2017年12月16日土曜日

南定四郎(ゲイリブ運動の先駆け)    ・85歳の同性愛者が歩いてきた日本

南定四郎(ゲイリブ運動の先駆け)    ・85歳の同性愛者が歩いてきた日本
1972年に自らが編集長となって当事者に依る初めてのゲイ雑誌を創刊し、80年代には同性愛者の権利を求める団体を結成、1994年に日本で初めてレズビアンゲイパレードを開催するなど先駆的活動を行って来ました。
現在は沖縄で同性愛者のほか、男女両方を好きになるバイセクシャル、心と身体の性が一致しないトレンスジェンダーの人を含めLGBTと言われる性的マイノリティーに関する相談員を務めています。
戦後同性愛者はどのように生きてきたのか、現在の性的マイノリティーの状況をどう感じるのか伺いました。

今年の1月から月に一度沖縄市の社会福祉協議会でLGBTの相談員を務めています。
相談に入る前に手間取ります。
電話相談です。
名前は聞けないのでイニシャルから入ります。
もやもやを言語化させるのが大変な苦労なんです。
自分が悩んだことなどを話すとようやく話しだします。
男性のことが好きだと言う前に身体的な関心、身体的に触れてみたいと思ったのが小学校3年生の時でした。
近くにお菓子屋さんがあり、10歳上の跡取り息子との付き合いが、性に目覚めるきっかけでした。
公園に遊びに行こうと誘われたが、どんどん丘の頂上に行って彼が突然下半身を脱いで射精することを見せつけて、それが性の体験の始まりでした。
それ以来、あずき洗いの手伝いをしたり、カルタ遊びに誘われたり、百人一首のカルタ遊びに誘われたりして、嬉しい、楽しい感じでした。
抱きしめるとかと云うことをすると言うことは何にもありませんでした。
自然な感情でその人が好きでした。

高校を卒業して秋田地方検察庁に就職しました。
本屋に行って立ち読みしようといって、風俗雑誌を見ていたら、そこに書かれている内容そこに集まって来る人の会話などがちょうど自分と同じだと思って、それが同性愛者なのかと初めて同性愛者と言うことを発見した訳です。
自分を得体の知れない人物だと思っていたが、なんかほっとしたような感じでした。
相談したら罵倒されて私の周りからいなくなってしまうのではないかと思っていました。
書かれていた東京の秘密の場所に行ってみたいと思いました。
東京に出てきて仕事をするようになりましたがその場所には行っていませんでした。
放送局の音響効果の仕事を担当することになりました。
私のところに近寄って来る人がいて、案内したいところがあると言って行った処が、ゲイバーでした。
そこから交流が深まっていきました。
その後色々な仕事をしました。(出版社、大工、陸橋を作る現場、専門誌の記者など)
気づかれるとまずいと思って3年程度で職を変えました。(首になると思った)

差別されているような感覚はありました。
30歳台になって結婚しましたが、子供を作らなくてはと言う思いがありました。
結婚生活は苦しかった、二重の人格を生きている訳ですから。
帰らない日がだんだん増えて行って最後には自分が家出をすることになり別居しました。
1974年に「アドン」を創刊、提案されてやった仕事でした。
すでに他に雑誌がありましたが、その内容が気に食わないと言うような話があり、新しい雑誌を作らないかと言われました。
ほとんどは普通の人と同じような社会生活をしているので、そこに起きてくる問題などを解決する、アドバイス、実体験の投稿を載せると言うことが、わたしの編集方針でした。
いかにして同好の志を見付けるか、結婚をどうするか、小説、外国の情報、など。
私はその時に同性愛者だと言うことを公にしました。

もう私を首にすることはなくなると思いました。
社会からはじき出されることもありませんでした。
初版3万部を全部売り切りましたが、読者に嫌われずにこの仕事をしていれば生きていけると思いました。
大きな転換でした。
ある外国人がIGA(国際ゲイ協会)で役員をしているが、アジアから参加していないので日本のあなたが参加して欲しいと言われました。
断わったが、どうしても引き受け手がいないと言うことで引き受けることにしました。
その後電話の相談をしました。
母親からの相談、私の育て方がいけなかったのかなどあるが、その人のいうことをまず聞いて当人の生きやすいようにしてやった方がいいのではないかと言うようなアドバイスをしました。
その後同性愛者の人権と云う事に結び付いていくようになって行く訳です。
1994年にレズビアンゲイパレードを開催、1年前に講演をして来年レズビアンゲイパレードを開催したいが実行委員に応募したい人が居ないか聞いたら10人もいて、それがきっかけです。

