2014年12月31日水曜日

釜本美佐子(日本ブラインドサッカー協会)  ・ブラインドサッカーに願いをたくして(2)

釜本美佐子(日本ブラインドサッカー協会) ・ブラインドサッカーに願いをたくして(2)
健康で長生きしたい。
朝4時、5時に眼が覚めたら先ず柔軟たいそうをして、日が昇るのを待って、6時を過ぎてからウォーキングに出掛けます。
点字ブロックがあるところを白杖で伝わりながら歩きに行きます。
午後はヘルパーさんが来るので、新宿御苑とか代々木公園を2時間かけて歩くと言う風にしています。
障害者スポーツ大会があるので、出ませんかと言われて、ハイでますと言ったが、50m走る、ソフトボールを投げる、2種目出ました。
50mは大会新記録で金メダル、10秒31  ソフトボールも金メダルを取ることができた。
1日に10km歩く事が多い。
9秒台を目指します。

英語、第二外国語がスペイン語です。
ヨーロッパの中心言語には耳が慣れているので、なかなか聞こえなかった中国語をやってみようと思って習い始めたのが3年前です。
3年経って、大分音が取れるようになった。
ホテルでもバイキング方式が多くなってきて、私たちはとっても食べにくい、取りに行くのが難しいわけですから。
朝でもメニューを出してくれるホテルを選んで旅行してゆくツアーを組んでいけば視覚障害者でも旅行出来る。
温泉になると脱衣場に行ってからが困るので、誰かに手を引いてもらわないといけない。
ツアーを組みたいと思うのは砂風呂体験、塩を作る、そばを作る体験をしながら珍しい食べものを食べる。

視覚障害者の外出を手助けするボランティア組織の会長もしています。
それぞれその場所にはボランティア団体が有ったんです。
それを纏めて、各地方からやってくる人でも受け入れましょう、手引きをしましょうと言う団体を作った。
目的地に行く場合に、家から駅までは行けるが、その先はいけない場合が多々あるので、その時にその先をどなたかに手を引いて頂きたいと言う事がある訳です。
私としては旅行の手配をすることと同じことなので、難しいことではない。
音声のパソコンがあると言う事を聞いて、従来のパソコン操作と同じようにすることが出来る。
わたし自身はそんなに苦労ではない。
ボランティアの人が増えていってほしいと思う。

道に迷った時など「お手伝いしましょうか」と声を掛けてくれると、凄く嬉しい。
いろんな障害者の方が街に出てくると思いますので、ちょっと声をかけてくれると嬉しいです。
一番力を入れているのがブラインドサッカー。
サイドラインからボールが外へでない様にフェンスを設けている。(試合が中断しない様に工夫)
ボールを取りに行くときには、声をかけなければいけない VOY スペインコ語で「行くぞ」と言う意味
正面衝突を避けるために、声をかけることになっている。
シュート等と声をかける、コーラーと言う人がいる。(6人目 5人でプレイ)
判ってくるとフルスピードで走る様になってくる。
慣れてくるとボールの軌跡が読めるようになるので、足を出すとボールが止められる。
ボールの音、仲間の声、コーラーの声 この3つ 三角形をイメージしながらプレイをするので、選手に取ってみてはこんなに面白い事はないと思う。

ブラインドサッカーには解放感があると選手は言っている。
今チームとして日本選手権に出てくるのは13,4チームぐらい。
11月16日から東京でブラインドサッカーの世界選手権が行われた。
視覚障害者のサッカーだから可哀相な人達がやっていると夢夢思っていただきたくない、立派なアスリートが十分にサッカーをやっている。
日本のチームはまだ発展途上にある。 8チームで7,8位ぐらい。
リオ、東京に夢をつないでいきたい。
選手層を厚くすること、若手を育てていかないといけない、と思っている。
ボールを蹴ったこともない様な視覚障害者にスポーツの喜びを味わってもらいたいとも思う。

企業、学校からの研修も増えている。
視覚障害者と一般の人とがお互いに混じり合って共に生きる社会と言うのを形成出来たらいいと思っているので、見えないと言う事はこういう事ですよ、だからコミュニケーションを大事にしたいと思いますと言う風な、相手に対する理解、思いやりが深まって行けばいいなあと思います。
ちょっとした思いやりの心が優しい社会につながってゆくのかなあと思います。
2年後リオ、東京パラリンピックがあるので選手は大きな夢を描いているので、選手と共に夢を共有しながら行きたいと思います。








2014年12月30日火曜日

釜本美佐子(日本ブラインドサッカー協会)   ・ブラインドサッカーに願いをたくして(1)

釜本美佐子(日本ブラインドサッカー協会理事長)   ・ブラインドサッカーに願いをたくして(1)
73歳 大学で英語を学んだ後、ツアーコンダクターとして、140カ国以上廻りました。
ところが50歳を過ぎた頃、網膜の機能が衰える病気と診断され、いずれ失明すると宣告されます。
その後釜本さんは知人の紹介で目が不自由な人たちがプレーするサッカー、ブラインドサッカーに出会います。
視覚障害のある選手たちがボールの音や、コーチの声を頼りに自由自在に動き回る姿に圧倒されブラインドサッカーを日本に広めようと協会を設立しました。
4年前完全に視力を失った後も選手の育成に力を入れる一方で、旅行を楽しみ視覚障害者の外出を手助けするボランティア組織の会長も務めています。

眼の見えない人が行うサッカーで5人制で、4人が全盲で、ゴールキーパーは健常者、又は弱視の方。
40m×20mのグラウンドで行う。
ボールを追いかけるのは難しいので、ボールが転がってゆくときに音が出るようになっている。
ボールの中に鈴の様な音源が内側にくっついている。
2002年に日韓ワールドカップが行われる予定だった。
2000年にシドニーのパラリンピックで次回のアテネでのパラリンピックが5人制のサッカーの正式種目になることが決定された。
そのころに大分眼が見えなくなってきて、電話がかかってきて、ブラインドサッカーを知ってますかと言ってきた。
視覚障害の方のサッカーも何とか取り入れたいので、手伝ってくれと言われる。
韓国まで2001年に8人ぐらいで見に行く事になる。
弟は釜本 邦茂
グラウンドにいったら、小さいと思った。
全盲なのになぜアイマスクをしているのだろうと、初めは視覚障害者ではどうせ大して走れないだろうと思ったらとんでもない、フルスピードで走っている。

試合後インタビューしたら、サッカーは面白い、との返事が返ってきた。
こりゃあ日本に帰ってきてやらなければいけないと思った。
多少光を感じる人もいるので、条件を一緒にするためにアイマスクをするという事を後から聞いた。
私も4年前から全然見えなくなって、見えないと言う事は大変なことだと感じた。
ボールの音、ガイドの声を聞きながら走ると言う事が、彼等はピッチの中に自由がある、ピッチの外は思う様な行動ができず不自由だと思っているので、自分一人で考え走ることが楽しくてもしょうがないと言う風な状況だと思います。
帰ってきて、大坂で始めて、次に横浜でやりました。

弟もサッカ-協会の副会長もやっていたので、開始の時には講演をしたり、自分がアイマスクをして蹴る様な事もしてくれました。
始めてのアジア大会を日本で開くときは、弟は大会の名誉委員長になってもらいました。
キャッチポスター 「サッカーは目じゃないよ」
弟が中学に入る時に、野球をしようか迷っていたので、サッカーをするようにアドバイスした。
私はバスケットボールをやっていたし、スポーツ家族であった。
私はなるべく社会に留まりたいと思っていたので、4年生の大学に行ってプロになる職業を選びたいと思って英語を勉強しました。
通訳ガイドの試験にも合格する。
経済、法律、歴史、地理、芸能から勉強しなければいけなかった。

大坂万博(1970年)がやってくると言うので、旅行業に入った。
前年から入り、日本に来る外国人に日本で案内すると言う仕事だった。
次に国内の仕事から海外の仕事に移る。
日本に会社があり、海外に支店を持つと言う事はなくて、海外に行けば日本人のスタッフはどこにもいないので、全部自分で通訳をしながら飛行機の確認、ホテルの確認をしなければならず全て自分の方に掛かって来ていた。
現地とのやり取りはFAXもなかった時代だったので、テレックスの様な時代なので電話代も非常に高くて、現地とのやり取りを電話でなんてありえなくて、兎に角間違いが非常に多かった。
行った先 行った先で 次の飛行機の確認をして行かなければいけない状況だった。

1970年代 ギリシャ キプロス紛争が発生 空港、鉄道が全部封鎖と成る。
ホテルで一服して、午後見学だったが、午前に街に出かけるが店のシャッターを閉める光景に出会う、キプロスとギリシャが戦争を始めることを聞く。
2日目 ニュースを集めようしたが、全然集まってこなかった。(電話局も閉鎖)
現地の旅行会社の人から、内緒でイタリアのブリンジ市の港町に船が出ることを告げられる。
乗りますかと、戦争中なので乗船料3倍も取られるけど、と言ったら皆乗ることに賛同してくれる。
ローマのガイドの人が来てくれて、声をかけてくれた私は涙が出そうになった。(感激と嬉しさ)
何があるかわからず、瞬時に決断してゆく以外にないと思っている。
旅行会社を辞めて、英語塾を開いていた時に、眼の病気になる。
50歳を過ぎたあたりから目が痛いと言う状況だったが、数時間過ぎると治ってしまうので、病院には行かなかったが、眼にゴミが入り取れないので、眼の大学病院に行く。
取ってもらって、検査をしてもらって、網膜色素変性症ですと言われ、将来目が見えなくなると言われた。
2,3年後に視野狭窄が始まる。 視覚障害者3級になる。 4年前に見えなくなる。

宣告を受けた時は20,30年先でしょうと、笑い飛ばしていたが、段々見えなくなる。
眼の見えなくなった不安感があった。
手紙が来ても見えない、返事を書くのに書いてもらうが、ちゃんと書いてくれたのかと、疑ってしまう日々の連続だったが、相手に任せると言う状況となる。
電話が鳴った時に、立とうと思って動くが、柱に額を当てて大きなたんこぶを作ったりした。
受け入れる以外にない、気持ちを穏やかにする方法はない、悩んでも仕方がないと切り替えざるを得なかった。
野菜とかいろいろ支払いはカードでやっている。
今は野菜とかヘルパーさんに値段を読んでもらったりして、高かったら止めとくわと言う事も出来るようになった。
生きるための全ての情報の80%は眼から入ってきます。
いくらあがいても、この病気は今の時点では、治らない。
受け入れて生きてゆく、明るく、はつらつと元気に生きてゆくしかないと思う。

ブラインドサッカーの選手は物凄く明るいと思います。
心の奥底では治ってほしいと思っているかもしれないが、彼等は受け入れてブラインドサッカーに携わっているから明るいと思っています。
眼が見えなくなって失ったものは非常に大きいが、得たものも凄く大きいので、わたし自身はブラインドサッカーに携わって、サッカーというものを通して非常に多くの人と関わることができ、ボランティアさん、ヘルパーさん等と知り合いになれた。
ブラインドサッカーで彼らが夢を描いてくれる、私もその仲間にいるんだと言う事が、わたし自身としても大きな夢を描けている、こんな嬉しいことはないなあと思っています。








2014年12月26日金曜日

渡井真奈(盲ろう者通訳・介助者)    ・知ってほしい、盲ろう者の世界

渡井真奈(盲ろう者通訳・介助者)  ・知ってほしい、盲ろう者の世界
渡井さんは40歳 8年ほど前から、小学校、幼稚園をまわって、盲ろう者について知ってもらうための特別授業をしています。
視覚と聴覚の両方に障害がある盲ろう者のありのままを子供達の素直な心で感じ取ってほしいと言う思いからです。
渡井さんの夫、秀忠さんは38歳 盲ろう者を支援する仕事をしていますが、自身も全盲で難聴の障害があります。
二人は福祉を学んでいた大学時代に出会って結婚、現在は2人の子供との4人暮らしです。

盲ろう者、眼と耳の両方に障害のある方
何時障害を負ったかと言う時期によっても、コミュニケーション方法は様々です。
主人の場合は 点字を勉強していたので、手と手を重ね合わせて、タイプライターのように点字を一文字ずつ「こんにちわ」と言う風に、点字を打つ、指点字で話をしています。
手話を覚えている方が、目で見ることが難しくなったので、触手話という方法
点字、手話も判らないと言う方は、音声、FM補聴器を付けているとか
掌に一文字ずつ文字を書く、手書き文字、平仮名、カタカナ 等で行う。
ホワイトボードの様な小さなものに相手のいうことを書いてゆく筆記と言う方法もあります。
多少見える人も、人によって見え方も違うので色々です。

盲ろう者の通訳介助者 盲ろうと言う方が病院に行くときお医者さんとの話を通訳する、学校、買い物などで呼ばれたりする。
相づち 相手の肩をポンポンと2回ぐらい叩く。
笑い   相手の肩をポンポンポンと早く叩く。
合っている時は 肩に〇を書いたり、間違っている時は×を書いたりする。
盲ろう者の数は全国で約1万4000人と言われる。
両方障害登録しない事もあり正確には判らない。
主人は7歳ごろに全盲になり、耳の方は生れ付きの難聴だった。
静かな場所ならば、音声で聞こえるが、(右の耳だけ補聴器を付けている)、テーブルを挟んで話す時には聞こえなくなる。

長男が幼稚園に入る前ぐらいの時に、左手に長男、右手に主人、前に娘を抱っこして歩いていた時に、小学生がお母さんと一緒に歩いてきて、主人の事を「あの人、何」と聞いていた。
その時に言われたお母さんが「見ちゃだめよ」と言って足早に去っていってしまったので、その時にはショックを受けた。
主人には状況説明をできなかった。 他にも似たような経験があった。
長男が幼稚園の年少の時に父親参観あり、その時に担任の先生が、お父さんをどうやって他のお子さんに説明したらいいんでしょうかと言われ、先生の見たままを説明して大丈夫ですと伝えたが、先生はどうやって説明したらいいか判らないと言われた。
盲ろう者のことをもっと知ってほしいと思う様になった。

特別授業では盲ろう者の2人に話をしてもらう事にして、どうしてこのようになったのか、と言う事を話してもらって、その後耳栓して、目隠しをして白杖を持って、点字ブロックの上を歩く、盲ろう疑似体験をしたり、街中で白杖を持った人の手引きの仕方、私の紙芝居(2時間)をやると言った様な感じです。
紙芝居は自分で作る。   「ひろ(長男)のパパ 盲ろう者ってどんな人」 
白杖、補聴器などの事を説明したりする。
授業の後、手紙をくれたり、調べ学習をしてくれたりする。
大きな模造紙が部屋中に張ってあって、そこに眼の事、耳の事以外に、ユニバーサルデザイン、盲導犬、養護学校とは、いろいろ福祉の分野のことをグループごとに調べて、模造紙に書いてくれた
便利グッツまで考えてくれた子がいた。  凄く感動しました。

今幼稚園、小学校を回っている。
大人は偏見と言うか、ものの見方も出来てしまうので、小さいお子さんは素直なのでなんでも吸収してくれる。
サポートしたいがどう声を掛けていいかわからないと言う事でついつい通り過ぎてしまう人も少なくないので、やり方についても判らないと、危険も伴う事もあると思う。
突然白杖を引っ張ってゆくとか、後ろから押してゆく方もいる。(とても怖い)
白杖を持っていないほうに立って、その人の肘を支えるようにして補助する。

高校卒業するころに、自分は何をしたいのかなあと思った時に特別何もなかった。
絵を描くのが好きだったので、2年ぐらいは美術の学校に行って絵を描いていた。(紙芝居の作成に役立つ)
社会福祉学部があることを知る。 受験して入る。
掲示板に、盲ろう者向け通訳介助者養成講習会の案内が出ていて、それを見て受けてみたいと思った。(もう一度行った時にはすでにチラシはなかった)
電話をして養成講習会を受けたいと連絡して、行く事になる。
交流会の時に秀忠さんと会う事になる。
秀忠さんの授業の通訳をやっていた。 
結婚の話があり、かなり迷って1年ぐらい返事をしなかった。
気が合いそうだし、小さいころから寮生活をしていたので自立した方だと思った。
親は私の気持ちを重視してくれたが、でも賛成的でもなかった感じですね。
あちらの親御さんは(この子と結婚しても)いいのか、と言う様な感じでした。
出来ちゃった結婚だったので、私は絶対産みたいと思った。
今は中学1年生(男)、下は小学校4年生(女)

大変でしょうと言われるが、楽天的に考える方なので、悪い事を考えても同じ時間だけ過ぎてゆくので、それならいいことを考えて行こうよと、常に楽しいことを考えてその日、その日と言う感じで過ごしてきたので、すごく大変とは思っていないですね。
いろんなところを回って、活動を重ねることで、地域の皆さんとの繋がりが強くなったと感じます。
娘の小学校にはまだ行っていないので、娘も私も楽しみにしています。
障害者に限らず、お年寄りでも、ちょっと困ったかな、お手伝いをした方がいいかなと言う人を見たら、お手伝いが自然にできる様な子供達になって欲しいなと思います。
眼と耳が障害があると、家から自由に外に出られない方が多いので、ひとりでも多く出られるようになったらいいと思います。。
お子さんたちが素直に偏見なく接してくれればいいなと、欲を言えば大きくなった時に、眼、耳が不自由な人でも物を買う時に、点字がついて触って分かるようなものを作る人に成ってくださいと、おまけ的に授業で言っています。
いろんな人が世の中にいるんだなと言うのを知っていただければと思います。













2014年12月23日火曜日

早瀬圭一(ノンフィクション作家)    ・「命」を追いかけて40年(2)

早瀬圭一(ノンフィクション作家) ・「命」を追いかけて40年(2)
東京勤務が昭和46年ぐらい、もうこっちで50年ぐらいになるが、人と話す時に、酒を飲んだ時等は関西弁が出たりする。
本音をいうのは関西、関東は飾ったりするので、関西弁の方が本音を聞きだしやすいのかもしれない。
本音を聞きたいと思う時はこちらも本音で応じないと聞き出せない。
女子刑務所を取材していた時に、飲み屋の女将さんが言った言葉に、女の気持ちは朝と夜では全然違うと、夜になるといろんなものが渦巻いていたりすると、いう。
その時によっても、ポツンと一言、言った時に話が広がってゆく事もある。
相手の思いをちゃんと汲みとって話を深く突いていくしかない。

刑事も同じことを繰り返し聞いたり、別の話を聞いたりしながら、真実に近づこうとする。
何度も会うと言う事は無駄に思うかもしれないが、それでもそのなかから新しいものを聞けたりする。
人間をそのまま取材した平尾誠二 ラグビー 小谷正一さん プロデューサー。(彼は面白かった)
新聞拡販の目的で数多くのイベントを仕掛け、西宮球場での闘牛大会、百貨店の絵の展覧会などさまざまなイベントをプロデュースする。
私と編集長で井上靖さん宅に行った時に、小谷さんを紹介される事になる。
小谷さんに会いに行って、売れる週刊誌を作るノウハウを結局聞けなかった。
小谷さんの事を書こうと思った。 伝記を書こうと思った時には亡くなっていた。
小谷さんを知っている人を取材して歩いた。
小谷さんは毎日オリオンズを作る。 
新聞の部数を増やすのに繋がると言うのでやるが、見事に失敗する。
阪神タイガーズの主力選手を引き抜くが、阪神ファンは怒る、優勝もするが、人気は無かった。
「努力は運を引き寄せる。」 宿沢 広朗氏の言葉
本当に友だち、親友、兄弟、親子の様な感じにならないとなかなか本音のところまでは行かない。

聖路加病院で働くということ」 執筆
日野原さん以外の人を書こうと思っていた。
細谷亮太先生を書こうと思った。 先生は俳句、エッセーなど芸達者だった。
細谷先生に会いに行って話をしたら、私の他に面白い医者、看護師がいるので、リストアップするので皆に取材してその中から書いたらどうかと言われて、「銀座の達人たち」終了させ、2008年ぐらいから取材にかかって、ようやくちょっと前(10月)に終わった。(6年間掛かる)
何度となく会って、(病院内、飲みながらなどして) 話を伺った。
30人リストアップしてもらって20人ぐらい取材、4人を対象に書いた。
人間は日常生活の中にいて成り立っているので、日常生活に踏み込んでいって話を聞かないと、描けないと思うんです。

