2019年7月18日木曜日

江幡千代子(ブックカフェ実行委員会代表) ・移動ブックカフェで交流を

江幡千代子(ブックカフェ実行委員会代表) ・移動ブックカフェで交流を
キャンピングカーに絵本を積んで移動しながらブックカフェを開いでいるブックカフェ実行委員会の江幡さんに伺います。
江幡さんは1944年昭和19年仙台市生まれ、75歳。
32年前に横浜市の北部に広がる港北ニュータウンに移り住みました。
交通事情が不便で文化施設なども整備されていなかったため、皆でいろいろなイベントをして街作りをしたといいます。
本の好きな江幡さんは図書館ファンクラブや読み聞かせなどの活動をしながら、自宅には絵本を集めてふわり文庫という子供たちの居場所を作るなど本を通してコミュニティー作りに取り組みました。
長年街作り活動を作り続けて来た江幡さんが始めたのは、キャンピングカーによる移動ブックカフェでした。
移動ブックカフェ、どのような活動なんでしょうか。

人気絵本は300冊ぐらいブックカフェの車に乗ってしまっていまして、ふわり文庫には400~500冊になります。
おもちゃもたくさんあります。
本の読み聞かせは強制的にやっていました。
自治会主催で実現できて感激でした。
子供会の参加が素晴らしかったです。
ブックカフェは今年の4月にスタートしました。
トライアルを含めると13か所になります。
お寺の駐車場、保育園、畑の中でもやりました。
チャコ村、チャコさんと呼ばれたおばあさんのところで、おばあさんが亡くなったあともおばあさんがやっていたことを引き継いで、お孫さんが週に5日間も地域の拠点を運営しているところがあり、そこでもやりました。
中学生から小さな子供まで大勢いて、紙飛行機つくりなどやったり、チャコさんの友人のおばあさんたちが南京玉すだれをやったりしていました。
みんなで楽しんでいてこんな場所があるのかと思いました。

オレンジ色のキャンピングカーに本を積んで3時間で読める量として300冊の絵本を積んで停まったところにカフェを開いています。
車には15人ぐらいは入れるようになっていて、読み聞かせ、紙芝居などもやっています。
親御さんが読み聞かせをやったりもしています。
オレンジ色のキャンピングカーは小田原の町工場の川田さんと仲間の人たちがものつくりの面白さを伝えたいという事で、町工場を体験させたいとキャンピングカーを改造して「出張町工場」というのが正式な車の名前です。
川田さんとの出会いがありました。
町工場で働いている人は高齢者、外国の人、障害者とかの人たちでした。
そういう人たちこそそれぞれの力を発揮すると、素晴らしい会社になるんだという信念を持っている方です。

会社を経営している小澤さんという方がいて、地域が活性化してゆく活動をやっている方で、その場所をお借りして川田さんをお招きして物つくりの体験を地域の子どもにしていただくという事でキックオフの日に決めました。
その運動にはいろいろな方8人が集まり推進力になりました。
ほかにチョイボラ(ちょっとボランティアをしてくれている高齢者の人たち)の人にも助けられています。
欠かせない重要な要素になっています。
子どもが学校に行っている若いお母さんたちも集まってくれて、本にコーティングしてくれて雨でも安心できるようになりました。
夫にもいろいろ手伝ってもらっています。
テーブルのデザインなどもやってもらっています。
ほかにも周りからいろいろ手伝ってもらっています。

出身は仙台市で港北ニュータウンが出来てすぐに移り住みました。(32年前)
ふわり文庫は2017年の1月に開設しましたが、その1年前に3人目の孫を亡くしてしまいました。(3歳でした。)
絵本が大好きでした。
孫が生きた証として、孫の好きだった絵本を子どもたちに読んでもらう場所をつくりたいと思ってふわり文庫を作りました。
「ふわり]の「り」は亡くなった「りさ」の「り」の名前が入っています。
ある写真をインターネットで見つけて衝撃を受けました、その写真から移動して子供に本を読むように届けることができるんだと思いました。
図書館を応援する活動を20年ぐらいやってきました。
図書館が広げられたらいいという思いがありました。
鹿児島県指宿で移動図書館を作って、その車を作るお金を集めて実現したいという活動を見つけて、これだと思いました。(クラウドファンディング)
154人の方が140万円寄付してくださいまして、活動資金を得ました。
長い間地域の活動をやってきたので、そういったことが集約されたのかもしれません。

