2014年10月4日土曜日

植田 紳爾(宝塚歌劇団演出家) ・百年の夢を次の百年に

植田 紳爾(宝塚歌劇団演出家)  百年の夢を次の百年に
81歳、昭和8年大阪府に生まれ、昭和32年に宝塚歌劇団に入団、「ベルサイユのばら」や、「風と共に去りぬ」など多くのヒット作の脚本演出を手がけました。
平成8年製作畑出身としては初めて、宝塚歌劇団理事長に就任、宙組(そらくみ)の新設などに尽力しました。
最古参の団付き演出家として今も活躍中で宝塚歌劇100周年の今年、新たな演出のベルサイユのばらを上演しました。
常にチャレンジをしてきた半生と改めて宝塚の魅力をお聞きしました。

100年と言う歴史の重みは今年感じさせていただいたし、そこに立ち会えたという事の感動は言葉にならない。
100年前の第1回の「ドンブラコの桃太郎」をやった、高峰 妙子さんは私が入った当時、声学の先生で、教えに来ていて当時のことを昨日の様に話しているのを聞いていて、葦原邦子という凄い大スターがレビューの時の大転換期のスターからあんた宝塚に入りなさいと言われて、宝塚に入った様な事もあり、スターたちのいろんな話を聞いているので、自分の中では100年経ったのかと思う気持ちと、100年て長かったなあと、二つの気持ちがあります。
「ベルサイユのばら」 40周年
宙吊りをやると、子供達の目の輝きが違うので、そんなことも使っている。
毎回台本が違う。 生徒たちに失敗をさせられないというのが大前提ですから、生徒たちも色々あるので、芝居の巧い子、歌の巧い子によってどうしても見せ方が変わってくる。

両親が無かったので、小さい時から親の愛には飢えていた。
悲しさ、苦しさのなかで、何でもない一言が嬉しかったり、人の親切が嬉しかったりしたことが、こういう風に素直に気持ちを書けば、見てくださる人も判って頂けるなと言う自信には繋がりました。
1歳未満で父が亡くなってしまう。
祖母の方に引き取られていった。
おじさん、おばさんに対してお父さん、お母さんと呼びなさいと、小学校一年生の時に祖母から言われた。  優しく育てられた。
普通の方だったら感じられない人間の情みたいなものが書けるなと言うものが、書いた事が作りものではなくて、自分の経験であるという事が、そういったものが多くの方が判っていただけると、自信にもなっている。

戦後宝塚が再開したときに、クラスの中に星組の娘役のスターの弟が中学の同期生で、簡単に切符が入ったので、見に行って、それが最初だった。
焼跡だらけだし、女性は紺がすりのもんぺ、男性も軍服を背広に直した様な服装の世界に、宝塚だけがピンク、ブルーがあり、若い生徒が新しく入ってきたジャズで足を上げて踊るわけで、感動していっぺんに虜になった。
私の感動したとおなじ感動をお客さんに知っていただきたいなと思って、いつも自分の本の中にはある様な気がします。
役者になって芝居をしたら、いろんな世界を演じられると思い、役者になりたいと思った。
役者になるなら、声学、ピアノ、三味線、バレー、日本舞踊もやらないと、役者になれないと言われて、いろんな事を勉強しはじめた。(日本舞踊は名取になる)
中学では演劇部を作った。 高校でも演劇部、早稲田大学では第一文学部で演劇を専攻、在学中にミュージカル研究会(後に劇団早稲田劇場)を作って 21歳で樋口一葉のたけくらべの脚色、演出、振付をする。

声学、三味線、バレー、日本舞踊を勉強する中で、周りは先輩だらけで、その中で耳年増になってきて、グループの中で意見を言うと、どっか一色違った様で、演出の方に回されて、纏め役をするようになった。
ミュージカル研究会というのは、倉橋 健先生がニューヨークに行って、帰ってきて新進気鋭の評論家になって、その授業を受けている時にミュージカルがブームになっているといわれて、おもしろそうだと勉強し始め、舞台でやろうということになって、舞台をやる様になるが、どうしていいのか判らなくて、宝塚に似ているなと思う事があって、たまたま葦原邦子と言う人を知っていると言う人がいて、連絡を取ったら、やってあげるという事になり、稽古を見てくれたりした。
あなたは宝塚に入りなさいと言ってくれる事になる。
大学卒業後、昭和32年1月宝塚に入る。(本来4月)
レビューの王様と言われた、白井鐡造先生の助手として仕事をする。
小林 一三さんが同じ1月に亡くなる。阪急電鉄宝塚歌劇団をはじめとする阪急東宝グループ創業者)

