2019年1月18日金曜日

後藤暢子(音楽史研究者)         ・【わが心の人】山田耕筰

後藤暢子(音楽史研究者)         ・【わが心の人】山田耕筰
山田耕筰は明治19年生まれ、早くから音楽の才能を発揮し、日本の音楽の父ともいわれ多くの作品を残しました。
又N響の前身であるん日本初の交響楽団を作った事でも知られています。
昭和40年12月亡くなられました。(79歳)

1975年から10年とちょっと遠山音楽財団付属図書館という処に務めましたが、隅っこにダンボールの箱が20箱積まれていて、何かと思ってみたいなあと思って、開けてみたら手書きの楽譜がかなりの量ありました。
山田耕筰が書いた直筆の原稿を探りたいと、朝、図書館が始まる前にみていました。
楽譜の書き方が判ってきました。
必ず鉛筆で書くことと、五線紙を凄く贅沢に使うと言う事で興味を持ちました。
文房堂 で購入さている事が判り紙の分類をしました。
倉田印刷がとなりにあり、楽譜を刷っていた機械を見せてもらいました。
五線紙の紙を切断する部分、五線紙のインクのの違いなど、五線紙に凄く執着しました。
いつ書いたか年代が入っているものと入っていないものとがあり、入っていないものには、五線紙の研究から2,3年のばらつき以内で判明しました。
その後作品研究の段階に来ました。
作品のおよその製作年代の見当が付いてきましたので、こういう歌を書いていた時期がある、こういうふうな様式スタイルの歌を書くようになった、というふうにクリエーティブな側面が、どういうふうに展開していったのかが判って来ました。

一番大事なのは山田耕筰は何処から書き始めて最期まで書きあげたかという、手順ですね。
鉛筆は最初とがっているが段々丸くなって行って、どういうふうに書いていったのがが判るわけです。
山田耕筰は旋律だけ先に書いて、その後にピアノ伴奏を付けて行くと言う手法でした。
山田耕筰は詩歌がとっても好きな人でした。
詩人本人と作曲家本人がお付き合いしている。
湧いてきたメロディーを詩集の余白に自分で五線引いて書くわけです。
メロディーが出来た時がその作品の作曲日と考えていたようです。
消しゴムで消して書きなおすという事は無かったようです。
山田耕筰はドイツに4年ぐらい留学して、好きなところがはっきりしていて、そのうちの一つが東ドイツのバルチック海でした。(人口500人の海辺)
ベルリンの下宿先の一家の方と一緒に行っていたようです。

リヒャルト・シュトラウスのサロメを見て物凄く感動して、自分も日本語でこういうのを書くんだと言って、日本のオペラを作ってみせるぞ、と言う思いは死ぬまで持っていたと思います。
完成できないで亡くなった作品があって、それを山田耕筰の17回忌に團伊玖磨が自分でオーケストレーションして初演しました。
團伊玖磨さんと知り合いになって山田耕筰の話を色々聞くことができました。
山田耕筰は教えることが嫌いなんです、だから弟子達にはあんまり教えないんです。
自分で勉強しなさいと言う感じでした。
1926年に日本交響楽団のオーケストラを作りましが、弟子たちはみんなオーケストラのメンバーでもあったので色々面白い話があります。

私は山田耕筰には会えなかったが、自分のイメージを膨らませたという良さもありました。
一言で言うといい人だったと思います、女性関係が激しかったとか、お金に多少ルーズだった、戦争責任の問題、口論すると直ぐに手が出てしまう、でもそれで山田耕筰は乱暴な人とは言えないし、基本的に研究者の立場から言えば、時代を観る目が非常にシャープだったと思います。
どんな音楽が求められているのか、同時に自分はどういう音楽がかきたいのか、その二つが常に彼の心の中にあって、戦争協力で軍歌を50何曲書いているんですね。
戦時中はそういうものが必要だったから、兵隊さんたちを励ましたいから軍歌を書くんですね。
時代の進展とともに自分を開いてゆくという事が非常に見事だと思います。
北原白秋とも一緒に作品を作りましたが、作品が気に入らないと北原白秋は相当な事を言ったようです。
あの二人は二人三客だったと思います、一緒に仕事をするのが楽しくってしょうがないという関係だと思います。










2019年1月17日木曜日

森田みさ(司法書士)            ・震災孤児 見守り続けた7年

 森田みさ(司法書士)             ・震災孤児 見守り続けた7年
東日本大震災から今年3月で8年になります。
死者行方不明者は1万8000人に及び、その中には育ち盛りの子供が親を亡くしたケースも少なくありません。
宮城県内で震災後に司法書士が、震災孤児の後見人になって支援する活動を続けています。
震災の翌年から中心となって取り組み始め、今も2人の孤児の後見人を務める森田さんに伺いました。

宮城県では東日本大震災で当時18歳未満の孤児が126人と全国でも最も多かった。
未成年後見、親権者がいなくなってしまった子供の親権者の替わりをする。
裁判所で選任されるが、多くは身近な親族がなるケースが多いです。
財産の金額によって一定数以上の財産がある子に関しては、後見の監督人を付けるとか、司法書士、弁護士など専門職が財産管理の為に一緒に後見人をやるという制度があります。
震災孤児には義援金、亡くなった方の弔慰金、亡くなった方の保険金、色んな種類のお金が入ることになって、親族の方だけで適正な管理ができるかどうか裁判所が慮って、私達のような専門職が後見人になったというケースが沢山あります。
大きいお金があればそのまま預金をお預かりしたり、毎月の生活費で不足があれば里親、親族に渡すとか、大きなお金(教育費など)が掛かる時には相談を受けてこちらからお金をお送りすることがあります。
20歳までですが、成人になる時に後見人から本人に全部財産を引き渡して、自分で管理してもらうことになりますが、それまではむやみに減ったりしないように管理をしなければいけませんし、適切な支出なのかなどを考えなければいけません。
進路を選ぶ時にどういう進路を選ぶのか、子供とか親族と一緒に考えながら意見を述べなければいけないので、責任があるところだと思います。

今も男の子、女の子の2人を支えています。
出会った当初、1人の男の子は赤ちゃん返りみたいになっていて、大分大きいのに指しゃぶりをしていたりして暫く戻らなかったり、勉強にも身が入らない。
女の子は不登校ぎみで学校生活がうまくいかないということがありました。
良くなったり悪くなったりする時期がその子によって違います。
津波の震災を経験してしまって、湯船には入れなくなったという子がいます。
海が怖いという子はよく聞きます。
被災して年齢によって、多感なころに被災すると印象が強烈に残っているかもしれないし、小さかった子はあまりおぼえていないという事はあると思います。
成年後見というのもあります。
高齢者、障害者、判断能力がなくなった方の為の後見制度があります。
多くの司法書士が後見人として沢山活動していますが、未成年はもともと数が少なかったので推薦依頼は来ませんでした。
段々裁判所から依頼が来るようになって、10件/月来るようになりました。

宮城県の場合は引き取った親族の内訳は、祖父母、叔父叔母がほとんどで半分半分ですが、後見は親族の理解を得ると言う事が非常に難しいです。
未成年後見人という人が戸籍に乗ってしまいます。
子供の戸籍に関係ない人の名前が出てきたりするのに抵抗を覚える親族がいます。
子供の独自の財産という観念があまり一般の家にはなじまないので、管理しているものがおうちの金というふうになってしまうと間違った使い方というふうになってしまうので、なかなか裁判所からすると適正な運用にはならないという事が多々あったのかもしれません。
震災孤児の食費などもなかなか分けられないので、なかなか難しい。

震災孤児を引き取って育てている親族の方々の状況も様々です。
仕事がなくなっていたり、家をながされたりして家計が苦しいという家庭があったり、自分の子がいるなかで震災孤児を引き取っているという方もいます。
養子にしたというところもありましたが、そういう家ばかりでは無くて親族と震災孤児がうまくいかないという所も何件かありました。
祖父母が育てる場合は、8年歳をとると言う事は高齢になってしまうケースもあり、亡くなってしまったり認知症になってしまうと言う事もあります。
子供が祖父母の介護をしなければいけないというケースも出てきたりします。

平成28年宮城県内で東日本大震災で両親を亡くした小学生の甥の未成年後見人として家庭裁判所から選任された親族が甥の預金を着服して逮捕された事件がありました。
裁判所は不正なお金の使用をしないように監督はしているが、それでも裁判所までもだまそうというところまではなかなか防ぐのは難しいと思う。
その事件の為、後見人はあまりいい目でみられなくなってしまったのは残念です。
虐待を受けたりして、その子のその後の人生も凄く心配になりました。

8年の間に半分ぐらい成人しましたが、その後の生活についてはあまり分からないが、今も未成年の子について言うと、選択しながら生きていかないといけない。
相談する相手がいる子もいればいない子もいて、孤独な状態で成長している子もいて支えが必要だと思います。
後見人は親代わりにはなれないと思います。
距離感をもった関係性は必要だと思います。
自立する時に、財産、預貯金を引き継ぐ場合、お金がどうしてそれぐらいあるのか、まず説明する必要があります。
これからの人生でお金が必要で大切なことだと説明します。
一人で管理することが不安な場合は親族との相談等も行います。
困った時に誰かにSOSを出せるのが、まず自立の条件だと思っています。
東北人特有な特性があり、なかなか他人に自分の困っていることを話すのが恥ずかしいというような事があると思います。
抱え込んでしまって誰にも相談できなくなって、暗闇に入ってしまうというケースが多くて、どうやってSOSを発信してもらえるのか、課題だと思っています。

最近では震災という事が困っていることの事実としては埋もれているが、その影響は大きくてまだまだ残っているものがあると思います。
目に見えていない部分がたくさんあると思います。
何処でまた災害が起きて、同じ様なケースが出てくるのか判らないので、私たち司法書士がこういう未成年後見をやって来たという事を発信したりだとか、やってみたがこういう問題点があると言う事を、発信していかないと制度改善につながらないと思います。
これを全国に広めて行きたいと思います。





























2019年1月16日水曜日

先崎学(将棋棋士)            ・うつ病九段、プロ復活までの一年間

先崎学(将棋棋士)            ・うつ病九段、プロ復活までの一年間
1970年青森県生まれ、小学校5年で米長邦雄永世棋聖門下で奨励会に入会、1987年4段になりプロデビュー、1991年大40回NHK杯戦で同い年の羽生善治現九段を準決勝で破り棋聖戦初優勝、2014年に九段となります。
2017年7月にうつ病を発症し、慶応大学病院に入院、精神科の医師である兄のサポートを受けつつ、闘病をうけ2018年6月順位戦で復帰を果たします。
7月に自らの闘病から復活までの経緯をまとめた「うつ病九段」を出版し大きな反響をみました。

本も27冊になります。
「うつ病九段」の後に将棋の本上下巻を出しました。
昔話みたいなものを纏める機会が無かったので、中村太地 氏と『先崎学&中村太地この名局を見よ! 20世紀編』を書きました。
往年の名棋士などを語りました。
羽生さんとか私は大山先生に可愛がられました。
将棋は白星と黒星しかないので、厳しい世界です。
AIが出てきたおかげで純粋な知恵比べみたいな印象を持たれることが多いが、実際は密室で一対一で朝から晩までぶつかり合う格闘技的な空気もあります。
将棋差しは「気合」という言葉を重んじます。(気合いで負けない事)
将棋も芸術的な側面もあって、音楽の世界に似ている感じはあります。

小学校1年生の時に将棋に興味を持ちました。
スキーをやっていたが春になるとやる事が無いので、将棋をやるようになりました。
父親は将棋をやっていましたが、全然強くは無かったです。
兄は精神科の医師ですが、今回の私の病気にはちょうど良く助かりました。
6月22日の誕生日の翌日に変調があり、その後2カ月ぐらいたって入院しました。
30数日入院していました。
8月末に退院して12月、1月になってきたら、まともになって来ました。
そうすると暇になるので(悪い時には暇という事を感じない)、兄から貴重なものだから今回の体験などを纏めてみないかといわれて書き出しました。
軽く鬱っぽい時などと、本物の鬱とはまるっきり違うということは間違いないと思います。
入院中から退院してから1カ月半ぐらいは全く頭が回らない状態で、色んな事を後で聞くと妻と兄で来院して決めていたようです。
妻は囲碁のプロです。