『まちの教室」の活動がユニークでした。
『街の音楽会」も毎年やっていました。
「ジグザグ散歩」も月1回やりました。
緑区の区役所の呼びかけもあり、緑区探検ウオーキングのイベントも行いました。
川辺のコンサートもやりましたが、「川風フェスタ」という大々的なフェスタ会場になりました。
そういった活動が面白いという事で横浜中の街作りが集まる「街作りフォーラム」がありそれに私も参加しました。(都築区になったばかりの頃)
「この街しっぽまでおいしいよ」というキャッチフレーズを作りました。
この街に住んでよかったなあ、この街いい街だなあと思うような街にしたいですよね。
街はみんなでいい街にしたいと思っていかないといい街になっていかないと思います。
課題はたくさんあります。
資金、本を置く場所、新しい拠点などありますが、きっとそれをなんとか協力してくれる人が現れるだろうなあと楽観しています。
幾つになってもできると思います。
自分一人ではできないが共感する人たちが増えてくれば、どんなことも可能になっていけるんだろうと思います。
絵本は本当にいろんなことを教えてくれる本当に幅の広い世界なので、たくさんの人たちに届けていきたいと思います。
いろんな出会いを楽しみたいと思います。

























2019年7月17日水曜日

河野匡(日本陸上競技連盟強化委員会ディレクター)・【スポーツ明日への伝言】酷暑と闘う!ランナーたちの挑戦

河野匡(日本陸上競技連盟強化委員会ディレクター)・【スポーツ明日への伝言】酷暑と闘う!ランナーたちの挑戦
今回のオリンピックの陸上競技、特にマラソンの長距離種目は暑さなどとの戦いが予想されます。
マラソングランドチャンピオンシップとはどんな大会なのか、選ばれた人たちは暑さをどう克服してゆくのか、河野さんに伺います。

2000年のシドニーに犬伏孝之が代表になったときは2000年の2月に東京マラソンで代表が決まりました。
2016年のリオデジャネイロオリンピックで伊藤舞が代表になったときには前年の世界陸上で入賞して早々と内定しました。
1年間の準備も経験したし、あっという間に準備しなければいけないというようなことも経験して、マラソンはオリンピックでは花形ですし、注目度が高い、相当プレッシャーがかかるという事はどちらの場合もありました。
年々マラソンを志して世界選手権、オリンピックで戦おうとか、戦えるというイメージがどんどんなくなってきているというのはあからさまに感じました。
メダルから遠ざかっているという現状でした。
2017年の夏から今年の4月30日までの指定されたマラソン大会に出場して条件をクリアするとその選手だけを集めてさらにレースを行って代表を決めていこうと、マラソングランドチャンピオンシップと呼んで9月15日に行うことになりました。
強化プロジェクトとしては瀬古氏がプロジェクトリーダーをやっています。

国内でも戦うイメージよりも選ばれるためのレースというようなイメージに変わってきて、シンプルに競争して勝ったものが行くんだという形を今回は東京オリンピックにもっていく、それで戦う意識が選手に育っていれば、可能性は見いだせるのではないかと思って仕組みを変えていこうと思いました。
何か変えないと日本のマラソンは変わらないという思いの共通認識はできたと思います。
男子が31人、女子は12人のレースが予定されている。
2時間11分が世界ランキング30位程度、世界で戦うには2時間8分30秒ぐらい、女子では2時間24分程度になるような仕組みを作っていけば、それを越えないと次のステージに行けないので、段階を追うという事が今の世代にはあっているのではないかと思いました。
ワイルドカード 国際陸連が世界記録を公認するような大会などに参加 マラソングランドチャンピオンシップの道にいろんな登り口を用意したかった。

しっかりとしたマラソンの経験値を持った選手をスタートラインに並べたいという意見もあったので、仕組みの中に取り入れていったというのがマラソングランドチャンピオンシップです。

2時間5分台の記録が出てきました。
2015年から1億円の報奨金を日本記録に出したのが強烈な飴だったと思います。
マラソングランドチャンピオンシップは鞭の部分でそれが合わさって良い記録が出てきたのではないかと思います。
9月15日はいい天気であってほしいとまず思います。
レースは誰もが予想できないマラソンレースになるのではないかと思います。
スタート1km地点からは本番とほぼ同じコースになっています。
女子は世界との距離にある程度の距離を維持していた。
日本記録は出ていないが世界とそんなに離れていない。
女子は早いレースになるのではないかと思います。

