2019年7月18日木曜日

江幡千代子(ブックカフェ実行委員会代表) ・移動ブックカフェで交流を

江幡千代子(ブックカフェ実行委員会代表) ・移動ブックカフェで交流を
キャンピングカーに絵本を積んで移動しながらブックカフェを開いでいるブックカフェ実行委員会の江幡さんに伺います。
江幡さんは1944年昭和19年仙台市生まれ、75歳。
32年前に横浜市の北部に広がる港北ニュータウンに移り住みました。
交通事情が不便で文化施設なども整備されていなかったため、皆でいろいろなイベントをして街作りをしたといいます。
本の好きな江幡さんは図書館ファンクラブや読み聞かせなどの活動をしながら、自宅には絵本を集めてふわり文庫という子供たちの居場所を作るなど本を通してコミュニティー作りに取り組みました。
長年街作り活動を作り続けて来た江幡さんが始めたのは、キャンピングカーによる移動ブックカフェでした。
移動ブックカフェ、どのような活動なんでしょうか。

人気絵本は300冊ぐらいブックカフェの車に乗ってしまっていまして、ふわり文庫には400~500冊になります。
おもちゃもたくさんあります。
本の読み聞かせは強制的にやっていました。
自治会主催で実現できて感激でした。
子供会の参加が素晴らしかったです。
ブックカフェは今年の4月にスタートしました。
トライアルを含めると13か所になります。
お寺の駐車場、保育園、畑の中でもやりました。
チャコ村、チャコさんと呼ばれたおばあさんのところで、おばあさんが亡くなったあともおばあさんがやっていたことを引き継いで、お孫さんが週に5日間も地域の拠点を運営しているところがあり、そこでもやりました。
中学生から小さな子供まで大勢いて、紙飛行機つくりなどやったり、チャコさんの友人のおばあさんたちが南京玉すだれをやったりしていました。
みんなで楽しんでいてこんな場所があるのかと思いました。

オレンジ色のキャンピングカーに本を積んで3時間で読める量として300冊の絵本を積んで停まったところにカフェを開いています。
車には15人ぐらいは入れるようになっていて、読み聞かせ、紙芝居などもやっています。
親御さんが読み聞かせをやったりもしています。
オレンジ色のキャンピングカーは小田原の町工場の川田さんと仲間の人たちがものつくりの面白さを伝えたいという事で、町工場を体験させたいとキャンピングカーを改造して「出張町工場」というのが正式な車の名前です。
川田さんとの出会いがありました。
町工場で働いている人は高齢者、外国の人、障害者とかの人たちでした。
そういう人たちこそそれぞれの力を発揮すると、素晴らしい会社になるんだという信念を持っている方です。

会社を経営している小澤さんという方がいて、地域が活性化してゆく活動をやっている方で、その場所をお借りして川田さんをお招きして物つくりの体験を地域の子どもにしていただくという事でキックオフの日に決めました。
その運動にはいろいろな方8人が集まり推進力になりました。
ほかにチョイボラ(ちょっとボランティアをしてくれている高齢者の人たち)の人にも助けられています。
欠かせない重要な要素になっています。
子どもが学校に行っている若いお母さんたちも集まってくれて、本にコーティングしてくれて雨でも安心できるようになりました。
夫にもいろいろ手伝ってもらっています。
テーブルのデザインなどもやってもらっています。
ほかにも周りからいろいろ手伝ってもらっています。

出身は仙台市で港北ニュータウンが出来てすぐに移り住みました。(32年前)
ふわり文庫は2017年の1月に開設しましたが、その1年前に3人目の孫を亡くしてしまいました。(3歳でした。)
絵本が大好きでした。
孫が生きた証として、孫の好きだった絵本を子どもたちに読んでもらう場所をつくりたいと思ってふわり文庫を作りました。
「ふわり]の「り」は亡くなった「りさ」の「り」の名前が入っています。
ある写真をインターネットで見つけて衝撃を受けました、その写真から移動して子供に本を読むように届けることができるんだと思いました。
図書館を応援する活動を20年ぐらいやってきました。
図書館が広げられたらいいという思いがありました。
鹿児島県指宿で移動図書館を作って、その車を作るお金を集めて実現したいという活動を見つけて、これだと思いました。(クラウドファンディング)
154人の方が140万円寄付してくださいまして、活動資金を得ました。
長い間地域の活動をやってきたので、そういったことが集約されたのかもしれません。

『まちの教室」の活動がユニークでした。
『街の音楽会」も毎年やっていました。
「ジグザグ散歩」も月1回やりました。
緑区の区役所の呼びかけもあり、緑区探検ウオーキングのイベントも行いました。
川辺のコンサートもやりましたが、「川風フェスタ」という大々的なフェスタ会場になりました。
そういった活動が面白いという事で横浜中の街作りが集まる「街作りフォーラム」がありそれに私も参加しました。(都築区になったばかりの頃)
「この街しっぽまでおいしいよ」というキャッチフレーズを作りました。
この街に住んでよかったなあ、この街いい街だなあと思うような街にしたいですよね。
街はみんなでいい街にしたいと思っていかないといい街になっていかないと思います。
課題はたくさんあります。
資金、本を置く場所、新しい拠点などありますが、きっとそれをなんとか協力してくれる人が現れるだろうなあと楽観しています。
幾つになってもできると思います。
自分一人ではできないが共感する人たちが増えてくれば、どんなことも可能になっていけるんだろうと思います。
絵本は本当にいろんなことを教えてくれる本当に幅の広い世界なので、たくさんの人たちに届けていきたいと思います。
いろんな出会いを楽しみたいと思います。

























2019年7月17日水曜日

河野匡(日本陸上競技連盟強化委員会ディレクター)・【スポーツ明日への伝言】酷暑と闘う!ランナーたちの挑戦

河野匡(日本陸上競技連盟強化委員会ディレクター)・【スポーツ明日への伝言】酷暑と闘う!ランナーたちの挑戦
今回のオリンピックの陸上競技、特にマラソンの長距離種目は暑さなどとの戦いが予想されます。
マラソングランドチャンピオンシップとはどんな大会なのか、選ばれた人たちは暑さをどう克服してゆくのか、河野さんに伺います。

2000年のシドニーに犬伏孝之が代表になったときは2000年の2月に東京マラソンで代表が決まりました。
2016年のリオデジャネイロオリンピックで伊藤舞が代表になったときには前年の世界陸上で入賞して早々と内定しました。
1年間の準備も経験したし、あっという間に準備しなければいけないというようなことも経験して、マラソンはオリンピックでは花形ですし、注目度が高い、相当プレッシャーがかかるという事はどちらの場合もありました。
年々マラソンを志して世界選手権、オリンピックで戦おうとか、戦えるというイメージがどんどんなくなってきているというのはあからさまに感じました。
メダルから遠ざかっているという現状でした。
2017年の夏から今年の4月30日までの指定されたマラソン大会に出場して条件をクリアするとその選手だけを集めてさらにレースを行って代表を決めていこうと、マラソングランドチャンピオンシップと呼んで9月15日に行うことになりました。
強化プロジェクトとしては瀬古氏がプロジェクトリーダーをやっています。

国内でも戦うイメージよりも選ばれるためのレースというようなイメージに変わってきて、シンプルに競争して勝ったものが行くんだという形を今回は東京オリンピックにもっていく、それで戦う意識が選手に育っていれば、可能性は見いだせるのではないかと思って仕組みを変えていこうと思いました。
何か変えないと日本のマラソンは変わらないという思いの共通認識はできたと思います。
男子が31人、女子は12人のレースが予定されている。
2時間11分が世界ランキング30位程度、世界で戦うには2時間8分30秒ぐらい、女子では2時間24分程度になるような仕組みを作っていけば、それを越えないと次のステージに行けないので、段階を追うという事が今の世代にはあっているのではないかと思いました。
ワイルドカード 国際陸連が世界記録を公認するような大会などに参加 マラソングランドチャンピオンシップの道にいろんな登り口を用意したかった。

しっかりとしたマラソンの経験値を持った選手をスタートラインに並べたいという意見もあったので、仕組みの中に取り入れていったというのがマラソングランドチャンピオンシップです。

2時間5分台の記録が出てきました。
2015年から1億円の報奨金を日本記録に出したのが強烈な飴だったと思います。
マラソングランドチャンピオンシップは鞭の部分でそれが合わさって良い記録が出てきたのではないかと思います。
9月15日はいい天気であってほしいとまず思います。
レースは誰もが予想できないマラソンレースになるのではないかと思います。
スタート1km地点からは本番とほぼ同じコースになっています。
女子は世界との距離にある程度の距離を維持していた。
日本記録は出ていないが世界とそんなに離れていない。
女子は早いレースになるのではないかと思います。

本番は女子が8月2日、男子が9日、暑さとの戦いもある。
①選ばれた選手が暑さに得意なのか、苦手なのか、個性をどう判断するか。(体質)
②暑さのなかでのコンディショニングをどうやれば疲労を残さず本番を迎えられるか。(トレーニング期) 
③当日の天候にどう対応するのか。(本番)
2時間走る中で気温が30度を超えるとパフォーマンスが5%落ちる。
2時間3分で走る人が2時間9~10分のレベルになる。
今日本では2時間5分程度ですが、3%に抑えると2時間9~10分のレベルになる。
2~3%に抑えることができればメダルも見えてくると思います。
スタート時間が午前6時になりました。
温度もありますが一番敵なのは湿度なのかなあとも思っています。














2019年7月16日火曜日

石川九楊(書家・評論家)         ・書は芸術なり!

石川九楊(書家・評論家)         ・書は芸術なり!
福井県生まれ74歳、5歳から大人に混じって書道を習い始めました。
大学は子供のころから憧れていた弁護士を目指し、京都大学の法学部に入学しましたが、1か月でその思いが壊れ、大学の書道部で本格的に書道に向かうようになりました。
卒業後は化学会社に入社しましたが、その会社を11年務めて退社、その後は書道を中心に仕事をするようになりました。。
今の石川さんの作品は細かい線で描く幾何学模様のようだったり、四方八方に広がる緻密な線の表現だったりと、読めないといわれることことが多くあります。
2年前の7月に上野で「書だ、石川九楊」展を開き、青年期の作品から古典や最近の作品等展示して多くの人にインパクトを与えました。
作家としても活躍し100冊を超える書物を書き、「書の終焉」でサントリー学芸賞
「日本書史」で毎日出版文化賞、「近代書史」で大佛次郎賞などを受賞しています。
来月は名古屋で展覧会を開くことが決まっています。

今、90×65cmに2400字ぐらいの作品を作っています。
相当小さい字になります。
今日で5日目になります。
体調、気持ちが萎えてくるとやめて(1時間半ぐらい書いて)散歩などして、墨をすりなおしてまた1時間半ぐらいしてこれ以上持たないという事になると翌日にやります。
墨は放っておくと少し分離するので新しくその都度すりなおします。
気持ちが油断するとそのまま形になって現れますので気を付けます。
2年前の7月に上野で「書だ、石川九楊」展を開きましたが、見学者が多く僕も驚きました。
上野の森美術館の広さをうまく利用できました。
壁を作らずに広く見渡せるようにしました。
絵のような作品もあるが、自由に見ていただければいいと思います。
自分でもわからないところがありますので。
未意識に現れてきてしまうという、そこが表現の面白さだと思います。
83mにつないだ作品もありましたが、全部つなげたのは初めてでした。

1985年ぐらいからああいう風な形で書いてゆく段階に入りました。(40歳ごろ)
周りから読めないというように言われるようになりましたが。
書を見るうえで一番の失敗はなんて書いてあるかという風にアプローチする、そこから先が書の問題です。
「山」ならその人の山への理解、アプローチする角度、その人が使う意味とか、そういうものが全部出てきてしまうものだと思います。
作品が物語る、その作品の声を聴けばいいと思います。
例えば「言葉なんか覚えるんじゃなかった」という句があったときに、どういう風に書いたらその言葉と釣り合うようになるか、教わってきた上手に書けましたというようなものだとその言葉が逃げてしまうというか、辱めてしまうというか、それだったら活字でいい、どうやって「言葉なんか覚えるんじゃなかった」というフレーズを書として書けるか、書けないか、自分が一番響いてる言葉をどう書くかという事に腐心して、それを少しずつちょっとずつ何かが見えてくるものがあって、それを積み上げていったら、ついに普通に言えば読めない字になったという事です。

大人に混じって5歳から始めました。
小学校中学年になると賞をもらったりしてそれを励みに書きました。
中学は書道部に入り、先生が僕に大きな影響を与えてくれました。
褒められて書が楽しくなりました。
高校時代は先生とはそりが合わなかった。
展覧会とかに対して価値を持たない先生でした。
数学研究部に入りました。(幾何学が好きでした)
大学は書道部に入りました。
書いていくうえで手ごたえがありました。
10歳ぐらいに鉄道のストライキをやっているところに警察が来て理不尽な行為をみて、権力側とは違う形で役に立とうとおもって弁護士になろうと思っていました。
法律は法律に過ぎない、人間には法律以前の広大なルールがあって、それの方がとてつもなく大きい、それを抜きに法律を解釈することはつまらないと思いました。
いろんな状況があるときにそれを変える力には法律はならない。
司法試験に向けてはもうやめようと思いました。(入学1か月後)
残っていたのは書でしたが、何か世の中に役に立つことはしたいとは思っていました。

1967年に京都の化学会社に就職する。
大学の時に婚約をして食べてゆくために仕事をやる必要がありました。
働きながら書道はやっていました。
学問的に書をやる人と書を表現するところと二つに分かれてやっていました。
定年まで描けるか2,3年悶々としていたが、1978年に辞めました。(会社は11年間務める)
編集の仕事を頼まれるようになりそれが忙しくて、書ができなくなってしまいました。
彼女も会社を辞めて、彼女がギャラリーをやる事になり、買い上げる作品を作るという仕組みになって、それから作品がたくさん生まれるようになりました。
妻の力が偉大だったが、亡くなって半年になります。

「エロイエロイラマサバクタニ」という作品とか「歎異抄」、「方丈記」、「徒然草」「源氏物語」、「罪と罰」というところを書いてきました。
「エロイエロイラマサバクタニ」というのは350×240cmぐらいの作品です。
イエスが十字架にかかったときに「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(「我が神、我が神
どうして私を思捨てになったのですか」)と叫んだ言葉。
1968年から始まる世界の学生たちが世界を変えようとする運動が1970年ぐらいに収束するが、1970年の展覧会は100人も集まり本当に熱気がはらんで書について議論した。
1972年には一日誰も来ないという日もあり、ある種の空虚感が襲った。
その景色と重ねて「エロイエロイラマサバクタニ」を作った。
書いてゆくときに、こんな風な形になって現れて来るんだと、自分がその出来事のなかに入り込んでいきました。

「歎異抄」、「方丈記」、「徒然草」「源氏物語」歴史的なもの、2001年にアメリカ同時多発テロ9・11、お台場原発爆発事件3・11などなども手掛けてきました。
歴史的なものの後に「罪と罰」などを経て評論を作品にしたものとして9・11、3・11へと向かいました。
文筆活動は100冊を越えました。
「書の終焉」でサントリー学芸賞、「日本書史」で毎日出版文化賞、「近代書史」で大佛次郎賞などを受賞しています。
妻にはいろいろ負担をかけたと思います。










2019年7月15日月曜日

太田義昭(太田雄貴の父)         ・【アスリート誕生物語】フェンシング銀メダリスト

太田義昭(太田雄貴の父)   ・【アスリート誕生物語】フェンシング銀メダリスト
2か月に一回ぐらい雄貴と会って食事などしています。
日本フェシング協会会長として現在活躍中。
自分の工夫とアイディアをだしながら進化させるのが好きなようです。
フェンシングを通していろんな方と出会う中でそういったものが培われたのかなと思います。
3人兄弟の末っ子で、いろんな運動が大好きでやっていました。
負けず嫌いなところもありました。
私が高校の時にやっていたので、フェンシングをやってみないかといいました。
私も妻も小学校の教員をやっています。
子どもの笑顔が素敵なので子どもがにこにこしている状態を常に作りたかった。
子どもの気持ちになって考えるという事はしていました。
雄貴は小学校3年生ぐらいからフェンシングを始めました。
やっているとそれなりに結果が出てきました。
初めて6か月ぐらいで3,4年生の部で3年ぐらいやっている子に勝って優勝してしまいました。
そこから突っ走っていったように思います。
本当に自分の好きなところで成長してくれる一つになってくれればいいなあと思いました。

小さいときには僕が教えていましたが、クラブチームにも所属していて、そこのコーチにもしてもらって4年生の後半ぐらいからは、東京のほうに行って教えてもらうようにもなりました。
怪我した時もテーピングして練習したり、熱を出した時にも頭にぬれたタオルを巻いて形だけでもやろうという事でやったりしていました。
小学校3年生の5月1日から4300日休まずに練習してきました。
ドイツに短期留学して、ドイツでは練習しない時をきちっとして、メリハリをつけるという事でそれからしばらく練習を休むという事にしました。
3年続けると本物になっていくと思います。
そうなるともったいないあという事になり続けてきました。

2008年の北京オリンピックで銀メダル、2012年ロンドンオリンピックでの団体銀メダル獲得という事になりました。
高校ぐらいからは当人が一生懸命やりました。
自分が納得できないことはしない、どうしたらいいかを的確に考えてやった結果だと思います。
海外に行くと経費が掛かったし、勉強の時間も取れなくなるので、妻はフェンシングだけやっていていいのかという風な思いもあったようですが、フェンシングを通して人間を作れて海外にも行って、自分と力をいろんな人と比べながら暮らすのもいいのかなあと思って、その場を濁らしたこともありました。
妻はもっと勉強もという思いはあったようです。
高校インターハイを3連覇して、それを妻は見て感動しました。
以後は子供の活動を楽しみにするようになりました。

子育てをやるなかですこしずつ料理をやるようになって、うまいといわれるようになって私がつくるようになってきて、妻のおかげでできるようになりました。
フェンシング以外に注意したのが食事です。
一食10品ぐらい、自分のできる物をうまく組み合わせて料理していきました。
5秒で作る卵焼きを雄貴の奥さんに伝授しました。
子どもの才能を伸ばすためには、早咲き遅咲きがあるので、いろんなことを仕掛けてゆくことは必要かと思います。
子どもの反応をメモしていく。
まず3日やってみる、そうすると1週間は何とかなるが、1か月はちょっと難しいが、1か月過ぎたら大体向いているかどうかがわかる。
褒めることは大事だと思います。
小学校3年生は褒めると勘違いすることもあり、それも方向付けには大事です。
私のレベルは低くて、サービスばっかりしています。
子どもともに活動することで成長する姿を見るのは楽しいと思うので、自分自身を高めるチャレンジをしてもらうことで、子どもも成長させていただければと思います。

















