2015年3月31日火曜日

天満敦子(バイオリニスト)     ・被災地にバイオリンの音色を届け続けて(H27.1.20放送)

天満敦子(バイオリニスト)   ・被災地にバイオリンの音色を届け続けて(H27.1.20放送)
国際的に活躍しています。5歳からバイオリンを始め、NHKのバイオリンの稽古で江藤 俊哉さんに才能を見いだされ、東京芸術大学の大学院を修了します。
在学中に日本音楽コンクール第一位、ロン=ティボー国際コンクール特別銀賞を受賞、1993年にルーマニア夭折の作曲家チプリアン・ポルムベスクの「望郷のバラード」を日本に紹介し、「望郷のバラード」はクラシック界異例の大ヒットと成ります。 
天満さんは2011年の東日本大震災以後は定期的に東北を訪れて演奏活動を続けてきました。
お母様の故郷は相馬という天満さん、被災地に寄せる思いを伺います。

南相馬に住んでいた親せきが4人流されて不明になり、今も判りません。
亡くなった4人のうちの一人が、おばに当たるが私が生まれた時に、東京の住まいに子守りみたいに来てくれて、3歳まで一緒にいて育ててくれた人です。
叔母は凄く肥っている人で、第二の母よ、とその叔母は言っていました。
3カ月ぐらいしたときにバイオリンを弾いていたときに、急に耳の中でゴーっと凄い音がして、プールにドボンと入った時の様な耳鳴りとは違う感じが数秒あり、おばちゃんが水の中から呼んでいるのかなと思った。
目からうろこが落ちるのと一緒でストンと気分が落ち着いた、その瞬間でした。

被災地コンサートがあちこちで沢山あって、わたしには声がかからなくて、私は行動する事よりも、バイオリンを弾きたいと思って、どこでもいいから私のバイオリンの音を鳴らしたいと思っていました。
最初、3か月後の6月11日塩釜市に来ました。 3か月後慰霊祭
ジュピター、望郷のバラード、タイスの瞑想曲の3曲だったと思います。 3曲を演奏しました。
演奏では結構数は多く行きました。
無伴奏だったら一人で出かけられるので、丁度日本の曲にも興味が有った時期にあって、レパートリーとしていいものがもっていることができましたので、それを演奏できました。
「故郷」 2012年にCD発売した。

相馬は海が有るので、魚はおいしい、のり、野菜も、米も果物も美味しいし、こんな全部そろっているところは他にはないと母は言っていました。
見た目は、土盛りとか、ビルも立て直しているし、復興しているようですが、たんぼとか、海の近くに行くとまだいろいろ物が残っていて、生々しくて、まだ入れない区域が有って、そこはゴーストタウンになっていて、時間が止まったというか、カーテンが半開きになっていて、逃げたそのままの状況になっています。
そういう光景を見ると切なくなります。
CD、BGMではなく、生の演奏を聞くというその瞬間が、弾いている時に求められていると感じた、皆さんが聞いている 耳も目も全部私を見ているという風に思って、求められていると感じながら弾いたのは、今回の被災地に行って弾いた時が初めてでした。
バイオリンを弾いていてよかったと思った瞬間でした。 今でも忘れられない。

段々整えられたところで弾くようには成りましたが、本当はもっと間直に弾きたいと思っています。
世界の子供のためのボランティアに参加して演奏している。
子供達、大人にしても私の音を求めているし、私も今このためにバイオリンをいままで弾いて勉強してきたのではないかと思います。 凄い喜び。
しゃべりの代わりになる様な、私のバイオリンがそのような音になっていくんです。
自分の気持ちが素直になれる。
私のストラディヴァリウスも本当に熱心に良く奏でます、イタリア人なのに求められている音を出している。

バッハは私たちは挑む曲なんですが、バッハを弾きながら、なんかいいことないかなあと祈れるのですが、祈りの対象は具体的ではないんですが、なんかいいことないかなあと思っています。
自分も励ましているし、自分に対して祈っているし、良い事ないかなあと祈りながら、あるよきっとね、と祈りながら私はバッハを弾いています。
無伴奏がいいと思う様になったのは、病院のお見舞いのついでに弾いたとか、外国で子供の病院へ訪ねて弾いたりとか、いつでも弾けるんです。
聞くために病院のロビーで子供が10数人いて、ベッドで寝ていて明日死ぬかもしれないという子供たちがいるという事を聞いて、その子たちの前を通り過ぎて、病室に歩いて行きました。(5~6室回った)
バイオリンを弾いて、それでまた私の道が見つかった様な気がする。
日本の曲にも気が向くようになって、知り合いの作曲の先生方にアレンジをお願いして、皆さんが御存知の曲を私がバイオリン一丁でそこで2,3分でも弾けるようにしてくださいと頼んだのが段々たまって、それがきっかけです。

タイスの瞑想曲、g線上のアリア、ユーモレスクもピアノの伴奏が有っての曲ですが、私の場合はピアノが無くてもあの曲を弾けると思います。
そういうバイオリン弾きになれたのではないかと思っています。
望郷のバラードは私が一番好きなタイプの曲で、弾いていて私が一番気分がいい曲で、大好きです。
それが「城ヶ島の雨」とか「故郷」等につながっていると思います。
ユーモレスクを弾いた時に父は凄いため息をして、やっとこれを弾いてくれたかとなんで今まで弾いてくれなかったといってくれて、ショックだったのと、大変な刺激、きっかけになった。
ユーモレスクを平気で弾ける様になるのに10年ぐらいかかるが、いつも父の嬉しいため息を覚えているから今でもそれが支えになっているし、やさしいものも弾けるようになってきている自分が結構誇らしい。
被災地で喜んでくれる曲は「故郷」「ジュピター」「望郷のバラード」等です。今は最後がジュピターです。












2015年3月28日土曜日

和田 竜(小説家)        ・歴史は地域の宝物

和田 竜(小説家)         ・歴史は地域の宝物
和田さんは1969年大坂に生まれる、その後中学二年まで広島ですごしました。
早稲田大学の政治経済学部を卒業後、番組製作会社などを経て、2003年にオリジナル脚本「忍ぶの城」で城戸賞を受賞、これを小説化した「のぼうの城」で2007年に小説家としてデビューしました。
小説第四作と成る、「村上海賊の娘」では第35回吉川栄治文学新人賞、2014年本屋大賞の大賞を受賞しました。
 
広島の太田川の近くに住む、子供の頃、川や山で遊ぶ。
早稲田大学で演劇をする。 高校の時に映画を見て映画監督になりたいと思っていた。
1年の時は舞台に立って役者などをして、2年の時には脚本を書いて演出なども行った。
脇役もキラッと光る様に書くようにした。
就職する段になって、いろいろ受けたが全部落ちてしまった。
製作会社でドラマをやっているところに拾ってもらって、TVドラマのADを3年ほどやらしてもらった。
脚本家になろうと思って、記者として専門誌のかたわらに、脚本を書き始める。
「忍ぶの城」で木戸賞を受賞する事になる。
ついていたら準入選ぐらいは行くかなと思っていたら、入選というい事で取れたと嬉しかった。