最初は50人、新宿駅南口を通ったらそこから一気に100人になり原宿あたりで250人になり、終点では300人になりました。
開催する前に止めろと言う電話がガンガンかかって来ましたが。
2回目は1000人、3回目は2500人その時には決議文を読みました。
異議ありと言う人達が50人ほどきて、演説を始めました。
解散宣言をしてスタッフがみんな帰ってしまいましたが、現場責任者が1人残りましたが、翌年2月15日に私たちの事務所のビルの7階から飛び降り自殺をしてしまいました。
これからは大言壮語は止めようと雑誌を廃刊し、全ての活動から引退しました。
身体の都合から沖縄に移住する事になりました。
誘いがあり沖縄の運動に参加するようになり、電話相談を引き受けるようになりました。
振り返る機会がありましたが、理想を掲げて皆に納得する手続きは踏んではいるが、かなり強力に主張してリードしてきたが、自分のことよりも大きな社会的な理想とか、理念として正しいんだからついてこいと言うようなやり方に終始していたが、今は大いに反省をしています。

今では代々木公園ではLGBTのイベントでは10万人規模になった。
10万人はそれぞれが1人で、基本的にはばらばらだと思います。
世の中が変わってLGBTの環境は良くなったが、ブームを仕掛ける色んなことがあって成り立っていて、仕掛けが取れてしまえば崩れてしまうと思う。
当事者が強くならなければいけない、そして流れを作っていかないといけないと思う。
人権と言うものは、当たり前だと思うことだと思う。
自分たちが成り立つことが重要です、自分を確立することが人権の基本だと思います。












2017年12月14日木曜日

湯原悦子(介護殺人”研究者)       ・大切な人を殺さないために!

湯原悦子(介護殺人”研究者)       ・大切な人を殺さないために!
介護に疲れて家族の命に手をかけてしまう介護殺人が後を立ちません。
20年にわたって介護殺人を研究している日本福祉大学准教授、湯原さん47歳に依ると、確認できるだけでも 年間40件ほど、その数は年々緩やかに増えていると言います。
湯原さんは精神障害者の母親の介護を経験し、福祉に付いて学ぼうと大学に再入学して研究を続けて来ました。
介護殺人を減らすにはケアマネージャー等の支援者が介護を担う人をどう支えるかが重要なポイントだと指摘しています。
大切な人を殺さないために何が必要なのか伺いました。

私が育った家には障害のある姉と病気の母が居ました。
介護は身近な問題でした。
それで研究者になりましたが、介護者自身の言葉を分析している研究が無くて、支援者側から見た事件や虐待の研究が多かった。
介護者はきっとこうは考えていないのではないかと思って、介護者自身の声を伝えていきたいと思ったのが研究のきっかけです。
OLをやっていたが、母の病気がひどくなって辞めました。
母は精神疾患だったのですが、ほんとうに困ったことが有って、我慢が出来ない、わたしを困らせないでと思ったときに、瓶を机で割ってかけらを掴んだ時に血が出て正気が保ったことが有って、10年傷が治らなかった。
瓶を持って向かって行ったら母も向かってきたかもしれず、介護殺人になってしまっていたかもしれない。

大切な母親だと思っているが、カッと来てしまって自分を押さえることが出来ないことがある事を実感しました。
母の行動にたいして近所の方から色々苦情が来て、地域の中でも孤立してしまい、なんとかしてほしいと言われて追い詰められました。
大学院に入ったのは1998年で、児童虐待が世間を騒がしていた状況でしたが、高齢者虐待についてはほとんど研究されていなくてそれをテーマにしました。
加害者にインタビューしたかったが、支援者にたいしての調査研究しかできなかった。
加害者はそうは考えていないのではないかと思いました。
法学部出だったので裁判例を使えばいいと思って、介護殺人の研究をしようと思うようになりました。
当時は誰も介護殺人を専門に研究する人はいませんでした。(いまでもあまりいないと思います。)

