2019年5月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】トルストイ

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】トルストイ
「結婚なんて決してするものではない。 
そうでないと、とんでもない取り返しのつかない失敗をすることになる。 
君の持っている美しい気高い資質が、すっかり駄目になってしまう。
くだらないことの為に何もかも使いはたされてしまう。」 (「戦争と平和」の一節、トルストイ)

小説を読むと退屈するけれどトルストイの人生は面白くてしょうが無い、興味が尽きない。
今回はトルストイの晩年の結婚生活の話です、これがとっても興味深い。
1828年生まれ、(江戸の後期にあたる。)1910年亡くなる。(82歳)
ほかにも
「全く結婚しないことである。
これができる人間はめったに居るものではない。
だがこれができる人間は幸福である。」
「いよいよ結婚する前に十遍でも、二十遍でも、いや百編でも考えてみる方が言い。」
凄く結婚に対する否定だが、それは自分が結婚しているからです。
34歳の時に18歳のソフィアと結婚する。
「戦争と平和」を書いている時にはうまく行っていたが、晩年になるとお互いに酷く苦しめるようになる。
82歳で家出をして小さな駅で亡くなる。

理想と現実のぶつかり合い、トルストイは理想を激しく求めるタイプ。
生れながらの貴族で身分が高くてお金もちだった。
晩年には私有財産を持つことはよくないと言う事で、領地も農民に与えて、著作権も放棄しようとしていた。
妻にしてみれば大変なことなので反対するが、世界3大悪妻に例えられている。
(病気をするとお金があるなしで切実な問題で、何にもできない人間になるとお金に綺麗なことは言っていられない、現実はシビアだと感じます。(頭木))
妻の方にしてみれば現実ががっちりあったはずで当然そう思います。
トルストイには13人子どもがいました。
「子どもは神の祝福である、子どもは喜びであると言うのはみなウソだ。
それは昔の話で今ではそんなことは全然当てはまらない。
子どもは苦しみである。
ただそれだけのことである。」 (「クロイツェル・ソナタ」の一節)
子どもがいることで子どもが夫婦の喧嘩の種になってしまう。
トルストイに娘が付いて妻に息子が付いて、子ども同士も反目し合っていた。
親がいがみ合っていると子どもにとっては、かなり不可解だと思います。

「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」 (「アンナ・カレーニナ」の一節)
健康と病気の関係を直ぐ思い浮かべます、健康は一種類ですが、病気は凄く種類があります。
自分とはまったく関係ないと思っていた思いもよらないことが、突然自分のことになる。
どんな不幸が来るかわからない凄味がこの言葉にはあると思います。
トルストイは自分の日記を婚約時代からソフィアに読ませた、結婚後も読ませた。
日記を読ませることは変わっていて、赤裸々に本音が書いてありそれを妻に読ませる。
激しい色んな女性経験の話も書いてありそれは妻にとってはショックです。
理想としては夫婦関係に秘密があっては良くない、自分を受け入れてほしいと言う事だが、妻にとってはたまったものではない。
これは特殊な不幸です。

晩年になるとチェルトコフという中年男性が一番弟子のような形でついて、トルストイの言ったことを世界に広める役をしていて、これに対して妻は厭がっていた。
妻に読ませた日記の中に「私は女性に恋をした事はない。所が今までしばしば男性には恋をしてきた。」と書かれている。
チェルトコフが財産放棄とか著作権放棄を勧めていた人でもありました。
チェルトコフが来てからその後妻に日記を見せなくなる。
ソフィアとしては大変だったと思う。
秘密があってはいけないと言う事は潔癖過ぎると思いますし、晩年は日記を見せてもらえなくなる。

「私の行為はそれがどのような行為であろうと早晩全て忘れられてしまい、この私と言うものは完全に無くなってしまうのだ。
それなのになんであくせくするんだ、どうして人はこの事実に目をつぶって生きて行くことができるのか、実に驚くべきことだ。
そうだ、性に酔いしれている間だけ我々は生きることができるのだ。
が、そうした陶酔からさめると同時に、それが悉く欺瞞であり愚劣な迷いにすぎないことを求めないわけにはいかないのだ。
つまりこの意味において人生には面白い事や可笑しい事など何にもないのだ。
ただもう残酷で愚劣なだけなのである(「懺悔」の一節)
懺悔はトルストイの本音が書かれていて吃驚する。
トルストイは若いころはよくないことを一杯している、ギャンブル、酒、女、さんざんです。
家族、名声、財産、才能、健康など全部揃っている訳です。

だけど虚しい、それは結局死んでしまう。
あと身近な人が沢山亡くなっている。
母親を2歳で亡くして、9歳で父親を亡くして、お婆さんに引き取られるがお婆さんも翌年亡くなって、伯母さんにひきとられるが伯母さんも亡くなり、兄のニコライも結核で亡くなって、13人の子どもも5人は幼くして亡くなる。
お気に入りの次女のマリアも35歳の若さで亡くなる。
死んだら虚しいと言う思いがどうしてもなる、そういう虚しさに晩年とらわれる。
全て満たされても最期に残るのが、死と言う問題なんです。

トルストイが東洋の寓話だと言って紹介しているものがある。
「猛獣に追いかけられて井戸に飛び込むが、井戸の底には龍が口を開けて待っている。
井戸の側面の草にしがみつく。 そうすると2匹の鼠が草をかじってそのままでは下に落ちるしかない。
しかし、掴まっている草に花が咲いていて、蜜がたまっていてそれを舐めるわけで、蜜のおいしさに夢中になることが生きることに夢中になることだと、でも今こんな状態なんだと気付いてしまうと、蜜の甘いおいしさなんて感じることが出来ない、今自分は気付いてしまったと、そういうふうに言っています。
我々も蜜の味に執着するか、蜜の味がしないか。
今の人生の楽しみをなるべく味わってどうせ死ぬんだから、だからこそ今の楽しみをどんどん味わおうとする人と、どうせ死ぬんで虚しいんだから、楽しみなんか何もない、いっそ禁欲的に生きていく方がいいのではないかと両極端に別れる場合が多い。

「人生最期の日だと思って今日を生きろ」みたいな言葉があるが、疑問があります。
人生本当に最期の日だったら仕事なんか行かないし、恨みのある人を殴りに行くかもしれない。
本当は明日もあると思う、明日の為に今日は犠牲にしていることはどうしてもあるが、そういう毎日を過ごしていると虚しさはどんどん増します。
虚しくないように頑張るが、それも限界があり答えの出ない難しいことだと思います。
トルストイの理想はいずれ死んで全てが消えうせてしまうとして、それでも無意味ではないと確信できる生き方、そういう生き方をずーっと探していたんだと思います。
トルストイは神の教えに従って生きようと言うところに行きつく訳です。
自分よりも他人を愛して、人の為に生きるというこういう生き方をしていれば、例え死んでしまって消えてしまっても、全く無意味な人生とはいえないと言うふうに到達する訳です。

しかし矛盾が生じる、他人の為に生きようとすると、一番身近な他人は妻で、妻の為に生きようとすると、財産を放棄しようとする理想が叶わない。
当時トルストイ主義と言って世界中に広まっていた。
ガンジーはトルストイの非暴力主義に凄く影響を受けてインド独立の父になったわけです。
世界をよくしていくために役立っているが、一番な身近な家庭ではうまくいかなかった。
トルストイは葛藤をどうにも解決しようがなくて、最期に家出をして小さな駅で亡くなるわけです。
トルストイは、みんな思っているけどやれないことを、全部やろうとするわけです。
しかし身近な周囲は犠牲になってしまう面があるわけです。
それが簡単に善し悪しが言えないところです。

トルストイは字が汚くて自分でも読めない位で、それを読めるのが妻だけで、それはトルストイがどう考えるか判るわけで、かなりソフィアの手が入っていて、だから結婚していなかったら名作が生れたかどうか、できたとしてももっと違った内容だったかもしれない。
結婚3か月ごろのトルストイの日記
「家庭の幸福が私をすっかり飲みつくしている。
夜中や朝目が覚めて彼女の姿を見ると愛おしさを覚える。
彼女は私を見つめ愛する。
彼女が私のすぐそばに座っていると愛おしい気持ちになる。
私たちはこの上なく愛し合っている。」
私は彼女を愛している。」
















2019年5月26日日曜日

高野進(東海大学教授)          ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪陸上ファイナリストの証言

高野進(東海大学教授・【特選スポーツ名場面の裏側で】五輪陸上ファイナリストの証言
(初回2013.12.13)
静岡県富士宮市出身 58歳、東海大学時代から頭角を現し、日本人選手が最も苦手と言われる種目の400mでオリンピック、世界選手権に3回出場、バルセロナオリンピックでは昭和7年のロサンゼルスオリンピック100mで吉岡隆徳さんが6位に入って以来、60年ぶりにオリンピック短距離での決勝進出を果たしました。
400mを44秒78は30年近くたった現在でも日本記録です。
現役引退後は母校の東海大学で指導、研究を続けるかたわら、日本ランニング振興機構を設立、理事長として子どもたちを中心にした、幅広い年齢の人達に走ることの楽しさを教えています。
日本陸連理事、北京、ロンドン二つののオリンピックの代表監督を務めた高野さんに伺いました。

湘南キャンパスには2万人の学生がいます。
7,8階建ての校舎が18在ります。
400mトラックの全天候型6レーン 公認トラックがあります。
19歳の時からここで練習してきました。
当時は土のトラックでした。
4年に一度のアジア大会では400m2連覇を含めて200,1600、リレーを併せて4個の金メダル、世界選手権大会でも3回連続で1991年東京世界選手権では日本の短距離界では初めて決勝に残って7位になりました。
400mの日本記録は自己更新を含めて10回以上出し、日本選手権400mは7回の優勝。

1984年ロサンゼルスオリンピック、23歳 初オリンピック。
開幕直前の競技会で日本記録45秒85を出す。
80~90人のエントリーがあったと思います。
準決勝の1組目で8位となり決勝に進出できなかったが、上出来だと思った。
1988年 ソウルオリンピック、27歳
一次予選45秒42で全体で2番目の記録で通過、二次予選も通過、準決勝第二組で44秒90(日本新記録)だったが、惜しくも決勝進出を逃す。
45秒00を2回くらい出していて、44秒台は壁だったが壁を破ったのは日本人として歴史を作ったなあと当時思いました。
1991年世界選手権400mで日本選手で初めて決勝進出、7位となり世界から注目を集める。

1992年バロセロナオリンピック
44秒90はもう限界かなと思って、1989年には400mを辞めて100mしか走らなかった。
1990年にアジア大会があり200mで代表で出て、これまでこの種目だけ金メダルを取っていないと言う事で、金メダルを取ることができました。(29歳)
ハイペースにシフトして400mも30歳で日本記録を出せました。
これが大きな自信になりました。
バルセロナオリンピックでは31歳になっていました。
教師としての仕事もある中で調整をしなければいけなかった。
世界選手権400m決勝進出で周りから注目されるようになりプレッシャーを感じるようになりました。
毎日トラックにカメラが来るような状態になり、メダリストになれるのではないかと周りが騒ぐようになりました。
自分ではファイナリストになりたいと言うようになり、ファイナリストと言う言葉が日本でも浸透するようになりました。

8月1日 一次予選余裕で通過、二次予選通過、8月3日準決勝1組で45秒09で4位
ゴール、ファイナリストとなる。
胸をなでおろしました。
決勝では8位だったが、力が残っていなかった。
決勝まで4回を5日をかけてやるので31歳の年齢では体力が限界で大変でした。
記録は45秒18でした。
400mを走り終わって1分後には全身に疲労物質が回ってきて、頭は痛くなるし筋肉は痛くなるし呼吸は乱れっぱなしで、30分ぐらいはまともには歩けなかった。
日本人としてスプリント種目で決勝に残ったと言うのは、個人としても嬉しかったが日本人としても嬉しかったです。
44秒78はトラックの中では日本記録として一番古い記録として残っているが、指導者としてはあまり喜べるものではない。
100mのタイムも上がってきているし、日本人のスプリント力も大分上がってきて400mもいずれ破ってくれるのではないかと期待しています。

400mは毎回死ぬつもりで走らないとだめです、自分のエネルギーを出しつくすわけですから、必死に逃げきるというそういうエネルギー系です。
今思うと荒業のような感じです。
苦労と言うふうには全く考えていなかった。
当時は日常の当たり前なことで生活習慣の一つになっていました。
振り返ってみると同じことはできないと思います。
小学校からずーっと走り続けてきたが、何故自分をそう言うふうに掻きたててきたのかと言うと、ゴールした後の先にいつも新しい光景があります。
新しい自分が待っている様な気持になってきて、スタート地点に立った時に、それまでの自分に別れを告げる気持ちになっていました。
400m走り終わると必ず新しい自分になっていると、それが次の自分に会うような気持で走っていました。
中学時代の同級生にったら多分別人だと思います、ほとんど人前では話せなかったし、スポーツもあまり好きではなかったし、オリンピックに出る様な選手になり、東海大学に勤めて学生に講義したりと言う自分は想像がつかなかった。
一方、どんどん自分自身の幹が太くなって枝葉が出て、色んな世界に自分の生きざまが広がっていくような、それがやってきて良かったことだと思います。

日本ランニング機構の理事長になっていますが、私の自身のライフワークとして走ると言う事は人類の挑戦なんです、ようやく2本足で立った時代から進化を重ねてきて、我々は走りながら進化をしてきた。
或る生物学者は「持久力を持った捕食者」と人間のことを言っているが、我々は狩猟採集時代に足の速い草食動物を追い詰めてしとめてきた。
その間に実はセオトニン、ドーパミン、アレドナリンとかが出てきて、やる気、粘り強さが人間自身に備わってきた。
さらに栄養素が運動することによって脳に送られていき、知能が非常に高くなってきた。
脳の成長には運動が欠かせないと言う事でランニングが欠かせないと思って、自分が走り続けてきたら、小学校、中学校時代あんなに駄目な人間だったのに、走り続けてきてまともな社会人になれた。
鍛えればいいと思っている人がいるが、ランニング技能が必要です。
走り方を疎かにしてしまうと一生直らない。

小学生時代のように脳が柔らかいうちに、ターゲットにしたアカデミーや色んな指導形態を取って走り方を覚えてもらっている。
寝たきりにならないように高齢者は元気でなければならない。
そのためには走ると言う運動も取り入れた方がいいと思っている。
散歩中に3歩走れば(10歩でもいいが)ずーっと走らなくても良いと思っています。
2,3セットやればいいと思う。
ランニング技能検定をやっています。
遅くてもいいから正しく走れるようにすれば、それも立派な目標となります。
日本ランニング機構を作った大きな目的の一つはランニングを技能として浸透させていきたいと言う事と、それを教える指導者を増やしていきたい。
日本人のファイナリストを筆頭に、子どもたちの走り方をよくする、高齢者の健脚、運動の指導など、これを総称してを日本人総アスリート計画と言う事で推進しています。




















2019年5月25日土曜日

立川志の輔(落語家)           ・【舌の記憶】あの時あの味(2)

立川志の輔(落語家)           ・【舌の記憶】あの時あの味(2)
圧倒的なパワーと重層的に語られる志の輔落語、その濃密な世界は何処からどのようにして生まれるのか、志の輔落語を貫くものは何なのか、立川談志の話もたっぷり伺いました、「落語でなにがいいたいんだ」という題で伺います。。

師匠はこんなにお茶目なんだ、こんなに不思議な人だと思ったのは「ガッテン」25年続けている中で15年経った頃でした。
スタッフが「ガッテン」に出てもらえないかと言う事で、師匠に伺いました。
出て質問してもらえればいいといったら、「唐辛子は何故辛いのか」、と言うんです。
動物に食べてもらって、熟して甘くなったものをおいしいから鳥に食べてもらって糞とともに種をばらまく、そのおかげで自分の子孫は世界中に広がって行く。
辛い唐辛子を喜んで食う鳥なんていないのに、なんで辛らくなっているのか調べてこいと言う事で、スタッフが当時の志の吉を連れてメキシコまで行きました。
調べてみたら、辛味や甘味が判らない鳥がいて、唐辛子を食べてくれていて、他の動物に食べてもらいたくない、味の判らない鳥だけがたべてくれればいい、と言う事で辛らくなっているんだと考えられると言う事で放送して、カメラに向かって「ガッテン」して頂けましょうかと師匠もTVを見ていると思っていったんですが、放送後、「俺は立川談志だ、あんなことでガッテンできると思っているのか」と製作室に電話がかかってきて、師匠から苦情が来ました。
わざわざ放送直後にかかってきたわけで、大騒ぎになりました。
恐ろしいし、きびしいが振り返ってみるとお茶目な人でした。

古典落語で5年ぐらいたってうまくできたと思っていたら「お前、今の落語でなにがいいたいんだ」と言われました。
「落語を教わった通りとか、俺が教えた通りならば、俺がやればそれで済むんだ」と言う訳です。
お客さんが満足する中には、笑う、良い時間であった、もうひとつは人間こう生きれば楽なのかとか、こう考えれば幸せかとか、ここまではしてもいいけどここからしてはいけないとか、判ったと言う感じの満足感の大きな種類の一つだから、それをもって、と思ったら、新作落語でも、全ての落語、全部の作品に談志の何とか論(金銭論、教育論とか)が入っているんです。
古典落語の根底に人間ってこういうもんなんだ、という談志論がそれぞれの作品の中に結果的にはいっている、酒を飲んじゃあいけないがこの状況なら人間飲んじゃうよなと言う様な、談志論がそれぞれの作品の中に入っている、だから「落語でなにがいいたいんだ」と言って、そういった事に対して気が付かせようとしたんでしょうね。
お客さんが笑っただけで、良くできましたと思っているんじゃねえだろうなと、いつも思いだす言葉ですね。
『牡丹燈籠』は全部を読んでみた時に『牡丹燈籠』は違うテーマの作品だと思った時に、初めから終わりまで2時間半で全部やろうと考えたのは15年前からで毎年やっています。
毎年登場人物がこの人は素敵だなと、毎年違うんです。
三遊亭圓朝師匠の大作です。
「忠臣蔵」は文楽の為の戯曲であって、その大元になった赤穂事件の出来事で、忠臣蔵ではないんだと、歌舞伎座で観てあーそうなんだと思って、「忠臣蔵」を初めから終わりまで説明出来て2時間半で何とかできないかと思って、これも7年目になり毎年これもやっています。
やっていて毎年角度が違うので、やっていて飽きないです。

「みどりの窓口」「歓喜の歌」これは新作落語ですが、清水義範さんの存在が無ければ沢山の新作落語は出来なかった。
「ゴミの定理」と言う本にゴミがどんどん増え続けて行くとお金を払わなければいけない時代が来ますよ、と言われた時代に、ゴミは人それぞれに定義が違っていて、物が届いた時に人によってはゴミになってしまう。
清水義範さんのエッセーの作品を新作落語に練っていきました。
自分の体験談から来たものもあります。(「歓喜の歌」など)
いくら落語でもリアリティーが半分、面白さが半分ないと、と言う事はあります。
新作を作ると古典落語の凄さが判ります。
江戸時代は短い話だったろうが、何十人、何百人と携わりながら、練ってたしてひいてを繰り返し、一番いい状態の物を僕等は師匠に教わりながら来るので、無駄なく見事なセリフだけが残ったのが古典落語だと思います。
談志師匠は古典落語しかやりませんでしたが、「みどりの窓口」を談志師匠が面白いと言ってくれたのは凄く嬉しかったです。

「ガッテン」が週に一回来るのが、リフレッシュになります。
TV、ラジオ、映画それぞれに携われましたが、それぞれのジャンルの作り方、楽しみ方、表現の仕方が全然違うので何をやってもリフレッシュになります。
パワフルなのは富山県民の血ですかね。
持久力があると言うか、地道にこつこつとやる県民性ですかね。
毎月富山で落語会をやっていますが、富山の人にあうたびに富山に生れて良かったなと思います。
富山弁で「気の毒な」と言う言葉がありますが、「有難う」「すみません」など全部含めて言う言葉です。
「あなたに気の毒な想いをさせました」と言う意味です。
富山弁でこの「気の毒な」と言う言葉が一番好きです。











2019年5月24日金曜日

萩谷由喜子(音楽評論家)         ・オペラ史を彩った明治の女性を追いかけて

萩谷由喜子(音楽評論家)       ・オペラ史を彩った明治の女性を追いかけて
昭和29年生まれ、幼い時から音楽や舞踊を習い、立教大学を卒業後音楽教師やライターを経てオペラや女性音楽家の評伝を書き続けています。
明治150年プッチーニ生誕160年と言う年に当たる去年、「蝶々夫人と日露戦争」を出版しました。
世界の三大人気オペラの一つプッチーニのこのオペラは、明治の長崎を舞台にした物語ですけれども、沢山の日本の旋律が多く取り込まれています。
この曲を作るにあたってプッチーニは当時イタリア公使夫人だった大山久子から様々な協力を受けオペラを書きあげたと言うことです。
華やかなオペラ史の陰で埋もれていた女性たちの活躍を、これからも掘り起こして伝えたいと言う萩谷さんに伺います。