2019年7月14日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】
ブスタフ・マーラー作曲 交響曲第5番 第4楽章 「アダージェット」 
ブルーノワルター指揮  ウイーンフィル管弦楽団演奏 1931年の録音。
作曲された時期はウイーン時代の「絶頂期」ともみられる期間に当たっている。
マーラーがなくなってから20年後。(マーラーを直接知っていた人たちの演奏)
ハープ弦楽器による第4楽章アダージェットは、ルキノ・ヴィスコンティ監督による1971年の映画ベニスに死す』(トーマス・マン原作)で使われ、ブームの火付け役を果たしただけでなく、マーラーの音楽の代名詞的存在ともなっている。

19世紀末のウイーンの遺伝子息吹は作曲家にどんな風に伝わて行ったのか?
世紀末 爛熟期が終わりそこから離れてゆく、そういったものを嫌う雰囲気であったり、退廃的な独特な形式美みたいなものが美術の世界でも生まれる。
世紀末 美術界では クリムト 分離派の代表。
1897年はブラームス(63歳)が亡くなりクリムトが分離派を宣言する。(時代の節目)
同年5月ブスタフ・マーラー(36歳)が指揮者としてウイーン宮廷歌劇場にデビューする。(指揮者として頂点に立つ)

*交響曲第3番から第3楽章 ブラームス作曲(50歳) 
映画『さよならをもう一度』で有名。
ブラームスはヨハン・シュトラウスと親交があった。

ヨハン・シュトラウス作曲 ウエーベルン編曲 「宝石のワルツ」
当時としてはインパクトのある編曲だったが、今では古き良き時代のウインナワルツ。

フランツ・レハール作曲 (世紀転換期の作曲家)「メリー・ウイドウ」ヴィリアの歌
「銀の時代」とよばれたウィンナ・オペレッタの第二黄金期を代表する作曲家となった。
世紀転換期における、レハールには響きに独特の哀愁、かげりがある。

ヘルメス・ベルガー ヴァイオリンの名手、コンサートマスター。
*バレエ 「イベリアの真珠」から「ロマの踊り」

クライスラーの「ウイーン風小行進曲」

ブスタフ・マーラー作曲 交響曲第6番 第1楽章



2019年7月13日土曜日

谷口美保子(実行委員会 委員長)     ・【人ありて、街は生き】都賀川で流された子らを忘れない

谷口美保子(「7月28日を『子どもの命を守る日』に」実行委員会 委員長) ・【人ありて、街は生き】都賀川で流された子らを忘れない
10年前2008年7月28日、神戸市灘区を流れる都賀川が、急な雨で増水し5人が流されて亡くなりました。
極地的に降った大雨でわずか10分ほどの間に川の水位が1m30cmあまり上昇し、川のほとりの親水公園にいた市民に激流が襲いました。
民間の学童保育の指導員に引率された小学生2人、帰宅途中だった20代の女性と保育園児の姪、30代のアルバイト男性の合わせて5人の命が失われました。

7月上月上旬、10周年の忍ぶ会を3週間後に迎えて準備が行われていました。
7月28日 当日いい天気でした。
天気予報では大雨とのことだった。
2時ごろ雨が降ってきた。
その後ニュースで子供が流されていることが放送されていた。

亡くなった2人と同じ学童保育に3うちの人ともお世話になっていました。
神戸市灘区の住宅街を南北にを流れる都賀川でした。
六甲山に降った雨を集めて海に一直線に流すような川です。
傾斜が急で長さも1,8kmと短いコンクリートで固められた川です。
雨が降らないときには遊歩道も作られています。
2008年7月28日(月)の朝はとても天気が良かったです。
午後から急に暗くなってそのうちに雷が鳴りだしました。
午後1時55分に大雨洪水警報が出される。
2時20分ごろから雨が降り始め、2時30分過ぎに、52人の人が親水公園で水遊びやバーベキューを楽しんでいた。
突然の豪雨で川が増水、16人が流されたり取り残されたりして、11人は助かったが、民間の学童保育の指導員に引率された小学生2人、帰宅途中だった20代の女性と保育園児の姪、30代のアルバイト男性の合わせて5人の命が失われました。

小学生のふたりは特別支援学級に通ってる児童でサポートのいるお子さんで水遊びに来ていた。
児童生徒は19人、大人は3人という体制だった。
大学生が小学生3人を引率して川下に行きました。
16人を2人の女性(60代と40代)が引率する形になりました。
とりあえず橋の下で雷を避けていたが、危ないので上がろうという事になった。
上がる階段が少なくてそこを目指してゆく。(上流70m先)
そこにたくさんの水が流れてきた。
2人が下流に流される。
一人の指導員が下流に走ったが、大学生は自分の判断で子どもたちを上げた。
大学生は携帯を持っていて上がる旨連絡しようとしたが、二人の指導員は学童保育所に置いて来ていたので連絡は取れなかった。

事故の検証をしたいという事で検証報告ができている。
関西学院大学の室崎教授が担当する。
指摘事項が3つあった。
①堤防の上へ避難する行動開始が遅れた。
行動を開始してから濁流に遭遇するまで2分前後ととても短かった。
②激流が向かってきた時点で16人を引率する指導員が一人しかいなかった。
③子供たちが激流に巻き込まれた時点で救助活動をしたが、力が及ばなかった。

雨が降った時の都賀川の危険性についての認識が指導員にかけていた。
人から警報が出ているといっていただいたのに軽視していたり、真っ黒い雲、雷などの前兆があったにも関わらず見逃していた。
危機意識が弱かった。
自然の危険についての保育所としての学習不足も反省材料であると報告されている。
上流と下流の複数のグループに分かれてしまった。
指導員相互の連絡を携帯電話でせずに隊列を離れたこと、避難時に一人体制になってしまった。
マニュアルがなかった。
検証報告で提示された課題をきちっとこれからやってゆくのが学童の責任ではないかと思います。
自分たちの検証を出してゆくのが亡くなられた家族などに対してできる誠意ではないかと思います。


翌年「7月28日を『子どもの命を守る日』に」という実行委員会を立ち上げる。
体験談、目撃談を集めたり、防災、地質学の専門家を招いて勉強会を開いたり、毎年小冊子にまとめてきました。
親水公園の整備自体に問題を投げかけた専門家もいました。
都会の中を一気に水を流し込む水路に、後から親水公園にして、増水時の警報も設置されていなかった。
取り残されるという事故がその前にもいくつか発生していた。
昭和13年には阪神大水害があり都賀川を含めて氾濫して、約700名の方がなくなっている。
昭和42年にも亡くなった方が84人という水害がありました。

天気のいい時には本当に穏やかな川に見えてしまう。
阪神淡路大震災の時にその水を使ったという身近な川というふうに感じられた。
この二つが恐怖を抱かなくなった要因かと思います。
ユニークな警報装置、注意書き設置、上がれるような場所、はしごなども作られました。
危険が高まってるというアンテナ、想像する力というものを身につけないといけないと思います。















2019年7月12日金曜日

原田泰治(画家)             ・にっぽんのふるさとを描く

原田泰治(画家)             ・にっぽんのふるさとを描く
1940年長野県諏訪市生まれ79歳、1歳の時に小児まひにかかり両足が不自由になります。
大学卒業後は故郷諏訪市でグラフィックデザイナーとして仕事をする傍ら、少年時代を過ごした田舎をテーマに絵を描き始めます。
全国各地を取材した詩情豊かな作品は、1982年4月から2年半に渡り全国紙の新聞に掲載されました。
日本から失われつつある故郷の風景や祭り、風物史など後世に残しておきたい風景を描き続ける原田さんに伺います。

諏訪市の看板屋さんの家に生まれる。
兄弟4人で一番下です。
諏訪市から飯田(伊賀良村)に疎開して開拓農民として父は仕事をする。
母親(38歳)は2歳の時に看病疲れで亡くなる。
僕のことを考えてくれたのか、足の悪い新し母親と一緒に飯田で過ごすことになる。
4,5歳のころ動けないので高台の家から風景を眺めていましたが、それが原点になったと思います。(鳥のような俯瞰的な目)
遊び場へ友達に背負ってもらっていったが、動けないので自分で一人で草花など見て遊んでいました。(虫のような目)
見ていていろいろ発見がありました。
四季の移ろいの風景を飽きずに見ることができました。
その後また諏訪に戻ってきて、中学、高校は諏訪で過ごすことになる。
中学では空を描いていて、先生からはあまり描かなくていいから要領がいいと言われて、自信を失い絵は駄目でした。

父の兄弟は12人いて4人は芸術家でした。
叔父さんが銀座でデザインスタジオを20人ぐらい使ってやっていたのでそこへ行けばいいと思っていましたが、もう時代が違うから高校大学に行くべきだと諭されました。
それまで勉強は何にもやっていなかったので、定時制の高校に行くことになりました。
経済的な理由で定時制に来ている人が多くいて優秀でした。
いとこが絵を描いていたので、自分でもやろうと思って定時制に行きながら昼間は絵を描いていたりしました。
全国高校生ポスター募集コンクールがあり、愛鳥週間のポスターで佳作に入って自信がつきました。
6か月後に林野庁の募集があり、全国で2位になりました。(応募は4000点ぐらい)
副賞としてスチール製の本箱が届きました。
美術の道に進もうと決心しました。

デザインは落ちてしまって、油絵をやっていたので洋画へ入ることになりました。
デザインに入りたくてその授業に行きましたが、先生から文句を言われてしまいました。
もう一度デザインの基礎から一生懸命勉強し、いい成績で卒業出来ました。
おじさんの会社に入るわけですが、5か月でやめることになりました。
足が悪いのでラッシュアワーの通勤が厳しかった。
諏訪に戻ることにしましたが、デザインの仕事は何もありませんでした。
23,4歳で結婚して、地方の集落を回って展覧会のPRをしたりしていました。
飯田、諏訪の町から仕事が来るようになって食べていけるようになりました。
新聞にクロアチアの素朴画というものがあり、イワン・ラツコビッチという作家が自分の故郷をこよなく愛して、故郷のために描いている画家いるという事が書いてありました。

自分も故郷を描こうかなあと思って、それが発端で仕事の合間に描くようになりました。
最初は伊賀良村を描きました。
40歳で小学館絵画賞を受賞、故郷を描いたもの。
絵とデザインの両輪で生きて行こうと思いました。
2年後に全国紙の日曜版に紙面の半分を使って絵を掲載する仕事が舞い込んできました。
その後全国を歩いてやってほしいといわれ、文章も書いてほしいといわれました。
最初は文章を書くのが大変でした。
ファンレターが来て、その中に80歳のおばあさんから楽しみにしていますという手紙が来て、そのおばあちゃんのために書こうと書き始めたら文章が良くなってきました。
NHKの「明るい農村」もとても参考になりました。
幼児体験もあり、何でもないようなところを描いていました。
毎週の掲載なので当時睡眠時間は3、4時間ぐらいでした。
写真もたくさん撮りました。
今でも空から描き、その上に段々絵を乗っけていきます。(遠い所から描きます。)
人物には目鼻は描きませんでした。
1年で終わるつもりでしたが、2年やることになり、最終的には2年半になりました。
1998年に原田泰司美術館ができました。
日本っていいなあ、日本の四季はいいなあと思っています。
観光地だけではなくちょっとした集落へ寄ってみるとか、自分で旅を発見する時代になってきているのではないかと思います。
自分の故郷を描く絵画コンクールをやっています。
自分の目には伊賀良村というフィルターがあり、それを通しながら見ているかもしれない。
足が悪いためのそのおかげで限定した世界を見つめ、それでヨーロッパの絵を描いても伊賀良村が出てきます。
人間は掘り下げた故郷の見方をしてゆくと結構絵に忠実にでてくると思います。
自分の故郷を描いているのは少ないと思うので、長野県の合併前の故郷(○○村)を描き残したいという事と、子供たちに絵の楽しさを伝えたいし、障害者のためにバリアーフリーの運動も始めました。











2019年7月11日木曜日

佐野公俊(脳神経外科医)         ・目と手で生命(いのち)を吹き込む

佐野公俊(脳神経外科医)         ・目と手で生命(いのち)を吹き込む
1945年東京生まれ、母方の祖父と身近にいた叔父がともに医師であったため、子供心に医師へのあこがれを持っていました。
都立戸山高校から慶応義塾大学医学部に進み、脳神経外科を専攻しました。
卒業後1976年に愛知県にある藤田保健衛生大学(現在の藤田医科大学)に赴任し、顕微鏡とCTを用いて数多くの手術を手がけました。
血管の中にできたこぶを取り除く脳動脈瘤手術が4300例、動脈や静脈の奇形を治す手術は300例に上ると言われます。
2010年に藤田医科大学を定年退職した後は、神奈川県にある新川橋病院の副院長に就任し名古屋市と川崎市を行き来しながら、脳外科の手術や外来患者の診察にあたっています。
長年にわたって数多くの手術を手がけてきた佐野さんは手術に向かう時の自分なりの境地に達したといいます。

名古屋に住んでいますが、日曜日の夜名古屋から川崎にきます。
もっと手術を広げようと関東でも仕事をすることを選びました。
川崎では月、火で手術をして水曜は外来を診ます。
外来が終わったら名古屋に戻り、木曜が外来、夕方テニスをして、金曜日が違う病院で外来、午後はいくつかの病院で手術を入れていたところで手術をして、土曜日も病院に行って日曜日はフリーで午後テニスをして夜には川崎に向かいます。
最初は新幹線でしたが荷物が多くて最近は車にしています。
運動をやらないで、仕事をやっていると精神的にも参ってしまいますから。
7月にはブラジルとメキシコの学会に呼ばれて講演を30分ぐらいずつやる事になっています。
藤田保健衛生大学にいたころインドから研修生が来ていて、それがもとでインドとの付き合いが始まりました。
カルカッタで佐野動脈瘤手術学校を作ることになり、ライブで手術を見せて終わった後解説してという事を年に3,4回やっています。
クモ膜下出血になると70%が寝たきりまたは死亡で、30%が軽い後遺症または正常ですので、くも膜下出血になってしまうときついので脳ドックを行うといいと思います。
顕微鏡は持っていけませんが、手術道具は自分の使い慣れたものは持っていきます。
なにはともあれ安全第一で、次に美しい手術を心掛けています。

昭和20年生まれ、前日は東京大空襲だった。
母親の実家が開業医で叔父が医者で、自分自身も医者という職業に憧れていました。
手が器用だったので外科医になりたいと思っていました。
千葉大学と慶應義塾大学に受かったが、慶応義塾大学に行くことにしました。
神経学があり面白いと思って、脳神経外科を選んで、耳鼻科の手術で顕微鏡を使っているのを見て自分が日本で初めての脳神経外科として取り込もうと思っていたら、卒業するころには日本にも用いられるようになりました。
菊池晴彦先生が顕微鏡を持ち込んだ方でした。
携帯の顕微鏡を自費で購入して手術の実力をつけていきました。
藤田保健衛生大学に行くことになりました。
新しくCTが導入され、脳の中が実際に見えることは革命的でした。
昭和50年代は診断、手術も全部スタートラインに全員が立ちました。
手術の回数が圧倒的に増えていきました。
脳動脈瘤手術が4300例を数えることになりました。
年に100回手術をしても45年近くかかる勘定になります。

新しい病院だったので自由に活動できました。
35歳で助教授になり、すごい早かったです。
ギネスにも脳動脈瘤手術の回数で載りました。
当時30時間寝たこともないこともありました。
絵を描くようにしています、写真はある一面しか描けないが絵は裏側も描けます。
注意書き、要点なども書き入れていますが、それを後輩たちが見てくれると継承してくれると思っています。
手術前と手術後を描いています。
予定と結果が同じになっていることが大切です。
手術で脳の血管を止めていないといけないが、15分が限度でそれ以上だと脳が死んでしまうのでクリップを使って、脳に障害を残さないようにします。

以前手術をする時間に遅れそうになってジープで近道を急いだ時に、左前輪を土手のバンクに落としてしまいハンドルを切ると転倒するので、そのまま降りて行ってしまえと思っていたら、一番下に小さいどぶ川があり、乗り越えたが田んぼに突っ込んでしまったが、その直前の瞬間にハンドルのスペースに潜り込んだ。
奇跡的に助かることになりました。
病院に急いで泥だらけの衣服を着替えて、子どもの脳の手術を無事こなしました。
ある時に大量な下血があり、胃を検査したらでかい腫瘍が見つかりました。
腹腔鏡手術が出始めたころだったが、切開して胃を取りだして切り取って縫う方法で行って4日で帰ってきて、そのまま仕事をして、3週間後にはテニスをしました。
自分は守られているというか、神がかり的なこともありました。
神様に、僕の手に乗り移ってくださいという気持ちでやっています。
自分がやってきて得たものを次の世代にバトンタッチするために残しておけば、必ず若者は越えていけると思うので、人類のためには巨象が出てきてほしいので、手や目がしっかりしている間に残していきたい。
「術前に悩むも、術中に迷うことなく、かん?にて6分、けん?にてひぶ?に見極め、手自由にして手に道具合うを忘れ、道具手に合うを知らず、心常にして空、独座大雄峰なり」
という境地ではないかと思います。
独座大雄峰 座禅を組めば雄大な山のごとくになる、顕微鏡の前に座ってそに没頭して雑念がなくなって、自分と手術の中に埋没してその中で自然と手を動かしている、そうしているとそれが一番綺麗な手術に結果的になっている、そういう意味です。














2019年7月10日水曜日

安彦良和(漫画家・アニメーションディレクター)・漫画・アニメで描く「戦争」と「人間」(2)

安彦良和(漫画家・アニメーションディレクター)・漫画・アニメで描く「戦争」と「人間」(2)
1979年からアニメ専門誌で5年連続アニメーター部門 1位があったが、1989年漫画専業となる。
アニメ界が1980年代で随分変わりました。
この世界でやっていけないとかなりはっきり見えてきて、いつかやめようと思って1989年に作った映画を最後にやめました。
メディアがリードして作っていくような空気がうまれました。
一つはオタク化(超マニア的な)、気持ちが悪かった。
もう一つは宮崎アニメが代表すると思うが、メディアが主導して発展してゆく。
「風の谷のナウシカ」1984年に作られて非常にいい作品でした。
宮崎駿高畑勲氏などは正統派だった。
私の場合はどちらでもなかった。
居心地が悪くなり漫画に転向しました。

