2023年5月31日水曜日

髙田明(大手通販会社 創業者)      ・"伝える力"で地方から情報発信

 髙田明(大手通販会社 創業者)      ・"伝える力"で地方から情報発信

高田さんは長年会社の社長であると同時に、通販番組の司会者として伝える事の意味を追求してきました。   どうすれば商品の魅力を正確に伝えることができるのか、そこにはわかりやすく物の本質を伝える為の極意があります。  また地方からの情報発信にこだわり、プロサッカーチームの運営など、地域が活気付くためには何が必要なのかを追求してきました。  地方の小さなカメラ店から始め、日本を代表する通販会社に成長するまでの道のりや、伝える為に必要なことを高田さんに伺いました。

長崎県平戸市出身、1948年生まれの74歳、大阪経済大学経済学部卒業後、機械メーカーを経て1974年に実家が経営するカメラ店に入社、その後独立して「株式会社たかた」を立ち上げ、1990年からラジオショッピング、その4年後にはテレビショッピングに参入しました。   2015年に社長を退任し、その翌年にはショッピング番組の司会者を卒業、2017年にはサッカーのV・ファーレン長崎の経営再建を引き受け、社長就任1年目でJ1昇格を果たしました。  2020年にV・ファーレン長崎を離れ現在は株式会社A and Liveの社長を務めています。

長崎を発信地として世の中のためになんかやりたいという思いですから、やはりこだわります。  長崎の「イカ」がおいしいのでこれも一つのキーワードです。  長崎を何とかしなければいかんと言う事がふつふつと沸き起こって来ました。  歴史を紐解くと凄いところなんです。  知っていただくという事をしなければいけない。   まず自分の故郷を知っていただいて、全国に発信していきたい。   何か変化が起きないのに、伝えたと言う事が多いと思う。  伝えたという時には、伝わったかという、伝わったという事で初めて、伝えることが広がってゆくという事です。  政治の世界、ビジネスの世界、すべての業界で大事にしなければいけない、伝える世界だと思います。

25歳の時に実家のカメラ店で働き始める。  大学卒業後海外ドイツとか共産圏で働きました。  25歳で辞めて故郷に帰ろうと思いました。   平戸大橋が出来るという事で年間180万人の方が押し寄せました。  ホテルも建って、写真を撮る手伝いを始めました。   1週間で楽しくて仕事にはまりました。   5年間やって佐世保に移って、11年間、合わせて16年間カメラ店の手伝いをしました。  写真を買ってもらわなければいけない、それを40歳までやっていました。  買ってもらうためには最高の笑顔と、最高と思える表情の写真を撮ってあげられるかという事です。  支払ってもらった価値を返す、こういうことを学んだことが通販の世界に入って行きましたが、常にお客様のために喜んでいただくために、ビジネスはやって行かなくてはいけない、という事を学びました。   

マーケティングに関して地域性が凄くありました。  戦友会などは自分が写っていなくても買ってもらえました。  平戸以外に店を構えようとなり、佐世保にいくことになりました。  店を知っていただくために、ラジオでコマーシャルソングを作り流しました。  そこでしゃべってみないかと言われて始めました。  20,30分で50台が売れてしまいました。  全国展開をしようと思って、まず九州、四国、そして中国、近畿と広げて行って4年間で全国ネットワークが出来てしまいました。  売り上げも40億円になっていました。  

1994年からテレビショッピングに入って行きました。  ネットワークを広げて行って、いつの間にやら売り上げも300,500,700億円となって行きました。  見える見えないではなくて、伝え手の思いとか、そういったものが人の心に響くし、何の為にこの商品を伝えているんだろうという根本的なところを、聞いている人、見ている人に伝えられるかどうかという事が一番大事なんではないかと考えています。 

世阿弥が言っている言葉のなかで、「我見と離見」という言葉がありこれは大事だなあと思いました。   一方的に自分の言い分を言うのではなくて、相手がどう思っているのか、相手の状況などを考えながら伝えてゆく気持ちが重要だと思います。  皆さんに寄り添う気持ちは政治の世界、そのほかの世界でも皆同じだと思います。   伝えたいという気持ちがあると声が高くなります。  一方的にしゃべらないためには「間」があります。   しゃべった後の「間」があります。  「間」の時間の間に視聴者は商品のことを考えます。  専門用語を使っては伝わらない、判り易く伝えるという事です。 難しいことを易しく伝える、易しいことを深く伝える。  非言語の力、これは表情、身体の動きなどです。  言葉の3倍あると言われます。   計算してやるのではなくて、私は100回やったら、100回違います。  

伝えたと思っていることが結構多い。  伝えた「つもり」の世界だと思います。     人生はボトルネックを探す、良い事でも何故いいことが起こったのかの原因、悪いことが続く時には、そこには必ず悪い原因、解決しなければいけない原因(ボトルネック)がある。家庭の問題、仕事の問題でもボトルネックを解決したらまた新しいボトルネックが出てくる。  だから人生は苦しいのではなくて、人生は楽しいと思うんです。  講演で「失敗は一回もないです。」と言います。  シーンとなります。 「失敗というのは、一生懸命にやらなかったことが失敗であって、上手くいかなかったこともいっぱいありましたが、それは失敗という言葉にはしません、それは自分への試練です。 試練を積み重ねることによって成長してゆくんじゃないかと思います。」と言っています。

一番大事なのは、今、今を一生懸命やることによって、今日よりも明日、変化した自分がいる。  自分の力で変えられるものに集中する。 シンプルでくよくよしないタイプで、余り物事を引きずらないです。  変化を作りだしてゆく。  人間は何のために生きているのか、人は人のために生きてこそ人である。  一番の喜びは一回の人生の中で、どれだけ周りの人を幸せにして人生を共に過ごしたかという、ことだと思います。  今を一生懸命生きるという事にプラスして、情熱を加えて欲しいです。  最後は行動です。 ポジティブに物事を考えてゆく気持ちの持ち方は大事だと思います。  





























 

 








 








2023年5月30日火曜日

門井慶喜(作家)              ・〔わが心の人〕 菊池寛

門井慶喜(作家)              ・〔わが心の人〕  菊池寛 

菊池寛は流行作家として活躍したばかりでなく、文藝春秋社を作り、芥川賞、直木賞を創設するなど、多くの作家を世に送りだしました。  1948年3月6日亡くなりました。(59歳)

「文豪、社長になる」を出版。   菊池寛を検証する1冊となる。  本をもう一回集め直して読み始めました。  菊池寛に関する年表も自分で一から作り直しました。

菊池寛は香川県香川郡高松で生まれて、家柄はいいです。 先祖には有名な儒学者、学者もいる武士の家です。  明治になって貧乏になってしまって、菊池寛は長男ではないという事で学校に行くのにも教科書を買ってもらえない状態だった。  菊池寛が中学生のころ、通学路に図書館が出来ました。   そこに通い詰めとなる。  1910年第一高等学校第一部乙類(東大の予備課程)に22歳で入学。  そのまえに東京高等師範学校へ進んだり、明治大学、早稲田大学などにも短期間籍を置く。  第一高等学校では同期に芥川龍之介久米正雄がいた。   英語の勉強を目指したが、芥川龍之介の英語力、都会人、見た目もかっこいいという人と出会って、将来を決める元にもなったし、コンプレックスにもなったと思う。       

高校はマント事件」が原因となり退学となり、大学進学は認めてもらえた。  東京大学の先生に嫌われて、京都大学に行く。  京都大学を卒業して時事新報の新聞記者になり社会部に配属される。  その後の菊池寛に凄く影響を与えた。   芥川龍之介が夏目漱石の激賞を受けて先にデビューしてゆく。   大きなコンプレックスを持ったと思います。真珠夫人(1920年)発表。  当時の上流階級の話で、社会部記者としては知り尽くしていた。  この本が話題となり、芥川龍之介の知名度、経済的にも追い抜きました。  真珠夫人で文体が変わって判りやすくなった。   

1923年(大正12年)雑誌『文藝春秋』を創刊する。  売れて2号、3号と出してゆく。  同人雑誌という意味合いだったが、文藝春秋社を作り、社長になる。  ある時期から総合雑誌になってゆく。  1927年(昭和2年)7月25日、芥川龍之介が自殺してしまう。    売れ行きという点では菊池寛には全然かなわなかった。  芥川龍之介は気に病むタイプでどんどん追い込まれてしまう。  亡くなる数日前に菊池寛に会いに行くが、いなくて社員が来たことを伝えときますと言ったが、菊池寛に伝えなかった。  数日後に亡くなり、「なんでいってくれなかったのか」と言ったらしい。  自分を責める気持ちが凄く強かったと思います。 

直木三十五は病気で亡くなる。  直木は31歳の時にエッセーイストとしてデビューする。  その時のペンネームが直木三十一、一年ごとにペンネームを増やしてゆくという。  その後36歳になってもそのままのペンネームとなり、定着する。  文壇ゴシップを書いたのが直木三十五でした。(31歳のころ)  借金を抱えていて大阪に逃げて小説を書き始める。  新聞小説で人気が出て一躍流行作家になる。  菊池寛がどんどん書かせているうちに過労で倒れてしまった。 結核性脳膜炎で亡くなる。  この死も菊池寛にとってはショックだった。(芥川龍之介が亡くなって7年後) その翌年、芥川賞、直木賞を思いついた。

芥川賞は純文学に、直木賞は娯楽系になる。  無名、もしくは新進の作家に賞を送ろうという事になる。  二人への思いもあるが、2月、8月は雑誌が売れないからここに賞を作ったら売れるのではないかという事を平気で言うんです。  二人は若くして亡くなっているので、大家ではなく、これから 長くいきてくれるであろう人、つまり 無名、もしくは新進の作家に賞を送ろうという事になる。  僕も2018年に『銀河鉄道の父』で第158回直木三十五賞を受賞しました。