小説家になろうとは全然思っていなかったが、小説も脚本も80%ぐらいは同じだと思っていた。
「村上海賊の娘」で吉川栄治文学新人賞を貰う事になる。
小説を連載してくださいとの蓮絡が有り、従来は脚本を書いてから時間を置いて小説にするようにしていたが、間を置かず小説を書いたのは初めてのことだった。
1年ぐらい取材をやって、脚本書いて、直ぐに連載の時間が来てしまって、2年弱週刊誌に連載して、連載が終わって半年をかけて原稿を直してといった4年半だった。
私は脚本から入った方が書きやすい方ですが、今回良かったのは、あらすじを考えて連載に入るが、一回シナリオにするので、物語の矛盾点、テンポの悪さを解消してしまうので、問題点を解決した後に小説に置き換えてゆくという事で物語を磨きあげることができたと思う。

方言をしっかりしなければいけないと思って、教えてもらったり、調べたりした。
セリフ一つ一つに気を使った。
学生の時は歴史は好きではなかったが、小説を読むようになってから好きになった。
歴史小説から歴史を学んでゆく様なところがあったので、自分が歴史小説を書くんだったら、ちゃんと調べてきちっとしたものを読者に読んでもらわなければいけないだろうと思った。
村上海賊とはどういうものだったのだろうと学ぶ人もいるのだろうと思って、それに答えるように調べました。
戦国時代は際立った人物が多いので、好んで描く様になった。
バトルを書きたいので、村上海賊の場合は木津川口合戦を書きたいと、その関係性はだれ誰と、ニッチな事を書いている様に思われることはよくあります。

史実が有って、それが面白いので文字として書きたいと思います。
村上海賊の場合は戦国時代に大阪湾で海戦が行われたのは題材として魅力的だと思いました。
村上水軍の事はいずれ書きたいと思っていた。
昨年はいんのしまの水軍祭りに参加、浜辺にかがり火をたいて舟にもかがり火を乗せて、見ごたえのあるお祭りです。
敵方の真鍋七五三兵衛 の役で甲冑を付けて参加したが、演劇もやったことが有るので大丈夫だろうと思っていたが巧くセリフを言う事が出来なかった。
歴史は地域の人がまず大事にしていて、これが私にとっても重要なところです。
書物だけでなく、こういうものが昔あって今も祭りとして生きている、という様なことも重要だと思います。

次の作品に対してはまだ何も考えていません。
講演をしていると仕事をしたような感じになってしまって、いけないとは思う。(1年ぐらいになる)







2015年3月25日水曜日

村山 司(東海大学海洋学部教授)   ・イルカと話したい

村山 司(東海大学海洋学部教授)     ・イルカと話したい
山形県生まれ 54歳 高校時代に見た映画がきっかけで、高校生のころからいるかの研究者になることを夢見ていました。
現在は千葉県の鴨川シーワールドのナックと言う白イルカと話すことを目指して研究しています。

いるかの研究者の数 行動知能に関する研究者は少ない。
水族館で実験して知能を調べてという人は私ぐらいしかいません。
高校時代に映画(「いるかの日」 1973年アメリカ映画))をTVで見たのがきっかけで、この道に入ることになった。
研究者といるかが会話をしている内容の映画で目が釘付けになった。
研究すればいるかと話せるんだと思い、心に決めた。
基礎的な実験という事で全国各地の水族館で、色々な実験をして、視力、いろんな能力を調べ始めた。
鴨川シーワールドのマリンシアター ガラス張りの水槽が有り、そこにたまたまナックがいた。(1991年頃)
ショーを見てたりすると、なんか出来そうな感覚、賢こそうな感覚が有った。
もう20数年の付き合いになる。

先ずは単語を教えようと、名詞を教える。
身近なものとして、長靴、バケツ、足ひれ、水中メガネを教えようとした。
今完成しているのが、それをナック語で呼ぶ事なんです。
りんごをアップルという様に足ひれを見てナック語で呼ぶという事に成功して、次に、足ひれ等を字で書いて文字でも読まそうと思って成功してます。
ナック語 足ひれを見せたときにはピー、マスクの時にはぴーーーと長くなり、それぞれ違って声を出して話す。

次にまねをさせることをやりました。
人の言葉を真似できるのかを実験をした。
トレーナーがしゃべった言葉を真似をする事が出来る。
声は頭の上に呼吸する穴が有り、その穴の奥に一杯袋状の物が有り、そこを空気が出入りするときに音が出るらしい。
初めて「つかさ」(私の名前)を話したが、ちゃんとまねてくれた。
いるかはクジラの仲間で、ひげ板があるのがクジラで、歯が有るのがいるかとなっている。
いるか、クジラの仲間はいったん陸に上がったのが、また海に戻って行った。(今から6500万年前
と推定されている)

えさの問題で生存競争に負けて、海の方が餌が取りやすいという事で海に戻ったのではないかと考えられている。
カバといるかは近い祖先ではないかと考えられている。
いるかは群れを作るが、群れを作ると社会行動できてきて、賢さを身につけてきたのではないかと思う。
人の脳は1400gぐらい、いるかも1400gぐらいの脳をもっている。
チンパンジーよりも賢いのではないかとも言われている。
実験を半年の間あけても覚えているので記憶力は凄くいいと思う。。
コミュニケーションを取りたいと思っているが、その第一歩として言葉を覚えてもらっている。
ショーではトレーナーから一方的にいるかに指示を出しているが、いるかからはこちらに指示を出したり希望を言ったりしないので私はそこをやりたいと思っている。

いるかを研究したいという事で東北大学も選んだが、当時食料の対象と言う事で、いるかの行動、知能、言葉などは全然相手にされなかった。
いるかについて独学で始める事になる。(博士課程)
東大の修士課程では、ハゼの産卵、成熟などをやっていた。
最近、与えられたものはやるが、与えられないと諦めててしまうという学生が物凄く多い。
先生の側も昔みたいに、いいよいいよやってみたらという様な事は無くなってきたのかなとも思う。
諦めないで、一生懸命必死に努力すれば少しはかなうところまで降りてくる。
食いっぱぐれてもいいから、夢を追いかけるんだというそういうロマンあふれる学生は御目にかからなくなったと思います。
私は就職には苦労をして、アルバイト、塾の先生等をやって、2000年東海大に入るまではいるかの研究は出来なかったが、その間もいつかできるだろうとの思いはあった。
20年前からいるかブームみたいなものが起きてきて、いるかを研究したいという学生が段々増えてきた。
ナックに何をしたいと聞いてみたい、その時に何と答えてくれるか、そこが私のゴールだと思っている。
















 

2015年3月24日火曜日

熊倉功夫(歴史学者)        ・今に生かしたい千利休の教え

熊倉功夫(歴史学者、静岡文化芸術大学学長)      ・今に生かしたい千利休の教え
昭和18年生まれ 日本文化史、 特に茶の湯の歴史についての研究で知られています。
茶道の完成者とされる千利休を研究されていますが、熊倉さんは残された利休の言葉をひも解くと現代人が忘れてはならない心のもち方について、多くのヒントが得られるとおっしゃっています。
心豊かに生きるために現代が千利休に学ぶべきことは何か、伺います。

