2016年4月22日金曜日

中西正司(ヒューマンケア協会代表)・障害者とつくる暮らしやすい街

中西正司(ヒューマンケア協会代表) ・障害者とつくる暮らしやすい街
今年四月から障害者差別解消法が施行されました。
障害がある人も無い人も同じように暮らせる社会を作ることを目的としています。
中西さんは昭和19年東京生まれ 71歳 大学3年生の時に交通事故に遭い脊髄を損傷し、車椅子生活となりました。
昭和61年 仲間と共に東京八王子市にヒューマンケア協会を作りました。
ピアカウンセリングと言う障害者自身の手に依る自立生活をするためのマニュアルを作り障害者が社会で普通に暮らせるような運動を進めています。
平成2年にはDPI→ 様々な障害者団体が集まる世界組織の事 DPI日本会議の議長に就任します。
駅にエレベーターを設置する運動を進めました。
この運動を契機に障害者、高齢者にとって暮らしやすい街作りが行われるようになりました。
障害は環境に依って作られる、とおっしゃる中西さんは障害者差別解消法に依り、障害のある人と無い人との真の共生社会に近づく事が出来ると期待を寄せています。

DPI 今年はエジプトで行われた、アラブリージョンの新しい支部ができてお祝いでアラブでやりたかった。(DPI Asia and the Pacific Region=DPIアジア太平洋ブロック評議会)
世界中の障害者サービスが随分向上しました、DPIの成果だと思います。
障害者は自立して生活をしなければいけない、これが一番大きな狙いです、自分の経験から発している。
大学3年で交通事故で首を折って、家族に面倒を見てもらいながら7年間家で寝たきりの生活をする中で、医者も半年で死ぬから好きなようにさせてやるようにという様な生活でした。
その間どの様に社会に貢献しようかと、こんな自分が生きていると迷惑だろうと、罪の意識を感じて、生きている意味を問いつめてゆく。
哲学、思想、歴史の本等を読みあさって、どういう考え方で生きればいいんだろうと、思った。
アメリカでは障害者はリハビリを受けて、暮らしていて、地域の中で生活して、普通の生活を送っている事を知って、日本でもそういう風に介助を受けて暮らしてゆくことは可能だろうと思った。
洋服の着替えに1時間で自分でやるよりは介助に依り、10分で終わらせて社会貢献した方がいいだろうと言う考え方があった。
その方が良いだろうと思想革命がアメリカから起こってきた。
第二次世界大戦でアメリカは大勢の障害者を生みだしたので、、出来るだけ高待遇で迎えようとした。

障害者用の市営住宅として1階にスロープを付けて入れるようにしてほしいと要望した。
いろいろ生活に困ることを改善してもらった住宅がこれです。(八王寺市の市営住宅)
ヒューマンケアという日本で初めての自立化センターの職員が着替え、車椅子に乗せたり、歯ブラシ用意、食事用意等を40~50分で家を出て職場に行けると言う生活環境が作り上げられたので、普通の人と変わらない生活ができていると思います。
自分自身がこう言ったサービスを受けて、こういうサービスがほしいと声をあげないかぎりこういうサービスはできない。
利用者の声を聞かないと判らない問題は色々ある。
ハワイサミットでアメリカとの会議があったが、日本は介助者が付いて行って、アメリカでは介助者はいなくて、今では日本の方がよくなってしまった。
世界のトップレベルのサービスに日本はなってしまった、アメリカをすでに超えている。
美濃部東京都が率先して介助サービスを作った、介助の歴史は遡って、そこで方向転換した。

ピアカウンセリング 画期的な事業 障害を持つ事は違う人生を強いられるので、そのなかで自分なりの考え方、思想を持たないと生きれない。
生活技術的にも介助者に依存しながら暮らすことを余儀なくされるので介助者との関係をどう対等に持っていくか、決定するのは自分であって、それにサポートしてくれるのが介助者であると言う事にはっきりしない限りそこを乗り越えられない。
自分の要求は正しいことだと言う事を理解してもらわないといけないし、理解してもらう、説得する、そういったプログラムを行っています。
マニュアルは80ページのものを作っていて、優れているので8~10カ国語に翻訳されて世界に廻っています。
国内障害者団体にも増やしてきたので、全国にピアカウンセリングを通じて仲間を増やしてきたので、全国に派遣されて講習会を開いたりしながら広めてきました。
全国に128か所に自立化センターがありますが、同じプログラムを使っています。
アジア12カ国に広がっています。

駅にエレベーターを設置する法律ができたが、画期的なものでした。
15年前、DPIの日本会議の議長になった時に、知的障害者は駅の漢字が読めない、視覚障害者はアナウンスが無いと降りる駅が判らない、身体障害者は階段がある駅はエレベータが無くて列車に乗れないとか、困っていた。
日本の交通アクセスを替えてゆく運動をしようという事で、全国の障害者が動かないと駄目なので、全国の20大都市で一斉蜂起しようとして、全国の主要駅に集まろうとして、土日、祭日にやろうと、新宿から上野駅に行こうと言う事で、アクセスの一番悪い駅で、デモに参加してほしいと呼び掛けました。(新宿駅には300台の車椅子の人達が集まりました)
だれでも乗れるエレベータを駅に設置しようと運動をしました。
駅の職員が担ぎあげたり、一緒に行って上野駅でもやりました。
全国3000駅の内2%はエレベータがあるが98%は無かった。
段差などの細かいデータを含めて、毎年毎年10年間続けて報告しました。
7年目で国土交通省の職員がバリアフリー法を作って頂きました。
2000年の時に出来ました。

昔は文句を言われましたが、今は混んだ列車に乗っても文句を言われなくなり、意識は変わってきています。
データがなければ行政は説得できないだろうと思って、予算面で実現可能かどうかを問われると思ったが、市民の意識次第だと思って、かなりハードルの高い事業ではあるが、儲かる企業もあるし、実現可能ではないかと思った。
障害者は700万人と言われているが、1億2000万人の人を説得しなければいけないので、かなり無理なことであるが、市民も助かるので、車椅子でも入れるような街作りを推し進められ、道路の段差の問題、低床バスなど障害だったものが取り除かれてきました。
アメリカのバスはリフトがついていて、床面は変わらず階段がスロープに変わるが、故障が多かった。
日本で作る場合はどの方式がいいか、展示会をやろうと言う事になった。(メーカーは3社位)
3社で共同開発する事になり、製造コスト5%アップで済み、国土交通省が5%補助しようと言う事になって低床バスが実現しました。
障害になることは悪いことでもなんでもない、障害者は何故不便なんだと言う事で、教育問題、就労問題は障害者にたいする偏見や差別があるんだろうと、障害者は環境さえ整えば普通に働ける。
あとは社会側の問題だろうと、課題が移ってきたと思う。
福祉サービス、高齢者サービスの充実は日本社会自体からは変わっていかない問題だと思った。
変える手立てとして国連に障害者差別禁止法 障害者権利条約を作ってそれを元に差別禁止法みたいなものを施行してゆくしかないだろうと言う事で、アジアのブロック会議があり、DPI日本会議案としての権利条約素案ドラフトを持って行きました。
それが採択されて、国連の総会に臨んで私は提案しました。
DPI日本提案、Sキャップ提案の二つが基本になって世界の障害者権利条約が出来たんです。
運動なきところに変革なしと思っています。
障害者差別解消法がスタートしています。
社会にはハンディーを持っている人がいるので、社会が普通に対応しましょうよと、日本もそういう風にして、障害者にも不利が被らない様な社会を作っていこうという内容を含んでいるものです。