2018年6月23日土曜日

秋山章(友禅作家)            ・婚礼衣装ひとすじに

秋山章(友禅作家)            ・婚礼衣装ひとすじに
昭和6年山梨県生まれ、宮大工の修行に入って3年間働き、或る日婚礼衣装をまとった花嫁の姿を見てその美しさに感動しました。
一生の仕事にしたいと京都に出ます。
最初は振袖を仕入れて販売していましたが、自分が思い描く図案で作りたいと、20代前半で会社を作りました。
87歳になる現在も結婚式で花嫁が輝く姿を夢見て婚礼衣装を作り続けています。

私はシーズンとか関係なく、仕事は忙しいです。
作品が仕上がると過去になります、新しさに向かって力が欲しくてもがいています。
ファッション、服飾を作っているのではなく、日本の結婚式という儀式の衣を作っているので、根本的なものは祈りと儀式です。
出会ったことへの感謝の祈りと人と人とが結ばれる結婚式、人間として最高の儀式であると思うので、自分を育ててくれた周りの人に感謝を伝えながら美しい花嫁になっていただきたい、これが望みです。

作品は全て絹の白生地から染めています。
白無垢、白い絹の生地に菊、桜等の花、鶴などの伝統模様が刺繍、金箔などで描かれた上品な作品。
うちかけは本手描き友禅、金箔細工、螺鈿細工が施されていて光り輝く豪華絢爛な衣裳。
金彩工芸は私の特徴です。
本手描き友禅の上に金箔、銀箔、螺鈿が豪華に描かれている。
衣裳は重くはなくて、友禅の一番の特徴は女性の体をまろやかに包み込み、シルエットが綺麗に作れます。
京友禅は総称でその本手描きは全部手で作ったものが本手描き友禅です。
友禅は江戸時代に京都に住んでいた絵師宮崎友禅斎さんが始めたと伝えられている。
色が滲まないように糸目に糊を置いて他の色と混じらないようにしていった染めの方法が友禅染めです。
京友禅、江戸友禅、加賀友禅それぞれに特徴があります。
京都の本手描き友禅の場合は、作品が美しくなるためには自由に取り入れます。
加賀友禅は友禅で仕上がっている、金彩、刺繍などはしていなくてシンプルです。
作品が美しくなるためには自由なので、私は人のやらないことばっかりやってきました。
私は婚礼衣裳しか作れません。

昭和6年山梨県生まれ、尋常小学校を卒業して昭和20年14歳で終戦を迎える。
自由が来ると思ってホッとしました。
父が宮大工で3年間修業をする。
短い期間徹底して教えてもらうべき、一道抜ける、その言葉を父から叩きこまれました。
修行のその期間が私の人間、心を作ってくれたと思います。
婚礼衣装をまとった花嫁さんに出会って、衝撃を受けてころっと自分の人生観が変わってしまいました。
父は亡くなってしまっていて、違う道に進むことに母は許してくれました。
京都に行き、黒振袖を問屋で仕入れて販売をしました。(技術、知識、お金も無かったから)
色とか柄に就いて問屋さんに訴えたが聞いてくれなくて、職人を呼んでいただいて、自分流に作っていただくことから始まりましたが、スムーズにはいかなかった。
職人から無理だと言うことで自分で作ることを考えました。(20歳)
積んである生地、職人が持っている色を使って、職人と触れ合うことになりました。
全部自分流で繰り返しながらやってきました。
友禅に入れたのは友禅を知らなかったからで、奥行きの深さを知りませんでした。
ものを作る喜びは一面に有りますが、とにかく苦しさの連続でした。

20,30代は人の何倍も働いたと思っていて、ストレスも感じました。
良い物を作りたいというストレス、思うように仕事が進まない、そんな中で黄疸になり肝硬変になり3か月入院してしまいました。
それまで一日80本、酒も飲みました。(ストレス、心をいやす為)
無謀だった自分に気が付いてその時から煙草はぷっつりやめて、酒も薬程度しか飲まなくなりました。
その時から朝の運動(1時間40分)を始めました。(今は2時間運動)
食事も周りが気を付けてくれ、よく眠るようにしました。
結婚も多様化しています。

挿友禅、金彩工芸、螺鈿細工に付いて。
アトリエには天の恋人がいて、恋してして恋してこういうものを着せたいと思って作っています。
アトリエの仕事が一番エネルギーを使います、そこで職人さんへの指示書が仕上がると80%終わります。
友禅は基本的には一工程一人でなければいけない。
色を作ることが一番大事ですから、色が決まるまでに時間がかかります。
ぼかし、色の組み合わせなど、ちょっとした違いでも変わって来る。
職人とは怒鳴ったり、喧嘩をしたりしてやっています。
金彩工芸は苦労して開発してきました。
金の中に銅、銀とか混ぜてどう調和をとっていくかということで、どの工程でも一流でないとバランスが取れないといけない所に難しさがあります。
職人は身内、分身です、信頼関係が大事になっていきます。
みんな個性を持っているので、心を一つにするということが大事で、そうしないと一枚のうちかけは仕上がらないと思います。
螺鈿細工は重箱など硬いものの素材に一般的に使われていますが、布に使うのは稀で且ちょっとの処にしか使っていませんが、私はもっと広い面積に使います。
美しいものに憧れていて色々工夫して取り入れ、理想を追い掛けています。
同じうちかけを親子3代で使われているという話も聞いています。
作品はいつも生きている、老いない、枯れない、朽ちないということがとっても大事だと思っています。








