2011年5月27日金曜日

酒井大岳            ・「草に座って雲を見る」2

酒井大岳
<概略>
国語と書道を教える中、卒業生に「悲心」の書を送り続ける ある時に教え子に出会い「悲心」の書との経緯について話を聞く事になる
俳句もやるようになる 金子みすずの詩との出会いから、荻野義信、矢崎節夫氏と懇意になり ネパールと係わりを持つようになる
般若心経の心を先生が地で示してくれた
それからは般若心経を一生懸命勉強した
先生 腎臓の手術をしてその晩亡くなる 45歳  立てないくらいショックだった
私の心のど真ん中に杭のように刺さっている
卒業の時に仏教の言葉を贈り5000人余りになる 
卒業生に送った書「悲心」・・・自分が悲しい体験をしたら、他人には味あわせたくない 体験から出てくる本当の思いやりの心
運命の風は絶対避けられない(悲風)  どん底の悲しい体験をしたら もうこの悲しい体験は自分だけでたくさんだ 人には味あわせたくない
真からの思いやりで人に親切を施してゆく温かい心を与えて心  
北海道へ講演に行った時(高等学校) 講演後「先生」と言って抱きついてきたおばちゃんがいた 教え子だった

その子は悲風の連続  夫を亡くし、息子が事故に会う、となりの家から出火して全焼してしまう、自分は病気をして手術をする
これがバタバタと続いてしまった 最後が火事で何もなくなる 机の引き出しの一番奥から封筒「悲心」が出てきた(焦げてなかった)
これを抱きしめて声を出して泣いてしまいました  泣きながら報告してくれる  いまでは額に入れて飾ってあります  大変慰められた
今度の大震災で立ち直ってくれたら本当にすごい悲心の持ち主になるでしょうね あったかい心を波紋のように拡げてくれると信じている
俳句は子供のころから  高校で担任が俳句が得意で全校で行う 1,2位を取る富安風清先生 俳句大会在り 5句大会に出す 
 
全部入選せず 俳句の勉強を始める 毎日30句 2年半 「若葉」投稿
「めだか散り めだか集まり 水動かず」
子供が怪我をしたり、妻が病気したり人間生活には絶えず起こっていること・・・これは「めだか」だろう
めだかはさっと集まったり、さっと散ったりするが 水は泰然として動かない 
高いところから見ると何万軒と言う家があり、今日結婚式を挙げる人もいれば、交通事故で大騒ぎしている人もいるだろう
合格を喜んでいる人もいるかもいしれない 悲喜こもごもが何万軒というなかにはいろいろ起きている
今喜んでいる人には5年後には苦しい事が起きてるかも、又別の人には10年後に楽しい事が起きているかも・・・めだか
大自然は頓着していない・・・水
1993年に金子みすずの詩と出会う  その前にネパールの仕事を既にしていた
金子みすず・・・大震災のときTVに詩が流れている
昭和50年代の終わりにネパールの学校建設を始めてた
オギノ芳信(群馬県の人) カメラマン ヒマラヤの写真を撮りに行って写真どころではない 子供たちは靴もはいてない 水道、トイレ無い
ろくなもの食べてない→彼らをすくうのをやらねば  小学校建設に着手する 講演会で一緒になり手伝うことになる
矢崎節夫氏がネパールに金子みすず学校を建設しようと提言 募金を展開しその浄銭で第一みすず、第二みすず小学校を建設
今の日本人の子供・・・作られている顔  (かつては日本人の顔もネパールの子どもと同様な顔だった)

ネパールの子供・・・あからさまの顔、いじられていない顔、修正されていない顔、元々人間はこういうはつらつとした顔なんだ 眼が左右対称 眼がきれい
道元禅師「切に思うことは必ずとぐるなり」 真から思っていればそれは必ず実現する
「草に座って雲を見る」   草→大地、大自然  雲→「流れる」 人間は時代に流されまいとするが自然を見る中でしか感じられない
自分は今滑って生きているのか、時代に流されて生きているのか あるいは遅れているのか 一番自分に解らせてくれるのは 青空であり
雲であり、風であり、赤とんぼである 
自分の真実を見るまなこ これを発見することが大切だ  余裕       偉くなると自分を見失うことが多い
草に座るということは あらゆる世界をしっかりと落ち着いて静かな眼差しで見つめ、同時に自分を見つめる

