2016年5月31日火曜日

2016年5月30日月曜日

長谷川英祐(准教授)      ・アリから学ぶ人間社会

長谷川英祐(北海道大学大学院 准教授)   ・アリから学ぶ人間社会
1961年生まれ 大学で動物生態学を学び、集団行動をする蟻など小さな生き物の進化や行動に注目して、研究して居ます。
特に働き者とみられている蟻の集団の中に働かない蟻がいる、働かない蟻にも意義があるという研究には注目されています。
小さな生き物、蟻を鏡として人間社会を見つめると、どんな姿が映ってくるのか、伺いました。

蟻の巣の中には外に出て行かない蟻がたくさんいて、その中には働かない蟻が結構いて、ある瞬間を見ると、巣の中にいる蟻の7割は働く事とはみなせない様な行動をしている。
1カ月観察しても殆ど働かない蟻が2割~3割ぐらいいて、全く働かない蟻もいます。
進化という事を考えた場合、ダーウィンの言っている事に対して謎を投げかけている。
蟻や蜂は集団で行動するが、複雑なことをやるので研究の対象としては面白い。
蟻を土の中から出して、石膏をひいて、巣部屋になる様な場所をつくって、人工の蟻の巣をつくって、1匹、1匹色を塗って、背番号の様なものをつくってやって、観察します。
科学の疑問は2つあり
①how→メカニズム ある現象がどういう機構で起こるのか?
②Why→そもそもそんな現象が何故あるのか?
「2、8の法則」 会社で働いている人間は2割、2割を取りだしても8割は働かなくなる様になってしまうという事がまことしやかに言われていて、蟻でそういう事が起こると言われていた。
これを広めたのが京都大学の日高敏隆さんが言ったが、数学者の森毅さんが面白がって言ったので広まった。
蟻の働きアリは刺激がどこまで高まったら仕事を始めるか、反応域値、それが個体によって違っている事はわかっている。
反応域値が高い個体は大きな刺激と出会うまで働かない。

部屋が汚いと綺麗好きの人が掃除をするが、綺麗好きの人がいつも掃除をすることになり、これが反応域値に個体間に差があることによって働かない蟻が出現するメカニズムだと考えられている。
綺麗好きな人が部屋から出て行ってしまうと、今まで掃除をしなかった人が掃除をする様になる。
それを蟻で実験した。
150匹の働きアリと女王アリのコロニーを作って、蟻1カ月間に渡って実験、1匹について72回行動観察したが、働かない蟻から働く蟻まで変異が大きいと判った。
良く働く蟻30匹、働かない蟻30匹、おのおの独立したコロニーをつくって1カ月観察した。
良く働く蟻30匹からも働かない蟻、働かない蟻30匹からも働く蟻がでてきて、2,8の法則が本当に成り立つという事が判った。
蟻の労働行動を制御している背後に、反応域値の個体間のばらつきが有って、それが蟻の中での労働をどう配分するのかという問題に使われているのか、という事が判った。
蜂でも蜜蜂とマルハナバチで反応域値の差があることが判っている。

働かないものがいる様なシステムが何故進化したのかという問題が次に残る。
蟻もよく働くと疲れるので、全員が一斉に働くシステムだと誰も働かなくなってしまう時間が現れるはずだと考えて、今まで働かなかった蟻がいるようなシステムは有利になるのではないかと考えた。
コンピューター上に人工の蟻の巣をつくって、疲れを与えてやって、疲れがあるときに誰かがいつも休んでいるシステムと、誰もが休まない集団のどっちが長続きするかの実験を行った。
卵の世話、卵をいつもなめているが、世話をしている働きアリを取り除いてしまうと、30分~1時間世話を受けないだけで卵は全部カビて腐ってしまう。
唾液の中に抗生物質があり、カビとか病原菌に侵されるのを防いでいる。
シュミレーションで疲れがある場合には、誰かがいつも休んでいるシステムの方が長続きする領域があることが判った。
短期的な効率を犠牲にしても長期的な存続を達成しようとしている、という結論になった。

人間と蟻は違うところと同じところがあるので、同じところに着目すれば人間社会に適応できる部分もある。
無駄を省く事をやり過ぎると却って大きなピンチを招く事がある。
トヨタのある工場がある部品を作れなくなってしまって、全生産ラインが止まってしまった。
生産効率を最適化すると、最も効率よくすると会社は部品1個にするのが正解だが1個がトラブルを起こしてしまうと全体が機能しなくなってしまう。
システムを長期的に効率よく動かすためには無駄な部分が必ず必要だと言う議論はされている。
ブラック企業、会社の利益を最大化するために社員を使い捨てにするが、最初はうまくいっているが、段々業績が落ちてくるが、人が集まらなくなるから。
人間には感情があるが、蟻にはないと思われる。
人間には熟練があり、やる気のある時と無い時ではアウトプットが違いがあり、モチベーション、心理的に安心して働けないような職場には人間は行きたくはない。
ブラック企業は短期的な効率を求め過ぎて、長期的な存続性は保証されなくなってきている。

グローバリズム 土俵が一つになってしまうと、一番短期的な効率を高める者だけが勝ち残って最後はそれが滅びて何もなくなってしまうという事が生物学では判っている。
生物は土俵が一つではなく、色んな環境があっていろんな生き物がそれぞれの場所にいるので、空間に構造があるというが、空間の構造を取っ払ってしまうと、最も利己的なものが残ってしまって最後には滅びてしまう。
グローバリズムは同じようなことが起こる可能性がある。
狂牛病 病原体はプリオンというたんぱく質だったが、プリオンは何の役に立つのか判っていなかったが、ごく少数の研究者がプリオンの研究をしていたので狂牛病が発生した時に、対処の仕方が判った。
社会の人達に科学が、生き物が面白いという事を知ってもらって、楽しんでもらうという貢献ができたと思う。
ゴッホの糸杉の絵を見て吃驚した、実際の絵を見ると波動を出している、物凄い力の有る絵だった。
芸術があっても実際の世界を改良するためには何の役に立たないが、見る人達に強烈なインパクトを与えることで評価されるが、基礎科学も同じような側面がある。

基礎科学が色んな種を蒔いておくから何かが起こった時に直ぐに解決する事が出来る、一種の保険の役割で、大学にしかない(種を蒔く機関)。
社会全体の長期的な存続性を考えた時には基礎科学を縮小する事は、得なやり方ではないと思っています。
割と簡単な判断しかできない個体とか神経細胞が集まることによって、極めて合理的な判断が可能になる。
蜜蜂だと新しい巣場所を見つけるときに、個々の集めてきた情報を集めて集団全体としてもっともよい場所に新しい巣を移すことができる、蟻も同じです。
いい場所を見つけた蜜蜂はダンスを強く長く踊ることが判っています。
2~3日続いて最終的にいくつかの場所で沢山の個体を集めた巣場所が選ばれる。
脳の集合的意思決定というものは、蜂や蟻とは別のメカニズムがあるはずで、それが出来る方法があると考えていて、我々が考えている原理が時々間違えることがあるが、その間違いを補正するために蜂や蟻のような質に応じた反応があるんだと考えています。

蟻で実証したという論文を書いているが、受けが悪くて通らない、今までの常識と全く違う事を言っているので、すごく抵抗があります。
我々の考えた原理を使わないと、脳の意思決定は説明できない。
今まで存在しなかった法則を新たにもたらす研究の方が重要だと思っています。
新しい仮説、法則等に対して保守的な考えの人達は社会的地位、科学者としての権威が一瞬にして無くなるので批判する、新たなチャレンジをする人ほど不利になるという、矛盾した状態が科学の中にあって先駆者はみんな苦労しています。
遺伝学者 進化の中で中立進化説を唱えた木村資生さん は最初はめちゃくちゃに批判されました。
ダーウィン 進化の説明するのに神様はいらないと言ったが、いかに神を信じる人達からたたかれたか想像に難くない。
アインシュタインもニュートン力学の常識を覆したので、最初は非常に懐疑的に見られたはずです。
科学的に正しいことは人間の認知とは直接繋がらない。
生物の世界の論理は人間から見るとあり得ない様なこと、情け容赦のない事を普通にやっています。
生物の世界では本当に働かない個体や働けない個体は情け容赦なく切りすてられる。
怪我をして働けない身は死んだとみなされて巣の外に運び出されて捨てられてしまう。

人間は働けない人を排除していいかと言ったら絶対そんなことはない。
人間の倫理と自然の論理は全く切り離して考えないといけない。
コロニーを構成する個体が多様である方が組織全体が巧く行くということはたびたび発見されている。
生物の群衆、人の社会組織の中でのメンバーの多様性が持っている役割はきっとあるだろうと思っています。
そういう事があることによって組織全体がうまく機能する事が出来るということを、示せないかと思って、蟻とアブラムシの共生系を使って実験をしています。
人間の組織でも構成メンバーの間に色んな多様性がある方が、組織全体の効率が高まることも起こり得ると思っています。
みんなが有利になるという事、生物多様性というものが、こんなにも多様な生物がこの世の中にいる、という事を説明するメカニズムになるのではないかと興味を持っています。











2016年5月29日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)     ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子”(H28/4/11放送)

奥田佳道(音楽評論家)  ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子”(H28/4/11放送)
*「さくら」 武満徹編曲
武満徹 
音楽を独学で勉強 ジャズ、映画館、ポップスから影響を受ける。
1930年生まれ、 1957年 弦楽のためのレクイエム』発表。
クラシックの現代音楽の作曲家として歩み始める。
小澤征爾さんが羽ばたいてゆくと同じように、アメリカ、ヨーロッパに招介されてゆく。
*「明日ハ晴レカ曇リカナ」 作詩 作曲 武満徹

*「丸と三角の歌」武満徹



ドビュッシーの音楽から影響を受けている事を自身で語っている。
年に100回以上映画館に通った時期もあったと言います。
*勅使河原宏監督の映画「他人の顔」で使われたワルツ (1966年、第21回毎日映画コンクール音楽賞受賞)
*「ミッシェル」 ビートルズのギター編曲 武満徹
谷川俊太郎さんの詩との相性もいい。
*ファミリーツリーから「遠く」 谷川俊太郎 作詩 武満徹 作曲 
*「御代田」 谷川俊太郎 作詩 武満徹 作曲
ジョン・ウイリアムズは武満徹から影響を受けた。 
ジュラシック・パークの中にさりげなく尺八の響きを取り入れている。
*ジュラシック・パークのテーマ



2016年5月28日土曜日

小堺一機(タレント)       ・人生はごきげんよう

小堺一機(タレント)       ・人生はごきげんよう
1956年生まれ 寿司職人だった父親の関係で千葉県市川市から東京浅草に移り住み、映画などの文化に数多く触れる子供時代を過ごしました。
専修大学在学中に出場したTV番組、「銀座ナウ」の素人コメディアン道場で17代目のチャンピオンになったのが芸能の道に入るきっかけになりました。
その後、萩本欽一さんの番組に関根勉さんと出演し、お茶の間の人気を集めました。
お昼のトーク番組に抜擢されたのは28歳の時です。
今年3月まで31年と半年間に渡り司会を務めました。

やってきて気がついたら30年を過ぎていました。
いろいろな先輩に恵まれました。
千田光男さん、堺さんに会え、勝新太郎さんの学校に入って、萩本さんの事務所に入れて、運が良かったです。
勝さんよりも萩本さんのほうが怖いです。
遊びながら学ぶんだなあと、勝さんから教わりました。
大将からはガッツイテないと関根さんと共に言われました。
長く続いている番組が多いです。
「いただきます」が始まったのが、31年半前です。
「いいとも」の後に叔母さんたちとの番組の司会があるので、どうするかという電話があり、嘘じゃないかと思ったが、本当でした。

「いただきます」で始まる前に萩本さんに「お前にピンの仕事は来ないとよ」と言われました。
お前は全部自分で言ってしまうので、お前には来ないと言われました。
堺さんからなんであの人は一人でしゃべるんだろうと関根さんに言われて、萩本さんから言われたことを思い出しました。
叔母さんはどんなことを言っているんだろうと思ったらめちゃくちゃ面白かった。
芸事で一番つらいのは素人が頑張っているのを見るのが辛いと、勝さんも言っていました。
全部が繋がって、自分のおしゃべりを少なくして、事前の準備もしなくしたらその方が良くなった。
力んでいるとだめなんですね、頑張ると力むは違いますね。
サイコロがテーマを決めてくれるので、それで遊べばいいので。
サイコロは1万9459回投げました。(延べ出演者数が1万9000人以上)
いろいろなことを教わり、31年学校に行っていたみたいです。
同じ人が何回か出ると、人が成長して行くものを見ることができます。
本当に大きな人は全然構えていないですね、無駄な恐怖心も与えないし、それはありました。
28歳からですから、人生の半分ぐらいやっています。
仕事でも私生活でも何度か、有難いなあと思う、助けてくれる人がいたりします。
友達の女性がTV番組に応募の手紙を出して、素人コメディアン道場で17代目のチャンピオンになりましたが、初代が関根さんでした。

子供のころは明るいが落ち着きのない子だと通信簿に書かれていました。
千葉と違って、浅草に行ったら全部ロードショーで、夢のようでした。
家では店をやっていたので家に入ると邪魔なので、映画を良く見に行っていました。
父は南極観測隊の越冬隊の専属として民間人として初めて、第9次と15次の2度行って食事をつくっていました。
家はエンゲル係数の高い家でした、裕福ではないですが、いいものを食べていました。
番組を長く続けられたのはチームワークだと思います。
番組で回りも変わって、あたらしい人に教える事がありますが、教えることは教わることよりも難しいことが判りました。
私たちの時代は芸は袖で見て覚えろと言われましたが、最近は言葉で教える様な形になりましたね。
後進に何か助言するのは、すごく難しいと思います、それが判りました。

視聴率が下がった時にはその仕事が面白くなくてやっている人がいると下がってしまったりするが、萩本さんが焼き肉屋に全員集めて、一人一人聞いて、実はこういう事が嫌ですと言った時に次にその人はいませんでした、その位命をかけていて凄いなと思いました。
ちゃんとしていない人にも怒りました。
コメディアンは例えば「デブ」という事をその言葉以外でどれだけ言えるかという事だ、と思います。
(お風呂は半分で済むんですかとか)
品が無いのが一番駄目だと言われて気を付けていました。
自然体と言う形が大事だが、難しい。














2016年5月26日木曜日

蓬田勝之(パフューマリー・ケミスト) ・バラの香りに魅せられて(2)

蓬田勝之(パフューマリー・ケミスト) ・バラの香りに魅せられて(2)
後半は薔薇の歴史や香りの複雑さの話です。
薔薇の香りのタイプを7つに分けました。
科学的なまとめと香りのタイプをドッキングしました。
薔薇は2万数千種類があるが、香りのルーツをたどってゆくと二つ①ダマスク系と②チィー系
①ダマスク系(ヨーロッパ系) ブルガリアンローズ 香料を取る品種 甘さ強くてフルーティーな部分が強くて著名な香水に入れてある。 
②チィー系(中国系) 大花香好季
この二つが大きな親となってひとが人工交配を重ねてきて、香りの種類も非常に複雑になってきた。
モダンローズの現代薔薇の元になるオールドバーデンローズに進化して1867年 ラ・フランスという品種を作った。
ラ・フランス ハイブリットティー系のローズ これには中国の薔薇が入っている。
四季咲き系(中国の系統)の薔薇、現代薔薇のほとんどに入っている。
ヨーロッパの薔薇と中国の薔薇が合体したもの、それが今の薔薇にある。