私のうつ病は将棋のプレッシャーでなった訳ではなくて、将棋連盟の全体的な不祥事と私の個人的に関係する映画という華やかな世界、両方をいっぺんに騒いで、午前中は物凄く明るい話をして、午後は凄く暗い密談みたいなものをしなくてはいけなくなって、感情が揺れ動いてそれが良く判らなくなってしまいました。
毎日の様に色んな事が降ってきて、自分の仕事と感情をコントロールできなくなって振り回されてしまいました。
スケジュールをコントロールできなくなると危ないらしいです。
兄からは絶対治ると言われていました。
一般的には絶対とか、100%とかは医者はなかなか言えないが、兄は主治医では無いのでそういう事を平気で言える訳で、こちらとしては有難かったです。
自分自身で出来るだけ外に出て歩い足りして、自分で治すんだという気持ちを持った方がいい病気だと言われました。

或る時からすこしずつ華やかな世界を見ても疲れなくなりました。
鬱が一番ひどい状態の時は何も考えられない、何もできない、活字は一つも読めない、写真なども華やかな色を観ると疲れる世界でした。
少しずつ華やかな世界にも感情が対応できるという事になってきました。
少しずついろんな情報が自分の頭の中に入って来るようになりました。
退院して半月で落語を聞きに行きましたが、全く頭の中で理解できませんでした。
記憶力は鬱でも少し残っていたんで後に書くことが出来たんだと思います。
段々良くなって仲間にずいぶん将棋を指してもらって、意欲が出来た事自体症状が良くなってきたのかと思います。
でも負けると辛いです。
何故か声が大きい人は疲れます。
元気づけようと明るい話をする人も疲れますね。

7,8,9月は悩むことは無くて、灰色の雲の中を延々と毎日いるような感じで、憂鬱とは違うんです。
あらゆることに無反応なんです。
決断力が極度に鈍るらしいです。
あの時少し良くなったなという事は、後になって判る訳です。(1カ月ぐらいの単位)
退屈だという感覚をもてば、症状が良くなってる絶対的な証拠だと、兄からは言われました。(エネルギーが戻ってくる)
症状が悪い時には、暇だという感覚がない、全くもてない。

中学生の時にはいじめに遭いました。
他人とコミュニケーションを持つのが苦手で、クラスになじめなくていじめに遭い、不登校になり将棋をやっていました。
17歳から棋士になって暇になり、その頃本を一杯読みだした記憶があります。
文章を最初に書くようになったのは19歳のころでした。
週刊誌に連載されるようになった最初の3年間はきつかったが、文章を書くと言う事は辛いとは思わないです。
後輩たちを纏めて行く立場になってきたのかと思います。
将棋は集中持続力、根気が必要で若い人に対しては、その辺ではきついところがあります。
自分が病気になってわかったことは、世の中には病気の人がいぱいいるんだな、ということです。




















2019年1月15日火曜日

大江英樹(経済コラムニスト)         ・"定年起業"は自由への扉

大江英樹(経済コラムニスト)              ・"定年起業"は自由への扉     
66歳、新聞や雑誌への原稿の連載やTV出演、年間100回を越える講演で活躍する経済コラムニストです。
大手証券会社で個人営業の仕事をしていた大江さんはその後、社内で確定拠出年金に関する教育に携わりました。
60歳の定年後、会社の再雇用制度に応募したものの、僅か半年で会社を辞め自分の会社を設立、定年前に担当した確定拠出年金に関する教育やサラリーマンの定年後の生活支援を事業の柱にしました。
ところが仕事は簡単には来ない状態が続きました。
大江さんはこうした状態をどうやって乗り越え、経済コラムニストとしての道を切り開いて行ったのか伺いました。

現在新聞、雑誌の連載が10本抱えている。
3日に一回締め切りが来ます。
セミナーの回数も140回やっていますので、ほぼ2,3日に一回の割合でセミナーをやっていて、その合間に原稿を書くという、こんな日々です。
何を書くかという情報収集が大変です。
ネットで情報を得ると言う事も最近はありますが、中にはいい加減な情報もありますので、複数のニュースソースを調べたうえで原稿を書きます。
大手証券会社を志望した訳は等に無かったです。
就職しようとしていた1973年、日本列島改造論が叫ばれて景気もよかったが、株価も高かったですので、証券会社の採用も多かった。
支店に配属されて、個人を対象にした営業の仕事でした。
自分でお客さんを開拓していきました。
クレームが色々ありますが、一番大事なことは逃げずにお客さんに会うことです。
25年ぐらいは個人の営業をやっていました。(約3万人のお客さん)
お客さんから色々といい勉強をさせて貰いました。
本社に異動になって確定拠出年金の仕事を始めました。(2001年)
加入しているのは700万人位です。
個人型確定拠出年金に加入しているのが100万人位です。
管理運営を企業がやる訳ではなくて、個人一人ひとりが行うと言うことです。

資産運用をやったことのある人は非常に少ない訳です。
従業員に対して投資教育をしなさいと言う法律があるので、事業主は必ずやらなければいけない。
その投資教育の仕事をやっていました。
1500社の企業を担当していました。
投資教育をすることによって知識を広めて行って、新たな投資家を育成するとか、拡大する事になるわけで、当初頑張ってやろうと言うことになりました。
収益を生み出す事業ではないので本流というふうにはみられていなかったです。
50歳ぐらいからこの仕事をやっていました。
54,5歳ぐらいまでは定年が待ち遠しかった、定年になったら絶対仕事はやるまいと思っていました。
今忙しくてできなかったことを一挙にやろうと思っていました。(旅行、音楽、読書等)
毎日が日曜日になるとどうなるのかを考えると、微妙に変化していきました。
高齢者雇用安定法が改正されて、60歳以降の雇用については、自分が希望すれば最長65歳までは雇用を義務付けると言うことに変わりました。

会社の再雇用制度で65歳までは働き続けようと思いました。
管理職ではなくなり、責任権限も全く違うものになりました。
自分が想像していたものとはかなり違うものでした。
どうやって働いたらいいのか判らなくなりました。
起業するという事も真剣に考えた方がいいのかなと思いました。
定年記念旅行という事でクロアチアに旅行しました。
「どんなに黄金を積まれても、決して自由を売り渡してはならない」という言葉がありまして、雷を打たれたような気持になりました。
会社を辞めたら自由じゃないかと、定年を迎えるまで会社に雇われている必要は無いと思いました。
再雇用に応じたものの半年で辞めました。
起業するための準備活動を再雇用になってから始めました。

確定拠出年金に関する仕事をやっていたので、これを仕事にできないものかと考えました。
中立的な立場で情報提供したり、投資教育をするという事の方が事業主さんには受けるのではないかと考えました。
年金がもらえるので大変な決断という訳ではなかった。
最初の一年ぐらいは仕事はほとんどなかったです。
肩書きが無くなった人に対しては世間は冷たいです。
仕事以外の趣味の集まりなどの会合に顔出しているうちに、講師をやって欲しいとの依頼が来るようになりましたが、最初講師料は貰いませんでした。
そうこうしているうちに声がかかってくるようになり、講師料を払ってくれるような処が出てきました。
自分がどんな事ができる人間なのか知ってもらう必要がありました。
そのためには自分の専門分野について本を書けばいいのではないかと思いました。
出版社と交渉して75万円を出して本を書いて、その本を渡して行きました。(名刺代わり)
収入を伴う仕事が出てきました。
2015年ぐらいからぼつぼつ忙しくなりました。
人とのつながり、口コミ、評判とかがが意外と大きいです。

経済コラムニストとしては、人との出会いという事が一番の楽しみです。
地方を重視していて去年140回やりましたが、84回が地方でやりました。
「定活」 「終活」の前にこの「定活」があると思います。
50歳ぐらいから取り組むことによって、60歳以降の定年が豊かになる。
定年までに如何に充実した活動をやって置くかによって、定年後の充実した生活が決まると言い換えてもいいかと思います。
①会社以外の人との付き合いを増やす事がとっても大事だと思います。
②「ねばならない、べき論」とかをあまり気にしないという事。
私の場合は〔自由」がキーワードでした。
夢があってビジネス書は20冊ぐらい書いているが、小説を書いてみたいと思っています。















2019年1月14日月曜日

阿部雅司(リレハンメルオリンピック金メダリストリスト)   ・【2020に託すもの】オリンピック金メダリストが選んだ新たな道

阿部雅司(リレハンメルオリンピック金メダリストリスト)   ・【2020に託すもの】オリンピック金メダリストが選んだ新たな道
リレハンメルオリンピック、ノルディックスキー複合団体の金メダリストで現在は北海道名寄市の特別参与、スポーツ振興アドバイザーをなさっている阿部さんに伺います。

次に北京に向けてという感じになっています。
1965年8月13日 生れ  北海道留萌郡小平町出身。
東海大学付属第四高等学校卒業後、東京美装興業に入社、その後スキーノルディック複合の選手。
1988年カルガリーオリンピック、1992年アルベールビルオリンピック、1994年リレハンメルオリンピック、に出場して、リレハンメルでは複合団体で金メダルを獲得。
世界選手権でも金メダル2個獲得。
引退後は19年間日本代表のコーチを務める。
現在は北海道名寄市の特別参与に就任し、冬季スポーツの振興を行っている。
ジュニア選手の育成、地方の指導者のかたがたのスキルアップの為の講習会、小学校、中学校の体育の授業での、運動改善プログラムなどでスポーツを好きになってもらいたいと活動したり、ノルディックウオークの普及などを行っています。
名寄市は物凄く寒くて、雪質日本一という事を掲げて、雪に関しては自慢になっています。
スキーが盛んな町です。
冬になると体力が落ちると言う事で、モデルの学校で指導をして、効果があることが判り、広めるような動きになってます。

冬に特化したスポーツセンターが無いので名寄市で展開しようと、11月にフィンランドにシステムを学んだりしに行きました。
その前にも一人で半年間いった時もありました。
フィンランドは日本人に似たような気質の処があります。
スキートンネル 1.2kmのトンネルになっていてマイナス4,5度になっていて、いつでもクロスカントリースキーができる施設です。
ドイツなどにも大きなスキートンネルがありますが、アジア圏には無いので名寄市にも欲しいと思っています。

小学校1年生の時からリフトに乗ってスキーをしていました。
小学校3年生の時にジャンプとかを指導する熱心な先生が来まして、ジャンプをやって見ないかと声をかけてくれました。
先生が役場に掛け合って30m級のジャンプ台が出来ました。
クロスカントリースキーも熱心に指導して、全国大会で上位に入る選手が何人も出ましたが、先生がいなくなってからはそういった選手もいなくなりました。
複合はその先生から勧められてやるようになりました。
先生との出会いが僕の中では大きかったです。
高校3年生の時にはスキーの成績が良くなくて、就職先も無かったが東京美装興業に入社する事が出来ました。
早坂 毅代司(はやさか きよし)さんが引退したばかりで、全日本複合チームのコーチに就任して、複合の強化が始まりました。
3,4年するとワールドカップでも上位に行けるようになりました。

1988年カルガリーオリンピック 個人31位、団体9位。
1992年アルベールビルオリンピック 4年間で大きく状況が変わり結果が出始める。個人30位
    団体のメンバーからは外れてしまう。(自分はキャプテンだったのでショックだった)
    ふてくされたい気持を封印していたら、周りも理解してくれて頑張ってくれて金メダル
    を取ってくれた。 辞めたいと一度は決心していた。
    妻が妊娠している事が判って、前向きな気持ちになり、続けることにしました。
1994年リレハンメルオリンピック 子供の写真を貼り付けて試合に臨みました。
    個人10位、又補欠かなとよぎったが阿部と呼ばれて安堵。
    荻原さん、河野さんは調子が良くて自分としてはプレッシャーがかかったが、開き直っ
    った気持ちになり、K点をそれまで越えていなかったが、越える事が出来ました。
    ノルウエーとは約5分の差を付ける事が出来ました。
    最初1分近く詰められたが、自分にはまだ3分或ると思って、いい滑りができて1分逆
    に引き離す事が出来て、荻原さんにタッチして団体金メダルを獲得することができまし
    た。

コーチとしては、ルールも変わって大変だったが、渡部選手がようやくクロスカントリーでも負けない選手になって、メダルを取った時には物凄く嬉しかったです。
コーチを辞めた時には会社への恩返しということも考えたが、名寄市から呼びかけがあり妻の後押しもあり行くことに決めました。
講演活動も多くなり子供達に話す機会が多くなりました。
スペシャルオリンピック 知的障害の方がスポーツを通して世の中の人と交わえるようにしたり、スポーツで笑顔を作ると言う事がコンセプトでやっていますが、スポーツって傷害がある人もない人も笑顔になれる活動だと思っています。





















2019年1月13日日曜日

ファイティング原田(日本プロボクシング協会前会長) ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】日本初の二階級制覇

