保阪正康(ノンフィクション作家) ・サンフランシスコ講和条約と東西冷戦(第27回)
サンフランシスコ講和会議が昭和26年9月に開かれるが、戦争処理と新しい日本が国際社会に復帰する時の条件、制約があるが,どの様な枠組みを作るかという事を戦勝国が話し合って決めたという会議だと思います。
昭和25年6月に朝鮮戦争が始まるが、東西冷戦の軍事的な衝突と言っていい。
政治的な対立は第二次世界大戦が終わった後、社会主義陣営と自由主義陣営で対立があった。
チャーチルは昭和21年3月、ヨーロッパに鉄のカーテンが出来たと言っている。
日本国内では、早く結んで独立国になりたい、という思いがある。
①全面講和と、自由主義陣営と講和条約を結ぶという②単独講話があった。
東大南原総長は全面講和を主張、吉田茂は全面講和は無理で単独講和で行こうと思っていた。
知識を持っている人が曲がった使い方をしていると、「曲学阿世の徒」学者としてのプライドも何もないんじゃないかという軽蔑の表現で、吉田茂は南原総長を罵った。
サンフランシスコ講和会議が昭和26年9月4日から開かれる。
戦勝国全て参画している、52カ国、中国、韓国、台湾、北朝鮮は参画していない。
主にアメリカが中心に条約案を作っているが、吉田茂も意見を言っている。
ダレス、吉田茂 後からモリソン外相(英)も参加。
日本が持っていた植民地の独立、承認する。
米軍の駐留を認める、極東軍事裁判を受け入れる、第二次世界大戦の処理の伴う軍事的、政治的な動きがあったこと、条約があったことを追認して新たな日本がそこからスタートすると言う条約案だった。
代表団には気を使って野党も入っている。(社会党は参加しなかったが挙国一致的な代表団)
9月8日吉田首相のサンフランシスコ講和条約の受諾演説がある。
戦勝国に対するお詫びと日本が平和を求めて行く事を冒頭で述べて、好意的に受け止められた。(拍手が鳴りやまなかったと言われる)
発効が昭和27年4月28日、日本が独立を果たすことになる。(6年8カ月占領される)
演説の中でソ連の北方4島にたいする行為は不当ではないかとクレームを付けている。
賠償金は出せないと言う事をダレスが納得させる。
賠償問題は残る。
台湾を選ぶか、中国を選ぶかという問題もあった。
提案された条約にたいして、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアが反対した。
3カ国とは別に講和条約を結ばなければ行けなくて、ソ連との平和条約は未だに結ばれていない。
東ドイツで暴動がおこったり、社会主義陣営の中のヨーロッパの中でもソ連の支配に対して、かなり抵抗が起こる。
東西冷戦が軍事的な形になるのが、朝鮮戦争。
北朝鮮と韓国、アメリカが中心に国連軍が参加、北朝鮮には中国の義勇軍が入ってきて、東西冷戦の形の戦争になる。
昭和25年6月25日に朝鮮戦争が始まり、日本に大きな影響を及ぼす。
発端は北朝鮮が最初にソ連の了承を得て、武力統一をしようとして韓国に攻め入ったと言う事が定説になっている。
昭和25年6月21日 ダレスが日本に来る。
東西冷戦、思想戦争 米ソの思想の代理戦争で第三次世界大戦になるのではないかという様な不安があった。
その中での講和条約なので微妙なかじ取りを日本側もしなければ行けなかったと思うが、結果的にはある妥当性はあるのかなあと思う。
ソ連の思惑としては社会主義は無理なので中立になってほしいと思想攻勢をかけてきた。
アメリカは日本について極東アジアの軍事的な拠点になるとの思いがあり、基地を多く作って対応する事を考えた。
占領期の前半は民主主義への政策、後期は軍事的拠点としての国家になると言う事を要求した。
トルーマン大統領も早く講和条約を結んで、日本を西側陣営に引き込もうとした。
対日講和7原則を提案する。
講和条約と同時に安保条約の芽みたいなものが出てきた。
独立国になってしまうと、基地を自由に使えなくなるので、基地を自由に使うと言う事で個別に日米安保条約を結ぶ。
サンフランシスコ講和条約の後で、同日夜に日米安保条約に調印するが、吉田茂だけが参加する事になる。
問題になった時には吉田茂は自分だけが責任を受ける事を考えた、若い随員の中には池田隼人とか、目をかけている若い政治家がいるので、その人たちに責任を追わせると将来が無くなるので一人で行って調印した。
昭和35年の安保条約等ではそういうところが問題になり、吉田茂なりの歴史感覚は当たっていたと思う。
同日、夜 日米安全保障条約の調印式が吉田茂単独で参加して行われる。
沖縄、小笠原がアメリカの施政権の範囲になる。(沖縄等にとっては屈辱の日)
昭和26年マッカーサーが突然解任される。
朝鮮戦争で国連軍を指揮しているが戦況が悪くて、原爆の使用をトルーマンに要求したが、トルーマンは反対で罷免して、1週間後には日本を離れることになる。(昭和26年4月16日)
昭和27年5月 白井義男が判定でフライ級世界選手権を獲得。
アメリカのカーン博士(コーチ)が育て上げ世界チャンピオンにした。
昭和27年7月ヘルシンキオリンピック(16年ぶりに日本は参加)で石井庄八がレスリングで金メダルを取る。