日本のバラにも重要なものがある、野いばら(ロサムロチフローラ) 小さな花弁
日本からヨーロッパに渡ってあたらしい系統が進化して行った。
はまなす ダマスク系のもの。(耐寒性) 西洋に持って行ってそれを親にしてあたらしい品種ができている。
蔓薔薇とか日本の野生種も活躍している。
香りは10種類ぐらいの原種が元になっているということが判ってきている。
鈴木省三さん 薔薇園の研究所長 
1981年 オールドガーデンローズとか原種の管理植栽してあって共同研究する事になる。
なんで香料と生の花は違うのかという素朴な疑問があった。
かれは違う成分が何かあると直感した。
ティーの香りのティーローズエレメント (ジメトキシメチルベンゼン)が自然界にある事を掴んだ。

7種にはミルラ ダマスクモダン ダマスククラシック フルーティー ティー スパイシー ブルー。
ブルーは神秘的な奥ゆかしい奥深さを感じて、まだ見つかっていない、未知の成分があるのではないかと思っている。
あたらしい成分は一昨年、ブルーローズから2つ見つかったという報告がある。
99.9%は確定しているが0.1%のところに数百成分未知の成分がある。
鈴木省三さん 千葉に研究室があったので、連絡を取り合い分析をする。
分析に1.5時間かかるが、花を10個以上カットしてくれるので、翌朝まで掛かることを春秋の開花時期は4~5年はずーっとやってきました。
1000種類ぐらいはやりました。
7種類のタイプの薔薇を50株ずつ植えて、開花の時には手伝ってもらって花を取って分析もしました。
本来の研究とは違う薔薇の栽培にも手を付けました。

アメリカの協会に「モダンローズ」という薔薇の戸籍簿と呼ばれた本があり、品種名、系統、色、香り
などが書かれている。
纏めてほしいと言う事で香りのところだけを纏めたりしました。
200成分を10の香りのものに振り分けるが、円グラフパルファム図を中村祥二さんと一緒に作ったが、これが世の中に大分出ていて、香りの表章マップ、香りを視覚化したと言う事で世の中に出回っています。
薔薇は他の植物と違って文化、歴史がある。
人間の嗅覚そのもののシグナルとして、取れるようになると思うので、そうなればパルファム図も又違った視覚化ができると思う。
いつか薔薇のミュージアムができてくるといいなあと思います、それが夢です。



2016年5月25日水曜日

蓬田勝之(パフューマリー・ケミスト) ・バラの香りに魅せられて(1)

蓬田勝之(パフューマリー・ケミスト) ・バラの香りに魅せられて(1)
家の庭先などで薔薇の花を見かける季節になりました。
蓬田さんは香りの専門家、大手化粧品会社の香料、香りの原料を分析する研究所に長年勤め、ジャスミン、蓮等の花やスパイスの調査などを行ってきました。
薔薇に関しては1000種類以上の品種を分析し、それまで知られていなかった化学物質を発見するなど研究の第一線で活躍しています。
紀元前5000年頃というはるか昔から人々に愛されてきた薔薇の香りにはどの様な秘密が隠されているのか、伺いました。

パフューマリー・ケミスト 私が適当に付けた名前です。
早期退職をして、名刺に書き入れました。
パフューマーは「香調師」 あたらしい香りを材料を組み合わせをしたり、その人の感性で作り上げる仕事をする人。
入社筆記試験のほかに香料を嗅いで、マッチングテストをしたり、濃度の順番にならべるテスト等を行って香料研究所に配属されました。
石鹸、口紅などに向いた香りを作る仕事。
助手みたいな形で入ってやってました。
天然香料 700~800種類、 合成香料1000~1500種類、調合香料を合わせると無数にあります。
古い香料を捨てるように言われたが、とっても旨そうな匂いだったが、嘗めてみたらとっても苦かったことがあります。
口に入る食べ物は全て香りが作れる状況にあります。(海苔、梅干しなども)

3大花香 ①ジャスミン(香料の王様) ②ローズ(女王) ③スズラン(お姫様)
ローズが重要で、ローズが水中に入ると他の香料と相性が良くて上手く結び付けてくれる。
ジャスミンにはそういうことはない、使える範囲が少ない。
薔薇は香水の高級感を高めてくれる。
香料の研究は薔薇で始まり薔薇で終わると言われる。
薔薇の研究はしているがジャスミンの香りの研究はあまりしていません。
薔薇が美しいと古代の人が言ったが、香りが違う事が判っていた。
香りのない薔薇は笑わぬ美人に同じといわれる。
以前は花の形を重視して交配してきたが、園芸界は香りは第一義的になってきた。
嗅覚で判断してきたが、ガスクロマトグラフィーという装置がでてきて、分析機にかけると臭いのおかしな成分が入っているかが判る様になった。
感度のいいものがでてきて、臭いで嗅ぐことと成分分析と合わせて、データを取って、融合させて今までにない様な蓄積をして来る仕事をするようになってきました。

臭いは専門の用語がない。
ヘレン・ケラー 3重苦だが大人の人の香りは人格の臭いがそれぞれ違って面白いという言い方をした。
アロマコロジー 芳香を意味するアロマ(aroma)と、心理学のサイコロジー(psychology)を組み合わせた造語
人の生理のデータ ストレスホルモン、心拍、脳波などから微細な違いが判ってきた。
ホメオスタシス 
皮膚に対して薔薇の香りはどうなんだという研究をしたいと言う人が現れたが、いい香りの或る成分がまず脳にきて、皮膚の一番上に角質があるが、健常人は何日かで入れ替わるが、ストレスがあると荒れる。
お化粧乗りが悪い時はストレスがかかって乗りが悪い、その時に薔薇の或る成分が入った香りを嗅ぐと、嗅がなかった群と比べて、皮膚の機能を回復するデータがでてきた。
ガスクロマトグラフィーはものを分離する事が一番最初にある。
出てきた成分を私たちが嗅ぐ、微量な成分がひょいと出てくると、薔薇の或る特有な成分だと嗅覚が判るので、機械と人の融合で私たちは香りの研究をしてきている。

味では甘い成分としょっぱい成文が混ざると甘しょっぱい味になるが、香りはある成分とある成分が混ざると違う質になってしまう。
美しい香り 美しい絵、音楽と同様に美しいと感じる香りの配合とかがあるのではないかと興味がある。
万人がいいと言う様なものがあるはずだという事を意識しながら、調香をという事をやっているはずで、こういうのも面白い仕事だと思います。
日本民族はお香の文化があり、欧米人と違う文化 DNAをズーと引き継いでいるのではないかと思う。
ブリーダーの皆さんと話して日本人の感性で美しいと感じる薔薇の香りをこれからは作って発信しなくてはいけないと皆さんそう思っています。
日本人の感性の琴線にふれるような美しい香りはどういうものか試作して作ってみて応答を聞いてやり取りして作り上げて行こうと思います。
「美」 羊に大きい 羊の群れを見て大きな羊がいて、大きな羊は神にささげるのにふさわしいと言う事で語源があるそうです。
「something gereat」「偉大なる何者か」 そういうところに持っていくと受けいられるような臭い、そういう美しい香り。 
美しい香りを薔薇でそういうものを生み出したい。

桜、蓮、菊とか欧米ではいい香りではないものを日本人は良いとすることがあり、そういう香りを見つめ直して、自分で美しいと思う感性を薔薇の中に入れ込んで、自分なりの美しい香りを作って行けばいいんだと思います。
自然の薔薇の香りをよく嗅いで、手で温めてあげたりすると香りは出てくる。
薔薇には香りのないものはないと言われている。
薔薇の香り 「家庭で仕事に追われて疲れてしまうが、そちらの作った薔薇の香りを嗅ぐと女性としてのスイッチがオンになる」と言ってくれた女性がいて、又前向きな姿勢に成れると言われて、その言葉に感動しました。














2016年5月24日火曜日

亘 和彦(一粒の種 会)    ・ふるさとにホタルの光を

亘 和彦(一粒の種 会)    ・ふるさとにホタルの光を
69歳 千枚田と農村歌舞伎が残る中山地区は、今から40年前この地を襲った台風で甚大な被害を受けました。
山が崩れて川を覆いそこに生息していた蛍が姿を消してしまいました。
それに気付いた亘さんは30年前ただ一人で掃除をはじめました。
土砂の撤去雑草取りなど水が綺麗になる様に黙々と作業を続けました。
蛍の餌のかわになを養殖し、えさの与え方、水の温度等独学で10年間続けた結果昭和61年源氏蛍が誕生しその後 1000匹、5000匹と増やしてゆくました。
北海道から九州からも蛍見物のお客さんが1日1000人集まる様になりました。
今年も源氏蛍が飛ぶ季節を迎えようとしています。

小豆島町中川地区に殿川が流れています。
里山の生き物には蛍、むかで、蛇、蜘蛛、オオムラサキも見られる。
里山の生き物が一つ壊れると生態系が壊れて、長い年月に生物がゼロになってくる可能性もあります。
私が小学校の時には子供がたくさんいました。
今から40年前この地を襲った台風で蛍がいなくなって、せめて昔の原風景を取り戻して、蛍が飛んで良かったなあという恩返しがしたかっただけです。
台風では自分の家も流され人も38人が亡くなりました。
川がえぐられて、急な流れになってしまったので、蛍が住めなくなった。
コンクリートで綺麗にしてくれたが、気が付いた時には蛍、ウナギ、沢ガニももずく蟹もいなくなってしまった。
これはいかんと思って一人で取り組みました。

一人で黙々と川を綺麗にするためにやってきました。
妻には着物も買ってやれずに、付け物一つで飯を食って、今日働けて良かったねと言ってくれて、20年掛かってやってきて、青年会議所、ロータリーの人達が手伝うという様になりました。
平成4年には自信をもつようになりました。
エコと生物多様性が取り上げられた。 TVで洗剤を使わない様な取り組みが放映したりした。
周りから見れば変わっていると言われたが、乗り越えるのには、涙が出るのう、騙されてねたまれて・・・・言いたくない。
くやしい思いを乗り越えられたのは、恩返しや、俺がここで生を受けた時から宿命に思われたのかもわからん。
蛍が住める環境が大事だよと言っている。
元の川になったら蛍は来ると思った。
蛍の研究をして、失敗ばっかりして自分で仮説を立てながら検証して、又仮説を立て検証してやりあげた。
60万円かけて飼育場をつくって評判になって成功した時にはあらゆる人が褒めてくれた。
平成16年ごろは辛かった。
初心にあった時の感動とか、謙虚さがあったが、ロータリーや、青年会議所からご飯の招待があったり、町会議員等が取り組んだことを説明してくれと、聞かせてほしいとの要望がいろいろあり、取り組んだことを話して、引っ張りだこになり自分が有頂天になった。
身体障害者の人達が蛍を放流して、車椅子の人達が一杯見に来た。
・・・あのときは泣けたのう。 初めにあった謙虚さや、感動もの・・・ やっぱり俺は馬鹿や、その時初めて子供に対してわし悪かったのうと心を入れ替えた。(・・・部分 聞きずらくて不明)
それから自分は変わった。(平成18年)

古典文学を学んで、方丈記を1章から7章まで1000回も読んだ、特に第6章など感動した。
偏っていた心を是正した。
貧乏のつらさを貧乏を楽しみに変換したこと。
貧しいものでも付け物一つでも楽しく食べるようになった事、目の前に鴨長明(妻)がいた。
北海道から九州からも蛍見物のお客さんが1日1000人集まる様になりました。
平成12年5月7日蛍が飛び出した。
幼虫が水から上がってきて35日目に飛ぶ。
「一粒の種」は、25~30年も活動して付けた言葉で、蛍も同じように考えた。
草がいっぱいあって刈っていたら看板に頭を当たって倒れたが、家に帰っておかしいなあと思ったら動けないようになって脳梗塞だった。
言葉が巧くいかなくて一日2時間声の練習をするようになり、しゃべれるようになった。

漢文でも自分で大きな声を出したり、白楽天杜甫李白張継、にしても時間のある限りやっています。
今は吾妻鏡、平家物語なども書けます。
義経記(ぎけいぎ)は書けないけれど部分的には言えます。
今でも思うのは粗末なものでも美味しく食べてくれるというのは妻は凄いと思う。
夫婦は誉めたりけなしたり、腹をたったり笑ったりするのが夫婦だと思う。
蛍は今、ゼロに近くなってきました。
一時期何万匹になったが、護岸工事で全部コンクリートになり蛍がいなくなってきてしまった。
故郷を守りたい。
守ってゆく過程の中に蛍がいて、トンボがいて、という事にしたいが、共存共栄は綺麗な言葉であって実際はそうならない。
去年飛んだのが48匹だった。
今は源氏蛍から平家蛍に交換しています。

蛍が住めるような条件を作ってやって、流されることはしょうがない、蛍にお前らも頑張れと言って、小学生にも一緒にやってくれます。
生き物たちに手を貸せる様な人間になってもらいたいと思うのが望みです。
育った子供が千葉に行き、千葉からから放流させてほしいと毎年来るようになった。
この地区に恩返しができたことは俺の最大のメリットだと思う。














2016年5月23日月曜日

是枝裕和(映画監督・TVディレクター) ・家族をテーマにする理由

是枝裕和(映画監督・テレビディレクター)  ・家族をテーマにする理由
「誰も知らない」、「歩いても歩いても」、「奇跡」、「そして父になる」、「海街diary」等家族をテーマに多くの作品を撮っている作品として知られています。
昭和37年東京生まれ、 53歳 早稲田大学卒業後、番組製作会社に入社し、TV番組のアシスタントディレクターをしながらドキュメンタリー番組の演出を務め、32歳の時に「幻の光」で映画監督としてデビューしました。
その後日本だけでなく海外でも様々な賞を受賞して、高い評価を受けています。
「誰も知らない」では第57回カンヌ国際映画祭で柳楽優弥さんが最優秀男優賞を受賞、「そして父になる」では第66回カンヌ国際映画祭で審査委員賞を受賞、「海街diary」では日本アカデミー賞で最優秀作品賞、最優秀監督賞など多くの映画賞を受賞しています。
最近上映の「海よりもまだ深く」では、カンヌ映画祭の「ある視点」部門に正式出品されました。

「海よりもまだ深く」は「海街diary」と並行して撮影しました。
話を考えることからやって行く事に拘っていて、脚本と編集は撮影をしながら脚本を練り直して、編集をしながら翌日の撮影プランを考え、そこでまた脚本を書き直すという事で、同時進行で3つ作業が進んでいるので、自分ではそこに全て関わっている関係上切り離せません。
撮影が始まって2~3日すると撮影の夢しか見なくなります。
撮っている間は楽しいですが、編集も楽しいです。
「海よりもまだ深く」は、歌では主人公とは最も離れたテレサテンの歌「愛人」にしました。
阿部寛さん 樹木希林さんを想定して脚本を書いたので断られたら映画自体を辞めようと思いました。
2008年の「歩いても歩いても」でも親子をやっています。
歳を重ねたところでもう一度、もう少し主人公が歳をとったところで、人生のゴールが見えてきた様な段階のシチュエーションで家族の話をというふうに考えました。
主人公は15年前に受賞した作家で、その後芽が出ずに探偵事務所で働いている50歳代。
息子を見守る母親が団地に住む、夫を失った人(樹木希林)
元嫁がいて息子を連れて家を出て行ってしまっている。
主人公は月に一度、別れた息子と会うだけの元夫、元父になりかけていて、その現実が受け入れられない。
元家族が台風の晩にたまたま集まったその家族が家に帰れずに団地で一晩を過ごすという話です。

