログで候補曲15曲あって、練習をしてもらったりします。
来て下さる年齢層はゴダイゴの時代の人達です。











2016年4月18日月曜日

垣内俊哉(車いすの起業家)   ・障害は価値あるものに変えられる

垣内俊哉(車いすの起業家)   ・障害は価値あるものに変えられる
27歳 愛知県生まれ岐阜県育ち 骨がもろく折れやすい骨形成不全という病気で小学校5年生から車椅子で生活しています。
高校生の時に歩けるようになりたいと、休学して手術とリハビリに励みます。
しかし術後の経過が悪く、自分の足で歩く夢はかなわないと知った垣内さんは絶望の中で自らの命を絶とうとした時もありました。
その後垣内さんは歩けなくても出来ることを探そうと猛勉強して大学に入り、出会った友人と 6年前に会社を興してバリアーフリーの地図を作る仕事をはじめました。
その後障害者のための商品の企画開発等業務の幅をひろげてきました。
誰もがストレスなく過ごせる社会を、2020年の東京オリンピックパラリンピック開催までに作りたいと取り組んでいます。
障害は価値あるものに変えられると3月に出版した著書にも書いてある垣内さんに伺います。

会社のテーマカラーとしてオレンジ色を統一して使っています。
車椅子に乗って生活していますが、視点の高さ106cmの高さ、この高さだからこそ気づける段差、不自由さ、不便さ、バリアーフリーという言葉で建物の在り方が考えられてきましたが、あくまで障害者の為だけでしたが、これからは障害者だけでなく、高齢者、子育て中の人、みんなの為に使いやすい建物、製品、ユニバーサルデザインという考え方が行きとどいた環境作りを進めていこうと、提言している会社です。
宿泊施設、結婚式場 、レジャー施設、交通機関などの使いやすさを変えてゆく、提案する事、ハードを変えてゆく事を行っています。
ハードを変えられない現状が多々ありますが、ハートを変えてゆく事はできるので、意識のバリアーを解消してゆく、ユニバーサルマナーを提唱しています。
2011年から障害者や高齢者との向き合い方を一つのマナーとして考えていこうという動きです。

障害者の人になんとなく向き合ってきた様に思いますが、例えば車椅子に乗って食事をするのか、椅子に移りたいのかを聞いた方が、正しい接し方です。
1万5000人の方が受講していただいています。
私の会社では障害のある人を採用しています。
視覚、聴覚に障害のある人が、それぞれの経験を多くの方がたにユニバーサルマナーをお伝えしています。
スマートフォンでも情報を発信していこうとしています。
バリアーは3つあると思います。
①環境のバリア
②意識のバリア
③情報のバリア
車椅子で入店できるお店は国内では5~10%と言われている。
この5~10%について情報発信していかないと行けないと思っている。
段差も1段なのか何段なのかとか、細かい情報が必要です。(1段なら車椅子でも可能)
クレジットカードが使えるのかどうか、視覚障害者にとって重要。(現金の使用は大変)

情報を集めてゆく事で行きたいところが行けるのか調べやすくなる。
理想としては世界中の地図に載っている建物に全ての情報がのっているところですが、2020年迄に日本全国100万か所の飲食店、ホテル等、様々な施設の情報が載っている、それをこれから協力してもらいながら集めていこうとしています。

幼少期はサッカーをしたりして遊んでいましたが、骨折は20回以上、手術は10数回と人生の1/5は病室で過ごしてきました。
「歩きたいいつかみんなと走りたい」 幼少期の川柳 (母から見せてもらった)
小学校は普通の学校に行きましたが、多くの反対はありました。
当たり前のように過ごせたのは母が何時まで経っても障害という事を持ちださなかった、本人が特別な存在であると言う事を周囲に見せなかった、ほんとうは辛かったことだと思いました。
母の存在は大きかったと思います。
5年生の時から殆ど車椅子での生活になりました。
牛乳を配ることは出来たのですが或る日遊んでサボっていた時があって、友人は怒られて私だけが怒られなかった。
障害者だから仕方がないと思われて、そうした壁があることを認識しました。

中学での通学路に段差があり、この段差を解消する事を学校の授業としてやってみようと先生がおっしゃって、市などに掛け合って予算を頂いて、生徒みんなで段差にスロープを付けると言う事を行って、これは非常にいいきっかけだったと思います。
修学旅行には母親が一緒に来ることにたいして、耐えがたい事だったので、2日目を一人で行く事を希望したが、先生に特別扱いしないと言う事が特別扱いする事になると言われて、言い返せなかった。
この時歩きたいと言う思いを強く感じました。
高校は4階建でエレベーターが無くて、友人に車椅子を持ってもらわなくてはいけなかった。
周囲を顔色をうかがいながら、生活する事に疲れてきた。
周囲の壁をあえて作るために、髪の毛を金髪に染め、ピアスをいくつも耳にいくつも付け、煙草も吸い、多くの人から離れるように壁を作ったのがこの時でした。
高校1年の時に彼女が車椅子を押してくれることにたいして、情けない、かっこ悪いと思いました。
デートした時に手をつなごうと言ってきてくれて、彼女にまで冷たい視線が送られてしまっては彼女に辛い思いをさせてしまうのではないかと思い、車椅子を片手で漕ぐのは大変だからと嘘をついて手をつなぐことを断った。
恋人なんだから手をつなぐのは当たりまえでしょ、それぐらい練習してほしいと言われて、一生懸命練習して、手をつないでデートに出かけるようになった。
或る日手をつなぐと言う本当の理由に気付く事になった。
坂道を移動している時に、車椅子だと段々遅れてくるので、彼女に引っ張られるようになる。
ここから自分で漕ぐと、繋いでいた手を離そうとしたら、車椅子を押すなとは言われたけど引っ張るなとは言われたことはない、と言われた時にようやく有難うと彼女の優しさ、サポートを受け取ることが出来ました。
車椅子に乗っている事が恥ずかしい、かっこ悪い、情けないと想っていましたが、こうした形で向き合ってくれる人がいることが、私にとっての一つの救いとなりました。

歩けない生活の限界を感じて、障害を克服したい、歩きたいという思いがあり、そのためには学校を休学する必要がありましたが、簡単には回りは同意する事はできませんでした。
高校1年冬、一人大阪に出てきました。
両方の足の曲がった骨を何箇所か切断してそれをまっすぐに繋ぎ直す、8時間のおおきな手術だった。
骨がくっつかなかったりして、このまま治療を進めていても歩くことは難しいと言われてしまい、生きる目標は足で歩く事、障害を克服する事だったので、絶望の淵に立たされるような状況になりました、17歳の6月でした。
病院の屋上から飛び降りようとしたが、柵をよじ登ることすらできずに、死ぬことも出来ない、ただ泣くだけの生きる希望のない無気力な日々を送ることになりました。
毎晩枕を押しつけ周囲に気付かれない様に病室で泣いていたが、向かいに富松さんがいて、声をかけてくれた。
いろんなことを話す様になって、自分の想いを伝えた処、登り切った景色を見たのか、まだ道半ばじゃないのか、まだやり切ってもないのに歩けないと決めてしまってもいいのか、人生はバネだと、今は縮んでいる辛い時間なんだろうと、いずれバネのように伸びる瞬間があるはずだと、だからそれを信じて今を乗り越えなさい、それからリハビリを一生懸命やっても歩くことはかなわなかった。
全力でやったからこれで諦めることが出来たんだと思います。
17歳の冬、足で歩く事は諦めて、歩けなくても出来ることを探そうと、新しい夢に向かって歩み始める事に、この時決めることが出来ました。

