2017年10月18日水曜日

田本徹(元戦争マラリア患者・声楽家)・八重山で歌い継ぐ“第二の沖縄戦”

田本徹(元戦争マラリア患者・声楽家)・八重山で歌い継ぐ“第二の沖縄戦”
72年前激しい地上戦の有った沖縄戦、石垣島の有る八重山地方には第二の沖縄戦と呼ばれているものがあります。
それが戦争マラリアです。
マラリアはマラリア原虫を持った蚊に刺されることによってかかる病気です。
発熱、寒気などの症状があらわれ重症になると死に至ります。
戦時中八重山では日本軍によって、住民たちが山間部や西表島などに避難を強いられました。
そしてマラリアにかかり3647人が亡くなりました。
マラリアで家族を失った田本さんは10年前、その経験を「あの夏の日に」と言う歌にしました。
この歌は今沖縄県内の小学校や式典で歌われています。
この歌に込めた思いを伺いました。

「あの夏の日に」の前半部分の歌詞
「あの夏に日に逝った家族のお話をしましょう。
あの戦争で兄は弾に撃たれ激戦の嘉手納で戦死した。
母の祈りもむなしく散ってしまった兄。
ああ、この世でもう会えない兄。
母の悲しみが癒えぬ間に妹はマラリアにかかり月桃の花の咲く4月に逝ってしまった。
歌の大好きな静子だった。」
あの戦争でマラリアにかかって亡くなるし母も亡くなると言うことで、よく田本さんは生きて来ましたねとそういった感想が寄せられます。
音楽で伝えられたらどうだろうと思って、大変な思いで悲しみを耐えて曲を作りました。
戦争の悲惨さをどうにかして、多くの方たちに伝えようと言う思いが強かったからだろうと思います。
7歳で戦争を体験して、悲惨な状況を体で感じているので、子供の頃の気持ちで、子供のころの体験を具体的に真実を伝えることがいかに大事かと思った次第です。

1937年12月に石垣島の平得(ひらえ)と言う地区に生まれました、12兄弟の5男です。
緑が多く、台風が来るので高い家は建たなくて、山の頂上、海も見えるのどかなところでした。
デイゴの花が家々に咲いて見事でした。
小さい頃は無口な子供でしたが、歌を歌うことは大好きでした。
父が沖縄の古典音楽の 野村流を指導していたので、踊りもしていましたので家は賑やかでした。
艦砲射撃が有り、深夜の出来事で、父の大きな声で防空壕に入るようにとの声が聞こえて、家族皆が防空壕に逃げ込みました。
地響きとともにすさまじい音が聞こえてきました。
防空壕がつぶれるのではないかと、ここで死ぬのかと思いました。
入口から見ると隣の家が火に包まれていました。(茅葺の屋根だった)
1週間後に軍からの避難命令が出ました。

沖縄では「やきー」と言ってマラリアの事を呼んでいました。
作戦上、住民がいるとアメリカの軍艦が石垣島を囲って上陸するのではないかとの噂も有りました。
戦うのに足手まといになると言うこともあったようで、避難しなさいと軍からの命令が有ったと聞いています。
命令に抵抗する者もいたと思いますが、空襲が頻繁に続けば生き残れないとそう皆も思って、現実にはそうもいきませんでした。
波照間島の人は西表島に避難したが、波照間島には元々マラリアは無かったが、将校が強制的に避難させた。
食糧を調達する手段、波照間島の家畜を兵隊の食糧にすると言う思いが有ったと聞いています。
私たちは於茂登山(おもとやま)の麓に山小屋(6畳ぐらい)に2カ月避難しました。
食糧には苦労しました、たにしなどを取って食べました。

