2018年11月14日水曜日

臼井健二(ゲストハウス主人)       ・自然と心地よく暮らす

臼井健二(ゲストハウス主人)       ・自然と心地よく暮らす
長野県生まれ、69歳、30歳で自然農法で取れるお米、野菜、山で取れる山菜やキノコなどを提供するゲストハウスを3年がかりで手作りで建てました。
臼井さんのガーデンは草生栽培と言って草や虫を敵としない、無肥料、無農薬、たがやさないという農業です。
40年前オーストラリアからもたらされた、持続可能な農的生活と同じ農法ですが、これは日本の里山生活がモデルのなっていると臼井さんは言います。
臼井さんは自然とどのように暮らしているのか、うかがいました。

安曇野の保育園児と一緒に種をまき、田植えをして稲刈りおだがけとなりました。
7月はほとんど雨が降らなくて、その後台風が3つきましたが、その後は天気に恵まれて野菜もよく育っています。
ゲストハウスは40年近くなります。
自然農園的なものを提供しながら農法も教えながら営んでいます。
毎年通っている方もいます。
一緒にてつだってもらって食事も一緒に作って、片ずけもして貰って、家族の中に入ってきてもらうような宿です。
持続可能で多様性に富んで調和している、そんな農業を形にしてみたいとなあというのが僕の考えです。

大学卒業後商社に入ったが、生産という事が無かった。
種をまいて育って実を結ぶという、農的なそんな中に本来の人間の幸せがあるのではないと思いました。
小さいころから農的な暮らしがあったような気がします。
1年半で会社を辞めて、山が好きだったので、穂高町でやっている山小屋にお世話になりました。
5年間アルプスで学びました。
写真に撮って年賀状を送っていたりしました。
そのうちに山が飽きてきて、それは生産することが無いからなのではないかと考えました。
これから宿をやるので協力してほしいということで、会員募集をしたら(今でいうクラウドファンディングみたいなもの)2500万円位集まりました。
自己資金と2500万円をベースにしながら考えたが、理想の世界の中では足りなかった。
毎日10人ぐらいは学生が手伝ってくれて、大工さんが刻んだら塗装をするとか、水道工事、電気工事などかなりの事を自分たちで手掛けました。
3年ぐらいかかりました。

当時ペンションブームで、紹介してもらって宿泊人数も増えて順当にやってこられました。
10年位して、地元の利用が無いので、レストランを併設しました。
自給自足的な生活をして行きました。
お客さん達には自分たちで作ったものを提供したり、知り合いから手に入れたりしました。
自然界をよく観察して自然界の良さをその宿の中に生かしたいというのが、自給自足的な暮らしの原点です。
オーストラリアからパーマカルチャーという言葉が入ってきています。
パーマカルチャーは恒久的持続可能な環境を作り出すためのデザイン体系のことです。
1970年代にオーストラリアは大開発が進みました。
工場進出が起きて反対運動あったが、反対運動よりも心地よい暮らしを提言しようとして生まれたのが。パーマカルチャー的な考えです。
持続可能、多様性、調和、倫理的な事が加わって、自然への配慮、人へ配慮、余剰物の公平な分配などです。
私の実践とほとんど同じでした。

1900年代にアメリカでは大規模農業が盛んになり、化学肥料、農薬での農業で土砂流出などもあり農業が立ち行かなくなり、土壌学者のキングという人が持続可能な農業が無いかと世界を周り出会ったのがアジアの農業でした。
それを本に書いて、オーストラリアの人が見てもう少し判り易くしたのがパーマカルチャーなんです。
ルーツはアジアに有っるんです、江戸時時代の文化であり里山の文化かもしれません。
資本主義は分断させ競争させ、マーケットを置くというそんな中に経済がなりたつわけですが、分断するより繋がりの中に生活があると、無駄がなくなる。
ここでは傾斜地に野菜などが植えられている。
草や虫も決して敵ではなく、草や虫を生かしてあげると、大地がより豊かにバランスが取れる訳です。
100点ではなくて60点を目指す、そうするとトータルで150点位になるわけです。
草がある事によって大地は豊かになる。