大体、年にオペラコンサートを合わせて300公演位いきます。
去年、「蝶々夫人と日露戦争」を出版しましたが、蝶々夫人の知られざる一面が結構出てきています。
「蝶々夫人」に関わった大山久子さんという女性のことに気が付いたのは1998年なんです。
蝶々夫人のオペラの中には沢山日本の旋律が出てくることには気が付いていましたが、プッチーニが何故取り入れることができたのかは、それほど疑問はありませんでした。
大山久子さんのお孫さんが書いた文章に出会って詳しくやりたいなあと思いましたが、20年近くかかってしまいました。
2017年からラストスパートを掛けてようやく書き上げました。

立教大学の経済学部を卒業しましたが、日本舞踊と邦楽をピアノなどはやっていました。
友人の紹介で音楽評論家の志鳥栄八郎先生の門を叩きました。
その後先生のアシスタントをやるようになりました。
祖母がお稽古事を沢山やってきた人で、日本舞踊、長唄、三味線、を習い歌舞伎にも行ったり邦楽、ピアノなどもやり、邦楽と洋楽が融合していきました。
大学卒業後、お琴の先生、ピアノ教室も15年やりました。
志鳥栄八郎先生のもとで音楽評論の勉強を並行してやりました。
最初の評論は「五線譜の薔薇」と言うタイトルでした。
女性音楽家10人の評伝集と言う事で、本を出版しました。

幸田 延(こうだ のぶ)と言う人の事を書きたくて妹の安藤 幸(あんどう こう)の姉妹のことを次に出しました。(2003年)
幸田 延の兄は海軍軍人・探検家の郡司成忠、作家の幸田成行(露伴)、弟に歴史学者の幸田成友。
幸田 延の資料はあまりありませんので自分で書こうと思いましたが大変でした。
書き始めたころは幸田 延のピアノ教室のお弟子さんがまだいました。
幸田 延が亡くなったのは昭和21年でした。
「幸延会」(こうえんかい)という先生を偲ぶピアノの同好サークルを半世紀以上続けて来ました。
その方たちに取材ができたことはラッキーでした。
伝説のヴァイリニスト、諏訪 根自子(すわ ねじこ)、ピアノでは田中 希代子(たなか きよこ)の評伝を出しました。

諏訪 根自子は或る時から突然活動を停止して、又晩年になってバッハの無伴奏全6曲のレコーディングをして、どうしてブランクのある方が一番難しいバッハの無伴奏全6曲の録音ができたのか、これも謎だと思うし、戦中ヨーロッパでナチスドイツのゲッベルス宣伝省から頂いたと言うストラディバリウスの謎など、自分で突き止めたいと思って書きました。
そしてようやく書きたいと思っていた「蝶々夫人と日露戦争」を去年出版しました。
越後獅子、君が代、さくらさくら、お江戸日本橋、など全部で8曲でてきます。
プッチーニは日本に来ていないし不思議だと思っていました。
ジャポニズム、日本文化への憧れの風潮が高まりますが、音楽の流出は判らなかった。
イタリア公使夫人だった大山久子から様々な協力を受けたと言う事が判りました。
それ以外にもパリ万博でミラノ公演をした川上貞奴もプッチーニは見ているんですね。
大山久子はヨーロッパの語学が堪能だったので、プッチーニは直接日本の音楽に関することを聞くことができました。
プッチーニは明治37年に「蝶々夫人」を初演する。
原作は4年前にです。
蝶々夫人は元々はアメリカの新聞記者の方が日本に滞在歴のある姉の話をもとに書いた短編小説ですが、デーヴィッド・ベラスコと言う劇作家が戯曲にしてその戯曲をロンドンで上演した時にプッチーニが見て、これだと思ったのが始まりです。

プッチーニの異国趣味の最初が「蝶々夫人」でした。
その後アメリカの「西部の娘」などを書くわけです。
最期は中国の「トゥーランドット」ですが、広く世界に題材を求めてゆきました。
生涯に12作で、数としては少ないが、一つ一つに対して磨き抜いたものを提供したと思います。
大山久子はイタリア公使大山 綱介の奥さんですが、幸田 延とは東京女子高等師範学校の小学校の同級生でした。
幸田 延はその小学校に日本に最初に洋楽を教えに来たルーサー・ホワイティング・メーソンに見出されました。
大山久子も長唄、お琴を習っていました。
二人は将来に渡って親友でした。
大山久子はプッチーニに日本のことを教えるにあたって資料を提供してもらったのが幸田 延でした。
当時は日露戦争で緊張していた時代でイタリア公使大山 綱介は政治の世界で、大山久子は文化の方面で尽力しました。

「蝶々夫人」は本当に旋律が美しいと思います。
日本の音楽の旋律をそこに自分のペーストを加えて源曲が判らない位に使ってしまう。
「豊年節」をオペラのなかで子守唄にしてしまう。
他にもドラマチックに変貌させる曲が色々あります。
いろいろ突き詰めて行く面白さがありました。
大山久子に関してはイタリアでの取材もありましたが、日本でも関係者から色々提供していただき資料、表紙の写真、本の中の写真なども提供させてもらって感謝しています。
凄く向上心、勉学への強い意欲とか、自分が学んだ事を後進に伝えて行きたいと言う両方の気持ちを取材を通じて当時の女性たちに対して感じました。
津田梅子が最初の女子留学生として、アメリカに留学するが、一緒に永井繁子が留学して彼女がアメリカでピアノを勉強して日本に帰ってきて、幸田 延も教えました。
今書きたいと言う人、戸田 極子(とだ きわこ)さんと言う方で、岩倉具視のお嬢さんで、戸田氏共伯爵夫人となりウイーンでブラームスとお付き合いがあった方です。















2019年5月23日木曜日

真珠まりこ(絵本作家)           ・【私のアート交遊録】「もったいないが地球を救う」

真珠まりこ(絵本作家) 【私のアート交遊録】「もったいないが地球を救う」 
かつて「もったいない」が日常の中で当たり前のように使われていたと思うが、最近では死語になったと思われていたが、この真珠さんの絵本から飛び出して子どもたちの心を掴んでいます。
真珠まりこさんの代表作「もったいないばあさん」は頭にカンザシ手にはツエ、ご飯を食べ残したり、電気の点けっぱなし、水の出しっぱなしをすると「もったいないことをするんじゃない」と姿を現すちょっと怖そうな婆さんです。
このもったいないばあさんが闊歩する絵本は今年誕生から15年を迎えて累計100万部を売り上げる人気絵本となっています。
この間様々な賞や小学生新聞に連載されるなど、常に注目される絵本となっています。
真珠さんは「もったいないばあさん」を通して地球の環境問題についてもアクションを起こしています。
日本の暮らしに古くから流れる「もったいない」という考え方に付いて、「もったいないばあさん」に託す思いを伺いました。

「もったいないばあさん」の話を書くために常に「もったいない」と言う事を意識してもう15年生きているので身にしみていますが、書き始めた時は子どもたちに伝えて行かないと「もったいない」という意味が判らない暮らしをしているなと気がつきました。
子どもが4歳の時にご飯を食べ残したので、「もったいない」といったら、どういう意味と聞かれて、言葉に詰まってしまって、他の言葉に置き換えられないと言うことに気がつきました。

長々と説明したが判らなくて、意味が判るような絵本はないかとさがしたがなくて、それでは自分で作ってみようと思ったのが「もったいないばあさん」でした。
昔だったら修理していたものが、新しいものを買った方が早かったり安かったりして、使い捨てが当たり前だと思ったら、地球がゴミだらけになってしまうのでどうなんだろうと怖くなりました。
「もったいないばあさん」を連載するようになって深く考えるようになって、ケチは自分だけのもの、執着、「もったいないばあさん」の「もったいない」はそれを大切に思う、大好きだからもったいないと思う、大切な人に貰ったからたいせつにしたいとか、自然、頂く命に対して有難うと言う感謝の気持ち、愛情があって言っているんだと言うふうに思うようになりました。

「もったいない」という言葉は元々仏教の言葉で、全てのものは仏になる、すべてのものには命があって、命があるものを大事にしないのは「もったいない」という、命の大切さを伝える言葉だと言うふうに伺いました。
「もったいないばあさん」は、頭にカンザシをしていて、カンザシは七、五、三の時に買ってもらったカンザシを大事に持っていると言う設定です。
鼻メガネで、ネッカチーフを首に巻きモンペ姿です。
考えた末に眼は観音様のような半眼にしました。

家族がみんな医者で、医者になるか医者と結婚すると言う様な雰囲気でした。
専攻は栄養学でしたが、やりたいことがあまり見当たらなかった。
結婚して、或る時に高校時代の友達に出会って、美大を卒業後イラストレーターをしていると言う事でした。
それと絵本科と言う看板があり、面白そうと思ってパンフレットを取ったのがはじまりでした。
絵本だったらずーっと続けられると思いました。
自分を表現することに合っていたんだと思います。
「もったいないばあさん」の連載、本が出るうちに自分で一回やって見ることが必要だと思って味噌を作ってみたり色々なことをするようになり、「もったいないばあさん」のような暮らしが出来たらいいなあと思いました。
「もったいないばあさん」ももう15年になりましたが、あっという間でした。
100万部と言うことですが、想像が付かないです。

ケニアのマータイさんがノーベル平和賞を受賞されて、2005年2月に御自身が推奨される3Rを一言でいえるのが「もったいない」と言う言葉で、判りやすいから世界に広めようと言う事で話題になり、広がって行きました。
リスペクト(respect)が含まれているということで、共感していただきました。
マータイさんは「もったいない」と言う言葉は清水寺の一番偉いお坊さんから伺ったそうです。
深い意味を理解されたのは凄いと思います。
子どもたちがその一冊を読めば、今地球で何が起きていて自分たちとどうつながっているかと言う本が見当たらなくて、「もったいないばあさん」のワールドレポート展をしようと言うことになりました。
ユニセフに協力していただき、データ、写真も提供していただきました。
「もったいない」と言う言葉をキーワードにして、「もったいないばあさん」をガイド役にすると言うのは良かったなと思いました。
3年前からユニセフさんが全国の市部で巡回展をして下さるようになりました。
人、物、心を大切にしたいと言うメッセージを込めた作品、例えば「おたからパン」は、本当の宝とは他人から奪うものではなくて、自分の中で育てるものとか、にこちゃんとぷんぷんまる」シリ-ズでは発達障害のある子どもが、この絵本しか見ないんだと言う反響を聞いたところから更に出版が決まる。
何故発達障害のある子がその本しか見ないのかは私にも判りませんが。

「もったいないばあさん」のワールドレポート展のメッセージとしては、自分さえよければと思わず、分けあう気持ちがあれば平和な世界ができると言うこと、命は全て繋がっていて、一つ一つの命が大切なんだよ、という二つのメッセージがあるが、その二つが「もったいないばあさん」の全ての本の根底に流れる筋のようなものです。
民族、国、宗教、言葉、文化が違っても人が大切に思っているものも同じ様に大切に思う、敬う、リスペクトすれば世界は平和になると思う、そこに全て繋がって行くと思います。
命の大切さ、小さい時に愛されて育つと言う事がとても影響しているのではないかと思います。
姉も弟も医者になりましたが、小さい頃はわからなかったが、大人になって私は傷ついていたんだとおもって、自分はいらない子だったんじゃないのかなあみたいなコンプレックみたいに思っていたんだ私はと言う事に、「もったいない婆さん」を書くようになって「もったいない」と言う意味を考えた時に気がつきました。
何人子どもがいても「貴方が生まれてくれてありがとう、どんなにうれしかったか」と言う事をちゃんと伝えて行くことはとっても大事だと思いました。
最新版「もったいないばあさん 川を行く」 もったいないばあさんが川を旅する話ですが、水の循環とか、命の繋がりを考えてもらえたらいいなあと思います。










































2019年5月22日水曜日

銭谷欽治(日本バドミントン協会専務理事) ・【スポーツ明日への伝言】世界のメジャースポーツにするために

銭谷欽治(日本バドミントン協会専務理事) ・【スポーツ明日への伝言】世界のメジャースポーツにするために
東京オリンピックが迫るなか、日本のバドミントン選手は世界の大会で好成績を残し続けています。
日本バドミントン好調の理由、オリンピック更にはその先への期待について銭谷日本バドミントン協会専務理事に伺います。

この20,30年マイラケットは持っていないです。
選手の代表が決まって行きますが、今、5月1日から来年4月末までの全ての国際大会のポイントで決まってきます。
大会に出るためには実際には2年前からスタートしています。
今5種目ともトップランキングにきているので、本番ではメダルを何とか獲得したいと思っています。
女子のダブルスは熾烈の戦いが始まっています、世界のトップ3になっている。
怪我が一番怖いと思っています。
男子シングルスは桃田選手がトップになっていますが、研究されて楽に勝てると言う訳にはいかなくなってきている。
女子シングルスは山口が若いので未完成な所もあり、奥原選手も頑張ってもらいたいと思っています。

銭谷さんは1953年生れ、石川県出身 石川県立大聖寺高等学校から中央大学に進み、卒業後は河崎ラケット工業、三洋電機で選手として活躍。
 全日本総合バドミントン選手権大会男子シングルで1976年から4連覇など7回の優勝。
1985年に選手を引退、その後コーチを経て監督に就任。
1996年から三洋電機女子チームを全日本実業団バドミントン選手権大会4連覇に導いた。
現在は日本バドミントン協会専務理事としてバドミントン界をけん引。

バドミントンが強くなったのは15,6年前からジュニアの育成に力を注いできました。
2004年から朴柱奉(パク・ジュボン)ヘッドコーチが来て、2008年1月から開設したナショナルトレーニングセンター、コーチ陣のサポート支援などそういったものの総合力だと思います。
小倉、潮田選手(「オグシオ」)、彼女たちが入ってきたのは2003年で、その前後ぐらいからです。
ジュニアは全国大会の整備、アンダー16の充実、コーチングスタッフもかなり多くの先生などに協力していただきスタートしました。
成果がどんどん出てきました。
ナショナルトレーニングセンターの設備の効果も大きかったです。
いち早く利用したのが卓球とバドミントンでした。
パクさんはオリンピックの金メダルを取っているので、その後イギリスに数年いって、マレーシアにいって、日本に来てからも日本語を貪欲にをマスターして、選手に対するカルチャーショック的な、ベスト8にはいると喜んでいた時代だったので、それをぶち壊してくれてた、意識改革は大きかったです。
パクさんとコーチ、選手との調整役として立ち回った時期もあり、苦労したこともありました。
パクさんも日本のシステムを理解して4,5年かかって信頼関係が生まれてきました。

2016年には賭博問題が起きました。
私が就任して2年目あたりの頃で、吃驚しました。
先ずは検証してできるだけすみやかに処分をちゃんと出さないといけないと思って対応させていただきました。
スポーツの高潔性、ルール、倫理規定をつくっても結局は個人本人なんですね。
関係者全員がインティグリティ(Integrity「誠実さ」「高潔さ」「真摯さ」) の意味合いを学んで行かないと、大きな課題だと思っています。

シャトルは今、初速は最高で473km/hと言われています。
30年前は250km/hでした。
昔は木のラケットで140gぐらいだったが、今はラケットがカーボン製になり80g位でスピードも出ます。
相手の到達するまで0.2秒ぐらいなので瞬間的な判断、感覚、動体視力などが求められる。
テニス、卓球などと違いバドミントンはワンクッションをおかないのも特徴です。
動きが激しいところもあり大きなけがに通じることもあります。
俊敏性、反射能力、読み、心理的駆け引きなどが求められる。
ガットの張りは桃田選手などで33~35ポンドです。(昔は20ポンドぐらいでした)
球離れが早いです。

私は中学の時には野球でピッチャーをやっていて、高校では最初陸上部にはいりましたが直ぐに辞めて、バドミントン部に入ることになりました。
始めてから2年ちょっとで全国高等学校総合体育大会バドミントン競技大会にでて、準優勝することができました。
バドミントンの面白さは0~400km/hぐらいまでのスピードの変化の中での駆け引き、心理戦、色んな要素があります。
バドミントン協会登録者数は平成20年が23万2000人、平成29年には29万8000人に増えています。
実施人口、2002年81万人、2018年104万人と増加傾向にある。
生涯スポーツとしては取り組みやすいスポーツだと思います。
室内なので天候に左右されない。
バドミントンを日本のスポーツの中でメジャーなものにしていきたいと思っています。
東京オリンピックの後、2022年には東京で世界選手権が行われ、その先はパリ大会もあるので繋げて行きたいと思います。












2019年5月21日火曜日

曽我貢誠(詩人)             ・力一杯生きてきた ~『秋田人 100人の物語』

曽我貢誠(詩人)       ・力一杯生きてきた ~『秋田人 100人の物語』
秋田県出身の同郷組織「秋田ひぇばなの会」が一昨年の11月首都圏在住「秋田人の100人物語」と言うタイトルの詩集を出版しました。
寄稿した人は117人、各自写真入りで291ページの記録集です。
「ひぇばな」とは秋田県の言葉で「じゃあまたね」と言う意味を表しています。
曽我貢誠さんは1953年昭和28年秋田県河辺市に生まれました。
『秋田人 100人の物語』に原稿を寄せると共に編集スタッフの一人として本の刊行に携わりました。
曽我さんは東京理科大学を卒業後、足立区、墨田区、北区の中学校で定年まで理科の先生を務めました。
日本詩人クラブの理事でもあり、作品には詩集「学校は飯を食う処」などがあります。
曽我さんはこの『秋田人 100人の物語』には人々の故郷秋田を思う気持ちと庶民の貴重な生活記録が載っていると言います。

「ひぇばな」と言う言葉は秋田県の言葉で「じゃあまたね」と言う意味を表しています。
「ひぇばな」の会は今から24年前の平成7年に初代が金子信也さんと言う方が代表で立ちあがりました。
主に秋田の文化や芸術みたいなものを人に知っていただくと言う活動を続けていたそうです。
金子さんが7年前に亡くなり、その後、田村輝夫さんが代表になりました。
その田村さんの一言で始まりました。
無名の人達の生の声を残す活動をしたいと考えたそうです。
今まで物を書いたことのない人に貴方の人生を書いてみませんかと言うことから始まったそうです。
秋田県人会とは別になっています。
私は日本詩人クラブに参加していて、その中で秋田の大先輩の詩人である山口敦子さんから突然電話頂きました。
秋田と東京に付いて2000字程に纏めてこの場に来なさいと言うことでした。
持って行ったらいつの間にかスタッフの一員となり雑用をするようになりました。

そこでは喧々諤々の議論をやっていました。
一人の字数制限は2400字となっていましたが、多い人もあり少ない人もあり、写真を入れたりして一人2ページに抑えるようにしました。
東京生まれで秋田大学で学んだ人、仕事の関係で秋田に来た人も原稿を頂いて別枠で載せました。

序章 春夏秋冬の詩が載っています。
「上野駅で初めて降り立った日、直ぐに到着する電車に驚いた。 人の多さにはすこしづつ慣れていった。
でも飲み水と飯だけには身体に合わなかった。  ・・・・。
青空に東京タワーがそびえていた。・・・・。 ここで生きる勇気を貰った。
この日から私の未来への第一歩が始まった。」

第一章 私の歩んだ道
第二章 人ありて今
第三章 あの頃あの時
第四章 こだわりと生き甲斐
第五章 故郷を思う
第六章 ありがとう、これで

かみやかつじさん
「我人生 演歌」金子克司さん
「我が幼少期を思い起こすと 戦後母はシングルマザーで私は実の父を知らなかった。
食べるものも無く母は農家の堆肥場から野菜の葉っぱを持ってきて食べさせてくれました。 ・・・私は栄養失調から肺結核となり誰も遊んでくれない。
この生活環境が私の人生基盤となったのです。・・・・。昭和35年15歳で飛び出した。
・・・見送る義父からの言葉「錦を飾らず家の敷居を跨ぐな 風邪ひくな」・・・とぎれとぎれに聞こた餞別の言葉が今でも脳裏に鮮明に残り忘れることはできまん。・・・。
今は芸能活動をしていて地域の為に活躍していて、いろいろなことがあってそれで優しいんだと思います。・・・
デビューから40星霜、平成28年五月売れない作曲生活40周年記念コンサートを街興しと熊本大地震チャリティーを兼ね、「輝け横手」として開催。
大勢のお客様からは最高によかったと賛辞の言葉を頂戴、感激、感謝、感謝、感謝。
波乱万丈の人生が不幸なのではなく、己に負けることが不幸なのである。
演歌人生 ブラボー」

