大下大圓(飛騨千光寺住職)円空の思いを今こそ伝えたい(1)
千光寺は戦国時代からの古刹で円空寺とも言われています。
江戸時代前期の放浪僧円空が、道に落ちている木を持ち寄って仏様を彫り、飢えや疫病災害に苦しむ民衆に配ったと言われ、千光寺にはお世話になったお礼にと64体の仏を寄進しました。
現在千光寺で開かれる心の道場には、仕事に疲れた人達がじっと瞑想して自分と向き合い、円空仏で癒されて社会に復帰しています。
昔から町作りをする時に東北の位置に神社、お寺を配置して鬼門の位置、飛騨の安寧を祈る祈願所だった。
1600年前からのすごい古刹。
両面宿儺(りょうめんすくな)という飛騨の長(おさ)がいて、祈った場所と言われる。
12歳の時に千光寺に来て、毎日歩いて学校に通った。
冬は学校に行くのに2時間ぐらい掛けて、雪をかきわけて山道を通った覚えがある。
5本杉と言って1200~1500年の杉があり、1本の木から4mぐらいのところから5本に枝が分かれて、天を目指している、山の全ての歴史を知っている、国の天然記念物になっている。
仁王門が昨年の秋に完成 伽藍が450年前(永禄7年)、甲斐の武田の飛騨攻めがあって、その時に伽藍が全部焼けてしまって、千光寺もまだ復興の途中だった事に気付いて、門を作った。
円空 350年ぐらい前の人、晩年に登ってきて俊乗と言う住職と仲良くなって、飛騨を廻るベースキャンプの様な所になって、飛騨を廻っていろんな仏像を作った。
円空仏 全国には一杯あるが、寺には64体あります。
昨年国立博物館で円空展を開き、64体と飛騨にある仏像を含めて100体展示しました。
19万人(1~4月)来場者があった。
天台宗の坊さんになるが、自然と一緒に生きてきた、大地にへばりついてきた百姓、山の仕事をする人たちと交流する中で、仏像を彫りあげてゆく生き方は素晴らしいと思っています。
仏像を作る時は、経典とか規則みたいなものがあるが、円空は大胆に省略すると言うか、抽象的な表現しかない。
なんか見ていると仏性が伝わってくるような力強さがあります。
円空は幼い時に長良川の水害で母を亡くしたと言われる。
その時の心の傷が後に仏像を彫る、特に円空が歌った、
「わが母の命に代る袈裟なれや 法のみかげは万代をへん」
(坊さんになったのは母の菩提を祈るために出家したと言う事が歌の中に現れている)
最初自分の母のために彫り始めるが、諸国を行脚している時に、悲しい思いをしているのは自分だけではないと言う事に気付いて、他者の為に祈る仏を作り始める。
心をこめて作ったので、哀愁、優しさ、慈悲、生きる力があったりする。
寺のふもとの民家には円空に彫ってもらった仏像が仏壇に飾ってある。
東北、北海道にも足を運びアイヌの人に出会って又作風が変わる。
日本の宗教性と言うのは自然とのかかわりの中に非常に大きなものがある。(自然観的宗教観)
仏像はインド、中国ではほとんど石、鋳物であったりするがほとんど石ですが、日本に入ると木に彫られることが多くなる、それは日本人が木のなかにも仏が宿っていて、自然の中に神や仏を感じる国民性があり、木がもうひとつの命に代えて仏になる。
最初見たときには是は仏像と思ったが、段々円空の味みたいなものを感じた。
最初見た衝撃が変化してゆく。
何とも言えないほほ笑みが共感できる、素朴な自分の気持ちと繋がる。
仏様は高いところにいて、私たちを見降ろして温かく包んでくれると言う様な感じですが、円空の場合は共感。
どの宗派にも円空仏があるわけではなくて、密教的なお寺、禅宗系なところ、神社ですね。
中学1年の時に前の住職が癌で亡くなるが、大禅と言う名前で、私の「大」と円空の「圓」で「大圓」と言う名前を付けるので、寺の後を頼むという、強烈な体験をしてしまった。
亡くなった住職との約束があるから、後千光寺に残ると言ってしまったが、其れからが大変だった。
高野山で、8年間お寺で修業をする。 師匠が頑固一徹の人だった。