菌が根を分解して、微生物小動物が分解して腐食を作り、腐食はマイナスの電気を帯びて土の栄養素がくっついてあちこちに空気層がうまれて、それが自然界のたがやすということです。
土は柔らかく豊かになります。
本来バランスはとれているが、人間があれこれやってバランスが崩れる。
虫は急激に増えるということは無くて、いろんな種類が集まって全体的にバランスはとれている。
キャベツでは青虫は外から3~4枚食べるが、青虫がいると夜盗虫は卵を産まない。
たがやさなくて自然界は調和する方向に向かうし、草や虫も敵ではないという方向に行く。
草を刈って、土を出して草の種の表面をどかして野菜の種をまくと草は生えない。
刈った草は横にどての様に置いてやると芽が出ても草は育たない。
もみ殻を燃料として使えば暖房、給湯にも使えるが、原始的なので故障も良くします。
釜戸が登り窯の様になっていて、多様なシステムキッチンになっています。
循環型の暮らしを自分で作って行くという事が大事なことだと思います。

年間3~4回講座を続けていると仲間になり、声をかけると集まってくれるようになります。
壁を取ってしまうと人間関係はとてもいいです。
その中に一番喜びがあると思います。
「種の銀行」 今の種の90%はF1で外国製で、日本では10%です、日本に種が入ってこられないと日本の農業は成り立たなくなります。
在来種、固定種の種を保存してみんなで分かち合いたいというのが「種の銀行」の考え方です。
今は200種類位で種の瓶は500位あります。
お米の種は1粒が3000倍になります、借りた種は倍にして返します、無料でこのシステムは成り立っています。
自然界は素晴らしい教えを一杯与えてくれています。




































2018年11月13日火曜日

岡室美奈子(早稲田大学文学学術院教授 ) ・だからテレビドラマはおもしろい

岡室美奈子(早稲田大学文学学術院教授 ) ・だからテレビドラマはおもしろい
1958年生まれ、「ゴドーを待ちながら」で有名なノーベル文学賞を受賞の劇作家サミュエル・ベケットの日本での代表的な研究者の一人です。
岡村さんがいま力を入れているのが、TVドラマの作品研究でTVドラマ分析の授業も行っています。
岡室さんにTVドラマ研究を始めた理由、その意義、面白さ、最近の視聴傾向などについて伺います。

TVドラマの歴史は1953年からです。
映画などに比べると、消耗品といったイメージで捉えられていた様な気がします。
初期は生放送で映像が残っていなかったことも大きいです。
学術的な対象にはならないと思われてきました。
影響力の大きさは他のメディアに類を見ない様な気がします。
人の心を動かすようなものもあるので、ドラマの良さをどうやって人に伝えて行くか、作り手に私達の思いを届けられるかなど考えて、ドラマの研究を始めました。
ゼミでもTVドラマを取り上げます。
学生は40人ぐらいいて、4チームに分けて、それぞれのチームが違う1作品を研究して発表し、ディスカッションすると言うようなやり方をしています。
若者のTV離れが言われますが、興味を持っています。
テーマを決めてそれに即した候補を決めて学生に選んで貰います。
朝ドラも「カーネーション」と「あまちゃん」をやりましたが、学生もクオリティーの高さに驚いていました。
内容、演出、演技3拍子揃っていたと思います。

①良い作り手を育てたいと言う思いがあります。
②良い視聴者を育てたい。
普通は一回しか見ないが、授業では何回も同じ作品を観て、取りこぼしのない様にしています。
TVドラマの考え方も変わってきます。
TVドラマは日常生活に密接に繋がっている。
映画と違ってTVは共通体験となって行く。
ドラマは極力見るようにしていますが、時間が足りないです。
録画したものを1.3倍速で見たりもします。
「透明なゆりかご」毎回凄く深い内容で素晴らしかったです。
人の生き死にを真摯にきめ細やかに描いています。
「フェイクニュース」 野木亜紀子さんの作品。
この二本が最近印象に残っています。
心に深く突き刺さるドラマの事を、大事にしていただきたいと思います。

幼稚園に行くのが嫌で、TVドラマなど母と一緒に良く見ていました。
俳優さんの名前も良く覚えていました。
高校時代は演劇部に所属して、演出をやっていました。
数学の先生の家に行った時に、別役実清水邦夫と言う劇作家が面白いと言われて、別役実さんの「赤い鳥の居る風景」文庫を読んで吃驚しました。
別役実さんの本を色々読み始めると、劇作家サミュエル・ベケットから影響を受けたと言う事が書いてあって、ベケットに興味が移って行きました。
「ゴドーを待ちながら」
ベケットは生き生きした言葉を書いている人ですが、不条理、つじつまの合わない世界が難解なものとして受け取られていますが、私としては難しくはないですという訳になっています。
大学院の時にアイルランドに留学しました。
司馬遼太郎さんの通訳とガイドを担当、「街道をゆく」のアイルランド紀行で登場します。
ベケットはTVドラマも作っています。(映画、ラジオドラマも作っていたが)
根底にはTVってなんだろう、という問いは常にあります、ベケットも常にそういう事を考えながら作っていたと思います。
ベケット研究とTVドラマについて批評していることは、密接につながっていると思います。

