2020年7月8日水曜日

西原伸行(映写ボランティア)       ・16ミリフィルムが映し出す地域の絆

西原伸行(映写ボランティア)       ・16ミリフィルムが映し出す地域の絆
西原さんは定年退職を控えた20年前、仕事ばかりだった人生を変えようと16mm映写機操作技術養成講座を受講し技術を習得しました。
以来学校や福祉施設を回りボランティアで映画の出前で上映会を続けています。
その数はこの17年間で6000回を超えました。
仕事人間だったという西原さんが映写ボランティアをと襲て地域とともに歩む第二の人生について伺いました。

いまはコロナの関係で学校、高齢者施設、上映会などは中止になっています。
私一人なので子どもの家と保育園、知的障害者社施設には一部行っています。
17年間で個人的なもので6300回ぐらいになります。
グループで行っているものを加えると7000回近くになると思います。
会社人間で土、日でも会社に行っていて近所付き合いが全然ありませんでした。
定年を迎えてどうなるんだろうと思いました。
ある時に宇都宮高校で映写機操作技術養成講座があり、機械いじりが好きだったので2000年の時に受講して、独り立ちしたのが平成15年の6月でした。
遠方を紹介されたりしているうちに段々広がっていきました。

映写機は8mm、16mm、35mmがあり16mmはどこにでも持って行って上映できるタイプです。(映画館は35mm)
30分のものを上映するにはフィルムの長さは350mぐらいになります。
1秒間に24コマになっています。
フィルムの良さは画面が柔らかいです。
VDVだと走っている画面などは粗いですね。
音についてはデジタルのほうがいいですね。
子どもたちは入ってくるときにはざわつきます。
映画が始まるとシーンとして、見た子供たちは一様にびっくりします。
先生が読み聞かせをやっても、あっち向いたりこっち向いたりしていたそうですが。
子どもたちは惹きつけられるものがあるようです。
障害者の福祉施設などにも行っていますが、特に内容を変えるということはないです。
認知症の関する知識が必要だと思って、3日間の研修コースがあり、そこで声を掛けられて知的障害の人の映写会をすることにもなりました。
上映するにあたり最初いろんなことも考えましたが特に問題なくやっています。

朝10kmを走っていましたが、ある時1kmぐらいして胸が苦しくなって、心電図、MRIなど撮ってもらったら、年のせいだよと言われてしまいました。
妻が紹介した病院に行って、念のために心電図をとってもらったら、「駄目だこれは」と言われてしまいました。
冠状動脈が3本あるうちの2本が詰まっているといわれてしまいました。
直ぐ手術することになり、いまはそれから16年たちましたが、問題なく過ごしています。
身体障害者4級になっています。
「ボランティアだから出しても入るほうのお金はないよ」といった時に、「残り少ない人生だから、好きにすれば」と言ってくれた妻と子供の言葉には今でも感謝しています。
それがなかったら辞めていますよ。
「施しても報いを願わず、受けて恩を忘れず」ということわざがありますが、これをモットーにしています。
映画会もやってあげるではなくて、やらせていただいているという気持ちで生きています。
後2000回やろうとか3000回やろうとかはないです、今日一日を大切にして一回一回やろうと思っています。
空き缶を集めて障害者施設に車椅子を贈ったという話がありますが、「ポコアポコ」という題名の映画で一歩一歩ゆっくり進もうということなんですが、実話の話でそれが一番印象に残っています。

*「ポコアポコ」:大阪府に住む福井千佳子さんが、障害を持ちながら、空き缶をひろってそれをお金に替えそのお金で、お年寄りに車いすを5年間に100台も贈った、心温まる実話の映画化です。

2020年7月7日火曜日

古関正裕(ミュージシャン)        ・父の音楽を受け継ぐ

古関正裕(ミュージシャン)        ・父の音楽を受け継ぐ
古関さんは昭和21年東京生まれ。
ご両親は今放送中の朝の連続TV小説「エール」のモデル、作曲家の古関 裕而さん、声楽家の金子さんご夫妻です。
正裕さんは高校時代はバンド活動に熱中し、父親の音楽にはあまり関心がありませんでした。
大学も理科系に進み卒業後は新聞社に勤務します。
しかし52歳で早期退職してからは再び音楽に向き合い 7年前から父親の音楽の世界を広めたいとライブ活動に取り組んでいます。