菊池寛が会社経営者としての面はどうかと、調べて書きました。  会社経営者といしては疑問なところがあります。  人望はある。 雑誌の企画力はある。 しかしそれ以外には何もなかった。  お金に対する警戒心がなかった。  広告料を不正に着服してしまう人も出てきた。  原稿を払えない状態に追い詰められて、ようやく健全な経営に戻していった。  つい人を信用してしまう人だった。  

「ペン部隊」(第2次世界大戦時、対中国戦線に派遣された作家などからなる日本の部隊を作る。  読者の戦争に対する関心を喚起する目的で、政府、軍主導で行われる。    菊池寛を呼んでどうすべきか尋ねたら、菊池寛が乗り気になってしまう。  これが菊池寛の人生にとって大きなポイントになると思われる。  或る意味戦争協力の始まりである。  菊池寛は戦争を賛美する人ではなかった。   英語が得意だったので、アメリカやイギリスの国状をよく知っていたので、もし戦争に成ったら大変なことになるという感覚は持っていた。  作家たちを政府に渡したくない、という事だったと思う。  自分が断ってしまうと軍人や政府にコントロールされてしまい、それだったら自分がやるという風に思ってしまった面があると思います。  責任感が悪い方に出てしまった。

戦後、GHQから責任を問われて、公職追放という処分を受けることになる。   文藝春秋社も自ら離れる。  病気をしたが回復して、自宅に集め、全快祝いを行ったが、そのパーティーの晩に急に亡くなってしまう。   狭心症を起こしてなくなってしまう。  

























































2023年5月29日月曜日

2023年5月28日日曜日

流山児祥(俳優・演出)         ・演劇への見果てぬ夢

 流山児祥(俳優・演出)         ・演劇への見果てぬ夢

流山児さんは1947年生まれ、75歳。  演出した作品は300本、プロデユース作品は400本以上にのぼります。  台湾公演から帰国した流山児さんに波瀾に満ちた人生の軌跡と演劇への熱い想いを伺いました。

コロナ禍で3年ぶりの海外公演でした。  4年前にシルバー演劇をしようと最初呼ばれました。   もう一度来てほしいという事でした。   4年前の倍ぐらい来て成功しました。 

熊本県荒尾市出身、炭鉱夫の次男として生まれる。  人情味ある男気のある世界で育ちました。  中学生の時に父親が総評(今の連合)の副議長となって上京、千葉県流山市に移り住む。(流山児という名前の由来となる)    中学・高校時代は映画少年、高校3年生の時に好きな女の子がいた演劇部に入る。  青山学院大学経済学部に進学。  1968年学園紛争で全共闘に参加、副議長を務め大学は中退、その間にアンゲラ演劇と出会っている。 

少年時代は映画少年でした。  姉は亡くなりましたが、姉が残してくれたのは映画を観る喜びでした。  毎日のように映画館に通いました。  1960年は東京では安保闘争でしたが、僕らのところでは三池闘争でした。  炭鉱夫が首を切られて、全国の労働者が団結して資本と戦う。 暴力団、全学連とかいろんなものを見て少年時代を過ごしました。   暴力は身体に沁み付いたし、映画の中にもあり僕の感性を育ててくれました。  

千葉県立東葛飾高等学校で3年生の時に好きな女の子が演劇部にいて、演劇の世界に入りました。   周りからは非難されたが、好きなことをやるということ、間違ったことは間違っていると言えと言うのは家訓でも有ったので、それは僕を貫いていると思います。   他人と何かを作る面白さを16,7歳で覚えました。  青山学院大学でも演劇研究部に入りました。   青山学院大学では学生運動をする人間がいなかった。   演劇と政治運動は自分の中ではパラレルに繋がっていました。  唐十郎という劇作家と出会う事になります。  20歳の時に花園神社に行ってみたら、50~60人が入れる程度の赤いテントがありました。   見ていた芝居がめちゃくちゃ面白いわけです。  早稲田小劇場でも鈴木忠志という人が演出していて、芝居をやっていました。  他にも小劇場があって衝撃を受けました。  状況劇場に踏み入れ研究生になりました。   そうそうたる芸術家が6畳一間の稽古場の壁にへばりついて稽古を観ていました。   そこで一番若い研究生で居ました。  

唐十郎の有名な言葉で「特権的肉体論」という言葉がありますが、役者体がパリッとしていればいいお芝居が出来るんだ、役者にもう一回戻れと、これは歌舞伎と同じなんです。   1968年1月に赤テントに入るが、4か月しかいなかった。   また青山学院大学の学生運動に戻りました。  1969年安田講堂の攻防戦が1月18日にあり、同じ日に青山学院大学は大衆団交を行って、全部学生の言う事を聞くことになる。  その後僕らが居なくなった頃全部ひっくり返される。  翌年劇団を作ることになる。   1969年1月3日赤テントの伝説的公演「腰巻お仙振袖火事の巻」の防衛隊として駆け付けました。  これは学園闘争と演劇が本当にパラレルに繋がっている一つの大きな事件だと思います。  最後まで芝居をやって取り囲んでいた200人ぐらいの機動隊に唐さんは捕まります。   

別役実という人は面白い人だと思い、別役実さんがいる早稲田小劇場に入ろうと思いました。いってっみたら別役実さんは辞めてしまっていました。  鈴木忠志さんがいました。(演劇界の巨人)  唐十郎が書いた「少女仮面」などがあり、二人の天才が一緒に組んで「少女仮面」という戦後演劇史に残る戯曲を上演する劇団に僕は研究生としていたわけです。   1970年に劇団「演劇団」を旗揚げしました。  政治運動と演劇を、両方面白がっちゃうという雰囲気でした。  1972,3年で『夢の肉弾三勇士・4連作』をやりましたが、段々人が来なくなって30人ぐらいしか来なくなって、酔っ払いが喧嘩したり無茶苦茶で青学のお坊ちゃまの劇団なんだなあと身に染みて思いました。  

学生演劇ではないものを一回探そうという事で、1973年ごろから変わっていきました。   寺山修司さんから電話が掛かってきてお会いしました。  「天井桟敷」はあまり好きではなかったが、1970年代後半になって来てから寺山修司のスケールというか、目指すべき方向性を僕たちに教えているんだなあとやっと判って来ました。  1979年解散するときに寺山さんから「お前はパリに行け」と言われました。 

寺山修司さんが1983年亡くなり、1984年から流山児事務所を設立します。  新しい演劇界の仕掛け人に近いようなことをやったのが、流山児事務所でした。  それが劇団として残っています。  「悪魔のメリークリスマス」という大ヒットを毎年11年間やりました。            北村想、高取英、岸田理生、寺山修司という4頭立てて80年代前半から後半にかけては走りますが、90年代に入るといろんな作家に書いてもらいました。  2000年台になるともっと変わってゆく。  ケラリーノ・サンドロヴィッチとか今有名な人がほとんど書いています。  僕と野田秀樹がイギリスに勉強に行ったこともあります。  ブロードウエー演劇もやりました。   『ユーリンタウン』『ハイ・ライフ』などもやりました。

海外公演は世界14か国39都市に行きました。 最初は1991年に行った韓国公演でした。 『マクベス』でした。 一気に変わったのが2000年のカナダのエドモントン、バンクーバー、ビクトリアでした。  『寺山歌劇☆くるみ割り人形』『新。殺人狂時代』をやって一つの財産になって行きました。  イラン、ベラルーシなどにも行きましたが、肌を見せてはいけないとか、タッチしてはいけないとか大変でした。  字幕も流せない。   ベラルーシではKGBソ連国家保安委員会がずーっとついて来るんです。  

1998年3月にシニア劇団結成。  楽塾と言って創立メンバーは5人(女性4人男性1人)でした。   三島由紀夫の葵上をテキストに使ってやりました。 ラブシーンが余りにも生々しく見えたらしくて、奥さんが怒って爪でひっかかれてやれなくなってしまいました。 今はメンバーは20人近くいます。  今回は15人ぐらい出ています。 海外公演は主にアジアです。   父親は中国との交流の運動をやりたいというのが望みでした。 日本が犯した過ちの、僕なりの謝り方だとは思っています。  ほぼ10年は台湾に行きました。 台湾は僕らの原点みたいなものがある場所だと思います。  僕らなりのアジアへの反省は伝えて行かなくてはいけないと思っています。  非戦という事を高く掲げなければいけない。























 






















2023年5月27日土曜日

村山貢司(元・NHK気象解説者)     ・〔私の人生手帖〕

 村山貢司(元・NHK気象解説者)     ・〔私の人生手帖〕

6月1日は気象記念日です。  1875年(明治8年)6月1日に気象庁の前身東京気象台で、気象業務が開始された事を記念して制定されました。  長年テレビやラジオで気象解説を務めた村山貢司さんです。   村山さんは1949年東京生まれ、1972年に財団法人日本気象協会に入社、1996年には気象予報士試験で第一期の合格者となりました。    判りやすく丁寧な解説で定評のあった村山さんですが、一方で80年代から社会問題となってきた花粉症の対策として、花粉情報システムを開発、環境省自動観測システムはなこさんを設定するなど様々な健康情報のシステムを開発し、現在も国や東京都の花粉症に対する調査、研究を続けています。  花粉症の季節は一年中と言っても過言ではないと言っています。  花粉情報システムについて、また気象予報の醍醐味、難しさ、何故気象の道に進んだのか、など伺いました。

今やっているのは環境省とか東京都の花粉症に関する調査、研究の仕事です。  ライフワークみたいになっています。(35年以上)   NHKだけで1987年から21年間、その前に民放で10年ぐらいやっていました。  「モーニングワイド」「おはよう日本」「ニュース7」「ニュース9」など。  不規則な勤務をやっていました。  一番印象に残っているのが、東京都内で大雪があった時で、私が住んでいるのは多摩地区で、多摩地区は降らないだろうと思っていて、朝全く雪がなかった。  杉並、世田谷に来る頃は雪が数センチになっていて、チェーンは付けてなくてあっという間に前の車が止まってしまった。放送時間に間に合わないと思って、京王線の駅まで走って行って、井の頭線から渋谷に出て、渋谷からNHK迄走って行って、下半身は泥んこでした。  着いたのは放送の12,3分前でした。  慌てて着替えて下半身は映さないようにしてもらって、ぎりぎり間に合いました。 