ブラウン管のTVを70台ぐらい集めて、古いドラマをブラウン管のTVで見せるという事をやりました。
相当な数のドラマを取り上げました。
主観的なドラマ史として展示し、好評でした。
去年TV文化論講義という授業を担当して、私が素晴らしいと思うドラマを見せながら解説するという事をやりました。
学生も古いドラマを凄く面白いという事を知ってくれてやって良かったと思います。
好きな人は沢山いますが、宮藤官九郎さん、坂元 裕二さん、古沢良太さん、野木亜紀子さん、大ベテランでは山田太一さん、向田邦子さん、大石静さん等が好きですね。
宮藤官九郎さんについては論文も書いています。
「いだてん〜東京オリムピック噺〜」は宮藤官九郎さんが新たにチャレンジする大河ドラマで、新しい大河の歴史が作られていくのかなあと楽しみにしています。

2007年に学部編成があり、同僚とTVドラマの事をやろうとして、この授業は10年ちょっとになります。
ツイッターなどで批評あったりして、緩やかな繋がりが出来てきています。
作る側の励ましにもなっていると思います。
視聴率で直ぐ語られるが、それに踊らされないで良いドラマを良いと言える人を育てて行きたいと思っています。













2018年11月12日月曜日

的場文男(騎手)             ・【"2020"に託すもの】駆けつづける62歳

的場文男(騎手)     ・【"2020"に託すもの】駆けつづける62歳
~競馬最多勝騎手・的場文男さん~
今年の夏、日本の競馬史に残る大記録が誕生しました。
大井騎手会所属の的場文男騎手が、都道府県や地方公共団体などが主催する、地方競馬で通算7152勝という新記録を達成したのでした。
的場騎手は62歳、いまなおトップジョッキーとして駆け続けています。

1956年9月7日生まれ、福岡県出身。
騎手を目指して中学3年の時に東京に転校して、大井競馬場の小暮嘉久の厩舎に入って、中学卒業した10月には栃木県那須塩原市の地方競馬教養センターに入って騎手として研鑽する。
1973年10月16日、17歳で騎手デビュー、11月には初勝利、以来昨年までには通算3万9981回騎乗して7084勝、リーディングジョッキーで地方競馬全国リーディングを2回、大井競馬で21回取っている。
今年の8月大井競馬の第5レースで勝って佐々木 竹見が保持していた地方競馬通算勝利数を更新する7152勝を上げる。
騎手歴45年。
今4万500回位です、負けも沢山あります。
あの時はスタートした時からお客さんの声援がありました。
お客さんには感謝の一言です。
馬はシルヴェーヌでした、馬が可愛くてしょうがないです。

生まれた時から馬が家にいましたので、馬に乗ったのは小学生の時でした。
幼い頃から騎手になろうと言う夢はありました。
大井競馬場に西田さんがいて、父に息子を東京に来るように言ったそうです。
デビュー戦はあわててしまって人を邪魔してしまい、2日間の出場停止になってしまいました。
最初は新人の中でも勝てる方ではなかった。
朝の調教で人よりも頑張れば、乗る機会が増えると思って頑張りました。
4年目に勝てない時には佐賀に帰ろうかなと思いましたが、とことん東京で頑張れと兄に言われて7,8年は家に帰らなかったです。
6年目ぐらいに少しずつ勝てるようにはなってきました。
絶対一人前の騎手になるんだと思っていました。
登りだしたらぐっと昇るもんですね。
朝3時位には人より早く起きて調教などやっていました。
1997年6月の帝王賞のレースで12頭で疾走、一番人気が武豊さん騎乗のバトルライン、二番人気が岡部幸雄さんのシンコウウインディ、三番人気が石崎隆之さんのアブクマポーロ、私はコンサートボーイで4番人気でした。
最初は遅い馬ですが、あの時は先頭でした。
武豊さんマークだと思ってずーっと行きました。
3頭のマッチレースとなり、コンサートボーイが1位、アブクマポーロが2位となり地方競馬が1,2と言う事でお客さんが物凄く喜びました。

