2017年5月24日水曜日

河瀬直美(映画監督)       ・届けたい まっすぐな光を

河瀬直美(映画監督) ・届けたい まっすぐな光を
48歳、1997年に劇場映画デビュー作「萌の朱雀」でカンヌ国際映画祭で新人監督賞を2007年の「殯(もがり)の森」で審査員特別大賞を受賞しました。
河瀬さん自身が脚本を手掛けた最新作「光」が現在フランスで開催中の第70回カンヌ国際映画祭の最優秀賞パルム・ドール(Palme d'Or)を競うコンペティション部門にノミネートされ注目を集めて居ます。
今年は「萌の朱雀」から20年の節目の年、映画に掛ける意気込みと故郷奈良に寄せる思いを伺いました。

「光」は徐々に視力がなくなってゆく男性カメラマンと音声ガイドを製作している女性が心を通わせてゆく物語。
字幕などは日本語の意味合いが英語に無かったりして、そんな中言葉の選び方が思い入れのある人たちだなと思って、音声ガイドはどのぐらいの歴史があるのかと思ったら15~20年ぐらいしかなかった。
こんな人たちがいると言うことを知ってもらった方がいいのではないかと思って映画にしたいと思いました。
音声ガイドは映像を言葉で説明してゆく。
セリフは映画の中で言ってるのでいいが、部屋の状況などを説明したりするが、答えのない世界で四苦八苦している。
今回映画を作るにあたって視覚障害の人などに取材を重ねて行くうちに、町で見る接していない時のイメージと実際に接して観ると、前向きで明るくてと言う方が居て違っていて、私たちの方が気付かされることが多かったです。

生れ付きの先天盲と中途失明の方が居て、先天盲の方が私達の中にイメージとしてあって聴覚が発達してゆくとか言われるが、途中まで見えて居た人が見えなくなる人の方が見えて居た時のことに凄く執着があって苦悩されている。
そこから前向きな自分に成るまでには時間がかかる。
苦脳して自分の役割を見出すことができなくて心がすさんできたりする。
主人公雅哉は眼を使った仕事をしている、それを奪われると言うことは自分の人生が終わってしまったかのような思いをする。
雅哉はどのように前を向いて生きて行くのか葛藤がある。
具体的ではない何か「光」があるのではないかと思う、心の奥にある光の世界。

1969年生まれ、48歳になります。
40歳ぐらいから自分の役割を考えるようになり、次の世代に繋いでいかなければいけないものがあるのではないかと思うようになりました。
子供は今年中学生に成りました。
私は空想癖の或る子供でした。
両親と一緒に暮らしていたことがなくて、父親を知らずに育って、母方の遠い親戚の老夫婦のところに養女として育てられました。
自分を見るもう一つの目を小さいころから持っていたのではないかと思います。
近所に同世代の子がいなくて、一人ぼっちになってしまうので、一人で遊んだらいいと養父(おじいちゃん)から言われました。
養父は自然の中で育った人でそれに影響されて、自然、季節を感じるような日常を過ごしていました。
養父は県庁に勤めて居て、とにかく規則正しい生活をしていました。

自分にとって映画、TVは遠い世界の話でした。
高校卒業するときに、このままいい大学、いいところに就職をしてゆくことが楽しいかなと思ったらあまり楽しくなさそうだなと思って、もっと決められていないけれど楽しい世界があるのではないかと思って、自分で自分でしか作れないものを作って生きていけたらいいなあと、いずれ死んでしまう時にそれが後悔しない生き方なのではないかと考えました。
たまたま映像、映画、その時間を切り取りたいと思いました。
入った学校が映画が盛んでした。
映像の持つ力は今ではない時間を今に持ってこれると言うのは、初めて学校で8mmフィルムを撮影し、現像から上がってきた映像を見たときに物凄く驚きました、タイムマシンを手に入れたように思いました。