古代史にちょっとしたきっかけで興味を持ちました。
ノンフィクションのほうが面白いのではないかと思いました。
印税入ってくる漫画の方がギャラも全然よかった。
「ナムジ」、オオクニヌシノミコトなど日本の国の成り立ちを探る漫画でした。
出雲にも何度も行きました。
同じように「神武」も書きました。
古事記、日本書紀については戦前と戦後では評価ががらりと変わります。
戦前は神話で書いてあることをあたかも歴史のように教わって、信じさせられて、戦後は信用してはいけない、歴史とは全然縁のないものだといわれるようになって、歴史を考えるうえで素材として排除されるが、僕としては両方おかしいのではないかと思います。
何かそれに近い史実があったのではないかと思います。
日本近代史3部作については、現代史は戦争の歴史ですから、古代の神話と現代の戦争を中心にした歴史が物凄く密接に結びついちゃっているという、非常に日本の不思議な形を考えてみたいと思いました。

相変わらず古代の歴史は判らない、天皇陵も調べることができない。
現代史にかかわる事なので両方から攻めてみたいというのがありました。
日清戦争、松本健一さんという思想家で北一輝の研究で有名な方ですが、民主党政権の時に内閣官房参与になって亡くなられましたが、その方にいろいろ教えていただきました。
日本はどこで間違ったのかその方に聞いたら、対華21か条の要求をしたのが、第一次世界大戦中にやったが、これが決定的に間違いのもとだとおっしゃいました。
そこに至る経緯もあっただろうと思いました。
日清戦争あたりからおかしいのではないかと思いました。
勝海舟、明治天皇も反対しましたが、全体としてはいけいけという事で戦争になりそれから間違いだらけのような気がします。
中国と日本が朝鮮を取り合うわけで、その構図も今につながるなあと思います。
日清戦争は非常に大きな対象なのではないかと思いました。

日露戦争から日韓併合あたりまでの日本のありようを書いたのが「天の血脈」です。
ロシアと日本が朝鮮を取り合う構造で、いかに朝鮮という問題が日本にとって大きいか、という事がそこからわかると思います。
古代にさかのぼると、三韓征伐と言われている神話上の事件があります。
これも何かあったのではないかと考えました。
神功皇后(息長帯比売命)が渡来系の部族の出で、神功皇后が海の向こうに国があるから行こうというので、率先して行われるものが三韓征伐というものです。
神功皇后が帰ってきてお子さんを生むが記紀の神話でも月数が合わないと書いてある。
今生むわけにはいかないという事で腹帯を締めて、出産を遅らせて帰ってきてから生んだという非常に面白い表現を神話がしている。
仲哀天皇は遠征前に死んでしまっているので、そこから数えて勘定が合わない。
そういうきわどいことを神話にして昔の人は伝えた。
普通に考えるとお父さんは仲哀天皇ではないと疑うが、昔の人も疑ったんですね、だから腹帯をしめたとかいろいといって、日韓関係が微妙なものだという象徴じゃないかと思っています。

これと日韓併合を結び付けて書くというのは、問題提起になる。
伊藤博文を暗殺した安重根なども出てきます。(暗殺する前の状態ですが)
日本では暗殺者、韓国では英雄となっていますが、決して美化したりはしていません。
テロリストでもなく英雄でもなく描いています。
そういう人が劣情にかられる時代状況があり、その時に間違ったことを日本はしてしまったという事だと思います。
安重根も日本に憧れて日本のように朝鮮を近代化しようと一生懸命頑張った人で、日本に裏切られたと思ってテロに走るわけですから。
おっちょこちょいのところもあり勘違いもしている、皇帝を毒殺したのは伊藤だという風に勘違いもしている。
「虹色のトロツキー」 満州国を舞台にした作品。
日蒙ハーフの主人公 ウムボルト 満州建国大学の学生。
1991年ごろから書き始めました。
満州建国大学へかつていった人たちに取材に行ったときには警戒されましたが、優秀な人たちでした。
「五族協和、王道楽土」新しい国を作るんだという熱意に駆られてで行くわけですが、行ってみると違うという事である種のストライキもするわけです。
彼らの問題意識には打たれるものがあります。
日本では発禁で読めない本も読めるという事で行った人もいたようです。
満州建国大学に行って人生が狂った人もいたが、みんな満州建国大学に行ったことを誇りに思っています。
OBの方もほとんどなくなりましたが、感銘を受けました。

スターリンにトロツキーは暗殺されるが、ガンジーと一緒に満州建国大学の教授に招聘しようとしたらしい。
石原莞爾が創設のきっかけをつくるが、そういうことを考えたらしい。
主人公は「五族協和、王道楽土」の建設を信じて必死に生きていくが大きな歴史の流れに抵抗できなくて埋もれて流されてしまう。
満州国は歴史上の汚点で、侵略的な傀儡国家を作って潰れてしまって、入植者,邦人はたくさんの人がひどい目にあって死んでいって、そう言う間違ったことはしてはいけないという負の歴史一面だけで語られていて、それでは満州で生きた人は浮かばれないのではないか、理想に憧れて実現しようとした人たちの人生があったわけで、肯定的になる必要もないが、その時代に生きた人たちの思いは何だったのかなあという事を考えることはとても大事なことだと思います。
昔の人は間違えて馬鹿だったねというのは違うんで、我々よりもずーっと賢明だったのに間違えた、だからわれわれも十分に間違えるよと思わないといけないという気がします。

「乾と巽」シベリア出兵の話、去年書き始めました。
1918年 100年前にあったこととしてスタートしています。
約100年前に起きたシベリア出兵を舞台に、砲撃の名手である陸軍軍曹・乾と、気鋭の新聞記者・巽という2人の青年を通し、ロシアの戦場を駆け抜けた男たちの生き様が描かれる。
低い目線でその時代にちょっと参加した気分になりたい気がして書き始めました。
これを書ききれれば自分なりに近現代史を書ききれることになります。
歴史は大きな歯車で個人は非常にちいさなもので、それ自体ドラマのような気がします。
大きなうねりと小さな個人は大きなうねりと全く関係ないんじゃなくて、うねり自体は人間が生み出しているもので、それに人間が翻弄される。
人間のかかわりの問題だと思います。

ペンではなく毛筆で描いています。
中国の削用筆を使っています。
アシスタントは次男がやっています。
時代に絡んでゆく、そういう問題意識はどこかでもっていてほしい。








2019年7月9日火曜日

安彦良和(漫画家・アニメーションディレクター)・漫画・アニメで描く「戦争」と「人間」(1)

安彦良和(漫画家・アニメーションディレクター)・漫画・アニメで描く「戦争」と「人間」(1)
北海道遠軽町出身71歳、今年放送開始40周年を迎えた「機動戦士ガンダム」の生みの親の一人です。
1979年に放送が始まった「機動戦士ガンダム」、様々なシリーズや劇場用映画がつくられ膨大な数のグッズを含め、日本を代表するコンテンツつの一つになっています。
安彦さんはアニメーターとして人気絶頂の時に漫画家に転身しました。
日本の近代史を検証する作品や日本の古代史の謎に挑む歴史漫画などを数多く描き、その流麗なタッチと抜群の構成力が高く評価されています。

「機動戦士ガンダム」のストーリーは、人口が増えて人類の半数が宇宙に移住した未来が舞台で、宇宙植民地スペースコロニーに住んで独立を求めるジオン公国と地球連邦軍との戦いを描いていて、戦いに巻き込まれて成長してゆく少年少女たちの物語。
安彦さんはキャラクターデザイン、アニメーションディレクターを担当する。
キャラクターデザインはロボット、船などをデザインした人は別で、僕がデザインしたのは人物のキャラクターです。
アニメーションディレクターは作画監督と日本語に訳してもいいです。
作画をする人は何人もいて、統一感を持たせなくては行けなくて、あとで直しを行います。
シナリオがつまらなかったらケチをつけたりするなど幅があります。
1979年4月から放送が始まり、劇場用映画、新シリーズなどが制作され、関連商品の売り上げが年間700~800億円と一つの産業になっている。
放送が始まってすぐに一部の若い年代層から反応がありました。
放送時間が5時30分からで視聴率は惨憺たるものでした。
52話のシリーズが43話で中止になりました。
監督などはがっかりしていましたが、現場は一杯一杯だったので僕はよかったと思いました。
中止が決まったちょっとあとにダウンして入院してしまいました。
肋膜の病気で半年入院しました、過労だったと思います。
突然発作が起きて呼吸ができなくなり、それが繰り返され、死ぬんじゃないかと思いました。

「機動戦士ガンダム」は物語が従来と違ってかなりリアルにできています。
戦争で主人公たちは一般の青少年、一般の市民の設定であり当時としてはちょっと考えられなかった。
主人公のアムロ・」レイは内向的で友達付き合いもうまくなくて喧嘩すると弱いとか設定が従来と違っていた。
古谷徹さんが声優としてオーディションを受けたそうです。
輸送船を設定、難民も収容する。
テーマはと聞かれたらありませんと言っていたが、なぜ戦争ってしてしまうのだろうと思って、人間って分かり合えたほうがいいよなあと後で考えたことですね。
1989年に漫画家に転向。
30年近くたって機動戦士ガンダムの総監督になる。
1991年からガンダムを漫画で描きなおす作業を3年と思っていたが10年かかりました。
ジオン公国の過去、どうして戦争になってしまったんだろうと思って、過去編を書かなければいけないと思ったりして10年かかってしまいました。
過去編の部分だけでも映像化しようとなったのは2013,4年のころでした。
その関係で総監督になることになりました。

生まれは北海道の遠軽町です。
当時人口は2万人ぐらいで大きかった。(大合併してもいまは2万人です)
はっかを作る農家の子どもでした。
よそのこと遊ぶのは苦手で絵を描くのは好きでした。
古いマンガ本を郵便屋さんを介してもらって読むのがうれしかったです。
将来は漫画家に成れたらいいなあと思っていました。(中学時代)
高校は遠軽高校で人前ではしゃべる事ができなかったが、ひょんなことで生徒会長などもやりました。
高校3年の時に政治的な問題に見ざめてベトナム戦争が拡大していった時期でした。
小人数のグループで紙に書いて文化祭に貼り出したりしました。
ノートに2冊分の漫画があり、スペイン内戦を描いたものでした。(高校3年の時)
大学は弘前大学に行きました。(内地にいきたいという思いがありました。)
全共闘的な組織を先頭に立って立ち上ようという流れになりました。
ヘルメットをかぶってとか、演説などもやりませんでした。
当時学生は3000人ぐらいでしたが、全共闘派の活動家は50人もいなかったと思います。
1969年の秋に大学本部の封鎖をやって1か月もしないで機動隊が解除しましたが、その首謀者という事で除籍処分という事になりました、5人退学になりその一人になりました。

あてもなく東京に出てきました。
挫折していたので労働者にもなれなかった。
最初は写植屋さんをやりましたが、新聞に虫プロの求人広告があり、受けてみたら受かることができました。
大学ノート2冊に描いたものを持っていったらそれが良かったのかもしれません。
入社当時社員は300人ぐらいいましたが73年ぐらいに倒産しました。
残党が散らばって、演出家、アニネーターがつくったグループと、中間管理者のグループがありそこの会社に仕事をもらいに行ってそれから付き合いが続いています。
「宇宙戦艦ヤマト」の絵コンテを描いてほしいとの要請がありました。
「宇宙戦艦ヤマト」の半分ぐらいをやりました。
映画版の「さらば宇宙戦艦ヤマト」の絵コンテをやって、あといろいろやりました。
仕事はすごく混んでいました。
1989年漫画家になる。














2019年7月8日月曜日

穂村 弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】歌人 東 直子

穂村 弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】歌人 東 直子
(ちょっとまとめずらい内容でした。流れが見えにくいかと思います。)
(短歌の文字、漢字は違っているかもしれません)
「回転ドアは順番に」 穂村、東 共著 
東:1990年代の後半ぐらいに穂村さんとのメールでの短歌やり取りを始めました。
穂村:メールでの短歌のやり取りを編集したり、作り直したり足したりしました。
短歌のやり取りの中で物語が見えてくるようにつくりました。
穂村:「月をみながら迷子になったメリーさんの羊を歌う女を連れて」
東:「笑っちゃうくらい天気が良くて笑ちゃうくらい不味いカレーを食べて」
  「笑っちゃうくらい行く当てがなくて笑っちゃうくらい初めての道」
  「ねえどこにつながっているのこの夜は」
  「永遠の迷子でいたいあかねさす月見バーガー二つください」
穂村:書いたときに恋が盛り上がっていく時は割とすんなり書けたのですが、一番最後まで書けなかったのは出会いのシーンで、初々しい出会いを書きたいがそれが結構難しかったような記憶がある。
東:プロポーズのシーンの歌を作るって言われて苦労しました。
穂村:今読んだところは恋に落ちてゆくところ。
東:読むのは恥ずかしいようなところがありますが、作っているときには別人物、自分ではない人ですよね。
穂村:短歌は恥ずかしいという人は一定数常にいて短歌ウエットなジャルンらしい。
そうなったときにノリノリになってゆくような体質の人が短歌をやるイメージ。

穂村:「回転ドアは順番に」という本にタイトルを決めようとしたときに、「二匹」という案を出したら東さんにそれは絶対いやといわれて、順番に歌をやり取りをするという事で、結局いいタイトルにはなったと思いますが。
互選句
東:「自転車のサドルを高く上げるのが夏を迎える準備のすてべ」(穂村さんの句)
 サドルを上げると強く踏むことができて、夏を楽しむぞ、気分を盛り上げて、サドルを上げるという事だけで表現しているのと、文体のリズムの良さ、疾走感があります。
穂村:人工物と季節の組み合わせには自分にはあるのかなあと思うところがあります。
前回の「錆びて行く廃車の山のミラーたち一斉に空映せ十月」での
廃車の山のミラーと空のように。
互選句
穂村:「好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃える湖」(東さんの句)
心の中の景色だと思います。
別れの歌だと思いますが、その人が去るだけではなくて、その人が持っていた世界根こそぎ自分の近くから消えてしまう。
それをカヌーによって表現されている。
夕映えみたいなイメージ、その鮮やかさ、燃える湖。
東:心の深いところにある何らかな心象風景を言葉で置き換えてゆく作業もあってこれはその一種ですね。

互選句
穂村:「そうですか綺麗でしたかわたくしは小鳥を売って暮らしています」(東さんの句)
不思議な後味の歌ですが、何が綺麗でしたかはこの短歌だけではわからない。
東:郷ひろみさんと松田聖子さんは昔恋人同士でしたが、聖子さんが先に結婚してひろみさんのところにインタビュアーが行って「聖子ちゃん綺麗でしたよ」と言ったら、郷ひろみがちょっと躊躇して「そうですか綺麗でしたか」というところをTVで見て、「そうかそう言うしかないか」と同情もありました。
穂村:魂が抜けたような感じで、そこが良くて、「わたくしは小鳥を売って暮らしています」とよくこんな風につけるなあと東さんらしい才能だと思います、失恋があまりにも重くてちょっと浮世離れしてしまった。
東さん好みのシチュエーションですかね。
互選句
東:「まだ好きと不意に尋ねる滑り台に積もった雪の色を見つめて」(穂村さんの句)
「まだ好き」とたった4文字のセリフですが、悲しさがあります。
好きか確認せずにはいられないような、関係が冷えてきたような気持が言わせたんじゃないかと思いますが、その時に見たのが滑り台に積もった雪の感じがなんとも言えない。
細部の設定が妙にリアリティーがあって迫ってきて、すぐに溶けてしまいそうな雪で、先の風景も見せてくれて、変わってゆく関係性を投影されていて好きです。
穂村:実体験ではないですね。
雪の積もった滑り台は本来の機能はできなくなっている。
短歌を作るときの癖になっているのかも。
東:切なさがエネルギーになるという事はありますよね。

互選句
穂村:「花子さんがミカンを三つ買いましたおつりは全部砂に埋めます」(東さんの句)
不思議な短歌です。
お金を砂に埋めてしまうというのは、この世界ではない。
花子さんがいる場所はこの世界とは違う価値軸の体験の世界だという感じがして、そこに変な安らぎみたいなものを感じます。
東:この歌は作ったときに明確に覚えています。
おつりなんてそんなめんどくさいことは考えずに砂に埋めとけばいいと、応援歌のつもりで書きました。
互選句
東:「終バスに二人は眠るむらさきの降りますランプに取り囲まれて」
今にも楽しい時間が終わりを告げようとしている瞬間で、もう降りますという紫色に光るイメージがとてもきれいではかなくて、甘美さとはかなさの両面があると思います。
ポイントは紫色を選んでいるという事だと思います、暖色と寒色の両方はいっている、色の感覚が素晴らしい。
穂村:止まりますと書いてあるが止まりますでは短歌にはならない、降りますランプじゃないと。

東:「水中翼船炎上中」は穂村さんが11年ぶりに本を出されて、長い時間のなかで起こったエピソードを恋愛ではない切り口から時間をテーマにまとめられた歌集でテーマ、世界観が変わってきたのかなと思います。
穂村:東さんの作品が変わってきたという以上に東さんの作り出す世界の受け入れられ方のほうが変わったという印象は僕は持っています。
昔、今日読んだような歌を見た先輩たちはふわふわした童話的な世界だというよう言葉を言っていた記憶があるが、童話っぽいところはあるかもしれないが、別のリアリティーを示しているという事が東さんの作品で浸透してきたような気がします。














2019年7月7日日曜日

小宮和枝(俳優・声優)          ・【時代を創った声】

小宮和枝(俳優・声優)          ・【時代を創った声】
劇団テアトルエコーで50年近く活動を続けています。
声優にとってやはり芝居が基本だという小宮さんに伺いました。

ハーイあっこです』のあっこ、『うる星やつら』のラン(2代目)、『ER緊急救命室』のケリー・ウィーバー役、『24 -TWENTY FOUR-』の大統領夫人役などを演じる。
小学2年生のころアナウンサーになりたかった。
小学校2年生の時にNHKの東京放送児童劇団に入りました。
正義感が強かった感じです。
中学3年まで児童劇団にいて、高校生の時に週3日集まって勉強しました。
新劇の雑誌に劇団テアトルエコーを見て試験を受けに行きまして通ることができました。
お茶を出したりすべてが手作りで、アットホームな感じのところでした。
当時は声優学校などはなかった時代だったので、劇団に声がかかると実地で、スタジオで勉強するという感じでした。
先輩を見てこうやるんだと見よう見まねでやりました。
声だけの役に対して違和感はなかったです。
若い劇団の人がいますが、夢は声優ですといいますが、顔から上だけと思ったら大間違いですよとは言っていますが。
基本は舞台だと思います。