或る時前の馬にくっつきすぎてひっくり返って、馬が僕の顎に当たって、ハンマーで殴られたような感じでした。
顎を複雑骨折、歯は14,5本駄目歯ぐきから持って行かれました。
肋骨は10数回折っていますが、馬が暴れて僕の背中を蹴っていって、内臓の脾臓と腎臓をやられました。(蹴られた瞬間、何か違うなあと思って意識がもうろうとしました。)
MRI検査で脾臓と腎臓が真っ二つになっていて、血が出血して2000cc越えたら命の危険があると言われて、すでに2000ccぐらいでした、手術室に入った時には意識が無かったです。
5時間の手術でした。
集中治療室に3日間いて、その後20日間以上飲み物食べ物は取れませんでした。
1カ月以上血の小便でした。
50日目ぐらいに妻とハワイに行き医者には止められたが、ゴルフをしました。
2カ月後には復帰しました。(医者も驚いていました。)
怖くなったらやめた方がいいなと思っていて、怖くはないです。
鞭で叱っても言う事を聞く馬もいれば余計に暴れる馬がいて、色んな馬がいます。
馬の気性を見抜くことが必要ですが、馬に合った朝の調教が大事です。

体が硬くなったので体力変化をカバーするために踊るような感じの「的場ダンス」をやっています。
トレーニング、ストレッチなど出来る限りの努力はしています。
東京ダービーで2位は10回有りますが、優勝は無いですので後1,2回のチャンスで勝てないともうチャンスが無いと思っています。
目的があると人間は力以上ものが出る様な気がします。
7152勝の目標に向かって本当に楽しかった人生でした。
目的は無くなったが、お客様の声援があるから精一杯乗って、ファンを喜ばしたいと思います。














2018年11月11日日曜日

中野浩一(元競輪選手)         ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】世界自転車選手権10連覇

中野浩一(元競輪選手)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】世界自転車選手権10連覇
63歳、福岡県久留米市出身 福岡県立八女工業高等学校では陸上選手で高校総体400mリレーの優勝メンバーでした。
高校卒業後競輪選手になって二十歳のデビュー戦から 18連勝など一気に競輪界のスターになりました。
世界自転車選手権スプリントでは1977~1986年まで大会10連覇を達成し、日本人が想像する以上の世界のビックスターとなりました。
37歳で引退するまで歴代最多6回の競輪賞金王となって、ミスター競輪と言われ、競輪選手出身者で初の紫綬褒章を受賞しました。
2020年の東京オリンピックの開催が決まった直後に伺った2013年のアンコール放送です。

東京オリンピックの開催発表の晩は起きて見ていました。
日本自転車競技連盟(副会長)としては選手を育てるのが非常に難しいので、オリンピックに向けて自転車競技全種目フルエントリー出来るような形にしたいし、メダルを取ることが一番の命題になります。
日本のレベルも上がってきています。
スプリント種目、2人で戦う競技。
2人で同時にスタートして3周回って先にゴールした方が勝ちとなる。
残り200mまでは何処を走ってもかまわないが、最期の200mは真っ直ぐ走らなくてはいけない。
準々決勝ぐらいから3本の試合となる。
1977年20歳でデビューした翌年、ベネズエラの大会で決勝は菅田順和選手との日本人選手同士の対戦となった。
結果勝つことができる。
それまで日本人は銅メダルが最高だったが、金、銀を取ることが出来た。

1978年、1979年に西ドイツ・ミュンヘン大会、オランダ・アムステルダム大会では決勝ではいずれもディーター・ベルクマン(西ドイツ)と対戦。
共に勝って3連覇を達成する。
この時の国内賞金獲得額は8000万~9000万円余り、長者番付けの常連となる。
1980年フランス・ブザンソン大会 準決勝では、アマチュア時代、メキシコ・ミュンヘンの両五輪大会においてスプリント連覇、世界自転車選手権アマチュア部門のスプリントを7回制し、「スプリントの神様」と称されたダニエル・モレロン(フランス)と対戦することになった。(事実上の決勝と言われた。)
怖さみたいなものは感じなくて、2本とも逃げ切りました。
決勝でも尾崎雅彦を破り、4連覇を達成した。
4年連続賞金獲得王になり、賞金獲得額は競輪史上初めて1億円を越える。
1981年 チェコスロバキア・ブルノ大会。準決勝で、後に名ロードレース・スプリンターとして名を馳せることになる、ギド・ボンテンピ(イタリア)に圧勝。
ゴードン・シングルトン(カナダ)と決勝で対決して勝って5連覇達成する。
その一カ月後の日本国内のレースで最期に僅差で負ける。