2011年5月26日木曜日

酒井大岳            ・「草に座って雲を見る」

酒井大岳

<概要>
昭和10年(1935年) - )は現代日本の曹洞宗の禅僧。洒脱な語り口調で説く法話には笑いあり涙あり
、ほのぼのとした人柄に似た温かみがある
群馬県の寺に生まれるが、高校時代当たりは寺を継ぐのが嫌で距離を置いていたが、ふとした事で
桶屋の作業風景を見て寺を継ぐ決心をする
アルバイトをしながら大学の費用を稼ぐ中、強盗に会い、金を取られるが、新聞に載り善意の寄付が
来る 寄付にお金について諭される
アルバイトでいろいろな人に出会い多くを学び、寺を継ぐことになる
寺の創設以来385年 17代目 
大自然のなかにポツンと一人おくと自分が見つめられる
父親が厳しかった 大学4年間終了しても習字教室等開いて家に戻らないようにしていた
寺は貧乏寺で戻らないようにしていた
俳句の集まりである時高雄山に行く とある農家に山吹の花が咲いていてそれを句に読もうと考えて、
ふと桶を作っている少年を見かける
あの少年は仕方なくおけ屋さんを継ごうとしているのか、それともおやじに負けない腕前を持って桶屋
さんになるんだという気持ちで桶をつくっているのか
どっちだと自分に問いかけた  いやいや寺を継ぐことは止めようと継ぐんだったらしっかり継ごうと
決心する→寺を継ぐ

高校に行きたくて学資を稼ぐ為にアルバイトをする
仲良し会 毎月200円会費 溜まったらお伊勢参りをしよう その会長から仕事を紹介してもらう
600軒ある会員から集金する仕事が見つかる 手数料6円 3600円 学校の費用650円/月 
友人とウドン等おごる(試験の回答貰う条件)
教師はおみとうしであった 3年間やる 駒澤大学を希望 
(将来お寺の坊さんになりますとの書類を提示すれば入学出来た)
アルバイトは行商のようなことをしてあるいて売り歩く 
日用品いろいろなもの(40種類以上)を歩いて売り歩く

熱海に売りに行く→1万3000円/日(11時頃売り切る)→トンネル内で強盗に出会う→全部取られる→
警察に行き経緯を報告と同時に200円借りる(電車賃)
→翌日新聞に掲載される→翌日封書が一杯届く→学資の足しにとお金が入っていた
(大半は住所無)→合計6万3300円(合計83通)
下宿のおばさんが来て話をする→あんたは喜んでいるようだけどその金は使ってはいけない→
貯金しておきなさい→どうしても必要になったら
合掌しておろして使いなさいそれ以外は駄目→大學のどんな偉い教授の教えよりも胸に中心に
グサっときた教えであった

送ってくれた人に返せなくても恩返しは出来る→例えば電車に乗って座っている前で吊革に
つかまっている人がお金を送ってくれた人かも知れない
行った先で自分のそばにいる人に親切心を持って接してゆくそれは全部恩返しに繋がる
(だから送ってくれた人に恩返しをしなくてもいいの)
縁ある人を大切にしなさい しっかり勉強して坊さんになるなら立派な坊さんになりなさい→
それがご恩返しというものです
その下宿のおばさんは90歳で昨年亡くなる 
アルバイトでは日本中回った 月日がたつと嫌なことは段々忘れてしまう
助けていただいた、親切にしていただいた事は忘れないで大事にしている
支えられたり、支えたり結局は心の問題に戻ってくると思う
旅に出ることはすごい勉強 予測できない事にめぐり合う 
ギャフンと言わせられる事もあるし、ものすごい親切にしてもらうこともある 
まっさらな目で人に接することが出来る 山のように教えを頂ける
人間と接することによって大変な勉強になった 
自分だけかなあとひがみの心もあった(中には裕福な学生もいた 小脇に仏教辞典 かっこいい)
大学に行って難しい講義を受けて難しい本を読んで自分より仏教の勉強が進んでいるか
もしれないが、まてよと 「おはようございます」「ありがとうございます」
毎日何千人の人と挨拶する自分の方が実践では上かなあ