ファイティング原田(日本プロボクシング協会前会長)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】日本初の二階級制覇(2009・4.24 OA)
72歳、本名 原田政彦 今から57年前の昭和37年若干19歳で世界フライ級タイトルマッチに初挑戦、原田ラッシュというモノクロのTV中継をかたずを飲んで見詰めた方多かったと思います。
そのフライ級の世界チャンピオンになりますが、防衛戦で敗れその後減量の苦しみもあって一つ重いクラスのバンタム級に転向、この階級でも世界チャンピオンとなって日本史上初めての二階級制覇を果たしました。
歴代もっとも偉大な日本人ボクサーと言われた原田さん、20年以上にわたって日本プロボクシング協会会長を務められ、文部科学大臣によるスポーツ功労章も受賞されたファイティング原田さんに伺いました。

今は世界チャンピオンは女性が3人、男性が6人で9人います。
白井さんが日本人で初めて世界チャンピオンになったのが、昭和27年。
白井さんが敗れて10年間は世界チャンピオンはいませんでした。
昭和37年(40数年前)10月10日 19歳6か月で世界チャンピオンに挑戦。
相手はタイのポーン・キングピッチ選手。
僕は世界ランキングに入っていなかった。
同級1位の矢尾板貞雄が突然引退し、10位にランクされたばかりの僕に挑戦のチャンスが回ってきた。
迎えに行って握手しようとしてもそっぽを向いて、馬鹿にしたような感じを僕は受けました。
試合になってゴングが鳴って、11回に打って打って連打連打で倒して、そうしたのはお前がいけないんだよ、ファイト、ファイトで俺にファイトを沸かしたのがいけないんだよ、と思いました。
それからは外国に行く時には相手を思いやり必ず笑顔で握手をする、そう考えました。

TV中継をしていて、11回の連打でアナウンサーが原田ラッシュ、原田ラッシュと連呼していました。
史上最年少世界フライ級選手という事で新聞の一面を飾りました。
3カ月後バンコクに行ってポーン・キングピッチ選手とリターンマッチをしてきわどい判定で初防衛を失敗する。
会場は物凄い人達で、会場に入ってリングに上がるまで30分近くかかりました、揉まれて揉まれて上がりました。
上がったら疲れていて、セコンド陣がリングの角から降りられないとか、倒しても早くゴングが鳴ったりとか、全然めちゃくちゃでした。

バンタム級に転向して、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪、世界バンタム級3位・ジョー・メデル(メキシコ)と対戦するが、6回にKO負けする。
1964年10月29日、東洋王者・青木勝利に3RKO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権を掴んだ。
世界バンタム級王者・エデル・ジョフレ(ブラジル) 8回防衛に成功し、すべてKOがちだった。
昭和40年5月18日、当時私は22歳でした。
ジョフレ選手は奥さんと子供を連れて来ていたので、試合をしに来たのにそんなことはないと思って自分なりにファイトがわきました。
僕のボクシングは下がったら負けだと思って、前進、前進だと思いました。
今までのボクシングスタイルを捨て、アウトボクシングに出た。
4回でいいパンチが当たっていたが、次の5Rには、ジョフレが強烈な右をヒットし、僕はコーナーを間違えるほどのダメージを負った。
15R迄行って、勝敗の判定は、日本の高田(ジャッジ)が72-70で原田、アメリカのエドソン(ジャッジ)が72-71でジョフレ、そして、アメリカ人バーニー・ロス(レフェリー)が71-69で原田、2-1の判定勝ちで僕は世界王座奪取に成功しました。
フライ級、バンタム級の2階級制覇をする。

翌年2回目の防衛戦でジョフレ選手と再戦をして、前回以上の大差で勝ったが、その時にTVの視聴率は63.7%という数値だった。
4回の防衛に成功して、オーストラリアのライオネル・ローズ選手と対戦、15回判定で敗れて王座を失う。
減量苦との闘いがあり、フェザー級と階級を上げていくことになった。
1969年7月28日、WBC世界フェザー級王者ジョニー・ファメション(オーストラリア)への挑戦が決まった。
この試合で2R、11R、14Rと3度のダウンを奪ってみせる。
判定でジョニー・ファメションの手を上げると、地元の人たちは足をバタバタさせたりして判定に対するブーイングだった。
地元の新聞によると、圧倒的に勝っていたと思うのに結果的に判定で敗れたが、潔く
ファメションの手を上げて祝福したと書いてあった。
結果として、地元判定に泣いた「幻の三階級制覇」だった。
翌年昭和45年に東京でファメション選手に再戦をするが、いい所が無いまま14RでKO負けし、この試合を最後に引退した。
プロ10年間で63試合で56勝7敗、23KO勝ち。

小学校の頃、勉強は大嫌いでしたが学校は大好きでした。
色々いたずらをしたりしていました。
中学卒業後米屋さんに行きました。
ボクシング入門は昭和33年でした。(15歳)
16歳でプロデビューしました。
小学、中学では野球をやっていたが、野球では大成しないと思って、ボクシングを見ていたりしてボクシングかなと思ってボクシングを始めました。
デビュー後26連勝負けなしでした。
ライバルに青木選手、海老原選手がいましたが、3人の中ではドンジリだと思い、彼らよりもとにかく余計に練習することを心がけました。

フライ級限度は50.8kg、普段は65kgで減量に苦しみました。
最期の落とし量なかなか落ちない。
減量の為水を飲まないように水道の元栓を閉めて、トイレに行った時に流す水を飲みたいなと思いした。
食事で腹いっぱい食べるのは、試合後の一日、二日だけです。
寿司、パン、ご飯などは食べません。
笹崎ジムの練習はハードでした。
19歳で世界チャンピオンになり、当時の総理大臣とか色んな方とお会いできたのは、やはり世界チャンピオンになったから、会えない人に会えたのは良かったと思います。
TV等にも出さして頂いたし、世界チャンピオンだという事で若い人達が目指すような、頑張れるように、作っていきたいという気持ちです。
「根性」という言葉は大好きです。
今の時代は食べれないという事はない、昔は終戦直後でそうはいかなかった。
昔はボストンバック一つで一人で来て、郷里には帰れないという思いがありましたが、今はお母さんと一緒にジムにお願いしますと言ってきて、いつでも帰れるような時代です。
そういった中でも頑張れる人はやはり凄いと思います。
努力なくして成長は無いです。
指導のモットーは挨拶と笑顔だと思います。



































2019年1月11日金曜日

辻惟雄(美術史家)            ・日本美術の再発見

辻惟雄(美術史家)            ・日本美術の再発見
名古屋市出身、86歳、長年日本の美術史の研究に携わり、現在の伊藤若冲を初めとする、江戸絵画ブームの礎を築いた方です。
1970年に発表した著書「奇想の系譜」がその第一歩でした。
取り上げたのは浮世絵の祖と言われた岩佐又兵衛狩野山雪歌川国芳、他の作品と伝記。
江戸画家の中に西洋のダリやピカソンにも通じるモダンやアバンギャルドを発見しました。
一方で正統的な狩野派研究も手掛けています。
その後も「遊び」、「飾り」、「アニミズム」とキーワードを見付け、日本美術の特質を論じました。
その功績に対して2016年に文化功労章、去年秋の叙勲で瑞宝重光章受章されています。

父は医者で私達は3人兄弟した。
兄が継ぐ予定でしたが、継ぐのを断って上京して早稲田大学に行って、富士フィルムの社員になってしまいました。
私が医者になることを期待されて、その気になっていたが数学が苦手でした。
中学で美術部に入っていてスケッチを先生から褒められたりしました。
高校2年の時に友人から日比谷高校の編入試験を受けたいので一緒にどうかとの話があり、父に相談したら許してくれて、編入試験に合格して日比谷高校に行くことになり、1年後に東大に合格して私は理科二類、医者の卵としてスタートしました。
入学した年の夏休み明けに発疹チフスにかかってしまって、高熱のせいか精神錯乱状態になってしまって、その後熱が冷めて郷里に帰ったが、又症状が再発して名古屋大学精神科に入ってインシュリンショック療法という手荒な治療を受けてやっと治りました。
又上京しましたがショック療法のせいか、数学、理科が頭から完全に消えてしまっていて留年になり、もう一年留年して4年かかって教養学部を終えました。
医者になる為にはもう一回医学部に試験を受けなくてはならないので、父親は何処でも好きなところへ行けと言われました。
文学部に美術史学科があることを知り、そこに進学をして日本美術史を専攻することになりました。

山根先生との出会いがあり、講義を受けている中で岩佐又兵衛について話された事があり、まともな絵と生々しい絵巻物があって、それが岩佐又兵衛が書いたものかどうかの議論が第二次世界大戦の前にあって、中断して今日に至ったという話い興味を持って、それに関する卒業論文を書きました。
当時は就職難で大学院に進学しましたが、日本美術史はついに先生一人に生徒は私が一人ということになってしまいました。
修士論文では岩佐又兵衛をやってみないかという事で、熱海の美術館(今のMOA)に行って、山中常盤、浄瑠璃絵巻、堀江物語絵巻、3つ併せると400m位になる膨大なものですが、それを35mmカメラで3日がかりで全部撮ってきました。
それを基に修士論文を書きました。
全部岩佐又兵衛のものと考えていたが、米澤 嘉圃(よねざわ よしほ)先生にその写真を見せたら、これは線がみんな全然違う、これは一人が書いたものとは思えないといわれてしまい、根底がくつがえられてしまいました。
論文はもう一年かかるねと言われて、これ以上留年は出来ないと思って、線の違いを見極めようと頑張って或る程度は判ったが、一人の画家の書いた年代の違いという事で強引に押し切るような論文を書いたのですが、なんとか合格になりました。
線の柔らかさ、硬さなど、それから線の質の違いを見分ける目を養おうと思いました。

その後美術史学会で報告した時には考えを変えて、岩佐又兵衛という画家の監督する工房があって、その工房の弟子何人かが共同して製作したものだという処に行ったわけです。
中身のあいまいな発表になりました。
その後文化財研究所に就職しました。
矢代幸雄さんが所長になって、東洋、中国、日本、韓国の美術作品のデータをすべて集めると言う壮大な計画をたてましたが、壮大過ぎて頓挫した状態だった。
渡辺一(わたなべはじめ)さんという研究所員がいまして、室町時代の水墨画の画家の資料を集めるという事に目をつけました。
ビルマで戦死してしまったが、狩野元信の資料がずいぶんあったが、出版目前で中断していましたが、それをなんとか完成させたいと言うのが私の研究所での中心の仕事でした。

33,4歳の時に若冲に興味をもったのは、とり年で干支にちなんで鳥を集めた展覧会がありました。
『仙人掌群鶏図(さぼてんぐんけいず)』若冲の襖絵が展示されたが、見逃してしまいましたが、杉全直という画家シュルレアリスムをやっている現代画家、その人がどう思っているかが印象的でした。
シュルレアリスムの画家を惹きつける要素が若冲にあると言う事でした。
ジョー・プライスさんは日本美術を扱っている画商の処にフランク・ロイドに連れられていって、凄い絵があると言う事でそれに魅せられて買ったんですが、後になって伊藤若冲の作品だということがわかって、それ以来若冲の熱狂的なファンになって、日本に来て若冲の絵をあさるようになりました。
動植綵絵」は、若冲が相国寺に寄進したものであるが、相国寺で廃仏毀釈の折に財政的にピンチになって、明治天皇から御下賜という形で1万円が贈られて、返礼として若冲の「動植綵絵」が宮内庁に献納された。

1970年 著書「奇想の系譜」は書評では好評だったが売れ行きはパッとしなかった。
2000年になって「奇想の系譜」で取り上げた伊藤若冲の展覧会があり、当初はがらがらだったが、後半になって記録的な入場者になりました。
インターネットのやり取りなどで広められた現象だったと解釈されましたが、それが現在の若冲ブームの発端でした。
「奇想の系譜」の文庫本を出したいとの話があり、それが大変売れました。
その後東北大学で美術史を教えていました。
日本の文化の特色として「遊び」というものがあると説いていて、「遊び」というものをキーワードにして、日本美術を見て行くと実に面白い、鳥獣戯画等は典型的です。
「飾り」という言葉に移りますが、それは東北大から東大に来て50代のことですが、NHKのある展覧会で、服部幸雄さんという民俗学者がいて、日本文化には飾る文化と飾らない文化があって、それがお互いに絡み合いながら発展してきたのが、日本文化だという事を書いていました。