本番は女子が8月2日、男子が9日、暑さとの戦いもある。
①選ばれた選手が暑さに得意なのか、苦手なのか、個性をどう判断するか。(体質)
②暑さのなかでのコンディショニングをどうやれば疲労を残さず本番を迎えられるか。(トレーニング期) 
③当日の天候にどう対応するのか。(本番)
2時間走る中で気温が30度を超えるとパフォーマンスが5%落ちる。
2時間3分で走る人が2時間9~10分のレベルになる。
今日本では2時間5分程度ですが、3%に抑えると2時間9~10分のレベルになる。
2~3%に抑えることができればメダルも見えてくると思います。
スタート時間が午前6時になりました。
温度もありますが一番敵なのは湿度なのかなあとも思っています。














2019年7月16日火曜日

石川九楊(書家・評論家)         ・書は芸術なり!

石川九楊(書家・評論家)         ・書は芸術なり!
福井県生まれ74歳、5歳から大人に混じって書道を習い始めました。
大学は子供のころから憧れていた弁護士を目指し、京都大学の法学部に入学しましたが、1か月でその思いが壊れ、大学の書道部で本格的に書道に向かうようになりました。
卒業後は化学会社に入社しましたが、その会社を11年務めて退社、その後は書道を中心に仕事をするようになりました。。
今の石川さんの作品は細かい線で描く幾何学模様のようだったり、四方八方に広がる緻密な線の表現だったりと、読めないといわれることことが多くあります。
2年前の7月に上野で「書だ、石川九楊」展を開き、青年期の作品から古典や最近の作品等展示して多くの人にインパクトを与えました。
作家としても活躍し100冊を超える書物を書き、「書の終焉」でサントリー学芸賞
「日本書史」で毎日出版文化賞、「近代書史」で大佛次郎賞などを受賞しています。
来月は名古屋で展覧会を開くことが決まっています。

今、90×65cmに2400字ぐらいの作品を作っています。
相当小さい字になります。
今日で5日目になります。
体調、気持ちが萎えてくるとやめて(1時間半ぐらい書いて)散歩などして、墨をすりなおしてまた1時間半ぐらいしてこれ以上持たないという事になると翌日にやります。
墨は放っておくと少し分離するので新しくその都度すりなおします。
気持ちが油断するとそのまま形になって現れますので気を付けます。
2年前の7月に上野で「書だ、石川九楊」展を開きましたが、見学者が多く僕も驚きました。
上野の森美術館の広さをうまく利用できました。
壁を作らずに広く見渡せるようにしました。
絵のような作品もあるが、自由に見ていただければいいと思います。
自分でもわからないところがありますので。
未意識に現れてきてしまうという、そこが表現の面白さだと思います。
83mにつないだ作品もありましたが、全部つなげたのは初めてでした。

1985年ぐらいからああいう風な形で書いてゆく段階に入りました。(40歳ごろ)
周りから読めないというように言われるようになりましたが。
書を見るうえで一番の失敗はなんて書いてあるかという風にアプローチする、そこから先が書の問題です。
「山」ならその人の山への理解、アプローチする角度、その人が使う意味とか、そういうものが全部出てきてしまうものだと思います。
作品が物語る、その作品の声を聴けばいいと思います。
例えば「言葉なんか覚えるんじゃなかった」という句があったときに、どういう風に書いたらその言葉と釣り合うようになるか、教わってきた上手に書けましたというようなものだとその言葉が逃げてしまうというか、辱めてしまうというか、それだったら活字でいい、どうやって「言葉なんか覚えるんじゃなかった」というフレーズを書として書けるか、書けないか、自分が一番響いてる言葉をどう書くかという事に腐心して、それを少しずつちょっとずつ何かが見えてくるものがあって、それを積み上げていったら、ついに普通に言えば読めない字になったという事です。