台風に関する放送をしていたら、モニターテレビの画面の台風の右のほうにヤモリがへばりついていました。  台風と一緒にヤモリが北上していって、大笑いするところでした。  他にもいろいろ一杯ありました。  天気予報の面白いのは結果がすぐに出るんです。   予報が大きく外れた場合にはクレームの手紙、電話が結構来ます。  その場合は謝ります。  気を付けていた言葉に「あいにくの雨」は使わないようにしました。 農家にとって「あいにくの雨」はないんです。  「恵みの雨」なんです。  

NHKの仕事を始めたのが1987年で、その数年前から花粉の調査を始めていました。  これは予報が出来るのではないかと思いました。  とりあえず関東周辺を対象にスギ花粉の飛散の予報を始めました。   妻がかなりひどい花粉症でした。  花粉情報でいかに身体に取り込む花粉を減らすか、という事が出来れば症状は緩和出来るだろうと思いました。  80年年代半ばごろから花粉の数が凄く増えてきて、花粉症の人も凄く増えました。  花粉情報も全国に広がりました。  その前に紫外線情報も作りました。    でもその当時が小麦色の肌が一般的でした。(紫外線を多く浴びるのは良くないとは思っていたが。)  花粉情報がブレークしたその夏に、沖縄、九州から引き合いが出てきて、紫外線情報も役に立つようになりました。   今は時代がガラッと変わって紫外線カットです。  

今は10人のうち4人ぐらいが花粉症です。  スギが2月から4月、ヒノキが3月から5月中旬、それからイネ科の花粉が出てきます。 8月からブタクサの花粉症が出てヨモギの花粉症がでて、11月から12月にかけて、またスギの花粉がちょっと出てきます。(桜の狂い咲きと同じような現象がある)  

生まれは八王子市で父親が山菜、キノコを採るのを趣味にしていました。  父親と一緒に行っているうちに、生き物に興味が出てきて、科学部の生物系のサンショウウオの調査をしていました。  高尾山の水のある地域は全部歩きました。  ザイルの使い方とかを教える方がいて山に行くようになりました。  高校では山岳部に入って全気象図をかけるようになれと言われて、気象への道に入って行きました。  大学に時には4,5日吹雪で閉じ込められました。(計算済みではあった)  2007年3月でNHKを辞めて4月から70歳になる直前まで山岳ツアーのガイドをやっていました。   多い時には年間50日ぐらいです。   

一般の方はふもとの天気と山の天気は全く一緒ではないという事の知識がないです。   プロのガイドさんにもない方がいます。  風と雨、雪で体温が奪われるのでそういう時には歩いてはいけない。  気象予報を365日やっていたので、山に対しての気象にはすごくよかったです。   実際行ってみると雲の状況、風向きが違うという事になると考え直さないといけない。  

今年の春に品川区ではスギ、ヒノキ花粉が1平方センチ当たり8000個近く観測されました。(1平方メートル当たりでは8000万個)   ワセリンを塗ったガラスについた花粉の数を顕微鏡で数えます。  データを集めてゆき、10年分ぐらい集まると予測が出来る様になります。  東京都内だけで13か所置いてあります。  最初に花粉が見つかった日と見つからなくなった日の10年分の平均を取ると、だいたい予測がつきます。   こういう気温の天気の時にはどのぐらい飛ぶかという事も予測できます。  1月1日からの最高気温の積算温度が400℃から440℃ぐらいになると1平方センチ1個以上の状態になる。  飛んでいる花粉の大きさは30ミクロンぐらいです。   機械でも観測は出来るが、花粉なのかゴミなのか、黄砂なのかはわからない。  顕微鏡で花粉の形を確認するしかない。  35年経ちますが、やっていることは当時と全く変わらないです。

東京への花粉がどこから飛んでくるのか、どのぐらい多いのか、統計的な推定は出来る。 実際に花が一杯ついているところを見ておかないといけない。  気象庁の天気予報のデータとを勘案して、どの地域でどの時間に花粉が多いのか計算できます。   大気の安定度、上昇気流、下降気流、水平方向の風、三次元の風を考えている。  気温なども関係します。  大気汚染の予測が出来るのなら花粉の予測もできると思いました。   10kmのメッシュでどこに杉林がどの程度あるか、全国データも作りました。   このメッシュ部分にどれぐらい花がついているか、を調べてゆくとどこへ飛んでゆくかという事は計算できます。   

日本の2割ぐらいが、スギとヒノキの林です。  花をたくさんつけるスギのところから効率的に切って、少しでも花粉を減らす。    私たちがスギ、ヒノキ材をもっと使わなくてはいけない。  そういった取り組みもしています。  気象情報をうまく提供してあげれば、もっと、物流、経済などの効果が良くなるかもしれない。   農業、林業、漁業とか物凄く広い分野に広がりがあるので、もっと専門的なテーマとして、世の中、他の業界に役に立つような情報を作れる余地がいっぱいあると思います。  日本は地形的な面で言うと予報が難しいですが、逆に面白いという事もあります。  予報は時には外れるぐらいがいいのではないか、100%当たったらつまらない。(いろいろな面で)  災害はこれからひどくなっていくと思うので、食料の備蓄をはじめいろいろなことを考えておかないといけないと思います。













































































2023年5月26日金曜日

広松由希子(絵本評論家)        ・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕 それは、誰にとって良い絵本?

広松由希子(絵本評論家・日本国際児童図書評議会 副会長)・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕  それは、誰にとって良い絵本?

広松さんは世界の絵本にも詳しく、先月23日に放送した地球ラジオではウクライナで活動を続ける夫婦のアーティストの絵本を取り上げ、絵本の中に広がる豊かな世界の魅力を紹介しました。   広松由希子さんは1963年ロサンゼルス生まれの東京育ち、今年還暦を迎えました。   編集者、ちひろ美術館学芸員を経てフリーランスとなり、今は絵本作家、海外の絵本の翻訳家、評論家などとして活躍しています。   特に新聞や雑誌などで数多くの本のレビューを手掛けていて、2021年には大正から平成にかけて出版された100人の作家による絵本100冊について論じた、「日本の絵本100年100人100冊」を発表し、話題となりました。  これまでの人生や、絵本のプロが考える子供と絵本のかかわり方について伺いました。

絵本家というのは造語です。  フリーランスになってから20年以上になりますが、媒体によって絵本評論家、翻訳家、絵本作家、絵本コーディネーター、絵本ソムリエとか、お任せはしています。  絵本家と言うのは絵本について何でもやっていいんだなという感じがあるので、ホームページの中では、気まぐれ絵本家と書いていました。  2021年の暮れには「日本の絵本100年100人100冊」A4版で200ページある大著を出版。  もともとはこういう本をやりませんかとの漠然とした依頼がありました。  2010年ごろから海外の仕事が増えて、日本の絵本というのはどんなものなんだろうという、世界の中での日本の絵本を見てみたいという思いと、昔から伝わってきている日本の絵本、時代と共に変わってきている、2011年東日本大震災の後、絵本表現も変わるものなんだなと言う事があり、大人の価値観もゆすぶられて、絵本は希望の形だと思っていて、それを子供にどんな風に伝えるかと、考えざるを得なくなる。  関東大震災、戦争とか大きなことがあった時に子供の絵本は表現を変えてきたのではないかと思いました。 時代と絵本という事に興味を持っていました。  時代と絵本を纏められるかなあと思いました。  
100人を選んで一人一冊は条件にしようと思いました。  世間の人気、評価は取り敢えずおいておきました。  各作家の真骨頂を紹介したいなと思いました。   

絵本はものごころつく前から周りには絵本が沢山ありました。  母が本が好きでした。 私は絵本、漫画、演劇、美術も好きでしたが、いったい自分は何をやるんだろうと大学に入ったころ、悶々としていました。  20歳の時に大学を休学して、3か月アルバイトをしてフランスへ留学しました。   言葉もわからないし、知り合いもいなくて、自分が思っていることがないと、話が出来ないと思って、自分は空っぽだと思いました。  自分が思っているものを掴まえて、言葉にするという事をもがくみたいにずいぶんやりました。   半年たって、自分がなにか伝えたいと思った時に、フッと言葉が出てきました。  帰国直前には絵本が好きだなと思う事がありました。  かなり絵本を買い込んでの本に送りました。   

日本に帰って来て、或る時に「かしこいビル」という絵本と出会いました。  1920年代にイギリスで描かれた絵本です。  ページをめくる喜びを感じました。   絵と言葉が一つになって入ってくる。   他のメディアとは違う事を感じました。  娘が1歳の時にむずがって泣き出しそうになった時に、膝に抱いて、本はなかったがこの「かしこいビル」を言葉で語りだしました。   娘はじっと聞き入って宙に絵を観ているみたいに静かに聞いていました。  「おしまい」と言ったら「もういっぺん」といったんです。    

大学卒業後、4年間教科書の出版社に勤める。  子供との時間を持ちたかったので辞めました。   自分の時間が無くなってしまって、「女の24時間」とか言う本を図書館から借りてきて読みました。  時間管理の本で、その中に自分がやりたい事、だいじなものをひたすら書き出すという事がありました。  そして次に消してゆく。 最後に4つだけ残す。  最後に残ったのが、絵本、子供、仕事、遊びでした。  これが自分の柱なんだと思って27歳の時に絵本は自分には外せないものだと思いました。   

26歳で子供が生まれ、子供には読み聞かせは沢山したとは思っています。  読み聞かせをしなくてはとは思わなかった。   子供が3歳の時に美術館に就職して読んであげる時間が少なくなってしまい、自分で本を読むようになりました。   いい気持ちで読むといい気持ちがうつるが、無理して読むとそういった気持ちが伝わるので、無理して読まなくてもいいのでは。  嫌がっている時に追いかけることは、本嫌いを作る元かなあと思います。   子供との間において絵本を読むことによって、随分絵本に助けられたことはあります。  

絵本を選ぶときには、まず自分が好きな絵本が条件です。  あと相手が好きかどうか、自分が伝えたいと思うようなもの、子供の心に種をまくようなもの(自分の体験と重なるものがあります。)、です。  気持ちを込めて語ればいいと思います。  自分の好きな絵本をつくりたいです。



































































 





















 



 

2023年5月25日木曜日

しずちゃん(芸人・俳優・ボクサー・絵本作家 )・〔私のアート交遊録〕 ドッカーンとした絵が好き!