装飾的な日本の美術品を「飾り」という名前で、くくって集めればいいという事で手当たり次第に集めたら、実に面白い展覧会になって超満員になりました。
それから「飾り」という展覧会を日本だけではなくて、アメリカ、イギリスでもやりました。
「飾り」というのは美術だけではなくて、日本の生活文化というものを象徴するような言葉として、非常に重要な言葉と思います。
その後、国際日本文化研究センターでは当時梅原猛先生が所長をやってっていましたが、そこに行く事になりました。。
「アニミズム」という言葉、日本の神道がアニミズムそのものであると、アニミズムというものは宗教の一番素朴な発生したばかりの原始的な宗教で、宗教は段々アニミズムから脱して、進歩していったと、多神教から一神教に行ったと、それがキリスト教であり、というふうに、アニミズムという概念を見つけながら、それをかなり原始的な宗教というふうにして考えて行ったんですね。
アニミズムを簡単に説明するならば、人間だけで無く、動物だけで無く、生命を持たないと思われている石、水、そういう様なものにさえ霊が宿っているんだと言う、そういう発想で非常に興味を持ちました。

日本の美術の中にアニミズムというものが、どういう具合にあるかという事を調べたらあるわあるわ、ほとんど例外なしにアニミズムという様相を持っているんです。
特に伊藤若冲などはアニミズムの要素がふんだんにあります。
曽我蕭白、歌川国芳もそうだと言うことになってくるわけです。
著書「奇想の系譜」の中の画家たちのなかには、「遊び」、「飾り」、「アニミズム」
日本の美術を特徴づける要素が、一杯詰まってると言うことになってきたわけです。
狩野元信、日本の美術の中には狩野元信みたいに日本の美術の型を作る人がいて、そういう人も無視できないと思っています。
両方の関係性をもうちょっと見極める必要があると思います。

美術品を裸のものとガラスを通してみるのとでは当然違うし、裸のものでも光線が人工的なものか、自然の光線かによっても違いますし、光線の角度なども関係してくるし、若い頃の眼と歳をとった眼でも違う。
感じ取るデリケートな作品の表情を見分ける力は、昔よりいまの自分の方が付いてきているんじゃないかと思います。(長く続かないが)
昔気付かなかった良さが、フッと判ったりします。
美術史家、過去に描かれた絵について、観る人の眼によって認められて初めてそれが作品になるんだと、それをするのが重要な美術史家の重要な仕事ではないかと思うようになってきました。
















2019年1月10日木曜日

眞野豊(広島修道大学非常勤講師)     ・"人づくり"で目指すLGBT差別根絶

眞野豊(広島修道大学非常勤講師)     ・"人づくり"で目指すLGBT差別根絶
当人もLGBTの当事者です。
大学を卒業後大学院に進み、同性愛を専門的に研究するゲイスタディーズを専攻、その後中学校の教員として 6年間ゲイであることをカミングアウトしながら教壇に立ち続けました。
教室から差別をなくしたいと、マイノリティーへの理解を深める授業なども数多く行いました。
そして再び大学院で研究を続け、去年の春からは大学で教員志望の学生達に性の多様性を伝える講義を行っています。
LGBTへの差別が注目される中、教育を通して差別根絶に挑む眞野さんの取り組みと思いを伺いました。

性の多様性についてあまり知らないし、むしろ悪いイメージを持っている学生さんが多いと思います。
学校の教育現場については性の多様性、LGBTについて自治体レベルでは研修は盛んにおこなわれているが、全ての教員が研修に参加出来ている訳でもないので、教員になる前にこうしたことを学ばずに、教員になっている方がほとんどなので、理解を示さないという事は現場でも今現在あると思います。
性の多様性について知らずに自分は男らしくないとか、女らしくないとか、同性を好きになってしまうだとか、そうしたことで自分は異常だと思いこんでしまって、自己肯定感が低くなってしまったり、将来自分はどう生きて行ったらいいのか、将来の自分を描きにくい状況もあると思います。
自分では小学校上がる前、女の子と遊んでいるのが楽しかったです。
小学校では女の子と遊んでいると先生が色々言ってきました。
「俺」という表現に抵抗がありました。
小学校5年生の時に性的な面で発達してくると、僕は性的に同性に惹かれているという事を自覚しました。

凄い不安に襲われたのは覚えています。
自分も否定してきたオカマ、ホモという存在が、まさにそうだと気付いて生きていられないと思いました。
TV等では笑いの対象でしかなくて、笑いの対象でしかないのかという狭いイメージしか無くて不安でしょうがなかったです。
性的マイノリティーを理解する人は、見た事も無かったので誰にも言えないと思いました。
中学校でしぐさ、言動が女性っぽかったらしくて、変だと言う事でいろいろいじめがありました。
ストレスから来たのか、平衡感覚が無かったようで床が斜めに成って感じました。
女っぽい言葉づかいと言う事で、ある時期から教室で一切喋らなくなりました。
小学校、中学校、高校と本当に苦しんで、苦しんだからこそ学校を変えたいと思いました。
最短のルートが教師になることかなと思いました。

教育大学の3年生の時に産婦人科の先生が、異常性欲の一つとして同性愛を説明したが、周りの学生がどっと笑って教室が笑いに包まれました。
又学生さんたちが教壇にたったら、またあの差別が広がるだけで悔しい思いと、なんとかしないといけないと深刻に感じました。
ゲイスタディーズという差別と闘う学問があると言う事を知って、広島に学べる大学があると言う事で、北海道から広島に行ったのが今から12年前です。
ゲイスタディーズ、黒人の公民権運動とかが盛んになってきたころ、性的マイノリティー、レズビアン、ゲイの差別に波及して言ってそこから生まれた学問だと言われています。
ゲイスタディーズを学んだことにより、差別に対抗できる知識、言葉を身につけたことです。

子供達、同僚の人にも同性が好きですと言う事を隠さずに働こうと決めました。
トランスジェンダーの子に出会って、或る時相談を受けました。
その子(Aさん)は身体的には女の子で、俺と言ったりボーイッシュな髪の形をして、壮絶ないじめを経験して、中学校でも辛い思いをして転校した子でした。
レズビアンの友達ができたが、中学1年の時にその子が自殺してしまって、教室に入れなくなって、転校してからも教室には入れずに、適応指導室に入ってる状況でした。
Aさんは中学3年の時に私に打ち開けて来ました。
学校に来ることがただ辛いというような表情をしていました。
なんとかしてあげたいと思い、自分の経験の話をしてあげました。
本の貸し出しもしました。(経験の共有)
拒絶をしていた教室へも徐々に入る様になりました。
或る日、Aさんはいきなり怒りだして手がつけられない状況になり早退してしまいました。
次の日に何があったのかを聞いたら、男子の一部がゲイという言葉をつかって馬鹿にし合っていた、からかいあっていたようなんです。
Aさんからしてみると自分を馬鹿にしているように聞こえといっていました。
中学1年の時に友達を亡くしているので、性的マイノリティーを揶揄する言葉には敏感に怒ったと思うんです。
Aさんに対する支援はしっかりできていると思っていたが、Aさんが教室に入った時にまた差別にあっている。
当事者だけ支援しているだけでは、問題が解決しないという事がこの出来事で判って、そこから周りの生徒への指導が必要だと言う事が判りました。
差別は何故起こるかというと、差別される人がいるからではなくて、差別をする人がいるからです。
性は人権なのだと言う事をしっかり伝える必要があると思って、その後授業研究という方向に移動していきました。
性的マイノリティーの差別を道徳でやりたいと提案したこともありましたが、却下されたりしました。
同性愛者の書いた作文を使って授業すると言う事を提案しました。
当事者の気持ちを一緒に考えてゆくストーリーで授業をしました。
ホモ、オカマ等否定的な意味で、からかいをしてきたけれど、こうした言葉が人を傷つけることを初めて知りました、今後は使わないようにしますとか、そういった学生さんがいました。
そういったことを重ねているうちに、人権教育の先生にも情報が言って、研修会でも講演をさせてもらったりしました。

現場だけでやるのは現場しか変えられないので、僕だけでは限界があるので、教員の養成段階でしっかり知識を伝えて行くことが、差別をなくして行くために必要なんだと思って決断しました。
性的マイノリティーの置かれる状況などを学生に提示して、セクシャリティー、性的嗜好なども人権なのだと言う事を学生にも定着させたいと思いました。
学生たちの見方も段々変わって行きました。
福岡県の糸島市の中学校での「人権教育の手引き」84ページの本のアドバイザーとしてかかわりました。
市島市の全教員の手元にあり、この手引きを使った授業が市島市の全ての学校で行われます。
教育は次の世代の社会を作り上げて行く、そういう力がある。
一人一人のセクシャリティーが人権として認められて、一人一人が自分が思い描く人生を歩んで、幸福な人生を歩める社会が、僕の思い描く未来ですかね。


























2019年1月9日水曜日

真壁伍郎(新潟いのちの電話元理事)    ・いのちに寄り添う

真壁伍郎(新潟いのちの電話元理事、新潟大学名誉教授)    ・いのちに寄り添う
新潟県の自殺者が余りにも多いことから、孤独や不安に悩む人の電話相談事業「いのちの電話」を日本で初めて始められたヘッドカンプさん達との繋がりの中で、「新潟いのちの電話」を立ち上げて苦しみ、悩みながら電話をかけてくる人達と向き合ってきました。
又自宅の一室を開放して野の花文庫という家庭文庫を開いて、子供たちや若者たちとの読書会等も長年継続して開いてきました。
真壁さんは読書会やいのちの電話の活動で、周囲の人達に手を差しのべながら、私達は支え合って、みんなで生きて行こうと呼びかけてこられました。
最近は真壁さんがヘッドカンプさんに頼まれて翻訳したドイツ語の本「わたしはよろこんで歳をとりたい」が老いを生きる心持を深く伝えて静かな共感を呼んでいます。
あわただしく時間をこなしていないと、自分の存在も危うくなるかの様な今の時代ですが、人と人が肉声で答えあい、息使いを感じながら時を共有し、そばにいるこのことの大切さを真壁さんは伝えたいと言います。

「わたしはよろこんで歳をとりたい」ドイツのイェルク・ツィンクさんの著書。
それを翻訳したのが真壁さんです。
心の安らぐ本になっている。
日本でいのちの電話を始めてくださったルツ・ヘットカンプさんという女性の宣教師さんがいて、その方が一昨年に電話下さいまして、私に訳して欲しいという電話でした。
日本では歳を取っても頑張れ頑張れで、歳を取ったらもう頑張らなくてもいいという事をこの本から知ってほしいということでした。
ドイツから本が送られてきて、見て身につまされる事がいっぱいありました。
日本の言葉で自分なりの表現したいと思いました。(翻訳ではなくて)
訳してプリントアウトして送ったら反響が大きかったです。
コピーして色々な人に配りたいと言う事でジワジワと広まっていきました。
絵本のような感じです。
すべての人に一緒に生きて行く喜びを伝えたいと言うのが、イェルク・ツィンクの基本的な考え方なんですね。
平易な言葉で語りながら、老いとは何かなどを語りかけている。
版を重ね、ありのままの自分を生きて行っていいんだと言うのが、最期の版に成ってきている。

新潟の高齢者の自殺が多いが。
その本の一節に
「どんなに良い日でもやがて夜は来る、足がいう事を聞かない。
正直に言ってよい、もう駄目だから助けて下さいと。
一日が長くてそれが苦労ならその時こそ、一息ついて静かにそのままでいる事。
ちょうど水の流れのほとりに立つ木の様に。
私達はなにも勇者である必要はない、嘆いても結構。
ただ知っておいていいのは、絶望するような事は決してないという事。
そして夕暮れになっても心臓の鼓動が続いている限り、誰もが愛し愛されることを恥じてはならないという事。
老いたものも心の温かさを求め、優しさと見守りの手を求める。
私達老いたものはそれを恥ずかしいと思う必要はない。」
70歳を越えた人達の自殺が女性の自殺の4割を占めている。
若い時は働き者で人様の為になって働くと言う事が習い性になっている。
秋田、青森、岩手という自殺の多い県はおそらくに同じ様な背景を持っていると思うので、この本を読んでこの一言をお伝えしたいと正直思いました。