旅で挨拶から始まる 人間対人間の勝負といっては大げさだが、ふれあい、出会いがある
腹が立っても「お忙しいところありがとうございました」 挨拶が出来たという満足感がある
大学に通っている連中にはこういうことは味わえないだろう そんな誇りみたいなものはあった
仏教の本を読んでゆくとみんな頷ける 般若心経も観音教もそんなことが書いてあって 
仏教は理屈じゃあないよ 実践だよと
自分で汗をかく事、自分で水を飲むこと、あらゆる本に書いてあって 
やった やったという気分だった
頭で考えるよりか、自分で行動して、その結果を本と照らし合わせると 
特に仏教関係の本は大体そうである  実践が一番大事

身を持って体験しないものは、教えでも説教でもない 
寺を継ぐという時には気持ちは大きかった 手紙を両親に書いた 
(今まで戻るか戻らないか随分心配を掛けたけど戻る決心がついたし
戻る以上はしっかりと後を継ぐ 心配しないでくれ)
寺を手伝いながら、国語と書道を教える (36年間) 

2011年5月24日火曜日

南孝彦(グラフィックデザイナー)    ・都心に蝶を呼び込もう

南孝彦(グラフィックデザイナー) 都心に蝶を呼び込もう      
蝶の寿命は10日~数カ月  蝶の種類によって異なる
産卵からう化まで3回/年
行動半径 台湾~長野  渡り蝶  羽根にマーキングして観測
7~8階まで飛ぶことが出来る
品川区 支援 小学校校庭借りて(一坪くらい)植物を植える
蜜柑の木の場合 半年程度で来る ナミアゲハ   
蝶の場合 環境を整えてやれば結構来る
10種類は呼べるようにした (植草との関係)  

水面がきらきらするのを見てトンボは水を知る
現在122か所に植草を植えた場所 拡大  児童への教育の効果在り 生命の大切さ  
児童は自分たちで種類など勉強する・・・クロアゲハ、ウサギナガサキアゲハ、シマグロヒョーモン、
キアゲハ、ヤマトシジミ、モンキチョウ
幼虫にも興味湧く   外敵は鳥、寄生バチ
卵がかえって蝶になるまでの確率は1~数%程度
冬はさなぎで越冬する  蝶の定住化は安定するまで1年~2年
蝶がひらひらとぶのは捉えにくいように
植草の絵本が出来たらいいと思う・・・それが夢   絵本と図鑑は違う

2011年5月21日土曜日

スティーブン・リーパー        ・核廃絶2020ビジョン



スティーブン・リーパー       核廃絶2020ビジョン
1~7歳まで日本で過ごす
父は洞爺丸でおぼれる人に自らの救命具を与えた人 宣教師  
日本人を友達にするために来日
1969年 兵役拒否 ベトナム戦争に対して
原爆資料館を友人に誘われて見学・・・原爆の威力を落とした側での見方しかなかった 
友人から被爆の本を借りて読む
1997年生活の半分を平和活動に向けると決意
インド、パキスタン核保有   平和→核兵器廃絶
インド、パキスタンの活動家を日本に呼ぶ  又逆にインド、パキスタンに日本から行く
敵対→友人になる→平和活動へ

カシミール紛争
2001年 広島 秋葉市長に会う 2003年平和市民会議 2007年広島文化センター理事長にプレゼンテーション 将来に対する問題
2020年核兵器廃絶 活動家に伝える 今動かないといけない
抑止力としての核    米国は超大国から段々と小さい方向になりつつある
65年使われてない・・・核の無視・・・理解する様になる
150カ国参加 4544都市 平和市長会議
普通の人に意識を高める
「核兵器禁止条約」をつくろう・・・根まわしの時期

1973年 化学兵器禁止条約   1993年 生物兵器禁止条約   1997年 対人地雷禁止条約  2008年 クラスター爆弾禁止条約
核兵器 使用 持つことは悪    
特別軍縮会議が開催される→この時「核兵器禁止条約」のサインを貰いたい
核兵器の捉え方をはっきりさせる
佐々木禎子 2歳で被爆、12歳で亡くなる  白血病   「想い出のサダコ」出版 大倉記代
(広島平和記念公園の「原爆の子の像」のモデルとなった故佐々木禎子さんと同じ病室で3カ月間過ごし、病気の回復を願ってともに千羽鶴を折った体験をもとに2005年、絵本「想い出のサダコ」を出版した)
人間像、性格が鮮明に出てくる  誰とでも友達になれる 人気の子だった
 なんかしようと思ったら考えてもらいたい 

