内藤ミツ(向井千秋さんの母) ・宇宙飛行士を育てた肝っ玉母さん
日本人初の女性宇宙飛行士、向井さんのお母さん 91歳。大正14年栃木県生まれ。
昭和25年 素直で明るく人懐っこい性格を見染められ、となりの群馬県館林市の中学校の教師の喜久雄さん(14年前に亡くなる)と結婚、その際親が用意してくれた結婚資金は全て鞄を扱う店の開店資金につぎ込みました。
ミツさんは自分ができなかった大学進学をまだ生まれていない子供達にはさせようと先を見据えた計画を、反対を押しきって実行したのでした。
昭和27年長女千秋さんが生まれ、その後長男、次男、次女と 4人の子供が誕生しました。
日本人で初めての女性宇宙飛行士になった千秋さんは、勝手に育ったのであって、むしろ自分が4人の子供に育てられたと言うミツさんに伺います。
小さい時から親が田んぼが忙しいと、早引きし、子守り、ご飯番等をやらせられて、なんてひどい親だど思っていました。
主人喜久雄がしまいっ子でお坊ちゃまの様な人で、会って主人の父親が気に入ってくれて、結婚する事になりました。
自分が学校に行きたかったが行けなくて、考えて、主人の月給が1万3000円では子供を大学には入れてあげられないと思って、子供は生まれる前ではあったが、おかず代位の働きはした方がいいと言われたこともあり、鞄屋をやることにした。
昭和25年に鞄屋を始めたら戦争が終わって間もなくなので需要があり、面白いほど売れました。
忙しくて子供の面倒をみることができなくて、当時もうちょっと子供の面倒を見ていればと、今後悔しています。
主人のところへは子供達は行きませんでした。
次女(千春)は親戚に預けていて、入学式に出ることが出来なかった。
千春がいじめられていると、守ってあげようとしたり、私より兄弟思いでした。
主人の写真を肌身離さず持っていて、主人の写真に向かって話したりします。
主人としょっちゅう江の島に子供を連れて海水浴に行きました。
淋しくなると、江の島の裏海岸に腰掛けて海を眺めています。
若い時はそうしていても通り過ぎてくれましたが、今行くとどうかなさいましたかと言われて、みんなに心配かけるといけないと思って、海を眺めて腰かけても居られません。
思い出の場所に行くと思わず喜久雄さんと言ってしまいます。
長男はアメリカに住んでいますが、足が悪くてかわいそうでした。
子供の頃医者になって直してやると、千秋は思ったそうです。
次男が店を受け継ぎました(私が40数歳の頃)。
主人は決して店には出ませんでした、私が荷物をもっていても持ってはくれなくて、主人に持つ様に千秋から言われてやっと持つ様になりました。
4人共大学には行く事が出来ました。
長男は8年も行きました。(アメリカも含め)
主人は兎に角本が好きでご飯ですよと言うまで本を見ていました。
千秋から宇宙飛行士になると言われた時は、「あっそうなの」と言ってどんな事をやるのか判っていませんでした、私も行きたいと思いました。
千秋がスペースシャトルに乗る8年前に事故がありました。
カウントダウンが始まると、居たたまれませんでした、泣いてしまいました。
居たたまれないので2度と宇宙には行かないでといったが、2度目にも行きました。
注目されるとか、羨ましがられるのが千秋は好きではない様です。
心の中では心配していると思いますが、千秋を見る目は主人は割合あっさりしていました。
長男がアメリカに住んでいる事もありますが、アメリカにはそれこそ数え切れないほど行っています。
ケネディー大統領がファンだったと言う事で(館林のジャクリーン)、TVで11月23日見ていて涙が止まりませんでした、毎日泣いていました。
一日一万歩以上は歩きます。
草花を見たりして、歩くのが好きです。
主人は14年前に亡くなりましたが、周りはあんまり気にしていません。
千秋には筑波に来ないかと言われますが、友達もいますしここに一人でいます。