しずちゃん(芸人・俳優・ボクサー・絵本作家 ・南海キャンデイーズ)・〔私のアート交遊録〕  ドッカーンとした絵が好き! 

おっとりとしたキャラクターから繰り出すシュールな笑いが多くのファンを癒しています。  お笑い芸人として、ボクサーとして 俳優として活躍するしずちゃん、しずちゃんがボクサーとしてオリンピックを目指していたのが有名な話です。  オリンピックの代表は逃したものの2012年の全日本選手権ではミドル級で優勝するなど、しっかりと成績を残し女子ボクシングが大いに注目されました。  多方面で活躍するしずちゃんにはもう一つ絵本作家という顔があります。  すでに2冊の絵本も発表、今年は初の個展も控えています。  去年結婚し、今年はコンビ結成20周年、初の個展にも挑戦すると言うしずちゃんに表現の世界にかける思いを聞きました。

5月と8月に個展を控えています。  作品は100点以上あるかと思います。     描き込んでいくとつい濃くなってしまいます。   ほとんどがアクリル絵の具です。  夜の10時ぐらいから描き出して3時ぐらいまでが多いです。   舞台とかビッチリ詰まっている時は厳しいです。  以前は音楽をかけながらやっていましたが、今はラジオを聞きながら描いています。   「すきすきどんどん」の絵本は2009年に出版しました。    NHKの番組で大きな絵を1ケ月かけて描くという番組で始めてアクリル絵の具を知りました。   この番組で絵を描くきっかけになりました。   絵本もやってみたいと思いました。    物語を如何に簡潔に文字を少なく表現させるかというのが難しいです。  絵を描き始める前に1年ぐらいはそぎ落とす作業をしていました。  

主人公はアウルちゃん、自分を置き換えてみました。  出会ったカマキリのカマがいいとかどんどん身に付けて行って、最初はどろどろとした感じでパワーを感じますとか言われます。  余り休憩をせずに7時間ぐらい描き続けられます。   

2006年「フラガール」の映画に出演。  映画は始めてで、父が亡くなって出来るのかなと思いましたが、涙を流す場面でなかなかできなくて、涙を流せるような流れを作ってもらって行いました。   漫才コンビとして凄く忙しい時期で、フラダンスのシーンは大変でした。 布団に入ってではなく、移動の2時間で寝るとかしていました。   周りは毎日練習でしたが、私は週末だけちょっとやるとか差がでてしまいました。   個人レッスンで何とか対応をしました。   素晴らしい作品に出会えたと思っています。  

舞台では1ケ月丸々稽古をするので、作り込み方が違うと思いました。   好奇心はあります。  ボクシングは芸能とは全く違う方向でした。   最初はダイエットみたいな軽い感じで始めました。  漫画「あしたのジョー」が好きで、ボクササイズも流行っていた頃でもありました。  NHKのテレビドラマ『乙女のパンチ』をいただいて、梅津さんというボクシング指導の方と出会って、指導していただき、ドラマ終了後も続けました。    2012年にロンドンオリンピックで初めて女子ボクシングが正式種目になることを知りました。  ミドル級だったら目指せる体格だったので、やるしかないと思いました。    ジムは夜の12時までやっていたので、少しでも練習をしようと思って、舞台が終わったらすぐ行き、空いている時間は全部練習に当てました。   本当に厳しい世界を知りました。  

世界選手権で後一つ勝てばンオリンピック行けたのかもしれません。 全日本ミドル級選手権で優勝。  いろんない人とのご縁があったお陰で、私の人生が助けられていると思います。  ボクシングをやらなければ、今の自分はないと思っています。  去年結婚しました。  漫才の山ちゃんとの結成20周年にもなります。   「南海キャンディーズ」はずーっと続けていきたいです。   結婚して時間の使い方が変わりました。      お薦めの一点は絵画ですが、ゴーギャンの「二人のタヒチの女」という作品です。      ドラマで武田鉄矢さんと共演した時に、ゴーギャンが好きだという事を話していました。 武田さんが「しずちゃんの絵を描いて来た」と言って見せてくれました。   上半身裸の絵でした。  それが「二人のタヒチ女」の顔を私にしてくれていました。   印象に残っている絵です。

 
























 











2023年5月24日水曜日

いがりまさし(植物写真家・ミュージシャン)・〔心に花を咲かせて〕 スミレから始まった植物写真の奥深さ

 いがりまさし(植物写真家・ミュージシャン)・〔心に花を咲かせて〕  スミレから始まった植物写真の奥深さ

植物写真家と言っても単に撮るだけではなくて、植物そのものにとても詳しくて、特にスミレに詳しい事から「スミレのいがり」さんと言われています。   又ミュージシャンとして活動していて、自然の中での演奏活動もしています。   その経歴もユニークで、学生時代に日本一周・・・(しばらく音声が途切れていました。)

旅のプランをそっちへシフトしてスミレを見て歩きました。   旅をすることはイコール自然を見る事だったので、そのなかでも一番自分が楽しめるのはスミレでした。  北海道から南西諸島迄何種類も固有種があります。  60種類ほどあります。  変種迄加えると120種類ぐらいあります。   牧野富太郎さんはスミレを沢山発表しています。 「マキノスミレ」というのがあります。  赤紫のスミレで日本海側、東海地方は太平洋側にもあります。    自分では自分の名前をつけないんです。   今では植物学に関係のない人の名前も付けるのは辞めましょうとなっています。   それをネタにお金を儲けようとする人が居るからです。    スイス人の植物学者のボアシエという人がビオラマキノイという学名を付けました。  ボアシエさんは何も書いていないので、牧野富太郎を記念しているのかどうかはよくわからない。   翌年牧野富太郎がボイシアナというヒメミヤナスミレをボアシエさんを記念して献名するとちゃんと書いてあります。

土屋文明さんという歌人がいますが、歌にはすみれがいっぱい出てきます。  スミレ研究家の宮地数千木(みやじやちぎ)さんというスミレの染色体の研究をした方ですが、アマチュアの歌人でした。  お互いが師匠同士でした。                       

写真をちゃんとしたものにするためには、スミレをちゃんと知らなければいけない。    どんなところにどんなスミレがはえているか、これは旅をすることと関連するので、そこが自分は面白いです。   雪国が好きなスミレ、嫌いなスミレ、陽の当たりところが好きなスミレ、嫌いなスミレ、いろんな好みがあります。   どちらかというと陽当たりが良い明るいところが好きです。  半日陰でないと駄目なスミレもあります。 「ヒカゲスミレ」はちょっと大きめな白い花で、葉は細長い三角形で毛深いです。 高尾山の「タカオスミレ」は「ヒカゲスミレ」の変種になります。  

キスミレ」 黄色い花で、山梨県から西に生えるスミレで、山で一日中日の当たらないと生きていけない。  日本にはキスミレが生える環境は余り無い。  九州の阿蘇の1000m級の山焼きをするすすきの草原、山焼きが終わってすぐあとぐらい、4月には一面黄色くなります。  人が山焼きをするから生えていられる。  記録では阿蘇の山焼きは800年前ぐらいからやっています。  1万年前ぐらい前からすでに縄文人が山焼きを始めていたことが、地質学の研究から判ってきたそうです。  少なくとも2万年前はキスミレの天下だった。(今とは気候が違う 最も地球が寒かった  雪は降らなかった)   当時は山焼きをしなくても適した自然の草原が沢山あった。  2万年前は姶良(あいら)火山(桜島)が噴火した後で草原になっていた。   6400年前にも噴火があり西日本一帯に火山灰が相当積もったらしい。  草原になっていた。  キスミレの原産地は東アジア一帯にありました。  

世界には600以上のスミレの種類があります。   低木状になるスミレがあります。  ギリシャのクレタ島とか地中海の反対側にもあります。  スコルトイディシュ?というスミレです。 1cm程度の黄色い花が咲きます。   乾燥地帯に生えています。     サボテンみたいなスミレもあります。   ムシトリスミレ(食虫植物の一種はスミレではないです。   

心に届けたいと思っています。 そのためには全力で対象のことを知らなければいけないと思っています。  心に届けるものに仕上げる。  アートに大事なものは理念だと思います。  そのためには対象を正確に知らなければいけない。  自然のすばらしさを表現したい、それを伝えたいという思いです。  
























 















2023年5月23日火曜日

岩出雅之(帝京大学ラグビー部 前・監督)・負けない組織作り ~帝京大学ラグビー部~

岩出雅之(帝京大学ラグビー部 前・監督)・負けない組織作り ~帝京大学ラグビー部~

毎年選手が入れ替わる大学スポーツでは難しいとされる連覇、帝京大学ラグビー部は岩出監督の元2009年度から2017年度までラグビー大学日本一を決める大学選手権で、前人未到の9連覇を達成しました。   負けない組織を作るのにはどうすればいいのか、岩出さんに伺いました。