茶道への興味はどうして起きたか?
林屋辰三郎先生が書いた「中世文化の基調」という本を大学一年の時に読んで感動した。
中世の文化は民衆の文化だと書いてあった。
文化は弱者の側から見ていかないといけない、支配者の側から見てはいけないと言う事をおっしゃった。
社会的弱者とは ①女性 ②地方 ③被差別人
創造的な民衆文化の一つが茶の湯だと言っている。
茶の湯の勉強をしようと思った。

茶の湯では庭、茶室、美術工芸品、思想的なもの、文学的なもの、日本の文化が詰まっている。
そこに食事が有ってそう言う風な生活文化がいろいろ入っている。
昭和10年ぐらいから、学問の側から千利休研究が始まる。
千利休とは?
時代が戦国時代、中世的なものが近世的なものに移る大変動期、下克上の時代に活躍したのが千利休。
出身が堺、海外からの情報がどんどん入って来て、鉄砲しかり、堺は戦国大名は喉から手が出るほど欲しい武器弾薬の供給地、そこに千利休は生まれる。
新興勢力としての堺の新しい精神が千利休の中に在る、そうすると従来の既成の茶ではなくて新しい茶の湯を作ろうという創造性が生まれてくる。

千利休が亡くなり100年もたつと、遠い存在と成り、茶の湯はどんどん変化して新しい茶の湯ができてきて、新しい時代の茶の湯を見ていると、本当の茶の湯だろうかという疑問が出てくる。
千利休はこういう人ではなかったのではないかと考えた人がいた。
立花 実山、黒田藩の家老だった。
南方録」という本を書いた、利休研究の第一号 7卷に渡る本。 
我々が感動する真実はフィクションで、必ずしも事実ではない。
南方録」は文学として利休の真実を書いた本だと思っている。

茶の湯の精神
「心の至るところは草の小座敷にしく事無し、家は漏らぬほど、食事は飢えぬほどにて足る事なり、これ仏の教え、茶の湯の本意なり。」
是は名言だと思う。
茶の湯は 豪華な道具、着物を着て、素晴らしい茶室で茶の湯をやる様なイメージがあるが、これは昔からそうです。 そういった茶の湯がいっぽうにある。
しかし、本当に「心に至るところ」 心の満足が本当に得られる茶の湯が心の至るところなんです。
広間で立派な道具が有り、沢山の御客を招いてやるのではなく、小座敷(四畳半以下の小さな茶室)でやるのが、心の至るところのお茶、これがわび、侘び茶、茶室は仮小屋 手作りの小屋。
雨さえしのげればいい、食事は飢えないほどでいい、それが茶の湯の本質だと思う。
それは仏の教えである、お茶は仏道修行と一体だと考える、仏道の中でも禅。
禅というものの考えと茶の湯の考え方は同じ道筋を歩いている、茶の湯をやるという事は仏の道を歩むことと同じなんだという独特な考え。

いくら贅沢な美味しい食べものを求めても、きりがない、最後は炊き立てのご飯、作りたての味噌汁が有れば、十分という事です。
家も寝て一畳、起きて半畳ですよ。
阪神大震災に会って、もつという事に拘ると言う事はピンとぬけちゃたというんです。

「水を運び、薪を取り、湯を沸かし、茶を立てて、仏にそなえ、人にも施し、我も飲む、花をたて、香をたく、皆皆仏師の行いのあとを学ぶなり」
「人にも施し、我も飲む」 これが日本のもてなしの本質だと思う。
一時「おもてなし」が流行語になったが、例示されたものは過剰サービスですよ。
「サービス」は一方的 しかし日本の「もてなし」は双方向性がある。
もてなされた方が逆に今度もてなした側をもてなす、両方でもてなしあう。
人に施す「利他」 「自利」自らにも御利益を頂戴するという事が無いと本当のもてなしにならない。
人に差し上げることによって自分が豊かになり、幸せになる、そういうことを逆にもてなされた側がちゃんと返してくれる、これが有って日本のもてなしだと思う。

「小座敷の道具はよろず事足らぬがよし、すこしの損じも嫌う人あり、一向不心得の事なり」
完全無欠なものを求めるのは人間の一つの本性。
満月 完全無欠を求めるだけが素晴らしいのかと疑問をもつ。
雲の間に見え隠れする月が美しいのではないかという見方。
不足のところに美しいものが有るという新しい見方。
人間も欠点が有って、心にも体にも病をもっている事が人間として当たり前でまともであり、そういう風なものの見方をしたときに、よろずたらぬ、満足していないところがあることこそ美しい、「よろず事足らぬがよし」という考え方が出てくる。
人間でも物でも完全無欠は厳しい、しんどい。
欠点があっても、それを許そうというのがこの考え方。

ものと人間の関係が濃密になるとすてられなくなる。
愛着が出てくる、それが大事。
今、食べものが捨てられている、年間800万トンの食品が捨てられている。
日本の取れる米の量が860万トン。
食べものと人間の関係が薄くなってしまっている。
賞味期限が切れると捨ててしまう。
手塩にかけて作ったものは捨てないで分けてあげたりする。(家庭菜園など)
大量生産の中で物との関係が薄れてしまった。
近代の危機だと思う、もったいないという精神が無くなってくる。
損じたらそれを直して繕うて、又使うという事が大事。

問題は我々がその言葉をどう受け止めて自分なりにどういう風に消化していくのかという事だと思う。
客と亭主の関係
「客と亭主、互いの心持ちいかように得心してしかるべきやと問う。」
「如何にも互いの心にかなうがよし、しかれどもかないたるはあしし。」
お互いの気持ちがピタッと合ってああー良い時が過ごせたと思えるような関係になったら素晴らしいが、相手に気に入られようと思って、色々工作して相手におべっかを使う様なそういうことをしてはいけない。
日本の文化は「間の文化」ということです。
「俺 お前」、「僕 君」、 「私 貴方」 どうしていろいろな言い方が変わるかは、相手との関係、相手との関係に依り自分を位置付けて作り上げている。
西洋のアイデンティティーとは違うと思う。
相手と自分の位置関係 昔で言うと「位」 目上か目下か、社会的地位の高いか低いか、男か女か 違いで間柄を作り上げてゆく。

間 は距離感でもある。
どういう距離を取るかという事を始終考える。
親しい人間もどれだけ近付いたらお互いに気分がいいか、どれだけ遠ざかったらい気分がいいか自然に計算している。
時間の間。 
「時 所 位」 をどういう風に判断できるかという事が作法、マナー。
茶の湯はまさに間の文化。
客と亭主がどういう風に間を取るか。 客と客との取り合わせ。
掛け物 こういうお客さんだからこの掛け物をかけてあげたい。 客と物の関係が一つの間。
人と人、人と物をどういう風に取り合わせたら面白いお茶ができるだろうと茶人はいつも考えている。

間が無くなってきたという事は世間が無くなってきた。
世間 見知りごしの世界 誰かが自分を見ているという意識。
だから自分はしっかりしなくてはいけないという思いがドンドン薄れてきて、自分一人で何かできる様な、自分一人でなにやってもいいような雰囲気になってきている。
プライベートなことが(化粧、食べるとか)公的空間の中で出来てしまう。
世間が無くなってくると、もっと恐いのがITの世界。
世間という公的な基準が無いから、或る意味ダイレクトに事が進んでしまう。
一見近づく様に思うがそうではないと思う。
間をもつ事によって相手をお互いに判りあうということが大事だと思う。