連続TV小説「エール」はコメディータッチで面白いと思っています。
ドラマの中のほうがちょっと気が弱そうかなあと思っています。
逆境に強いタイプです。
私は父親似であると周りから言われますが、母にも似ているともいわれます。
若いころバンド活動をやっていましたが、父の曲は関心がなかったですが、こういった歳になると、前にやっていたボーカルの人からお父さんの曲を専門にやるユニットをやりましょうと言われて始めました。
ユニットは「喜多三」という名前にしました。
家は8代続いた呉服屋「喜多三」です。
祖父は多趣味だったようで芸事が好きでした。
当時は珍しかった蓄音機を買ったりしていました。
しょっちゅうレコードをかけていたようです。

ユニットを始めたのは60代半ば過ぎからでした。
「幸子の子守歌」 幸子は私の娘ですが、娘のために父が子守歌としてオルゴールでメロディーだけを聞かせていました。
*「幸子の子守歌」 作詞:古関正裕 鈴木聖子 作曲:古関 裕而 歌:鈴木聖子
孫は二人とも音楽、ヴァイオリンをやったりしています。

「君はるか」という本の出版をしました。
実際には10年以上前に書きました。
両親の手紙(ラブレター)などを読み始めたら若い男女の文通、夢とかいろいろ浮き彫りになってきて、本にして生誕100年に間に合わせようとしたが、間に合わなくて棚上げ状態になって、ドラマにしたらいいんじゃないかということになり朝ドラの誘致活動につながっていきました。
父にはファンレターなどもたくさん来ていました。
最初は母が新聞を読んで手紙を父に出して、文通が始まり、周りでは音楽に対する興味がある人がなく、二人の文通は深まり繰り返されていきました。
文通を初めて4か月ぐらいしてから会うことになり、会った瞬間に二人の気持ちは一つになっていきました。
結婚は昭和5年で、父が20歳、母が18歳の時でした。
コロンビアレコードに入社、流行歌になじめず作曲に悩む時期もあったが次々にヒット曲が生まれ、約5000曲を作曲、ジャンルも広いです。

*「いつだったかな」 作曲:古関 裕而 歌:越路吹雪
越路吹雪が退団してコロンビアの専属になり初めてだした、シャンソンっぽい曲。

書斎で譜面におこしていて、頭のなかには曲が浮かんでいたような感じでした。
両親は音楽家になってくれたらうれしいとは思っていたようですが、押し付けるような言葉はありませんでした。
母は子育てのために音楽は辞めたというような事は言っていましたが。
改めて父の音楽と向き合ってジャンルの広さに圧倒されます。

*「今日はよい日」 作詞:西條八十 作曲:古関 裕而 歌:鈴木聖子
この曲だけレコードにはなっていなかった。






2020年7月5日日曜日

上田みゆき(声優)            ・【時代を創った声】

上田みゆき(声優)            ・【時代を創った声】
上田さんは子役出身です。
ロボットアニメ、超電磁ロボ コン・バトラーV、超電磁マシーン ボルテスV、劇場版宇宙戦艦ヤマトのテレサ役など、多くのキャラクターを演じてきました。
夫はアニメソング歌手の佐々木功さんです。
およそ40年前子どもを連れて再婚したことでも注目されました。

