2018年8月17日金曜日

鎌田七男(医師)            ・"被爆の継承" その意味を問う

鎌田七男(医師)            ・"被爆の継承" その意味を問う
81歳、50年以上に渡り広島の原爆で被爆したた人たちの染色体を調べ、放射線がもたらした影響を第一線で研究してきました。
被爆者をな長年診察し、その人生を見守り続ける中で、原爆による放射線がが身体だけでなく、精神的にも被爆者を苦しめてきた実情を目の当たりにしてきました。
鎌田さんは原爆の恐ろしさを自らの体験を通して語ることのできる被爆者が少なくなる中、原爆の放射線の影響を正しく理解し、その非人道性を訴え続けることが必要だと話しています。
原爆による放射線の恐ろしさとは何なのか、どのようにすれば被爆の実態を伝えられるのか、被爆者を見つめ続けてきた鎌田さんに伺いました。

原子爆弾は普通の爆弾と違う爆弾で放射線を含む爆弾であることを強調したいです。
遺伝子が傷つけられて、5年たって身体が不自由に、弱くなって十分に働くことができなくなる。
いつ癌になるかしれないと言う不安がある。
生涯に渡って虐待が続いている、そういう人生になっている。
染色体を調べるとどのぐらいの傷が付いているのかが判る。
被爆した占領、どの程度被爆したのかが判ります。
身体には細胞が60兆個あるが、細胞の中に染色体があるが、遺伝子というものは染色体という器の中に入っていて、放射線が当たることによって、切られます。
近くにある切られた染色体同士が元に戻ると言うのが98%ありますが、2%が他の染色体とひっついてしまう。

遺伝子の傷も中に入っていて後々色んな災いを作って行く。
100個の細胞を調べて60固の半分以上の細胞に染色体異常が有ったと言う人がいます。
その方々から色んながんが出来て来る。
病気になる素地を作っている。
白血病が被爆から7年、甲状腺が10年、肺がんが15年、胃がん、結腸癌とかが20年、30年でだんだん増えて来る。
皮膚がんも4年、50年たっても増えてきている。
そういった病気になる予測は不可能です。
被爆者はいつ何の病気になるのか判らないという不安を持ちながら生活をしている訳です。
被爆者の心を痛めている。

原爆が落ちて7年までは日本人でさえ広島、長崎に原爆が落ちたことを知らなかったんです。
プレスコードということで一切原爆に関する書物、材料を公表したらいけないということがあって世に知らせなかった。
昭和29年、第五福竜丸の被爆をきっかけにして、広島、長崎の研究が始まりました。
昭和30年私は鹿児島から広島に来ましたが、被爆という概念、知識が何もなかったです。
当時、帽子を深々とかぶったり、夏でも長袖を着ている人がいて、ケロイドを隠しているんだなということはありましたが。自分から被爆者ということは言っていませんでした、隠したがるんです。
被爆者だと企業に雇ってもらえないというようなことがありました。
大学の友人も被爆者で、みんなと一緒には風呂には入りませんでした。
亡くなる前に実は被爆者であるという書類を書いてくれないかとは私に言ってきましが。
学生時代はかけ離れた問題でしたが、昭和37年に広島大学が被爆内科という外来を作って、被爆の病棟を作って、その頃から被爆者を診察するんだと切り替わりました。

その後55年以上に渡り関わることになりました。
胃液の検査科ら始まり外来の診察、入院患者の診察、夜には研究と言う様にめまぐるしい毎日でした。
教授は2つのテーマを準備していて染色体を鎌田が研究しろ言うことになりました。
遠くで被爆した人は染色体異常が少なく、近くで被爆した人は沢山の異常がありそこに驚きました。(それまでは判らなかった。)
半径500m以内で被爆した方で奇跡的に生き残った78人の方を調査するプロジェクトが昭和47年に広島大学の研究所で始まりました。
その人達の健康管理をするように言われました。
どの程度染色体異常があり、どの程度の影響を受けているのか、どういう病気が潜んでいるのか、どういう病気が表になってきているのか調べて行ったわけです。
昭和50年になって初めて被爆者に骨髄性染色体異常があるという事を話したという経緯があります。
データがでたが社会に発表するまでに5年のギャップがありました。
言っていいかためらっていました、子供への影響があると受け取り易かった。
研究すればするほど被爆者にマイナスになるようなデータしか出てこない。

被爆者は「ピカドン」という、ピカッと光ってドンという音がするが、500m以内で被爆された方はどなたも「ピカドン」を感じなかったとおっしゃいます。
異句同音に目の前が真っ暗になり気をうしなって、目が覚めた時には目の前が真っ暗で薄明かりが段々見えてきたという証言をされています。
外に出ると火が回ってきて竜巻みたいに炎が舞うわけです。
防火用水には傷いた人がその中に入って何人もいる訳です。
助かったその人たちは奇跡としか言いようがありません。
その時の事を理解してくれる人が居ないので言ってもしょうがないと思われる方が多いんです。
首のない人、内臓が出ている人、目の玉が突きき出て顔がただれている人、そういったことを言ってもなかなか信用してもらえない状況ですから喋りたくない。
喋りたくない期間がある。
或る方は65,6年目にして初めて語ってくださいました。
娘さんを見て合点がいきました、生きて行くためにはそういう外国の人と付き合いをしなければいけない状況が有ったということです。

家も親も兄弟も失って原爆孤児になるとかいっぱいありました。
一人一人によって色んな出来事がある訳です。
原爆孤児として住み込みに入り24歳で結婚して、流産をして離婚をして再婚した後に又流産して、家庭らしきものを持った後に病気が出て最初甲状腺、次が大腸がんで、髄膜腫などで、2年前に亡くなっていったという方がいました。
後半生は貧困と病気、病気の連続だった。
50%の細胞が染色体異常があり病気になり易い状況でした。
その方の人生は生涯に渡っての虐待が続いている、身体的、精神的、社会的に虐待が続いている人生になっていると考えていいと思います。
それを生じさせる放射線、原子爆弾は決してあってはならないと思います。

一旦放射線によって傷ついた染色体、遺伝子を治すすべは持ち合わせていません。
私の役目は明日への影響を明らかにして行くという事で、明らかにされたら嫌なことを私が探求して言っているということになるので、それはよかってねという受け止められ方はないわけです。
そういう意味では私自身は悲しい研究の連続であると思います。
つまびらかにしたら被曝者にとってネガティブな事ばかりですから。
逃げ出すにはいかない、やるしかない。
放射線の影響を一般の人に説明して行くこと、役立つこともあるが、放射線が暴走すると身体に悪影響をしてしまう。
その悪影響の最たるものが原爆です。
伝える人間が放射線の事をその影響を理解していないとうまく伝わらないので、少しでも役に立てれば嬉しいと思う。






























































2018年8月16日木曜日

松本零士(漫画家)            ・人は、生きるために生まれてきた

松本零士(漫画家)            ・人は、生きるために生まれてきた
銀河鉄道999」などのSF漫画で知られる松本さん、もう一つのライフワークとして戦場マンガと呼ばれるシリーズを手がけています。
戦争にかりだされた若者達の姿を描くもので、昭和30年代の後半から断続的に150以上のエピソードを発表してきました。
この戦場漫画を始め松本さんの全ての作品には自身の戦争体験と陸軍のパイロットだった父親の言葉が大きく影響していると言います。

今年で80歳になります。
15歳から新聞連載を始めて、漫画家になってから60年になります。
昭和30年代の後半から断続的に150以上のエピソードを発表してきました。
私の父親が陸軍航空隊のパイロットで飛行機の羽が複数あった最初の時代の飛行士でした。
戦艦武蔵がやられたころ、父はフィリピンにいて部下の2/3をうしない、バンコックに移って終戦の当日正午は空中戦をやっていて、部下の3/4以上失って着陸したら様子が変なので聞いたら負けたということで、2年半抑留されて帰ってきました。
私は昭和18年まで兵庫県明石にいました。
父が昭和19年に戦場に行ったので愛媛県大洲市に移りました。
7歳の時に終戦です。
父親が帰ってきて小倉に行きました。
父親が公職追放されて路上の八百屋など色々しました。
新しい戦闘機が飛び始めるし、電車道はトラックは走ってはいけないと言いながら、米軍の戦車が走って来る。
帰還した兵隊たちから一杯戦地の出来事などを聞いて漫画にしてきました。

戦場マンガの一つ「音速雷撃隊
旧日本軍の特攻兵器の桜花、飛行機に取りつけて切り離してロケットエンジンで体当たりする。
私はパイロットになりたかったが、中学で近眼になりパイロットを諦めた。
原爆を落としたという情報が伝わってアメリカ軍の兵士が「敵も味方もみんな大馬鹿だ」と言って最後終わるというもの。

私は機械マニアでした。
戦争の悲惨さも経験しました。
戦争漫画を書く時にメカの問題と心の問題とを通じ合わせて書く癖が付いてしまいました。
8月15日家に帰ったら雨戸が閉め切ってあって、こじ開けては入ったら婆さんが日本刀、槍、薙刀を持ち出して磨いているんです。(昔武家の家だった)
どうするのか聞いたら「敵が来たら刺し違えて死ぬんだ、お前も侍の子だから覚悟せい」
といって、家族で刺し違えて死ぬと言うことだった。
戦争が終わったと聞いた時はピンとこなかった。
父親が帰ってきて、小倉に来ました。
線路わきの処のボロ長屋(5軒長屋)に住んでいました。
いつも列車が通っていて「銀河鉄道999」で列車を正確に書けたのはそのせいなんです。

当時食い物が無くて海に行って魚を取ったりして食いつないでいました。
戦場マンガの一つ「帰還影の老兵」
戦地から帰還した兵士の自殺がある。
戦地から帰還した兵士は食べるものも無く家族も全員居なくなってしまっている。
実際に3人見ました、それは無残です、子供心に衝撃でした。
鉄道には柵も無く身体が真二つになっていました。
校舎から道を挟んでアメリカ軍専用の連れ込み宿がありました。
そういった日本人女性をみて最初は厭だったが、途中から彼女らも全てを失って生きる為、戦争の結果だと言うことに気が付いて、気の毒だなあとみんな同情しました。
そうしないと家族を養えないということが判ってきて、戦争が全てだと思いました。
「いつかまたやっつけんといかん」といったら、親爺に怒られて「そんなことを言う奴がいるから、こんな戦争になるんじゃ。 何人死んだと思う、二度と戦争はやってはいかん」と怒鳴られました。
十分惨めさを味わいました。

アメリカのコミックを沢山捨ててあったのでミッキーマウスなどを見て英語の勉強をして読めたり喋れるようになり、漫画の道にも繋がっていきます。
アメリカ兵が摺れ違うとものをばらまいてくれるが、私は受けないと言って踏みつけました。
学校の門前で付きつけるが、いらないと言うと怒鳴って来る、子供なりのプライドがある。
私は外国に行く時に小さい子にものを上げる時は膝を付いて手を握って渡すと受け取ってくれる。
絶対に馬鹿にしてはいけない。
負けると言うことがどんなに無残で悔しいものかという事を厭っと言うほど味わった訳です。
世界中を相手にするので漫画の内容の表現には十分注意しています。
相手にも相手の家族がある、それが前提でないと書けない。

