2020年7月8日水曜日

西原伸行(映写ボランティア)       ・16ミリフィルムが映し出す地域の絆

西原伸行(映写ボランティア)       ・16ミリフィルムが映し出す地域の絆
西原さんは定年退職を控えた20年前、仕事ばかりだった人生を変えようと16mm映写機操作技術養成講座を受講し技術を習得しました。
以来学校や福祉施設を回りボランティアで映画の出前で上映会を続けています。
その数はこの17年間で6000回を超えました。
仕事人間だったという西原さんが映写ボランティアをと襲て地域とともに歩む第二の人生について伺いました。

いまはコロナの関係で学校、高齢者施設、上映会などは中止になっています。
私一人なので子どもの家と保育園、知的障害者社施設には一部行っています。
17年間で個人的なもので6300回ぐらいになります。
グループで行っているものを加えると7000回近くになると思います。
会社人間で土、日でも会社に行っていて近所付き合いが全然ありませんでした。
定年を迎えてどうなるんだろうと思いました。
ある時に宇都宮高校で映写機操作技術養成講座があり、機械いじりが好きだったので2000年の時に受講して、独り立ちしたのが平成15年の6月でした。
遠方を紹介されたりしているうちに段々広がっていきました。

映写機は8mm、16mm、35mmがあり16mmはどこにでも持って行って上映できるタイプです。(映画館は35mm)
30分のものを上映するにはフィルムの長さは350mぐらいになります。
1秒間に24コマになっています。
フィルムの良さは画面が柔らかいです。
VDVだと走っている画面などは粗いですね。
音についてはデジタルのほうがいいですね。
子どもたちは入ってくるときにはざわつきます。
映画が始まるとシーンとして、見た子供たちは一様にびっくりします。
先生が読み聞かせをやっても、あっち向いたりこっち向いたりしていたそうですが。
子どもたちは惹きつけられるものがあるようです。
障害者の福祉施設などにも行っていますが、特に内容を変えるということはないです。
認知症の関する知識が必要だと思って、3日間の研修コースがあり、そこで声を掛けられて知的障害の人の映写会をすることにもなりました。
上映するにあたり最初いろんなことも考えましたが特に問題なくやっています。

朝10kmを走っていましたが、ある時1kmぐらいして胸が苦しくなって、心電図、MRIなど撮ってもらったら、年のせいだよと言われてしまいました。
妻が紹介した病院に行って、念のために心電図をとってもらったら、「駄目だこれは」と言われてしまいました。
冠状動脈が3本あるうちの2本が詰まっているといわれてしまいました。
直ぐ手術することになり、いまはそれから16年たちましたが、問題なく過ごしています。
身体障害者4級になっています。
「ボランティアだから出しても入るほうのお金はないよ」といった時に、「残り少ない人生だから、好きにすれば」と言ってくれた妻と子供の言葉には今でも感謝しています。
それがなかったら辞めていますよ。
「施しても報いを願わず、受けて恩を忘れず」ということわざがありますが、これをモットーにしています。
映画会もやってあげるではなくて、やらせていただいているという気持ちで生きています。
後2000回やろうとか3000回やろうとかはないです、今日一日を大切にして一回一回やろうと思っています。
空き缶を集めて障害者施設に車椅子を贈ったという話がありますが、「ポコアポコ」という題名の映画で一歩一歩ゆっくり進もうということなんですが、実話の話でそれが一番印象に残っています。

*「ポコアポコ」:大阪府に住む福井千佳子さんが、障害を持ちながら、空き缶をひろってそれをお金に替えそのお金で、お年寄りに車いすを5年間に100台も贈った、心温まる実話の映画化です。

2020年7月7日火曜日

古関正裕(ミュージシャン)        ・父の音楽を受け継ぐ

古関正裕(ミュージシャン)        ・父の音楽を受け継ぐ
古関さんは昭和21年東京生まれ。
ご両親は今放送中の朝の連続TV小説「エール」のモデル、作曲家の古関 裕而さん、声楽家の金子さんご夫妻です。
正裕さんは高校時代はバンド活動に熱中し、父親の音楽にはあまり関心がありませんでした。
大学も理科系に進み卒業後は新聞社に勤務します。
しかし52歳で早期退職してからは再び音楽に向き合い 7年前から父親の音楽の世界を広めたいとライブ活動に取り組んでいます。

連続TV小説「エール」はコメディータッチで面白いと思っています。
ドラマの中のほうがちょっと気が弱そうかなあと思っています。
逆境に強いタイプです。
私は父親似であると周りから言われますが、母にも似ているともいわれます。
若いころバンド活動をやっていましたが、父の曲は関心がなかったですが、こういった歳になると、前にやっていたボーカルの人からお父さんの曲を専門にやるユニットをやりましょうと言われて始めました。
ユニットは「喜多三」という名前にしました。
家は8代続いた呉服屋「喜多三」です。
祖父は多趣味だったようで芸事が好きでした。
当時は珍しかった蓄音機を買ったりしていました。
しょっちゅうレコードをかけていたようです。

ユニットを始めたのは60代半ば過ぎからでした。
「幸子の子守歌」 幸子は私の娘ですが、娘のために父が子守歌としてオルゴールでメロディーだけを聞かせていました。
*「幸子の子守歌」 作詞:古関正裕 鈴木聖子 作曲:古関 裕而 歌:鈴木聖子
孫は二人とも音楽、ヴァイオリンをやったりしています。

「君はるか」という本の出版をしました。
実際には10年以上前に書きました。
両親の手紙(ラブレター)などを読み始めたら若い男女の文通、夢とかいろいろ浮き彫りになってきて、本にして生誕100年に間に合わせようとしたが、間に合わなくて棚上げ状態になって、ドラマにしたらいいんじゃないかということになり朝ドラの誘致活動につながっていきました。
父にはファンレターなどもたくさん来ていました。
最初は母が新聞を読んで手紙を父に出して、文通が始まり、周りでは音楽に対する興味がある人がなく、二人の文通は深まり繰り返されていきました。
文通を初めて4か月ぐらいしてから会うことになり、会った瞬間に二人の気持ちは一つになっていきました。
結婚は昭和5年で、父が20歳、母が18歳の時でした。
コロンビアレコードに入社、流行歌になじめず作曲に悩む時期もあったが次々にヒット曲が生まれ、約5000曲を作曲、ジャンルも広いです。

*「いつだったかな」 作曲:古関 裕而 歌:越路吹雪
越路吹雪が退団してコロンビアの専属になり初めてだした、シャンソンっぽい曲。

書斎で譜面におこしていて、頭のなかには曲が浮かんでいたような感じでした。
両親は音楽家になってくれたらうれしいとは思っていたようですが、押し付けるような言葉はありませんでした。
母は子育てのために音楽は辞めたというような事は言っていましたが。
改めて父の音楽と向き合ってジャンルの広さに圧倒されます。

*「今日はよい日」 作詞:西條八十 作曲:古関 裕而 歌:鈴木聖子
この曲だけレコードにはなっていなかった。






2020年7月5日日曜日

上田みゆき(声優)            ・【時代を創った声】

上田みゆき(声優)            ・【時代を創った声】
上田さんは子役出身です。
ロボットアニメ、超電磁ロボ コン・バトラーV、超電磁マシーン ボルテスV、劇場版宇宙戦艦ヤマトのテレサ役など、多くのキャラクターを演じてきました。
夫はアニメソング歌手の佐々木功さんです。
およそ40年前子どもを連れて再婚したことでも注目されました。

10歳の時にニッポン放送のラジオ番組『ポッポちゃん』で子役としてデビュー。
3000人の中からのオーディションで選ばれました。
モダンバレエに幼稚園から通っていて、そこで募集があるということで母が応募してオーディションにいくことになりました。
劇も歌もほとんどやったことがなくて受かるとは思っていませんでいた。
自然体だったことがよかったのかもしれません。
TVの「青空通り」というホームドラマがあり、そのあとがTVドラマの『少年探偵団』でした。
それまでは声だけでしたが、身体を使うことになりましたが、モダンバレエをやっていたのであまり違和感はありませんでした。
『ポッポちゃん』で子役をやっていたころには松島トモ子さんらとともに少女雑誌にもよく出ることがありました。
『少年探偵団』が終わるころに日大の芸術学部の放送学科に入りました。
新劇の話を聞いているうちに芝居が好きになり、自分の生き方が違うのかなあと思い出してそろそろ結婚ということも考えたりして、代々医者の家系だったのでお見合いの話がありましたが、劇団NLTの俳優教室に入って研究生になりました。
こんなに楽しいという思いがあり欲が出てきました。

洋画の吹き替えなどもさせていただきました。
劇団にいながら声優の仕事もしていました。
アニメは大学1,2年のころのエイトマンのサチ子さんとか、鉄腕アトムとかもありました。
声を出すことが大好きで、小学校4年のころにテープレコーダーを買ってもらって、自分でラジオドラマを作ってやったりしていました。
アニメは台本と絵を見ながらやっていて、自分でイメージを膨らませてゆくことができることが出来るので面白いです。
吹き替えは内容的な雰囲気などを壊してしまうといけないので、あくまで合わせるようにします。
劇団でいきなり主役になり、欲が出てきて、陰に日向に応援してくれたのが劇団の先輩で、この人だったらという思いがあり結婚しました。
子どもが生まれて、芝居もやりたいということもあり、不器用な性格なのでどちらを取るかというと子どもを選ぶことになると思いながらやっていましたが、いろいろな病気を抱えてしまって、子どもを連れて父のところに入院して実家に戻りました。

家庭に対する考え方が夫とは違ってきて、父からは好きな仕事をやったほうがいいのではないかと言われて、どんどんアニメのレギュラーの話とか吹き替えの話が来て、やっているうちに元気になりました。
宇宙戦艦ヤマトのテレサをやることになり、ガッチャマンで佐々木と会うようになり、悪ぶっている不思議な人でした。
私も意識し始めて1981年に佐々木と再婚することになりました。
佐々木は中学1年生、こちらは少学4年生を連れての再婚でした。
一つ家に住むようになると長男としては1/3になってしまったような気がしたんだと思うんですね、その辛さが、二人でいるときに私の息子をいじめるという形になってしまいました。
息子は段々暗くなってきて、いろいろと大変な時期がありました。
来年結婚40年になりますが、10年ぐらいしかたっていないような感じです。
意地というか欲は大事だと思います。
そのためには踊ること、声を出すこと、が大事だと思いますが、今の若い人はいろいろできると思います。






















2020年7月4日土曜日

宇野 晶(日本音盤倶楽部会長)      ・「音盤に惚れた男の40年」

宇野 晶(日本音盤倶楽部会長)      ・「音盤に惚れた男の40年」
大阪でサラリーマンをしていた昭和50年代に神社の参道で古物商が並べていたSP盤と出会ったのがきっかけでSPレコードを集め始めました。
大阪などの土地を歌ったもの、戦時中に発売禁止になった希少盤などを集めに集め、おおいときにはSPレコード2万5000枚EP盤を1万枚収集したと言います。
宇野さんの集めた音源を聞いていきますと、日本のレコードの歴史をたどることができます。
平成12年に設立されたSPレコード収集家で作る日本レコードクラブ会長も務めている宇野さん(76歳)にインタビューしました。

昭和52年ごろに大阪で毎年1月10日前後に10日恵比寿を今宮神社でやっていました。
参道に古物商がSPレコードを積んでいました。
一枚200円とのことで20枚ぐらい買いました。
ポ-タブルプレイヤーも買って、聞いて懐かしさを感じそれがきっかけになりました。
昭和35年ぐらいまでSP盤も発売していました。
昭和27年ぐらいからEP盤、LP盤に切り替えていきました。
SP盤の材料はシェラック(ラックカイガラムシ、およびその近縁の数種のカイガラムシの分泌する虫体被覆物を精製して得られる樹脂状の物質)といいます。
音としてはEP盤、LP盤のほうがきめが細かい、大きいが、SP盤は78回転で回転数が速いので情報がたくさん入れられる。

私が買うというので道具屋さんが仕入れてきて、必要なものだけを買うと道具屋さんも困ってしまうので、利益は最小限ということで仕入れたものは全部買うことにしました。
だいたい100~200枚買いました。
いいものも手に入ることもあれば必要ではないものも沢山ありました。
多い時にはSPレコードは約2万5000ぐらいあり、EP盤を1万枚ぐらい持っていました。
平成10年には大阪に引っ越して置き場に困ったということがありました。
オーナーに空きスペースがあるということで置かせてもらったこともありました。

*①「君恋し」 昭和元年 アコースティック録音方式だった。 録音レベルが低い。
*②「君恋し」 昭和4年 電気録音なのでそこそこ音がいい。
*③「君恋し」 昭和36年 歌:フランク永井
それぞれ違った味わいがある。

父は役場の職員で母は小学校の教員をやっていて、蓄音機とレコードが200枚ぐらいありおもちゃ代わりに聞いていました。
昭和10~12年ごろが一番いい音で、戦争が始まって原材料がなくなってきて音が悪くなってきて、最悪の戦後すぐのころは古いレコードを溶かして作り直したりして、割れやすいしノイズが多かった。
昭和30年頃になると音質が良くなってきてLPに負けないぐらいの音が出ました。
昭和37年に会社に就職しました。
高度成長経済の好景気の時代でした。
結婚が31歳でしばらくして、妻に気を使いながらレコード収集をしました。

*「1万3800円」 昭和32年 歌:フランク永井

1899年トーマス・エジソンがシリンダー型レコードを開発して、その10年後にベルリナーがワックスを塗った平らなレコードを開発。
1910年(明治43年)に日本蓄音機商会(のちのコロンビア)発足。
大正に入って両面のレコードが普及し始めて、ラジオも普及し始めて相乗効果を果たす。
金属原盤がないと作れない時代だったが、戦争の時に金属不足で供出せよということで取られてしまった。
工場も爆撃されて貴重な資料などもなくなってしまった。
CDへ復刻したいということでレコードをお貸ししたこともあります。
「六甲おろし」は球団お披露目会の時に非売品として200枚ほど作ってゲストの人に配布したが、最終的に人から人にわたって私のところに来ました。
コロンビアが探していました。
復刻したのが2003年でした。
その年に阪神が優勝して、幻の曲を復刻したということで私のところにスポットが当たりました。

昭和17年 高峰秀子さんが歌った「森の水車」 貴重なレコード
戦時下なので
ポリドールレコードを大東亜レコードに変更し発売したもの。
ちゃらちゃらした歌は駄目ということで、売り出して4日目に発売禁止になりました。
*「森の水車」 昭和17年 歌:高峰秀子

日本レコードクラブ(日本音盤倶楽部)には100名ぐらい会員がいます。
レコードの交換会をやっています。
最高値は1枚3万円という上限を設けています。
平成12年に発足して、35回開催しています。
3万6000枚の出品があり金額では3100万円になります。
昭和57年にCDが発売されましたが、音源をデータでパソコンに取り込むことになりCDも売れない時代になりました。
レコード盤はもう出尽くしましたので交換も少なくなってきました。
そこそこのヒット曲はCDには復刻されています。
会員数の減少で2018年4月の例会をもって休会中になっています。
*「南海ホークスの歌」昭和27年 歌:灰田勝彦












2020年7月3日金曜日

小林麻美(アーティスト)         ・これから人生第二幕

小林麻美(アーティスト)         ・これから人生第二幕
1953年東京生まれ、高校生のころからモデルとして活動を始め、1984年には松任谷由実さんがプロデュースした「雨音はショパンの調べ」が大ヒット、モデル、歌手としての人気を不動のものにしました。
又女優としても活躍し、都会的で洗練された雰囲気の小林さんの姿は数々のコマーシャルやファッション誌を飾っていましたが、1991年元ザ・スパイダースのリーダーで芸能プロダクションの社長だった田邊昭知さんとの結婚を機に芸能界を引退。
2016年の復帰するまでの25年間家庭に専念し、その動静が知られることはありませんでした。
この春半生を振り返る書籍が出版され話題となった小林さんに伺いました。

引退してから180度違う生活ですべてが新鮮ですべてが大変な生活でしたが、考えられない幸せな毎日を送っていました。
一冊の本にまとまり、子どものころに自分はユニークだったと思いました。
どん底もありました。
外見とは違う一面もあり、両方自分だったと思います。
私はちゃきちゃきの江戸っ子で、せっかちです。
当時はすぐそこまで海で大森の駅に降りると潮の匂いがしました。
料亭などもありまして、三味線の音と海の音が入り混じったような感じでした。
母親は美容師で姉が一人いて、父は技術者でした。
タイガースのファンクラブに入っていて、ロック系のバンドが好きでした。
スパーダースとブルーコメッツは年代的にはちょっと上でした。

中学3年の時に映画が好きで土、日には一人で必ず銀座で映画を観ていました。
プロダクションの事務所の方に声を掛けられて、怖くて母に公衆電話をかけて、母に代わってもらってというところからちょっとずつ話をいただいてという感じでした。
芸能活動はできない学校だったので高校に上がってから、女学生の友とかコマーシャルに出てみませんかということから始まりました。
新鮮でうれしかったです。
六本木、原宿、青山などでディスコに結構行っていたりしました。
洋服は好き母に作ってもらったりしていました。
歌手でデビューした時の同期は麻丘めぐみさん、西城秀樹さん、牧村三枝子さんとかです。
当時あまり何にも考えないで過ごしていました。

