2019年12月28日土曜日

佐藤忠男(映画評論家)          ・舌の記憶~あの時、あの味】

佐藤忠男(映画評論家)          ・舌の記憶~あの時、あの味】
佐藤さんは昭和から平成、長きにわたって映画評論に力を注ぐと共に、日本の映画界の発展に寄与してきました。
一方でアジア映画研究の先駆者としても知られていて、一昨年まで日本映画大学の学長を勤めました。
出身は新潟市で終戦の年は14歳、海軍飛行予科練生でした。
戦後は昼間働いて夜間の工業高校に通う傍ら、雑誌に映画評論の投稿を続けて投稿家から文筆家、映画評論家になりました。
長年の評論活動、膨大な著書の出版を支えたのは、書物を通して独学で得た読書の力があったからと話しています。
一貫して戦争や権力と向き合い、世界の庶民の暮らしを観ることによって平和を実現できるという信念の元、89歳になった現在も現役で評論活動を続けています。
そんな佐藤さんの食の思い出はどのようなものでしょうか。
舌の記憶と共に映画の魅力や映画評論の役割など伺います。

今年文化功労章に選ばれました。
家内が今年亡くなりましたが、これはつらかったです。
第7回川喜多賞を、家内の佐藤久子とともに受賞しました。
日本に呼んだ外国人を家に3か月も泊めて日本食を食べさせたり家内はしていました。
非常にいいパートナーでした。
私は怪我もしてリハビリをしていましたが、その間も書いていました。
3つ年上の兄がいて小学校の頃から腎臓病で寝たきりになり、兄が貸本屋の本を読みたいという事で、私にも読みたい本を借りてきていいと言ってくれて、小学校3年のころから毎日貸本屋に行って本を借りてきていましたので、本無しの生活は考えられないです。
映画は子どもの時からよく観ていました。
海軍飛行予科練から帰ってきて、戦後どういう人生を歩んで行こうかと考え込んでいたころ、映画でも見ようと思っているうちに職業になってしまいました。
雑誌の投稿していたら、新しい分野が開けてきました。
人が論じなかった大衆映画を大真面目に論じる批評家として独自の存在になれました。

10代の終わりぐらいから映画批評家の卵みたいな存在で、そのまま来ることができました。
アメリカ映画を観たときには吃驚しました。
日本を負かしたアメリカとはどういう国だろうと本気で映画で観ようと思いました。
かわいい女性が来るとすれ違う男たちがみんなにっこりして笑顔を見せる、日本映画にはない場面で、彼らが幸せであるという事を実感し感動しました。
キューリー夫人の映画でも夫になる人が自分の弟子に求婚するのに貴婦人に対するようなポーズでする、これは感動しました。
アメリカ映画、ヨーロッパ映画、ほかの国々の映画を観るようになって、いいいものを探して歩くことが私の人生になって幸せだったと思います。
映画から世界の文化を学んだと言えます。
海軍の予科練にいって、日本の軍隊は残酷なところだとしょっちゅう思いました。
ちょっとしたことで毎日殴られていましたが、平気な顔をしていました。
アメリカ人のほうがどんなに礼儀が発達しているかという事を映画で見て驚きでした。
映画を観ることが私の人生の勉強になりました。
外国映画、特にアメリカ映画を観るとこれが文明かと思い、学ぶことばっかりでした。
学ぶことを書いていたら、それがいいという事でいつの間にか批評家になりました。

新潟では5月ごろ笹団子を作ります。
天井から一杯ぶら下げていました。
あれが一番食べ物では懐かしいです。
父親は早く亡くなり、母親は季節のお菓子、笹団子を作っていました。
手を伸ばせばお菓子がありましたから、贅沢でした。
おふくろは凄い働き者で働いている姿しか見ていないです。
新潟では魚がおいしかったです。
うちは漁師 がしょっちゅう出入りしていたので、新鮮な魚を持ってきてくれて魚はおいしかったという記憶があります。
タイの映画でありとあらゆる果物を集めてパーティーをやってる場面があり、吃驚しました。

外国に講演に行ってゆく先々で評判の映画を観せてほしいと言ことで観まして、発見に次ぐ発見でした。
アジアでの国で近代化のためにこの女性はこんなことをしたとか、いろいろ伝記があり、尊敬に値する人はどの国でもいます。
是非日本で映画祭をやった方がいいと思って何度か実現しました。
映画批評家としてやった中で自分で誇りにしていることです。
砂漠、家が一軒もないような荒野とかを背景にした映画はあるが、人があまり出てこなくてどこがおもしろいんだろうと思ったが、意外な面白さを発見することがよくありました。
どこにでも苦労があり、苦労を乗り越える知恵をそれぞれもっていて、一つの発見でもあります。
厳しい環境の中でもそれぞれの生活の知恵には吃驚して、そういったものが映画の面白さでもあると思います。

生活、どういうところではどういう暮らし方をしている、普通の人がどうやって何にもないところで暮らしていけるのか、これが日常生活なんだという事に興味を持てると、世界中観たい映画がどこにでもあるということが判ってきます。
共通性が判ってくると、世界を愛することができるようになる。
段々愛する世界が広まって、今やほぼ全世界になって、世界は愛するに足ると思っています。
戦争は映画で観ている限り、やはり戦争にも法則があって、世界がお互いが誤解しあう、世界を自分の目でちゃんと理解する精神が育てば世界は理解できるはずだと映画は教えてくれるが、中には世界を誤解させるような映画もあります。
それが良い映画悪い映画の区別になると思います。
TVこそ世界の隅々まで入り込みそこの国のあたりまえなことを描くが、映画は自分の国の特殊なところだけ強調してむしろ誤解を広めたような面もある。
日本と言えば侍という様なイメージは映画が作り出した面が大きいが、ごくごく普通のいろんな人たちがいて、そういう人間を愛情を持って描くという映画がどんな分野でも発達している。

世界中映画で知り合うことによって、世界中に向かって愛を持って呼びかける態度は、映画が作り出したし、TVがそれをさらに普及させた、これは非常に重要な映像文化だと思います。
映画は私にとって世界を見る鏡です。
世界中自分は或る程度知っているという自信が深まってゆく、誤解していたが今度そこの国で作られた映画を観たら、誤解を訂正する道が開けた、それが映画の発見です。
発見を重ねてゆく事によって誤解を乗り越えて世界中が理解しあえる、そういう理想に一歩一歩近づいているという事が、何十年の映画批評を書いてきたことによって成長してきたと思います。
文学は顔まで見える訳ではないが、映画だといろんな違った顔はあるが違った感情はそんなにない、共通の感情があるという事が顔で判る。
お互いが理解すると怖くない、世界中がお互いに相手を怖いと思わない、そういう状態を作り上げる力を持っているのは映画だと思います。