周囲から認められる存在になりたいと言う思いから事業を起こして、大儲けして、周囲にちがった存在として認めてもらおうと、自分で自分のことを好きになれたらいいなあと、思いました。
高校は退学して、高卒認定試験の勉強、大学受験の勉強をしようとしました。
偏差値も30台でしたが、1年間1日12時間位勉強して同級生と同じタイミングで登っていきたいと思いました。
車椅子では通えない大学もあるので、立命館大学は通える大学だった。
受験2週間前、車椅子が転倒して寝た切りで勉強して、受験当日は民間の救急車で運んでもらって、寝たきりで試験を受け、合格の結果を得ることが出来ました。
お世話になった方々からおめでとうと言われた瞬間は今でも忘れないです。
学費、生活費をまかなうためにアルバイトをしようと思い、ホームページを制作する会社に行く事になりましたが、パソコンで座ってする仕事かなと思ったら営業の仕事だった。
20軒程度しか回れなかったが、そのうち時間が経つうちに一番成績が良かったのが私でした。
車椅子で行くので行く先々で忘れられることはなかった。
社長から歩けないことに胸を張れ、車椅子に乗っている事でお客さんに覚えてもらえるのは、それは営業マンにとっては大きな強みだ、結果につながっている以上お前の強みだと言われて、その日の夜涙が止まらなかった。

歩けないからこそできること、それを日本中、世界中に広げていく事ができたらと思う様になりました。
大学の友人と20歳の時に起業することに至りました。
(地震情報の為、中途となってしまいました)

2016年4月14日木曜日

2016年4月13日水曜日

東 勝廣(彫刻家)       ・木の命を生かす

東 勝廣(彫刻家 飛騨匠根付会会長)  ・木の命を生かす
1944年生まれ 72歳 15歳で岐阜県飛騨地方に伝わる一位一刀彫の世界に入り、伝統の技術を磨いてこられました。
一位一刀彫は江戸時代飛騨のねつけ彫刻師松田亮長が一位の木の持ち味を活かし根付を製作したのが始まりと言われ、飛騨地方の伝統工芸品として茶道具や置物、面などが作られています。
東さんは木彫りによる写実彫刻一筋に57年、仏像や動物、歴史上の人物など数々の作品を手掛け評価されまさに飛騨の匠のお一人です。
材料の木はいちいのほか、けやき、にれ、つげなどさまざまありますが、中でも何千年もの間地中に眠っていた木、神代けやきから生み出された作品はまさに地球からの贈り物とも言えるでしょう。
長年木と出会い木の命を活かす技に取り組んできた東さんに伺いました。

幾重にも山並みが重なってる山ひだ 「ひだ」 「飛騨」という名前が出てきたと言われる。
最近は外国人が凄く来るようになりました。
飛騨の匠は、奈良時代毎年100人以上木工の仕事に出かけていったのが、飛騨の匠と言われ、そのおかげで税金などが免除されて、毎年交代で行ったのが飛騨の匠です。
唐招提寺とか古くから残っているお寺は飛騨の匠が建てた寺だと言われている。
奈良の橿原市には飛騨町という町があり、飛騨の匠がむこうに行って寝泊りしていたらしい。
一位一刀彫 江戸時代に根付が凄く発展した。
男のおしゃれとして、印籠根付がはやったが、200年ちょっと前に飛騨から松田亮長が江戸の平田亮朝という根付師のところにいって、根付を勉強して飛騨に還って来て根付を作ろうとしたが、つげは硬い木で、根付にはもってこいだがいちいは木が柔らかく、細かい細工はしにくいので、彫りをあっさりとして一刀一刀魂を込めて姿を美しく彫るのが一位一刀彫の特徴です。
いちいは平安時代、この木で神主さんが持っている笏木をいちいで作ったら、木目の美しさと、木の艶が素晴らしいので、[正一位]という「位」があるが、木の中では位が一番高い木なんです。

根付 水鳥 下に印籠が付いている 蛙がへばりついているのが彫られている。
木に「赤太(あかた)」、「白太(しらた)」があり いちいはそれがはっきりしている。
大きい彫刻では300~800年の木を使います。
根付は「掌の宇宙」と言われます、掌に乗る作品だが無限大に広がる宇宙を感じさせる。
昔労働をした後に煙草を一服する時に、煙草を吸いながら根付を見て、疲れを癒す力があると言われる。
明治時代になって、外国の人が日本に来て目を付けたのが根付です。
作品が海外に流れて行って、今でも凄い人気がある。

中学卒業してすぐにこの世界に入る。
幼稚園のころから物を作ることが大好きだった。
中学に2年の時に彫った根付、木の葉の上に蛙です。
一位一刀彫の師匠がいっぱいいましたので、一刀彫を習いました。
57年も続けてきました。
道具に柄を付けるところから始めて、道具を砥ぐことをやりますが、それが難しかったです。
本当に切れるようには3年掛かります。
彫刻に向くのはかつらとか硬い木があいます。
彫刻刀は100本以上あります。
等身大から小さなものまで彫るのでありとあらゆるものが必要です。
看護師の等身大の像がある。
芯は木割れが入り易いし綺麗ではないので、芯をはずして作りますので、大きな木でないといけない。

二宮尊徳像、大人の二宮尊徳を知っている人はあまりいないので彫りました。
「音もなくかもなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくりかえしつつ」という尊徳の歌があるが、音もなく香りはないが、常に天地自然は、人生の、人間何のために生まれてきたのかを繰り返し教えていますよ、という事です。
像は一位の木です。
タンニンを含んでいるので、彫った時はもう少し明るかったが、10、20年すると黒褐色になってゆきます。
聖徳太子像、若い太子で馬に乗って法灯を持って、世の中を照らすという意味で掲げています。
「和を持って尊しと成す」 その精神が今の日本人にも続いてきていて、今の日本の繁栄の元になっているのではないかと思います。
ナポレオンのポーズを思い、彫ってみたかった。
ソクラテス、20歳の時に「汝自身を知れ」という文字を見て、自分自身の事は何も判っていないことに気づいて、自分ほど愚か者はいないと気付いた。
或るときソクラテスの友達が神託で神様に聞いたら、ギリシャで一番賢いのはソクラテスだと言われた、その友達がソクラテスに言ったら、そんなバカなことはない、自分ほど愚かなものはいないと思っているのに、そんなバカなことはないと言って、王様、学者とかに聞いたら、自分の自慢話、知っている事は言うが誰一人自分のことを判っている人はいなくて、自分は愚か者だと気付いただけ人より賢いんだと神がそういったんだと気付いた。
そこが一番大事なところで尊敬しているところです。

神代けやき 今から2000~3000年前に火山が爆発したり、地震等で山が埋まってしまって何千年も土の中に埋まってしまっていて、水の中に埋まっていれば腐らない。
工事などで中から出てきた木を切って、出た時は普通の木の色だが、1時間もすると青っぽい様なグレーっぽい色に変わってくる。
彫り出してから空気に触れると腐りやすいが、その前に彫って乾かせば腐らない。
山車の宝珠台の亀と波の復元、重要文化財  12台ある。 八幡まつりと言って秋にやる。
山車とは言わず屋台という。
春祭りも12台ある。
一台一台 龍とか鳳凰とかに拘っていて、宝珠台に彫刻がなかったので30年前に、亀の彫刻を入れてほしいとの事で、亀は難しくて、7つ違った亀を彫ったんですが、今思うとよくやったと思います。
普通粘土で固めて作って、そのあと彫りますが、私は一切しないで、デッサンをして、それを型紙にして余分なところを取って、後はのみで彫ってゆくだけで奥行きは頭で計算して彫ってゆきます。