兄は戦争が始まって3月に戦死したと言う訃報が届いて、母がそれを聞いて体調を崩してしまいました。
妹も亡くなってしまう。
歌詞にも書かれている。
「母の悲しみが癒えぬ間に妹はマラリアにかかり月桃の花の咲く4月に逝ってしまった。」
静子が生きていたら歌が大好きで、「お母さん」と言う歌があって歌っていたと姉たちが話してくれました。
母に抱かれている姿を庭で立って見ていました。
母が泣き崩れて「静子、静子」と呼んでいたのが耳から離れません。
戦時中はマラリアの特効薬キニーネと言う薬は有りますが、軍が一杯所有していたと言われるが、一般市民にはあてていませんでした。
母にもマラリアの症状が出てくる。
震えが止まらない、全身が大きく上下に震える、40℃以上の高熱が出る。
体力のない人は亡くなって行く。
冷たい水を汲みにバケツを持って何度も往復して、母の額にかけてやります。
背中に剃刀の刃で傷を付けて血を拭き取り、悪い血を抜き取る、と言うことをしました。
何日も寝ていると床ずれが出来て、ウジ虫が出ていました、残酷です。

「あの夏の日に」の歌詞にも書かれている。
「悲しみに負けじと、笑顔を見せた母もまたマラリアに侵されていた。
於茂登山裾野 田のほとり、避難小屋で来る日も来る日も高熱と震えに苦しみ続けた母、
母の最期はあまりにも悲惨だった。」
生まれて4カ月になる弟がいましたが、母が亡くなったため、弟も段々体が弱って栄養失調になり、亡くなってゆきました。(すすり泣く声)
そういったことを体験して現在が有るわけです。
アメリカ兵がジープで来て、はじめて見て吃驚しましたが、怖い思いは持たなかったです。
その後マラリアを撲滅したのはアメリカのDDTのお陰ですから。(1950年代)
マラリアの有る山へ島々の人を送りやった日本軍のやり方、作戦上と言っても悔しいですよ。
マラリアが有ると、マラリアで多くの方が亡くなったことを知っていたはずで、軍に対しては怒りを覚えますが、空襲時には逃げる場所もないし、どうしようもなかったです。

上京して東京音楽大学に進み、音楽の先生として働くことになりました。
美空ひばりと同じ歳で、一緒に成長したと思いが有り勇気付けられました。
定年退職して石垣に戻ってきて、戦争マラリアの遺族会が子供たちに歌を歌ったり、戦争の悲惨さ、平和の尊さを、大切さを伝えようとやっていて、或る方から一緒にやっていきませんかと声がかかり、やらなくてはいけない仕事だと思いました。
2007年「あの夏の日に」を作詞作曲をしました。
*「あの夏の日に」 作詞作曲 田本徹
最後の「この悲しみをこの悲しみを繰り返してはいけない」
これは戦争を二度と起こしたらいけませんと言うメッセージです。
















2017年10月17日火曜日

河原忠之(ピアニスト・コレペティトウール)   ・オペラ歌手をコーチする

河原忠之(ピアニスト・コレペティトゥール)・オペラ歌手をコーチする
54歳、ピアニストとして日本を代表する歌手や器楽奏者が共演者にこぞって指名する人気の人で多くの音楽家から信頼されています。
男性オペラ歌手4人とのユニット、IL DEVU(イル・デーヴ)、このピアニストでもあります。
IL DEVU(イル・デーヴ)、オペラ歌手4人と河原さんを合わせて総重量500kgと言う噂の太めのユニットだそうです。
河原さんのもう一つの顔がコレペティトゥール、オペラ歌手をコーチする人のことで、日本でも最近すこしずつ知られるようになりました。
イタリアにも留学し、現在は母校の国立音楽大学と大学院で准教授、新国立劇場オペラ研修所の音楽主任講師を務めています。
来月の3日と5日に紀尾井ホールで行われなわれるオペラ、「オリンピーアデ」でコレペティトゥールであり指揮とチェンバロを演奏する河原さんに伺いました。

食べ物が好きなもので体重100kgは超えています。
それぞれ忙しくてイル・デーヴはなかなかスケジュールが合わないのが大変です。
テノールの望月哲也さん・大槻孝志さん、バリトンの青山 貴さん、バスバリトン山下浩司さん、ピアノ河原忠之さん。
合唱経験者が多いので、グループとして素晴らしと思います。
ここで「温もり」というCDを出しましたが、癒されると言うファンの方が凄く多いです。
*「いのちの歌」
自分たちも癒されていると思います。
また明日からがんばろうと言う気持ちになります。