自殺が新潟に多いという事は知っていたが、どんなふうに考えたらいいか私自身判らなかった。
互いに支え合うために何をしたらいいのかという事を、人間の基本として求められているのはないか、そんなことを思ってナイチンゲール等看護の大先輩達の本を読んだり考え方を調べてゆくうちに、見捨てられた人達のそばに寄りそっている姿に目を開かれました。
父が教師をしていたが、寝たきりになり、母が看取りをしていました。
私は何かしなければいけないと思って、1週間に一回、髭を剃ってやり、爪を切ってやり、その後に父に自分の思い出を語ってもらう事にしました。
おいたち、親の事、教え子たちの事など、どんどんカセットテープが積み重なっていきました。
或る時、父は思い返しているうちに、同僚、教え子たちに支えられている自分を発見したんでしょうね。
私にとっては感動でした、これ以上聞く必要がないと思いました。
やがて亡くなる時に父は目を大きく見開いて、その時母は「また一緒になりましょう」といったんです。
それは衝撃と同時に、この父と母がいるから、私がいて兄弟たちがいると言う事を思い知りました。

新潟の自殺について、話を聞き人生のストーリーをなぞることでもって、お手伝いが出来るんじゃないかと思いました。
東京いのちの電話の講師の方にヘットカンプさんがいて、紹介して貰いました。
いのちの電話、聞くと言う事が大事です。
問題解決ではなくて如何にその人の人生に共感できるか、その人の人生を尊敬、認めた時に心の通じ合いができると思います。
顔が見えないだけに、言葉が出てこないそれを待っている、泣いている人もいる、その時ちゃんと待てるということですね。
カウンセリング、技法としてやってしまうと、それはちょっと違うんじゃないかと思います。
「おしゃべりに費やす人は、黙っていると裸の自分が見えるからおしゃべりしている。」
という神谷美恵子さんの訳された ハリール・ジブラーンの詩があります。
本当の意味での思いは、語り又聞くと言う社会からどんどん遠ざかってきていると思います。

相談員はそれぞれの思いを持って電話に立っていらっしゃるが、その事が尊いと思います。
お互いに成長させてもらっているのが、いのちの電話ではないかと思っています。
ルツ・ヘットカンプ先生は大変面白い先生でした。
1933年に生まれて、10歳の時に住んでいるところが瓦礫中に埋もれてしまう。
自分も命がないと思っていたのが助けられた。
私が生きているのは私の命ではない、与えられた命なんだと、それがヘットカンプ先生の基本になる訳です。
ドイツの少女たちが聖書を学びながら人生の生き方、さまざまな問題を考えていけるような運動の一員になられる訳です。
フランクフルトの駅に一群の夜の女の方が立っていて非常に気になって、その方々と友達になり助けられたらいいなあと思っていて、日本からたまたま、そういう人達の助けての応募がありました。

家族の反対があったが船で日本に来て、日本語を勉強しながら自分の仕事を始めようとするわけです。
日本における夜の女の人とのかかわりをどうしたらいいか判らない状況になって、今後やっていけるのだろうかと立ちつくしていたら、「清しこの夜」の曲が聞こえてきて、私がここに立ちつくしている、ここにキリストはおいでになるんだと思った時に、急に慰められ、勇気が出てきて協力する人が表れてきた。
経済が発展する中、夜の女の人との関わりが少なくなるなか、コンタクト取るためには電話がいいのではないかと思い立つ訳です。
或る時、もうやっていけないので死ぬと言って電話機を下ろしたが、ヘットカンプ先生は探しにいってその女性を助けた。
それから電話の重要さを思い、周りに呼びかけ1971年にスタートした「東京いのちの電話」なんですね。
それがあるから「日本のいのちの電話」が今あるわけです。

帰国されてから後に、ヘットカンプ先生は2回日本に来ましたが、私の家に泊っていただきました。
野の花文庫は子供達に大人気で読書会を行いました。
読書会は1961年からスタートしました。
毎週土曜日の午後ここを開けます。
2時から読書会を始め、私と妻が本を読んでいます。
本を楽しんでほしいと思います。
子供達は詩が好きで、詩を文学にまで変えているのが昔話です。
「多くではなく、深く」 本を読む時にはそうしましょうと言っています。
100人いれば100人通りの世界の見方があり、それを一人ひとり尊重されて行くという事、そこに一緒に生きてゆくことの素晴らしさがあるのではないか、そこには寛容、忍耐が必要だと思います。



































2019年1月8日火曜日

長谷川一男(「日本肺がん患者連絡会」理事長)・受動喫煙のない社会へ

長谷川一男(「日本肺がん患者連絡会」理事長)・受動喫煙のない社会へ
他人の吸った煙草の煙を吸い込む受動喫煙、この対策を強化する改正健康増進法が去年成立しました。
これを受けて今後学校や病院、行政機関などは屋内は完全に禁煙になり、飲食店でも喫煙が規制されます。
日本肺がん患者連絡会の長谷川さんは47歳、ステージ4の肺がんと闘病しながら活動を続けています。
受動喫煙の環境をどう変えようとしているのか、がんを患っている患者や家族をどうサポートしようとしているのか伺いました。

2010年にステージ4の肺がんになって以来、闘病をつづけているが、体調については、がんの方はおとなしくしてくれています。
お腹に複数の転移があるので、定期的に計画観察している状態です。
治療しても1年経つと半分の方が無くなってしまうという状況の中でした。
やっと丸9年来た状態です。
治ると言う事はないと思います。
限られたた時間の中でどう生きるかという方向に患者はきます。
僕自身は、人間はそんなに弱いものとは思っていなくて、強いものだと思っています。
手術をして右の肺は全部取っているんですが、合併症があります。
入院が4か月あり、その後1年間ぐらいは毎日通院していました。
具合も悪くなりやすくなるので、そのたびに入院しています。
今も1年に1っ回位入院しています。
感染が背骨に侵食して行って背骨が脆く崩れて、コルセットを今はめています。
そういう人生だよね、生きるために俺は差し出したんだよねと、あんまり大変と思わないようにしています。

私は一回もたばこは吸ったことはないです。
受動喫煙の可能性が高いと思っています。
父が吸うたばこの煙が、母親が嫌いでリビングに換気扇を付けていました。
父は一日に2箱ぐらい吸っていました。
就職する様になっても、煙草を吸いながら仕事をするのが当り前な時代でした。
原因を考えるとそこに行き着くと思います。
父とか職場の人を憎むと言う感情は無くて、持って行き様のない感情にぐらぐらすると言うような感覚です。
受動喫煙は置き去りにされた問題に成ってしまうと気付いて、絶対に声を上げないといけないと思いました。
受動喫煙が原因で肺がん、心筋梗塞、脳卒中、乳幼児突然死症候群等が起きる、それが年間1万5000人いますという、科学的根拠がはっきりしたという事もあります。
マナーも問題ではない、人に危害を与える事だと科学的に証明されて、それで死んで来た人がいると言う事で、何処かで断ち切らないといけないと思いました。

インターネットが出てきて掲示板に患者さんの不安、対処、体験などが一杯ありました。
でもその人たちは亡くなってしまうと、それが継承されていかないとことにショックを受けて、継続するものを作ろうと思いました。
以前TVのディレクターをやっていて、半分以上が肉体労働みたいで、僕は仕事ができなくなって、例えば医師にインタビューして今の治療法を判り易く説明することは僕には出来るので、そういったことをやって見ればいいかなと思いました。
NPOを立ち上げて、助成金を頂いて同じ様な患者を救う様になるかもしれないと思うとやらないわけにはいかないというような感じになりました。
2017年自民党の厚生労働部会で議論されて行く中で、肺がんになったら患者は働かなくていい、というような発言があったが、職場を移ればいいという意味だと釈明をしたが、これは良く覚えています。
論理的にはそうかもしれないが、現実的にはかなり無理があるという感覚を受けました。
肺がんの患者さんたちが、どれぐらい受動喫煙をしているのか、アンケートで調べました。(4日間で3,400通来ました。)
分析すると、肺がん患者さんたちが職場で働きながら、受動喫煙している人は約3割いましたが、これはショックでした。

我慢しているという声が多かったです。
取引先、上司とか力関係の中で、どうしても言えないという状況が浮び上がってきました。
家庭で受動喫煙続けてると言うのが6%程度ありました。
奥さんが肺がんになりその目の前で煙草を吸っている状況です。
国会で参考人として呼ばれて、屋外の喫煙所について意見を述べている時に「いい加減にしろ」というヤジが飛んだが、一言で言うと残念です。
議論の場で対立、喧嘩が起ると言う事は本意ではない。
進行がんでは命の限りを伝えられているわけで、日常って大切なんだと判るわけで、そんな中で自分を大切にして欲しいし、人にやさしくして欲しいという思いのみなんです。
満足ではないが、一歩進んだ法律ができたと思います。

僕は「煙草を吸っていたんですか」と良く言われます。
悪意はないと思うが、肺がん患者を傷つける言葉になっているのではないかと或る時気付きました。
「1本も吸っていません。」と返答するが口調が強くなります。
煙草を吸っていたんですか、という言葉の中に「貴方は自業自得ですよね」という言葉の意味が入っているような気がするんです、それで言葉が強くなるんだと思いました。
質問に答えているだけで、僕は仲間を傷つけているんじゃないかと気付いて、「煙草をすっていますか」という質問は肺がん患者の人にはして欲しくないという事は伝えています。
肺がん患者に対して、普通に接してほしいと思っています。
がんは、重い話なので聞く側もストレスがあって、もう聞きたくないという状況に無意識的にもなると、「大丈夫大丈夫」とか、「がんばればいいじゃん」とか、重い話から逃れようとする瞬間がある。
それを感じると患者は言わなければ良かったと思ったりする、軽くあしらわれた感がある、それは辛い、普通に聞いてもらえればと思います。

病気になって5年で患者会をつくる。
患者会の数は増えてきて、「日本肺がん患者連絡会」を作って理事長をやっています。
新薬を出ることを切望しています、なるべく早く承認して欲しいので、要望書などを出すのに、日本全国の団体が集まって肺がん患者の総意です、と言う事でお伝えすることができると思う、その意義は大きいと思いす。
受動喫煙に関しては国の法律が出来て世の中は変わってくると思います。
家庭など身近な人から受ける、職場から受けるとかは、法律では縛ることはできないかもしれない。
私たち自身が撲滅して行くと言うことに、取り組んでいる最中です。
対立があるので、解消して進む何かを今考えている状況です。
突破口があるかもしれないというわくわく感があります。




























2019年1月7日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】後藤新平

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)  ・【近代日本150年 明治の群像】後藤新平
後藤新平 安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)71歳。

講談による紹介
安政4年6月4日 仙台藩の下級武士の息子として生れる。
江戸時代後期の蘭学者・高野長英は遠縁に当たる。
医学の道を志し、17祭で17歳で須賀川医学校に入学。
卒業後は愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)の医者となる。
ここで彼はめざましく昇進し24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。
明治23年(1890年)、ドイツに留学。
明治25年 衛生局長にまで昇り詰める。
医学だけにとどまらず、満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市第7代市長、台湾総督府民政長官、などなど。
明治31年(1898年)第4代台湾総督長に児玉源太郎が就任。
歴代の総督がゲリラ問題に頭を悩ませていた。
児玉源太郎は後藤新平に声をかけて、自らの補佐役である民政局長にする。
武力により支配で長続きした国はない、軍政による支配ではなく民政によるべきものである、というものです。
「我々は台湾全土の一家団欒を望んでいます。
帰順したいものがあれば、自由に官邸に来てもよろしい。
もしこれを疑うなれば、こちらからそちらに出向いて話し合ってもよい。」
ゲリラに投降するように呼びかけたわけです、次々に投降してくるが、投降したゲリラを拘束したり、投獄することは一切しなかった。
彼等に土木作業など職を与えて、生活の面倒を見た。
その後港、道路、鉄道、上下水道などを整備し、台湾に近代化を推し進めて行った。
台湾運営の基本的な考えは「生物学の原則」に則ったものであると説明している。
「ヒラメの目は片側にふたつ付いている。タイの目は片側に一つづつ付いている。
ヒラメの目をタイの目の様にすることは出来ない、やってはいけない。」と語っている
日本人が台湾にやってきて台湾人を日本人のようにしたって出来やしない、やってはいけないのだ、現地の人々の習慣を重んじることなのだと。