松任谷由実さんとは何かで知り合い、仲良く遊ぶようになりました。
30歳の時に突然「雨音はショパンの調べ」を歌ってみないかと言われました。
あっという間にレコーディングは終わってしまいました。
大ヒットするとは思っていませんでした。
武道館で歌ったのが最初で最後でした。
沢山の方に聞いていただいて気持ちよかったです。
中学1年の時に武道館へビートルズを観に行きました。
31,2歳ぐらいになると結婚とか女としてどう言う人生を歩むんだろうかと、漠然とした不安と焦りはありました。
田邊昭知さんとの出会いがありましたが、彼は結婚ということは自分の人生の中で考えないという人でしたので、女としての幸せはなんだろうということは考えていたのでそのギャップはありました。
20歳の時に35歳で年齢は15歳年上で師弟関係みたいな感じでした。

仕事の関係で父はあまり家には帰ってきませんでしたので、サザエさんのような家族という感じはありませんでした。
結婚前に赤ちゃんができて極秘出産でした。
母と叔母と彼しか知りませんでした。
一人で育てる覚悟はできていました。
その後結婚することになり感謝をしています。
子どもに取ってはこの形がよかったと思いました。
52歳と37歳だったので、すごい苦労もしたし、新鮮だったし、幸せな時間を子どもにもらったということは二人で感じていることです。
これを選んだ以上は仕事はやめるという、ある種のみそぎみたいな感じでした。
全て子ども中心で25年間表舞台には出ることはありませんでした。
子どもが帰ってきたらいつも「おかえり」と言ってくれるのが私の理想でしたが叶わなかったので、自分としては必ず子供が帰ってきたら「おかえり」と言いたかったので、それができたので幸せでした。

嫌なこともありましたが、振り返るとなんて暖かくて幸せな時間だったんだろうと思います。
25年間があっという間に過ぎてしまいました。
この仕事しかキャリアがないので、この中でトライして今の自分の年齢、体力、今の自分のやり方でやらせていただけたら楽しいと思いました。
自分の持っていたサンローランの服(200着ぐらい)を寄贈させていただき、そこからファッションショーをやっていただいたりして、私にもやってみませんかと言っていただきました。
今66歳ですが、自分でもびっくりしてしまって、これも現実なので、自分ができる事元のキャリアを生かせることで出来たらうれしいと思って第二幕を一歩歩こうかなと思ったので、キャリアを生かして頑張りませんかと言いたいです。
自分しかできないことは絶対あると信じているので、頑張りましょうと言いたいです。







2020年6月30日火曜日

2020年6月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)            ・【絶望名言】「落語にみる絶望名言」

頭木弘樹(文学紹介者)            ・【絶望名言】「落語にみる絶望名言」
「さとりなば坊主になるな魚食え、地獄に落ちて鬼に負けるな」 落語「万金丹」
頭木:病気になって入院してから落語を聞き始めて、落語は大好きです。
落語は実にすごく絶望的です。
笑いの要素を取ったらお話自体は相当絶望的です。
借金まみれとか、お酒のせいで人生どん底とか、ギャンブルがやめられなくて破滅するとか、恋愛でだまされてひどい目に合うとか、きついものが多いです。
絶望しているときには落語を聞くのはピッタリなんです。
絶望と笑いについては後でお話してみたいと思います。

「さとりなば坊主になるな魚食え、地獄に落ちて鬼に負けるな」 
五代目柳屋小さんの「万金丹」で初めて聞きました。
普通はよくないことをすると地獄に落ちるよと戒めますが、逆に何でもしろとそして地獄に落ちても鬼に負けるなと言っているんです。
もともとは一休さんと仲が良かった蜷川新右衛門というお坊さんの歌だったんです。
本来の意味は嫌々戒律を守ったりしても本当の悟りはならないよ、ということなんですね。

「おっかあ、死のうか」  落語「芝浜」
三代目桂三木助の「芝浜」の言葉
「芝浜「」は腕はいいがお酒が好きで働かずにいるお魚屋さんがお金がずっしりした財布を拾う。
友達を呼んで大酒盛りをしてぐうぐう寝てしまう。
女房が起こして、財布を拾ったことなどすべて夢だったと、酒盛りをしたことだけは本当だったと話す。
借金になってしまって大変だと女房が言う。
愕然として亭主が言うのはこの言葉で「おっかあ、死のうか」という。
女房はあんたがちゃんと働けば何とでもなるんだからというと、心を入れ替えて酒もやめて一生懸命働くようになる。

古典落語みたいに何代にもわたって時間をかけて大勢が工夫を重ねて作るものというのはそうしない限り到達できないものがありますよね。
大金を拾ったと思ったら、そうではなくて借金を作ってしまったという大変な落差がここにはあると思います。
人間はこういう落差に弱いのではないかと思います。
精神科医のフランクルがアウシュビッツ収容所に入れらた時に、クリスマスには解放されるという噂が広がったが、クリスマスが来ても解放されなかった。
そうするとバタバタ亡くなる人が出てきてしまった。
一旦希望を抱いてそれを失うことはとってもつらいことです。
自殺で気を付けなくてはいけないことの一つは落差だと思っています。

「おめえなにしに来たの家へ」「お前さんが別れたいというからあたしが」「誰がですか」「あたしがですか 冗談いっちゃあいけませんよ、あの人と別れるぐらいだったら死んだほうがいいんですよ」 落語 「厩火事」
古今亭志ん朝の「厩火事」のやりとり
おさきさんという女性が自分の亭主があまりひどいから別れたいと、仲人のところに言いに行く。
仲人は確かにあの男はよくないと別れたほうがいいと賛成する。
おさきさんが逆に亭主をかばいだすので、仲人は「おめえなにしに来たの家へ」ということになる。
こういう心理ということはありますよね。
矛盾した心情がよくわかるから笑うわけです。
おさきさんへの笑いがいい例だと思います、共感と愛情を込めた笑い。
絶望を笑っていても嫌な気もしないし一緒に笑えると思います。

*曲「雨に濡れても」 映画「明日に向かって撃て」主題歌から
主人公はかっこよくない、駄目さに魅力があり、落語とも共通する。
ラストに吃驚した。(有名なラストシーン)

起承転結、の「結」が難しいが、落語で落ちを言えばそこで終わりにすることができて、ほかにこんなものは無いです。
落語は起承転結にとらわれないから面白い。
落語は物語の凄い自由な可能性を秘めている。

「与太郎のおっかさんが死にましてねえ、後妻を貰ったんでえ、ところがこれが大変に与太郎を憎んで、ぶつ、つねる、蹴飛ばす、ひどい目に合わせる。
あいつは馬鹿なんですから、いくら言われてもなかなか覚えちゃいない、またやるてえとまたひどい目に合わせるという、とうとう攻めに攻めて攻め殺してしまった。
さすが馬鹿でも悔しかったと見えて毎晩化けて出るというんですがね。
ところが自分のうちに出ないで、近所隣りへ方々お化けになって出るってんで評判で、おい、俺んところに出たんよ、ゆうべ与太郎のやつが。
・・・おれんところには三日ばかりでやがったね。
よっぽど悔しいんだろうなあ、奴があんなに化けて出るところを見ると。
悔しかったらてめえの家に化けて出ればいいのに、なんだったこんなに近所方々化けて出るんだ。 ハハハ、そこが馬鹿だからよ。」 落語 「猫怪談」から
六代目三遊亭圓生の「猫怪談」のまくらに出てくる小話

最初聞いたときには嫌いな話でしたが、最後の「ハハハ、そこが馬鹿だからよ。」という言い方ひとつで全然違う話になる。
本当に馬鹿にした感じでいうか、しんみりした感じでいうか、しんみりした感じでいった場合には、そこには自分をいじめ殺した人というのは怖くて化けて出れないわけです。
それでほかのところに出ているんじゃないかと、ほかのところに出ても意味がないのにというニュアンスが出てきて、そうすると途端に深い話になってくる。
つい怖くない人に復讐してしまいがちで、とっても酷いことだしとっても悲しいことだけれども、そういう人間の悲しい心理までとらえている凄い落語だということに後に気づきました。
こういったことは実際ありえますよね。

「世の中は金と女が敵なり、どうか敵に巡り合いたい。」 落語「紺屋高尾」
五代目三遊亭圓楽の「紺屋高尾」に出てくる狂歌です。
これは笑えます。
太田南畝という江戸時代の狂歌の名人の作がもとになっていて、もともとは「世の中は酒と女が敵なり、どうか敵に巡り合いたい。」ですが、酒とお金が違っていますが、どっちもありだと思います。
人間の生きる辛さの根本のところを衝いている名言だと思います。

「貧乏をすれどこの家に風情あり。 質の流れに借金の山。」
「居候 三杯目にはそっと出し」 
大人にも語り聞かせてくれるのが落語だと思います。

しんみり切なく終わる落ちもあります。
桂米朝 「まめだ」
まめだ(豆のような子狸)
右三郎の実家が膏薬屋で、見慣れない子供が膏薬を買いに来るようになる。
お金を入れていある箱に毎日銀杏の葉が入っている。
ある時にまめだが体中に貝殻をくっつけて死んでいるのが見つかる。
まめだが怪我をして子供に化けて銀杏の葉っぱをお金に換えて,膏薬を買いに来ていたことを右三郎は悟る。
膏薬の塗り方が判らなくて貝殻のまま身体にくっつけてついに死んでしまったんだなあと判る。
右三郎は御寺の住職に供養を頼んで御寺の境内の隅にまめだをうずめてもらう。
あわれな話と人々が立ち去った後、親子の者とお寺のおっさんとがジーっとしばらくうずめたところを見ていますと、秋風がサーっと吹いてくる。
銀杏の落ち葉がハラハラと狸をうずめた上に集まってきます。
「おかあはん、見てみ、狸の仲間から仰山香典が届いたがな」 落語 「まめだ」









2020年6月26日金曜日

谷川俊太郎(詩人)工藤直子(詩人)    ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】(2018/6/1)

谷川俊太郎(詩人)       ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】(2018/6/1)詩人 工藤直子
お二人は30年余りの親交があります。
工藤:40歳の後半に初めて谷川さんとお会いしました。
今と変わらない気配でした。
20代のころから、今でもそうですが、やきもちを焼くということを知らなくて、女友達から総スカンを食っています。
やきもちをうんと焼いているのに押さえつけているのならば、どこかに障害が出るだろうと思っていましたが、50歳になっても元気でぴんぴんでした。
そうしたら谷川さんが「わからないよ、80歳になったら溜めておいたやきもちが噴出するかもしれない」といわれましたが。
谷川:でも噴出していないんですよ。
動物とか虫とか好きでしょ、だから人間的な特徴がなくて、虫とか魚とか、木とか草とかとおんなじ命なんだ、多分。
鳥とかもやきもちは焼かないし。

工藤:「ふわふわ」というタイトルの本を二人で出しました。
いろんなところで対談したのを纏めて、最近のもあります。
そこにやきもち問題がちょくちょく出てきています。
谷川:嫉妬を知らないなんて、かわいそう、人間失格だと思います。
工藤:今、段々私に似ている若い人が出てきているんだと思います。
男子も女子も一人がいい、別に人間でなくてもいいと、母親は困ってるかもしれない。
谷川:夜は12時ごろ寝て朝6時半ごろ起きていて、崩さないようにしています。
眠れないということはほとんどないです。
工藤:いつ起きていつ寝るかはその時次第です。
広告代理店に勤めていましたが、26歳でやめてそれ以後は糸の切れた凧のようにしています。
相棒がいたり子どもがいたりすると自分勝手ができないがしちゃうんです。
その代わり「ごめんなさい」と本気で謝ります。
「お母さんだって都合があるのよ」とは言わない、言い訳はしないです。
谷川:武士のような、いざとなったら説得する人ですね。
工藤:相棒の時も「だってこうじゃない」みたいなのはないです。

谷川:喧嘩なんかしたことがないの。?
工藤:一切ないです。
谷川:それが不思議でしょう。
工藤:惚れて一緒になったんだもの。
谷川:惚れて一緒になったんだから喧嘩するんでしょう。
そこがよく判らない。
工藤:子供に対しても自分は母親だという気持ちでは接することはできなかった。
身ごもったらお母さんという気持ちになったという人はたくさんいました。
佐野洋子さん(谷川さんの元の奥さん)とは仲が良くて、お互いがほぼ同じ時期に産んで、生まれた瞬間わーっと母性が出てきたと言っていました。
谷川:母親もそうでした。
僕は中絶されるはずの人間だったんですよ。
両親は仲が良すぎて子供はいらないと言っていましたが、祖父が孫が欲しいということでやっと僕は命拾いをしました。
12月生まれなのにあせもを作っているんですよ。

工藤:お腹のなかで動いたということがすごく奇妙な感覚でした。
その詩を書いています。
「逆さに眠る無遠慮な怪物」というタイトルで。
生まれる瞬間を楽しみにしていたら、友達っという感じ、こんな小さい友達、親友ができたと思いました。
なんで母親にならなかったんだろうと思いました。
子どもには丁寧語でしゃべっています。
谷川:僕も似ているところはあります。
初めて抱いた瞬間は強烈に絶対命を懸けても守るぞ、という気持ちが予期しなかったが沸いたんです。
少し大きくなったら(幼児)完全に友達になりました。
教えるとかしつけるとか意識がなかったから親としては失格だったかもしれないが、言葉で言わなくても子どもは行動で見ているから、それでいいんだというような事は思っていました。
悪いことをしたりしたら母親が叱っていました。

工藤:うちは駄々をこねなかった、駄々をこねても何もしてもらえないことがわかっていたから。
ビルの窓から乗り出して落ちようとしたら、それは命の問題だからやるけれど、命にかかわること以外は基本的に見守るという感じですね。
「あんたのためを思って言っているのよ」とは言わないようにしました。
「しつけとおこづかいは発作的にするからね」と言っていました。
つれあいはただの大きなおじさんみたいで、父親的なことは一切しなかった。
谷川:小さいうちから自立しているんですよ。
たまたま絵の才能があったからいいけれど、なにも才能がなかったらけっこ苦労すると思う。

詩「さようなら」  谷川俊太郎作
ぼくもういかなきゃなんない
すぐいかなきゃなんない
どこへいくのかわからないけど
さくらなみきのしたをとおって
おおどおりをしんごうでわたって
いつもながめてるやまをめじるしに
ひとりでいかなきゃなんない
どうしてなのかしらないけど
おかあさんごめんなさい
おとうさんにやさしくしてあげて
ぼくすききらいいわずになんでもたべる
ほんもいまよりたくさんよむとおもう
よるになったらほしをみる
ひるはいろんなひととはなしをする
そしてきっといちばんすきなものをみつける
みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
だからとおくにいてもさびしくないよ
ぼくもういかなきゃなんない

工藤:詩のなかの一行二行がものすごく心に沁みる場合が多いが、谷川さんのいっぱいある詩のなかで「さようなら」のなかの「ぼくもういかなきゃなんない」なんです。
「さようなら」というタイトルなのに詩のなかには「さようなら」という言葉が入ってないんです。
一行一行が少年のつぶやきがそっと並べられている感じがして、そこが好きですね。
谷川:夢遊病的、何の計画もなく書き始めたらできたんです。
僕は一人っ子だったので、母親は自分が死ぬよりも愛する者が死ぬのが怖かった人です。
母親に対する気持ちがそこにあるんじゃないかと思います。
工藤:詩というのは作者のものでもあるけれども、文字になって皆の前に現れたら、それを読む読者のものだよと谷川さんは繰り返しおっしゃるんです。
谷川:活字には詩はないんです。
誰かがそれを受け取ってくれて感動があって初めてそこに詩がたちあがる感じです。
工藤:詩の言葉は友達になれると思います。

*「おまじない」 作詞:工藤直子

谷川:気になる言葉は特にないです、嫌いな言葉はあります、いっぱいあります。
政治が変な方向に動いていて、そういう処で使われる言葉は全部嫌いです。
工藤:ふわふわとか、すりすりとか、ほろほろとか好きです。
 
*「しーん」 作詞:谷川俊太郎







2020年6月25日木曜日

田渕俊夫(日本美術院理事長・日本画家)  ・【私のアート交遊録】(初回:2017/11/23)

田渕俊夫(日本美術院理事長・日本画家)  ・【私のアート交遊録】(初回:2017/11/23)
仕事が終わったあとに突発性難聴になり片耳が聞こえなくなってしまいました。
めまいがして立てなくなり一週間入院しました。
薬師寺再建の食堂の中に収める阿弥陀三尊浄土図、全長50mの仏教伝来の道、薬師寺をおよそ5年の歳月をかけて制作。
仏画は描いたことはなかった。
最初から研究しないとけないということがつらかったです。
阿弥陀様の顔はどんなものかわからなくて、京都、奈良のお寺に行ってみてもほとんど暗くて見えませんでした。
画集の中にある阿弥陀様を拡大してスケッチしてゆくことから、次々にやっていきました。
作家によって個性があるので二つとして同じものがありません。
自由に描いてもいいのではないかと思って、そうしたら楽になりました。