10歳の時にニッポン放送のラジオ番組『ポッポちゃん』で子役としてデビュー。
3000人の中からのオーディションで選ばれました。
モダンバレエに幼稚園から通っていて、そこで募集があるということで母が応募してオーディションにいくことになりました。
劇も歌もほとんどやったことがなくて受かるとは思っていませんでいた。
自然体だったことがよかったのかもしれません。
TVの「青空通り」というホームドラマがあり、そのあとがTVドラマの『少年探偵団』でした。
それまでは声だけでしたが、身体を使うことになりましたが、モダンバレエをやっていたのであまり違和感はありませんでした。
『ポッポちゃん』で子役をやっていたころには松島トモ子さんらとともに少女雑誌にもよく出ることがありました。
『少年探偵団』が終わるころに日大の芸術学部の放送学科に入りました。
新劇の話を聞いているうちに芝居が好きになり、自分の生き方が違うのかなあと思い出してそろそろ結婚ということも考えたりして、代々医者の家系だったのでお見合いの話がありましたが、劇団NLTの俳優教室に入って研究生になりました。
こんなに楽しいという思いがあり欲が出てきました。

洋画の吹き替えなどもさせていただきました。
劇団にいながら声優の仕事もしていました。
アニメは大学1,2年のころのエイトマンのサチ子さんとか、鉄腕アトムとかもありました。
声を出すことが大好きで、小学校4年のころにテープレコーダーを買ってもらって、自分でラジオドラマを作ってやったりしていました。
アニメは台本と絵を見ながらやっていて、自分でイメージを膨らませてゆくことができることが出来るので面白いです。
吹き替えは内容的な雰囲気などを壊してしまうといけないので、あくまで合わせるようにします。
劇団でいきなり主役になり、欲が出てきて、陰に日向に応援してくれたのが劇団の先輩で、この人だったらという思いがあり結婚しました。
子どもが生まれて、芝居もやりたいということもあり、不器用な性格なのでどちらを取るかというと子どもを選ぶことになると思いながらやっていましたが、いろいろな病気を抱えてしまって、子どもを連れて父のところに入院して実家に戻りました。

家庭に対する考え方が夫とは違ってきて、父からは好きな仕事をやったほうがいいのではないかと言われて、どんどんアニメのレギュラーの話とか吹き替えの話が来て、やっているうちに元気になりました。
宇宙戦艦ヤマトのテレサをやることになり、ガッチャマンで佐々木と会うようになり、悪ぶっている不思議な人でした。
私も意識し始めて1981年に佐々木と再婚することになりました。
佐々木は中学1年生、こちらは少学4年生を連れての再婚でした。
一つ家に住むようになると長男としては1/3になってしまったような気がしたんだと思うんですね、その辛さが、二人でいるときに私の息子をいじめるという形になってしまいました。
息子は段々暗くなってきて、いろいろと大変な時期がありました。
来年結婚40年になりますが、10年ぐらいしかたっていないような感じです。
意地というか欲は大事だと思います。
そのためには踊ること、声を出すこと、が大事だと思いますが、今の若い人はいろいろできると思います。






















2020年7月4日土曜日

宇野 晶(日本音盤倶楽部会長)      ・「音盤に惚れた男の40年」

宇野 晶(日本音盤倶楽部会長)      ・「音盤に惚れた男の40年」
大阪でサラリーマンをしていた昭和50年代に神社の参道で古物商が並べていたSP盤と出会ったのがきっかけでSPレコードを集め始めました。
大阪などの土地を歌ったもの、戦時中に発売禁止になった希少盤などを集めに集め、おおいときにはSPレコード2万5000枚EP盤を1万枚収集したと言います。
宇野さんの集めた音源を聞いていきますと、日本のレコードの歴史をたどることができます。
平成12年に設立されたSPレコード収集家で作る日本レコードクラブ会長も務めている宇野さん(76歳)にインタビューしました。

昭和52年ごろに大阪で毎年1月10日前後に10日恵比寿を今宮神社でやっていました。
参道に古物商がSPレコードを積んでいました。
一枚200円とのことで20枚ぐらい買いました。
ポ-タブルプレイヤーも買って、聞いて懐かしさを感じそれがきっかけになりました。
昭和35年ぐらいまでSP盤も発売していました。
昭和27年ぐらいからEP盤、LP盤に切り替えていきました。
SP盤の材料はシェラック(ラックカイガラムシ、およびその近縁の数種のカイガラムシの分泌する虫体被覆物を精製して得られる樹脂状の物質)といいます。
音としてはEP盤、LP盤のほうがきめが細かい、大きいが、SP盤は78回転で回転数が速いので情報がたくさん入れられる。

