尾崎左永子(歌人) ・うつくしい日本語をつむぐ
昭和40年代 夜の11時台に20年間続いたNHKのラジオ番組 夢のハーモニーのコメントや詩を書いたりしていました尾崎さん、今年米寿で歌会始の召人(めしうど)に招かれました。
17歳で歌人の佐藤佐太郎さんの門を叩き正統派の短歌の道を歩み始めた尾崎さんは、20代の半ばから放送作家としてNHKや民放の放送台本を書いて、耳から入る言葉を通して日本語を学び短歌の道からすこし離れました。
52歳で再び短歌の世界に戻った尾崎さんは現在鎌倉に住んでいます。
今年のお題が「人」 一字なので難しい。
現代短歌で統一されて読むのは昔の形のままです。
「駅いでて 交差路渡る人の群れ 温かき冬の朝の香放つ」
駅は東京駅のつもりです。
暖冬と人の温かさも思い、朝の香りはとてもすがすがしいと思いました。
ごく自然に出た言葉だったような気がします。
17歳の時に短歌の世界に入りました。(終戦直前)
15,6歳になるとお稽古をしますが、戦争でみんなできなかった。
書く事が好きで学校で詩を書いて褒められたりして、叔母が和歌がいいのではないかといって、紹介していただいた方のところに行ったが辞めて、佐藤佐太郎さんに習いたいと父に言って、添削をしてもらったのが、8月20日終戦直後でした。
3度も見てくれた跡があった、ペン、赤鉛筆、墨、誠実さに心打たれました。
「滝しぶきに 濡れつつさける紫陽花の 花の青きをさびしみにけり」
学生の時に「しろたへ」という歌集を見つけて見始めて絶対に師事するならこの先生にしようと思いました。
漢詩にたいして、古今和歌集の時に和歌という様になって、現代は短歌と言いますが。
文語の時代もありましたが段々口語になってきています。
作家の秘書をしばらくしていました。
昭和29年に30分のラジオドラマにしてほしいと言う事で話が来て、何とか書いたら、NHKから話が来てそれをきっかけに家を飛び出して、仕事をすることになりました。
日本放送、文化放送、ラジオ関東とかから話が舞い込みました。
自分ではドラマに向いていないなあと思っていました。
小説も書いていました。
表現法を覚えたのは短歌ですね。
ことばを切り捨ててゆくと言う事を習いました。
自分がものの本質を見てそれに自分が感動した時にばさっと切り込むと言う様な純粋短歌論を先生は言っていました、「単にして純」 よけいなことを言わず中心を表現する。
要らないことは切り捨てる、余計なことは言わない。
暮らし方も単純な方がいいと思います。
言葉は飾る人が多いと思います。
美しい言葉は飾る事ではなくて、削ることです。
話し言葉は地方地方で綺麗だと思います、その土地の言葉、土地の霊が宿っているような言葉は綺麗だと思います。
短歌は響きを意識しないといけない、一番大事な心ををつたえるには歌でやり取りしている、セレナーデですよ。
率直に言わないと伝わらない。
削り取って、存在感があって、純粋で、透き通った言葉はいい言葉だと思います。
原稿を書くときは音を意識して書いています。
読みやすいとよく言われます。
「夢のハーモニー」 伝えたかったイメージは言葉の音で伝える感じ。
区切り 息使い、息苦しい文章は自分も息をつめて書いていると思う、普通の息の方が読み易い。
長い文章は頭で書いていると思う。
「蔵王」は昭和36年に作詩しました。
主人がハーバードに研究留学で先に行っていて、アメリカに行って面白かったです。
しばらく歌とは絶縁しようとして古典をやろうと思いました。
日本に戻ってきて崩れていると思いました。(昭和40年代)
日本語を見直したいと思って源氏物語を取り組み、短歌からは17年やめました。
52歳から短歌を再開しました。(同時に鎌倉に住むようになる)
撫村が好きで、色彩的、絵画的なところがあります。
今実朝と後鳥羽院の事を書きたい。
磨かれた言語、一番磨くべきなのは短歌だと思いますが、今ある短歌を見ると、ちっとも磨かれていませんが。
古典がマンガになってきていて、マンガ大賛成だと思います、見直されてくると思います。
連載を受けるかどうか、迷っているが実朝と後鳥羽院の事を書きたい。