1982年 イギリス・レスター大会 ゴードン・シングルトン(カナダ)と2年連続の決勝。
この年、競輪で落車が相次いで骨折をしたりしていた。
1本目、シングルトンと接触して双方転倒、こちらが妨害したと言うことだったがノーカウントの判定となった。
1本目はシングルトンが取り、2本目は私がかわす際にシングルトンは右ひじを出してきたが、私はこれにひっかからず、今度はシングルトンだけが転倒した。
この判定にカナダ側が抗議に出るも却下され、そればかりかシングルトンはこの際に右ひじを骨折。3本目の競走続行不可能となり棄権。薄氷を踏む思いで同種目6連覇を達成した。
1983年 スイスチューリッヒ大会。 決勝はヤーベ・カール(フランス)と対戦、勝って史上初の連覇。46年ぶりに連覇記録を更新した。
1984年 スペイン・バルセロナ大会。 決勝はオッタヴィオ・ダッツァン(イタリア)と対戦、破って8連覇達成。
1985年 イタリア・バッサノ大会。 決勝では、松枝義幸選手をストレートで下して9連覇を達成した。

1986年 5月下旬、久留米競輪場で行っていた、高松宮杯競輪直前の練習中に転倒し、肋骨などを骨折する大怪我をして世界自転車選手権出場自体も危ぶまれた。
驚異的な回復力を見せたが練習の際に又転倒、同じ箇所を痛めてしまい、骨折が完治しないままコロラドスプリングスの世界選手権に出場することになった。
もう開き直るしかないと思った。
アメリカで勝てば競輪の評価も上がると思ったので是非勝ちたいと思いました。
アメリカ・コロラドスプリングス。決勝では、同じ日本の俵信之選手を下した松井英幸選手との対戦となり、ついに10連覇達成。
日本が金、銀、銅を獲得。
中曽根康弘首相より「内閣総理大臣顕彰」が授与されることになった。

小さいころは走るのは早かったです。
スポーツで身を立てたいと昔から思っていたので、ゴルフでもやりたいと言ったら、お金が掛かるので自転車でも乗ってみたらと言われて、乗ってタイムなどを測ったら早いと周りから言われてそのまま自転車に乗ることになりました。
伊豆の修善寺競輪学校に1年間入りました。
19歳でのデビュー戦から18連勝負けないで九州のハヤブサと呼ばれるようになる。
競輪選手は2700~2800人います。(当時は4400人位いました。)
選手のランクがあり、S級S班は9人しかいません。
毎年格付けの入れ替えがあります。
練習は毎日、最低100km走ります。
若い時はそれを3回やっていました。
私は年間を通して変わらないコンディションを保ちたいと思っています。
国際大会は傾斜が45度ぐらいありますが、国内だと33度位です。
ブレーキが無いので返って安全です。(急ブレーキなどが無い)
レース自身が私を中心に動く所があるのでかえって楽なところがあります。
精神的なものは若い時から知りあいになれていた人とかもあり、最終的には練習の裏付けです。
イギリスではコマーシャルに自転車競技の選手が物凄く多く出ています。
日本のジュニアの層をもっと広げたいと思っています。
底辺を広げればもっともっと強い選手が出てくる可能性が大きくなると思っています。

















2018年11月10日土曜日

今成知美(イッキ飲み防止連絡協議会 事務局長)・若者よ!一気飲み・アルハラで命を落とさないで

今成知美(イッキ飲み防止連絡協議会 事務局長)・若者よ!一気飲み・アルハラで命を落とさないで
アルハラ→アルコールハラスメント
イッキ飲み防止連絡協議会は飲酒事故で大学生の子供を亡くした遺族らが 1992年に活動を始めました。
以来1/4世紀に渡ってポスター、チラシなど様々なグッズを配ってキャンペーン行ってi
ます。
これにはビールや焼酎など酒類業界が協賛、全国大学生活協同組合連合会も協力しています。
それでも学園祭や、ゼミ、バイト先の飲み会での飲酒事故、こういった場所で亡くなる若者は減っていないと言います。
学生だけでなく職場の飲み会、社員寮での行事でも事故は起きています。
遺族が裁判を起こし、幹事や参加者が責任を問われると言う例も相次いでいます。
お酒を短時間に大量に飲むことの危険性や、泥酔した人を放置することによって、引き起こされた飲酒事故の事例から、私達はなにを学ぶべきか、伺います。