昔は大先輩がいてテスト、ラストテスト、本番と三回ありますが、その都度アドリブが違う人がいました。
それに対応しなければ行けなくて本当に鍛えられました。
それに見合う返し方も、それを越えてはいけないと思っていました。
1979年にアニメ「金髪のジェニー」で主役をやることになりました。
南北戦争時代のアメリカを舞台にした大農園の娘の話。
見直してみたら透き通ったきれいな声でした。
初めての主役に対しては頑張らなければいけないと思い緊張はしました。
1988年には「いきなりダゴン」、宇宙人のダゴンが昆虫たちと冒険をする物語。
同年ハーイあっこです』のあっこ役をやる事になりました。
アニメと映画の吹き替えと同じぐらいの割合で仕事をしていました。
映画の吹き替えの時にはまず演技に沿うことを念頭に行うために、映画を凄く細かく見ます。
ガヤ撮り(周りのガヤガヤした声)がありますが、ボキャブラリーの乏しい人は大変です。
ボキャブラリーの乏しい人はがやでも紡いでいけない。
いろんな引き出しを用意していないと、ガヤ一発で分かります。

洋画ではウーピー・ゴールドバーグナンシー・アレンベット・ミドラーキャシー・ベイツなどを担当しています。
洋画の場合はその役者さんの役にエールを送るというか、生き方に同調する、エールを送る。
どういう役でも品が必要だと思うんです、悪役でも下町のおばちゃん風でも品は必要だと思います。
エールを送ると同時にその役者さんと品をさやい?です。(一体となるというのは違う)
距離を保ったうえでのリスペクト(respect)だと思います。
ER緊急救命室』のケリー・ウィーバー役、いじわるをいう性格のきつい役ですが、照れたりするところがかわいい。
アニメでも癖の強いばあさんをやらせていただきますが、語尾でせりふは変わります、ちょっとの溜めでキャラクターを出せます。
普段いろんな方を見て、その人のことをいろいろ想像するので電車の中は楽しくて飽きないです。
20代の後半は急性盲腸になったり、声帯炎になり声が出なくなったりして苦しかったが、代わりの方がいくらでもいるんだと感じました。
そういったことに対して自問自答して苦しかった。
健康でないと何も生まれません。
三味線、長唄、マラソン、ジャズダンスなどやっていて、肺活量は3600ccぐらいあります。
三味線は名取をいただきました。
三味線は勘で引かなければいけないところが面白いです。
歳をとると音域が下がってきますが、長唄をやっていて上の音が下がらずにいてよかったです。
若い人は自分のセリフばかりに神経が行ってしまって、その前後関係とか、人間関係がおろそかになっている方もいます。
心を動かすこと、気持ちをブロックしては駄目だと思います。



2019年7月6日土曜日

近藤雄生(ライター)           ・吃音もどかしさの中で

近藤雄生(ライター)           ・吃音もどかしさの中で
近藤さんは42歳、同じ言葉をくりかえすなどスムーズに話すことができない吃音、近藤さん自身もかつて吃音があり東京大学工学部から大学院に進んだものの、就職を諦めアジア各地で取材をするフリーのライターになりました。
そんな近藤さんの吃音があるきっかけでほとんど解消しました、
日本に帰国した後は吃音をテーマに当事者およそ50人とその家族言語聴覚士などあわせて80人以上に5年をかけて取材、もどかしさの中で生きる吃音の当事者の声と現状を著「吃音 伝えられないもどかしさ」にまとめました。
吃音のある人達の悩みと現状を伺いました。

真剣に悩みだしたのが高校に入った時でしたが、小学校時代からちょっと話しずらいことがありましたが、全く気にはしていませんでした。
駅でお金を両替しようと思った時に急にうまく言えなくてお金を引っ込めたことがあり、そのことがショックで話せないという事を自覚したことがあります。
部活、受験などがあり高校3年生の時にいろんな場面であり、深刻に悩むようになりました。
ファーストフードでの注文時などグループを代表して注文しなくてはいけないときがあるが、しなくても済むような位置に座るとか、いろいろ工夫して隠すために細かいことにすごくエネルギーを使いました。
大学受験の時には面接があるところはやめようと思いました。
名前と受験番号が言えないと思ったので、自分の名前のように言い換えのできない言葉って一番きつかったです。
浪人して精神的にもかなり落ち込んで、心療内科のカウンセリングにも通った時期がありました。
東京大学工学部に入って4年間で直さないといけないと思いました。

原因も判らない、治療法があるわけでもなし、神経質だからなのかと思って、一人旅をしたりして、心境が変わるのではないかと思ったが変わりませんでした。
大学院に行くことになり、自分の席が電話の一番近いところで、電話が鳴ったらどうしようと、集中出来ない時期もありました。
就職はできないだろうし、文章を書きたいという気持ちが出てきていて、理系の道からずれていきました。
旅をすること自体に興味を持って、沢木耕太郎さんなんかの本が好きでノンフィクションを書きたいという気持ちが出てきました。
100万円もっていれば2,3年何とか東南アジアなら物価が安いので何とかなるのではないかと思って、その間にライターとして自立できるかできないかやってみようと思いました。
オーストラリアで知り合って付き合っていた彼女がいて、彼女も旅が好きで、結婚してその3か月後に一緒に旅に出ました。

最初はオーストラリアに行きました。
英語で話す時には言いずらい言葉があると会話が続かないという事もありましたが、英語でしゃべれなくても、英語は判らないんだと思ってもらえる気持ちの楽さがありました。
そういったことは海外では気楽で居心地がよかったです。
オーストラリアではボランティアしたり、車を買って7000km旅をして半年いて、そこから東ティモールに行きました。
そこからインドネシア,シンガポール、マレーシア、ブルネイと東南アジアを北上し中国まで行って中国に1年間いて、中国の大学に二人で行き中国語を勉強しました。
日常会話はできるようになりました。
ある日を境に吃音が出なくなりました。
そこから何かがかわって話しやすくなりました。
いろんな国を旅をしている中で複合的な内面的な変化によって、自分の中で抱えたプレッシャー、緊張感みたいなものが薄まったのかもしれません。(推測)
吃音のある人は100人に一人と言われています。
2~5歳で20人に一人発症するといわれていますが、成長の過程で8割ぐらいが治ってゆくといわれます。
100万人がいるといわれます。
吃音には3種類があり①連発、②難発(冒頭の言葉が出ない)、③深発(意図せずに伸びてしまう)。
連発から始まって重くなると難発になりしゃべれなくなってくる。
脳の研究が進んできて脳のどこかに原因となるものがあるのではとか、遺伝的な要因があって、それに環境が合わさった結果起きるといわれるが、詳しいことは判らないといわれます。

私の本の中に高橋さんという方が出てきます。
高橋さんは吃音がひどくて高校時代にはいじめにあい、高校を中退して自殺未遂をされるということがあった方です。
10年ぐらい引きこもりで、話さない仕事をしながら、娘さんと二人で暮らしている。
高橋さんとはNHKのある番組で6年前に知り合いました。
訓練をされて、話しやすい話し方をする手法を身に付けることができました。
基本的にはゆっくり話すことを軸にして、訓練をして身に付ける。
言語聴覚士が指導しましたが、その方も吃音があった方でした。
その方は自分で考えて直した方法で、その方法で訓練をしました。
彼は警察官で吃音が原因で殉職しようという思いまで至った方で、結局吃音がもとで警察官をやめてしまいました。
いろいろ職業を変えてきたが、結局言語聴覚士の学校に通って、自分で治す方法を考えていったそうです。
特別な方法ではないが、効果があったのは彼の熱意があったからだった、と高橋さんは言っています。

北海道で看護師をしていたかたはお会いしたことはないのですが、自死されてしまったという方がいました。
ご家族、友達とお会いして彼のことも書いています。
警察官になりたくて7年間挑戦したが駄目で、34歳で看護師になり4か月後に自死してしまいます。
彼の友達からするととても明るいという事でしたが、周りからとのギャップがあることをこの本から伝えたかった。
吃音の人と話をする時には急かせないという事はありますが、こういったマニュアルというようなものはないと思います。
相手が何をしてほしいんだろうと真剣に考えて、吃音のあるなしにかかわらず、相手と向き合う時に人と人が思いやってコミュニケーションをするという事が大事だと思います。
信頼関係が大事だと思います。








2019年7月5日金曜日

吉澤久子(保育園元園長)         ・全力人生~母、園長、そして画家として

吉澤久子(保育園元園長)         ・全力人生~母、園長、そして画家として
30歳の時に自ら保育園を立ち上げ園長として勤めてきましたが、60歳の時に突如足が動かなくなり、そのころ絵を描き始めました。
身の回りにある画材を使って自由に描かれる吉澤さんの作品はフランスの著名な画家の目に留まり、2016年モナコ日本芸術祭で芸術創造賞を受賞 、その後ヨーロッパを中心に高い評価を得ています。
二人の息子の母として園長先生として遅咲きの画家として、何事も全力で取り組んできたという吉澤さんにこれまでの歩みを伺いました。

はがき大ぐらいから全部合わせると4000枚を描いています。
人に差し上げたりしています。
保育園の合間にインテリアコーディネーターをしていました。
40歳代前半でした。
「孤高の豹」実際の豹の目などはグリーンではありませんが、豹の絵で目と耳と鼻の部分は色をアレンジしています。
学校を出たら銀行に行って結婚を機に引っ越してきて、まったくの田舎で何にもなくて食べてゆくのにどうしたらいいかわからなかったが、小さな菓子問屋ではたらいていました。
無認可の保育園に1歳の子どもを預けるのに3万円掛かり、給料が5万円で貧乏な生活をしていました。
コンピューターの操作ができたのでやっていたが、仕事の内容に比べて短大で入ってきた人のほうが給料が高くて談判をしましたが駄目でした。
一生懸命勉強して保育士の国家試験を受けることにしました。
一回で全科目合格しました。
保育園を作るにあたっては行政との交渉から銀行との資金繰りなどを何とか行って立ち上げることができました。
新卒者を6人雇いましたが、こちらが変わらないといけないと思って、講習に行ったり、研修を受けたり学んでいきました。
夜に新幹線を使っての大学に行きました。(38歳で入学)
2年間で全科目とって4年の時に卒論を出して卒業式に出ることができました。
若いころは島を含めて日本中いろいろ旅をして歩きました。
子どもに対しては小学校の時には参観日にはいかないし運動会もいかなくてほったらかしでした。
私が仕事ができなくなると食べていけないからという事は子供たちは知っていましたから。
60歳になったら軟骨がすり減って突然歩けなくなりました。
手術をして人工関節の受けをはめ込みましたが、血流が悪くてむくんでしまって歩けないのでしばらく車いす生活をしました。
リハビリを3年間行って、やっと立てるようになり両方に杖をついて歩くようになりました。
ようやく杖なしでも歩けるようになりました。
気分的に解放されて、書道もやっていたが大きな書はかけないし、絵を描こうと思いました。
国内の作品展に出展して落選はありませんでした。
「モナコジャパン」という雑誌の表紙を飾ってるのが私の写真です。
グレー・スケリーの生誕90周年のお祝いの席で配ったものです。
実際に描いたのは2009年で、ボール紙に白いワンピースを着た女性が青いソファーに腰かけて微笑みながらこちらを見ている、という感じです。
フランスの一番大きな古い美術団体の会長(アラン・バザール)から高い評価をしていただきました。
そんなことがあるのかなあと不思議な気持ちでした。
「孤高の豹」が受賞後、海外の作品展に入選しています。
動物、花の作品が多いです。
カバの作品も色使いがカラフルになっています。(スペインでの受賞作品)
保育園にいる時が自分らしく居られるところだと思います。
財産に執着していてもいい人生は送れないと思います、内面が充実しないと思います。
心がめらめらと動く時があるかもしれないが、その時にはちょっと大き目なものに挑戦
してみたいと思います。
今までで一番大きいのが30号ですから。
エンディングノートを書いていて、お墓はいらないと書いています、創設者なのでその石碑があるので、その石碑に私の名前が書いてあるので墓代わりになるので。
葬式もしなくてもいいが、最後に送り出すときには大好きな「真珠採りタンゴ」の曲でもかけてくれれば最高だと書いています。



2019年7月4日木曜日

竹本勝紀(銚子電鉄社長)         ・ローカル線の社長は運転士

竹本勝紀(銚子電鉄社長)         ・ローカル線の社長は運転士
57歳、もともと税理士で2012年に銚子電鉄の社長に就任しました。
銚子電鉄はこれまでも厳しい経営状態が続き、会社のホームページにぬれせんべいを買ってください、というメッセージを掲げ舞い込んだ注文で危機を乗り切ったこともありました。
竹本さんは社長就任後、こうした状況を乗り切る方策の一つとして、自ら電車の運転免許証を取得することを考え3回目の挑戦で運転免許を取得しました。

銚子電鉄は全長が6、4kmと短いが緑のトンネルといわれるように清々しくて景色が楽しめる路線です。
週末は観光のお客さんが多くて全体の売り上げの7割以上が観光のお客様の収入となっています。
父が税理士を50年やっていて、兄もやっていて私も税理士になりました。
15年ほど前に私の知り合いの弁護士の先生が、銚子電鉄の顧問弁護士を務めていて経営が厳しい鉄道会社があり、会計を見る人がいないので助けてほしいといわれました。
自己破産の申し立てをしたいが裁判所に納める用納金もないとのことでした。
そこからのスタートでした。
銚子市から補助金も受けていましたが、打ち切られてしまいました。
労働組合から借金をしてそこから給料を払うということまでになりました。
社員と一緒にぬれせんべいを売るところから始めました。
以前は京成電鉄のグループにいたが経営悪化で離脱せざるを得なくなり、次に引き受けてくれた会社もバブル崩壊で平成10年につぶれてしまいました。
自助努力でということでぬれせんべいを始めたのが24年前でした。

当時の駅長がぬれせんべいの社長になったことが有名になり一時期ぬれせんべいが凄く売れたこともありましたが、下火になってしまいました。
私はネットで売るしかないと思いました。
オンラインショップを家族全員で対応しました。
一日1万円程度得ましたが、どうにもならない額でした。
悲痛なお願い文、「ぬれせんべい買ってください、電車修理代を稼がなければいけないんです」、と書き込んでそれで大きなブームが生まれました。
当時2億円強から4億2000万円に増えました。(約2倍)
注文がさばききれなくなりました。(バックオーダーを中止しました)
最後の発送が半年後になってしまいました。
預金残高1億円になりましたが、全額債務の充当に充てざるを得なかった。
何とか生き残っていけるとは思いました。
車両が老朽化していたので伊予鉄道から4両の中古車両を買い付けました。
車両1両が12万円でした。
運搬費が3000万円、ワンマン運転の工事とかで全部含めて、4両で1億6000万円
になりました。
銀行からお金を借りました。

顧問税理士になったのが平成17年で、3年後に取締役に就任しました。(ボランティア役員)
東日本大震災によって隣の旭市で津波で亡くなったり、原発事故で風評被害で銚子市では観光客が激減してしまいました。
平成23年度からはまた大赤字になってしまいました。
資金繰りが厳しくなり、運転資金が厳しくなり、どこかの傘下に入るべきとの話もありました。
何度も取締役会を開いて、最終的には私が一時期社長になるということになりました。
傘下に入るためのハンコを押す係が私でした。
しかしその話がたち切れになり、経営改善計画書を出してくれれば新しい資金も出せなくもないということで、千葉県の中小企業再生支援協議会に飛び込んで、支援を受けながらむこう10年の経営改善計画をまとめました。
銚子電鉄の必要性についても議論をしていただきました。
必要だということで市でも支援をしてもらえる結論にいたり、支援が復活しました。
観光資源としても重要だということで県知事にも陳情に行き、県の支援もいただけるようになりました。
国、県、市の協調補助が始まりました。

一旦私の使命も終わったのでやめようと思いましたが、周りから止められて、1年半かけて運賃改定をすることになりました。(平成27年)
端的に言うと運転手が足りなかったし、私が運転手であるという事は経費が掛からない。
同じハンドルを握ることで社員との気持ちの共有ができるのではないか、線路の状況が把握でする、という事もありました。
筆記試験は一回で受かったが、技能試験は3回かかりました。
一回目は完全な準備不足でした。
二回目は出来が良かったが、一か所だけスピードオーバーでした。
スピードメーターは隠されていて見ることができない、15kmで徐行するところを3kmオーバーしてしまっていた。
事故対応などいろいろな試験もあります。

三回目で受かって感慨深いものがあります。
台湾、香港からのお客さんも多く来るようになりました。
顧客第一主義でやっています。
銚子はさばの漁獲量が日本一なのでさばのヘッドマークとして「3843」と書いてサバの絵をあしらって「さばよみ号」として、「この電車内で歳を聞かれたらさばを読んでください」と書いています。
経営はまだ足元が怪しい状況ではいます。
設備投資、修繕など当初補助は全体で2/3でしたが、だんだん減ってきています。
車両の検査費用1両1500万円が全額カット、県も同様で市だけは1/6を堅持してくれています。
ローカル線の使命は地域貢献だと思っています。
























2019年7月3日水曜日

安倍寧(音楽評論家)           ・ショービジネスの魅力を語る(2)