両親と暮らしていなかった事に対して、養父母と楽しく暮らしていたので寂しいとは思わなかった。
そのあと映画を撮り始めて、寂しくはなかったが父とは逢いたいと思っていたので、逢いたいと言う気持ちを友達など近い人たちに伝えたが伝わらなかった。
映画にしたら物凄く共感してくれて私を見る目が変わり、友達と深い話をするようになった。
これから先に出会う人とはもっと深い関係をつなげていける可能性があるわけで、過去の寂しさよりも未来の喜びの方に目を向けた方がいいじゃないですか。
この映画を撮るにあたって悲しみを見つめようとしたのではなくて、そこから先を見つけたかったからそれに眼を向けたんです。
時間って、わたしたちの中にある様でないのではないか、過去は記憶の中にあり、時間は時計が生み出しているが、実際それってあるのかなあと思います。
生も死も越えた輝きがあるのではないのかと思います。
命、魂とかは人間が言語化できたり、認識して記憶できたりするから一番すぐれた生き物のように思われるが大きな木、大地、空、星等もそういうものを持っているかもしれない。
わたしたちが計り知れないものがあるなあと思います。

なんで奈良に生まれ落ちたのかなあと思いますが、1000年の歴史の息吹が自分の中に入り込んで、そういうスケール感のある考え方に成っているような気がします。
1000年前の人が万葉集で好きな人を思ってこの川のことなどを詠んだんだと思うと、スーっと1000年の時が繋がるんです。
私の撮った映画もそうなんじゃないかと思います。
2007年の「殯(もがり)の森」で審査員特別大賞を受賞し、2010年が平城遷都1300年記念、それから7年たっているが、地元の社長さんたちが協力してくれて映画祭をやろうと言うことに成って1回目終わったらほとんど辞めてしまって、やることが大変で、(カンヌでも同じで、)2回目でもやろうとして同世代の人たちがやって、海外のゲストが話題にしてくれました。
日本人のおもてなし、アテンド力は心があるんです、これが評判になって3回目になり、4回目をどうしようと言うことに成って大きくしようと言うこともあったが、そのままの規模でやることになりました。
奈良市が助成金のカットをしてしまって、開催まで半年の時で、規模の縮小なども考えたが時間がなかった、そのニュースが流れた時にこれまで以上の協賛が集まりました。

奈良では新しいことをするのなら奈良をでて行った方がいいといわれるが、ここには歴史と文化があり万葉集に歌われている川や山があり、これはにわかにお金で買おうと思っても買えないもので、これを今の時代のニーズに合うように継承していって宝物に変えて行くことはできるのではないかと思っている。
奈良では自分が出来る役割をやっていこうと思っています。
私にしか作れないものを作っている、それがユニークと言うか、とことん人と人とのつながりを描くとか、家族のありようを描いたりとか、目に見えないもの、そういったつながりを具体的なストーリーを通して描くことに共感していただくことが多い。
誰しもお母さんから生まれ、家族があり、離れてしまったり不幸な関係に成ってしまうかもしれないが、元をただすと決して一人ではなく、必ず誰かとコネクトしている、根源的な事を描いている事だと思います。
映画は表現なので誰かが評価するので、審査員のまなざしとどれだけ共有できるかということなので運とか縁とかそういうものが物凄く影響するのですが、「光」は私は世界一の映画だと自分では思っています。




















































2017年5月22日月曜日

中村仁樹(尺八演奏家)      ・【にっぽんの音】

中村仁樹(尺八演奏家) ・【にっぽんの音】 

中村:34歳に成ります。
能楽師狂言方 大藏基誠:尺八界のプリンスといわれていますね、私は25歳のころは狂言界プリンスと言われていましたが、最近は呼ばれなくなりました。
吹いている姿吹き方がきれいだなと言われますね。
中村:日本舞踊は習ったこともあり、お茶も小さい頃やっていて物の扱い方の基本みたいな事は勉強しました。
尺八は道具と云うよりも楽器と言いますが、竹と言ったりもします。
尺八は乾燥しすぎると割れてしまうし、湿気を含み過ぎても普通の場所に行っても湿度の差でわれてしまうので一定にしておきたい。
海外にいっても息を吹き込んでからしまったりして大事に扱えば割れることはそうないです。
日本の音と言うと響き豊かなさわり(障り)の音ですね。
*(尺八で表現 いろんな音が立ちあがって行く)