2018年6月22日金曜日

片桐はいり(俳優)            ・映画は夢、映画館はふるさと

片桐はいり(俳優)            ・映画は夢、映画館はふるさと
東京都出身、成蹊大学在学中から劇団に所蔵して注目されました。
その後、舞台、TV、映画と個性あふれる演技で存在感を発揮しています。
NHKの番組では朝の連続TV小説の「あまちゃん」、最近のドラマでは朗読をテーマにしたこの「声をきみに」に出演しました。

「もぎりよ今夜も有難う」という本を出版。
もぎり=劇場・映画館・競技会場などの入場口や受付で、入場券の半券をもぎ取ることを指す。
著書の最初に「自からの出自を問われたら映画館の出身ですと、胸を張って答えたい」と記載。
映画が好きで映画館にいたのでこの世界に入ったみたいなところが大きいので、映画館出身の俳優だと言ってしまいます。
小さいころから映画が好きで「101匹のわんちゃん」が最初の記憶で、自分でお金を払って最初に行ったのは「ジョーズ」です。
お風呂にも入るのが怖かった。
「キングコング」が一番泣いた映画です。(自分を重ねたのかも)
映画とその日のコンディションによって見る場所を決めたいのですが、座席が指定されてしまう場合もあるので残念な思いもあります。
いつも行く近所の映画館は私の席は決まっています。
中学時代から一人で映画館に入っていました。
最近、神経質になりすぎている人がいるのではないかと思う時があります。
ペットボトルで水を飲んでも、「何飲んでるの!」と言われてしまいました。
昔の映画館はワイワイ言いながら見ていた印象があるので、映画に引き込む力がそれ位なくてどうするとちょっと思ったりします。
最近応援上映がはやってきています。(みんなで声出して応援したり、歌ったり、踊ったりする)

暗い中にいるのが得意で、一人になれるので良いなあと思います。
歩いてすぐのところに映画館があるのでしょっちゅう行っています。
もぎりもやったりします。(お金はもらっていませんが)
お客さんの案内、掃除などもしています。
観る時は2日に一遍ぐらい観ています。(舞台がある時はそうはいきませんが)
スクリーンの大きい所で見るのがいいですね。
映画館は一人でいるんだけれど、一人ではないと言うところがいいです。
大川監督と菊地健雄監督が是非協力して下さると言うことで短編を6本作って順番に半年間に渡って上映する企画があります。
タイトルも「もぎりさん」です。
改装前の映画館で撮って7月13日からキネカ大森映画館で本編の前に観られます。
18歳の頃から銀座の映画館でもぎりをしました。
映画を観たいがために観放題に観させていただきました。
映画館には渥美清さんも来て下さいました。
とらさんの映画で、もぎりの役をやりました。
お客さんが一斉に笑うのでドーンと扉が鳴りました。(劇場が呼吸していました)

大学で劇団に入って、コマーシャル映画に出ることになり、映画にも出ることになりました。
「自由な女神たち」1987年 松坂慶子さんの整形前という設定の映画でした。
その映画のもぎりもやっていましたが、その後映画に出るようになって徐々にもぎりをやらなくなってしまいました。
映画館に来たらなんか印象に残ってもらえればという思いがあり、案内とかでもやっています。
母親の介護をしていて、8時位に眠ってしまうので9時頃から映画を見に行くことをやっていました。
ほぼ10年位は介護をしてきました。
2011年の大震災が有った後、一人で家にいて電気使ったり色々することが落ち着かない時があった時に、映画館とか図書館などの場所は有難いと思いました。
自分が生きている間は映画館はあって欲しいと思います。

NHKのドラマ、朗読をテーマにした「この声をきみに」に出演。
人間って声を出すと気持ちが変わると言うか、気持ちよくなりました。
素敵な本を声を出すといいということを、落ち込んでいた人に勧めたら本当に気持ちが良くなったということでした。

太宰治が映画のことを書いているエッセー。
「もの思う葦」の中に入っている「弱者の糧」一部を朗読。
「映画を好む人には弱虫が多い。 私としても心の弱っている時にふらっと映画館に吸い込まれる。
心の猛っている時には映画なぞ見向きもしない。 時間が惜しい。
何をしても不安でならぬ時は映画館に飛び込むとホッとする。
真っ暗いのでどんなに助かるかわからない。
誰も自分に注意しない。 映画館の一隅に坐っている一刻だけは全く世間と離れている。
あんないいところはない。  私はたいていの映画には泣かされる。
必ず泣くと言っても過言ではない。  愚作だの傑作だのとそんな批判の余裕など持ったことが無い。 観衆とともにゲラゲラ笑い、観衆とともに泣くのである。
5年前船橋の映画館で、「新佐渡情話」と言う時代劇を観たが、ひどく泣いた。
あくる朝、目が覚めてその映画を思い出したら嗚咽が出た。
黒川弥太郎、酒井米子、花井蘭子などの芝居であった。
あくる朝思いだして又泣いたというのは流石にこの映画一つだけである。
どうせ批評家に言わせると大愚作なのだろうが、私は前後不覚に泣いたのである。
あれはよかった。 なんという監督(清瀬英次郎)の作品だか一切判らないが、あの作品の監督には今でもお礼を言いたい気持ちがある。 私は映画を馬鹿にしているのかもしれない。
芸術だとは思っていない、お汁粉だと思っている。 けれども人は芸術よりもお汁粉に感謝したい時もある。  そんな時は随分多い。 やはり5年前船橋に住んでいた時のことであるが、苦し紛れに市川まで何の当ても無く出かけて行って、懐中の本を売りそのお金で映画を見た。  「あにいもうと」というのをやっていた。 この時にも酷く泣いた。
おもんの泣きながらの抗議がたまらなく悲しかった。 私は大きな声をあげて泣いた。
たまらなくなって便所へ逃げて行った。 あれもよかった。
私は外国映画はあまり好まない、会話が少しも判らず、さりとてあの画面の隅にちょいちょい出没する文章をいちいち読み取ることも至難である。
私には文章をゆっくり調べて読む癖があるのでとても読み切れない、実に疲れるのである。・・・・・私が映画館に行く時はよっぽど疲れている時である。
心の弱っている時である。 破れてしまった時である。 真っ暗い所にこっそり坐って誰にも顔を見られない。  少しほっとするのである。 そんな時だからどんな映画でも骨身にしみる」