節度 
「家はもたぬほど、食は飢えぬほどにて足る事なり」
節度が無くなって来て、欲望満開と言うか、欲望のままに走ることを良しとして、欲望を満足させるためには犠牲をいとわない様なところに行くとどうなりますかね。
足ることを知らないと、とめどもなく欲望に走ってしまう。
木村尚三郎 初代大学長 「振り返れば未来」 という言葉を残した。
どこから来たのか、歴史をふりかえって、どこにむかうのか、未来が見えてくる。
古典は航海に出るときに、ここが起点だというそういうものを時々教えてくれるものではないかという気がします。






















2015年3月13日金曜日

田畑邦治(生と死を考える会理事長) ・別れの悲しみを分かち合う

田畑邦治(生と死を考える会理事長)      ・別れの悲しみを分かち合う
1947年北海道生まれ 上智大学大学院を卒業 2000年白百合女子大学の教授に就任、専門は宗教哲学、2004年からNPO法人生と死を考える会の理事長も務めています。
この会は特定の宗教に囚われずに、身近な人を失ったもの同士で、悲しみを分かち合おうと作られたものです。
会はどんな活動をしているのか、参加している人たちは離別の悲しみをどう分かち合っているのか伺いました。

会の大体の方は死別体験をお持ちの方が多いので、なるべくその人たちの立場に寄り添う様な気持ちを持って丁寧に接するようにしています。
①死別体験者の支援事業 (悲しみに寄り添う 分かち合いの会)
②死生観に関する社会教育事業 (古典等を読んで生と死を考える、講演会を開く等の勉強会)
③疾病障害の当事者と介護者の支援事業(ケアにかかわっている人の支援事業)
④広報、情報提供事業 (年4回会報を出したりして、社会への発信をする)

死別体験者の支援では、月に4回亡くなった方の対象ごとの集まり、①子供を亡くした人の遺族、②若い人たちを亡くした遺族、③自殺した人達の遺族、④その他に分かれてやっています。
深い悲しみを知っているスタッフが、皆さんの悲しみに耳を傾けて方向付けを行うという形でやっています。
10~20人の塊で行います。
死別体験の内容は千差万別ですが、例えば、昨日まで一緒に住んでいたのに、奥さんが突然亡くなった時の衝撃は一種のトラウマというか、残るわけですが、医療機関に行って悲しみが治るものではないので、会の方に来て段々と少しずつ同じ死別体験をもっている方との話し合いの中で話せるようになって、悲しみが無くならないが、亡くなった人との関係を取り戻すような、自分自身の生き方も新しい方向に自分の人生を向けてゆく、他の人への援助、にかかわってゆく。
そのような経験をしている人がスタッフに何人もいます。
娘が外国に留学で交通事故に会ったと言う人が、お子さんを亡くした分かち合いのグループのスタッフとして活躍している。
私のところのスタッフの80%はご自身が死別体験をもっている方が多いです。

死別の悲しみは衝撃が大きいので言葉で表すのが難しい。
世の中は忙しいし長く悲しんでいてはいけないと悲しみに対してタブーにするところが有る、次のステップに向かうべきだという社会のプレッシャーが有る。
悲しみが内側に押し込まれて行くという事が多いが、それは不健全な状態で、人間は悲しみを表現できるとか、自分のいろいろな悩みを表現したいわけです。
その機会が無いわけで安心して語れる、同じような経験をもっているという安心して語れる環境、場が必要で、自分で押し殺してきた事を表現できるという、そのような動機でいらっしゃる人が多いです。
信頼感が凄く必要で、これが出てくると段々表現できるようになってくる。

聞く方の立場の方は、本当に相手の話に徹底的に傾聴するという事が一番大事。
自分の判断、価値観を押し付けない。
スタッフも話を聞いていて、いろんな出来事を聞いていて衝撃を受けたり、自分の経験と重なりあったりして辛くなることもあるので、スタッフのケアも必要で、スタッフだけの反省会とか、荷降ろし、リラックスすることも必要です。

変わってゆくのは、死別体験をしてからの時間によっても違う。
悲しみは無くならないし、深くなってゆく事もあると思う、。悲しみはその人を愛しているから悲しむわけで愛情はますます深まってくるという事はある。
亡くなった人との関係を結び直すという事もある。
段々心の整理できてくると、社会生活も立ち直ってくるという事もある。
今まで経験しなかった事を経験した分、自分の人生観、価値観が大きく変容して、本当に新たな人格ができてきて、他の人を助けてあげたいとか、ボランティアをしたい、スタッフになりたいという人が出てきます。
私は特別な死別体験は無かったが、最初哲学者としてこの会の講座の講師として呼ばれました。
そのうちに会の人たちに誘われ会員になり理事になり、今は理事長になっている。

函館で祖父の代から水産業の家だった。(20人程度働いている)
5人兄弟で親戚、働いている人の子が来ていて楽しい子供時代でした。
15,6歳の頃キリスト教との接点が有った、函館はキリスト教、仏教とか、宗教的な背景が有るところ。
カトリック教会のフランス人の神父に出会ったのが私にとって将来を決定する様なおおきな出会いが有った。
話が聞きたくなるような神父さんで、いつも温かく迎えてくれてかわいがってくれた。
最初神父さんの様になりたいと思ってカトリックの神学校に入ったが、若かったためか幅広く考えることができなくて、信仰の確信ができないという思いが有り、哲学の方に向かっていった。
哲学は古くからあるが、哲学の中にも様々な科があり、その一つに宗教哲学があるが、本来哲学と宗教は違う、哲学は理性で考える、宗教は信じることが中心。
哲学のテーマは人生とは何であるとか、存在とは何であるかとかを考えるので、宗教の問題にかかわってくる、超越的な存在、神様仏様は人間の存在とて、どなたであるとか、存在するのかしないのか、哲学と宗教は違うものであるが接点が有る。
接点を考えるのが宗教哲学です。

生と死を考えるという事は哲学のテーマであり、宗教のテーマでもある。(お釈迦様の生死の教え)
看護系の大学にもいたのでケアの哲学、ケアの人間学もやって来て広い意味で宗教哲学に入る。
古典は人類の中で本当の人間の経験に深く触れたから生き残っているわけです。
人間の一番重い経験は生と死、愛する事、愛する者との別れはどの時代にもある。
それを言葉に残そうとしたので、今私たちは古典として引き継いでいる。
かなしみ、喜びの問題をどの様に表現したかを知ることに依って、今自分が経験している事を、遠回りですが、迂回路を通る様にして、故人の言葉を通して自分自身を理解出来るようになる。
自分自身がどの様に深い経験をしても、たかが知れている。
古典は非武装の武器、言葉に依って自分自身の人生を讃えてゆく。
源氏物語を講座で扱う事が多い、そこには生と死のテーマがふんだんにある。
光源氏は小さい頃3歳で母親を亡くして、6歳でおばあさんを亡くして、大きな恋愛での時に夕顔を失っている。 父親を亡くしたり身近な多くの人の死に出会っている。
彼の生涯は親しい人たちの死別体験から成りたっていると言ってもいいと思う。
光源氏を通してどの様に人間の死を味わい、死なれることによってどういう悲しみを味わったか、物凄く丁寧に書いている。
源氏物語は私にとって最も優れた死生観の哲学の栄養素になっています。