「力」の文明の終わり、「愛」の文明の始まりにしなくてはいけない
核廃絶は人類が解決しなくてはいけない問題
平和文化・・・何なのか、宣伝したり、進めたりするのが使命
人類はもう破壊力の競争で対立を解決できなくなった→平和的方法でやらなければならな
核兵器は我々すべてを殺す力がある →それを止める必要がある→核廃絶  
戦争文化から平和文化へ

2011年5月20日金曜日

海津歩(障害者ベーカリー代表)  ・笑顔いっぱいのベーカリー

海津歩(障害者ベーカリー代表)          笑顔いっぱいのベーカリー  
現在27店舗 障害者が就職している  50種類のパンを製造販売
ヤマト運輸 小倉昌男が全財産を投入(ヤマト福祉財団)→スワンベーカリーを設立
従来障害者の場合 給与 5000円/月であった
1998年 1号店を銀座にオープン 給与10万円/月を目標とする  現在300名が働いている
加盟店が相互刺激  商品開発は本部が行ってる
海津氏は最初アルバイトで入社(ヤマト運輸) 

障害者を特別視しない  障害を一つの個性 ・・・一般社会は障害者を特別視する
障害者の作業を通じ、障害者の能力を知る
人が変わる・・・腑に落ちた時 長所の連鎖 短所を補完
昨日と同じ事をやるのが作業 明日をつくるのが仕事
商品力で勝負する 組織で動く 仕事は忙しさが必要・・・仕事による達成感
のどに詰まらないような介護用パンとか新しく工夫する 

仕事をつくってから障害者を雇う・・・重要なこと
仕事は人を幸せにする      一回は障害者になる・・・寿命が長くなったことによる 
国民の生産性を上げる      稼ぎがなくてもひとには役目がある
お客さんに喜ばれた時が幸せを感じた・・・障害者の弁
人との関係が幸せになる

2011年5月19日木曜日

小池洋一(立命館大学教授)    ・環境交流〜日本とブラジル

 小池洋一 (立命館大学教授)  環境交流〜日本とブラジル 

ブラジル 原発 数基在り    
産業等 経済問題、環境、自然破壊
都市クリチバ 交通システム・・・バスが中心 車をへらす バス料金は単一料金 150円
ゴミ(リサイクル可能な)と野菜交換 計画的都市改造
環境改善+社会の進歩・・・で受け入れやすくなる
日本ではできない
市民が参加して予算を決定・・・自分たちの街をどうしたらよく出来るか
農業開発 アマゾン570万平方km 15%破壊 ・・・乾燥化
都市セラド 200万平方kmがサバンナ 半分が植生化・・・大豆
大豆の50%中国へ 油カス→家畜の食糧→肉
アマゾン…水の供給  

地域温暖化
野菜、果物・・・日系人が貢献大 西洋野菜も改善
森林農業  トメアス(日本人が開いた町)・・・森のような畑・・・バナナの木在り日陰に野菜在り・・・人工の畑→生産性が高い+環境保護
食肉を減らすことが大事・・・牛肉1kg作るのに大豆が8~10倍(10kg)必要 
豚肉1kg作るのに5倍の大豆が必要→穀物を増やすことに通じる
自然のものを使う・・・薬品、食べ物等
今後ブラジルの役割が重要となる
ブラジルの多様性  人種、宗教、文化・・・共存している
ブラジルの外交 多元的
  

2011年5月15日日曜日

武田和義(岡山大学名誉教授)  ・オオムギ一万種が教えてくれたこと

武田和義 (岡山大学名誉教授)    オオムギ一万種が教えてくれたこと 
6000種集める (ネパール、ブータン、中国等から)
岡山大學では現在1万種集めている 世界では37万種ある
大麦は9000年前に作物化する  3000年前に日本に上陸  米よりも麦の方が作り易い
小麦は粉にして、大麦は粒のまま食べられる  (餅麦もある)
稲の品種改良から始まる  明治の初め北海道でも米ができるようになった 
現在では生産量が新潟の次になる