2018年6月21日木曜日

南杏子(医師・作家)           ・人生最期を穏やかに

南杏子(医師・作家)           ・人生最期を穏やかに
厚生労働省の推計では2025年には年間死亡者数が150万を越える多死社会が到来すると予想されています。
南さんは自らの経験をもとに如何にして穏やかな終末期を迎えるかというテーマを医師、患者、家族の立場から丁寧に小説を描き注目を集めています。
内科医として日々高齢者の診察に当たる南さんに患者や家族が最後に幸せと感じる医療とはどういうものか、人生最後の医療の在り方について伺います。

子供が2歳の時に医学部に入学しました。
大学を卒業した後、出版社に勤務して育児雑誌を担当して、医師の仕事はいいなあと思っていました。
産休育児休暇を取った時にイギリスに住んだんですが、アロマセラピーを勉強したり、解剖生理学を勉強する機会が有り医学が面白いと更に感じました。
帰国する時に新聞を読んで、医学部の学士入学の制度があることを知りました。
受験をして合格して33歳になって医学部に入り、卒業が38歳でした。
研修医時代も睡眠が数時間で毎日耐えられたのも勉強できる喜びの方が勝っていました。
老年内科が中心になり、最初大学病院で3年間専門の内科をまわって勉強させてもらいました。
その後市立の病院に行きました。
今の病院は入院患者の平均年齢は89歳で、高齢者が中心になっている終末期医療の病院です。

日々診療している時に色んな言葉を患者さんから聞きますが、ぎりぎりの状況の中から発せられる言葉は深いもの、ハッとするようなものがたくさんあります。
私だけの感動にしておきたくはなかった。
御家族との話し合う時間も多くありました。
迷いとか、後悔している方とか、皆さんの気持ちが揺れている、特に食べられなくなった時にはどんな医療方針にするかを話をする時に、終末期どんなふうに過ごしますかという時に私自身が勉強になると言うか、真剣に話をしてきた中で考えてきたことを残したいと言うことが溜まっていって、他の人の為に役に立つのではないかと言うことでそれを聞いていただければいいなあと思いました。
10年前に小説教室のカルチャーセンターに行きました。
今の病院に移って規則的になり、自分の時間が持てるようになって対応できるようになりました
娘は大学生で医学部に行っていますが、小説に関してアドバイスなどもしてくれます。

デビュー作「サイレント・ブレス」 無理な延命医療、ばたばたした終末期医療、時間ではなくて、最後に静かな看取りの時を迎える様な医療ということを言いたいと思いました。
小説では若い女性の医師が在宅医療専門の訪問診療クリニックに移動を命じられて、死を待つばかりの患者と一緒に人生最後の日を迎えるまでの6つの短編になっている。
1作目 一見気丈にふるまっているが、死を受け入れる心を安らかにする時間について臨床宗教師(坊さん)に接する。
社会的な痛み、精神的な痛み、魂の痛みなどがあるが、魂の痛みに対してしっかり向き合ってあげられるようなのはやっぱり宗教家の方だと思います。
東日本大震災の後に東北大学では臨床宗教師の養成講座を作って、広まったようです。

慣れ親しんできた場所はその人の人生の中で凄く大事な場所だと思うし、食べ物を味わうとか、庭がみたいとか、最後に過ごしたい場所はそれまで過ごしてきたところなんだと感ずることが多かった。
私は在宅医療は経験がありますが、素人が簡単にやれるものではないと言うのが実感です。
祖父を介護する祖母のお手伝いをした経験がありますが、辛かったことも多くありました。
まずマンパワーが足りない。(24時間の介護となると限界が来てしまう)
色んな技術、設備もそろって初めて在宅介護ができると言う現実があるので最後は施設、病院でとか、ということになってしまうのではないかと思います。
今のように介護保険があると社会の問題だという、そういうふうに考えられるようになりそういうふうに思えるだけで救いになる制度だと思います。