場所が南北16m、東西41m、高さが14mで凄い大きな空間でした。
何もない状態から見ていて、食堂が建ちだしたらびっくりするほど大きいです。
私のアトリエは横幅は10mぐらいありますが、高さは3m50cmしかなくてそこへ6m四方を阿弥陀三尊像を描くというので、搬入されたパネルのおおきさにはびっくりしました。(パネルは半分ずつでしかないが)
5年間かけていろんなものを描いて出来上がった絵と違う絵が食堂の中にあった。
アトリエは限られた空間で遠くからは見ることができない。
こんな絵を描いたのかと出来上がった絵が違って見えました。
伊東 豊雄先生の天井のデザインとライティングがすごくよくて、アトリエで描いていたものよりもきらきら光っていてありがたい環境に入れてもらったと思いました。

当時の山田 法胤館長さんから好きなように描いてくださいと言われて、何も一言も注文がありませんでした。
私は仏教の修業はしていないが絵の修業はしているんだということで勘弁してもらおうと思いました。
私が絵を描くときに一番大事にしているのが感動です。
植物、自然、街並みなど多く描きましたが、怖いのが慣れなので新しいものに挑戦しています、仏画もその一つです。
墨絵にも挑戦しています、毎日が挑戦です。
大学に勤めていたので平山郁夫先生とヨーロッパに調査旅行したことがありました。
美術館、博物館の調査がほとんどですが、宿泊ホテルから見る朝昼晩の風景がみんな違って見えるわけです。
一日の風景の絵を想像力で一つの画面にしてみることがあります。
平山先生は君の先輩だと言って、先生からは私の絵がどう完成するかわかるからということで自由に描きなさいと言われて、先生からはほとんど教えてもらうということはなかったです。

「教習なし、研究あり」、これは横山大観の言葉です。
教わるんではなくて自分で考えて研究しろということで平山先生はそのようにしました。
東京芸大の先生方の描いた絵を見て研究していきました。
講評をするときには厳しい評価をする時があります。
平山先生からは一つだけ言われたことがあります。
当時私は細い線で描いていましたが、先生から「田淵君、カミソリでは大きな木を切れないよ、大きな木を切ろうとしたらナタでないと駄目だよ」と言われました。
薬師寺縁起絵巻という課題を言われたことはあるが、縁起絵巻はそれほど面白いことはないので、中国の大雁塔(652年に唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔。)で仏教の経典を翻訳をしているので、そこから明日香までの道すがらを描きましょうということにしました。
全て現実の世界だけではなくて、道すがらを自分で想像して描きました。
平山先生は藤原京を描きましたが、平城京も描きたかったものと思い、大和三山を含んだ大きな藤原京と平城京の両方を弟子として描こうと思いました。

絵が出来上がったら平山先生の奥さんのところに画録が出来上がったら報告に行きました。
高齢にもかかわらず奥さんは6時間ぐらい車に乗って観に来てくださいました。
新作ではない個展をやろうということになって、鶴岡八幡宮縁起絵巻の一巻目はできているが、全部で三巻描かなければいけない。
しかし最近は時間がかかってしまっています。
朝から夕方まで描いていると飽きないけれど流石に疲れてしまいます。
そうすると気分転換には室内用の自転車こぎを1時間ぐらいやります。















2020年6月24日水曜日

朝井まかて(作家)            ・江戸の庭師の物語(初回:2015/1/21)

朝井まかて(作家)            ・江戸の庭師の物語(初回:2015/1/21)
2014年に樋口一葉の師匠で歌人中島歌子を主人公に幕末の水戸藩の騒動を描いた『恋歌(れんか)』で直木賞を受賞されている直木賞作家です。
作家デビューは2008年、ただただ一冊書きたいと書き上げた作品が小説現代の長編新人賞奨励賞を受賞して45歳での作家デビューとなりました。
デビュー作は『花競べ 向嶋なずな屋繁盛記』、江戸時代の植物を扱う話が主人公になっています。
以後も「ちゃんちゃら」「すかたん」「先生のお庭番」と続けて江戸の庭師や青物商など花や緑にかかわる人が主人公の物語を数多く書かれています。
読めば読むほど植物について熟知されていることに感嘆してきっと花や緑が大好きな人に違いないと思いインタビューさせていただきました。

植物は子供のころから好きでしたし、植物にかかわる人にもあこがれを持ってきました。
植物の本を読むのも好きでした。
小学校の時には図書館も好きでしたが園芸部に入り、なす、へちま、きゅうりなどを作っていました。
近所のお百姓さんの姿に憧れていました。
玄関に白菜とか置かれていて、お返しなどをやったりしていい時代でした。
子どものころの季節感、においなどを体感して育ってきました。
青物問屋の「すかたん」に出てくる遊び人のような若旦那がいい加減な奴じゃないかとおもったら野菜に対して物凄く知っていて、問屋筋は儲けのことだけを考えているが、やっぱりいいものを食べてもらっておいしいねと言っていただくことが農家にとって喜びだというようなメッセージが込められています。
安いこと、早いことがいいという時代が長く続いて、私たちは何を手にしたかというと、この野菜は大丈夫かなと思うことが増え、お百姓さん、小さな店が立ち行かなくなって、江戸時代もこういうやりとりがあって、何かできないかなあと思ってそして始めてみた作品です。

侍の赴任先に奥さんも行くのかという疑問点があって、大阪の城代に仕えた人の日記に出会って、侍の赴任先には上司の考えによってはその侍の奥さんとか母親、偉い人だったらお妾さんを連れてきて赴任していたことが判って、ようやくかけるのかなあと思いました。
シーボルトのお抱えの青年の庭師の話も、長崎の出島の風景などもかなり研究書を調べました。
コマキとよばれた熊吉という少年ですが、彼は実在の人です。
シーボルトの日本人妻「お滝さん」にちなみ、あじさいが「おたくさ」という愛妾の名からなったということは有名な話ですが。
出島に行って歩くとすごく面白くて、どんどん想像が膨らんでいって書けるのではないかなあと思いました。
家と庭、薬草園、コマキとよばれた熊吉がこんな感じだということ、史実とフィクションを縦糸と横糸にして、編むようにしていきました。
シーボルト事件が起きて、それはなぜなんだろうと思いながら、熊吉と彼を愛してやまなかったお滝さんたちの視点で進んでいるうちに問いかけに対する何かが起きてくる。

熊吉は信じるということで歴史を観た。
裏切られたということもどこかでわかっているんではないかと、いろんな立場の人達が前面的に悪者だと思った人がいれば、シーボルトとのかかわりはあれは本当だったのではないかと思う人もいて、歴史の真実ってなんだろうと思うと、歴史ってのちの世から解釈したものなので、その時々の価値観が必ず入るわけです。
昨年井原西鶴を主人公にした小説を書きましたが、歌舞伎の若衆を出しましたが、その人は資料が残っていて、西鶴がすごくかわいがった人ですが、一番フィクションぽい人です。
本当にあったことは事実とすると、フィクションは嘘ということになるが、真実ということは何かということに思い当たります。
私たちは日々想像力を駆使して生きているわけで、それがある意味現実を作っていたりするわけで、想像力がなかったならこんなに生きてこれないわけです。
お滝さんは絵が残っていて楚々としているようだが、おちゃめなフィクションさを取り入れたかった。

植物は本当に好きで、庭つくりの上手な人にはあこがれていています。
有名な偉い人を主人公に出す場合でもまずは、どんな風に暮らしているんだろうということを考えます。
植物が好きであったのかなかったのかをチェックしてしまいます。
好奇心は子供並みかもしれません。
調べているうちにどんどんいろんなことに出会って、そこからまた先に行ってしまうとか、資料を読んでるときには楽しいんです。
知らないことを知ることは楽しいです。
書きながら私自身の主義主張はあまりなくて、主人公や登場人物を通して、問いかけることができていたり、この主人公成長したなあとか、この子こんな風に人のいうことをとらえられるようになったという表現があるんです。
「庭師の仕事は空仕事」、昔の本で読んだことの記憶があり、好きなフレーズです。
子どものころは高い木に登るのが好きでそこから見下ろした景色、心持ち、感情の体験は忘れないです。
暮らしもその人の人格であるし人生であろうと思います。
花、緑とともに生きている人は好きですし、そのことに対する尊敬を持って生きている人のことも好きです。

2020年6月21日日曜日

今日で3000回投稿

皆様へ
今日で3000回の投稿になりました。
感無量です。
その間にいろんなことがありました。
日本の国内で言わせれば、大きな災害だけでも
2011年 東日本大震災    2019年12月10日時点で、者は1万5899人
2013年 台風26号      死者は40名
2016年 熊本地震       死者は273 人(関連死含め)
2018年 北海道胆振東部地震  死者は42人
2019年9月 台風19号     死者は86名
2020年 新型コロナウイルス  2020年6月20日時点で、死者959名
が起きました。
これは私個人の思いですが、日本人が思いやりの気持ちを培ってきたのは、
日本という国は縄文時代の昔からいつもいろんな災害、火事、地震、台風、火山の噴火、天候不順、疫病などに遭遇して、お互いが助け合って生きてきたことに根本があるように思います。

個人的にも自分自身のこと、家族のこと、友人のこと、いろいろありました。
そのなかでなんとか投稿を続けて3000回を数えることができました。
それもなんとか健康でいられたからこそできたことだと思っております。
投稿していて思ったことは、「明日への言葉」に登場される人たちは
人知れず自分の信念のもとに自分のことはさておき、人に寄り添い影響を与え続ける姿勢にいつも感銘を受けてきました。
その感動は本当は直に放送を聞くことが一番皆さんの心に届くとは思うのですが、
感動は1/10になってしまうかもしれませんが、活字で残しておけば
後になってもいつでも見られるのではないかと思って愚直に続けてきました。
いつまで続けられるのかわかりませんが、とりあえず今後も一日一日
取り組んでいきたいと思っております。
最後に誤字、脱字とかいろいろ問題のある文章に対して、見るに見かねて自発的に文章のチェックをしてくださっているKさんに感謝しています。

小倉崇(NPO法人代表)          ・【"美味しい"仕事人】「渋谷に畑をつくろう」(初回:2020/2/16)

小倉崇(NPO法人代表)       ・【"美味しい"仕事人】「渋谷に畑をつくろう」(初回:2020/2/16)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/02/npo_16.htmlをご覧ください。

2020年6月17日水曜日

2020年6月15日月曜日

2020年6月10日水曜日

2020年6月6日土曜日

木津川 計(立命館大学名誉教授 上方芸能評論家)・「大阪の文化を見つめて65年(3)

木津川 計(立命館大学名誉教授 上方芸能評論家)・「大阪の文化を見つめて65年(3)~都市の品格は復活するか?」
「都市格」は最近使われるようになってきましたが、私が言い始めました。
人格を定める条件は、教養の有り無し、都市格を定める条件は大きくとらえれば文化の有り無しです。
具合的には
①文化のストックが有るか無いかどうか。
②景観文化性が観られるかどうか。
③発信する情報、その内容如何で都市格は高くなりもなるし低くなりもする。
大阪の歴史は芸能文化学術の最先端だったが、明治に東京が首都に定められて将来を懸念した。
大阪の初代の商工会議所の五代友厚が経済の盛んな都市にしていこうということで、重化学工業が発展した。
文化を軽視することにつながり大阪の都市格は残念ながら低くなってゆくばっかりでした。

戦後になり経済重視の中で60年代になってゆくと上方芸能の衰退が顕在化していきました。
夕方の景観では京都の夕暮れはゆっくりと西山に沈んでいきます。
神戸の夕暮れは坂の町なので見下ろすことができて夜景が綺麗です。
大阪の夕暮れは高い建物に覆われてしまっていて夕暮れがない、いきなり夜になります。
京都は見渡す都市、神戸は見下ろす都市、大阪は見上げる都市です。
残念ながら大阪は60年代からろくでもない情報を多く発信してきました。
そのツケが今来ています。
1960年代は山崎豊子という作家が大阪の船場を描いて名作を残しているが、出世作「暖簾」、「花のれん」で直木賞を受賞した。
記者会見でひとえに大阪商人、船場商人のど根性を描きたかったと説明している。
ど根性が流行語になっていって大阪はど根性の都市というイメージを世間に植え付けた。
大阪では性根という言葉をつかっていたが、笑福亭松鶴さんなどはど根性という言葉にものすごく嫌がっていた。

昭和34年菊田一夫の「がめついやつ」が大ヒットする。
釜ヶ崎でドヤを経営する女主人のがめつさを劇場上演する。
ど根性と一緒にがめついというレッテルが貼られるようになる。
がめついという言葉は大阪弁ではない。(菊田一夫の造語)
昭和30年代後花登 筺(はなと こばこ)の根性ドラマが次々にヒットする。
ゆがめられて伝えられて今にこれが影響しています。
1970年代は「どけち」の都市、高度成長は1973年の石油ショックで最終的に打ち止めされてきた。
失業者があふれる時代に大日本どけち競争なる人物が現れ、どけち哲学を全国に振りまいた。
70年代はどけちの都市というレッテルをはられるようになる。

80年代は犯罪都市のレッテルを貼られる。
グリコ森永事件が起き、警察を揶揄するメッセージが送られてくる。
「警察のアホどもへ・・・」で始まる下手な大阪弁の文章です。
豊田悪徳商法で2000~3000人の老人たちをだまして巨額の金を集めた。
大阪の治安の悪さのイメージ、犯罪都市のレッテルを貼られた。
1990年代は破廉恥都市、2000年代は流出都市となってしまった。
ひったくりが日本一、青少年の犯罪数日本一、河川の汚染日本一、などのワースト記録が並べられた。(日本公共広告機構が掲載)
2000年代は大阪の大企業が東京に移す流れになってきた。
大阪の経済を衰弱させてゆく大きな理由になってゆく。
大阪の優秀な人材がどんどん出てゆく。

でも大阪ではそういう文化だけではないんです。
大阪には心優しい恥じらいの文化が育ってきていました。
こういった一群の作家たちが主張したり発表したりするものは、多くの人の目には触れることがなかった。
帝塚山学院に集まった教員、学者たちが含羞の人をやった、この人たちを帝塚山派と呼びたいと私は思っています。
藤沢 桓夫、長沖 一、伊東静雄、小野 十三郎、杉山平一、庄野英二、庄野潤三、石浜恒夫
阪田寛夫こういう一群の作家たちを私は帝塚山派ととらえてはどうかと思いました。
2009年に「上方芸能」で主張しました。
一群の作家たちは郷土をののしらず、さげすまず心優しいメルヘンや人々への献身、ヒューマンな香りと繊細な心理描写で断然光っていたのだ、この大阪の作家たちを堀辰雄の四季派になぞらえ、帝塚山派ととらえたいといいました。
帝塚山学院が創立100周年の記念事業の筆頭に帝塚山学派文学学会を立ち上げました。
世間に知られるようになっていっています。

①文化のストックという意味では大阪には出版社が非常に少ない、出版機能を大阪で強めてゆくことも大事だと思いますが、文化のストックを心がけてゆくことが大事です。
②景観の文化性を良くしてゆく。
大阪は緑の豊かな木の都であったと書いています。(織田 作之助)
川も多くて水の都ともいわれていました。(戦後は水質が悪くなってしまった。)
最近は道頓堀も水質がよくなってきた。
③ひんしゅくを買うような情報を決して発信してはならない。
宮本又次教授が終生言い続けていたことが、大阪は心優しい旦那衆の文化が大阪で生まれ育って街中に影響を及ぼした、これが大阪であると、がめつい、ど根性一本やりになっているが大阪の全体像ではない、優しい柔らかい大阪弁、大阪の風習は人情の厚い都市であったので、これをもっともっと大切にして広めてゆくことが大事だと言って亡くなられました。



2020年6月3日水曜日

2020年6月1日月曜日

今森光彦(写真家・切り絵作家)      ・【オーレリアンの丘から四季便り】

今森光彦(写真家・切り絵作家)      ・【オーレリアンの丘から四季便り】
滋賀県大津市で里山暮らしをしています。
今から5年前、60歳を機に正式な農家となって耕作放棄地を購入しました。
竹やぶで覆われ動物たちも寄り付かなかった荒れた土地を、美しい里山の環境に戻すために地元の仲間たちと挑戦を続けてきました。
「オーレリアンの丘」と名付けたその場所から今森さんに日本人の心の風景、里山の四季折々の魅力を語っていたただくという新しいコーナーです。
第一回は春の始まりから初夏に向かう季節の話です。
(参照:https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/10/blog-post_25.html

コロナウイルスの関係で写真展などは延期になっています。
田園風景が広がっていてすごくのどかで、里山の四季感をお伝えできればと思っています。
「オーレリアンの丘」のオーレリアンという言葉はラテン語で金色という意味で,蝶々のさなぎに金色をしているさなぎがあり、オーレリアンというのは蝶々の代名詞に使われることがあります。
オーレリアンというと蝶々の愛好家という風に呼ばれることもあります。
蝶々をたくさん呼び寄せたいという思いがあり、ここをオーレリアンの庭にしようと思って名付けました。
子どものころは蝶々、のほかに魚、鳥、昆虫も大好きでした、中、高校生のころから特に蝶々が好きになりました。