大人に混じって5歳から始めました。
小学校中学年になると賞をもらったりしてそれを励みに書きました。
中学は書道部に入り、先生が僕に大きな影響を与えてくれました。
褒められて書が楽しくなりました。
高校時代は先生とはそりが合わなかった。
展覧会とかに対して価値を持たない先生でした。
数学研究部に入りました。(幾何学が好きでした)
大学は書道部に入りました。
書いていくうえで手ごたえがありました。
10歳ぐらいに鉄道のストライキをやっているところに警察が来て理不尽な行為をみて、権力側とは違う形で役に立とうとおもって弁護士になろうと思っていました。
法律は法律に過ぎない、人間には法律以前の広大なルールがあって、それの方がとてつもなく大きい、それを抜きに法律を解釈することはつまらないと思いました。
いろんな状況があるときにそれを変える力には法律はならない。
司法試験に向けてはもうやめようと思いました。(入学1か月後)
残っていたのは書でしたが、何か世の中に役に立つことはしたいとは思っていました。

1967年に京都の化学会社に就職する。
大学の時に婚約をして食べてゆくために仕事をやる必要がありました。
働きながら書道はやっていました。
学問的に書をやる人と書を表現するところと二つに分かれてやっていました。
定年まで描けるか2,3年悶々としていたが、1978年に辞めました。(会社は11年間務める)
編集の仕事を頼まれるようになりそれが忙しくて、書ができなくなってしまいました。
彼女も会社を辞めて、彼女がギャラリーをやる事になり、買い上げる作品を作るという仕組みになって、それから作品がたくさん生まれるようになりました。
妻の力が偉大だったが、亡くなって半年になります。

「エロイエロイラマサバクタニ」という作品とか「歎異抄」、「方丈記」、「徒然草」「源氏物語」、「罪と罰」というところを書いてきました。
「エロイエロイラマサバクタニ」というのは350×240cmぐらいの作品です。
イエスが十字架にかかったときに「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(「我が神、我が神
どうして私を思捨てになったのですか」)と叫んだ言葉。
1968年から始まる世界の学生たちが世界を変えようとする運動が1970年ぐらいに収束するが、1970年の展覧会は100人も集まり本当に熱気がはらんで書について議論した。
1972年には一日誰も来ないという日もあり、ある種の空虚感が襲った。
その景色と重ねて「エロイエロイラマサバクタニ」を作った。
書いてゆくときに、こんな風な形になって現れて来るんだと、自分がその出来事のなかに入り込んでいきました。

「歎異抄」、「方丈記」、「徒然草」「源氏物語」歴史的なもの、2001年にアメリカ同時多発テロ9・11、お台場原発爆発事件3・11などなども手掛けてきました。
歴史的なものの後に「罪と罰」などを経て評論を作品にしたものとして9・11、3・11へと向かいました。
文筆活動は100冊を越えました。
「書の終焉」でサントリー学芸賞、「日本書史」で毎日出版文化賞、「近代書史」で大佛次郎賞などを受賞しています。
妻にはいろいろ負担をかけたと思います。










2019年7月15日月曜日

太田義昭(太田雄貴の父)         ・【アスリート誕生物語】フェンシング銀メダリスト

太田義昭(太田雄貴の父)   ・【アスリート誕生物語】フェンシング銀メダリスト
2か月に一回ぐらい雄貴と会って食事などしています。
日本フェシング協会会長として現在活躍中。
自分の工夫とアイディアをだしながら進化させるのが好きなようです。
フェンシングを通していろんな方と出会う中でそういったものが培われたのかなと思います。
3人兄弟の末っ子で、いろんな運動が大好きでやっていました。
負けず嫌いなところもありました。
私が高校の時にやっていたので、フェンシングをやってみないかといいました。
私も妻も小学校の教員をやっています。
子どもの笑顔が素敵なので子どもがにこにこしている状態を常に作りたかった。
子どもの気持ちになって考えるという事はしていました。
雄貴は小学校3年生ぐらいからフェンシングを始めました。
やっているとそれなりに結果が出てきました。
初めて6か月ぐらいで3,4年生の部で3年ぐらいやっている子に勝って優勝してしまいました。
そこから突っ走っていったように思います。
本当に自分の好きなところで成長してくれる一つになってくれればいいなあと思いました。