3作目 胃ろうの問題、ケースバイケースだと思ってはいるが。
この方は胃ろうを作っても誤嚥は防げないとか、いろいろケースがあるので、見極めながらやっています。
家族からの凄く要望があると医師が拒否できるかというと、そういう訳にも行かなくて話をしても諦めきれないようであると、胃ろうを作って経過をもつということも無いわけではありません。
胃ろうはお断りしますと言うことは、元気なうちに意思表示が必要な時代になってきたのかなあと思います。
小説の中の文章 「終末医療では医療者も家族も逆算の思考が必要だ」
後何カ月生きられるかということになったら、10年、20年後肺がんにならないように禁煙することに意味があるのか、そういう意味合いです。
そうなった時に残された人生を楽しみたいから、塩分制限ではなくしっかり味の付いた美味しい食べ物を食べたいし、酒煙草も楽しみたいし、リハビリで苦しむのではなく、のんびり寝て暮らしたいというのであれば、それも半年の命だったら私はいいと思いますが、家族は真逆だったりする訳です。
逆算をしていけば少しでも心地良く過ごせるように医師も家族も考えてあげると思います。

5作目 消化器がんの権威の名誉教授だが膵臓の末期がんになり、自分の余命も判っていて、延命治療をするなと拒否をして自然に最期を迎えて行く。
「食べられなくなったら自分は死ぬんだ、自分は死ぬために自宅に戻ったので治療は要らない。」と話す。
老衰って苦しくない。
食べなくなるということは生命活動を閉じて行く当たり前のプロセスの一つで食べたくなくなる。
からだの持っている蓄えを使いきって、最後蝋燭が消えるように楽な感じで穏やかな表情で亡くなる。
医療には限界があるとこの老教授は言っていて、医師は治療の戦いを辞めることが敗北と勘違いしている。
死なせてしまうことは負けと言うふうに医師は勘違いしているのではないかとこの教授は言っている。
どういうふうにゴールに向かっていい状態で最期を迎えられるか、ということを言いたかった。
1分1秒でも命を長くするのは当たり前の医師としての務めだったが、そこにこだわり続けていると、点滴、管だらけというような、ちょっと過剰な医療をすることによって却って命を縮めたりするそういった印象はあります。
寄りそうような医療が必要だと思います。
老教授は医者には二つのタイプがあると言っている、死んでゆく患者に関心を持つ医師と関心を持たない医師がいる、関心を持って温かく見守ってあげてよ、ということを後輩の若い医師に伝えている。
「人は必ず死ぬ、死を負けと思わない死が必要だ。」と老教授は言っている。

6作目 誤嚥性肺炎で入院して最後は自宅に戻って最期を看取る。
点滴を外してと、母が決断する。
最後の章を書くには勇気がいりました。
延命ばっかりにとらわれ過ぎていると最後の時間が苦しい時間になってしまう。
自分の医療をやるうえでも自戒を込めて書きました。
苦しいのに耐えるばっかりの治療ではなくて、心地良さを優先する医療と言うのが患者さんが求めていることだし、家族の方も求めていることじゃないかと思うので、幸せそうな顔をしているかどうかが問題で、そこを大事にする医療をこれからも探していかなければいけないと思っています。












2018年6月20日水曜日

トロック祥子(陶芸家)           ・光になりたい少女

トロック祥子(陶芸家)           ・光になりたい少女
1944年愛知県生まれ、「光になりたい」この言葉は祥子さんが小学生の頃の自分の思いを綴った作文の言葉です。
祥子さんは19歳の時、ハンガリー動乱でアメリカに亡命した青年と東京で知り合い、国際結婚をしアメリカに渡ります。
1960年時代はアメリカはベトナム戦争、反戦運動、それに自由と平等を求めるウーマンリブの運動が盛り上がりを見せていました。
アメリカ社会で祥子さんは女性の自立、人々のとの考え方や生き方の多様性などを学ぶ一方、夫の女性問題、娘の薬物中毒など様々な悩みを抱え込みます。
その時人生の支えになったのが焼き物つくり、陶芸でした。
陶芸で身を立てる決心をし、35年前備前市に工房を作ります。
備前焼は土作り、窯焚き、窯出しなど様々な手間と時間がかかる仕事です。
中でも祥子さんが取り組んだ作品に裸婦像がります。
細工物を作る教えを受け工夫を凝らして焼き上げましたが、納得できる作品を作りあげるにはとても苦労が有ったといいます。

工房を作って35年になります。
1956年(54年前)にハンガリー動乱で大学生の3/4が亡命しました。
夫の場合はオーストリアに出てマルセイユでアメリカの貨物船に乗せてもらってニューヨークに渡りました。
アメリカではキリスト教のベースの国でとっても親切で、夫はモンタナ大学に奨学金をもらっていきました。
カトリックの家庭で息子のように可愛がられて学業を終わりました。
修士課程、博士課程を修了しています。
その後夫は日本に来ました。
私は名古屋ではなく東京の女子大に行きたいと思って東京に出て来ました。
夫に見染められて強引に結婚ということになりました。
彼は25歳で私は19歳でした。
結婚して2カ月で妊娠しました。
彼は難民だったので子供はどうするかというのが問題になりました。
アメリカに行って市民権をとってから私を呼び寄せると言うことでした。

ハワイで市民権を得ることができて電報をアメリカ大使館に送ってくれ、私はビザをいただいてアメリカに飛びました。(1963年)
東京オリンピックの前年で自由に旅ができない時代だった。
片道切符を買うために父は田んぼを一枚売ってお金を作ってくれました。
彼の叔父の家にいって、みんなハンガリー人で英語は話せずどうしようかと思いました。
夫がアメリカンドリームを求めるためにコロンビア大学のネービス研究所?に入って、大学院の勉強をさせてもらいということで通っていました。
私は家で辞書を使って英語の勉強をしました。
中学校卒業の時の文集。
「光のある間に光のことなるために光を信じなさいと教えられたことが有りました。
女学校時代に希望に満ちていた人が、歳をとるにつれて生活の喜びを感じなくなることは、本当に悲しいことです。
次々におこることに心を奪われていつの間にか希望をうしなって居たのです。
人生に明るい希望を持ったらその希望を信じて生き続けたいと思います。」