日本には蝶が200種類いるが、私たちの住んでいるところには80種類ぐらいいて蝶々は種類はあまり多くはないです。
それぞれ暮らしぶりが全然違います。
今は70種類ぐらいが庭の敷地内で見られます。
そのような環境を作ってきました。
農作物を作ることは第一とはしないで、昔ながらの農薬を使わない里山環境を作って生き物を住まわせることが目的です。
世界中いろいろ回って人にも出会って、それぞれ自分のフィ-ルドを持っていてうらやましいと思っていました。
自分のところでやってみたいと思いました。

3月初めに里山では春の芽吹きが少しづつ始まります。
オウレン、スミレなどが咲き始めます。
庭のほうはオオイヌノフグリ、フキノトウなどの花が咲き始めます。
キタテハという蝶が真っ先に来て蜜を吸います。
なんで早く出るかというと成虫の姿で越冬してたんです。
体調は4cmぐらいでオレンジ色をしていますが、越冬すると色が剥げて行って黄色っぽく見えます。
冬は落ち葉の下にいて食事もしないので相当お腹が減っていると思います。
ベニシジミというオレンジ色をしたシジミ蝶が3月末頃来ます、大きさは1円玉ぐらいの大きさです。
幼虫で越冬するので色が鮮やかです。

4月になっての一番の変化は田んぼに水が入り、湿度が高くなり空気感が違います。
アマガエル、シュレーゲルアオガエルなどが鳴き始めます。
花はいろんな花が咲き始めます。
シュレーゲルアオガエルの指先は吸盤が膨らんでいて木登りが得意です。
色は鮮やかな緑色で美しいカエルです。
雑木林では山桜が咲き始め、そのほかいろいろな木の花が咲き始めます。
蝶々の数もぐんと増えて、モンシロチョウ、モンキチョウ、などがひっきりなしに飛んでいます。

農地は2月ごろから咲き始めるカンザキハナナと菜の花の2種類を植えたので、2月から4月の終わりまで咲いています。
普通の農家のやるものはあまりやりません。
樹木は時間がかかるので、計画的にレイアウトして植えます。
思ったような形になってくのでうれしいです。
30年もたったので最初の姿とは全然違います。
4月下旬ぐらいから雑木林の芽が広がってきて一気に変わります。
5月になると雑木林の中が暗くなってきて、グラデーションができそれが好きな蝶々が集まってきます。
特に私が好きなキマダラヒカゲがきます。(日影が大好きです。)
クロヒカゲ、ヒカゲチョウの3種類が多いです。

大きなアゲハチョウ、カラスアゲハ、モンキアゲハなど手のひらぐらいの蝶などは日陰と日向の間が好きです。
山つつじが咲き始めてそれがアゲハチョウなどは大好きです。
鳥も来てイカルという鳥は独特のリズムですごく透明な声で鳴いてくれます。
繁殖の時期なのでよく鳴きます。
ヒバリなども絶えず聞こえます。
ホウジロも木のてっぺんで鳴いています。
近くの農家では効率的にするために農薬を使ったりしていて、環境への両立はなかなか難しいところがあります。
「オーレリアンの丘」は環境についてはデリケートにかなり目を配ってやってきました。











2020年5月30日土曜日

河瀬直美(映画監督)           ・「今こそ、文化の力を」

河瀬直美(映画監督)           ・「今こそ、文化の力を」
河瀬さんは51歳、1997年『萌の朱雀』にて、第50回カンヌ国際映画祭カメラ・ドール(新人監督賞)を史上最年少(27歳)で受賞。
2007年、第60回カンヌ国際映画祭にて『殯の森』がグランプリを受賞、審査員特別大賞を受賞。
奈良県を拠点に創作活動を続けています。
2020年の東京オリンピック公式記録映画の指揮(監督)に決定しましたが、新型コロナウイルスの影響で来年に延期になりました。
最新作「朝が来る」の公開が延期されました。

東京オリンピックが中止なって東京から戻って奈良の実家で過ごしています。
奈良が大好きなのでここから離れない形をどうしたらいいか数年来考えていて、海外ともリモートワークでやり取りをして、同じ映像を観れる形になっていたので、ステイホームでやることにはあまり違和感はないです。
自粛で仕事の仕方、行動を変容していかなければいけない中で、自分自身も今を深く考える時間を持たせてもらって、ウイルスをブロックというような形で最初思っていましたが、ウイルスと人類がずーっと共存していたものでもあるので、どういう風にウイルスと共存しながら生きていけばいいのか考えました。
私自身移動を新幹線、飛行機で頻繁にしてきましたが、リモートワークでできる事がいろいろあるのではないかと考えるようになりました。
ラッシュアワーの考え方も時差出勤とか整理してゆくことが必要なのかもしれません。
自分自身の時間を取り戻すことも大事かと思いました。

今年になって海外に行って撮影も始めていました。
聖火も日本にやってきたので撮影もしていた矢先にオリンピックの延期が決定しました。
もう一回やり直さないといけないということで、ワクチンも開発されるなどして安全安心の状況が確かめられないとできない状況だとおもいます。
これからの1年も撮っていきたいとは思っています。
撮る範囲が東京から世界とか人類みたいなところにターゲットが広がって、私自身考えさせられるものです。
選手、関係者の人たちは潔く運命を受け入れて来年に向けて調整する方向になっていますが、今年で最後のオリンピックと考えていた人達いるわけで来年となると難しいという人もいる。
柔道の選手などにも取材を進めていましたが、自他共栄という考え方があり、人間性を高めてゆく、社会に貢献したり子どもたちに勇気を与えたりする、そういう活動もスポーツはもたらすわけです。
スポーツには勝ち負けがあるわけで、自分のすべてをかけても勝った選手にはリスペクト(尊敬する)という感情が現れる。
バッハ会長にも取材しましたが、そういったことを言っていました。

最新作「朝が来る」も延期になってしまいました。
構想から4年ぐらいかかって自分にとっても公開が待ち遠しかったんですが。
ミニシアターに対しての支援でクラウドファンディングが3億円集まって、この文化が絶やしてはいけないという思いで、改めて待っている人たちがいるんだなと勇気付けられました。
世界にはいろんな人がいるということを感じられる多様性を体現できる場所でもあるとおもうので、映画という可能性は大きい、広いと思います。
共感を感じてもらうなかで喜びを感じて又作ろうというパワーになってゆくので、生きているかどうかわからない様な喪失感があります。
今度のコロナの持っている特質として密集しない、3密をさけるということで全部映画館に当てはまってしまっていて、徐々には開館してきているが、不安に感じていることも対応しているので、お客さんも戻ってきていただきたいです。
映画界、演劇、コンサート、ライブの人たちも同じ考えをもっているので、アーティストの人たちも全世界中同じ思いを持っているので、ユネスコがどうしていけば次の一歩を踏み出せるのか、ということで数回話し合っていますが、人の心に光をともすのはアートであるという思いは変わらないので、又光を分かち合えるのではないかと思っています。

ヨーロッパでは芸術に対する支援は政府でもいち早く対応しますが、日本の場合は後回しにされる傾向にあります。
いまこそ分野を乗り越えて様々なアイディアを出し合っていろんなコラボレーションができるのではないかと思います。
このような状況下で自分を深く深く掘り下げることも大事かと思います。
今は渦中なので大変ですが、振り返ったときにはいい機会だったと思えるといいと思いますが。
いまこそ独自性、オリジナリティーが再度見直されるような気がしてならないです。
都市部に集中して生活、経済が動いてということになっているが、地方分散して自分の活動をしてゆくことが起こってきて、加速してゆくような感じもします。
映画を作ってきたのが30年代でそれなりに時間がかかったという感じがあり、短編も入れると50本ぐらいになり、1年間に1~2本をずーっと作り続けてきているので、回顧展をしていただいて30年間の軌跡を自分でも見直しながら、出演者、スタッフの人たちと再会して今に至っていて、もう一回勉強しなおすという感覚はあります。
よりグローバルなつながり方を目指していきたいなとおもいます。
繋がりというのは本当に大切なんだなと改めて感じます。
映画を観る事、映画を観る作ること、映画を観る配給する部門を作って10代の人たちにワークショップを手伝ってもらってやっています。
ワークショップをやった後のその子たちの表情、発言がガラッと変わって、わくわくしています。



















2020年5月29日金曜日

2020年5月28日木曜日

春日太一(映画史・時代劇研究家)     ・【私のアート交遊録】「銀幕の舞台裏」

春日太一(映画史・時代劇研究家)     ・【私のアート交遊録】「銀幕の舞台裏」
プロ野球は横浜DeNAベイスターズの30年来のファン。
子どものころから不眠症で、親が物語を聞かせてくれて、父親が戦国時代の物語などの話をしていて、特に「七人の侍」について細やかに画像の説明付きで話してくれてそれが自分の頭の中で映像になっていって、それがきっかけだったのかなあと思います。
映画館には子どもの時には通っていませんでした。
TVで8時台になると親が大人の時代劇のドラマなどを見ていました。
大河ドラマはよく見ていました。
年末大型時代劇を民放でやっていて紅白歌合戦は見たことがなかったです。
母親も時代劇なども大好きでした。
そのうち映画が見たくなってきて親にせがんで小学生の頃に観に行って、「グーニーズ」は面白くて洋画にはまっていきました。
洋画と時代劇にはまっていきました。

高校受験をして 偏差値の高い海城高校へ進学して、成績も中学時代は学年でトップの成績だったので大丈夫と思ったが、ビリを初めて経験したりしました。
成績はいまいちだったが、東大を目指すということは頭の中にありました。
2年浪人して駄目で、結局家に近い日本大学藝術学部放送学科に入学しました。
最初は作る側をやりたくて映画監督の書生をやったり、助監督をやったりしていたが、向いてないかなあと思って、脚本を書こうと思って、勉強をして10年ぐらいは脚本の下働きTVドラマの企画書を書いたり時代劇の企画書を書いたりしていました。
卒論のテーマは「仁義なき戦い」でした。
就職氷河期で映画会社を受けたが、映画会社だと思って受けないでくれ、うちは不動産で儲けているのでと言われて、そのあと大学院に行きました。
東映が採用再開するということで受けて最終まで行ったが、幹部の人から「君みたいに古いことを追いかけている人間は一番いらない人間だ」とはっきり言われました。

博士論文は『映画とテレビ交流期の時代劇表現:1970年代の京都3撮影所における集団的個性の形成プロセス』(2008年)で芸術学の博士号を取得しました。
1960年代から時代劇映画のお客さんが入らなくなって、一方でTVが伸びてきて映画会社が時代劇を作るようになってきました。
そこで京都3撮影所に行って書いた論文でした。
能村庸一プロデューサーが『実録テレビ時代劇史』という大作の本を出して、それを読んだときにプロデューサーがいろんな思いでTV時代劇を作ってきたということが判って感動しました。
演出家が変わる、脚本家も違うそれなのに26本同じ雰囲気がどうして保たれているんだろうと思って、能村さんに伺えばわかると思ってお会いしたら、「僕らではないんだ、撮影所の彼らのやっている仕事が決定付けているんだ」と言われました。
その意味が判らず、毎日現場に伺って見させてもらいました。
監督さんの指示がなくてもスタッフの創意工夫でどんどん動いていました。
カメラを移動するときにレール上を動かす台車の動かし方、雪の降らし方、雨の降らし方、そういった人たちの話を聞くと細かなことで情感が変わってゆくということを言っていて、彼らの創意工夫によって時代劇の情感の映像が生まれてくることが判りました。
スタッフさんたちの芸術性、創意工夫というものをやっている評論家がいなかったので、これをやるのが僕の仕事かもしれないと思って、時代劇研究家と名乗ってそれを仕事にしていこうと思いました。

実際に現場に行ってもどうしたらいいかわからず、あきらめかけたことがありましたが、映画「ロッキー」の台詞の中で「人生何もうまくいかなかったけれど、この最後の試合だけは15ラウンド最後まで立ち続けると、勝つのではなくて立ち続ける」というんですね。
それで初めてダメ人間ではなくなる、というんです。
そう思ってもう一回京都に戻ったら「お帰りなさい」と言ってくれて、受け入れてくれたのだと思って、とにかくクランクアップまで居続けようと思いました。
そうしているうちに気になったことを聞いていくようにしていきました。
レジェンドのスタッフの人たちの技術、こういったことをやってきたということを文章に纏めて次の世代に人が読んでくれたらいいと思いました。
殺陣は技術だけではなくて演出としての技術がないとだめです。
事例を書き留めておけば若手の人のヒントになればと思っています。

ある時に能村庸一さんを取材したとき、終わった後に「黒澤明か長嶋茂雄になったみたいだよ」といってくれて、それが今でも自分の方針になっているんですが、どんな人に対してインタビューするときにでも黒澤明だと思って聞きます。
小道具のスタッフでも大スターでも分け隔てなくインタビューするようにしています。
仲代達也さんへのインタビューで10回シリーズがありましたが、映画に関しては観られるだけ観てお会いしますが、基本的にはスタッフさんへのインタビューとは変わってはいません。
役所広司さんにインタビューしたときに思ったのは、スターもスタッフも映画という神輿を担いでいるんだなと思って、役者さんに対しても役者というスタッフでというイメージで伺っています。
質問のきき方、準備の仕方もまったく同じですね。
人生の教えを乞うような接し方をしています。
時代劇、映画は、世につれ状況につれ、お客さんの意識の変化、技術の変化につれ、変わってきていて、今のお客さんにどれだけ喜んでもらえるかの勝負をしているものだと思っていて、絶えず今のお客さんが100%喜んでもらえる作品を作ってもらいたいし、そこ対しての妥協はしてほしくないですね。
「私が愛した渥美清」(秋野 太作作品)という本がとても面白い、「男はつらいよ」の裏話です。

















2020年5月27日水曜日

山中麻須美(英国キュー王立植物園公認植物画家)・「植物のいのちと響きあう(2)」

山中麻須美(英国キュー王立植物園公認植物画家)・「植物のいのちと響きあう(2)」
日本の植物は江戸時代にシーボルトなどがヨーロッパに持ち帰ったものですね。
イギリスの庭には日本の植物が普通に見られるものが結構多いです。
冗談で日本の植物がないとイングリッシュガーデンも作れないといわれるぐらいです。
イギリスの方は日本から来たものだとはご存じないんです。
キューガーデンにも世界中の人が来るので日本の植物の美しさを知っていただきたいというのがテーマです。
小石川植物園の加藤竹斎が明治の初めに来て彼の絵だとか、高知の牧野植物園の牧野富太郎博士の原画、練馬の牧野記念館から服部雪斎の絵だとか江戸から明治にかけての歴史的な日本の植物画を展示させていただきました。
古い日本の植物画と現代作家の植物画を展示して対比が非常に面白いと言われて高い評価を得ました。
日本の植物画家の石川美枝子さんと小西美代子さんにお願いして日本のアーティストの方々を35人選んで、その方々にキューガーデンが作った300種類の日本の植物のリストをお送りしてそこから3種選んでいただき3年以内に描いていただくということにしました。
展示会のために描いていただきました。

野生種でなくてはいけなくて、かつ科学的に正しくなくてはいけないので、年に一度東大の村田先生、大場先生、池田先生にお願いしてアーティストの方々の絵を全部厳しくチェックしていただきました。
イギリスも日本ブームでTV番組を見てきたという人もいますし、ファイナンシャルタイムスが大きな記事を載せてくれました。
明治の初めに日本のイギリス大使館とキューガーデンがどういう風につながっていたのかという風な歴史を学ぶことができます。
イギリス大使館のハリーパークス公使が集めたものはパークスコレクションと呼ばれているし、アーネスト・サトウが送ってきた書物などもたくさんあります。
当時のキューガーデンは力を持っていて、世界中に散らばった外交官たちに珍しい植物、珍しいなにか植物を使ったものを集めてくる、世界中からいろんなものを集めました。
キューガーデンは2003年に世界遺産に指定されていますが、植物を守ることが地球を守ることにつながるというミッション、その使命とその活動が世界遺産に指定されているんです。

一つの植物が絶滅したことで、それにかかわっているものがいろいろあり、どれぐらいの大きな波がやってくるかということはかなり後にならないとわからない。
例えば虎は絶滅するかもしれないといわれているが、それを守るためには虎が生きてゆく森を作らないといけない。
その森には虎が生きてゆく草食動物がいなくてはいけないので、その草食動物が食べてゆく草がないといけない。
人間だけが他の生物と共生していないということはありえなくて、植物のこと、自然環境を今考えるべきだと本当に思います。
私たちには何ができるのか、私はアーティストでなにができるのか、それは植物を描くことだと思います。
植物の美しさだけではなく植物の科学、植物の役割をたくさんの人にわかっていただくための絵を描くことも大事だと思っています。
地球の現状を植物を通して発信してゆく。

科学者が100人いるよりも私たち地球に住んでいる全員がほんの僅か地球のことを考えるだけで地球は大きく変わっていくと思います。
太陽エネルギーを使って毎日の生活をどう他の生物と共生しながら暮らしていくかということが大切だと思います。
キューガーデンで10年おり、いろんなプロジェクトに参加したりして、地球の環境を支えるのは植物だということをいろんな方に伝えていきたいと思っています。
描いてゆくためには植物の勉強もしなくてはいけないし、生物多様性、自然環境などを強く意識するようになりました。
植物と共生している昆虫なども一緒に絵に入れていこうかと考えています。
趣味として世界中でボタニカルアートを習っていて楽しんでします。
日本には日本植物画クラブがあり、日本の絶滅危惧種についてはずーっと取り組んできました。
アメリカにもアメリカ植物画クラブがあり絶滅危惧種について展示会されたりしています。
日本の展示会ではキューガーデンの展示会とは少し変えてキューガーデンの歴代のアーティストが描いた日本の植物を一緒に展示しました。