毎年若者が亡くなっています。
一気飲みをさせる、これは氷山の一角のデータだと思っています。
1983年から2018年までの間に、156名が亡くなっています。
実際はもっと有ると思っています。
こんな事故を二度と起こしたくないと、東大阪の父親と私達と連絡しあってキャンペーンを始めました。
6大学合同のスキーの合宿があり、ウイスキーの一気飲みをさせられて東大阪の父親の息子の大学生は亡くなりました。
1991年に息子さんが亡くなられて、その翌年にイッキ飲み防止連絡協議会をたちあげ、実態を調査するために事例を寄せてもらいました。
大学向けのキャンペーンをスタートしました。

酔うというのは脳がマヒすると言う事で、先ずは「ほろ酔い」、次に「酩酊」で脳の内部まで麻痺が進んで、足がふらつく、ろれつが回らない、階段から落ちたりして事故が起きやすい。
次が「泥酔」でフラフラとして歩けない、脳の命をつかさどる部分にマヒが進み始めている状態、吐いたものを喉に詰まらせてしまったりして、窒息死が多い、寝ていて低体温になり凍死してしまうようなこともある。
先ずは酒類業界、全国大学生活協同組合連合会、ご遺族と私達のような予防活動をしている団体で一緒にやろうと言う形になりました。
でもまだまだ事故が起きていました。
1985年とんねるずの「一気」という歌がはやって、深夜のTV番組などで一気飲みコーナーなどががんがん飲んだりしてひどい状態でした。
ブームが去ったのかなと思ったが、一気飲みは浸透していきました。
アルコールハラスメント、人権侵害であると言う事で2000年からはアルコールハラスメントに関する注意喚起をしました。
2011年に大震災があり、コンパなどが自粛の時代で、1年後 2012年に又救急搬送が沢山あり、何件も事故が起きました。

1990年代、首都圏の旅行サークルの合宿で専修大学の1年生が参加して焼酎の一気飲みをさせられて亡くなっています。
同年早稲田大学の寮でウオッカの一気飲みで亡くなっています。
1996年に千葉大学新入生の勧誘コンパで焼酎の一気飲みをさせられて亡くなっています。
同年大同工業大学、ユースホステルサークルで日本酒と焼酎のブレンドの一気飲みで亡くなっています。
他に熊本大学医学部ボート部で1999年に焼酎の早飲み競争で、2008年に神戸学院大学ユースホステルサークルの幹部交替で焼酎の4リットルの回し飲みで亡くなっている。
アルコール度の強い酒の一気飲みで亡くなっている。
そのほかの大学でも飲み会で多く亡くなっています。
企業の寮でも同様な事例があります。

熊本大学医学部ではOBのドクターがいるような状況で新入生の歓迎コンパが行われた。
居酒屋で先輩が携帯、財布など預かる。(先輩から言うと酔って無くしたりするといけないので親切でやったということだが、新入生にとっては逃げられない状況 )
酔い潰れた子を運ぶ部屋を用意していた。
新入生は焼酎の早飲み競争をやらされ(新入生がたくさん飲まされるような仕組みで)1時間ほどの間に25度焼酎を8合以上飲まされた。
なかには病院へという指示もあったが、潰れ部屋の方に連れて行ってしまう。
潰れ部屋で巡回して見周りはしていたらしい。
病院に連れて行こうと言う頭をよぎった学生もいたが、また躊躇してしまった。
急性アルコール中毒による、喉に吐いたものを詰まらせたということで亡くなってしまった。
生きている側の学生は口をつぐんでしまう。
裁判に訴えるということになる。
嫌疑不十分ということになって不起訴になる。
民事訴訟で1審で負けてしまい控訴して、安全考慮義務違反と言うところをとって責任を問うと言うことになる。
最高裁まで行って勝訴ということで決着はついて行っています。
大きな一歩でした。

親御さんと活動をしてきましたが、胸がつぶれる思いです。
「なんで潰れ部屋に運んだのか、もし置いていってくれたら店の人が救急車を呼んでくれたと思う。」と言っていました。
助けられない場所に入れられてしまったと嘆いています。
体育系もあるが美術系などもあります。
集団の力は怖くて、先輩後輩、集団心理などで、役割をやらされていたと言うんです。
退学処分になったり、部の廃部、自責を背負っていかなくてはならない。
活動を開始した当時は、大学側も積極的に動いてくれない状況だった。
神戸大学では部活動のリーダーの研修がありました。
医師、大学事務当局から飲酒事故への注意がありました。
今は未成年には飲ませないと言う事で、1年生には飲ませないと言う形が出来てきています。
大学だけでは手が届かないないところもあります。
お断りグッツ等の展開もしています。
「かっこ悪くてくてもいいから逃げなさい」と言っています。
お酒だけがメインで沢山飲ませると言う様な設定があるところ、保険証を持って来いと言うようなこともありますので吃驚します。
潰すことが前提になっている様なところは怖いです。