指揮をする、チェンバロ演奏、コレペティトゥール、全部しなくてはいけなくて大変です。
コーチングすることですが、造語でコル(共に)とレペティトゥール(繰り返し行う人)
で、何回も何回も練習に付き合って、どういうふうに役作りをしていくかまでかかわってアドバイスするトータル的なコーチングです。
オペラは2~3カ月前から準備しますが、最初がコレペティトゥールの稽古で、アンサンブルになり、指揮者が入り、演出家が入り、音楽稽古、最終的には本番を迎えるわけです。
コレペティトゥールは全部把握していないといけない縁の下の力です。
自分はどういうふうに歌い手と接しているかと考えると、人間なので、肉体的、精神的にもデリケートで有り、歌い手に対しての尊敬の念がないといけない、(気遣いとか、自分自身歌が好きだった)歌う人を尊敬していたので、信頼が厚いと言うふうに言っていただけるようになったと、自己分析しています。

歌手が主役、こっちはわき役と言うことをわきまえていないとバランス良くお客様に聞こえないですね。
歌手に対しての尊敬をもってやると言うことが大切だと思います。
「伴奏」は伴って奏でる。
ブレスのタイミングを把握して一緒にブレスをしないとだめだし、一番は言葉です。
私は言葉が好きでした、言葉に関心がないとこの職業は難しいと思います。

手は中学時代から大きかったです。
子供のころは人がどういうふうに思っているかなあと気にしていました。
静かに人の意見を聞いたり、人がどういうふうに言ったりしているか静かに聞いている人でした。
実家が中華料理をやっていたので、中学のころから身長は今のように伸びていました。
小学校3年からやりましたが、ピアニストの年齢から言うとかなり遅いです。
親がステレオを持っていたので片っぱしから聞きました。
ジャンルを問わず、水前寺清子さんとか「ラブユー東京」とかよく聞きました。
仲のいい子がオルガンをやっていて、聞きに行って自分もやりたいと思いました。
そこからピアノを始めました。
「バイエル」教則本で先生から教えてもらって数週間後にはここまでにしましょうと言うレッスンでした、自分ではもっとやりたかったが、気が付いたら「バイエル」教則本を数カ月で終われました。

この職業は耳が良くないと成り立たない処があります。
自分が出した音が自分で聞けるので、どういう音か判断できないと仕事しづらい。
2~3回先生が変わって、その最後の先生が国立音楽大学の付属の高校の先生だったので、そのまま付属高校に入りました。
学年が130人ぐらいいて、クラスが4クラスあって、男は6人でした。(ピアノ科が4人)
声楽科に一人いてその友人と親しくなっていきました。
彼がいたから今の自分があると思います。
言葉が好き、芝居も好きだったので彼と一緒にオペラ研究部を作り、仲間を集めてオペラを演奏しました。
今のオペラ界を見ると、入場料が高いとか、一見難しそうだと言うことも有り、どうしても年齢の高い方とか、オペラは見るのに3~4時間かかるのでどうしても足が遠ざかってしまうのではないかと思います。
オペラはこんなに素晴らしいと言うことを伝えてあげたいので、若い人にオペラに来てほしいと思います。

大学に入ってより世界が広がって、大学2年生の時には仕事をしていました。
卒業後、大学院に行って、卒業後2年してイタリア音楽が好きだったので、イタリアに留学しました。
2年弱イタリアにいて、日本の仕事の話があって日本に戻って来ました。
ドイツ、ウイーンにも行きたかったので、短期でもいいから勉強したいと思っています。
自分が演奏することを辞めてしまうと教えることはできるが、自分から何かが無くなっていくばっかりになるので、自分も勉強して自分も舞台に立っていかないといけない。
イタリアでコレペティトゥールを習ってきました。
日本でも最近認知されてきました。
日本ではコンクールで優勝して華やかな経歴を持っている人がオペラを振ると言うパターンが多いが、たたき上げてコレペティトゥールから指揮者になって、全部色んな事を教えながら棒を振ると言うことがヨーロッパの歴史の中に有るので、日本に根付かせたいと言う野望を持っていたが、なかなか難しい。
指揮をやるとテクニックだけでなくて大勢の人を引っ張って行く要素がないと駄目だと言うことがやってみると思います。
料理は音楽と通じる物があります。(5感で感じるとか、)
本当に心からおいしいと思うような音を出したい。



