安倍寧(音楽評論家)           ・ショービジネスの魅力を語る(2)
クラシック以外の音楽、ポピュラー音楽と言われているもの、ジャズ、シャンソン、中南米の音楽など様々あるが、この50年はロックが重要な役割を果たしてきました。
ポピュラーミュージックというものが日本人のエンターテーメントの主流を占めるようになった。
ラジオ、レコード(CDなども含め)も大きな音楽を伝える媒体として無視できない、この二つは音楽を伝える重要な媒体だと思います。
特に1945年以降は音楽が国民のエンターテーメントの大きな流れ、映画と並行してポピュラーミュージックがエンターテーメントの主流という時代があった。
舞台でも全然音楽が入っていないものがあったが段々なじめなくなりました。
大衆音楽が国民的なエンターテーメントの主流になってきて、舞台にも影響を及ぼした。
もともと西洋にはオペラというものがある。
帝劇でオペラを根ざそうとしてローシーがきてやったが、根付かなかった。
浅草にローシーとその一派が流れて行って、浅草オペラができる訳です。
アメリカ映画を通して音楽はシンクロナイズしていた。
チャップリンが有名でした。
マイフェアレディーのピッカリング大佐(軍人で言語学者)を益田喜頓がやったがすごかった。
「益田喜頓」というのはアメリカの喜劇役者のバスターキートンからきている。
映画、舞台の影響を受けて来た。
ミュージカルには浅草出身の人たちが大いに活躍しました。
古川ろっぱ、榎本健一などは浅草出身の喜劇俳優です、こういう人たちが初期のミュージカルを支えていました。
益田喜頓は自然に西洋人になっていたが、無声映画トーキー初期からの時からアメリカの喜劇を学んだ成果なんです。
八波むと志が江利チエミのイライザのお父さん役をやったが抜群でした。
浅草出身でその流れを今辛うじて踏んでいるのが、ビートたけしです。
その前は渥美清です。

越路吹雪は高校の時に見て吃驚したが、宝塚時代から宝塚をちょっとはみ出している(大人っぽかった)といわれていた。
越路吹雪はカルメンをやったが、不良少女のカルメンと書かれたぐらい、宝塚の枠をはみ出していたというのはその新聞批評からも判ります。
越路吹雪は「王様と私」、「南太平洋」などをやっているがもう一つ全体的にしっくりこなかった。
大阪でも「メイム」とかもやっているがスケールがもともと大きい人だったので相手役に恵まれなかった。
ミュージカルをできる俳優が存在しなかったので、喜劇的な俳優を起用することが多かった。
越路吹雪はシャンソンを勉強していた。
シャンソンを輸入したのは宝塚でした。
宝塚ではフランス系のエンターテイメントを輸入していた。
戦後になり、アメリカの兵隊たちが見に来るようになり、越路吹雪はミュージカルナンバーを歌わせたほうがいいんじゃないかというようになる。
進駐軍の兵隊たちが日本ではなかなか手に入らない譜面もあるしレコードもあるので、越路吹雪に届けて勉強しなさいということになる。
ジャズやアメリカのポピュラーソングと越路吹雪の出会いとなる訳です。
越路吹雪には宝塚で培ったシャンソンとアメリカの音楽との二つがあるわけです。
浅利慶太と越路吹雪を紹介して、新しい何かができるのではないかと思いました。
越路のシャンソンリサイタルとミュージカルと二つの花が開きました。
ドイツ、ロシアの演劇を日本に輸入する傾向が強かった。
浅利慶太はそれに抵抗するようにフランス演劇をやろうということで、劇作家のジャン・ジロドゥ、ジャン・アヌイとかそういう人たちのものを紹介した。
私は企画、演目選定、そういう役割をしました。
アメリカではポピュラーミュージックとミュージカルは兄弟のようなものでした。
ヒット曲のもとは実は全部ブロードウエーのショーなんです。
例えばサウンドオブミュージックの「ドレミの歌」ウエストサイドストーリーは「トウ ナイト トウ ナイト」などなど。
劇団四季が転機となったのは「ジーザス・クライスト・スーパースター」
(聖書を題材にイエス・キリストの最後の7日間を描いたロックミュージカル アンドリュー・ロイド・ウェバーが作曲
ミュージカルの流れからすると異端であった。
作曲家の村井邦彦が「ジーザス・クライスト・スーパースター」のことを教えてくれました。
プロデューサーの一人とあってそこから話が始まりました。
ニューヨークで「ジーザス・クライスト・スーパースター」を見て、一言でいうと腰が抜けました。
甘美な作品が多かった中で、ジーザスとユダの関係が凄くおもしろかった。
今までのミュージカルでは題材になるような人間関係ではなかった厳しい人間関係が描かれていて、そこにガンガンなるようなロック音楽が寄り添っている。
音楽もロック的な要素とオペラ的な要素が一緒になっている、すべてが新しい。
日本に紹介するということになりました。(1973年)
アメリカでは正当な芸術は何かというと舞台芸術であるというこ
とです。
ブロードウエー=リジッド(Rigid 厳格、正当などの意味)とよばれている。
ディズニーはブロードウエーに参入したいと思った。
自分たちの作ったアニメーションには全部音楽がついている。
「美女と野獣」の音楽は高く評価され、社長のマイケル・アイズナーが先頭に立って、ミュージカルに参入することになる。
「ライオンキング」(ディズニー作品)の大ヒットがでた。(エンターテーメントの王者と女性の前衛演出家ジュリー・テイモアが手を組む)
新しい要素を入れてゆくことが、エンターテーメントの発展してゆくことの重要な要素だと思います。
話題になっている「ハミルトン」 初代財務長官とラップを組み合わせている。








2019年7月2日火曜日

安倍寧(音楽評論家)           ・ショービジネスの魅力を語る(1)

安倍寧(音楽評論家)           ・ショービジネスの魅力を語る(1)
静岡県出身86歳.高校生の頃、進駐軍向けラジオ放送と当時東京有楽町にあった日劇のショーに接したことで、ショービジネスとの世界に憧れました。
大学在学中から主に内外のポピュラー音楽やミュージカルについての記事や批評の執筆をつづけてきました。
江利チエミ越路吹雪フランク・シナトラなど伝説となったアーティストたちをリアルタイムで見聞きし論じています。
また日本レコード大賞実行委員、審査員を務めたり劇団四季の取締役としてミュージカル公演の企画交渉を担当されました。
現在に至るまで幅広く音楽界で活躍されています。
 
「王様と私」というのは、ブロードウエーミュージカルの歴史の中で古典的な作品になってしまっている。
王様を演じたのがユル・ブリンナー、迫力のある俳優で。
タイ国の国王、時代は1860年代ぐらいの話、ヨーロッパの列強から圧力を受けて開国しなくてはいけない状況だった。
イギリス人アンナが家庭教師としてもろもろのことを教える。
西洋を代表するアンア、東洋を代表するシャム王の対立と和解の物語、リチャード・ロジャースがミュージカルに仕立てた傑作中の傑作、ブロードウエーで上演されたのが1951年(昭和26年)。
「シャル ウイー ダンス」などは特に有名です。
文化の対立と個人の気持ちが引き合うというロマンスと両方が重なり合うその象徴が「シャル ウイー ダンス」。

いろいろなひとがやったがユル・ブリンナーを越える人はいないが、2015年ニューヨークのリンカーンセンターで再演しようということになった。
シャム王を誰にするか考えたところ、東洋人ということで渡辺謙が起用された。
演出家の仕事はキャスティングで1/3~1/2ぐらいは決まってしまうといっていいぐらい。
こういう新しいシャム王像を作りたいという考えがあって渡辺謙を引っ張って、それなりのことが頭の中にあったと思う。
私が見たときには威風堂々としていました。
舞台がそのまま日本に来ることになりました。
オリジナルキャストを呼ぶ。
渡辺謙はその年のトニー賞のミュージカル男優賞の候補になった。
ノミネートされるということ自体が勲章だと思う。

私は昭和8年静岡県生まれです。(86歳)
東京都立日比谷高等学校を経て慶應義塾大学卒業。
高校時代はみんな好きなことをやっていました。
友人の江藤淳はそのころからエッセー、文芸評論、作曲などもしていました。
慶應義塾文学部に進んで劇団四季の創設者の浅利慶太と出会うことになる。
有楽町に日劇があり日劇ダンシングチームがありスターたちが出演していました。
そこに振付家で出演者でもある益田孝さんがいました。
1951年(昭和26年)「王様と私」が上演され他同じ年に帝劇でミュージカルが上演された。
「モルガンお雪」という作品で益田孝さんが振付家で出演もしていました。
モルガンはアメリカの大富豪の御曹司、お雪は祇園の芸者で実在の人物で、恋をして結婚するという話で実話です。
御曹司を古川ろっぱ、お雪お宝塚の越路吹雪が演じました。
僕の同級生たちの日劇ファンが面白そうだから見に行こうということになりました。
一回見たらもう一回行こうということになりました。
これが私の人生を決定付けたかもしれません。

当時アメリカの音楽が入ってきて、ラジオはNHK、FENでアメリカの音楽が鳴っていて聞いていました。
越路吹雪が「ビギン ザ ビギン」を歌っていました。(コール・ポーター作曲)
日劇、帝劇に行くと日本人が生で歌っていて、ラジオで聞いたアメリカの音楽とうたう日本の歌手との出会いがありました。
そういった歌手は進駐軍のキャンプのクラブで歌ったりしていましたが、日本人向けのコンサートをやっていてそういうものも聞きました。
大学在学中に音楽評論家として仕事をスタートしていました。
ジャーナリズムもまだあまり復活していないような時代でした。
段々新聞も復活してきてスポーツ紙が出始め、芸能関係も取り上げられ映画、歌謡曲なども取り上げられました。
ジャズコンサートなども行われたりして、そういった記事も書くようになりました。
新聞記者のかたから書いてみないかと誘われて、大学4年生のころから書き始めました。
美空ひばりは歌詞もすぐ覚えてしまうし、言葉をキャッチする能力があるので、英語でもずいぶん歌っています。

1963年日本で初めての日本語での「マイ・フェアー・レディー」に江利チエミが主演される。
言語学が専門のヒギンズ教授はひょんなことから、下町生まれの粗野で下品な言葉遣い(コックニー英語)の花売り娘イライザをレディに仕立て上げる。
その花売り娘を江利チエミ、ヒギンズ教授を高島忠夫がやった。
江利チエミは下町育ちなので下町娘をやるのにはぴったりだったが、レディーという雰囲気が身に付けられるか疑問視されたが、見事にこなすことができた。
涙涙のカーテンコールだった。

演出家の菊田一夫さんが初めて日本でやろうということになる。
当時ハリウッドで作られた音楽映画がたくさんあったが、音楽家を主人公にしたものが多く歌、音楽が存分に取り入られていた。
比べるとミュージカル運動の先兵だった菊田さんに批判が向かって、何とか日本のミュージカルをどうしたらいいか考えていて、アメリカで当たった作品を丸ごとやってみたらどうだろうということで、昭和38年9月に上演したのが「マイ・フェアー・レディー」ということです。
1965年から毎年ブロードウエーに行っています。(500本以上か?)
魅力は歌、踊り、芝居そういったものが混然一体となっていて、一つの人生模様を描き出す、その醍醐味ですね。
















2019年6月30日日曜日

五十嵐 匠(映画監督)          ・二宮金次郎、銅像から映像へ

五十嵐 匠(映画監督)          ・二宮金次郎、銅像から映像へ
二宮金次郎というと本を読みながら薪を背負ってを仕事をする少年の姿しか知らない人が多いかと思います。
しかし懸命に働き勤勉と倹約で実家を再興させ、藩から財政の立て直おしを頼まれたりして生涯600以上の村を復興させ武士の位を授かったとして名前が残っています。
その二宮金次郎がある村を復興させた様子を映画にしました。
今月28日で劇場での映画は終了しましたが、地域の希望によって全国の市民会館や公民間などでこの映画を紹介してゆくと言うことです。
五十嵐さんは青森県出身60歳、弘前高校から立教大学を卒業後、制作会社を経てフリーになり、映画「津軽」で劇場映画デビューを果たします。
その後ベトナム戦争を取材し、亡くなったカメラマン沢田教一のドキュメンタリー映画や一ノ瀬泰造をテーマに「地雷を踏んだらサヨウナラ」と言う映画を作っています。
そのほか「長州ファイブ」や、「十字架」など合わせて13品の映画を監督しています。

30代に非常に荒れた村を復興する二宮金次郎を描いているので、生涯600以上の村を復興させている、その姿を描いているので、観て涙を流している人も居て観客の反応に驚きました。
全国でもやることは決まっていたが、日光は最後に復興する場所ですそこで二宮金次郎が亡くなるんですが、日光で特別試写を行いました。
2000人近くの観客が来ました。
その中に80歳位の老夫婦がこの映画を見て感動してくれて、シネコンでの上映がいいものかを考えて、映画館での上映を一切辞めました。
制作委員会で大きい車を買って8mのスクリーンと劇場用の映写機と同レベルの映写機を買って二宮金次郎号と名打って、キャラバンで全国に届けようとしています、もう100か所以上が決まっています。
学校、企業、行政などにこちらから出向いて行っています。

前の作品は「十字架」という題名のいじめ自殺の作品ですが、茨城県下館で撮影した時に、160年前に二宮金次郎が復興させた場所だということでした。
それで調べ始めたのがきっかけとなりました。
復興に向けて突き進む魅力的な人物だと思いました。(4年前から調査、映画化検討)
色々なところから協力をいただきました。
二宮尊徳がいう「積小偉大」、小さな事を積み重ねて行けば、大きくなると言う、二宮尊徳家ら教わった形でこの映画はできました。
私が映画を作りたいと泣きわめくと、しょうがないなあと周りがだんだん増えて来ます。
1996年「SAWADA 青森からベトナムへ ピュリッツァー賞カメラマン沢田教一の生と死」が本格的なドキュメンタリー映画となります。
ベトナムには8年間通いました。
カメラマン沢田教一さんを知りました。
「地雷を踏んだらサヨウナラ」もベトナムに関する一連のものです。
金子みすゞ板谷 波山田中一村の映画と人物にスポットを当てての映画が多かったが、その後「長州ファイブ」、「半次郎」「十字架」そして二宮金次郎へと続きます。

亡くなった方しか描いていませんが、亡くなった方を描くのは資料、その時に居た人達からしか話を聞けないので非常に苦しいです。
他人を描く傲慢さと言うものをいつも自分で思っていて、描きながらそう簡単に描けなと思いながら作品化しています。
「地雷を踏んだらサヨウナラ」は報道写真家・一ノ瀬泰造の話ですが、或る人から戦場でファインダーを覗いて撮るカメラの扱いがうそっぱちだと言われましたが、聞いてしっていたが映画ではあえてそのようにしましたが、フィクションとノンフィクションの間で揺れているところもあり、自分でも気にしています。
「地雷を踏んだらサヨウナラ」は色々な国の通訳が6人いました。
色々ぶつかり合った方が新しいいいものが出来ると思います。
「地雷を踏んだらサヨウナラ」のときにはむちゃくちゃでした。
2日間徹夜してクライマックスの場面を撮ったフィルムがトラブルで人とともに川に落ちで駄目かと思ったが、それは新しいフィルムで同様の古いフィルムが残っていてホッとしたと言う事もありました。
そういったことはそれぞれの映画でいくつもあります。
「地雷を踏んだらサヨウナラ」では10kg近く痩せました。

昭和33年生まれ、結構大人しい子供でした。
父が教師をしていて映画が好きでしたし、中学の時に「スクリーン」と言う雑誌を購入してそれに惹きつけられたと思います。
8歳の誕生日の時に父が映写機を買ってくれましたが、父の思いがあったのではないかと思います。
水野晴郎さんの記事が面白かったです。
映画監督になりたいがどうしたらいいかと水野さんに手紙を出しました。
3カ月後に絵葉書が届きました。
「映画監督になる道は今の勉強を一所懸命やって、たっぷり映画を見ることにつきます」、と書いてありました。
ポイント、ポイントで僕に影響してくれる人が出来てます。
立教大学で映画のクラブで8mmを取り始めました。
シナリオも勉強しました。
父からは教員免許を取るように言われたが、教師には絶対なるまいと思っていました。
子どもには映画監督にはやらせたくはないと思っています。

「津軽」で劇場映画にデビューしました。(1989年)
客は入らなかったがある映画評論家から面白いといわれて、もうちょっと頑張ってみようと思いました。
映画として戦う場合に自分としては他の人よりも卓越しているものは何なのかと言うと、故郷の津軽、方言、方言で詩を書いていた高木恭造さんが居て、その詩をモチーフにして多くの借金をして作りました。
試写で観てもらった人からどうしても足りない200万円小切手を書いてもらえました。
映画監督には人との出会いというものが必要だと思います。
こちら側が真剣にやっているとポッと出てきてくれたりします。
自分が思っている様なお芝居をして貰うと僕は面白くない、そうではなくて違う芝居をした時には違う発見があり、非常に嬉しくなります。
次は沖縄戦の映画を撮ろうと思っています。
島田叡知事と警察所長の荒井退造さんを主人公)










2019年6月29日土曜日

有森裕子(元女子マラソン日本代表)     ・<あきらめない>を力に

有森裕子(元女子マラソン日本代表)     ・<あきらめない>を力に
1966年岡山県岡山市生まれ、高校から陸上競技を始め実業団に入ってからは先日亡くなった小出監督の指導のもと、才能を開花させます。
1992年バルセロナオリンピックで銀、アトランタオリンピックで銅と2大会連続でメダリストとなりました。
その後も国際協力を行うNPOの代表を務めるなど幅広く活躍、去年故郷を襲った西日本豪雨では避難所を訪ねたりチャリティーマラソンを開いたりと復興を支え続けています。

実家のところの有森ミュージアムでチャリティーバザーが開かれましたが、もう10年以上になります。
高石ともやさんにもきていただきました。
地元の方々の多くの支援を頂いています。
小さい頃はおてんばでした。
スポーツが出来る子ではなかったです。
先天性股関節脱臼で生まれてきたので、競う様なことはしないでマイペースで遊んだりしていました。
中学の時にバスケットボール部に入りました。
運動会では800mで3年間優勝しました。
きついけれどやれば結果を出せるものだと言う事が判りました。
高校では陸上部に入り800、1500mなどをやってきました。

都道府県の女子駅伝がスタートした年だったので、県内の選考レースとして女子の大会がスタートしました。
12人の中に引っ掛かりましたが、補欠でした。
2,3年生の時には自分が正選手ではないのに現場にいる虚しさ悔しさを感じるようになりました。
前夜祭の時に高石さんががこられ、「みんなここまで来るのに一生懸命頑張ってきた自分を判っているのは皆さん自身なんだから、ここにこれたことを先ず自分が喜んで、自分をほめた方がいいと、目標に向かって頑張って」という様な詩を読んでくれて、本当にそうなんだと納得する自分と、補欠だろう何で納得するんだと言う自分との葛藤があり、そこで大泣きしてしまいました。
まわりは何で泣いてんだろうと思ったと思いますが、言葉をメモしました。
しかし、今はとても言えないと思って封印することにしました。