絶対に酔い潰れた人を一人にさせない。(面倒をみる人がいない状態にはさせない。)
衣服を緩めて毛布等をかけて体温低下を防ぐ。
横向きにして自然に口の中の物を出るような体位を取る。
酔ってない人がちゃんと様子を見ていないといけない。
呼吸中枢が危なくなっている時には、一刻も早く救急車を呼ばなくてはいけない。
絶対に起こしてはいけないと言う気持ちで、このキャンペーンをやっています。




















2018年11月9日金曜日

五味太郎(絵本作家)           ・みんな、人生楽しもうぜ!(1)回目

五味太郎(絵本作家)           ・みんな、人生楽しもうぜ!(1)回目
1945年 東京生まれ、73歳、工業デザイナーを経て28歳で絵本作家としてデビューしました。
手掛けた絵本はおよそ400冊を越え、30年間読み継がれるロングセラーも数多くあります。

昔ポルシェに乗っていて、講演会などに飛ばしてきたが、絵本作家らしくないと言われたが、じゃあ絵本作家とはどういうイメージなのかと言いましたが、電車でとぼとぼ来るような感じだと言われましたが。
ラジオは好きです。
TVは出ると色々めんどくさくて嫌いです。
明け方まで仕事をするタイプなので、どうしても起きるのが昼近くになります。
絵を描いている時に、夜中微妙に筆の音とか紙の音とか耳触りになる時があり、色を塗る時などにはジャズなど音が流れるのがいいです。
言葉を考えるときは、音楽は鳴っていない方がいいなあと思います。
こんな感じを書きたいなあと思う時は直ぐ浮かびます。
纏める時にはあれっと思うようなことが必ずあります。
思い付きは大事にしています。(とんでも無い時に出てきます。)

40年というと、時代の価値観とか色んな意味で変わります。
自分の中に何かあるものをずーっと考えているタイプなので、社会的な問題を描いたものは一冊も無いですね。
手掛かりは日常的なもので、組み合せの中でこれいいとか、組み合わせを楽しんでいるんだと思います。
「絵本図録」を出版、厚さが2cm位。
企画があった時にめんどくさいという思いと、纏めるとまずいと思ったりしました。(全貌を見ない方がいいのではないかと)
全貌を見てしまって、描きにくいなあと思いました。
次に進んでいますが、この前よりも素直でないなあと思ったりします。
1973年 28歳のころ、絵本作家としてデビューしました。
工業デザインは実践的な感じがあって、今も興味がありますが、自分には向いていない部分がありました。
インテリアのデザインなどもやっていましたが、印刷は本を大量に作るので、作るそのものは個人の思いの方法のまま定着出来ていいなあと思いました。
本を出版するのが良いなあと思いました。
みんながチェックして編集会議をやって、読者はどういうふうなものをもとめているとか、工業デザイン的にやっている本もあります。
小説を作る時にそんなことを言っていたら、面白くもなんともない。

絵本も売ろうと思うとみんなが何を求めているか考えるが、僕から見ると工業デザインの作り方の悩み方と同じだと思いました。
絵本=子供の本というイメージがあるが、子供達に何を教えたいんですか、子供たちに何を導きたいのかと言われたが「無いんです」と言っていました。
私は絵で本を描きたいと思いました。
絵だからどこでも通用するんだと思います。
文字はどうしても方向が規定されたり、限定されてしまうが、絵は限定できない、観る人の問題となる。
気配、気分、温度とかは読み手の問題だと思う。
絵本を作っていることは楽しいです、好きなんだと思います。
のんびりダラッとしているのが下手なんです、本を描き終わって編集者に渡ると、やることがなくなるのでがっかりしてしまいます。
気が付いたらこんなに書いてきていました。
自分ではよさそうだなと思っても違ったり、本の反応は判らないです。
意見ではなく気分を伝えたい、体調を含んで気分を整えておく事にめちゃくちゃ努力していることはあります。