自分が実生活で感じた実感、疑問、発見から映画を立ち上げてゆく、なるべく足元から離れないつもりでやってきました。
清瀬市の旭ヶ丘団地が舞台での話。
私自身が一番長く住んだ町ですが、撮影するのにはいろいろ許可が降りるまで苦労しました。
9時には完全停止という条件で始めましたが、時間が無く夜の場面を撮るのに苦労しました。
カンヌ映画祭で正式出品 「ある視点」部門 斬新な方法論とかどういうものがある視点なのか判らない部分がある。
例年だと3000本とかあるが、ローカルな日本のホームドラマがここに選ばれて招待されるのは珍しいので有難いと思っています。
カンヌ映画祭の出品は6作目となります。
第8回伊丹十三賞をいただきましたが、身が引きしまる思いです。
冷徹に編集機にむかうのが、監督はなかなかできなくて、本当はプロの編集者に任せた方が多分短くなると思うが、編集が好きだということはあります。
昔撮った痕跡を残したいと言うことはあります、後でいじりたくないという気持ちがあります。

昭和37年生まれで現在53歳、老成した子供でした。
子供らしくないと言われました、やんちゃをしない、学級委員をして、優等生でした。
姉2人で末っ子の長男ですが、家族の中のポジションは大人になっても引きずりますね。
姉の歳が離れていたので母が3人いる様な感じでした。
小学校のころはプロ野球の選手になりたかったが、本当になれるとは思っていませんでした。
高校に行くころには小説家になれればいいなという様な思いも漠然とありました。
中学、高校はバレー部でセッターをやっていました。
監督をやってセッターと同じようだと思いました、役者はアタッカーなのでフォーメーションを考えながら、それぞれのいいところを生かして6人で回してゆくという感じは近いなあと思いました。
早稲田の文学部に入り、直ぐに映画館通いが始まり、映画に興味を持ち始めて脚本を書く様になりました。
映画監督になる資質はコミュニケーション脳力が高い方がいいと思います。
最初は全くコミュニケーション能力は無かったが、ドキュメンタリーをやることによって、交渉、説得、信頼してもらう等いろいろ体験して良かったです。
フィクションだけやっていると人間関係が閉じてくる様に思う。

1995年に「幻の光」で映画監督デビュー。(32歳)
これで多くの賞を取る。
次が撮れるかどうかの瀬戸際だったので、これで次が撮れると思いました。
2作目が「ワンダフルライフ」 ドキュメンタリーとフィクションが一つの映画の中で衝突する様な実験的な映画。
4作目が「誰も知らない」
第57回カンヌ国際映画祭で柳楽優弥さんが最優秀男優賞を受賞。
オーディションで選んだ子供たちなので、覚悟を決めてこの子達と1年付き合うぞと決めて付き合っているので楽しかった、贅沢に時間を使えた。
子供達も自然な雰囲気を出せるようにしました。(台本を渡さないで口伝えで行った)
2011年「奇跡」でも子供が大活躍。
2013年「そして父になる」では第66回カンヌ国際映画祭で審査委員賞を受賞
この時も台本を渡さずに現場でやりました。
子供には福山さんが面倒を見て福山さんだけを見る様に仕向けました。

早稲田大学でTV論と、学生と一緒に映画をつくることを1年かけてやりました。
学生が初めてカメラを使って撮った時にどういう時戸惑うとか、どんなことが判らないとか、新鮮な気持ちになれました。
監督では侯孝賢(ホウ・シャオシェン 台湾の監督) 映画に向き合う姿勢に影響を受けました。
TVのDNAが色濃くあって、脚本家の山田太一さんとか向田邦子さんとか、久世光彦さん、鴨下信一さんとかの方の影響の方が色濃いかも知れません。
海外では小津安二郎監督の孫だとよく言われたりします。
小津と貴方は時間が直線的に流れていないといわれた、円環で、父が死んだり母がいなくなったり誰かが結婚したり、子供が生まれたり、人間は入れ替わるが、街は続いてゆく。
「ゆく川の流れはたえずして、元の水にあらず」、そういうものを描いてる感じが似ていると言われた。
そういう意味で小津と似ていると言われれば、納得します。



2016年5月21日土曜日

田中丈裕(里海づくり研究会議)  ・海に森をつくる

田中丈裕(NPO法人里海づくり研究会議 事務局長)  ・海に森をつくる
62歳 岡山県のNPO法人里海づくり研究会議 事務局長。
大阪生まれ、大学で魚類学と栽培漁業を学んで昭和54年岡山県水産課の職員になりました。
しかし田中さんが直面したのは瀬戸内海沿岸の開発と海水の汚染による漁獲量の減少でした。
調べて見るとアマモ呼ばれる海藻、海草が生えた場所、アマモ場が激減していることが判り、昭和60年地元の漁師さんとアマモの種をまく活動を開始、次第に魚たちが戻って来ています。
海にアマモの森を作り牡蠣の養殖と組み合わせて里山ならぬ里海を造る取り組みはいまや国内だけでなく世界の海に広まっています。
田中さんは水産課長を最後に退職し、平成24年、NPO法人里海づくり研究会議をつくって引き続き民間の立場でアマモ再生と里海作りにかかわりその普及に努めています。

一時ヘドロの海だったところがアマモに変わっている。
春から初夏にかけてあまもの草丈が伸びて行って、茂ってゆく時期です。
米子湾、一番戻したい最初に育ててきた場所、一時は泥の海になっていたが、今は海の森が生い茂るようになって、透き通った海面になりました。
もう少しすると2m位になります。
アマモはいね科に近い植物で、海草と呼ぶことが多いです。
びっしり生えるので、流れを弱くして瀬の様な海域を作るので隠れることも出来、安心して過ごせる場所、えさ場にもなります。
大量の酸素を生みだして周りに高濃度の酸素を含んだ水を供給しますし、木陰を作るので水温の異常上昇を抑えたりしてくれるので、快適な場所を作る。
窒素、りんを吸収してくれて、赤潮を抑制してくれたり、水質をいい状態に保つ。
秋になると枯れて流れ、その葉っぱが広がって行って、色んな付着藻類が付いたり、動物が増えたりして栄養分を再配分するような役割も担っています。
温室効果ガスと言われる、二酸化炭素を吸着する役割が非常に高い機能を持っているので、その役割も注目されています。

子供のころから海が好きで、本に出会った。「土佐の魚たち」 著者が落合明先生。
先生にあこがれて高知大学、大学院に行き、研究がしたくて、岡山県の水産課の職員になりました。
赤潮が頻繁に発生していて、年間300件位起きて、養殖はまちが大量死するとか、一時は瀬戸内海が死の海と言われた時代だった。
だが瀬戸内海の漁獲量が一番だったのが昭和40年代後半だった。
当時プランクトンが増えて、イワシ類が非常に多かった。
のり養殖でも沖合でも取れるようになり、のりの生産量が増えていったし、牡蠣の生産も多くなった。
生活用水が海に入って栄養が豊かになり、窒素、リンが増えすぎていって赤潮が発生する悪循環が繰り返す様になる。
干潟、藻場が開発行為、干拓に依りずいぶん減って行って、有機物を捕まえて生物に置き替えてゆく、循環させる場所も減って行った。(昭和30~50年代)
昭和20年代まで 岡山県ではアマモ場が4300ヘクタール、干潟が4100ヘクタールあったが、昭和50年代後半までに9割が無くなった。
瀬戸内海全域でもあまも場、干潟ずいぶん減って、その後にそのことが原因で漁獲量が減って行った。

中高級魚(鯛など)が少なくなってきたのは藻場のせいだと最初に言ったのは日生(ひなせ)の漁師さんたちでした。
本田和士さんと出会って、当時は栽培漁業が華やかなころで、海老、蟹、真鯛とかいろんな魚の子供を放流していた時代でしたが、いくら魚の稚魚を放流しても住み場所がなければだめだと言って、アマモ場が無くなってしまっているので効果がでないと、言われてそれがきっかけになりました。
日生(ひなせ)だけで590ヘクタールのアマモ場があったが、12ヘクタールになり、その後5ヘクタールまでになり1/100になってしまった。
昭和54年ぐらいから岡山県の水産試験場がアマモ場に危機感を持っていて、アマモの種を取る技術を開発して、1985年にできて直ぐに撒きはじめました。
漁業仲間19名と何とかしたいと思って始めました。
僅かなアマモ場からアマモの花を摘んで、袋に入れて秋までつるして種が成熟したら何回も海水で洗って、健全な種だけが沈んで残って、生えそうな場所を選んでその種を海にまきます。

最初の年は15万粒しか取れなかったが、毎年繰り返しました。
藻場が無くなると環境が変化するのでなかなかうまくはいかないが、最初の年に蒔いたものが一か所だけ生えたがそのほかの15か所は全部駄目でした。
そこに毎年蒔いて行きました。
光の量、波の当たり方、海底の低質(砂、泥、砂泥とか)、など複雑な要因が絡んでいます。
3年目 1998年に水のろ過に使うゼオライトという低質改善材を撒いてみた。
そこに種を蒔くとそこにだけ生えたので、その後低質改善に効果的なのかどれかをいろんなものを研究しました。
1990年から大学の研究者も入って研究してきました。
最終的に牡蠣の殻がいいことが判りました。
2006年に牡蠣の殻を海に使える様なルールを作りました。

残っていたアマモの小さな群落を調べると、ほとんど例外なく牡蠣殻があった。
牡蠣殻はアマモだけではなく、海底に生きる小さい生き物を沢山増やしてくれる効果も後に判ってきました。
思いつく事は何でもやって、最初の20年間は行きつ戻りつの状態でした。
1985年から始めて1997年にかなり戻って目に見え始めて20ヘクタールまで戻ってきました。
米子湾でも6.8ヘクタールまで増えてこれで大丈夫ではないかと喜んでいたら、1997年7月26日に9号台風が来て、せっかく回復したアマモ場が全部流れてしまって、その時は本当にショックでした。
ここで止めてしまったら駄目だと言う事で、一念発起して始めてその後お陰さまでじわじわ増えてきて2005年平成17年 38ヘクタールまで戻りました。
翌年は56ヘクタール 平成19年80ヘクタールまで増えて、その翌年の春 40年以上姿が見えなかったモエビ(緑色の海老)が戻ってきた。

消えても消えてもくりかえしてきた漁師さんたちのたまものだと思います。
或る程度の規模まで戻ってくると自分達で増えてゆきやすい環境を作ってゆく環境形成作用があり、米子湾の種子の形成度が格段に多くて、環境を整えてゆく事と、種子の供給が多くなってゆく事でどんどん増えてゆきました。
更に種を蒔きはじめる
1985年~2013年 約30年間蒔き続けて種の数が1億粒をこえました。
2011年には200ヘクタールに戻りました。
2015年に250ヘクタールになり、今年はさらに増えると期待しています。
里海は1998年に九州大学の柳哲雄先生が作って提唱した言葉と概念です。
日生は里海作りのトップランナーと言われています。
瀬戸内海の広がりが日本国内に広がり世界にも広がってきています。

日仏海洋学会があり、フランスに呼んでいただいて、日生の里海の事、笠岡(カブトガニの繁殖地)の海洋牧場について発表しました。
海のお世話をしながら魚を育てておこぼれを頂戴するのが本来の姿ですよ、言う事を云いましたが驚いていました。(農業者みたいだと)
しかしこれから考えていかなければいけないことだと言われました。
じわじわ広がってきています。
柳先生の教え子が、インドネシアで海老だけを養殖していて自然環境の害になり、魚を含めた生態系に近い組み合わせの養殖法での里海構想を政策として進めていると聞いています。
平成25年に環境大臣賞表彰される。
漁師さんがやって来たことを、岡山コープさんが一緒にやっていただきました。
日生中学校の皆さんも一緒に、流れ藻がプロペラにからみついたり、海岸に打ち寄せられた藻が臭いと言う事で、これを解決するために手伝っていただきました。
今は流れ藻の回収がそのまま種子の採集になっています。
今年で第9回 「全国アマモサミット」2016が日生で行われ実行委員長を担当、アマモ場を何とか回復させたいと言う人達が一堂に会する、又地域が元気になる様な趣旨もあります。
時代に引き継ぐ、子供、孫と代々に豊かな海を残したい。








2016年5月20日金曜日

多田 宏(武道家)       ・武術の神髄を探る

多田 宏(武道家)       ・武術の神髄を探る
昭和4年東京生まれ 86歳 子供のころから武術が身近にある環境で育ちました。
早稲田大学入学と共に空手部に入り、その後植芝盛平の合気道に入門します。
そこには少学生時代に父親の友人である武道家が植芝盛平は当代一の武道家だと、そう話していたのが強く印象に残っていたと言う事もあった様です。
大学卒業後、級友たちが官庁や企業に就職する中で、武道武術研究の道に進むと言う事を決めました。

年3回定期的にヨーロッパに行っています。
イタリアには昭和39年にむこうで会を作って、公益法人にしたいと思って随分付き合いました。
今は100カ国以上に広がっています。
ヨーロッパの畳はゴム製で1m×2mになっています。
合気道の書物が沢山出ています、植芝盛平先生の言葉とか、みんな翻訳されていて良く知っています。
江戸時代の芸術は武術、特に剣術の本です。
2011年東日本大震災の1カ月後にイタリア復活祭の稽古に入った時に書かれていたのは、震災で日本人の取った態度に大きく心を打たれた、特に少年少女たちが落ち着いていたと。
大震災にもかかわらず商店の前に静かに並んで平静な心を失わない日本人の姿、合気道で習っていた、心学心法の道を知ったという反応があった。
道の中には二つがあり、二つが一本になって道となっている。
①心学の道 儒教を元にしたその時代の社会倫理の道
②心法の道 人間と自然、人間と宇宙の関係を重要視する道

日本人には黙っていても知らなくても出来る人が多い。
オリンピックや世界選手権でメンタルマネージメント、トレーニングの教えは日本の伝統的な古代からの剣術そのものです。
自分の感覚をようくとぎすまして、対象が良く映る様にするのが集中と言います、一生懸命やっているが対象にとらわれてしまうのを執着と言います。
人間の命の力の高め方と使い方にあると、剣術の本に書いてあります。
身体が病にかかった時に心の方はどういう風にしようかと、そういう問題と直接関係するようになってくる。
病を治すには、心を安定させて出来るだけ生命力を高めて、病を治してゆく力を増やしてゆく。
安定(あんじょう) 集中統一三昧 自分の感覚を研ぎ澄ます。
私たちは地球的条件と宇宙的な条件と、二つの条件の中で生きていて、人間関係の道は地球的条件であることがおおい、宇宙との関係がありそっちを大事にすると言うのが老子、荘子が説いた。

家には江戸時代ずーっと昔から日置流弓術竹林派の弓術が伝わっていた。(対馬藩)
曾祖父から父が受け継いで、家伝の弓術を習いました。
曾祖父から教えてもらったことを、父から何気なく話してきました。
「人の技を批判するな」 曾祖父から父は言われたそうです。
他とものを比べるものではない。
人によって解く事が違う、本を読んで、あっちの先生のいいところ、こっちの先生のいいところを取って、ということは一番上達しない道です。
往々にして本というものは最上位の人達の心構えの様なことがでていて、鵜呑みにしてしまうと極意にかぶれるということになる。