ミケランジェロが大きな大理石を見て、あの中に女神が入っている、それを彫りだすのが私の仕事だという有名な話があるが、彫る人の心がなかったら大理石を見ても木を見ても、それは出てこない。
木は宝だと思います、燃やしてしまえば何も残らないが、木を形にしてこうしておけば木が生きて何百年、何千年と生きるので、木を生かしていきたいと思っています。
いろんなものを彫ってきたが、人に感動を与えるものを彫りたいし、仏教的思想があるので自然の法則、宇宙の法則というか、仏法はそれに則ったものなので、そういう事が私の彫刻を通して観てくれる人達の心に伝わるものを彫りたいなあと思っています。
平櫛田中は百歳になっても、30年分の木彫材を保持していたと言う。






2016年4月12日火曜日

谷川忠洋(ちょうちん製造会社会長) ・職場作りは障害者とともに

谷川忠洋(ちょうちん製造会社会長) ・職場作りは障害者とともに
ビニール製のちょうちんの製造では国内のトップクラスのシェアーを持っています。
従業員14人のうち8人は知的障害の有る人達です。
会社で障害のある従業員を雇い入れたのは35年前のことでした。
最初は提灯作りの完成までの工程を教えようとしましたが、意思の疎通がうまくいかず十分に伝わりませんでした。
そこで谷川さんは工程を3つに分けて、流れ作業の製造ラインを作り、大分大学と共同で作業が簡単にできる器具を開発しました。
そうした努力が実を結んで健常者と障害者がともに働ける職場が実現しました。
谷川さんと従業員たちはどのように困難を乗り越えてきたのか、辿りついた新しい職場から生み出されているものは何か、伺いました。

基本は彼等に作業負担を少なくしようと、そのためにそれぞれのパーツに応じていろいろ工夫しています。
素材はビニールで作っています。
紙だと雨や風に弱いという弱点があるので、ビニールにしました。
販売促進、居酒屋さんなどでも使われます。
5年前にサザンオールスターズの復活コンサートとして提灯を受注しました。
年間25万個前後を作っていて、業界のトップです。
14人中8名が知的障害のある人です。
1981年に知り合いから相談があり雇用してほしいと言う事で5名一緒に雇用しました。
通常通りのマニュアルに沿って教えたのですが駄目でした。
或るとき私は鬼のように見えるとか言われたことがありました。
わたし自身の彼等に対する接し方が上から目線になっていたのではないかと、変えると共に工程を変えてゆく事を考えました。

①型組み、ひご巻き工程
②糊付け、生地貼り工程
③乾燥、型ぬき工程
この3つに分け、接し方も変えてゆきました。
覚えるのが苦手ですが、段々前向きに聞いてくれるようになりました。
集中力を長く保つ事が苦手なので、作業時間を工夫したりしました。
作業と検査、おやつの時間を取ったりしまして、集中力が高まりました。
どうしたら負担が少なくできるか、彼らの視点で物事を考える様になりました。
6年で半人前、10年で一人前大変だよと言われましたが、1年で戦力として育ちました。
提灯の型を作る時に大分大学の協力を得て、木の型だった物は以前は半年で寿命が来ていたが、アルミに変えて半永久的になり、作業も格段に良くなりました。
10数回現場に来てビデオに撮り持ち帰って学校で工夫していただきました。
材料もいろいろ検討されて、最終的にアルミに落ち着いた様です。

彼らが目も合わせるようになり、段々笑顔で話す様になりました。
技術だけでなく、人として成長したのではないかと思います。
15年前位から作業も早くなり品質もよくなりました。
言葉のキャッチボールも出来るようになり、その姿を見て彼等は成長したなあと思いました。
仕事をして行く上でのプレシャーとしては
①仕事を覚えないといけない。
②人とうまくやって行かなくてはいけない。
③8時間労働、通勤時間等で10時間と長時間拘束される。
この3つをどうやって負担を軽減するか、3週間の実習制度を設ける。
第二回目の実習も行う。
覚えるのが苦手なので、覚えるのではなく彼らが持っているものを引き出してあげる。
体験する事により、適性をみいだしてあげる。

大学生の時に、60年安保闘争の時でもありいろいろ悩んで、和辻哲郎の哲学書を何回も読んで、それが残り火の様にあったのかもしれません。
知的障害者の雇用の事があった時に、しなければいけないのはこういうことかもしれないと思いました。
最初はなかなかうまくいかないことが続きました。
巧く行かなかった原因の65%以上は私にあったと思います。
取り組み方を変えたりしましたが、実は私が一番変わったのではないかと思います。
まだまだいろいろ気が付いていないことがあると思う。
障害者の側から観る目で対応しないといけないと思っています。
彼らの余暇活動がまだまだと思いますので、この辺に注目して検討していきたいと思います。

地球温暖化の問題 ビニール提灯は石油からできているので炭酸ガスが出るので、再び紙に戻すことを10年前から考え始めて対応できる紙が出来まして特許を取りました。
ビニールと違って柔らかい光になります。
ビニールに近いくらいの強度を持たせることが出来ました。
提灯だけではもったいないので違う用途、別の商品に使えないかを検討しています。
人を増やす時は知的障害者を雇用して行きたいと思っています。

2016年4月11日月曜日

尾崎左永子(歌人)       ・うつくしい日本語をつむぐ

尾崎左永子(歌人)       ・うつくしい日本語をつむぐ
昭和40年代 夜の11時台に20年間続いたNHKのラジオ番組 夢のハーモニーのコメントや詩を書いたりしていました尾崎さん、今年米寿で歌会始の召人(めしうど)に招かれました。
17歳で歌人の佐藤佐太郎さんの門を叩き正統派の短歌の道を歩み始めた尾崎さんは、20代の半ばから放送作家としてNHKや民放の放送台本を書いて、耳から入る言葉を通して日本語を学び短歌の道からすこし離れました。
52歳で再び短歌の世界に戻った尾崎さんは現在鎌倉に住んでいます。

今年のお題が「人」 一字なので難しい。
現代短歌で統一されて読むのは昔の形のままです。
「駅いでて 交差路渡る人の群れ 温かき冬の朝の香放つ」
駅は東京駅のつもりです。
暖冬と人の温かさも思い、朝の香りはとてもすがすがしいと思いました。
ごく自然に出た言葉だったような気がします。
17歳の時に短歌の世界に入りました。(終戦直前)
15,6歳になるとお稽古をしますが、戦争でみんなできなかった。
書く事が好きで学校で詩を書いて褒められたりして、叔母が和歌がいいのではないかといって、紹介していただいた方のところに行ったが辞めて、佐藤佐太郎さんに習いたいと父に言って、添削をしてもらったのが、8月20日終戦直後でした。
3度も見てくれた跡があった、ペン、赤鉛筆、墨、誠実さに心打たれました。
「滝しぶきに 濡れつつさける紫陽花の 花の青きをさびしみにけり」
学生の時に「しろたへ」という歌集を見つけて見始めて絶対に師事するならこの先生にしようと思いました。

漢詩にたいして、古今和歌集の時に和歌という様になって、現代は短歌と言いますが。
文語の時代もありましたが段々口語になってきています。
作家の秘書をしばらくしていました。
昭和29年に30分のラジオドラマにしてほしいと言う事で話が来て、何とか書いたら、NHKから話が来てそれをきっかけに家を飛び出して、仕事をすることになりました。
日本放送、文化放送、ラジオ関東とかから話が舞い込みました。
自分ではドラマに向いていないなあと思っていました。
小説も書いていました。
表現法を覚えたのは短歌ですね。
ことばを切り捨ててゆくと言う事を習いました。
自分がものの本質を見てそれに自分が感動した時にばさっと切り込むと言う様な純粋短歌論を先生は言っていました、「単にして純」 よけいなことを言わず中心を表現する。
要らないことは切り捨てる、余計なことは言わない。