岩出さんは1958年和歌山県新宮市生まれ、65歳。  高校時代にラグビーを始めて日本体育大学では3年生の時に大学選手権で優勝、4年生の時にはキャプテンを務めました。  大学卒業後高校ラグビーの指導者を目指して、高校の教員になりました。   滋賀県の八幡工業高等学校で7年連続全国大会出場、高校日本代表の監督などを経て1996年に帝京大学ラグビー部監督に就任しました。  2009年度の大学選手権で初優勝、それ以来2017年度まで前人未到の9連覇を成し遂げました。   10回目の優勝を果たした去年ラグビー部の監督を勇退し、現在は帝京大学のスポーツ医科学センターの教授でスポーツ局の局長を務めています。

2019年日本で行われて初めて決勝大会でベスト8まで行きましたが、今年予選でチリ、イングランド、サモア、アルゼンチンの順で対戦してゆく。  世界大会は気の緩む試合はないと思います。   2015年では期待されたチームではなかったとは思います。   2019年ではいい裏切りをしたと思います。  フランスの地で大躍進をしてもらいたいと思います。  一ファンとして応援していて、帝京の教え子としてはあまり見ていないです。   大学時代は学ぶ力を学ぶ。  成長するための要素だと思います。 ダブルゴールと言っていますが、4年間のゴールと未来のゴールをしっかり一線上において、目の前のことも一生懸命やる。   未来に繋がる一日一日を過ごしてほしいと思っています。   

2009年度の大学選手権で初優勝、それ以来2017年度まで前人未到の9連覇を成し遂げました。  それまでは同志社大学の3連覇が最長でした。  いろいろな事の積み上げの結果だったと思いますし、運もあったと思います。   文化、しっかり全力を出し切れる人の集まりになってゆくという事が大事かなあと思います。  一つ一つ自分自身が成長しながら自分自身の意志でものごととに対する挑戦、そのことの楽しむ力とチームとしてまとまってゆく力、それが全力を出す中でより強固なものになってゆくというイメージを常に持ちながら、僕自身も毎年毎年成長を心掛けています。  いいイメージの対象があるので前年度を目指して下級生の力の伸び具合を上手く引き出す。  最後は前年度を越えてゆくようなシーズンにしてゆく。   

1996年に監督就任。   当時との比較で一言で言うと、全力でやる選手の人数が多くなったという事ですかね。  最初部員は100人はいなかったです。  学生という幼さをいい意味で見つめながら、少しずつ大人にしてゆく作業を積み上げながら、結果として全力を出し切れるまとまりのあるチームに、帰属意識もしっかり高まってくるので、無理やりにするという事の逆作用が年々少なくなっていったんだと思います。   38歳で僕も未熟だったと思います。  早く勝ちたいという思いがありました。  学生たちとの対話力を高めながら、最終的には誠実な選手の集まりになって行くように、どうしたらいいか工夫しながら日々やってきました。  昔ながらの縦社会では持たない世代が入ってきているなとか感じました。   少しずつ変えていきました。   トイレ掃除、食事当番とか下級生がやることを上級生もやるように、年々少しずつ増やしていきました。  心の余裕、体力の余裕を結果的に奪う事は最終的にパニックになってしまう。  のびのびした環境を作ってゆくためには下級生(弱者)を守って行こうという事が受け入れられる時かなあと思いました。   

上級生には酷な事もありましたが、少しずつ上級生に了解を得て進めて行って、完成系には3,4年かかったと思います。  4年生に話し合ってもらうのが主でした。  価値、意味も考えてもらって、補足することがあれば僕もサポートしました。  上級生も自立心が強くなりました。  コミュニケーションも良くなって深く理解するようになりました。

16,7年前対抗戦の最終戦で、この試合に負けると全国大会に出れない、勝つと出れるという試合があり、下級生が「負ければいいのにな」という発言を僕が耳にしました。    残念に思ったが、そうしてしまったのは組織だし、その組織を僕が育てている僕自身の責任でもあります。  改革の時だと痛感させられました。  少しずつ始めて、学生たちがそれを言葉にして、自分たちで周りに発信するようになりました。   いやいや掃除する学生もなくなりました。  いい意味の関係性がどんどん高まりました。  

人間の理解力を高めなくてはいけないという事が一つあります。  少しでも伝える力を高める事と合わせて理解する力を高めなくてはいけない。    そのためにはシャープ(短い言葉で適切に)にいつもアウトプットさせることが大事だと思っています。  自分自身がしっかりと決めてゆく、自己決定してゆく力も大切にさせてあげるという事も大切だと思っています。  そういった環境を学生たちに参画させながら、育っていける環境だと思っています。  

自分たちが全力を出し切っても相手が上だったら負けます。  常に厳しいクロスゲームを体験しながら、そのなかで冷静な判断が出来ることがとても大事かなと思っています。   そういうトレーニングをしながら、最終的には自分の力を出しきる。  他にもいくつかありますが負けないチームに育ててゆく。  

諦めるという心の迷いが出てくる。  その中でどう壁を乗り越えてゆくか、本番で心が不安定になってしまうと残念な事なので、心技体を整えることはとても大事です。  精神力という事を細分化させて、各自に理解させる。  4年間の中で心理的特徴、心理的スキルを学んでゆくことによって、全力を出し切れるという事に繋がってくると思います。    自分で自滅しない。  

理想のキャプテン像については、「自分の後姿を見せようと思っています。」というようなことをいうキャプテンが意外と多いんですが、それは残念ですがあまり見てはいないと思います。    逆に君からみんなに近づいてゆく、しっかりとした関係性を持ち繋がってゆく力が必要かと思います。  様々なことを共有、共感できたり、感謝出来たり、チームメイトのために何かやっていきたいと思えるような精神的な資質の持ち主は大切な要素だと思います。  

連覇の中で少しづつ出来た隙が気付かず修正できずに連覇が止まって、大きな学びを得てもう一度立ち直る事が出来たと思います。   新しいチャレンジをしっかり組み合わせてゆく。  そして流れを上手く作ってゆく。  流れのない止まった水ではよどみますから。2007年ごろ「辞めないといけないかな」と思ったことがありました。  自分の力量ではこのチームは勝てないのかなと思いました。   そして勝ち負けではなくて、幸せに向かっていこうと、ダブルゴールと考え併せて、学生たちに幸せに繋がってゆくような活動をさせてやりたいなと、そのためには勝つだけではなくて彼らの成長も大切だし、彼らのなかに残るものを育ててゆくような指導者を目指そうと思いました。  







































































2023年5月22日月曜日

常磐津菊与志郎(常磐津節 三味線方 ) ・〔にっぽんの音〕

 常磐津菊与志郎(常磐津節 三味線方)  ・〔にっぽんの音〕

常磐津=歌舞伎の音楽、というと、歌舞伎の音楽には常磐津節のほか、長唄、清元節、義太夫節、竹本ほかにもいろいろ三味線音楽がありますので、完全にはイコールではない。  常磐津の側からすると歌舞伎の演奏のほかに、日本舞踊の伴奏、素浄瑠璃、常磐津節の演奏だけを聞いていただく演奏会、などがあります。  創立は1747年(江戸時代の中頃)。 宮古路豊後掾という人が豊後節と共に歌舞伎で演奏してきた。  主に心中物で幕府としては治安を乱すという事で禁止されたりしました。  その弟子であった常磐津文字太夫が常磐津節を新たに作って、歌舞伎と共に発展してきた。  

常磐津節の特徴は、特徴がないのが特徴みたいなところがあります。  長唄でしたら、舞台正面にずらっと並んで華やかな踊りの曲、華やかな印象がある。  清元節は色っぽい艶やかな部分があります。 常磐津節から清元節は分かれて発生しました。   高音を綺麗に聞かせるような部分が清元節の特徴です。  義太夫節は三味線は低音で、語りも力強い語りの部分がおおく、硬い印象があります。  常磐津節はよく言えば、そういったところのいいとこ取り、いろんな要素を含んでいる。 セリフもあります。

*「将門」 常磐津の中ではポピュラーな、頻繁に上演される演目です。 将門は出てこないが、将門の娘である滝夜叉姫が将門の恨みを晴らすために潜んでいるところへ、それを倒すために光圀という侍が出てくる。  その場面の一部。

声をかけるのには3つあり、①太夫さんが息を吸いやすいように声掛けする。      ②歌舞伎の役者さん、日本舞踊では踊りの方にリズムが判りやすいように声をかける。  ③曲自体に雰囲気を作ったり乗りを出したりするための掛け声。

「乗合船恵方万歳」も有名でお正月の隅田川のあたりの江戸のいろいろな風俗が出てくる。 甘酒売り、大工、芸者、通人、子守、女船頭など。  そこに三河からやってきた太夫と才蔵が合流し、船の出発を待つ間に皆それぞれ踊りを披露することになる。  7人が出てきてそれを七福神に見立てて、江戸の情緒を表す歌舞伎舞踊。                     「身替座禅」も人気が高く頻繁に上演されています。  

*「釣女」 人気の演目  狂言「釣針」をもとにした常磐津の「釣女」  大名と太郎冠者とはよい妻を得ようと恵比寿神社に参詣し、そのお告げによって両人は釣竿でそれぞれ女を釣ることになる。大名には美しい上﨟が釣れたが、太郎冠者の糸には醜女がかかって閉口する。 分りやすく滑稽な踊りなので人気がある。 その場面の一部。

長唄は細棹、竹本や義太夫節は太棹、常磐津は中間ぐらいの中棹の三味線を使っています。 弾き方は下の皮に当てるまで弾くのと、下からすくって弾く皮に当たらない弾き方、バチを使わない弾いたりする弾き方があります。 

常磐津を始めたのは大学卒業前後ぐらいでした。  大学では長唄研究会で三味線を始めました。  先輩が津軽三味線が好きで高橋竹山の公演を一緒に聞きに行って津軽三味線を始めて、琵琶もやったりしました。  その後常磐津の師匠に入門しました。(大学卒業後)常磐津の曲は短くて10数分、長いと1時間から1時間半ありますが、暗譜しないと舞台に立てないので、覚える作業が大変でした。    失敗もいろいろありました。 弦の張り方とか、足がしびれたとか。  歌舞伎、踊りの方とかと呼吸が合って舞台全体がうまくいった時には嬉しいです。