4人の方は死と向き合っている人達  子供が死んでゆくという事は非常に悲しくて辛いという細谷さんは小児がんの担当医としてずーっとやってきた。
小児がんの子供に告知をするのを、日本で初めて行った人。
細谷先生はアメリカで子供に癌だと言う事を告知しなさいというふうに教えられる。
告知する事によって治療法を子供達に明らかにして、治療する。
アメリカにあった本を彼自身が翻訳して、出されるが、医学会とかでバッシングを受ける。
柳田邦男さんが援護射撃をして、次第に理解されてゆく。
石松伸一先生 救急部 死と隣り合わせの人の仕事。  
サリン事件の時に聖路加病院は押しかけて来た患者を全員受け入れた事で凄いと評判になった。
石松先生は浮浪者でも何でも見るので、たまには院長、病院の方針とぶつかることもある。
どう折り合いをつけるかは、その日その日でやっている。
伊部さん 看護部長 看護師からなった人。(聖路加病院看護大学学長
4人とも親を亡くしている人達。 自分たちの親の命も見つめてきた人達。

動物でも植物でも命があって、草花一つ見てても、全て生き物なので いずれなくなるので、その間にどういう風に生きていくのかという事は、この頃は自分では明日死んでも、十分だと思うが、そういいながらもう一日でも長く生きたいと言うのが本音かもしれない。
これからは短いものを自分に課して、自分の書きたいものを書いていこうかなと思っています。
旅は非日常、非日常に踏み込むことはいいのかなあと思う。
発表の当てがなくても書こうと思っている。
毎日同じことの繰り返しの様でありながら、毎日違っているのかなあと思うし、違うべきだなあと思う。
一喜一憂する事が大切だと思う。










2014年12月22日月曜日

早瀬圭一(ノンフィクション作家)   ・「命」を追いかけて40年(1)

早瀬圭一(ノンフィクション作家) ・「命」を追いかけて40年(1)
早瀬さんは現役の新聞記者として活躍していた昭和53年、パーキンソン病を患っていた母を老人ホームに入居させました。
その事を新聞に載せたところ、3000通近くの投書が寄せられそのほとんどが痛烈な批判が書かれていたそうです。
それを機に取材を重ねて1981年東京都内の老人ホームの実態を描いた、「長い命のために」という小説を書き、翌年大宅壮一ノンフィクション賞を受賞されました。

人間の命にかかわる様なことが、比較的多い。
単純な踏切事故でも、何でも命が絡んでいる。
社会部の取材は命が絡んでいる。 
警察庁、警視庁の担当は、なんか顔つきが普通の人よりも人相が厳ししい様な顔がおおい。
物を書くと言う事は自分と向き合うことでもあるし、取材対象に向き合うことにもなる。
最初は名古屋に新聞記者としてゆく。
14,5ケ所 警察署があり、担当する警察署にいく。 3つの警察署をそれぞれ担当する。
夕刊があるので、午後の1時30分がぎりぎりに締め切りになる。
午後からはそれぞれ町の催し物を、朝刊に地方版用の記事を書く。(街ダネ)

発生事件の裏側 直後だとなかなか口に出すことが無いようなことも、時間をおいてだと、事件に関してのことを話してくれることがある。
次に大坂に行く。
デスクの一人が私に、新聞記者として理想的なのはハンターであり、ライターである事、と言ってくれた。
取材力があり、文章も書けたら理想的だが、取材を沢山した方がいいといった。
取材に厚みが増してゆけば、文章が下手でもいいものが書ける、文章はデスクなどが直す機会もあるので。
いろいろ集めた事実のなかのどの部分に焦点を集めるかは個人によって違う。
ノンフィクションでも光の当て方、どこを強調するかによって、内容がどこを読んでほしいのか、読み手に伝わらないといけない。
山崎豊子 取材はしつこいぐらいする。
10取材したら、10全部書くな、取材した半分ぐらいに絞って書か無いと駄目だ、全部書こうとすると散漫になったり、鋭さが無くなり、事実がぼやけてしまったりする、半分は捨てる気持ちで書かないといけないと言っている。

「長い命のために」 40歳ちょっとすぎぐらいの時、母親が青山のマンションで一人暮らしをしていたが、2年目に倒れていて、病院に行き、パーキンソン病で最後は寝たっきりになると言われて、家で介護されるか、特別老人ホームがあると言われて、主治医としては特別養護老人ホームの方がいいのではと云われた。
特別養護老人ホーム等の事を調べて、見学に行く。
特別養護老人ホーム
毎月30万円掛かるとすると、全額負担から無料まで15段階に別れている。
当人、或いは扶養義務者がどれだけ経済的に収入があるかを事務所が調べて応分の負担をする。
非常にいい制度。
養護老人ホーム
経済的な理由、体は丈夫だが収入がない人達を対象 経費はいくらか毎月いくらかは払える。
有料老人ホーム
何百万円という頭金を払って、毎月15から20万円払う。

今は特別養護老人ホームに入るのに待機者が多い。 空きが出ないと入れない。
定員100人 200人であると10%以下ですね。
特別養護老人ホームに入る資格もあり、特別養護老人ホーム「中野友愛ホーム」が丁度出来るところだったのでたまたま母は入れた。
実際にいって見ると、想像してたようなところ(人生の吹き溜まりとか言った人いるが)ではなかった。
「記者の目」と言う欄に、特別養護老人ホームに母親をいれたことに関する経験談を書いた。
3000通弱の反響があった。(反発の声が9割以上)
TV番組にもゲストで呼ばれたが、後で考えると徹底的に叩きのめす為に呼ばれた様だ。
[恍惚の人]、[楢山節考」 その10年後にこの「長い命のために」を書いた。
原則として全部実名です。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              







2014年12月21日日曜日

出田秀尚(眼科医師)         ・視覚障がい者に寄りそって

出田秀尚(眼科医師)        ・視覚障がい者に寄りそって
我が国の近代網膜剥離手術の先達として、此の30年間網膜剥離の手術は勿論、難しい目の手術を専門に全国から訪れる数多くの視覚障害者を、失明の危機から救ってきました。
76歳の現在も、外来診察に当たっていらっしゃいますが、患者や家族に病気の治療や手術で視力が回復しない時のための術後ケアに力をいれていらっしゃいます。
失明という病とどう対処したらいいのか、この30年間で眼科治療はどこまで進んできているのか、お話を聞きます。

癌は治療が格段に進歩した。
分子遺伝学で新しい薬が出てきて、薬でも治せるようになりつつある。
眼も格段の進歩をしている。 
白内障、昔は水晶体を取り出して代わりに厚い眼鏡を掛けていた。
今は超音波で眼の中で水晶体を砕いて、直径2mmの管からそれを吸いだして、折りたたんだプラスチックのレンズを眼の中に入れてしまう。 次の日から外を歩ける。
傷ついた網膜の組織を iPS細胞を増殖させたものをそこに挿入して、と言う様なものも試みられている。
加齢黄斑変性

糖尿病は昔はほとんどなかった。  去年あたり、失明の第一原因は糖尿病網膜症だった。
網膜がやられて、網膜が出血して、網膜が痛む、剥げて、光を感じる膜がやられるから失明する。
緑内障 眼圧が高くなって、視神経を圧迫して、神経を侵されて、見えなくなる。
糖尿病網膜症、緑内障が増えてきている。
ハーバード大学 スケペンス教授のもとで網膜剥離の手術を経験。
日本との違いにショックを受けた。
昭和42年ごろ、眼科医になるが、当時の網膜剥離の手術は網膜を後ろから電気で外側から焼きつける。 
両目ともふさいで絶対安静、トイレも行けない、食事も起きて食べられない、枕で固定されて頭を動かせなくて、3週間過ごす。
治る人は1/2だった。

ハーバード大学 スケペンス教授 網膜はく離の講習会があり、網膜剥離の理論、診断、手術の理論を聞いた。
手術をした翌日から歩いている、5日間の入院で、そしてドンドン治ってゆく。
あまりにも日本との違いにショックを受けた。
スケペンス教授のもとでの2年間のフェローシップ (Fellowship) 応募者が100人に一人しかとらないとの事だったが、受かることができた。
手術も、外来の患者も対応させてもらった。
残って勉強したい、住みつきたいとの思いもあったが、あまりにも日本との違いが大きいので日本に持って帰って、日本に役に立ちたいと思って、日本に帰ってきて、熊本で大学に籍を置いて、学んできたことを教えてきた。
人間性についてもスケペンス教授に教えてもらった。 患者さんに寄り添っている。
患者を見るときに色々工夫をして観察をして、理論的なことが裏付けされている。

未熟児網膜症 保育器に入った子が眼をやられる。 新しい光凝固という治療法が開発されたが
未熟児網膜症を診察するのが日本の直像鏡では眼の後ろ半分しか見れないので、スペンス教授が開発した、「双眼倒像検眼鏡]を使うとよく眼の周辺部まで見える。
学会を通じて発表してきて、3年間頑張ったが、講義、診察等で朝早くから夜遅くまで大変だった。
自分で思う様な事が出来る立場ではなくて、40歳になって、このまま大学にいたのでは網膜剥離で人を助けることは出来ないと思って、妻の父親が眼科の病院をやっていて、大学をやめてこの病院を継ぐようになった。
網膜はく離の手術は大学病院などでやる様な難しい手術なので、開業医ではうまく行かないと言われたが、最低限手術出来る装置類を用意して、手術するようになった。
学会での発表をしていたので、全国の眼科医から教えてもらいたいと集まってきた。
スケペンス教授のところの様なフェローシップを作って、後進の指導を兼ねてやってきた。
緑内障、白内障などの患者も来るようになって、それに対応するように、客員医師も来ていただいて、いまでは全ての眼科を扱えるようになった。

治った患者さんからは偶然電車であって、感謝の言葉をいただいたりして嬉しかった。
「万民息災」 深い意味がある。 日本古来の事。
患者さんに寄り添う事が、何となく流鏑馬(やぶさめ)を長い事をやっていたことが身についたのか、スケペンス先生のやり方が体の中に入って行ったのか、眼の見えなくなる人に対しても、最後までこの人の人生を見てあげるのが務めだという風に思いながらやってきた。
心のケアを大切にしました。
眼を治すだけでなくて、その人の人間を一生涯見てやらなければ、と言う気持ちがあった。
眼が見えなくなった人に、治療方法のない人、に対して アドバイスを差しのべる。
ロウビジョン 低視力者 高齢になっている方が眼が不自由で動けない様な人達の手助けに、「自然に触れる旅」 自然は肌から感じる、四大元素 地、水、火、空 は肌で感じる。
クリエーティブな力を与えてくれる。
バシュラール 哲学者  人間に想像力は二つあると言われる。
薔薇は見たことがあるから想像出来るが、形式的な想像力しかないが、経験したことが無いことを想像する力は本当に物事をクリエートする力を持っているから創造的想像力、二つある。
創造的想像力は何が作ってくれるかと言うと、バシュラールによると地、水、火、空という。

若い人は教育を受けて職についている人はいいが、特に高齢者は増えているので、年に2回ぐらいバスに乗って、自然の四大元素に触れるため、阿蘇、天草に旅行する。
巨木に皆で手を組んで抱える。
塩水に足を浸けたり、木には香りを持っているのでそれを嗅ぐ。
そういった事に接して皆、元気付いている。
70歳すぎるとお迎えを考えるが、それに向かってどんなに生きるかは、未知の世界を歩くわけなので、クリエーティブな力が無いと乗り越えられないと思う。
何が災いしているかと言うと、今は理屈の世界、全て理論ずくめ、理論が正しいと思っている人が多い。
理屈は半分で後は、人間性、情の世界なんですよ。
情の世界があることを知ってもらいたい。(若い医師にも知ってもらいたい)
体から覚えないとしょうがないと思う。
挫折を沢山すること、私などは自分で右に行きたいのに左に行かざるを得ないことは、半分以上はそうです。
自分の思った通りに行けた試しはないが、左へ行ったから又新しい世界ができて、うまく行ったりする。

患者さんの気持ちを汲まないといけない。 その為には顔、態度を見ないと判らない。
患者さんがどういう不安を持っているか、と言う事を先ず判ってあげないといけない。
だから情の世界が大事。
自分体の中から幸せを、生き方を感じっとってもらうと言う事なんですね。
30代の方、網膜はく離の手術をしたが、真っ暗な世界になった。
励まして、盲学校に行って、鍼灸師になり、子供の剣道の試合に応援にいって、一本取る前に「肩」と言ったんだそうです。  奥さんも吃驚したそうです。
なんで判るのかと言うと、子供の息使い、相手の息使いが判る、又双方の足音も聞こえるそうです。
だから判るそうです。鋭い感覚を持っている。
網膜はく離でそのような状態になった後、家族のきずなが凄く良くなったと言います。
肌から入ってくる自然の刺激で、自らクリエーティブな力を醸し出している例と言うんじゃないでしょうかね。









2014年12月17日水曜日

佐藤芳之(食品会社社長)       ・ビジネスでアフリカを豊かに(2)

佐藤芳之(食品会社社長)          ・ビジネスでアフリカを豊かに(2)
アフリカに渡って50年以上が過ぎる。
日本とアフリカの文化の違いを表す言葉として、「言葉は風」と著作本にあるが、どういう意味か?
言葉は空気 昨日言った言葉はもういまどこにもない。  
今話している言葉が本当なんだと言われた。  彼等は嘘が巧い。
武士に二言は無いというのと正反対。
書面契約がお互いの縛りになるので、言葉は縛られない。
ここはビジネスでは嘘を嘘ととらえないような姿勢が必要。
私としては自然に入れた。

私が雇った運転手には兄弟が50人近くいる。 母親は3人 一夫多妻制。
日本では考えられない様な兄弟が沢山いたりする。
会社でごみを掃除しないで、移動したりするだけとか、意表を突かれるような違いはあったが、こうやったほうがいいと言ったり、やったりしているうちに、すこしづつ変わってゆく。
共有体験、共有感覚を持ってものをやるんだという事、これは物凄く当たり前のこと、東北に暮らしたものとしては。
工場の中も綺麗になり、会社も順調に大きくなった。
失敗もいろんなことがあったが、失敗を失敗として見てしまうとマイナスになるが、教訓として思えば、いいと思う。
一番駄目だったのは、ブラジルで大きな農園があり、そこと共同で新会社を作ってやろうとしたが、ものの見事に現地の人に誤魔化された。
ギャング団が襲ってきて、やむなく引き揚げたが、後で判ったが襲ったリーダーが警察の署長がリーダーと成ってそこを取ってしまって、マカダミアナッツ産業を始めた。(1990年代)

不在地主的な、そこに住みこまないで利益を上げると言う様な事は、すごく甘い考えだと思った。
投資してそこで何かやろうとする時に、当事者が10年、20年住みこんでやらないとうまくいかないと思う。
お金だけの投資で、お金がお金を生む様な、人間がやる事業に投資した場合に、当事者がいなくて、外からどうだと言っているようでは、日々の空気が読めない、日々どんなことをやっているのか、判らないようでは投資をしてはいけないと、失敗から学んだ。
内部充実を図ると言うやり方にした。
生産部門に力を入れて、農場をつぎつぎに買っていった、500エーカー、1000エーカーの農場を9か所ぐらい買った。
品質の安定化につながってゆく。
必要なところ以外機械化はまだしていない。
働き手がいっぱいいるので、出来るだけ多くの人が生活の場にしている、雇用機会をつくりだすという社会的義務があると思う。
その国に合ったスタイルで会社を経営していく事が絶対必要だと思う。
4000人以上の社員、外からの農民5万人が契約している。
1家で10人養っているとすると50万人になる。
毎年2500人の子供達に教育費を出してました。 5年間やった。

2008年 68歳の時にほぼ全ての株券をケニヤのかたに手渡して会社を去る。
やることは全部やったし、他のこともやりたいと言う気持ちになった。
迷いとか何にもなかった。
送別会もやらなかったので、まだ帰ってくるのではないかと思っているかもしれない。
未練もなく消えてゆくのが良いと思った。
ちょっと惜しいなあと(30億円はあると思うが)思う事もあるが、かみさんは元気だからいいんじゃないと言ってくれる。
自分が必要ならいるが、必要でなかったら去る、惜しまれて去る、これいいんじゃないと思う。
入り方よりも去り方ですね。

今はルワンダで新たなビジネスをしている。
100日間で80万人が殺された。 部族対立
素晴らしく美しい国だったが、なんか悲しかった。
死んだ人の悔しい思いがある様な沈んだような感じ、でも再起して行こうとするエネルギーがあった。
ここで仕事をしてみようと思った時に、スラムに行った時に臭かったので、トイレを綺麗にすると言う浄化運動を2年間、市と一緒にやったのが始まりでチャンスが見えてきた。
微生物の働きでにおいを取ったり汚物を分解する。
穴を掘ってそこにしてゆくので、非衛生的なので、ハエが出たり、蚊が出たり、臭いがしたりして。
ナッツで有機栽培をしていたので、肥料を作る資材が環境にもいいという事で、トイレにも使って見たら臭いが無くなるし、水がきれいになるし、公共衛生という観点からの仕事を展開しています。
15,6年経てば採算の取れるいい仕事になると思います。
歩き続ければ大丈夫。

日本にアフリカから来てみると、完成度の高い国だと思うが、こちらから見るとアフリカはこれから行きたい未来だなという感じ。
日本の中に欠けている良さ、喜びがいっぱいあると思う。
一分、二分の単位ではなくて、一時間単位の様な時間 精密時計と日時計の様な時間。
リラックスした違った次元の自然の美があり、違った次元の時間の流れがあって、違った次元の喜び、楽しみがあるんだという事を、もう一つ心を開いて見えるのでは無いかと思う。
行ったり来たりの中から、狭い地球にいるので、地球のいろんなところのいろんな良さを体験、経験したいなあと思います。
面白いのは、ゼロから始める喜び、新しいところを開拓してゆくという感じ。
あと何時去るか、いい気持ちで去るかという事、そういうのを繰り返している。

マンデラ大統領が言った言葉
「自由への道は単なる政治的な民主化で終わることなく、万人が参画する人間中心の社会の建設を目指して継続する。
その過程での試行錯誤を通して社会全体のヒューマニティーを高めて行けばよい。
人は他人のために行動を起こした時こそ、本当の人間になれるのである。」
本当に尊敬しています。  こうなりたいと思っています。










2014年12月16日火曜日

佐藤芳之(食品会社社長)       ・ビジネスでアフリカを豊かに(1)

佐藤芳之(食品会社社長)          ・ビジネスでアフリカを豊かに(1)
宮城県出身 75歳 10代のころからアフリカに興味を持ち、大学卒業後ガーナに留学、ケニアで日系企業に勤務した後、1974年にマカダミアナッツの生産、加工会社を起こしました。
ビジネスで社会に貢献したいと、考え、僅か数人で始めた会社、30年かけて従業員4000人、年商およそ30億円、世界第五位の規模まで成長させました。
ところが6年前自分の役割は果たしたと、会社をただ同然で社員に譲ります。
自身はルワンダで新たな事業を始めました。

1963年にアフリカに渡る。
高校時代にアフリカに興味を持つ。
独立を導いたリーダーの伝記を読んで、びびっときた。 
1957年にブラックアフリカとして始めて独立をしたガーナの初代大統領。(クワメ・エンクルマ
我々の手で統治する日が必ず来ると、着実に実行をして、現実にそれをやったと言う熱意に打たれた。
当時は暗黒大陸と言われているような状況であった。
ここならば自分らしいことができるのではないかという予感があった。

