2018年10月18日木曜日

名倉加代子(舞踊家・振付家)       ・今が一番、私のジャズダンス

名倉加代子(舞踊家・振付家)       ・今が一番、私のジャズダンス
昭和15年新潟市生まれ 77歳、幼いころから踊りが好きでダンスに携わる仕事がしたいという夢をもって育ちました。
高校卒業した名倉さんは徐々に舞台やTV番組にダンサーとして出演するようになります。
順調にダンサーの仕事をしていましたが、29歳の時に思い切ってニューヨークに行きダンスの本場でトレーニングを受けました。
帰国後は東京世田谷区にあるダンススタジオでの指導を中心に振り付けや舞台の演出などジャズダンス界の第一線で活躍を続けています。
歳を重ねるごとに表現や取り組み方など変化してきたと言います。
11月に開催を予定しているスタジオの公演を前に伺いました。

今はライフワークとなっている「CAN'T STOP DANCIN」で大変です。
振付、演出など全てを背負ってやっています。
見るからにジャズを楽しんでいるなという事を見せたい。
シニアクラスでは50人ぐらいの生徒がいます。
80代の方が2~3人います。
皆さん歳を忘れて、青春だと思います。
遠くは長野、福岡などからも来ます。
身体の衰えとかありますが、すこしでも遅くしようという努力をします。
ジャズダンスはジャズという音楽を一番的確に表現できるという要素を持った踊りと思っています。
名倉ジャズの特徴はベースはバレエです。
上体は引き上げておいてねじる。
スピード感が必要なので名倉ジャズはスタンスの広さ、プリヤ?の深さ、引き上げ、ツイストが必要になります。

4人姉妹の2番目、常に音楽が家庭の中にありました。
父は銀行員で音楽が好きでレコードを沢山集めていました。
ピアノを習わされていましたが、踊りは好きでピアノを辞めて児童舞踊に小学校4年生位から通っていました。
転勤になり福井市でバレエに出会いました。
そこでバレエにのめり込みました。
衣裳は母が作ってくれました
「パックの踊り」はとっても好きでした。
竹部玲子先生が東京から来て教えてもらいました。
子供達を教える先生になりたいと言うことが夢でした。
高校卒業してから東京に出てきました。
姉妹3人で東京で暮らしました。
舞台、TVに出演するようになりました。(竹部玲子バレエ団がTVに進出するようになりました。)
レッスン代がかかるのでTVはあまり好きではなかったが出演しました。

TVではセンターの位置を占めるようになる。
練習を人よりも沢山しました、そうすると間違えないのでTVでは生放送が多かったので、私が真ん中になれば間違えないだろうと言うことでした。
29歳でアメリカに行くことになります。
TVでずーっとやってきて、カメラの「寄り」になった時にはオーバーアクションはいやらしく映る場合があり、「引き」になると大きく動かないと棒が動いているみたいになってしまって、踊りが通用するのかどうかと疑問が浮かんで、踊りを続けるかどうかアメリカに行って決めようかと思いました。
全ての契約を断ってアメリカニューヨークに行きました。
踊りに対してもがき続けました。
ジャズクラスがありました。
最初圧倒されました。
通ううちに勝負ができるのでは、という思いが出てきました。
妹がニューヨークにいたのでそこに転がり込んでいました。
帰国して舞台、番組に出るようになり、振付も担当するようになりました。
NHKの「ステージ101」の番組が終わった時に、何人かがこのまま教えてほしいということになり、稽古場を借りて4人ぐらいから始めたのが、実は今の名倉ジャズダンススタジオになったわけです。

教えることもそうですが、レオタードを着た時間を自分の生活の中に長く持ちたいという思いがありました。
35歳で結婚して、支えてくれる人がいるからこんなに仕事ができたと思います。
1979年宝塚歌劇団の振付をするようになりました。
男性の振り付けは得意でしたが、宝塚では女性が男性役をするので、また違った状況にはなります。
如何に男らしくかっこよく見せるかが大事です。
作品に対するイメージ、想いを文書にして伝えると言うことがあります。(詩にしたりとか)