大学でも成績はあまり芳しくなかった。
リクルートに入って小出監督と出会う事になりました。
千葉県の船橋で初めて会う事になりいろいろ話をしていただきました。
しかし何の実績も無いのに来たのは初めてだと言われました。
実績が無いのに続けてきた根拠にとっても興味があると言われました。
それを僕は形にしたいといって、妙なところに関心を持ってくれました。
周りは強い選手ばっかりでついてはいけないが必死でやるだけでした。
タイムは遅くてもいいから与えられた量をこなすようにと言われました。
「せっかく」と言う言葉はポジティブに持っていける言葉なので、ああしよう、こうしようと言う事になって救われました。
この言葉は講演でも皆さんに伝えています。
1992年にバルセロナオリンピックに出場することになりましたが、銀メダルを獲得することができました。
ワレンティナ・エゴロワと、約6キロに及ぶ激しい死闘を繰り広げ8秒差で銀メダルとなる。
日本女子陸上競技界では、1928年のアムステルダムオリンピック・女子800mで同じく銀メダリストの人見絹枝さん以来、64年ぶりの五輪メダル獲得ということでした。
喜びながら不思議な感じでした。

1994年に両足かかとの手術をする。
走れなくなったらやめようと思っていました。
リハビリも一生懸命やりましたが、時間が空くのが怖かった。
早く一本は走らなければいけないと思いました。
1995年に出場した北海道マラソンで2時間29分17秒の当時の大会新記録でマラソン初優勝を達成し、アトランタ五輪女子マラソン代表に選出されることになりましたが、あの結果が違っていたら別の道を歩んでいたかも知れません。
ここまでの4年間は非常に孤独な時間でした。
今までに例の無いマラソンメダリスト当事者と立場の違いの噛み合わなさが露骨にあって、そういう時間でした。
前に進むにも自分が故障している人間ではなくて、以前のメダリストではなくて、又オリンピックのメダリストにならなければいけないから、オリンピックに出なきゃと言う判断になりました。
又オリンピックのメダリストにならなければいけない、それが一番しんどかったです。

1996年アトランタ五輪女子マラソンで4位のカトリン・ドーレにゴール直前で追い上げられたが、わずか6秒の差で逃げ切って3位入賞、銅メダルを獲得。
ゴール後のインタビューで「メダルの色は、銅かもしれませんけれども……、終わってから、なんでもっと頑張れなかったのかと思うレースはしたくなかったし、今回はそう思っていないし……、初めて自分で自分をほめたいと思います」と涙ながらに語った。
総まとめの思いでした。
静かな喜びでした。
「初めて自分で自分をほめたいと思います」というのは流れで勝手に出てきた言葉でした。
理解されそうで理解されない言葉かも知れません。
1998年NPO「ハート・オブ・ゴールド」の設立、代表となる。
西日本豪雨、その後大阪、北海道など全国で自然災害が起こりましたが、「地元の事は地元やろ」と言う思いで岡山を支援しようと思いました。
人の気持ちを元気にすることをやらなきゃと言う事で、諦めないように、少しでも元気を埋める様な事をしようと言う事で動き始めています。
事あるごとに尋ねて行ったり、関われるものは増やしていきたいと思っています。
明るく気さくに「何とかとかなるだろう」という言葉を掛けながらお互い元気にしていききたいと思います。
「諦めないです」と言うよりは「諦める理由は無い」と思っている自分がいるから、私にとっては諦めるというその言葉は意味の無い言葉だと思います。
諦めると言う自分の作っている限界だけでその言葉を生んでいるだけで、本当の意味での諦めるなんていう様な判断は多分死ぬまで出来ないんじゃないんですかね、持とうとはあまり思わない言葉であってほしいと思います。
「全てを力に」 全てが力に出来る生き物なので人間は、生きて行こうと思った時に全て何でも前向きに、力に変えていける生き物なんじゃないかと思います。





















2019年6月28日金曜日

野矢茂樹(哲学者)            ・【人生のみちしるべ】さあ、立ち止まって考えよう!

野矢茂樹(哲学者)     ・【人生のみちしるべ】さあ、立ち止まって考えよう!
これまでラジオ深夜便の大人の教養講座「哲学と論理的に話そう」のコーナーで今年の3月まで2年間に渡って出演しました。
東京都出身64歳、東京大学在学中に昭和9年からの長い歴史のある座禅の会、東京大学禅研究所所属、大学卒業後は北海道大学文学部助教授を経て、東京大学、東京大学大学院教授と母校で30年近く教鞭を取られました。
2018年から立正大学文学部の教授です。
20世紀最大の哲学者と言われるウィトゲンシュタイン研究の第一人者で翻訳を務める一方、判りやすい文章で哲学的思考とは何かに迫る入門書などを執筆されています。
中学校の国語の教科書作りに携わり、NHKETVの公開講座の監修も担当、哲学者としては珍しく自分の生活をつづったエッセーも書いて、2016年出版の『心という難問−− 空間・身体・意味』で第29回和辻哲郎文化賞受賞されています。
哲学者野矢さんはどのように哲学に出会い、その道を歩まれてきたのか人生の道しるべについて伺いました。

放送が始まる前に、司会の人とキャスターの出演者が 「よろしくお願いします。」とやって放送が始まると又「よろしくお願いします。」とやりますが、どうも違和感がありました。
放送が始まったら電波の向こうの人達に向かって話しかけるのであって、うちわで挨拶するのがおかしいといつも思っているが、今日は本当に素直に「よろしくお願いします。」と言えました。
哲学者としての時間が確保できると本当に嬉しいです。
一番そういう時間が訪れるのは、自分の哲学を本気で本に書いている時、論文を書いている時ですね。
パソコンに向かっているが文章が止まってしまった時に、この問題を解決して次に進みたいと思ったらメモにして散歩に出かけます。
アイディア、言葉が降りてくるのを待ちます。
初心者は大きな問題を抱えて動けなくなる、例えば「生きるとは何だろう」とか、「時間とは何か」、哲学の問題ですが、小1時間で進めたと言えるような問いにして、散歩するとこうだと言うふうにして、思い付いたりすると手帳に書いたりしてパソコンに向かったりしています。

哲学は私にとっては趣味ですね。
判りそうで判らない問題に出会った時(開きそうな扉)には楽しいです。
大森荘蔵先生(哲学の先生で亡くなりました)、末木剛博先生(座禅の先生、人生の師となる様な先生)がいましたが、末木先生が私が20代のころに「最近ようやく自分がやっている事が取るに足らない事が覚悟できましたよ」と言ったので凄く印象的でした。
その事を大森先生に話ましたが、「だらしないあな、末木君もそれなら止めりゃいい」とおっしゃったんです。
大森先生は「自分がやっていることが大事なことなんだ」と、そういう姿勢で臨んでいたと思うし、末木先生は「私は好きでやっているので世のなかの役に立ったなくてもいいんだ、取るに足らないものでいいんだ」という気持ちを持っていたんだと思います。
自分でものが考えられるように、普段の言葉でやっていって、難しい言葉で自分を誤魔化さないと言うのが基本です。
哲学のスタイルでは大森先生を受け継いだつもりでいます。
哲学の問題に裸一貫で自分の頭で向かい合って行って、頂上が何処にあるか判らない岩場をよじ登って行く、そういう姿勢を先生は見せてくれました。

同時に末木先生の「最近ようやく自分がやっている事が取るに足らない事が覚悟できましたよ」と言った後にもう一言言ってくれた事があって、理系の方がいいと思って進んだんですがどうも違うなあと思っていた時に、留年して入りなおして大森先生に出会いました。
理系で自分では何もできないと無力感を持っていた時に、末木先生にそういったことをポロッといったら、「それじゃあだめだ」と言われれました、「生きているだけ儲けもんと思わなくちゃあ」と言われました。
ずしんと来る一言でした、これからはおまけだなあと思いました。
哲学に関しては大森先生、生き方に関しては末木先生、師と仰ぐある側面を貰っているとは思います。

哲学をやろうと思って大学に行った訳ではなくて、自分で物を考えて行くのは小さいころからでした。
身体も弱くて、3つ年上の姉がいて女の子と遊ぶようなひっこみじあんな気の弱い子でした。
犬の世話をする係で朝夕の散歩の係でした。
散歩中、寝る前にあれこれ考えるのが好きでした。
教室でもぼーっともの思いにふける様な感じで、先生の話もあまり聞かないで成績もあまり良くは無かった。
高校に入る時に受験勉強はしましたが、高校に入るとビリに近い様な感じでした。
1年位受験勉強して大学に入学したらその後ぱたっと勉強しなくなり、哲学に入って大森先生に出会って猛然と哲学をやりました。
哲学は受け身ではなくて自分から問題に向かって行かなくてはいけない訳です。
扉を見付けて開いで行く楽しさ、いまでも楽しいです。
哲学ってすごく入口が入りやすい、子どもでも踏み込めるが奥ががどこまであるかわからない。
哲学の土地があるような感じで、時間の話を考えていたら自我の話に結びついて、言葉、心の話に結びついていくように、問題が網目をなして繋がって行く。
そうすると哲学の土地が見えてくる、或る程度見渡せるようになってきて、落とし穴があるぞとか、見晴らしがいい所があると見えるようになってきて、人を連れて哲学の土地を案内することができるようになって、先生をやることもできるわけです。

「最近ようやく自分がやっている事が取るに足らない事が覚悟できましたよ」と言った末木先生の言葉がずーっと私の中でこだまのように響いているんです。
今の私の目で見ると若かったころの自分を見ると痛いなと言う感じがして、何が痛いかと言うと自分が面白いやつ(魅力的)だと思って貰いたいわけです。
そのためにある程度自己演出するわけです。
そういうふるまいをすると居心地が悪い。
そういったことから抜け出したかった、つまらない奴でもいいんじゃないかと思うようになりました。
末木先生からの言葉から「もういいや、あとはおまけだ」と思うようになっていきました。
自分には足りないところもあるし、哲学もやらないことは沢山あるし、人間としてももっと直していかなければいけないところもあるし、改善の余地があることは確保したうえで言うんですが、座禅していると「これでいいんだ」と言う事が段々しみ込んでくるんですね。
禅の言葉で「本来無一物」と言う言葉がありますが、本来何一つ持っていない素っ裸じゃかじゃないか、これは座右の銘にしてもいい言葉だと思います。
哲学をやっていてこれでいいんだと思って、それ以上考えようとしなければそれで終わりで、人間としても自分がこうありたいと言う人間像からは遠いいけれど、「まだ俺は駄目だぞ」と言う気持ちがあって、更にその下の処にある「これでいいんだ」と言う肯定観ですね。

授業などは学生に伝えたいという気持ちだけでやっていますが、本を書くときにも同様な気持ちを持って、読者にちゃんと伝えたいと言う気持ちは持ちますが、それ以上に物を書くのが好きなんです、本を作るのも好きですし、本も好きです。
だから電子書籍は全然見ません。
私が本を書く時には基本的に何かに挑戦していると考えてもらえれば嬉しいです。
挑戦するという事は楽しい、新しい事をやろうとういう事は楽しい。
本を作るのは楽しい、何を排除しているかと言うと、お金稼ぐために本を作るという意識はあまりないです。
世の中の為になろうとして本を書くと言う事もあまりないです。
読者に伝えようと思って本を買うと言う事もあまりないです。
読者に伝えられるように書くと言う事は、自分にとって面白い挑戦だと言う時に、その挑戦によし乗ったと言うふうになります。
人の為に生きると言う姿勢を私は持っていません。
長生きする哲学者になりたい。
忙しくて哲学の時間はあまりとれないが、その時間を確保して、自由、時間の問題 難問ですがそれに向かって行きたい。
その後は判りません、頂上に見えない岩を登ってゆくだけです。






















2019年6月27日木曜日

眞田岳彦(衣服造形家・女子美術大学特任教授)・【私のアート交遊録】真似ることは学ぶこと

眞田岳彦(衣服造形家・女子美術大学特任教授)・【私のアート交遊録】真似ることは学ぶこと
イッセー三宅やイギリス、グリーンランドなどで美術や造形技術を学び、地域の暮らしとアートのかかわりについて研究を重ねて来ました。
帰国後も日本の衣服や繊維の研究を基に越後妻有アートトリエンナーレや自然災害を受けた地域での社会支援活動などに関わってきました。
眞田さんは衣服を人の生命、身体の象徴として造形しています。
衣服や道具などはアートとは違う実用物です。
同じ風土の中で同じようなものを作り続けなればならないところから、表現の上で重要な模倣という考え方が生れて来ます。
この模倣とは何か、オリジナリティーとは何か、令和時代に入っても大事なのは身体性でこれこそが暮らしやアートでも一番大事な個性だと言う眞田さんに、生きる上での個性とは、模倣、まねるとは何かについて伺いました。

(*全体的によく理解できなくて、上手くまとめられなかったので、理解しにくいと思います。)
僕の場合は素材はウールとか綿とか麻とか、合成繊維みたいなものも使いますが、繊維自体から加工して自分で形を作って行くと言う事をします。
ジャケット開いた様な一枚の布状にした服の展示が多いです。
20代に服のデザインの会社にいました。
29歳の時に糸を紡ぐことからやろうと思ってイギリスに渡りました。
グリーンランドにもわたりました。
生きると言う事は何なんだろうと探しました。
数か月歩いている間に、今歩いている僕自身が生きると言う事ではないかなあと思いました。
今ここにあることで今やらないといけないのではないか、それが生きることだと気がつきました。
ロンドンに帰ってきました。
グリーンランドは1970年代に言語が変わった。
グリーンランドがデンマーク領になる。
葛藤であったりする痕跡をどうにか表現できないものかと思って始めました。
人の生きざまを作ると言うような気持で服を作っています。

日本に帰ってきて越後妻有アートトリエンナーレに繋がっていきます。
最初に岩手の小岩井牧場にコンタクトを取りました。
2000年から始めました。
同じころに北川フラムさんが新潟で大規模に十日町で始めました。
十日町は「ちぢみ」という織物の文化があり、その文化をどうにか掘り起こしたいと思いまして参加することにしました。
編布(あんぎん)委員会という、 布を作る技術を伝承する会がありました。(縄文期の技術)
麻を素材にする。
編み方を直線でしかできないもの(ござみたいに)を曲線にできないかと考えました。
6000年変わっていなかったものが、色々工夫してようやく楕円形が生まれました。
2004年に中越地震があり、知っている人がニュースに出て居たりして自分に出来ることはないかなと考えました。
質感、色、模様などで、怖くない、傷ついている心を緩和するためにはどういう視点が必要なのか意見交換して、工夫した布(米、ぬかなど折り込んだ)を作りました。
熊本地震、とかでも行いました。

コットン協会の方たちと綿の種を植えて、綿で何かできるのではないかと言う様な活動をもしました。
美術は生活に密着したなかに明日の希望を見いだす事が出来る、それがアートなのではないかと思いました。
自由とは何かと言うとのは自分の所以を知ることだと思っていて、それが心の自由に繋がるのかなあと思っています。
何て自分は知らない事ばっかりだろうと身につまされます。
真似ると言う言葉は面白いと思います。
中庸みたいな考え、それがまずあって、素 あるがまま、その先に模倣があると思う、それは意識の真似だと思います。
それを重ねてくると取捨選択しながら個性に繋がって行く。
個性を越えて行くと素に戻るのではないかと思います、そして中庸に還元されてゆくと思います。
循環の中で僕たちはいるのではないかなと思います。
真似から模倣に移り、学ぶ、習うと言う事に移る。

世阿弥が出している「風姿花伝」のもう一つに「体用」と言う言葉があるが、体とは花である、用とは働きであるというが、用は香りであると、意識して香りを出しているうちは駄目だということだと言っています。
そういう事に繋がってくると思います。
葛藤の共感、実体験が共感をはぐくむものと思います。
育まれた事があるから例え夕日を見ても3,4倍と感動すると思う。
哲学者鶴見俊輔さんに限界芸術論があって、3つに分けられると書いている。
①純粋芸術の様なもの、②専門家が大衆に対象とした芸術(デザイン、工業製品など)、③非専門家が非専門家を対象とした芸術、それが限界芸術と言ってもいいと思う、それは祭りであったりおばあちゃんが孫に話す昔話、誰にも見向きされない労働着、そういったものは限界芸術として重要なのではないか、自分のいる日常的なものから芸術は生れなければいけないと書いてあるが、生活のなかにあるものから生れてくるのではないかと思います。
テーマとして「生きるとは何か」自分を探しているようなものですが、日本各地を歩くとまだまだ知らない繊維文化があり、一緒になってあぶり出しながら多くの人たちに共感の場を作っていきたいと思います。









2019年6月26日水曜日

小笠原左衛門尉亮軒(園芸文化協会会長)    ・【心に花を咲かせて】蓮の花を楽しむ 

小笠原左衛門尉亮軒(園芸文化協会会長)    ・【心に花を咲かせて】蓮の花を楽しむ 
日本各地の池で夏になるとが花が咲いて涼やかな姿が多くの人を魅了しています。
蓮の花は2000年も前から日本に自生していました。
よく見かけるのはピンク、白い花ですが、実はもっと多くの種類があるんだそうです。
小笠原左衛門尉亮軒さんは現在80歳、江戸の園芸に詳しく古い書物や錦絵の収集家でもあり、公益社団法人園芸文化協会会長です。
通称御隠居、会社を御子息に譲られてから戸籍名も小笠原左衛門尉亮軒と改めて、以前以上に古典、園芸植物を育て園芸文化を広めています。
様々な花に詳しい方ですが中でも蓮の花は50年に渡り育て愛でているそうです。
蓮の花にまつわる話を伺いました。

蓮の花の中には6月下旬から開花し始めたり、9月のお彼岸まで咲いている種類もあります。
葉の一部分がくさび状に切れて居て葉が浮いている(浮き葉)ほうが睡蓮で、蓮は円形で最初1、2枚は水面に浮いているが、少し温度が上がってくると水面から上に浮き出で来て、葉が大きく大きく開く、立葉と言っています。
色は濃いピンクが原種で、日本、中国、タイ、インドあたりに在ります。
白花、ピンク等が出てきました。
おしべの部分が花弁に代わってヤエと言う形になります。
14,5枚の花びらがありその中にめしべが沢山あり、蜂巣と言われる様な(花托)穴があいている形になっています。
花托の部分まで花びらになってしまった種類もあります。
しゃくやく蓮、千弁蓮とか色んな名前があります。
アメリカにも黄色い蓮の原種があります。
それを日本送られてきて、王子蓮と名前を付けました。
他にももっと黄色の濃いものがあり明美蓮と呼んでいます。
日本では私の友人富永さんが600種類を育てています。
蓮は水を沢山吸います。(カメの栽培だと大変です)
私も30種類ほど栽培しています。
白い花は最初は外が薄緑色をしています。