子供のころから海の向こうに何があるのだろうと、外へのあこがれがあった。
東京外国語大学に入る。 インド、パキスタン語をやった。 アラビア語はまだ、ペルシャ語
言語でもすこしづつ、近づいていった。
60年安保闘争にも参加する。 運動部だったので、いつも前に出て、警官隊と衝突して、蹴飛ばされたり、殴られたりして、痛い思いをしたし、安保は通るし、何も変わらなかった。
就職する気はなかったので、アフリカに行って勉強しようと、それから方向を決めようと思った。
アフリカを見たくて、行きたくてしょうがなかった。
ガーナ (エンクルマ大統領) に行く事になる。   嬉しくてしょうがなかった。
エンクルマ大統領とも会う事が出来た。  
今日は歴史的な入学式だと、遠い日本から一人の学生がやってきたと、私のことを言ってくれた。
眼がきらきらして、獲物を取って誇らしげなライオンの様な感じがした。 

ガーナは英国の植民地だった。  ココアが一番取れる国 農業国。 金が取れた。
ガーナは社会主義を選んだ。  
ゴールドコースト 奴隷の出港地 クリスチャンボルグという、海岸に面した城があり、奴隷が船積みされた、人間が商品として扱われた。
2年間留学後、ケニアに移って、ケニアで就職する。 ケニア東レに入る。 1966年 26歳の時。
工場の全般的な総務をやった。 
人間個人として、バックグラウンドを捨てて、付き合うんだと、その方が何も構えないでいいんです。
異国という考え方がなかった。 歩いて行ったらそこがたまたまアフリカだったという感じです。
東レとの契約が5年だったので、本社へとの話もあったが、完全フリーとなり、ナッツと出会う。
友人がアフリカ、ケニアの農務省の試験場の場長をしていて、机の上にマカダミアナッツがあり、食べてみたらおいしかった。
これをやってみようかなと、言ったらやってみたら、という事になり偶然にやることになる。
会社を設立して、ナッツを集めたり、苗木を植えたり、加工したり、工場を作ったりしたり、総合的に始める。
最初は7,8人 現地の人と共に始めた。
調査して、いい品質の木を選択して、いい苗木を作っていって、農家に苗木を売って、畑で生産する体制を作った。

7,8年経てば、お金になると説明したが、それが一番大変だった。
順調に植えつけをしてもらえるようになった。
ビックプランテーションが主流だったが、お金もなかったので、このようなかたちになった。
植民地的な経済の中、それを壊そうとするなら、その反対軸、個々の農民を育てて、個々の農民が自分の畑、自分の木を育てて、得た収入を自分の口座にお金が入ってくるような経済システム
、これは植民地から解放された後のアフリカの経済が自立するための基本的な事であろうと言うのは、大学で勉強していた時から、そういう考えがあったので、それを実施した。
他には選択肢はなかったと思う。  支配、統治に対して凄く反発する思いはあった。
戦前は軍部、権力的な政治体制の中で、我々は田舎の方で統治する様な立場でなかったし、戦後はアメリカの統治があったし、いつも疑問があって、これはアフリカの人達と一緒ではないかという共通感覚があった。
従来のシステムに疑問が出てくる、疑問が出てくると疑問を解こうとする。
疑問を解こうとする為には新しいやり方で、ものを始める、それが当たり前のこととして、行動する事だと思っています。

無い無い尽くしで始めたので、皆でやろうと言う連帯感があった。 
日々の些細な積み重ねで、3~5年ぐらいやっているうちに、やっていこうという連帯感が育っていった。
ビジョンだけでは付いてこない、給料をきちっと給料日には払う。
当時、まわりでは給料の遅滞、延滞が当たり前だった。
私が儲けようとはしないで、必要で生活できればいいと思っていた。
仕事が終わった時に、皆が嬉しそうに帰る姿を見、その為にバスを買ってやったりして、バスに乗っているのはあの会社の人間かと、社会的信用が出来、つけでも買える様になった。
誇りの様なものを社員が持ち始めて、表通りを胸を張って歩く事ができ、物凄くうれしいと言われた時に、一番嬉しかった。
医療費、学費の援助、親が亡くなった時の棺桶作ったり、葬式の費用を一部負担したり、援助をした。

会社にクリニックを作って医療相談しているが、一番多いのがストレスですね。
生活上、生活が苦しくて抱えているストレスが本当に大きい。
なんで共感する、なんで共有するかというと、判ってあげると言う事。
判ってくれてるという感覚を持ってくれた時に、共有感覚が生まれるのではないか。
それで生産性、利益があがったら、言う事ないですね。
あくまでも現地での成果、結果が跳ね返ってくる、皆で話したいい方法で経営ができるのだと言う、そういう参加意識が会社では一番大事だと思うし、これからもそういう風にやってゆく、













2014年12月8日月曜日

小澤俊夫(筑波大学名誉教授)     ・ ”昔話”と我が人生

小澤俊夫(筑波大学名誉教授)   ・”昔話”と我が人生
1930年昭和5年生まれ 84歳 昔話を正しく理解してもらおうと、精力的に活動されています。
大学でドイツ文学を専攻した小沢さんは大学2年生の時にグリム童話に出会い、東北大学大学院で研究を深めました。
以来昔話に魅せられ、日本全国の昔話の収集に取り組み、26卷に及ぶ日本昔話通巻を出版されました。
昔話の研究を進めてゆくうちに、小沢さんは昔話は国や民族の優れた共有財産であることを、確信しこの財産を次の世代に正しく伝えることを決意しました。
今から22年前ですが、筑波大学教授、在職中に昔話大学と言う講座を立ち上げ、全国を駆け巡って、昔話を語り伝える人や研究者を育てる事に力を注ぎました。
これまで2万人余りの方々がこの昔話大学を受講されました。

昔話は文法がある。 決まりがある。登場人物はいつも最初効率的に一人で登場する。
腕を切っても血は流れないとか、水の中に行くけどおぼれないとか、抽象的文学なんです。
子供に昔話を語るのに、いいテキストを選んでくれと言っている、耳で聞ける文章であること。
耳で聞いて分かりやすいことが大事で、文章が単純明解でなければいけない。
昔話大学では具体的な例で解説してゆく。
22年間に84か所でやってきている。 2万人余り。
桃太郎、花咲爺さん、白雪姫、シンデレラ
桃太郎は日本人にとってとても大事な話で、柳田國男先生などは、桃は川上から流れてくるが、川上は山の上で、そこには神様がいました。

桃太郎は神の子なんだと、仮説をたてて、神の子が鬼が島征伐という英雄的事業を成し遂げた。
日本昔話の一番根本だという風におっしゃった。
古い歴史にも関係するし、国際的な意味でもあります。
浦島太郎 海の底に行って竜宮であうが、日本だけでなくアジアの国でもある。
戻ってきたら3年だと思ったが300年経っていたというが、ヨーロッパにもある。
時間差の話。 あの世と人間の世の時間の流れに差があると言う不思議な物語。
昔話は国際性がある。
白鳥の湖と羽衣伝説は同じ (ドイツ、中国、日本)
人類の古い姿、宇宙観、自然観が込められている。
昔の人たちは自然の中で恵みも受けたし、恐れも受けた。
自然の中に不思議さを感じて、いろんなイメージを作って、物語を作って行った。

どこの国の昔話でもシンプルでクリアーな文体をもっている。
音楽と似ているところがある。
メロディーは必ず2度以上出てくる、3度目は似ているが長くなる。
それと同じことが昔話。 
白雪姫は3回殺されている。(1回目は紐、2回目は毒の櫛、3回目は毒の林檎)
今は林檎だけになってしまったて、1回になってしまった。(リズムが無くなってしまった)

3段跳び 2段跳び、4段跳びはない 3は人間が一番乗りやすい、人間の基本的快感がある。
伝えてゆくのが人間の生の声と言うのが大事。
お爺さん、お婆さんから話を聞いて、孫はお爺さんお婆さんから愛されていることを感じる、これが大事。
生の声で語るのが子供の成長にとって大事だと言っています。
昔話は伝承文芸である。 母国語の一つであります。
昔話は日本人が持っている宇宙観、自然観、子供観とか、と言うのをいつの間にか聞いている。
あまりにも便利になって、スイッチを入れれば、全部聞けちゃうみたいな、そうではなくて、昔通りの生の声で身近な大人が声で聞かしてやる、それをやってくださいと言っている。 
皆さんが共有すると、共同体の財産です。
それを失う事はとても危険だと思います。
日本人の独特の自然観、子供観が込められているわけですから、とても大事なことを言っている。

三年寝太郎」 長者を騙して、長者の娘の婿に成る話。
昔の人は道徳をあまり気していなかった、それよりも強く生きろ、このメッセージの方が強い。
(悪)知恵、生きる知恵。  
若者は一生寝ているわけではない、若者は途中で起きる、起きたらちゃんとやる。
一旦起きてしまうと、寝ていたことを忘れてしまう。
昔話は皆が個人が、忘れてしまったことを、日本人全体の共有の記憶として覚えていてくれる、だから大事、共有の財産。  民族遺産です。
語るだけなので、貴重だが眼に見えない、それがどんなに大事か、世間では気がつかない。
生き方を教えてくれる。 人生は綺麗事ではない。
人類の先輩が一生懸命自然の中で生きてきたのが、いろんな形で現れているので、だから壊すなよと言っている。
だから昔のままで伝えてほしい、伝承の中途にいるのだから。

昔話に出会ったのは、大学二年、グリム童話。(ドイツ語の教科書として使った)
グリム童話はグリムが集めた昔話だった。
「太鼓叩き」 日本の羽衣に相当する内容。
「コルベスさま」 猿蟹合戦に相当する内容。
ドイツと日本で同じような話があることに、非常に興味を持った。
昔話はどっかに源があって、其れが世界中に広がっている。
ドイツの児童文学者、マックス・リュティさんと出会ったことが、大きかった。
大学院に入ったころに、偶然にマックス・リュティさんの本を見つけたが、それに衝撃を受けた。
昔話に文法がある、極端に語るのが好きである、写実的には語らない、同じ事が出てきたら同じ言葉で語る、3回の繰り返し(これはリズムである)

日本語に翻訳しなくてはと思い、全く知らなかったが、先生に手紙を出した。
2カ月後に返事が来て、出版、翻訳許可が出て、本当に嬉しかった。
私の一生の先生です。
日本版の序文を依頼して、「私がやったのはヨーロッパの事である。 日本のことについては日本がやる番だ」と書いてあり、それではいっちょやるかと思い、それ以来一生やっているわけです。
資料だけで28卷あるが、15年かけてやって、昔話を分析したら、日本の昔話はマックス・リュティの言ったことがあてはまると確信した。

世界の民話というシリーズを15年掛けてやったが、その時に世界中のメルヘンを翻訳、解説も書いたが、中国、シベリア、インドネシア、パプアニューギニアもそうだし、皆一緒です、不思議ですね。
人の話をお耳で聞ける子供は必ずいろんな進歩をする。
学力も付く。 
聞いて理解すると言う事は生きてゆく上の基本の力、それをこどもたちに体験させる訳です。
学校でも、会社でもおなじ、人の話を聞けなかったら、駄目、集中力。
もう一歩進めば、自分の考えていることをきちんと相手に伝える。
聞いて場面を想像する。 言葉から絵に変換する事が必要で、其れが養われる、想像力。

大人は子供になるべくなまの声で話を聞かせると言う事をやってほしいし、物語、話でもなくてもいいから、ちゃんと子供と話をすることだと思う。
3,4年になり、子供が読んでくれたり、話してくれたら、あいづちをうってしっかり聞いてもらいたい。
道徳と言うよりは、冒険して恐いのを突破してゆく主人公の姿、そっちの方が大事だと思う。
各地のそれぞれその土地の言葉で昔話を話して発表する、そういったことをやってゆく。
弟さんは小澤征爾、兄・克己は亡くなってしまったが彫刻家、一番下の弟・幹雄は俳優、エッセーを書いたりしている。







2014年12月7日日曜日

保坂正康(作家)      ・ 昭和史を味わう (第10回)日本とアメリカの戦争への道

保坂正康(作家)                 昭和史を味わう  (第10回)
日本とアメリカの戦争への道
昭和12年前後、日中戦争~太平洋戦争開戦
日本とアメリカの関係 日露戦争当時は米国は日本に対して分の良い様な講和を纏めてくれた。
日本がアジアに進出するようになって、フィリピンを支配していた米国は神経を使う様になる。
ワシントン会議で日本がイギリスと同盟を結んでいるのを切らせ、包括的な中で日本を取り込んでいこうとする。
アメリカに対して軍事膨張政策を歯止めするのではないかという警戒心が強まってくる。
「日米闘うべきか」昭和7年4月発行、「対日10年」グルー日本大使著 2冊を読むといろんな形が判る。
「日米闘うべきか」 日本の支配層にいる人達(14人)が書いた論文で、みんなアメリカと戦争をするのは得策ではないと言っている。
日米戦争は日本にとっては国家存亡の戦いであるが、米国にとっては商工業発展の遅速を決定する戦いにすぎない。 
国のレベルの違いの正確な分析をしている。

グルーの奥さんはペリーの兄さんのひ孫にあたる。 日本との縁を意識した。
天皇の側近と可なり深く付き合う。 日本と言う国を理解する。
天皇周辺のリベラルな人達、もうひとつはなかなかいい分を変えない頑強な軍部であると、書いている。
天皇周辺は親米的で、軍人、右翼などはなかなか言う事を聞かない。
グルーは、行きつくところは、日本の国民自身が軍の言い分に魅かれてくると分析をする。
グルーは昭和7年~17年までの日本が変化してゆくのを、アメリカをどう見るか判っていた。
知識人はアメリカとは絶対戦争はしませんと、軍はわがままを言っているが、私たちは何とか抑えますと言ったりしているが、段々とその声が弱くなっている、と言う様な言い方をしている。

昭和12年7月7日 盧溝橋事件
日本はこの辺から中国との戦争の深みにはまってゆく。
蒋介石政府を米国、英国は支援する。  戦争が長期化する。
反英米的な感情が沸き起こる、その分ドイツ、イタリアに近づく。(枢軸体制が出来上がる)
昭和14年9月1日には第二次世界大戦が勃発、ドイツがポーランドに侵攻する。
イギリス、フランスなどが参戦する。 
米国も英国フランスに対する支援の姿勢を持っているのでドイツに対して戦う姿勢は持っている。
日本はドイツと三国同盟で一体化しているので、日本と米国との基本的立場は違ってしまった。
米国と敵対感情が生まれてくる。
米国はナチスドイツを英国なんかを支援して押さえようとするが、日本はかなり不満を持ち、関係が悪化してゆく。

昭和15年9月27日日独伊、三国同盟が結ばれる。
完全に日本、ドイツ、イタリアが同盟を結んで、米、英と敵対すると言う事を宣言した形になる。
枢軸国対連合国の図式がはっきりしてくる。
ルーズベルト大統領はどういう形で参戦するか、考えていた。
昭和16年 日米外交交渉  最初政府レベルで始めるのではなくて、宣教師2人が来て、大蔵省のOBで始まる。
日米交渉はお互いに計算している様な関係の交渉だった。

米国は三国同盟を離脱せよ、中国からの撤兵、満州国を承認しない。
基本的な立場が違う。
昭和16年6月22日 欧州戦線で独ソ戦が始まる。
日本の軍部はドイツと一緒にソ連を挟み撃ちにしようという北進論、南にでて植民地軍は弱いのでそこに入って行って資源を確保しようと、南部仏印に兵を送る。
米国は何も対抗処置を取らないだろうと、甘く考えていた。
ところが米国は直ぐに対抗措置を取った。
石油の全面禁輸、米国の国内の対日資産の凍結、すずなどの資源素材の日本への輸出禁止。
日本は目算違いだった。

日本は段々話がつかなくなる。
近衛内閣が米国との交渉が立ちゆかなくなり、軍は石油を止められて戦争以外に道は無いという形になってゆく。
昭和16年11月26日ハルノートをアメリカが提示してくる。
アメリカが突きつけた最後通牒だと言われているが、必ずしもそうではないと今になって見ると言える面も確かにある。
アメリカも、もう一度原則的に、太平洋にアメリカに分け隔てない政策をやろうと、日本を三国同盟から離脱せよと、南部仏印から撤退せよと、条件が今までと変わらない条件を示してくる。
日本の軍は何のための交渉だったんだと、交渉を打ち切ると言う事で、軍事が前面にでてくる。

日本の駐米大使野村吉三郎が国務長官ハルとは日常的に交渉している。
野村吉三郎は昭和16年2月11日 ワシントンに着任した。
日本の外務省と野村のやり取りの暗号電報は実は見事に解読されていた。
ハル長官が野村と会う時には、どんな指令を持ってくるか、どういうことを言ってくるかを知っていた。
回顧録にハルは知らないふりの演技をするに困ったと記している。
情報戦でも日本は全く太刀打ちできない状況であった。

朝河 貫一 歴史学者 早稲田大学を卒業後、ダートマス大学、イェール大学に留学する。
大学ではトップで出て、教授になる。
アメリカに住みながら、日本はこういう考えでいるんだと、できるだけ多くの人に説得する。
日本にいる友人たちに、日本の政策はどうしてこういう風に曲がってゆくんだと手紙などで送っている。(朝河 貫一書簡集)
日本の社会はアメリカの社会を知らな過ぎると、どれほどアメリカ人はヒットラーを嫌っているか、ナチスは民主主義にとっては敵対組織なんだと、アメリカは了解している、それなのにどうして日本は手を結ぶのかと、出来ればそれを切ってほしいと言う様な事を切々と訴えている。
イェール大学の友の一人の鳩山一郎にも手紙で訴えている。

昭和16年4月 食料事情も窮屈になってゆく。 6大都市で米穀配給通帳制、外食券制 実施。
5月は肉無し日実施。 10月ガスの使用制限 ガソリンの使用全面禁止。
戦費を捻出するために国民生活が犠牲になってゆく。
考えを改めるべきと議会で質問している。(反軍演説)斎藤隆夫 
昭和16年11月17日 第77回帝国議会 東条首相の施政方針演説 戦争突入が決定的になる。
昭和16年12月8日真珠湾攻撃が始まる。
東京からの海外向け放送。「西の風 晴」との繰り返しの暗号放送がある。
8日 午前4時に暗号放送が放送される。 午前7時臨時ニュースで戦争突入について放送。
東の風雨=アメリカ  北の風曇り=ソ連  西の風晴=イギリス 
「西の風 晴」→イギリス関係、日米関係も戦争状態になるから、資料及び暗号機は燃やしなさいと言う命令をだした。

「日米闘うべきか」昭和7年4月発行の本の内容の冷静さが薄れていって、主観的願望だけで物を見てゆく、其れを客観的事実にすり替えてゆく、そういった軽率さがあったと思う。






 









2014年12月4日木曜日

北原香菜子(薩摩琵琶奏者)     ・鎮魂の琵琶の音を現代に生かす

北原香菜子(薩摩琵琶奏者)      鎮魂の琵琶の音を現代に生かす
北原さんは1983年 九州の佐賀県佐賀市に生まれました。
大学に入って琵琶を聞き、その音色に魅せられて、演奏活動を始めました。
卒業後、演奏家として独立、いまでは全国各地を回って、お寺、神社、ホールなどで演奏会を開いています。
古典の曲にとどまらず、新しい曲も創作し、伝統芸能琵琶を過去と現代、未来をつなぐ鎮魂の音の世界として根付かせようとしています。

先月、今月にかけて北海道お寺ツアーを展開していました。
その後関西、ようやく佐賀の地に戻って、小学校などで琵琶の演奏をやっています。
1300年以上前、当時、仏教と共に日本の奈良時代に、ペルシャ、イランを起源としてシルクロードを辿って入ってきた。
いまでは宮内庁で聞ける様な楽琵琶という流れで入ってきた。
仏教を取り入れる以前の神、取り入れたのちの仏様に、眼に見えないものに奏でる、捧げる音楽としてお寺で最初演奏されていたようです。
言葉、セリフ、語りが伴わず、器楽、奏でるのみ、お琴だったり、今でいう和のオーケストラ、雅楽の中の楽琵琶が存在していて、其れから時代を経て語りを伴った人が現れて、其れが琵琶法師。
源平合戦の様子をほうぼうで、語ってその時から語りが伴ったと言われて、平家琵琶、平曲が楽琵琶を改良して生まれたもの。
平家琵琶は京都とか奈良、都を中心に広がったが、その後九州で平家琵琶はさらに改良されて生まれた、其れが三つ目の琵琶、盲僧琵琶が広がった。