日本の音とは、埼玉県の狭山市に住んでいるんですが、田んぼの四方八方から聞こえる蛙の声、三味線の一の糸には「さわり」というわざと音を濁らせるような弾く仕組みがついていて、その音が蛙の声に通じているのかなと思っています。  幅の広さが常磐津の魅力だと思います。







 




















  

2023年5月21日日曜日

赤澤かおり(フリーライター・編集)   ・〔美味しい仕事人〕 料理本を編む

赤澤かおり(フリーライター・編集)   ・〔美味しい仕事人〕 料理本を編む 

家庭で料理を作る際に参考になるのが料理本。   直ぐに出来る料理のヒント、いつもと違う料理のヒント、アイディア、手の込んだ料理、新しい料理に挑戦するときなどにも料理本は役に立ってくれます。  料理本の編集に携わって四半世紀という、フリーライターで編集者の赤澤かおりさんに料理本の魅力や役立て方などを伺います。

スタートは出版社に勤めていて、編集部に配属されて車の雑誌などをやっていました。    自分の興味の方に向いて行って料理の方になって行きました。  生活の中で楽しくご飯を食べようみたいな記事が中心でした。   料理本の編集者としては25年ぐらいです。    美味しいものを皆さんと共有できたらいいなあというのが一番です。  お味噌も自分で作るとこんなに美味しいんだという事、作る楽しさなどもを知ってもらいたい。  

料理本はキッチンの棚をちょっと改造してそこに沢山おいておきます。  寝室、トイレ、リビングの棚などにも置いておきます。  料理本だけで300冊ぐらいあります。   高山なおみさん,飛田和緒さん、笠原 将弘さんの本が多いです。  ハワイから買って来た外国の本があるので、今はハワイを思い出して作るものも多いです。  豚肉の塊に塩をして数日おいて、それでお出汁を取ってお水で煮て、沢山刻んだクレソンを入れます。   他にもいろいろ作りました。  豚肉にはいろんな料理法があって、干し草で豚肉の塊を煮ると柔らかくなるというようなことが80年代の本には書いてあったりしました。   

シチューにご飯というのは違和感がありましたが(40年前)、こういったものもいいんだなと思いました。  本のなかで、言葉が生み出さす想像の世界は凄いことだと思います。 本の中から、こんなことをすればいいんだというような、励ましを頂いています。     

高山なおみさんが神戸に引っ越しされてから初めて5年ぶりに出した「自炊。何にしようか」という本ですが、300ページを超える本です。  ドキョメンタリーの様に高山さんをドラマ仕立てにしたような1冊です。  高山さんは食べることを中心に生きていますので、沢山美味しいものが出てくるという感じです。   茄子の皮をむいて、蒸して、シバ漬けを自分で作るのがいいとおっしゃっていました。  一人で暮らしていると残るものも多いんで、どうしているかと言うような工夫の話も沢山出てきます。  

食は生きる事、食べないと死んでしまう。  しかし、そこにプラスアルファが生まれてきます。   明日は何を食べようかと、必ず夜寝る前に考えます。  季節のものは取り逃がさないというような、いろいろ生きる糧になっていると思います。

料理本は出版社の企画があって降りてくる場合もありますが、私の場合はこういうものを作りたいという企画を出すところから始まります。  担当の編集者と先生と共にどういう内容にしてゆくかという事を話したりします。  何も決めずにスタートするという時も時々あります。  料理のスタイリスト、カメラマン、本のデザイナーといった方々と話し合いながらページを作っていきます。  校正を何度もやって、ようやく世の中に出ます。  

料理本はレシピを知るものでもあるんですが、背景、地方都市の美味しい素材の愉しみが知れたり、先生方の言葉の特徴を読み解いたりするのも楽しいです。  ハギワラトシコさんのレシピ本を作った時に「味は整えないの」と返ってきました。  「それは自分が欲している塩加減で、整えちゃあ駄目なの。 しょっぱいのが食べたかったらしょっぱくていい。 毎回料理が整っていちゃあ駄目なの。」と言われました。  その人なりの先生方の感じをくみ取って最後を締めるようにと、考えるようになりました。  

料理のレシピだけではなく、人生の愉しみを加える、プラスアルファしてくれるような1冊が出来たらいいなあと思っています。  



































2023年5月20日土曜日

松村裕美(おうみ犯罪被害者支援センター 支援局長)・犯罪被害者が苦しむことのない社会を

松村裕美(おうみ犯罪被害者支援センター 支援局長)・犯罪被害者が苦しむことのない社会を 

滋賀県大津市のおうみ罪被害者支援センターで20年以上に渡って相談、援助を行ってきたセンター副理事長で支援局長の松村裕美さんのインタビューをお伝えします。 

犯罪はある日突然起こります。  被害者や周りの受けるダメージは大変なもので、日常生活やその後の人生に大きな影響を及ぼす場合があります。  公益社団歩人おうみ犯罪被害者支援センターには年間およそ3000件の相談が寄せられ、その数は人口10万人当たり日本一、相談件数の多いのは継続的に支援して何度も話を聞くためで、高い評価を受けています。  松村裕美さんは児童相談所や権利擁護センターなどを経てこの仕事につきました。  被害者支援はどの相談よりも難しいと、じっくり相談に取り組む一方、犯罪防止のための啓発にも力を尽くしています。  特に最近急増する性的犯罪で被害者が私が悪かったのかもと考えてしまう事に、貴方は悪くはないとしっかりと伝え、私の身体は私のものと伝え、啓発や教育活動にも力を入れています。  ふいに犯罪に巻き込まれてしまった被害者や周りの人にどう向き合うのか、指針となる言葉や考えを伺います。 

平成12年(2000年)におうみ犯罪被害者支援センターが出来ました。  それまでいろんな相談をさせてもらっていて、ちょっとぐらいは出来るかなと思っていましたが、今までやっていたことは何にも役に立たない、全然違うという、本当にどうしていいのかわからない状態でした。  子育て、福祉などの相談は一歩でも二歩でも進める感じはありましたが、犯罪にあった苦しみは相談に乗るなんておこがましい、聞かせてもらうという事がやっとこさという感じでした。   殺人、傷害、詐欺、性犯罪などいろいろ種類がありますが、そういうものに当てはまらないことでも、厭な目にあったとか、辛い思いをしたとか、自分だけが犯罪と思っているような、ありとあらゆる相談が来ます。   

まずは電話相談からです。   ベルが3回鳴るまで待ちます。  1回で出ると相手もびっくりするし、こちらも深呼吸して出ます。   鳴き声しか聞こえなかったり、言葉が詰まって出ない人には「どうされたんですか」とか相手が話しやすいような感じで出します。   相談室がありますが、明るくて、四方に白いソファーがあり観葉植物、絵などがあります。   好きなところに座っていただき、私たちは90度の角度の位置に座ります。  絵など、話のきっかけになるものを、おいておきます。   お菓子もいろんなものを置いて飲み物も選んでもらいます。   選んでもらって、選べるという事を実感してもらいます。   

人間って真面目に生きていたら、犯罪なんかに関わるわけがない、と勝手に思っているわけです。    いつ何が起こるかわからないというのが、犯罪の被害なんです。     犯罪被害者と呼ばれて、それまで生きていた世界とは全く違う暗闇のなかに突き落とされてしまう。   なんかお手伝いが出来ればというのが犯罪被害者支援という事です。    6割ぐらいが性犯罪です。  レイプ、強制わいせつ、盗撮など大きく3つあります。   親からの性犯罪も増えてきています。   一番小さい子が3歳で、最高齢が85歳です。すべての年齢層で起きています。   8割以上9割近くが知っている人からの被害が非常に多いです。   知っている人からの被害は、どこからが被害かわからない、いつ言えばいいかわからなかった、言わなかった私が悪い、といった様な気持ちが凄く強くなる。   

SNSの世界では相手が判らない。(想像の人)    ネットの中の世界の方が生きやすい人もいる。  凄くいい人と思って会って被害に遭う、という事はたくさんあります。 襲う時に弱い人をターゲットにするので、高齢者に対しても狙われる。   誰にも知られたくないというのが一番ですね。   性犯罪、性暴力にあった人って、自分を責めてしまう。  何でそうなってしまったのか、自分の原因を捜したくなる。   どうしても届けたくない人も勿論いますので無理には引っ張れない。   

苦しい状態の時に、「大きな岩が落ちてきて、貴方は動けない状態かもしれないが、岩は少しずつ小さくしていけるから、皆でこの岩を小さくしていこう」と言います。  「それはなくなるんですか」と言われますが、「それは消えてなくなることはないけど、ちっちゃい石ぐらいにはなる、時間をかけ努力すると、ポケットに入れても気にならないぐらいにはなるから」と言います。

人には見えない境界線があることを教えています。  相手が思っている距離と自分が思っている距離は一緒ではない。  その距離もいろんな状況によっても変わります。    プライベートゾーンという言葉を子供には教えますが、水着で身体が隠れている部分はプライベートゾーンと言ってとっても大事なところだから、簡単に他人には見せてはいけないもの、触っても触られてもいけないものだと、小さい時からちゃんと教えてゆくことで、私の身体は私だけのものと、境界線を越えてくるものは性暴力だから、それは厭だと言う事を言葉でちゃんと言おうねと、授業で行っています。  「私の心は私のもの、私の身体は私のもの」というのは誰もが持っている権利です。  その権利は生きている間はずっと守られなければいけない。   DVの別れ道になっているかもしれないという事をちゃんと知識として知っておきましょうという事が大事かと思っています。  安全と安心は違う。  安全は周りの人が安全な環境を作るものであって、安心は当事者が感じるものなんです。  