この問題は是非世の中に出して行かなくてはいけないと思いました。
法廷の場にも行きました。
裁判官から、あなたはこの事件を起こして反省しているかと問われて、「自分は何にたいして反省したらいいかよくわからない」と言った人がいました。
(夫が奥さんを殺してしまったと言う事例)
夫としては出来る限り一生懸命やって、痩せて夜も眠れない位してきた、問われた時に「自分は何にたいして反省したらいいかよくわからない」と答えたことは、凄く正直な気持ちとして私のなかに響きました。
「父は良くやっていたので父を責めるのなら私を責めてください」と、娘さんがいって、その光景は頭に焼きついています。
ぎりぎりまで追い詰められたけれど事件を起こさなかった人の手記を集めた本があるが、自分にたいして支援者が声をかけて、話を聞いて冷静になれたとか、手をかけた瞬間相手が反応して自分に気が付いたとか、そういうちょっとしたことで戻ってきた人もかなりいますので、声を掛けてあげるとかはまわりが出来ることかなと思います。

介護している方そのものが高齢だったり、自身病気だったり、障害を抱えていたり、介護する人がこんなに大変な介護を一人で背負わなければらないのかという状況が見られる。
これが一つの大きな要因だと思います。
介護者を支援する制度はほとんど無いんです。
介護者を支援する方法しかないと思います。
殺してしまった介護者、色んな事情から殺してしまった人をどうしたら事前に食い止められるかと思ったときに、介護者支援を本気で考えないといけないと思いました。
あるケースでは、介護者が重いうつ状態になり痩せて行きアルコールを飲み、気付けるはずだったが、まわりがその時に気づけば防げたと思います。
介護者自身が病気、あるいは85歳以上とか、が大変な介護をしなければいけないとかと思う場合もあるし、若い方で外部とのコミュニケーションが取れない方が親の介護をしなくてはいけなくなったときに、外部と交渉したりするには介護者としてやって行くのは難しと思います。

不適切な介護状況にあれば外部からの支援はあるが、それなりに介護している状況にあれば介護者に任せることになってしまう。
介護者支援はだれがやるのか、お金はどうするのかとなると、システム的に出来ていない以上無理をお願いすると言うことになってしまうと思いました。
海外に行ったときに介護をする人とされる人の両方が居ないと成り立たない行為、何故日本では介護を必要とする制度はあるが、介護をする人への支援は薄いのかと言われて、はっとして介護者支援は介護の両輪としてふたつが必要だと意識を変えています。
介護をするきっかけ、その人の守りたい生活などを聞きながら相談にのってくれるソーシャルワーカーが居て一緒に考えてくれる。
イギリスが一番先行していますし、社会的排除をしないようになっている。

南オーストラリアでの実践は衝撃的でした。
介護者の方々が自ら集まって、社会にたいしてどういうふうな存在で、どういうふうなことを求めているのかと言う事を自分たちでまとめた介護者憲章を作りました。
当事者が自分たちにたいしてどう見てほしい、どう支援してほしい、どういうふうなかかわりを持ってほしいと言うことで、力を感じましたし、重要だと思いました。
参考にして欲しいと憲章をプレゼントをされました。
日本でも作りましょうという事で、愛知県支部として介護者憲章を作りました。
介護者憲章を学会で報告しましたが賞を頂きました。
介護を代わってほしいと言うようなときにも、誰かが代わってくれると言うことがなくて、我慢して追い詰められてしまう介護者の現状があると思います。
代わって介護する為の手段として地域で考えて出来るといいですね。
愛知県ですと、認知症の人と家族の会等当事者の団体が自分たちも支援を求めていいんだということを確認しましょうと、希望、やれることを支援者に伝えるシートを作ってみたりとの取り組みはあります。
法制度は遅々として進まない。
実践は実践で進みつつあります。(介護支援者へのツールとか、勉強会)

誰が、予算は、と言うことに最終はなるので、法律のあるないは大きい。
虐待防止法はあり、介護者支援の視点が入っていて法的な枠組みの中で行うことが出来ていてネットワークはあるが、それ以外は出来ないこともあるので法律は是非作っていきたいと思います。
介護殺人を無くすためには介護者支援をするという発想と、介護者の方がどれぐらい介護を出来るかを見極めて出来ない部分を助けると言う発想が必要だと思います。
また事件を振り返って、その後気づいた点をサービスの充実に生かしてゆくことも必要だと思います。
「助けて」と周りに表現することも大事だと思います。
そして支援が出来るところに繋いで欲しいと思います。


















2017年12月13日水曜日

小林由佳(乳がんブラジャー製作者)    ・片胸が無くてもお洒落を諦めない!