関門海峡の海底には手りゅう弾とか戦争の機器類が一杯捨ててあってそれを運んできては遊んだりしていました。
機銃掃射に会った時もありますが、ダダダダダと音が聞こえてきて1回の音で6発出てきていました。
父は新型機のテストパイロットをしたり、南方戦線でも部隊長をしていて、相手を撃ち落としたりもしました。
相手にも家族があり、個人には何の恨みも無い、相手の顔も見え一瞬ひるむが、鬼になって戦わなくてはいけない。
部下が次々に撃ち落とされてゆく場面も父は見て来ました
そういった父親の話を聞いて戦争とはつらい残酷な出来事だと感じてきました。
父が公職追放された後に、又パイロットにならないかとのは話が来たが、アメリカの飛行機に乗れるかと言って断ってしまいました。
父は沢山の部下を失ってきてどの面さげて飛ぶのか、絶対飛ばないと言って生涯飛びませんでした。
「人は生きる為に生まれてくるので、死ぬために生まれて来るものではない」と父は言って、「それを頭に叩き込んでしっかり頑張らねばならんのだ」と言っていました。
書く時にはついそういう癖が付いているんです。
敵にも生きる命がある、殺し合わなければいけないという事は悲劇である。
人は限りある命であるから生涯の中で成し遂げようとして頑張る。

世界中の戦死した若者たちの中には生きていれば人類の文明に本当は物凄い貢献をした人たちが一杯いたはずだが、大勢死んでいる。
人は争っている場合ではない。
戦場漫画も沢山翻訳されているので、外国人も見てくれているので判ってくれる。
漫画には国境が無くなって、どうしても歴史を学んでおかないと、どうかして侮辱したり傷つけることになる、決して傷つけてはいけない。






































2018年8月15日水曜日

梅本安則(元球児)            ・幻の甲子園の記憶を100回につなぐ

梅本安則(元球児)         ・幻の甲子園の記憶を100回につなぐ
長い歴史の中でこの全国高校野球大会、昭和16年から20年まで戦争の為開催されなかった空白の期間があります。
しかしこの期間に一度だけ全国大会が甲子園球場で行われました。
全国から16代表が参加しておこなわれたこの大会は、国が戦意高揚のために開催した大会だったために、公式の記録には残されていない幻の甲子園と呼ばれています。
徳島市出身の梅本さんはこの幻の甲子園で優勝した徳島商業の7番ファーストで、今では当時を知るただ一人のレギュラーメンバーとなりました。
梅本さんに当時の記憶をたどっていただいて100回大会に臨む選手たちへの思いをお聞きしました。

今91歳です。
昭和17年、太平洋戦争が状態が悪くなってきている年で、4月には東京大空襲、6月にはミッドウエー海戦で大敗北という様な年でした。
一般の国民には知らされてはいなかったというのが実情です。
当時学校では軍事訓練、軍事教練が教育に組み込まれていました。
戦闘に必要な基本訓練を軍人さんが来て色々教えると言う教科でした。
徳島商業の場合は恵まれていて、野球部の猛練習を高く評価していただきました。
日本全体としては敵勢のスポーツをやるとは何事かというような考え方がありました。
昭和16年全国大会が辞めると言うことになって残念な気持ちでした。
監督さんはどういう状況であったとしても必ず野球をやれる時期が来るはずだ、という信念を持っていたのでついて行きました。(稲原幸雄監督)
昭和17年文部省から全国大会が開催されることになる。
目標が出来て素直に嬉しかった。

監督さんが優勝戦迄の1週間分の米を持って来いと選手全員に伝えられました。
優勝を目指すんだと言う事を暗に固く申し渡すという感じで言っておられました。
厳しい状況だったが母親がなんとかしてくれました。
徳島から毎日新鮮な牛肉を旅館まで送ってくれました。(後援会の配慮がありました。)
大日本学徒体育大会というふうな大がかりな大会でした。
野球以外に柔道、剣道など戦時色豊かな体育、運動競技がありました。
昭和17年8月22日に橿原神宮外苑広場(奈良県)で開会式が行われました。
手りゅう弾を投げる、銃を携えて走る、土嚢を運搬して走るなどといった競技もありました。
それ以外に柔道、剣道等多岐にわたりました。
人数も7500名という大変な数の若人が集まりました。
東条英機総理大臣がきて若人を激励するという意味合いの話をしました。

8月23日 甲子園で中等野球だけの開会式が開催されました。
球場に入るとスコアーボードの両横に「勝って兜の緒を締めよ、戦い抜こう大東亜戦」という横断幕が掲げられていた。
国民の士気高揚が大義名分にあるので、試合のルールも戦時色が濃かった。
デッドボールもよけてはならんというようなルールでした。
朝日新聞主催ではなくて文部省の主催なので、伝統の優勝旗も無かった。
その後その大会は幻の甲子園と言われるようになりました。
観客席は超満員でした。
甲子園の土は柔らかい、心情的には温かいそういう気持ちで初めての甲子園の土を歩きました。
観客の皆さんの温かい気持ちが伝わってきました。
16チームのなかには当時日本の統治下であった、台湾の台北チームの台北工業も参加しました。
みんな台湾で生まれて内地に一度も渡ったことのない日本人の選手たちだったようです。
東シナ海、台湾海峡などはアメリカの潜水艦が出没する戦場なので、学校関係者は出場を取りやめた方がいいのではないかという話が出たそうですが、部員らは死んでも本望だと言うような気持で話あったそうです。
14人の家族に承諾書を出してもらう事を決めました。
彼等は無事神戸港に着くことになりました。

空襲と勘違いされるので大会開始のサイレンは使うことができないので、ラッパが合図になりました。
1回戦で東京の慶応商業と戦って延長14回戦って2-1で勝利。
2回戦は水戸商業に1-0で完封勝ち。
準決勝は近畿代表海草中学に1-0で勝利。
決勝は京都滋賀代表の平安中学と戦う。
平安は準決勝が決勝当日の午前中に行われた。(雨で順延のため)
平安中学の富樫投手はこの大会でノーヒットノーランを達成するなど前評判は高かったが、終盤疲れからコントロールが悪くなるということが見られた。
試合はシーソーゲームになった。
11回の裏まで行って、6-7で追いつめられていた。

監督は選手を全員集めて「最後の1秒まで諦めるな、君たちのプレーが徳島県の歴史を塗り替えるのだ」と力強い声でおっしゃいました。
ツーアウト満塁となる。
フォアボールを8番が選び7-7の同点となる。
9番の林がバッターボックスに入る。
2ストライク-3ボールとなり、つぎのボールが外れて押し出しで勝つことになる。
終わった時には何かいいしれぬ解放感を覚えています。
文部大臣の表彰状を一枚頂くだけだったが、観客の皆さんは平和な時代と全く同じようにプレーを喜んでみて下さいました。
戦時下という事を忘れてプレーをすることができました。

私は神戸の三菱重工神戸造船所にいって働きました。
その後神戸が空襲を受けて職場が被災して徳島に引き上げざるを得なくなりました。
昭和20年7月に徳島市の大空襲がありました。
実家も学校も空襲で焼失しました。
野球に夢を抱き慶応商業の宮崎さんは野球をやることに執念を燃やし満州に渡って社会人野球をしていたが、ソ連軍に抑留されてそれは大変だったようです。
平和な時代に思いきり野球に打ち込むことができると言うことは、大変な幸せだと思います。
若い人たちには自分たちの出来うる限りの力を尽くして、自分を更に大きくするように頑張っていただきたいと思います。


































2018年8月14日火曜日

村上敏明(旧満州からの引き揚げ者)    ・ぼくは、妹と母を手にかけた

村上敏明(旧満州からの引き揚げ者)    ・ぼくは、妹と母を手にかけた
83歳、1946年の夏、日本に引き上げる直前指示されるままに、当時1歳だった妹と病気の母に毒薬を飲ませるという経験をしました。
長旅に耐えられないものは殺そうと誰かが決めたのか、はっきりしたことは判りません。
当時11歳だった村上さんはそのショックで前後の記憶を失ったと言います。
戦後、この出来事を覚えていた友人の小林誠さんの話を聞いて村上さんは失われていた記憶と向き合います。
2010年妹と母がなくなった旧満州を再び訪れたあと、断片的な記憶を詩に綴り徐々に人前でも語るようになりました。

詩「消え去った記憶」
「多くの人が文子を囲み見つめていた。
母が文子を抱いて飲まされた水薬、黒い瞳が僕をじーっと見つめ息を引き取った。
文子、文子だけが僕の記憶にある母の声。
衝撃に吹き閉ざされてしまった僕の記憶。」

毒の入っている水薬を僕が飲ませました。
黒い瞳が僕をじーっと見つめ、なんか語るようだがそこだけは覚えている。
そのほかのことは一切覚えていない。
衝撃は大きかったと思います。
36年後に親友の小林君が昭和21年7月上旬に泣きじゃくりながら駆けつけてきて「僕が妹を殺した、泣きながら言ったんだよ」とそういうことが有ったと小林君と再開した時に知る訳です。
妹をあやめた時以降の記憶が飛んでいる、断片的な記憶になっているんです。

4歳(昭和13年)父と母と弟2人と京都から大連に行きました。
小学校2年の時に四平に転勤します。
空襲が始まったのがサイパンが占領されて以降で、大連とかが空襲されました。
1945年文子が生まれると同時に父が招兵されました。
父はそれまで民間人で鉄道と荷車、馬だとかでその他の地域に荷物運ぶ仕事をしていました。
関東軍が南に進軍して行き、抜けた後を父だとか民間の人達が守りに着くわけです。
8月9日にソ連が侵攻する。
ソ連の飛行機が飛んでこないか北の空を監視する仕事をしていました。
8月15日大事な放送があるということでラジオを聞きましたが、内容は判らず戦争で負けたということだったようです。
ソ連兵により略奪されたり、女を出せと叫んでいました。(後で判ったことだが)
ソ連兵が撤退すると同時に中国共産党の軍隊と国民党との軍隊が合同して日本軍と戦うことが行われました。
その後中国共産党の軍隊と国民党軍の内戦が行われる。

日本政府はポツダム宣言を受諾する前に8月14日に大本営が「満州、朝鮮を切り捨てる、満州にお前らは土着せよ」と言う事を正式に伝える訳です。
満州には150万人、他の地域にも沢山行っている。
満州の経済界の有力者高崎達之助さんが日本人会を作って、日本に密使を送って大連から朝鮮半島ルートで東京に到着して、吉田茂さんとかに陳情する。
最後は直接マッカーサーと交渉すると言う事をする訳です。
功を奏して船はアメリカが出し、旧満州の内部から葫蘆(コロ)島まで日本人を送るのは中国の国民党が担当して、日本人の引き上げが実現するわけです。(46年5月 第一船)
母親はがんもどきなどを作って生活の足しにしていたりしました。
1946年7月7日に四平からの引き上げが始まって最初の団体が僕らでした。
逆算すると5日か6日に妹を殺したということです。
引き揚げの準備をしている中で男の人が5,6人来て、渡されたコップを進んで水薬を飲ませる。
黒い瞳の印象が残っていてそれ以降は全く記憶を失われてしまっている。
毒薬だと言われたかどうかは判らない覚えていない、医者、お坊さんがいたことは記憶には残っている。