2017年10月16日月曜日

ヒダノ修一(太鼓ドラマー)     ・【にっぽんの音】

ヒダノ修一(太鼓ドラマー)     ・【にっぽんの音】
1969年生まれ 横浜育ち、鼓道で太鼓を習得後、いろいろなひとたちとセッションしている。
2歳からピアノ、小学校でドラム、中学高校でギター、ベースなどバンドをやり、18歳のときに太鼓と出会う。
父はジャズ好きで母はクラシック好きでした。
クラシックとジャズを高校時代をやって、オペラの歌がやりたくて音楽大学を受験しようと思って受けて落ちて、浪人しようと思ったら太鼓に出会って、物凄い衝撃を受けました。
これなら世界にいけるかもしれないと思いました。
鼓道を見せてもらって、その当日に入れてくれと叫んで、オーディションに来いと言われて佐渡島に行って、翌年19歳で初めて太鼓に触れて鼓道の生活がスタートしました。
自分の名前でやってみたいと思ったのが20歳で、辞めてジャズクラブを案内されて、飛び入りで演奏したら面白くてジャズ界に太鼓でもぐりこみました。

23歳で1300万円の太鼓を買いました、重さは500kg、扉2枚分の大きさ。
トラックも買い、太鼓をセットする機械を100何十万円、全部で1800~1900万円の借金を23歳で背負いました。
世界40カ国以上にいきました。
スティービー・ワンダーからユーチューブで私を見たと言うことで、2010年アジアツアーの2週間前突然電話がかかり、2週間後から始まるがスティービーのためにスケジュールが空けられるかとのことで、(夏場でかきいれ時だったが)5秒考えて「当然だ」と答えました。
友達を無くす勢いで謝罪、謝罪でした。
スティービーとハグしましたが、「ととろ」とハグしているようで優しい気持ちになってこれから2週間全力で働こうと思いました。
ブラジルのセルジオ・メンデスに和太鼓と言っても通じないので、太鼓を叩くドラマーと言うことで、「太鼓ドラマー」と言うふうに呼ぶことにしました。 (太鼓は世界語になっている)

和太鼓と言う様になったのは戦後で、それまでは単に太鼓と言っていました。
私が持っている太鼓の種類は7~8種類です。
盆踊りに使う太鼓は盆太鼓とか、斜め太鼓(斜めにセット)と言ったりします。
日本の太鼓は空気孔があいてないが、アフリカ、アジアの太鼓はどこかに空気孔があいていて、カランと乾いた音がするが、日本の太鼓は湿った音がしてそれが特徴です。
昔は神事に近い、雨乞い、病気平癒とかとしてやってきて村長が叩いたりしていた。
リズムとして発達していなかったので、一拍子で好きに叩く、その人の気分によって違う。
嵐、ももいろクローバーZとも一緒にやったり、T.M.Revolution(西川貴教のソロプロジェクト)、フレンチの三国シェフ、料理の鉄人坂井さん、中華の鉄人脇屋さん、等にも太鼓を教えています。
おおきな太鼓だと1kmぐらい届きます。
モンゴルの大平原でどこまで聞こえるか実験したことがあるそうですが、日本人の耳で2.5km、モンゴル人の耳で4km先まで聞こえたそうです。
耳の聞こえない人にも太鼓の音は感じられる。(身体、肌で感じられる)
*一人で3人分多重録音した「いつまでも」 演奏 ヒダノ修一

海外に行ったときに、日本人を見せてくれと必ず言われます。
太鼓は自分を興奮させるリズムがあり、サンバみたいです。
若い時はロック、歳をとって来るとクラシック、そういう感覚は有ります。
一つ一つの音をより大事にするようになりました。
若い時は間が開いてしまうのが気になっていましたが、間をたのしむようになりました。
グループとして16000団体ぐらい有ると言われています。
アメリカで1000団体、ヨーロッパ、アジアでも有り、太鼓を作る人までいます。
広めた人たちがいて、70年代、80年代世に世界ツアーを行って、世界中に火を付けて各国の火付け役がいて、弟子を育てて太鼓と云えばどこでも通じるようになりました。
プロとしての判断領域がはっきりしていません。
*EnTRANSのアルバムから一人で12人分多重録音した「コロンブス」 作曲、演奏 ヒダノ修一
(EnTRANS=スパイダースの井上堯之(G)、ゴダイゴのミッキー吉野、カシオペアの鳴瀬喜博、カーティス・クリーク・バンドの八木のぶおが集結)