私が買うというので道具屋さんが仕入れてきて、必要なものだけを買うと道具屋さんも困ってしまうので、利益は最小限ということで仕入れたものは全部買うことにしました。
だいたい100~200枚買いました。
いいものも手に入ることもあれば必要ではないものも沢山ありました。
多い時にはSPレコードは約2万5000ぐらいあり、EP盤を1万枚ぐらい持っていました。
平成10年には大阪に引っ越して置き場に困ったということがありました。
オーナーに空きスペースがあるということで置かせてもらったこともありました。

*①「君恋し」 昭和元年 アコースティック録音方式だった。 録音レベルが低い。
*②「君恋し」 昭和4年 電気録音なのでそこそこ音がいい。
*③「君恋し」 昭和36年 歌:フランク永井
それぞれ違った味わいがある。

父は役場の職員で母は小学校の教員をやっていて、蓄音機とレコードが200枚ぐらいありおもちゃ代わりに聞いていました。
昭和10~12年ごろが一番いい音で、戦争が始まって原材料がなくなってきて音が悪くなってきて、最悪の戦後すぐのころは古いレコードを溶かして作り直したりして、割れやすいしノイズが多かった。
昭和30年頃になると音質が良くなってきてLPに負けないぐらいの音が出ました。
昭和37年に会社に就職しました。
高度成長経済の好景気の時代でした。
結婚が31歳でしばらくして、妻に気を使いながらレコード収集をしました。

*「1万3800円」 昭和32年 歌:フランク永井

1899年トーマス・エジソンがシリンダー型レコードを開発して、その10年後にベルリナーがワックスを塗った平らなレコードを開発。
1910年(明治43年)に日本蓄音機商会(のちのコロンビア)発足。
大正に入って両面のレコードが普及し始めて、ラジオも普及し始めて相乗効果を果たす。
金属原盤がないと作れない時代だったが、戦争の時に金属不足で供出せよということで取られてしまった。
工場も爆撃されて貴重な資料などもなくなってしまった。
CDへ復刻したいということでレコードをお貸ししたこともあります。
「六甲おろし」は球団お披露目会の時に非売品として200枚ほど作ってゲストの人に配布したが、最終的に人から人にわたって私のところに来ました。
コロンビアが探していました。
復刻したのが2003年でした。
その年に阪神が優勝して、幻の曲を復刻したということで私のところにスポットが当たりました。

昭和17年 高峰秀子さんが歌った「森の水車」 貴重なレコード
戦時下なので
ポリドールレコードを大東亜レコードに変更し発売したもの。
ちゃらちゃらした歌は駄目ということで、売り出して4日目に発売禁止になりました。
*「森の水車」 昭和17年 歌:高峰秀子

日本レコードクラブ(日本音盤倶楽部)には100名ぐらい会員がいます。
レコードの交換会をやっています。
最高値は1枚3万円という上限を設けています。
平成12年に発足して、35回開催しています。
3万6000枚の出品があり金額では3100万円になります。
昭和57年にCDが発売されましたが、音源をデータでパソコンに取り込むことになりCDも売れない時代になりました。
レコード盤はもう出尽くしましたので交換も少なくなってきました。
そこそこのヒット曲はCDには復刻されています。
会員数の減少で2018年4月の例会をもって休会中になっています。
*「南海ホークスの歌」昭和27年 歌:灰田勝彦












2020年7月3日金曜日

小林麻美(アーティスト)         ・これから人生第二幕

小林麻美(アーティスト)         ・これから人生第二幕
1953年東京生まれ、高校生のころからモデルとして活動を始め、1984年には松任谷由実さんがプロデュースした「雨音はショパンの調べ」が大ヒット、モデル、歌手としての人気を不動のものにしました。
又女優としても活躍し、都会的で洗練された雰囲気の小林さんの姿は数々のコマーシャルやファッション誌を飾っていましたが、1991年元ザ・スパイダースのリーダーで芸能プロダクションの社長だった田邊昭知さんとの結婚を機に芸能界を引退。
2016年の復帰するまでの25年間家庭に専念し、その動静が知られることはありませんでした。
この春半生を振り返る書籍が出版され話題となった小林さんに伺いました。