暮らし方も単純な方がいいと思います。
言葉は飾る人が多いと思います。
美しい言葉は飾る事ではなくて、削ることです。
話し言葉は地方地方で綺麗だと思います、その土地の言葉、土地の霊が宿っているような言葉は綺麗だと思います。
短歌は響きを意識しないといけない、一番大事な心ををつたえるには歌でやり取りしている、セレナーデですよ。
率直に言わないと伝わらない。
削り取って、存在感があって、純粋で、透き通った言葉はいい言葉だと思います。
原稿を書くときは音を意識して書いています。
読みやすいとよく言われます。

「夢のハーモニー」 伝えたかったイメージは言葉の音で伝える感じ。
区切り 息使い、息苦しい文章は自分も息をつめて書いていると思う、普通の息の方が読み易い。
長い文章は頭で書いていると思う。
「蔵王」は昭和36年に作詩しました。
主人がハーバードに研究留学で先に行っていて、アメリカに行って面白かったです。
しばらく歌とは絶縁しようとして古典をやろうと思いました。
日本に戻ってきて崩れていると思いました。(昭和40年代)
日本語を見直したいと思って源氏物語を取り組み、短歌からは17年やめました。
52歳から短歌を再開しました。(同時に鎌倉に住むようになる)
撫村が好きで、色彩的、絵画的なところがあります。
実朝後鳥羽院の事を書きたい。
磨かれた言語、一番磨くべきなのは短歌だと思いますが、今ある短歌を見ると、ちっとも磨かれていませんが。
古典がマンガになってきていて、マンガ大賛成だと思います、見直されてくると思います。
連載を受けるかどうか、迷っているが実朝と後鳥羽院の事を書きたい。


2016年4月9日土曜日

岸野亮哉(僧侶)        ・”いのちのあかし”を伝えたい

岸野亮哉(僧侶)        ・”いのちのあかし”を伝えたい
41歳 京都にある寺の副住職で東日本大震災の発生直後から被災地に入り、支援活動を行ってきました。
今も月に一度は被災地を訪ねています。
避難生活を続ける人々が心にためている想いを聞き取っては記録してこれを広く伝える活動にとり組んでいます。
大学で仏教を学んだあと、写真家としても活動しました。
海外で起きた災害の被災地や内戦で混乱する紛争地域にも出かけ現地の様子を記録してきました。
困難な中で生きている人々の想いを多くの人に伝えたい、東日本大震災の被災地に通い5年の歳月で見えてきたものを伺います。

夕がたごろ会議が終わって、東京の映像で、煙が上がっている映像があると言う事でTVを見たのが地震を知った瞬間でした。
東北地方を中心に沢山の方が困っておられて未曾有の災害であることを知った時に、温かい食事をしてTVを見ている状態ではないと思いました。
副住職なので予定がなかったので、取り合えず現地に入って何をするべきか、向かおうと思いました。
友達と一緒に車に乗って東北の方に向かいました。
翌日の昼過ぎには福島の100km手前の高速道路に入口あたりまでは着きました。
車の中のTVで爆発の映像を見たので、今後どうなるか判らないので、引き上げてきて13日には京都に一旦戻ってきました。
阪神淡路大震災の時に現地に何度か入ったこともあるし、2004年12月にインド洋津波の時にセイロン島に2005年2月に入ったこともあるので、現地に入って何をするべきか、考えた経験があるのでそれで入ったと言う事が大きいです。

阪神淡路大震災の時は京都から神戸は車で行けるので1995年2月、ワンボックスカーに物資を積んで運びましたが、その時の光景は忘れないです。
ボランティアでとある中学校に紙芝居をしに行きましたが、今回の東日本大震災が起こる前後に箱の中から一通の手紙が出ていて、「紙芝居は面白かった、次の日曜日も来てくれるのか?来てくれたら一緒に写真を撮ろう、返事待っている」と言う事が書いてあった。
あの子だと思ったが返事を書いたかなあと思ったが、自分で出した記憶がなかった。
結局どこに住んでいるのか判らず、申し訳ないと言う思いと同時に、岩手に行く大きな力になっている事には間違いがないと思います。
その時の反省をし、今回はそういったことがないようにしようと言う事を、もし本人にあったら伝えたいと思います。
仮に相手が手紙を書いた事を忘れていたとしても、わたし自身許されることではないと思っています。
人間不信になったのではないかという原因を作ったのかもしれないし、そういった罪の深いことをしたということの反省は本当にあります。
彼女から頂いた手紙を手帳に挟んで何時も現地に行くときには持って行っています。

地震発生から8日後3月19日に避難所になっている陸前高田の寺に行く事が出来た。
40人ほどが避難していて、持ってきた支援物資を渡しました。
停電していて、真っ暗で道も所々で通行止めになっていてよく到着できたと思います。
ガソリンを少し持ってきたことを伝えると歓声が上がり、これは凄いことになっていると思いました。
友達に募金を募って3月は何回も往復しました。
間もなく60回になると思います。
友人から「岸野さんあなたしかできないことがあるだろう」と言われて、地元の和尚さんも安置所のお勤めをしたいけれども出来る状況ではない、忸怩たる思いがあるに違いないと思って、安置所のお参りをさせてもらいました。
最初は頼まれたわけでもないので、他の地域のお坊さんが安置所に行って手を合わせることがどうかなと思うこともありました。
一番衝撃を受けたのが、身元不明の遺体が沢山あって、数え切れない。
聞くと305という事でした。
今回の震災で一体いくつの命が亡くなったんだろう、と思いました。
家族を探している人もいるんだなあと言う事を知った時に、ここにいらっしゃる方からすれば大切な方なんだなあと思いまして、手を合わせるときは、探しておられる方の分も手を合わさせてもらったと思います。

荼毘に付される前の身元不明の棺へお経をあげていた時に喪服を着た家族の一団を目にして、この出会いが被災した人たちの話を聞く活動の入り口になりました。
或る家族が、身元不明の御遺体と聞いているのに、なんで喪服なんだろうと思って、えっと思ったが、娘さんが花を持っていたが写真がないという事でした。
携帯の中に写真があることが判り、棺に携帯を置かれて、荼毘に付しました。
先方から話をしてくれて、棺に遺体番号が付いてましたが、一個人として名前がありどこに住んでいてどういう風な人柄だったのか家族の方から聞く事によって、偶然の出合いではあるが、一人亡くなった事はこういう事なんだと思って、亡くなられた方を記録する事は大切なんだろうなということは、家族とのやり取りの中で実感しました。
一の関の五輪寺を拠点に9月から東北の被災地を回っています。
5年間毎月の様に京都から通い1週間ほど被災地を回っています。
吉田さんは60歳で視力を失い、家と生活を流されました。
現在娘と一緒に住んでいます。
死にたくない人が無理やり死んで、私たちは生かされたというか、生きたんだからね。
先がどんなことが待っているか判らないから夢もあるわけです。
聞いていて将来への不安が見え隠れする。
仮設住宅、家の再建で、環境が大きく変わるので、又一から人間関係も作っていかなくてはいけない。

高校生の時からの彼女のことを聞いていて、自分達の悲しみ、苦しみを知ってほしいからしゃべるのではなく、岸野さんに話をすることによって、それを通して減災や防災の事を考えてほしい、なにか話を聞いている人にとって役に立ってほしい、役に立つ事が一つでもあれば私はしゃべりますと言ってくれました。
今回の災害は2万人の命が亡くなった一つの災害ではない、一人の失われた命が2万人いる。
その死を悲しんでいる人は更に沢山います、という事を彼女が高校3年生の時に話してくれました。
口に出すのもおぞましい、という方もいると思います。
こういう悲しい思いをするのは自分達だけでいいんだと、他の人にはだれにも味わってほしくないと言って下さる人もいます。