植芝盛平先生の本
「武は愛なり」
「合気は万有を愛で結ぶ紐で有ります、世の中は全て愛によって形作られているのであります。
日本の武は決して戦いや争いの道では無いのです。 
全てのものを兄弟としてゆく道であります。
一つの道を貫く為に無欲になって、進まねばなりません。
無欲になった時こそ絶対の自由になるのであります。
世の中はすべて無欲のものの所有になるのであります。」
全ては宇宙の根本の力の変化した力であり、宇宙の力を受け入れて、宇宙の力の法則のままに生かされてその法則を宇宙の心と言ってもいい、宇宙の心は愛である。
武術も愛でなければならない。

700年近く武家政治が続いた、武士は責任を持って、公を主体として、公の為に命を捨てると言う事を日本の武術の技にはっきりとでてくる。
武術は破壊ではなくて世の中を安定させてゆくためにあると、そういう考えが達人で有ればある程あったと思う。
瞑想的な訓練をやってゆくのが日本の武術の条件です。
相手と対等になってはいけない、武道の条件です、相手と競う心になってはいけない。
病と対等になってはいけない。
眼前に敵ありだが、我が心中には敵なし。(心の中に敵がいないから、安定した心の状態)
弘法大師 命の力の使い方、長生き出来るか、元気でいられるか、自分の仕事や学問でも幅広く取れるか、専門の分野で深い状態を探究できるか。
植芝盛平先生は私から見ると神道の行者ですね。
大学在学中に、植芝道場に入門し、植芝盛平植芝吉祥丸に師事する。 その後、天風会・中村天風、一九会道場・日野正一らに師事する。
植芝盛平先生に初めてお会いした時には、こちらは学生服だったが、帽子を取って、「私が植芝盛平でございます」と非常に丁寧に挨拶されて吃驚しました、今でも鮮明に覚えています。
中村天風先生のところには東郷平八郎、原敬、山本五十六、双葉山等そうそうたる著名人がいた。
中村天風先生はいつ死んでもいいと思っていたが、日露戦争が終わって軍医から肺潰瘍だ、後3カ月だと言われて、死ぬのは平気だろうと言われたが腰が抜けたそうで、死ぬのが怖くなって驚いて、世界を回って3カ月たっても死ななくて、エジプトのヨガ行者にあい、3年間修行して日本に帰ってきて、銀行の頭取をしたりしたが、或るとき心身統一法、医学を研究した。
或る人が30日間断食をしたことを話してくれて、理解できない所もあり私は断食を21日間行う。
水が飲める場所で静かなところで、指導者がおられる所ですが、問題は終わった後、軽い重湯、お粥などを少しづつならして、その後10日ぐらいたつと異常な食欲がでてきてそれを我慢するのが大変、その時に大食すると死ぬことがある。
断食には病がない、心の安定、親しい指導者がいる事が大事です。

86歳になると小学生と同じではないか、武道で一番重要視するのか呼吸法 収気 宇宙エネルギーを受け入れると言う事。
我々の本体は宇宙の本体と一緒なんだと宇宙の子なんだと自覚すれば安定した心の働きでやっていける。















2016年5月19日木曜日

中村英雄(新町川を守る会理事長)・川は見られて美しくなる

中村英雄(徳島市・新町川を守る会理事長)  ・川は見られて美しくなる
77歳 徳島市の中心部を流れる新町川は高度成長期には、工場や家庭からの排水、ゴミなどで汚れ、殆ど魚は生息していませんでした、
中村さんは川の惨状を見かね1990年に新町川を守る会を結成し川の清掃活動を始めました。
中村さんの持論は川は見られて美しくなる。
中村さんたちのひたすらごみを拾いつづける活動は共感を呼び、10年ほどたったころから川は見違えるように綺麗になってきました。
中村さんは川から見る徳島の街の美しさを多くの人に感じてもらおうと、ひょうたん島周遊船を始め1年に5万人が徳島の川と水の美しさを体験しています。
川を守り水を生かした街作りをどう進めてきたのか、この先目指すものは何か伺いました。

靴の販売の仕事をしています、4店舗あり革靴が主です。
新町川は吉野川(194kmある)の支流。
ひょうたん島は新町川と助任川に囲まれた一周6kmのひょうたんの様な形になっている。
昔は新町川は綺麗でした、泳げましたが、昭和40年ぐらいから汚くて消臭剤などを撒いていました。
30ppm以上はあって魚は住んでいませんでした。
昭和54~5年頃に徳島青年会議所が余りに汚いので掃除した時があるが自転車が200台位でてきました。
徳島市の阿波踊りは夜はにぎわうが、昼間のイベントを何とかしないといけないと、アイデア募集があり、私は新町川で筏レースを提案しました。
満潮の時にスタートするところが、ごみがいっぱいあって、へどろで川が真っ黒になって何とかしないといけないと思った。
平成2年に新町川を守る会を作って川の清掃をしてゆきました。
当時10人ぐらいでしたが、そのうち今は5人残っています。
出来る人が出来る時に出来ることをと言う事でやっています。
毎月1日と第3土曜日にやりますが、私はこの間休んだのは1回か2回位です。
私はごみを取ろうとする時に、川には3~4回は落ち込んでいますが、大きな事故は無かったです。

効率の悪い清掃作業ですが、続けているうちに市民の方で放り込まないようにしようとする気持ちがでてきます。
東京、大阪などでは大きな船で業者が掃除しているが、あれでは放り込まない様にしようと言う気持ちはでてこないと思う。
ごみを放ったりするのを見て、いかんと怒ったりすると、逆効果になるし、黙々と拾ってゆく事が川を綺麗にする。
背中で見せてゆくと言う事が物凄く大事だと思います。
2~5年ではだめだが10年すると物凄く違ってきます、市民の見る目も変わってきます。
建物も川の方を向いてきます、窓も川の方に出来てきて、川の方に向いて家ができてくるようになります。
川の水質が良くなってくる。
川の縁がヘドロだったのが、砂が溜まってきます。
綺麗になってくると川に愛着を感じます。
行政の方でも、市とか県の新人研修に川掃除が入っています。
女優は見られて美しくなるが、川も見られて美しくなる、見てもらうと言う事は物凄く大事です。
川に人が集まる様にやっています。(イベント 寒中水泳とかライブとか)

新町川を守る会の会員は300人になりました。
県外からも20人ぐらいいます。(東京、岡山とか 年に1回位来ます)
会費は年間3000円です。
年に10人位増えています。(30人が新たに入って、20人位が退会)
若い人が増えている。(海外の人もボランティアに参加します)
日本の川を綺麗にしたいと言う思いがある。

ひょうたん島周遊船を1994年から始めましたが、最初は第一、第三の日曜日に出そうと言う事で9人乗りのボートで年間200人ぐらいでした。
川から見ると街の視点が変わる、綺麗に見えて、それが行政に反映されるので、見てもらうと綺麗になる。
市民に乗ってもらって自分の街を見てもらって綺麗だとなってくると、行政も力を入れてくる。
現在1年間で5万3500人が乗っています。
大人が200円子供が100円と言う事になっています。
事故があったら大変なのでいろいろ気を使います。
徳島は川が多いので、川を生かして地域作りをしたいと思っています。
吉野川サンセットクルージング 鳴戸へ行く船も出しています。
運航経費はボランティアでやっているので市民も応援、行政、企業も応援してくれ船を寄付してもらってます。
運航経費は市民から寄付をもらっています。
市からは年間300万円を出してもらっていますが、修繕費などを含めて経費は1000万円以上かかります。
花植えでも年間600万円掛かりますが、市民の寄付でまかないます。

川が綺麗になる、道路が綺麗になると市民の意識が変わってきます。
住民が主体になってやってゆくと、行政、企業が必ずついてきます。
掃除は手段であって、将来どんな街にするのかという事が大事です。
朝5時~夜9時まで川とか道路にいますが、良くなってゆきます、自分でも感動する様なことがあります。
まだまだ良くなってゆくと思います。
川を使っていろいろなところに行けるようにして行きたい。
はも等徳島のおいしいものを食べれる様な事をして行きたい。
100歳までいって、船を運転して、その間に後継者を作りたい。






















2016年5月18日水曜日

白旗眞生(Kiitos代表)     ・子どもたちの”止まり木”に

白旗眞生(NPO法人 青少年の居場所Kiitos代表) ・子どもたちの”止まり木”に
東京調布市のマンションの一室に生きづらさを抱えた若者およそ270人に居場所を提供している青少年の居場所Kiitos(フィンランド語で「有難う」)というグループがあります。
このマンションには毎日平均して20人位の子供、年齢12~30歳の方が通って、勉強、相談事始め、必要と認められた場合は昼夜2食の食事を無料で提供しています。
子供達の止まり木になりたいと、6年前NPO法人 青少年の居場所Kiitos代表の白旗さんに伺います。

Kiitos(フィンランド語で「有難う」)は友人から頂きました。
中学1年生から30歳まで、生きづらさを抱えた若者達の居場所です。
子供たちに安心していられる場所を家の様なところを作りたいと思いました。
ゆっくり羽根を休めて、巣立って行ってほしいと言う希望もあります。
子ども家庭支援センターから重い家庭の状況などのいろんな理由で食事をさせたいとか、教育委員会からも同じように、連れてこられたりします。
学校と連携したり、家庭と連携したりして、そんな中から子供を連れてきます。
子供から積極的に来ると言うことはないです。
ここは4DKです。
朝の11時~午後6時までです。
貧困だけでなく、夫子家庭で食事ができないとか様々な事情を抱えた子供達です。
不登校の子供、仕事をしている子で休みの日に来たりします。
6年経ちまして、就職に関してもなかなか順調ではないです、スタッフが応援しながらやっています。
母子家庭、夫子家庭、母親が精神を病んで寝ている家庭、父親がリストラで仕事がない家庭とか本当に様々です。
コンビニの弁当を食べていたり、2日に1回しか食べられない子がいたりします。

両親に知らせると言う事はしていません。
インターネットで子供の居場所を調べるとここが出ていて、自分で尋ねてくることもあります。
運営費は人件費は無しで年600万円掛かります。
調布市からは年間180万円もらえます、企業の助成金50万円頂きますので230万円です。
400万円近くは個人の寄付です。
賛助会員、時々の寄付などがあり、ボランティアの人が60人いて食事、学習支援(7~8人)を行っています。
掃除、夕ご飯の後片付け(100枚位食器がでます)をしてくれる方もいます。
事務のボランティア、など様々な分野のボランティアをしていただいています。
子供達は隣接している市などからも来ています。
20代の人達は家から出られない、ひきこもりで何か居場所を探してきます。
20代になると世の中の役に立ちたいと言う気持ちがあり、行ってみたいと言う事で、実は居場所として行きたいと言う様な感じで、何かできることはありますかという事が多いです。
子供が学校に行かなくてどうしたらいいかという保護者の方からの電話も多いです。
お母さんが楽になればいいと思ってお母さんの話をきく事もあります。
20代の後半の人は人に慣れることにもなり、人の役に立ちたいという気持ちがあります。

最初中高生の児童館の相談員をしていて、そこは18歳で終わりで、18歳の子達はどうするのかなあと思って、Kiitosを始めてその子たちが10人位来ていました。
食事のこと等考えてなかったが、食事ができない子たちだと判ってきて、食事を作るようになって、
子供達が辛い思いをして生きてきているので人を気遣う、思いやると言う事は無くて、私たちがそうしてやることによって、何年かするうちに段々と自分も人にたいして気持ちが優しくなると言う様なことだと思います。
子供たちから教えられることもいろいろあり、お互いに有難うという様な関係です。
ボランティアの人の中には自身が小さい時に両親をなくしたり、生きづらさを感じた人達が何人も来ています。
この6年間で子供たちに教えられながら、それをどうやって運営に反映してゆくか、そんな状況でやってきて、福祉の様な臭いがしないと言われます。
ボランティアの人達の中でのもめごとは無いですかと聞かれますが、まずないですね。
どうやって大人になっていいか判らず、いろんな人がいて、こんなおばちゃんになりたいとか、こんなおじちゃんになりたいことから始まりますので、ボランティアをやっている側からしても嬉しいです。

大学では音楽を専攻して、子供にピアノのお稽古をしたり、長い間子供と関わってきて、とてもいい経験をさせてもらいました。
4歳~18歳までの成長を観ることが出来ました。
障害のある子供たちも来てくれて、ピアノを習うと言う事よりも、楽しく過ごしていて、心理を学んだ方がいいかなあと思って、心理の勉強を40代の後半に大学に行って学びました。
たまたま発達障害の介助の依頼があり、何回も断ったが、或る学校にその子と一緒にずーっと行って2年半過ごしました。
大学の先生から調布の児童館の相談員を探しているので行ってみないかと言われて、行きました。
そこで18歳以上はどうなるの、という事からKiitosにつながる訳です。
基本は家族ではないでしょうか。
子供を見ていると家族はいる、家庭もあるわけですが生きづらくて、子供が経験しなくていいことをたくさん経験する。
養護施設をでた子供が同じ言葉をはいたんです、「親を探して殺したい」と言うんです。
普通はそんなことは考えてはいけないと言うかもしれないが、私は「そうだよね、そういう気持ちになっちゃうよね」、と言って、彼等としては共感してもらえた。
正しい、正しくないではなくて、そこからが、その子供達が詰まらないことを考えてしまったと後から、詰まらないことをいっちゃったなあと気付いてほしい。
時間はかかるかもしれないが、気付いてもらう事を待ってあげること、そこが大事だと思います。
「お前なんか生まれなければ良かった」、「お前なんか死んでしまえばいい」と言われる子がいて
そういった事、いろいろなことが言える場なんです。
親も或る意味被害者だと思いますが、子供達だけでも負の連鎖をここで切れたらいいなあと思います。
















2016年5月17日火曜日

松尾清晴(元鉄道マン)     ・オートバイで世界ひとり旅(H28/4/1放送)

松尾清晴(元鉄道マン)     ・オートバイで世界ひとり旅(H28/4/1放送)
さいたま市 72歳 定時制高校卒業後、旧国鉄JR東日本に就職、鉄道マンとして37年間働きました。
オートバイとは無縁だった松尾さんですが、55歳の時に同僚に誘われたツーリングがきっかけでオートバイの旅に魅せられました。
一度しかない人生、会社の中だけで終わりにしたくないと、56歳で早期退職、退職金を資金に2000年からヨーロッパや中東、アメリカ、など世界121カ国をオートバイで旅をしています、
その距離は15年間で37万km、地球9周分を越えました。

バイクでの旅が121カ国、オートバイで走ったのは111カ国、島国はオートバイは持ち込めないので。
車掌をやっていました。
40年近く務めたが、車掌を20年やって残りの15~20年は車掌をおろされて、忙しい駅の雑務、応援に行ったりしました。
定年までやっていると、あと20年で80歳になり、あと20年で人生終わってしまうと思って、元気な今のうちだったらオートバイで外国を走れるかもしれないという気持ちが強くなった。
ツーリングに行かないかと誘われてオートバイでの旅に行ったのが55歳の頃でした。
1500ccで浦和から九州佐賀まで、朝5時に出て夕がた7時~8時には家につきました、1200km。
以外と走れるなあと思ってこれなら外国にも行けると思いました。
オートバイは330kg、荷物を積み込むと450kgになります。
倒れると一人では起こせないので、人が来るのを待って手伝ってもらって起こします。