大藏:祖父が言っていたが「あってあわすの間」狂言もお囃子に合わせて謡いをうたうときがあるが、若干ずらした方が面白いという美学があります。
中村:日本音楽の場合はそれぞれの楽器が個性的なので、それぞれソロで聞かすために発達したものでもあるので、西洋の楽器よりも主張の強い音だと思います。
尺八の一番の魅力は日本独自の風の音を表現できるところ、それがわびさびを生む。
*(尺八で表現)
こういったものを曲に盛り込んでゆく。
尺八の穴は全部で5つあります。(民謡の音階)
これは小さい穴が2つたされていてドレミファが出せます。

プラスチック、竹の材質の差 音の硬さ、抜け、響き方が違います。
プラスチックは1万円、実際にある素晴らしい楽器を型取りして作ったものなので音もいい音が鳴ります。
楽器もあらゆるメーカーの楽器も試して、そのなかにプラスチックもあったと言うことです。
尺八は40本ぐらいありますが、実際に使うのは15本で全部竹でできています。
柔らかい材質は柔らかい音が出て、硬いものは硬い音が出ます。
長さが長くなると低い音が出ます。
近くで聞くとあまり違わないが、コンサートホールなどで遠くで聞くと音が違います。
*「祈り」を演奏。
この曲は兄の結婚式のお祝いのために作った曲です。
頭の中をまっさらにして、兄を思う、故郷を思うと言うような形でピュアな気持ちを持って作ります。(作るモードにしておく)
作ったのは100曲ぐらいになります。

作曲できると言うのは一つの強みだと思っています。
機材を自分にあったものを集めたりしています。(マイクとか)
小学校3年生の時に父親が尺八を吹いていて、その時に初めて接しました。
17歳のころまでに、クラシックピアノなどをやったり、エレキギターをやったりあらゆる音楽を聞いてきていたが、日本のものは無かった。
高校のころ父の尺八で吹き始めて、お琴もやっていていました。
3年生の時に東京芸大に行こうと決めました。
大学では師匠と1対1でお稽古を週1~2回やって、音楽や普通の国語英語などの勉強をしていました。
尺八で有名な曲「鹿の遠音」が一番有名です。
尺八は1500年前ぐらいに伝わったと言われていて、「越天楽」とかの宮中の楽部の楽器の一つとして吹かれていて、そのあとで雅楽の楽器ではなくなって、また中国からお経の称名にふしをなぞるために再輸入されてきて、700年ごろと言われて居る。
普化宗(虚無僧)が吹いていた。
禅の修行の一環として尺八を吹いていたといわれる。
法具として使われていた。

*「鹿の遠音」 (本来20分以上かかる。)
秋深い山奥で鹿と鹿同士が呼び合う様子を描いた曲。
江戸時代中期の頃の作品で口伝だったが明治期に普化宗が廃宗になったので残そうと言うことになり譜面に書き残しました。
いろんなところで僕の曲が僕の演奏で、流れるようになってくれればいいなあと思います。








































2017年5月20日土曜日

祖田修(京都大学名誉教授)     ・野生動物による被害と向き合う

祖田修(京都大学名誉教授)   ・野生動物による被害と向き合う
77歳、京都大学で農学を教え福井県立学長を最後に退職、京都府の南山城に古民家を見つけ、週末に通って農業を始めました。
7年前70歳の時でした。
研究者として各地の農村を調査し、鳥、獣などによる被害を目の当たりにした祖田さんが今自ら鳥獣害に悩まされています。
野生動物による被害の実態と日本の農業が直面する問題について伺いました。