九州の盲僧達に渡った時に、僧侶が手にしたことによって、琵琶の役目が変わった。
お経の伴走楽器として、五穀豊穣等の祈願する時に琵琶を奏でてきたという歴史があって、薩摩盲僧から薩摩琵琶になったり、筑前盲僧から筑前琵琶になったと言うのが、大まかな琵琶の歴史です。
薩摩琵琶は薩摩盲僧から薩摩の武士に渡った時に、豪快、大胆、勇壮な弾き方が出た。
戦の時に、士気を高めるために、琵琶を搔き鳴らして、精神を高揚させていた。

出会いは2001年4月に大学に入った時に、古典芸能の演奏会があって、能、狂言、三味線、琴、琵琶があって、他の楽器とは違う、空間が変わった様な感じを抱いた。
何故か、帰り際に琵琶が呼んでいる様な感覚を得て、最初に琵琶を抱いて奏でさせてもらった。
一人で琵琶を演奏された人と一緒に琵琶サークルをたちあげた。
東京では観賞する方が多かったが、舞踏などの中で、空間と人間、空間と音、そうした関係にすごく興味を持った。
そこで琵琶を真剣にお稽古すると言うよりも、この琵琶で何が出来るだろうと思って、実験的なものをやって行こうと思って、早稲田大学も琵琶サークルの演奏会を開いて、近代が生んだもの、照明を無くして、演奏会をやったりした。
田中之雄先生に基礎から教えてもらおうと、門戸を改めて叩いて、古典をきちっと学ぼうと考えた。
琵琶の基本はきちっとした姿勢であり、正面を見て打弦をするのに、1年以上かかったのではないかと思う。

卒業する直前、2005年にノーベル平和賞を受賞されたワンガリ・マータイさんのまえでの演奏だった。
木が奏でる演奏に大変感動されていました。
琵琶の道を一生やっていこうと圧倒されたのが、大学4年 地元の老人ホームで演奏しようと思って、演奏した時に、涙を流して聞いてくださった人の言葉に、一生この琵琶と付き合って行こうと、その時に決意しました。
就職も断って、2005年3月に佐賀の地に戻ってきました。
熊本全国邦楽コンクールに出場することになり、古典曲の中で西郷隆盛しかないと思い、自分は西郷隆盛に成りきって演奏したら、、自分ではない様な感覚があって、終わったときに、いい賞を頂いて、古典曲にゆかりのある土地で、琵琶の音色をその土地に返して行こうと、その土地にまつわる先人達を物語ることで、供養ができれば、鎮魂ができれば、全国鎮魂供養ツアーと言う言葉がワーと湧いてきた。

西郷隆盛を鹿児島県で演奏することを皮きりに、2007年、白虎隊を会津若松の白虎隊の墓前で演奏し、翌年、義経、平泉で、翌年善光寺で川中島 翌年壬生寺で新撰組、自分自身沢山の種をまいてきました。
かつての琵琶法師の役目として、亡くなった方を鎮魂する、供養する、地鎮祭で土地をおさめる、そうしたときに琵琶を演奏してきたと言う歴史があると言う事が、私のどこかに在ったんでしょうね。
それでその発想が生まれたのだと思います。
琵琶の音色を聞いて下さってる方の背中の後ろにいる、先人たちに向けて演奏します、だから皆さんその思いをくみ取っていただくのと、聞いた後心がすがすがしく、清らかな気持ちになる様願いながら演奏します、と言葉を掛けて演奏しますが、そういう気持ちになったよと、声を掛けてくださいます。

2011年3月11日 かつて災害時に琵琶法師たちは祈りを込めて琵琶を演奏してきた歴史があると言う事がふつふつと湧いてきて、風に向かって、大地に向かって、山に向かって、兎に角一音でもいいから琵琶を奏でなさいと、祖母から言われた。
稽古場から外に出て、3月12日 琵琶の音色を一音ずつつむぎ始めた。
どうかこの国が琵琶の音色で収まります様に弾きなさいと、祖母が言ったので演奏していたら私の口からついて出たものが、私が幼少の頃仏壇の前で祖父母が毎朝、毎晩唱えていた般若心経だったんです。
琵琶とお経を組み合わせて私は琵琶教を作った。(般若心経と共に演奏する)
まさにこれが供養、鎮魂ですねと、声を掛けてくださいました。
この琵琶教は自然に生まれた様な感覚があります。

私はいろんなお寺に行きますが、宗派を越えて行きます。
浄土宗との御縁があった時には、2011年に宗祖、法然 800年大遠忌の際に法然上人の7曲奉納演奏したり、道元さんの曲を書いてくださいとか、お釈迦様の曲を書いてくださいとの話も来ているので、これから創作をしてゆくところです。

声の稽古、東京にいるころは、思い通りに声をだせなかった。(住環境の問題)
佐賀では、自然が、田んぼの中で、風が、土が私の声を作ってくれたのかと思います。
琵琶の基本は語り。 声に出すと言う事で心は安定してくる。
「声はこれ念なり 念は即ちこれ声なり 声はこれ念なり 念はすなわちこれ声なり 声と言うものは今の心を表す」  法然上人の言葉

祖父母が大地の自然の神々に手を合わせて、仏壇の御先祖様に手を合わせる。
習慣として背中で語ってくれていた様に思う。
仏壇の前に座った時、「おはようございます」 「今日は有難うございます」声を出して云いなさいと、幼少のころから祖父母から言われていた。
祖父母が言っていたことと、法然上人が言っていたことが、重なると私の中では眼から鱗のことでした。
「念ずれば花開く」 念と言う字も今の心は声であるという事になるると、声を出して思いを届けた方が、より相手の内側に入り込めるかもしれない。
琵琶の音と書いて私は声と読むんですね、声として届けたいと言う想いはある。

私は国と国をつなぐ外交官を夢見ていたが、今は眼に見える世界と眼に見えない世界、この世とあの世、生きているものと亡くなったものなどをつなぐ役、外交をしていると言う様な気持でいる。
「川中島」を善光寺で演奏したときに、上杉謙信と武田信玄が本当に聞いてくれていると言う様な深い歴史があったと言う感動と、感激があった。
是非古典に触れ得ることによって、先人たちへの回路、通路を開いてくれるのが古典だと言いたい。

琵琶の音の振動を「さわり」と言うが、琵琶と三味線にしかない特徴。
西洋人は「さわり」を耳触りと言うが、そのさわり、自然の雑音迄も楽器に取り込む、全てをうけ入れると言うのが日本人、仏教もそうです。
いろんな宗派があってもいいが、受け入れてゆく。
ペルシャを起源として、東に渡ったのが琵琶、西に渡ったのが、ギター、マンドリン。
ギターとかには「さわり」はない。 綺麗な、しっかりした、はっきりした音を奏でる。
「さわり」を取り除いた。

琵琶少年、少女を作りたい。
琵琶は田中先生、そのうえには鶴田錦史先生がいて その上には多くの師匠達がいるので、琵琶の奏法、語り方などは北原香菜子で止めてはいけないので、次世代に渡してゆくと言うのを夢として持っている。
琵琶とアニメーションを組み合わせて、ビワニメーションと言う事を考えて、発信してゆきたいと考えている。
ジャンルの越境をやって化学反応を楽しみたいと言う事はあります。




2014年11月25日火曜日

竹村牧男(東洋大学学長)      ・ 仏教は心の世界遺産

*まだ左手の親指先、人指し指先に常時痺れがあり、朝には掌にむくみがあり、揉んでいるうちにむくみが取れるような状況ですが、1~2週に一話程度選択して(無理しない程度で)ぼつぼつ再開しようと思います。
いつ完治するか判りませんが、例え完治しても以前の様に毎日とはいかないと思いますので、御了解下さい。
秋田




竹村牧男(東洋大学学長)       仏教は心の世界遺産
1948年生まれ 66歳 40年以上に渡って仏教の研究を続け、日本を代表する仏教学者のおひとりです。
高校時代から日本の文化の背景に在る仏教に意味を持った竹村さんは、東京大学文学部インド哲学科に進学、学生時代は座禅修行に打ち込みました。
その後文化庁の専門委員、筑波大学教授を経て、現在は東洋大学の学長を務めています。

子供時代は凄く貧しい家でした。 
4つの時に父が亡くなり、母が働いて私たち4人の子供を育ててくれました。
仏教に興味を持ったのは、高校の国語の試験で唐木 順三の文章が出た時でした。
凄く美文調で非常に心に残る文章だった。
それから唐木 順三の本を読んで、道元一遍とか、また様々な思想を学んだ。
岡潔の書物を読んで、すごく感激した。
心の問題とか、日本的な伝統の事、仏教の事を非常に熱く語っていて、心に響いた。
岡潔は道元とか、弁栄上人(浄土宗 光明主義を唱える)の念仏を実践された方です。
念仏を唱えて精神統一されて、そして数学の困難な問題を解かれたと言っても過言ではない。
仏教を勉強したいと思って、と言うことで東京大学の文学部に入って、インド哲学科入った。
駒場で坐禅のサークルに直ぐに入った。

毎月13日に中川 宋淵老師が来られて法話を聞いたり坐禅をしたりした。
秋月 龍珉先生が禅の私塾を開いていることを知って、神楽坂に通う様になった。
これが基盤に成っていると思う。
秋月 龍珉は日本の禅を世界に伝えた鈴木大拙に教えを受けられた方。
坐禅 調身調息調心 身体を整え、呼吸を整え、心を整える。
心を整える時には、緩やかに整えた呼吸を心の眼で見つめる。
心を集中してゆく、統一してゆく、そして三昧に入る。(精神統一された状況)
数息観静かに自分の息を勘定する修養の方法
大学を出て出版社に務めたが、或る先生から手紙が来て、戻ってこないかと言われて、大学に戻って研究する事になる。

博物館、美術館で仏像展をすると、凄く賑わう。
意識しなくても、仏教の世界観、宇宙観とか、そういうものを呼吸しているのではないかと思う。
文化の中にそういったものが浸透して行って、知らず知らずのうちにそういうものの見方、考え方になじんでる。
大きく 大乗仏教(密教も入る)、小乗仏教(東南アジア等に広がっている)に分けられる。
日本の仏教は大乗仏教ですが、修行方法でかなり多様に分かれている。
念仏、題目を唱える、坐禅など 行、ないしは信仰の信 内容によってかなり宗派的に別れている。
インドから段々に伝わってきて発展するが、発展した最後の形態が伝わっているので、非常に高度な仏教が日本には残されていると同時に、末法思想があるが、お釈迦様の時代から離れるほど人間の能力の衰え、社会も濁ってくる。

修行方法が用意されているが、修行もなかなか出来ない、その修行ができないものがいかに救われるのかというのが日本の仏教の課題になっている。
深いが簡単な形で救われる道がいくつも用意されている。
日本仏教の独特な特徴だと思います。
唯識 世界は心が表しだしただけだという、考え方の思想があるが、実はこれが大乗仏教の共通の世界観になっている。
唯識の思想は非常に精緻な論理的な体系で語られている。
如来像思想 皆本来仏であるが、無明、煩悩に覆われていてそれを自覚出来ない。
発展した高度な教理を受け継いでると言うところに、奥深いものがある。

唯識  世界は自分の心が表しだしただけだという、外界にそのものとしての本体、あるものがあるわけではないという考え方。
例えば机、見える姿形として無いわけではない。 机、本体はあるか、ばらせば机ではない、燃やせば無くなるわけで、机と言う本体がある訳ではない。
言葉を使う事で無意識のうちに言葉に見合う、なんかそういうものがあると、永遠不変なものがあると、つい思ってしまう。
日常的にはそう思い込み、執着し、苦しんでいると言う様な事がある。
自分と言う存在もそう、自分と言う本体があると思いこんでいるが、本当にあるのかという問題になる。
かけがえのない主体が発揮されているが、常住(永遠不変なこと)なる自我があるとは言えない。

般若心経で 「色即是空 空即是色」  
本体は持たないけれども、現象としてあるという意味合い。
空であるがゆえに色として成りたっている。  色は物質的な現象の事を意味する。
「受想行識 亦腹如是」 
唯識は、我々があると思っているものが実は映像にすぎない、心が表しだしたものにすぎない。
心を、我々が自覚していない心の世界がある。
五感の感覚、意識、判断、未来のことを思ったり、過去の事を思ったりする、意識のさらに奥に末那識があり、更に奥に阿頼耶識がある。
末那識は常に自我に執着している。 寝ている時のも末那識が働いている。
夢は第六識の世界。  
阿頼耶識は過去一切の経験を貯蔵している世界だと言われる。(無意識の世界)

生じては滅し、生じては滅しながら相続されている。その上に生死輪廻が行われている。
六道輪廻   地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上 
生死輪廻は阿頼耶識の上に、それまでおこなった行為の情報が蓄えられて、その行為の善なる性質、悪なる性質によって、次の世にどこに生まれるかが決まってくるという。
阿頼耶識の中に世界に生きる個体、人間界なら人間界と言う世界と、人間としての個体が、阿頼耶識の中に又一定期間現れる。 
寿命がくるとそれが消えるが、阿頼耶識は相続する。
また次の世の世界と生き物になる。

人間の存在は八識から成り立っている。(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識末那識・阿頼耶識) 
八識の中に人間としての世界も人間としての身体もある。
瑜伽行(ゆがぎょう)派と言う学派に於いて形成された。
自我に執着してとらわれ、物に執着してとらわれ、苦しみが生じている。
それを如何に越えて、しかも本来の命を如何に発揮するか、其れを導くために世界はこうなっているんですよ、だから執着している、いわれのないことでしょう、意味のないことでしょう、そこから解放されてくださいと、そういう意味で造られている。
自分とは一体何なのか、昔の人もそれを一生懸命追求してきた。
今の人の方が外のものばかり眼が奪われて、外のものばかり追いかけて、自分を見失っているのではないか。

小乗仏教は自分の問題の解決しか求めない。
大乗仏教はそれを批判した。 他者が苦しんでいる現実がある。
他者の事を放っておいていいのか、そもそも自分の存在は他者とのかかわりの中に成立している。
大乗仏教は自分はともかく他者の苦しみを何とか救いたい、減らしたいと、他者も自分も同じように自分を越える仏の命からもたらされた命であり、他者が苦しんでいるのなら何とか他者の為に働いて行くと言う思い、行動がでてくる。  

お釈迦様は紀元前383年に亡くなられた。  仏教文学
本生譚」 如何に人のために身をささげたか、とかそういった話になっている。
その中の一つにずっと以前,お釈迦様はうさぎさんだった、と言う話がある。
かわうそとか仲間がいて、或る日 バラモンさんが来るので、供養しようとそのための食べものを探してきましょうと言う事で、友だちはうまく探せて用意できたが、うさぎは探すことができなかった。
バラモンさんが来た時に、うさぎさんは供養するものが見つけることができなかったので、焚火を用意して、その中に飛び込むので私の肉を食べてくださいと、飛び込んだという話がある。
実はうさぎはお釈迦様の過去生だった、バラモンは実は帝釈天という神様で、飛び込んだ瞬間に姿形を現わして、受け止めて、お前は大変良いことをした、お前の善行は長く世に伝えなくてはいけない、月にお前の姿を書いておこうと、いうんで月にうさぎがうつったという物語がある。

イエスは皆に代わって苦しみを受ける。 代受苦 
浄土教 阿弥陀様は皆を救いたいと、その為に一生懸命に、計りしれない長い間、苦行に苦行を重ねて仏になられて皆を救っている。
皆は南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われる。  一種の代受苦の思想。
法華経の話の中の仏様にも、イエスの代受苦と似たような話がある。

仏教の一番根本は、無我 常住成る自我は存在しない。
かけがえのない命の働きはあると思うが、我々がしがみついている様な変わらない本体としての自分と言うものは無いという、無我の思想。
無我と言うものを根本として、そこからあらゆるものを見てゆく、これは今後の時代を切り開く重要な原理になると、私などはそう思っている。

社会の仕組み成りたち、今非常に競争社会になっている。
なんか追い立てられている。
非常に行きすぎた個人主義に基づく競争原理がグローバルスタンダートとして世界を席巻しているのではないかと思うが、東日本大震災などで再び自覚されたように、人間の絆は大事じゃないかと、人と人とのつながりからものを見てゆく、考えてゆく、繋がりの中で成立し得ている自己、他者も含めてそういう視点は或る種、無我の思想につながっている。
鈴木大拙は真空妙有と言う言葉を言っている。 
空の中から尽きない、無限の働きがでてくる。  
見返りを求めたり、手柄を立てて名誉を求めたりとかにとらわれない、ただ無心に働く。
やってやったんだから報酬をくれとか、ついそういう事になりがちだが、本当に純粋の働きではない。

本当の自由の働きでもない、自由はまさに本来の自己の働きとして行うところに自由があるわけで
そういうところを重んじた。
他者のことをよく考えながら、自己のことも考えてゆく。
自分さえ成功すればいいと言うわけではない。
環境問題との関係から言えば、自然を大切にすると言うか、自然と共生する事も大事ですが、環境問題は世代間倫理という問題を引き起こしていると思う。
我々の世代だけで環境、資源を消費しつくしていいのだろうか、未来世代の人たちに豊かな環境を残さなくていいのか、我々は未来世代の人のためにどう行動すべきか、考えないといけない。
現にいる他者のために何をするかと言う事だけではなくて、いまいないのだけれども、未来世代の人のために何をすべきかを、真剣に考えなければいけない。
人間と人間の、空間的なだけでなく、時間的な繋がり、眼に見えない絆、其れが根本にあるんだと、その中でどう考えるのか、と言う様な事につながると思うんです。
 
宗教はいろんな捉え方があると思うが、己事究明 己を究明する。
仏教はそこに多くの材料を提供していると思う。
一番根本のレベルは、生死の問題
社会的にいじめを受けて皆から無視されたとか、自己が絶対的に否定されたとか、言う様な局面も無いわけではない。
悩みにどう対処すればいいのか、教えてくれていると思うが、悩みの根源、そもそも自己とは何か、の解答を下さるのが仏教ではないでしょうか。
哲学としての仏教という側面があるわけです。 
宗教としての仏教 倫理としての仏教 この三部作を書きたいと思っている。













2014年11月15日土曜日

その後の状況

皆さまへ
症状は当初私が思っていたよりも、重くて、主にパソコン作業の悪い姿勢が原因で、脊椎にダメージを与えていた様で、現時点ではいつ頃再開できるかどうか、不明です。
何とか再開出来るようにとは思っているのですが、じっくり養生するしかないようです。
秋田

2014年10月23日木曜日

今日から暫くブログを休みます。

今日から暫くブログを休みます。
理由は、最近左肩、腕などが凝っていた様で、手が苦痛を訴えていましたが、私は目をつぶって続けてきましたが、
しかし、先日 椅子に座って本を読んでいるうちに、居眠りをしてしまい、頭をカクンと前に下げたまま
の状態でしばらくいて、又後ろにカクンと1回頭を仰け反らし、これらが首の頸椎をちょっと痛めてしまった様で、弱り目に祟り目で、長い時間左手でキーボードを叩くのが、厳しい状況になってしまいました。
申し訳ありませんが、回復するまでしばらく休ませて頂きます。
(以前のものを読んでない方は、この機会に昔の投稿を読んでいただければと、思います。)
御了解下さい。  

又、Kさんには或る時期から、私の誤字、脱字に見かねて、指摘して頂きまして(校正)、有難うございました。
この場を借りて御礼申し上げます。
再開の折は又よろしくお願いします。

それでは再会の折までみなさん 「御機嫌よう  さようなら」

秋田

2014年10月22日水曜日

楠 美津香(女優)         ・一人芝居で演じる”超訳”シェークスピア劇

楠 美津香(女優)     一人芝居で演じる”超訳”シェークスピア劇
1962年東京生まれ、横浜放送映画専門学院(日本映画大学)を卒業後、お笑いの道に進みます。
コンビを組んで舞台に立ち、放送作家としても活躍しました。
シェークスピアに出会ったのは15年前、知り合いの舞台でマクベスを見て、言葉のおもしろさに魅かれました。
楠さんは37あるシェークスピアの作品全てを自分の言葉に表現し直してたった一人で何人もの登場人物を演じ、芝居を行っています。