千葉県の検見川で2000年前の泥炭層から種を東大の大賀先生が見つけ発芽させました。(「大賀蓮」)
従来の和蓮よりも早く花が咲き、全国に広がりました。
江戸の初期のころには中国から多くの品種が入って来て増えたらしいです。
松平定信が寛政の改革を行ったあと、隠退して築地あたりに蓮をコレクションしました。
それを全部スケッチして残したそうです。
蓮は朝夜が明けるころにコップ状に咲いて8時を過ぎると萎んでしまい、2日目にはお椀状に咲き昼ごろに萎みます 。
3日目は一番外側が水平以上に開き、午後2,3時頃には元に戻っていきます。
4日目は夜明けから外側から花びらが落ち始めて、お昼ごろまでには全部の花びらが落ちてしまいます。
レンゲ(蓮華)のスプーンは蓮の花からきた言葉です。

松平定信が種を全国から集めて栽培したようです。
1品種1容器で栽培します。
「清香画譜」として松平定信はスケッチしたものを残した。
「荷」は花を指し、「蓮」は全体を言います。
「藤壷蓮」は鷹司家(五摂家のひとつで公家)にあったと言うものです。
蓮仲間が色々いたようです。
「感得蓮」 水戸家のものだったと言うことです。
「妙蓮」花びらが1500~2000枚と言う花びらがあります。
「妙蓮」は私は15年間カメでつくったが一回も花が咲きませんでした。
「千弁連」を富永さんから分けてもらいましたが、これは咲いてくれました。
これは除々に花びらが落ちて行き1カ月位は咲いています。

香りは作ってみないと判らない、特に早朝香りは清い香りがして楽しめます。
泥のなかからでてきて咲きますが、泥のかけら一つ付かなく純白の花が咲きます。
上野の不忍池の蓮は琵琶湖から来ているようです。
京都を模したと言われる。
東叡山寛永寺(比叡山の東のお寺) 比叡山延暦寺には琵琶湖の蓮があるのでそこから来たと言われる。
上野の不忍池は琵琶湖を模している。
琵琶湖には竹生島があり弁天様が祭られているので、不忍池にも弁天堂があります。
そこには長らく橋は無かったそうです、竹生島があり弁天様には舟でお参りをしていたので同じ様にしていた。(今は石橋が掛けられている、都内で一番古い橋)
清水堂もあり、大仏もあった。(今は首だけになっているが)
現在は赤い花だけがあるが、元は白い蓮、まだら蓮もあったのではないかと思われる。
「観蓮会」がありそこで花の説明、品種、歴史などを話しています。
その打ち上げの時には「象鼻杯」といって蓮の葉っぱを盃に見立てて、茎を口にくわえて、葉っぱに酒を注いで、茎には蓮根と同じ数の穴があいているので、吸うと喉に入ってきます。
葉っぱのいい香りがほのかに香って味も一段と増します。













2019年6月25日火曜日

髙樹のぶ子(作家)            ・作家として40年 新境地への挑戦

髙樹のぶ子(作家)            ・作家として40年 新境地への挑戦
1946年山口県防府市生れ、73歳。
1980年に作家デビュー、1984年「光抱く友よ」で芥川賞を受賞、その後女流文学賞、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、川端康成文学賞など数多くの文学賞を受賞しています。
現在は芥川賞の選考委員などを務めています。
2018年には文化功労者に選ばれています。
高樹のぶ子さんの最新作は季語を元にした短編集「ほとほと 歳時記ものがたり」。
高樹さんに季語の魅力やそれを生かした作品への思いなどを伺いました。


1980年『その細き道』を文学界に発表。
本も70冊を書いてきました。
今度こそと思って出してきましたが、ベストだとは思え無くて、まだ先大変だなあと言う事が繋がっています。
1984年「光抱く友よ」で芥川賞を受賞でようやくという安堵感がありました。
その後女流文学賞、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、川端康成文学賞など受賞。
賞を客観的に評価することも難しいし、選考委員との相性もあるし、賞と言うものに対する期待値が小さくなってきている。
現在は芥川賞の選考委員の最年長になっています。

大人をうならせて賞を取るにはどうしたらいいかを、中学生のころから心していて、「奥の細道」の感想文をかいて、こんなふうに書いたら大人は感心してくれるだろうと思っていて、大きい賞を貰ったりして、それが大きな間違いで、文学に取りかかったがそれではどうにもならないと言う事が何十年とかかりました。
今読みかえしてみると放浪する人間の悲しさ、自然を見る目とかを見る目を捕まえて居て書いていました。
中学の時にヘミングウエイの「キリマンジャロの雪」、サマセット・モームの「雨」とかに感動しました。
大自然と人間が闘って敗れる姿に感動したのはよく覚えています。
本当はそっちを書くべきだったと思うが、大人をうならせることはできないと思ったんですね。
圧倒されると言葉が出てこなくて、涙も出てこなかった。
人間関係を書くしかなくて、生の人間がぶつかり合って、それが一番面白いところです。
男と女のむき出しの人間関係が扱われていて、私の恋愛小説は少ないとは思いますが。

『マイマイ新子』 9歳の少女、日本版「赤毛のアン」の様な感じ。
自分の少女時代そのままです。
『マルセル』はサスペンスになっています。
最新作は季語を元にした短編集「ほとほと 歳時記ものがたり」。
全国紙に月一回2年間読み切りで掲載された。
俳句、短歌は季節と関連している。
ほとほとは春の頃(節分のころとも言われているが)神が訪れてくる。
神様がその木戸を叩く音が「ほとほと」で、ちょっと湿っている音(雪のせいか)、季節の香り、湿り気、感覚など全部季語は持っているので、日本語の豊かさの一番目に見えるのが季語ではないかと思います。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」という俳句があるが、
今であると同時に、戦前、江戸、平安時代でもあり、柿と法隆寺の「ごーん」はずーっと有るわけです。
時代の厚みの中のどこからでも聞こえてくる。
時間の厚みと柿の季節の日めくりの両方がそのワンシーンに内包されている。
亡くなった人を含めての心の情報、情緒など全部煮詰まったものが季語だと思います。

生活の部分の季語はほとんど失われている。
祭りなどもほとんど違うものになってしまっている。
小さな物語ですが、作ることは楽しいです。
短編小説などは大きい円弧の一部分を切り取って、全体を想像してもらうことは可能なので、円弧のどこを切り取るかは作者の自由でそれを膨らましてゆく、それを読んだ人はそれをもとに自分の体験の中で膨らましてゆきます。
これ好きだったと言うのは人によって色々違うと思います。
24編の中の20編は死者が登場します。
能の世界は死者が出てきて色んな思いを語るが、夢幻の世界、これだなと思いました。
季語は日本の宝だと思います、大事にしたいなあと思います。
生死を越えた繋がり方が暗示されると言うか、それを思い起こす事も出来るのが季節を持った日本の文化だと思います
或る一瞬のパワーで永遠を印象付けると言うか、ある一瞬を提示してその前と後はそれぞれ自分の体験に即して想像してくださると言う事が出来る、そういう余裕有る方法かなと思いまます。

長編小説はあるテーマがあって、言葉で簡単に伝わらないことであっても、伝えるために書くと言う事があるが、短編の場合はある場面を印象付ける、それだけを頭のどこかに摺りこむことができたら、その瞬間が記憶されることで何度も再生ができると言う事があると思います。
在原業平を主人公にした小説一代記を書いていて一番苦労しているのは、小説にする文体をなかなか決まらないところです。
雅な時代で日本の良さを表した時代だと思っていて、かっこいい男在原業平は光源氏のモデルになったと言われている人です。
在平業平の人生を見て見るとあの時代の苦悩みたいなものが見えてくる。
「あかず(満ち足りない)悲し」 女性にもてて幸せそうに見えて居ても、まだ十分ではない、足りないんだと言う事、仏教的なことと関わりあると思うが、それを光源氏がもっていた。
在平業平も「あかず悲し」の一生だったと思う。
それをてこにして彼の人生を語ってやろうと思っています。
文学はキノコのようにひそやかな湿った日陰のもので、それに共感してもらえるものだと思います。















2019年6月23日日曜日

権藤 博(元プロ野球投手・監督)     ・【スポーツ名場面の裏側で】

権藤 博(元プロ野球投手・監督)     ・【スポーツ名場面の裏側で】
プロ野球中日ドラゴンズの新人投手として35勝を挙げ新人王となり、横浜ベースターズの監督として日本一になった権藤さんのお話です。
現在80歳、佐賀県出身。
県立鳥栖高校から社会人野球ブリジストンタイヤを経て、昭和36年中日ドラゴンズに入団、その年いきなり35勝を挙げて新人王ほか投手部門のタイトルを独占しました。
真っ向から投げおろす快速球と落差の大きいカーブで三振の取れる力で押す右ピッチャーでした。
2年目も30勝を挙げ、今では考えられないような連続30勝と言う成績を残しました。
しかしこの登板過多がたたって、3年目以降右肩を痛め思う様なピッチングができなくなります。
内野手に転向しますが僅か8年で現役を引退することになります。
中日、近鉄、福岡ダイエー、横浜のピッチングコーチの後、平成10年横浜ベイスターズの監督に就任し、いきなり横浜を日本一に導きました。
1月に野球殿堂りが発表され、元中日の立浪和義さん、高野連の元会長の脇村春夫さん、とともに権藤 博さんの3人が選ばれました。

歴代のメンバーを見ただけであんな人と一緒になったのかと思いました。
昭和36年開幕第二戦、対巨人戦プロ初登板することになる。
巨人は川上新監督 先発ピッチャーは掘内投手、8回まで4-0で押さえて居た。
9回裏 王選手がセンターにヒット、高林選手が2ベースヒットで1点取られたが、4-1で初登板初勝利。
3番サード長島と放送があった時には俺は大変なところにいるんだと思いました。
長島さんから「いい球なげるね、頑張ってよ」と敵チームなのにすれ違いざまに言われました。
この年奪三振はリーグ最多の310個でしたが、長島さんから三振は取れませんでした。
初戦で勝って20勝するためにはこれを20回やらなければいけないのかと思いました。
8月には25勝あげることができました。
8月27日甲子園球場で対阪神ダブルヘッダー
第一試合権藤-村山の投手戦、完投勝ちとなる。
阪神は巨人とデッドヒートをやっていた。
第一試合を終わって「権藤、肩を冷やすな」と言われてシャワーで肩を温めていました。
当時は冷やすと言う事はもってのほかで、泳いではいけない、風に当たってはいけないとか言われていました。
第二試合、7回からマウンドに上がりました。
押さえて1-0で中日が勝ち、一日で2勝をあげました。(27勝)

7月の雨の時期に12日間で4試合しか試合が無かったが、4試合すべて投げる。
「権藤、権藤、雨、権藤」という流行語が生まれる。
一日休めば先発するものだと思っていました。
この年35勝あげる、12完封、奪三振310個、防御率1.70(セ・リーグNO1)
429回1/3イニングス登板は60年近くたった今のセ・リーグ登板最多回数として記録が残っている。
投手部門のタイトルを根こそぎ取った。
杉浦さん、稲尾さんという大投手がいましたから、稲尾さんはその年42勝しましたから、上には上がいると思っていました。
2年目も30勝マーク、1年目は69試合、2年目は61試合を投げる。
シーズン130試合なので約半分を投げたことになる。
登板過多のため3年目以降は故障で苦しむことになる。
82勝60負 以後内野手に転向。
入団から8年(29歳)で現役引退する。

中日、近鉄、福岡ダイエー、横浜のピッチングコーチを務める。
平成10年 監督就任。
6月下旬から首位に立って2位中日に6ゲーム差、勝てば優勝というゲーム。
対阪神戦ナイトゲーム。
2-3とリードされた8回、4-3と逆転、8回裏から大魔神佐々木が登場、3者連続三振、38年振りにリーグ優勝を果たす。
前日中日が負けたのでマジック1になり勝負を掛けようとした。
斎藤を先発に急遽決めて佐々木にリリーフをして貰おうと思った。
事前には佐々木には登板はないといっていた(緊張するものと思って)が、登板させることにしたが、いまだにその事に怒っています。
内野手は全部ゴールデンクラブ、センター、この守りは凄かったと思う。
先発も上手く行き中継ぎにもローテーションが出来ました。
日本シリーズは西武との対戦。
2勝2敗の後第5戦20安打で17-5で3勝とする。
第6戦8回まで0-0、8回裏2点を取り、9回西武を1点に抑えて2-1で38年振りに日本一になる。

昭和13年佐賀県生まれ、鳥栖高校では内野手であったが投手に転向、佐賀大会では決勝で敗れる。
ブリヂストンタイヤに入社、同社の久留米工場野球部でプレーしていた。
昭和36年中日に入団、3年目から肩の故障で苦しむ。
オフの間の過ごし方がよくなかったと思う。
オフは肩を休ませろと言う事でランニングなどはやっていたが、肩を休ませたので筋、筋肉が固まってしまったのが失敗だと思います。
今では一般的にオフでもキャッチボールをしたりして肩を慣らしていますが。
当時投げて潰れるなら本望だと思いました、オフの肩を休ませたのはよくなかった。
コーチになってからは選手の痛み、苦しみも判るようになりました。
選手の個性をいかに出すか、そこしか考えていませんでした。
優勝を争うようになるとコーチとして監督とは対立することもありました。
グラウンド、ブルペンでの話はします、それぞれの投手によって相手に対する攻め方は違うので、投手全員集めて話してもあまり意味がない。
WBCでピッチングコーチを78歳で勤める。
選手の体格、パワーが昔と違ってきました。
バッター、ピッチャー共に技術も上がってきています。
人と同じことをやっていてはだめだと思っていて、何を取り入れるのか、取り入れるための観察眼が必要だと思います。
選手は個性を出してもらいたい。











2019年6月21日金曜日

萩原朔美(前橋文学館館長)        ・【わが心の人】森 茉莉

萩原朔美(前橋文学館館長)        ・【わが心の人】森 茉莉
森 茉莉さんは明治36年東京に文豪森鴎外の長女として生まれました。
昭和32年『父の帽子』でエッセイストクラブ賞を受賞しています。
その後幻想的な小説世界で評判となり、又週刊誌のコラム「ドッキリチャンネル」ではTV番組やタレントを率直かつ辛口な言葉で論評し、注目されました。
昭和62年6月に亡くなりました。(84歳)

若いころは寺山修二さんの劇団演劇実験室「天井桟敷」で出演、演出の仕事もしていました。
その後、丸山明宏(美輪明宏)との共演作『毛皮のマリー』での美少年役が大きな話題となる。
美輪さんの演技がうまくてとても太刀打ちできないと思い辞めました。
最近その重石がとけました。
文学館は資料を見せる、収集している文豪、詩人、歌人がどういう生き方をしてきたのか、どういう作品を書いてきたのか、ガラスケースで味あう訳ですが、中々それだけだと人は興味
を持っていただけないので、イベント、講演会、リーディングシアターをやったりと言う事で文学作品に出あってもらいたいとイベントをやっています。
祖父は詩人の萩原朔太郎、母は作家の萩原葉子
私はエッセーを書いています。
 
母親と森 茉莉さんは友達だったので、家に訪ねてきたりして小さいころから面識がありました。
こんなに自由に自分の好きなことをやっていられる人がいるんだなあと思いました。
洗濯をしたことがないと言うことだったが、新しいい下着を買って夜中に川に捨てに行ったと言う事でしたが、そこまで自由に生きられると言うのも凄いと思いました。
からかわれていたのかも知れません。
家に入った時にはこれは絶対掃除はしていないと思いました。
TVを見て居て大きな音を出すのと、風、音が入ってくるのが厭なのか窓を開けていなかったようです。
遮蔽した空間で物を書きたかったのかもしれません。
作品は夢のような世界が現実で、自分の周りの本当の現実は彼女にとっては現実ではないとそういうふうに思いました。
TVはベッドの足先にTVがあり、枕側に本が積んであり、背もたれにしていたので、寝る時にはどうするのかと聞いたらそのまま寝ると言う事でしたが、本当に吃驚しました。
原稿もそのその態勢で書いているのかもしれません。
週刊誌のコラム「ドッキリチャンネル」ではTV番組やタレントの好きな人はとことん褒めて、厭な人はとことんこきおろす、はっきりしていました。

自分が作り上げている世界がいちばん重要で、テーブルの上が散乱していると言う事は大したことではないんじゃないかと思います。
自分の息子が片づけようとしたら非常に嫌がったと言う事を話していました。
自分の子どもの好き嫌いも平気で言うと言うことです。
料理を作ってくれると言う事があったが、本当にそうなのかは判りません。
本には紅茶の入れ方も書いてあるが、メーカー名から始まりこと細かく書いている。
森 茉莉さんの世界は本当に優雅な人生を楽しむ事をゆったりとした意味の無い優雅さみたいな、意味の無い無駄と思えるような時間こそ、快楽に結びつく時間こそが大事だと言うふうに言っている様な気がします。
「本物の贅沢」というエッセーがあり、現代は偽物贅沢の時代であるといっています。
本当の贅沢な人間は贅沢と言う事を意識していないし、贅沢の出来ない人にそれを見せたいとも思わないのである、とおっしゃっています。
偽物贅沢の奥さんが着物を誇り夫の〇○社長を誇り、すれ違う女を見下しているのも貧乏くさい。
もっと困るのは彼女たちの心の奥底に贅沢と言うものを悪いことだと思っている精神が内在していることである。

茉莉さんは〇○夫人とか〇○出身とか関係なくて、大文豪の娘じゃないですか、又外国にも長い間行っています。
父親からこれ以上愛されないと言うように、身にしみている優雅さがあると思います。
父親と言うのは私にとっては恋人であるとはっきり言っています。
それが生涯に渡って続いています。
森鴎外を越える人ってハードルが高い。
自分の娘をかなりの年齢まで膝の上に抱っこするなんてちょっとないです。
僕の母親は父親に愛された記憶がないので、そこが決定的に違うと何回も言っていました。
室生犀星の娘の室生朝子さんも父親に愛されています。
萩原朔太郎はあまり家にいる時間が無かった。
本当にたまに家にいる時には合唱をしたりした記憶があるそうです。
自分が文章を書くようになって父親である萩原朔太郎はどうだったんだろうと、父親の文章を読んで調べたんだろうと思います。