この家は新聞広告に紹介されていて、ピッと来てここを選びました。
土地の広さはテニスコート3面分ぐらいあります。
4家族14人分の野菜を自給できないかと思って、作っています。
長持ちするものを基本に20数種類作っています。
農家に生まれて2町歩を超える農地があったので、農作業は経験をしています。
農業をやるようになって或る日、鹿が出てきて色んなものを食い散らしていて、畑がずたずたになっていました。
おもに猪と鹿が出てきます。
鹿は柔らかい部分が好きで一口ずつ食べるので野菜が全滅してしまいます。
村の対策としては山側に防止柵をしてあったが、道路側から入ったり、そちら側も柵を講じて居たが、柵を越えたりしてもしています。
池に鯉を飼ったりしていますが、鷺がきて、上手い対策が出来ずに鷺に負けました。
茶畑があるが鹿、猪は興味がないので動物の被害にはなっていません。

農林経済学のなかの農学原論(農学の哲学)地域経済論をやっていました。
国内だけでなくアメリカ、オーストラリア、アフリカなどにも行って農業を調べました。
農業改良普及員の方が自ら中山間地の農業の在り方を見えるようにしたいと稲作、栗園、シイタケ、林業、牛の飼育などを始めたが、1960年代の末ごろから熊、猿、猪が出ると言うことで経営が崩壊に近い状態に成り、鉄砲を撃ったりしていた。
補殺に対して最初に補助金を出したところですが、全国的に鳥獣害が問題になって来ました。
北海道は鹿の対策をしていて、或るところでは400kmの柵をめぐらして、人間が檻の中で暮らすと言うことでここまで事態が深刻だとは思わなかった。
岐阜県の和良町では「いのしか無えん策」(猪、鹿、猿)として、街作りを始めて特産物をうみだしたりしています。
針金のメッシュ、電気を流したり、ひらひらするものを付けたり、いろいろ工夫をしています。(鹿、猿、猪などを一気に追い出したと言う実績がある)

三重県の或る地域の場合、村全体で団結して猿を見ると追い返して、それを徹底的に繰り返して、領土意識をしみこませて来ないようにした。
香川県讃岐市、徳島県神山町などでは山と田畑の間に干渉帯を設けて木を切って空間を作ってそこに牛、羊、山羊、犬などを放して防止するなど全国それぞれの地域の考え方で対策しているが、全国では被害は200億円に達している。
被害のために意欲を無くして農業をやめてしまうと言うことがありこれも問題になっています。
昔は動物は山奥に、人間は里山を含む農業空間にお互いに棲み分けをしていたのではないか、そして頭数も少なかったのではないか。
最近は山を利用しなくなったために住みかを広げて、家の近くまで来るようになって、そこにはおいしいものが山ほどあり一遍この味をしめてしまうと、鳥獣害があっという間に広がっていったと思います。

神戸市では猪に襲われ怪我をする。(人身被害)
六甲山系があり、また瀬戸内国立公園では鳥獣保護区に成っており、動物を撃ってはいけない。
神戸市は条例を作って、被害を最小限にするために、犬にほえないように指導するとか、ゴミ置き場は網をかぶせるとか、餌を与えないとか、被害を最小限にするための条例にしました。
捕獲も対象に入って年間700~800頭と言うことで大変な数に成ります。
全国での推計値 日本鹿=約300万頭 猪=約100万頭 
生態系が崩れる可能性、人身被害、農作物被害があるので、現在の猪、鹿については半数に持っていこうと考え方が変わってきた。(農水省、環境省)
捕獲の鹿、猪の肉、皮などを利用できないかという事で、地域振興を含め色々考えられている。