黒い瞳の印象しかないが「お兄ちゃんなにすんの」と言っているように思えた。
小林誠君が36年後に記憶を取り戻すきっかけを作ってくれました。
列車の中、船の中でも亡くなる人が沢山いて、それを防ぐためにはやむを得ないということで、どういう経過かわからないがそういうことがありました。
母は妹が死んだ瞬間にショックで足腰が立たなくなりました。
母親が荷車まで運ばれていた。(小林君の記憶)
11歳(私)、8歳、4歳の子供3人と列車で四平から葫蘆(コロ)島まで向かう。(450km)
普通なら1日でいけるところだが3,4日かかったと思います。
病院の畳の上で寝ていたりしていました。
或る時にいつも飲んでいた薬と違うと思いながら飲ませたら飲んだ途端に泡を吹いて死んでしまいました。(青酸カリ?)
またショックでその時の記憶が無くて、気が付いたのは安置された遺体の前で私達3人がそこにいたということでした。(8月5日)
母の遺体は病院の裏山の中腹に他の方の亡骸と一緒に埋葬されました。
私が最初に、3兄弟で土を順番にかけて行きました。(4歳の弟はそのシーンを覚えていた。)
母にかけてやった着物の色は覚えています。(記憶は断片的)

港から高砂丸(1200名が乗船)に乗って長崎の佐世保に9月10日に着きました。
亀岡市が祖母の家だったのでそこを目指して行きました。
1月には弟が病気にかかってやはり「文子、文子」と言って亡くなりました。
父親が1948年に帰ってきました。
その後京都市役所に就職できて一人で生活をするようになりました。
満州のことなどは父親と話をしたことはないです。
戦争で両親、兄弟で仲良く話し合うと言うことは極端に失われたと思います。
自分の体験を語らなければいけないと思うようになったのは最近です。
3・11が起こり近所に避難してきた人に話したのがきっかけだったかもしれません。
一昨年位から聞かせてほしいと言う機会が凄く増えて反響を呼んで、時代がそうさせているのかもしれません。






































2018年8月13日月曜日

桂竹丸(落語家)             ・創作落語で語り継ぐ「特攻」

桂竹丸(落語家)             ・創作落語で語り継ぐ「特攻」
61歳、竹丸さんの出身地鹿児島には戦時中特攻隊の出撃基地があり、多くの若者が飛び立っていきました。
子供の頃祖父母や両親から戦争、特に特攻隊の話を聞かされて育ったと言う竹丸さん、13年前その特攻隊を題材にした創作落語を作り、東京の寄席や学校などを回って上演を続けています。
鹿児島生まれの落語家として特攻の悲劇を伝えて行くことは自分の使命だと言います。
明後日で終戦から73年、戦争を経験された方が少なくなり戦争体験を若い世代に伝えて行くことが年々難しくなっています。
戦後生まれ戦争を知らない世代に、その悲惨さや平和の尊さを伝えて行く一つの手段として竹丸さんが創作した落語とそこに込めた思いを伺います。

演目「ホタルの母」
入門者が多くて現在東京だけで550名いる。
昔特攻の基地がありました。
子供の頃特攻の話を聞きました。
知覧は陸軍の所属の基地だった。
特攻平和会館が建っていて、1036名の遺影があり遺書などが展示されている。
特攻平和観音堂が建立されている。
年間60万人以上が足を運んできている。
出来たのが昭和62年。
鳥濱 トメさん(特攻の母と言われる)が手を合わせていると、ほたるが飛んできて観音様の肩に止まる。
遡ること45年前、昭和16年12月8日アメリカに宣戦布告する。
太平洋戦争が勃発、真珠湾攻撃、あっという間に東南アジアを占領する。
物資不足に苦しんでいた国民には朗報であったが。

知覧に飛行学校が建設される。
昭和17年3月になると少年訓練生が知覧にやって来る。
楽しみは食べること、寝ること、たまの休日の外出でした。
知覧は小さい町なので遊ぶところも無く、富屋食堂の存在が知れ渡る。
休みになると大勢の少年訓練生が富屋食堂にやって来るようになる。
少年訓練生を我が子のように思えるようになる。
その後日本は段々壊滅的状況になって行く。
そこで出した上層部の結論は特攻隊でした。
町長が頼んで軍指定の食堂となって米の支給などはあったが、それでは足りないのでトメさんは自分の箪笥などを売って少年訓練生の為の食料に変えていた。
兵舎ができて全国から特攻の兵隊が来ることになる。
トメさんは特攻の話を聞かされるが、特攻の重みを知る由も無かった。
昭和20年3月28日 知覧は桜がきれいに咲いていた。
富屋食堂に一人の青年将校がやって来る。
小林少尉でした。

ここを去るのでお礼にきたということだった。
行く先を問われたがいえない、特攻との事だった。
トメは溢れる涙をじっとこらえる。
「俺たちの分まで長生きしてください、行ってまいります」と言われると、人前では絶対に涙を見せないトメさんはこの時だけはあふれる涙を止めることができませんでした。
トメさんは何もできないことに気を揉むが、手紙を両親に送ることを思い立つ。
「・・・小林殿は昨日突然やってきて、どちらに行くのと言っても口を開きまん。・・・ハッと気が付きました。・・・特攻隊の隊長として3月29日夕方には立って行きます。私から一筆知らせたいといったら、急に驚かせたくないので長く日が経ってから知らせてほしいと言われたが、父親様には知らせておきます。 お元気で長く長く生きて日本の勝つ日をお待ち下さい。・・・急いでお知らせします。 トメより」
2カ月の間に若い命が何百と飛んで行きます。

トメの気持ちは張り裂けんばかりだがグーッと堪えます。
昭和20年6月5日夜、富屋食堂では明日出撃する宮川軍曹の為に手料理を作っていました。
空襲警報が鳴り出して、防空壕に逃げ込む。
通りすぎると表に出るが表は真っ暗だった。
トメさんと兵士たちが歩いていると、何処からともなくちいさな光が横切る。
「ほたるだ」 川には無数の蛍が飛び交っていた。
宮川軍曹が「明日死んだらおばさんのもとに帰って来たいよ」というと一匹の蛍がスーッと宮川軍曹の前に止まる。
「おばさん俺明日死んだら蛍になって帰って来るから、追っ払ったりしないで」
「おばさんは待っているからきっと帰ってきてね」

一匹の蛍が富屋食堂に入ってきます。
「宮川軍曹が蛍になって帰って来たんだ。」
蛍は柱の梁に止まってほのかな光をともしています。
兵士たちは立ちあがって人前では決して見せない涙、大粒の涙を流して敬礼をしていました。
それから5日間特攻の盛期は続いて、最後は6月11日、たった2カ月で南方に消えた特攻兵の命、439名でした。
8月15日終戦を迎える。
トメさんは思う「あの子たちは死なんでもよかったんじゃないのか」
「誰か教えて下さい」トメさんは観音様に手を合わせ祈り続けます。
昭和62年2月特攻平和会館がオープンします。
トメさんは85歳になっていましたが、車椅子で列席、穏やかな顔をしていたと言います。
「うちの次女は宮川さん、あんたが好きだった。 宮川さんあんたが生きていてくれたらね・・・。 どんな時代になったとしても決して皆さんのことは忘れない。」
兵士の仮の姿だったのか幻だったのかトメさんの祈りが済むと、暗闇にほのかな明かりをともしながらスーッと飛んで行きました。
志半ばにして散った命、我々は宮川軍曹に恥じない人生を送っているんだろうかと問いたいと思います。」

この材材は決して軽いものではないので、涙した人もいたが、落語だから楽しく終わって欲しいというお客さんがいたことも事実です。
「ホタル帰る」の本 著者赤羽礼子さんがいて寄席でやってもいいかと問い合わせたらOKでした。
「ホタルの母」は落語だからこそ柔らかく伝えられると思う。
自分の想像の中で特攻、トメさんを捉えてもらえればいいのかなあと思います。
戦争の事を伝えて行くことが大事だと思います。
2005年にはじめて上演するがお客さんの反応は微妙でした。
泣いて下さる方と複雑な顔をしている人、二つに別れましたね。
平凡な一日、平凡な毎日はどれだけ尊いかということが、戦争を思うと判ると思います。
戦争は人を狂わせる、絶対してはいけないと思う。































2018年8月12日日曜日

大古誠司(男子バレーボール 元全日本監督) ・特選【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言

大古誠司(男子バレーボール 元全日本監督) ・特選【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言 (2007年11月23日OA)

1972年ミュンヘンオリンピックで金メダルを取る。
72年から25周年、30周年、35周年(今年)ミュンヘンに行ってきました。
20数名で行ってきました。
準決勝がブルガリア戦
日本は予選リーグは5戦一つのセットも落とさず。
ベスト4に残ったのが優勝候補筆頭のソビエト、東ドイツ、ブルガリア、日本。
日本とブルガリアが戦うことになる。
日本が2セット連取される。(1時間半経過していた)
「今から2時間お前たちが戦っていれば絶対勝つ」と松平監督から言われる。
第三セットも4-7とリードされる。
15-9で第三セットを取る。
第四セットも15-9で取る。
第五セットも3-9とリードされる。

ボールが僕の処に良く回ってきました。
12-11と日本が逆転しました。
セッターの猫田さんに「俺のところに持って来い」と叫んでいました。
エースは劣勢場面、辛い時に踏ん張れるのがエースだとずーっと教育を受けていたので、
踏ん張らなければいけないと思っていました。
奇跡的な逆転だったと思います。
決勝は翌日東ドイツ戦でした。
試合前に監督が「昨日お前らは死んだんだから、もう死のうと思っても死ねないから、今日は行こう。」という話をしました。
第一セットを失うがその後三セットを取り、金メダルを獲得する。
試合を開始する前に金メダルはいけそうだという思いがあり、最初ちょっと気のゆるみが有ったのかもしれない、東ドイツには負けたことが無かったので。
4年前のメキシコオリンピックは銀メダルだった。
東京オリンピックから8年計画でやってきましたので、これを逃したらないだろうと思っていました。

私は9人制上がりで、攻撃的な部分は自信が有ったが、レシーブ、守備のいいチーム作りを目指していたのでかなり毎日絞られました。
2m近くの人間のウエイトを二の腕で立てるぐらいのバランスが無いとボール処理ができないということで、当時私だけが出来なかったので逆立ち9m歩きを監督から言われてやりました。
1週間で出来ないとオリンピックに連れていかないと言われていましたが、まさか逆立ち9m歩きが出来ない位でオリンピックに連れていかなということはないだろうとたかをくくっていました。
1週間経とうとしててもできなかった。
練習は4時間でくたくたでしたが、その後に逆立ちをする訳です。
今日の夜12時までが期限だと言われて、段々松平さんの目が厳しくなってゆく。
1時間半が過ぎいつの時点からか力がスーっと抜けて行き、9m歩くことができた。
11人の選手が駆け寄ってきて良かったよかったと言ってくれて、訓練のなかで涙が出たのは初めてでした。
凄く友情を感じました。