小林由佳(乳がんブラジャー製作者)    ・片胸が無くてもお洒落を諦めない!
39歳 小林さんは3年前に乳がんが発覚、医師からは2,3年以内に再発、転移しやすいタイプのがんと伝えられ、右胸の全摘手術を受けます。
その後離婚を経験、闘病生活の中で鬱状態になった時もありましたが、乳がん患者だからわかると、乳がん患者専用のブラジャーを製作する会社を立ちあげます。
片胸がなくても胸を張って生きていこうと呼びかける小林さんに伺いました。

私自身右胸の全摘手術をして、その傷が当たっていたかったりとかあって、下着で困った経験からこういったブラジャーを作っています。
普通のブラジャーを付けるとパットを入れて生活するが、パットが徐々に飛び出してくるんです。
うちはレモン型のパットを作って患者さんに渡しています、パットはS,M,Lで展開していますが、それの中間もあるのでそれぞれに工夫もしています。
がんになっていない人は色々選べるが、乳がんになると地味な下着しか選べなくて、不公平だと思って自分で作るようになりました。

乳がんが判った時は、胸がブラジャーに収まらなくなってきて、右だけが大きくなって病院に行きました。
不思議だなと思ってから3カ月後に病院に行きました。
腫瘍が4cm位になっていました。
最初病院から良性と言われて、念の為細胞診をしたら病院から電話が来て悪性だと言われました。
頭が真っ白になってしまいました。
主人に報告しないといけないと思ったが、大事な会議があると言うことでラインで報告しました。
主人との関係がうまくいかなくなってしまって離婚しました。
片胸が無くなってしまったことで、女性であるのに女性で無くなったという自分自身にたいする自信が無くなったことが大きかったと思います。
抗がん剤を強めに打ってもらったことで、生理も止まってしまって、良い細胞も壊してしまって、卵巣の機能も低下してしまって子供を産めない状況になってしまいました。
そうなることになるとは判らず治療をしました。

医師に話したら抗がん剤の為に生理が止まっているとの話だった、それを前に聞いていれば卵子を凍結して取っておく方法も可能だったとは思います。
友人からは胸がなくても命があるから大丈夫と言われたが、でも胸は無いんだよなと、立場の違いを感じました。(友人には子供がいたし、自分は子供が産めない身体になってしまった)
離婚後実家に戻って、暫く引きこもりになってしまいました。
インターネットで乳がんの患者が集まるグループを見つけまして、そこに入ったのが変わるターニングポイントだったと思います。
グループには300人ぐらいいました。
好きな人ができたが、胸がないというハードルが出来てしまい、自分自身に自信が無くなってしまって、恋愛にたいして前向きにできないのだがどう思いますか、という内容を投稿しました。
もっと重い患者の人がいるのに、と言うような反感の内容もありました。

数人から温かいメッセージを頂き、凄い励みになりました。
或る方からは自分の命を日々燃やして生きていると言うような状況の中で、温かいメッセージを頂きました。(その方はそんなに重症だとは知らなかった。)
その方は私にメッセージを送った2カ月後に亡くなってしまいました。
悲しみに暮れましたが、私にしてくれたことを今度は私が何かしようと思いました。
下着に困ってしまっていて下着を調べて行くほど、機能はいいが可愛くないものが多いと言うことと、輝くことをあきらめてほしくないと言うことがありました。
結婚式の時のブライダルインナー、美に対してのこだわりがある。

カウンセリングをして、現状困っている事を全部話を聞かせていただいて、その方に合った下着を選んで着けてもらって、加工して出すようにしています。
患者さんに寄り添ってあげることが言葉をかけるのではなくて、そばにいてあげることだと思います。
乳がんの患者さんは胸をカバーしたいので、洋服の上に洋服をみたいな感じできたりしますが、Tシャツ1枚、シャツ1枚、身体のラインが出るドレスを着ることが嬉しいみたいなので、一つ一つ解決してきたのが良かったと思います。
乳がんブラジャーのファッションショーを今年の夏に札幌で開催。
私自身も参加して下着を付けて歩きました。
前向きに生きていることを見ていただきたくて、歩かせていただきました。
患者にとって希望の星だと言われて、先導して歩いていけるような存在になっていけたらいいなあと思います。
会社を立ち上げて両親が凄く応援してくれて、母は私が子供が産めなくなったことに対して、「あなたは今乳がんの患者さんのために下着を作ると言う仕事をやることに決めたのだから、あなたが社会に遺伝子を残しなさい」と言ってくれたのが励みになっています。