とにかく一歩でも前に進まなければというような生活でした。(子育て、英語、夫との会話など)
私が23歳の時に夫がスタンフォード大学に就職して近くにあるカルフォリニア大学の一部の大学に英文科に入って私は英語の勉強をしました。
美術の単位も取らなければいけないということで陶芸が有り、入ったら楽しくてしょうがなかった。
ベンソン先生が褒め方が上手な先生でした。
ニューヨークに住んでいた時にウーマンリブ運動活動が広がって行きました。
私は夫に付いていくしかないという様な生活をしていました。
アメリカはお金は全部夫が握っていて、彼の収入とか、どう使っていたのか全く知りませんでした。
娘は大学を奨学金を貰って卒業しましたが、フルタイムで働いて私立大学に行かせない限りは二人の子供を育て自分でやっていけるだけの給料は取るようになりました。
コカイン中毒でぼろぼろになって帰っていた娘がそこまで成長しているとなると、わたしたちがやってきたウーマンリブ運動も間違っていなかったという気がします。

日本の陶芸は外国にはない美術としての価値が有ります。
祖父がお茶をしていて小さいころから見ていました。
有るデパートで備前焼の個展をやっていて、いっぱい色々作品があり素敵な色でした。
物凄く新鮮に見え感動ました。
武蔵野美術大学に行って勉強したいのですがどこか紹介して欲しいと頼んだら、その先生は備前焼だったら紹介出来る人がいると言うことで、行きました。
山本陶秀先生のお宅でした。
武蔵野美術大学を卒業した息子さんが3人の子持ちの女は弟子に取ることはできないといって、窯業試験場を紹介してくれました。
金重陶陽先生の息子さんの金重道明さんから良い備前焼の土を触らしてもらうと、本当に素晴らしい土でした。
アメリカでの土とは雲泥の差でした。
アメリカの土は粉の土に水を入れて機械で撹袢して粘土にするのでぱさぱさな感じです。
ロンドン大学の陶芸科にも行ったことが有りますが、アメリカと同様なものでした。
備前の土は田んぼから掘り出した土を庭で乾燥させて癖を取ってから、砂とか石を外して細かく叩いてそれを水に戻すが、丁寧にかき混ぜて沈殿させます。
土にかける手間が凄いです。

備前焼は1~2週間窯で焼きしめます。(3人で8時間交代)
若いころは20kg位粘土を練りましたが今は3kg練れないと思います。
夫は女性にもてる人で家族を苦しめました。
ロンドン大学の2番目の娘がマリファナになりいつの間にかコカイン中毒になってしまいました。
窯出しの手伝いに日本に呼んで連れて来た時には、ふっくらとしていた娘が骨と皮だけのようになっていてショックでした。
暴れ出すようになって精神科に入れて、薬が切れてきて手紙が書けるようになって、広島に良い先生がいると言うことで、連れて行きました。
玄米食、野菜、魚などを工夫をして食べさせて段々戻ってきて、1年半ぐらいすると自転車で走れるようになりました。
娘は友人の工房に通うようになって行きました。
娘が2年後にアメリカで勉強したいと言い出して、友人が受け入れてくれてサンフランシスコの私立大学に入学できて勉強しました。(24,5歳)
経済の勉強をして、その後大学院をどうするかという時にスタンフォード大学から全額給付の奨学金が貰える話が有りそのままでいれば博士課程を修了できたが、価値観が合わなくて2年で辞めてしまいました。
就職したが、その後資格を取ってカウンセラーになっています。(次女)
長女も感染症の医者になって自分で稼いでいます。

観音像は粘土の紐を積み重ねて行って大体の形を作って、潰れないような硬さになった時に衣のひだとか仕あげて行きます。
金井 春山先生が細工物を作っていて横で見よう見まねで作っていましたが、友人の父親が京人形師原孝洲先生で観音像を持っていって見せたら骨が出来ていないと言われました。
夫がロンドンに転勤になりロンドン大学の陶芸科にはいって、デッサン、人体のスケッチなどの勉強をしていたが、上手くいかず基本的な骨格をしっかり備えた人骨像と人体とを並べて描いて勉強していきました。
その後裸婦像も作る様になりました。
展示会を開いてその像も買っていただきました。




2018年6月19日火曜日

新井光風(書家)              ・思い切り吸って吐き出せ

新井光風(書家)              ・思い切り吸って吐き出せ
東京出身81歳、67歳で恩賜賞、日本芸術院賞を受賞。
現在は日展の理事で全日本書道連盟理事長、大東文化大学名誉教授持勤めています。
書道に興味を持ったのは高校時代、昭和の大書家西川寧(やすし)の作品を見たのがきっかけです。
書道部や書道塾には行かずに独自に学んで展覧会にも作品を出品して勉強してきました。
27歳の時西川寧(やすし)さんに弟子入りしました。


58歳で大東文化大学教授になり、学生には中国などの昔の作品を手本にして学ぶ臨書を沢山やって力を蓄え作品作りの時にそれを吐き出すようにしなさいと教えて来ました。
臨書は空気を吸うこと、表現する事は空気を吐くこと、吸ったものが無いと吐けないと言います。