今思えば決断したのが良かったです。
上が高校生の頃で、妻からも反対されたが、最後はあきらめました。
退職した年にまず先にバイクを送って、オランダ、ベルギー、フランス、イングランド、トルコ、ヨルダン、シリア、エジプト等42カ国ぐらい走って、その後北アメリカ、中米、南米、アラスカ、シベリア横断、タギジスタン、ウズベキスタンなど、アフリカも走って、70歳までに2年間ブランクがあったが70歳になって、あまり60歳の時と変わらないなあと思って、2014年からアラビア半島、ドバイ、オマーン、イラン等走り残した国を走ってきました。
2年間で走ったのは2万kmぐらいでしょう。
ビザは一度も断られたことはありませんでした。
例えばロシアからモルドバ、リトアニアに行くときは、もっと手前の国でグルジアでロシアビザを取るとか、その国の大使館に行ってビザを取るので、それが意外とめんどくさい、行くまでが大変です。
英語は話せない、そのほかの国だって話すことはできない、習っていたら人生終わってしまう。
毎日地図を見せて聞いてゆくので、人間を信用するしかない。
慣れてくると地元の人たちとのふれあい、温かさ、話しあいできる楽しさがあります。

前回はアラビア半島のドバイから始めてオマーンに入って、ビザが10日間だった、延長しに行ったが、言葉が判らず期限がきれていて、罰金払ってオマーンにまた戻って、グルジア、イラン、アルメニア、グルジア、コーカサス山脈を越して、ロシアに入るのに黒海沿岸を走ろうと思ったが、国境が
閉まっていた。
戻ってソチを通ろうと思ったがフェリーがなく、グルジアまで戻って、コーカサス山脈を越してロシアに入りました。
チェルノブイリにも行きましたが、今回行った先々でリビアとかで福島はどうかと言われました。
ウズベキスタン、イランではお金が降ろせなくて、手持ちが現地のお金で5000円。
身ぶり手ぶりで一緒に行ってもらった人と銀行と交渉したが駄目で、9万円で買ったビデオカメラを2万5000円で買い取ってもらって、4泊5日なんとか過ごしたことがあります。
眠れない夜もありました。
昔山登りをしたことがあるが、凄く仲のいい人と1週間位縦走した、2~3回行ったが疲れてくると相手の欠点が見えてきてしまい、喧嘩になりそうになったので、オートバイの旅も1カ月、1年続くと、欠点が見えてきてしまうので一人旅です。

今回これが友情かと思う事に出会いました。
オマーンに2カ月いましたが、巧く説明できないが、居心地の良さとは違った、ほんわかした、親切だが、物を取られると言うのがすくない、気持ちが何とも言えない、違う空気を感じた。
自分が今までの国と違った感じを受けたのがオマーンでした。
コソボは内戦で今でも破壊されたビルが残っています、人間的には他の国とは変わらないです。
日本にいると、自分が気に入らない国は悪く言うけれどそうじゃないんじゃないですか、生活している人達は人間的にみんな同じですよ。
世界に行った先々では、日本で掴んだイメージが全部壊れてしまいますよ。
知らない国で、知らない人に荷物を観ていてくれと言うと、ちゃんと見てくれているが、人間ってもともと生まれつきは人を誤魔化すとか、かっぱらうとかは無かったんじゃないか。
人から頼まれると責任を果たす、そういうものがあるんじゃないか。
もしかして泥棒だとしても頼まれたら、責任感はもともと持っているものかなあ、と思う。

道は一番判らない、ナビは前回からで、地図を自分のノートに書いてそれを見せながら行くが、目的地に向かう道なのか判らない。
聞いて当たっている事もあるし当たっていない時もある。(100km単位で戻ったりするのは当たり前)
サハラ砂漠はこれは死ぬぞと思った時がある、途中であきらめてトラックをチャーターして運ぼうと思ったが、チェックポイントで一回押さなければ駄目だと言われて、死んでもいい今日だけは絶対生きてやると思って、走りだして、或る日空が青くて(それまではピンクの黄砂)、あーっサハラ砂漠を抜けたんだと思いました。
チベットは道が悪い、平均標高が4000m、走った中で一番高いところがエベレストのベースキャンプで5200mです。
そこでは今まで経験したことのない充実感を感じました。
事故にも会いました、アラスカでキャンピングカーのボデーにぶつかってしまって、頭10針縫って、鎖骨骨折、あばら骨を12本のうち10本折れて、それが肺にささってヘリコプターでアンカレッジの病院に運ばれました。
1カ月入院かと思ったが、10日間で退院、10日間入院で740万円(ヘリコプター代80万円含め)、保険に入っていたために良かった。

家族には感謝しています。
妻にはまだ言っていないので、もうちょっと走ってから有難うと言いたいです。
次はまだ決めていないが、東南アジアで行っていない国があるので、近いうちに走ってみようかなと思っています。
笑われて、笑わせて道に迷って親切に泣いた、これまでの15年間、37万kmの旅でした。
























2016年5月16日月曜日

阿部 佳(ホテルコンシェルジュ) ・お客様に100%の満足を

阿部 佳(ホテルコンシェルジュ) ・お客様に100%の満足を
昭和34年東京生まれ、慶応義塾大学を卒業後、コンシェルジュを目指しましたが、当時コンシェルジュという職業は日本にはなく大学卒の女性をホテルに採用することもほとんどない時代でした。
そんな時代に何故コンシェルジュを選んだのか、中学生時代にヨーロッパ旅行で出会ったコンシェルジュとの出会いが阿部さんの心を捉えていたようです。
大学を出て他の仕事で働いて 10年後日本に外資系のホテルが進出する事で阿部さんの夢がかないます。
平成4年に横浜のホテルでコンシェルジュに第一歩を踏み出しました。
平成10年にはコンシェルジュの世界組織レ・クレドール(黄金の鍵)ジャパンの会長に就任、後進の育成やコンシェルジュに対する認識を高めるための活動に従事しました。
現在は東京六本木のホテルでコンシェルジュを勤めながら明海大学の教壇に立つなど幅広く活動されています。

コンシェルジュの世界組織レ・クレドール、金バッチを付ける人は世界で4000人、日本には28人です。(阿部さんはレ・クレドール インターナショナル名誉会員)
その人たちとは情報交換は毎日のように行います。
お客さまにより良いサービスをするため判らない事は判る人に知恵を借り、出来ないことは出来る人の力を借りましょうと言う事で、誰に頼んだらいいかを判るようにしておきましょうと言う事でお墨付きを受けてバッチを付けてマークしてあると言う会です。
インターネットやガイドブックに乗っている事とは一味違ったお話しをさせていただけるはずです。
コンシェルジュ ホテルでお客様の相談、案内とかをする仕事。
法的、道徳的に問題がない限りお手伝いしてお客様
に喜んでいただくと言う一文があります。
行き先に対するいろいろなアドバイスとか、食事にたいする場所、内容(どんな和食、洋食とか)等の案内とか、いろいろあります。
客観的にこの人は何を考えてるのか、おしゃべりをする中でどんなことを要望しているのかを考えます。

情報に敏感でなければいけない、そしてチーム(いろんな人がいた方がいい)で動く。
一番気にしているのはお客様の気持ちで考えると言う事です。
「みる仕事」だと思っています、お客様の気持ちを読み取るという事で見る、情報、街、ロビーの周囲等、そのためには自分が柔軟であると言う事。(自分の気持ちを捨てる)
相手の気持ちに立って、心に寄り添って、お客さまのゴールを一緒に見つけなければいけない。
そのためには、なるべく沢山のことを体験する、どんなことにも驚かない、思いがけないご要望を減らしていかなければいけないと思っています。
自分で体験するほかに本を読む、人の話を聞く、人を観ること、そういうこと心掛けては来ました。
「気付く」 そのためには「みる事」だと思います。

中学1年生の時にヨーロッパを旅行する機会があり、ヨーロッパのホテルでコンシェルジュに出会い、対応というものを見て、何と不思議な人達だろうと思いました。
言葉にしていない私の気持ちをピタリと当ててくる、それが不思議だった。
今日行きたいという動物園、美術館、食べることなどを当ててくる。
ここでレ・クレドールを知った。
大学卒業後、ホテルに入って勉強しようと思ったが、大学卒業生が入るという、そういう時代ではなかった。
コンシェルジュはまだなく目指す時期ではないので、他の世界を見た方がいいと助言されてホテルは諦めました。
10年経ったら日本にコンシェルジュが出来ました。
その間に二つの会社に勤務、街作りの会社、幼児開発協会(井深大さん) 「いい人柄の人を育てるためにはどうしたらいいか」というのが井深さんのテーマでした。
幼児からの教育がいいのかということで幼児開発協会になったが、井深さんは母親開発にするべきだったとおっしゃっていました。 

二つの会社の経験は結果としてはコンシェルジュに参考になりました。
赤ちゃんは物言わぬ人だったので、何を表現しているのか毎日読み取ろうとしていたので、結果的には非常に近かった。
ヨーロッパ系のホテルが来た時にコンシェルジュがあるのではないかと思って、電話をして聞きましたら、コンシェルジュだけがまだ未採用だったので、話がうまく進んだ。
接客業を正しく理解して、仕事に就いた方がお互いに幸せなのではないかと考えて、いま大学生に教える仕事をしています。
ホスピタリティーツーリズム学部、日本が観光立国になってゆくと思うので、もっと日本の観光の事を真剣に考えないといけないと思います。
沢山現場の事を伝えて自分で考えてもらいたい。
人付き合いはもう少し優しくできるのではないかと思って、付き合いが薄くなってきていると思うので、厳しく伝えています。
日本に又いきたいねと思っていただける様な、お迎えの仕方をするにはどうしたらいいかと言う事を一緒に考えるというのを作って行きたい。



















2016年5月14日土曜日

永坂美晴(在宅介護支援センター長)・仮設から災害公営住宅へ いまこそ支えが大切(2015/5/9放送)

永坂美晴(明石市望海在宅介護支援センター長)
         ・仮設から災害公営住宅へ いまこそ支えが大切(2015/5/9 1時台に放送)
56歳、総合病院の看護士を辞めて子育てをしていた永坂さんは、今から21年前地域にできたばかりの高齢者の為の在宅介護支援センターで勤め始めました。
ほどなくして明石の街は阪神淡路大震災に見舞われます。
仮設住宅の見まわり支援の仕事を担当することなった永坂さんは、そこで担当していたお年寄りが仮設住宅を出た後、自らの命をたつという出来事に遭遇し、精神的に打ちのめされます。
繋がりの有る支援の大切さを痛感したと言います。
今は休日などを利用して、東日本大震災の被災地に出向いて仮設住宅の支援員などの育成などに力を入れています。

東北には月に1回~2回、4年間で50回は軽く超えているのではないかと思います。
支援員さんの研修、支援員さんは仮設住宅がたくさんできて、見守り、支援をする形、支援員さんは緊急雇用で、いろいろ職業の人が、被災で仕事を無くしてしまった方が多かったです。
支援員さんは一番身近な存在になってきます。
支援されている皆さんも家を無くしたり家族を亡くされたり、自分自身が仮設住宅にいながら、回っている方もたくさんいます。
1995年1月17日阪神淡路大震災の時のちょっと前、在宅介護支援センターで週2回、3回勤務させてもらえればと在宅介護支援センターに入って、3カ月がたって震災がありました。
我が家も斜めになって潰れるのではないかと思いました。
1~2カ月位で、明石市で仮設住宅を応援する、仮設住宅ケアネットシステムが出来上がって、支援する役割を任命されました。
主人の職場が長田だったのでそこが火災にあったりして、私生活も震災一色で、仕事も仮設住宅で初めてする仕事でした。

突然に仮設住宅訪問を任されて、初めての経験でした。
最初なかなかドアを開けて頂けない様な状況もあり、段々訪問を繰り返す中で徐々に話をするようになって、そのうち家に入れるようになって、そこから段々ゆっくり話す様な状況になりました。
仮設住宅では初めて会う方同士ということが多かったです。
仮設住宅は壁が薄くて隣同士の話し声が聞こえてしまうし、外の音、話も聞こえてきてしまい、休まる気持ちは無かったかもしれません。
徐々に皆さんが挨拶したり、又集会場ができて、心が和んできて自分の身の上話をしたり、顔を見なくなったら心配をするようになりました。
仮設住宅の中で徐々に役割分担ができてきて、世話をするのが好きな人は声をかけたりして、うまくきっかけ作りをしてくれるようになりました。
復興住宅に移らなくてはいけないという様な情報が入ってきて、私たちは早く抽選に申し込むようにパンフレットを持って話をしましたが、慣れた今の仮設住宅にいて新しい家に行きたくないと言う人達もいました。

70代の夫婦で、子供はいなくて、夫は寡黙な人で、奥さんは優しい穏やかな方、主人から電話が入って、奥さんの具合が悪くて、行ったら私の目の前で倒れてしまって、救急車で病院に行ったら脳梗塞だった。
退院された時には障害が残っていて、仮設住宅にベッドを入れて車椅子の生活になりました。
ねたきりになってしまった失語症の奥さんの介護をすることになり、旦那さんは自宅で看たいと言う事で介護が始まった。
あたらしいところに移らなければいけなくなって、旦那さんは行きたくないと拒否された。
エレベーターがあるし、バリアフリーで段差がないし、良い環境に移ってほしいと思っていました。
説得して移って行きました。
しばらくするとご主人から電話がかかってきて、寂しくてしょうがないとの事だった。
仮設住宅は世話を焼く人がいたり、音、話し声など周りの気配があったが復興住宅では周りの音が聞こえず、静かな環境でありそれがかえって、孤独を呼んでしまったのではないかと思います。
私たちは仮設住宅を送りだしたら一段落して終わりだと思った。

失語症の奥さんとは話ができないなかで、最初にかかわった、心を許した私たちに何かを求めていたんじゃないかと今から思う、助けてくれというSOSを発信していたのではないかと思う。
或る日ご夫婦がいなくなって騒ぎになって、ご夫婦が海に身を投げたと言う報告が入ってきて、聞いた瞬間に足から血の気が引いてゆくのを感じて、とんでもないことをしてしまったんだろうと思いましたが、もう遅かったです。
その後在宅介護支援センターで高齢者を支援する仕事に戻り活動を続けていましたが、阪神淡路大震災から16年後 20011年3月11日東日本大震災が発生します。
つてを使って東北での支援活動に加わります。
仮設住宅ができて、何の経験もない人が支援員さんとして就く事が判って、社会福祉協議会の皆さんが集まって自分達のうまくいかなかった事がいっぱいあると言う事で、それを繰り返さないように伝えることも必要だと思って、簡単なワークブックを作って研修を始めました。
気仙沼での研修が終わって、「良く頑張ってきたね」と言う事を支援の皆さんに言うと全員が泣き出してしまって、今までのしんどかった思いがあふれてきてしまって、そこで辛いと言う事が判りました。

私もこういう事があったんですと老夫婦の事をメンバーの人に話をしました。(私はその時までは封印をしていました)
会場では皆さんが泣いてしまったり、会場を泣きながらでてしまうと言う場面があって話したことが良かったのかとの思いもありましたが、阪神でも辛い思いを乗り越えて頑張ってこられているんだと言う事を聞いて力をもらった様な気がするというコメントを一杯もらって、伝えて良かったと思います。
東北では今がとても大切な時期だと思います。
4年経っても仮設に残っている人がいて、これから復興住宅に移る人もいて、仮設住宅では住みにくい環境ではあるが、回りとの繋がり、コミュニティーができてしまっている。
それがまたゼロになる、特に高齢の方はあたらしい環境になじむのがなかなか難しい。
わたしたちは区切りと思っていたことが、新たな所に移る時に不安をいっぱい抱えながら行くと言う事に気付かなかったので、人と人とをつないでゆく仕組みを作ってゆく必要があると思います。