新しい動物観、自然観が必要なのではないか。
食べるということは人間が持っている宿命の様なもので、畏敬、祈り、感謝これらのものがなえ混ざった「いただきます」「ごちそうさま」という気持ちが必要なのではないか。
これが原点となった新たな動物観が形成されてゆくことを望んでいます。
消費者の方には食料の安全、保障、農業の人為的でないどうしようもない農業の条件を考えていただいて、50%とか守るべき農業の下限というものがあるのではないかと考えて居て国民の理解がもっと広がってほしいと思います。
人間と動物を含む地球温暖化の問題とか、人間と自然と言うことについて私たちは考えて行くべきだと思っています。
動物と人間の適切な折り合いを見つけ出すということが必要だと思います。


























2017年5月19日金曜日

神田紅(講談師)          ・“万芸一芸を生ず”に導かれ

神田紅(講談師)       ・“万芸一芸を生ず”に導かれ
1952年生まれ、今年芸道40年を迎えました。
福岡から東京にでて女優の道を歩んでいた神田さんですが、師匠である二代目神田山陽さんとの出会いが人生を大きく変えました。
講談の世界に入った神田さんは精進を重ね、平成元年に真打ちに昇進し、明るく楽しく判りやすい芸風で、古典から創作ものまで幅広い作品を演じ人気を博しています。
現在は紅一門を率いながら日本講談協会会長を務める神田さんに伺いました。

昭和54年講談の道に入りました。
女優時代2年、講談が38年に成ります。
福岡県で生まれて、1歳に成る頃に福岡市内に移りました。
受験の途中に大失恋をしまして、方向転換をしました。
自分はいったい何をすればいいんだろうと思って、TVを観ていたら美輪明宏さんが「よいとまけけの歌」を歌っていて、歌手か役者を聞かれて、役者ですとおっしゃった。
私は吃驚して、人間は寿命はあるが役者と言う仕事をすると、役の人生を生きることが出来るので人の何倍もの人生を体験できるとおっしゃったので、これだと思いました。
役者をやれば色んな人生を体験できて本当は何をやりたかったのかが判るのではないかと思って役者になろうと、早稲田大学に行き勉強はほとんどせずに、演劇研究会というクラブで演劇をやりました。
文学座が入りやすい雰囲気だと思ったので大学2年の時に文学座に入って、大学は休学して、勉強したが上の研修科に残れなかった。(100人のうち10人が残れる)

納得がいかなくて聞きに行ったら、或る先生が間違えていたようだった。
演技さえきちっとしていれば認められると思っていたが、日常の自分のアピールをしっかりしてやらないと、こういうことも遭遇するんだなあと思いました。
間違えられた子は出席率が非常に悪かった。
自分をしっかりアピールできる人間にならないといけないと反省しました。
中村敦夫さんのプロダクションに入り、一生懸命やりました。
市原悦子さんの付き人を2年やらせていただきました。
三味線、日本舞踊、タップダンスなどありとあらゆる事をやっていました。
その当時は「中原鐘子」と云う名前でした。
舞台はいろいろやらせていただきました。
踊りはそこそこできましたが歌は下手でした。
器用貧乏で存在感がない感じでした。

仕事がなくてどうしようかと思っていたときに、舞台の音楽家の先生に講談やってみないかと言われて、神田山陽師匠(69歳)を紹介されました。
台本は漢字だらけでよくわからなかったが、2月に入門して4月には舞台でした。
タップをしてのミュージカル講談 「ヘンデルとグレテル」というのを作ってタップを踏んで演じました。
師匠からは表現方法は自由でいいよと言うことで、不思議な舞台が出来上がっていきました。
「ようやく、つ離れしました」と言うのが、その当時の本牧亭の講談の定席の人数だった。(九つ以上 即ち10人以上)
伝統芸の間に隙間が入って、女性も入ることが出来てすこしでもお客様を呼ぶことができたと言うのが師匠の狙いだったのではないかと思います。
師匠はとにかくほめ上手だった。
いない時に私のライバルをけなす訳です、そうすると師匠は私の事をわかってくれているなと思ったが、或る時にライバルがけいこ中に「紅君はここが駄目だけどその点君は素晴らしい」とおっしゃっていて上手い教え方だなあと思いました。