胆沢県大参事であった安場保和にみとめられ、後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ県庁に勤務した。
安場保和の娘さんを後藤新平は後に奥さんにしている。
当時は優秀なものは医者にしろというようなことに成っていた。
安場が愛知県令をつとめることになり、それについていくことにな愛知県医学校の医者になる。
刺された板垣退助を診察したのは、実はは後藤新平だった。
石黒忠則 森鴎外のライバルと言われるが、軍医と言うより医者である官僚であるという性格が強いが、石黒に認められて、内務省の衛生局に入って、官僚という形で行政に携わるようになる。
長與 專齋は当時の医師の仕組みを作った人で、この人の推薦で明治25年(1892年)内務省の衛生局長になり官僚として活躍する。
志賀直哉の祖父志賀直道が相馬藩の家令で、志賀家は家老より下の家系で300,400石位だった。
明治26年(1893年)相馬事件
志賀直道が相馬家の財産を使って財産を増やして相馬家が豊かになったが、その立役者だった。
相馬藩の藩士錦織が相馬家の財産を志賀氏が私物化していると訴えを起こす。
世論の支持を受けてしまう。
医学的に変な薬を投薬されてお殿様が調子よく良くないというようなことも言った。
医学的観点から意見を求めたのが、後藤新平だった。(志賀家とは反対陣営だった)
相馬藩主相馬誠胤(そうまともたね)が亡くなる。
志賀直道が変な薬で毒殺したんだ、という訴えかけたが、世論はそこまでやらないのだろうと言う事でその人から離れて行った。
毒殺の為の薬が体内にあるかどうか、毒殺の証明ができないということになり、後藤新平が言っていたことは嘘なのかということになり、長與 專齋が後藤新平を排除、医師として錦織を支持していた後藤新平も、連座して5ヶ月間にわたって入獄した。
衛生局長は辞めさせられた。

陸軍省医務局長兼大本営野戦衛生長官の石黒忠悳が、陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎に後藤を推薦したことによって、明治28年(1895年)4月1日、日清戦争の帰還兵に対する検疫業務を行う臨時陸軍検疫部事務官長として官界に復帰。
その行政手腕の巧みさから、臨時陸軍検疫部長として上司だった児玉の目にとまる。
明治31年(1898年)3月、その児玉が台湾総督となると後藤を抜擢し、自らの補佐役である民政局長になる。
後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。
後藤は人間を育てることは一番大切だと言っていて、人材育成を本格的に行った。
アメリカから新渡戸稲造を招いた際には、病弱を理由に断る新渡戸を、執務室にベッドを持ち込むことなどの特別な条件を提示して結局承諾させている。

阿片漸禁策
台湾でも阿片の吸引が庶民の間で普及しており、これが大きな社会問題となっていた。
後藤は、阿片を性急に禁止する方法をとらなかった。
阿片に高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに吸引を免許制として次第に常習者を減らしていく方法を採用した。
施策の導入から50年近くをかけて台湾では阿片の根絶が達成された。
明治39年(1906年)、南満洲鉄道初代総裁に就任。
台湾で育てた人材を投入、徹底的な調査を行う。
満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

関東大震災と世界最大規模の帝都復興計画
内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案、大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、予算が無くて相当縮小されることになる。
パリ改造を参考にしようとしたが、激しい地主・地権者の抵抗を受けることとなった。
大正13年(1924年)、社団法人東京放送局が設立され、初代総裁となる。
しばしば総理大臣候補として名前が取り沙汰されながら結局就任できなかった原因として、最後の元老となった西園寺公望に嫌われていたことが大きいと徳富蘇峰が語っている。





2019年1月6日日曜日

森田順平(俳優・声優)          ・【時代を創った声】

森田順平(俳優・声優)          ・【時代を創った声】
64歳、22歳の時にNHKの大河ドラマ「花神」で俳優としてデビューされた森田さんは、、[3年B組金八先生」でのこわもての数学教師役や、アニメ「クレヨンしんちゃん」の園長先生役等で知られています。
40歳近くになって声の仕事を始めるようになったと言う、森田さんにうかがいました。

1979年から2011年まで32年間に渡って「金八先生」が続きました。
デビューしてから3年目の時からでした。(25歳)
こわもての数学教師、乾先生役でした。
生徒にモテモテの人気のある役かなと思って、笑顔で芝居を始めたら、「乾先生は一切笑わない先生という事でお願いします」と言われて、愕然としました。
段々嫌われ度が増してゆき、ジョギングをしていた時に、中学生から石を投げられたりしたのには困りました。
福岡県小倉市出身。
役者を目指そうと思ったのは、母親と恩師の方々の影響と思います。
小学校のころから朗読が大好きでした。
小学校4年の時に、大学の文化祭で朗読をするという経験をしました。
そこでぽつんと何かが芽生えたのかもしれません。
中学では声変わりをして、美術部に入って、文化祭で演劇コンクールがあって、美術関係の事をやっていました。
お父さん役が急遽僕にまわってきて、それが大好評で、2年、3年と僕が主役になり優勝しました。

高校では演劇同好会を演劇部に昇格させて、高校演劇連盟にはいって大会に出るようにしていきました。
ライブ感がたまらなかったです。
当時不条理劇がはやっていて、訳のわからない芝居をやっていました。
大学3年までに卒業必修単位を取ってしまって、後は卒論、1個必修科目がのこっていて、3年で文学座が受かってしまって、それがうけられなくて、文学座に行きたいので何とかならないか、教授に相談したら、前期と後期にレポートを出せばOKという事になりました。
文学座に入ったら、目から鱗のようなことが毎日ありました。
今まで自分がやりたいようにやっていて、心をちゃんと人に伝えないといけない、というような基本からでした。
褒めてもらいたかったが、褒めてもらう事は一度も無かった。
好きでやっているので、辞めたいと思ったことはないです。

1977年NHK大河ドラマ「花神」の沖田総司 役でデビュー。
新人オーディションがあって、それに参加したら大河ドラマの役が来ました。
最初は何にも判らなかったので、かつらを付けてもらったがきつかった、刀を差して1時間立って待っていて、現場に行って「顔色が青いよ」と言われたとたんに、気を失ってしまいました。(緊張、長く立っていたいた、かつらによるこめかみの痛さ)
「花神」の次のドラマで小山内 美江子(おさない みえこ)さんに気に入っていただいて、
「 マー姉ちゃん」「3年B組金八先生」へと繋がって行きました。
1999年アニメ「キョロちゃん」で声優デビュー。
本当はもっと前に海外の吹き替えに出ていました。
海外ドラマが楽しくて面白くてやりたいなあと思っていました。
あるきっかけで吹き替えの仕事をするようになって、面白くてのめり込んでいました。
ラジオドラマが実は一番好きでした。
声だけで表現することの楽しさがありました。
身体を使って演技していたものが声だけになるが、実は声も身体の一部と気付きました。
それでもっと面白くなりました。

アニメは描かれた絵でしかないので、それに命を吹き込むには大きく作り込んでいかなくてはいけないが、吹き替えは作り上げられた人物、声、演技があるわけで、それを無茶くちゃにはできないので、それに或る程度乗っかって、自分の芝居をしなくてはいけない。
アニメは大げさにやってもかまわないが、実写では大げさにやると浮いてしまう。
吹き替えをやる時の仕事の極意は、人の表情を瞬時に読み取る能力、それに合わせて変えて行く。
その役の身体になる。(病気の状態、寝ている状態などを、立っていても声でそういう状態を作り出すようにする)

声優を目指す若い人に対しては「口先で芝居をするな」、これをまず一番言いたい。
僕が文学座に入ってやって行けるかどうか不安で、教授に聞いた時に、一緒に飲みながら「おのずから道は開ける」と一言教授から言われました。
だから僕も同じ様なことしか言えない。
強い意志を持っていれば絶対成れると思うが。
「努力は必ず報われる、もし報われない努力があるとすれば、それはまだ努力とはいえない。」 王さんの言葉ですがこの言葉が好きです。
小学生に対して、朗読をしています、4年生「蜘蛛の糸」(芥川龍之介)をやりました。
5年生が「トロッコ」(芥川龍之介) 6年生が「注文の多い料理店」(宮沢賢治)
子供達の眼の色が変わってくるんです。
これは楽しいです、ライブと一緒です。























2019年1月5日土曜日

大村崑(俳優)              ・崑ちゃんの笑いと涙の半生記

大村崑(俳優)              ・崑ちゃんの笑いと涙の半生記
今年米寿を迎える大村崑さん。昭和6年生まれ87歳。
TVの草創期に「番頭はんと丁稚どん」や、「頓馬天狗」などで一世を風靡し、その後も「細うで繁盛記」などで活躍、去年の大河ドラマ「せごどん」では西郷隆盛の祖父の役を演じ、存在感をしめしました。
今年11月1日に米寿を迎えますが、今もTVドラマなどで元気な姿を見せてくれています。
崑ちゃんの愛称で親しまれる大村崑さんに、TV草創期の思い出など、笑いと涙の半生、若さと元気の秘密を伺います。

歳に見えないと良く言われます。
去年の大河ドラマ「せごどん」では西郷隆盛の祖父の役をやりました。
大河ドラマのオファーが来た時には、ドッキリカメラかと思いました。
無精ひげをはどうしましょうといったら、はやして下さいと言う事で自前の無精ひげをしました。
体位振る舞いができるかどうかを見せてOKとなり、スタートしました。
広大なスタジオ、大きな大木が真ん中にあり、最初にそこに上がるのが僕でした。
高所恐怖症なので大変でした。
監督から良く撮れたと言われて安心しました。

兄弟の中で一番上で、父は写真館の主で、母は町の電気屋さんの商売をしていて豊かでした。
或る時父に連れられて行った時に、楽屋で遊んでいるとおしろいを塗られてかつらをつけられて、舞台に出ることになり、やったら歓声、おひねりが飛んできたりして、それが僕の身体の中に住みついてしまいました。
学校で何になりたいと言われて時には、大概の人は陸軍、海軍大将になりたいと言っていましたが、僕だけは役者になりたいと言ったら、先生に殴られました。(戦争中の時代)
小学校2年生の時に父が腸チフスの菌をもらってしまい、町内から村八分になり昭和16年1月1日に亡くなりました。
おじさんの家に養子にいきました。
兄弟は親戚に貰われて行きました。
「おばちゃん」と呼んでいたのを「おかあさん」と呼びなさいと言われて、殴られていまだに片方の耳が難聴になっています。
写真屋だったので結婚式とお葬式の写真を一緒に焼くので、おじさんに別に焼いたほうがいいといったら、逆鱗に触れて、写真屋をつぐんだろうといわれたが、芸能界に入りたいと言ったら「そうか、お前の好きなようにやれ」と言われました。
新世紀というおおきなキャバレーがあり、そこは芸能人が出入りしているという事で、そこに試験を受けに行きました。
眼鏡をかけていたら一発で落ちました。(接客には眼鏡は駄目と言われていた)
縁なしの眼鏡だったらOKということに後日入ることができました。
ボーイが40人いた中で2年ぐらいで、主任が一番上で次がボーイ長で、副ボーイ長になりました。
司会をさせてもらうようになり、本職の司会者が辞めてしまって、司会者になって江利チエミさん、雪村いづみさん、美空ひばりさんとかきて、雪村いづみさんのマネージャーになんとかぼくをプロにしてくださいとお願いしたら、大久保怜さんを紹介して貰うことになりました。
やる仕事は縁の下の力持ちで、ボールを袖で投げていたら、出て来いと言われて、ボールを客席にヘッデイングで放るような形でやったらそれが物凄く受けました。
笑ってくれることは幸せだなあと思って、笑いの世界に入っていこうと思いました。
北野劇場に入れてもらいました。
佐々十郎さん、茶川一郎さん等と出で会ってコントをするようになりました。
そこでの経験が僕の基礎になりました。
花登 筺(はなと こばこ)さんとの出会いが僕にとって幸運でした。
花登 筺さんと一緒にTVに進出して行く。
最初は昭和33年から35年にやりくりアパート』(佐々十郎,茶川一郎,大村崑)
大阪の下町にあるアパート「なにわ荘」を舞台に、住人である青年3人組や管理人一家が巻き起こすドタバタを描くコメディです。
昭和34年には『番頭はんと丁稚どん』 ファンレターが一カ月に柳行李に一杯になりました。
同年 『頓馬天狗』 白い頭巾をかぶった鼻眼鏡で木馬に乗ってやってくる。
生放送を週に9本掛け持ちで持っていて、睡眠不足になりました。
鼻眼鏡は小学校2,3年生のころ母親のまねで針仕事をして見せたら笑っていました。
 「細うで繁盛記」「どてらいやつ」「赤い霊柩車」シリーズなどにも出演。