「父母ありて」 岩崎恭子
「かつて鉱山で栄えた町、阿仁町 私の両親はその阿仁鉱山の鉱石を選別する選鉱場で知り合い結婚しました。・・・。昭和38年12月職場で父は大きな転落事故に遭い診療所に運ばれました。・・・誰もが途中で死んでしまうと思ったそうです。姉が7歳私が5歳の時のことです。・・・一命は取り留めましたが脊髄損傷と言う重度の障害となりました。
・・・差別があったり笑われたりしたことがあったと思います。親身になってくれた人もたくさんいました。・・・なんでも挑戦している二人の姿は周りの障害者に勇気を与えました。・・・「まげねで(負けないで) いぎでれば(生きていれば) だれがのやくにたつ」が父の口癖でした。
父からは境遇や環境に左右されない心の強さと逞しさ、母からは誰かのために尽くす生き方で自分自身が生き生きと輝いてゆく姿を教えられたと答えました。」
彼女は高校時代フェンシングで全国優勝している。
両親から学んだことを生かして現在は福祉関係の仕事をしています。

「カラフト サハリンからの逃避行」前田三保子
戦争末期ソ連軍が侵攻、避難をするため南下したが、又ソ連軍により元に戻される。
戦後日本に帰ることができた。
その後半部分
「そのうち日本への引きあげは婦女子優先で順次行われることになった。・・・
着替えをリュックに詰めただけだった。・・・身体検査がありお金はすべて没収された。
着いた港は函館でした。 ・・・青森からは汽車で秋田に向かった。・・・
父母の故郷は何と美しいものかと感動した。・・・戦争は残酷で悲惨です。
貴い生命が奪われます。 勝っても負けても不幸です。 戦争の悪を若い人達にも語っていかなければと思います。」

私は東京の中学で理科の先生として35年間教えて来ました。
校内暴力が盛んなころでした。
子供達とその親に支えられて色んな事をまなんだと感謝しています。
日本詩人クラブは70年ほど前にできた組織で初代理事長は西条八十さんで全国に800人で詩を書いている団体です。
「学校は飯を食う処」
「卒業間近の4時間目、むーにゃんはゆっくり教室に入ってくる。・・・「学校何しにくるんだ」、「飯食いによ」「学校は勉強するところだぞ」・・・卒業させて早二年、むーにゃんの言葉の意味を今にして気付く、むーにゃんには母がいない、兄弟も居ない。
居るのは寝たきりの父と夏の縁日に買った金魚3匹だけ。
夜はカップラーメン、朝はパンをかじったりかじらなかったり。・・・
中学を出て直ぐに中華料理店に就職したが、もしかしたら勉強も飯を食うためと言う事を初めから知っていたのかもしれない。
私は生徒に云う様にしている、学校は飯を食う処、一人のこらず旨い飯を食いたまえと」
とにかく学校に来てくれればいいと言う子もいました、学校に来てしっかりご飯を食べてくれればどうにかなると長年の経験で感じた次第です。

「いじめている君へ」 「いじめを見ている君へ」 「いじめられている君へ」
三篇の作品を作っています。
廻りの見ている子がそのことをどう見ているのかと言う事がすごく大事だと思います。
いじめは無くならないと言う本もあります、どうしたらそこから脱却するかと、子供自身に教える、何処にでもアンテナを張って、我々が出口を教えてあげることが大事だと思っています。

「私の生い立ちとゆりてつのこと」 畑澤富美夫
ゆり高原鉄道
「平成20年10月 秋田内陸線廃止反対のPR活動で伺いました。・・・
全体で2億4000万円程度の赤字で、現在は2億円程度に削減されているようです。
・・・その後悶々としながらゆり鉄の為に立ち上がろうと決心しました。・・・」
それから奮闘が始まる。
ゆり高原鉄道は鳥海山が見えて素晴らしいところです。
終点の屋島町には佐藤まつこさんが「まつこのへや」というお店を開いていて、この方は全国的に有名で全国から来るようで、話を聞いて元気を貰って帰るそうでいつからか「まつこリラックス」と呼ばれるそうです。

「恩返し」 吉岡潤
特別養護老人ホームでお年寄りにリハビリと体操、心のケアをしていましした。
・・・ある老夫人とのやりとり。 
「・・・自分の両親の介護は一度もしていません。 両親、小、中、商高の恩師、街の方々にはさんざんご迷惑をおかけしてきましたので、皆様に対する恩返しのつもりで身近にいる御老人ペアに真心をこめて尽くしました。」
会ったことはないんですが、終末のお年寄りを600人見送ったと、今の手紙では1000人見送ったと書いてありまして、最期に住職さんからの言葉が書いてありました。
「私たち住職はお亡くなりになってからでなければできませんが、吉岡さんは大変御立派に生前に成仏させています。私たち坊主は頭が上がりません。」と
住職さんから貰った手紙の中の言葉と言う事を吉岡さんから私に手紙をいただきました。

「そして今」 
「秋田を離れてもう何年経つだろう。 ・・・こちらでの生活がずーっと長くなった。 とにかく無我夢中で生きてきた。 汗と笑いと涙の人生、首都圏で暮らす秋田人、100人の生きざまがここにある。」
スカイツリーの写真がある。
秋田だけでなく全国の地元の人達に声を掛けて、無名の人達の生活の歴史を書いていただきたいと思います。
「みちのく秋田・赤い靴の女の子」の映画製作も進めています。
ある舅の包丁を手で払った嫁が、近くにいた子供にあたってその子供を殺してしまいます。
母親のお腹の中には別の子を宿っていて、刑務所で女の子が生れて、その子は「はつ」と言いますが、アメリカから来たハリスンという女宣教師が育てて、差別、貧困、病気を乗り越えて、「はつ」はロサンゼルス、ハワイでハリスンと一緒に生活をして32歳で亡くなります。
それを後世に残したいと言う事で大山雅義さんが発起人で脚本監督の石谷洋子さんが監督を務めています。
ホームページを立ち上げてお金の面などで全国の皆さんに協力していただいて映画を完成させたいと思っています。





































2019年5月20日月曜日

玉川奈々福(浪曲師)           ・【にっぽんの音】

玉川奈々福(浪曲師)           ・【にっぽんの音】
進行役:能楽師狂言方 大藏基誠 
第11回伊丹十三賞受賞。
この賞は一つの枠に収まりきれない多彩な活動をされた方に送られてきた賞。
浪曲をどんなふう見せたらお客さんが面白がってくれるかと言うことで、知恵を絞ってきたこと、色んな会をしかけてきたのでそういうものを見ていてくれたんだんあと思いました。
お能、狂言、ほかの芸能とコラボレーションしてみたり、それが他の事が判るがゆえに、浪曲の事がドンドン理解が深まると言う事があって、色んな方と一緒にやってきました。
浪曲は物語をかたるが三味線も入って、節と言う歌うような部分もある、人によっては一人ミュージカルだねと言われることはあります。
浪曲は歴史が浅く、できてから150年位、明治維新後です。
義太夫と似ていますが、直接には関係ないです。
むしろ大道芸の説経祭文(せっきょうざいもん)とか阿呆陀羅経(あほだらきょう)とか、ちょんがれとか道をながして歩いていて物語を語る大道芸人の流れと言われています。
浪曲は凄い芸だと思っていますが中々人に伝わらない、見せ方が下手過ぎると思っています。
こういうふうにしたら浪曲を面白く見えると言う工夫をしてみて、駄目だったら諦めも付くと思って工夫をいろいろしてきました。
昔は浪曲がすごく盛んだった。

最初三味線弾きになろうと思って5,6年やっていましたが、あまりにも下手なので、師匠が「おまえうなって見ろ」といったんです。
自分が浪曲をうなってみて、どういうふうに三味線を弾いてもらったら、浪曲の三味線として有難いのかを体感してみろと言うことで一席覚えてみろと言われたんです。
一席覚えて舞台に立ってみたら浪曲の方の仕事が来るようになってしまって、いつの間にか浪曲師になってしまいました。
入門して8,9年してからどうしたら浪曲が面白く見えるかと言う事で、プロデュースの仕事をしました。
私なりにプロデュースしたらお客様がドーンと来てくれました。
浪曲の問題ではなく見せ方と発信の仕方が問題だったと言う事が判りました。
それからいろんな角度のプロデュースしてきました。
ゲストで小沢昭一さんがきて浪曲に関することをいろいろ話したり色んな小道具を実演したり見せてくれたり色々やってくれてお客さんは大喜びでした。
最期にうちの師匠が浪曲をやるとより判るようになるわけです。

2年前、語り芸パースペクティブ(perspective)と言うのをやりました。
以前フランスでバレリーナをやっていたフランス人の友達が佐渡でフランス語を教えながら人形浄瑠璃を研究している人がいて、お国の伝統芸能はどんなものがあるか聞いたら、腕組みをしてなかなか出てこなかった。
日本には語りの伝統芸能が沢山あり、日本にある語り芸を総ざらいしたらどうだろうと思いました。
60人限定で3万円で11回に渡ってやりましが、一日で売り切れて超人気でした。
それぞれの芸にはそれぞれの芸の出自があり、使命があり、アイデンティティーがあって決して一つにはなれないと言う事が判りました。
日本の芸能を旅するみたいでした。
想像力は日本文化には欠かせないものだと思います。
(大蔵:子供の教育には想像力が一番大事と思っています。
日本文化の伝統芸能だとかを見ると、想像力が養われるのではないかと思います。)
自分たちの物語を知ってて一杯持っていると、心を鍛えてくれる様な気がするんです。
それは凄い財産だと思います。
*浪曲「仙台の鬼夫婦」から仙台から江戸への道行きを語る場面  玉川奈々福

(大蔵:三味線との掛け合いがいいですね)
何の打合せも無く譜面はないです、三味線の方が呼吸を見ています。
浪曲は自分の節を作らなくてはいけない。
浪曲は声ができるまでが大変でした。
*三味線の弾きだし(師匠によって色々ある)

*「文蔵」(狂言 大藏基誠)に三味線(玉川奈々福)を合わせる

今年初めて弟子を取ることになりました。
おたがいに学んで行くと言うような感じです。
落語は都会的ですが、浪曲はローカルだと思っていて、登場人物に素直なパッションを感じます。
浪曲の登場人物は人生にセーフティーネットを敷かない、自分の命を軽く扱って、この瞬間生きればいいという様な輝きがある、やっぱり面白いなあと思います。
(大蔵:狂言も心に面白さを持った人間が多いです。)
「日本の音」は色々ありますが、、懐かしい音と言うことで、お正月を迎える時に横浜港の停泊している船が大みそか12時に一斉に「ボーーッ」汽笛を鳴らしますが、これが私の「日本の音」だと思います。


















2019年5月19日日曜日

藤原将志(包丁研ぎ師)          ・【"美味しい"仕事人】切れ味を売る

藤原将志(包丁研ぎ師)          ・【"美味しい"仕事人】切れ味を売る
料理に欠かせない道具の一つが包丁。
切れ味は研いでこそ保たれるもので、以前は台所に必ず砥石がありました。
今では見かけることが少なくなりました。
包丁の切れ味は食材のおいしさに関係があることが判っていました。
包丁を研ぐことに改めて注目が集まっています。
藤原将志さん(35歳)は三重県松坂市で70年続く刃物店の3代目です。
大学を卒業後、東京老舗刃物店に勤めましたが、接客をする中で同じ刃物でも研ぎ方によって切れ味が大きく変わることを痛感して、研ぎ方と切れ味の関係を研究するようになりました。
設立した一般社団法人日本包丁研ぎ協会を通じて研ぎ文化の普及活動に取り組んでいます。
包丁の切れ味で食材のおいしさも変わる、切れ味を日々追及している藤原さんにうかがいました。

今新しいキッチンには砥石は無くなってしまいました。
おいしく切れることを研究してきました。
そう言ったものが売られているかと言うとそういう訳でもない。
おいしく切れない代表例は誰が使っても、この包丁の切れ味が悪いねというのはおいしく切れない。
切れるのにおいしく切れないと言うこともあります。
爪で引っ掛かるとよくきれるということをやりますが、刃先が凄く荒れていないと引っかからない。
そこでおいしく切れないと言うことになる。
細胞を壊さないと言う事がおいしさにつながっていると思います。
細胞を壊すとネガティブな味が出てしまう。
刺し身でも生臭いとか、フレッシュな味ではないものが出てしまうんだと思います。
どっちがおいしかったかと言う番組に出させていただいて、3種類の料理をやったことがあり、野菜嫌いな子とお母さん3チーム6人に目隠しをして評価していただきました。
ミネストローネに関しては5人が切れる包丁が旨いと言っていただきました。
ステーキは全員切れる方に、チンジャオロースも5人切れる方に上げていただきました。
子供たちは全員正解でした。

食材の傷み具合も変わります。
魚を3枚におろしたものでは切れない包丁の方が、早く味が抜けて身が柔らかくなると言うことが確認されています。(野菜でも同様)
料理人さんがOKをだしてくれればと言うことで料理人をターゲットにして、包丁の研ぎ方の考え方とか普及をしています。
中立と言う事を考慮して一般社団法人日本包丁研ぎ協会で研究をさせていただいています。
私は「研ぎ」を「修理」に置き換えましょうと言う事を言っています。
切れなくなったものを切れるようにする。
そのためには構造を知る必要がある。
片刃、両刃、専門的な包丁、金属も一枚と複数をくっつけているものもある。
ステンレス、鉄材とかもあります。
自分の買いたい刃物に合っているのかがポイントだと思います。
構造を知ると良い所、悪い処が判ってきます。
刃物のどこが壊れているのか情報を知らないと直せない。
砥石の使い方、適切に研ぎたいところ、構造を理解し何処にどの砥石をアプローチするのか、砥石の理解と砥石のメンテナンスをしないと正しく研げない。
砥石は5分しか使えないので、メンテナンスをする必要がある。
へこむ前に平を維持することがとても大事です。
曲がった定規で真っ直ぐ線を引けないと言っているのと同じです。
プロの方もほとんで出来ていないと言う事が現状です。

おいしい切れ味の状態を維持管理するお手伝いをすると言うことと、研ぎ方の指導をやっています。
鍋、ナイフ、フォークなどの道具を買う時に、味と言うものをあまり考えないで買っていることが凄く恐ろしいと思います。
スズの容器に日本酒を入れて温めると、まろやかになると言われたりするが、調理道具を構成しているものによって、熱の伝導、伝達が違いがあり色んな要因で味が変わっている可能性がある。
そう言ったことは包丁の切れ味を追及していってるうちに、或る日気付いたと言う事があります。
おいしい切れ味と言いながらも何がおいしいのかは私が決めることではなくて、料理人さんが自分でおいしい料理を提供するのに、私がどうやってささえることができるかと言う立ち位置で提供、提案をさせていただきます。
海外の料理人さんにも物凄い数の日本の包丁が売れていて、特に高級な刃物が売れています。
海外のメンテナンスが気がかりで、昨年ヨーロッパに行きましたが、フランスでは研ぎ方を指導していました。
私が打ちだしたい切れ味を持っている道具は和包丁の研ぎ方を一番指導したいと思っていますが、両刃(洋包丁)のものが多く出ている傾向です。
刺し身を切る時には片刃の和包丁を使っていただきたいとは思っています。
台湾では2度講習会をした事があり、困っていることは顕著に判ります。

三重県松坂市で70年続く刃物店の3代目です。
始め継ぐつもりはなかったが、東京でお世話になることになりました。
研いだ刃物がよく切れるとお客さんから言われて嬉しかったです。
研ぎが厭な仕事だと言われていましたが、そこを追及している人はいないのではないかと思いました、それが研ぎでした。
実家に帰って最初にやったのがあらゆる砥石を購入することでした。
天然の砥石は本当に判らない、謎すぎます、だから何かあるのではないかと思います。
顕微鏡でいつも刃先を眺めているうちに、色んな事が判る様になりました。
包丁の研ぎの試験、免許制度をやりたいと思っています。
海外に行って日本の料理文化は凄いと思います。
魚を三枚に下ろすと言うことは日本だけだと思います。
日本の包丁が出て行っている中で、「研ぎ」が日本食をもっと広める手助けになるのではないかと思います。





















2019年5月18日土曜日

勝部麗子(福祉推進室長)         ・「声なきSOSを見つけ出す」

勝部麗子(福祉推進室長)         ・「声なきSOSを見つけ出す」
コミュニティソーシャルワーカー 大阪府豊中市社会福祉協議会・福祉推進室長
大阪市のベッドタウンとして発展した豊中市は人口40万、千里ニュータウンなど集合住宅が増え都市化と高齢化の中で浮かび上がってきたのが孤独死、ゴミ屋敷、引きこもり、ホームレスなど役所の担当窓口の狭間の問題でした。
一方住民と行政を繋ぐために全国の行政区ごとに組織されている、社会福祉協議会も制度の狭間の問題については動くことができませんでした。
勝部さんはこうした問題にも取り組めるコミュニティーソシャルワーカーCSWという新しい専門職の配置を大阪府に提案、2004年全国で初めて大阪府内の自治体ごとにCSWが配置されました。
勝部さんの取り組みは豊中方式と呼ばれ全国から注目され 、NHKでドラマになり「プロフェッショナル仕事の流儀」でも取り上げられました。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/04/blog-post_21.htmlをご覧ください。

2019年5月17日金曜日

熊谷博子(映像ジャーナリスト)      ・【わが心の人】山本作兵衛

熊谷博子(映像ジャーナリスト)      ・【わが心の人】山本作兵衛
明治25年福岡県生まれ、小さいころから筑豊炭田の坑内に入り、炭鉱夫として働いてきました。
60代半ばを過ぎてから子供や孫に炭鉱暮らしを伝えたいと、絵筆を取り自らの体験を描き続けました。
昭和59年亡くなりました。(92歳)
山本作兵衛さんの日記、絵は2011年5月25日に日本で初めてユネスコの世界記憶遺産となり筑豊の人達をびっくりさせました。
熊谷さんは作兵衛さんの絵に魅せられ、作兵衛さんゆかりの人を取材し、映画「作兵衛さんと日本を掘る」を製作しました。

ユネスコの世界記憶遺産は大変なものです。
他には例えばヴェート―べン第9の自筆の楽譜とか、アンネの日記とか、マグナ・カルタとか、フランスの人権宣言とかあり、作兵衛さんの絵、日記が入ったことは大変なことです。
日本では初めてのことです。
炭鉱の記録画です。
当時筑豊炭田に生きた一人の炭鉱夫が描いた赤裸々な労働の姿を描いている。
愛と尊敬を持って描いている。
2000枚以上描いたと言われる。
最初見て吃驚しました。
描き始めたのが60歳半ば過ぎてからです。
一度も専門的な絵の教育は受けたことが無い人でした。
7歳から親に付いて炭鉱に入って行って、小学校もろくすっぽ行けなかった人がこれだけ豊かな世界を描いた。
最初字も書けなかったが、20歳になって自分で漢和辞典を自ら写して字を覚えた。
脳に浮かんだものをそのまま取り出して、手の先などにそのまま伝わって来るような絵です。
絵の後ろ側から音が聞こえてくるような感じです。
本格的に描いたのは60歳半ばからです。

炭鉱の街のありとあらゆるものを描いた。
「母子入坑」が有名です。
振り返る母のまなざしが凄くいいです、筑豊の聖母子像と呼ばれています。
過酷な労働だけれども、女鉱夫の顔に寄って行くと余りにも美しく、艶っぽくてほつれ毛の一本一本まで丁寧に描かれている。
女鉱夫が背中に赤ん坊を背負ってカンテラを口にくわえて、200kgもの箱をズリズリと触りながら支えて行くと言う凄い情景もあったみたいです。
特に夫婦が多かったようです。
筑豊の言い伝えの中に「筑豊の男は女の尻の光で生き伸びてきた」と言う言葉があります。
いくら男が掘っても運ぶ女がいないとお金にはならないわけです。
落盤事故があったらひとたまりも無かったので、どれだけの人が亡くなっていったんだろうということ。

映画「作兵衛さんと日本を掘る」を作ろうと考えて完成まで7年がかりでした。
最初民放局から依頼されて、作兵衛さんのドキュメンタリーを作って欲しいと言われたが、作ったがTVの中ではカットが多くなって作兵衛さんの絵を見せたことにはならないと思って映画を作りました。
作っては直しの繰り返しでした。
作兵衛さんを描いたものは、現在でもあるし未来なんではないかと思いました。
いっときは300余りの大、中、小の炭鉱があったようです。
三池炭鉱は日本最大の炭鉱でしたが、女鉱夫は1930年までいました。
筑豊はそれより延びました。
105歳まで生き延びた女鉱夫に出会う事が出来て話を伺う事が出来ました。
かやのさんから細かな色んな話を聞けました。
上半身裸で短い腰巻で働いて本当に恥ずかしかったと言っていました。
そのうち夫は戦争に取られて、他人の男の人と一緒に働かなくてはいけなくなってかなりきつかったそうです。
最初会ったのが104歳で、立って迎えて下さって「貧乏が一番」と言われて、それが私を鍛えてくれて、「今が一番幸せ」とおっしゃいました。
子供を8人産んで、一人亡くし、戦後貧しさの中で6人もつぎつぎ亡くされ、最期は一人になって、そんな人生だったんで、今が一番幸せでという、その中で色んな方が助けてくれて、長生きしたからこうやってあなた方にも会えたんですよと言われました。