師匠は「万芸一芸を生ず」と云う事を座右の銘にしていました。
師匠は色んな事をやったことが一つの芸に集約されていくから、それが私の生き方でありそれを一番体現しているのが弟子の紅だと言うことを書いてくれたりしてくれました。
師匠は恩人です。
平成元年に真打ちに昇進、師匠が落語芸術協会に入れてくれて、会長が桂米丸師匠でした。
最初踊りなどでしたが、その後一本立ちして一つの話芸として、講談として入れていただきました。
落語の様に笑いを入れるようにとは師匠から言われました。
でも最後は腕だよとは師匠は言っていました。
女の芸人は歳を取って行くとどう考えたらいいのかを玉川スミ先生に聞いたら、「歳、そんなものは忘れるのよ」と言われました。

2000年に師匠がなくなって、神田陽司君が一番弟子に成り、もみじが翌年はいってきました。
なかなか弟子を育てることは思うようにはいかないが、それぞれの個性を生かすように考える様にしました。
人を育てると言うことは物凄く自分の勉強に成ります。
講談を辞めたくなると思うようなときに弟子が入ってきて、じゃあ頑張らなければいけないと思う訳です。
師匠に恩返しするのには落語と肩を並べるぐらいになれればいいなあと思いましが、それにはまず弟子を沢山育てないといけないと思います。

師匠(91歳)が亡くなり、陽司君が去年亡くなり、何かやってあげられなかったのかと悔しい思いがあります。
師匠の手拭が師匠だと思って高座に上がりましたが、陽司君が去年亡くなり、健康が一番だと思います。
健康を維持しないと弟子は育てられないので健康には気をつけて居ます。
日本講談協会、講談協会に東京は組織が分かれて居て、私の方の日本講談協会は20人で、講談協会は43人、総勢63人でそのうちの40人が女流講談師です。
23人の男性のうちほとんどは私より年上です。
落語家がブームに成り、落語は女は無理と言われていて、講談ならいいと言うんです。
講談は少しは笑いを取り入れると言う意味では、女性の方が講談には向いているのではないかと思います。

男の声で聞きたいと言うお客さんも多くなってきていると思います。
女性が今後も活躍して行くためには、題材、テーマとかを男の人ではないものを追求していく必要があると思います。
講談の全盛期は江戸末期から明治、大正期で、古典の数が多くあるが、大半が語られなくなっているので、それを復活して世に出してゆくことと、創作講談もやっていきたい。
歴史は嫌いだったが、歴史の面白さが判ってきて、歴史の楽しさを伝えていきたいと思っています。






























2017年5月17日水曜日

西村和子(俳人)          ・子育て俳句で悩みを分かつ

西村和子(俳人)     ・子育て俳句で悩みを分かつ
女性がせっかく俳句を始めても子育てで中断してしまうのは残念だと、若いお母さんたちを対象とした句会を 9年前スタートさせました。
会の名前はパラソル句会、自らも2児の母で子育て中に作った「日傘より帽子が好きで2児の母」と言うお気に入りの句からこの名前をつけたそうです。
毎月1回土曜日の午後に池袋で開かれるパラソル句会には東京都内は勿論群馬、千葉など関東一円から子供連れのお母さんたちも参加して、好きな俳句を通して子育ての悩みなど互いに話し合って心が満たされると好評です。
必死に子育てに奮闘するお母さんの句は子供たちに注がれる愛情にあふれて心いやされる句が多いと西村さんは言っています。
結婚、出産、育児と女性の先輩として俳句を作り続けてきた西村さんに、子育てに奮闘しながら俳句作りに励む若きお母さんたちへの応援歌を伺います。