大学生の時に体験した阪神淡路大震災、海外の紛争地に出掛けた写真家としての体験。
様々な国や地域へ向かったのは悲しみや苦しみを抱える人々に宗教は何ができるのかを自らの体験で確かめて、将来僧侶として人生を歩む自分自身を磨きたいと考えたからでした。
9・11テロ事件の時、この寺にいましたが、これは本当のことなのかとおもいました。
人々の幸せを願うはずの宗教が、違った宗教、異なる考え方を持つ人に対して排除、暴力をふるっていいのか、イスラム教の人とはそういった教えを持っているのかとの思いがあったが現地には行けなかった。
2003年3月イラク戦争、イスラム教の人達の生活、考え方、文化を知りたくて、2003年7月に3週間行ってきました。
画家のグループと知り合いになって、2週間一緒にいろいろなところに連れていってもらいました。
その中で決してイスラム教徒の人達は何も他者に対して排他的な人達ではない。
ウサーマ・ビン・ラーディン、サダムフセインはどうかと聞いたところ、真のイスラム教徒ではない、なぜなら人を殺したから、イスラム教徒は人を殺したらいけないとはっきり言っています。
キリスト教徒もバクダットにいますが喧嘩をする訳でもない。

岩手の仮設住宅で80代後半の人から話を聞いた時に、戦争中に陸前高田の機銃掃射があったと言っている。
釜石には製鉄所があり艦砲射撃があることは知っていたが、なんでだろうと思った。
郷土資料などを調査するとそういった記載があり、急に戦争が身近になった。
母方の祖父は昭和16年に戦地に赴き、生きて帰ってきた。
母が生まれ、もし祖父が戦死していれば私の命はない。
戦争体験の話を聞いて、自分だけ生き残って申し訳ないと言って、命があって、70年もたつのに未だに苦しんでいる。
この方々の話を聞いて、自分の人生にも繋げていかなければ行けないし、語り継いでいかないとその方々に申し訳ないと思いました。

小学校4年生で震災にあい、この春中学を卒業する大阪あゆみさん?から京都の小学生に向けたメッセージの収録
「私は震災を経験して命の大切さを感じることが出来ました。・・・
私は小学校4年生で被災に遭い、小学校1年生だった友達が家族全員亡くなってしまったと言う嫌なことがありましたが、それを通して命の大事さを感じたり、常日頃いっしょにいる友達が急に居なくなったら自分はどういう気持ちになるんだろうという事を深く考えることが出来ました。
みんなに大切にほしいのは、友達と、挨拶と、回りに自分の事を優しくしてくれる人、陰で自分を支えてくれる人を大切にしてほしいと思います。」

東北の被災地、戦争を体験した人達を回って記録した話が多くの人々の心の支えになることを願っています。
東北から変わると思っています、新しい思想、哲学、宗教等根本的な物の考え方価値観を変えてゆく様な人々になってゆくんじゃないかなと思います。








2016年4月8日金曜日

村田芳久(旅館経営)      ・桜にかけた私の人生

村田芳久(旅館経営)      ・桜にかけた私の人生
徳島県 吉野川市で旅館を経営、地元の街道に桜の木を植え続けて50年になります。
村田さんが桜の木を植え続けてきたのには深いわけがあります。
太平洋戦争の時に出征兵士を見送った山道が、戦後車道に変わった際、その道を戦死した村人の兵士を偲ぶ桜街道にしたいと思至ったからです。
昭和40年代に桜の木を植え始めておよそ50年、桜街道は 30kmにおよび、徳島県でも名だたる桜の名所になっています。

12月は気温が高くて、桜がちょっと様子がおかしいと思っている。
桜祭りは食べものはうどん、そば、お団子など、舞台を作って新国劇や歌の発表会などのイベントを考えています。
昭和11年生まれ 80歳 あっという間でした。
昔は人は沢山いて、畑をしていた時代で近くに東山銅山があり、1000人位が働いていました。
昭和16年出征兵士を送っていたが、父親が昭和17年にビルマ戦線に出征したのは覚えています。
山桜が枯れてしまったり、道に植えたらいいのではないかと、家の周りから、出征して見送っていったところ、展望台にも小屋を建てて、植え始めました。
お遍路さんの目を楽しませる桜街道にもなっています。
相手が自然の木なので苦労というような思いは無かったです。
出征の人達を偲ぶ想いが原点になっています。
日本が戦争に負けてしょんぼりして兵隊が帰ってきたり、父親が負傷して昭和18年に帰ってきました。

今の日本は平和だと思います。
あなたたちのおかげで今の日本があるんだと、ゆっくり見に帰ってくれと思っています。
植えた一本一本に思い出があります。
今年植えたのは、道路縁は痛みが早いので変わった種類のものを植えました。
約30kmにのぼり、約2000本になります。
出征兵士を送った高台に記念碑を建ててやろうと思って歌碑があります。
「国の為散りにし春を折々に帰りたまえよこの桜路を」という自分で作った句の碑文です。
赤紙一枚で出て行かなくてはいけなかった。
旅館の周りも桜のひろばの様になっていて、山道を登ってゆくと桜記念館があります。
12畳分位の小さい記念館です。
周りには枝垂れ桜が植えてあります。
桜の写真が飾ってあります。(桜の50年が判る様になっています)

初めのころは一般の方からは道路に木を植えて何をやってるんだろうと言う様な思いはあった様です。
妻が居る時には本当に忙しい時期でした。
冬場の一番忙しい時に抜けだしたりして怒られるが、段々怒られなくはなりました。
自分自身を信じてやっていたら、通る様になります。
関東、中国地方、等からも見に来てくれます。
後継は頭の痛いところで、若い人が継いでくれるか、誰か見てくれるのではないかと思っています。
どうしても一つやりたいことがあると思っているが、今時点ではまだ言えません。
人生振るかえると、これで言いんだと思いますが、桜にたいする今後の想いはあります。








2016年4月7日木曜日

玉村豊男(エッセイスト)     ・ブドウ畑で、寝そべって

玉村豊男(エッセイスト、ワイナリーオーナー)  ・ブドウ畑で、寝そべって
40年近くエッセー、絵画、講演、TV出演などに忙しい日々を過ごしてきました。
40代の半ばに長野県上田市の近くに農園を買って移り住み、悠々自適の生活を送るつもりでしたが、農園レストラン、ワイナリーまでオープンさせ評判を聞いたグルメファン等で連日にぎわっています。
これまで忙しく走り続けてきた玉村さんも古希を迎え、隠居を志願されるエッセー集を出版しました。
玉村さんが目指している隠居とはどのような生活なのか、伺いました。

標高が850m、北アルプスが見える。
引っ越して25年目になります。
血を吐いたりしたのがきっかけで、土地を探してここに来ました。
荒れていた土地でしたが、自分達が開墾したような感じで、600坪に500本の苗を植えてぶどう畑にしました。
0.2ヘクタールでしたが今は6ヘクタールになりました。
最初はワインは作るつもりはなかったですが、こんなことになりました。
58歳で1億6000万円借金をしました。
ワインはお陰さまで評価は高くなっています。
大学の時にパリ大学に奨学金をもらって留学しました。
学生食堂に行ってもワインがあり、そこで習慣がつきました。
今は毎日1本(私が3/4、妻が1/4)飲んでいます。

野菜も本当においしいです。
料理を自分でするのが好きで今でもやっています。
隠居をしたいと言う本を出版。
65歳になった時に、前期高齢者になって、ゆっくり自分のペースでやりたいとは若いころから思っていました。
人里から離れて田畑を相手に隠遁しようと思っていた。
朝は、今は6時には起きていて、夏は5時頃、日の出とともに起きています。
5~6時間寝て、昼寝を1時間ぐらいはしています。
夜中に起きることがありますが、いろいろ考えたりするのを楽しんでいます。
犬を3~5頭飼った時期がありましたが、今は柴犬一匹だけになっています。
散歩にはスマホを持って行く様に言われています、つまずいて倒れた時に対応できるようにという事を言われています。