宇治十帖(光源氏が亡くなった後) 源氏物語の続編 
浮舟という女性  物語中唯一の自殺体験志願者。
三角関係の中で自分が死ねば、全ては治まると思い、自分で死のうと思うが、自分に対する否定的感情、助けられた後も川に捨ててと絶望的なことを言っているが、徐々に自分の人生を取り戻してくるが、その時に非常に大きな助けになったのは、彼女を助けた横川の僧都というお坊さんと家族、何年にもわたって、彼女のケアをしてゆく。
浮舟の生涯の中には、現代の非常に否定的な感情をもっている人たちを、どの様に助けて、どの様に自分の人生を取り戻してゆくのか、丁度私たちの会がやっている様な、支援する人間のあり方支援される人間のあり方を描いているので、大変興味深く読んでいます。

人間は泣きたいときに泣いて涙を流していいんだと、他の人の助けを必要とするんだという、人間の弱さとかを認めて行く事が大事だと思う。
誰からお世話を受けるという事が、人生にとって大変大事だと思います。
生と死を考える会でも、悲しみを押し殺して強く生きてきた人が、他の人の助けを受け入れるようになった時に、次のステップに進めるんじゃないかと思います。
源氏物語、西行法師、万葉集等の古典を採用して読み解いています。
会の平均年齢は60歳ぐらいです。
自分の大事な人を亡くした人との関係について、質問されたりすることが多いが、共通しているのでテキストと関係なく、魂が有るのかないのかとか、人生論の分かち合いにもなる。
普段考えている事を表現しあう事が大事だと思います。

日本人死生観の古典、生と死の遺産と西洋哲学との対話的な関係で、自分の今まで生きてきた日本人の哲学を形で表したいと思って本を準備している。
本居宣長は「もののあわれを知ること」だと言っている。
日々の小さな出来事のなかにある喜び、悲しみ、苦しみなどを丁寧にそれを味わうという事です。
それがもののあわれを知るという事で、それが少しでもできたら、人間のきずなが出来る訳ですし、生きる事、死ぬ事は大きなテーマの様に聞こえるが、日々の生きる事死ぬこと、とはそういう事ですね。
「もののあわれを知る」という事を、深く深く理解して自分の学校の教育の場、生と死を考える会で生かしていけたらと思っています。



























2015年3月12日木曜日

山村武彦(所長)          ・命を救う防災を訴えて50年

山村武彦(防災システム研究所・所長)                 ・命を救う防災を訴えて50年
1943年生まれ、新潟地震でのボランティア活動をきっかけに防災アドバイザーとして活動を始めました。それから半世紀、真実と教訓は現場に在り、をモットーに足を運んだ被災地は国内外の数百か所に上ります。
その経験と調査研究を元にいまでは実践的防災危機管理 の専門家として毎日の様に講演活動を行い防災意識の啓発に努めています。
特に近年、身近な人達が助け合う、近所の精神の大切さを訴えています。

世界で起こる大地震 M6以上の地震の20%近くは日本と日本周辺で起こる。
活火山 世界中の10%程度が日本列島の周辺に在る。
厳しい過酷な試練を与える地勢的リスクの或る国、これが日本だと思います。
2004年 12月 スマトラ大地震 20万人が津波で命を落としたが、主に津波災害だけ。
東日本大震災は広域複合大災害 地震、津波、原発事故という途轍もない過酷な試練、4年経ってもまだ先が見えない様な災害、人類始まって以来の大災害だと思う。

21歳の時に1964年6月 新潟地震が発生。
友人が新潟に帰省していた。
連絡が取れずに新潟に行く事にした。
空が真っ黒だった、石油コンビナートのタンクが火災で2週間から半月燃える。
新潟国体が終わった後で、メインスタジアムが液状化現象でトラックが半分埋まってしまっていた。
友人の家は大丈夫だったが、何とかしたいと思って、水運びを行った。(学校、公民館等に運ぶ)
たった十数秒の地震で街も人も生活も社会もこんなに壊れてしまうんだと、これを復旧させるのは大変な事だろうなと思った。
突然のショックだった。

今まで人生の目的を決めていなかったが、このままでいいのかと、東京に戻ってから色々調べた。
日本が地震列島だと、100人以上死ぬ地震が100年間に19回発生していた。
5年に一回大地震に見舞われている国、大騒ぎするが忘れてしまう。
何かしなくてはいけないと思った。
防災という言葉は当時なかった。
災害対策の様な事をして行きたいと思ったが、誰も教えてくれるところが無かった。
人が死なないようにするとか、被害を少なくするようなことができないものかと思った。
「災害現場を沢山見ればいいんじゃないの」と母親から言われた。
その言葉からはっとして、災害が発生した現場に行こうとして、お金が無いので周りに自分の想いを伝えて、周りからの支援を頂いて、行く事が出来るようになった。

大学を中退してこの仕事をやるようになったが生活が大変だった。
災害現場を見て、そこから得る教訓を出来るだけいろんな角度から立体的に構築すればいいなと思った。
でも災害は、風水害、竜巻、大規模火災もあり、それらがすべて危機管理の対象であり、人間の命を落とさない様にするというのが防災だと思い、色々な災害に共通な対策が有るのではないだろうかと、極力いろんな災害現場に行くようになった。
人間って、生まれた時よりもその人が死んだ時に木でも一本余分に植わっているという、その人が生きてきた証が残っているという事を聞いた事が有るが、内村鑑三先生の講演録 「後世の最大遺物」 最大人間ができる遺物 いろいろあるだろうが、誰にでもできる後世の最大遺物が一つだけあると、それは勇ましい高尚なる人生である、という。
一人で出来る事には人間限りがあるけれども、その人はいろいろな困難にぶつかってそれを乗り越えて、或いは何か目的をしっかり持ってその目的にまい進している姿、多くの人は見ていないかもしれないけれども、近くの家族や、友人や限られた知人は見ているかもしれない。
その人の中にその後世の最大遺物が残ると、あの男は大変な苦しい生活の中で、厳しい状況の中でも困難にめげず乗り越えて生きてきた、その気持ちや感覚や勇ましいその人の高尚なる人生が人生の最大遺物であると、そういうことかとその時にはっとした。

一番人間が困ることとは何かと思ったら、家族の命が失われたり災害で家が無くなったり、何の罪のない人が災害によって困窮の淵に立たされてしまう。
この事を少しでも減らすことができれば、地震や津波は無くすことはできないかもしれないけれども、被害を少しでも減らすことはできるのではないかと、新潟地震で眼の前に見たすさまじい地獄の様な状況を私に教えてくれたのだろうと思って、そのショックを自分の人生の中で生かせたらいいなあと思った。
生活も苦しいし、カンパに頼ってばかりもいけないので、防災機器の研究開発の会社を造ろうと思った。
借金をしながらやって行った。
信号機の非常電源等も私のところで造った。
私が病気になり(大腸がん)いろいろなことが有って会社は倒産する事になる。
自分の危機管理も出来ないのでは、私は防災の資格はないのではとも思ったが、もう一度原点に戻って被害を無くすための事をこれからも継続しけるのではないかとも思った。
講演を頼まれてやる様になる。
たまたま命が助かったということは、お前もっとちゃんとしたことをやれという事だと受けとめて、それまではいろんな役職が有ったが(20いくつか)全部やめて、以来、言って下さるところには今まで経験したことを話したりしているうちに、本も10冊以上出す様になり、災害現場にもそういうお金で行かれるようになった。
海外に行くと100万円もかかってしまうが、講演などでいただけるものなどを当てに出来るようにはなった。

