新生日本の実像
昭和27年4月28日以降から昭和30年ごろまでの世相。
サンフランシスコ平和条約の発効は第二の開港と言われる。
占領支配が解けて開国したのが、第二の開港と言われる。
丸山眞男さんは戦後の日本の政治学の元を作ったと言っていいと思います。
日本人は情的に見る傾向があるのでもっとクールに国際社会を見ようじゃないかと論文で訴えています。
昭和26年6月に「世界」で発表した。
「今度の講和条約草稿は比類なく寛大であるとして、アメリカの厚意に感謝せよと言う様な誇張が政府論調、大新聞論説にも、うかがわれる。
ダレス特使の努力にたいしては個人的にご苦労様と言う気持ちを表明する事は自由だが、日本の為を図ってくれるかのように考えて、感謝感激するのは滑稽を通り越して悲惨と言うしかない。
国際政治にたいする見方があたかもA国がB国を先天的に好いているとか、C国を先天的に憎んでいるかのように考える、女学生的センチメンタリズムを多分に脱していないからである。
移ろいやすいは人の心と言うが国際政治状況は又格別である。」
それぞれの国はそれぞれの自国エゴがあるので、きちんと見抜いて、センチメンタリズムでは国際社会では生きていけないと言う忠告だと思います。
丸山さんは日本軍の一人でしたが、兵隊でありながらもいろんなことを考えていたんだと思います、それを元にしながらその後の政治学を作って行ったと思います。
昭和27年5月1日 血のメーデー事件 メーデーの日に集まったデモ隊が皇居広場に集まるのが禁止されていたが、人民広場だと言う風に称して入ろうして、警察側との間で衝突が起こって、烈しい暴力的なやり取りがあった。(講和条約から3日後)
占領された期間が解けて、我々の国だと言う思いと、皇居広場はデモ隊とは別の空間だと言う考えとの衝突だったんでしょうね。
吉田内閣がずーっと続いていて、国民の間ではもういいという批判が底流にあったと思う。
米軍基地への反対運動も広がった。
吉田茂首相が一人で日米安保条約を結んだが、日本を守ってもらうために米軍に基地を提供する事を容認しているが、アメリカ軍の基地を作る時に農村地帯が選定されるが、基地反対闘争は昭和28年、29年ごろは大きく広がる。
そのうち、内灘闘争(石川県)、砂川闘争が大きな闘争。
農民と国とのぶつかり合いになる。
「金は1年、土地は万年」 内灘闘争 スローガン
「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない。」砂川闘争 スローガン
政治を歌で表わし、歌で連帯を結ぼうと言う形の歌声運動が広がりました。
歌声喫茶も出てきた。
「原爆は許すまじ」、「若者よ」、「幸せの歌」、「手のひらの歌」等
講和条約発効以後原爆関連の写真展、ニュースなども流れるようになる。
原爆に関する文学、詩、演劇とかも広まり、原爆の悲惨さが紹介された。
昭和29年3月には水爆実験がビキニ環礁で行われて、第五福竜丸が被爆した。
禁止海域の中に居たわけではないが、被爆して、焼津に帰ってくるが、被爆での大騒ぎになる。
久保山愛吉さん 無線長でしたが、昭和29年9月に亡くなる。
東京杉並区のお母さんたちの読書会(杉の子会)があり、原爆に反対する署名運動をやっていたが、原爆禁止の母体になって全国化してゆき、原水爆禁止世界大会に広がってゆく。
昭和30年8月6日に第一回原水爆禁止世界大会が開かれた。
一般大衆では、アメリカ人と結婚するための花嫁学校が作られたりした。(時流に乗り易い日本人の側面がある)
マッカーサー道路、マッカーサー神社を作ろうとかの話も出る。
欧米の文化、生活態度に対する関心とかが高くなってきて、ミスユニバースで伊東絹子さんが3位になったりして大きく報道された。(8等身美人)
良い映画が入ってきて、日本でもいい映画が出来ました。
外国作品 「風と共に去りぬ」「禁じられた遊び」等。
日本映画 「姫ゆりの塔」「二十四の瞳」「原爆の子」「真空地帯」小津安二郎の 「東京物語」等。
TVの時代が来る、NHKのジェスチャー (TVならではの番組)
相撲、野球、プロレス等
昭和28年6月2日 エリザベス女王の戴冠式に天皇の名代として皇太子(19歳 現天皇)が出席。
着いた時はメディアも冷たかったが皇太子自身の若さ、きびきびした言動、自然に発する態度等がイギリス社会で認められてゆく。
チャーチル首相が日本の若いプリンスを引きたててくれて、イギリスの世論が大きく変わる。
昭和28年4月20日 第57回ボストンマラソンで山田敬蔵選手が世界新記録で優勝。
昭和歌謡 「街のサンドイッチマン」 「原爆許すまじ」 「ガード下の靴磨き」