小さいときには僕が教えていましたが、クラブチームにも所属していて、そこのコーチにもしてもらって4年生の後半ぐらいからは、東京のほうに行って教えてもらうようにもなりました。
怪我した時もテーピングして練習したり、熱を出した時にも頭にぬれたタオルを巻いて形だけでもやろうという事でやったりしていました。
小学校3年生の5月1日から4300日休まずに練習してきました。
ドイツに短期留学して、ドイツでは練習しない時をきちっとして、メリハリをつけるという事でそれからしばらく練習を休むという事にしました。
3年続けると本物になっていくと思います。
そうなるともったいないあという事になり続けてきました。

2008年の北京オリンピックで銀メダル、2012年ロンドンオリンピックでの団体銀メダル獲得という事になりました。
高校ぐらいからは当人が一生懸命やりました。
自分が納得できないことはしない、どうしたらいいかを的確に考えてやった結果だと思います。
海外に行くと経費が掛かったし、勉強の時間も取れなくなるので、妻はフェンシングだけやっていていいのかという風な思いもあったようですが、フェンシングを通して人間を作れて海外にも行って、自分と力をいろんな人と比べながら暮らすのもいいのかなあと思って、その場を濁らしたこともありました。
妻はもっと勉強もという思いはあったようです。
高校インターハイを3連覇して、それを妻は見て感動しました。
以後は子供の活動を楽しみにするようになりました。

子育てをやるなかですこしずつ料理をやるようになって、うまいといわれるようになって私がつくるようになってきて、妻のおかげでできるようになりました。
フェンシング以外に注意したのが食事です。
一食10品ぐらい、自分のできる物をうまく組み合わせて料理していきました。
5秒で作る卵焼きを雄貴の奥さんに伝授しました。
子どもの才能を伸ばすためには、早咲き遅咲きがあるので、いろんなことを仕掛けてゆくことは必要かと思います。
子どもの反応をメモしていく。
まず3日やってみる、そうすると1週間は何とかなるが、1か月はちょっと難しいが、1か月過ぎたら大体向いているかどうかがわかる。
褒めることは大事だと思います。
小学校3年生は褒めると勘違いすることもあり、それも方向付けには大事です。
私のレベルは低くて、サービスばっかりしています。
子どもともに活動することで成長する姿を見るのは楽しいと思うので、自分自身を高めるチャレンジをしてもらうことで、子どもも成長させていただければと思います。

















2019年7月14日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】
ブスタフ・マーラー作曲 交響曲第5番 第4楽章 「アダージェット」 
ブルーノワルター指揮  ウイーンフィル管弦楽団演奏 1931年の録音。
作曲された時期はウイーン時代の「絶頂期」ともみられる期間に当たっている。
マーラーがなくなってから20年後。(マーラーを直接知っていた人たちの演奏)
ハープ弦楽器による第4楽章アダージェットは、ルキノ・ヴィスコンティ監督による1971年の映画ベニスに死す』(トーマス・マン原作)で使われ、ブームの火付け役を果たしただけでなく、マーラーの音楽の代名詞的存在ともなっている。

19世紀末のウイーンの遺伝子息吹は作曲家にどんな風に伝わて行ったのか?
世紀末 爛熟期が終わりそこから離れてゆく、そういったものを嫌う雰囲気であったり、退廃的な独特な形式美みたいなものが美術の世界でも生まれる。
世紀末 美術界では クリムト 分離派の代表。
1897年はブラームス(63歳)が亡くなりクリムトが分離派を宣言する。(時代の節目)
同年5月ブスタフ・マーラー(36歳)が指揮者としてウイーン宮廷歌劇場にデビューする。(指揮者として頂点に立つ)

*交響曲第3番から第3楽章 ブラームス作曲(50歳) 
映画『さよならをもう一度』で有名。
ブラームスはヨハン・シュトラウスと親交があった。

ヨハン・シュトラウス作曲 ウエーベルン編曲 「宝石のワルツ」
当時としてはインパクトのある編曲だったが、今では古き良き時代のウインナワルツ。

フランツ・レハール作曲 (世紀転換期の作曲家)「メリー・ウイドウ」ヴィリアの歌
「銀の時代」とよばれたウィンナ・オペレッタの第二黄金期を代表する作曲家となった。
世紀転換期における、レハールには響きに独特の哀愁、かげりがある。

ヘルメス・ベルガー ヴァイオリンの名手、コンサートマスター。
*バレエ 「イベリアの真珠」から「ロマの踊り」

クライスラーの「ウイーン風小行進曲」

ブスタフ・マーラー作曲 交響曲第6番 第1楽章