2023年5月16日火曜日

笑福亭鶴光(落語家)            ・東京暮らしで上方落語

 笑福亭鶴光(落語家)            ・東京暮らしで上方落語

長年ラジオパーソナリティーとして活躍、40歳の時に本職である落語に力を入れる為、ある決断をしました。   今は東西の壁を越えて活躍の鶴光さんに、異なる文化、習慣の中で生きてゆくためには何が大切かを伺います。  

大阪市生まれ、六代目笑福亭松鶴師匠です。   1967年入門、当時はスーパーマーケットの司会とか雑用を噺家がしていました。  祖父が寄席が好き食事時には必ずラジオの演芸番組をしていました。   自分もやってみようかという思いが湧きました。   中学時代はホームルームでやって受けて、天狗になっていました。  素人の演芸番組に出でたら名人賞を貰いました。  大阪市立天王寺第二商業高等学校に進学したら、同級生に4代目林家小染さんがいました。  彼が高校を中退して3代目林家染丸師匠に弟子入りしました。  僕は卒業しましたが、来ないかと言われたが、兄弟子と言わなければならなかったので、六代目笑福亭松鶴師匠に入門することになりました。  

東京発の深夜ディスクジョッキーに抜擢される。  大阪と東京ではしゃべる内容のスタイルが違うし、大阪は台本がないが、東京では台本がありました。  以前、葉書を読んでいた番組があり、リスナーの書いた葉書をいろいろ読み取ったうえで、語るのでいろいろな要素が入っている。  1万通が来てそのうちの千通を読んで、百枚にする。  百枚から私が選んでいきます。  9000通は葉書供養をします。   リスナーと同化する、大人の遊園地ですというのが、僕の深夜放送をやっている時のポリシーです。  

一時期寝る間もないほどの忙しさでした 。  タレントとして売れていたが、落語家としては力がなかったことに気が付きました。   お前の落語はディスクジョッキーだと言われ、話の速度を半分にしろと言われました。   「寿限無」からやれと言われました。 35歳ぐらいからちょっと光が見えてきました。   38歳ぐらいから東京で夕方のラジオが始まりました。   東京の寄席を観に行くようになりました。  40歳の時にあるパーティーで偶然、当時の落語芸術副会長の春風亭龍昇師匠に会う事になりました。   「東京の寄席に出ないか」と言われて、出ることになったが、周りから「何言ってんだかわからないですが」と言われてしまいました。   大阪では1000人程度ですが、東京はでは狭いところで、笑いもしないが怒りもしない、それに慣れるのに苦労しました。     大阪では罵声が飛んできます。 

まず、「言葉がわからない」と言われて、おうこ=天秤棒  おてしお=小皿  いかき=ざるれんげ=すりこ木など変えていきました。  徐々に変えてゆく、結構時間が掛かりました。  大阪を捨てて東京でやろうと決めました。   「みんながみんな喜んでいるのではなく、君が来ることで出番のポストが減る人が居る」と言われました。   「ポストを奪ってしまってごめんね」という気持ちをもって、1年間過ごしました。   末廣亭の奥さんが見てくれていました。  人間何かを得るためには何かを捨てなければいけない。    忙しくお金を稼ぐことがそんなにハッピーなんですかと言いたいです。  財産は豊かになるが果たして心は豊かになるのでしょうか。   プライドなんて自分が思っているだけで、世間は何も思ってはいない。  

単身赴任で行く人が居ると思いますが、居酒屋などで最初に自分の失敗話をすると段々話が広がってくる。  一番やってはいけないことが上司の悪口です。   仕事の話も駄目です。  我々の世界では芸論も駄目です。  心を許す事。  「仲間を増やして、敵だけは作るな」と師匠は言っていました。   どうしても友達になれない人は無視する事、万人に好かれる人はいない。   異文化のところに行くには、いろいろ勉強しておかないといけない。   触れてはいけないことがある。(食べ物、宗教・・・)  自虐ネタが一番仲良くなれます。    プライド、誇りは人に押し付けるものではなくて、自分の心のなかに持てばいい。   

東西の架け橋になっていますが、30年かかりました。  見台(落語でも見台が用いられることがあるが、これは上方落語に限る。)は国立劇場しかなかったが、池袋、末廣亭、浅草などにも出来ました。  瀧川鯉朝が、新宿末廣亭浅草演芸ホール池袋演芸場に見台を寄贈しています。  末廣亭が上方枠を作ってくれました。  それが広がって行きました。