女鉱夫の仕事も他人事ではないと思います。
皮膚感覚であるのはベトナム炭鉱に入って撮影していたことがあり、3日間毎日入って、最期の日に遠くの方に小さい灯りがポツンと見えて、それを見た時にアーこれで生きて帰るんだなあと、思ったんだろうと皮膚感覚で思いました。
最期に表に出るまでは決して安心できる仕事場ではないとつくづく感じました。
鼻の中も耳の中も炭塵で洗っても洗ってもなかなか取れないんです。
ベトナムの人に画集を持って行って見せたんですが、同じだ同じだと叫んでいました。
作兵衛さんの自伝には自分たちの暮らしと言うのはちっとも変っていないと書かれている。
変わったのは表面だけであって、底の方は全く変わらなかったのではないか、炭鉱は日本の縮図のように思えて胸がいっぱいになりますという言葉があります。
作兵衛さんが60歳代になって働いていた山が閉山となり、日本は高度成長をひた走ることになる。
閉山と言う言葉そのものが、おまえたちはいらないと言われている気がして惨めだったと、しかしこれを見たら私たちの労働がこうやって支えてきたんだと、恥でも何でもないから大声で自信を持っていようと思ったとおっしゃいました。

三池は大炭鉱だったので残っているし世界遺産にもなったが、筑豊の場合は全部つぶしてしまった。
その中で炭鉱への差別もあったと思うし、それを言って下さる方もいませんでした。
筑豊にいたとはとは中々言えなかったと言います。
世界記憶遺産になって初めてここっていいんだと言えるようになったと言いますし、世の中も注目してくれる様になってよかったと思います。
作兵衛さんは当時としては女性に対する尊敬が強いんですよ。
だから描く女鉱夫は綺麗で美しい。
作兵衛さんはユーモアもありお酒が好きでした。
「ゴットン節」は筑豊で鉱夫の間で歌われていた歌ですが、ツルハシの音とか石炭を運ぶ車がゴットンと言う音と言うのもあります。
*「ゴットン節」を歌う作兵衛さんの歌
含蓄の深い歌だと思います。
労働って何なんだろう、労働者って何なんだろう、地の底の方からもう一回この国を見つめ直したい、この先を考えたいと言うのが、この映画と作兵衛さんを通した思いです。












































2019年5月16日木曜日

柴田文江(プロダクトデザイナー)     ・デザインで新しい価値を生みだす

柴田文江(プロダクトデザイナー)     ・デザインで新しい価値を生みだす
炊飯器や電気ポットなどの家電製品からコーヒーカップ迄、私たちの身の周りのものに機能的でスッキリとして美しいデザインのものが沢山あります。
優れたデザインのものに付いているGマーク、日本の誇る物作りの信頼のマークがGマークです。
このGマークの基になる優れたデザインの物、ことを選定するグッドデザイン賞の今年の審査委員長がプロダクトデザイナーの柴田さんです。
柴田さん自身、見やすい電子体温計や身体を包み込みこむ座り心地の良いソファーのデザインで4回グッドデザインの金賞を受賞しています。
女性初の審査委員長として話題になった昨年に引き続き、今年も審査委員長を務める柴田さんにデザインとは何か、デザインに込める思いを伺いました。

グッドデザイン賞は色んなものがエントリーされて、デザインという視点で切り取って見て行かないといけないので、「美しさ」を一つのキーワードにしています。
「共振力」もキーワードに入れました。
グッドデザイン賞は1957年からあります。
最初のころはカメラ、炊飯器、扇風機、などが選ばれました。
産業振興が起点になった賞でした。
今では物だけではなく形の無いもの、サーブス、ビジネスモデルまでデザインが行きとどいているので、「美しさ」だけではなく、「共振力」と言う事を軸にして良いデザインを議論していきたいと思っています。
審査委員長は大役ですが、大勢の審査員と議論できるのは楽しいし、Gマークでも初の女性の審査委員長とか言われていますが、デザインなどは男性、女性とかあまり関係ないジャンルなので、そういったことは考えていないと思います。

昨年は凄くセンセーショナルだったんですが、「おてらおやつクラブ」と言う活動でお寺のお供え物がたくさん来るが、日本にある貧困、或るお母さんと子供が貧困で亡くなるという事件があり、何かできないかと考えたのが始まりだそうです。
一方でお寺にはお供え物がたくさんあって、食べきれなかったりすることがあるそうで、そういうものを「おてらおやつクラブ」がNPOを通じて必要な子供たちやそういうところに届けて行くと言う活動で、実際は食べ物だけではなくて衣類とか色んなものを配っているらしいと言うことです。
教会や神社も賛同しているらしいです。
本来かつてはお寺に行くとおやつをもらえたりしているので、デザインの力で「おてらおやつクラブ」というふうにしてゆくことで、お寺のものを貧困家庭に届ける仕組みなんですが、それが受賞しました。
思想、その活動を見てそのことに気付くことも凄くあると思います。
お坊さんたちの創意工夫で新しい仕組みができたわけで、それはデザインだと思います。
考え方が「美しい」のではないかという議論もありました。

エントリーは昨年は4789ありますが、その中からグッドデザイン賞を選んで、ベスト100も選んで、そのプレゼンテーションを全部聞きます。
デザインは使う人の判断も重要で、そういった点も重要視しています。
いまは使い手側の視点が重要視されるようになりました。
NHKの「日本語で遊ぼう」の番組も2004年にグッドデザイン大賞を受賞しています。
当時その瞬間には会場がどよめきました。
物から離れた最初の時でした。
デザインの領域が拡大してきました。
人が関わるものをデザインなしで作ったり生み出すことは難しいです。
色んな可能性を見せてくれていると思います。
世界にも色んな大きなデザイン賞があるが、アジアでも信頼性も高いし、審査員が外国人を含めて80名ちょっといます。
時間と議論を尽くしてやっているので日本が誇るデザイン賞だと思います。
審査員長をやっていて大変と言うよりも意外と面白いです。
公平さも美しいと思うし、弱い人に対してフレンドリーと言うことも美しいかもしれないし、グッドデザインは何かしらかの美を求めていると思います。
正しさ、全体性、豊かさ、なのかわからないが美しさと言う言葉以外は見つけられないなと思います。
液晶画面で文字が読みやすい電子体温計、身体をすっぽり包み込むようなソファーで金賞を貰いました。
体温計は読みやすい、挟みやすいと言うのが基本の機能なのでそこに注力して行いました。
自分が使う視点で観ることが重要かと思います。

元々絵を描くことが好きでした。
小学校低学年のころには家が織物屋だったので、布を使って人形などを作ったりしていました。
絵描きか漫画家になりたいと思っていました。
段々自分の進路を決めて行きました。
グラフィックデザイナーになりたかったが、浪人している時に立体の展覧会を見て立体のことに興味を持ちました。
家電メーカーに就職してその後独立しました。(26歳)
仕事が取れなくて、デザインコンペに応募して賞を取って、声を掛けられたりして少しづつ仕事が来るようになりました。
足で蹴って乗る体重計とかデザインしました。

閃くと言うのは或る程度考えていないと閃かないので、かなり長い時間を考えてはいますが、最終的にそれを結びつける段階を閃いたと言うのかもしれませんが。
カプセルホテルをとってみても、デザインする前は一ユーザーだったのが、デザインするというスイッチが入ると見えてくるものが違ってきて、違うスイッチを入れてデザインする対象を見ることはデザインの始まりとしては重要です。
新しく作られることがデザインと言う事ではないし、新しいものが何十年も使い続けられたいと思っていると思います。
例えば寝室製品を作ってもこれが暮らしのスタンダードになったらいいなあといつも思っています。
なかにはその瞬間らしい時代のものを作って楽しむようなデザインもあるかもしれないが、適切なものを長く使えるようなものを作りたいと思っています。
暮らしに寄り添える余地のような、そういうものがあってもいいかなと思います。
愛着を持てるようなたたずまい、そういう事をいつも考えています。
例えプラスチックでもデザインでしっとりとした感覚で愛着を持ってもらえないかなあと考えます。
デザインとは人間が人間らしく暮らす知恵かなあと考えています。





















2019年5月15日水曜日

船橋康貴(養蜂家・一般社団法人 代表理事)・ミツバチから地球環境を考える(2)

船橋康貴(養蜂家・一般社団法人 代表理事)・ミツバチから地球環境を考える(2)
オペラ座での出会いは蜂蜜と言う意味でも自信にもなるし励みにもなりました。
私がしたかった蜜蜂を先生にした子供たちへの教育を300年前からあったという事、理由、すなわち自然に畏敬の念を持つ、それが備わったならばいろんな問題は起きないと言う事をフランス国家が認め、いろんな公園に蜜蜂教室を開き役所が課外授業科と言うものを作って、クラスに順番に割り当てをして、ミツバチを真ん中に置いた命の教育をされていたことに勇気づけられました。
蜂育、これを日本にしたいと思いました。
昆虫などが減ってきています。
 
蜜蜂から始まって花に行って、種が落ちて芽が出て、森になって水がたまって、空気が出来て食べ物が出来て、水、食べ物、空気はお陰さまと言うハ百万の神をおもい、自然体として、自分のその一部として理解していて、それに感謝をすると言う習慣があるので、ハ百万の神に手を合わせたりして、日本人の最も日本人らしいところであると思います。
旅をして先住民にも、環境関係の方々、市民とも沢山あいました。
話をしてはっと思ったのは「虫の声を声と聞こえる民族は日本人だけだ。」と言う話です。
外国ではノイズとして聞こえる。
蜜蜂は私に対して安心です、幸せです、有難うと言う時は巣箱ごと重低音がします、ドウーンと言う音(羽音)です。
調子が悪かったり、ご機嫌が悪かったり文句がある時には「ザーッ」と言います。
私の蜜蜂教室では最初に音を聞いてもらう、一定のバイブレーション、感覚に落ち着きます。
そうして、落ち着いたところでどんなに蜜蜂にかじりついても刺すことはありません。
大好きな友達と晩ご飯を食べて楽しいねと言っている心の安らぎよりも、ふとした時に自分のかたわらを蜜蜂がブーンと通り過ぎた揺らぎの方が心身の安らかな安定する効果が高いという論文(フランスなど)が出ています。

アメリカのネイティブのコギ族が大事にしている蜜蜂の精霊の置物がありますが、活動をキャッチしてくださって届けてくれました。
ハワイのカメハメハ大王の7代目の方ともニュージランドの長老とも話をしました。
蜜蜂を或る意味神の化身として考えていて、減っていることが一番地球にとって危険だと言う事を感じられています。
「蜜蜂からの贈り物」ページ数が16ページ位の漫画で、最初のページに、ドイツの物理学者アインシュタインも、蜜蜂がいなくなると「四年以内に人類は滅亡する」と発言しています。
この漫画はカレーライスで蜜蜂が大切なことを説明している漫画です。
具は蜜蜂が受粉してできるものだし、チキン、ビーフ、ポークカレーも蜜蜂が成らした穀物を食べて生きているので蜜蜂の恩恵、スパイス、水、ご飯も同様、と言うことになる。

蜜蜂目線で生きること、蜜蜂の気持ちになって限られた地球上で生きて行く。
安心安全エコマークというマークを作りました。
6つの約束が含まれている、活動していると言う宣言。
①空気を美しく
②水を美しく
③土を美しく
④食べ物を美しく
⑤人を美しく
⑥地球を美しく
自己宣言です。
10月6日に大妻女子大でキックオフミーティングを行いますが、全てのジャンルの人が集まってミーティングをすることになっています。
素敵なマークができあがっています。
オリンピックが来るので、日本人を見てもらう祭典ととらえようと言うのを皆さんに声を掛けています

一人一人の市民こそが世界をパラダイスに変えられる主役、脇役ではないと言う事を子供
お父さん、お母さんにももう一度思い出してほしいと言っています。
ディズニーのプーさんは蜂蜜が大好きなので、私が言うよりもプーさんが言った方が早いと思って、ディズニーの本社にアポなしで行ったら、6回アタックを掛けたらパトカーを呼ばれて撃たれそうになりました。
社長宛に手紙を書きましたが、返事が来なかったが、その後会議を開いたりして対応してくれて、感動しました、ごめんなさい、知りませんでした、大切なことを教えてくれて有難うということで、キャラクターを動かすことは尋常ではないので色んな提案をしてくれました。
プーさんへの手紙を書こうと言うことになり、そのうちプーさんから手紙が来るようになりました。
受け取った子供たちは大喜びしています。
アクションを続けていると言うことも大事だと思います。
蜜蜂の話で伝えて行きたい。
本物の蜂蜜は熱処理をしていなくて取ったまんまを瓶詰めしているので、物凄いパワーを持っているし、人を癒す力を物凄く持っています。

金子みすゞの詩 『蜂と神さま』
「蜂はお花のなかに、
 お花はお庭のなかに、
 
 お庭は土塀(どべい)のなかに、
 土塀は町のなかに、
 
 町は日本のなかに、
 日本は世界のなかに、
 世界は神さまのなかに。
 
 さうして、さうして、神さまは、
 小ちやな蜂のなかに。」

この詩には本当に感動しました。

















2019年5月14日火曜日

船橋康貴(養蜂家・一般社団法人 代表理事)・ミツバチから地球環境を考える(1)

船橋康貴(養蜂家・一般社団法人 代表理事)・ミツバチから地球環境を考える(1)
船橋さんはサラリーマンとして働いていたころに、地球の環境問題に関心を持ちシンクタンクを立ち上げました。
産業廃棄物の処理、地球温暖化など幅広いテーマで国や海外の研究機関などとの共同研究に取り組んできました。
仕事は多忙を極めますが、環境問題の改善の実感が持てずにいる時に知ったのが自然界での蜜蜂の役割でした。
現在は養蜂家として働きながら、幅広くその経験を生かした蜜蜂に学ぶ蜂育家活動なども進めています。

ミツバチは日本蜜蜂、西洋蜜蜂がいますが、この森の中にはまだぎりぎり日本蜜蜂がいます。
温暖化、気候変動、とか言われますが、四季の繰り返しの流れのなかで過ごしてきましたが、ここの処ずれがあったりしています。
花が咲いても虫が出てこないとか、虫が出ているのにまだ花が無いとか、それで生命の循環が狂い始めていることがあります。
蜜蜂にしても春から動き始めて家族を増やして、夏は暑いので少しゆっくりリズムが休んで、秋に又秋の花が咲くので頑張って溜めた蜜で冬を越して行って次の春を迎える。
冬はしっかり寒い状態がうまく保てているので、巣箱で身を寄せ合って身体をブルブルと震わせてお互いを温め合って、外の蜜蜂が寒くなると順番に交代しながら過ごしています。
温暖化の影響で冬が暖かかったりすると、虫たちはアレ春かなと思って勘違いして動いてしまう。
そうすると死んでしまったりする。
予定されてなかった体力を使ってしまうので、その後にガンと冷えた時に温め合うエネルギーが足りなくなって、冷えてしまって寄り添って固まって死んでいると言う事があります。
ベテランの人達は蜜蜂が育てにくくなったと言う事を言われます。

働き蜂は全員メスで2万匹いて、ほんの少しの雄蜂とたった一匹の女王蜂が一つのコミュニティーになっています。
働き蜂の一生はわずか一カ月で死んでしまいます。
生れて動けるようになって直ぐは部屋の掃除係をします。
暫くすると赤ちゃんたちの子育ての係をします。
次にお姉さん蜂が取ってきた蜂蜜を受け取って、中に溜めて行く貯蔵係のような仕事をします。(内勤:2週間)
次に外で飛ぶ練習を始めます。
半径2kmの中にある蜂蜜や受粉をします。(2週間)
一日3000の花を廻ります。
受粉して貰う為花たちもちょっとしか蜜を出さない。
遠くで蜜蜂の羽音がすると花もその音に共鳴します。
蜜蜂に来てもらわないと命が続かないからいろいろな形と色をしていて、花の蜜を甘くして出します。
遠くの蜜蜂はそれを感じ取る力があるので、蜜をちょっと頂いた時に受粉して次の花に行きます。
全ての生態系がこういう関係性で、「甘いあえっこ」をする訳です。
鳥と果物も「甘いあえっこ」していて、種が混じったウンチをして土に落ちて、土には微生物、ミミズ等がいて、豊かな土にして種を発芽に導き、その代わりに落葉して土を豊かにする。
森が出来て、古い木が朽ちて新しい芽が出て、豊かな森が二酸化炭素を吸収してくれて酸素を供給してくれて私たちは生きていることができる。
水も循環していて、魚を育てる。
太陽、水、などの作用もあり、光合成、醗酵等が起きて私たちもこのループの中にある。

評価として蜜蜂一匹の人生は10円だねと言う事になるが、3000の花を受粉してリンゴ、ミカン、桃とか野菜とかを供給する大事な仕事をしています。
実一個を100円とすると蜜蜂一匹が人間に与えてくれる食べ物の経済価値は450万円なんです。

51歳で養蜂業を始めました。
サラリーマンを経て環境のコンサルティング会社の社長業をやりましたが、或る時中学2年生の女生徒からの手紙があり、彼女がインタビューに来ました。
環境に関する現象について話をするうちに彼女は号泣し始めて「生きるって、人生って、人間ってなんですか?」と叫んで、「みんな病気になって死んでしまいます、子供たちを助けて下さい」と言われました。
それまで自分は貢献していると思っていたが、その問いに答えは持っていなかった。
養蜂家を訪ねる機会があり、蜜蜂が少なくなってきていること、蜜蜂がいなくなったら食糧危機になることも知っていましたが、ただ知っているだけでした。
75歳の養蜂家がこの子たちがいなくなると食料危機になって、地球が終わってしまうと朴訥と語ったんです。
衝撃をうけて、判ったと思いました。
蜜蜂を先生にして伝えたならばどんな人にも素直に判り易く伝わるかと思って、社長業を辞めて蜜蜂と暮らす生活を始めました。
年収は1/20になり大変でした。

自然の中に入って生き物と暮らすことで、心身ともによくなってきました。
今年で8年目になりますが、食べれるようになったのは7年目の途中からです。
6年目の年末は財布の中に55円、通帳残高ゼロでした。
「俺たちどうなる?」と息子に言ったら「何とかなる」と言われ、本当にできた息子で本当に何とかなってきました。
何故かギリギリのところでいつも手助けが入りました。
凄く美味しいと言われましたが売れませんでした。
試食をしてもなかなか買ってもらえませんでした。
環境の展示会があった時に小さなブースを出したことがあり、隣りでタオルの会社(今では有名なタオルの会社)の社長さんがいて、内容的には素晴らしいことをやっていましたが、商談は思わしくなくうなだれて帰りました。
或る時にその社長の会社が驚異のV字回復をしました。
最後の資金でニューヨークの展示会で、日本で出したものと同じものを出したが、グランプリを取ったと言う事でした。
日本中が注目して凄いことになりました。
そのことを覚えていて日本人は海外に特にニューヨークに褒められると弱いんだと言う事で、ニューヨークへ行こうとしたが、食べ物の専門家たちから食はパリだと言う事で、銀行に行ってなんとかお金を貸してもらいました。

言葉(フランス語)が出来ないので、インターネットで「通訳を一日でも助けてくれたら有難い」と発信をして飛んで行きました。
宿の金が無く、公園で野宿するつもりでいました。
一人の人が手伝いますと言ってくれて、宿はどこかと言われてお金が無かったので公園に寝る予定だったと言ったら、夜はマイナス10度ですと言われてしまいました。
その人の友人のマンションが空いていて使っていいと言うことになりました。
オペラ座の屋根の上に蜜蜂がいて、アポなしで飛び込みましたが、会う事を拒否されました。。(都市型養蜂でやっています。)
何人も警備員がいたがありったけの笑顔で「ボンジュール」といって、通してもらいました。
オペラ座の執務室に到着し、そこには100人ぐらいいました。
最高責任者に会わせてくれと言ったら大さわぎになって、総支配人室に行き会わせてもらいました。
「パリの人、フランスの人は蜂蜜の味はその作った方の人生の味だ」とおっしゃいました。
あっちこっちの電話をしてくれてあっという間に2週間のスケジュールがうまりました。
フランスの人達と繋がって色んな事が起きました。
蜜蜂が減ることで食料危機があり、自分の一個の命と74億人の命との交換は愛だなと思ってしまいました。
何とかしたいと言う気持ちの方が強かったです。
開いて行った扉が沢山ありました。
音楽は国境を越えると言うが、もうひとつは蜜蜂だと思います。
パリ中央養蜂委員会があり、名だたる公園の真ん中に蜜蜂の園があり子供の教育があります。
フランスでは蜜蜂から教わるという姿勢が300年前からあります。
パリ中央養蜂委員会の委員長に会えて、「自然に畏敬の念を持つ、この事が判ったならば何も子供達の非行は起きない」と言われて、超多忙な方なのに丸々3日時間を割いてくれて、色んなところに行き色んな事を教えてもらいました。
オーガニック(一般的には農薬や化学肥料に頼らず、太陽・水・土地・そこに生物など自然の恵みを生かした農林水産業や加工方法)・・・ 君等は製品の原材料とか生産のプロセスのことをオーガニックと呼ぶだろう、物を選ぶとか○○剤を入れていませんとか・・・でもそれはオーガニックの考え方の一部だと言われました。
ではオーガニックとは何かと言った時に、その会長は「人生の在り方、生きざま 命の使い方」だといわれました。
最期にお別れする時にグーッと抱きしめてくれて泣きながら「尊敬する日本人に友達が出来てとてもに幸せだ」とおっしゃいました。
日本人はすべての命に対して神を見、それ(八百万の神)に手を合わせて、朝な夕なに太陽に手を合わせ自然のありように、丁寧に寄り添って生きている国民だろう」と言われました。
しかし私はとても恥ずかしい気持ちになりました。
是非日本に来て案内したいと言おうと思ったが、とても日本に今お呼びできないと思って、返す言葉も無く、ただただ有難うと言って涙を流しました。
そう思っている方に応えたいと思いました。