高齢者、子供、体の不自由な人、妊産婦などを助ける事が出来るのは近くにいる人たちだけだなと思う様になった。
防災の三助 上杉鷹山 「自助、共助、公助」  
これも大事なものだが、皆と言うのは意外とあいまいで無責任だなあと思う。
実践現場では意外と近くの人が助ける。
阪神淡路大震災では 自力脱出困難者は3万5000人いたといわれるが、消防、警察、自衛隊が助けた人は19%ぐらい、大部分は隣近所の人、通りがかりの人 近くに居る人しか助けられない。
亡くなった人の約9割は地震発生の14分以内に亡くなっている。
早く助けないと助からない。
これが出来るのは近くにいる人だけである、そういう風に思う。
海外でもそうでした。

長野県北部白馬村で地震が有り多くの建物がこわされましたが、全壊33棟、半壊66棟。
2mの雪が積もる所のしっかりした建物だが、1階がつぶれてしまっていたが、皆があっという間に必死に救助した。
けが人はいたが犠牲者は一人もいなかった。
そこで地震の2年前に講演したことが有るが、近所同士で助け合う事は大事ですよといったが、講演の後の懇親会では山村さん近所は前からやってますよといわれたが、行って見て本当にそうだなと思った、兄弟みたいな付き合い、そういう付き合いがあった。
普段から付き合いが有る事が大事だなと思う。
小さなグループで、ほどよい距離感で、普段からの顔の突き合わせが、災害時にも助け合う。
高齢化社会で孤独死などにも防ぐことにもなるのではないだろうか、そのためにも防災隣組が必要だと思います。

避難路になるところは空けておく。(いらないものは整理)
自分が被害者、加害者、傍観者にならない。
隣近所の生き方、暮らし方が薄れてきている。
宗教、イデオロギーが違っていても、命、安全というものは共通の価値観。
最低1週間分は備蓄してほしい。 
1カ月2回 非常食デーを作って、ローリングストック法にすることによって賞味期限の工夫して備蓄する。
建物の下敷きにならない様な行動を普段から行う事が大事。
大揺れの時には歩けない様な状況になってしまうので閉じ込められない様にする。(逃げ道確保)
阪神淡路大震災では87.8%が建物の下敷きで亡くなっている。

閉じ込められない訓練が大事。
津波がすぐそばに迫っているのに、ゆっくり歩いている人がたくさんいた。
自分では走っているつもりだが、足が前に進まないという人が随分いた。
人間って、突発的な事が起こると身体が凍りついて動かなくなってしまう危険性が有るが、これを凍りつき症候群という。
凍りつき症候群はDNAにもあるのではないかという心理学者もいる。
突発的なことが起こったり、恐怖に陥った時に身体を麻痺させる機能があるのではないかという説もある。
無くす方法は普段からの行動です。 小さな揺れで行動を起こす癖。




                                                                                                       





















































2015年3月10日火曜日

遠藤美恵子(民宿経営)     ・南三陸町で亡き娘と生きる

遠藤美恵子(民宿経営)     ・南三陸町で亡き娘と生きる
宮城県南三陸町 東日本大震災で遠藤さんの長女、未希さんは、南三陸町の危機管理課職員として、津波が押し寄せる中、防災行政無線で非難を呼び掛け続け多くの職員と一緒に亡くなりました。
24歳でした。
娘を亡くした喪失感に悩まされながら、美恵子さんは去年津波の恐ろしさを伝える民宿をオープンしました。
民宿は長女未希さんの名前を取って「未希の家」と言います。

震災1年目から3年目まで、3月を迎えるのが辛かった。
いまは民宿を始めてから、娘の姿は見えないが、一緒に過ごしている様な感覚になる時が有るので、共に生きるというのに向かって進んで行っている感じなので、3年目とは違ったいまの生活があります。
民宿が始まってからはいろんなお客さんとも接して、いまを生きるのが一番自分のためになるのかなあと、そのためにはどうすべきか、考えながら生きていこうと思った時に、大変だが前に進めてきたので去年とは違います。
皆が故郷と思えるような家を造ろうと思って、民泊用に自宅を修復しようと思った。
すでに娘の名前を付けようと思ったが、そこは危険区域に指定されて、そこではできない。
漁業だけの生活をしている事が虚しいだけに過ぎない様に思えて、残りの人生を虚しさだけで生きるという事をして居いたら、あの時に生きた かったひとたちに申し訳ないと思い、自宅のすぐ上に小さな土地もあったので、思い切って始めました。

窓から海が見えるが、海の景色は恐ろしい津波が嘘の様です。
海と共存していかなくてはいけない。
又いつか来るかもわからないが、その時にはいち早く逃げるという事を、伝える範囲で伝えていこうと思っている。
被災した方は海が見えない方が多い。
養殖漁業なので夫と二人で、わかめ、ホタテ、ほや等漁業で生計を立てていました。
舟は2艘、倉庫は2つ流され、自宅は2階まで津波が来たが何とか残りました。
娘だけ生きて貰えれば何とか復興に頑張ろうと思えたが、当時は虚しさ、悔しさ、辛さで周りから早く家をかたずけるように言われたが何も手がつかなかった。
とりあえず瓦礫の仕事をするようになる。
周りの楽しい話を聞いているのがつらかった。
瓦礫の跡だけを見ていると、又心が折れそうになる。

ラジオで放送が有り、ストレスケアの話があり、問い合わせをしたら、歳は関係ないという事で面接に行ったら、ストレスケアをするのには自分が元気で無いといけないという事で3ヶ月間一日6時間一生懸命勉強しました。
そこからものの考えが変わる、きっかけになった。
そこから3人(お婆さんと夫と)で何とか生きていかなくてはと考えるようになった。
勉強が始まった時に、何をしたいか10個書けと言われたが、その時に大変な生活をしながら何も出てこない。
何年後でもいいからと言われて、3年後に民宿したいと書いた。
実現できて幸せなんだなあと思います。

娘が見つかってない時に、電気もないので暗い中で一人で声をあげて泣いていました。
最初死にたいと思っていた、娘に追いつけるのではないかと。
4月23日自衛隊のヘリコプターで娘を見つけることができました。
今まだ南三陸町で200人ぐらい行方不明ですが、苦しい思いを引きずっている人がいますから、
帰って来てくれたという事は、嬉しかったです。
娘は生まれた時から手のかからない子供でした。
介護の専門学校を卒業後、南三陸町の市役所に勤務する事になる。
3年税務で4年目に危機管理課に行って、あの3月でした。