2017年12月12日火曜日

本田理沙(元アイドル・ストーカー被害者)  ・逃げる勇気を

本田理沙(元アイドル・ストーカー被害者)  ・逃げる勇気を
大分県中津市出身、17歳でアイドル歌手としてデビュー、雑誌のグラビア、TVドラマ、バラエティー番組など幅広く活動しました。
親元を離れ一人東京で暮らしていた間、たびたびファンに付きまとわれたり、見知らぬ男性に襲われたりする被害に悩まされました。
中には命の危険を感じる出来事もあったと言います。
度重なるストレスから、本田さんの身体には耳が聞こえなくなるなどと言う異変が現れ26歳で芸能界引退を余儀なくされました。
46歳になった今は故郷の大分で地元FMラジオ局のパーソナリティーやダンススクールの講師を勤めながら2人の娘と暮らしています。
本田さんの体験や女性が身を守るために必要な事などについて伺います。

絶対的なアイドルと言うよりは、時代が下がって放課後のアイドルとか、ちょっと距離が近くなった感じのアイドルの時代でした。
接点が多くなり、男の子だったら彼女みたいに思われていたんだろうなと言うことを感じることはありました。
ファンレターも内容が激しい感じのものもありました。
営業先で1泊することがありましたが、楽屋泥棒にあった時もありました。
関係者しか入れない様な場所だったが、下着、着替え、メーク等無くなってしまったことがありました。
後から手紙で実は僕が盗みましたと、独占欲が強くてというような内容のものでした。
必要なファンだけれど、紙一重的で、でも根はそんなに悪くない様な、微妙な状況でした。
警察沙汰になったのは、エレベーターで自宅に帰ろうエレベーターに乗ろうとしたら、一緒に男性が乗って来て、閉ったら急にはがいじめにされてしまいました。
身体を触られたりして、ナイフを持っているから騒ぐなと脅されました。
その時はGパンをはいていて良かったとその後では思いました。
刺されるれるよりはと思って無抵抗でいました。
ドアがあいたら、小学生がいたが、異常な雰囲気を察して逃げて行ってしまいましが、顔をみられたと思ったのか、犯人もその子を追いかけるように逃げて行きました。
警察に来てもらったが、自分では顔を見ていなくて判らないと答えるしかなかった。

その後エレベーターには乗らないようにしました。
ファンから家が見つからない様な工夫はしました。
ファンからのぬいぐるみには盗聴器がないか、注意しました。
プレゼントに電話を貰ったこともありました。
使い始めてしばらくした頃聞かれているのではないかと思うようになりました。
そのほかやはり盗聴されているのではないかと心配で友達とは筆談したりしました。
色々積み重なってそのうちファンを見ると具合が悪くなるようになりました。
夜の9,10時位に家に侵入されたこともありました。
引き戸が5cm位開いて、棒状の懐中電灯の赤いライトが見えて、恐怖のため耳鳴りのような感じがして音が一切遮断されて音が聞こえなくなり、その場を逃げてベランダで叫んでいたようです。
警察を呼ぶからという声がその時しました。
2階から飛び降りようとしたら、俳優の金山一彦さんと二人で自転車で来てくれて、「男がいる」と叫んだら、肩車をしてベランダから降ろしてくれました。
その男は見ることはできなかった。
洗面所のドアが開いていてそこから侵入していた事が判った。
警察が調べたがつかまってはいませんでした。

事務所からはあなたの自己管理がなっていないと怒られて終わってしまう。
自分だけの問題では無いと思いましたが、公には言わなかった。
公にすると両親も心配するし、何倍、何十倍にも尾ひれがついて大変なことになると事務所からも言われました。
一人でいることが厭でした。
親が亡くなったり、TVを見ることが無くなった状態なので今言わなければと思いました。
耳鳴りは今も続いています。(メンタル的にびくっとした時などにおきます。)
低音が大きく聞こえてしまって、通常の音が聞こえなくなる。
娘が2人いますが、高校生の時に痴漢にあいました。
電車内の出来事で、寝ていたら高齢者に腿を触われ、周りの人と一緒に捕まえて警察に行きました。
自分は自分で守らなければいけないと話しています。
私が言える範囲のことは言うようにしています。
追ってしまってとんでもないことに巻き込まれては大変だし、追わない勇気も大事だと思います。

私ももっと早く言えば良かったと思います。
自分の身を守るのは自分しかないと思います。
周りとはコミュニケーションをとってほしいと思います。(話しやすい環境作り)












