「奇跡の一本松」 2012年4月にキューガーデンの日本庭園のなかで震災1周年のイベントが日本大使館とキューの合同で行われて、その時に岩手県から子どもたちが招待されて一本松の種を持ってきてくれました。
キューガーデンにはシードバンクがあり種はそこに保管されています。
陸前高田の市民の生活を守っていた松だったが、津波でみんな流されて一本だけ残っていたがその後レプリカになってしまったが、松の絵を描いて2016年に震災5周年記念のイベントがロンドンの日本大使館で行われたのでそちらにお送りしました。
NHKのニュースになったりしました。
2020年陸前高田の記念館ができるのでそこに展示する予定になっています。
乳がんになってから15年たったので再発はなくなったと思います。
不幸だった出来事で変わってしまうが、何かのきっかけになるのではないかと考えました。
キューガーデンの日本庭園は日本国土交通省が昔働きかけて作っていただいた経緯があり、今度はキューガーデンがプロデュースした庭が陸前高田にできるのもいいのではないかなあと思います。
その庭が交流する場になってくれればと思います。
自然との共生を一本松の絵から発信できればと思います。
マダガスカル島にはサファイアが取れるので、そのために自然林がどんどん伐採されています。
8割近くが固有種であるので、絶滅に瀕している動植物を描いていろんな方にメッセージを送ろうという夢を持っています。



























2020年5月24日日曜日

2020年5月20日水曜日

2020年5月17日日曜日

2020年5月16日土曜日

谷島雄一郎(ダカラコソクリエイト発起人) ・「若いがん患者たちの体験を社会に生かしたい」

谷島雄一郎(ダカラコソクリエイト発起人) ・「若いがん患者たちの体験を社会に生かしたい」(初回:2019/5/ )
人有りて街は生き、若いがん患者たちの体験を社会に生かしたい。
がん経験者に呼び掛けてあたらしい社会をデザインするというプロジェクトを立ち上げた矢島雄一郎さんへのインタビューです。
40代の矢島さんは大阪ガスに勤めるサラリーマンで妻、小学生の娘さんと暮らしています。
自らも治療が難しいタイプのがんと向き合いながら仲間たちと活動を始めました。

会場には会社員や学生たちの若いがん経験者が集いました。
2012年(34歳)で子どもが生まれる前の月にがんが見つかりました。
GIST(消化管間質腫瘍を示す英語 GastrointestinalStromalTumorの略称)が食道にできました。
10万人に一人という発生率といわれました。
腫瘍が8,9cmの大きさだったので、手術はリスクが伴うということなので薬で小さくしてから手術をしたほうが効果的だということで、薬(グリベック)を飲み始めました。
9割がた効果があるといわれていた薬でしたが、運悪く効果がなかった。
手術をすることになって再度検査をしたら肺にも転移が見つかりました。
食道の全部と肺の一部を切除する手術を行いました。
再発が危惧されて経過観察したが、翌年肺に再発してしまいました。
薬が二つ残されていたが、副作用が強くて薬の効果はありませんでした。
いろいろ副作用があり手足がやけどをしたように痛くなる、髪がぬけたりしました。
研究中の薬の臨床試験に参加して効果を見てみたり手術をしたりしました。
ラジオ波などで腫瘍をやいたりとかやっていましたが、再発を繰り返していました。
結果が変わらないと思いだして、愛する人、子どもの未来に何かを残したいということを思い出したのが2015年ごろでした。

子どもにデジカメを与えて、撮ったものを見てみると、僕を幸せな気持ちにしてくれていて、がんになったからこそ見える景色があり、それは誰かを幸せにする力に変えられるのではないかと思い出しました。
いろんな動きを始めました。
会社への提案を汲んでくれて会社のソーシャルデザイン室にはいって、社会の中のいろんな人たちを資源として、その人たちの力を生かしながら社会をよくしていくことをもっとクリエーティブな視点でやっていこうということでした。(2016年4月)
AYA世代(Adolescent&Young Adult(思春期・若年成人 15~39歳))のがん患者の人たちと会うことにしていきました。
いろいろな悩みを抱えていて、パートナーに対してがんであるということをいつ告白したらいいのか、治療によって子どもが生めなくなってしまっている人が多く、それをいつ打ちあけたらいいのかとか、会社からの解雇の問題などいろいろありました。
患者という存在となってしまって社会から孤立して傷付けられるというようなこともありました。
感謝を何かの形で還元したいと、がんになっても社会から必要とされる存在になりたい、ということを皆さんは特に思っていて、AYA世代には強く感じているところです。

15~20代前半の人にたいしてはいまいち理解できないところもありました。
相談する中で強く言っているのは、成長の機会を病気によって奪われてきたということです。
社会で生きてゆくためのスキルを何ら学んでいませんという風に言っています。
サポートが必要だと思って試行錯誤しているのが今の状況です。
30代でも結婚しているか、していないか、子どもがいるかどうか、といったことで悩みが多岐にわたっています。
AYA世代は病院でも少ないので、病院関係者の人も苦手意識があるそうで、なかなか接し方がわからない状況のようです。
がん患者は100万人ぐらいでそのうちAYA世代は2万人ぐらいです。
体験を文章にしていろいろ発信している方々もいます。
「ダカラコソクリエイト」というプロジェクトを発足しました。
がん経験者が社会全体に価値のあるものを提供する、ということで大阪大学平井敬准教授
に相談に行きました。
ガンになった人の心理を研究してケアに結び付けていこうということで、ワークショップを立ち上げました。
40~50名で20~40代のがんを経験した人が中心で、学識のある方、教育者などもかかわってくれています。

プラスチックでできた車椅子のおもちゃがカプセルの中に入っていたり、いろいろあります。
そこに経験談がいろいろ書いてあります。
メディカルガチャガチャです。
ラインのスタンプにキャラクターを作りコメントも付け加えられている。
「頑張り過ぎやでー」「今は休みの時やねん」とかいろいろ付け加えられている。
自分らしくいられる居場所が欲しい、もっとがんをカジュアルに話し合う場所が欲しい、という二つの思いがあり、繁華街の雑居ビルの一角に実験スペースとして場所を構えました。
活動を始めた当初はあと数年しか持たないと思いましたが、実効性のあるものをやっていきたいと思っています。







































2020年5月12日火曜日

高山みな子(フリーライター)       ・「子孫が語る、勝海舟の魅力」

高山みな子(フリーライター)       ・「子孫が語る、勝海舟の魅力」
幕末から明治にかけて活躍した勝海舟の没後120周年を記念して去年9月洗足池のほとりに大田区立勝海舟記念館がオープンしました。
全国初の勝海舟の記念館とあって地元はもとより 全国から大勢の勝海舟ファンが訪れ
ています。
フリーライターで勝海舟の玄孫にあたる、高山みな子さん(57歳)は生前の海舟を知る祖母の話や坂本龍馬の研究家たちとの交流を通じて海舟の人物像に魅せられたといいます。
江戸城の無血開城をはじめ数々の難題に立ち向かい、日本の近代国家樹立のために活躍した勝海舟とはどんな人物だったのか、子孫だからこそ知る素顔も含めて「勝海舟の会」名誉顧問の高山みな子さんに伺いました。

小学校の5,6年生の時に歴史の授業があって、咸臨丸の艦長が勝海舟だったということを習って、家にかえって母に話したらそれは家の先祖よと言われてそうなんだとおもったがぴんと来なかった。
2000年過ぎたころ「勘臨丸子孫の会」が作られて、両親も参加していたが、父の代わりに行きなさいと言われて、何にも知らないまま伺いました。
ある人からあまりにも知らなすぎるから勉強しなさいと言われて、家にある本を読み始めたら結構面白くなりました。
海舟は9人子どもがいて、長女は「夢」、次女「孝子」、三番目は男で「小鹿」、ペリーが来てその後幕臣に取り立てられて忙しくなって、四番目が「四郎」、五番目が「逸(いつ)」(うちの祖母)、六番目は長崎で生まれたので「梅太郎」、七番目が「七郎」、八番目が「八重」、最後が「妙子」ということでした。
子孫は総勢で父の代で300人ぐらいいるのではないかと言っていました。
「梅太郎」は国際結婚して妻はアメリカ人でした。

勝海舟が生まれたのが1823年、本所の貧しい旗本の家に生まれる。
剣の達人で、蘭学なども学び、ペリー来航の時には幕府へ海防に関する意見書を提出して要職につくようになった。
咸臨丸でアメリカにわたったのが1860年、神戸に海軍の学校を設立してそこに坂本龍馬などが集まってきて勉強をした。
西郷隆盛との交渉で江戸城無血開城を行う。
明治になっても政府の要職を歴任する。
位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。
仕えていた徳川慶喜と明治になっても交流を続けて救済に尽力する。
明治維新の時に海舟は徹底抗戦するか、恭順するか(海舟はこちらを目指していた)聞いたところ、徳川慶喜はインド、支那の二の舞になってはいけないので恭順の道を選ばれる。
その時のつらい道を選ばれた恩義を海舟は生涯持っていたと思います。
長男の娘のところに慶喜公の十男を養子にいただくが、旧幕臣は子爵なんですが、子爵では慶喜公の息子に継がせるのはよくないと思って、伯爵ではなくてはいけないと思って頑張ったということです。(いろいろ陰口はたたかれたようですが)
政府の中に片足残して慶喜公の名誉回復を何とかしなければ、ということがあったと思います。

大久保利通公に旧幕臣の就職斡旋をお願いしたようです。
大臣には榎本武揚公、事務次官、NO2,3の名簿を見ると旧幕臣の名前が結構多いんで、やりにくさはあったと思いますが、新しい国つくりに邁進していったんだと思います。
慶喜公が明治天皇に拝謁するような仲立ちも海舟は行っています。
海舟の日記に「苦節30年やっと願いがかなった」と書いてありました。
坂本龍馬が脱藩して海舟を訪ねてきてから、そこからずーっと家族ぐるみのお付き合いがあったみたいです。
祖母が3歳のころに龍馬さんは赤坂の家に出入りしとぃたみたいで、龍馬さんに肩車してもらったといっていました。
豪商に支援されながら、海舟は「三方よし」の商人の考え方を学んでゆく。
龍馬さんの実家は豪商でもあったので考え方が相通じるところがあったようです。
海援隊海外貿易は商人の人たちです。

西南の役で亡くなった西郷隆盛の名誉回復のためにも尽力しています。
西郷隆盛と海舟の出会いは島津斉彬公の紹介があってなんです。
島津斉彬公が江戸にいたころに大変お世話になっていました。
島津斉彬公は阿部伊勢守(阿部正弘 主席老中となる)と仲が良くて、勝林太郎という人がいるのでよろしく頼むよ、と言っていたように私は思っています。
ペリー来航の時には幕府へ海防に関する意見書を提出して要職につくようになったのは、そのようなことがあったので取り入れられたと推察しています。
人の繋がり非常に大きな力を持ったのではないかと思います。
おととし江戸城無血開城150周年で、その時に西郷さんのひ孫の方がいらっしゃいまして、交流を続けています。
海舟がこなしてきたことは後から見るとダイナミックに見えるが、当時は自分に与えられた仕事をいかに努力してこなしてゆくか、それだっただろうと思います。
要所要所で素晴らしい人たちにより助けてくれる人たちがいた。

海舟は下戸でした。
お菓子をお客が持ってくるので小さい菓子部屋があって、菓子をつまんだ後は祖母たち孫のところに行くわけで、祖母はそれが楽しみであったようです。
つぼ屋の最中が好きだったようです、又ウナギも好きでした。
西郷さんも酒はあまりたしなまなかったようでスイカなど好きだったようです。
海舟の記念館ができて、いろいろ面白いものが展示されて居ます。
海舟はいろいろ言葉を残していて楽しめるような展示になっています。
「人には余裕というものがなくてはとても大事はできないよ」
「人は逆境に立たなければ本物じゃないよ」
「勝海舟の会」という会がありまして、現在名誉顧問を務めていて、勉強会、史跡めぐりもしています。
人望を広める機会を作ることをどうやってゆくか、と言うことをどうやってやってゆくかということを海舟の人生から学べるかなあと思います。














2020年5月11日月曜日

菊池初恵(菊池彩花選手の母)       ・【アスリート誕生物語】平昌オリンピック金メダリスト

菊池初恵(菊池彩花選手の母)・【アスリート誕生物語】平昌オリンピック金メダリスト
長野県南佐久郡南相木村は村の面積の2/3が山林という、コンビニに行くのにも車で20分かかるとか、山の中腹のところに村があるところです。
5人の子がいて長女は真里亜、彩花は次女で、三女が悠希、四女が萌水、五女が純礼です。
みんなスケートをやってそのうち4人が日本代表に選ばれました。
冬は何もないところなので、自分から心の底から楽しかったというもとで遊んでほしかった。
子どもたちは自分で道具を作ってよく遊んでいました。
私は一人っ子でのほほんと育ちましたが、スケート部に入り上下関係の激しいところで苦労しました。
朝ご飯を一升五合炊きます、夜蓋を開けると米粒が一つもないというような状況でした。
長女がアトピーだったので、長女が食べられないものは置きたくないという思いが有ったのでお菓子などはありませんでした。
おかずの質を上げるようにしていました。

長女は小さいころ身体は弱かったが、運動能力は一番ありました。
スケートもあまり練習しなくてもポンと全国大会に行ってしまったというような感じでした。
彩花はコツコツ努力型の子でした。
長女は身長が私よりも伸びたときに、「おい、おまえ」といったんです。
そんないきさつから決闘をやろうということになって、彩花に号令をかけてもらうことにして、彼女は割と早く号令をかける癖があること知っていたので、あっという間に抑え込んで私が勝ちました。
彩花は激しく反抗するということはなかったです。
事はその瞬間に処理するようにしていました。
後ろを振り返る暇はなかったです。

長女は喘息がありましたが、スケートに行くと喘息が出ませんでした。
ある日祖父がスケート靴を二足買ってきて始めました。
長女が2歳半か3歳のころでした。
彩花が8か月のころに遊びに連れて行って、発砲スチロールの箱に彩花をいれて、長女が引っ張って楽しく遊んでいました。
彩花がその後大きくなると同じように下の子にしてあげていました。
勝つ思いを経験しないと競技の楽しさは分らないので、そこそこ勝てるぐらいには教えて、勝ったという経験を味わってほしいと思いました。
基礎はしっかり教えました。
スケート場までは子どもの足で20分ぐらいですが、歩かせていきました。
子どもたちには小学校の頃はノーマルのスケートで通して、周りはスラップスケート履いていたが押し通しました。
小学校の頃は入賞はしたが優勝はしていなかったです。
中学ではスラップスケートを履いていいよと言って、中学1年でいきなり全国大会で4位になりました。
3年生の時には優勝できたという経緯があります。

長野オリンピックでは清水選手、岡崎選手の映像を見て、めざしたいと思ったのではないかと思います。
練習のやり過ぎではないかと思う時がありました。
実業団に行ってワールドカップでトップ取るような選手がいて、そこから世界を目指すようになったと思います。
それまで2,3位だったが、2015年から優勝するようになりました。
2018年2月に行われる平昌オリンピックに向けて合宿していた時に、突然電話がかかってきて「怪我をしてしまった」ということでした。
軽い怪我だと考えていたら、右ふくらはぎを断裂する大けがで選手生命をおびやかすものでした。
平昌オリンピックの準決勝のカナダ戦に高木姉妹と出場して勝利し決勝進出に貢献することができました。
決勝では高木姉妹と佐藤がオランダを破り、チームとして金メダルを獲得した。
小さいころからの積み重ねによって今の彩花があって、結果が得られるようになったと思います。
平昌オリンピックの2か月後に引退を決意する。
2018年10月23日にバンクーバーオリンピックの銀メダリスト長島圭一郎さんと結婚。
今与えられたことを精一杯こなして、いつまでも彼女が楽しく輝いて居る姿を見せてくれていたら私は幸せです。






















2020年5月10日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】
モーツアルトのトルコ行進曲。
まずはアレンジした形のトルコ行進曲。
*ロシアのピアニスト、ヴォロドスが編曲したモーツアルトのトルコ行進曲。
編曲して20年以上になる。
行進曲の遺伝子と題して今日も進めていきます。

メンデルスゾーンの「結婚行進曲」
1842年に作曲した劇付随音楽『夏の夜の夢』作品61の一曲。  結婚式における定番曲。

ヴェルディの歌劇「アイーダ」 凱旋行進曲 『王家に捧ぐ歌』
エジプトの将軍ラダメスの勝利を祝う行進曲。
トランペットの輝かしい行進曲のファンファーレの響きとコーラス。
応援歌にも使われている。

*フランスの作曲家 ベルリオーズ 「ラーコーツィ行進曲」
彼の代表作『ファウストの劫罰』にてこの行進曲を引用。
実際の行進をイメージして作ったのではなく、架空の行進曲を頭の中で描いた異次元の行進曲。