2018年11月8日木曜日

荒井伸也(元スーパーマーケット社長・作家) ・"社畜"から抜け出せ

荒井伸也(元スーパーマーケット社長・作家) ・"社畜"から抜け出せ
81歳、1960年大学を卒業して大手商社に入社した荒井さんは人事部で仕事をしていましたが、大きな組織の中で手ごたえが感じられませんでした。
燃えるような仕事ができないかという事で荒井さんが見つけたのは、当時赤字が続いていた子会社のスーパーマーケットでした。
自ら進んで手を挙げた荒井さんは出向し、従業員と対話を重ねながら赤字を克服、大手の食品スーパーマーケットに育て上げました。
親会社の商社からは再三戻るように声が掛かりましたが、これを断り、スーパーマーケットの社長を務めました。
荒井さんは小説も執筆し、「小説スーパーマーケット」は映画「スーパーの女」の原作にもなりました。
子会社での生き方にこだわり、赤字から脱却させた経営手腕とは、小説で訴えようとしたことはなにか、伺いました。

昭和35年(1960年)大手商社に入社しました。
大手商社に入ると海外に行けると思いました。(英語、フランス語が出来たので)
総務部、人事部で衝撃を受けて、そのまま10年間人事部にいました。
女子社員の教育は知的生産があるが、もっと仕事がしたいとうつうつとしていました。
何か面白い仕事がしたいと思いました。
「社畜」、サラリーマンが会社に飼われた家畜みたいになっちゃっているんです。
自分自身が社畜の様で、面白くなかったです、何のために生きているのかと思いました。
苦労してもいいから、面白いことをやりたいと思いました。
街中で、すぐそばの店を通り過ぎてわざわざ遠い店に行くお客達がいて、どうしてなのかと問いかけると、生鮮食品の鮮度がいいということでした。
その店を見に行き比較しました。
鮮度の違いが明確に判りました。
自分で試してみたくなりました。
会社に願い出て、子会社に行くことを決意しました。
当時は子会社に行くと言うことは、サラリーマンのなれのはてで、小会社に行ったらもうおしまいという意味でしたので、子会社に行くことをなんとか避けたいと言う時代でした。
親友たちは止めてくれましたが、結局行きました。

商社がスーパーに進出した第一号なんですが、黒字にならなくて 7年間放っておかれました。
管理職が自分の時代に赤字を出したくないので放っておかれていた。
仕事ぶりが全く駄目でした。
意志を伝えることができない、ちゃんと聞いてくれない所でした。
バックが大商社なので潰れないと、15店舗までの拡大がみとめられていたなど、危機感が無かった。
商品の鮮度も全然駄目だった。
どんないいものを出しても2,3日たてばどんどん鮮度が落ちて来る。
色が悪くなったり、日付が古くなるとパックをやりなおして、日付を新しくしていたので、それを全部なくそうと提案しました。
鮮度を保つための技術、冷たい空気の流れを作る事が重要だが、使っていたケース自体に問題があり、ケースを入れ替えることまでやって何とかなりました。
ケースの性能、陳列の仕方、出し方が重要。
商品の流れをつくる難しさがある。
ベテランはなかなか聞いてくれないので、従業員の若い連中と仲良くなるようにということで、毎晩飲んで話をして仲良くなりまして、段々話を聞いてくれるようになりました。

技術的問題と人間的問題の両方を並行して解決しないと良くならないので、かなり気長にやりました。
関西のスーパーマーケットに行って見て、鮮度が良くて、なんとかコンタクトを取って親切に教えてもらいました。
数年間経ってから売り場が良くなってきました。
モニターの方から色々教えてもらって、問題点を克服してゆき良くなってきました。
黒字になったのは4,5年でした。
スーパーマーケットの難しさと面白さを体験しました。
親会社としては良くやったと言う事で戻って欲しいと言うことで、厚遇を示してきました。
現場の方が面白いと思っていたので、抵抗しましたが、ついに戻される方向に行きましたが、親会社を辞めてスーパーマーケットに飛び込んでいきました。

安土敏というペンネームで小説を書きました。
「小説スーパーマーケット」
日々の人間関係の体験が色濃く反映されている。
中学の終わりごろから高等学校ではうんと書きたいと思った。
現場に行くと現場の数だけ書ける。
一番下の人の情報を中間、上に出来るだけいい形、理解できるよう形に持ちあげると言うことがすごく重要だと思っています。
映画「スーパーの女」の原作にもなる。(伊丹十三による脚本・監督作品。)
私はスーパーマーケットに出会えてよかったなあと思います。
お客様が求めているのは、例えばスーパーマーケットに求めるのは今晩のおかずだとか、明日の弁当の事とか、それが何なのかと一生懸命考えればおのずと答えは出て来ると思います。
目の前の問題を一つずつ解決していけばそれでいいんじゃないかと思います。
現場の問題を変えようと思ったら現場から出発するしかない、だから現場が面白いし現場を経験することが大切だと思う。