理由は特にないのですが、髭を生やし始めたのは5,6年前ごろかと思います。
大学を退職して暇になるのかなあと思っていたが、いつの間にか結構忙しくなって、今の方が忙しいです。
毎週火曜日、土曜日は稽古をやっていました。
展覧会の審査があちこちで有り、講演なども入っています。
自分の勉強もやっています。
8月15日に行われる武道館の追悼式、1999年から標柱に「全国戦没者の霊」の文字を書いています。
毎回緊張の度合いは変わらないです。
書の目的が違うので徹底的に私が無い状態に仕上げるためには、普段よりよっぽど大変です。
自分をコントロールするところから始まります。

古代文字の専門で、篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)などがあるが、書いているうちにさかのぼっていていつの間にか篆書になっていました。
書体には楷書、行書、草書などがあるが、古いものでは隷書があるが、遡ると篆書になります。
篆書にも沢山の書体が有り、最初の文字の起源(象形文字)に近いようなものもあります。
個展は二回しか開いていないです。
常に先を考える姿勢が長く続いてきたので、個展を開くという考えはあまりなかったです。
一回目(76歳)は新作が半分、二回目(80歳 昨年)は全部新作でした。
80歳で自分のすべてを出し切った個展をやろうと思いました。
二回目は3年間だったので毎日書きました。
二回目の時には夢中になっていました。
一回目とは違って書に対する姿勢みたいなものを示したかった。

昭和12年渋谷生まれ。
小学生の頃、彫刻刀で柱に彫っていたりして(怒られなかったが)形にしたかったようでしたが、かなりいたずらだったようです。
筆が家に有ったので、興味は持っていたようです。
ぐにやっとした感触に妙に興味を持ちました。
作品を書くと言うようになったのは17歳でした。
西川先生の書道講座を見て大変凄さを感じました。
自分が変わる瞬間が自分の中に有りました。
高校生ぐらいまで書道部や書道塾には行かず、やっていました。
西川先生の本を見てから全てが始まり、そこからがスタートになりました。
臨書は取りつかれるように夢中になって書き始めました。
中国の書を読むために勉強をしました。
西川先生の本は片っ端から読んで書に対する姿勢を学んでいきました。
仕事は塾のような形で教えて私の収入になっていきました。
家は呉服屋で最初は継ぐつもりでしたが、興味の中心は文字らしくて、調べごとも好きで継ぐことは止めてしまいました。
呉服屋は両親の時代で閉じてしまいました。

27歳の時に西川先生に入門しました。
2時頃から稽古しているが、稽古が終わるのは夜中の1,2時で、朝迄というようなこともありました。
先生は時間の観念は有りませんでした。
その日に習った事は忘れてはならないと思うので、その場ではメモ出来ないので一回整理しないといけないので整理して時には眠れなかったです。
何事においても自分はゼロからだと思っていたので、ちょっと知識を得ると自分が伸びたような感じがします。
作品は、幻、幻影を考えていて、1,2カ月前から書きたいものが頭の中にぼんやり出て来るんですね。
そのうちに段々或る幻にピントが合うように見えだしてきます。
見えてくるとその瞬間に書きたくなります。
展覧会が繋がって来るとそれができなくなるので、より具体的にするためには必死で頭の中で作業をするので辛いです、簡単にはいかない。

これなら書けると思って書いても、一回で書けたことは一度も無いです。
追い求めるものに近づくことはできますが、これだと云うものは一度もありません。
書は怖い、恐ろしい、いくらやっても相手は近づいてくれない。
難しいと同時に面白いんでしょうね。
書というものはいつもがスタートなんじゃないんでしょうかね。
半紙は失敗しても捨てられるという気楽さがあるが、折帖で書いた場合は途中で捨てると言う訳にはいかないのでスタートから一生懸命にやらざるを得ない。
退官してから220冊になります。
今までの土台をもう一回固める必要があるのではないかと思って、80歳以後の私の表現はそのままで行きたくなくて、今まで以上のものを土台として固める必要がある。
夢中になれて幸せです。
限り無く吸い込むいだけ吸いこまないと、前に進む為の準備なので、そうしないと出せない。
自分を見つめ直して自分の中の足りないものを探して行って、補った時に自分が又違うものになれる、その繰り返しだと思います。


2018年6月18日月曜日

木場大輔(胡弓奏者)           ・【にっぽんの音】

木場大輔(胡弓奏者)      ・【にっぽんの音】
案内役能 楽師狂言方 大藏基誠
胡弓 竿の長さが三味線の半分、材質 棹にインド原産の紅木 (こうき)、胴は中国原産の花梨(かりん)で出来ている。
縦に構えて弓で弾く、弓は紫檀、花梨、竹などで出来ていて毛は円筒状に束ねた馬尾毛を使って緩めに無造作に束ねているような状態。
弦を擦って音を鳴らす原理の楽器を擦弦楽器と言って、擦弦楽器としては日本では唯一の楽器です。
約400年の歴史のある楽器で江戸時代初期にはすでに記録が残っています。
三味線、琴の後方の目立たない様な位置で演奏します。
胡弓が主役になる曲はほとんど残っていなくて、古典の世界で言うと「鶴の巣籠」「蝉の曲」「千鳥の曲」の三曲が西日本における伝統的な本曲として有ります。
江戸の方でもいくつかありましたが、ほとんど演奏することはない状態です。
大抵三味線と一緒に演奏されて、単独では演奏されることのなかった楽器です。
伊勢神宮への参道で街道を行き来する人達に路上で聞かせていた、女性の芸能者たちが演奏していたり、それが歌舞伎の中に取り入れられたりしています。