神奈川県川崎市生まれ、5人兄弟の末っ子。
父を幼いころに亡くす。
小学校3年から朝学校に行く前に野球をやって、6年生までやっていました。
何故かキャッチャーが好きで将来ジャイアンツに入れたらいいなあと思いました。
中学では野球部が無くて2年生からバレーを始めました。
その前はブラスバンドのクラリネットをやっていました。
東芝学園から日本鋼管に入りました。
6人制は日本鋼管で始めました。
父も兄も日本鋼管でした。
昭和42年第一回に日本リーグでスパイク賞2位、敢闘賞、ベスト6にもなった。(19歳)
翌年松平監督の要請で全日本に入る。
同期の森田淳悟、横田忠義とともに全日本ビッグスリーとも称された。
6年間日本鋼管に在籍して、4回優勝、MVP2回、スパイク賞3回、6回ともベスト6に選ばれる。

メキシコ、ミュンヘン、モントリオールのオリンピックに出ましたが、毎試合試合前に痛み止めの注射をして膝、肩などの痛みをこらえてやっていて、満足に戦えたということはないです。
気力でやっていました。
昭和48年サントリーへ移籍をする。(25歳)
兄から「お前の学歴だと将来は工場に回されて3交替されるぞ」と言われました。
バレーボールを通して自分を見つめてくれるような会社があると嬉しいと思っていましたが、佐治敬三社長から話を頂き、「日本一のバレーボールのチームを作って欲しい、バレーボールの王古が欲しい」と言われました。
意気に燃えて入ることにしました。
チームが出来てから2年でトップリーグ入りを果たす。
現在のサントリーバレーの基礎ができたと思います。
1991~1995年に全日本の監督を務める。
その後オリンピックに参加出来なかったが、92年バルセロナオリンピックで6位になる。
初戦に3連覇を狙っていたアメリカと戦うことになる。

アメリカの選手が1セットで2回イエローカードがでた。
本来2回目はレッドにならないといけないが、イエローカードだった。
レッドになれば1点が加算され勝つことになり、試合は終わっているはずだった。
相手監督、審判団、国際バレーボール連盟の人達などに抗議して、私達の主張が通って2日間がかりの勝利を挙げた。
当時のメンバーがVプレミアリーグの監督かコーチになっています。
そのうちの3人を一度渾身の力で殴ったことがあります。
負けた時は物凄く悔しいので次に勝ってみせるということに持ち込まなくてはいけないので練習をする、そうすると勝つんです。
自分たちから向上心が生まれてくる。
ナショナルチームの監督になった時もあるが、選手はそれぞれの監督に指導されてきているが、やはり私自身尊敬されるような立場の監督でなくてはいけないと思います。
12人トータルでチームは出来るので、みんなを引っ張ってくれるので僕のチーム作りには上田は欠かせなかった。
松平さんと僕の気持名前は彼の頭の中にははいっていると思います。
彼のやっている練習は厳しいです。
男子はバレーボール離れになってきているのでオリンピックで活躍している姿を彼等になんとかやって欲しいと思います。。



























































2018年8月11日土曜日

2018年8月10日金曜日

笹本妙子(放送ライター)         ・平和への橋わたし

笹本妙子(放送ライター)         ・平和への橋わたし
21年前笹本さんは自宅近くにあるイギリス連邦墓地での戦没捕虜追悼礼拝の記事を目にします。
笹本さんはそこが日本で亡くなった戦争捕虜たちの墓地であることを知りませんでした。
墓地に眠るのは1942年から45年までに日本国内で死亡したイギリス、カナダ、オーストラリアなどの捕虜1720人です。
こんなに多くの人たちが何故ここに葬られているのか笹本さんはそのいきさつを調べ始めます。
16年前笹本さんは捕虜問題に関心を持つ人達に呼びかけて捕虜収容所の実態を調べます。
南方から日本に辿りついた捕虜はおよそ3万6000人、全国130か所の収容所に入れられ、鉱山、工場、造船所などで働かされます。
そしておよそ3500人が栄養失調や病気で死亡したとされています。
笹本さん達は調査とともに元捕虜やその家族との交流活動を積み重ね、消しがたい憎しみを解消することにも努めて来ました。
平和への橋渡し、笹本さんに伺いました。

POW(prisoner(s) of war 戦争捕虜)研究会という会を作って、英語でもホームページをだしていまして、頻繁に問い合わせがあります。
捕虜の御家族がたずねてみたいとか、しょっちゅうあります。
情報を提供してその人が何処に収容されていたのかと判ると、一緒に同行して収容跡地にご案内したりしています。
すべてボランティアでやっています。
英連邦戦死者墓地と言いますが、この墓地の存在を知ったのは40年前になります。
或る日、墓地に踏み込んでみたら無数の墓碑がならんでいてほとんどの人が1942年から45年に亡くなった人達でした。
なんでこの人達が戦死者として埋葬されているのか不思議でした。
図書館に行って調べに行ったが判りませんでした。
1997年にたまたま新聞での戦没捕虜追悼礼拝が行われたという記事を見ました。
埋葬されている人達は捕虜だったと書いてあり吃驚しました。

主催している方々が3人いました。
泰緬鉄道で通訳をやっていた長瀬隆さん、青山学院大学の雨宮先生、国際キリスト大学の斎藤先生が呼びかけ人になって戦後50年1995年から追悼礼拝を始めたということなんです。
雨宮先生のところに話を伺いに行ったら5時間に渡って話していただきました。
ビデオも見せていただき大変なショックを受けました。
日本が捕虜に対して想像を絶するような酷い事をして沢山の犠牲者が出て、元捕虜たちが日本に対して激しい憎悪を抱いているという事を初めて知りました。
イギリス、アメリカ、オーストラリア、オランダなどとはずーっと仲よくしてきたと私は思ってたんですが、激しく恨んでいる人たちがいることに物凄いショックを受けました。
日本軍は証拠を残さないという事で焼却されてしまったようでした。
捕虜の体験記の日本語訳などの本をたまたま見てすこしずつ判ってきて、本の訳者の人に連絡して教えていただいたりしました。
段々広がってきて、或る時田村良子さんに出会って、私よりも早く墓地とのかかわりを持っていました。
彼女は英語が堪能な人で願っても無いパートナーが出来き調査に取り組みました。

捕虜問題に関心をもっている人達が何人かいることが判り、POW研究会を立ち上げることにしました。(2002年)
日本国内に130か所捕虜収容所がありますが、発足した当時は20人ぐらいで数えるほどしか収容所のことは判りませんでした。
国会図書館にGHQ(占領軍)の資料が沢山所蔵されていることを福林さんが見つけました。
その中に130か所の収容所で亡くなった人の名簿が見つかりました。
どういう人がいつどういう原因で亡くなったかも書いてありました。
データベース化して会のホームページに英語にもして公表しました。
日本には3万6000人位連れてこられたということです。
死因は脚気、栄養失調、赤痢、マラリア、肺炎、工場での事故とか悲惨な状況でした。
味方の空襲や原爆でも亡くなっています。
墓碑を持たずに一つの棺の中に遺骨が多葬されている納骨堂があります。
九州の門司で亡くなった人達でした。
捕虜の輸送船が入港する門司港からの人達でした。
食事もろくに与えられず、トイレもバケツが与えられるような過酷な状況で、たどり着くかどうかで亡くなった人もいて一緒に火葬して一緒に埋葬したために識別できなくなってしまった。

1942年リスボン丸 イギリス人捕虜1800人を乗せて日本に向かう途中、上海沖でアメリカの潜水艦に攻撃されて沈没して半分が亡くなる。
捕虜は船底から脱出するが、仲間を蹴落として生き残ったと言う人がいて、彼が戦後大きなトラウマになって罪悪感、捉われている時の恐怖の時間などに苦しむわけです。
広島につれていかれて焼跡の片付け作業に駆り出されて、素手で黒こげの遺体を掴んで作業したと言っていました。
広島に行ったことを話したら医者から「あなたはきっと子供は生まれないだろう」と言われて、実際彼には子供に恵まれなかったと言っています。
彼が日本に来た時には断片的だったのでイギリスに行って詳しく聞きに行きました。
私たちが頼りにする資料は外国の資料からしか求めようがないです。
捕虜の体験記、来日した人達からの証言、外国に行って得た証言などから調査してきました。
元捕虜の人たちは日本に対して激しい憎しみ、怒りを持っています。

元捕虜の人も平均年齢が95歳になっているので日本に来られる方は少なくなって子供、孫世代が来ます。
収容跡地、墓碑などに案内して彼等の話を聞いたりします。
新潟県に直江津捕虜収容所があり、オーストアラリア人が300人位収容されていて60人が亡くなっている。
戦犯裁判で直江津捕虜収容所から8人の日本人が絞首刑になっている。
直江津の人にとってはタブー視されていたが、元捕虜の人から地元の高校に手紙があり、直江津ではお世話になりましたと言うことで、手紙がもとで収容所のことに地元の人が調べ始めて、双方にも犠牲者を出した歴史を放っておいてはいけないという事、運動が盛り上がって、収容所跡地に平和公園を作り、モニュメントを作り、捕虜の慰霊碑、日本の絞首刑の人達の慰霊碑の両方を作ったんです。
オーストラリアとの交流が展開されてきたが、日本人の慰霊碑に関してはだれも近づく人がいない。
日本人の慰霊碑を建てることはオーストラリアからは凄い反対が有ったそうですが、日本側が押し切って建てたそうですが、捕虜側から認められなかった。

外務省がアメリカとオーストラリアの元捕虜を日本に招へいするプロジェクトをやっていて、ヒルさんが再び来て日本人の碑にも自ら献花したそうです。
周りは吃驚したそうです。
ヒルさんに何故献花したのかを問い合わせると、「彼らも彼等の家族遺族も悲しい思いをしただろう」と言ったそうです。
そう思う様になるまでには長い年月がかかっているんだろうと思います。
憎しみをいかに解きほぐしていくかということはなかなか難しいことだと思います。
泰緬鉄道で通訳をやっていた長瀬隆さん、通訳として或る拷問に立ち会った。
そのなかにいたローマックスという人が戦後もずーっと恨み続けた。
通訳の声を通して拷問された。
長瀬さんはタイに行って贖罪の活動をやってきた人だったが、或る時ローマックスさんはそのことを新聞で知ったが、妻が私の夫はあなたを許してはいませんと手紙を送ってきた。
長瀬さんはショックを受けるが、ロ-マックスさんに手紙を送り続けるが許すという言葉は出てこなかった。

或る時ロ-マックスさんが日本にやって来た時に、旅を共にしても思いは変わらなかった。
最後の夜に自分の部屋に呼んで初めて赦すというふうに言ったそうです。
長瀬さんは理不尽であると思ったが、日本軍の一員であると思って責任を果たさなくてはいけないと思った。
お互いに生生しい傷があるからお互いに赦しに至らない、和解がいかに難しいことかと思いました。
戦争中のことは時間が経って赦すことは出来るけれども忘れることはできない。
戦争は無残なものむごいものだと皆さんおっしゃいます。
戦争で何があったか掘り起こして記録して次の世代に伝えて行くことが、私たちの役割、責任ではないかと思っています。
戦争は絶対に起こしてはいけないことだと思います。






























