2019年5月13日月曜日

穂村弘(歌人)              ・【ほむほむのふむふむ】

穂村弘(歌人)              ・【ほむほむのふむふむ】
初めにショックを受けたのは、自分の書いたものが活字になって雑誌に載ったことでした。
手書きで送っていた時代でした。(ワープロが一般に広まっていなかった。)
別世界の出来事でした。
雑誌に載ったことは連絡がありませんでしたのでなおさらでした。
文学部で教職課程を取っていなかったので先生にはなれないし、行き場が無くてコンピューターがまだ黎明期で人が足りなくて、ほぼ無試験でシステムエンジニアとしてコンピューター会社に入社しました。
通勤時間も長い(1時間40分ぐらい)し、原稿書く時間も中々ないような状況でした。
他の雑誌で新人賞を取った加藤治郎さんから手紙が来て、一回会わないかと言う事で会う事になりました。
会うと朴訥な感じがしました。
加藤さんは会社員で3,4歳上の人でした。
彼を介して段々人脈が広がって行きました。
同人誌「かばん」に所属することになりました。
そのころちょうど文語体から口語体に替わる時期でした。
先生はみんな文語体でした。

「かばん」では翻訳家としても著名な井辻朱美さんとか、当時のリーダーは中山明さんとか、林あまり
さんとかがいました。
周りの人たちは歌人と言う事だけではなく色々な方面に活躍していて私も翻訳、絵本などを作るようになりました。
定型詩としての5,7,5、7,7に興味がありました。
加藤治郎さんの歌
「ぼくたちは 勝手に育ったさ 制服に セメントの粉 すりつけながら」
コンクーリートに囲まれた場所で制服を着せられて、管理されているが本人たちはどこかクールで、いや僕たちは勝手に育ったんだよと。(学生運動の世代の後の世代)
「さ」行の言葉が繰り返される。
見えないかすり傷を沢山負っているようなそんな雰囲気がこの言葉にはあるようです。

「もうゆりの花びんをもとにもどしてるあんな表情を見せたくせに」
僕はこれはセックスの歌だと思います
セックスのような微妙なテーマになると口語体にすると生々しすぎる。
文語体は生々しさはないが。
比喩的な表現で暗示している。
連作の配列によって効果が出てくる。
「 ヘッドフォン・ステレオを聴く この家にもうだれもいないことに気づいて」
どこか自閉的な世代の特徴が出てきている。
当時年上の人から見たらヘッドフォンをつけて音楽を聴いて居る人たちは心を閉ざしている象徴の様に見えた。
*「サムデイ」 佐野元春
ポップスの歌詞に当時の口語体の短歌で影響された部分もあると思います。
「・・・さ」とか「・・・だぜ」とか「・・・かよ」といったふうな語尾に。

「シンジケート」より穂村弘
「体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ」
冬で窓の外には雪がひらひら落ちてきて、雪だと言ったが口に体温計が入っていて、「ゆひら」と聞こえ、なんだよ雪といったのかよ?みたいな感じ。

「 「キバ」「キバ」とふたり八重歯をむき出せば花降りかかる髪に背中に」
桜が咲いていてその下で何故か二人は 八重歯を見せあって、戯れている。
初期の歌には社会の歯車になるとかの恐れ、嫌悪感、反抗、不安などがすごく裏返っていて二人だけの学生のような時間を生きる、時間が掛け替えが無い、子供のようにじゃれ合っている時間に対する憧れが凄くいいと指摘されて、当時の自分の気持ちそのものだと思いました。
「水滴のひとつひとつが月の檻レインコートの肩を抱けば」
女の子がレインコートを着ていて、肩を抱いたらふと見ると水滴がちっていて、その一つ一つの中に月が映っていて、それが月の檻の様だと言うふうに見立てた歌です。
月がその中に閉じ込められている。
これは女の子は全然気が付いていない状態、女性に対する憧れみたいなものが投影されている。















2019年5月12日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】
5月12日にちなんだ曲
スメタナの連作交響詩《わが祖国》より「モルダウ」
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団による2014年5月12日から14日にかけて録音されたCDから。
合唱コンクールなどでコーラスとしてて歌った人が多いかと思います。
雪融け水が岩から出てきて大河になってゆく、チェコをたたえるスメタナの名曲
5月12日はスメタナの命日。
今日のクラシックの遺伝子5月にちなんだ曲

*《わが祖国》の第6曲 「ブラニーク」の最後の部分。
高揚感に溢れている。

メンデルスゾーン作曲 無言歌集 第5巻から第6曲《春の歌》
『無言歌集』の中でも最も有名な曲。
メンデルスゾーンはシューマンの親友。

シューマン 作曲 『詩人の恋』 「美しい5月に」 ハインリヒ・ハイネの詩

モーツアルト 作曲 「春への憧れ」
モーツアルトが亡くなる年の作品。
*モーツアルト 作曲 ピアノ協奏曲第27番(KV.595) 第3楽章から

中田章 作曲の日本の唱歌「早春賦」 吉丸一昌作詞
「早春賦」の調べをテンポアップしてみると、モーツアルトの「春への憧れ」 ピアノ協奏曲第27番のフィナーレのメロディーととても向かい合っているような感じがして似ています。

山本直純 作曲 児童合唱と管弦楽のための組曲『えんそく』から「光る」「おべんとう」

*エディット・ピアフの代表曲 「バラ色の人生」 ピアフ作詞、ルイギ(フランス語版)作曲

2019年5月11日土曜日

笹畑美佐子(「スマイルシード」代表)   ・【人ありて、街は生き】親子で安心、おいしいメニューを

笹畑美佐子(アレルギー対応子ども食堂「スマイルシード」代表)   ・【人ありて、街は生き】親子で安心、おいしいメニューを
去年の春滋賀県の守山市でユニークな食堂が立ち上がりました。
食物アレルギーのある子供達の為の子供食堂です。
自宅の調理はもちろん給食や外食、保育園や幼稚園の行事などあらゆる場面で食材のチェックは欠かせません。
色々な制約の中で外出するのが億劫になって孤立してしまうという人もいると言います。
そんな親子の為に医師や調理師、管理栄養士などのグループが夏祭りハロウインなど、季節ごとに安全で楽しいメニューを考えようと言う訳です。
設立を呼び掛けたメンバーの一人、笹畑さん54歳は自身も食物アレルギーの息子さんを育ててきました。

大豆の醤油ではなくエンドウ豆の醤油を使って、片栗粉でしているので小麦粉アレルギーにも対応しています。(子供達のクリスマス食事会の食事の一部)
コタミネーション(食品を製造する際に、原材料としては使用していないにもかかわらず、特定原材料等が意図せずして最終加工食品にコンタミネーションしてしまう場合がある)が怖いので食事会の前日に徹底した掃除と洗浄を行っています。
調理台が特に危ないので3回は洗浄してから使用します。
食器も独自で購入したものを一般と分けて使用しています。
特定原材料7品目があり、卵、乳、小麦、エビ、カニ、蕎麦、ラッカセイは義務表示になっています。
推奨表示と言う20品目があります、肉、魚、ナッツ類、果物があり、メーカーさんに任せている表示があります。
加工食品ではハムなどもあります。
ケーキの元、小麦粉を使用しているので、米粉をスポンジにつかっているものがあるのでそれを使っています。
アレルギー源が含まれていないか、食物アレルギーのひとは命にかかわるので表示チェックをしています。

アレルギーにも色々タイプがあります。(約5種)
食事型症状が一番多いです。
8~9割の方が皮膚症状、じんましんとか赤くなったり、かゆくなったりします。
全身に蚊に刺されたようなぶつぶつが出現する人もいます。
その後にお腹が痛くなったり嘔吐、下痢、呼吸器症状、目がかゆくなったりします。
アナフィラキシー、アレルゲン(アレルギーの原因となる物質)が体内に入ることにより、複数の臓器や全身に症状が起こり、生命に危険が及ぶ過敏反応のことです。 その中でも血圧低下や意識障害を伴う状態をアナフィラキシーショックと呼んでいます。

ソーセージの繋ぎに小麦が入っていて、救急車に運ばれたこともありました。
食物アレルギーに対する理解もすこしづつ社会に広がってきています。
ちょっとした量でもコタミネーションが起きてしまうので、アレルギー研修を年に一度でもしてもらって意識を持ってもらう事は大事だと思っています。
私の子は18歳になりますが、食事症状ではなくて、特殊型でしたので、原因物質を食べて激しい運動をすることによって症状が出たり出なかったりするものです。
幼稚園のころにその症状が発生しましたが、私自身が理解できていなくて、心臓が悪いのか内分泌かなあと思っていました。
4,5回目に救急車で運ばれた時に食物アレルギーだと思われると言われて、食物アレルギーに関する勉強を始めました。
その時は小麦粉ではないかと言われていました。
小学校に入ると食事後にサッカーをしたりするので、休憩時間は母親が管理してほしいとの事で、
学校に行って子供の様子を見て帰って来るようにしていました。
緊急で必要な場合はアナフィラキシーに対応する注射を打つキットがあります。

アレルギー対応子ども食堂「スマイルシード」立ち上げについて
務めている病院ではアレルギー教室を年に4回行っていますが、精神的課題、社会的な日常生活に関する質問が多くて医療の中でできる事が少ないと気がつきました。
アレルギーに関する学会で、病院外で何かできることをしていかなければいけないのではないかと言う事があり、子供食堂活動内容と言うものを滋賀県小児保健学会で聞きました。
アレルギーの子はお断り来るケースが多いと言う事を聞いて、アレルギー対応子ども食堂を作ったらそこでアレルギーの子が来て交流会が出来、母親の情報交換ができる場になると思って立ち上げました。
食物アレルギーの事を判ってもらっていないと誤解、偏見とかがおきて、次に出て行くのが億劫になったりして引きこもりになったりすることもあります。

「スマイルシード」立ち上げに関わった医師 楠隆さん。
2012年の東京都調布市の学校給食のアレルギー誤食による死亡事故があり、一気に危機意識が高まり県のアレルギー対策の事業が立ち上がり現在に至っています。
とにかく食べないこと、アナフィラキシーを起こした時に対応する事しかなかったが、
最近は症状を起こさない、ごく少量から食べ始めて行こうと言う方向に変わってきています。
皮膚からすこしづつ吸収させることで免疫の耐性を作ろうと開発中です。
抗抗IgEを併用する治療も工夫されているところですが、まだ研究段階です。
報告書では給食にしじみ、そこに粉チーズが含まれていて、食べさせない表示と言う事になっていたが、お代りをする段になって誤って彼女の手に渡ってしまった。
いくつかの条件が重なって対応を誤り命を落としてしまった。
「スマイルシード」では一人500円頂いています。
対応するには色々と金額がかかってしまうので了承いただいています。
食品メーカーさんから商品の提供があったり、メーカーさんの助成金制度を利用させていただいて運営しています。
滋賀県だけでなく近畿一円の医療機関で働くアレルギー専門看護師、管理栄養士、小児アレルギーエデュケーター(435名が資格を認定されている)のグループが「スマイルシード」を立ち上げる。

小、中、高校の生徒の4,5%に食物アレルギーがあるというデーターもあると言われる。
アレルゲンを除去した冷凍食品の開発をしていただければと思います。
「スマイルシード」のノウハウを提供していきたいと思っていますので、アレルギー対応の食堂を作っていただければと思っています。




































2019年5月10日金曜日

藤城清治(影絵作家)           ・「人生は光と影」(2)

藤城清治(影絵作家)           ・「人生は光と影」(2)
(ちょっと聞き取りにくい面があり理解できずうまく纏められなかったと思います)
どちらかというとメルヘン的でした。
80歳になるころから自然の持っている物をもっと描きたいと、自分の夢ばっかり楽しく描いているだけでは駄目だと思うようになりました。
広島の原爆ドームは描かないと若いころは思っていたが、たまたま広島に行くことがあって小雨の降る中で見た時に、なんともいえぬ衝撃を受けました
戦争と言うものを実際に味わい兵隊にも行き、そういうところから次第に自分が何かを表現する、広島原爆ドームなど、見つめられるようなものを絵が描けなければいけいけないと思いました。
簡単にできるようなものではないので、事実と歴史を形の上にちゃんと書き表せる表現力が自分の中にできるかどうかやってみたいと言う気持ちで取り組み始めました。
雨が降っている中で描きました。
それを観てそこから何か、勇気、喜びなり、歴史の深さ、悲しみ、人生、世の中のそういうものを含めた中で、絵の中に表示できるようなものを描いてみようと思いました。
広島原爆ドームみたいなものこそ、こういう大きな夢がそこから生れて来るんだとか、あたらしい時代が開けてくるんだと、そういう作品を描いてみたいという気持ちで描きました。
80歳位になって徐々にそういったものが出てきました。

東日本大震災があり、地球のすさまじさを感じ、災害にどう取り組んで行くか、人間が見て写真のような記録も大事だが、一人の人が描く絵と言うもので 気持ちを込めて、悲しみ、勇気、未来をこうしなければいけないとか、いろんなものが混じっているものの中でこの現実をどう描きとどめて、後世に残していくと言う者としては、被災地の絵と言うものは相当大事ではないかと思います。
ただ壊れていると言うふうに写実的ではなくて、凄さをどうとらえて、そういうものがあっても又それを乗り越えて人間というものは時代を越えて生きて行かなくてはいけないと言う、そういう事の勇気が出る絵でなければいけないんじゃないかと思います。
自然の美しい風景だから描くんだと言うのが今までの絵だったかもしれないが、災害的な凄さみたいなもの、そこには色んな悲劇、悲しみがあるけれども、そういうものを越えた力の凄さ、そういうあらゆるものを表現して、それを越えて行くのがやっぱり人間の生きる勇気ではないかと思います。
そういうものを出すような絵を描くのが、重要なことではないかと思います。
美しい絵を描くのは美しいと思って描けばいいんだがそうではないので、形も取りにくいし、想定を越えた力で曲がったり崩れたり、そういったものを、その凄さを人間は越えて行くんだと、そういったことがわき出てくるような描き方ができないかなと挑戦して、描いている間に時間が経ってしまって、数値(放射能)が上がってしまっているので、辞めて下さいと言われる中でやりました。

絵が描かれた被災地の影絵には小人が登場して折り鶴が飛んでいると言う作品になりました。
そこに勇気と癒しが生れてきて人間の心に更に未来に希望の心を植え付けるようる様な作品にしていかなければいけないんじゃないかと思います。
小人を描くのは若いころから自然に描くようになり、それは自分の分身で 目でもあるし、心でもあるし、自分を代弁しているようなもの、素直に描けるようなものと言う事です。
一番最初はシルエットだけでそのうち、小人の素直な目を入れたいと思うようになり、目を入れて行きました。
はなもりやすじ 影絵には光があると言っていました。
それが人々の心に届いて励ましとなっていると思っています。
色んな意味で花森さんん育てられたと言う事があります。
僕は暮らしの手帳に何十年と連載しましたが、自分の影絵の個性を出そうと言うのではなくて、花森さんの持っている考えは暮らし、生きていると言うか、人間は単なる芸術だけと言うよりも生きている暮らしてゆく事のためのものだと言う事を基本にして、単なる作家と言うのではなくてあらゆる問題について、判っているんで・・・。
僕が適当に楽しんで作ってきた。

暮らしの手帳が狙っている世界観が僕の影絵なんだという、そういう事は念頭にいれていて、暮らしの手帳の方向性を僕の影絵は出している、作っているんだとそう思っていると言う気持ちを持っているから、この影絵の頁を開くと・・・・・。
90歳になって2回手術、椎間板ヘルニア、脊柱間狭窄症。
入院している時にはやる事がないから、窓から見える景色をデッサンしたりしました。
障害があってもそこで出来る限りの事をやって行くことに喜びがあり生きる喜びがある。
絵と言うものは学生時代に自由に描いていたのは、凄いなあと思うし、戦争中に描いていたのも凄いなあと思うし、戦後にも無い時に影絵をやったのも面白かった。
他にも色んな事をやって、その後影絵に絞って影絵の展覧会をして細かいことができるとか、そういう20歳のころも凄くいいけど今も凄くいいと思う。
20、30、40代に出来なかったことが、90歳代になってできる部分もあると思います。
生きている事の素晴らしさ、若い頃の素晴らしさ、中年の素晴らしさ、老年の素晴らしさがあり、老年になるほど生きることの素晴らしさが或る意味、より高められる。

2019年5月9日木曜日

佐々木常雄(医師)            ・"がん患者"2万人に寄り添い続けて

佐々木常雄(医師)            ・"がん患者"2万人に寄り添い続けて
山形県出身73歳、弘前大学医学部卒業後、青森県立中央病院、国立がんセンター、都立駒込病院などで勤務し、2008年から4年間院長も務めました。
佐々木さんはがんの内科専門医としておよそ2万人以上のがん患者の抗がん剤治療に当たり、看取った患者はおよそ2000人と言われます。
現在日本におけるがん患者の発生数は年間およそ100万人、死亡原因の一位で死亡者全体のおよそ30%を占めています。
平成の時代に入ってからがんの治療は急速に進歩、放射線の治療ではがんの部分だけを叩く粒子治療、薬物療法ではがん細胞だけを選択して叩く分子標的治療薬も出てきました。
その一方で入院期間を短くするなど医療費削減、経営改善などから本人が望まないまま転院を求められたり、医師からの心ないコメントに患者や家族が傷ついてしまう事があるそうです。
日進月歩のがん治療や心のケアの重要性、患者や家族に寄りそったがん治療の在り方等について語っていただきます。

実際にこれまで受け持った患者さんは、2000人位だと思いますが、色々かかわった患者さんは2万人以上になると思います。
がんと言われると皆さん本当に心配されます。
がんは1981年から日本の死亡原因の第一位なって、もう40年位がんは死亡原因の第一位になっています。
死因の30%ががんで年間100万人が新たにがんと診断を受けるような時代です。
この10年で75歳未満の方で16%ぐらい減っています。
しかし全体では増えている状況です。
1985年位までは患者にがんとは言いませんでした。(がん=死と言うような時代)
その頃から2000年位までは隠せない時代になり、がんである事を告げる時代になりました。
2000年以降になると、個人情報保護法があって患者さん本人にがんだと言う事を言わないといけなくなって、家族に云う場合は本人の了解を得ないといけないと言うような時代になってきました。
治療法もどんどん進歩してきて、抗がん剤でも抗がん剤治療の効き方なども、調べれば患者さんも分かる時代になり、後6カ月、3か月の命ですと簡単に言うような時代になってきました。

早期癌で見つかれば内視鏡で取ると言う事もあります。
抗がん剤、放射線治療も一緒にやることによって大きくとらないで済むようになり、ロボットを使っての手術だと傷も小さくて済むと言うようなことにもなってきました。
抗がん剤では副作用がありましたが改善されるような薬も出てきています。
分子標的治療薬はがん細胞の分子を標的にするもので2000年のころから、慢性骨髄性白血病にはイマチニブと言う飲めばコントロ-ルできる。
それまでは骨髄移植という大変な手術をやっていた。
肺がんではEGFR遺伝子の変異のある人、東洋人、日本人の女性など、煙草を吸わない人こういう人に遺伝子変異のある腺癌があるが、ゲフィニチニブと言う飲み薬があり70%ぐらい効果があると言われています。
遺伝子異常診断をしてそれに合った薬を選ぶと言うような時代になってきました。
粒子治療、がんのその部分だけを叩くと言うものです。
前立腺がんは以前は放射線をかけると、直腸もやられて出血して困ったと言う事もよくありましたが、直腸にあたらないような形になってきています。
免疫チェックポイント阻害薬、本当に効く人には物凄く効いて、今までには考えられない効果が得られています。
肺がんの患者で99%駄目だと言われた人が一回の治療で明らかにがんが小さくなり18回の治療でがんが何処にあるかわからないと言う人がいます。
全く副作用が無いと言う人もいます。