2017年12月11日月曜日

清水宏保(男子500m 金メダリスト)  ・【“2020”に託すもの】オリンピックのむこうに見る夢

清水宏保(長野オリンピックスピードスケート男子500m金メダリスト)・【“2020”に託すもの】オリンピックのむこうに見る夢

見た目にも筋力が多いなあと伝わる様です。
太ももは今は64cm、現役当時は68cm位ありました。
現在札幌市内でジムとリハリビの施設を経営、最初は治療の方から始めて、リハリビ施設、訪問看護ステーション、そして昨年念願のスポーツジムをオープンしてきた。
運動がメインになりながらスポーツと医療が融合する施設作りを心がけています。
他のスポーツジムとはない形になってきたので、面白いかなあと思いながら運営しています。
医療の観点、アスリートの観点、リハリビを行うのは病院と決まっていたが、病院は在日数が決まっているが、退院した後もリハリビを続けられるジムは、若者だけではなく70,80歳の方でもスポーツジムに通いながらリハリビをしていくことが求められている。
80,90歳の方がスポーツジムに行っても何をやっていったらいいかわからないと言う時に、医療スタッフ、理学療法士を配置しているので、医療の観点からのスポーツジムと言うのも凄く需要としてあります。

1998年長野オリンピック(来年で20年)は、自分の人生を大きく変えてくれた出来事でした。
当時の事を鮮明に覚えています。
500m、2回滑ってその合計タイムとなる。
*当時のラジオ放送を再放送。
36秒08で金メダルを獲得することが出来るが、35秒59でゴール。
この種目オリンピック初めての金メダルを獲得。
私たちが滑る少し前の組の外国勢が転倒して競技が20,30分遅れてしまい、どうしようかとあわただしい状況がありました。
準備番たんの時にそのアクシデントがありました。
1分単位で準備して待っているスケジュールで組んでいたので、動揺が生まれました。
集中力、体力的なものも左右されます。
あわてても仕方がないと思って、スケート靴を脱いで戻って気持ちを落ち着けようと思いました。

リンクの中央部分で大の字に寝たことを覚えています。
1回目のスタートが合わなかった。
何故リスタートなのか、怒りが起きました。
1/100秒を争うスケートなのでスタートの第1歩が物凄く大切になって来る。
僕の場合は1歩目が決まればそのときのレースは9割がた決まってくる。
2回目もいいスタートを切れたと思う。
300mまでは失敗をしないように頑張っていこうと思って滑り、最終カーブを回った時にふっとスローモーションの感覚があり、もうオリンピックは終わってしまうのかこの感覚を味わっていたいと言うような感覚が残り150mでありました。
凄く冷静な判断が出来た様な感覚がありました。

一発勝負に強くなる練習はしていました。
練習のすべて全力でこなすのではなく、一日1本でもいいから全力でこなす練習をして自然と集中力が身に付きました。
ヘッドフォンで音楽を聞いて外からの音を聞こえなくすることも、話しかけないでくださいと言うアピールでもある訳です。
肉体を知り尽くすことも心がけていました。
私の場合はぜんそく患者なので肺が弱くて、皆の練習についていけないと言うことが有った。
ハードな練習をして肉体を鍛えて、肺を鍛えて行くと言うことをしました。
精神的な強さも作り上げることにもつながっていきました。
北海道帯広生まれで、喘息をコントロールしていこうとして、父親が色んなスポーツをやらせてくれて、スケートだけは続けたいと思っていました。

30歳を越えたぐらいから身体がいうことを聞いてくれない、なかなか回復しなくなった。
1本にかける勝負も出せなくなってきた。
世界記録を4回塗り替えたが、33秒台をだしたい気持はありました。
勝負と記録への挑み方、ふたつの勝負ポイントがあったが、それでモチベーションを保っていた。
レースの前は身体をほぐし過ぎてもいけないし、方法も大事。
マッサージを受けながら画像診断しているようなイメージでマッサージを受けるが、受け身ではない。
自分とトレーナーと一緒に身体を仕上げて行く作業をしています。
喘息、腰痛との戦いがありそれが今のビジネスに繋がっています。

30歳を過ぎてから、次の人生をどうしようかと悩んでいました。
35歳で現役引退しました。
1年間はどうたらいい判らず、講演などをしていました。
その後大学院に入って自分がどうして行ったらいいか、気付き始めた時期でもありました。
どんな選手であろうと、アスリートのセカンドキャリアーは一度は悩むことだと思います。
現役時代もっとぼろぼろになるまで挑戦してれば良かったなあというような、悔いがちょっとあります。(そういった処から得るものがある。)
ピークを過ぎると何故自分が思い通りの動きが出来ないんだろうとか、自分と向き合う事が出来るが、ピークの時には何も考えない場合が多い。

