2023年5月3日水曜日

安原修次(植物写真家・野の花の会主宰) ・野の花写して39年

 安原修次(植物写真家・野の花の会主宰)         ・野の花写して39年

安原修次さんは今年87歳、48歳の時に一大決心で教員を退職し、野の花の写真を撮り続けてきました。   野の花を訪ねて全国各地を歩き、多くの人に出会いました。    写真は40冊の写真集となりました。   「野の花はみんなの宝」という安原さんの思いが石碑になったところもありあります。

山を歩く時には頭を使わなくてはいけない。  この地域だったらこれとこれとか、今の時期だったら蕾になっているとか想定して歩きます。   「野の花はみんなの宝」という言葉を本にも書いています。   エビネ、イカリソウ、クマガイソウ、カザグルマ・・・・・、一般の人が100種類ぐらい頭に入っているといいんですが。      日本は世界でもスミレ王国なんです。  一番多いのがタチツボスミレです。      スミレにも何十種類とあります。  実物と照らし合わさないと頭に入らない。     住んでいる千葉県の船橋市はカザグルマになっています。   白がほとんどですが青紫、青とか何種類かあります。   

群馬で生まれて、自然が豊かでいろんな植物を見ています。  カタクリを取って来て植えましたが、知らないので親に聞いたら、ウグイスが鳴く頃咲くのでウグイスバナだと言っていました。   子供のころは野山を遊びまわっていたので、何十種類も覚えていました。教員になって20年、30年子供からこの花はなんていうのかと聞かれても、あんまり答えられなかった。(群馬と千葉では違っていた。)  覚えるために写真を撮り始めました。

*「野の花は精一杯に今を咲くわれも生きたしその花のごと」   安原修次

*「野の花は自然に残る宝とて何としてでも記録せねばと」    安原修次

映画「二十四の瞳」の大石先生に憧れて先生を目指しました。  高卒では先生になれないので、親に言いましたが、先生などにはなれないと言われて、お金なんかいらない自分でなってやると、反発しました。   千葉大学に進んで先生になりました。  母親が1983年に亡くなり、翌年先生を辞めました。(48歳)  子供も2人いたし、カメラマンではほとんど収入がないんです。(無茶な選択でした。)   年金とアルバイトでしのぎました。   辞める前の年に自費出版(「船橋野の花」)しましたが、1000冊作ったものがあっという間に売れてしまいました。  その地域の花を宝として写すんだという気持ちがありました。  妻も花が大好きだったのが良かったです。  船橋の後、東京、横浜などから始めました。(その後も政令都市を主体)  

阪神淡路大震災の2年後に六甲山などに行って撮影しました。   避難所などでスライドにして見せた時に、喜んでくれました。  東日本大震災があった時に、それが閃いて翌年三陸をテーマにした花の取材をしました。  岩手県野田村の海岸で

*「大津波に耐えて生き抜くハマナスは浜辺をピンクに染めて咲きぬ」 安原修次

絵葉書を作って配布しました。 カンパいただき2,3万枚作りました。  300冊本を作って学校などに寄付もしました。  写真集「三陸の花」

「人に生きる力を与えてくれます。」といった反響の手紙がありました。

「伊吹山の花」を出版したきっかけで、第一回セツブンソウ祭りが行われました。   姉川の戦いで知られる伊吹町で節分草セツブンソウがきれいに咲いていて、「伊吹山の花」を出版したきっけっけでこれで地域おこしにしようという事で「セツブンソウ祭り」が始まりました。

*「日曜日老人ホームに頼まれて花のスライドみんな笑顔に」     安原修次

*「野の花をめげて毎日山歩き心も体も健康体に」          安原修次

70代は山を3万歩ぐらい歩きました、今は1万歩ぐらいです。

地域のために本を作ってくださいと頼まれたのが岐阜県伊那市です。  市から援助を頂きました。 地域おこしに役だったと言われました。                        或るきっかけから長野の出版社の社長さんと知り合い、長野県から29冊の本をだすことになりました。   

*「八十まで花の撮影続けんと毎日健康に気を付け過ごす」       安原修次

健康10則  ①タワシ摩擦  ②手、足などいろんなツボを自分で作った棒で刺激する(血行を良くする)  ③歩く  ④つぶやき(他人に読んでもらう文章を書く 短歌) ・・・。(その後の説明はなかった。) 

お返しとして、花の記録を残す。  「つぶやき」という記録を残すことが大事な目標の一つになって来ました。  

*印は漢字、かななどが違っているかもしれません。