マクベスを実際に見て興味を覚えた。
マクベスは情けなくて面白い人物だと思いました。
悲劇なんだけど、喜劇ですね、こんなに面白いんだったら、これをやっちゃおうと思った。
これが面白いのならシェークスピア37作品全部やろうと思って、その場で全部やりますと言って、全部やってしまった。
2000年から始めて、一つの季節に1つずつ作れば10年で37終わると言う計算のもとに行った。
参考にさせてもらってるのは、小田島 雄志先生と坪内逍遥先生です。
言葉はちょっと変えて、語尾を変えているだけ。しゃべりやすいように変える。

シェークスピアはあらゆるギャグを作った人だと思っている。
もともと皆が知っている物語だったりする。(ギリシャ神話だとか)
シェークスピアはギャグをそこに入れた。
喜劇から悲劇になってゆく、これは日本でいうと山田 洋次監督、最初笑わせてから泣かす、喜劇の王道、これをシェークスピアはやっている。
大衆演劇として作っている。
シェークスピアは手袋職人の子供として生れてからロンドンに行って、大ヒットの劇作家詩人になった人なので、二つの世界を知っている、庶民の世界と、王様が面倒みる劇団まで出世したので、庶民世界、国王貴族の世界も知っている。
庶民の笑える部分も作っているし、卑猥なところもいっぱいあるし、歌も出てくるしどこから見ても面白い。
言葉は美しいが下世話な世界をうんと描いている。

高校の時美術部だったが、2年の時に部長で周りにいなくて、一人だけだった。
お芝居をやらないと友だちに誘われて、やったら面白くて、横浜放送映画専門学院に行く事になる。
うつみけいこ師匠の漫才の授業があり、そこに来て、授業で組んだグループが受けて、TVまででて、1年やって駄目ならやめようと、始めたら仕事が来るようになって、やっているうちに解散したりして、そのうち舞台出るのは止めて、放送作家をしたりしているうちに、夫の一人コントを手伝ったり、台本作ったりしているうちに面白くなって、其れから一人コントを始めた。
物語をやりたいなあと思う様になって、講談の友だちの舞台を見ていていいなあと思った矢先に、マクベスを見た、これをやろうと思った。

最初1カ月で本を読んで、次に台本を作る、最後の1カ月でセリフをしゃべれるように練習をするという時間割でやっていました。
難しいのは神様の名前、悪魔の名前でこれが探し当てるのが大変だった。
一番好きなのが「ばら戦争」 連続した戦国絵巻 リチャード2世から始まって、ヘンリー4世ヘンリー5世ヘンリー6世 最後がリチャード3世で完結する。
(1455年から1485年の30年間にわたって「赤ばらランカスター家」と「白ばらヨーク家」とが王位をめぐって争ったのが「ばら戦争」)
リチャード2世の時はヨークとランカスターが国王を守っている。
リチャード2世はタイプが詩人で政治には向いていない。 
ヘンリー4世という武党派の実力者に王位を奪われる。
ヘンリー4世の時代は活躍しないが、ここで活躍するのはハル王子(ヘンリー5世になる後継者)で、この人がめちゃくちゃ不良で、不良息子に悩むのがヘンリー4世の物語。
ハル王子はロンドンの繁華街で遊びまくっている。

父親が死んで後を継いだ時に、ガラッと豹変する、凄くいい国王に成ってしまう。
ヘンリー5世が英雄で、トップの条件です、これを見ればどんな企業もトップになれるという様な、ノウハウが書いてあるようなのが、ヘンリー5世の戯曲です。 
ヘンリー5世は35歳で亡くなるが、後を付いたのがヘンリー6世、生後9カ月。
周り中が国王代行をやりたがる。
ヘンリー6世パート2でお互いにつぶそうという会議がずーっと行われる。
ヘンリー6世パート1の最後に出てくるマーガレット(フランスシャルル7世の王妃マリー・ダンジューの姪)をサフォークが捕虜にする。
サフォークは悪いことをもくろむ人でマーガレットを自分のものにしたくて、国王と政略結婚させてしまう。
ヘンリー6世は戦争を止めましょうと行っているが、マーガレットだけが戦争遂行する。
リチャード3世の時に魔女の様になって出てくる。
パート3で道化役をやって行くうちに、ラストに行くうちに、俺が狙っているのは国王の座だと言って、手に入れるためだったら何でもやってやるという事で、言い始めて、リチャード 3世に成る。
8作品に渡って裏切り合戦、寝返り合戦。
リチャード3世は最終章なので、なんで争っているのかわからないというところが、最初から話をしていると全部判る。

「アテネのタイモン」 皆にプレゼントを上げて、タイモンのところにたかりに来て、執事がもう家にはざいさんがありませんということになるが、大丈夫僕には友達がいっぱいいるから、今までの貸しを返してもらうからと言う事で行くが、口実を作って返してはもらえない。
タイモンが宴会をするという事で皆が出掛けるが、お湯を並べて、皆にお湯をぶっかけて、馬鹿野郎と言って山に行ってしまって、人間嫌いになって暮らすという、面白いもの。

父親がお笑い番組が好きで子供のころから一緒にみていたが、その時に記憶したギャグが37作品の中に全部出ている。
自分でよくわかるのがギャグで、シェークスピアは庶民だったので、庶民が笑えるギャグが作れる。
散歩しながらセリフを練習をしたり、子供を砂場で遊ばせながら練習をしていた。
繰り返し繰り返ししてセリフをおぼえていった。
芝居と主婦業の両立は出来ていないと思う。
本番が有ると洗濯物が山の様にある。
近松門左衛門 人形浄瑠璃 出てくる男が情けないことは、シェークスピアと似ている。
女は観音様にみたいなものが出てきて、シェークスピアとは違う。
シェークスピアは歴史劇だが、歴史を借りてきているだけで、シェークスピアが面白く人物を作ってしまっているので、私がどのようなリチャード3世をやってもどれもそうかもしれないという事ですよね。
シェークスピアのテーマは再生、人が沢山死ぬが、又蘇る、円を描いているのがシェークスピアの世界、転落する人生と又上に上り詰める国王に成る、ホームレスに成る、また再生するというこの円です。
人生の中で起こることがちりばめられているのがシェークスピアです。














2014年10月21日火曜日

橋本正樹(大衆演劇評論家)     ・大衆演劇の追っかけ男

橋本正樹(大衆演劇評論家)  大衆演劇の追っかけ男
43年前体調を崩して、自宅で療養中、自宅近くで見たたびしばいに人情ものに感動、しかも客が少ないのに汗水流して、熱演しているのに二度感動、大衆演劇に関わるきっかけになりました。
下町の玉三郎こと、梅沢 富美男さんが登場する17年も前のことでした。
最近は若い女性のファンが増え、客層も広まったと感じる、橋本さんに大衆演劇の面白さ、魅力、見どころなどを伺います。

昭和20年後半ぐらいから大衆演劇が下り坂になる。
昭和30年ごろからTV、映画などの影響を受けた。
昭和57年梅沢さんが出るまでの30年は沈みばっかりだった。
夢芝居が衝撃的だった。  紅白にも出場。
今は比較的安定期だが、東日本大震災で、ちょっと厳しくなる。
現在劇団は130~140あると言われる。昭和57年と比較すると倍増している。
梅沢さんの功績がある。
近畿圏に23ぐらいあり、そのうち大阪は13ある。
大坂のお客さは駄目なら、はっきりと駄目と言う。

一時期は700ぐらいあったと言われる。 JRの駅に一つはあったと言われる。
剣劇など 昭和10年ぐらいが盛況 戦後娯楽が無くて繁栄。
昭和46年に私は大衆劇に接する事になる。 (大学卒業後2~3年ごろ。)
そのころは劇場がつぶれて、駐車場、ボーリング場、スーパー等になって行った。
新聞を見て冷やかし半分で寿座に出掛けたが、お客は3人、その後多少増えたが、劇団人が15名ぐらい。
客が少ないのに、一生懸命やっていたのに、感動した。
大日方八重子?さんが女座長をやっていた。(座長の孫が大川 良太郎
澤村章太郎が寿座に来て、四谷怪談をやっていて、5日間に分けての公演で、それを見て面白くて、寿座で見るのではなくて、追っかけるようになった。

藤山 寛美さんが大阪の朝日座に樋口次郎、大川竜之助 三河家桃太郎を呼んだと言う事があり、三河家桃太郎の演劇を見に行ったら、感動、ほれぼれする。
それを見て、大衆演劇を記録にして残さなければいけないと思った。
どうしたら信頼してもらえるか考えて、移動時の荷物運搬が大変なことなので、これだけお芝居、役者さんが好きで一緒に運びますという事で、やっているうちに、座長さんがこれは本気なんだと理解してくれた。
劇団に密着して取材をする。 密着したのは20劇団ぐらい。 取材50劇団 合わせて70劇団。
東京はあっさりした劇、九州は大熱演する、(福岡、熊本が主流 大きな劇場がある)
関西は器用で、サービス精神がある。(ショーも関西から始まった 役者が歌ったり)

こんな汚処を調べに来て、なんで撮るんだと言われて、怒られたが、座長が芝居のこと、生活のこと調べてくれるのは嬉しい、いいこと悪いところ見て、見たうえで貴方が良いと思ったら書いたらいいと言ってくれた、この言葉が無かったら、終わっていたかもわからない。
書かせて頂くと言う気持ちで書かせてもらっている。
毎日芝居の内容が変わるが、台本はない。 休憩時間や、終わってから座長が役振り、音響やれとか指示しながら、小道具はこうだとか、色々指示する。
通しの芝居の練習などはしない。
赤ん坊、子供のころからずーっと舞台に上がっているので、知らず知らずにセリフの呼吸とか言うのを座長になる人は心得ている。
子供は転校転校で、教科書が違ったり大変で、付いていけなくなったり、学校を休みがちになったりする。

「浜で3年、ドサ1年」 道頓堀の事を「浜」と言った。
道頓堀で3年修行して、ドサ周りで1年廻ってこい、そうしたら芸が達者になる。
大衆演劇の魅力?
素直な気持ちになれる。 構えるのではなく等身大の自分で見られる。
判っているすじなのに、泣けるんですね。
安い入場料で楽しめる。  努力してお客さんに楽しんでもらおうというサービス精神がある。
役者さんが身近かに、お客さんに対応してくれる。
最近は若い女性のファンが増えてきている。








2014年10月20日月曜日

山崎まゆみ(ノンフィクションライター) ・長岡の名花火師に惚(ホ)れこんで

山崎まゆみ(ノンフィクションライター)   ・長岡の名花火師に惚(ホ)れこんで
新潟県長岡市出身 世界や日本各地の温泉を訪ねて、多くの著書に纏めてNHKラジオでもその魅力を伝えています。
最近では地元長岡で伝説の花火師と呼ばれる、嘉瀬誠次さんを取材して「白菊」と言う本を出版しました。
白菊は花火の名前です。 新潟市とハバロフスクの姉妹都市と成って25周年を迎えるのを記念して、1990年にアムール川花火大会が開かれました。
そこで嘉瀬さんがシベリアで散った戦友たちへの鎮魂の意味を込めて打ち上げたのがきっかけで生まれました。
その後白菊は12年前から長岡花火大会のスタートを飾る平和への祈りを込めた花火として復活しています。
長岡の花火で育った山崎さんは、嘉瀬さんとこの花火周辺での取材を続けて、7月に1冊本にまとめました。
山崎さんにとっては「ラバウル温泉遊撃隊」に続いての戦争関連の本と成りました。
花火に寄せる思いや、嘉瀬さんたちの取材から感じたことなどを伺います。

温泉エッセイスト  今年で18年温泉に入り続けている。 年に半分温泉地にいる。
雑誌社から要請があったのですが、両親が子供に恵まれなくて、子宝の湯に通って私が授かったと言う事を幼少のころから聞いていたので、御縁かもしれないと思ってスタートしたのがきっかけです。
温泉地数では3000か所以上あるので全ての温泉地には行っていませんが、有名なところは一通り行っています。
混浴をテーマに廻っていたが、こんなに楽しい体験で有れば世界中の人と混浴しようと思って、先ずはアジアの各国から始めました。
アジア各国の温泉をめぐっていたときに地元の年配の方と一緒に入る機会が何度となくあって、暑い国の私たちが温泉に入る様になったのは、第二次世界大戦中に日本軍がこの温泉に入ったのを見て日本軍が撤退した後に入る様になった、日本人から教えてもらったと各地で聞いた。
日本兵を癒した温泉として、パプアニューギニアのラバウルに温泉があることを知ってラバウルに行ったのがきっかけでした。

ラバウルは激戦地で壕もあるし、戦争の体験を語る人もいる。
タブブル湾、タブブル山(日本名 花噴山) がありタブブル湾全体が花噴温泉と名ずけられた。
昭和17年日本軍が作った地図があり、飛行場のあった目の前に在る。
日本人と温泉を考えるきっかけにもなり、戦争の体験された方々を聞くライフワークと成るきっかけにもなりました。
「白菊」 主人公 嘉瀬さん 小さい時から嘉瀬さんを知っていました。 伝説の花火師。 92歳
8月2,3日開催 100万人の見物客。
嘉瀬誠次さんは戦争の体験者、シベリア抑留の経験者  
嘉瀬さんは近所の人で、父の友人 趣味の仲間 加瀬さんも私のことを知っています。

長岡の花火を見ると、感情が迫ってくる、切なくなって涙がこぼれおちてしまう。
これは一体何なんだろうとの疑問があって、嘉瀬さんに聞いてみようと思ったのがきっかけでした。
他にも沢山の声も同様に聞きました。
嘉瀬さんは千島列島で闘っていて、松輪島で終戦を迎えて、シベリアに3年抑留された。
「白菊」はシベリアで散った戦友たちへの鎮魂の花火。
1989年名古屋で世界デザイン会議があり、嘉瀬さんも花火師(世界的にも有名で世界各地で花火を打ち上げている)としてパネリストとして呼ばれて、司会者に嘉瀬さんが、次に世界で花火を上げたい土地はありますかと言われて、シベリアで亡くなった戦友のために、鎮魂の花火を上げたいと言うのがきっかけだったそうです。

嘉瀬さんの思いを何とか遂げてあげたいと周りの人が思って、いろんな方を経由して、NHK新潟放送にも伝わってきた。
新潟市とハバロフスク市が姉妹都市の記念すべき年であり、嘉瀬さんの思いを何とか遂げようと、鎮魂の花火を上げることができた。
NHK新潟を通じて全国に放送された。
旧ソ連の現地のTV局も行政も動いた。
嘉瀬さんの言葉がとても胸に沁み渡って、何かお力になりたいと思った。
1990年 アムール川の花火大会を実行されたプロデューサーの大井純さんが「これは大井企画の私の仕事ではなく、男大井の仕事である、何故か、嘉瀬さんの抑留と言う体験の荷を少しでも軽くさせてあげたいと言う気持ちで必死でした。」と言う言葉を聞いて私も記録に残さなくてはと思ったのが、本にする理由でした。

当時、日本もソ連も交流したいと言う時期だったようです。
嘉瀬さんは何故シベリアに行きたいと思ったのか?
自分は生きて帰れたけれども、生きて帰れなかった戦友たちにたむけの花火をあげたい、抑留中にお世話になったお婆ちゃんにお礼をしたい、との思いだったように感じます。
抑留中に凄くお腹が減っていて、収容所の近くの民家を訪ねた時におばあちゃんからパンを貰ったと言った様な、大切な思い出があるそうで、お礼がしたいと言っていました。
抑留中での寒さ、飢え マイナス30℃  
昨年2月 追体験しようと思ってハバロフスクに行った。 
黒パンとスープ 黒パンも1つの黒パンを何分割にして周りの人とに分けていた。
仕事は港を作る仕事、森林伐採の仕事。
朝起きてこない人がいるともう固まっている。(明日は我が身と思った)

花火玉をソ連に持ち込むのが大変だった。
爆弾を持ち込むと認識してしまうので、花火であることを説明する事が大変だった。
筒も大砲の様な感じなので、同様に大変だった。
昨年2月に行った時に、当時のことを市民に聞いてみたが、あんなに綺麗な花火は見た事が無いと、言っていました。
嘉瀬さんのことも覚えていて、尊敬していました。

2002年から「白菊」が復活した。
長岡市に1945年8月1日に空襲があり、多くの方が亡くなっているので、その遺霊のため、援護復興の意味で長岡花火大会があり、原点に立ち直ろうと嘉瀬さんの考案で「白菊」が打ち上げられることになる。
午後10時30分に空襲が始まったことで、同時刻に「白菊」が打ち上げられる。
心に訴えかけてくる花火だと思います。
純白さに苦労されたと言います。 シンプルで凄く綺麗な花火です。 思いをはせる時間がある。

日本人が遺骨収集でやって来た時に受け入れをされている女性に取材しました。
日本人墓地にお参りに行くが、大半はまだまだ土の中に在りそのままの状態です。
田中さんは、ハバロフスクから内陸に入ったところに住み暮らしながら、土饅頭に眠っている友のために歌を歌う。(田中さんは65歳までは日本に住んでいたが、奥さんが亡くなり移り住む。86歳)
戦争を体験された方のしょっているものの大きさを、語られることが多くて、亡くなった戦友の事をしんみりと話しますが、しょっていると言う言葉がぴったりすると思います。

世界の温泉を旅する中で、現地のお爺さんお婆さんの話を聞いて興味を持ったのがスタートだったんですが、戦争の事は本当によく覚えていて、多くの方があなたに語っておこう、と言う様な事を口にされた。
時を経て語ることができない方でも、あなたに託してゆくよと言う様な言葉を下さる。
わたし自身も記録としてバトンを受けた、託されたと思う様になり、きちんと私の仕事として、記録として残すのが、話してくれた戦争体験者へのお礼と言う気持ちで執筆しました。
本を読んで、是非私のお爺さんお婆さんの話を聞いていただきたいと言う様な反響を頂きます。
悲しい経験なので、いままで語れなかった、でも語らずに逝く事は出来ない、語るから皆に伝えてくれと訴えかけるようにおっしゃいます。
2004年出版 新潟県近隣の紹介の本は書いた事はあるが、キチンと読み物として故郷のことを書いたのは初めてです。
戦争体験の聞き書きもライフワークとしてやっていこうと思ってますが、温泉のことも書きたいと思っている。
身体の弱っている人にこそ温泉に入ってもらいたいと思います。












2014年10月19日日曜日

鎌倉幸子(国際ボランティア会)   ・移動図書館、被災地を走る

鎌倉幸子(シャンティ国際ボランティア会) 移動図書館、被災地を走る
1973年昭和48年青森県弘前市生まれ 地元の高校を卒業した後、アメリカの大学に留学し、福祉と国際協力を学びました。
1999年3月にシャンティ国際ボランティア会の職員と成りました。
この会は1981年カンボジア難民キャンプに図書館をつくることを目的に創立したNGOで、鎌倉さんは1999年から8年間カンボジア事務所で本の出版や図書館活動に従事しました。
現在は広報課長兼東日本大震災図書館事業アドバイザーとして、活動しています。
東日本大震災の発生直後から鎌倉さんたちは現地に入り、炊き出しや物資配布など救援活動を繰り広げました。
その中から本を読みたいという被災者たちの声にこたえようと移動図書館のプロジェクトを立ち上げました。
スタートしてから3年余り、現在は岩手、宮城、福島3県の市や町の45か所を廻っています。
鎌倉さんはこの体験を「走れ移動図書館」と言う本にまとめました。
移動図書館誕生のいきさつ、本が持つ力などについて伺います。