引退してから180度違う生活ですべてが新鮮ですべてが大変な生活でしたが、考えられない幸せな毎日を送っていました。
一冊の本にまとまり、子どものころに自分はユニークだったと思いました。
どん底もありました。
外見とは違う一面もあり、両方自分だったと思います。
私はちゃきちゃきの江戸っ子で、せっかちです。
当時はすぐそこまで海で大森の駅に降りると潮の匂いがしました。
料亭などもありまして、三味線の音と海の音が入り混じったような感じでした。
母親は美容師で姉が一人いて、父は技術者でした。
タイガースのファンクラブに入っていて、ロック系のバンドが好きでした。
スパーダースとブルーコメッツは年代的にはちょっと上でした。

中学3年の時に映画が好きで土、日には一人で必ず銀座で映画を観ていました。
プロダクションの事務所の方に声を掛けられて、怖くて母に公衆電話をかけて、母に代わってもらってというところからちょっとずつ話をいただいてという感じでした。
芸能活動はできない学校だったので高校に上がってから、女学生の友とかコマーシャルに出てみませんかということから始まりました。
新鮮でうれしかったです。
六本木、原宿、青山などでディスコに結構行っていたりしました。
洋服は好き母に作ってもらったりしていました。
歌手でデビューした時の同期は麻丘めぐみさん、西城秀樹さん、牧村三枝子さんとかです。
当時あまり何にも考えないで過ごしていました。

松任谷由実さんとは何かで知り合い、仲良く遊ぶようになりました。
30歳の時に突然「雨音はショパンの調べ」を歌ってみないかと言われました。
あっという間にレコーディングは終わってしまいました。
大ヒットするとは思っていませんでした。
武道館で歌ったのが最初で最後でした。
沢山の方に聞いていただいて気持ちよかったです。
中学1年の時に武道館へビートルズを観に行きました。
31,2歳ぐらいになると結婚とか女としてどう言う人生を歩むんだろうかと、漠然とした不安と焦りはありました。
田邊昭知さんとの出会いがありましたが、彼は結婚ということは自分の人生の中で考えないという人でしたので、女としての幸せはなんだろうということは考えていたのでそのギャップはありました。
20歳の時に35歳で年齢は15歳年上で師弟関係みたいな感じでした。

仕事の関係で父はあまり家には帰ってきませんでしたので、サザエさんのような家族という感じはありませんでした。
結婚前に赤ちゃんができて極秘出産でした。
母と叔母と彼しか知りませんでした。
一人で育てる覚悟はできていました。
その後結婚することになり感謝をしています。
子どもに取ってはこの形がよかったと思いました。
52歳と37歳だったので、すごい苦労もしたし、新鮮だったし、幸せな時間を子どもにもらったということは二人で感じていることです。
これを選んだ以上は仕事はやめるという、ある種のみそぎみたいな感じでした。
全て子ども中心で25年間表舞台には出ることはありませんでした。
子どもが帰ってきたらいつも「おかえり」と言ってくれるのが私の理想でしたが叶わなかったので、自分としては必ず子供が帰ってきたら「おかえり」と言いたかったので、それができたので幸せでした。

嫌なこともありましたが、振り返るとなんて暖かくて幸せな時間だったんだろうと思います。
25年間があっという間に過ぎてしまいました。
この仕事しかキャリアがないので、この中でトライして今の自分の年齢、体力、今の自分のやり方でやらせていただけたら楽しいと思いました。
自分の持っていたサンローランの服(200着ぐらい)を寄贈させていただき、そこからファッションショーをやっていただいたりして、私にもやってみませんかと言っていただきました。
今66歳ですが、自分でもびっくりしてしまって、これも現実なので、自分ができる事元のキャリアを生かせることで出来たらうれしいと思って第二幕を一歩歩こうかなと思ったので、キャリアを生かして頑張りませんかと言いたいです。
自分しかできないことは絶対あると信じているので、頑張りましょうと言いたいです。