企業スポーツは福利厚生の中でスポーツが成り立つというところでやっていたが、それではスポーツは続かないと言う思いと、スピードスケートを少しでも企業から注目してもらいたい、メディアに扱ってもらいたいと言うふたつの思いがあった。
橋本聖子さんとも相談してプロ化の道もあると言う話もあり、前提としては長野オリンピックで金メダルをとることが絶対条件と言うことがありました。
今はプロ化の選手は多く輩出している。
多くの子供達がスポーツとしっかり向き合って、将来的にもお金を稼げるんだと言うことをしていかないとスポーツ人口はなかなか増えていかないのかなあと思いました。
今度のオリンピックは期待してもらいたいです。
高木美帆選手、小平奈緒選手、今シーズンも最高に状態がいいです。
自分を客観視することが出来る選手でなければいけない。
オリンピックなどで戦う選手はもう一人の自分を作り上げていかないといけないと思う。

2020年に託すものとしては、全体的に見ていく時には、経済面でオリンピックを縮小化して行く事業モデルになってほしいと思います。
日本のスポーツがいま変わろうとしているタイミングで、スポーツ省が出来て、選手たちのセカンドキャリアーの指導も行ってきて、支えて行こうとしていて、今までになかった流れになって来ている。
まだ形がはっきりしていないかもしれないが、2020年には大きな形として示されていくのかなと思っています。
2020年以降の選手たちには、退いた後の生活も支える様な文化になっていくのではないのかなと感じています。
すそ野が広がれば、世界で活躍するアスリートがたくさん生まれてくるのではないのかなあと思っています。




2017年12月9日土曜日

尾崎健一(元少年通信兵)          ・少年兵の見た“地獄” ルソン島からの生還

尾崎健一(元少年通信兵)       ・少年兵の見た“地獄” ルソン島からの生還
高知県出身、89歳、12月8日は76年前人本がアメリカ、イギリスなどを相手に太平洋戦争を始めた日です。
尾崎さんは開戦から3年後、すでに戦況が悪化していた昭和19年(1944年)12月に通信兵としてルソン島に送られました。
16歳の少年でした。
着任早々アメリカ軍の猛攻に会い、ジャングルに逃げこんだ尾崎さんたち、それからおよそ7か月間飢えや病気、アメリカ軍やゲリラの攻撃にさらされ、何度も死を覚悟しながらさまよい続けました。
そこで尾崎さんが見たのは人が人で無くなって行く地獄だったと言います。
戦後尾崎さんが長い間、この体験を人に語りませんでしたが、戦争の記憶が風化するのを防ぎたいと、自らルソン島現場を訪れ戦死者の記録を調べ手記にまとめ、公表しました。
少年兵が見た戦争の姿とはどのようなものだったのか伺いました。

手記の一部。
「配属された部隊が壊滅し食糧が無くなり、山へ逃げ込んだ私たちは文字通り草木をかじって生き延びた。
アメリカ軍の執拗な空爆砲撃、ゲリラの狙撃があって死亡者が続出した。
あの時から70年過ぎたが、今でも思い出すと眠れない夜がある。
彼ら兵隊は使い捨てにされた消耗品だったのではないか、単なる犬死ではなかったのか。
いまでもなお、彼らの遺骨は山奥に雨ざらしのまま散乱しており、、見捨てられ寂しく眠っていると思うと、胸が締め付けられる思いがして、わたしの心の中の戦後はいつまでも終わらない。」

73年もたつが、私にとってはまるで昨日のように思い出される。
実に悲惨でした、それを考えると今でも眠ることはできない。
当時旧制中学の4年だったが、中退して志願しました。
戦況は悪化しつつありまして、志願兵の募集をしていました。
相当に危機と云う風な気持ちがあり、親に話しましたが大反対でしたが、親を説得して一人で決めました。
15歳の時に東京陸軍通信少年兵学校に入学しました。(2年の予定)
10カ月後に30人が選抜されて私もその中に入りました。
行き先は中隊長が小声でいったんです。
兄から死ぬなよ、絶対帰ってこいよと言われました。
当時の戦況についての説明が全く無かった、1944年の秋にレイテ島の海戦で日本軍が負けていて、フィリピンの戦況は悪化していたが知らなかった。