*ロシアの作曲家 ショスタコーヴィチ 舞台管弦楽のための組曲から行進曲
ポピュラー音楽も愛し、ジャズ風の軽妙な作品も少なからず残している。
軽快な行進曲。

古関裕而  NHKスポーツ中継テーマ「スポーツショー行進曲」
日本放送協会(NHK)の各放送波で放送されるスポーツ中継番組(プロ・アマ無関係)のオープニングテーマ曲として使用されている。
1909年生まれ。

*映画 「スーパーマン」から「マーチ」

2020年5月8日金曜日

仲道郁代(ピアニスト)          ・「ベートーヴェンを新たに読み解く」

仲道郁代(ピアニスト)          ・「ベートーヴェンを新たに読み解く」
昨年10月放送のインタビューの再編成
おととしデビュー30周年、いろんなコンサートをさせていただき走り続けてきたという感じがしました。
これから10年後を見据えて、演奏家として何を目指すのかということを考えて活動してゆこうということを考える節目になったのが30周年でした。
ベートーヴェンの音楽は生きる事とはどう言うことかとか、問い続けている音楽だと思いますが、ベートーヴェンを核に据えて私自身も生きる事とはとか、音楽をすることとかというのを自分にも問い直したいです。
そして10年間ベートーヴェンを核にしたシリーズを考えました。
「 Road to 2027」というプロジェクトをスタート。
2027年はベートーヴェンの没後200年でもあります。(私の40周年記念でもあります。)

もともとベートーヴェンは苦手でした。
試行錯誤の連続で30代に入ったときに、60歳ぐらいになってベートーヴェンを弾けるためには若いころ挑戦しておかないと無理だと思って、全曲ソナタ演奏会を最初にしました。
最後の演奏会の時に諸井誠先生が聞きに来てくださって、「君、最初からやり直さないとだめだよ」と言われてしまいました。
「僕と一緒に全曲やりませんか」と言われて、32曲を弾くコンサートシリーズが始まりました。
諸井誠先生からベートーヴェンを手取り足取り教えていただきました。
転機になったのがその時のベートーヴェンでした。
ベートーヴェンを弾くときに感情、感覚だけだと手におえない形にならない。
なぜなのかということを、まるでパズルのような組立てていって、謎解きのような読み解き方を教えていただいたら面白くなりました。
今ではベートーヴェンは大好きです。
ベートーヴェンを研究するとそのあとの作曲家の見え方も変わってくる。

名曲には名曲たるゆえんがあって発見があります。
こんな音使いで弾いてみたらどんな表現になるかとか、いつも思います。
アイザック・スターンというバイオリニストがコンサートもエクスペリメント(実験)だとおっしゃっていて、毎回毎回完成系はなくて、こんな風にトライしたらどうだろうかと実験の繰り返しだとおしゃっていて最近はそうだなあと思います。
ベートーヴェンとナポレオン、ナポレオンが台頭してきた時代だからベートーヴェンが「英雄」を書いていたという、又ベートーヴェンがナポレオンへの失望、そこからまたかいて、その時代がベートーヴェンにどう影響を及ぼしたかということをトークとか資料スライドでお話をしてからコンサートを行いました。
ベートーヴェンの曲がどう聞こえてくるか、知識を通して感じてもらいたいという思いもあります。
現代に訴えかけてくるものがあります。
共鳴すると感動するし作品のすばらしさ、本質をもっと知りたいと思っていただけるのではないかと思います。
同じ楽譜を見て同じ指示のもとに弾いて、演奏家によって演奏が違うことの自由さって、すごいことだと思うんです。
決まりがあるからこそ自由度がより際立つというように私は思っています。

ナポレオンの次がヘーゲル、葛飾北斎、ルター、クリムト、シェークスピアと、ベートーヴェンとの比較をやっていきます。
ルターはキリスト教的概念が外せなくて、十字架というものをベートーヴェンどうとらえるのか、十字架が人が背負う比喩的なものであるとするならばそれをベートーヴェンがどう克服して、どういう世界観を導いたのか、とか考えたりするわけです。
ルターは「音楽は神様からの最上のプレゼントである」といった人で、非常に音楽の力を信じた人だったらしい。
ベートーヴェンは思想の人だと思います。
ベートーヴェンが哲学をどうとらえたのかによって、ベートーヴェンの作品を浮き上がらせることができる。
葛飾北斎は構成の方のアイディアです。

母が私に対してピアノの練習をしてから宿題をしたり、遊びに行かせたりするような生活スタイルをするようにしていました。
娘は小学校4年生でピアノをリタイアしました。
私のやっていないフルートは続けていきました。
私は4歳からピアノを始めました。
浜松市立白脇小学校5年生のとき第27回全日本学生音楽コンクールに出たときには5分の曲を毎日8時間練習をしました。
小学校5年生の時に連れてってもらったコンサートでヴィルヘルム・ケンプがベートーヴェンだけのコンサートをして、後光がさしているように感じて最初の音から最後の音まで全て心に入ってきて感動しました。
1985年から1987年まで文化庁在外研修員としてミュンヘン音楽大学に留学しました。
中学時代にアメリカに行きましたが、アメリカでは音楽の力を感じさせてくれました。
ドイツに行ったときには歴史を感じました。
クラシック音楽は今でも生きていると感じました。
人の生活に根差した生きた言葉だと思ったのがドイツでした。

自分の好きな色は何かと問われたときに、自分がどう思うかということには間違いはないと思います。
音楽を受けとめている感じは、人の感覚の豊かさ、心の多様さに気が付くことができます。
聞くほうもなにかきっかけとなるようなものがあるように、お話付きのコンサートとかいろいろやっています。
お子さんのほうが豊かに心が批評します。
ピアニストは親が望むからなるものではなくて、その子が一生をかけて音楽に取り組みたいと思うような思いを持つような子なのかということで、小学生の時にわかると思います。
演奏家の人にはどこかきっかけがあると思います。
見つけるのは本人です。
演奏会は様々な方がさまざまに受け止める、作曲家も人生をかけて伝えたいと思っていることを音にするんだと思って、私は10年経ってどんな音楽家としてなれるのだろうかと突き詰めていきたいと思って、2027年までのプログラムを組んで進んでいるところです。






























2020年5月6日水曜日

石井直方(前東京大学教授)        ・「筋トレはスローで楽しく」

石井直方(前東京大学教授)        ・「筋トレはスローで楽しく」
筋肉研究の第一人者で前東京大学教授の石井さんはNHKの「みんなで筋肉体操」などの筋トレブームの火付け役的存在です。
年齢を問わず筋トレがブームになっています。
石井さんは少ない運動量で大きな効果を得るスロートレを推奨しています。 
年齢と共に筋肉は減りますが、やり過ぎないスローな筋トレをすれば80代でも筋肉は増える、高齢者の体力の維持向上、健康増進はスロートレがお薦めだといいます。
石井さんはスポーツ筋トレで20代のころはボディービルダーの世界選手権にも入賞してきました。
しかし多忙な生活を送っていた61歳の時、悪性リンパ腫を発症します。
つらい化学療法と入院生活を経験し筋肉がほとんど落ちてしまう経験をしました。
そうした自身の経験を踏まえて寝たきり予防、転ばない足腰を作る高齢者の筋肉つくりに理論と実践に今取り組んでいます。
筋肉は裏切らない、今からでも遅くない。

筋トレを研究テーマとして始めたのは約30年前でした。
高齢化が進んで、元気で長生きをするためにはいかに筋肉が重要かということがここ15年ぐらいの間にはっきりわかってきました。
筋肉をしっかり鍛えましょうというのが理解されてきました。
筋トレそのものの技術も進歩してきました。
自宅でも手軽にできるやり方が開発されてきました。
そういった関係でブームになってきました。
筋トレは脂肪の観点が強かったのが、最近は筋肉がしっかり働かないと健康にとってマイナス面があるとか、きれいな体の線が作れないとか、という風にシフトしてきました。
20代では体重の40%が筋肉で、骨と合わせると体重の50%になります。
筋肉がさぼってしまうと、ブドウ糖とか糖質がだんだんたまってきて、糖尿病になったり、脂肪がたまったりしてしまいます。
筋肉は細かく言うと400から600ぐらい位あります。
自分の体を自分で作ってゆくそういう楽しみ方もあります、ボディービルに通じるところもあるかもしれません。

高校1年の夏休みに腕立て伏せとかいろいろやったら信じられないほど体が強くなり、驚きました。
大学に入ったら専門的に体を鍛えてみようかと思いました。
筋肉が何でこんなに大きな力が出せるんだろうということ、鉛筆の太さで5kgぐらいの力が出せる、それが疑問でした。(大学2年)
筋肉について研究対象にしました。
スロートレは20年前ぐらいからアイディアとして生まれて、5,6年かけて研究室で実証して世の中に紹介しました。
ゆっくり動かすことで筋肉の中で起こる変化が、強い筋トレと同じような変化が起きます。
筋肉は力を入れると固くなるが、筋肉の中にある血液をぎゅっと絞り出しているような状況になります。

緩めたり、収縮をしたりくりかえすと心臓のポンプのような働きをするわけです。
血液が入ってきにくくする作用は30%ぐらい力を発揮すると起こります。
30%の力を出し続けていると筋肉の中が酸欠状態になって、疲れてくるということが起こります。
筋肉の負荷が軽くても重たい筋トレをやった時と同じような状況に追い込まれるわけです。
毎日やらないほうがいいかもしれません。
筋トレ刺激の次にタンパク質の合成が高まって、筋肉つくりの時間は48時間から72時間続くわけです。
途中でまた刺激を与えてしまうと、タンパク質の合成が抑えられてしまうというデータも出てきています。
1,2日空けるのがちょうどいいと思います。

無理な状態が続いているうちに体調が悪くなったりしました。
多忙な生活を送っていた61歳の時、悪性リンパ腫を発症します。
入院はトータルで3か月ぐらいでした。
治療期間は半年ありました。
80kgあった体重は6kgになってしまいました。
足腰の衰えを凄く感じました。
今は77,8kgに戻りました。
専門的なトレーニングは再開していません。
筋肉は一度鍛えると鍛えたときの状況を記憶しているようなメカニズム(マッスルメモリー)があって、動かし始めると戻しやすいということがあるようです。

病気をして新たに考えるようになったのは、毎朝目覚めたときに「あー生きている」と実感することです。
生きていることに感謝をすることから一日が始まるみたいなことがあって、大きな発見かと思います。
反省点は体力を過信して無理をしてきたことはいけないと思いました。
生活のスタイルも無理をしないように変わってきました。
老化の仕組みもよくわかっていません。
歳をとっても身体を動かせるということは、筋肉は一つはのキーポイントであることは確かなことだと思います。
健康寿命を保つには足腰の筋肉にも重要ですが、加齢の影響を受けやすいこともあります。
糖質、脂質をエネルギーとして使う機能も落ちてくるので、糖尿病とか、生活習慣病の原因になったりもするわけです。

30歳を過ぎると太もも、お尻の筋肉は落ち始めます。
スロースクワットがいいと思います。
椅子に座った状態から4秒かかってゆっくり立ち上がりはじめ、膝がまだ曲がった状態から4秒かけてゆっくっり椅子に座る。
太極拳の動きもゆっくりで、それに似ています。
「よいしょ」という声を出すことは体幹を緊張させるので、立ち上がる時には「よいしょ」の代わりに息を吐いていただき、座るときに息を吸っていただく、そういう呼吸法がいいと思います。
回数は人によって違うので太ももが張ったような状態いなるまでやるといいと思います。
お腹周辺を鍛えるのはやり易いのが、椅子に浅く座って背筋を伸ばして息を吐きながら背中を丸めて4秒かけて後ろに倒してゆきます。
息を吸いながら4秒かけてもとの姿勢に戻ります。
段々筋肉を使わない世の中になってきているが、筋肉を使わないと不都合がいろいろ出てきていて、筋肉を衰えさせないような方向性が必要になってきていると思います。













2020年5月4日月曜日

穂村 弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】歌人 馬場あき子

穂村 弘(歌人)           ・【ほむほむのふむふむ】歌人 馬場あき子
夫は歌人の岩田正さんは1924年東京出身。
早稲田大学在学中に早稲田大学短歌会に入り、昭和21年「まひる野」の創刊に参加します。
窪田空穂、窪田章一郎に師事。
卒業後は教員となり定年まで勤めました。
馬場さんとは昭和27年に結婚、昭和53年馬場あき子さんとともに歌誌「かりん」を創刊。
短歌評論、実作に活躍を続け2011年第34回現代短歌大賞受賞、2017年93歳で亡くなる。

馬場:「岩田君」、「馬場君」とお互いに呼んでいました。
穂村 弘さんが岩田正さんの作品を選んだ句
「この曲のここ美しといひし我に目を閉ぢしまま君はうなづく」    岩田正
穂村:岩田さんは音楽が好きでした。二人で音楽を聴いていて、目に浮かびます。
馬場:飽き飽きするぐらい聞かされました。(笑い)

イヴ・モンタンの枯葉愛して三十年妻を愛して三十五年 」      岩田正
穂村:この歌は衝撃的でした。
馬場:シャンソンも好きでした。
穂村:古典を愛する少女とモダンボーイの出会いという感じですね。
大正世代の気風ですね。

「魘されし理由はをとめ救わむとして斬られしと妻には言へず」     岩田正
穂村:岩田さんは夢を見たんですね。
時代劇風な感じで、守ろうとして悪者に逆に切られてしまって、飛び起きて、馬場さんがどうしたのと聞いてもその理由をうまく言えない、といった感じです。
馬場:追われたりするとか、年中よく夢を見る人でした。

*「枯葉」 歌:イヴ・モンタン

『水中翼船炎上中』より馬場さん選句
「天皇は死んでゆきたりさいごまで贔屓(ひいき)の力士をあかすことなく」穂村 弘
馬場:天皇の寂しさ、孤独、一人ぼっちの何かが出ていて、天皇挽歌としていい歌だと思います。
人間の心にあるものを言わないで亡くなっていったというその孤独、天皇の孤独感をとてもよく出していると思います。
穂村:戦争とかに関することなども含めて言えない孤独感の歌ですね。

「 ザリガニが一匹半になっちゃった バケツは匂う夏の陽の下」      穂村 弘
馬場:残酷なものです。
穂村:子どものころザリガニをとってバケツに入れて置いたら、共食いなんて言う概念が知らなくて、大変なショックを受けました。
馬場:小さいことは身体が弱くてしょっちゅう寝いていて、ある時に「みみずくのお医者さん」という絵本を買ってもらって、森の動物を全部なおしてあげることがいいなあと思っていました。
戦後の焼け野原に秋に虫が飛び込んできて、どうやって生きられるのだろうと思って虫が好きになりました。

「人殺しの血を吸った蚊がいずこかをただよう空の青き光よ」?     穂村 弘
馬場:これ凄いですよね。 この世の中どこにどういう怖さがあるのかわからない。
怖さを知らないから生きていられるので、いつどんなところに怖いものがあるかわからないということを感じさせる歌です。

馬場あき子さんの作品の穂村 弘さんの選句
「猫茶碗洗ひおきしが夜更けて帰りし夫が飯をたべたり」        馬場あき子
穂村:猫の茶碗だけれどまあいいかな、といったところだと思います。
馬場:猫は飼っていないけれど、私たちは戦争を知っている世代なんで器に対して鈍感なんです。
ものに対する構わなさがあります。

「夫(つま)のきみ死にてゐし風呂に今宵入る六十年を越えて 夫婦たりにし」馬場あき子
穂村:岩田さんはお風呂で亡くなったが、一緒にいるみたいな感じがこの歌から伝わってきている。
馬場:夫が入ったお風呂に入ることが鎮魂だと思ってはいるんです。
これに入ることが自分の愛だという感じがありました。

「衛星のごとく 互 ( かたみ ) にありたるをきみ流星となりて飛びゆく」  馬場あき子
穂村:互いが互いを回る衛星のように60年を越えて生きてきたが、ある夜突然君は流星になって飛び去って行ってしまった、という歌ですね。
馬場:互いに理解しあって、お互いに衛星でした。
突然流星になって行っちゃって衛星が一つ残ったが、一人で耐えられるよという気分です。

「ゆめと知れど行く先もなく帰路もなき宇宙駅 ありわれが佇む 」    馬場あき子
穂村:絶対的なさびしさの歌だと思います。
宇宙駅という発想がすごい、銀河鉄道のような駅。
馬場:実はこういう夢をしょっちゅう見ます。
常に一人なんです、行くところも帰るところもない。

「亡きひとよしんしんとろりゆつくりと眠つてください雪の夜です」  馬場あき子
馬場:夢の中でおびえている人だったので、もうゆっくり寝てほしいという気持ちが一つあったし、皆さんには強い、洒落た老人を演じていたけれど、多分おびえていたと思います。
穂村:口語体で文体の幅が広い。

リスナーからの作品
「こんなにも失望ていようとも止まることなく伸びる前髪」?
「ちょうだいのある猫九歳初めての猫の友達出来た春の日」?
「桜散り二人で歳をとってゆく今日もあそこのけんぱ(?)にしよう」 ?