電話は受けるタイミングを考えたりすると嫌いですね。
田舎に住んでいるとインターネットの普及は大きなものですね。
写真もきらいです、貰っても箱にしまって整理しないし、自分でも撮らないです。
風景画だけは写真を撮って描きますが、植物は実物を見ながら描きます。
父は日本画家でしたが、小学校上がる前に亡くなりました。(玉村方久斗
静物画を描く人が好きでイタリアのジョルジョ・モランディ、中世にジョヴァンナ・トルナヴォーニという女性の画家の静物画が一番好きです。
目の周りには植物、果物などがいっぱいあって、これが描きたいと思った時には他はほっぽらかして描きます。
隠居志願を本格化したいと思っています。
もともと自由業だけれども、一目見て判る様な恰好はしたくないです。

自分史は本の中で書いているので、書くつもりはないです。
日記もつけないです。
スケジュール表を作るのは好きです、大判のノートに20年近くつけていますが、スマホに最近は入れるようになってきています。
歳を取ってきて、どこかで身体的な感覚はずれてきているのかなあと思ったりします。
せっかちは治らないです。
私は死んだら速やかに火葬してもらって、その灰をぶどう畑に散骨してもらいたいと思っています。
ぶどうは人間と同じ位の寿命で20まで元気で実を付けるが、30位から収穫量が減ってきて、50~80位で代替えしてゆきます。
ワインには古い木の方がいいです、量は減ってしまいますが。
ぶどうの木は今25歳ですから、まだ先です。
これから美味しいワインができるので、続いて行くといいなあと思っています。

山に暮らす様になってから次の世代に引き継げる物は引き継いで、受け入れるかは彼等らの判断ですが、残して行ってやれたらいいなあと思います。
ワインに関して「ワインバレーを見渡して」という本を出す予定です。
勉強してもらってみんながワイナリーを作って貰って、一杯飲まして貰って、フウテンワイン老人みたいなものになりたいと思っています。
箱根の「玉村豊男ライフアートミュージアム」で新作原画展をやろうと思っています。






2016年4月6日水曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・占領期のラジオ放送 お便り特集

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・占領期のラジオ放送 お便り特集
兵庫県 粟津孝氏?70歳からの便り
小学校3、4年生の頃、私がラジオと出会った記憶、日々家族が楽しめる娯楽、ラジオ放送だった。
真空管ラジオが鎮座、「昼の憩い」が始まると昼ごはんになる。
この番組が今も続いている事に驚くと共に、郷愁を呼び起こす。
当時子供達は遊んでいるが、5時を過ぎると皆家に帰る、「笛吹童子」を聞くためである。
テーマ曲は今でも歌う事が出来る。
家族全員で耳を傾けた様に思う。

「笛吹童子」  作詩:北村寿夫  作曲:福田蘭童
「ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ 誰が吹くのか不思議な笛だ 
ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ  音も静かに魔法の笛だ
ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ  たんたんたんたん たんたんたんたん
野を越え山越え」
「ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ どこで吹くのか笛吹童子
ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ  金と銀の蒔絵の笛だ
ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ  たんたんたんたん たんたんたんたん
蒔絵の笛だ」
「ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ 誰も知らない笛吹童子
ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ  どこで吹くのか不思議な笛だ
ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ  たんたんたんたん たんたんたんたん
笛吹童子」



父が帰ると「お父さんはお人好し」「三つの歌」「二十の扉」などが定番。
狭い家なのでどこにいても聞こえることになる。

神奈川県 きたいもとえさん? 80歳
アナウンサー無しでは昭和史を語れません。
アナウンサー一人一人の個性、声が何時までも心に残っています。
昭和23年頃ラジオが入ってきたと思います。
父親はよく天気予報を聞いて仕事の話をしていました。
昼には「昼の憩い」が流れていました。
夕がたは学校から帰ると風呂の仕事をしました。
夜になると「二十の扉」を聞きました。
徳川夢声の人となりを想像する事も面白かった。
日曜日は「のど自慢」宮田輝さんを思い浮かべます。

高知県 かっとうこうぞうさん? 82歳
「カムカム英会話」を始めた。
テキストの下にカタカナの発音がしてあった。
中学生の私は毎夕6時からの放送を聞き逃すまいと、ラジオにかじりついていた。
学習経験はその後予想外に発展した。
かつての敵国アメリカ人3人と文通を始めた。
その後一人だけになったが、長く続いた理由は趣味、性格 、宗教が同じだったから、或いは異性だったからかもしれない。
中学の美術教師だったアンが生徒に書かせたアメリカの生活の絵を束になって送ってきた。
こちらからも写真を送ったりお互いに異国文化の知識を増やした。
私が留学し、ボストンのアンのところに行き、友好が一層進んで家族同士何回も行き来して親交を深めた。
退職後、アメリカに旅をして3週間アンが先立って案内してくれた。
広島の原爆資料館を案内した時アンは泣きじゃくって動けなくなった。
1951年から始まった文通は65年経った今も年に5回ほどの頻度で続いている。
敵だったものをも愛し、信頼する、食糧不足で困っていた敗戦国日本に食料や物資を与える精神がアンの中にもあると痛感する。
全てのきっかけを作ってくれたのが、「カムカム英会話」であり、教本を大切にしている。

埼玉県 なとりみつさん 81歳
戦後間もなくラジオの街頭録音がきました。
ドッジボールをしていた時にボールが準備をしていた人のところに飛んで行ってしまったが、今日の方がボールをなげてかえしてくれました。
その人は輝いて王子様の様でした。
藤倉さんという有名なアナウンサーだと言う事を知りました。
村中を熱狂させた街頭録音を知る人も年々少なくなってきました。
藤倉さんって素敵だったねと話す私たちもすっかりおばあさんになってしまいました。
小さな村の昔々の話になりました。

福島県 おおほりくにこさん 70歳
母が書いた「春の足音」という文が婦人の時間というNHKラジオ番組で全国放送されたのはいまから50年も 60年もまえのことでした。
両親は洋服仕立業で、2畳ほどの仕事場にはいつもラジオが流れていました。
私が小学4,5年生の頃、「春の足音」が入選し、春分の日に全国放送されることになりました。
母の番になり胸がドキドキ、元日の竹笛の初音の音、屋根の雪が溶けて雨だれとなる音、獅子舞の音色の後、3分ほどの母の文が読まれました。
母は91歳で亡くなりましたが、応募したこと放送の事などが今でも話されます。

東京都 相沢恭子さん? 82歳
昭和20年代、「私は誰でしょう」というラジオ番組があり、高校生だった頃、或るとき長野放送局に来られ、祖父の名前で応募、採用された。
ラジオの前でかたずを飲んで聞いていました。
歴史の好きな祖父は第一問で北条政子言い当て賞金2000円、最後の問題も答えてこうもり傘を貰い、祖父は益々自慢度が大きくなった。
(ラジオは家庭の輪を作る一つのメディアだったのかもしれない。)

静岡県 たたらともひこさん? 85歳
私は昭和5年生まれ、85歳です。
子供のころからラジオ大好き人間でした。
昭和20年8月15日 玉音放送で戦争は終わり、家が焼けラジオの放送を聞けない暮らしが続きました。
ラジオから明るい歌声が聞けるようになり、嬉しかったです。
17歳になり眼底出血で全盲になり、ラジオだけが頼りの毎日、大学検定が受けられることを知り、毎日ラジオを一日中聞いて、大学検定に受かりました。
その後もさらに学びソシャルワーカーとして今も微力ながら働いています。
福祉の援助をしながら、文芸や昔の歌を楽しみに暮らしています。
ラジオを愛しながら生き抜いています。