実の親が腸チフスで亡くなった時には非常につらかった。
学校ではうつると言って周りの人は近寄らなかったし、銭湯にも入れてくれなかった。
親戚が考えて学校も変えて、その後は誰からもいじめは無かった。
二度目の母親がすごかった、負けたらいかんというのを常にいっていました。
そういったことも基礎になったと思います。
戦争の時のひもじさ、死体の整理などをやらされたり、戦争が早く終わって欲しいと思いました。
道端に夏ミカンの皮が落ちていて、拾おうと思って手を出したら、地下足袋でその上から踏まれ、おっさんがそれを取って腹巻の中に入れて、ひとかけら口に入れてどんなもんだと言うような顔をしていたのを、今でも思い出します。
新世紀に勤めていたころ、ビリヤードをやっていた時に、喀血で病院にったら結核でした。
母が医者に寸志として砂糖などを持って行き交渉して、翌日医者の処に行くことになりました。
お金のあるうちは進駐軍の新薬を注射されることができました。
6時間の手術をして、医師から40歳までしか生きられないぞと言われました。
何故元気でここまで来たのかわからないが、笑いがいいのかもしれない。
今ジムへ通って9カ月になります。
元気の源は強いて言うなら眠ることかもしれない7,8時間は眠ります。
酒はウイスキーの水割りとかで飲んでいます。
歯は全部自分の歯です。
歯石を良く取りなさいと大川橋蔵さんから言われました。
食べ物は「まごはやさしい」 マメ、ゴマ、わかめ、野菜、刺し身、シイタケ、イモ
を良く噛んで食べる。
夢はもう一遍大河ドラマに出たいのと、横綱審議委員会に出たいと思います。










2019年1月4日金曜日

角幡唯介(ノンフィクション作家・探検家) ・極夜を行く

角幡唯介(ノンフィクション作家・探検家) ・極夜を行く
本屋の店員が一番読みたい本を選ぶ、本屋大賞のノンフィクション本大賞に角幡唯介さんの「極夜行」が選ばれました。
探検家として4カ月も太陽が昇らない北極の冬、極夜を冒険した日々がつづられています。
角幡唯介さんは北海道芦別市生まれ42歳、早稲田大学探検部のOBで、新聞記者を5年務めたあと、本格的な執筆活動に入りました。
2009年にはチベットにある世界最大の峡谷の未踏地帯を一人で踏破、その探検を記した「空白の5マイル」で開高健ノンフィクション賞を受賞するなど様々な著書を発表しています。
角幡唯介さんは太陽が地平線の下に沈んで、姿を見せないという極夜の先に何を見たのか、何を感じたのか伺いました。

「極夜行」グリーンランドのシオラパルクから極夜の深奥部に向かってたった一人でで犬一匹と往復で1300kmを目指した。
昔から極地探検記が好きで、100年以上前の北極探検の本などでは、準備をして太陽が上がって明るくなって探検に向かう状況が描かれている。
そういったものを読んでいて、極夜で過ごすってどんな事なのかとか、太陽があがるとはどういうことか、ということへの関心があって、いつの間にか自分も行ってみたいと変わっていった。
暗闇の世界の本質を探って行く、最期に太陽を見た時に自分がどう感じるか、その太陽とは何かなど、普段考え無くなったことに対して経験できるのではないかと思いました。
結婚して子供が生まれても、やりたいなという気持ちは変わらなかったです。
氷点下30,40度は当たり前でしたが、でも寒さには慣れます。
ブリザードは怖いが四六時中吹いているわけではない。
暗闇はズーと続くので暗闇に対してのストレスは、蓄積するのが凄く大きいです。
見えないことで困難度は上がりますから。
暗さも一律ずーっと続くわけでも無くて、極夜が始まったばっかりは地平線の近くまで太陽は昇ってくるので昼間はだいぶ明るくなります。
月もあるので月の明るい時間帯に合わせて、自分の生活のリズムを作っていく感じです。

GPSを使わないで旅をしようと思いました。
GPSを使うと極夜に行く意味がなくなる。
極夜という闇の中で旅をするとどういう感覚になるのか、極夜というものはどういう世界なのかを洞察したかった。
極夜の闇の本質を知りたいわけです。
自分の居場所が判らなくなるのが一番怖いわけです。
そういった状況では、明日明後日の事が計画立てられない。
生きて村に帰れないかも判らない、という状況になる訳です。
自分が生きているということに、リアルの想像出来なくなる。
六分儀も最初に飛ばされてしまって、地図とコンパスで対応しました。
北極圏は起伏があまりないので、判りにくい。
五感を使って、ソリの重さでのぼっている、下っていることを判断する。
コンパスも信用できなくなってくる事があり、星を見ながら最終的に進むとか、する訳です。
GPSを使って暗い中を歩いてきましたと言っても、なにも発見はもたらされないので行く意味がないわけです。
星の輝きは北極よりも日本の冬山登山で見る星の方が綺麗に見えます。
月はあまり変わらないです。
月に照らされた氷原、ツンドラの台地は綺麗で、地球ではないような感覚があります。
星座を観ていると星は個性があることが判って来るし、星座の物語が出来て来ることが判ってきます。
ずーっと星を見て真っ直ぐ歩いて行かなければいけないので、自分の命を握っている非常に重要な存在なので、星を自分の経験したことのないような形で見えて来る。
月明かりも行動する時の大きな要素になるので、月も自分の中で見えて来る。

2016年12月にスタートした極夜行、78日目に昇った太陽をみて、言葉ではなかなか表しにくいが、感動したという以外に何て言ったらいいかわからない。
物凄い、大きな火の玉のような感じがしました。
大きいなあと思うと同時に暖かいなあと思いました。
光は希望だと思いました。
暗いと未来が見渡せない、自分がどこにいるのか判らない。
見えている、見えていないという事は将来の自分に対しての想像力と関わっていると思う。
見えると言う事は将来に対して、希望持てると言う事だと凄く判りました。
次に太陽を見た時にはそういった感動は覚えなかった。
根本的には生きている経験を、リアルに体験したいからだと思います。
普段は生とか死を意識しないのでそれをするには、飛びだして何かを経験しないといけない。
システムの外側に飛びだす事、システムの管理、方向付けが無いので混沌としたカオスが広がっている。
マニュアルが無いので全て自分が考えないといけない、そして行動する。
変な判断をして変な行動をすると、場合によって死んでしまうかもしれない。
生のダイナニズムがある。(判断、行動、結果)
それが本当の意味での自由だと思います、別の力等によって干渉されたりだとかが無い。
その自由はめちゃくちゃきついが、そこには生々しい手ごたえがあり、その手ごたえは日常管理されたシステムの中では味わえないから、冒険、登山をすると生きている実感が味わえるんだと思います。
今は成果ばかり重視して、本質的な事を考え無くなってきていると思います。
冒険の本質は人間の日常的な管理された枠組みの外側に出ることですが、今はそういう場所が無いし、対象が見つからないから、判りやすい目標にみんなむらがってそれが冒険だとみなされつつありますが、本質は違うと思います。
僕の場合本を書きたいということがあるので、自分の行動をどう表現したいか考えるので、本質的な事をしたいとか、物事突き詰めて考えてという傾向はあると思います。
書くことは行動起こすと事と同じ重要性を持っているので、本質的な事を最終的に書きたいと思う気持ちがあるので、そういうことも冒険に駆り立てる一因としてあるのかなあと思います。
後悔したくないという気持ちはあります、人生一回ですから。
迎合したくないという気持ちはあります。
耳触りのいいメッセージをしたいとかは思わない。
自分からこういう生き方をすべきなんじゃないか、とかというつもりはないです。
今年は犬ぞりを始めようかと思います。
犬ぞりだと自分のやりたいことができるんじゃないかと思って、可能性の広がりというか、そいうのを感じて本格的に犬ぞりのトレーニングをしようかなと思っています。
極夜行等で自分が蓄えた知識を使わなくなるのは勿体なあと思い始めて、自分が使える場所みたいなものを広げて行って、それを使って旅を出来ることを目指しています。
極夜行以後探険的に自分で新たなものがみつかっていなくて、もっとうまい極地旅行家になりたいという気持ちが強いです。
或る意味極夜よりもはるかに探険的な試みになるかもしれない。
自分を突き詰めている旅ですが、自分の中には万人に共通する普遍的なものがあるはずだから、極私的なものを突き詰めれば突き詰めるほど、普遍的なものが見えてくると思うので、自分の中に眠っている普遍性みたいなものを書きたいなあということです。













2019年1月3日木曜日

関野吉晴(探検家・武蔵野美術大学教授)  ・我が"探検家人生"の半世紀

関野吉晴(探検家・武蔵野美術大学教授)  ・我が"探検家人生"の半世紀
東京生まれ70歳、探検の始まりは一橋大学時代、20歳で探検部を創立、一年間休学してアマゾン流域をたずねました。
その後横浜市立大学医学部に進み、外科医になってからも病院勤務と探検を繰り返しました。
或るイギリスの考古学者が、人類誕生の地アフリカから南米に至るまでの、人類の拡散の道と旅を、グレートジャーニーと名付けましたが、関野さんはその道を遡る旅を44歳から10年かけて成し遂げました。
2002年から武蔵野美術大学で、文化人類学人類史の教授となってからも、探検を続けました。
その中でも新グレートジャーニーは、日本人のルーツを探る旅で、海上ルートなど3方向から探検しました。
探検人生への思いや、今後の夢を語ってもらいます。

高校生の頃探検に興味をもちました。
大学に入ったら親に勘当されてもいいから、自分をそういう身におきたいと思って、探検部を創設して1年間休学してアマゾンに行きました。
直行便が無いのでカナダ経由か、アメリカ経由で行くので24時間ぐらいかかってしまいます。
行先は何処でも良かったが、他の学校の探検部と交流したり、山にも登らないといけないと思っていました。
飯山達雄さんというアマゾンに長期滞在したことのある写真家がいまして、アマゾンの面白さを何回も話を聞いて、早稲田の探険隊では世界で一番長い川ナイル川の遠征を出していて、僕たちは世界で一番大きい川アマゾンをやろうと言うことになりました。
最初はアマゾン川の河口から一番遠いところから下ろうと思いました。
だんだん流れが緩やかになると退屈との戦いでした。
興味の対象は冒険ではなく人間だと言う事が判ってきて、思いっきり我々とは違う、文明とは接触した事の無い人達と、出会いたいと思いました。
情報収集しながらブラジルまで行きました。
奥地までいける材木商人に連れて行ってもらって、アシャニンカ族と言う先住民の居る所に3か月居候生活させてもらいました。

翌年又でかけて、その時にはマチゲンガ族という人達でした。(1973年)
そこの家族とはいまだに付き合っています。(5世代になります。)
物質的には貧しいですが、競争しないので優しい、とにかく時間がゆったりと流れていて、幸福さはものだけでは測れないと思う。
とにかく平等で獲物を取ってきたら、車座になってみんな一緒になって食べるんです。
土地についてはこれは俺のものだとは言わない。
彼等の家に入って見渡すと、いろんなものが置いてあるが、素材の判らないものはない。
彼等は全部自然から素材を取ってきて、自分で作るものしかない。
写真を撮ってきて日本人に見せると、「なにを楽しみに生きているんですか」と良く言われます。
同じ問いをその人たちに言うと、最初はなにも言えないがぽつぽつと言い始めて、「家族が仲良くて自分が健康で、隣人達とも関係が良くて、仕事もよく行っていてその仲間とも上手くやっていて、時々映画、コンサート、好きな本を読んだりと、あたりまえなことなんです。
根本的なところをみると、彼らも同じなんです。
男性は狩り、女性は採集ですが焼き畑農業もやっています。
アマゾンはイモを作っています。
食料を溜めこまない、だから平等でいられる。
食料、家畜など溜めこむことによって分業が起こってきて、差別化されてくる。

先住民の処に行くと泊めてもらったり、食べさせてもらう。
繰り返してゆくうちに、自分の今後の選択肢がいくつかありました。
彼等とは調査の対象として付き合いたく無くて、フッと思い付いたのが医師になることでした。(彼等の役に立つと思いました。)
横浜市立大学医学部にはいりました。
春休み、篤休みに南米に行っていました。
病院勤務する時には一切できませんでした。
一番の教科書は患者さんです。
医療に当たる期間と探検をするスイッチの切り替えが必要でした。(3年単位ぐらい)

或るイギリスの考古学者が、人類誕生の地アフリカから南米に至るまでの、人類の拡散の道と旅を、グレートジャーニーと名付けました。
アマゾンのひとたちは日本人と似ているが、付き合っているうちにいったいこの人達はこんなところまでどうして来たのか、たどってみようと思って始めました。
その人達のルーツをたどる旅を始めました。
家族の反対はもちろんありましたが。
ゴーギャンの絵のタイトルに「我々は何処から来たのか、我々は何者なのか、我々はどこにいくのか」というものがあります。
我々は何処から来たのか→アフリカだろうけれども。
我々は何者なのか→猿との違いが判ると人間の本質が判ってくるのではないか。
我々はどこにいくのか→何処へ行くんだろうかという事を考えたい、そのためには我々はどうすればいいのかという事を考えてみたい。
いま世界で何が起こっているんだろうか、という事をたどる旅でもある訳です。
旅を布を織る気持ちで旅をしていました。
縦糸と横糸が合わさって一枚の布になる。
縦糸は南米からアラスカ、シベリアからアフリカ迄線を結ぶことです。
横糸は寄り道で人との付き合いです。
布は何かというと、いろんな人との出会いによって得たものの見方、考え方です。
気付きをずーっと繰り返していって、自分が変わっていくのが面白いです。
移動には近代的動力は使わない。
一番いやなのは治安の悪さで、いくらトレーニングをしても駄目です。
奥地に行くまでは色々大変です。(警察、軍隊、税関など)