「たすけて」という本を出版しました。  被害にあったら勇気を出して「たすけて」と声をあげてほしいという思いを込めて、文章から絵までをおうみ犯罪被害者支援センターが手がけました。   犯罪の被害にあった人がきちんと理解されて、守られて、癒されて、再び立ち上がって生きていける、そういう世の中になったら嬉しいなあというのが、この仕事をずっとやってきて今思う事です。
























   



























 

2023年5月19日金曜日

藤竜也(俳優)             ・芸能生活60年を超えて

 藤竜也(俳優)             ・芸能生活60年を超えて

2年前、朝の連続テレビ小説「おかえりモネ」に出演。  主人公清原果耶さんのおじいさん役の牡蠣棚を作っている漁師役でした。  牡蠣棚の作業は現地の人に教わりましたが、大変な作業でした。  現地の方とはいろいろお話をさせていただきました。  東日本大震災のことは控えました。  表向きには快活にやってらっしゃるのは伺えました。        妻は芦川いづみです。  夫婦円満のコツはやはり「ありがとう」と「すみません」じゃないですかね。  寝る前には以前は握手をしていましたが、コロナ過ではグータッチでした。  「明日も元気に顔を合わせましょう」という事です。  亭主関白とは思っていません。  趣味はと聞かれると、「ご飯を作る事です」と答えています。  買い物も調理もできるだけ私がやるようにしています。  手作りベーコンを今やっています。  

結婚当初は妻は看板女優で、私はどこの馬の骨なのかわからないような存在でした。    頑張らなければいけないと責任を感じ、原動力にもなりました。   昨年がデビュー60年です。(今年82歳)    父の任地が北京の支店でそこで生まれました。     終戦前に日本に戻って来ました。  父は出征してその後戻って来て交通事故で若くして亡くなりました。   小学校は5回転校しています。  横浜だったので漠然と船乗りになりたいと思っていました。  友達が誘ってくれて、日劇で宝塚の或る人の引退公演を観に行くという事になり、友人を待っている間に、「俳優にならないか」と声をかけられ、なってしまいました。   日本大学芸術学部演劇学科には在籍はしていましたが、最初のころはどうやったらいいのか迷いました。  

他人の芝居は良く観ました。  役を貰うと、その背景などをいろいろ調べるようになりました。  「野獣を消せ」という映画があり、その時になんとかやって行けるのではないかと掴めました。  結構ハードな場面があったりするので、撮影所の道場で身体を鍛えました。   愛のコリーダ』(1976年)の作品には感謝しています。  引き受ける時に直感的にやばい仕事だとは思いました。   逡巡はありましたが、引き受けることにしました。   こういう切り口のラブストーリーがあるんだと思いました。  私の大事な作品になりました。  わいせつか否かの裁判を8年やり勝訴しました。  妻は作品に対しては何も言いませんでした。  

100本以上の映画に出演。   最近では「それゆけゲートボールさくら組」という作品があります。   ゲートボールはやったことはないですが、面白そうです。     元ラグビー部のメンバーが再結集してゲートボールのチームを作って、認知症の元ラグビー部のマネージャーを助けるというスタイルです。   認知症を明るく捉えている。   三遊亭円楽師匠がこの映画の最後の出演という事になってしまいました。   非常に面白い映画です。  

大きな抱負などは特になくて、一日一日を楽しく、有難く生きていくだけで、仕事を頂くのが一つの励みになっています。  







 


















 



2023年5月18日木曜日

キャシー中島(タレント・キルト作家)    ・〔わたし終いの極意〕 喜びも悲しみもキルトとともに

キャシー中島(タレント・キルト作家)    ・〔わたし終いの極意〕 喜びも悲しみもキルトとともに 

キャシーさんはハワイ生まれの横浜育ちで、今年71歳。  芸能生活とキルト作家としての活動はともに50年になりました。   私生活では俳優の勝野洋さんと結婚し、3人のお子さんをもうけましたが、2009年モデルで歌手の長女の勝野七奈美さんをがんのため、29歳の若さで亡くしています。  

アメリカンパッチワークというのは、リサイクルから始まったものです。  つなぎ合わせた布と布、そしてそれが一枚になった時に間に綿を挟んで、裏布を付けてキルティングというものにしたものをキルトと言います。   始まったのは西部開拓時代と言いますから、今から250年以上前のことです。  ヨーロッパから移民した人たちが、持ってきた洋服がどんどん古くなっていって、大丈夫そうな部分を四角に切って取っておいて、それを繋ぎあわせて、幌馬車の幌の穴の開いたところにかけたり、赤ちゃんをくるんだりする、リサイクルとして始まったのがアメリカンパッチワークと言われています。  

小さいころ父と母が離婚してしまって、5歳から母と私の生活になりました。      母が仕事に行ってしまって近くの叔母さんの家に預けられました。   布を一杯くれて、それを繋ぎ合わせて貼っていましたが、10歳ぐらいになった時に、針をもって縫うようになりました。  小学校5年生ぐらいの時に「若草物語」という映画を観て、ベッドにかかっていたカバーとか、お母さんが縫っていたものがとっても綺麗で、作ってみたいという気持ちはありました。  その後モデルの仕事をして17歳ぐらいから始めて、20歳になってタレントになる時、モデルの最後の仕事としてロサンゼルスに行きました。     キルトショップに行ったら映画で見た同じデザインのキルトが飾ってありました。    それは買えないという事で、作り方を教えてもらって、布も買って、自己流で縫ったのがパッチワークキルトの始まりです。

日本では50cm以上あるいは1m以上ではないと売らないという事でしたが、30cm角に切った布を布セットとして売っていただけないかと交渉をして買わせてもらいました。 その後結婚しても子供のためのいろいろなものを作りました。  キルト綿は売っていなかったので、古いタオルケットを間に挟んでミシンで縫っていました。  昨年「私のキルト」という本を出しました。  ハワイアンキルトはアメリカンパッチワークとは全然違います。   ハワイアンキルトは大きな布を三角形に8枚にたたみ、デザインを描いて8枚を一緒に鋏でカットしていきます。  ハワイでは洋服を着る習慣がないのであまり布がないんです。  1820年に宣教師の人たちがハワイにはいって、その妻たちが王様の家族に縫う事を教えたと言います。   鋏でカットしたものはきちんとしたデザインが生まれます。  2m~3mぐらいの角の布を使います。  1年半ぐらいかかります。 

ステンドグラスキルトと名付けたものがあり、自分の好きな絵を描いて、そこに好きな布を白い布の上に貼って行きます。  黒い布を乗せてくりぬいていきます。 モラ(パナマ手芸。色の違う布を重ねて縫い、模様の形にくりぬいて作る。という手法がありますが、それに近いです。  

ちょっと空いた時間を利用して、それを日々行っていて自分の生活タイムに合っていました。   無心に縫えることがいいです。    俳優勝野洋と結婚したのが1979年で結婚後44年になります。   一昨年の結婚記念日に夫婦で踊っている動画を配信しました。  長女の七奈美、次女が雅奈恵、長男が洋輔の3人です。   娘が結婚式を挙げて1週間後ぐらいに咳がひどくて、新婚旅行には行きましたが、帰ってっ来て肺がんということが判りました。  小細胞肺がんという事で手術が出来ないという事でした。 その翌年2009年の7月7日に亡くなってしまいました。(29歳)  

落ち込んで具合が悪くなったら七奈美の望むことではないと思って、或る日赤い服を着て大きな帽子を被って銀座の歩行者天国を歩いたら、気持ちが楽になったような気がしてこれでいいんだと思いました。(3か月後ぐらい)    人生は何が起こるかわからない、後悔しないようにしなけければいけないと思いました。   夫もがっかりして大変でした。 残った2人の子にはなんでもやらせてあげようと思って、二人ともフランスに留学しました。   雅奈恵が結婚して女の子の孫ができました。  夫は良く面倒をしています。 

80代になったら、そういったホームには入りたいと思います。  夫よりも1か月早く亡くなりたい。  夫は色々な支払いとかめんどくさいことをやっていないので、一回味わってほしいと思います。  ママが居ない人生はつまらないと、味わってほしい。     夫は寡黙だと思われるかもしれませんが、凄くしゃべります。   健康がまず第一番ですが、くよくよ考えない、考えても解決はしない。   キルト協会ができて大きなキルトショーをやろうしていて、キルトをやる時間はアートの時間になって来ました。  最高齢の生徒は96歳になります。  

私の場合は葬式が終わった後はパーティーにしてほしいと思います。  色は白とブルーとピンクが好きなので、黒ではなくピンクを着て欲しい、着なかったらピンクのものを一杯付けてほしいと思います。  葬儀会場で動画も流したしたいと思っているので、亡くなる前に動画も撮っておこうと思っています。  私じまいの極意とは「ハッピー」ですね、自分がハッピーでいる事です。  













































2023年5月17日水曜日

山本勉(日本野球機構公式記録員)     ・〔スポーツ明日への伝言〕 もうひとつのスコアカード

山本勉(日本野球機構公式記録員)     ・〔スポーツ明日への伝言〕  もうひとつのスコアカード ~野球場跡地を巡る旅~

1936年(昭和11年)に始まった日本のプロ野球は。今年で88年目を迎えています。 この間に行われた公式戦は6万5000試合に迫り、使われれた球場は昨日初めて公式戦が行われた北銀ボールパークで291か所目になりました。   しかし、そのいくつかは球場としての役目を終えて、姿を変えています。  平和台、大阪後楽園、西宮、日生などかつて球団の本拠地だった球場を始め、数試合しか開催されなかった地方球場、あるいはプロ野球草創期や戦後の復興期に試合を行った学校の校庭、民間企業の敷地内の球場,陸上競技場を転用した代用球場、河川敷のグラウンドなどその数は100か所を越えています。   憧れの名選手たちが躍動し、多くのファンの歓声に沸いた球場の跡地、そうした消えてしまった球場の痕跡をたどる旅を続けている方がいます。  日本野球機構公式記録員の山本勉さんです。   山本さんは野球の記録員として野球のスコアを残しながら、時間を見つけては球場の跡地を実際に歩き訪ね当時を知る人たちからの証言をコラムに書き綴ってこられ、今年1月には「球跡巡り歴史を刻んだ球場跡地を歩く」として一冊の本にまとめました。  山本さんのプロ野球をタイムスリップする旅のお話を伺います。

