2014年10月11日土曜日

水谷和郎(記念病院医科長)  ・震災20年を語り継ぐ、あの日を知ることが出発点

水谷和郎(神戸100年記念病院医科長)  震災20年を語り継ぐ  あの日を知ることが出発点
水谷さんは震災当時、震源地に近い淡路島の洲本市に在る兵庫県立淡路病院に勤務する若手の内科医でした。
16万人が暮らす島の災害拠点病院、震災の日の朝その病院の当直勤務でした。
1995年1月17日午前5時46分、淡路島は直下型の激しい揺れに見舞われます。
しかし島の南に在った病院は水道や電気が止まることなく、救急医療の機能は保たれました。
島の北部の激震地から多くのけが人が殺到し、救急外来は大きな混乱に陥ります。
水谷さんはその時の体験を医療関係者に語る活動をしています。
たまたま病院関係者が震災当日の記録ビデオを元に学会やセミナーで講演し、医師や看護師、救急隊員、医学部、看護学部の学生などに、あの日の体験を追体験してもらおうと言う事です。
自分ならどう動くかを考えること、それが次の災害に備える力になる、そう訴える水谷さんに伺います。

あの朝、当直の医師は3人だった。 
私は3年目の内科、外科の1年目の先生、整形の5年目の先生でした。
ゴーッと言う音があり、縦揺れが来て、それから横揺れが来た。
TVしか情報が無くて、大変だと思っていたら、全国の震度がでだしたころに、神戸と淡路の震度が出てこなくておかしいなと思いながら、消防所に電話したときに、生き埋めが何人かいるとか、救急要請が11件有ることが判る。
はじめ大変なことになるという思いはあまりなかった。
6時ごろ、手を怪我したと言うのが最初の患者だった。
ビデオを撮りだしたのは7時頃だった。(外科医長)
ひっきりなしに救急車が来るようになる。

処置をする場所が無い状況になる。(8時頃)
心臓マッサージを30分ぐらいした患者さんがいた。(蘇生が不可能だと言う判断があるが、あの時ジャッジができなかった。) 
心臓マッサージの患者で通路が埋まっていた様な状況  
次の人を助けなくてはいけないので、マッサージは止めなさいという指示が出た。
トリアージ 助けられる人を助ける。  トリアージについて救急医療をやっていた先生しか知らなかった。
何とかしてあげたいという思いはあるが、心臓マッサージをしながら病院に辿り着いた方は6名いたが、今の感覚では6名とも助かる状況にはなかった。

外科外来、整形外来、脳外科外来を救急外来ではなく、軽傷者として扱うとして、救急外来に対して楽になった。
それなりに対応できる体制になった。
2日目の朝、ゆっくり目に行ったら、昨日よりも混乱してしまっていた。
ガス配管が漏れたための事故で、救急外来が押し寄せてきた。
地震が夜中だったり、昼間だったりした場合にはもっと大変な状況になってしまったのではないかと思う。
震災から3年までは、結構話ができたり、TVの震災のことがあったりしても積極的にみることができたが、3年経った後はTVを見ていてボロボロ泣けてしまうし、阪神淡路の話になると、チャンネルを変えてしまって見れなくなってしまった。
ああしておけばよかった、こうしておけばよかったとの思いがどっかにあっての後悔と、淡路にいて自分の生まれ育った神戸に対して何もできなかった、その後悔のためなのか、10年ぐらいまで話が出来なかった。

10年経って姫路も大変だったろうと思ったが、当時働いていたスタッフから揺れたけれど、大変ではなかったと聞いて、あーそんなもんだったかと言う思いと、私が淡路病院の話をしていたら、看護師がうちの病院は地震になっても誰もこうしないと言ったので、それはあかんと違うのと思い非常に危機感を感じた。
外科医長の撮ったビデオを頂いていたが、見るなんてことはそれまで有り得なかったが、淡路病院のあの映像を見てもらったら、ちょっとは阪神淡路大震災が、現場がいかに大変かが、判ってもらえるかなと思って、院内で見ることになったのが最初でした。

医療関係の学会や、勉強会などで淡路病院での体験を話す様になりました。
ビデオを交えて話しました。
災害時の映像、心臓マッサージをやっている時に先生がもうやめてくれと言った時に、命を諦めることはショッキングでした。等の感想を得た。
伝わってほしいのは災害の時には大混乱になりますよ、慣れている淡路病院でもそうなので、知識を持って訓練をして、どんな状況で有っても対応できるような、頭作りをしてくださいね、と言う事が伝わってほしい。

淡路病院が動けたのは被災地の端っこの病院で、一つでも欠けていたら多分あんな動きにはならなかったろうなと思います。
どんな被災になるかは分からない。 想像力を如何にたくましくさせるか、マニュアルをどう応用できるか、自分が何をすべきか、災害医療に必ず求められることだと思います。
もうちょっと何とかできたのではないかと、20年経っても変わらないですね。