九州の門司から出発しますが、行くときに「貴様ら全員が目的地に着けると思うな、輸送船に積み込んだ物資、船員の半分が着けば成功である。」こう言うんです。
半分死んでもいいと言う事で、消耗品扱いする軍の考え方に失望と怒りを覚えました。
志願をしたことを後悔し始めました。
1944年11月に門司港を出発。
畳1枚の広さに10人以上、横になって寝ることが不可能で、蒸し暑くてたまに30度を超える状況だった。
トイレに行くのもやっと行くような状況だった。
潜水艦が来てることが判り、爆発音が響きましたが、後の記録では30分間魚雷を投下し続けて何とか逃げ切りました。
20日間恐怖を帯びながら行きました。
幸いに私が乗った船だけが着くことが出来ました。
12月の初めにルソン島の北に上陸、南下してマニラで配属される。

日本が管理する航空基地があったが、そこが毎日のようにアメリカ軍の空爆を受けていた。(一方的)
1月9日に米軍が上陸してマニラの方に侵攻した。
私達の通信隊は海外との交信で発信出力が非常に大きいために探知されて、戦闘機による爆撃でたちまち破壊されました。
通信が出来なくなり、約10km程上流に移動しました。
今までにない数の戦闘機の爆撃に会い怖かったです。
川から上がった時は20人ぐらい死者が居て、周辺はわたし一人でした。
部隊が壊滅しまして、敗残兵として山の中を逃げまわる生活、それから7カ月大変な経験をしました。
武器は小銃弾が20発位、他に飯合ほか(良く聞き取れず)、食糧は靴下に7合ぐらい入れて持っていた。

食糧はすぐに無くなり、食える雑草はあまりなくて、雑草を飯合で煮て食うが腹の足しにならないから水をがぶ飲みして何とか我慢できるようになるが、後は蛇、とかげ、かえるおたまじゃくし、沢ガニ、バッタ、食えるものは何でも食いました。
靴底がはがれて、最後には靴を捨てて後は裸足でした。
足から血が出てきてしまい辛かった。
病魔、マラリア、熱帯性胃潰瘍、(そのほか良く聞き取れず)全部かかりました。
身体はガラガラに痩せて歩くのがやっとでした。
新しい死体の肉を切り取ってある跡があるのを2回ほど見たことがあります。
私たちは3人で行動していましたが、或る部隊が肉を焼いていてトカゲだと言ったが、人肉だろうと口から出かかったが出来なかった。
人が人ではなくなる。

白骨化した死体を70体は見たと思います。
怖いと言うよりも、今日も何とか生き延びた、明日の食うものはどうしようか、その事ばかり考えるだけでした。
これ以上逃げても仕方がない一か所にとどまって、農耕作しようと言うことになり、30人ぐらい集まってそういう生活をしているうちに、出す煙を段々警戒しないようになって、大変な惨劇に会いました。
攻撃がやんでから恐る恐る元の所に戻ったら、一人の兵隊が呻いていた。
同期の戦友だった、歯が吹っ飛んでいて無かった。
朝小屋に戻った時にはこの世の地獄絵を見ました。
30人ぐらいが色んな形になり、ちぎれたり、内臓が出たりして死んでいました。
残っていたのは他にも一人でした。(重症)
どうせ生きてはいられないと思ってその人は名前を言いませんでした。

山の中の生活を生き延びて、飛行機が低空を飛んでビラをまいていました。
ビラを見たら、日本軍の無条件降伏と、武装解除の勧告が書いてありました。
戦陣訓で、帝国軍人は捕虜になってはいけないと言うことを徹底的に学校で鍛えられました。
その後も1カ月程雑草を食う生活を続けましたが、限界にきてもうこれ以上耐えられない、死を待つばかりに残った3人は追い詰められて、死を覚悟の上で武装解除をしようと山を降りました。
おおきなトラックが来て真っ先に小銃を取り上げられ、荷台に放りあげられました。

1946年11月、18歳になってから日本に戻ることになりました。
家に帰ると焼け野原で家も焼けていました。
親戚の家に行って迎えてくれました。
家族は母と兄が疎開をしていました。
父は空襲で壕の中で焼け死んだと聞きました。
戦後、戦争の体験は話しませんでした、山中の逃避行、戦友の無残な死など到底理解してもらえないと思いました。
1978年、偶然に街を歩いていたら卒業生に出会い、ある会合に行きましたが、来ていた当時の教官に「全滅した彼らのことを忘れたのか」と大声で抗議しました。
当時の苦しみなどを知らせる義務があると思ってそれから手記を書き始めました。
この戦争は何だったんだろうと思います。
極限状態になると人間は鬼にも獣になることも知りました。
戦争は人類が犯す最大の悪だと思います。
平和を大切にしてほしい。
誤った過去の歴史を学んでそれを教訓にして、二度と戦争を起こすことの無いように恒久的な平和の確立をして欲しい。