2018年8月15日水曜日

梅本安則(元球児)            ・幻の甲子園の記憶を100回につなぐ

梅本安則(元球児)         ・幻の甲子園の記憶を100回につなぐ
長い歴史の中でこの全国高校野球大会、昭和16年から20年まで戦争の為開催されなかった空白の期間があります。
しかしこの期間に一度だけ全国大会が甲子園球場で行われました。
全国から16代表が参加しておこなわれたこの大会は、国が戦意高揚のために開催した大会だったために、公式の記録には残されていない幻の甲子園と呼ばれています。
徳島市出身の梅本さんはこの幻の甲子園で優勝した徳島商業の7番ファーストで、今では当時を知るただ一人のレギュラーメンバーとなりました。
梅本さんに当時の記憶をたどっていただいて100回大会に臨む選手たちへの思いをお聞きしました。

今91歳です。
昭和17年、太平洋戦争が状態が悪くなってきている年で、4月には東京大空襲、6月にはミッドウエー海戦で大敗北という様な年でした。
一般の国民には知らされてはいなかったというのが実情です。
当時学校では軍事訓練、軍事教練が教育に組み込まれていました。
戦闘に必要な基本訓練を軍人さんが来て色々教えると言う教科でした。
徳島商業の場合は恵まれていて、野球部の猛練習を高く評価していただきました。
日本全体としては敵勢のスポーツをやるとは何事かというような考え方がありました。
昭和16年全国大会が辞めると言うことになって残念な気持ちでした。
監督さんはどういう状況であったとしても必ず野球をやれる時期が来るはずだ、という信念を持っていたのでついて行きました。(稲原幸雄監督)
昭和17年文部省から全国大会が開催されることになる。
目標が出来て素直に嬉しかった。

監督さんが優勝戦迄の1週間分の米を持って来いと選手全員に伝えられました。
優勝を目指すんだと言う事を暗に固く申し渡すという感じで言っておられました。
厳しい状況だったが母親がなんとかしてくれました。
徳島から毎日新鮮な牛肉を旅館まで送ってくれました。(後援会の配慮がありました。)
大日本学徒体育大会というふうな大がかりな大会でした。
野球以外に柔道、剣道など戦時色豊かな体育、運動競技がありました。
昭和17年8月22日に橿原神宮外苑広場(奈良県)で開会式が行われました。
手りゅう弾を投げる、銃を携えて走る、土嚢を運搬して走るなどといった競技もありました。
それ以外に柔道、剣道等多岐にわたりました。
人数も7500名という大変な数の若人が集まりました。
東条英機総理大臣がきて若人を激励するという意味合いの話をしました。

8月23日 甲子園で中等野球だけの開会式が開催されました。
球場に入るとスコアーボードの両横に「勝って兜の緒を締めよ、戦い抜こう大東亜戦」という横断幕が掲げられていた。
国民の士気高揚が大義名分にあるので、試合のルールも戦時色が濃かった。
デッドボールもよけてはならんというようなルールでした。
朝日新聞主催ではなくて文部省の主催なので、伝統の優勝旗も無かった。
その後その大会は幻の甲子園と言われるようになりました。
観客席は超満員でした。
甲子園の土は柔らかい、心情的には温かいそういう気持ちで初めての甲子園の土を歩きました。
観客の皆さんの温かい気持ちが伝わってきました。
16チームのなかには当時日本の統治下であった、台湾の台北チームの台北工業も参加しました。
みんな台湾で生まれて内地に一度も渡ったことのない日本人の選手たちだったようです。
東シナ海、台湾海峡などはアメリカの潜水艦が出没する戦場なので、学校関係者は出場を取りやめた方がいいのではないかという話が出たそうですが、部員らは死んでも本望だと言うような気持で話あったそうです。
14人の家族に承諾書を出してもらう事を決めました。
彼等は無事神戸港に着くことになりました。

空襲と勘違いされるので大会開始のサイレンは使うことができないので、ラッパが合図になりました。
1回戦で東京の慶応商業と戦って延長14回戦って2-1で勝利。
2回戦は水戸商業に1-0で完封勝ち。
準決勝は近畿代表海草中学に1-0で勝利。
決勝は京都滋賀代表の平安中学と戦う。
平安は準決勝が決勝当日の午前中に行われた。(雨で順延のため)
平安中学の富樫投手はこの大会でノーヒットノーランを達成するなど前評判は高かったが、終盤疲れからコントロールが悪くなるということが見られた。
試合はシーソーゲームになった。
11回の裏まで行って、6-7で追いつめられていた。

監督は選手を全員集めて「最後の1秒まで諦めるな、君たちのプレーが徳島県の歴史を塗り替えるのだ」と力強い声でおっしゃいました。
ツーアウト満塁となる。
フォアボールを8番が選び7-7の同点となる。
9番の林がバッターボックスに入る。
2ストライク-3ボールとなり、つぎのボールが外れて押し出しで勝つことになる。
終わった時には何かいいしれぬ解放感を覚えています。
文部大臣の表彰状を一枚頂くだけだったが、観客の皆さんは平和な時代と全く同じようにプレーを喜んでみて下さいました。
戦時下という事を忘れてプレーをすることができました。

私は神戸の三菱重工神戸造船所にいって働きました。
その後神戸が空襲を受けて職場が被災して徳島に引き上げざるを得なくなりました。
昭和20年7月に徳島市の大空襲がありました。
実家も学校も空襲で焼失しました。
野球に夢を抱き慶応商業の宮崎さんは野球をやることに執念を燃やし満州に渡って社会人野球をしていたが、ソ連軍に抑留されてそれは大変だったようです。
平和な時代に思いきり野球に打ち込むことができると言うことは、大変な幸せだと思います。
若い人たちには自分たちの出来うる限りの力を尽くして、自分を更に大きくするように頑張っていただきたいと思います。