若いころに或る本で学校の校庭にロープを張って、プロ野球を開催したというくだりを読んだことがあります。  調べてみると、校庭だけではなくて企業の会社の中にある球場、陸上競技場のトラックのなか、河川敷のグラウンドなどでプロ野球を開催したというようなことが判りました。  プロ野球を開催して無くなった球場が100以上あることが判りました。  プロ野球をやった人と、それを実際に見た人たちにお会いして、話を聞いて探訪記をかいてみたいと思いました。   終戦直後は野球場が接収され、1950年に1リーグから2リーグになり、球団が8球団から15球団になり、野球をする球場が少なかったので、学校の校庭とか、河川敷の歴史があったんです。  荒縄を越えるとホームラン、抜けると2ベースヒット。   

プロ野球は1936年から始まって、6万試合を越えました。  2018年から球場跡地をめぐることをスタートしました。  球跡は全国で114か所あります。 試合数が一桁というのが半数以上66あります。  開催がたった一回が21か所あります。 ほとんどが70年以上前です。   どの程度会えるかと思いましたが、いろんな思い出を持っている方がたくさんいました。   跡地は病院、スーパーマーケット、自動車教習所、などいろいろ変わっています。

2018年に最初に行ったのは広島県にある福山三菱電機野球場です。  広島県で行われた最初のプロ野球です。   会った人は1948年に行われていて外野スタンドで観ていた方でした。  笠原和夫さんが打ったのがホームランとなり、座っていた外野スタンドの近くまで飛んできたという事でした。   笠原和夫さんは学徒出陣の壮行試合、最後の早慶戦での選手でした。  1950年同球場で金田正一さんがプロに入った年で練習試合で投げていた。   1950年は広島カープが生まれた年でもありました。  広島カープの第一号ホームランは福山三菱電機野球場です。   

北海道函館市民球場、上砂川球場の二つは面白かった。    函館市民球場を設計した人は久慈二郎さん (早稲田の名キャッチャー)です。   当時市議会議員で設計に携わったそうです。  一塁側のスタンドのところにスキージャンプ台を作ったんです。  久慈さんはスキーも上手かったようです。   その球場で野球もスキーのジャンプをした方がいてジャンプでは22m(最長不倒距離が26m)飛んだそうです。 1938年後楽園球場、甲子園球場で外野席に特設のスキージャンプ台を作って、北国から雪を運んできて、スキージャンプをやったという歴史もあります。

上砂川球場は札幌の北の70kmぐらいのところにあります。  1938年に野球場が出来ています。  当時北海道に野球があったのは丸山球場、旭川市営球場、函館湯の川球場の3つでした。  炭鉱の会社が上砂川に野球場を持っていました。  1950年にプロ野球を誘致して開催しました。   平日開催で人が入らないと思って、会社を公休日にして開催したそうです。   炭鉱は閉鎖され、人口は1/11まで減って行ったそうです。  

愛知県に面白い2つの球場があります。(山本球場、大須球場)  この二つの球場は一個人が作った球場でした。   山本球場は山本権十郎さんが作って自分の苗字を球場名にしました。  春の選抜中等学校野球大会第一回目が行われたところです。 プロ野球でも伝統の巨人阪神戦の第一回目が行われたところです。  今はマンションに変っています。  大須球場は今はスケート場になっています。   高島三治さんが作りました。 1950年今の西武ライオンズ(西鉄クリッパース)3月に試合をしています。   今の西武ライオンズの1勝目になります。   野球以外の日にはバイクレースをやったりダンスパーティーをやったりして、使用料を稼いでいたそうです。  その後名古屋球場が出来た為5年間で消滅しました。  

兵庫県の姫路城内球場、姫路城の三の丸の広場に野球場がありました。  プロ野球を一日だけ開催しています。   昔は14か所に城内に球場がありました。  その時投げていたのが今西錬太郎さんで聞きに聞くことが出来ました。(当時95歳)  

公式記録員というのは、プロ野球が行われている球場に行って、ヒット、エラー、ボール、パスボールなどの判定をくだして、スコアーカードに書くというのが仕事です。   主観によるところが多いので難しいです。    高校卒業後愛知県の企業でサラリーマンをしていました。  1988年に母校の宇和島東高校が春の選抜大会で全国制覇しました。(初出場初優勝)   公式記録員募集の記事を見つけて応募して今に至りました。     受験には300人来ました。  私一人合格しました。  今年35年になります。  1400試合を担当しました。(現役では最多)   「ボールから目を離すな」という事を基本にしています。   ノーヒットノーランは4回立ち会う経験をしました。     記録を見ると詳細に思い出します。 

今西さんは1946年から阪急で投げたピッチャーです。  当時の話をいろいろ聞く事が出来ました。  闇米をストッキングにいれて持ち帰ったとか、いろいろ聞きました。   特攻隊員となって戦争に向かった人もいました。   

岩手県営野球場  この3月31日に閉場になりました。  大谷翔平選手、菊池雄星選手、佐々木朗希選手なども高校時代この球場で活躍しました。










 




























  































2023年5月16日火曜日

笑福亭鶴光(落語家)            ・東京暮らしで上方落語

 笑福亭鶴光(落語家)            ・東京暮らしで上方落語

長年ラジオパーソナリティーとして活躍、40歳の時に本職である落語に力を入れる為、ある決断をしました。   今は東西の壁を越えて活躍の鶴光さんに、異なる文化、習慣の中で生きてゆくためには何が大切かを伺います。  

大阪市生まれ、六代目笑福亭松鶴師匠です。   1967年入門、当時はスーパーマーケットの司会とか雑用を噺家がしていました。  祖父が寄席が好き食事時には必ずラジオの演芸番組をしていました。   自分もやってみようかという思いが湧きました。   中学時代はホームルームでやって受けて、天狗になっていました。  素人の演芸番組に出でたら名人賞を貰いました。  大阪市立天王寺第二商業高等学校に進学したら、同級生に4代目林家小染さんがいました。  彼が高校を中退して3代目林家染丸師匠に弟子入りしました。  僕は卒業しましたが、来ないかと言われたが、兄弟子と言わなければならなかったので、六代目笑福亭松鶴師匠に入門することになりました。  

東京発の深夜ディスクジョッキーに抜擢される。  大阪と東京ではしゃべる内容のスタイルが違うし、大阪は台本がないが、東京では台本がありました。  以前、葉書を読んでいた番組があり、リスナーの書いた葉書をいろいろ読み取ったうえで、語るのでいろいろな要素が入っている。  1万通が来てそのうちの千通を読んで、百枚にする。  百枚から私が選んでいきます。  9000通は葉書供養をします。   リスナーと同化する、大人の遊園地ですというのが、僕の深夜放送をやっている時のポリシーです。  

一時期寝る間もないほどの忙しさでした 。  タレントとして売れていたが、落語家としては力がなかったことに気が付きました。   お前の落語はディスクジョッキーだと言われ、話の速度を半分にしろと言われました。   「寿限無」からやれと言われました。 35歳ぐらいからちょっと光が見えてきました。   38歳ぐらいから東京で夕方のラジオが始まりました。   東京の寄席を観に行くようになりました。  40歳の時にあるパーティーで偶然、当時の落語芸術副会長の春風亭龍昇師匠に会う事になりました。   「東京の寄席に出ないか」と言われて、出ることになったが、周りから「何言ってんだかわからないですが」と言われてしまいました。   大阪では1000人程度ですが、東京はでは狭いところで、笑いもしないが怒りもしない、それに慣れるのに苦労しました。     大阪では罵声が飛んできます。 

まず、「言葉がわからない」と言われて、おうこ=天秤棒  おてしお=小皿  いかき=ざるれんげ=すりこ木など変えていきました。  徐々に変えてゆく、結構時間が掛かりました。  大阪を捨てて東京でやろうと決めました。   「みんながみんな喜んでいるのではなく、君が来ることで出番のポストが減る人が居る」と言われました。   「ポストを奪ってしまってごめんね」という気持ちをもって、1年間過ごしました。   末廣亭の奥さんが見てくれていました。  人間何かを得るためには何かを捨てなければいけない。    忙しくお金を稼ぐことがそんなにハッピーなんですかと言いたいです。  財産は豊かになるが果たして心は豊かになるのでしょうか。   プライドなんて自分が思っているだけで、世間は何も思ってはいない。  

単身赴任で行く人が居ると思いますが、居酒屋などで最初に自分の失敗話をすると段々話が広がってくる。  一番やってはいけないことが上司の悪口です。   仕事の話も駄目です。  我々の世界では芸論も駄目です。  心を許す事。  「仲間を増やして、敵だけは作るな」と師匠は言っていました。   どうしても友達になれない人は無視する事、万人に好かれる人はいない。   異文化のところに行くには、いろいろ勉強しておかないといけない。   触れてはいけないことがある。(食べ物、宗教・・・)  自虐ネタが一番仲良くなれます。    プライド、誇りは人に押し付けるものではなくて、自分の心のなかに持てばいい。   

東西の架け橋になっていますが、30年かかりました。  見台(落語でも見台が用いられることがあるが、これは上方落語に限る。)は国立劇場しかなかったが、池袋、末廣亭、浅草などにも出来ました。  瀧川鯉朝が、新宿末廣亭浅草演芸ホール池袋演芸場に見台を寄贈しています。  末廣亭が上方枠を作ってくれました。  それが広がって行きました。