2018年8月9日木曜日

鴻上尚史(作家・演出家)         ・奇跡の特攻兵から見えること

鴻上尚史(作家・演出家)         ・奇跡の特攻兵から見えること
昭和33年愛媛県出身、早稲田大学在学中の昭和56年劇団「第三舞台」を結成し、以来演出家としてキャリアーを積んできました。
又エッセーや演劇関係の著書も多くTVやラジオの司会者としても活躍しています。
NHKの番組ではクールジャパンの進行役でおなじみです。
去年「不死身の特攻兵」というノンフィクションを出版されました。
作品には9回出撃し9回生還した特攻兵が描かれています。

「ローリングソング」8月11日から初日を迎えるのでてんやわんやです。
(作・演出:鴻上尚史 出演:中⼭優⾺ 松岡充 中村雅俊 /森⽥涼花 久野綾希子)
中山優馬、松岡充、中村雅俊がトリプル主演を務め、二十代のミュージシャン、四十代のビジネスマン、六十代の結婚詐欺師という夢に翻弄される三世代の男たちの物語が描かれる。
昨年「青空に飛ぶ」「不死身の特攻兵」2冊を出版 特攻兵をテーマにした話。
TVでアニメなどの戦争ものが多かった。
子供心に何故そんなことが起こったんだろうと、心の中に引っ掛かっていました。
本では8回出撃して8回帰って来たと紹介されていたが、僕は最終的には9回出撃し9回生還した特攻兵がいらしっていてそれが佐々木友次さんでした。
本で2009年に知りました。
特攻から帰って来た人間だけを博多に作った寮で軟禁して外出させないようにして特攻から帰ってきたことを隠そうとした。(陸軍の正式な記録には残っていない。)

2015年にあるプロデュ―サーと親しくなってそのことを話したら、佐々木さんは生きていますと言う事だった。(札幌の病院に入院中 92歳)
早速会おうと言うことになりました。
行ってみたら転院していて、看護師からは一切情報をもらえなかった。
息子さんの名前が判っていたのでインターネットで調べたら、ある会社の役職をしていることが判りました。
手紙を書いて連絡が取れました。
しかし父は喋りたくないということで、顔だけでもいいからということで会いに来ました。
糖尿病の為目が不自由でけがをして入院したとの事だった。
亡くなる3カ月前に会えてその後1カ月で5回お会いすることができました。

佐々木さんは小さいころから飛行機が好きだったそうです。
陸軍に入って21歳のとき陸軍最初の特攻隊「万朶(ばんだ)隊」に選ばれる。
万朶(ばんだ)=多くの花の咲くの枝
海軍は「神風」
後期の特攻隊員は未熟なパイロットが選ばれたが、初期の特攻はベテランから選ばれました。
爆撃ではなく体当たりしろということで凄く怒ったそうです、プライドがある人々の存在そのものの否定だった。
隊長が我々の役目は敵の戦艦を沈めることであって、我々は体当たりして死ぬことではないんだと、だから何回も行っていいんだと言う話だった。
爆弾を整備兵が落とせるように工夫してくれて、1回目出撃して爆弾を落として小型の船を傷つけた。
米軍機が大挙来るので撃ち落とされるか、早く引き上げるしかなかった。
佐々木さんは戦艦を沈めたと報告されてしまい、軍神になって新聞にも出るし、ラジオでも放送され、天皇にまで報告されて大変なことになります。

戻って来た時には上層部は大変困ってしまった。(天皇にうその報告をしてしまった。)
求めることは次の特攻で死ねば帳尻が合うと言うことになる。
「次は死んでこい」と言われる。
2回目は夜間出撃で難しくて一機事故で爆発して出撃が中止になる。
3回目は出撃の時に儀式の好きな上官がいて、上官などが話をしているうちにアメリカ軍の空襲がきて爆撃で友人の伍長が亡くなったりしてしまった。
4回目は絶対死んでこいと言われたが、「爆弾を落として船を沈めるのが私の仕事です」といったが、「爆弾を落として船を沈めた後、お前は体当たりして死ね」といわれた。
途中でアメリカの編隊が来て、こちらの護衛機は数機で隊長機はUターンしてしまった。
特攻は一機だけで佐々木さんを死なすのはおかしいということで守ってくれたというのが4回目だった。
5回目はいきなり遠くの方に敵軍がいることが判って、特攻機は評判の良くない速度の遅い飛行機だった。
機銃とかは一切ない丸裸の飛行機なので引き返した。
6回目は爆弾を投下して輸送船らしきものを沈め、帰ってきたが沈没させたことよりも帰ってきたことをなじられる。
敵の船を沈めたと発表されて2回目の軍神になる。(戦死と扱われる。)
盛大な葬式が地元では行われる。

最初の海軍の特攻で商船を改造した防御の弱い護衛空母を一機の250kg爆弾を抱えた特攻機がたまたま撃沈した。
それが護衛空母ではなく「空母」を一機で撃沈出来たと誤解を起こしてしまう。
飛行機が突っ込んでいくということは爆弾を落とす速度よりも半分だし、アルミの機体なので特攻に反対した軍人が言っていたのは、「コンクリートに生卵をぶつける様なものだ」と言っていたそうです。
ベテランパイロット達は効果が無いことを主張していた。
特攻が続いたのはキャンペーンとしか思えない。
純真な若者たちが命を犠牲にして体当たりをしている、戦争に対して気合いが足りないのじゃないかと、内部向けのキャンペーンになっていたとしか思えない。
最初は特攻も多少効果が有ったがアメリカは直ぐに対応し、効果が激減した。

7回目離陸に失敗、8回目はたった一機で出撃、ここでたとえ戦艦を撃沈しても戦果確認機さえいないということだった。
9回目は機体不調で戻ってくる。
その後出撃命令が出るがマラリアにかかって戦況が悪くなりアメリカ軍が侵攻してきて山の方に逃げてゆく。
最後は山の中で終戦を迎える。
捕虜収容所を経て1946年1月に日本に帰って来る。
このまま帰ってもらったら困るので、山の中にいるころに殺そうかというようなこともあったようです。
佐々木さんは「寿命が有ったんだ」といっているが、岩本大尉に「死ぬな」と言われたこともあるし、父親が日露戦争で厳しい状況があり「人間簡単に死ぬもんではない」といっていたが、私が思ったのは佐々木さんは本当に空を飛ぶことが好きで、戦場に向かう時には「怖いと思ったことが無くてどきどきわくわくしていた」言っていて本当に飛行機に乗るのが好きだったんだと思いました。

日本に戻ってきても辛い目にあった。
この本が出てから、いとこの方から1年前から自分の経験したことを本に出したかったという事を佐々木さんが言っていたという事を手紙でもらいました。
タイミングとして奇跡的だったと思います。
生還した特攻の人たちがものを言いにくい状況がずーっと有ったと思います。
死ぬことを前提の命令が何故生まれたのかを検証しないといけないと思います。
命令する側命令される側、最近のスポーツ界の不祥事と構造が同じだと思います。












2018年8月8日水曜日

奥田豊治(入市被爆者)         ・被爆の実相を語り継ぐ

奥田豊治(入市被爆者)         ・被爆の実相を語り継ぐ
奥田さんは88歳、原爆が投下された後に広島に入り被爆した入市被曝者です。
奥田さんは山口県下関市で少年時代を過ごし、旧制中学4年の時に陸軍予科士官学校の試験を受けました。
昭和20年8月6日奥田さんは自宅に来た憲兵に広島に行けと言われ、列車で広島に向かいました。
3日後の8月9日広島に入った奥田さんは、被爆した街の惨状や人々を目撃しました。
奥田さんは家族を含め自分の被爆体験を語ることはありませんでしたが、75歳の時に初めて公の席で体験を語り、以来被爆の後遺症と戦いながら体験を伝えることに力を入れています。

子供時代は友達と原っぱを駆け回る普通の少年でした。
小学校の2年生の時に日中戦争が始まって、まもなく南京陥落の提灯行列とか旗を振って出征兵士を送るとかしていました。
15歳の時に陸軍予科士官学校の試験を受けました。
陸軍予科士官学校は陸軍の幹部将校を育成する学校です。
一次試験に合格して、憲兵が来て親戚等々の調査をしました。
満足に中学に行ったのは1年だけで、2年になると1週間は農村に泊り込みで作業して1週間学校に帰るというような生活で、3年生になると工場に行きました。
ジュラルミンの素材、パイプをつくる工場でした。
夕方家にいたら憲兵が見えて広島が大変なことになって君もすぐに来いと言われました。(6日)
1945年8月8日朝列車に乗り込みました。
フッと目が覚めた時に暗くて西広島駅(当時己斐(こい)駅)であたりを見ると、ホームはあるが駅舎はボロボロでした。
次に目が覚めたのが、横川という駅でここは何にもありませんでした。(爆心地から2.5km位の処)
焼夷弾によるものとは全然違う感じでした。

山を見ると山肌が焼けていて一体何なんだろうと思いました。
太田川の鉄橋にさしかかり、下を覗いてみたら真っ黒くなってパンパンに膨れ上がった沢山の馬でした。
広島駅は壁だけが残っていました。(9日の朝)
陸軍中国軍司令部が広島城の中にありそこに行こうと思ったが、一面ぐしゃっと上からやられた光景でした。
まわりには聞く人もいなくて線路を歩いて行きました。
電車のモーターの銅線が溶けた光景を見て、いったいどんな熱なんだろうと思いました。
電車はがらんどうでした。
人の焼ける臭いがして来て本当にいやな臭いでした。
街の中の様子はペチャンコになっていて何にもありませんでした。
ところどころに鉄筋コンクリートがあるだけでした。
広島城にようやくたどり着いたが、なにもありませんでした。
将校がいてこういう訳で来たと説明したが、「今こられてもなんにもわからん、直ぐ帰れ」と言われました。
いっぺんに気が抜けてしまいました。

気が付いたら凄く喉が渇いてました。
水を探しもとめていたら、蛇口を見付けチョロチョロ出ている水を飲みました。
そこに座ってフッと見ると今でいう原爆ドームがありました。
焼けたボロが一杯積んであると思ったら原形をとどめない亡骸で、それが沢山ありました。
一体何なんだろうと思い吃驚しました。
空襲で焼かれて亡くなられた方は下関で何体も見ていて神経が麻痺していたが、それでさえもえーっと思うほど酷い状態でした。
とにかく下関に帰ろうと山の方へと歩き始めました。
まわりは地獄絵図でした。
私の前を棒きれを持ってヨタヨタと歩いている小学4,5年生を見ました。
シャツが破れて足の処に覆いかぶさっていると思ったら、背中の皮膚が剥げ落ちていて「お母さん、お母さん」といって歩いていました。
軍国主義にすっかり洗脳されている私が「戦争がいやだな」と思いました。
なんとか広島駅に着きました。
操車場があり貨車が一杯止まっていて、石炭を積む貨車があり、筑豊炭田に行くに違いない、下関を通ると思ってよじ登り疲れ果てていたので眠ってしまいました。

