桂 歌丸(落語家) ・声の出る限り 噺家人生65年(前編)
15歳でこの世界に入ってから今年で65年、古典落語の名跡です。
40代から幾度となく大病に見舞われますが、必ず復活して高座へと戻ってくる歌丸さんを仲間たちは不死鳥と呼んでいます。
歌丸さんが度重なる病を克服して落語の人生にかける熱い思いを伺います。
80歳になります。
自分では折り返し地点と思っています。
1936年昭和11年8月に横浜で生まれる。
昭和26年 5代目古今亭今輔に入門、今々亭今児と名乗って昭和29年2つ目に昇進。
昭和36年 4代目桂米丸門下になる、昭和39年桂歌丸と名乗り現在にいたる。
昭和41年 「笑点」大喜利メンバーとなる、昭和43年に真打ちに昇進、平成16年落語芸術協会の5代目会長に就任、平成17年芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、平成19年旭日小綬章受章受賞
今年は噺家になって65年目、笑点は50年目になります。
病気のデパートと言われる、一番最初はヘルニアの手術(脱腸)、胃が痛いので見てもらったら胆嚢が機能して無くて胆嚢の手術、腰の手術を3回、肺気腫を患い入院、煙草を吸っていて3度駄目で、今は煙草は完全に辞めて、去年1月5日国立演芸場でしゃべっていて具合が悪くなってお客さまに謝って降りてきて、気がついたら病院のベッドで、寝ていて、インフルエンザを悪化させてしまって、2週間入院しました。
6月になって又具合が悪くなって、腸閉そくで入院しました。
どこの先生でも、転ばないでくれ、風邪をひかないでくれと言われます。
なんで腸閉そくになったんだと聞いたら、痩せてるからで肥ってくれと言われました。
痩せていると患った時などに治りが遅いです。
風邪にかからない様に、去年あたりから手洗いとうがいは絶対欠かせません。
毎年4月と8月は国立演芸場の責任を持たされているので、8月は三遊亭圓朝師匠のものをやることで、4月は変わったものをという事でした。
『塩原多助一代記』の「青の別れ」をやりましたが長いんですが、今年は多助が出世して店を出すまでをやりたいと思っています。
財産を埋めてておくだけでは何の役にもならないので、掘り起こして見て頂き、聞いていただいて財産は生きると思うんです、話を残すのも噺家の責任だと思っています。
三遊亭圓朝師匠のものは古いので自分なりに脚本を書かなければ行けないし、残っているのは三遊亭圓朝師匠の全集と昭和の名人と言われた師匠連中の音が残っているので、私は三遊亭圓朝師匠の全集と昭和の名人の師匠連中の音を参考に自分なりの三遊亭圓朝を考えていかないといけない。
残していかなくてはいけない、自分で選んだ道ですから。
おばあちゃん子だったので、芝居を見につれて行ってもらったが寄席に入った覚えがないです。
芝居の合間に漫才とかがあって、そういったものの方が面白かったです。
昭和20年代で暗い時代で、NHKのラジオで1週間に2回、寄席の番組があり、それをかじりついて聞いていました。
世の中笑いだなと思って、絶対噺家になろうと心に決めたのが小学校4年の時でした。
しつけは祖母からは厳しくしつけられました。
(お茶の入れ方、畳の端を踏まない、着物の畳み方、言葉使い等)
噺家になりたいとお祖母に言ったら考えこんでしまった。
相談してやりたいことをやらした方がいいと言う事になり、結局古今亭今輔師匠のところに行く事になる。
学校に通いながら師匠に習ったりして、見習い期間が無くて、学校卒業していきなり前座でした。
前座には大勢いますが90%は大学卒業です。
今輔師匠は厳しくなかったです。(掃除などはさせられなかった)
芸にたいしては厳しかった。
最初、歌舞伎を見ろと言われ、見ました。
話の間、何かのきっかけ、鳴りものを覚えろと言われました。
形、煙草の吸い形、身分、歳によって吸い方が違うのでそういったものもよく見ろと言われました。
見るもの聞くもの全部が落語だと思えと言う事が今輔師匠から言われた言葉でした。
前座の終りの頃、「江島屋騒動」を鳴りものを含めて教えてもらいました、
古典を継承させたかったんだと思います。
二つ目当時、今輔師匠には不満が無かったが、協会に不満があった。
予備、高座に上がれなくて、穴があいたら高座に上がれるが、二つ目にそういう事が多かった。
そういうものに不満があり、5~6人で協会に抗議しようと言う事で、給金が物凄く安くて、飛びだして振り向いたら誰もいなかった、私一人でした。
約2年近くブランクがあり、或る方が中に入って今輔師匠のところに謝りに行きました。
結婚していて、娘の赤ちゃんもいた時でメッキ工場に務めたり化粧品のセールス等をやって食いつないできましたが、大変貧乏していました。
おかみさんからも怒られまして、一遍飛び出したものを家に置くわけにはいかないので米丸さんの弟子になりなさいと言われました。
今輔師匠も若い時私と同様なことをやった様です。
米丸師匠には随分助けられました。
自分の子供が増えたと思えなかったら弟子を取るなと今輔師匠からは言われました。
私は弟子には自分の責任は自分で取れと言っています。
我々噺家は職人という気持ちをもたなかったらやって行けないと思っています。
周りから助けてくれることもありますが、最後は自分の努力だと思います。
苦労しないで楽をしようと思っても無理ですよ。