日本の音 からすの鳴く声 テンポが同じで鳴いているのにしびれます。
海外ではカラスの鳴き声を聞かないです。
井上ひさしさんからの言葉で座右の銘にしている。
「難しい事を易しく、易しい事を深く、深い事を愉快に、愉快なことを真面目に」という言葉がありこれが好きで、難しい事をやりたいが易しく見せないと人は付いてこない、易しいだけでは軽いので深みが必要、深さを愉快にしないと面白くない、愉快なことを真面目にやりたい。
これはどんなものにも通じると思う。
太鼓はリズムがなく、だからこそ人生が出るので、ポップな太鼓を見せていきたい。
「アースリズム」 5カ国のアーティストを集めてジャパンツアーをやります。























2017年10月14日土曜日

渡邉文隆(京都大学iPS細胞研究所)・研究に託す思い、受けとめて

渡邉文隆(京都大学iPS細胞研究所)・研究に託す思い、受けとめて
2006年に京都大学の山中教授がマウスから初めてiPS細胞を作ることに成功して注目され、翌2007年には人のiPS細胞を作ることに成功、2012年にノーベル賞を受賞して、世界から注目を集めました。
このiPS細胞の発見から 10年世界の研究の拠点となっている京都大学iPS細胞研究所では多くの研究者やスタッフが働いています。
その研究を支える財源は国からの期限付きの研究費が中心ですが、民間からの寄付も大切な役割をはたしています。
寄付を申し出る市民のみなさんの中には、自ら病気と闘っている人や難病患者の遺族もいて寄付の窓口には研究を託すさまざまな声が寄せられています。
京都大学iPS細胞研究所、所長室基金グループ長の渡邉さんにうかがいます。

オープンラボ、研究室が開かれた状態になっていて、壁が無く、隣の研究者らと意見交換が簡単に出来ます。
下のフロアとの行き来がしやすいように吹き抜けでラセン階段も有ります。
教職員数は約400人、研究支援者。
iPS細胞、幹細胞の一種、色んな細胞のもとになる細胞の一種、人工的にほかの種類の細胞から遺伝子を導入することによってつくられた多能性幹細胞で、2つの特性がある。
①さまざまな細胞に変化することができる。
②どんどん増やしてほぼ無限に作ることができる。
iPS細胞は再生医療と、創薬医療の2つの使い道がある。
①再生医療、弱ったり駄目になってしまった細胞にiPS細胞などから作りだして、移植をすることによって改善しようとするのが、再生医療の分野におけるiPS細胞の活用です。
ES細胞から研究は進められていました。
iPS細胞の臨床研究が一番最初に始まったのが、加齢黄斑変性という病気です。
網膜が病的に変性してしまう、そこに同じような網膜の細胞を植え付ける。

パーキンソン病の治験の計画、筋ジストロフィー、血小板減少症、じん臓疾患、ガンの研究などをしています。
パーキンソン病の原因となるドーパミンの不足、ドーパミンを生み出す細胞を入れるというのも有りますが、若い状態の細胞を移植して徐々に成熟していって役割を果たすようなやり方があります。
神経の病気の患者さんがいるとすると、患部は取りだして観察は難しいので、iPS細胞を使えば、血液を取ってiPS細胞に変化させて神経に変えてやれば、患者さんの神経細胞とほぼ同じものがたくさん得られる。
色んな薬を振りかけてどの薬が効くのか調べられるようになったのは大きいです。
iPS細胞を使えば動物実験だけではなくて、薬の効果を予め調べるツールとして使える。