気が付くと貨車が動いていました。
大竹という駅がありもうすぐ山口県だと思ってまた眠ってしまいました。
親には広島でのことはどういう訳か詳しいことは話せませんでした。
8月15日 工場に行っていて作業をしている時に、重大放送があるので集まれという放送があり、聞いていたが何にも判りませんでした。
当時工場には1万2000人程度いました。(中学生、女学生がほとんど)
中央広場に全員が集められ、所長から日本が無条件降伏したという天皇の放送が有ったと知らされました。
愕然としました。
占領軍が来たら一矢報いようと友達と話し合ったりしていました。
アメリカ軍が入ってきてジープのスピードとライトの明るさに吃驚しました。
軍を初めとする人達に自分たちは騙されていたということが段々強くなりました。

大学に行って会社で会社員、役員として第一線で仕事をしてきました。
必死になって働いていて自分の体験を話すことはありませんでした。
長崎に3年間生活して、改めて原爆の事を思い知らされて、体調にも変化が出てきて被曝の事を思い出し、且つ実感するようになりました。
高校生の男女が観光客に対して被爆の話をしていて吃驚しました。
祖父母などから聞いていたとの事だった。
伝えなければいけないことだから話をするということでした。(71歳の時)
自分で被曝をして被爆者手帳を持っているのに何にもしていないということで、本当にこれでは駄目だと思って自分も外に向かって話をするようにならなければいけないと思いました。
本格的な動きは東京に帰って来てからで75歳になったころからでした。
江戸川区原爆犠牲者追悼碑が40年前に出来て、その翌年から追悼式があり被爆体験を話すことがあり、当時の会長から話をして欲しいと言われて初めて話をしました。
伝える責任と義務があると思います。
私が江戸川区の被爆者の会長になって、ある中学校に行って全校生徒に話をする機会がありました。
フッと見たら女の子が泣いていてちょっと伝わったのかなあと嬉しかったです。
今があるということは戦争が無いからです。
そのことを先ず判ってほしい、当たり前と思うかもしれないけれども決して当たり前ではない。
核兵器を使ったら地球はそれこそなくなってしまう、どんなことが有っても戦争はしない、平和を守ろうよと云うのが私たちの願いだし、それを伝えて行きたいと思っています。























































2018年8月7日火曜日

熊谷志衣子(鋳物師 南部鉄器工房15代当主) ・鉄瓶に熱い思いを注いで

熊谷志衣子(鋳物師 南部鉄器工房15代当主) ・鉄瓶に熱い思いを注いで
1946年生まれ、岩手県の盛岡市で鉄瓶や茶釜など作っています。
熊谷さんが受け継ぐ工房は鈴木盛久工房と言われて400年続く老舗です。
熊谷さんはその15代目、この工房では代々が名工として知られ13代は国の無形文化財保持者に認定、14代は東京芸術大学教授として鋳物の世界の研究と指導に当たってきました。
熊谷さんは初のの女性後継者として15代を襲名、鋳物作りに取り組んでいます。
昔から伝わる道具の良さを見直してほしいと語る熊谷さんに伺いました。

盛岡は茶の湯とか鉄瓶とかを作っていました。
南部藩のお殿様が藩の産業として鉄器作りを奨励して、その材料は自分の処で全部まかなえました。
砂鉄、鋳物に適した川砂が取れました。
粘土も耐火性の粘土、漆も取れました。
金閣寺の修復も岩手の漆を使っています。
茶の湯釜は京都から釜師を呼んで、武士の作法として殿さまが奨励しました。
代々男性でしたが、父が14代で東京芸術大学教授で退官してから盛岡で継ぐ予定でしたが、現役で早く亡くなりました。
私が継ぐまでにはブランクがありました。
私は彫金をやっていましたが、やろうと思って40歳の時に始めました。
鋳型が重くてどんなに頑張っても持てないものがあります。
世間では私が継ぐことには吃驚したと思います。
自分でなんでもやらなければと思って、無理をしてぎっくり腰も何度もしました。

工程は50以上の工程があります。
先ず鋳型を作ります。
デザインした図面の平面の半分を鉄板で切りとったものがゲージとなり、型の中に入れて回転させます。
曳き型という技法です。
材料は川砂を焼いて細かく砕いて細かいものから粗いものまでをふるい分けます。
芯土(まね)は細かいふるいでふるったものです。
粗いものから型を作る、粗い所に細かいものが入って行くので、寸法的には最初から終わりまで変わらないです。
芯土(まね)はベビーパウダー位の細かさなので、それに耐火性の粘土を水でといだものを合わせて、トロトロにした感じで最後は仕上げます。
型が乾かないうちにあられ模様、色んな模様を押しますが、漆を濾す薄い和紙に墨で絵を描いてそれをひっくり返して水で貼り付けます。
模様に合わせてヘラで押して模様を表現します。
強く押したところが出っ張った表面になります。
細かいところは最後の方の作業になります。

鋳型が出来たら型をしっかり焼いて、焼き型は髪の毛一本でも綺麗に出ます。
型に中子用の専用の砂を詰めて、上下に型が有って、上下に取れないと中子は作れない。
鋳がたから外すとちょうど同じ立体が出て来ます。
中は中空になっていて、同じ丸いものがもう一つ出来る訳です。
それを厚みの分だけ砂を削ります。(削りすぎると本体が厚くなってしまう)・・・削り中子
削り中子を中に収めて鋳型が完成する。
湯口から鉄(1300℃位)を流し込んで、冷えて行って固まります。(一番神経を使います)
翌日に鋳型をはずします。

まだ中子砂が入った状態なので、それを掻きだして、バリを取ったりして整理します。
そのままだと臭みもあり錆びやすいので逆さにして炭火に1時間ほど焼いて表面に酸化被膜を作ります。
一回磨いて外は綺麗にして、もう一回軽く全体に薄い被膜をかけて漆を焼き付けます。
おはぐろを上に塗って、落ち着いた色合いになるようにします。
(全体の工程がいまいち理解できない)
漆、砂、鉄、粘土のことなどを理解しないといけないし手間も掛かります。
分業でやっていますが、例えば鉄瓶だともし一人でやるとなると1カ月はかかります。
茶の湯釜 季節感を大事にする。
柄杓が入らないといけないので、形状にも多少制約があります。
図面の段階できっちりしないと、最初からやり直さなくてはいけない。

今はヨーロッパでは白とかピンクとか装飾していますが、それは鉄瓶ではなくて急須なんですね。
用途が違うので分けて考えて行かないとだめだと思います。
鉄瓶を使ってお湯を沸かすとおいしいです。
お湯を沸かしてポットなどに全部入れて、鉄瓶の蓋を開けておくと余熱で乾燥するので錆びたりはしません。
お茶がおいしくて使い始めたらやめられませんとよく言われます。
小学生が見学に来ますが、おばあちゃんところで使っているよとか言って、そういうのっていいなと思って聞いています。
昔は街中に何軒もありましたが、今は3軒になってしまいました。
戦争で鉄の仕事ができなくなってしまったことが大きいと思います。
昔の鉄瓶はでっぱりが立体的でしたが、今は薄い模様になってきました。
古典的なものをやってみたいとは思いますが、結構難しいです。

































2018年8月6日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)   ・【近代日本150年 明治の群像】大槻文彦

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)   ・【近代日本150年 明治の群像】大槻文彦
講談師 神田 蘭
日本で初めて近代的国語辞書『言海』を編纂した大槻文彦

講談による紹介
弘化4年(1847年)江戸木挽町に生まれる。
祖父に蘭学者の大槻玄沢、父は洋学にも通じた儒学者・大槻磐渓
子供のころから勉強好きだった。
明治8年28歳の時に文部省に勤めているが、上司から編纂を命じられる。
「一国の国語は外に対しては一民族たる事を証し、内にしては同胞一体なる広義感覚を固闋せしむるものにて、すなわち国語の統一は独立たる基礎にして独立たる標識なり」と述べる。
一つの語の語源を調べるために知っていそうな人を探して尋ね歩いたり、方言について尋ね歩いたり、本を直ぐに買えるように常にお金を持ち歩いていたようである。
編纂にあたって引用した書籍は3000巻にものぼったそうである。
17年間を掛けて、日本初の国語辞書『言海』が世に出る。
その間に娘が脳膜炎で亡くなったり、妻が腸チフスで亡くなったりした。
昭和3年まで生きていた。

祖父の蘭学者の大槻玄沢は杉田玄白前野良沢 から可愛がられた弟子一字ずつ名前を取ったという。
「玄」「沢」
当時公用語は漢文。
仙台で大槻磐渓は奥羽越列藩同盟の理論的指導者と言われている人。
大槻磐渓が育てた人物としては但木土佐、玉虫左太夫とか奥羽の戦の張本人として断罪になっている。
弘化3年(1846年)アメリカ東インド艦隊司令長官ビドルが浦賀に来て通商させろと来たが、幕府は拒否する。
嘉永6年(1853年)ペリーが浦賀沖に来て日本に開国を迫って、翌安政元年には日米和親条約を結ばざるを得ない状況になる。
大槻文彦は文久元年(1861年) 15歳になり林大学守の門に入る。
16歳で洋書調べ所に入学。
当時教えていた人、オランダ医学長老の箕作阮甫(みつくり げんぽ)、西周 津田真道、加藤弘之らがいた。
勝海舟が箕作阮甫(みつくり げんぽ)先生に弟子にして欲しいと言ったが、外国語は努力が必要だといって、江戸っ子はすぐ飽きるから駄目だと言って、門前払いになったとの事。
当時は蘭学から入って英語を学んでいった。

大槻文彦は文久2年10月、仙台に向かい、仙台藩 養賢堂に入学。
翌年17歳で主立(助教)になる。
慶応2年江戸に向かう。
戊辰戦争で父親が捉えられてしまう。
仙台藩が降伏して奥羽越列藩同盟が崩壊して、首謀者として捕まってしまう。
大槻磐渓が育てた但木土佐、当時秀才として鳴り響いていた。
玉虫左太夫、第二の坂本龍馬と言われていたが、次々に死罪になる。
兄大槻如電とともに父の助命嘆願に奔走することによって、父は助かる。
大槻文彦はさまざまな学問分野に優れていた。
大学南校を経て1872年に文部省に入省。
日本は独立国であるし、西欧列強ともちゃんと付きあっていける国だと言う事を明治政府は海外に対して言ったわけで、言語は非常に重要になってくる。
日本の言葉をきちっと定めなくてはいけなかった。