アイオワ州(大穀倉地帯)に留学 ノーマン・ボーローグ 小麦の研究でノーベル平和賞受賞 
(収穫量を三割アップ)→世界の飢餓にたいして貢献
ノーマン・ボーローグ:1960年代に小麦等の高収量品種を中心とした新しい農業技術を開発し、穀物の大幅な増産(緑の革命)を主導した  
1981年岡山大学に戻る 
大原孫三郎:美術館、農業関係研究所、倉敷中央病院を設立
終戦後37歳のときに大麦研究に進む→品種改良 良い遺伝子の組み合わせの繰り返し
自分の守備範囲を決めて改良を進める
黄土高原緑化 中国華北省 ・・・良い小麦の品種得られて表彰される (名誉教授)   
中国はプライドが高い 食糧問題は重要問題

植物の修復  カドミウム吸収する品種(稲の品種)見つける 
植物の能力を使って土地改良をする
生物の能力、変異大きい
薬草→国が抱え込んでしまうと生物の良い遺伝子が活用できない→人類全体が使ってゆく事が必要
人間と酒・・・ビールはビール麦、大麦  100年の歴史がある
泡持ちの良いビールを共同研究で見つかる→カナダへ
ヒマラヤ山脈で生じた品質のものがネパールで出来た 6種類しかない 2種:ネパール、インド、日本
学問、技術はつなげていかなくてはいけない→駅伝に例えられる→個人プレーではできない
座右の銘  「一隅を照らす」・・・自分の守備範囲をそれぞれが守る  
それによって全体が守られる
植物遺伝資源が今後重要な役割をしてゆくのではないだろうか

2011年5月14日土曜日

余郷裕次(鳴門教育大学大学院教授)・絵本の秘密を解き明かす、絵本モンタージュ論

余郷裕次(鳴門教育大学大学院教授52歳) 絵本の秘密を解き明かす、絵本モンタージュ論  
国語教科書研究  絵本題材も入っている
中学2年の時に先生から絵本を読んでもらって印象に残った
絵本の効果・・・癒し、楽しさが育まれる
人が愛される要素
①優しく見つめられる・・・丸い大きな顔の絵→母の顔
②優しく語りかける
③スキンシップ(膝の上に乗せ)
④欲求が満たされる

赤ん坊は最初は近眼(0.01~0.1) まずモノトーン 赤→青→緑の順に色彩を獲得する
ゼロ歳の記憶 モノトーン→
①最初赤がぼんやり見えてくる 
②青 
③緑 
④黄色・・・識別順

アンパンマン→丸い顔は愛されるキャラクター  主人公の色は赤 (赤ん坊から好かれる理由)
グリ→まじめ、おとなしい性格  グラ→愉快な、お調子者の性格
2001年 池田小学校の事件がきっかけ→絵本の効果により事件を起こすような人間にならないようにしたいと思う
絵本の画面の左側を優先的に脳が処理する (右脳) 左上から目が行く  
主人公は左上に描かれる・・・自分と共感する
右下には弱い立場のものが描かれる
基本的な目の動きはまず左上にゆき、順次Z型に動く 
ページめくる効果・・・頭に残像が残る
右脳、左脳が同時に活性化した方が癒される
読み聞かせの効果・・・愛される    愛される自覚によって苦難を乗り越える
中学生にも読み聞かせが大事(人生で一番悩む時期)  聞く力を活性化する
読み聞かせをすることにより、息があって来る 
呼吸が一つになる(集団での絵本の読み聞かせ)
小さい子は文字と絵を同時に同期を得られない 癒されない 
(文字を先に読みそれに集中してしまい大人のように同時に処理出来ない)

2011年5月11日水曜日

片桐和子(74歳)         ・インド家なき子の親として

片桐和子(74歳)
片桐正吾
インドで悲惨な状況をみて、子供に憩いの村(3万6000平米)を建設  親の無い子、貧しい子 救済
2003年から活動 生活から学問まで 宗教自由 基礎教育ほか図書館、診療所建設
子供(0~18歳)130人 スタッフ30人で活動  若い母親が赤ん坊を置いてゆく→保護
13年前 夫婦2人でインドに旅行する→駅のホームで子供たちが寝ていて、
暗い中踏みつけてしまった
→何とか助けたい思い生じる
1997年3月60歳の時 事務所  荒廃した学校サポート、海外支援
現地協力者 ローズ夫妻 (50歳) 憩いの村の面倒をメインで見てくれる  
子供の職業訓練、教育とか片桐夫妻と考えが一致