知る権利、自己決定権とか、あと3カ月しか生きられませんとつげられると、患者は大変です。
心をどう支えるのか、いろいろ問題があります。
多くの患者の中央の数値から言っている訳で、実際にその人がどのぐらい生きられるのかは判らないということです。
告知は非常にきついわけです。
心のケアは停滞気味です。
私はセカンドオピニオンは前から推進してきた方です。
納得して治療することが大事です。
担当医が気を悪くすると言うふうに気を使う事は全く考える事はないと思います。
抗がん剤が効くと言う事は治ると言う事になればいいが、治らないけれど小さくなって生きながらえることがあるということで、抗生物質の効き方とはちょっと違います。
緩和ケア、ホスピス 
本当に死が間近になった時は生きたいと思う気持ちが出てくるのは当然だと思います。
心の思いを温かく見守って欲しいと思います。
緩和ケアが死を受け入れると言う、これって僕は違うと思います。

人間体が弱ってくると心も弱って来る訳なんですが、当然だと思います。
医療関係者は患者さんの弱さと未練、そういったものを肯定するそういう心が欲しいと思います。
「死を受け入れなさい」と言う医者は、自分が死に直面していないから言えるんだと思います。
生きたいと思うのは当然だと思います、それに医療者は付き合って行ってほしいと思います。
一緒に暮らす家族の負担は大きいと思います。
家族が健康を損ねてしまうと言う事もあるわけです。
家族を休ませるためのレスパイト入院と言う事もあります。

胃がんが再発してもう駄目で、科学療法ですっかり消えてNHKの「ためしてガッテン」に出てもらった人もいます。
56歳の女性の患者、40年前に急性骨髄性白血病になり、当時本人に言ってなかった。
本人が知らないなかで副作用もあり或る意味無理やり治療した訳です。
うまくいって、10年経って結婚することになりそこで初めて白血病だと知って、その後20年経って乳がんになり、手術、化学療法、放射線治療など行って大変な想いをして、
クリアしたかと思ったら反対側の乳がんが見つかり3回目となりました。
その患者さんが私に手紙を書いてくれました。
「これからやりたいことが3つあります。
①さんざん心配を掛けた両親をきちんと看取る。
②孫の顔を観る。
③ボランティアをしたい。
17歳で白血病にかかって完全にぽっきりと心が折れた時期もあります。
病気で高校を留年した時、結婚して乳がんが見つかった時、何故何度も私だけがと自分を呪い続けた毎日でした。
去年にはもう片方が乳がんになりました。
患者は孤独です、会社には話しても判ってもらえない、今後が心配なので自分の弱さを見せたくない。
家族にどう話をしていいのか言葉を失い何を話せばいいか判らなかった。
先生や看護婦さんに話を聞いてただき、先生や看護婦さんから頂いた命のともしびを医療関係などのボランティアで少しでも役に立って返したい。
それが自分の生きる力にもなるように思えるのです。」
医師と患者と一緒になった戦う姿勢が大切だと思っています。
3度もがんを経験された方ですから、患者さん同士は心に響く訳です。

旦那さんを失ってから100日位した人から頂いた手紙。
「すこしずつ体が弱っていくなかでも、希望をもって過ごすことができたのは病院の方々が最善を尽くしていただいたからです。
今はたった一人になりましたが、何故か温かな気持ちで生きることができそうです。」とありました。
その旦那さん「今はたった一人になりましたが、何故か温かな気持ちで生きることができそうです。」と言う言葉が私の宝物になったなあと思います。
死への恐怖どう乗り越えるのかの方法。
そういった文献も無いし、どうやって我々の愛とか思いやりを発揮していけるのか、患者さんはどうやって死への恐怖どう乗り越えて行けるのか、きっとこの方は死の恐怖を乗り越えた方だと思ってその人に聞いて見ることにしました。
女性で67歳の方乳がん4年間戦ってきて後1カ月の命だと言われた方。
旦那は72歳で無職。
放射線の治療の為に僕の処の病院に来ました。
患者さんはもう動けないし全身が痛いので、モルヒネを沢山打って早く死なせてくれればいいと思った。
生きていてもしょうがない、みんなに迷惑をかけるだけ、夫は食べ物を買ってきてくれるが食べる気がしない、どうせ後3週間出し・・・早く死なせてもらった方がいいとその方は思っていたそうです。

或る時に旦那さんが好きなおかずを買ってきたが食べない。
「生きていても意味がない、どうせ何にも役に立たない、早く死なせて。」と言ったそうです。
旦那さんが帰り間際になって「君が生きてさえいればそれでいいんだよ。 生きててほしい」、そう言って帰って行ったそうです。
2日後の夜になってはっと気が付いて
「私が生きていることが夫の励みになっているかもしれない。
私が生きている意味があるのかもしれない。
私が死んだら夫は一人になってしまう。
生きなきゃ、生きている間に夫に料理や家事を教えなきゃあ。」
「君が生きてさえいればそれでいいんだよ。 生きててほしい」その言葉で、どうせ死ぬにしても口は動くので料理、家事を教えるために翌朝には、カーテンが開けられ部屋が明るくなり、表情も明るくなっていた。
例え人間動けなくなっても、生きているだけでも人の役に立つことができる、私はこの患者さんからこの事を教わりました。
或る患者さんから「みんな人それぞれ心の奥には安心できる心があるんだ、そういう要素が心の奥にあるんだ、人間皆安心できる心があるんだよ」ということを教えてくれた人がいました。
安心できる心を引き出すには、周りの人の真心が大きな役割を果たすのかなと思います。

這い上がる術を探しているんですが、自分の考えを書いてみる。
泣ける話せる相手を見付ける。
貴方の命はこの地球にたった一つで本当に大切な命なんです、先のことは誰にも判らないが、医師などと相談して最も良い治療法を選ぶことが最もい大事なことだと思います。
学生時代悪性腫瘍だと言われて、どうどうめぐりしていたが書くことによって気持ちを整理するのに役に立ちました。
泣けて心がすっきりした経験もありました。
自分の心を出せる相手を見付ける、実際泣いて、心にため込んでおかない出だす事も重要です。













































































2019年5月8日水曜日

達川光男(元広島東洋カープ監督 野球評論家)・これが広島野球じゃ!

達川光男(元広島東洋カープ監督 野球評論家)・これが広島野球じゃ!
野球界がジャイアンツ中心に動いていて、プロ野球全体がジャイアンツに勝ちたいと言う中で、高校野球では広島より東のチームに負けたくないと言う事がありました。
高校野球では広島に入りたいという選手が高校野球に集まりました。
1955年7月13日に広島市で生まれ、広島商業高校で作新学院の江川投手を攻略して春の選抜高校野球では準優勝、夏は全国優勝、大学では東洋大学に行き、昭和52年のドラフト会議で広島カープから4位指名を受けて入団、入団6年目から正捕手として活躍し 、現役選手生活は15年、ゴールデングラブ賞3回、ベストナイン3回、広島のセリーグ優勝5回、日本一に3回貢献。
引退後は1995年から福岡ダイエーホークスのバッテリーコーチ、98年にカープの二軍監督、99年、2000年と一軍監督、阪神タイガース、中日ドラゴンズでバッテリーコーチ、福岡ソフトバンクホークスでヘッドコーチ、去年広島カープを下して日本一になったのを機にユニフォームームを脱いで、野球評論家として活躍中。

物心付いた時には大人の中に混じって野球をやっていたようでした。
最初はボールを拾う役目でした。
広島球場へは自転車で行っていました。
熱狂的なファンでした。
外木場さんが完全試合をやったのを見ています。
高校は広島商業に行きました。
中学は和気あいあいとした学校でしたが、高校は軍隊式の学校で吃驚しました。
1年の時はやめたかったが、大好きな野球をやめると言う事は出来なかった。
高校1年生の時に入部が100人位いたが厳しさで段々辞めて行って12人になってしまいました。
最初はピッチャーではいったがその後野手としてやっていたが、キャッチャーが一人しかいなくてその人が仮病でその代役をやることになり、キャッチャーをやるようになりました。
当時、作新の江川投手に注目が集まっていました。
選抜の開幕戦に江川投手がブルペンで第一球を投げた時に浮き上がる様な球を投げてどよめきが起きました。
準決勝で対戦することになりました。
とにかく粘り強くやろうと言う事でしたが、勝てるとは思わなかった。
選抜は決勝では敗れる。
夏は全国優勝をすることができました。
豊富な練習をしたという自負がありました。
負けない野球と言うものをずーっとやってきました。
*「今ありて」 選抜の大会歌になった歌  阿久悠作詞、谷村新司作曲

広島のお好み焼きは大好きです。
昭和52年のドラフト会議で広島カープから4位指名を受けて入団。
スカウトが欲しい選手をずーっと見つめて行き、そのうち相思相愛みたいな感じで入団すると言うようなケースが多いようです。
三村さんの前で10回、20回とバットを振ったら、あまりにも非力の為ため息をつきた。
お前がキャッチャーで生き残ろうと思うのなら、古葉監督より勝ちたいと言う気持ちを持てるキャッチャーになれといわれました。
勝てるキャッチャーに、裏を返せば負けないキャッチャーにと言うことです。
自分も頑張るがピッチャーにも頑張ってもらうように、監督の作戦だけはできるようにという思いです。

6年目で正捕手となる。
江夏さんからは色々教えてもらいました。
サイン通りに投げなくてもしっかり補球できるようにと言う事を言われました。
江夏さんからは「初球、といつインサイドを投げるかその時のサインが大事だ」と言われました。
「直ぐ覚えたことはすぐに忘れる、苦労して覚えたことはなかなか忘れない」、と言う事を上田監督から言われました。
長い間苦労してきたから、苦労した体力が今開花しているのではないかと思うのが今の広島の力ではないかと思います。
野球人口が少なくなり、キャッチャーになる人も少なくなってきているようです。
広島の野球は自分たちで喜ぶと言うか、上手く言えないが自分を自分で褒めると言うような、そんな感じです。















2019年5月7日火曜日

木島隆康(元東京芸術大学教授)      ・美術品修復の魅力を次世代に

木島隆康(元東京芸術大学教授)      ・美術品修復の魅力を次世代に
1951年昭和26年北海道生まれ、画家を目指して上京し、予備校に通いましたが、受験の為の絵を描くことに疑問が膨らみ、生き方を模索している時に 絵画や文化財などを修復する世界に出会いました。
当時池袋にあった、アートとデザインを学ぶ創形美術学校に入学、ここで多くの修復の師に恵まれ、修復の道を選択しました。
イタリア留学で海外文化財などの修復技術を学び、東京芸術大学教授に就任してからは、修復は職人の技術と言われていたものを学問に高めることに勤めました。
主な業績は山梨県立美術館所蔵のミレーの「種まく人」の修復や、藤田嗣治の秘密の絵画技法を解明したことです。
又赤坂迎賓館の天井画の修復では、木島研究室で学んだ人が多くかかわるなど、次世代の育成にも評価されています。

17年間在職したので17年間にたまったものを片づけている最中です。
以前は修復と言う職人でしたが、教育者となれるのかなと思ってはいたんですが、付き合ってみると多様な学生と出会いました。
今年1月に退任記念展を行いました。
「本展覧会では木島のオリジナル作品は展示されていません、修復の手は鑑賞者には見えてはならないものだから」とパンフレットに書いていますが、多くの先生は自分の作品を展示するのが多いのですが、自分の場合はあまり作家活動はしていないので、修復の成果を展示したかったので自分の作品は展示していません。
修復はあくまでも裏方の仕事なので、直した人がしゃしゃり出るわけにはいかない。
(歌田真介名誉教授は、木島氏を職人の技術を学問に引き上げる第一人者だと評価している。)
修復する以前のその作品が持っている、背景、歴史が詰まっている。
修復する作品の技法、材料がどうなっているのか調べなければいけない。
調査することに依って色んな事が判って来るので、記録する、それを学問化していく。
文化財保存学と言っています。
得られた情報は貴重なものが多い。
次の世代に渡せる事が出来る。

修復家にならないかと言ってくれたのが歌田先生でした。
はいって見ると非常に面白かったです。
森田恒之先生は(国立民族学博物館名誉教授)、「修復と言うものは一人でするものではない」と言っています。
(森田恒之先生は木島氏はチーム木島を作り上げた第一人者だと評価している。)
森田恒之さんはベルギーで勉強して修復、技法、材料について勉強されて日本に帰国された。
文化財を扱うので個人のものではない歴史を通したみんなの門で、一人で独断でやることは危険なことだと思います。
直す時には色んな人が集まって修復するので気持ちがまとまらないといい修復には繋がらない。
いい修復をすることはいいチームを作ることと同意義に近いと思います。

北海道の日高に生まれました。
絵は小さいころから描く事が好きでした。
東京芸大を目指して予備校に通って、受験に合わせたような指導に、こういう絵を描きたくて絵描きになろうとしたんではないと思うようになりました。
ヨーロッパの古典的な絵を見てみると本当に魅力的ですが、自分で絵が描けると言うとそうでもなかった。
技法とか材料を真剣に自分自身で勉強しないといけないのではないかと思いました。
段々修復への思いに傾いて行きました。
創形美術学校に入学しました、そうしたら歌田先生、森田先生に出会う事になりました。
歌田先生は外部からの修復を受け始めていました。
修復の手順が実に職人的で合理性に富んでいまして、それに吃驚しました。
作品が蘇ってきて魅力が出てきます。
この作業はよく考え抜かれた理知的な作業だと思って虜になりました。
自分の気持ちのはやる気持ちを抑えて、自分が思い描いた勝手な方法論で突っ走らないように注意しながらやらなければいけないと言うのが、自分に戒めている点です。

芸大に移って2年目に山梨県立美術館からミレーの「種まく人」の修復を頼まれました。
色んな分野の先生方に協力してもらって始めました。
調査してみて何度も修理されていることが分かりました。
何度目かにある修復画が徹底的に修復しましたが、やり直しされていることが判りました。
一番最初にやった修復家のやり方がやり過ぎていた。
その補彩が図柄がちょっと変わるぐらいにされていた。
それを批判した修復家がいて、前の修復を全部取り去ってまた新しく修復をしたんです。
藤田嗣治の修復は日仏共同で2000年にやりました。
技法の調査をして絵の具の分析をして、絵の具の表面にタルクがでてきました。
一世を風靡した技法が美しい乳白色で、藤田の一大特徴でしたが技法は判っていませんでした。
そのヒントになったのが2000年の修復でした。
タルクはケイ酸マグネシウムと言うものです。
ベビーパウダー、化粧品にも入っています。
ベビーパウダーを藤田は買ってきて描いていると言う事が判りました。
乳白色にするための工夫はほかにも随所に盛り込まれていることが判りました。

東京大学の安田講堂の壁画も修復しています。
横12m縦が6m位です。
小杉放庵の作品で、絵を剥がして研究室に持ち込んで直してパネルに張り込んで元に戻すという大掛かりな作業で2年位掛りました。
赤坂迎賓館の天井画の修復にはじかには関わっていません。
相談を受けて、具体的な修理をやって見て、どういうやり方 どういう材料、期間、費用などについて算出して現在進行している状態です。
参加した作業者を見ると僕の研究室からも多く参加しています。
チームを組むことに依って次の世代がどんどん育ってゆくというシステムです。
技術、知識が伝承される。
「さんまの会」と言うものを作って、昨年秋に15回目になり、さんま400匹を焼いて参加者は300名を越えました。
忌憚のない話をして一杯やると言う会で、喜んで貰っています。
修復は意思の疎通がきちんとできるかどうかが大事な要素だと思っています。



























































2019年5月6日月曜日

内村周子(体操選手内村航平の母)     ・【アスリート誕生物語】

内村周子(体操選手内村航平の母)     ・【アスリート誕生物語】
内村航平さんは北京、ロンドン、リオデジャネイロのオリンピックの3大会に連続で出場、ロンドン、リオデジャネイロの大会では個人総合優勝を果たしています。

バレエ教室から帰ってきました。
長崎諫早市の自宅にでは体操教室も主催しています。
バレエは基本です。
小さい時から習ってきました。
バレエを習ってそれが体操に生かせていけます。
航平は2017年から日本で初めてのプロ体操選手として活動を始めました。
プロでやることは難しいと思っていたが、彼が選んだのであれば応援したいと思います。
失敗しても自分の責任だと言ってくれたので、それならば後悔はないだろうと思いました。
出産の時に全ての幸せを貰ったと思いました。
子育ては甘かったと思います。
生きていてくれたらそれでいいと思っていました。
自分がおこなったことで母から怒られて、同じ事をやっても怒れませんでした。
私たち夫婦が恥ずかしいことをしなければ、子供は背中を見ていてくれると思いました。
結婚して3つの約束をしました。
①子供の前で絶対に夫婦喧嘩はしない。
②人の悪口を絶対に言わない。
③嘘をつかない。
これを守り抜きました。

どうしても叱らなければいけない時には叱ります。
先ず理由を聞いて、そうするとどうなるんだと説明しました。
でも体操ばかりやっていたのであまり叱るようなことはしませんでした。
3歳の時に急に泣きだして「ママ、抱っこ」と言われたが、放っておいて他の生徒を補助しながらやったのを今でも覚えています。
ずーっと泣いていましたが、よその子を放っておいてもどうして抱きしめてやらなかったんだろうといまでも思います。
小さいころからあまりなじめない子、弱い子でした。
色んなところに連れて行って色んな人と出会って経験させることだと思い、あっちこっちにつれていきました。
大きな大会にも連れて行って、観させてこういう試合をしなければいけないんだとそれを沢山やりました。
航平は最初の大会では最下位でした。(6歳)
緊張しないで出来るようになったのはどうしてかと聞いた時がありますが、「経験かな」と言いました。
怖がりで高所恐怖症でしたが、私もそうでした。
しかし体操の時には怖くないんです。

私の両親は厳しく怖かったので、その逆を行こうと思いました。
母は怒ったことが悪かったのかなと後で思うことがありました。
それを思ったのは今年の正月だったんです。
母が体育館に遊びに来て、沢山料理を持ってきてくれて、急に「あなたの事を本当によく怒って育てて、ごめんね」と言ったんです。
どうしてその時に言ったのかは判りません。
航平は私に何かを伝えるために生れてきていると思っていて、私は弱い人間だろうと思っているので、だから世界一になって勇気付けてくれて、元気に喜んで生きてと、そういう意味なんだろうと思っています。
そういうものだと思っています。
普通の内村航平が私の頭に中にあるだけです。
トロフィー、メダルはそれほど大切だとは思わないが、航平の言葉です、言葉の宝物が大きいと思います。
北京オリンピックの前年にプレオリンピックがあって、いい結果ではありませんでした。
試したかった技があったが失敗してしまった。
貴方のひねりは世界一だよと言ったら、「教えてくれた人が良かったんだよ」といって、「どの先生?」って聞いたら、「自分を産んでくれた人だよ」と言ってくれたんです。
一生その言葉で生きていけると思いました。
もうひとつは全日本ジュニアで優勝した時に「親孝行したよ」と言ってくれて、その二つの言葉ですね。

航平は3歳から始めましたが、たまたま体操教室を開いていたので自然に体操を始めました。(航平も妹も)
体操が好きだったようです。
他の子たちと遊ぶ経験が無くて可愛そうだと思って、サッカーなどを薦めたが、「厭だ、面白くない。」と言って、「だって体操が一番面白い。」と言うんです。
体操の練習以外はピンクパンサー(ゲーム?)で技の名前をを言いながら遊んでいました。
それとVTRをずーっと観て、コマ送りして技を習得していました。
体操ばかりで心配で相談したこともあります。
体操教室での指導については他の子が優先で、どちらかと言うと放っておきました。
アレルギー体質で困りました。(白砂糖、白米などが駄目なので黒砂糖、玄米などにする)
今は食べられるようになりました。
高校から上京しましたが、私は最後まで反対しましたが。
私の時には反対した父が航平の思い通りにさせてあげればと言われて腹を決めました。

親心としては無事に試合が終わって欲しいと言う思いしかないので、メダルをとってほしいという思いはありませんでした。
航平は体操を愛していると思います。
私は30年振りに2014年9月の第47回体操全日本シニア選手権に出場、21位(50歳以上の部ではトップ)の成績でした。
去年まで5年間出場、今年も出れたら出たいと思います。
私が出て周りが観て楽しんでくれれば、どんな事でもします。







































2019年5月5日日曜日

杉山佳寿子(俳優・声優)         ・【時代を創った声】

杉山佳寿子(俳優・声優)         ・【時代を創った声】
代表作は「アルプスの少女ハイジ」のハイジ役です。
杉山さんは子供のころに児童劇団で活動し、声優としてデビューしてから50年以上たちます。
現在も俳優、声優として活躍されながら大学の教授としても後進の育成にもあたっています。

