2016年5月28日土曜日

小堺一機(タレント)       ・人生はごきげんよう

小堺一機(タレント)       ・人生はごきげんよう
1956年生まれ 寿司職人だった父親の関係で千葉県市川市から東京浅草に移り住み、映画などの文化に数多く触れる子供時代を過ごしました。
専修大学在学中に出場したTV番組、「銀座ナウ」の素人コメディアン道場で17代目のチャンピオンになったのが芸能の道に入るきっかけになりました。
その後、萩本欽一さんの番組に関根勉さんと出演し、お茶の間の人気を集めました。
お昼のトーク番組に抜擢されたのは28歳の時です。
今年3月まで31年と半年間に渡り司会を務めました。

やってきて気がついたら30年を過ぎていました。
いろいろな先輩に恵まれました。
千田光男さん、堺さんに会え、勝新太郎さんの学校に入って、萩本さんの事務所に入れて、運が良かったです。
勝さんよりも萩本さんのほうが怖いです。
遊びながら学ぶんだなあと、勝さんから教わりました。
大将からはガッツイテないと関根さんと共に言われました。
長く続いている番組が多いです。
「いただきます」が始まったのが、31年半前です。
「いいとも」の後に叔母さんたちとの番組の司会があるので、どうするかという電話があり、嘘じゃないかと思ったが、本当でした。

「いただきます」で始まる前に萩本さんに「お前にピンの仕事は来ないとよ」と言われました。
お前は全部自分で言ってしまうので、お前には来ないと言われました。
堺さんからなんであの人は一人でしゃべるんだろうと関根さんに言われて、萩本さんから言われたことを思い出しました。
叔母さんはどんなことを言っているんだろうと思ったらめちゃくちゃ面白かった。
芸事で一番つらいのは素人が頑張っているのを見るのが辛いと、勝さんも言っていました。
全部が繋がって、自分のおしゃべりを少なくして、事前の準備もしなくしたらその方が良くなった。
力んでいるとだめなんですね、頑張ると力むは違いますね。
サイコロがテーマを決めてくれるので、それで遊べばいいので。
サイコロは1万9459回投げました。(延べ出演者数が1万9000人以上)
いろいろなことを教わり、31年学校に行っていたみたいです。
同じ人が何回か出ると、人が成長して行くものを見ることができます。
本当に大きな人は全然構えていないですね、無駄な恐怖心も与えないし、それはありました。
28歳からですから、人生の半分ぐらいやっています。
仕事でも私生活でも何度か、有難いなあと思う、助けてくれる人がいたりします。
友達の女性がTV番組に応募の手紙を出して、素人コメディアン道場で17代目のチャンピオンになりましたが、初代が関根さんでした。

子供のころは明るいが落ち着きのない子だと通信簿に書かれていました。
千葉と違って、浅草に行ったら全部ロードショーで、夢のようでした。
家では店をやっていたので家に入ると邪魔なので、映画を良く見に行っていました。
父は南極観測隊の越冬隊の専属として民間人として初めて、第9次と15次の2度行って食事をつくっていました。
家はエンゲル係数の高い家でした、裕福ではないですが、いいものを食べていました。
番組を長く続けられたのはチームワークだと思います。
番組で回りも変わって、あたらしい人に教える事がありますが、教えることは教わることよりも難しいことが判りました。
私たちの時代は芸は袖で見て覚えろと言われましたが、最近は言葉で教える様な形になりましたね。
後進に何か助言するのは、すごく難しいと思います、それが判りました。

視聴率が下がった時にはその仕事が面白くなくてやっている人がいると下がってしまったりするが、萩本さんが焼き肉屋に全員集めて、一人一人聞いて、実はこういう事が嫌ですと言った時に次にその人はいませんでした、その位命をかけていて凄いなと思いました。
ちゃんとしていない人にも怒りました。
コメディアンは例えば「デブ」という事をその言葉以外でどれだけ言えるかという事だ、と思います。
(お風呂は半分で済むんですかとか)
品が無いのが一番駄目だと言われて気を付けていました。
自然体と言う形が大事だが、難しい。