茉莉さんと母親とはたのしそうな会話はずーっとありました。
茉莉さんの『父の帽子』は50代の後半で、小説を書いたのは51歳の時でした。
母親も50歳近くになってから書き始めました。
茉莉さんは喫茶店で何時間も書いていました、自分が没頭してしまう。
『枯葉の寝床』を美輪さんが演劇化してやりました。
それを見て茉莉さんは主役が駄目だと、アラン・ドロンでなければ駄目だといって、美輪さんも困ったと言っていました。
普通そういったことはまず言わないと思いますが。
茉莉さんは純粋無垢さは80代でも保っていました。(当人はそうは思っていなかったかもしれないが)
自分の良いと思ったことに突き進んで人生を生きられたと言う事は羨ましいです。
自由さを保てると言う事は物凄く大変な事ですが、スーッと実現できると言う事は羨ましいです。
感覚が物凄く研ぎ済まされていると思います。
言葉使いが独特で文体のリズムが独特です。
この漢字ではなくてはいけないというこだわりがあり、言葉を大事にします。
本物の紅茶の味、本物の料理、スープはこうだと言う事を、子どもの時に体験しているからでしょうね。

今は文学は本の売れない時代で、今こそ文字と出会うチャンスを一杯作らなければいけないと思って、敷居を低くするイベントをやっています。
映像も随分使っています。
詩集を声にして朗読すると言う事も工夫してやっています
リーディングシアターもやっています、ラジオドラマ的です。
群馬県出身の若手女性作家も注目していて阿部智里(20代)展をやります。




















2019年6月20日木曜日

井山計一(バーテンダー)         ・「日本一幸せなバーテンダー」(2019.3.6)(中止)

井山計一(バーテンダー)  ・「日本一幸せなバーテンダー」(2019.3.6)(中止)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/03/blog-post_6.htmlをご覧ください。
女子サッカー  日本☓イングランド試合放送の為 放送は中止になっています。

2019年6月19日水曜日

東野智弥(日本バスケットボール協会技術委員長)・【スポーツ明日への伝言】(中止)

東野智弥(日本バスケットボール協会技術委員長)・【スポーツ明日への伝言】バスケットボール復活への道 放送中止しました。
昨夜10時22分ごろに山形県沖で深さ14kmを震源とするM6,7の地震がありこのニュースの為、放送は中止となり、後日放送となりました。
新潟県村上市で震度6強の揺れ、山形県鶴岡市で震度6弱の揺れを観測。
午前1時には津波注意報を解除。

2019年6月18日火曜日

柳沢正史(筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構)・知っているようで知らない「ねむけ」の正体

柳沢正史(筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構機構長)・知っているようで知らない「ねむけ」の正体
私たち人は一平均日7~8時間の睡眠を取っています。
およそ一生の1/3を寝て過ごすわけです。
人間など脊椎動物だけではなくて、昆虫や線虫までほとんどすべての動物は眠るそうです。
動物はなぜ眠るのでしょうか。
どのような体内システムで眠りに落ち、睡眠がどうコントロールされて目覚めるのか、柳澤さんはそうした睡眠に付いての詳細はまだほとんど解明されていない、睡眠は現代神経科学の最大のブラックボックスだと言います。
その謎の解明に文部科学省が世界トップレベル研究拠点プログラムとして筑波大学に国際統合睡眠医科学研究機構を開設しました。
柳澤さんは大学院生の時にテキサス大学に招かれて以来、長くアメリカで研究を続け、人の睡眠、覚醒に関係する重要な物質オレキシンを発見しました。
2014年からは日本に拠点を移し国際統合睡眠医科学研究機構の機構長として世界の若手研究者を率いて、睡眠研究の世界最先端を牽引しています。
よく眠れた、高齢になると朝早く目が覚めるとか、睡眠は私たちの日常に欠かせないものです。
柳澤さんは睡眠の仕組みは「ししおどし」に似ていると言います。
眠気と言う睡眠要求が「ししおどし」に流れ込む水で、ある一定量たまると、「ししおどし」の竹筒が反対側に傾いて水が流れ出るように、人は睡眠に落ち、溜まっていた睡眠要求が解消されるのだそうです。
睡眠要求の正体は何か、有史以来全ての動物がねむるという壮大な生物の謎に挑む柳澤さんに伺います。

私は50代のおわりですが、睡眠には朝型、中間型、夜型とありますが、中間型だと思います。
今は出来るだけ0時から7時までベッドの上にいるように心掛けています。
理想的には個人個人の自分にあった時刻に寝て、自分に会った時刻に起きる、それを御自身で探していただきたいです。
十分な睡眠時間を取ってもらいたいが、十分な睡眠時間も人によって違うし、年齢によっても違います。
大人の多くの人の平均時間は7時間と言われていますが、それぞれ違うので適正な時間を探してもらいたいです。
午後眠くなってしまうようだと、睡眠が足りていないと思った方がいいです。
日本は睡眠不足な国です。
短時間で質のいい睡眠を取れませんかと言う質問がありますが、ゴールが間違っていて、やはり時間を確保することがとっても大事です。
慢性の睡眠不足の方は1週間毎日30分~1時間多く寝て下さい、そしてスッキリするようであれば時間が足りなかったということです。
休日に朝起きなくていい日に普段よりずーっと遅くまで寝ているようだと睡眠が足りていない証拠です。
長い生物的な歴史の中で人間は約7時間睡眠が必要なように脳は作られているので、そう簡単には変えられないと思います。

睡眠がどうして必要なのか、現代の脳科学はきちんと答えることができません。
①全ての脳(中枢神経系)を持つ動物は睡眠がどうして必要なのか?
②例えば人間の場合、どうして7時間程度の睡眠が必要なのか、どのように制御されているのか?
二つの大きな疑問があります。
脳(中枢神経系)を持つ動物 ショウジョウバエ、魚なども眠ります。
クラゲも眠るらしいという衝撃的な論文が1,2年前に出ました。
クラゲはかさのなかに神経節という神経回路網はあるが脳(中枢神経系)と言われるようなものは持っていなくて、でも睡眠行動を取ると言うことです。
睡眠と言う行動が満たす条件は4つあります。
①睡眠、覚醒が素早く可逆的に切り替わる。
②眠っている間は基本的には動かない。
③眠っている間は外界刺激に対して鈍くなる。
④眠らせないでおくと、長い間眠らないと、その後長く眠る。(リバウンドが来る)

疲れた脳とは何ですか、と言われても今の段階では答えられない。
なにかが回復していると思うが、脳のなかで具体的にどう作用しているかは判らない。
脳の燃費を測定すると、覚醒時もノンレム睡眠の時もほとんど変わらない。
レム睡眠(夢を見たりする)時は覚醒時よりも多かったりする。
コンピューターに脳を例えると、スイッチは入りっぱなしにして、オフラインにしてメンテ作業をしている状態です。
意識の無いリスキーな行動である睡眠が何時間も取るのかよく判らない、それほど重大な
事をやっているわけです。
睡眠中に記憶が整理されて、固定化されてより強固になる、と言う事は言われている。
言葉になる記憶、身体のスキルの記憶なども、睡眠を取ることによって良くなると言う事が言われる。
多層性睡眠、単層性睡眠があるが、ほとんどの動物は多層性睡眠です。
極端な単層性睡眠をするのが人間です。
長く深く続けて眠る能力があるのは人間だけです。
人間に近い猿も長く深く眠り続けることはできない。

国際統合睡眠医科学研究機構は10位の研究室が集まっていて、何らかの睡眠の研究を行っています。
私の研究室では根本的な睡眠のメカニズムの研究をしています。
睡眠の仕組みは「ししおどし」に似ていて、眠気と言う睡眠要求が「ししおどし」に流れ込む水で、ある一定量たまると、「ししおどし」の竹筒が反対側に傾いて水が流れ出るように、人は睡眠に落ち、溜まっていた睡眠要求が解消される。
睡眠と覚醒のスイッチの部分については解明が進んでいます。
水に当たるもの(睡眠要求)が何なのかが判らない。
スイッチは判って来たけれどスイッチを押す指が判らない。
意味のある仮説がたてられない、土台が無い状態。
仮説を立てるのをやめて、データを出してみて何か決めて行く探索研究というが、私の研究スタイルの一つです。
オレキシンを発見したやり方も探索研究の一つです。
多くの手間がかかるので、リスキーでもあります、何も見つからない可能性もあります。

幼稚園位の時にどぶ川の水の流れ、渦、流れ来るものなどに、面白いと思ってずーっと見ていた事を覚えています。
小学校1年生の時に黙って先生の言う事を聞けない子で友達と話をしていたりしていました。
1,2年生の頃、将来研究者になりたいと書いていました。
判らなかったことを解明したいと言う純粋な好奇心でした。
座右の銘のようなものとして
①よい問いを見出すことは、問いを解くことよりも難しい。
(何を問うかで、もう勝負は決まっていると思う。 あらゆる分野に言えると思う。)
問題発見することはAIには出来ないと思う。
日本の教育は問いを解くことを物凄く訓練させられるが、問いを発見する訓練は日本人はほとんどやらされない。(小、中、高、大学含め)
問いを見出す教育をしなければいけないと思います。
②自分自身が本当に面白いと思える研究をしてほしい。
③事実は小説よりも奇なり、ということわざがあるが、真実(科学的真実)は仮説よりも奇なり。
オレキシンが睡眠に関係するとは夢にも思わなかった。
④科学者にとってデータは自分が持っている仮説よりも常に上に置いて置かないといけない。
仮説がデータよりも上に来てしまうと非常に危険で、極端には研究不正なったり、「良いとこ取り」都合のいいところだけに目を向ける研究態度になってしまうと、結果には再現性が無いと言うようなことになってしまう。
仮説を磨くことによってゴールになって、仮説は大事だとは思うが、人間が小さな頭で考えたストーリーなんだと言う事を常に意識している事が大事だと思います。



















































2019年6月17日月曜日

藤原道山(尺八奏者)           ・【にっぽんの音】

藤原道山(尺八奏者)           ・【にっぽんの音】
案内役 能楽師狂言方 大藏基誠
色んな分野の方と共演をしていて坂本龍一さん、野村萬斎さん、サックス奏者のケニー・Gさん、ウイーンフィルなど様々な方とコラボレーションしています。

自分の中にないものを知る事が出来ることと、音楽を共有できることが嬉しいです。
自分の音楽の引き出しが増えて行く事も嬉しいです。
共演者とは自分が思い付く時と、たまたまのご縁があった時などがあります。
尺八の音はフルートに近いと思います。
尺八は音色が多彩だなあと思います。
西洋の音楽は綺麗な音を出す事が普通メインですが、尺八は雑音みたいなものも音楽の一つとしてとらえられてきたので、それが面白いと言う事で逆に西洋の人達が取り入れてやったりしています。
ウイーンフィルの人と共演した時に、私をずーっと見ていてたフルートの人が真似をしてきました。
音で会話できる面白さがあります。

*「実のり」 ウイーンフィルのコンサートマスターのフォルクハルト・シュトイデ(ヴァイオリニスト)という方と初めて共演した時に、是非これからも共演したいと言う事で、共演するようになってそれで作曲した曲です。
これはウイーンのホーフブルク宮殿の中にある教会でウイーンフィルの人達と録音しました。

僕もフルートの研究をして、別なところから見る事が出来て勉強になりました。
尺八のノイジーな音、風の音が加わったり、そこにまとっているものが日本らしさだったりするものがあるかもしれません。
月も色々な言葉で表現したり、色も細かく表現したり、日本の繊細さがあると思います。
尺八には大きく分けて技が3つあります、息の技、指の技、首の技。
息の技は音色の変化、綺麗な音から力強い音迄出す。
指の技は半分開けたり、1/4開けたりすることで一つの穴で4つの音が出ます。
首の技は首を横に振るとビブラート、縦に振ると音の高さが変わります。
3つをコンビネーションして音を作っていきます。
尺八はなかなか音が出なくて、始めた時は1週間音が出ませんでした。
音の出ない楽器に初めて出会いました。
アメリカのシカゴに行った時にヒビが入ってしまった事があります。
急激な乾燥が一番良くないです。
音も乾燥していいる時と湿気が多い時で多少音が違ってきます。

*「ゆりかごの歌」 日本の童謡 歌うような感じの作品、優しい感じの音。
尺八は荒々しい音が出る楽器と言うイメージがあるので、優しい音が出る楽器だと言う事を聞いてもらいたいと思ってこのようなものを出しました。
祖母、母もお琴を教えていたので、日本の音は常に身近にありました。
お琴よりは笛が好きでした。
祖父の友達が尺八をやりたいと言う事でついでにやったらと言われて始めました。
2020年にはデビュー20周年になります。
父はクラシック、ジャズなどの洋楽も好きでしたので、そちらの方の音楽も耳に入ってきていまして、いいものはいいと言う思いはありました。

日本の音とは、竹林を通る風の音、あの音はとても印象深いです。
心が整って行くような思いがあります。
大伴家持の有名な歌で
「わが宿の いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕べかも」と言う歌がありますが、「かそけき」 ひそやかなとか微妙なと言う意味ですが、ああいう音の変化を楽しめるのが日本人ならではないかなと思います。
竹林で演奏したこともあります。

*「最上川舟歌」 歌 伊藤多喜雄
大地から湧き出てくる歌と言う感じがして民謡の力強さを感じます。

古典を大事にするからこそ、新しい事をやって古典に導いてゆく。
古典もできた当時は最新の音楽であったので、良いからこそ時代を越えて伝わっていったと思っているので、人間にとって大切なものが含まれていると思います。
来年20周年になりますが、初心にかえって自分の音楽を見つめ直して、次のステップアップをしていきたいと思います。

*「東風(こち)」 日本の音楽を西に向かって吹きたいと言う思いで作った曲です。





2019年6月16日日曜日

荻澤紀子(牛肉卸会社代表)        ・【"美味しい"仕事人】牛肉の価値を引き出す

荻澤紀子(牛肉卸会社代表)    ・【"美味しい"仕事人】牛肉の価値を引き出す
フレンチやイアリアンのシェフたちはサシの入った肉(霜降り肉)よりも赤身の肉を好む人が増えているそうです。
食通にも濃く深い赤身の味わいが注目されています。
東京の牛肉卸会社代表の荻澤さんは全国各地の牧場に通って、消費者の声を生産現場へ生産者の思いを消費者に伝えながらより価値の高い牛肉を提供しています。
これまでおいしくないと言うのが定説だった乳牛や繁殖牛など、子牛を産む経産牛にもスポットライトを当てて新たな価値を生み出しています。
そのためには牛一頭一頭の個性をしっかりと把握することだそうです。

サシの入ったとろける肉(霜降り肉)と言うのは、黒毛和牛ですね。
それは一つの価値観として大事な求められる日本のすき焼き、シャブシャブだったりには一番ぴったりのお肉になりますが、違った価値観のお肉も求められる部分もあります。
ステーキのように噛みしめる美味さに関しては、赤身のおいしさを求める方がいます。
ヨーロッパで修行して戻ってこられた方々が、赤身を追求したいがものがなかった。
繁殖牛は同じ黒毛和牛でも環境が違うので、赤身の力強さ、味わいの深みとかが出てくる牛種があります。
肉を付けたり肉に味わいを乗せるために一定期間餌をあげて育て上げる期間を持つ牛もあります。
以前はメインと言う感覚で扱われないことが有った部分だったりしています。
価値が見直されてきています。
乳牛にしても経産牛にしても健康に育てられてきた牛たちです。
黒毛和牛に比べて運動したりして筋肉質の部分もあるが、それを時間を置いてあげることで熟成させてベストの状態で次の料理人さん、消費者に渡す事を目標にしてやっています。
可愛いその子たちの命をいただくからには、最大限みんなに求められてほしいので愛情だけはたっぷり注ぎたいと思っています。

大学を卒業後、飲食店の世界に入りました。
食べることが好きでしたし、ご飯を食べている時は心が緩む時だと思います、そういったことに魅力を感じました。
牧場直営の都内の焼肉店で働いていた時に、枝肉の営業をしてくれないかと言われました。
食肉市場にいって枝肉の大きさ、落札スピード、金額などにすごくショックを受けました。
岩手の牧場にも連れて行ってもらいましたが、牛の可愛さ、働いている人達の姿など見て
消費現場とのギャップを感じて、情報が遮断されているような感じがしました。
地域でのビールかす、おからなど食料副産物を牛は消化してくれるので、アミノ酸など多く含んでいるので、牛にとっては良い餌になります。
地域のものを食べさせたいと言う事で立ちあげた餌会社がありますが、そこでの牛肉を東京で販売できないかと、東京事務所を立ち上げないかと言う話がありました。(7年前)
段々注文が入るようになりました。
5つの牧場主の一つ田村牧場の短角牛を販売することになりました。
赤身肉の販売の難しさは経験しました。
歯ごたえのある部位で、みんなが欲しいと言ってくれる赤身の部位が限られていると言う事に気付きました。
或る方からアドバイスがあり、短角みたいな肉は枝肉の状態で1カ月位吊るしておけば美味くなるんじゃないでしょうか、と言われました。
繊維をほぐしてやることでステーキとして使えるのではないかと言われ、それをすることによって突破口になりました。

生産、販売、料理それぞれの段階で、愛情をこめてベストをつくすと凄くいい状態で皆さんの口に入るんだろうなと言う事を、その経験で実感しました。
経産牛、赤身肉もその後チャレンジしていきました。
出来るだけ生産者の処に行って、理解できるように心がけています。
牛種によっても違いますし、一頭一頭性格が違います。
枝肉をみた時に愛情を掛けられてきたと言う事が判ります。
愛情を掛けられた子は細胞の中に愛情が入っていると思います。
お届する店にはいきますし、そのお肉について料理人さんと語らいます。
求められるものとのマッチングだと思います。
生産現場にも料理人さんとかと一緒にフィードバックさせて、みんなで作り上げて行く感覚がチームとなって、餌、育て方、肉の熟成など伝えて行くことで、面白い取り組みになっていると感じます。
伝書バトになってやっています。
岩手は畜産がないと成り立たないと、或る牧場主が言っていました。
草を牛にあげて循環させてゆくことで経済が成り立つ訳です。
黒毛和牛は草だけだと駄目なので、本来牛は草食動物なので赤身肉の場合は草を与えることで、良いものになると思います。
次の世代がやってみようかと言うように畜産業を夢のあるものにしたいと思っています。