私は最初の放送しか聞いていない。
避難の放送をしていたのは44回でした。
多分怖かったと思います。10mの時に声が一瞬詰まっていた。 
何か察しているなあと思いました。
2日前に震度4の地震が有って、津波が50cmきましたが普通に放送していた。
その時に私たちは沖合で舟に乗って、仕事をしていたので全然わからなかった。
その夜に娘が電話をよこして、大丈夫だったかと言われたが、海にいて全然気付かなかったといった。
多分お母さん、お父さんに声が届く様にいってたんじゃないかと言われました。
私たちを助けてくれるために発していたとすれば、何時も泣いてばっかりで生きるのでは申し訳ないと、娘のところに行ったときには、一杯話ができるような生き方をしようとお父さんといまを生きています。

いろんな方との出会いで助けられました。
娘に申し訳ないとの思いが強かったが、「お母さん頑張って」と娘がいろんな人に会わせてくれたと、後で感じ取って、それならお母さん元気になってもいいみたいな繰り返しの中で、立ち上がりのきっかけの一番目はストレスケアです。
落ち込んでいる時にものを書くという事で、娘と向き合わなくてはいけないと思った。
1年過ぎた時に娘が遠のいていく様な気がして、娘に手紙を書く様な感じで日記を書こうとして書き始めました。
書いた時の夜に夢に娘が現れて、書けば娘に夢で会えるような気がした。
娘の遺品を整理しようと、アルバムを広げようとするとくっついてしまって広げられない。
二十歳のメッセージカードが見つかり、中を開けたら私への感謝の言葉だった。
辛い時、悲しい時、苦しい時、心に浮かぶのは「お母さん、私を生んでくれて有難う」という言葉でした。  そこでまた救われました。

2年目を迎えると、正月が明けて段々落ちついて、2月を迎えると体が反応してくる。
2年目で3回忌を迎えるが、それをすることが嫌だった。
薬師寺から写経を書く事をお坊さんが来てやっていて、3回書きましたが納める事になり、私もおもいきっていきました。
娘のために法要しなくてはいけないと思って、3回忌の法要をしました。
結婚式に集まる様な人達でした。
大震災の年の9月に結婚式をする予定だった。
皆さんから娘の思い出を語ってもらって、娘と一緒に2時間ぐらいを過ごしました。
2年半ぐらいで娘の存在は何かなと思い始めて、又苦しくなった。
その時に野良猫がやって来て、すごく人なつこくって、私を見ると寄ってきて、飼う事になり、泣いていると涙をなめてくれたりして、猫に癒されています。
猫は一人でも頑張っているのに私は家もあるのだし、独りではないしと、自分に置き換えて頑張らなくてはいけないと奮い立たされた。

昨年7月に民宿を始める。
遠くから色々な人が来ます。
いろんなことを話して楽しめる。
私たちなりに伝える事、又お客さんの悩みなどを話して、私たちは元気を貰っている様な気持です。
腫れ物を触る様な接し方であったり、逆に踏み込んでくるような事もあり、最初はへこんでいるが繰り返したりするうちに普通に喋れるようになってきたと言う感じです。
泣きたいときには泣かないといけないが、泣けない様な、身体が受け付けないようになってしまう時もある。
時間が解決してくれるという事が有るが、それは無いだろうと思っていた。
やっぱり時間が少しは気持ちの変化が出てくる。
1年目、2年目は本当に大変でしたが、そこから何かを感じとって行くと、誰かが手助けをしてくれることもあるし、或る方から(子供を事故で無くした方)電話が来たりしました。
自分が経験したことをこうして見たらと言ったりする。
最初の震災から思ったら、一日3回食事ができるだけでも幸せだと思います。
それが積み重なっていくのかなあと思います。

未希さんになんてしゃべりたいですか?
娘を思って本を出しましたが、「本当に家族になってくれてありがとう、お母さんのもとに生まれてきてくれて本当ありがとう、そしてまた家族になりましょう。」


















2015年3月7日土曜日

加茂登志子(女性生涯健康センター所長) ・女性のうつに寄りそう

加茂登志子(東京女子医科大学付属女性生涯健康センター所長)       ・女性のうつに寄りそう
女性が生涯で鬱を発症する頻度は男性の2倍と言われる。
要因としては月経や妊娠、出産という女性だけが持つ身体の機能や女性特有の考え方、男性優位の社会環境など様々な事が考えられます。
女性の鬱に対して、正しく理解し、予防、治療、克服に繋げるためにどうすればよいのかを、加茂さんに伺います。

4大疾患 ①癌 ②脳卒中 ③心筋梗塞  ④糖尿病
2013年に5大疾患と言う事で うつ病が入ってくる。
精神疾患が一番患者さんの数が多い。  323万人
4大疾患は男性に多いが、精神疾患は女性に多い。
2011年の結果 20歳、30歳 女性が多い  40歳台でピークが有るが60歳台、70歳台で又増えてくる。
男性は40歳台でピークが有り段々下がってゆく。(山が一つ)
気分障害 単極鬱病(鬱のみ)と双極性障害とに分かれる。
単極鬱病は 女性は8.3%  男性は4.2%
双極性障害(躁と鬱) 女性は男性の5倍になっている。

憂鬱、気分が落ち込む、悲哀感、不安感、焦燥感等の症状が有る。
身体も変わってくる、睡眠障害、食欲(絶食、拒食等)も変わってくる。
頭痛、微熱、立ちくらみなどの自律神経症状を起こす。
便秘下痢、疲れやすくなる、月経不順なども起きる。
思考や認知の変化、自責感、判断力が落ちてくる、絶望感等。
大きく分けて気分と体と思考が鬱病の様々な症状を起こす。
男性と女性の違いはどこから来るかというと、性ホルモンと身体の違い。
脳に凄く影響を与える。
女性は生殖期間が男性よりも短いという事もある。
20歳~35歳迄が妊娠がしやすいと言われているが、この期間が社会の働き盛りとバッティングする。

性別役割分担によって経済的な地位、社会的地位が変わってくる。
収入が違ってくる、男性の7割と言われている。
子供を産んで育てる時期の過ごし方が日本で大きく違ってくる。
鬱病の発症に時期、頻度が変わってくるのではないか。
男性は就職、結婚と階段を上がってゆくが、女性は主婦寄りの人生を送る人、独身で仕事、その両方を行う人、更に出産が絡んできて子供のすだちが絡んでくる。
女性はいつ子供を産んだら自分の人生にとって一番良いのだろうと悩みます。
主婦寄りの人生は社会と孤立する。
出産、育児ストレス等で鬱になる人が多い。
独身寄りの人は、或る程度昇進できても、それ以上はなかなか行けない悩みが有る。
2030年までに女性の管理職を30%にしようという動きはあるが現実はなかなかついていかない。
孤独感がある。  更年期がやってくる。
ホルモンの変動が激しい出産以降が女性にとって大きな危機を作る。

ドメスティックバイオレンス 28%前後夫から手を挙げられたことが有ると言われて居るし、男性も10数%あるといわれる。
命の危険を感じる人は女性は4.5% 男性は1.6%と言われる。
鬱を発症する一つのきっかけになる事は往々にしてある。
職場の中の適応の問題、子供の世話をするため協力不在、複合過労。
ハラスメント 悩んで鬱病になってしまうという現状が有る。