それまでは藩ごとの言葉が有ったし、町人言葉などがあった。
最初に英和辞書を作るように言われる。
文部省師範学校に行くように言われて、仙台にも師範学校を作ることになりそちらに向かうことになる。
明治7年に東京に戻ってくる。
1875年に、当時の文部省報告課長・西村茂樹から国語辞書の編纂を命じられる。
1886年に『言海』を成立、その後校正を加えつつ、政府にはお金が無いということで1889年5月15日から1891年4月22日にかけて自費刊行した。
収録語数が3万9100あまり。(現在の広辞苑 25万語)
記述の文法がしっかりしていた。
解釈の方針に一貫性があり、ぬきんでていた。
政治、経済、自然科学、文学、芸術にいたるまで幅広く論じることができるようになった
日本語のもとになったと言えることで非常に評価が高い。
判らない言葉は用例のいくつかの中から類推するという方法しかなかった。
1891年6月23日、文彦の仙台藩時代の先輩にあたる富田鉄之助が、芝公園の紅葉館で主催した『言海』完成祝賀会には、時の内閣総理大臣・伊藤博文をはじめとし、山田顕義、大木喬任、榎本武揚、谷干城、勝海舟、土方久元、加藤弘之、津田真道、陸羯南、矢野龍渓ら、錚錚たるメンバーが出席した。












2018年8月5日日曜日

松島みのり(声優)           ・【時代を創った声】

松島みのり(声優)           ・【時代を創った声】
高校卒業してから本格的に演技の勉強を始めてから50年以上の経歴を持つ松島さん。
アニメでは1965年に放送された「未来から来た少年スーパージェッター」がレギュラーとしての最初の作品です。
その後アニメ「キャンディーキャンディー」のキャンディスホワイト、「マジンガーゼット」のユミサヤカ、「怪物くん」、「どろろ」など多くの作品に出演してきました。

「キャンディーキャンディー」1976年からTVで放送。
或る日事務所に行ったら本が置いてあって「やってみるかい」と言われ数ページ読ましてもらったら笑い声が一体化した感じで、もしかしたら私が「キャンディーキャンディー」をやるかもしれないと思いました、それで決まりました。
絵が可愛い、お話も素敵でこんなの出来るかしらとフッと思ったことがありましたが、無我夢中でやっていました。
割合楽しくやれました。
ヒロインは役が出来あがっていて台詞を言っていけばその役になって行くと言う感じが私はします。
ヒロインをやると言う利点はその役者にとってもうちょっと苦労した方がいいと思う人にとっては物足りないかもしれない。

共演された 富山敬さん、井上真樹夫さん、肝付兼太さんなどそうそうたるメンバーです。
富山敬さんとは年齢が近いのでほかのアニメでもよく共演しました。
井上真樹夫さんはちょっと大人です。
肝付兼太さんは番組を盛り上げて言った覚えがあります。
今でも声優を続けているのは「キャンディーキャンディー」をやったということが一つあると思います。
運が良かったということもあります。
幸せな作品でした。

ラジオで育ってきて、古賀さと子さんが大好きで憧れていました。
元祖声優は中村メイコさんだと思います。
NHKの俳優養成所に入りました。
演技の勉強をしました。
養成所で学んだ人達が卒業して「劇団30人会」を作りました。
或る日ディレクターが来て、男の役をやる人はいないかと言うことで人形劇でサブちゃんという役をやりました。
仕事は早くからありました。
「劇団30人会」に2年ぐらいいて次に「劇団新劇場」に2年ぐらいいました。
「チロリン村とクルミの木」に出演、そこで黒柳徹子さんから音楽の指導を受けました。
1963年アニメ「鉄腕アトム」にアニメとしては始めて出演。
1965年に「スーパージェッター」にレギュラーとして出演。 水島かおる役
このころはものすごいハードでした。
一番自分の中で声を作らずに普通にやってやれた役だったのですごく楽しかった。
「マジンガーゼット」「怪物くん」、「どろろ」などをやって「キャンディーキャンディー」に繋がって行く。

結婚妊娠して声だけならということでやっていました。
主人の両親が一緒に住んでいて見てくれていたので子育てはあまり苦労せずに済みました。
声で演じ分けるので、人生の一部を切り取ってそこの部分を演じる訳だからその人生をフッと思ってそれを理解できなくてはいけないと言った人がいて、結構難しい事なんだよと言ってくれた人がいますが、昔はブラウン管から飛び出すような声をと言われたが今は違う、感情を表現できる方が主流だと思います。
私はちょっと古いのかもしれない。
絵を見てその役に入って行く。
アニメは100%声の役者の役者次第だと言う人もいます。
アニメーションに行ったということはよかったと思います。
悔しい思いは結構していますが、いいの、知らない、あまり悔しいと思わない方がいいと思う。
私は結構自分を肯定します、これでいいんだと。
前向きに、とらわれないで、無理せずにやって行きましょうということになってしまうのかなあ。

声優の面白さは、それは自由自在、小さい子からお婆さんまでとか、やろうと思えば全部できる。
声優というのは昔は劇団の若い方の役者がアルバイトみたいの形でやりはじめた。
主役をやるような人達は凄く一生懸命努力している。
「声優になりたいって あなた」って言いたくなりましが、我々世代になって行くと教える人も多くなって、寸法を合わせるのはうまいけれども個性がないと言う人もいますがそれは判ります。
自分を確立すると言うことが無いというか。
滑舌はちゃんとやった方がいいし、理解を深めたり広めたりするのには読書は可能性を広げたりすると思います。
私は人と同じじゃいやというのがどこかにありました。
言わないと人は判ってはくれないということは思ったような気がします。
抜きんでると言うことは難しいことだと思います。
チャンスが全くないということはないと思うので、訓練して僅かなチャンスを逃さないということは必要だと思います。
諦めないということも大事だと思います。
「今日行く」(今日行くところがある)「今日用」(今日用事がある)それに「無理をしない」を付けくわえて今後やっていきたい。





















2018年8月3日金曜日

上野 司(農業)            ・雑穀が結ぶ地域のきずな

上野 司(農業)            ・雑穀が結ぶ地域のきずな
71歳、経営は御子息に譲りましたが、いまも農業を続けています。
二戸市足沢は農業と林業の集落で年々少子高齢化が進んでいますが、15年前集落に残った人達と「気張って足沢70の会」を作りました。
そして昔懐かしい行事や雑穀料理でもてなし、毎年都会からバスツアーの観光客を迎えるまでになりました。
この地方は太平洋側から吹く冷たく湿った東よりの風、山背(やませ)の為稲作は冷害に見舞われることが多く、冷害に強いひえ、あわ、きびなどの雑穀が貴重な食料として作られていました。
その雑穀も戦後生産が途絶えていましたが、平成に入っての健康食ブームで生産が蘇り、雑穀料理が地域おこしの主役となりました。

80戸近くあったが50戸位になってしまいました。
高齢化は進んでいます。
足沢小学校があり、100名位いましたが現在は学年ごとに1~2名になってきました。
今年の天候は不安定で作物にとってはまずい天気です。
山背(やませ)に強いという雑穀が栽培されていたと昔の人から聞いています。
冷害で米が取れなくて、あわ、きび、アマランサスとか栽培されてきました。
米の栽培はしていたが、3~5年に1回とか山背に負けて取れなかった。
土蔵で湿度温度を管理して雑穀、食べ物を保存して2~3年に渡って食べていました。
もちひえ、あわ、いなきび、たかきび、アマランサスそういったものが中心になります。
たかきび、いなきびはイネ科の植物です。
たかきびの実は粒が一番大きくて茶色っぽい皮をかぶっています。
きび団子のもとです。
あわは沢山実がなっています、粒が小さい。
あわを煮込んで水あめみたいなものをつくってそれをせんべいにつけて食べた思い出がちょっとあります。
マグネシウム、鉄分が多い。

全国的に見直されています。
95%以上は外国から入ってくる。
国内では3~4%でその中の一部が私の処で作っています。
足沢の人口は150人を切りました。
「気張って足沢70の会」を立ち上げました。
70戸を維持したいと思って15年ぐらい前村おこしをしたいと始めました。
最初はこの村にお客さんのおもてなしをしようなんて出来るわけがないと逃げ腰でした。
段々やっているうちにお客さんから来年もやって下さいと励ましがあり、リピーターがあり現在まで続いています。
巨木、古木とか、800年の古い歴史があり、清光寺、足沢城のお城の跡地などがあります。
雑穀郷土料理ということでお客さんに提供してきました。
足沢家のお墓があり墓誌に800年の歴史が書いてありました。

この町には下水道、上水道も無く、信号もありません、たまに来るのが回覧板ですと言って笑わしています。
観光バスで来るようになりました。
延べ人数で5000人位になります。
雑穀料理のメニュー 天ぷらを揚げたものに粟をまぶしたり、添加物的な役割だと思います。
すいとん=ひっつみ、ご飯には白い米に黄色いいなきびを入れて炊きます。
ごぼうのいなきび炒めなど。
普段の料理に雑穀をふんだんに混ぜたものが雑穀料理になります。
健康には非常にいい事が判りました。
3人の主婦が中心になって料理の研究をして雑穀料理を完成させました。
お客さんから素晴らしい料理でしたと言われて、喜んで積極的に取り組んでいきました。
会員も初めは厭がっていました。
農家の方はお客さんを接待するのが非常に苦手でした。
ありのままの姿を見せるのもお客さんに好感をもたれる一つの材料だと思います。
ローカル弁を出して話をすると友達になれることができるんです。
リピーターが増えて盛り上がってきています。

会員は22,3名ですが、70名のお客さんをおもてなしをすると云うのは並大抵ではありません。
雑穀料理、山菜、牛乳など、ここで取れたものを中心に料理しています。
2月(小正月行事)、5月(山菜の体験料理)、9月(お山街道散策を楽しむ会)の3つの大きなイベントとしてお客さんを迎えていました。
1回で観光バス1~2台、年間300~400名を迎えています。
小正月行事には五穀豊穣を願って餅つきをして、ひとつは米、あとはもちひえでの餅(ひえ餅は作れないが新しい品種 もちひえを発見しました)です。
岩手大学の星野先生が5000粒に中から1つ有ったそうで栽培して増やしました。
これはどこにもありません。
平成20年度に農林水産大臣賞を受賞しました。
雑穀料理を試食してもらって翌年にいただきました。
県知事賞などいっぱいもらいました。
限界集落の歯止めになればいいなあと思っていますが。

昭和42年に高校卒業後、東京に出るが農家の長男なのでいずれはという思いはありました。
自分なりに農業の勉強をしました。
米が中心で畜産、林業もやってきました。
小麦栽培もやってきたが、価格が下がってきてしまい、雑穀に切り替えました。(20年ぐらい前)
雑穀は農協との契約栽培でした。
一旦はゼロになった雑穀栽培が復活しました。
無農薬栽培には苦労しました。(面積が広くなると厳しい)
南米、中国産とか外国産が95%以上になっている。
息子が東京から帰ってきてくれて、自分で工夫してやっています。
農業の難しいのは1年で一回の経験しか無くて、そこが農業の難しさです。
































2018年8月2日木曜日

原 ゆたか・京子夫妻(児童書作家)    ・目指すは"プロの小学生"

原 ゆたか・京子夫妻(児童書作家)    ・目指すは"プロの小学生"
かいけつゾロリ』シリーズは主人公の狐のゾロリがお伴のイノシシ兄弟を引き連れて悪戯の王者をめざして旅する物語です。
見どころは道中の様々なトラブルを思いもよらない知恵や工夫で乗り越えるところで、展開を夢中で追って行くうちに一冊を読み終わってしまう魔法の本と呼ばれているそうです。
そんな『かいけつゾロリ』シリーズは去年30周年を迎えて更に先月63巻目となる新たな作品が出版されました。