仮設の支援員と次の復興住宅での支援員との繋ぎが大事で、阪神大震災の時は丸投げしてしまった様に思う。
大きな苦しみを乗り越えた人は強くなっているが、何の支えもなければ倒れてしまうので、ほんの少しの支え、小さなつながりが繋いでいくと大きなつながりになってゆき、大きな支えになると思う。




















2016年5月13日金曜日

2016年5月12日木曜日

江戸家猫八(ものまね師四代目) ・親父から受け継いだ芸ともう一つのこと(1)(H26/7/7放送) 

江戸家猫八(ものまね師四代目) ・親父から受け継いだ芸ともう一つのこと(1)(H26/7/7放送) 
四代目 江戸家猫八さんが3月21日に亡くなられたそうです。(66歳) ご冥福をお祈りします。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/07/1.htmlをご覧ください。

2016年5月11日水曜日

佐々木茂良(登山愛好家)    ・1300回の富士登山から学ぶもの

佐々木茂良(登山愛好家)    ・1300回の富士登山から学ぶもの
冬の寒い時期や悪天候以外は殆ど毎日富士山に登っている佐々木さん 75歳。
神奈川県の養護学校長を定年退職した後、64歳で初めて富士登山に挑戦しました。
以来11年間富士山に登った回数は1361回、若いころは山登りは苦手で嫌いだったと言う佐々木さんが、還暦を過ぎてから何故富士山に登るようになったのか、毎日富士山に登る魅力とは何なのか、1300回を越える富士登山から学んだものはなにかを伺いました。

丹沢塔ノ岳(1451m)に登り始めています、富士山に登っていない時もトレーニングは欠かさない。
随分富士登山で考えたこと、学んだことがいっぱいあります。
定年退職をして余生を健康で病院に行かない様に過ごしたいと第一に思いました。
物ごころついた時から気が小さく、人に何か言われるとくよくよして、大きく自分でどっしりとした人間になりたいと、思い続けて、この際自分を生き直したいと一大決心をしました。
それに見合う努力はそれだけきついものであるはずだと、それには自分が一番不得意な山登り、それに挑戦をしてみようと思いました。
それも日本一の山富士山に登ることだと思いました。
回りは案の定大笑いしていました。
決断するのに遅すぎることはない、青春は物理的な若い年齢を言うのではなくて「やろう」と思いたって、夢中になることが本当の青春だと思いました、今青春真っただ中だと思っています。
「レイトビギナー」という言葉(遅くれてきた初心者)が気に入っています。
自分で夢中になれる目標、工夫と努力の仕方を見つけると、はまってしまいます。
達成感、充実感になります。

2004年6月5日 最初の富士登山 その前に金時山(1213m)にポツリポツリ登り始めていた。
教員時代、養護学校の時代の子供達の頑張りがいつもいつも浮かんできました。
養護学校の子供が10mを手すりにつかまって歩く訓練をしている子がいて、来る日も来る日も一歩一歩歩く練習をしているのを観ると人生観が変わります。
2005年9月15日 100回 65歳、 2008年9月に500回、68歳 2012年8月に1000回、72歳
2015年7月27日に1300回 去年の登り納めが1361回
100回登った時には妻は「フーン」と言っただけで 「それがどうしたの」というだけでした。
500回の時は言ってはいなかったが、寿司が出てきた。(カレンダーに付けていたが)
厳冬期、悪天候の時には登りません、5時に自家用車で出発して、富士宮ルートが多くて7時には登り始めます。
富士登山にはおにぎりよりパン食がいいです、妻が作ってくれます。
10時半で頂上に着きます。(3時間半 早い方です) 
1年間に5~6分ぐらいは遅くなってきていますが、自然流で行きたいと思っています。

頂上では30分~1時間過ごします。 写真は4000枚になり、俳句を作ったりもしています。
「亡き父母の 温もりを背に 富士に立つ」 (初めて登った時で寒かった)
父母はじめいろんな人のおかげで登れたんだなあと思いました。
有難うございましたと謙虚になれる、素直になれる場所だと思います。
下山は2時間弱で、1時半ごろには5合目に着いています。
3時半~4時には自宅に着きますが、寄り道をする時があります。
それは道の駅から富士山が見え、そこでコーヒーを飲みながら、今日の出来事などを考えます。
図書館で本を読んだり、買い物をしたり、ゴルフの練習をしたりもします。
家に着くとシャワーを浴びて、ビールを3合飲み、何でもおいしく食べられます。
そのあとベッドに倒れ込むように寝てしまいます。

雲海もいつも綺麗です、ご来光にも感激し涙ぐみます。
富士山で見る空の青さは凄い青さで迫ってきます。
富士山の自助努力があるのではないかと思います、何事があってもあたふたしない泰然たる姿形に見えます。
今富士山に降った雨や雪は50年後に、ふもとの湖、池、川を潤しています。
あと30mで富士山の頂上という時に、1歩踏み出したとたんに突風に飛ばされて、9kgのザックをしょったまま滑落してしまって、大きな岩にぶつかったために止まったから良かったが、岩がなかったらどこまでも落ちて行ったと思う。
クレパスにはまったり、濃霧で1m先が見えないで樹海入り込んでしまったりもしました。
原因があって結果があるのだから、危険の原因となることを避けることを、しゃべったり書いたりしています。
第一に安全登山を目指して、次に富士山の歴史、伝承、環境保全の在り方、そういうものを調べたりする人たちを呼んでしゃべってもらう、勉強会、情報交換、飲み会をやっています。

山小屋に新聞をポケットマネーで届け始めたら、物凄く喜んでくれました。
8部前後持ってゆきます。
喜んで下さるそういうものを見ているのが、一番楽しくなる、役に立っていると思うと、面白いです。
自分でも判り易い努力、自分自身の内面の進化、進歩が自分で分かる、そういうのが自分に丁度あっている、自分で自分を褒めますね。
一歩一歩の積み重ねがないと頂上には着かないことは、いやっと言うほど毎日毎日思い知らされています。
富士山でなくても、山登りでなくてもいいと思う、それぞれの富士山があればいいと思う。
自分の目標を作って、努力する中で軌道修正をしていけば、必ず夢中になります。
米寿、88歳までは登りたいと思っています。
































2016年5月10日火曜日

古賀典篤(写真家)       ・”鳥たちの声”を撮る

古賀典篤(写真家)       ・”鳥たちの声”を撮る
昭和9年 長野市生まれ 父親の仕事の関係で終戦を台湾で迎え、中学2年の時に日本に引き上げました。
九州大学卒業後、中小企業金融公庫に就職し、定年後は神戸にある海運会社に再就職して、80歳過ぎまでサラリーマン生活を送りました。
島根県松江市に単身赴任していた52歳の時に、地元のカルチャー講座写真入門に入学して写真の道を歩み始めました
山陰の風物、特に冬の季節に飛来するハクチョウなど、野鳥の姿に魅せられて終生のテーマになりました。
北海道から鹿児島まで15か所の野鳥の生息地で撮影を続けてきました。
1990年 二科展に初入選、以来10回入選し、2013年9月には二科会写真部会員に推挙されました。
古賀さんは近年環境整備という名のもとに自然が破壊され、渡り鳥の飛来地も次第に狭められ汚されてきている。
物言わぬ鳥たちに替って、彼らの美しい姿の写真を通して自然と命の大切さを訴えていきたいと撮影を続けています。

冬場が主ですが、初夏とは言え、カメラ自体も絶えず動かしていないとカメラもボケますし、自分腕も鈍るので、写真はたえずシャッターを押しています。
二科展は9月に始まりますが、すでに作品は提出しました。
会員になって2年になります。
絶えず上を目指していかなと腕も停滞して行きますので、常に研鑚していないといけません。
中小企業金融公庫に就職 母方の伯父が東京銀行日銀にいて、父親は研究者で地味でした。
永い間企業の審査をしていて、たまたま定年間近に、海運会社の財務担当の専務さんが急死して、行く事になりました。
学生のころは映画(洋画)が好きでしたが、野球、卓球などをしていてこれだと言う趣味は無かった。
会社に入っても、マージャン碁、将棋などやっていました。
ダンスは長く続きました。(5年ぐらい)
松江市に単身赴任していた52歳の時に、新聞に写真教室の広告が入っていて、入学しました。
「写真とは自分の感動を写真という映像を使って伝える手紙だ」と言われました。
その言葉がいまでも座右の銘になってしまいました。

松江は冬は雲が低く垂れこめていて暗く寒く、人々は寒い冬を必死になって我慢して生きていると言う風に感じてました。
松江はハクチョウが飛来する南限で宍道湖など、米子の水鳥公園は多く来ます。
田んぼに餌を取りに行くので、毎朝日の出始めから飛び立ちはじめ9時頃には飛び去ってゆきます。
春になると、シベリアまで900kmあるが、一晩で飛ぶと言う事で、命の不思議さに感動しました。
10月ごろ転落事故を起こして6カ月の入院をしてしまいました。
窓から見える光景を見ながら、サラリーマンのレースではもう負けたんだなあと思って、カメラで頑張ってみようかと思いつきました。
島根県の県展の銅賞になり、力を得ました。
二科展にも市とかにも出しているうちに、、絞らないといけないと思って、二科展に集中しようと思いました。

大阪に転勤するが、マイカーを持っていたので、約300km駆けて写真教室に通いました。
ハクチョウは写真が撮り易いと言う事もあり、飛び方も優雅なのでハクチョウが対象になりました。
その後、琵琶湖、石川県羽咋市、富山県田尻池、新潟県瓢湖、山形県酒田、等に行き、北海道の屈斜路湖まで出掛けるようになりました。(年末年始を利用)
旅費の他にも機材だけでも100万円超えるし、ボディーだけでも1台について20万円とか、大分投資はしました。
鳥とは語り合う様にして撮っています。
生き物はそれぞれ固有の警戒域を持っているので、そこを壊さない様に近づいて、心の中で美しい姿を撮らせてくれと言いながら撮っています。
海の岸壁、水辺をコンクリートにしたりすると、草が生えなくなって、餌が無くなってしまって、そういうのも寂しいものだと思います。
旅立ってゆく姿を見てもう半年は会えないんだなあと思うと、写真を撮らしてもらって有難うと言いますね、涙ぐむ時もあります。

やっと自分の心の感動が伝えられるようになってきたのかなあと思います。
心技体が大事だが特に心は大事だと思います。
自分の対象にたいして、愛している、素晴らしい、という心を伝える、そういう話し合いができる様な心を持たないと相手の綺麗な姿を写せないんじゃないかと思います。
自然を破壊したらいかんという様な気持で皆さんに伝えたいと写真を撮っています。












2016年5月9日月曜日

植松 努(電機メーカー専務)   ・北町ロケット

植松 努(電機メーカー専務)   ・北町ロケット
北海道赤平市 49歳 産業用のマグネットを製造する町工場でロケット開発に挑んで居ます。
植松さんがロケット開発を始めたのは2004年、北海道大学の大学院教授永田晴紀さんとの出会いがきっかけでした。
永田さんはスーパーのレジ袋などに使われる原料のポリエチレンを燃料として火薬を使わない小型ロケット「CAMUI」の研究を進めていました。
植松さんはロケット製作をしたことのない社員と共に一機2000万円と言われるロケットを数10万円という低予算で作ることに成功しました。
一方で工場の実験施設を教育に生かそうと、子供達を対象にしたロケット教室を開催、年間およそ1万2000人の人がロケット作りを体験しています。

CAMUIロケット カムイ=アイヌ語で神  一般的なロケットは燃料を積んでそれを燃やして飛んで行くが、燃料が危険物を使っていて、危険物を使っているためにそれを管理する事が必要でお金がかかってしまって、それがどうしても安くならない理由の一つになっています。
永田先生は石油と同じような成分でありながら、巻き散らかさないものを燃料にしようという事でポリエチレンを使っていて、特殊な形に成形すると猛烈な勢いで燃えると言う現象を永田先生が見つけ出して、私たちが協力して実用化して、世界唯一危険物を使わないロケットという事で変わった特徴を持っています。
日本では民間が宇宙にロケットを飛ばして良いと言う法律がないので、制限の有る中でやっていて、2~3万馬力になっていると思う、長さ6~7mのロケットを高度数10km迄打ちあげるパワーは持っています。
ロケットに乗るお客さんとしては人工衛星、無重力での実験があるので、両方とも自分達で出来れば一人でクローズ出来ると思っていたら、人工衛星を作る話があって、無重力の実験の話も来て、
工場には無重力の実験施設があって、世界にドイツの大学、アメリカのNASAと私のところにしかありません。

大学と連携して、医療機械の開発、農家と連携して農業機械の開発もやっていて、北極探検の人のソリも作っています。
いろんなことをやっていると、いろんな人と縁ができるんですね。
人脈と経験がもの凄いプラスになっていて、次々にいろんな話がきます。
産業用廃棄物から鉄を取り出し、電磁石作りを行ってました。
父は炭坑で使う機械を修理する仕事をしていたが、その後車の修理をする仕事になり、マグネットを作るようになったのが2000年からです。
土地は広いです、13万平方mあります。
3歳のころにアポロの月着陸を観ていてお爺さんが喜んでその笑顔が忘れられず、お爺さんが本屋に連れて行ってくれると飛行機、ロケットの絵が描いてある本を手に取ると喜んでいた様で、飛行機などの本ばっかり買っているうちに知らない間に飛行機、ロケットが好きになってしまった。
飛行機、ロケットを作る仕事がしたかった。

宇宙、飛行機の仕事は東大に行かないとできない、この街から東大に行った人はいなくて、だから無理だと言われました。
言葉に負けないですんだのは、おそらくそうではないと知っていたからだと思います。
習わなければできないと言う事は間違っていると言うのを知っていたので、根拠のない話には負けないで済んだと思います。
大学は北見工業大学、流体力学について学びました。
堀越二郎という人(「風立ちぬ」の主人公になった人)を知って、その人を好きになって流体力学を学ぶといいらしいと言う事が判って、そこは国立だから受からないと言われたが、受かって、大学では子供のころから読んできた飛行機の本などが全部授業で出てきた。
ずーっと成績が悪いと言われたが、大学の試験勉強しなくて100点が取れてしまった。
中学、高校の授業ってなんなんだろうと思ったし、英語とか含めて学問の楽しさを知ることが出来ました。

名古屋の航空機の設計の会社に入ることになる。(堀越二郎さんが働いていた場所だと説明され物凄い感動でした)
飛行機の形を設計する所です。
会社内には頑張る視点が違うところもあり、空回りして、会社を辞めることになりました。
父は色々道具を持っていたので飛行機を作れるのかなと思ったが、会社の状況が悪くなって、2000年からリサイクル法ができて、建物を分別する時にマグネットが必要という情報を知り、マグネットを研究し始めて、特許、発明が評価されて大きな会社と取引できるようになりました。
マグネットの全国シェアは9割を越えてしまった。
マグネットが壊れるということで、使い方が問題だったが、では壊れないマグネットを研究して作りました。
注文がどんどん来て、いい気になっていたが、そのうちに大きな会社が突然いらないと言いだして、工場を建てた後だったので、借金があり、営業して歩いたが、いい様に叩かれて、勝つために一生懸命勉強して、自分の為にプラスになることだけをやり、会社の仲間も信じなくなり、家族も子供も、気がつくとなんでこんなに頑張ってやっているのに判ってくれないのだろうと思い、めんどくさくて全部捨てちゃえという様な気持になりました。

