松尾清晴(元鉄道マン) ・オートバイで世界ひとり旅(H28/4/1放送)
さいたま市 72歳 定時制高校卒業後、旧国鉄JR東日本に就職、鉄道マンとして37年間働きました。
オートバイとは無縁だった松尾さんですが、55歳の時に同僚に誘われたツーリングがきっかけでオートバイの旅に魅せられました。
一度しかない人生、会社の中だけで終わりにしたくないと、56歳で早期退職、退職金を資金に2000年からヨーロッパや中東、アメリカ、など世界121カ国をオートバイで旅をしています、
その距離は15年間で37万km、地球9周分を越えました。
バイクでの旅が121カ国、オートバイで走ったのは111カ国、島国はオートバイは持ち込めないので。
車掌をやっていました。
40年近く務めたが、車掌を20年やって残りの15~20年は車掌をおろされて、忙しい駅の雑務、応援に行ったりしました。
定年までやっていると、あと20年で80歳になり、あと20年で人生終わってしまうと思って、元気な今のうちだったらオートバイで外国を走れるかもしれないという気持ちが強くなった。
ツーリングに行かないかと誘われてオートバイでの旅に行ったのが55歳の頃でした。
1500ccで浦和から九州佐賀まで、朝5時に出て夕がた7時~8時には家につきました、1200km。
以外と走れるなあと思ってこれなら外国にも行けると思いました。
オートバイは330kg、荷物を積み込むと450kgになります。
倒れると一人では起こせないので、人が来るのを待って手伝ってもらって起こします。
今思えば決断したのが良かったです。
上が高校生の頃で、妻からも反対されたが、最後はあきらめました。
退職した年にまず先にバイクを送って、オランダ、ベルギー、フランス、イングランド、トルコ、ヨルダン、シリア、エジプト等42カ国ぐらい走って、その後北アメリカ、中米、南米、アラスカ、シベリア横断、タギジスタン、ウズベキスタンなど、アフリカも走って、70歳までに2年間ブランクがあったが70歳になって、あまり60歳の時と変わらないなあと思って、2014年からアラビア半島、ドバイ、オマーン、イラン等走り残した国を走ってきました。
2年間で走ったのは2万kmぐらいでしょう。
ビザは一度も断られたことはありませんでした。
例えばロシアからモルドバ、リトアニアに行くときは、もっと手前の国でグルジアでロシアビザを取るとか、その国の大使館に行ってビザを取るので、それが意外とめんどくさい、行くまでが大変です。
英語は話せない、そのほかの国だって話すことはできない、習っていたら人生終わってしまう。
毎日地図を見せて聞いてゆくので、人間を信用するしかない。
慣れてくると地元の人たちとのふれあい、温かさ、話しあいできる楽しさがあります。
前回はアラビア半島のドバイから始めてオマーンに入って、ビザが10日間だった、延長しに行ったが、言葉が判らず期限がきれていて、罰金払ってオマーンにまた戻って、グルジア、イラン、アルメニア、グルジア、コーカサス山脈を越して、ロシアに入るのに黒海沿岸を走ろうと思ったが、国境が
閉まっていた。
戻ってソチを通ろうと思ったがフェリーがなく、グルジアまで戻って、コーカサス山脈を越してロシアに入りました。
チェルノブイリにも行きましたが、今回行った先々でリビアとかで福島はどうかと言われました。
ウズベキスタン、イランではお金が降ろせなくて、手持ちが現地のお金で5000円。
身ぶり手ぶりで一緒に行ってもらった人と銀行と交渉したが駄目で、9万円で買ったビデオカメラを2万5000円で買い取ってもらって、4泊5日なんとか過ごしたことがあります。
眠れない夜もありました。
昔山登りをしたことがあるが、凄く仲のいい人と1週間位縦走した、2~3回行ったが疲れてくると相手の欠点が見えてきてしまい、喧嘩になりそうになったので、オートバイの旅も1カ月、1年続くと、欠点が見えてきてしまうので一人旅です。
今回これが友情かと思う事に出会いました。
オマーンに2カ月いましたが、巧く説明できないが、居心地の良さとは違った、ほんわかした、親切だが、物を取られると言うのがすくない、気持ちが何とも言えない、違う空気を感じた。
自分が今までの国と違った感じを受けたのがオマーンでした。
コソボは内戦で今でも破壊されたビルが残っています、人間的には他の国とは変わらないです。
日本にいると、自分が気に入らない国は悪く言うけれどそうじゃないんじゃないですか、生活している人達は人間的にみんな同じですよ。
世界に行った先々では、日本で掴んだイメージが全部壊れてしまいますよ。
知らない国で、知らない人に荷物を観ていてくれと言うと、ちゃんと見てくれているが、人間ってもともと生まれつきは人を誤魔化すとか、かっぱらうとかは無かったんじゃないか。
人から頼まれると責任を果たす、そういうものがあるんじゃないか。
もしかして泥棒だとしても頼まれたら、責任感はもともと持っているものかなあ、と思う。
道は一番判らない、ナビは前回からで、地図を自分のノートに書いてそれを見せながら行くが、目的地に向かう道なのか判らない。
聞いて当たっている事もあるし当たっていない時もある。(100km単位で戻ったりするのは当たり前)
サハラ砂漠はこれは死ぬぞと思った時がある、途中であきらめてトラックをチャーターして運ぼうと思ったが、チェックポイントで一回押さなければ駄目だと言われて、死んでもいい今日だけは絶対生きてやると思って、走りだして、或る日空が青くて(それまではピンクの黄砂)、あーっサハラ砂漠を抜けたんだと思いました。
チベットは道が悪い、平均標高が4000m、走った中で一番高いところがエベレストのベースキャンプで5200mです。
そこでは今まで経験したことのない充実感を感じました。
事故にも会いました、アラスカでキャンピングカーのボデーにぶつかってしまって、頭10針縫って、鎖骨骨折、あばら骨を12本のうち10本折れて、それが肺にささってヘリコプターでアンカレッジの病院に運ばれました。
1カ月入院かと思ったが、10日間で退院、10日間入院で740万円(ヘリコプター代80万円含め)、保険に入っていたために良かった。
家族には感謝しています。
妻にはまだ言っていないので、もうちょっと走ってから有難うと言いたいです。
次はまだ決めていないが、東南アジアで行っていない国があるので、近いうちに走ってみようかなと思っています。
笑われて、笑わせて道に迷って親切に泣いた、これまでの15年間、37万kmの旅でした。