拒絶反応は完全に解決した訳ではないが、汎用性のある移植用のiPS細胞を作って行くプロジェクトが順調に進んでいます。
がん化に対してはiPS細胞の作り方が進歩して、がん化のリスクが非常に少ない作り方が出来るようになっています。(10年前とはかなり違う作り方をしています)
国際広報室の中にサイエンスコミュニケーターと言う職種の人たちがいて、高い専門性と平易に説明する技術も持っている人達で、判り易く説明する活動をしています。
iPS細胞の持っている倫理的な問題を明確化、整理して対処法を検討する部門も有ります。
基金グループ、研究者をささえるスタッフを安定して雇用するには自主財源が欠かせない。
国からの支援があるが、資金は期間限定で有り、教職員の終身雇用はできない。
期間限定になっていて雇用が保障されない、400人のうち9割が期限付きの雇用になっています。
これからがまさに重要な10年、20年になって行くと思います。
技術員、特許化する人、広報員など研究を支援するスタッフは色んな研究チームの業務を手伝うスタッフなので、長く勤める人が多いのでその人たちの雇用を支えることは重要です。
iPS細胞研究所の場合は、基本特許について他の研究機関には無償で、企業にも安く提供し、特許料で雇用を賄うことはできません。

2009年にはiPS細胞研究基金を設置していました。(米国を参考)
多くの方々にこの基金の事を知ってもらえるような広報活動を行っています。
2015年度のiPS細胞研究所の総支出が73億円で8割が国からの期限付きの予算になっています。
9%(7億円)が国から基盤的なお金が毎年支給されて、iPS細胞研究基金からは5%(3~4億円)位です。
期限付きの予算が減らされる可能性もありますから、教職員を減らす可能性もあり、一般市民から集める基金を潤沢にしなければいけないことにもなります。

中学3年の時に父親(大学の教員)を食道がんで亡くしました。
高校で奨学金の事を知って、京都大学に理系で入学することになりました。
専攻は生理学、副専攻は社会学でした。
ボランティアに関わる様になり、エイズで父母を亡くしたウガンダの子供達のサマーチャンプでエイズの事に関心を持ち、ウガンダに1年間調査に行きました。
エイズ支援していましたが、村の中だけで500人ぐらいエイズで親を亡くした子供たちがいましたが、足長育英会が作った足長ウガンダの組織では150人しかケア出来なかった。
ウガンダでは何万人とかになり、アフリカでは想像できない数に上りました。
精神的に挫折して、違う道にしようと思いました。
親をエイズで亡くして、なお心臓に病気を抱えていた女の子(10歳)に出会って、そのままだと命が亡くなることがわかっていた。
友人と帰国してから募金をしようと言うことになり、友人と募金活動を始めましたが思うようには金が集まらなかった。(200万円必要)
最後に80万円募金してくれる人(医療関係者)がいて、インドに渡って無事に手術をして、今元気に暮らしているようです。
一人だけを助けるのは不平等ではないかと言われたりもしましたが。

7年間会社員生活をしました。
その後結婚して2010年子供が生まれて、先天的に異常(食道閉鎖症)があると言われて、生後1日目に6時間の手術をして、何とか助かりました。
これを経験してアフリカの家族の苦痛のことは何にも理解していなかったことが判りました。
日本の医療に恩返ししなければいけないと思うようになりました。
2013年6月から寄付金募集専門職員として勤め始めました。
年間14000件の寄付があります。
病気の子がiPS細胞研究を知って、手紙を書いてこづかいから寄付をしてくれたり、高齢の方から自分には間に合わないが子、孫が病気で苦しまないように財産を残して、それを使ってもらいたいとか、病気で亡くされた遺族の方からとかいろいろ有ります。
大切に使う義務があると思います。
医療従事者の現役を退いた女医のかたからの電話で、余りにも大きな額だったので、その理由を話されているうちに嗚咽が聞こえてきました。
自分が医師として治せなかった患者さんがたくさんいたが、引退して10年たつが忘れられずに、自分の代わりに新しい技術で患者さんを治してほしいと言う話でした。

2012年ノーベル賞を山中先生が頂いたときに、まだ一人も救ってない、と言っていましたが、数限りない難病があるので、今後5年、10年やって行くので息の長い基金だと思います。
ヤフーネット募金と言う仕組みがあり、そこと一緒にやらせていただいて1円分からの寄付が出来るようになりました。
クレジットカードの寄付もあり、又問い合わせ番号を判りやすい番号にしました。
0120-80-8748 80=走れ 8748=山中伸弥(











































2017年10月13日金曜日