中国の擦弦楽器である二胡とよく間違われるが、二胡は弦が二本しかないが、胡弓は三本有ります。
二胡は二本の弦の間に弓の毛が挟まっていて、弓の毛の裏側、表側の両面を使って二弦を弾き分ける、世界でもまれな構造をしている。
胡弓の弓は楽器から独立している。
雅楽の時代を除くと明らかな外国起源の音楽が曲として残っていなくて、おそらく外国から楽器自体がやってきて曲と一緒に伝承されると言うことはないと思います。
胡弓は哀愁が漂う音です。
指ではじいて鳴らすこともできる。(三味線のような演奏)
弦二本同時に演奏することもできる。(二本同時に音を出せ音の深みが増す)
義太夫のように激しく演奏することもあります。
新しい奏法も有ります。(昨年作曲した「空中都市」という一部分を演奏)
弦を一本足して四弦にして低音域まで音源が広がっています。

大正時代に宮城道雄先生が開発された宮城道雄胡弓あるいは大胡弓という楽器が有ります、三味線と大きさがほとんど変わらない胡弓があるが、大胡弓の音域を兼ね備えた楽器としてこの四弦胡弓を8年掛かりで作りました。
古典曲も演奏できるし、新しい表現もできます。
三味線、琴の演奏家が伸びる音が欲しい時に胡弓に持ち替えて演奏すると言うスタイルなので、胡弓を前面に押し出して活動してくると言う人が出てこない形なので、そこを何とか誰か一人でも変えて行く様な演奏家が出て来ない限り、ずーっと胡弓は影の存在であり続ける宿命を背負っている楽器なので、私は胡弓に出会って魅力を感じるものがあってこの楽器に人生を捧げてみようかと思っています。

父がフォークソングが好きで歌っていてギター、バンジョー、コントラバスが家にあったが触ることはあまりなかったが、エレクトーンを中学の時に習い始めてピアノをやろうとして、ジャズピアノを始めました。
高校生の時に作曲に興味を持っていました。
世界の楽器にも興味を持っていました。
二胡も面白いと思って大学で一年間習いました。
二胡をやっていくうえで伝統音楽の体系を習わないといけないということもあり、二胡の音色は魅力的だが自分のものにはならないのではとの思いもあり、悩んでいる時に胡弓という別の楽器があるらしいということを見聞きして、胡弓の存在を知りました。
(それまで二胡を胡弓と勘違いしていた面が有った)
原一男先生に習い始めました。
胡弓の背負ってきた歴史を考えると、胡弓に専念する人が出てこないから知られない楽器で居続けたのかと思って、自分が胡弓に専念して胡弓の為の作品を作って胡弓の可能性を色んな方に知ってもらいたいと思うようになりました。

*「焔(ほむら)」 胡弓に秘めた炎を爆発させるような表現にしたいと思って作った曲です。

日本の音 僕は余韻だと思います。
日本人って、ぱっと出た瞬間の音ではなくてその後に響いている余韻の方を聞いていると思います。
琴、三味線とか撥弦楽器のような余韻を楽しむのが日本の音感覚だと思うので、胡弓のように音の伸びる楽器はともすると撥弦楽器の余韻を殺しかねない。
胡弓がメジャーになれない一つの要因だったのかもしれない。
胡弓の演奏技法を工夫すれば同じ様な余韻を表現できるので、余韻ができるように工夫をしていて、もっと胡弓が余韻を楽しめる楽器として広まってくれたらなと思っています。
優れた独創曲を発信すること、胡弓のアンサンブル 琴、三味線、三曲合奏があるが、胡弓だけでアンサンブルを組む、その面白さの可能性を色々胡弓の低音域を開発したりしてもっと広めていきたいと思っています。






2018年6月17日日曜日

川島良彰(コーヒーハンター José.)     ・【“美味しい”仕事人】

川島良彰(コーヒーハンター José.)     ・【“美味しい”仕事人】
61歳、1年のうち100日以上世界のさまざまなコーヒー生産国で過ごしている川島さん、幻のコーヒーの木マスカロコフェアや幻の品種ブルボンポワントゥを発見して、コーヒーハンターのホセと世界中に知られている人です。
10代で単身エルサルバドルに渡ってから、現在まで海外で長きにわたりコーヒー栽培に携わっている川島さん、「生産者と消費者をコーヒーでつなぐ」というテーマでコーヒー人生について伺います。

コーヒーの香りは本当に癒されます。
良いコーヒーは香りの余韻の長さが違います。
エルサルバドルは中米で一番小さな国です。
この国に行って僕の人生は変わってしまいました。
1999年にマダカスカルに行って、マダカスカルにしかないマスカロコフェア(カフェインがほとんどないコーヒー)を探しに来ましたが、マダカスカルではマスカロコフェアを知っている人が誰もいませんでした。
ジャングルで探す旅が始まりました。
フランスの植民地時代にフランスの研究者たちがやっていた森になった試験場跡を探し当てました。
その時に現地人からコーヒーハンターと呼ばれるようになりました。