東日本大震災の時直ぐにインドからメッセージが来る
資金援助が大変 正吾氏は資金調達の為、夜勤労働等行い350万円/年稼ぎ 調達している
学校建設の話があり、600万円の協力者が出る 
通訳、パソコン操作、等々の協力者も現れてくる
夫が企業、へ協力要請→駄目  友人、知人に要請→駄目  
結局自分で資金調達の道を選び夜まで働く
夢は持ち続けなくてはいけない
1945年8月15日 8歳 父は軍人で帰ってきたが右腕切断→畑を借りて農作業をする 
母曰く 教育が一番大事 教師になることを決意する

インドは貧しいけれど雄大な自然がある カースト制度 貧しさは厳しい状況
3月11日の大震災で寄付がほとんどゼロになる あと3年何とか救済の事業を進めたい 内容として
水洗トイレ、現地の先生の給与等の援助が必要
インドの子供を見捨てることはできない
上野駅基金について  6000円の給料の時 5000円 上野駅に送る(29歳の時)→助け合い基金 
 新聞に掲載

インドプロジェクトへの応援資金が集まる
スタディーツアー(3~4年実施)・・・若い人を連れてゆきたい→ 国際的視野に立った人間が育つので
はないか
日本=インドの繋がり深くなってほしい 
交流を深める環境を整えたい
正吾氏は小さい頃に母を亡くし、それがショックで父がなくなり片桐家に貰われる→いじめっ子に
会う→虐められないためにはどうしたらよいか、考える
運動で勝つ→100m、200m、走り幅跳び、走り高跳び、砲丸投げの5種競技で校内新記録を
打ち立てる(今でも破られない)→虐めがぴたりとやむ

スポーツの大切さを感じる→インドの学校にグラウンドをつくりたい→子供たちに対してオリンピック選手誕生
の夢がある
働く・・・はたの人を楽にさせる  思い続ければ夢はきっと叶う
余生・・・余生はない・・・人生に余りはない
人様をちょっとだけ思う気持ちを持つ
動いている水は腐らない・・・始めなければ始まらない 一歩が二歩、二歩が三歩・・・
今の為に生きる
親のない子でも素晴らしい夢を持っている→夢をかなえさせてあげたい

2011年5月6日金曜日

木暮雅久(食料問題NPO代表)   ・「テーブル・フォー・ツー」日本で生まれた活動

木暮雅久(食料問題NPO代表) 「テーブル・フォー・ツー」日本で生まれた活動  
契約した社員食堂で食事をすることで20円寄付 アフリカの子供たちへの支援 被災地支援 →被災地の食材を使用 社員食堂に来てもらい直売してもらう 大企業400社 ほか大學、公官庁、病院他   
2007年10月から開始 ウガンダ、マラウィ、ルアンダ、エチオピア等
国際会議 飢餓問題(発展途上国)10億人、肥満問題(先進国)10億人
食事をして寄付 分かりやすい活動、仕組み  おいしい、ヘルシーメニューを提案
アフリカの日本人に対する評価は高い 
やることになったのは会社での仕事の意義に疑問を感じた(ニューヨーク在勤)
日本でもできないものか→「table for two  NPO立ち上げ
人間として感動のある仕事をしたい  
NPO 稼ぎがないといけない 財務成立 3名でやっている
ボランティア の人達は700名~800名 多くは大学生が手伝う
給与をもらうことへの理解をしてもらう事が大変  
資金がちゃんと届いているか信用してもらえない
企業の理解、社会的責任  食べるだけで社会貢献出来る・・・日本人にあった仕組み
自販機 ボトル購入すると一部が寄付出来る
コンビニ…「table for two」用弁当
アフリカの母親からの感激メッセージ