俳句を始めて半世紀に成ります。
中学高校のころから少しづつ作っていましたが、大学に入ったときにクラブ活動に入ってそこから真剣に作り始めました。
楠本憲吉さん、清崎敏郎さんなどの大先輩でいまして、その方たちから熱心に指導して頂きました。(40歳台でした)
週に2回ぐらい句会をしていました。
結婚しても普通に今までのペースで句会に出て居ましたが、子供が出来ると句会にはなかなか出られなくなりました。
辞めようと思ったが、いろんな先人たちの俳句を詠んだりしていました。
「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(捨てっちまおか)」という竹下しづの女の句をみて、赤ん坊は良く泣くので、乳ぜり泣く児はおっぱいが欲しくて泣く児、そんな児を捨てちまおうかと母親の本音の心が出て居る句は無いと思いました。

その句が呼びかけてきたような気がしました。
可愛いとか嬉しいとかだけでなくて、子育ての時の本音を表すことが出来ると言う記念すべき句です。
「俳句のすすめ 若き母たちへ」という本を出版。
子供を授かった時の出産をめざす頃の俳句からその子が大きくなって結婚して、そのまた子供が生まれるまでの先人たちの俳句を集めて、紹介しながら私自身の思い出を描いたような本です。
そこには男性の句の方が圧倒的に多いんです。
その頃俳句をやっていた女性が少なかったのではないかと気付きました。
男性は可成りきめ細かく詠んでいます。
9年前、出版社が句会をやりましょうと言ってくれましたが、一般的に俳句をやっているかたは高年齢の方が多くて、20~40歳台は空洞の様になっています。
女性は子育ての時期には俳句を辞めてしまうし、男性もその頃は仕事が忙しくて俳句どころではないと言う時期です。

月に一度ぐらいは句会に参加できるのではないかと思って、「パラソル句会」を立ち上げました。
「日傘より帽子が好きで二児の母」を作って、名前の由来はそこから来ています。
清崎先生が「母と子の母の大きな夏帽子」を読んでくださって、それは一生の記念です。
俳句はその時の句を読むと凄く新鮮に思い出されます。
写真よりも俳句にしておくことは人生の記念になるのではないかと思います。
句会に出られない人たちが子供を連れても句会に参加できるように、子供をあずかってくれる会場を仲間が見つけてくれて、池袋で始めました。
インターネットでの句会も始めましたが、全国から来ます。
互選をして、オーソドックスにやっています。
句会に出るのには大変なので、1句も入らないで帰ると言うことのないように、5句からこれが一番いいと言うようにしています。

私が久しぶりに句会に出たときに「和子さん」と呼んでもらって、新鮮でした。
「春宵の母にも妻にもあらぬ刻」春の宵のほんの1時間程度ですが 自分自身に戻れる時間、それは大切な時間です。
井出野浩貴(俳人協会新人賞を貰っている)
「子が見つけわれに見えざる揚雲雀」(子供が見つけたことの嬉しさ)
「氷水父らしきこと言はざりき」(夏休み、勉強しろよとか言わない)
小澤佳世子
「怪獣の声もてなくよ風邪の子は」
松枝真理子
「昼寝の子少し大きく見えにけり」(寝ているときの子の方が大きく見える)
「キャンプから帰りてもまだ歌えけり」(キャンプの楽しさ)

西村和子
「泣きやみてオタマジャクシのような目を」 (この子はもう40歳過ぎてますが)
「風邪の子の力なき眼が我を追う」
「葱刻むこの嘘ゆるすべかりしや」(子供が嘘をついて、母親にとっては非常いショックな瞬間で、叱ったが、そのことで母親が叱る程の事ではなかったのかと悩む)
成長してゆく過程の句を集めるとアルバムの様になる。
子供の感動は大人が忘れて居たような新たな感動を教えられる。
もっともみずみずしい共感を覚えるのも、人生のその時期に差し掛かっている時だと思う。
それぞれの時期があり、人生のテーマは切り無くあります。