静岡市のコーヒー焙煎卸業の家に生まれ、幼稚園の時から父がおいしいミルクコーヒーを作ってくれて、長男だったので継ぐことを意識していました。
どうしてもコーヒーの取れるところに行きたくて、小学6年生の時に東京のブラジル大使館に手紙を書いて、コーヒー園で働きたいと出しました。
父親から中学を出てからとか高校をと、どんどん伸ばされてしまいました。
高校2年の時に父がコーヒー視察旅行でメキシコ、中米を旅をしてきて、メキシコの大学にいくかと言ってくれて、父の知り合いが駐日エルサルバドルの大使ベネケ氏だったので、父と一緒に相談にいったらエルサルバドルに来なさいと言うことになり決まりました。
18歳でエルサルバドルのホセ・シメオン・カニャス大学に留学しました。
言葉を覚えて、国立コーヒー研究所にアポなしで所長に合わせてほしいと行って、コーヒーへの思いを伝えました。
追い出されたがその後毎日1カ月研究所に通って、所長室に坐り込みました。
一カ月後に所長室に入れてもらって話を聞いてくれて、若い農学博士が僕の為にカリキュラムを作ってくれました。
後で知りましたが、そこは世界最先端の研究所でした。
1975年にエルサルバドルは四国よりちょっと大きな国ですが、世界で3番目のコーヒー生産国でした。

大学は休学届を出して研究所に通いましたが、父にもばれてしまって父の家業の後を継がないと言ったら勘当されてしまいました。
人工授粉、剪定、などいろいろ教えていただきました。
その時の所長はその後農務大臣になりました。
駐日エルサルバドルの大使ベネケ氏、所長など恩人が一杯います。
格差が激しく70,80年代は中南米は一番荒れた時代でした。
反政府活動が始まり、首都攻防戦もあり79年には革命が起きましたが、そのころもずーっといました。
友人も7人組がはいって家から連れ出されてどうなったのか判りません、多分殺されていると思います。
ベネケ大使も実業家になられましたが暗殺されて、知り合いは7人位は殺されてしまいました。
首都から出てはいけないと言われていたが、結局ロサンゼルスに疎開しました。
大手のコーヒーメーカーの創業者との出会いが有り、ジャマイカのブルーマウンテンの農園開発を手伝って欲しいと頼まれました。
その人は奈良の田舎からリヤカー一台で今の会社を作った人で、リヤカーでコーヒーの行商をしていた時の夢が農園を持てるようなコーヒー屋になることで、農園を持つならブルーマウンテンの農園で、日本には判る人がいないから君に会いに来たんだと言われました。
私に会う前に、会長は父の所に行って「うちの会社に入れたいが」といったら、父は「もう勘当しているので好きなように」と言ったそうです。(笑い)

エルサルバドルは母国のように思っていたので、エルサルバドルに戻りたくてその話はお断りしました。
政情が安定していたら研究所に戻り、駄目だったら日本に帰ろうと決めました。
もし日本に帰ることになったらと言って会長が名刺を渡してくれました
2カ月後にエルサルバドルに戻ったら先生もゲリラから脅迫されて国外追放になり、研究所も縮小され駄目だと思って日本に帰ることにしました。
会長の名刺から電話をしたら、「来ると思っていた、ポジションは残してあるので直ぐジャマイカに行ってくれ」と言われました。
農園経営はやったことが無いのでと言ったら、「君はコーヒーを栽培することができるのでワシよりましだ、責任は全部取るから暴れてこい」と言われました。(25歳の時)
3億円を資金として渡されました。
凄くいい勉強になりました。
ジャマイカは治安が良くなくて銃を持ちながらの仕事でした。
山火事が大変でした。
隣りの農園から火が出て2/3やられてしまい、精神的にも肉体的にもくたくたになりました。

1988年9月にハリケーン ギルバート(20世紀最大と言われ、風速95m)にやられて全滅しました。
ジャマイカで屋根が残った家は一軒も無かった。
9月なので倒れている木に実がなっているが、地上30cm位の所から切りました。
根を守ることができて、2年で再生しました。
その後会長からハワイのコナを元気にさせろと言われて、いい生産者からコーヒーを買って日本に送るようにいわれ、なおかつ自社の農園を作って技術革新をしたものをコナの生産者に指導するように言われて行きました。
ブルドーザーで溶岩をはがして、溶岩を細かく砕いて土を掘り起こして反転させて畑作りをしていきました。
ハワイで払う労働者の時給がジャマイカの日給ぐらいで、人件費がめちゃくちゃ高かったです。

1999年マダカスカルでマスカロコフェアを探しに行き、ブルボン島でブルボン種から突然変異でできた品種ブルボンポワントゥが絶滅してしまって、文献では香りが非常に高くてカフェインが通常の半分しかないということだった。
ブルボンポワントゥを探しに行ったが、農政局長に会いに行ったが鼻で笑われて無いと言われて、ブルボン種のこの島の重要性を話したら一緒に探そうと言うことになり、その時は見つからなかったが、3カ月後にハワイに連絡が有り30本近く見つかったからすぐ来いということで行きまして、ようやく2007年に日本でデビューさせました。
当時、100gで7000円でしたが、社内からは絶対に売れないということだったが、2週間で完売しました。
51歳で会社を辞めて独立しました。
年の1/3位は産地には行っています。
どうやったらちゃんと競争力のあるコーヒーを売れるようになるのか、ルワンダで作ってちゃんと売れるように助けるのが僕の使命だと思っています。
コーヒーを通して生産国と消費国を繋ぐ懸け橋になりたいと思っていたが、気が付いたら生産国同士をつなげる活動(木の育て方、生産方法など)をするようになってきました。