自分が思った世界を自分が作れるので、困ったなということはないです。
生徒から貰えるエネルギーとかパワーとか個性とか、それは凄くあります。
40代、50代の半ばまで体力の衰えは無かったです。
始めたころのような楽しい気持ちに戻りたいと思っていたが、60近くになると、レッスン、仕事があり、甘い気持ちは持っていられないと思って、向かい合うなら真剣にという気持ちになってきています。
ステージに立つ以上は技術は磨かないといけないと思っています。
磨いていけば人間の体は不思議なもので、努力を重ねればそれだけの答えが出る訳です。
駄目になって行く部分は、自分できちっと認めなければいけないが。
毎日トレーニングはしています。
歯を磨く時に足を上げるとか、毎日続けられることを科せばいいんです。
今が一番早い、今が人生で一番早い時なので、今から躊躇せず何か始めて、必ずやり出したら積み重ねれは叶う、実って行く。





























































2018年10月16日火曜日

田部井政伸(登山愛好家)        ・我が妻、田部井淳子の遺したもの

田部井政伸(登山愛好家)        ・我が妻、田部井淳子の遺したもの
女性として世界で初めて世界最高峰のエベレストに登頂した登山家の田部井淳子さんがなくなって今月で2年が経ちます。
亨年77歳でした。
夫の政伸さんも世界の山に多くの登山実績を残したクライマーです。
妻を山に送りだし留守番をしながらサポートを続けた政伸さん、淳子さんが残した言葉や、イベント、生活スタイルについて田部井政伸さんに伺いました。

命日に多くの登山家が埼玉県の西部の日和田山(305m)の山登りに集まります。
以前は私とかみさんがリハリビで行っていました。
亡くなってから私一人で行っていましたが、或る日命日に仲間も一緒に行こうと言うことで行くことになり、川越のNHKの登山教室もやっていてその人達も一緒に、山に行くようになりました。
最近は、僕が行っても来ている方が半分ぐらい判りません。
日和田山は低いが変化に富んだバランスが取れた山です。

我々は登山愛好家で趣味でやっています。
妻は女性として世界で初めて世界最高峰エベレストおよび七大陸最高峰への登頂に成功したことで知られる。
世界76カ国の最高峰を制覇している。
小学4年の時に那須の茶臼岳に登ったことが、登山家への意識の芽生えになったと言われている。
私はロッククライミングが多かったです。
グランドジョラス北壁、マッターホルンの北壁を1シーズンで踏破、世界に多くの登山実勢があります。
世界三大北壁を1シーズンでやったことがないが、3つを昇ろうと挑戦しようとしました。
しかしアイガー北壁は登れず、この二つしか登れませんでした。(1968年)

5月の登山で妻とは知り合いました。
そのうちに会う時間が多くなりました。
1964年に結婚しました。
その頃は男性は会社を辞めるか、山をやるかというようなことで仕事をしていました。
主婦は時間がいっぱいある関係で妻は山へ行く時間が多くなりました。(結婚当初から)
家庭との両立もしっかりやりました。
エベレストの時には娘が3歳になっていました。
その時には妻の姉の処に僕と娘が居候をしました。
連絡はエアーメールで10から15日かかります。
メールランナーがいて走って行ってベースキャンプまで届けます。
お互い信頼して覚悟を決めていました。
7から8割が山がベースでやってきました。
私と一緒に子供も自然の山の中で過ごしたりして来ました。
イベントが好きで色々なことをやってきました。
東日本大震災の時は大人の被災者のハイキングをやっていました。
高校生に自分のおこずかいで参加して行ける計画をしようということで、磐梯山にとの話もあったが、富士山に登ろうという計画を立てました。
10年間で1000人という計画だったが、今は1000人を目標にして、今年7年目でトータル575名が登りました。(今年は96名)
後4年ぐらいかかると思います。