「舞い込んだ神様」 を1年経たずして書いた。
日本舞踊が出来ることから、日本物のミュージカルの演出家として、宝塚でやることになる。
「ベルサイユのばら」の演出も手掛けることになる。
二枚目の芸を宝塚の男役に教えて頂きたいと思っていたので、長谷川一夫さんに演出をお願いして、やってもらって、1回目が終わってそれで終わりだと思っていたら、来年もやると言う事で、洋物をやりたいという事で、やってみるのも面白いのかなと思った。
ある少女がやってくださいと、マーガレット少女雑誌を送ってくれていて、これをやってみようかなと思った、それが始まり。
ベルサイユのばら」 18世紀フランスが舞台で、ルイ16世の王妃、マリー・アントワネットの生涯を縦軸に、
道ならぬ恋の相手のスウェーデンの貴公子フェルゼン、王宮を守る隊長オスカル(ジャルジェ家の娘として生れたが、男として育てられた男装の麗人)、両親を亡くしてジャルジェ家で育てられたアンドレー(オスカルを愛している)、それぞれの人生、思いが絡み合いながらフランス革命の時代を迎えてゆくストーリー。

宝塚はロココの美術の世界を舞台で作ったら、日本の演劇界では宝塚は一番似合うという事を聞いた事があるので、ロココの女王と言われたマリー・アントワネットの一生みたいなものは宝塚でやっても面白いのではないかと思った。
これはどうですかと言ったが、長谷川先生は大反対で、間男する話など駄目と言われたが、上手にオブラートに包んでやりますからと説得した、しかし漫画の読者、宝塚ファン両方から反対の投書が来た。
漫画のファンの方も素直に入ってくるような、プロローグにしないといけないと思って、池田理代子さんの原画、マリー・アントワネット、オスカル、フェルゼンを舞台に飾って、そこから始まる様に、ワンクッション置いた。
衣装、ブーツ、かつら、今は豊かになってるので、いろんなものがあるが、当時は本当に少なくて、稽古の後に、皆が必死になってくれて、対応した。
長谷川一夫さんは日本物だったらこう見せるけれども、振りが洋物だったらこうするという様な、コツ見たいなものは御存知でした。
ラブシーンで身体が痛かったらお客さんは、綺麗なラブシーンだと思うのだから頑張んなさいと言われたのをいまだに伝説として残っています。(オスカルとアンドレーの一夜のラブシーンの場)
普通TV、映画だったら抱き合ったらすぐにキスをするが、舞台では一瞬 身を引く、それがどんなに会いたかったかどんなに愛していたのか、表現する芸になる。
目線の位置に関しても、厳しく指導された。

「ベルサイユのばら」の初演から2年半後、「風と共に去りぬ」で又大ヒットする。
トップのスターがひげを付けることは、絶対にタブーだった。(脇役は許されていたが)
榛名 由梨に一遍やってみてはと言ったら、「やりましょう」と言ってくれた。
周りからは大反対だったが、しかし大ヒットした。(その当時は宝塚は冬の時代だった)

宝塚の魅力は?
これだというのはないのかもしれないが、私自身が戦後の焼跡の中で宝塚を見た感動、これが宝塚だという、楽しさ、嬉しさそういったものが、宝塚のお客さんが求めているものではないかと思う。
美しい夢、様々な人の愛、そういったものを描いてゆく事が、宝塚が持っている良さではないかと思う。
非現実的世界を2時間見ることで、現実を忘れて、楽しんで、新たに現実の世界で歩んでゆく。
宝塚が世界に羽ばたいてゆくためには、日本の文化を紹介する、その一つのお手伝いになれば嬉しいと思うので、日本物をやらせていただきたいと思う。