名古屋市 加藤かずまろさん? 78歳
中部地方の銀行の会長をされている。
昭和22年 中国広東、大連市から母と3人の妹と日本に帰国。
終戦時小学校 2年生だったが学校にも行けず、その後4年生として迎え入れられた。
昭和24年頃NHKで「鐘の鳴る丘」が放送された。
復員兵と戦争孤児が明るく強く生きてゆく様を描いていた。
平成11年5月アジア開発銀行総会がマニラ本部で開催された。
アジアの貧困問題が取り上げられ、ストリートチャイルドのパフォーマンスが行なわれた。
貧困の中で生き抜いてゆく子供たちの姿を歌とダンスで描いたものである。
3人に一人は安全に水が手に入らず、識字率が低く、子供の栄養失調が根強くのこっている。
貧困からの脱出の支援の強化が訴えられた。
この状況を見て、引き上げの苦しみと日本の貧困と混乱の時期を描いた「鐘の鳴る丘」が流れていたころのことを思い浮かべた。
アジア開発銀行総裁が子供達はアジアの将来であり、我々は彼らの将来に対して大きな責任を有している。
我々はアジアの人々の幸福のために全力を尽くすと言うのが印象的だった。
今日の私たちの責任は大きい。













2016年4月4日月曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・サンフランシスコ講和条約と東西冷戦

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・サンフランシスコ講和条約と東西冷戦(第27回)
サンフランシスコ講和会議が昭和26年9月に開かれるが、戦争処理と新しい日本が国際社会に復帰する時の条件、制約があるが,どの様な枠組みを作るかという事を戦勝国が話し合って決めたという会議だと思います。
昭和25年6月に朝鮮戦争が始まるが、東西冷戦の軍事的な衝突と言っていい。
政治的な対立は第二次世界大戦が終わった後、社会主義陣営と自由主義陣営で対立があった。
チャーチルは昭和21年3月、ヨーロッパに鉄のカーテンが出来たと言っている。
日本国内では、早く結んで独立国になりたい、という思いがある。
①全面講和と、自由主義陣営と講和条約を結ぶという②単独講話があった。
東大南原総長は全面講和を主張、吉田茂は全面講和は無理で単独講和で行こうと思っていた。
知識を持っている人が曲がった使い方をしていると、「曲学阿世の徒」学者としてのプライドも何もないんじゃないかという軽蔑の表現で、吉田茂は南原総長を罵った。

サンフランシスコ講和会議が昭和26年9月4日から開かれる。
戦勝国全て参画している、52カ国、中国、韓国、台湾、北朝鮮は参画していない。
主にアメリカが中心に条約案を作っているが、吉田茂も意見を言っている。
ダレス、吉田茂 後からモリソン外相(英)も参加。
日本が持っていた植民地の独立、承認する。
米軍の駐留を認める、極東軍事裁判を受け入れる、第二次世界大戦の処理の伴う軍事的、政治的な動きがあったこと、条約があったことを追認して新たな日本がそこからスタートすると言う条約案だった。
代表団には気を使って野党も入っている。(社会党は参加しなかったが挙国一致的な代表団)
9月8日吉田首相のサンフランシスコ講和条約の受諾演説がある。
戦勝国に対するお詫びと日本が平和を求めて行く事を冒頭で述べて、好意的に受け止められた。(拍手が鳴りやまなかったと言われる)

発効が昭和27年4月28日、日本が独立を果たすことになる。(6年8カ月占領される)
演説の中でソ連の北方4島にたいする行為は不当ではないかとクレームを付けている。
賠償金は出せないと言う事をダレスが納得させる。
賠償問題は残る。
台湾を選ぶか、中国を選ぶかという問題もあった。
提案された条約にたいして、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアが反対した。
3カ国とは別に講和条約を結ばなければ行けなくて、ソ連との平和条約は未だに結ばれていない。
東ドイツで暴動がおこったり、社会主義陣営の中のヨーロッパの中でもソ連の支配に対して、かなり抵抗が起こる。
東西冷戦が軍事的な形になるのが、朝鮮戦争。
北朝鮮と韓国、アメリカが中心に国連軍が参加、北朝鮮には中国の義勇軍が入ってきて、東西冷戦の形の戦争になる。
昭和25年6月25日に朝鮮戦争が始まり、日本に大きな影響を及ぼす。

発端は北朝鮮が最初にソ連の了承を得て、武力統一をしようとして韓国に攻め入ったと言う事が定説になっている。
昭和25年6月21日 ダレスが日本に来る。
東西冷戦、思想戦争 米ソの思想の代理戦争で第三次世界大戦になるのではないかという様な不安があった。
その中での講和条約なので微妙なかじ取りを日本側もしなければ行けなかったと思うが、結果的にはある妥当性はあるのかなあと思う。
ソ連の思惑としては社会主義は無理なので中立になってほしいと思想攻勢をかけてきた。
アメリカは日本について極東アジアの軍事的な拠点になるとの思いがあり、基地を多く作って対応する事を考えた。
占領期の前半は民主主義への政策、後期は軍事的拠点としての国家になると言う事を要求した。
トルーマン大統領も早く講和条約を結んで、日本を西側陣営に引き込もうとした。

対日講和7原則を提案する。
講和条約と同時に安保条約の芽みたいなものが出てきた。
独立国になってしまうと、基地を自由に使えなくなるので、基地を自由に使うと言う事で個別に日米安保条約を結ぶ。
サンフランシスコ講和条約の後で、同日夜に日米安保条約に調印するが、吉田茂だけが参加する事になる。
問題になった時には吉田茂は自分だけが責任を受ける事を考えた、若い随員の中には池田隼人とか、目をかけている若い政治家がいるので、その人たちに責任を追わせると将来が無くなるので一人で行って調印した。
昭和35年の安保条約等ではそういうところが問題になり、吉田茂なりの歴史感覚は当たっていたと思う。
同日、夜 日米安全保障条約の調印式が吉田茂単独で参加して行われる。
沖縄、小笠原がアメリカの施政権の範囲になる。(沖縄等にとっては屈辱の日)
昭和26年マッカーサーが突然解任される。
朝鮮戦争で国連軍を指揮しているが戦況が悪くて、原爆の使用をトルーマンに要求したが、トルーマンは反対で罷免して、1週間後には日本を離れることになる。(昭和26年4月16日)

昭和27年5月 白井義男が判定でフライ級世界選手権を獲得。
アメリカのカーン博士(コーチ)が育て上げ世界チャンピオンにした。
昭和27年7月ヘルシンキオリンピック(16年ぶりに日本は参加)で石井庄八がレスリングで金メダルを取る。







2016年4月3日日曜日

向井真理子(声優)       ・時代を創った声(3)

向井真理子(声優)       ・時代を創った声(3)
マリリンモンローの殆どの作品の吹き替えを担当。 現在80歳
「荒馬と女」 TV吹き替え版 荒々しい役だった。
どこでモンローらしさを出すかと苦労しました、強い言葉でもかわいらしくやろうと心掛けました。
私は年令より幼稚でお色気は殆どなかったです。
当時20代後半、色気のない女優の名前のトップにあった。
お色気の勉強をするようにマネージャーから言われてしまいました。
「百万長者と結婚する方法」
お色気をどうしたら表現できるか、赤ちゃんが泣く声をきいて、こんな感じかなあと思ってテープにとって勉強しました。
子犬が母親に甘えてクンクン追いかけている声を聞いてテープに録音して、その声を一生懸命稽古しました。
しかしそれが通用するとは思わなかったが、それがすんなり通ってしまった。
それからはお色気の有るシーンの有る役ばっかり来てしまいました。
マリリンモンローはヌードをいくつも出されていた女優さんなんで、当時精神的に幼い私としてはとんでもない不潔というイメージでした。
オードリーヘップバーンの様な清潔な女優が好きでした。
「百万長者と結婚する方法」を2年ぐらいやらさせて頂き私にもできるかなあと思いました。
マリリンモンローをやる前にブリジットバルドーの「裸でごめんあそばせ」をやらせていただいたので、バルドーさんの担当をするのかなあと思いましたが、マリリンモンローさんになってしまいました。