あたりまえなことが大切だと言う事が判ります。
病気になった時の健康の大切さ、水が無い時に水に出会った時の喜び、水の大切さが判ります。
汚されて初めて綺麗なのが有難いと判るわけです。
失われて初めて気がつく。
自分の足元をみたいと思いましたので、工場で働いたりしました。
①北方ルート シベリア、サハリン、北海道ルート
②中国、朝鮮半島経由でやって来るルート
③南方ルート 海からのルート
自分の腕力脚力だけでやろうと、それが新グレートジャーニーです。
インドネシアで太古の船があったらと思って調査に行ったがありませんでした。
アマゾンを思い出して太古の人のコンセプトと言う事で道具も砂鉄から作り始めました。
たたら製鉄で玉鋼を作り道具を作っていきました。
インドネシアの大木を探して舟を作りました。
学生たちと一緒に舟作りをして1年間かかりました。
インドネシア、マレーシア、フィリピン、台湾、石垣島へとゴールインしました。
日本人は本当に複雑で、いろんなところから色んな人たちが集まって、混血して出来たのが日本人だと実感として判りました。
計画を立てようとしたことは無くて自然と湧いてくる。










































2019年1月2日水曜日

木村万里(笑いのライブプロデューサー)  ・笑いの仕掛人として40年

お笑い(笑いのライブプロデューサー)  ・笑いの仕掛人として40年
富山県生まれ大阪育ち、20歳のころ上京し、デザイン会社に就職、受け付けを担当、その後雑誌の編集に携わり、タウン誌東京情報の演芸祭りボランティアのページを担当、落語特集を一人で9ページ作ったりしました。
木村さんはこのころに、笑いをライフワークにするベースが築かれたと言います。
その後、民放のTV番組の小冊子の編集や、新聞の連載クラブ等を通じて幅広く芸人たちを紹介してきました。
書くばかりではなく直接ライブに関わっていきたいと思い、10年ほど前に企画制作した「渦」を立ち上げ、落語、大道芸、音楽、講談、スタンダップコミック、そういうジャンルの垣根を越えた混在ライブの公演を続けて来ました。
下北沢の劇場で行う公演では去年の秋40を数えています。

「渦」42回目の公演を開催、10年以上になります。
年に2回行います。
みんな忙しいので声をかける順番が難しいです。
柳家小春(「たぬき」を全編通しで弾いてくれた)、小林紀一(三木のり平の息子、遊芸人 手袋で人形を作って色々芸をする)、坂本 頼光、すわ 親治、米粒写経(漫才)等が参加しました。
全部で6公演です。
色んな笑いを笑ってもらいたいともいます、笑いの質がそれぞれ違います。
違うジャンルの方を組み合わせる。
お客さんだけでなく、楽屋でもシャッフルされます。
Aさんを観に来たのにBさんの面白さに気付いたりするわけです。
「寄席」だと芸術協会等に属さないと出られないので、大道芸なども含めそれぞれの良さを新しく発見して喜んでもらいたいと思っています。
TVだとどうしても画一的になってしまう、レンズが選んで観させられている。
ライブだと自分の眼で色んな方向から見られる。

大阪の施設に住み込みで働いていました。
宿泊と結婚式、宴会、会議を全部そこでやるので、全てに対応しなくてはいけない。
大阪市立大学に行きたかったが受からなかった。
本が好きで図書館の司書になったら本の中で囲まれて暮らせると思って、図書館司書短大が東京にあることが判ってそれをめざしました。
短大に行くためのお金もたまらずデザイン会社に来ました。
受付に入って、関西弁をなおすのに苦労しました。
コピーライター養成講座に行きました。
この仕事には向かないかと思ってタウン誌の仕事をすることになりました。
担当したのはボランティアと祭りと演芸でした。
当時ボランティアという言葉が無かったです。
手話の教室にも行きました。
祭りはお神輿情報の取材などを行い、演芸は「寄席」通いをしたり、お蕎麦屋さんでやっているのを特集したりしていました。

大阪時代19歳のころに立川談志さんがディスクジョッキーをやっていて大ファンでした。
20歳のころ梅田花月の談志独演会に入って「芝浜」を聞いて衝撃を受けました。
立川談志さんは自分でもできが良かったと思ったのか、終わってもお客さんと坐って話をしていて私もそこに行きたかったが、いけなくて拍手をして、急ぎ仕事場に帰らざるをえませんでした。
立川談志さんに手紙を出しました、そうしたら返事が来て居て又感動しました。

山本 益博さんを立川談志さんから一声紹介されました。
漫才、落語、演芸、山下清のドラマとか色んな編成がありました。
それの小冊子の編集でした。
かなりハードで寝むる時間も無く、一人で20ページぐらいをやっていましたが、色んな人との出会いがあり楽しかったです。
文化人類学者山口昌男さん、作家の色川武大さん等とお会いすることができました。
その仕事が笑いのライブプロデューサーのいしずえに成っています。
毎日新聞に連載されるようになりました。
「お笑い昆虫記」、「お笑い採集記」、「お笑い漂流記」など担当しました。
しかしその現場の面白さを伝えられずに、じゃあライブだと思うようになりました。
当時は落語界は冬の時代でした。
志の輔さんとかのライブのお手伝いをしてやったりしていました。
ライブだと肌感覚で見られる、TVだとカメラマンが捉えたレンズを見させられている感じがしました。
ライブだと「気」があります。

笑いの効用、笑いは一つのリセットになります。
悩んでいると外が見えなくなるが、笑うとほどける、息を吐くと言う事は大事なことだと思います、身体を活性化する。
20歳のころにデザイン会社に入っているころ、ブレインと言うのがあって「関係としての笑い」という連載がありました。
ライフワークに足りるなと思いました。
それは「日本人の笑い」という本になって出ました。
落語には救われました、落語に出てくる人は普通にいきている、良いのかこんなふうでと楽になりました。
笑いは潤滑油、価値転轍機となります。
生きてゆくためには必須のアイテムだと思います。
同じことばっかり考えているとからだが悲鳴を上げます、身体の声を聞いて身体を信用する。
戦争がなくなればいいと思っていて、何をすればいいかというと、価値観って一杯あるよという事をみんなが受け入れれば、戦いは少なくなるのではないかと根本に思っています。
色んな事を許容できる、身体でいえば体幹、気持ちの体幹みたいなものを笑いで鍛えて行きたい、そうすればどんなことがきてもへっちゃらです。


















2019年1月1日火曜日

大野和士(指揮者)            ・【母を語る】

大野和士(指揮者)            ・【母を語る】
1960年昭和35年東京生まれ、神奈川県立湘南高校から東京芸術大学指揮科に進み、その後ヨーロッパに留学、1987年にアルトゥーロ・トスカニーニ国際指揮者コンクールで優勝。
翌年ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任、音楽監督も兼務して1996年まで在任した。
その後、ドイツ、ベルギー等で音楽監督を務め、2008年からフランス国立リヨン歌劇場において、首席指揮者として活躍を始めた。
2015年からは東京都交響楽団とバルセロナ交響楽団の音楽監督を務め、2018年の秋には新国立劇場の芸術監督に就任しました。
幼いころから音楽に興味をもった大野さんに、指揮者としての基礎の道筋を付けてくださったと言う、お母さんについて話を伺います。

いつも自分が現在やるべきことと、未来のあるべき姿を思いうかべながら活動しています。
自宅はベルギーにあります。
生れは東京ですが小学校3年生で横浜に引っ越してきて、大学卒業まで横浜にいました。
20代半ばからヨーロッパに留学して、ベースとしてはヨーロッパという事でやってきました。
日本には3か月位いましたが、東京都交響楽団と新国立劇場の芸術監督に就任しましたので、その活動を加えますと、4カ月位になってきました。
この仕事を引き受ける時に、いままでオペラ劇場で仕事をしていて演出家、歌い手さんの情報もあったし、日本の若い沢山の大勢の声尾をオーシション等で集中して聞いてきたので、いま手にできる材料を元に新国立劇場に貢献できたらと思って、引き受けることにしました。
ドイツでは沢山のオペラ劇場がありました。
ドイツでオペラの勉強を始めて、ブリュッセル、フランス、スペイン等で勉強しましたが、最初はクロアチアのオーケストラから始まったので、戦争の時だったので苦労をしました。
英語、ドイツ語、イタリア語、フランス語を初めのころ学んで、フランス語、スペイン語をその後学びました。
スペインでは独立運動が盛んなところにいるので、カタルーニア語もやらなければいけないと思って苦労しています。

父が音楽が好きでレコードを買ってきて聞いていて、ヴェートーベン三番交響曲「英雄」の頭に迫力のある衝撃的な和音があるが、それにショックを受けて、ジーンときましたが、その思い出がいまだに耳の奥底に残っていて、音が聞こえてくると嬉しかったので、踊ったり転げ回ったししたそうです。(3歳のころ)
幼稚園の卒園の時に、何になりたいのか聞かれた時に指揮者と書いてありました。
母も小さいころから音を聞くと踊ったりしていたそうです。
女学校時代に薙刀を習って、私によく見せてくれました。(快活でした)
オルガン、ピアノを習い始めたのは、兄がやっていたので始めましたが、そのうち私が熱心にやるものだから、兄はそのうちに辞めてしまいました。(5歳のころ)
母は女学校時代にお茶とお花をやっていて、お稽古ごとの厳しさが好きで、私が指の練習をしているといつの間にか母がやってきて、肩を掴まれたりしていました。
大学に行くようになって、母はお茶の師範として、町の方々を弟子を取って始めるようになりました。
家の中に和(母のお茶)と洋(私のピアノ)の生活してきて自分の音楽家としての人生にも大分影響与えてきたと思います。

若い自分に余り間口を狭くしてはもったいないという事を、母は言っていました。
母は割とおっちょこちょいなところがあり、ものに取りつかれることのある母でした。
音楽の道に進むことに対しては、母は内心大分心配していたと思います。
芸大を卒業後、留学して順風満帆に思えるが、指揮者はオーケストラが無いと指揮者にはなれない。
大学ではそういった機会はほとんどなくて、ピアニストを前にして自分ではもやもや繰り返していて、年に一回披露する機会が与えられるわけですが、自分が思っていたようには動かなくて、指揮者はオーケストラの音が出る一歩二歩先を進んでないと、オーケストラはあのように音が出てこないんです。
タイミングが判らないと、オーケストラは沼地の様になる。
大海原に一人だけ投げ出されてしまったような感じです。
オペラの勉強をしたかったが、作品作品にあった歌い方、フレージング、オーケストラの響きとかを決めて行くのが指揮者の仕事ですが、それをどうやってやっるのかという事が知りたくてミュンヘンに留学したわけです。
カルロス・クライバーという名指揮者がいて、隠れて練習を見に行ったりしました。
セルジュ・チェリビダッケ 名指揮者が指揮をしていて、神様に愛されている巨人達を見て、このような人達になるには不可能ではないかと思った時期がありました。
壁の厚さ壁の高さを思い知ったことがあり、指揮者として契約する立ち場になって、一曲一曲100%織りこんで刻みこんで成功してゆくことから、クロアチアのオーケストラで指揮をすることになり、最初はもの凄く時間がゆっくり流れれてゆく感じでした。

戦争のなかで、オーケストラは演奏会を一回も辞めなかった。
客席は普段よりも一杯になりました。
民族的な紛争で揺れているけれども、音楽をやっている我々の現実と聴衆たちの世界はナショナリズムではなくてインターナショナリズムであると、だからこそ音楽は真の意味で民族を越えて、国境を越えて、人々の中にひとしく浸透する経験をしました。
シオン物語を新国立劇場でオペラの公演を行います。
母は亡くなって3年になりますが、自分の事のやりたいことをやって、それであるからには自分で責任を取りなさい、と生き方を押し指してくれたと思います。
ひなた、となり、影をサポートしてくれて、その裏には彼女自身の素質があって私自身が育まれてきたことは一番感謝していることです。