*?マークのある短歌は文字の違い、誤字があるかもしれません。












2020年5月2日土曜日

木津川 計(立命館大学名誉教授 上方芸能評論家)・「大阪の文化を見つめて65年(2)

木津川 計(立命館大学名誉教授 上方芸能評論家)・「大阪の文化を見つめて65年(2)
1968年(昭和43年)大阪に雑誌「上方芸能」を創刊。
48年にわたって発行にかかわってきたのが木津川さんです。
1986年からは京都の立命館大学で教授として教鞭を取り、若い世代に落語、歌舞伎、文楽、人形浄瑠璃、上方舞などの味わいを語り伝えてきました。
一方雑誌の出版は苦しい経営が続きました。
発行を断念しようとした時には、原稿料なしで連載を書いてくれた著名な落語家もいたといいます。
2回目は「~雑誌『上方芸能』を支えた人々」です。

50歳の時に大学教授になってほしいとのことでした。
立命館大学でした。
民間から大学教授へ行くというのは当時としては珍しいことでした。
新聞5大誌に大きく取り上げられました。
語りが好きで落語、浪曲などいろいろ真似をしていましたので、学生に対していろいろな語りがけをしました。
400人の大教室が満杯になり、入れない学生は廊下にあふれたりしました。
講義内容はいろいろ知恵を絞って語り掛けました。
上方芸能、大阪文化の両方を発展させるために、現代に伝統をどう共存させるか、追及していかないと深みが出てこないので、これが主要なテーマにいろんな例証をもとに語り掛けました。
上方芸能の落語、文楽、浄瑠璃の一節などをうなったり、なぞったりもしました。
40代の終わりから常磐津の語りをやったのが、自分自身大変プラスになりました。
今の一人語りにも生きてきました。

雑誌『上方芸能』は200号で終刊になりました。
黒字には一回もなりませんでした。
定期の読者が700人ぐらい、2000部ぐらい発行してきました。
48年間赤字ばっかりでした。
教授の収入でつぎ込んできました。
80歳の時、200号で終刊となりました。(2016年)
詩人の小野 十三郎杉山平一、漫才育ての親と言われた秋田 實、作家の藤本義一、落語の人間国宝桂米朝、文楽の人間国宝の竹本住大夫、歌舞伎の人間国宝片岡仁左衛門などいろんな人たちが『上方芸能』を応援してくれました。
原稿を書いてくれたり、コメントしてくれて、価値を高めてくれました。
トータルで1000人を超えていると思います。
原稿料は払えなかったが、書いてくれました。

50号を1977年2月に迎えて、100号への道しるべとしていろんな方からコメントをいただきましたが、先代の片岡仁左衛門さんから応援してくれる旨の文章をいただきうれしかったです。
そのほか70人ぐらいの人たちから協力していこうというコメントをいただきました。
やめようと思ったときに、桂米朝さんからの連載はありがたかったです。
50号から55回「上方落語ノート」という連載になりました。(33年間ただの原稿で)
竹本住大夫さんからは大阪弁の誇りを教えられました。
ドナルド・キーンさんが奥の細道のなかで芭蕉は言葉が通じなく困ったとは一行も書いていないということに気付いて、早稲田大学の暉峻 康隆(てるおか やすたか)教授に聞いたところ、たぶん大阪弁で話したんだろうということでした。
大阪に商人が全国から来ていて大阪弁が全国にも広がり、大阪弁が標準語的な役割を果たすわけです。
大阪が首都になっていれば大阪弁が標準語になっていたと思います。
地方の文化、芸能とその地方の言葉は一体なんですね、だから言葉を大事にしてゆくということが大事です。

藤本義一さんはどんなに忙しい時でも、必ず応えてくれました。
この人からは在野精神を教わったと思います。
兎に角現場第一主義の人で、街中で大阪文化、職人文化の継続発展に力を尽くした人でした。
詩人の小野 十三郎さんからは思想的な影響を非常に受けました。
批判精神にあふれていて、抒情的リリシズムからの脱却の論考でずいぶん話題になった方です。
15年戦争を支えていた精神的な柱は抒情的リリシズム、美文で戦意を高揚させる、戦争をたたえる、敵愾心を育っていく、勝利への確信を国民に与えるということで、非常に美しい言葉が生み出されてゆく。
批判精神を人間は失ってはならないということを小野さんは戦争中の痛い国民の体験から批評精神の大事さを説いていく、小野さんから影響を受けました。
『上方芸能』は重たい荷物で、くじけそうになった時に小野さんが言ってくれた「軽く翼を水平に泳がせて重たい荷物を運ぼう」に励まされました。
ぼやいたり協力を求めたりせずに、この48年間の赤字にも拘わらず続けられたのはこの言葉のお陰でした。

精神の誇りを持ちたいと思て『上方芸能』を起こしましたが、ジャンルが多くて、雑誌を出しながら勉強していきました。
雑誌『上方芸能』を認めてくれたのが、日本文芸振興会(文芸春秋の中にある)が菊池寛賞を与えてくれのはびっくりしました。
上方落語は『上方芸能』を出した当時は26,7人でしたが、今は10倍ぐらいになりました。
文楽、浪曲、講談なども頑張っています。


























2020年5月1日金曜日

2020年4月29日水曜日

山中麻須美(英国キュー王立植物園公認植物画家)・「植物のいのちと響きあう(1)」

山中麻須美(英国キュー王立植物園公認植物画家)・「植物のいのちと響きあう(1)」
ユネスコ世界遺産に登録されているイギリスのキュー王立植物園、通称キューガーデンといいますが、5人の公認植物画家がいます。
山中麻須美さんはその中のおひとりでキューガーデン初めての日本人の公認植物画家です。
山中さんはイギリス在住31年、日本人初のキュー王立植物園公認植物画家として2011年には英国国立園芸協会のボタニカルアートショーで金賞を受賞されました。
2016年に日本の植物だけの日本の植物画家によるボタニカルアート展を企画立案して、キュー植物園でその展覧会を開催し 大変好評だったということです。
その展覧会を日本でも開催したいと奔走して2017年に実現し、24万人がその展覧会を訪れました。
展覧会の開催に合わせて来日された山中さんに植物画家になった経緯、植物園に公認植物画家がいるという、どういうことなのか伺いました。

5人の公認植物画家がいますが、植物学者の方に直接頼まれて、文献などに使う科学的な植物画を描いています。
5人のうち2人はもともと植物学者です、たまたま絵がうまかったので植物画家になった方たちで、残りの二人はご主人がキューガーデンの植物学者で奥様が絵を描いています。
私だけが違っています。
200年、300年前に大陸から持ち帰った新しい植物を、あるいは新大陸へ連れて行って植物だけではなく動物、魚、昆虫、民族などをカメラ代わりに正確に記載するために学術的に描いたのが博物画で、その中の植物を描いたのが植物画のスタートだと思います。
写真が発明された後も、続きました。
花びら、雄しべ雌しべなどいろんな部分を分解して入れていました。
時間経過的な変化のことも意図的に入れています。
カメラだけではできない内容を描き入れています。
花なども実物大で描きます。

基本は科学的に正しいこと、実物大で描かれていること。
植物学者と二人三脚で描いているアーティストは非常に少なくなってしました。
水彩で描いたり、ペンで描く場合があります。
顕微鏡を使って描くときもありますが、それはボタニカルアートではなく、サイエンティフィックイラストレーションといわれています。
サイエンティフィックイラストレーションは動物の分解図、昆虫の分解図もサイエンティフィックイラストレーションであり必ず植物というわけではありません。
発見された新しい植物を通常描きます。
5人のうち私だけは比較的自由に描いています。
文献用も頼まれて描きますが、キューガーデンを最初に作ったジョージ三世のお母さんだったオーガスター皇太子妃が植えた木が6本残っています。
他を含めて重要な木が13本指定されています。


ヒマラヤが原産のインドトチノキがあり、そのインドトチノキを一年を通して描いたシリーズでGoldメダルを受賞しました。
そのインドトチノキの木が13本の中の一本だということに気が付きました。
そうして13本を描くことにして、全部描けたら展示会をしてほしいと言われました。
めったに来ない台風で13本の中の一本が大きく折れて姿を変えてしまいました。
もう一本も折れてしまって、冗談で13本の木に頼まれて描いていたといっていましたが、折れる前の姿を描けていて、ほんとうになってしまいました。
キューガーデンの歴史としての木をそのままの形で描き残すことも大事だと思って、みなさんとは違った形で描いています。
いろんなタイプの人がそれぞれ描いています。
イギリスのファッションデザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッドが標本を元にして描いた絵を見て、テキスタイルを作らせてほしいと言ってきました。
ドレスを作ってファッションショーにデビューしたんです。
私の場合には木を描くときには原寸ではなく縮尺サイズで描いています。
花、葉っぱ、実などはボタニカルアートとして正確に科学的に描いています。
2015年に個展を開きました。

私はもともと食器のデザイナーをしていました。
マークス&スペンサーと知り合いになり、イギリスに来ないかと誘われました。
30歳ちょっと前ぐらいのときで、イギリスに行きました。
一か月の予定だったが、だんだん伸びていってそれが5年になり永住権が取れて、一旦フリーランスになり食器デザイナーとして仕事をしていましたが、44歳の時に乳がんを患いました。
手術後、抗がん剤治療、放射線治療をあわせて7か月行いました。
仕事もできない状態でいて、リハビリとして右手を動かすために送られてきた花を描こうと思って植物画を始めました。
放射線治療をするときに毎日塗ってくださいと言われたのが、アロエ100%のクリームでした。
アロエのパワーの凄さに気がつきまして、病院で治療を受けている間に植物について考えさせられました。
気が付かなかったが、空気も全部植物が作ってくれているわけです。

植物を描いていると元気になり、ボタニカルアートについての知識をいろいろ本から学びました。
正しい植物画を習いたいと思って、退院後キューガーデンのアーティスト、パンドラ•セラーズさんにボタニカルアートの指導を受けました。
医師の先生からは再発の可能性は50%といわれました。
2年後に転移があり子宮と卵巣の全摘手術を受けました。
もしかすると自分の人生が短くなるかもしれないと思って、家も売って、キューガーデンに毎週通い始めました。
自分が地球からいなくなってしまうのではないかと考えたときに、地球と対話をするようになりました。
残された時間を自分のやりたいことをやってみようと、地球のために、自然とのかかわりに少しでも貢献できることができるのではないのだろうかという風に思って、できるだけ科学的な絵を描きたいと思いました。

キューガーデンには20万枚以上の植物があります。
図書館に通って勉強していましたが、図書館が新しくなり絵を入れている箱の移し替え作業がありその作業の仕事をしているうちにいろんな作業を任されるようになりました。
絵を描いているうちに植物学者の人がこの植物を描いてみてくれないかと言ってくるようになりました。
たまたまキューガーデンのアーティストに空席ができまして、植物学者からの仕事も引き受けるようになりました。
キューガーデンにいって10年ちょっとになりますが、最初の3年間ぐらいは不法滞在者だったと思います。
2007年に後任になりました。
常設展示場があり企画展があり、日本人ばっかりの展示がしたいと思っていましたが、日本の植物が多くイギリス、ヨーロッパには入ってきていましたので、日本の植物の美しさを知ってもらいたいと思いました。
小石川植物園の加藤竹斎の絵、高知の牧野植物園の牧野富太郎博士の原画、練馬の牧野記念館から服部雪斎の絵だとか江戸から明治にかけての歴史的な日本の植物画を展示させていたいただき、併せて現代作家の植物画を展示して対比が面白いと言われて高い評価を得ました。


















2020年4月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】「安部公房」

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】「安部公房
芥川賞、読売文学賞、フランス最優秀外国文学賞などを受賞し、ノーベル文学賞に最も近い作家と言われた安部公房の絶望名言。
「弱者への愛には何時だって殺意が込められている。」  安部公房
頭木:13年間難病のため病院に入院しているか自宅にひきこももっていた時期がありました。
免疫力は今も落ちていて、コロナウイルスに対しては怖いです。
安部公房の代表作には「砂の女」、「箱男」、「密会」などがあります。
以前から安部公房は大好きでした。
安部公房は1924年生まれ。

「弱者への愛には何時だって殺意が込められている。」という言葉はいろいろな作品の中で何回も使っています。
「弱者を憐れみながらもそれを殺したいという願望、つまり弱者を排除したい、強者だけが残るという事なんだね。」と安部公房は説明している。
これだけだと弱肉強食ということのように感じる。
ウサギとライオンに例えるとウサギが圧倒的に多いとウサギが強者となりライオンは弱者となる。
個としての強者と社会的な強者は違って、社会的な強者とは多数派のことです。
「現実の社会関係の中では必ず多数派が強者なんだ。
平均化され体制の中に組み込まれやすいものがむしろ強者であって、はみ出し者がむしろ弱者とみなされる。」  安部公房
「共同体に復帰したい、共同体の中に逆らわずに引き返して、決められた場所の穴の形に自分を合わせたいと、強者願望とは意外に似通っているんだね。」  安部公房
社会に適応したいという気持ちはだれにもある。
一生懸命適応したい強者になろうとしているときに、適応しようとしていないもの、できない者に対して苛立たしい存在になる。
多数派にみんなでなろうというときに、その輪を乱すものに対して排除したくなる。

「例えば発明発見などについて考えても弱者が自分の弱い欠落を埋めるための衝動じゃないか。
いい服を例にとってみようか。
非常に体が強健で寒くても平気な奴にはいい服はいらない。
すぐにブルブルっと来る奴が寒さしのぎに衣服を発明する。
そういう弱者の組織力というものが社会を展開し、構築してゆくわけだ。
強者の論理に対しての弱者の復権、人間の歴史というものは根本的にはそうなんだね。
逆に言えば弱者の或る部分が強者に転化していく歴史でもあったわけだ。
よくよく見るとそこに踏まえている一つの殺意みたいなものが、我々の未来に対する希望みたいなものに水を差している部分が非常に多いわけだ。」  安部公房
弱者がその生きずらさ故に何とかしなければと社会を改革してゆくわけですが、弱者を切り捨ててしまったら、社会の進歩もとまってしまうわけです。
少数の弱いものは切り捨てても仕方がないという、そういう言葉の背後には安部公房のいうような殺意が少し込められているんではないかと思います。
でもそういう殺意は未来への希望に水を差すことになる。

「人類の歴史は弱者の生存権の拡張だった。
社会の能力が増大すればするほど、より多くの弱者を社会の中に取り込んできた。
弱者を如何に多く取り込むかが文明の尺度だったとも言える。」 安部公房

「ふと未来が今までのように単なる青写真ではなく、現在から独立した意志を持つ凶暴な生き物のように思われた。」    SF長編小説の「第四間氷期」の一節 安部公房
未来は日常の連続の先にあるのではなくて、もっと断絶したものではないか、というテーマです。
未来を生きてきた延長線上に描いてきたが、未来は延長線上ではなくて、ある時突然見なれない受け入れがたい未来が不意に現れるんじゃないかと、そういうことを言っている。
今の私たちには納得いくことではないでしょうか。
いま世界中であわてています。

「未来は個人の願望から類推のできないほど断絶したものであり、しかもその断絶の向こうに現実の我々を否定するものとして現れ、しかもそれに対する責任を負う断絶した未来に責任を負う形以外には、未来に関わり合いを持てないということなのです。」安部公房
理解できないほうが幸せで、断絶した未来ということを理解できるようになってしまった今の私たちのほうがちょっと悲しいです。

「未来は日常的連続間で有罪の宣告をする。」     安部公房
まあまあこのまま何とかやっていけるだろうとたかをくくっていた私たちも、今は有罪を宣告されてしまっている。

「失明宣告を受けた人間が最後に見る目で街を描写すること。」   安部公房
山田太一の「川の向こうで人が呼ぶ」という戯曲で、もう死ぬかもと思ってマンションの屋上から夕暮れの街を眺めるシーンで
「どうってことのない街並みの灯りなのに、文字通り胸がふるえるぐらい感動した。
どこかで子どもの泣く声がする。
遠くで誰かを呼ぶ声がする。
車の発進音、見降ろすと小さく人が歩いている。
みんななんだか少し急ぎ足だ。
あーその何もかもが懐かしくて悲しくて綺麗だった。
その興奮は翌日も続いた。
何を見てもよかった。
歩道の石の間から草が生えているのに物凄く感動したり、車の排気ガスの臭いまでもうじき別れると思えば懐かしいんだ。」
もう見られないかもと思って見るということは、こういうことだと思います。

萩原朔太郎の「病床生活からの一発見」という随筆の一節。
「子規の歌は長い間私に取っての謎であった。
何のために何の意味であんな無味平坦なただ事の詩を作るのか。
作者に取ってそれが何の詩情に値するのかということがいくら考えても疑問であった。
ところがこの病気の間初めてようやくそれがわかった。
私は天井に止まる蠅を一時間も面白く眺めていた。
床に差した山吹の花を終日飽きずに眺めていた。
実につまらない事、平凡無味なくだらないことが、すべて興味や詩情を誘惑する。
あの一室に閉じこもって長い病床生活をしていた子規が、こうした平坦無味な歌を作ったことが、はじめて私に了解された。」   萩原朔太郎
ずーっと寝ていることでものの見方が変わるわけですね。

今は世のみんながある程度命の危険を感じて家にこもっていたりしますが、安部公房、山田太一、が書いているように、世の中が美しく見えたり、正岡子規、萩原朔太郎のように部屋の中を見つめているだけで感動したり、そういう境地になったりすることはだれでもできる事かもしれません。
今までと違う見方で周囲を見てみるのもいいんじゃないかと思います。
安部公房はバッハが大好きで「バッハにはなによりも精神の塗り薬になってくれる優しさがある。」と言っています。
*バッハ 「ブランデンブルク協奏曲第五番ニ長調」