若い時の苦しみは耐えられるので、忍耐力、やる気、生きる力に繋がってゆく。
理屈でなく体で覚えてゆく日本の文化、そこではマニュアルが無い。
体得するまでの途中が大変だが、体得と言う意味が判るとこの感じだなと応用ができる、応用ができることが判ったら人生は非常に面白い。
スリランカに一人で行って、初期仏教をやりたかった。(お釈迦さんの原点をやりたかった)
瞑想を教えてもらって、人間の心の中を見ると言う、それから40年近く瞑想をやってきているが、それが私の今の生き方のベースになっている。
言葉は通じないが身振り手振りで、イギリスの植民地でもあったので英語を学んでいるので、どうしても通じない時は英語でやって、あとは生活をしてゆくのには言葉はいらない。
私物は持たないので、お布施していただくもので生きてゆくのでシンプル。
スリランカは戒律が厳しいので妻帯しない。
私は縁あって結婚する事になり、子供を持つという意味が理解できて、共通の話題が出せるようになり、こういうのも日本的な仏教の一つの在り方だなあと思いました。
結婚してから非常に家庭の事を相談する事が多くなりました。
人生すべてが学びですよね。
人生全てが意味があると思いますし、苦労することはいいことだと思います。
江戸時代に檀家制度ができて、檀家の固有のお寺になってしまったが、お寺はもっとオープンに利用すべきだと思います。
こちらが回答を出そうと思うと難しい、回答はその人のなかに在るので、自灯明法灯明 と言う教えのなかにある、自分の中に灯明がある。
本人の中に自分が解決してゆくカウンセリングが主流になっている。
①指示型カウンセリング、②非指示型カウンセリング、③折衷型カウンセリング 大きくは3つにわかれる。
私は鏡になっていればいい、こっちは回答を持っている必要はない。
但し人生経験は必要、共感する態度はとても大事。
死の直前であろうが、死ぬのはその人なので、その人が今死のうとしてのなかでの悩み苦しみ
もその人のものなので、私が解決しようとする必要はない、その人の苦しさに寄り添ってゆく、最後の最後にその人自身が成長するのをサポートする、そういうスタンスなのです。
判断が必要な場合は、専門家に繋げてあげる、それぞれの人を紹介する。(ネットワーク、人間関係が大事)
「命のネットワーク」 一人では限界があるので、高野山で再教育するシステムを作ろうじゃないかと言う事で心の相談員、スピリチュアルケアーワーカーとか専門的なことを学んだお坊さんたちを養成してきました。
儀式、法事が中心だったのが、若いお坊さんが目覚めかけてきて、お寺が地域のかたの為になる
在り方を模索する人たちが沢山出てきた。
震災以降、東北大学が臨床宗教師という制度(養成コース)を作って、宗派、宗別を越えて宗教家が繋がろうと言うネトワークがあったり、宗教家が他の機関と繋がってゆくと言う勉強会が出てくるようになりました。
危機感かもしれない、都会では檀家離れが起きてきて、お葬式をしないで火葬してしまうとか、従来の檀家制度が崩壊してしまうと言う危機感があって、従来のお葬式、法事だけのやり方では存続できないと言う事が情報として入ってきている。
自分たちが社会に出て行っていろんな社会の人と出会って、世界が広がってゆくと言う事で、阪神大震災があって以降、宗教界で静かな動きが出来てきている。
お寺は長い歴史、伝統、経済、自然があり、これは時代が変わろうともこれはベースにする必要はあると思う。
20年前ぐらいからケアする人をケアする事を考えていて、その人たちは疲弊しはじめた。
コアになる人間の中心となるもの(スピリチュアルケアー)に栄養を与えないと枯渇してしまう。
それはゆっくりじっくり時間をかけないといけない。
「命のセミナー」 1泊2日、2泊3日でゆっくり考えて自分と向き合い、他の人と向き合い、自然と向き合い、宗教的な雰囲気(非日常的な雰囲気)に置く事によって、体験的に学習する事を始めて、1200人ぐらいがセミナーに参加していただいて、皆さんから喜ばれている。