2011年5月1日日曜日

坂本博之(40歳)        ・平成のKOキング

坂本博之(40歳)    
18歳でプロボクシングの道に入る  4回世界チャンピオンに挑戦したが、叶わず  「平成のKOキング」  
47戦 39勝 29KO゙
物ごころつく前に両親が離婚し 年子の弟とクラテ乳児院に預けられる(0~3歳の乳児院) 
一年半こちらで過ごす
3歳になると青磁学園と言う養護施設に入る→博多に引っ越す(母が仕事が安定してきた)
→小学校に入学する→母仕事をするが夜食事を与えられるような状況ではない
ある知人宅に預けられることになる→与えられる食事が学校の給食だけ、土、日は近くの川
に行って魚を釣っている人から魚を貰って火で焼いて食っていた
釣り人いがいない時には自分たちでザリガニ、ドジョウを捕まえて喰っていた→
飯ばくれと大人たちに言うが暴力を振るわれる→石を集めてこいと言って石を集める
持って帰った石の上に正座を1~2時間させられる(血がでようが感知せず)→警察から厳重注意
→又暴力をふるわれる→拒食症になってしまった→
一食すら胃に受け付けられなくなる→教室内でもどしてしまう→先生が気付き和白児童養護施設
に入る→初めて三食、布団で寝られる、当たり前の環境に笑顔を取り戻す
(バスタオル一枚で玄関先に寝ていた)→ボクシングをTVで見る(夢を感じる)

母が引き取りに来た→母の再婚を機におのおの生活しようと云う事になる 
高校を卒業し、東京のボクシングクラブの門をたたく
1991年プロデビュー戦(門をたたいてから2年後) 4回戦 1RKO勝ち  
練習しないと不安   
朝起きてロードワーク、10km 夕方のサンドバック スパーリング、20ラウンド、30ラウンドと
心臓を強くしてゆく
(生活費はアルバイトをし稼ぐ)
ブラウン管を見た自分がブラウン管の中にいる  
絶対負けないぞと心に誓う

新人王、日本チャンピオン、東洋チャンピオンと無敗で19連勝する 20戦目で初めて負ける 
ノンタイトル戦であるがアルゼンチンの選手(世界チャンピオン)に判定で負ける
新人王を取った時に和白児童養護施設に裏門から入る→皆が集まる 10カ月後に日本チャンピオンに
なる →正門から入り先生に挨拶→
今までは自分でチャンピオンを取ってきた今度はお前たちの力も必要、一緒になって戦ってくれ→
文通のやり取りで一敗の励ましに対して練習重ねる
東洋、太平洋チャンピオンになる→2007年に引退を決意 椎間板ヘルニアで手術、40戦以上戦って来た
ので身体のいろいろなところに支障が出てくる

36歳、良い練習が出来なくなる 2007年1月 最後の試合ドローとなる(初めてのドロー)  
大歓声が起きる(大きな財産を得た 愛情)
全国の養護施設を回る ボクシングセッション 心と心の和を広げる(ボクシング指導ではなくて)
養護施設の入所者の60%以上は虐待を受けて入所
施設の子に言う  今までの一番楽しかったこと 苦しかった事を思い浮かべる 
怒りをこのミットに向かって打ってごらん
大人たちは君たちを傷つけたかもしれない しかしこうやって受け止めてやっているのも大人たち
なんだよ・・・ボクシングセッションで伝えたい
世の中は少子化で子供は少なくなっている  
しかし養護施設は増えている・・・今この現状を大人たちは知ってゆくべきです

結婚して子供が生まれたが(2002年) 最初の子は死産(6ケ月) 2年後二度目の妊娠 子宮破裂
(8カ月) 仮死状態で生まれるが不整脈 遂に息を引き取る
自分の力の無さに無念さを感じる トランクスに2人の子供の名前を縫い付けて最終戦を戦う  
最終戦はドローだった
ようやく子供が授かる 今というこの瞬間を頑張る そうすると必ず明るい日がやってくる 
辛いこと悲しいこと忘れてはいけないそれを受け入れてゆくこと
忘れたら、忘れないが為に自分がされて、嫌だったことをしない大人になれる 
悲しい事は判る 同じことをしないようにどうすればいいのかと言うそういう生き方ができる
施設を回る時にいう 人には光と影(自分の幼少時代、子供時代)がある  100円玉 の表 
ボクシングで表を感じた 光を感じた 幼少時代の出来事

そして娘、息子この子供の事 影があります  そう言った光あるいは影の部分を表にして
生きてゆくのかは自分自身のこの生き様にある 自分自身の胸の中にある
頑張りです 足を踏ん張って生きることだと思うんです 
575の養護施設で約3万人が生活している