「選ぶ道がなければ迷うこともない。
私は嫌になるほど自由だった。」  「鞄」という短編小説の最後の文章 安部公房
ある青年が大きな鞄を持って雇ってほしいと言ってくる。
「この鞄のせいでしょうねえ。 
ただ歩いているだけなら楽に運べるのですが、一寸でも階段のある坂に来るともう駄目なんです。
お陰で運ぶことのできる道がおのずから制約されていしまうわけですね。
鞄の重さが僕の行き先を決めてしまうのです。」    安部公房
私の場合はこの鞄が病気だと思いました。
難病という鞄を持ったことで、恐ろしいほど限られました。
自分で道を選ぶのではなくて、病気という鞄を抱えてても進める道しかなかった。

「ユープケッチャの説明をしておきますと、これは甲虫の一種で足が退化し、自由に移動することができない。
代わりに自分の排便を餌にして、グルグル小さな円を描いて生きているわけです。
一日一回回るので時計虫とも言われている。  安部公房
ユープケッチャは安部公房「方舟さくら丸」という小説に出てくる安部公房が考えた架空の虫です。
自給自足のできる虫。
部屋の中にいて動かずに食べていける、これは一つの理想で、煩わしい人間関係もなく好きでもない仕事をするとか、そういったことから一切解放される。
「これは実際にはありえないんだけれど、僕らの中にはこういうものに対するあこがれというか、そう言う生き方をできればしたいと思うんだよね。
一方で同時に今度は外に拡張してゆく自己拡張の願望が自動的に対立物として出てくるんだ。」    安部公房

今はみんなが引きこもっているが、外に出たくなる。
今後は人に触れ合うという渇望が高まって来ると思います。
だんだん気晴らしとか癒しとかではやっていけなくなる時が来ます。
そういう時に重い文学が必要になってきます。
耐えきれなくなった時には重いものを読むと逆にそういうものがいいんです。
ドストエフスキーなどいざ読んでみるとはまります。
もやもやしていたものが本を通してくっきり見えてくる事もあります。
















2020年4月26日日曜日

池内響(オペラ歌手)           ・【夜明けのオペラ】「世界に一つの自分という楽器を磨きたい」

池内響(オペラ歌手)・【夜明けのオペラ】「世界に一つの自分という楽器を磨きたい」
新しく始まったコーナー  【夜明けのオペラ】
31歳、東京芸術大学後大学院オペラ科を終了、第25回宝塚ベガ音楽コンクールで第一位に入賞、その後2015年日生劇場主催NISSAY OPERA2015《ドン・ジョヴァンニ》にてタイトルロール、2017年2017《ラ・ボエーム》にてショナールを演じました。
2018年からはイタリアで研鑽を積み、その年G.B.ルビーニ国際コンクール、オルテ市声楽コンクールでそれぞれ1位を獲得、去年ミラノで行われた第10回サルヴァトーレ・リチートラ声楽コンクールで第1位に選ばれています。

日本には年に2回ほど帰ってきています。
今年は東京でリサイタルをしました。
日本歌曲が好きです。
*「星巡りの歌」 作詞、作曲:宮沢賢治 歌:池内響
あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の  つばさ
あをいめだまの 小いぬ、
ひかりのへびの とぐろ。

オリオンは高く うたひ
つゆとしもとを おとす、
アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち。

大ぐまのあしを きたに
五つのばした  ところ。
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて。

両親が音楽にかかわる仕事をしていたので、家庭内にも音楽があったので、音楽が好きでした。
ピアノ、フルートなども習いましたが、最終的には歌でした。
声楽を勉強しようと思ったのが高校1年生の時に、母親からいい声をしているといわれて、校歌を歌う試験で音楽の先生にも認められました。
高校生に向けた滝廉太郎の記念の全国高等学校声楽コンクールがあり、出てみないかといわれて、そこから声楽の先生につきました。
3年生の時に1位をいただいて瀧廉太郎記念全国高等学校声楽コンクールに出させていただきまた。
課題曲は瀧廉太郎の「秋の月」を歌いました。
音楽に囲まれた環境で仕事をしたいという思いがありました。
東京芸術大学の学生のコンサートを見に行った時に感動して、大学は東京芸術大学に行くことにしました。

オペラを見に行ったのは大学に入ってからでした。
オペラは嫌いでしたが、オペラができるようにならないといけないからオペラ科に入ったという感じです。
大学院2年生で《ドン・ジョヴァンニ》をやる事になり、プレッシャーを感じながらも良き指導者、同級生たちの助けもあり、カーテンコールがありそこでオペラは楽しいものだと思いました。
そこからオペラをやろうという気持ちがわいてきました。
第25回宝塚ベガ音楽コンクールにて1位、併せて会場審査員特別賞受賞しました。
本物を肌で感じたことがないということがあり、海外に行って自分の五感で直接感じるしかないと思ったのがイタリアに行くきっかけでした。
26歳の時にイタリアに行き、短期留学をして、先生を紹介され、レッスンを受けて、次に長期留学の時にはその先生の所に行きました。
いいめぐりあわせに出会いました。

イタリア語の歌詞を読むレッスンをした後に歌のレッスンがありました。
レッスンだけだとだめだと思ってコンクールにも出ました。
2018年イタリアのオルテ市のコンクールで1位になり、イタリアオペラデビューしました。
うれしかったのはある人の評論に完璧な発音だと評価されて、実った瞬間だと思いました。
第10回サルヴァトーレ・リチートラ声楽コンクールにて1位受賞。
日本では一カ月おきになるような日程が、このコンクールでは初日予選で、2日目の昼がセミファイナル、2日目の晩がファイナルというコンクールでした。
*《ドン・ジョヴァンニ》から「カタログの歌」 歌:池内響
ファイナルに残ったのが10人で回りは重い感じの曲が多くて、楽しくのびのび歌えたらいいなあと思って歌いました。
歌とか表現にも性格は出ると思うし、歌は自分自身からそのまま出すのでいろいろ出易いです。
バリトンですがバリトン歌手ではなくて、池内響という楽器をどんどん磨いていきたいと思っています。





2020年4月24日金曜日

さだまさし(シンガーソングライター・小説家)・ことばの贈りもの

さだまさし(シンガーソングライター・小説家)・ことばの贈りもの
68歳、数々の名曲を世に送り出すだけでなくTV番組のパーソナリティーとしても人気を博しています。
一方でプライベートでは一男一女の父親でもあります。
子育てという日常が自身にどのような影響をあたえたのか、緊急事態宣言が出ている今、親子、家族についてどのように考えているのか伺いました。

不要不急の外出はしないという前提で動ています。
必要最低限の外出はせざるを得ないときはあります。
東日本大震災などで避難所に行きましたが、子どもたちは元気に張り切っています。
子どもたちは両親と一緒にいられるので幸せなんだなあと思いました。
世の中が不安になっている時だから、大事にするということは一つの教えになるかと思います。
曲「緊急事態宣言の夜」地球人同士が戦争している時ではなく、宇宙からの敵をみんなでどうやってやっつけるか、これは戦争だと思っています。
音楽の自由が止められいる、コンサートが止められている。
音楽家は生活できなくなる、平和の上でしか音楽は聴いていただけない脆弱な文化なんだと思い知ったと思います。
音楽が楽しめるような時期を早くするためには、みんなが頑張って乗り越えるしかないと思います。
インフラにかかわる人たち、スーパーの人たちなどは自分たちが働かないと世の中は回っていかない。
医療関係者は命がけで頑張っています。
「頑張れ 頑張れ 病院」の歌詞の後に「頑張れ 頑張れ 子育て」というところがありますが、子育てができる幸福を感じながら、子どもを守るという大切な戦いを生き抜いてほしいと思います。

僕の母が僕の子どもには何時辞めてもいいという前提で音楽を始めましたが、大人になってもやっています。
息子は「大陸」娘は「詠夢」という名前で僕がつけました。
祖母はエンでエムと言っていましたので娘には詠夢という名前にしました。
子どもたちは自然豊かな信州で過ごしました。
子どもには普通は駄目だとは言いました、みんなと一緒ではつまらないからそれはだめだと言っていました。
子どもが僕に言えば何か買ってくれると思うような時期があって、「欲しいんだったら言ってみなさい、それを作るから」と言ったら、「勉強机が欲しい」と言われて、僕は工作が下手でしたが子ども二人分作りました。
なければ作るという発想が大事だと思います、マスクでもそうだと思います。
僕の兄弟は僕だけ音楽をやっていましたし、周りも全部音楽はやっていませんでした。
人と違っているということを自分で認める、そこから自我の目覚めがあったみたいです。
楽器なども上手いから感動するというわけでもなく、下手でも感動するということはあります。
音楽で大事なことはアイデンティティー、声を聴いただけであいつだとわかるのは、宝くじに当たったような感じです。

1991年の曲「息子へ~父からの風~」
*「息子へ~父からの風~」 作詞、作曲、歌:さだまさし
落ち着きのない子だと 言われて育つだろう
俺がそうだった
受験も一度くらい 失敗するだろう
俺がそうだった
きっと女には 結構もてるだろう
俺がそうだったかな
借金なんかも するかもしれない
俺も親父もそうだった
愛する人と別れる苦しみや
憎しみという切ない苦しみや
生きることは辛く恥ずかしいことと
お前も少しずつ覚えてゆくだろう
生まれて来た以上 いつか消えてゆくのだ
それも選んだのだよ

駄目なら駄目で、駄目な自分を笑って認めるようなおおらかさがあるといいですね、なかなか思い通りにならないので。
自分の悪いところは自分が一番わかっているので、この子は自分と同じ欠点を持っていると思えば、叱り方は変わりますね。
幸せはすごく不安定な言葉で、不幸せという言葉と対になって使うんです。
不幸せな人がいないと幸せというのはどういうもの株式会社は判然としない。
幸せは相対的なものだと思います、つまり自分で決める事なんです。
僕は自分でポケットに幸せを持って歩いていると思っています。
取り出せば生きているだけで幸せだと思いますから。
心のポケットを掃除して不平不満を掃き出していって、後に残ったのが幸せですから。
みんなが家にいるということは、いろいろ考える時間を与えられているということですから、自分を解放するにはどんな考え方をしていったら自分が幸せか、楽しいのかまさに幸せと向かい合う時間だと思います。
「コロナショック」は人間と人間を引き離す病気だということを初めて僕が体験するんです。
会えない時期にどう構築していくかだと思います。

「存在理由」グレープ通算46枚目となる2年ぶりオリジナル・ アルバム。
存在理由を簡単に言うと生き甲斐です。
私にとって私はなぜここにいるんだろうということは 他人が決めることではなくて自分が決める事だから生き甲斐です。
駄目な自分も許しちゃおうという提案です。
*「お母さんへ」 作詞、作曲、歌:さだまさし
親が生きているうちに親孝行するのではなくて、親が元気なうちにしなければいけないことかもしれません。
そのためには自分が頑張らないといけないと思います。














2020年4月23日木曜日

平常(人形劇俳優)            ・【私のアート交遊録】「心も体も自由に!」

平常(人形劇俳優)         ・【私のアート交遊録】「心も体も自由に!」
小劇場から大ホールのでの大型人形劇ミュージカルまですべてを一人で演じ分け、演出、脚本、音楽、美術も自らプロデュースし、一人芝居と人形劇を融合させた独自の表現方法を確立しています。
平さんは物心ついたころには、息をする事と同じくらい当たり前に人形劇を見たり演じたりしていたといいます。
三味線奏者であった父と薩摩琵琶奏者の母は文楽や腹話術など息子が興味を持ちそうなあらゆる番組を録画して見せてくれたといいます。
人形と一人遊びをする自分を両親は認めて応援してくれたといいます。
人形が表現の引き出しを次々に開けてくれたという平さんに伺います。

人形劇というものは私にとっては昔から総合芸術です。
文学的な要素、美術的な要素、いろんなもの、音楽、ダンス、舞台芸術のいろんな要素がはいっています。
皆さんが思っているよりもダイナミックなスタイルになっていると思います。
大きいと1000~2000人収容できるホールで上演しますし、10トントラックも出して大掛かりな人形劇です。
いろんな感情が一人の人間にはあると思います。
一人の人間がいろんな役をやる事によって見ている人、一人一人がいろんな感情に気が付いてもらえるきっかけになってもらえればいいと思っています。
この物語を取り組みたいと思ったときに、完成した舞台が色から形から音楽から全部頭の中にあり、それを具現化してゆくという作業があり自分でやらないと気が済まないんです。
でも今後は演出だけをやることも考えています。
2013,4年ごろから音楽家の人とコラボレーションするようになりました。
北海道では人形劇が一番盛んで、いろんな人と組んでやっていて19歳で上京してから10何年間は一人でやってきました。

レパートリーは広くて、文学作品が大好きで最も多く上演しているのが寺山修司さんの戯曲「毛皮のマリー」で新国立劇場ほか各地で上演させてもらっています。
水上勉さんの「はなれ瞽女おりん」、シェークスピアの「ハムレット」、オスカーワイルドの「サロメ」、泉鏡花の「天守物語」などが数多く上演されています。
「サロメ」などもそうですが、人形がやる事によって人のイマジネーションを上手に刺激しながら今まで感じなかった、見えなかった想像の扉が開かれる。
サン=テグジュペリの「星の王子さま」は大人にこそ読んでもらいたかったのではないかと思います。
小ども向けもいろいろやっています。
道を歩いていてもいろんな作品が頭の中をグルグルしています。

生まれた時から人形劇が好きでした、呼吸することと一緒でした。
身の回りのものを握って感情表現していたと両親は言っていました。
父はフラワーデザイナーから金属工芸家になって津軽三味線奏者になって、そのころ生まれました。
母はピアノを弾いて薩摩琵琶奏者になったころ私が生まれました。
家の中に音楽があふれていて、日替わりでいろんな楽器奏者が家に来ました。
10歳になっても人形が大好きで精神的に遅れていると先生も心配していました。
母親は肯定的にとらえていました。
高校卒業する時には進路については物凄く悩みましたが、ある人から「そんなに自分でやりたいことがあるなら旗揚げしてしまえば」と言われて、それがきっかけになりました。
上京してアルバイトをしながら生活をしなければならず、一時人形劇が嫌いになりましたが、母親から電話があり、「よかったね嫌いになって、嫌いになってからが本物なのよ」と言われました。
やる気が芽生えて事務所の社長さんと出会って、人形劇で生計が立てられるようになりました。(23歳)

社会にどういう風に還元ができるのかとか、どういう風に人の役に立てられるのかとか、自分の考えも整理されていきました。
そのころ10作品以上レパートリーがあり「毛皮のマリー」もやっていました。
小学生の時に映画に出たことがあり、佐藤浩市さんが主演で僕がその息子役で、その映画の助監督さんが寺山修司さんの義理の弟さん(森崎偏陸さん)で私の才能を認めてくれました。
義理の弟さんの家(寺山修司さんの母親寺山はつさんが住んでいた家)に3年間下宿していました。
そこには寺山修司さんの資料などがいっぱいありました。
2003年1月に「毛皮のマリー」の本に吸い寄せられて、頭の中に演技プラン、演出プランがバーッと浮かんで上演することができるようになりました。
「星の王子さま」に出てくる言葉で「物事の一番大切な部分は目には見えない」というセリフがありますが、まさにそうだと思いました。
誰かがこうしたいと思ったときに、周りが背中を押す、子どもは自分の力ではお膳立てができないので、親とか周りがお膳立てすることが必要だと思います。
文楽などを録画して見せてくれたり、親が創意工夫していろんな事をやってくれました。

順風満帆というわけではなくて、周りの支えがあって、一人ではやめていたと思います。
人形劇を広めてゆくためには、時間が限られているので何を選択してやっていったらいいのか今でも悩んでいます。
一人で10役、20役とやるわけで若いころは大丈夫でしたが、今では公演の後はぐったりしてしまいます。
体調管理が仕事の9割といった感じです。
血行を良くするために身体を温めたり、身体を伸ばしたり、栄養管理、食べ物も気を付けています。
劇場は心のレストランと思っています、心に栄養を与える。
子どもさんたちとの触れ合い、出会いを大切にしています。
大人の方には大人の想像力をどれだけ引き出せるか意識しながら、人形の顔は変わらないが、見ている人の心が人形の顔を悲しく見えたり優しく見えたり変えてくれる。
子どもたちが家に帰って同じものを作ってくれたりするので、段ボール人形劇など身近な素材を使うのもそのこだわりです。
想像することの面白さ,すばらしさ、楽しさを子どもたちに伝えたいという思いがあります。

大人の人形劇は愛,死をテーマにします。
人の命ははかないもので、その中で何をして生きるのか、何を支えに生きるのかということが伝えたいテーマになってきています。
どうやって人形劇を普及させてゆくのか、まだ答えはないが普及活動はこれからの大事な仕事になってゆくのかなあと思っていて、自分が死んでからも人の役に立ちたいという思いがあり、書くこと、演出など裏方の仕事を大事にしたいと思います。
是非ヴェートーベンの交響曲第6番「田園」の全楽章を聞いていただきたいと思います。