心配な親もいるので説明会をやって、以前登山した高校生だった人達もその体験談を話して、1000人までの目標へのサポートをしてくれています。
その経験を社会人になってから、社会に応援できるきっかけになればいいと思っています。
妻のやるべきことが段々形になってきたと喜んでいます。
一人7から8万円かかりますので、震災で困った生活をしているので一人3000円で参加してもらって、ザックとか靴などを無償で貸し出ししています。
本当に感動しますが、全国から郵便局で毎月1000円送ってきてくれます。
コメント欄があり、励ましの言葉とか色々書いて来て下さいます。
使い方も厳しく妻がやっていました。
私の講演とかイベントなどで募金箱を置いて募金をして貰っています。
富士登山という目的がはっきりしているので募金するのもいいと言って下さいます。
息子が今プロジェクトのリーダーをやっています。
企業や、国、自治体の財団等との交渉などもやってくれています。

10月20日に日和田山登山の計画があります。
抹茶が妻が大好きだったので、野だてをやろうということで準備を進めています。
妻は病気になってベッドに入っていても常に山の事が頭にあり、酸素吸入をするようになって、その量が0.5リットルということだったが、本人がエベレストに登った時の睡眠の時に使った量と同じだと言っていました。
亡くなる3日前に3リットルすることになり、これはエベレスト最終キャンプから頂上に向かう時の酸素の量と同じだと言っていました。
「病気は誰でもなるが、病人にはならない」と言う事を常に言っていました。
死ぬまで山が8割ぐらいの人でした。


























































2018年10月15日月曜日

倉本昌弘(日本プロゴルフ協会会長)    ・【"2020"に託すもの】ゴルフの未来のために

倉本昌弘(日本プロゴルフ協会会長)・【"2020"に託すもの】ゴルフの未来のために
リオデジャネイロで120年ぶりに実施されたゴルフ競技、次の東京オリンピックでも実施されます。
しかし日本のゴルフは競技人口の減少という課題を今抱えています。
ゴルフ界のこれからについて、日本プロゴルフ協会会長、オリンピック対策本部強化委員長の倉本さんにお話を伺います。

会長になった当初は、クラブを握らない日が有ってペースがつかめなかったが、5年にもなるとやらなければやらないでいいかなと段々なってきています。
ヘッドスピードは3日やらないと落ちるが、又初めて3日目になると元のスピードが戻る。
日本プロゴルフ協会はゴルフの仕事に携わっている人間の集まり、と思ってもらえればいいと思います。
レッスンする人、物を売ったり、ゴルフ業界の中で開発に関わったりする人達等も含まれます。
現在5600人ぐらい会員がいます。
2015年には日本のこれからのゴルフ界をどうするかの提言をしました。
最盛期1400から1500万人と言われたゴルファーが、この前の白書では600万人と言われる。
ゴルフ産業は2兆円の産業から1兆円に半減している。

①ゴルファーの高齢化が間違いなく進んでいきます。
70歳以上の方が3~4割ぐらいだと思います。
団塊の方が75歳を越えるのが直ぐに来ます。
そうするとその方々がリタイアしてくる、若い方のゴルフ離れがあるので増えてはいかないと思います。
②日本の国民自体が減って行く。
そうするとゴルファーが減る。
2300位のゴルフ場が500万人の適正数は目に見えている。
③練習場も同じです、こちらの方が深刻だと思っています。
地域の土地持ちの方々がゴルフ練習場を開いているが、老朽化してそろそろ設備投資の時期にきている。
廃業しようかということになると練習場もなくなって行く。
AとBの練習場があり、Bが辞めてしまうと、Aにいくかというとそうではなく、辞めてしまうと言うことが多々ある。
これが最も怖いところです。
練習場はコミュニティーの場でもあるので。
若い人たちを増やすことをやっているが、ジュニアについては、親が車を持っていないとなかなか来られない。
地方に行くほど電車では行くところが無くなる。
親が車を持たない世代が増えてきている。
逆風の時代です。

子供達が2人がチームになって、交互に一つのボールを打って対戦相手と戦って行く、ということをアメリカが2011年に始めましたが、当初16チーム170人で始めましたが、現在45000人位の13歳以下の子供達が始めています。
エリートジュニア競技会は日本にはいっぱいあるが、ゴルフを遊びとした競技は日本にはありません、そういったイベントを増やそうと思っています。
情操教育にはゴルフは非常にいいと思っています。
ルールをしっかり覚えてミスをした時に正直に言う。
ゴルフにとっては忖度(他人の気持をおしはかること。)は絶対あるべきだと思っています。
相手がどういうふうに考えているか、自分が相手にどういうふうに接してあげれば、相手は気持ち良く楽しくプレーできるか、それを思って自分が行動する、そうするとみんなが楽しく時間を共有することができる。