2011年7月17日、岩手県の陸前高田からスタートしました。
避難所から仮設住宅に移るタイミングだった。
知っている方が移れるわけではなくて、知らない方同士が住んでいて、コミュニティー作りの一つとして本のある空間を作って使っていただければと思いました。
現在5台の移動図書館があります。
最初1台軽トラックを借りて、スタートした。(脳から汗をかけと言われて何とかしようとした)
1~2カ月後は、移動図書館に集まった時に知り合いと、ばったり再会したと言う様な事もあった。
仮設住宅は台所が狭いので、その中で料理をどう作るのかとか、料理の本など要望がある。

シャンティ国際ボランティア会の広報課長でもある。
福祉の勉強をしたいと思って、雑誌をみて、アメリカに行こうと思って渡米した。(1991年)
ウエストバージニア大学で福祉を勉強、バーモント州の大学院で国際協力を勉強する。
国際情勢が激動する中、国際協力の知識を積んで仕事ができたらと思って、大学院に入りました。
国際協力の内容は幅が広くて、自分がどこの国で何をすればいいかわからなくなってしまった。
カンボジアから来た留学生との出会いが、カンボジアに足を向けさせた。
その友だちは戦争で両親を亡くした戦争孤児だと言う事を聞いた。
ポルポト政権下での悲惨な経験を色々と話してくれた。
それを聞いた時に友人のことを、何も知らなかったことに対して、悲しくなってしまった。

友だち付き合いを表面上の付き合いでしかなかった事に気付いた。
カンボジアでお手伝いできることがあれば、復興の支えられる仕事があれば紹介してくださいと尋ねたら、その人の居た孤児院の近くに図書館があり、そこで勉強したり、相談に乗ってくれて、その友だちが言っていたのは「図書館は人を選ばない、孤児、戦争経験しようが、お金持ち、どんな辛い思いのひとでも、扉を開いてくれる、本は逃げない。」と言う事だった。
その図書館を運営していた団体が、シャンティ国際ボランティア会と言う日本の団体なのでもしカンボジアに行くのであれば、シャンティ国際ボランティア会に行ってはどうかとの話でした。
その友達が、自分が留学して勉強できるのも、難民キャンプの図書館があったからだと言う話を聞いた時に、一人ひとりの長い人生を考えた時に、自分の人生があるのは図書館だという言葉を聞いて、図書館の可能性を追って見たいと、カンボジアに渡りました。

大震災発生後、救援活動を始める。
能登、三宅島の経験があるので、3月12日には団体の中で決定した。
3月15日にスタッフが現地入りしてスタートした。
炊き出し、物資の支援  最初緊急支援をしていた。
4月3日に私は現地入りしましたが、まだ図書館、本では無いと思っていた。
「食べ物は食べたら無くなりますが、本は読んだ記憶が残ります、だから図書館員として子供達に記憶に残る本を届けていきたい」と或る知り合いになった気仙沼市の図書館員の方(山口さん)がぽつりと言ったんです。
私はカンボジアの女の子を思い出して、「お菓子は食べたら無くなちゃうけど、絵本は何度でも読めるから好き」、と言った言葉が蘇ったんです。
東日本大震災の悲惨な現場、内戦を経験したカンボジア、でも辛い時だからこそ人は本を求める瞬間があるという事をその時確信しました。

気仙沼市の図書館員の山口さんが「こんな時だからこそ、今、出会う本が一生の支えになると言う事を信じています。」と言ったんです。
「どん底を経験した人が、一冊の本を手にとって、その一冊の中の1ページ、1行、たった一言の言葉が背中を押してくれたり、ちょっと1歩踏み出そうとする機会になったら、その本がその方のこれからの一生のお守りになるに違いない、だから沢山の本を持って、手に取る機会を作ってゆくのが、これからの図書館だ」と山口さんは言っていました。
現地で出来る事業を何か考えなさいと言われた。
岩手県滝沢村が移動図書館を独自で走らせていた。
読みたい本が読みたいところに無い、廻してゆく事で読みたい本が読みたいところにある、と言う事で移動するしかないと思った。

段々日が経つうちに、子供達が支援物資を貰いなれるのが怖いと言う事が聞かれ始めた。
移動図書館は借りたものを返す、皆のものは大切に使うと言う、基本的な日常生活の約束事を、守ってゆくと言う様な練習、訓練になるのではないかと言う事で、移動図書館と言う事になりました。
5月に入り、避難所から仮設住宅に入ってゆくのではと言う事になり、今後は炊き出し、物資支援とかと同じ活動ではないだろうと言う事で、調査をしました。
岩手県の図書館、本屋が壊滅的な被害を受けていたという光景だった。
図書館が復興するまで移動図書館と言う形で沿岸部を廻ってゆこうと言う事を5月の調査でまとめて、審議してもらって、大変困難ではあったが6月6日に岩手事務所を立ち上げる。
スタッフ、運転手を探して、7月17日に初運行になった。

最初子供たちが来てくれて、その後大人たちも来てくれた。
女性は編み物、料理、エコクラフトの本 男性は園芸の本 手を動かさないと暇を持て余してしまうし、悪いことを思い出してしまう。  手を動かしていると生きている実感を感じる。
絵本(孫への読み聞かせ)、歴史小説(困難を乗り越えてきた事に活路を見出す) 等々。
「言葉を失う」と言う言葉  本当に存在するんだなと思うシーンがある。
言葉を取り戻すお手伝いを本ができるのかなあと感じます。

「いわてを走る移動図書館プロジェクト 立ち読み、お茶のみ、お楽しみ」 
平泉が世界遺産に登録された時に「いわて」を使用
「走る」、は共に伴走してゆきたい。
「立ち読み、お茶のみ、お楽しみ」 は移動図書館を作る時に徹底的に話し合った。
一人の時間を作りたいが、部屋でポツンといるのでは社会から遠のきそうだったり悪いことを考えてしまうので、本だったら、立ち読みができるし、お茶を飲んで楽しむのもいいと言う事から、使いました。
「いわてを走る移動図書館プロジェクト 立ち読み、お茶のみ、お楽しみ」 というキャッチフレーズを作りました。

本は衣食住満たされた後に、必要なものと言われるが、本の持つ力は生きる力を助けるためにつながっていると感じています。
人が生きていく上で、情報が必要だと思いますが、じっくりと自分のペースで読み進められるのは本だと思っています。
前に進みたいが、前の方向がどっちかわからない、何かしたいと言う思いになった時にそれを助ける本の存在は、足元を照らすランプになるのではないかと思う。
仮設住宅も3年になると辛い。
今後自分がどこに住むかわからない中で、すこしでも朝聞こえてくる鳥の声を知りたくて、その鳥の本をかりるの、ここの生活は辛いかもしれないけど、楽しんでいきたいという様な声を頂いた時に、辛い生活を何か支えられるものを、提供できるのではないかと感じています。






2014年10月18日土曜日

山下正樹(歩き遍路の会会長)   ・私のお遍路みち

山下正樹(公認先達 歩き遍路の会会長) 私のお遍路みち
弘法大師空海ゆかりの霊場をめぐる人達はお遍路さんと呼ばれています。
山下さんは70歳 これまでに四国88の霊場を全て巡る結願を10回果たし、お遍路の指導者としての役割を担う先達にもなっています。
山下さんがお遍路を始めたのが57歳の時、以来すべての行程を歩いて巡る、歩き遍路を続けています。
ひたすら歩く事で何が見えてきたのか、伺います。

88の札所を一巡りすると1200kmぐらい。
歩く醍醐味もあります。
最初の第一歩がなかなか踏ん切りがつかない、大変だろうとか、しんどいやろうとか、でも最初の一歩が踏み出さない限りは何も始めらない。
私はゆっくり歩くので50日かかります。
「もうちょっと頑張ったらお寺に着く」 「あわてないでいい」とか お大師様の声が聞こえる。
頑張っているから声が聞こえるのではないかと思っている。
ひたすら歩く事で常に自分自身と向き合う事になります。
(人生そのものに通じると山下さんは考えています。)
お遍路文化に触れられると言う事が一番嬉しいです。 地域の人が支えている文化。

①札所寺院 ②お寺とお寺の間を結ぶ遍路道 ③遍路道を支えている地域の方  
④遍路道を歩くお遍路さん 
この四つの要素で成り立っているが、一番大きなものが地域の方がお遍路さんを支えるお接待と言う文化を引き継いでいると言う事。
お接待 無償の行為、お茶を一杯差し上げる、励ましの声をかける。
なじみになって、泊っていきなさいとか言われる。(一般の家なのに)
お爺さんお婆さん、先代を見習って、お遍路さんを接待する、生活の一部になっている、すごい文化だと思う。
心が一緒にお接待として付いている。

12年の前に夏に初めてお遍路しました。(本格的に始めた12年前の時?)
10日間は梅雨の大雨の中で、梅雨が明けてカンカン照りで、高知県焼坂峠から下りて、添蚯蚓(そえみみず)を上がってゆくが(高低差400m)、その前に焼坂峠で全て水を飲みつくしてしまう。 困っていたときに農家のお婆ちゃんが呼んでいる。
死にとうぐらい喉が渇いており水を分けてもらおうかと思っていたら、お婆ちゃんが水を用意して待っていてくれた、本当においしかったですねえ。
一気に飲んだら、怒られる、急に飲んだら身体に悪いと。
家に帰って次の水を持ってきてくれた。
人対人がお遍路道の中につながりができる。(お接待)
人の優しさが身に沁みる。 結願したときには涙がボロボロでました。
「お陰さまで」と言う言葉が本当の意味で感じました。

(昭和19年広島生まれ 高校卒業後、大手都市銀行に就職、支店長を目指して日々励んでいたが、大きな転機が訪れたのは45歳の時でした。 
関連会社への出向、出世の道から外されたこと、慣れない職場でのストレスから50歳の時に尿管結石で1か月入院、この時歩きお遍路の事を知る。)
歩き遍路の体験記の本があった。 
だらだら生きるよりは新しい自分を探さないといけないと思った。
支店長に成れなかったのも、結果的に自分に実力が無かったのだと思った、それまでは人ばっかり恨んでいた。
平成14年6月、57歳で会社を早期退職、お遍路の旅に出る。
会社や仕事中心の生き方とは違う、新しい人生の価値が見つかった。

帰ってきた時に、もっと自分を生かせるところがあるはずだと、納得した仕事ができること、地位とか名誉ではなく、一番大事なのは会社人間は視野が狭いこと。
社会人間になろうとしたら、お互い平等の考え方がいるわけです。
お接待を受けた温かい心が私にそういう風に感じさせたと思います。
旅は甘くはなかった。 道に迷うし、トラブルがあり、足が痛くなったりしたが、その時に出会った地域の方々の温かい励ましの言葉、お接待で自分は生きているのではなく、生かされていると言う事が実感するわけです、それが自分にとって大きな収穫でした。
88番札所で結願して、一番思ったのはもうこれで遍路道を歩かなくていいと言う思いでした。
宿に帰って、朝起きると歩けないと言う寂しさが出てくる、これは不思議な気持ちでした。
お四国病 お遍路の魅力に取り付かれた病気 薬が無くてお遍路に行く事、心が落ち着く。

いろんな方が廻っていて、40~50日で廻っていて頭がクリアになる、一歩離れて自分を見つめることができる。
根底は自分の足で歩くしか解決しない、生かされてると感じた時は、自分も何かでお返ししなければいけない、物ではなく心で、だから私は出来ることで世の中にお返しをしようと思っています。
最初のお遍路を36日間で結願、高知県の島で環境保全、地域振興のNPO法人事務局長を務めることになる。
大月町 柏島 遍路道の資料を見つける。 復元しなさいということかと、直感した。
1200kmの内、土の道は100kmぐらいしかない。  土の道は足が喜ぶ。
地元の人と共に遍路道の復元をして、毎年地元の人が草刈りをしてくれている。
保存会の会長に翌年出会い、お年寄りが元気になったと言う事でした。
お遍路さんのお接待でいろんな話ができて、話題が増えて、元気になった。

今5つ目の古道の復元作業に入っている。
阿南市の山の中に在る道を地元の方と一緒にやっている。
21番札所太龍寺から山の中を抜けて22番札所平等寺に抜ける道6km。
江戸時代の道しるべが残っている。
太龍寺に上がる道、日本最古の遍路道 600年前の南北朝時代の年号の入ったしるべ石がある。
平成22年に遍路道で初めて国の史跡になる。

平成24年から子供達にお遍路の文化を伝えようと、お遍路授業を行っている。
一番嬉しいのは大きくなったら、私もお遍路に行きたいと言ったことです。
おさめ札 自分はどこから来たのかと書いた札を渡す。
旧庄屋(お遍路さんを泊めていた) 屋根裏の俵に1万5000枚のおさめ札が入っていた。
1番から順に廻る順うち 88番から逆に廻る逆うち 2つの廻り方がある。
平成16年 逆うちのお遍路に初めて出会う。
いつまでたってもお大師様にあえないので、反対に回ったらお大師様に会えると言う事で廻る。
反対に回ると全部のお遍路さんに会えることができる。
620人のお遍路さんに会えた。  

今治に59番札所伊予国分寺 58番札所仙遊寺がある。
仙遊寺にむかう逆うちをしていた時、5歳の女の子からわざわざ家から出て来て道が違うよと声をかけてくれた。
説明して納得してもらった、お礼にお接待で貰った飴を「お接待ですよ」と渡した。 
子供も喜んでくれたが私もわざわざ声を掛けてくれた事に感動した。
歩き遍路の魅力を広く伝えることをがライフワークとなる。
平成17年から毎年春に歩き遍路の入門講座を開き、参加者は250人余りになる。
お遍路によって今の自分がある。
文化遺産も沢山あるが、お寺とお寺を結ぶ遍路道、地域の方々 これが歩きお遍路さんを支えていると思います。
その一番大きなものが繋がり、ふれあい、心のやり取り もっと沢山の人に知ってもらいたい。
「お遍路では名刺と時計を置いてきなさい」と言われる。
目標としては88歳までは歩き遍路をしようと思っている。












2014年10月17日金曜日

中澤嗣子(元大相撲女将)     ・力士を目指す若者と暮らして

中澤嗣子(元大相撲中村部屋女将) 力士を目指す若者と暮らして
1951年愛知県生まれ 金城学院大学を卒業後、1年余りで富士櫻関と出会いました。
医者の家庭に育ち、相撲界とは縁も無く周囲からは反対されましたが、富士櫻の明るい性格と楽しい話し方に魅かれ結婚しました。
当時 富士櫻関は前頭や小結として土俵を沸かせていましたが、結婚生活はマンション暮らしで2人の子育てをする普通の暮らしだったと言います。
10年後富士櫻関が引退し、中村部屋を創設し、以来相撲部屋の女将さんとして力士を目指す若者の世話をすることになります。
中澤さんは強い力士を育てようと、別の部屋の師匠や力士にアンケート調査をしたり、自ら大学院で力士の養成法を研究したりとそれまで相撲界には見られなかったことに挑戦しました。
昨年中村親方が定年退職した為、26年間に渡る相撲部屋の女将さん生活を閉じました。

武蔵川部屋が使っている稽古場が元中村部屋の稽古場だった。
関取のおかみさんになって、部屋の女将さんになって36年間。
退職まで元気で過ごせたことは良かったと思うし、若い目標を持った力士と同じ屋根の下で暮らして、私にとっても、支えになったし力になったのでいい人生だったと思います。
何をしていいかわからないところから始まって、力士の役に立つ事はないかなあと思った時に、心理学とか力士の養成、と言う事で大学院に行く事が始まった。

仲良くしていた家族が相撲好きだった。
たまたま力士が遊びに来ているから来ないかと言われて、母と行ったのが、出会いの始まりだった。
今までにないタイプで、性格も明るいのでこういう人と結婚してもいいかなあと、あまり考えないで結婚した。 
全然別の世界だった。
マンション生活をしたが、1年の半分以上はいなかった。
結構、きっちり生活サイクルは決まっていた。
子供は二人いました。普通の生活が丸10年続きました。

中村部屋を創設
土地探し、銀行とのやり取りなど大変だった。
土俵のある建物を持つ事と、弟子が3人以上という規定があった。
26年間中村部屋をやってきて、120人ぐらいくるが、1カ月で帰ってしまう人もいて、その中から十両以上は4名だったが、十両以上はいなかった。
うちの場合は中学出を沢山取ったので、大学出、海外らは無いので、関取になる確率は少なかったように思う。
若い人を預かるので、さまざまな社会勉強もやらなければならない。
相撲社会は番付けが全てだが、年上に対しても或る程度尊敬しなくてはいけないし、地位が上で有ればちゃんとした振る舞いをしなくてはいけない。

歳を取ってゆくが強く成れない人は大変。 実力社会
団体生活 体罰、いじめなどは目に見えないところで起きているので、難しいが、伝統的教育の中にいじめに近い様な指導の方法が昔からあった。
やらせてから駄目だったら注意する事が基本なので、普段やっていることを見ていないと判らないが、今の子は説明を受けてからやるので、なかなかそういう指導の方法に慣れるには時間がかかるので、教える方もいらいらしたり、教えられる方もそんなことを言ったて、と言う気持ちがあるので噛みあうのが難しい問題がある。
厳しさは大事なので、規則とか、自分で気付く様にした。

五訓
①掃除は綺麗にすること
②自分の事は自分ですること
③時間を守ること
④挨拶は大きい声ですること
⑤返事は大きい声ですること
親方が作って毎日弟子たちに稽古が終るとやっていました。
出来ないと、兄弟子たちから言われる。
寝場所が変わったりした時には何かがあったことが判るので、様子を見たりする。

主人富士櫻は途中首を悪くしたので、稽古場で稽古が出来ない時期もあり、首の筋力をつけるとか、トレーニングをして、弟子たちにもウェイトトレーニングをするように奨励した。
トレーニングセンターに行く事も最近は一般的になるが、成果は本人の気持ちなので、なかなか難しいところがありました。(成果の上がる人と上がらない人がいる)
通信制の高校に通わせた。
親方がスカウトに行った時に断られる理由として、高校ぐらいは出したいと言うのがあった。
大学院で知り合った方が通信教育の高校の秘書をしていて、話が進んで、始まった。
大学院で人はいくつになっても、学ぶと変わるんだなと実感したので、年齢に関係なく学びたい思いがあったら、きっと豊かになるのではないかと感じていた。

幕下まで行った人が身体を壊して、就職しようとするが、学歴が中学ではなかなか就職口が見つからないと言う事があったので、幕下迄行くと言う事は色々持っているので、ちゃんと評価して貰いたいと言う気持ちがあった。
辞めた人が大学を目指すと言う子がいてとっても嬉しかった。
部屋をやっていて嬉しい事は力士が入門してくる時と、十両に上がった時。
入ってきた時は特別な気持ちです。(当人の決断、片腕をもがれるようだという親の気持ちなど)
弟子が急にいなくなったり、重い病気になったりしたことがあったりするが、そういったことを含めて後になっていい思い出の方が多い様な気がします。
親方は、出ていったものは追わないが、頭を下げて戻ってきたものは受け入れるが親方は何にも云わない。

社会人の大学院には色々な方がいて、それぞれの立場からいろんな話題を提供するので、相撲界だけの中にいて考えるのではなく、違った目で客観的に見る事が出来るようになったことが凄く良かったと思う。
専攻は力士教育 修士まで行く。
修士論文 伝統的にやってきたことにも、きちんと人を育てる要素があるので、それも大事にしなくてはいけないのではないか、という結論ですが、そのまま今の若い人に持ってきても無理なところがあるので、親方の立場からその違いに歩みよるとか、今まで以上に時間をかけるとかだと思います。

今の子供の生活環境が全く変わってしまった。
核家族化とか、生活が便利になってしまっているので、工夫が少ない。
力士になる環境がガラッと変わってきてしまっている。
海外の力士にくらべてひ弱、だが大事に育っているので愛情をかけられた分だけ素直さがある。
環境が激変しているが、今まで大事にしてきたことを大事にしながらも、指導法などで何か変えていかないと、と言う風には感じる。
親方の世代が若くなってきているので、それなりに考えていると思う。
伝統の重みの中で、きちっとやってゆく事が相撲が生き残ってゆく道ではないかと思う。
(相撲の素晴らしさとは)
土俵の美しさ、勝負をする息気ごみは素晴らしいと思っています。