「アルプスの少女ハイジ」1974年の作品。
今のCMのハイジも担当しています。
オーディションの日に風邪をひいてしまって高い声が全然でないような状態でした。
後で聞いたところそれが良かったと言う事でした。
アニメのデビュー作は1967年に『冒険ガボテン島』のトマト役でした。
佐々木守さんの本を読んでいくとそのままハイジにはいっていける感じでした。
子供の声の出し方は幼稚園などで声を聞いて勉強したりしました。
収録の時にはまだ絵が出来上がっていない状態で想像力だけで喋っていました。
後で見ると冷や汗をかくシーンが結構ありました。
「アルプスの少女ハイジ」は自分の中では代表作になりました。
子供を演じたものの集大成みたいな感じです。
名古屋出身で、NHK名古屋放送児童劇団に入りました。
小さい時にはとっても人見知りしていて、友達の中に飛び込めなくて、どちらかと言うと暗い性格でした。

地元にあった話し方教室へ通うことになりました。
そこで講師をしていたのはNHK名古屋放送児童劇団の顧問でした。
台詞を言う事には抵抗感ありませんでした。
講師から名古屋放送児童劇団に入らないかと言われて、200人位受けた中の5人の合格者の一人に選ばれました。
芝居が面白くて違う自分になれるので面白いと思いました
2年目に主役をやらせていただきました。
その後東京に行くことになりました。
大きい声を出すとリアリティーが無くて、段々大きな声を出してもリアリティーのある声を出せるようになりました。
悲しんだり泣いたり笑ったりする演技でも、自分の心と合致しないとその感情なりが観ている人に伝わらないと思い、それを見付けた時にはちょっと大発見だったと思います。
いまだに判らない事だらけでこの世界は切りが無いです。
舞台はお金にならないので色々アルバイトをしました。
ぬいぐるみのアルバイトは面白かったです、ぬいぐるみに入ると自分ではないから。
それからいろんな役をやるのが面白くなりました。
どちらかと言うと変な役が多かったです。

声だけで演じる事はあまり抵抗感はなかったです。
昔は口の動きと多少ちがっていてもそれほど問題にならなかったが、今は厳しいです。
タカラのリカちゃん人形のテレホンサービス 29年間やらせていただきました。
最初のころは原稿用紙1枚で84秒で撮っていましたが、最期の頃は1枚半位になっていて、時代のテンポが速くなってきたんだと思います。
1972年 戦うヒロインのはしりである『科学忍者隊ガッチャマン』白鳥のジュンを演じる。
1974年には、『アルプスの少女ハイジ』で主人公のハイジを演じる事になる。
初期のころにはお金には色々苦労してきました。
劇団の先輩には飲み屋さんに連れて行ってもらって結構助かりました。
結婚は27歳で36歳の時に子供が生まれました。
離婚をし子供をベビーシッターにお願いして随分周りの人にも助けてもらいました。
一回だけスタジオに子供を連れて行ったことがありましたが、ディレクターが僕が面倒みるからオーディションで5分で済むからと言われて、「それでは行きます」と言って行きました。
そうしたらそれが大変な問題になって子供を連れてスタジオに行っていたと言う事で、そういうふうな時代でした。
今は違いますけれど。

声優は一瞬にしてどんな時代にも飛んで行けるので、役も動物になったり、役は何でもできるので、面白いです。
自分の大好きな外国映画の女性の吹き替えが出来るのも魅力ですね。
今は声優、俳優と言うジャンルに分けられているので、役を掘り下げることを考える人が少なくなってきているので、視聴者に気持ちが伝わらないと駄目だと思うので、気持が動かないとだめだと思うのですが、ところが最近の若い子は感性の弱い人が多くて泣いたり怒ったりできないんですね。
心の中の感情の幅が小さくなっているのではないかと思います。
どうしたらもうちょっとできないのかと思います。
まず上手い人の真似をしてみることも一つの方法かと思います。
自分の知らないところにも足を突っ込んでみることも必要かと思います。
歳を取って来ると声も小さくなるので一日一回大きな声を出して貰いたいと思います。




2019年5月4日土曜日

島田妙子(児童虐待防止機構理事長)    ・虐待を生き抜いて今できること

島田妙子(児童虐待防止機構理事長)    ・虐待を生き抜いて今できること
島田さんは子供の頃両親から虐待を受けた経験をもとに、虐待する大人の心を救いたいと全国で講演するなど、虐待防止の活動を精力的に行っています、
島田さんは神戸市の出身で4歳の時に両親が離婚、二人のお兄さんと共に父親に引き取られました。
その後7歳の時に父親が再婚、その再婚相手からの暴力が始まり、更に実の父親までもが加わって命の危機を感じるような虐待に発展します。
虐待を受けた当時の気持ち、現在の活動についての想いを伺いました。

小学校2年生の時に父が再婚をして継母と新しい家族として生活していましたが、或る日宿題をやっていてもうすぐ終わるころに「ちょっと来て」と言われて、「ちょっと待って」といったら、継母が凄い顔をして「なんで呼んだら直ぐに来いへんのや」といって、私の腕を靴べらでパーンと叩いたんです。
それまでは理不尽に叩かれたことはありませんでした。
後で聞いた話ではその後に謝るつもりでいたそうですが、「なんやその目は」と言う言葉を言ってしまった。
その日から暴力が続いて行きました。
一晩中寝たらいけないとか、ご飯を食べたらいけないとか、寒空のベランダに出されたりとか、おかしなことになってしまいました。
父に言いたかったが、父も大事だと言う思いがあり、言う事は一大事だと思って、父に言うと継母が何かされるかもしれない、でも心の中では早く気付いてほしいと思いました。
父に対しても「これはしつけや」と行った日から、なんとなくきつい言葉だったり、お湯を湯沸かし器を使っていたるするともったいないといって、後ろから蹴られたりしていて、それを父も気付いていて、父はそれを見たくないから帰りが遅くなるわけです。
そうすると継母もイライラして、今日はこの子はこんなんだったと父に言って、父に対しても攻撃が激しくなって、「あんたが怒らないから私がやってるだけや」といって、毎日叫ぶようになりました。
当時父も31歳で、或る日父親のプライドを傷つけるような言葉を発して、父は車のカギを床にバーンと投げつけました。
これで助かると一瞬思ったが、その時に取った行動は私たち3人を殴ったんです。
その後に表に飛び出して行きました。
その後父は「なんやその目は」と言って兄を殴りました。
その日から崩壊してしまいました。

今だから虐待と思いましたが、当時よその家にもある様な事で、それよりもちょっと酷い感じだと言う事があって、我慢はしていました。
そんな中で虐待に対して麻痺してしまうような感覚がありました。
直ぐ上の兄は早く大きくなったら働いてアパート借りて住もうという未来の話をしてくれました。
小学校5年生の時に、父は酒を結構飲んでいて、雪の降る日に父が包丁を持って素っ裸の私を追いかけて外まで出て行きました。
凍りつくような寒さだったので風呂にはいっていたら、父が風呂の戸をパーンと開けて入ってきて、髪の毛を掴んでお湯の中に沈めて、私は「これはあかん」、と思うと同時に「このまま死んだらこんな生活は終わるのではないか」と思いました。
直ぐ上の兄がなんとか止めに入りました。
暫くしてから父は無表情でしたが、継母に向かって「もうええやろう、これで気が済んだだろう」って言って、私は吃驚しました。
いつか優しい父に戻ってくれるのかと思って我慢をしうていたのに、だれに気を使って毎日私たちを殴って来たんだと、怒りの感情が物凄く起こりました。
「もう死にたい」と兄に言いましたら、「何言ってんねん、もうちょっとや妙子、親父は死んだと思え」と言われました。
中学1年位までは親を無視して喜怒哀楽の感情を無くして淡々ときました。

中学2年の時に、担任の女の先生(27歳)が「あなた そのあざはなんや」と聞いてくれました。
或る時父から初めて首を絞められました。
その時に上の兄が父を突き飛ばして助けてくれました。
父はガラスの灰皿を取って兄の頭を殴ったので、脳しんとうだったのかもしれませんが、私の中でもう兄は死んだと、もうこの家は絶対無理だと思いました。
父は病院へ行くと掴まってしまう事を恐れて、父は継母にバスタオルを持って来いと言って、裁縫道具を取りだして兄の頭の傷を父が縫ったんです。
この時父は泣きながら縫っていましたが、もう限界でした。
兄は「お前たちを裏切るようで悪いがもう家を出て行く」と言って出て行きました。

私ももう無理だと思って先生方に今までの6年間の事を言いました。
先生は親を呼び出して、「誰が見ても虐待は判る、もう言い訳は絶対許さない。」と言って下さいました。
今後暴力の形跡があったら即刻警察に連絡してこの子らは返しませんからと言って下さいました。
私は帰りたくないと思っていました。
もし帰りたくないのなら私の家に連れ帰ります、と担任の先生が言って下さいました。
その日で2000日に渡る虐待の日々が終わりました。
父と継母とはそのまんま別れました。
中学3年生の卒業まで養護施設にお世話になりました。
この2年間があったと言う事はその後の私の人生に取って物凄く大きいんじゃないかと思っています。
この2年間で身長が20cm延びました、食事の栄養、言葉の栄養、心の栄養だと思います。

結婚して3人の子に恵まれました。
虐待の連鎖はないと思っています。
私は虐待生活が終わってから沢山の愛情に恵まれましたので、自分は絶対優しいお母さんになると決めていました。
息子は発達に障害があると言われて言葉がうまく伝えられない分、甘えてしまうと言う事がありました。
或る時息子が暴れて、抱っこしながらも心の中ではいい加減に私を困らせるなと目が怒っていました。
黙れと、息子の口を押さえたことがあり、息子の顔を見て手をパッと離していたたまれなくなって、布団をかぶって情けなさ惨めさでワンワンと泣きました。
その後膝に迎えて「ごめんなさい」と言って、氷が解けたような感覚があり、抱きしめて泣きました。
それがなかったら虐待の道を進んでしまったかもしれません。
父は6年間暴力をふるって罪悪感を感じて、その後自殺しました。
だから今はそういった感じで活動をしています。
虐待については第3者の力は必要だと思います。
頭にカチンと来た時にアドレナリンが発生して、アドレナリンが強い感情を起こして当たり易い相手に向かってしまうのでアドレナリンをやり過ごす、長くても6秒と言われている。
6秒をやり過ごす、その後怒るか怒らないかを決める、叱っておかないといけないと思った時にはゆっくりと丁寧に穏やかに叱る。

虐待をされてきたことは封印してきました。
本当に優しかった直ぐ上の兄が急性骨髄性白血病に38歳でなりました。
骨髄移植もしました、結局白血病は治ったという言葉を頂いて、リハビリを開始した直後に肺炎にかかってしまって、治ったら自分の辛かったここのことで何かやりたいので手伝ってほしいと言われて、2週間後に亡くなってしまいました。
私は生きている、何でもできると思って、虐待防止は事が起こらないようにすることで通報は対処だから、通報しないようにできればいいなあと思いました。
講演では父の虐待の話をするので辛い思いをしていましたが、今は役に立っているんだと思っています。
(父は養護施設に「悪かった」と一言電話をして自殺してしました。)
大切なお子さん、夫婦、親子を大切にして欲しいと思っています。



















2019年5月3日金曜日

大谷康子(バイオリニスト)        ・生まれ変わってもバイオリニストに

大谷康子(バイオリニスト)        ・生まれ変わってもバイオリニストに
今年デビュー44年を迎えました。
3歳でヴァイオリンを始めた大谷さん、東京芸術大学に進学後、プロとしての活動を始め国内外の多くのコンサートに臨んできました。
又東京シティー管弦楽団の首席コンサートマスターを経て、東京交響楽団のソロコンサートマスターに就任、在任期間は34年になりました。
3年前からはソリストとしての活動に専念、併せて音楽大学の教授や、TV番組の司会など多彩な活動を繰り広げています。
ヴァイオリンにかける情熱はどこから生まれているのか、そこにかける生き方とは、伺います。

このヴァイオリンは今から311年前1708年に作られた、ピエトロ・グァルネリと言うものです。
グァルネリと言うのはストラディバリウスとは双壁です。
このヴァイオリンの特徴は高い方の音は凄く艶やかな感じです。
低い方の音は豊かな非常に太い音です。
バイオリンが大好きで、ヴァイオリンさえあれば幸せと言う事と人に会うのが大好きです。
仙台で生まれましたが、お隣に東北大学の先生がいて、チェロをやっていて、母と一緒に発表会に連れて行ってもらいました。
その時のことは覚えていないですが、ヴァイオリンに反応してしまってあれを習いたいと言ってきかなかったと母が言っていました。(2歳8か月の事)
3歳で名古屋に引っ越して西崎信二先生に巡り合う事が出来ました。
西崎先生に出会えなかったら今の自分は無かったと思います。
創意工夫して子供にも判るように、とにかく熱心に教えて下さいました。
先生からは「努力に勝る天才なし」と小さいころから頭にたたみこまれました。
繰り返し繰り返し飽きないで根気よく続けることで、そのうちに出来て来ます。
そうすると嬉しいです、その時に本当に先生が褒めて下さったので、今では教える立場なので苦手な子でも進むように繰り返してできたら褒めるようにしています。

私は朝起きると先ずは直ぐにヴァイオリンに取り組むようにしていました。
ボーっとした状態でやると、そうすると実力が判るわけです。
東京芸術大学付属音楽高校を受験しようと思って、東京に行きました。
全国からライバルとしての多くの同じ年ごろの人が集まってきているわけです。
友達の演奏を聞くと言うのがとても勉強なりました。
先生の家に朝ついても4,5時頃になりました。
高校2年生の時に全国コンクールに出て1位になることができました。
周りはいい演奏だったと言いますが、弾いてはいるが、自分らしい表現ができていないような気がしました。
コンクールの前に「風と共にさりぬ」という映画を見に行ったんです。
観ている間に途中から自分がスカーレット・オハラになってしまって、その後ご飯もなかなか通らず辛くてそれが1カ月続きました。
やっとコンクールのことに頭が行くようになって、演奏したら優勝出来てみなさんから表現力の大きい演奏だったと言われました。
後になってそれは「風と共に去りぬ」で疑似恋愛をして、なりきって辛い思いをしたりしたから、その感情が演奏に影響したものと思いました。
表現に変わった瞬間だったと後で思いました。
テクニックだけでは音楽にならないと言う事が判るわけです。

東京芸術大学に進むことになりました。
友達、先輩の方々との交流もあり音楽の世界が広がりました。
プロとしての演奏会の仕事も頂きました。
2年生の時には学校の授業に支障がない程度に10~20回位行っていました。
音楽鑑賞教室の団体の中でコンサートマスターもやりましたがコンチェルトもやって、生徒が目を輝かせて聞いてくれて、嬉しかったです。
学校の先生方が子供たちに静かに聞きなさいとか、拍手の練習もしていて、それは判るが、抑えると子供たちは萎えてしまうので、感じる心も抑えちゃう事にもなると思って、自然にしておいてくれた方がいいと思いました。
その時にはまだ若くて言えなかったが、今はそうしています。
大町陽一郎先生の力添えもあってヨーロッパのあちこちに連れて行ってもらいました。
音楽は世界の共通語だと思います。
ヨーロッパでも認められて音楽で世界中の人達と仲良くなりたいと思いました。
東京シティーフィルで首席コンサートマスター持させていただいてその後東京交響楽団のソロコンサートマスターもさせてもらって、併せると34年間もコンサートマスターをさせていただきました。

コンサートマスターはリードをする時もあるが、素晴らしい指揮者の時にはあまり仕事はしません。(ほとんどが素晴らしい指揮者ですが)
指揮者に目がいかないでコンサートマスターばかり見ていて、コンサートマスターの身振りが大きいと怪しい指揮者だと思って頂いたても・・・。
音でキャッチボールをしているので、様子を見ながらやっています。
終盤に舞台から降りて客が見えないようなルートで1階の客席の一番後ろまで走ってアンコールで扉を開けてそこで弾いたりします。
舞台から遠いいと、聞こえずらい、見えにくい、近くだと微妙な音、指の動きまでも見えるので感動してもらうと音楽が好きになってくれると思うので、40年近くやっています。
本当にヴァイオリンに出会ってよかったと思います。
今が本当に音楽人生の青春だと思っています。
表現することが楽しくて楽しくてしょうがありません。


















2019年5月2日木曜日

吉井澄雄(舞台照明家)          ・照明家(あかりや)人生を語る

吉井澄雄(舞台照明家)          ・照明家(あかりや)人生を語る
東京都出身86歳、劇団四季の創設時のメンバーの一人でもあります。
60年以上に渡り国内外1500の間、演劇、オペラ、コンサート、舞踊作品の照明デザインをして来ました。
舞台上で時間や季節を自在に操り、人間の感情をも表す光と影の魔術師です。
1997年に紫綬褒章、2003年に勲四等旭日小綬章を受章されています。
日本を代表する多くの演出家、俳優、舞台美術家、建築家の人達と仕事をしてきた吉井さんの軌跡は、そのまま戦後日本の演劇劇場史と通じています。
吉井さんにそのあかりや人生について伺います。

劇団四季の創設時の10人のメンバーの最期の一人になってしまった。
いまは老人ホームに入っています。
オペラに行ったり、会合に行ったりほとんど毎日外へ出ています。
旧制中学の時に演劇部に足を踏み込みました。
当時は学校では女性が居なかったので、隣りの女学校に借りに行って演劇をこなし、女形はやらずに済みました。
公演は普通は学内でやりましたが、早稲田の大隈講堂でもやりました。
或る時に劇で頭が真っ白になり、セリフがどこに行ったかわからないし、お客の顔は見えないし、僕は役者の才能はないと思いました。
劇団「方舟」というグループを作って、日本語を綺麗に話すと言うために和田精さん、(日本音響効果の草分け)のお宅に勉強に行こうと言う事で和田精さんの家に行きました。
その時には照明の仕事をやっていましたが、上手くいかなくてきちっと勉強したいと言ったらそれは遠山静雄さん(日本の照明のパイオニア)だと言う事でを紹介して貰いました。

そのグループ全員が照明の勉強の為に行きました。
遠山宅では「舞台照明」というテキストを基に、光学、物理学、電気工学、色彩心理学、劇場史などを学びました。最初は大勢いた仲間が一人減り、二人減り、最後まで残ったのは、僕だけでした。
当時主導権を持っていたのは大道具の係でした。
照明をコントロールする部屋が客席の後ろに来たのが1963年以降です。
操作はレバーが沢山並んでいて、あっちへ行ったりこっちて行ったりしてレバーを操作して、全体を動かす時にはモーターを使って一気に動かすと言う事をやっていました。
仕事の場としては日比谷公会堂が一番多かったです。
そこで思い出に残っているのがパリから7人ぐらいのダンサーが来た時の事が記憶にあります。
僕は照明器具の処に命綱を付けてまたがって、フォローしていました。
赤いバラの花を用意してカーテンコールの日に天井裏から落としたら、彼女は気が付いて上を向いて手を挙げてくれて、それが一生の思い出になりました。
僕の家は西武新宿線の中井駅近くにあったので、帰宅時、高田馬場駅で終電車を待つホームに並んでいると、いつも長身の青年が声をかけてくるんです。それが、同じ沿線の上井草に住んでいた浅利慶太さんでした。
数年してから劇団四季と言う劇団を作るから一緒にやらないかと声がかかりました。
浅利さんはアヌイ、ジロドゥなどのフランス演劇を教わっていたんです。
1953(昭和28)年の7月14日パリ祭の日、創立メンバー10人が集まって劇団四季を旗揚げしました。
ジャン・アヌイの「アルデール又は聖女」で旗揚げ公演しました。
全員がただでやっていたので生活には困っていました。
餓えて生きていけないと思って、一時期、開局直後のテレビ局で働いていました。
映像感覚の勉強になりましたし、最新の調光装置はトランジスタの一種で、最新の照明の技術資料に触れることができました。
舞台に半導体を中心にした新しい照明設備が出来ればいいとずーっと思い描いていました。
料理番組などの照明をやっていると自分はなにをやっているんだろうとの思いはありました。
トランジスターを入れた調光装置を劇場に作ればコンパクトにできて、照明室を客席の後ろに持ってこれるし、女性でも操作できると思って、日本生命の大阪の本社にいって話して、それが取り入れられて日生劇場がオープンしました。
こけら落としは1963(昭和38)年でしたが、何より驚いたのが、開場1年半前頃から、次々と送られてくる演目ごとの舞台装置製作図面、模型舞台、材料見本、写真の数々です。
大変苦労しました。
自分たちの劇場やオペラについての知識や経験も、組織のあり方も、いかに貧困かということを思い知らされました。
上演されたオペラ「フィデリオ」と「フィガロの結婚」は古今未曾有の名演で、今も鮮やかに記憶されています。
照明家人生の大きな転機だったと思います。