エストロゲン プロゲステロン
女性ホルモン エストロゲンは卵胞を育てるホルモン
免疫能力を高めたり血栓を作りにくくしたり、気分を良くしたり、満足感を高めたりする。
セロトニン アドレナリン 鬱と関係している。 
神経の機能を高めて抗ドーパミン作用を持つ。
プロゲステロンは受精卵が着床したり発育したりすることを促します、又不安を抑えたりする。
鬱には主にエストロゲンが関係している。
エストロゲン受容体は全身にいる。
月経と言うサイクルの中で、エストロゲンが出るときとでない時が有る。
少なくなった時に問題が起きる可能性が有る。
月経前不快症候群、産後の鬱、マタニティーブルー、更年期でも共通した症状なんです。

鬱状態から鬱病を診断していく過程では、甲状腺の機能、膠原病、アルツハイマー的な事は無いか、色々な視点から見てゆく。
鬱病と判断された時は 単極か双極か、重症度、症状の特徴などを見てゆく。
定形症状、不定形症状(女性に多い 7~8倍)
治療 薬の効き方が男性と女性は違うという報告もある。
女性には様々な気を付けなくてはいけないポイント、チェックが有ります。
月経前不快症候群 いらいら、衝動のコントロールが難しい、倦怠感、眠気が始まり、子供、職場の人に当たってしまう。
ホルモンの補充、抗鬱薬を両方して良くなってくる。

大きなストレスや複数のストレスが重なるときに起き易くなる。
家庭内での悩み、パートナーとの関係がこの時に非常に重要な意味を持つ事が多いという事が判っている。
夫の定年は凄く女性にとっては大きな問題になっている。 
男性は定年退職するとリビングに居ることが多くなる。
女性が使っていた自分のための時間が奪われて、夫の昼食を作らなくてはいけなくなり、ストレスが積み重なる。

治療 薬物療法 無痙攣性電気ショック療法 磁気を使う療法 環境調整(休養を取りやすい状況にする、環境を変える)、家族が理解を持って協力をすることが重要。
精神療法 グループ療法(女性に効果が有る)
鬱になると言葉が出にくくなるので時間をかけてゆっくり話を聞いてあげる事が非常に重要。
原因追究をあまりし過ぎない、決めつけない、励まさない、という事も重要な事。
鬱病の治療は時間がかかるので待つという事は重要です。(最低1年以上は)
気分転換の手段を持つ事が大事。
憂鬱だと思ったら休みなさいよというサインだと考えて頂ければいいと思います。



 
















2015年3月4日水曜日

古居みずえ(映画監督)      ・ふるさとを失った女性たちを撮る

古居みずえ(映画監督)        ・ふるさとを失った女性たちを撮る
東日本大震災から間もなく4年、原発事故後の2011年5月に古居さんは福島県の飯館村に入りました。
ちょうどその日酪農家の女性たちが牛を処分するために、涙ながら見おくっていたそうです。
それを見てパレスチナの人々が65年前に故郷を追われ、いつかは帰れると家のカギを握りしめて着の身、着のままで難民になっている姿を見る思いがしたそうです。
いまだに村に帰ることができない飯館村の女性たちを取り続けて4年になる古居さんに伺います。

今現在は除染が進んでいて黒い袋があちらこちら村中にいたるところに見えるという感じです。
去年の夏ぐらいから本格的に除染が始まる。
村の人口が6000人だが、7000人の作業員が来てやっている。
昨年12月からは作業が止まっているので、静かな雪景色といったところです。
30km離れているがいちばん放射線量が高かった。
ジャーナリストとして被災地に行こうと思って3月4月は岩手、宮城を回っていた。
何をどうとらえていいかわからなかった。
4月の終りに、飯館村で全村避難のニュースが入ってきた。
以前、パレスチナ難民の人達のレポートをしていた。(25年間)
飯館村の人たちの姿と重なった。

65年前、イスラエルの建国によって故郷を追われておよそ70万人の人が難民になった。
そのことをずーっと追いかけてきていた。
家も家族も土地も捨ててゆく、飯館村の人々と重なった。
最初に行った時は、酪農家のおかあさんたちがずっと飼ってきた牛を、売りに出したり殺さなければいけないという日だった。
11家族いらっしゃった。 牛を順々に出していかれた。
家族と同様に飼っていた牛をトラックに積み込むが斜めの板のところで止まってしまっていて、牛が動かないで、座りこむ牛もいたが、どこへゆくか判っていたようだ。
飼い主は牛も涙を流すんですよと言っていた。
この様な状況を見続けようと思った。

仮設住宅はとても狭くて、声とか、音が筒抜けになりストレスのある生活が続いてきた。
仮設住宅はお年寄りが多くて、本来2年が期限だったが帰れなくて、ショックを受けた様です。
牛の世話はお母さんが長く接して来られて、「飯館村のかあちゃん達」という仮の題名を立てて50~60代のお母さんたちの酪農家の方数人と飯館村の文化、食文化を記録に残そうと、映画にしたいと思った。
飯館村は7割が山になっているので山の食材が豊富にある。
手の届くところにあるものが全て食べられなくなってしまった。
難民生活65年になるが、パレスチナの難民は故郷に帰りたいと希望は捨ててはいない様です。

人が住んでいない家は家が壊れてゆくし、人が住んでいない家は空気が冷たいという、家が死んでゆくという風に表現されている。
猿、猪、狸、鼠等が繁殖して、帰って掃除なども出来なく大変なので段々足が遠のいで行くという事が起こっています。
パレスチナのお母さんたちが望郷の歌を歌うが、故郷を思う気持ちは同じだと思う。
帰ることを諦めている人もいて、1/3が帰りたい、1/3は帰らない、残りの1/3は迷っているというな状況です。

故郷とは一番自分はほっと出来るところだと思います。
30代後半にリュウマチになって関節が痛くなって、動けなくなって、首が回らない様な経験をして、絶望して、いままで自分が動けなくなった時に、何にもやりたい事や、自分をかけてやったことが無かったと思った。
それまで流されて生きてきたが、病気になって切羽詰まって、病院で薬を飲んで過ごすうちに元気になって、治った時に何かやらなければいけないと思った。
カメラで撮ることにしたが、ある日「パレスチナの子供達」と言う写真展に出会って、そこで生きている子供達の顔が負けてはいなかった、そういう写真を撮りたいと思った。
現地に一人で行って、日本とメンタリティーが似ていて、義理人情が強くて、家族の想いも厚いし、しみじみと感じた。
戦争によって壊されていっている。 
高望みは無く、家族が無事で普通の生活がしたいと言っている。
飯館村も同じ、お金が欲しいとかではない、元の生活がほしい、それだけだと言っている。

パレスチナの映画を作った時にイメージはすでに悪かったが、普通の人を知っていただきたいために普通の女の人の生活を撮って映画にした。
イスラムは残虐だと思われたら、いままで何のためにやって来たのかと、本当に辛いです。
イスラム教徒の人は優しい良い人で、断食はお腹をすいた人達、貧しい人たちの気持ちを判るためにするんだというイスラムのいいところがもっと広がってほしい。
飯館村での厳しい中でも、生きている姿を見て頂けたらなあと思います。











2015年3月3日火曜日