或る人から青年会議所に入っていないのかと言われて入ってみたら、一人ぼっちではないことを知って救われた感じがしました。
そこでボランティアで手伝ってほしいと言う事で、ついて行ったら児童虐待の子達で、家に帰れない子達で誰も近寄ってこなくて、知らない大人に触られたらパニックに陥ると言われて、どんな目にあったんだろうと凄い衝撃を感じたが、帰るころには帰らないでくれと言ってくれた。
僕の夢はお家の人と一緒に暮らすことだと言ってくれて、どうして腕を折った人を愛してるのだろうと思い、考えて自分は5年間何してきたんだろうと思って、お金を払う事だけに働いていたんだと気付いて、頭がグルングルンして一杯考えたら記憶が戻ってきて、あまりにも嫌な記憶を閉じ込めた記憶が、小学校の先生に毎日毎日暴力を振るわれた記憶で、ひっくり返るぐらいひたすら殴られが、家には言えなかった。
何が悪いんだろうと思ったが、実はその先生は家で旦那さんに暴力を受けている先生だった。
暴力は連鎖するなあと思って、一番優しくて弱い人に暴力は向くんだろうと思って、それが児童虐待だと、この連鎖を食い止めれば児童虐待が無くなるかと思った。
その先生はいつも言っていたのが「どうせ無理」という言葉で、「どうせ無理」という言葉が人の可能性と自信を失って、可能性を失った人が他の人の可能性と自信を奪って、最終的に児童虐待になるのかもしれないと思って、「どうせ無理」と言う言葉がこの世からなくなればいいと思って、この言葉は生まれた時にはだれも知らない言葉、いつ覚えるんだろうと考えたら、宇宙だと思った。

宇宙は誰もが一回は憧れる。
宇宙開発は凄くお金が掛かるとか、よっぽど頭がよくないと出来ないと「どうせ無理」と思いこんでいるが、本当に宇宙開発をやった人は言わない。
やったことが無い人が根拠なく言っているだけです。
北海道の小さな会社が宇宙開発をやったらなんか変わるかもしれないと思ったが、ロケットは危ないから作っちゃいけないと思って諦めている、最初は紙飛行機の教室から始めたが、全然人が集まらなかった。(1回目は2人)
新聞で永田先生のことを知って(2004年)、先生から安全なロケットエンジンを研究しているから場所を貸してもらえないかと言われて、貸すことになりました。
国からの資金が出してもらえず、あなたは日本に必要ありませんと言われた気がしたと永田先生が涙ながらにおっしゃいました。
私はお金がないが部品は作れると言って、それが永田先生との出会いでした。

先生は計算はするが設計図を一つも書かなくて好きに作ってくれと言って、勝手に改良出来ちゃうんです。
最初は大学生が図面を書いてくれましたが、その図面だとある部品を丸棒から削らなくてはいけなくて、パイプではと提案したりして一気に部品価格が安くなりました。
一回の実験には一個のエンジンでないといけなくて、設計を作り易くしていって、作る時間も少なく、自動的に安いエンジンになってしまった。(2005年頃)
当時10人、今は19人になりました。
ロケットを作る話をしたら、最初はみんな遠まきに観ていました。
段々周りも自分でもできるかもしれないと思うようになって、一緒にやるようになりました。
「無理だ」と思ったら出来ないけれど「出来るかもしれない」と思ったら出来る気がする。
いまでは修学旅行に年間1万2000人が来ています。(赤平市は1万2000人を切っています。)
ロケットエンジンを燃やして見せて、燃料はペットボトル1本分位だよ、仕組みは簡単だよと言って見た子供達は自分にもできるかもしれないと思ってくれるだろうと思っています。

2005年に初めて飛ばした時には、絶対失敗すると思っていたが、よろよろと上がってゆき加速して行ってエンジンの音が物凄くて飛んで行く姿を見て、こんな嬉しいことはなかった。
物凄く荒れていた学校に呼ばれた時にも、最初は大変だったが、ロケット作るときにも出来たら、他の人に教えたりして、出来たロケットを飛ばして,私たちの道具をかたずけてくれて車まで運んでくれて今日はうれしかったと言ってくれた。
誰かが彼らの自信を奪って、強がって誰かの自信を失おうとした、小さなロケットが飛んだ時に小さな自信がわいて元通りに優しくなったと思うので、どうか子供の自信を奪わないでほしい、自信を支えてほしい。
夢を潰そうとする人は沢山いて、そういう人に負けないで夢をかなえてくれた人はきっと誰かほかの人の夢を支える人になるはずなので、そういう人が一杯増えたらいいなあと思います。

次のステップを考えていて教育をやりたいと思っています。
経営者が持っている能力は責任と判断だと思っていて、経営者は自己責任で藪を漕いで歩くべきだろうと思っていて、面白い道を見つけてくるのが私の仕事だと思っています。
マグネットで利益を出しているので、宇宙開発でお金を稼ぐ必要はないんです。
宇宙は南極と同じ様に公共の場所だと思っているので、宇宙は商売はしてはいけないんだと思っています。
宇宙で実験をしたいと思っている人にとっては、安く飛ばせるロケットの実用化は絶対しなければいけないと思っています。
宇宙は教育に使えると思っています。
以前アフリカの人が来てくれて、アフリカでも宇宙開発をしたら、教育できるかもしれないと言ってくれた。
勉強って努力が必要、努力するためには喜びが必要で、喜びがお金だったら勉強するより手っ取り早く稼ぐことがいっぱいあり、喜びがお金でなければ勉強が生まれるかもしれない。
それは夢、希望でそれは宇宙かも知れない、宇宙開発を夢にすることができればもっと勉強を頑張れるかもしれないと言ったので、それはありだと思った。
一生懸命工夫をしてくれる人がもっと増えたら、色んな産業全部良くなると思っていて、そういった人を育てる修練の場として宇宙開発を使ったらいいのかなと想っていて今実験的に試している。
新しい仕事は悲しいこと、苦しいこと、不便な事を解決しようと言う事から生まれてくる。
それは優しさです、人が苦しんでいるのを見ても何にも思わない人は改善しようとは思わないから発明できない。
優しさは自信から生まれてくるので、自信を奪われない子が増えればきっと世の中は良くなるかもしれないと思います。
やがてこの世からいじめ虐待、「どうせ無理」という言葉が無くなるかもしれないので、いろんな人から宇宙開発の応援してもらえればうれしいと思います。
















2016年5月8日日曜日

玄田哲章(声優)        ・時代を創った声(4)

玄田哲章(声優)        ・時代を創った声(4)
ターミネーター アーノルド・シュワルツェネッガーの声担当。
現在67歳  シルヴェスター・スタローン等の声も担当。
アーノルド・シュワルツェネッガーの最初に担当しの印象、この一つで終わるだろうと思っていた。
最初が『コナン・ザ・グレート』担当する。
アニメでは「ドカベン」をやったお陰で自信につながった。
去年「ターミネーター:新起動/ジェニシス」 で30年越しで初めてお会いする事になる。
舞台で会う予定だったが、会いたいので10分前にロビーに来てくれと言われて、お会いして握手したが、聞こうとしていたが英語が出てこなかった。
今でも2時間汗を流すことを毎日やっているとの事で、体力を維持しているとの事だった。

最初は声の役については興味は無かった、舞台をやりたかった。
最初『野沢那智』の名前から女性かと思っていたら、サングラスかけたアヤシイ男が出てきて驚いた。
夜レッスンをやるが、稽古場にフェンシングのフルーレが置いてあり、持ちだしてピシッピシッと床を叩くのでみんな震えてしまって、震えながら読んだ記憶があります。
フェンシングを辞めて次は指パッチンでやれやれと言っていました。
或るとき本番中に指パッチンをやられました。
新劇に行こうかと思って大きな劇団の試験を受けたが、1000人位来て20位しか取らないので2次には落ちて野沢那智主宰の劇団薔薇座の募集を目にして応募して、1年のつもりが17年になりました。
得たものは集中力、いかに人は集中してどれだけのことはできるか、集中力と精神力がいつの間にか養われてきました。
20代前半まではバイトをしながら生活をしていたが、苦ではなかった。
アルバイトは色々なことをやって1日に3回違う仕事をしたこともあります。
野沢那智が声優の役を紹介してくれて、こういう世界を知ることができて、やって見ようかと思ったのがきっかけでした。
「科学忍者隊ガッチャマン」で多数の端役を担当する事になりました。
声の世界で何とかしようとは思っていなかったので、舞台の仕事があるとそっちに行ってしまったりしていて、今では考えられないことをやっていました。
舞台とは違って台本の見方も違っていて、教えてももらえなかった。
映像を見てしゃべろうと思っても遅れてしまって、すでに次に行っていて、まずいと思って早くしゃべると又合わない。
長くはこの仕事はできないだろうと思いました。

口があって、はまらないとOKがでなくて、何かを伝えたいとの思いもあり、合わせに行く事を取り除いて、イメージ、をつたえるためにはもっと自然に向かって行こうとの発想があり、微妙なところに納めなければならない事もあるが、そこに拘らない事も大事なのではないかと思っています。
苦労したのは、役がなかなか自分のものにならない。
不安なままスタジオに行く、半分位不安を抱きながら現場に行くのは辛い。
いつももう一回やれたならと思います、満足したことは一度もないです。
内海賢二さんに若いころお世話になって、必ず一本のマイクを持て(自分で一本のマイクを確保しろ 主役を持て)という様な役を持てと言っていただいた。
自分では考えられない様な役(シュワルツェネッガーなど)をやることができて、その世界に入っていける、こんな気持ちのいいことはないです。
いろんな人生、性格を演じられる楽しさ、いろんな役を振られて、いろんな世界を見られるのでこんな幸せはないだろうと思っています。

今の若い人たちは物凄く才能はあるし、度胸もあるが、ただチャンスはいっぱい流れているが、大きなチャンスをつかんでほしい。
一生懸命トライしてほしい、トライして負けることもあるが。
20代でしかできないものはいっぱいあると思う、20代で掴んだものは30代、40代で生かせる。
20代は大いに汗をかいて、仕事をし、真面目に取り組んで遊び、この時に何を吸収したかによって決まってくるような気がします。









2016年5月7日土曜日

岩本真弥(陸上競技部監督)   ・”脱管理”で人を育てる

岩本真弥(広島県立世羅高校 陸上競技部監督) ・”脱管理”で人を育てる
去年暮れ、京都を舞台に行われた全国高校駅伝で世羅高校が成し遂げた男女アベック優勝。
岩本さんがその世羅高校陸上競技部の男子監督に就任したのが2005年。
その翌年にはチームを優勝に導き、これまでに5回優勝を果たしています。
2010年からは女子チームの監督も務めています。
毎年選手が入れ替わる高校スポーツにあって結果を出し続ける、岩本さん、それには指導者としての経験に裏打ちされた信念がありました。
岩本さんの人材育成術に迫ります。

昭和25年第一回大会の記念碑もあって、一回、二回大会の優勝校で駅伝の草わけ的存在という事です。
勝つ事を求められるが波があるので、しんどい年もあります。
監督として2006年57回大会で初めての優勝、身震いすると言う様な感じでした。
昨年のアベック優勝の記念碑は製作中です。
まさか同時に優勝とは思っていなかったです。
女子は5人がハーフマラソンの距離でタスキをつなぐが、アンカーに入ったところで35秒差の4位だったが、向井優香選手が逆転して劇的な初優勝だった。
3区は1年生にもいい選手がいて、選手の起用を悩んだが、長尾明日香選手に賭けようと思いました。
予想を上回る走りでした。
当初入賞が目標でしたが、淡い期待はありました。(数%ぐらいか?)

男子は7人でフルマラソンの距離を繋いで走る。
2区でトップに立った世羅高校はその後ぐんぐん差を拡げて行き、神の領域と言われた仙台育英高校の持つ大会記録を更新、2時間1分18秒という物凄いタイムで優勝しました。
7人は秋から想定したメンバーです。
1区で3人の中にいたので後は記録がどう出るか、期待していました。
生徒の距離感をうまく保つと言う事であまり教えない、指示し過ぎない、我慢する、言わない指導。
生徒の持っている内面の成長、自分で考えさせる力が育たないと思っていて、極力自分で考えさせる事が出来るように言いすぎない指導をしようと心掛けています。
例えば1000mを5回走ろうとする時に、4回か6回かは自分で決める、ペースも自分で決める。
そうするとさせられた練習ではなくて、考えて選んだ練習になると効果が高いと思っている。
女子も男子も寮生活で食事の量は自由、栄養指導はしますが、女子には甘いものを食うなとは言えない、控え目にとは言うが後は自己責任だと思います。

効果としてはまず積極性が生まれます。
単独走ができるようになり、駅伝は一度送りだしたらおしまいなので、いろいろ流れがあるので、危機管理能力とか、言い過ぎるチームは予定が狂うと脆い。
新迫志希選手 最も力のある選手でした。
10迄言わなくても巧く自分の中に落としこめる、やりたいようにやって結果を出していました。
キャプテンになった時にぱたっと調子を崩してしまいました。
走る前から負けるパターンができてしまい、負けず嫌いがでて、負ける理由を作ってゆく。
人の話を素直に自分の中に受け入れようとする感じではなかった。
その時、距離感を取ってなにも言わなかった。(もどかしかったが)

ただチャンスを与えなければとは思いました。
国体には出そうと思った、「エースはお前だから国体はおまえだ」と言っただけでした。
国体は予想外に走れたレースだったので、手ごたえをつかめるきっかけとなった。
いろいろトラブル、ストレスがあって考える力がつくと思っています。
自分でなかなか考えることができない生徒もいるが、修正をしてやるが型にはめてこうだと言う様なことはしない。
普段の生活をしっかり見てやることが大事だと思います。
本当の強さはトラブルとか、うまくいかないときなどに本当の自分の力を発揮できるのが強さだから、そういった人間が求められる、社会に出てもそうだと思う。

世羅高校の選手で活躍した当時は言われたことをやっているだけでした。
自分で考えることはしなかった。
世羅高校に赴任した時は、黙ってついてこいという様な感じで厳しくやりました。
一方的な指示する指導でした。
優勝した2006年の翌年、3区で出た生徒が怪我で使えなくなった。
何も考えていなかった生徒が出ることになり、全体に動揺が広がって全部が失敗しました。
この時に思ったのが或る程度自分で対応する力がないと駄目だと思いました。
アプローチの仕方を考えていかないといけないと思いました。
悔しさを活かすために方針を変えないといけないと思って、指導者の自己満足で終わってしまうと指導者の都合のいい人しか育たない。
生徒の満足を求めないといけないと思いました。
我慢をする指導、無理な管理をすればするほど、お互い息が詰まってくる、楽しくない。
シューズ、服装も自分の好きなものを選ぶ。
まだまだ日々勉強です、もっともっと言わなくても手を加えなくても出来ればいいと思います。
現状維持は後退だと思います。

人を育てるときには待つ指導が大事だと思っています。
一本筋が通った様な、人間的なもの、厚みがないといけないと思っています。
上司に立つものが待つ度量がないといけないと思う、若い人の意見が出しやすい様な体質を作るには待つ指導が大切だと思います。
男子はいい選手が抜けるのでチームを作ってゆく楽しさはあります。
教え子からオリンピックを出したいと思っています。