日生劇場で一番印象に残っているのは越路吹雪さんとのリサイタルでしょうね。
僕の照明の原点は3つあって
①劇団四季 演劇の基本をそこで得た。
②ドイツオペラで音楽と光を結び付け得たこと。
③越路吹雪さんとのリサイタル 自分の照明の技法を作り上げることができた。
視覚的なもの、時間的な移り変わりを越路吹雪さんとのリサイタルの中で自分の照明の技法を作り上げることができた。
薔薇の花びらの色ごとに越路吹雪さんの衣裳に数秒ごとにあてて行ったりしました。
蜷川幸雄さんとの仕事も印象的でした。
浅利慶太さんとプッチーニの「蝶々夫人」をやったのが1975年だったと思います。
照明について私の方法について話(モノクロからカラーへそして明るく、最後の自決の時、白装束に白い布が引き抜かれて深紅になることで表現)をして、行いました。
舞台に出ている俳優さん、歌い手、踊り手、そう言う人達の演技、躍り、歌にまず寄り添う事。
演出家が思い描いている、視覚的な表現を実現すること。
演出家、作家が思い描いたであろうドラマの時間を照明が表現すること、この3つが照明の大事な役割だろうと思ってます。





2019年5月1日水曜日

池澤夏樹(作家・詩人)石川直樹(写真家) ・「ぼくたちの"旅"する生き方」後半

池澤夏樹(作家・詩人)石川直樹(写真家) ・「ぼくたちの"旅"する生き方」後半
進行:村上里和
(内容を上手く伝えられていない所がいろいろあると思います)
池澤:石川さんとは動いた範囲、観たもの、観る姿勢などよく似ていると思いました。
石川:10代のころから池澤さんの著作に親しんで来ましたし、自分の考え方、世界への向き合い方が元々共感するものがあり、池澤さんから色んな事を学んだ部分があるので必然的に有るんじゃないかと思います。
池澤:写真家と冒険家とのくくりを貴方の中でどう重なってどう離れているのかお聞きしたい。
石川:冒険、探険が好きですが、冒険家になれないとつくづく思います。
本当の冒険家は肉を切らせて骨を切るではないですが、ずばずば切られて行ってそのまま突っ込んで行ってタッチといってできる人が冒険家になれると思う。
僕は切られると痛いので引き返してしまう。
冒険家になれないタイプだと思います。
池澤:七大陸最高峰登頂と言う事もあるし、南極点の旅にしても、いくつかの目的を立てて肉体的な力、知恵、トレーニングで達成するという事を重ねてそれはやっぱり冒険家ではないかと思いますが、それは脇に置いといて、写真はいい写真を撮ることが目的であるとそれが生きる姿勢と言うことですか。?
石川:旅と写真は分かちがたく結びついていると思っています。
高校生の時にインドに行ってからずーっと写真を撮ってきました。
登頂を証明するのは写真なんです。
カメラができる前は登頂した後にあそこにここに何が見えていてと言う事が登頂した証しでしたので、カメラが出来てからは撮るのが必然になりました。
ラインホルト・メスナーという偉大な登山家でも小さなカメラを持って行って写真を撮ってきました。
人がなかなか行けないような場所に行くのに、フィルムの中判カメラを持って行くのは僕以外には世界中を見渡しても居ません。
無理して持って行くので他の人が撮れない写真に必然的になります。
引き伸ばしても綺麗です。
デジカメは何枚でも取れますが、フィルムなので一本のフィルムで10枚しか撮れません。
2,3か月の旅では何十本も持っていかなければいけないので不自由ですが、それゆえ撮れる写真があるわけです。
池澤:今の探検家は天気などの情報も入るし、装備もよくなって今の冒険家、探検家はパロディーでしかないという皮肉なことを言う人がいるが、或る程度あたっていますよね。
石川:冒険家は成立しにくいことになっています。
知り合いに角幡 唯介さんがいますが、「空白の五マイル」と言ってこの川の5マイルの範囲だけは誰も言っていないから行くと言うようなニッチな世界になっていたり、全然見方を変えて見慣れた山だけれども装備を一切持たない、裸に近い状態で里山、裏山に入って行って、体験としては未知の体験ができる、そういったように冒険を突き詰めて行くしかなくなっているので、昔ながらの冒険は無くなってきていると思います。
8000mを越える山はどんなに科学技術が進歩してもきつくて、面白いです。
高い山から戻ってくると、身体の中身が生れ直しているような、細胞から変わって行くような感覚があり、それが面白くて僕はやっていると言うところがあります。
呼吸するのも、深く早く呼吸するとか、生きることの一挙一動に関して意識的になるので、明日行動するためにこれを食べ、明日行動するために寝るし、そういう生きることに対してアップデートされる感じがあって、2ヵ月半して帰ってくると自分の中が入れ替わったよう感じがして僕はそれが好きなんです。

村上:海外に旅に行って自分が日本人であると言う事を強く意識する時は?
池澤:うっかりすると日本人の代表になってしまう、そこには僕しかいないから。
昔アフリカに行ったとき、トヨタ、ニッサンだろういい国だねと言うから、そうでもないと言っていいかどうか、それなりの息苦しさを話しても彼等は判ってくれないだろうし、やっぱり行った先で見たりしたものについては、日本語で書いて日本に送りかえしてみんなに読んでもらうので、その限りでは何処まで行っても日本人であるし、それを辞めるつもりは全くない。
石川:ぼくが考えていることを話したいと思っているので、日本人はなんとかで、と言うようなことについては違和感がありあまり言えない。
国境を越える時には日本のパスポートを持っているので少しは意識します。
中東、アフガニスタンを廻った時には日本のパスポートを持っていることが色んな場所に行けるんだと思い羨ましがられました。
池澤:アメリカとメキシコもそうですが色んな形で境界線があり、国ごとに様々な問題があることを見るべきだし、意識すべきだし、考えるべきだと思います。
イラクの場合は戦争になってほとんどいけなくなってしまった。
スーダンも内戦がありいまは一番入れない。
ウガンダはイディ・アミン・ダダという非常に悪い大統領がいて、外国人が行ったはずが消えてしまい、あそこには行くなと言うことだったが、今はよくなっています。
ルワンダも大変な虐殺があったけれど、大人しくなって融和している。
僕の場合、政治も絡めた自分の中の世界地図はあります、行った処など特に気にしています。
石川:旅の効用は色んな人、風景が思い浮かんで人ごとのように思わない。
世界の見方が少しづつ変わっていきます。
池澤:どんな形でもいいから出てみなさいと言いたいです。
素人はちょっといい写真があると交換したりしているが、力量のある、行動力のある写真家の撮った写真は値打ちがある、写真でも力を入れてやってきているので専門家を尊敬しなさいといいたいです。
*「よみ人知らずの歌」 寺尾紗穂

石川:世界に一人で立っている事って大切なことだと思っています。
池澤:孤独と言うのはさびしいのではなくて一人で充足、満ち足りているんですよ。
石川:孤独を恐れてはいけない、孤独を恐れずに旅をして欲しいですね。
池澤:最初からより寄りかかってちゃいけない。
石川:5月からチベットに行ってカイラス山と言う昇ってはいけない神聖な山があって、周りが巡礼路になっていてそこに行ってみたいと思っています。
夏にK2に2回目ですが、行きたいたいと思っています。
危険な山ですが、頂上にはいけなったので、悔しいと言う思いがありどうしても行きたい気持ちがあります。
気合を入れ過ぎるといけないので、いつもの感じで行ける所まで行こうと思っています。
自分を変化させるために為に力を抜いてかないといけない、そういう気持ちで山に向かっています。
池澤:自然は人に対して無関心で、おまけをしてくれないし、応援もしてくれない、条件が悪くなってもそれは意地悪ではない、ただそこにあるだけ。
高い山は大変だと思います。
石川:日本の山は修験道から始まって、ピークに立つことはさほど意味が無くて、自分が生れ変わる様な感覚を得たりするのが修験道の在り方で合って、期せずして僕もそういう感覚を得られるようになったので、自分をゼロに戻すような感覚が好きで山に行っていると思います。
下山している時につぎの旅先の事を思い浮かんだりします。
池澤:羨ましい、いいなあと思います。
石川:一冊の良質な読書は旅をすることとほとんど同義だと思っていて、池澤さんほど世界と言う事自体を旅している人はいないのではないかと思います。
僕にとっては巨人のような人です。
池澤:一冊一冊がやはり旅ですね。
本当の旅に出る時には本、小説を持って行きません。
石川:新しい何かに向かって一歩踏み出すことはすべて旅の様なものじゃないかと思います。
池澤:自分の力量を知った上でそれよりも少し超えるぐらいの旅を設計して実行するぐらいの積極性は有ってもいいんじゃないかと思います。
体力が落ちて来たんですが、何かうろうろすると思っています。
石川:10代後半から旅をしてきて、自分の経験を分かち合うような試みに力を入れようと思います。
本からインスピレーションを受けて色んな旅に出かけましたが、自分の経験を分かち合うようにしていきたいと思います。
世界を知るにあたって旅をすることは有効だと思っています。
村上:世界を知ることがなぜ必要なのか?
池澤:それが生きることだから。
生きることの基本の構図は自分が立っていて目の前に世界があって、この二つが対峙している。
だからその世界に向かって働きかける一つが旅ですね。
石川:面白いです、単純に。
アンテナを張って色んな事を知って行くことは楽しいことだし、自分自身そうありたいと思っています。






池澤夏樹(作家・詩人)石川直樹(写真家) ・「ぼくたちの"旅"する生き方」前半

池澤夏樹(作家・詩人)石川直樹(写真家) ・「ぼくたちの"旅"する生き方」前半
池澤さんは1945年北海道生まれ、73歳、ギリシャ、沖縄、フランスと住まいを移し現在は札幌に在住です。
1988年「スティル・ライフ」で芥川賞を受賞以来、数々の文学賞を受賞、人と文明、人と自然をテーマに書き続けています。
最新のエッセー「科学するこころ」では日常の科学を文学的まなざしで、綴っています。
池澤さんは2007年から池澤夏樹 個人編集の世界文学全集全30巻、日本文学全集全30巻を刊行されてきました。
源氏物語の下巻が間もなく完成し完結となります。
写真家の石川直樹さんは1977年東京都生まれ、41歳。 23歳の時に北極から南極まで人力で踏破するプロジェクトに参加、翌年には世界7大陸の最高峰の登頂を当時最年少で達成します。
人類学、民俗学などに関心をもって辺境から都市まであらゆる場所を旅しながら写真集、ノンフィクションの作品を発表しています。
今年3月には20年の歩みをまとめた写真集「この星の光の地図を写す」を出版したばかりです。

石川:17歳で旅を始めて後ろを振り返らずに突っ走ってきたので、20年振り返るのは大きな仕事で,今まで気付かないことに気付いたりとか、垂直方向、水平方向に色々旅をしてきたなあと改めて実感する機会になりました。
村上:池澤さんの「南の島のティオ」大好きで、石川さんの写真を見るとティオの世界がここにあると言うのを肌で感じました。
池澤:ミクロネシアが舞台で何遍も行きました。
石川さんの祖父、石川淳さんは尊敬する作家で一度だけ食事の会で御一緒した事があります。
旅は知らない土地を見る。そこの土地の人に会う、言葉を聞く、食べ物を食べている、それが一番手ごたえのある楽しい事で、生涯を旅に振った道楽ものです。
20歳案では旅には出なかったです。
20代の後半から或るきっかけでミクロネシアに行ってそこから始まりました。
もっぱら南の貧しい国に行きました。
日本と言う国とは相性が悪いと思っていて、居心地が悪くて、友達も少ないし、くすぶっていました。
この手があると、出て行けばいいんだと思いました。
その国の事を見て日本と比べる、どっちがいいとは思わない。
それを伝えると言うのがスタイルでした。

石川:旅人としては仙人みたいな人ですね、住んでみてじっくり見つめることはなかなかできることではないと思います。
池澤:発表するためにメモを取ると言う事はあまりしませんでした。
人の名前は覚えない、顔を覚えない、月日は覚えないが、エピソードは覚えているんです。
石川:知らない所へ行ってみたくて高校の時に学校には内緒でインドに行きました。
インドではぼられたり騙されたりしたのでネパールに落ちつこうと思って行き、またインドに戻ってくると言うのが1か月間の旅でした。(一人旅)
それ以来旅をしながら写真を撮って文章を書いてきました。
アラスカのマッキンリーに20歳の時に初めて登って、高山病にかかって眠いし足が前に出ないような状態で、何とかはいつくばるように頂上に立って、旅は水平方向に旅をすることだと思っていたのが、垂直方向に、宇宙に段々近づいて行くような旅ができるんだと思えたことが20歳の登山でした。
池澤:沖縄の海洋博で伝統航海術(星と波だけで判断)で来た舟があり、それを実現させて感心して、マウ・ピアイルックの技術に感銘を受けその航法を段々教えられた若者(ナイノア・トンプソン)がハワイからタヒチまで行き来するようになり、大きなプロジェクトが発足してしそれから広まりました。

石川:マウ・ピアイルックさんに弟子入りして一緒に航海した体験があって、水が無くなってしまって、ブルーシートに雨水を溜めて飲んだり大変な航海でした。
帰り方が無くてたまたまアメリカの船に出っ食わしてグワム経由で日本に帰ることができました。
色々むちゃくちゃな旅をしてその後ハワイに行って海の事を調べて行くうちに人類の移動のルートにすごく興味を持ち始めました。
その先に島があるかどうかわからないのに、島から島に人類が移動して行ったことに僕にとってはすごく不思議でした。
冒険心で島に行って戻ってきたと言う冒険心に惹かれてポリネシアの旅をしました。
池澤:不思議なのはハワイまで5000km在りその間に島はない、一つの社会がまるまる移住できた。
社会を作るのには女性も連れていかなければいけないし、社会が移動したわけで不思議です。
太っていなければ島から島には渡れなかった。
石川:「この星の光の地図を写す」写真によって自分が旅してきたところを編んでみようと思いました。

池澤:「美しい列島」の地図 南北をひっくり返してみる。
石川:反対にしることに依って色んな見方が見えてくると思います。
村上:旅をすることで大事にしていることとは?
池澤:特にこういうポリシーでと言うようなことはあまりないです。
行く先々が何か教えてくれるんじゃないかと思います。
石川:アボリジニの壁画(オーストラリア北部の辺境地域の先住民族アボリジニの岩壁画
1万5000年前から50年前のものまで幅広い年代に及ぶ絵画)などは印象的でした。
池澤:神話と結び付いている文化です。
石川:旅ではその都度偶然が起こるので偶然を受け入れています。
色んな出会いであっちに行ったりこっちに行ったりするわけで、それが生き方だと思っています。
池澤:ターニングポイントになった旅はギリシャで3年近く暮らして、日本には帰りたくなかった。
いろいろ事情があって帰ると決めて、宿をたったんで残ったのはケニアから日本に帰る切符と少しのお金とバックだけでした。
ナイル川を遡上しようと思いました。
舟の屋根に上って寝るのですが、素晴らしい星空でした、あれは至福のときでした。

石川:言葉になる前の叫びみたいなものを写真に撮りたいと思っていますが、言葉にしてしまうとこぼれ落ちてしまうと言うようなもどかしさがある。
池澤さんは写真とかメモに取っていますか?
池澤:写真も撮っています。
一連の写真を見て文章化してゆくことはよくします。
南極に行った時にはいっぱい写真を撮り、それは新聞連載でしたが執筆の時に使いました。
僕にとっては最終的には言葉です。
石川:自分が反応したら全部撮ると言うようにやっています。
エベレストを撮ると言うようなことではなくて、自分と山とのかかわりを撮る様なイメージです。








2019年4月30日火曜日

増島みどり(スポーツライター)      ・「スポーツと"平成"」~後半~

増島みどり(スポーツライター)      ・「スポーツと"平成"」~後半~
山本浩((法政大学スポーツ健康学部教授)
進行;工藤三郎アンカー

増島:「海を渡る・・・」と言うのは古い表現になってしまいました。
野茂投手のころはそういった感覚だったかもしれないが、今はそういった感覚はないです。
山本:今では学生のころからシーズンを選んで海外で暮らす事が当たり前になってきています。(スキーとか雪を求めて)
工藤:チームが何処の国にあろうが、同じ様なチーム、クラブの哲学を持って運営していくんだと言う事が、特にサッカーなどは多いのでは。
山本:使える者を使う、何処の出身だとかは関係が無い。
増島:若い人が向こうで存在を築いてしまっていて、日本に帰ってきてどうしようかなと言う形になってきている。
工藤:日本的な上下関係の在り方、人間関係、スポーツの位置づけのようなもの、そこが日常のレベルから、変わってくる流れになってきているのではないか。
山本:日本のスポーツは、あらかじめ決められた社会の仕組みがあり、そこに自分がピースとして入って行く格好になるが、海外では一人ひとりが自分の権利と能力を出す、それが受け入れられないなら別の処に行くと言う発想です。
或る意味実力勝負です。
最近のプロ野球でもそういう発想になってきている。

増島:指導ライセンスの存在、これは大きいと思います。
ライセンスも物凄く色々な段階があるようになりました。
山本:法人化をしてきてスポーツ各競技団体のガバナンスが問われるようになってきている。
情報も容易に行き来するようになった。
野球でセンターカメラでバッターの表情まで捕えられるようにカメラの性能も向上して、スター化が可能になる。
冬のスポーツは顔を覆っていて、カ-リングとフィギュアというスポーツはそうではないので,人気が上がってくる。
回線、昔は数がすくなくて、政治関係に関するものに主が行ってしまっていた。
回線が多くなるとスポーツなどで海外のゲームなども出されるようになってきている。
増島:ツールとスポーツの関係を抜きにしては考えれないと思います。
工藤:ネットの存在、情報の処理、スポーツの楽しみ方がかわってきたと思います。
山本:データの収集には随分時間がかかったが、今はなにもしないでぽっと出てきてしまう。
VTRは昔は大事なシーンを扱ったが今はプレーとプレーの間がリプレイされて、技術解説の時間が非常に増える。
同時に終わったプレイしか再生されないので過去に重心を置いた話になりがちです、スポーツの本来の醍醐味は未来へ向かう、放送そのものも変わってきていると思います。
TV、ネット、移動体通信の変化、スポーツを観る人の感覚が変わってきている。
増島:細分化、専門的になっている、その中心に居るのがファンの方ですね。
工藤:スポーツをビジネスとして成立するようになってきた。
平成の終わりごろにはネットのほうが巨大なお金を投資するようになってきたが、Jリーグが先駆的に動いてきた。
山本:スポーツを沢山の人が消費したがる、品質のいいものを欲しがるようになる、品質のいい選手、チーム同士の試合を観たいと思う。
サッカーで18もあると商品価値の低い試合などもあり、それが結果的にうまく統合されて大きな金とくっついてゆく、そういう流れにきているような気がします。
山本:ネットで見ている人間の方が多いと思います。
増島:若い人たちはネットで見ることが何ともないですね。
工藤:スポーツとお金の関係は或る種一線を引きながら存在していってスポーツの価値を高めるようなものがあったと思いますが、スポーツのよさを如何に守って行くのか、危惧するところもありますが。
山本:ドイツのカール・ディームと言う人がいますが、スポーツの価値はいったいなんなのかということですが、スポーツをやっている時に凄く楽しくて、結果に対して物凄く自分が打たれる、この二つがあるんだとこれを自分がしたいがためスポーツをやるんだと、それをお金の為にやるんだったら本来のスポーツの狙いと違うと言う事でアマチュアにこだわる訳です。
お金を貰ってスポーツをやる人達はそういうものを人に届ける、楽しかった事、勝った時の喜びを人に届けたいんだと、そのためには自分を常にそういう状況に置いておかないといけないので、そのためにはお金がいるんだという理窟だと思います。
プロとアマチュアとの境い目がすこしづつずれたり入り混じったのが平成だったと思います。
増島:スポーツの魅力は徹底したリアリティーだと思いますが。
AIがスポーツを変えると言った時にスポーツの何処を変えるのかと言うふうに考えるときはあります。
山本:ビッグデータを瞬時に計算しながらつぎの行動を予測するかとか、それを防ぐための策を授けるとかそういったことを要求していると思う。
勝負の判定にも当たり前のように要求してくる。
厳密性を要求する時代になってきている。
増島:ツールなど大変革がありました。
観る部分でも変わった時代だったと思います。
山本:平成の時代で話題になたのは不祥事の問題です、暴力的な指導、コンプライアンス、こういったことを令和の時代には過去のことにできるかどうか。
法令を整備するだけではだめだと思います。
社会の価値観がどういうふうにここの処に結実するのか、これが無いと令和の時代もやれやれと言う訳にはいかないと思います、
増島:組織の整理は必要だと思います。
インテグリティー(integrity 高潔、透明性、公正さ)、特にスポーツには求められると思います。
山本:この子は世界大会でも国内大会でも大したことはなかったが、物凄く幸せなスポーツ人生を今でも送っているよという子供をどんどん育てる指導者にもっともっと光を当てる時代が来なければいけないと思います。