2014年10月16日木曜日

大下大圓(飛騨千光寺住職)   ・円空の思いを今こそ伝えたい(2)

大下大圓飛騨千光寺住職)円空の思いを今こそ伝えたい(2)
句碑が建っているが、東北大震災でこちらで出来ることはないかと言う事で、一般募集して、句碑を建てる事になった。
「円空見よ 不沈日本 いざと燃ゆ」
「被災地に 祈り届けと 鶯鳴く」
「円空の 祈り深まる  蝉の声」  等など。
円空の思いと、被災者の思いと、つながっている。
当時も津波の話は円空も聞いているし、貧しい状態で亡くなってゆく人達に円空は仏さんを彫ってあげた、そういう歩いた事に重ねて、300年以上のギャップはありますが、現代でも同じ気持ちなんだよ、と言う事かなあと思います。

一番最初に東北に行った時は、避難所に行ってうちの家族が発見されてないと悲痛な声を聞いて、そのあと遺体安置所を廻りました。
沢山の棺が並んでいて、お経を丁寧に上げさせていただいて、吃驚したのは警察官、自衛隊の人も一緒に手を合わせて、おがむ姿があってこの人達も大変なんだなあと思いました。 
1カ月、2カ月して段々発見され、避難所を中心に廻らせていただいて、聞くだけですが、悲しみに寄り添ってゆく事だけしかできないのですが。
キリスト教、神道、仏教もいろんな宗派の人が来て、被災していないところを拠点にして活動しました。
キリスト教の教会が被災されキリスト教徒の人が、お寺に寄宿され一緒に活動して、その時宗教は関係ないなあと思いました。
合わせて40数回行ってきました。 沢山の方に出会いました。

看護師の人が御主人を亡くされて、自分も1カ月後に片腕を事故で無くしてしまい、本当に大変な思いをして、仕事を辞めようかと思ったが周りの人の支援を受けてもう一回やり直そうと立ちあがって、右手を失ったけれど、ケアーマネージャーとして、今度は人のために一生懸命活動されている。
そういう姿を見ると、自分自身が大変な思いをしているのに、他者のために何かが出来る、利他的行動と言いますが、そういう人達が沢山います。 吃驚、感激するところです。
「実践的スピリチュアルケアー」 大下大圓著書 ナースの潜在力を高めるための本。
(それを読んで看護をする側が実は大変なんだなあと思いました。)
医療者の人たちは救ってあげるのは当たり前のようになってしまっている。
しかし一週間お風呂も入らず着替えもしないで患者さんのために一生懸命する。
或るドクターは自分のお母さんが流されていたのにもかかわらず、自分は病院の責任ある立場だったので医療現場を離れなかったが、自分のお母さんを亡くしてしまったことで後で非常に辛い思いをする。
ケアーをする人たちのケアーが必要だった。

高橋さんと出会って、内陸の人達とネットワークを組んで一番必要な活動をしようとする。
サイコロジカル ファースト エイド(Psychological First Aid 災害現場で心のケアをどうしたらいいか、と言うテキストみたいな本があるのですがそれを読んでいたので役に立ったのですが。
被災者に近づいて安全、安心を確保する、自分が出来ないことはしない、専門家に繋げてあげる。
ケアしてもケアしても返ってこないというエネルギー的に返ってこない所に自分たちのエネルギーが疲弊してゆく。
孤立してしまう、誰にも相談できなくなったり、追い込まれてしまう事がおおい、家庭介護の場合等
日本ではお嫁さんが一番大変で、介護するサービスもかなり出てきているので、そういったものを使いながら、自分だけで抱え込まないで、いろんな人たちの力を借りてゆく考え方が大事で、時には家族が休むために、施設に入ってもらって、息抜きをしてリフレッシュしてまた介護をやると言った、家族が休むような環境作りが大事だと思います。

常に一人だけであるとか、追い込まないこと。
自利利他(最澄伝教大師の言葉の心 自分を高めることが自利、自分のエネルギーを蓄えてゆく、利他はそのエネルギーを他者に使う、自分の影響力が他者に及んでゆくので、そこを考えながら、他者を生かしてゆくという考え方。
共利群生 共にお互いに利する、あらゆる地上界の生き物はお互いに依存し合っている。
依他起性(えたきしょう) お互いに依存し合って生きているので、それをよしとする。
基本的な曼荼羅の思想。
ナースの為に書いた本ですが、援助者全ての人へのメッセージで、人のことばっかりするのではなくて、自分を高める事もやりましょう、と言う事です。

その人が生きていると言う事はエネルギーを出していると言う事なので、他者に影響力を与えていると言う事ですから、常にその人が普通の人であっても援助者ではなくても、自利利他は通じること。
人生の中で自分の目的意識を誰でも持とうとしているが、それが自利につながってゆくので、そのための努力が自分を高めることです。
高めた能力が家族を高める事になり、会社の中で自分の能力を生かして会社の大きな力になることも利他、どこの世界にでもあてはめられる。
自覚するともっとパワーが出てくる。
その人その人が生きる場所があり、必ず足元を見れば何かが見つかる。
何でもあり、そこに目を付けるかどうか。(庭の草取り・・・)
お爺さんが余った灰を道路に撒いたが、それは灰を撒く事によって、道路の雪が早く溶けて他の人たちが歩きやすくなる。(自利利他)

日本人は自利利他の文化を持っていた。
今は自分のことだけしか、考えられなくなってしまって(利己主義)、ギスギスしてしまってきている。
感情部分がやり取りできるかどうか、そこに感覚が生まれてくると思う。
スピリチュアルケアは感情の行き来、スピリチュアリティーはもっと感情の奥に在るもの、魂性、根源的な命につながってゆくもの、人間の生きる意味を問う様な深いもの。
ケアをするというのは、 スピリチュアルな課題を抱えている方にケアと言う仕組みで関わってゆく、向こうも必要とすると言う事が前提になっている。
根源的な痛みに寄り添ってゆく、その人が立ち上がる力を応援する。

今年6月に気仙沼に行きましたが、看護師さんのケアと言う事で、お話、瞑想をやったり、又、川内村へ行って保健婦さんたちと連携して、住民の心のケアと言う事でお話をしたりしています。
最終的には日常をいかに作るか、日常のなかにケアがあると思っているので、もう一回日常を取り戻すというか、そこに安心感に繋がるものがあると思うので。
主に最近自利、自分を成長させる力を再発見してもらう、自分の力を再発見してもらうために、瞑想という方法論を使って、臨床瞑想法を4つに分けてトレーニングしている。
①緩める瞑想  ②見つめる瞑想  ③高める瞑想  ④ゆだねる瞑想
仏教だけではなく瞑想はイスラム、キリスト、ユダヤ教などにもある。

①力を蓄えるために先ずは緩める、これが出発点。(先ずはゆったりした感覚、自分の心を楽にす る)
②集中力が高まるので、自分の心を見つめる、観察、洞察ができる。
 洞察力で自分のあらゆる内面を見てゆく。
 例えば失敗した どうして失敗したのか原因までさかのぼって、修正する。
 行動が変わってくる。
③心身の機能を高める。 健康生成論 健康をいかに作り出すか、今の自分から未来に向かって  どういう生き方ができるかを、考えてゆく。 ビジョンを描く事 
 ユングはアクティブイマジネーション(能動的想像)が人間には大事だという。
④自分と神と繋げる 自分と仏と繋げる ヨーガ 宗教的な高次な瞑想法

2泊3日ぐらいのコースで臨床瞑想法を学んで貰っている。
瞑想は静かな人間力を養うメソード お金がかからず、どこでも瞑想できる、死ぬ寸前の末期の人でも出来る。
或る看護師さんが疲れてしまって毎日弁当を持って1日中いたが、4日でようやく解放された。
自然の中に身を置く事によって、素の自分に戻る、日常を忘れる。
それから自分がどう生きるかと言う事になって、1週間で立ち直りました。
人間の中には立ちあがってゆく力がある PTG(Posttraumatic Growth))と言いますが。

お遍路さんは歩く瞑想  ゆっくりゆっくり歩くのも瞑想
現代人は頭でっかちになっている(知識で解決しようとする)、身体の反応を感じ取る。
悩んだ時は歩いてみる。 苦しい時、悲しい時、辛い時歩いて、お祈りしながら(札所)歩む。
88番から1番に廻ってきてエンドレス、スパイラル状に向上してゆく。
円空は孤独だとは思わない、人生を楽しんでいたと思う。
自然に包まれているという感覚さえ生まれてくれば、決して孤独ではない。(法縁)
歩いて歩いて、時には人に出会う。
円空仏は自分の気持ちが投影される。












2014年10月15日水曜日

大下大圓(飛騨千光寺住職)   ・円空の思いを今こそ伝えたい(1)

大下大圓飛騨千光寺住職)円空の思いを今こそ伝えたい(1)
千光寺は戦国時代からの古刹で円空寺とも言われています。
江戸時代前期の放浪僧円空が、道に落ちている木を持ち寄って仏様を彫り、飢えや疫病災害に苦しむ民衆に配ったと言われ、千光寺にはお世話になったお礼にと64体の仏を寄進しました。 
現在千光寺で開かれる心の道場には、仕事に疲れた人達がじっと瞑想して自分と向き合い、円空仏で癒されて社会に復帰しています。

昔から町作りをする時に東北の位置に神社、お寺を配置して鬼門の位置、飛騨の安寧を祈る祈願所だった。
1600年前からのすごい古刹。
両面宿儺(りょうめんすくな)という飛騨の長(おさ)がいて、祈った場所と言われる。
12歳の時に千光寺に来て、毎日歩いて学校に通った。
冬は学校に行くのに2時間ぐらい掛けて、雪をかきわけて山道を通った覚えがある。
5本杉と言って1200~1500年の杉があり、1本の木から4mぐらいのところから5本に枝が分かれて、天を目指している、山の全ての歴史を知っている、国の天然記念物になっている。
仁王門が昨年の秋に完成 伽藍が450年前(永禄7年)、甲斐の武田の飛騨攻めがあって、その時に伽藍が全部焼けてしまって、千光寺もまだ復興の途中だった事に気付いて、門を作った。

円空 350年ぐらい前の人、晩年に登ってきて俊乗と言う住職と仲良くなって、飛騨を廻るベースキャンプの様な所になって、飛騨を廻っていろんな仏像を作った。
円空仏 全国には一杯あるが、寺には64体あります。
昨年国立博物館で円空展を開き、64体と飛騨にある仏像を含めて100体展示しました。
19万人(1~4月)来場者があった。
天台宗の坊さんになるが、自然と一緒に生きてきた、大地にへばりついてきた百姓、山の仕事をする人たちと交流する中で、仏像を彫りあげてゆく生き方は素晴らしいと思っています。
仏像を作る時は、経典とか規則みたいなものがあるが、円空は大胆に省略すると言うか、抽象的な表現しかない。
なんか見ていると仏性が伝わってくるような力強さがあります。

円空は幼い時に長良川の水害で母を亡くしたと言われる。
その時の心の傷が後に仏像を彫る、特に円空が歌った、
わが母の命に代る袈裟なれや 法のみかげは万代をへん
(坊さんになったのは母の菩提を祈るために出家したと言う事が歌の中に現れている)
最初自分の母のために彫り始めるが、諸国を行脚している時に、悲しい思いをしているのは自分だけではないと言う事に気付いて、他者の為に祈る仏を作り始める。
心をこめて作ったので、哀愁、優しさ、慈悲、生きる力があったりする。
寺のふもとの民家には円空に彫ってもらった仏像が仏壇に飾ってある。
東北、北海道にも足を運びアイヌの人に出会って又作風が変わる。

日本の宗教性と言うのは自然とのかかわりの中に非常に大きなものがある。(自然観的宗教観)
仏像はインド、中国ではほとんど石、鋳物であったりするがほとんど石ですが、日本に入ると木に彫られることが多くなる、それは日本人が木のなかにも仏が宿っていて、自然の中に神や仏を感じる国民性があり、木がもうひとつの命に代えて仏になる。
最初見たときには是は仏像と思ったが、段々円空の味みたいなものを感じた。
最初見た衝撃が変化してゆく。
何とも言えないほほ笑みが共感できる、素朴な自分の気持ちと繋がる。
仏様は高いところにいて、私たちを見降ろして温かく包んでくれると言う様な感じですが、円空の場合は共感。
どの宗派にも円空仏があるわけではなくて、密教的なお寺、禅宗系なところ、神社ですね。

中学1年の時に前の住職が癌で亡くなるが、大禅と言う名前で、私の「大」と円空の「圓」で「大圓」と言う名前を付けるので、寺の後を頼むという、強烈な体験をしてしまった。
亡くなった住職との約束があるから、後千光寺に残ると言ってしまったが、其れからが大変だった。
高野山で、8年間お寺で修業をする。 師匠が頑固一徹の人だった。
若い時の苦しみは耐えられるので、忍耐力、やる気、生きる力に繋がってゆく。
理屈でなく体で覚えてゆく日本の文化、そこではマニュアルが無い。
体得するまでの途中が大変だが、体得と言う意味が判るとこの感じだなと応用ができる、応用ができることが判ったら人生は非常に面白い。
スリランカに一人で行って、初期仏教をやりたかった。(お釈迦さんの原点をやりたかった)
瞑想を教えてもらって、人間の心の中を見ると言う、それから40年近く瞑想をやってきているが、それが私の今の生き方のベースになっている。

言葉は通じないが身振り手振りで、イギリスの植民地でもあったので英語を学んでいるので、どうしても通じない時は英語でやって、あとは生活をしてゆくのには言葉はいらない。
私物は持たないので、お布施していただくもので生きてゆくのでシンプル。
スリランカは戒律が厳しいので妻帯しない。
私は縁あって結婚する事になり、子供を持つという意味が理解できて、共通の話題が出せるようになり、こういうのも日本的な仏教の一つの在り方だなあと思いました。
結婚してから非常に家庭の事を相談する事が多くなりました。
人生すべてが学びですよね。 
人生全てが意味があると思いますし、苦労することはいいことだと思います。
江戸時代に檀家制度ができて、檀家の固有のお寺になってしまったが、お寺はもっとオープンに利用すべきだと思います。

こちらが回答を出そうと思うと難しい、回答はその人のなかに在るので、自灯明法灯明 と言う教えのなかにある、自分の中に灯明がある。
本人の中に自分が解決してゆくカウンセリングが主流になっている。
①指示型カウンセリング、②非指示型カウンセリング、③折衷型カウンセリング 大きくは3つにわかれる。
私は鏡になっていればいい、こっちは回答を持っている必要はない。
但し人生経験は必要、共感する態度はとても大事。
死の直前であろうが、死ぬのはその人なので、その人が今死のうとしてのなかでの悩み苦しみ
もその人のものなので、私が解決しようとする必要はない、その人の苦しさに寄り添ってゆく、最後の最後にその人自身が成長するのをサポートする、そういうスタンスなのです。

判断が必要な場合は、専門家に繋げてあげる、それぞれの人を紹介する。(ネットワーク、人間関係が大事)
「命のネットワーク」 一人では限界があるので、高野山で再教育するシステムを作ろうじゃないかと言う事で心の相談員、スピリチュアルケアーワーカーとか専門的なことを学んだお坊さんたちを養成してきました。
儀式、法事が中心だったのが、若いお坊さんが目覚めかけてきて、お寺が地域のかたの為になる
在り方を模索する人たちが沢山出てきた。
震災以降、東北大学が臨床宗教師という制度(養成コース)を作って、宗派、宗別を越えて宗教家が繋がろうと言うネトワークがあったり、宗教家が他の機関と繋がってゆくと言う勉強会が出てくるようになりました。

危機感かもしれない、都会では檀家離れが起きてきて、お葬式をしないで火葬してしまうとか、従来の檀家制度が崩壊してしまうと言う危機感があって、従来のお葬式、法事だけのやり方では存続できないと言う事が情報として入ってきている。
自分たちが社会に出て行っていろんな社会の人と出会って、世界が広がってゆくと言う事で、阪神大震災があって以降、宗教界で静かな動きが出来てきている。
お寺は長い歴史、伝統、経済、自然があり、これは時代が変わろうともこれはベースにする必要はあると思う。

20年前ぐらいからケアする人をケアする事を考えていて、その人たちは疲弊しはじめた。
コアになる人間の中心となるもの(スピリチュアルケアー)に栄養を与えないと枯渇してしまう。
それはゆっくりじっくり時間をかけないといけない。
「命のセミナー」 1泊2日、2泊3日でゆっくり考えて自分と向き合い、他の人と向き合い、自然と向き合い、宗教的な雰囲気(非日常的な雰囲気)に置く事によって、体験的に学習する事を始めて、1200人ぐらいがセミナーに参加していただいて、皆さんから喜ばれている。

















2014年10月14日火曜日

大平長子(プロダクション代表)    ・着ぐるみがくれた俳優人生(中止)

大平長子(着ぐるみプロダクション代表) 着ぐるみがくれた俳優人生
台風情報の為、中止です。

2014年10月13日月曜日

材木正巳(ネジメーカー社長)    ・世界一のネジを目指して

材木正巳(ネジメーカー社長)   世界一のネジを目指して
去年、社員1300人余りのネジ会社の社長に就任した材木さん、携帯電話、カメラ、パソコン等に使われている直径0.6mmのネジ作りに携わり、完成させた喜びは今でも忘れないとおっしゃいます。
ネジから学んだ多くのものが会社経営、生き方にも参考になったと言う材木さんに伺います。

ジャンボジェット機に300万本近いネジが使われている。(小さいものから大きなものまで含めて)
うちの会社のネジは内装に小さいネジとして使われている。
0.6mmのネジは圧転造と言ってワイヤーから作るが、材料は0.4mmしかない。
線材から頭を叩いて、頭部を作る、ネジ部を転造から作る。
頭には十字がついている。 時計等に使う。 
ドイツ、スイスとかが主流で切削でネジを作っていた。 
転造でネジを作ったのは当社が世界で初めて。
大量に作るには切削では限界がある。 
切削では頭の大きさと同じ径ものを使うので、削りかすが出るが、我々の成形は削りかすが出ないので、無駄が無い、安定した品質のものが出来る。

私が入った時にネジを担当した。
金型、作る機械も全部社内でやっていたので出来た。
頭部の十字のところは0.6mmならば厚みは0.03mmぐらいしかない。
金型と金型の精度が出来ていなかったら頭部が破壊したりする。
当時は1.2mmしか作っていなかったが、0.6mmを作れるようになった。
身の回りのほとんどにネジが使われている。
基本的にはオーダーメイドで作るのがほとんどです。
ネジの価格は銭の単位ではなく厘の単位まである。 薄利多売と言う事になる。
グループで年間 300億本ぐらい作っています。

ほとんどのものにネジが無いと成りたたない。
無くてはならないのですが、縁の下の力持ち的な製品と言うのがこのネジと言うものであると思っています。
昭和46年に入社しました。
ネジの開発をして、月に100件ぐらいを新規分野のマーケットに出す。(奥の深いもの)
ネジは6つの構成で成っている
①廻す駆動部 ②頭部の形状 ③頭部の裏の座面の形状 ④ネジ部の首下の形状 ⑤ネジ部
⑥ネジ部先端の形状
一つ一つに10種類以上あるので、組み換えで100万通りのネジができる。
全部当社内でやる事によって、お客さんの信頼を得ている。

当社の責任は大きい、責任は大きいからお客さんの信頼も得られる。
当社では現在7万種類ぐらいを作っている。
ネジ締め機、ドライバーも当社でやっている。
市場で家庭工作でのネジとの違いは?
ネジの後ろにある技術で保障された保障力が違う。
この製品はと言われたら、どの工程で、どの材料を使って、どの機械を使って誰がいつ出荷したか、すべてトレーサビリティーが取れる。
市場でのネジはそういったものが取れていない。