ゆたか:並んでのインタビューは初めてです。
毎年2冊夏と冬に書くのは当然のパターンとしてやってきて、60巻越えて改めて自分でもびっくりしています。
京子:最初はアシスタント的に手伝っていましたが、子供が難しいと思った処は優しく考えてみたりして、その後イラスト直しとかも手伝っています。
ゆたか:チェックしてもらって文章が安心してきました。
京子:出版社の編集の方に鍛え直してもらいいい勉強になりました。

『かいけつゾロリ』シリーズ 冒険もの
ゆたかさんがイラストを担当していた「ほうれんそうマンシリーズ」に狐のゾロリが悪役として登場。
ゾロリを主人公に『かいけつゾロリ』シリーズが生まれる。
登場するのは狐のゾロリと双子のイノシシ、お城とお姫様をゲットするんだと冒険の旅をする物語。
ゆたか:映画監督になりたい時代が有ったが人を上手く使えないタイプなので、本だったら演出できると思って挿絵をかいていたが、絵が話に食い込んでいくものにしたいと思って、作家と交渉していたりした。
どうせならお前が書けばいいじゃないかということで書く破目になりました。
今まで見てきた映画、話とか落語とかをもとに一回話を書いてみようと思って、わくわくするようなものを書きたいと思いました。
スタイルは水戸黄門スタイルにして子供向けにしました。
ゾロリに共感するような手紙が来たりして、悪役だったが良い事をしてしまうようなこともして、子供たちに共感持ってもらったと思います。
わくわくするような言葉の仕掛けがいっぱいあります。

本の読み方が判っていない子にとって大人は良い子に育ってほしいということで、ハードルを上げ過ぎで本を渡したりたりするので、本を好きじゃなくなった時期が有って、本は自分の意志で読まなければいけないので、本の楽しさを判ってもらえればと思って、楽しい本を提供出来たらいいなあと思いました。
一冊読み上げた達成感を味あわせてあげたいと思いました。
山を越える迷路を作ったりして本でしかできない遊びなどを入れたりします。
親爺ギャグを入れたり、言葉の面白さを入れたりして、言葉の勉強にもなります。
怪獣映画を8mmで撮ったり、ゴジラの怖さなどが蘇ったり、当たりくじみたいにひょっとしてみたいなところをベースに書いている感じです。
作品の中に一杯出てくる発明品が見どころ、ロケット、舟、だけでなくドラゴン自体がメカだったりとかある。
わくわく感は絶対どこかに入れてあげたいなと思いました。
ユーモアとか洒落の判る大人になってねと言う部分もあります。

京子:ゾロリは基本的には小学生の本なので、活字が大きい。
絵を出来るだけ入れたいのでスペースは広く取りたい、一文字でも短い方がいいので何文字短くできるか考えます。
「共感する」という言葉は小学生向きではないので「判りあえる」と言うように言葉は長くなってしまうが、判りやすくしたりもします。
ゆたか:「機密文書」とかなどはあえて難しい言葉を使って、注釈して説明してしまおうとかもします。
興味を持たせることが子供にとって大事です。
京子:ゆたかさんは基本的に女の子を書くのが得意ではないので、ドレスの模様、デザインはやらせてもらったりしています。
私のやっていい範囲で睫毛を長くしたりして可愛くしたりしています。

26巻 地球最後の日
1999年ノストラダムスの大予言の有った年、地球に向かってくる隕石になすすべも無くあわてる人達の中でゾロリ達が強力なオナラで隕石を吹き飛ばそうと作戦を立てるという話。
・・・諦めるのはやって見てからだ、最初に諦めたらなにも起こらないんだぜ、顔を真っ赤にして言いました。・・・。

ゆたか:おとなは上っ面しか見てくれない。
楽しければいいと思って書いてきたが、社会に出ると厭なことがいっぱいあるので、乗り越えていくためには、なにか手立てはないかと思うことが生きると言うことだと思うんです。
ゾロリって諦めないなという生き方だと思って描いてます。
子供ってやり始めるとどんどん凄いことをやり始める、それを見守って欲しいと思います。
京子:ゾロリの世界観は大好きです。
アイディアを持っているうちは頑張ってほしいのでお手伝いします。
ゆたか:ここまで意図していなかったことがこんなに長く続いて、子供の味方でいられるのかなあと言うことと、ゾロリが最近つまらないなあと言われる前に筆は置きたいが、読めば読むほど楽しめられるものを作っていければいいと思っています。


















2018年8月1日水曜日

柳美里(作家)              ・南相馬便り 柳美里 仲間と語る作家 村山由佳

柳美里(作家)              ・南相馬便り 柳美里 仲間と語る
作家 村山由佳
芥川賞の柳美里さんは東日本大震災の直後から被災した人々の痛みを人ごとにしたくないと、東京電力福島原子力発電所の事故の被災地である福島県南相馬市に通い続け3年前に引っ越してきました。
今年 4月地域に潤いを与えたいと南相馬市の自宅を改装して書店をおオープンさせました。
原発事故による避難指示が解除されて2年、いま小高区の人口はおよそ2800人で震災前の34%にとどまっています。
書店を続けて行くには県外からの集客が必要です。
そこで毎週土曜日には裏の倉庫を改装してイベントスペースに著名な作家仲間などを招き朗読会やト-クショーなどを開催して仙台や東京からもファンが訪れるなど盛況です。
7月7日の土曜日直木賞作家の村山由佳さんを迎えて朗読とトークが繰り広げられおよそ50人が熱心に耳を傾けました。
そのイベントの終了後同世代の作家を二人の共通点や創作への思いを伺いました。

柳:村山さんとはお会いするのが今日が初めてです。
小説界は純文学とエンターテイメントで、雑誌の発表媒体なども違っていたりしてはなかなか会う機会がないです。
共通点は沢山あります。
猫を4匹飼っている。
母親との関係がうまくいかない、幼いころから圧が加わっていた、それが作品に影を落としている。
ミッションスクールに通っていた。
柳美里1968年6月22日生まれ 村山由佳1964年7月10日生まれ

村山由佳 プロフィール(自身で書く)
朝早く起きられないので仕方なく会社を辞めて物書きになる。
夫婦生活も住まいも作っては壊し作っては壊しを繰り返した後落ち着いて軽井沢に暮らしている。
締め切り間際にならないと描けない体質。
勤め先の会社は不動産会社でした。
時間に拘束される仕事が苦手です。
締め切りがなかったら書かないです。

柳美里 プロフィールは書いていないです。
原稿は口ずさみながら書いています。
決められた時間に電車に乗ることは出来ずに高校は辞めました。
人前で話すのが苦手なのに役者を志しましたが、辞めてしまいました。
残ったのが書くことでした。
取り返しのつかない道を選んでしまったと思います。

村山由佳さんから見た柳美里さんはどんな作家か。
村山:思索でありながら行動の人、感情の人でありながら理性の人、何もかもが両極端で不安定に見えるの両極でありながらバランスがとれている稀有な作家。
何かと目立つ人、生き方そのものがみんなの注目を集める作家。

柳美里さんから見た村山由佳さんはどんな作家か。
柳:作品を見て触れやすいと思うが、芯の部分で物凄く冷たい部分と物凄く熱い部分が有って、核の部分が触れられないという感じがします。
清冽な作品だと思います。
官能的な描写が多くてその部分がクローズアップされる部分があるが、清冽だと思う。

村山:有ったことをモデルにした作品もありますが、頭の中をフィルターを通してそれを言葉に置き換えて行ったとたんにその瞬間からフィクションです。
柳:自分を小説の登場人物にするのと全く存在しない人を登場人物にするのと全く変わらないです。
読んだ人がそれをどう思うかでも変わってくると思う。

容姿について
村山由佳さんから見た柳美里さんは。
村山:(青春小説風)、考え事をするときの彼女はいつもすこし目を伏せて僕との間の真ん中辺を見つめる。
真っ直ぐな髪が落ちかかりいつまでも少女みたいなその顔を隠す、うっかりするとはんにちもそのままだ。
・・・・・。
あーっ今目の前に観音様がいると思う。(阿修羅のようであり観音様の様であると思う。)
何をうしなっても構わないぐらいの覚悟で受けて立って言うべきことはきちんと言う場面を何度か遠くから見ていると、行動そのものは阿修羅のように見えるけれども核に或るものは底なしの優しさなんじゃないかと思います。
柳:売られたケンカは買っちゃいますね。
人間関係が壊れてしまうかもしれないと思うけれど言っちゃいますね。

柳:8畳、6畳二間が書店になっています。
著名な作家を中心とした24人の方々に20冊選んでもらって、棚に並べる。
村山:成功するかどうかは本を書いていくという根源的な事と深くかかわっていると思う。
心を満たすもの。
突き詰めると人が本をなしに生きていけることができるのか?ということではなかろうか。
それが書店であるからこそあらゆる物書きはそこにコミットメントするべきではないかという思いはありました。
「生きるって悪くないとしみじみ思う20冊」を選びました。

柳:村山さんは原発から20km以内の警戒区域の事を考えて下さっているんだと思いました。
訪れる人に届くと思いました。
見に来てもらいたいと思いました。
立ち読みもOKです、買わなくてもいいので何ページでもいいから読んでもらいたい。
村山:柳美里さんのフィルターを通してそこに合格した本だけがここに並べられてある。
何という贅沢な空間かと思いました。

ものを書くと言う事
柳:出来事と出来事が繋がって行くと言う、自分が吸い取り紙とかパラボラアンテナのよ
うになって常に受信しているような感じです。
発信と言うよりは受信。
村山:表現の言葉を持たない人と付き合いをした時に、これまでの最高作品ではないかと思うようなメールをおくったが、そんなに言われても照れちゃうよ+顔文字、この乖離、齟齬は幻滅、驚き、いつもと違う心の動きを思った時に書けると思ったりします。
柳:色んなことが積み重なって行くと或る時カチッとなったら一つ短編に出来るとか、あります。

テーマ
村山:認知症をきっかけに小説で初めて母の事を書きました。
厳しい母でした。
あの人が私の本を読む事が無いのだと思うとやっと解放されたと思いました。
母はそれまで全部読んでいました。
柳:16歳で家を出て31歳で息子を産むまでほぼ絶縁状態でした。
村山:母は自分の子育ては成功だったと思っていると思います、悪さは全部隠れてしましたから。
その幻想を壊してしまうと言うことは私にとっても凄く怖いことだったし、母親を傷つけたくないということはありました。
母が呆けて読まなくなってようやく書けるなということがたくさん増えて物凄い解放感でした。
「放蕩記」を書いたが、 反論できなくて卑怯だと言うような声もありましたが。
単行本の時の方が風当たりは強かったが、文庫本が出るようになった時には判ると言ってくれるという事もありました。
柳:受信の感度を上げて行きたいとは思っています。
改装がありその後はコンサート、演劇、朗読会もやりますし色々やりたいです。