2016年5月6日金曜日

吉田紗栄子(一級建築士)    ・美しくバリアフリーを届けたい

吉田紗栄子(一級建築士 NPO法人理事長) ・美しくバリアフリーを届けたい
東京生まれ 73歳 高校生の時にローマに住みイタリア語を身に付けました。
帰国後パラリンピック東京大会に大学3年生で通訳ボランティアとして、参加します。
スロープやカーテンが取り付けられた選手村で車椅子でも不自由なく過ごす選手たちの様子を見て感動し、住まいのバリアフリー設計を一生の仕事に選びます。
大学卒業後、1級建築士となった吉田さんは、介護が必要になる前に誰もが自宅のバリアフリーが必要だと感じるようになったと言います。
そこで吉田さんはNPO法人を設立し、安全に長く暮らせる住まいについて、アドバイスやセミナーの開催などを続けています。
来月6月からデパートで美しいバリアフリーの為の相談コーナーを始めることにしています。

一人一人合わせた設計を考えています。
天井走行リフトで身体を吊り上げて移動したり、ヘルパーさんが力を入れなくて移動できるようになっています。
浴槽の縁には赤い縁取りがしてあり、天井走行リフトで身体を吊り上げ移動した時にヘルパーさんが足がぶつかるのを判るようにしてあります。
居心地が良くて安全、自分の好みに合った家を作りたいと思っています。
カーテンも一緒に店に行って好みにあった物を選んだりします。
身体も変化するので、周りの環境、家が変わってくることがあるので、その後も対応しています。
地震、災害が怖いので必ず2方向から逃げられるように設計しています。
バリアフリー、暗いイメージがあるが普通に見えるバリアフリーを考えています、手すり一つについても形、つかまるところを作るとかいろいろ方法を考えています。

父が国連の職員をしていたので、16歳の夏休みにローマを尋ねました。
ローマ時代に作られた水道橋がいまだに使われている事を知り、建造物の凄さを感じて、建築をやりたいと強く感じました。
英語、イタリア語を覚えていって、この事が今日につながっている大事なポイントだと思います。
オリンピックは英語でやり凄くアルバイト料は高かったが、東京パラリンピックでは予算がなくて、通訳部門を日本赤十字社の青年課が受け持つ事になって橋本祐子さんという課長が6人の人達に一人10人探せば60人になると言う事で、声を掛けられてボランティアをしてほしいと言う事で引き受けました。(大学2年)
グランドハイツという米軍が使っていた基地だったがバンガローと呼ばれる平屋建があり、入口に2,3段の階段がありそれに木製のスロープを付けたり、扉を取ってカーテンにしたり、食堂棟が1.5~2m高くなっていたのを自衛隊の人達が長いスロープを作っているのを見ました。
イタリアの選手は普通に生活をして普通に結婚して普通に仕事をし、普通にスポーツをやっていて強くなって選手になったと言う人で、接していて障害者と接しているという感覚は無かった。

障害がある方に取って建築はバリアになっていて、解決してゆく事は建築の力だと感じて、設計に人生をかけようと思いました。
1965年に日本赤十字団の仲間でデンマークの福祉施設を訪れました。
イギリスのストーク・マンデビル病院からパラリンピックは発したが、日本から3人派遣するので通訳として行きましたが、デンマークは私がどうしても見たいと思っていた福祉施設、障害のある方の家を見に行きました。
障害のある家はインテリアが素敵で雑誌から抜け出してきた様で、デザインの力でこのように素敵に住めるんだと衝撃を受けて、憧れました。
1級建築士の試験は殆ど男の方でした。
大工さん、設備屋さん等の職人さんに一つ一つ教えてもらって、経験を積んできました。

障害にならないうちから、大きなリフォームをしたり、新築したりする時には基本的なバリアフリーをやっておいてほしいと思うが、自分の思い通りのものができなくて、仕方なく施設に移って行くのを数多く見て来ました。
42歳の時に工事現場で左足股関節に激痛が走り歩けなくなってしまって(変形性股関節症)2カ月間入院して、車椅子に乗っている人達が生きいき生活していたのに励まされ、絶対に直そうと思いました。
この経験が、その人の気持ちになれるような経験をして、さらにこの仕事にのめり込む様になりました。
阪神淡路大震災の時に家の下敷きになって下半身麻痺になった女性が、車椅子でも生活しやすい家を作りたいと言う事でしたが、近くに専門家の相談に乗ってくれる人がいなくて、全国どこにいても専門家が必要だと言う事で15年前に、高齢社会の住まいを作る会のネットワークを作りました。(50名の専門家を結集する事が出来ました)
2003年にNPO法人にして、いろんなアイディアを出しあったり、イベント、セミナーを50回以上はやっています。

耐震補強が重要になってきて、バリアフリーも一緒に考えていけば良いと思って、そういったセミナーなどをやっています。
2年ほど前に新バリアフリーという言葉を作って、どんなことが大切なのか15項目にまとめた小冊子を作って1万2000部を配りました。
以前は家の中だけでしたが道路、駐車場から室内までをどう安全に入ってこられるかが大切なことになってきています。
キッチン、トイレなど将来のことを見据えて考えてもらいたいと思います。
50~60代の人に早めに考えてほしいと思っています。
リフォームは体力と経済力の勝負なので、高齢になると衰えてくるので、業者さん任せになってしまう可能性がある。
玄関、トイレ、お風呂などはいずれは手すりが必要になるので、耐える下地を入れておくとか、必要になります。

高齢になるとかならず衰えてくるので、住宅がベースになるので、自分自身が元気で自分の家で過ごすことが大事だと思います。
高齢で事故に遭うと寝たきりになる可能性もあるので、安全で暮らせる家を作って行かなくてはいけないと思います。
今年6月から、池袋のデパートで50歳以上の方を対象に、美しく心豊かに暮らしてゆくための提案するスペースを作ろうと準備をしています。
3年前に福祉、インテリア、建築、医療等の専門家が集まって設立した団体です。
200平米あります。
高齢になった使いやすい家具もありますので、いろいろなことを提案できればいいなあと思っています。
「失われたものを数えるな、残っているものを最大限に生かせ」(グッドマン博士)
感銘を受けて私の人生全体がこの言葉で支えられている様な気がします。
次の目標は2020年のパラリンピックまでは何等かの活動をして行きたいと思っています。
1回戦で負ける様な選手は余裕があるので普通のお宅に訪問出来たらいいなあと思っていまして、交通のバリアフリー、家のバリアフリーを考える事になると思っているので実現したいと思っています。


















2016年5月5日木曜日

内藤ミツ(向井千秋さんの母)   ・宇宙飛行士を育てた肝っ玉母さん

内藤ミツ(向井千秋さんの母)   ・宇宙飛行士を育てた肝っ玉母さん
日本人初の女性宇宙飛行士、向井さんのお母さん 91歳。大正14年栃木県生まれ。
昭和25年 素直で明るく人懐っこい性格を見染められ、となりの群馬県館林市の中学校の教師の喜久雄さん(14年前に亡くなる)と結婚、その際親が用意してくれた結婚資金は全て鞄を扱う店の開店資金につぎ込みました。
ミツさんは自分ができなかった大学進学をまだ生まれていない子供達にはさせようと先を見据えた計画を、反対を押しきって実行したのでした。
昭和27年長女千秋さんが生まれ、その後長男、次男、次女と 4人の子供が誕生しました。
日本人で初めての女性宇宙飛行士になった千秋さんは、勝手に育ったのであって、むしろ自分が4人の子供に育てられたと言うミツさんに伺います。

小さい時から親が田んぼが忙しいと、早引きし、子守り、ご飯番等をやらせられて、なんてひどい親だど思っていました。
主人喜久雄がしまいっ子でお坊ちゃまの様な人で、会って主人の父親が気に入ってくれて、結婚する事になりました。
自分が学校に行きたかったが行けなくて、考えて、主人の月給が1万3000円では子供を大学には入れてあげられないと思って、子供は生まれる前ではあったが、おかず代位の働きはした方がいいと言われたこともあり、鞄屋をやることにした。
昭和25年に鞄屋を始めたら戦争が終わって間もなくなので需要があり、面白いほど売れました。
忙しくて子供の面倒をみることができなくて、当時もうちょっと子供の面倒を見ていればと、今後悔しています。
主人のところへは子供達は行きませんでした。
次女(千春)は親戚に預けていて、入学式に出ることが出来なかった。
千春がいじめられていると、守ってあげようとしたり、私より兄弟思いでした。

主人の写真を肌身離さず持っていて、主人の写真に向かって話したりします。
主人としょっちゅう江の島に子供を連れて海水浴に行きました。
淋しくなると、江の島の裏海岸に腰掛けて海を眺めています。
若い時はそうしていても通り過ぎてくれましたが、今行くとどうかなさいましたかと言われて、みんなに心配かけるといけないと思って、海を眺めて腰かけても居られません。
思い出の場所に行くと思わず喜久雄さんと言ってしまいます。
長男はアメリカに住んでいますが、足が悪くてかわいそうでした。
子供の頃医者になって直してやると、千秋は思ったそうです。
次男が店を受け継ぎました(私が40数歳の頃)。
主人は決して店には出ませんでした、私が荷物をもっていても持ってはくれなくて、主人に持つ様に千秋から言われてやっと持つ様になりました。
4人共大学には行く事が出来ました。
長男は8年も行きました。(アメリカも含め)
主人は兎に角本が好きでご飯ですよと言うまで本を見ていました。

千秋から宇宙飛行士になると言われた時は、「あっそうなの」と言ってどんな事をやるのか判っていませんでした、私も行きたいと思いました。
千秋がスペースシャトルに乗る8年前に事故がありました。
カウントダウンが始まると、居たたまれませんでした、泣いてしまいました。
居たたまれないので2度と宇宙には行かないでといったが、2度目にも行きました。
注目されるとか、羨ましがられるのが千秋は好きではない様です。
心の中では心配していると思いますが、千秋を見る目は主人は割合あっさりしていました。
長男がアメリカに住んでいる事もありますが、アメリカにはそれこそ数え切れないほど行っています。
ケネディー大統領がファンだったと言う事で(館林のジャクリーン)、TVで11月23日見ていて涙が止まりませんでした、毎日泣いていました。

一日一万歩以上は歩きます。
草花を見たりして、歩くのが好きです。
主人は14年前に亡くなりましたが、周りはあんまり気にしていません。
千秋には筑波に来ないかと言われますが、友達もいますしここに一人でいます。
















2016年5月4日水曜日

2016年5月3日火曜日

2016年5月2日月曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・国際社会への復帰(第29回)

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・国際社会への復帰(第29回)
新生日本の実像
昭和27年4月28日以降から昭和30年ごろまでの世相。
サンフランシスコ平和条約の発効は第二の開港と言われる。
占領支配が解けて開国したのが、第二の開港と言われる。
丸山眞男さんは戦後の日本の政治学の元を作ったと言っていいと思います。
日本人は情的に見る傾向があるのでもっとクールに国際社会を見ようじゃないかと論文で訴えています。
昭和26年6月に「世界」で発表した。
「今度の講和条約草稿は比類なく寛大であるとして、アメリカの厚意に感謝せよと言う様な誇張が政府論調、大新聞論説にも、うかがわれる。
ダレス特使の努力にたいしては個人的にご苦労様と言う気持ちを表明する事は自由だが、日本の為を図ってくれるかのように考えて、感謝感激するのは滑稽を通り越して悲惨と言うしかない。
国際政治にたいする見方があたかもA国がB国を先天的に好いているとか、C国を先天的に憎んでいるかのように考える、女学生的センチメンタリズムを多分に脱していないからである。
移ろいやすいは人の心と言うが国際政治状況は又格別である。」
それぞれの国はそれぞれの自国エゴがあるので、きちんと見抜いて、センチメンタリズムでは国際社会では生きていけないと言う忠告だと思います。

丸山さんは日本軍の一人でしたが、兵隊でありながらもいろんなことを考えていたんだと思います、それを元にしながらその後の政治学を作って行ったと思います。
昭和27年5月1日 血のメーデー事件 メーデーの日に集まったデモ隊が皇居広場に集まるのが禁止されていたが、人民広場だと言う風に称して入ろうして、警察側との間で衝突が起こって、烈しい暴力的なやり取りがあった。(講和条約から3日後)
占領された期間が解けて、我々の国だと言う思いと、皇居広場はデモ隊とは別の空間だと言う考えとの衝突だったんでしょうね。
吉田内閣がずーっと続いていて、国民の間ではもういいという批判が底流にあったと思う。
米軍基地への反対運動も広がった。
吉田茂首相が一人で日米安保条約を結んだが、日本を守ってもらうために米軍に基地を提供する事を容認しているが、アメリカ軍の基地を作る時に農村地帯が選定されるが、基地反対闘争は昭和28年、29年ごろは大きく広がる。
そのうち、内灘闘争(石川県)、砂川闘争が大きな闘争。
農民と国とのぶつかり合いになる。
「金は1年、土地は万年」 内灘闘争 スローガン
「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない。」砂川闘争 スローガン

政治を歌で表わし、歌で連帯を結ぼうと言う形の歌声運動が広がりました。
歌声喫茶も出てきた。
「原爆は許すまじ」、「若者よ」、「幸せの歌」、「手のひらの歌」等
講和条約発効以後原爆関連の写真展、ニュースなども流れるようになる。
原爆に関する文学、詩、演劇とかも広まり、原爆の悲惨さが紹介された。
昭和29年3月には水爆実験がビキニ環礁で行われて、第五福竜丸が被爆した。
禁止海域の中に居たわけではないが、被爆して、焼津に帰ってくるが、被爆での大騒ぎになる。
久保山愛吉さん 無線長でしたが、昭和29年9月に亡くなる。
東京杉並区のお母さんたちの読書会(杉の子会)があり、原爆に反対する署名運動をやっていたが、原爆禁止の母体になって全国化してゆき、原水爆禁止世界大会に広がってゆく。

昭和30年8月6日に第一回原水爆禁止世界大会が開かれた。
一般大衆では、アメリカ人と結婚するための花嫁学校が作られたりした。(時流に乗り易い日本人の側面がある)
マッカーサー道路、マッカーサー神社を作ろうとかの話も出る。
欧米の文化、生活態度に対する関心とかが高くなってきて、ミスユニバースで伊東絹子さんが3位になったりして大きく報道された。(8等身美人)
良い映画が入ってきて、日本でもいい映画が出来ました。
外国作品 「風と共に去りぬ」「禁じられた遊び」等。
日本映画 「姫ゆりの塔」「二十四の瞳」「原爆の子」「真空地帯」小津安二郎の 「東京物語」等。
TVの時代が来る、NHKのジェスチャー (TVならではの番組)
相撲、野球、プロレス等

昭和28年6月2日 エリザベス女王の戴冠式に天皇の名代として皇太子(19歳 現天皇)が出席。
着いた時はメディアも冷たかったが皇太子自身の若さ、きびきびした言動、自然に発する態度等がイギリス社会で認められてゆく。
チャーチル首相が日本の若いプリンスを引きたててくれて、イギリスの世論が大きく変わる。

昭和28年4月20日 第57回ボストンマラソンで山田敬蔵選手が世界新記録で優勝。
昭和歌謡 「街のサンドイッチマン」 「原爆許すまじ」 「ガード下の靴磨き」