材料、熱処理、メッキも世の中の信頼できるだけの要素で造りこんだものなので、お客さんがお使いになる時に事故、トラブルはまず皆無です。
当社の製品はセルフタップネジと言って、ネジの締結は、昔ですとタップを切ってそこに小ネジを入れるやり方でしたが、今はコストを踏まえて、下穴があいているところに、メネジを整形しながらやるので、これが主流になっている。
今の製品の主流は丸ではなく、三角のおにぎり型になっている。
大量生産をするには三角のネジを使わないといけない。
塑性変形してメネジを成形するので、薄くてもしっかりした締めつけができるので効果がある。
丸い穴に丸いネジを使ったら切り粉がでる、三角ですと、三角の頂点がずれることで、押したり引いたりしながら、相手材を変形するので、チップレス、切り粉がでない、そういう事によって相手が強くなる、切り粉が出ない、薄くても閉まるネジになり、三角の頂点のほうがトルクが低いので自動機むけに良いネジになる。

パテントはスイスが開発して、日本に導入した。
TV、冷蔵庫、洗濯機が伸び盛りのころにこういうネジが要求された。
当時スイスでは三角のネジは三角の材料から生産されていた。(非常に難しい製法だった)
当社で間違えて丸い材料を入れてしまって、結果巧く三角のネジが出来た、それが大量生産するきっかけになった。
ネジは締めて緩めることができる。
小さいネジは締めつけが難しいので、締めつけ機も当社で作るので、お客さんが採用できる。
時計、デジカメなどもそうです。

当社では本を出した「人生のネジを巻く77の教え」 或る出版社から言われたが、40年に渡って従業員の教育用の資料を纏めただけのもの。
多くの方からおほめの言葉を頂いた。
縁の下的な役割で会社にいますが、この本で立派にあなたがいなかったらこれは成り立たない、そういう重要な役割をしているのですと、この本に書いてあるので、表に出ている人は一部の人、一般の人は目立たない存在だが頑張っている、あなたの役割りは立派な事ですよと、この本は書いてあるので、多くの読んだ方から非常によかったと言う手紙を頂いた。
一人一人が大事な存在ですよ、と言う風に書いてあるわけです。
人と人とのつながりができるが、相手と自分とのスタンスを考えて対応すると言う事で一つのものが出来上がるので、相手の立場を考えて行動すると言う事は、押したり引いたりする事と、ネジを締めたりゆるめたりすると言うものもそうですし、たまには息抜きで緩めないと持たない時もあるし、それを、人生をネジにたとえて、話を書いているわけです。

その場に適したネジを作るということは、いいところは皆持っているので、いいところを褒め合っていい結果を出す方がいいと思うので、材料によって締める力が違うのでそれなりに調整しないといけない、適材適所を考える。
野球で、同じチームに9人いたとしたら、どう配置したら勝つか勝たないか、建前でやったらいけない。
(若い監督が私を4番にして、戦ってぼろ負けした事を会社の月刊誌で紹介した。)
適材適所で、部下をしっかり知って最適な配置をすることが大事。
京都の綾部市 ここで戦前からネジを作っていた。
蚕(かいこ)で女性が多く働くところだったが、男性の働く場を作るということで、雇用して地域の発展をするというのが当社の創業精神です。(創業は昭和13年)
海外展開もしているが、日本人は理詰めでしっかりものを考えるが、海外ではアバウトですね。
日本は性能、外観とか規格にあっているかとか、真面目だが、欧米では多少規格は外れても性能が良ければよいと言う様な考え方。




2014年10月12日日曜日

杉岡幸徳(作家)         ・読書会が私を変えた

杉岡幸徳(作家)   読書会が私を変えた
東京外語大学ドイツ語学科の修士課程を修了した後、世界を放浪する旅に出ました。
その後全国各地の独特の習俗を持った祭り、奇祭に焦点をあてた本を出版するなどノンフィクションを中心に、執筆活動を続けてきました。
その杉岡さんが主催しているのが、東京読者会です。
この読書会、月に一回東京都内で行われているもので、参加者は事前に作品を読み込み、それぞれの感性で議論を繰り広げています。
杉岡さんは読書会で取り上げた本や、読書会のメンバーとのやり取りに啓発され、今本格的な小説を初めて執筆しています。
杉岡さんが3年間の読書会で掴んだものは何か、作家としてそれをどのように展開しようとしているのか伺いました。

文章に対する目が肥えました。 自分に対して、他人に対しての文章の在り方に、ついてちょっと厳しくなった。
大学ではドイツ語文学を専攻しました。
オーストリアの20世紀初めの詩人 ゲオルク・トラークル 27歳で亡くなった詩人が好きで、是非ドイツ語で読んでみたいと思ったので、ドイツ語を選んだ。
修士課程、ほとんどゼミで、中には話の脱線する教授がいて面白くて、それが読書会の原点になっているのかなと思っています。
ゲオルク・トラークルに関する修士論文を書く。 オペラみたいな作り方で自信作だった。
博士課程に提出したら、これは論文とは言えないと落とされてしまった。
博士課程に行く予定だったが、呆然としてしまって、アルバイト、海外旅行に行ったりした。
その後にものを書こうかと思った。
売り込みは苦手なので、ホームページを作って宣伝したので、売り込みの手間は省けたと思う。
レストランの紹介などの記事をやっていたが、クリエーティブではないので、面白くなかった。
直ぐに撤退した。
あるところから祭りの連載をやってくれないかとの話があり、私の文章は主観的な文章なので、勝手に書いた。

大学時代ロシアに旅行した。 
新潟(飛行機)→ハバロフスク(シベリア鉄道 1週間)→モスクワ
一日動いても風景は変わらず単調で、一日一時間の時差があるので、5日目に感覚がおかしくなって、このまま永久に列車から逃れられないのではと思い始めた。
一週間目に到達したときには涙が出てきた。
赤の広場(美しい広場と言う意味) 足元からエネルギーがはいあがってくる様な感覚があった。
それまでは堅苦しい、真面目な生徒だったが、ロシアに行った後、9月には学校に行く格好が従来スーツにネクタイだったが、汚いジーンズ、汚いTシャツ、サンダルで学校に行き始めた、自分の中で何かが消えたんでしょうね。

ライナー・マリア・リルケ詩人 彼は若いころは凡様な普通の詩を書いていたが、ロシアに行って精神的な変動を覚えて、帰ってからは革新的な詩を書く様になったと言われ、同様な経験をしたのかなと思っている。
格式、形式とかは、気にするのは止めました。(ロシアの大地によって解き放たれた。)
祭り 奇祭と言うがそんなに面白くなかった。
私は面白かった部分だけを自分なりの考えで、主観的に加工して作品として提示する。
宮古島のパーントゥ(現地語で怪物) 全身を泥で塗りたくって不気味な仮面をかぶったパーントゥが三匹出てくる。
それが住民を追いかけまわして泥を塗る。 それは面白かった。
客観的に書いたのではまったく面白くないので、私なりに考えてデフォルメして書いた。
如何に現実を傷つけずに、致命傷を負わせずに、こっちの主観で作品を作り上げるか、その狭間で苦しんで書いている。

2011年6月に読書会を始めた。
もう一度昔読んだ文学作品をもう一度読みたくて、一人ではなく読んだ人達と意見交換をしたかった。
ブログを作って古典的な名作をテーマとして決めて、読んできて、何月何日に喫茶店に集まってくださいと参加者を募って、当日その本について話し合う。
最初4~5名で10名ぐらいで安定していたが、1年前から20人にしています。
年齢は13歳~60歳ぐらいです。 男女比は半々ぐらい、サラリーマン、OL、主婦などです。
月1回で38冊ぐらいになる。  フランツ・カフカの「変身」 
何を意味しているのか判らないし、皆さん悩んでいました。
いろんな感性の持ち主がいる。
阿部公房の「砂の女」 
半分ぐらいはこの男の様に逃げないという意見の人がいた。(女性の方が多かった)
我々の実生活を誇長して表現しているだけだと思う。

私が司会をしますが意見は否定はしない。 
いろんな意見が混在したまま進んでゆく、終わってゆく方が面白いと思う。
2時間で行う。
地位が人格を作る。 リーダーとして話を纏める、盛り上げる方向に変わってきた。
文章に対する目が肥えてきた、より美しい文章に目を開くようになってきた。
小説を書こうと思っている。
突然或る構想が浮かんで、絶対に形にしないといけないと言う衝動に襲われまして、現在書いているが8割近くになる。
文学賞に応募して新しい道を開こうと思っている。
人物に名前もないし、場所もわからない、と言うシュールな作品です。
私はオスカー・ワイルドが好きで「芸術は芸術のための芸術、芸術は何も言わなくていい、美しければいい。」といっている。
テーマは無い方がいい、あったとしても著者は言わないほうがいいと言うのが私の考え方です。
展覧会、音楽会にいって、感想を話し合うと言う事もやっていきたいと思っている。

2014年10月11日土曜日

水谷和郎(記念病院医科長)  ・震災20年を語り継ぐ、あの日を知ることが出発点

水谷和郎(神戸100年記念病院医科長)  震災20年を語り継ぐ  あの日を知ることが出発点
水谷さんは震災当時、震源地に近い淡路島の洲本市に在る兵庫県立淡路病院に勤務する若手の内科医でした。
16万人が暮らす島の災害拠点病院、震災の日の朝その病院の当直勤務でした。
1995年1月17日午前5時46分、淡路島は直下型の激しい揺れに見舞われます。
しかし島の南に在った病院は水道や電気が止まることなく、救急医療の機能は保たれました。
島の北部の激震地から多くのけが人が殺到し、救急外来は大きな混乱に陥ります。
水谷さんはその時の体験を医療関係者に語る活動をしています。
たまたま病院関係者が震災当日の記録ビデオを元に学会やセミナーで講演し、医師や看護師、救急隊員、医学部、看護学部の学生などに、あの日の体験を追体験してもらおうと言う事です。
自分ならどう動くかを考えること、それが次の災害に備える力になる、そう訴える水谷さんに伺います。

あの朝、当直の医師は3人だった。 
私は3年目の内科、外科の1年目の先生、整形の5年目の先生でした。
ゴーッと言う音があり、縦揺れが来て、それから横揺れが来た。
TVしか情報が無くて、大変だと思っていたら、全国の震度がでだしたころに、神戸と淡路の震度が出てこなくておかしいなと思いながら、消防所に電話したときに、生き埋めが何人かいるとか、救急要請が11件有ることが判る。
はじめ大変なことになるという思いはあまりなかった。
6時ごろ、手を怪我したと言うのが最初の患者だった。
ビデオを撮りだしたのは7時頃だった。(外科医長)
ひっきりなしに救急車が来るようになる。

処置をする場所が無い状況になる。(8時頃)
心臓マッサージを30分ぐらいした患者さんがいた。(蘇生が不可能だと言う判断があるが、あの時ジャッジができなかった。) 
心臓マッサージの患者で通路が埋まっていた様な状況  
次の人を助けなくてはいけないので、マッサージは止めなさいという指示が出た。
トリアージ 助けられる人を助ける。  トリアージについて救急医療をやっていた先生しか知らなかった。
何とかしてあげたいという思いはあるが、心臓マッサージをしながら病院に辿り着いた方は6名いたが、今の感覚では6名とも助かる状況にはなかった。

外科外来、整形外来、脳外科外来を救急外来ではなく、軽傷者として扱うとして、救急外来に対して楽になった。
それなりに対応できる体制になった。
2日目の朝、ゆっくり目に行ったら、昨日よりも混乱してしまっていた。
ガス配管が漏れたための事故で、救急外来が押し寄せてきた。
地震が夜中だったり、昼間だったりした場合にはもっと大変な状況になってしまったのではないかと思う。
震災から3年までは、結構話ができたり、TVの震災のことがあったりしても積極的にみることができたが、3年経った後はTVを見ていてボロボロ泣けてしまうし、阪神淡路の話になると、チャンネルを変えてしまって見れなくなってしまった。
ああしておけばよかった、こうしておけばよかったとの思いがどっかにあっての後悔と、淡路にいて自分の生まれ育った神戸に対して何もできなかった、その後悔のためなのか、10年ぐらいまで話が出来なかった。

10年経って姫路も大変だったろうと思ったが、当時働いていたスタッフから揺れたけれど、大変ではなかったと聞いて、あーそんなもんだったかと言う思いと、私が淡路病院の話をしていたら、看護師がうちの病院は地震になっても誰もこうしないと言ったので、それはあかんと違うのと思い非常に危機感を感じた。
外科医長の撮ったビデオを頂いていたが、見るなんてことはそれまで有り得なかったが、淡路病院のあの映像を見てもらったら、ちょっとは阪神淡路大震災が、現場がいかに大変かが、判ってもらえるかなと思って、院内で見ることになったのが最初でした。

医療関係の学会や、勉強会などで淡路病院での体験を話す様になりました。
ビデオを交えて話しました。
災害時の映像、心臓マッサージをやっている時に先生がもうやめてくれと言った時に、命を諦めることはショッキングでした。等の感想を得た。
伝わってほしいのは災害の時には大混乱になりますよ、慣れている淡路病院でもそうなので、知識を持って訓練をして、どんな状況で有っても対応できるような、頭作りをしてくださいね、と言う事が伝わってほしい。

淡路病院が動けたのは被災地の端っこの病院で、一つでも欠けていたら多分あんな動きにはならなかったろうなと思います。
どんな被災になるかは分からない。 想像力を如何にたくましくさせるか、マニュアルをどう応用できるか、自分が何をすべきか、災害医療に必ず求められることだと思います。
もうちょっと何とかできたのではないかと、20年経っても変わらないですね。

2014年10月10日金曜日

奥田敦也(古典尺八奏者)    ・禅の音を求め、手作りの尺八を吹く

奥田敦也(古典尺八奏者)    禅の音を求め、手作りの尺八を吹く
昭和20年 愛知県生まれ 69歳 国分寺市在住 若いころからジャズのトランペッターとしてプロの活動をしていましたが、思うところがあって、40歳の頃古典的な尺八の世界に身を転じました。
奥田さんの吹く尺八は「地なし延べ管」と呼ばれる、古い形式のもので、自らの手で山から竹を切りだし永い歳月をかけて、作り上げた古典的な尺八です。
法竹と呼ばれ、仏法の真理を追究する道具だったと言います。

今ここに30本以上ある。 短いものは30cmぐらい。(1尺1寸) 
節が一つしかなくて一節切り(ひとよぎり)と言われているが、室町時代に吹かれた尺八。
長いと1m以上ある。(3尺5寸) 腕を一杯の伸ばさないと穴の位置まで届かない。
聞こえてくる音 遠音(とおね)と言われる。 手作り。
微調整は門人にはできないので、私がやっています。
今の尺八は中に砥の粉、石膏、漆などを塗って調制する「地あり中継管」と言って、調律がとれる。
真中から二つに切断されている。 調律しやすくなっている。

「地なし延べ管」は継ぎ目が無くて、一本の竹のままで内部に加工がしていない。
尺八は中国からきている。 聖徳太子の時代から尺八と言う言葉が有る。「地なし延べ管」だった。
虚鐸 江戸時代寛政年間に虚鐸伝記告示会があって虚無僧が作った名称が虚鐸という名称。
鈴の古い言葉を鐸と言う。  
銅で作った鐸が銅鐸 鉄で作った鐸の事を大和言葉で「さなき」と言って霊的な力がある。
鈴をたくさんつけて、お祈りをしたりする。
この世とあの世をつなぐような霊的な響きがあるという事が鐸、後に鈴になったわけです。
尺八は虚鐸、あるいは法竹(ふっちく)と言う言い方もされる。
法は仏教的な意味合いからすると真理 真理を求めるための道具に竹を使うという事から法竹ともいう。  仏具と考えられていた。

尺八の魅力は江戸時代に吹かれた独奏の調べ 尺八の本曲です。 
本曲を吹く事を「吹禅」と言います。
坐禅と同じように禅の理念の呼吸を使う。  呼吸を気ととらえて、息を竹の中に入れた時に、気の流れが音に変換する、それを気の表れとして、それがいわゆる本曲だと思っています。
呼吸を吐ききることが大事、吸う息よりも吐く息が大事。
普通の尺八は買う事が出来るが、「地なし延べ管」は自分で作るしかなかった。
「本手の調べ」の曲(吹禅する)

自然の音と融合する。
日本の楽器の音と西洋の楽器の音の違いは、「さわり」 西洋の楽器には「さわり」がない。
さわりが無いと本当のいい音は出ない。 さわりは雑音 
竹やぶの朽ちた竹に風が吹き込む音、至上の音、理想の音と言われている。
さわりは日本人の音の感性から言うと非常に大事。
純音と雑音を平等に扱う。
若いころはプロのトランペッターだった。  ジャズが好きだった。
モダンダンスをやっている叔母がいて(奥田敏子) 父が亡くなった時に追悼公演で、踊りの素材の音に武満 徹作曲の「エクリプス」と言う曲を使って横山勝也さんが吹いていた。
それを聞いた時に吃驚した。

物凄いカルチャーショックを受けて、虜になった。
縁あって横山勝也さんに師事しました。
横山勝也さんはヴェンバー・ステップスを (尺八、琵琶、オーケストラ)をニューヨークフィルと一緒に演奏された。
30年前にトランペットを捨てて、尺八に自分の全てをかけたいと思ったが、トランペットを捨てると生活ができなくなるので、「禅茶房」という名の喫茶店を開いて、尺八を研究していこうと思った。
お客さんの求められるままに演奏する様になって、そのうちお客さんから自分も習いたいと言う人が現れて、ドンドン増えてきて、喫茶店よりも尺八の稽古場の様になってしまった。
外国人も増えてきて、そういう人たちが国に帰って、プロになっていて、「禅茶房」流と名乗っているらしい。

デンマークの女性が11年間ぐらい私のところで稽古をしたあとに、国に帰って、後にロンドン大学にゆき、現在博士号まで取ってしまった。
生徒は130~140人が来ていました。
自分で山に行って取ることから始まるので、竹取の会を催して、毎年秋には山に取り行っています。
昨年で24年続いています。
尺八を作る会を次の年の春に行っております。
最初の頃は群馬県の方にいっていたが、長野県に移って現在に至っています。
演奏活動はリサイタルをしません。   
私の音を聞きたいと言う方は禅茶房サロンに来ていただくのがベストだと思う。
国分寺市の文化祭が秋にあり、勉強会と言ったらいいのか、そんな形でやっています。

10年ぐらい前、禅のCDを出したところ外国から声がかかり、チューリッヒ大学、ウイーン大学、バンクーバー大学、オークランド大学、ロンドン大学等に行って演出している。
「鶴のすごもり」を演奏する。 冬寒い時期に食べものが無くなるとひなが先に弱ってしまう。 
ひなに親の鶴が自分の肉を引き裂いて、食べさせる。
親が心身を砕きつくして、子を育てる、という巣篭因縁経という伝承にもとずく曲と言われています。
迫力のある音 尺八で一番難技巧と言われているのが「鶴のすごもり」で技巧的に難しいものがある。
2尺2寸の尺八で演奏した。 一般に普通もっと短い竹で吹いている。
(尺八の事を奥田さんは竹と呼んでいる)
竹の音は鈴の音、鐸 霊的な音 恐らくこれに近いものがあると昔の人は感じたのではないか。
私も感じています。
竹と言うものは、今の尺八の様に楽器にしてしまったら、そういう魅力は無くなるのではないかと思います。

楽器にすれば、多くの音が出るし、音量も上げられますが、竹の持っている音と言うのは、自然の竹の音は小さな音、小さな音や音色は物凄く豊かだと思っています。
小さな音、豊かな音色を出したいために山にいって竹と出会い竹を取る、出会いこれも縁だと思う。
竹と対話して、お前はどういう性格だとか、竹の持っている個性をいかに引き出すか、そういう個性を引き出す息の入れ方がしゅうわ?(調和?聞き取れず)だと思います。
そこに面白みを感じています。
10本竹があれば10本の個性がある、全部音色が違う、人間と同じ。 
竹の個性を引き出すために、息を探してゆくわけです、それを吹禅の境地だと思っています。
人間が自然に対して謙虚であると言う事が一番大事なことだと思います。
竹はゆっくり心を静めて、息をゆっくり吐き出す、これは健康に一番いいと思います。