中学卒業後、宝塚の音楽学校に入学。
中学の時に演劇部に入って、そこで何回か主役で芝居をして、芝居は面白いと思いました。
数学と理科が苦手でそれがないところに行きたいと思っていて、宝塚がいいと言われて、入ることが出来ました。
歌も苦手でダンスは踊ったことはなく日舞もやったこともなく、とにかく大変でした。
芸術座がとなりにあって、ミヤコ蝶々さんが主役で芝居をしていて、男の子の役で出していただいたりしました。
踊れないし歌えないと言う事で、大変だったので、友人に帰りたいという事を書いたら、結局辞めることになってしまった。
3年間宝塚にいましたが、高校は出ていなかったので、どうしようかと思ったが、TBSでTV女優募集があり、受けて合格しました。
養成期間が1年間あるが、1週間もたたないうちにオーディションがあると言う事で、マイクの前でセルフを渡されて読んで、朝の連続ドラマがラジオ放送されていて、その主役の真弓と言う役でいきなり決まってしまった。

宝塚は演劇は1カ月に1度位で日舞、ダンス、声楽などいろいろ種類がありそちらにとらわれていて芝居の勉強はしてきませんでしたので、怒られて、怒られて、泣いてしまいましたが、女の武器を使うなと又怒られました。
やってゆくうちに自分の中で、もうこれしかないと思ってきました。
モンローをやってからその役以外は使うなと言われましたが、他をやりたかった。
作品をやってゆくうちに大好きな女優になっていきました。
アニメの場合には血が通っていない絵なのでどうやったら血が通う様になるのかなあと、かなりパワーが要りました。
吹き替えは本当に難しいです、自分が声を入れることによって台無しになってしまったら、本当に申し訳ないので、少しでも声を入れた時に俳優さんが少しでも良く見えたら幸せだなあと思いますが、そこが難しいです。
生活習慣が違っていて、肺活量の違いが大変でした。

今はテープと台本を前貸ししてもらって、稽古を沢山出来ますが、私がモンローをやった時は前日に呼ばれて1回だけ映画を観させてもらって、台本だけ家に持って帰って、翌日もう一回見せてもらって、次は本番になります。
失敗すると最初からやり直します。(自分だけではなく他の人の失敗もあり、終わるまで大変時間がかかります)
若い人たちはしゃべり方がみんなアニメ風なので、朗読、語りをやるとアニメ風にはならない。
みんなおんなじように聞こえてしまう。
発声がアニメ的になってしまっている。
個性がなかなか見つからない。
語りの会の集団をやっていて、大きく出来たらいいなあと思います。
声にして本を読んでいただけると健康にもいいと思います。











2016年4月2日土曜日

太田米男(ミュージアム代表)        ・古い映画フィルムを救いたい

太田米男(おもちゃ映画ミュージアム代表)   ・古い映画フィルムを救いたい
66歳 大阪芸術大学映像学科教授で去年京都におもちゃ映画ミュージアムを作りました。
おもちゃ映画とは大正から昭和の初めを中心に、一般家庭に普及したブリキ製の手回し映写機で鑑賞した映画のことで、再生する映像として劇場で公開されたフィルムが切り売りされました。
時代を映した貴重な遺産と言えますが、長い年月を経たフィルムは劣化し、消滅の危機を迎えていると言います。
おもちゃ映画ミュージアムには太田さんがこれまでに収集したカメラや映写機などを展示、発掘復元した古いフィルムを観賞することも出来ます。

ミュージアムは以前友禅の工場があったところです。
カメラ、映写機は200ぐらいあります。
おもちゃ映画はおもちゃの映写機、ブリキ製で出来ている。
35mmの劇場でかかるフィルムを短くして家庭用に販売されていた。
一度上映したフィルムを要らなくなって切って売っていました。
1930年代、無声映画からトーキーに変わる時代で、無声映画は必要なくなり、切り売りされた。
それを復元していこうとしたのが最初の取り組みです。
劇場用の実写のフィルムは個人では作れないので映画館でかかっていた物を切り売りされた。

これはアメリカ製で手廻しです。
時代劇のチャンバラシーンが多く製作された。
20~30秒位、長いもので3分ぐらいで売られていた。
日本製は白熱灯の電球ですが、外国製(ドイツ、イギリス)では古いものではアルコールランプとかガスバーナーで作られたものもあります。
今はここには900本以上あります。
時代劇が中心で、ニュース映画、外国のアニメ等もあります。
1920~30年代に特化しています。
スクリーンで見られるようになっている。
尾上松之助中山安兵衛 高田馬場の場面。
歌舞伎がベースになっていて、海外のスタイルとは違う。
アニメーション 「0(ゼロ)助漫遊記」 「お化け寺」 チャンバラで幽霊とか妖怪が出てくる。
1923年の関東大震災の翌日のニュース映画、完全な焼け野原になっている。
大勢の人が行き交っている。

日本の無声映画はほとんど残っていなくて、数十秒の映像でも残っているので大事だと言う事でこのようなプロジェクトを始めたが、オリジナルのものがほとんど残っていなくて、残念だと言う事で始めた。
尾上松之助は1000本ぐらい作ったと言われるが、残っているのが10本あるかないか、ここには6本でほとんどが断片しか残っていない。
フランスでは国宝級に扱われて残されている、ほとんど残っている。
アメリカでもグリフィスという監督の作品は600本位作っているが、失われたのが数本位で、日本とは全く違う。
オリジナルフィルムの乳剤を洗って新たに乳剤を塗って再生フィルムを作っていたりしているのでオリジナルはまず残っていない。
ベースが最初セルロイドから作られていて硝酸で作られていて、白熱灯にさらされると引火する可能性もあり、危険物と思われて、それが残っていない理由の一つです。
安全フィルムが次に出てきてアセテート系に変わるが、古くなると酸化して、溶けだす。
カールしたり縮んでくるので、新しいフィルムを開発しなくてはいけないと言う事で、今ではポリエステル系になる。

フィルムの過渡期のものだったので、復元のプロジェクトを立ち上げてやっています。
昨年5月にオープンしたが、尾上松之助の生誕140年で、寄贈されたフィルムを見たら、フランス製9.5mm幅のもので今まで見たことが無かった尾上松之助の忠臣蔵のシーンがある完全版だった。
1時間以上ありました。
京都の国際映画祭で発表したが、尾上松之助のイメージがリアリティーがあり違っていた。
このミュージアムには海外の研究者もネットで調べて来ます。
映画博物館と言われるものは日本には他にはないです。
ワークショップをやるという事もやっています。
活弁を使った無声映画のゆうべという形でやっています。
大阪にラボがあり、映画の修復の見学、体験できたりします。

京都は映画の街で、嵐山と太秦の間のあたりに生まれて、映画の全盛期に作られていた。
片岡千恵蔵、中村錦之助とか当時のスターを日常的に見ていました。
高校ではアルバイトで撮影所に行っていました。
大学では申請してゼミができて映画の勉強をしました。
依田 義賢先生に引っ張られました。
最初はカメラマンになりたかったが、当時大映が倒産して、撮影の助手として現場に入っていたりしました。
こういう場所を作ることが交流が生まれるだろうし、情報も入ると思った。
映像は価値観として名作は国という形はあると思うが、アマチュアの人が撮ったものでも貴重なものがあるので、地域が大事な場合があるし、個人でやる意味もあるミュージアムもあると思うので存在意義はあると思っている。
一般の人たちが映画の保存が必要だという声になってきて、そうすれば必ず残ってゆくと思うので仲間となる人が集まってくださると良いと思います。
映像資料の図書館は無いので、きっかけになったらいいと思います。