永坂美晴(明石市望海在宅介護支援センター長)
・仮設から災害公営住宅へ いまこそ支えが大切(2015/5/9 1時台に放送)
56歳、総合病院の看護士を辞めて子育てをしていた永坂さんは、今から21年前地域にできたばかりの高齢者の為の在宅介護支援センターで勤め始めました。
ほどなくして明石の街は阪神淡路大震災に見舞われます。
仮設住宅の見まわり支援の仕事を担当することなった永坂さんは、そこで担当していたお年寄りが仮設住宅を出た後、自らの命をたつという出来事に遭遇し、精神的に打ちのめされます。
繋がりの有る支援の大切さを痛感したと言います。
今は休日などを利用して、東日本大震災の被災地に出向いて仮設住宅の支援員などの育成などに力を入れています。
東北には月に1回~2回、4年間で50回は軽く超えているのではないかと思います。
支援員さんの研修、支援員さんは仮設住宅がたくさんできて、見守り、支援をする形、支援員さんは緊急雇用で、いろいろ職業の人が、被災で仕事を無くしてしまった方が多かったです。
支援員さんは一番身近な存在になってきます。
支援されている皆さんも家を無くしたり家族を亡くされたり、自分自身が仮設住宅にいながら、回っている方もたくさんいます。
1995年1月17日阪神淡路大震災の時のちょっと前、在宅介護支援センターで週2回、3回勤務させてもらえればと在宅介護支援センターに入って、3カ月がたって震災がありました。
我が家も斜めになって潰れるのではないかと思いました。
1~2カ月位で、明石市で仮設住宅を応援する、仮設住宅ケアネットシステムが出来上がって、支援する役割を任命されました。
主人の職場が長田だったのでそこが火災にあったりして、私生活も震災一色で、仕事も仮設住宅で初めてする仕事でした。
突然に仮設住宅訪問を任されて、初めての経験でした。
最初なかなかドアを開けて頂けない様な状況もあり、段々訪問を繰り返す中で徐々に話をするようになって、そのうち家に入れるようになって、そこから段々ゆっくり話す様な状況になりました。
仮設住宅では初めて会う方同士ということが多かったです。
仮設住宅は壁が薄くて隣同士の話し声が聞こえてしまうし、外の音、話も聞こえてきてしまい、休まる気持ちは無かったかもしれません。
徐々に皆さんが挨拶したり、又集会場ができて、心が和んできて自分の身の上話をしたり、顔を見なくなったら心配をするようになりました。
仮設住宅の中で徐々に役割分担ができてきて、世話をするのが好きな人は声をかけたりして、うまくきっかけ作りをしてくれるようになりました。
復興住宅に移らなくてはいけないという様な情報が入ってきて、私たちは早く抽選に申し込むようにパンフレットを持って話をしましたが、慣れた今の仮設住宅にいて新しい家に行きたくないと言う人達もいました。
70代の夫婦で、子供はいなくて、夫は寡黙な人で、奥さんは優しい穏やかな方、主人から電話が入って、奥さんの具合が悪くて、行ったら私の目の前で倒れてしまって、救急車で病院に行ったら脳梗塞だった。
退院された時には障害が残っていて、仮設住宅にベッドを入れて車椅子の生活になりました。
ねたきりになってしまった失語症の奥さんの介護をすることになり、旦那さんは自宅で看たいと言う事で介護が始まった。
あたらしいところに移らなければいけなくなって、旦那さんは行きたくないと拒否された。
エレベーターがあるし、バリアフリーで段差がないし、良い環境に移ってほしいと思っていました。
説得して移って行きました。
しばらくするとご主人から電話がかかってきて、寂しくてしょうがないとの事だった。
仮設住宅は世話を焼く人がいたり、音、話し声など周りの気配があったが復興住宅では周りの音が聞こえず、静かな環境でありそれがかえって、孤独を呼んでしまったのではないかと思います。
私たちは仮設住宅を送りだしたら一段落して終わりだと思った。
失語症の奥さんとは話ができないなかで、最初にかかわった、心を許した私たちに何かを求めていたんじゃないかと今から思う、助けてくれというSOSを発信していたのではないかと思う。
或る日ご夫婦がいなくなって騒ぎになって、ご夫婦が海に身を投げたと言う報告が入ってきて、聞いた瞬間に足から血の気が引いてゆくのを感じて、とんでもないことをしてしまったんだろうと思いましたが、もう遅かったです。
その後在宅介護支援センターで高齢者を支援する仕事に戻り活動を続けていましたが、阪神淡路大震災から16年後 20011年3月11日東日本大震災が発生します。
つてを使って東北での支援活動に加わります。
仮設住宅ができて、何の経験もない人が支援員さんとして就く事が判って、社会福祉協議会の皆さんが集まって自分達のうまくいかなかった事がいっぱいあると言う事で、それを繰り返さないように伝えることも必要だと思って、簡単なワークブックを作って研修を始めました。
気仙沼での研修が終わって、「良く頑張ってきたね」と言う事を支援の皆さんに言うと全員が泣き出してしまって、今までのしんどかった思いがあふれてきてしまって、そこで辛いと言う事が判りました。
私もこういう事があったんですと老夫婦の事をメンバーの人に話をしました。(私はその時までは封印をしていました)
会場では皆さんが泣いてしまったり、会場を泣きながらでてしまうと言う場面があって話したことが良かったのかとの思いもありましたが、阪神でも辛い思いを乗り越えて頑張ってこられているんだと言う事を聞いて力をもらった様な気がするというコメントを一杯もらって、伝えて良かったと思います。
東北では今がとても大切な時期だと思います。
4年経っても仮設に残っている人がいて、これから復興住宅に移る人もいて、仮設住宅では住みにくい環境ではあるが、回りとの繋がり、コミュニティーができてしまっている。
それがまたゼロになる、特に高齢の方はあたらしい環境になじむのがなかなか難しい。
わたしたちは区切りと思っていたことが、新たな所に移る時に不安をいっぱい抱えながら行くと言う事に気付かなかったので、人と人とをつないでゆく仕組みを作ってゆく必要があると思います。
仮設の支援員と次の復興住宅での支援員との繋ぎが大事で、阪神大震災の時は丸投げしてしまった様に思う。
大きな苦しみを乗り越えた人は強くなっているが、何の支えもなければ倒れてしまうので、ほんの少しの支え、小さなつながりが繋いでいくと大きなつながりになってゆき、大きな支えになると思う。