ゴルフはお金がかかるが最盛期の1/3位になってきている。
ゴルフの良さは歩くことが成人病対策になったり認知機能の改善になったりすると見直されている。
1万円位で1日楽しんで且つ健康の効用を考えるならば、決して高くはないと思っています。
既婚者で子供を持ってる御主人が1万円の余暇に使うと言うことは、奥さんは反対ですが家族で5万円でレジャー施設などに行くことは、賛成をするという事が調査では出ています。
家族でゴルフ場に行って、ゴルフをやらない人にも楽しめるようなこともできるのではないかと今考えています。
ゴルフ界は遅れていると思っている。
家族観が変わっている中で、お客が来ないという状況にあり、それに合わせたことを考えたゴルフ場の運営をしていこうとしているところは生き抜いていくと思う。

提言書のいくつかはバブル期の考えですと言われた。
今の日本がスタンダードなのでそこを考えてやってくださいと言われました。
ティーチングプロも今までと違ったことが必要だと思います。
現在3000人がティーチングプロで、今までの形では集客がなかなかできないので、これだけの集客をするから使って下さい、というようなやり方を考える。
ゴルフが最も伸びていないのは難しすぎるということがあるけれども、短命なスポーツは早く上手くなるが、スポーツ寿命が長いスポーツはなかなかうまくならないと思っています。
ゴルフは生涯できるスポーツだと思います。

広島出身、高校時代には全日本ジュニアのチャンピオンになり、大学時代には日本学生4連覇、日本アマチュアで3勝、アマチュア時代にプロのトーナメントで優勝する。
プロになって直ぐに優勝、4戦3勝。
日本ツアーでは通産30勝、永久シード選手。
ゴルフを始めたのは10歳で、父がやっていたので一緒に練習場に連れて行ってもらいました。
柔道、剣道、バレーなどもやりましたが、ゴルフが残りました。
中学3年で地元のクラブのクラブチャンピオンになりました。
球は飛ばなかったら面白くないと思っていました、とにかく振れと言われました。
プロになる気はなかった、アメリカに留学したが、父が倒れて家業を継ぐことになりました。
店をやりながら練習していた時代が一番充実していたと思います。
プロになったのは25歳でした。
中部銀次郎さん日本アマチュア6回優勝、彼を尊敬しています。

プロゴルファーは生活があるので、やりたいことができない。
例えばOBでもいいからドライバーで打とうと言うことはしない。
賞金に跳ね返るので、趣味と仕事の違いです。
ゴルフはレベルは違っても一緒に楽しめる、こういうスポーツは他に無いと思います。
身長163cmと小さかったので、ボディービルのトレーニングでやってはいけないことやってもいい事を教わってトレーニングをして、距離も伸びました。
デビュー後にマスコミに「ポパイ」というあだ名がつきましたが、それは嫌いでした。
アメリカでは「MASSY」がいいと、スペルを考えてくれました。
選手の環境改善ということで選手会の会長になり、それが現在の日本ゴルフツアー機構になったわけです。
2020に向けて、追い風に出来なかったら日本のゴルフは大変だと実感しています。
ゴルフは団体戦にすべき、18ホールは長すぎるので短くすべきだと提案したが駄目でした。
松山君はメダル候補であることは間違いないが、東京オリンピックを足がかりにしないと日本のゴルフ界は大変だろうなと思っていて、期待と同時に切羽詰まっているものがあります。






















































2018年10月14日日曜日

加藤澤男(元筑波大学教授 体操)     ・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言

加藤澤男(元筑波大学教授 体操)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
加藤さんは現在72歳、新潟県出身、新潟南高校、東京教育大学(筑波大学)に進み、大学4年で出場したメキシコ大会やミュンヘン、モントリオールと3つのオリンピックに出場しました。
団体は3回とも優勝し、個人総合では、メキシコ、ミュンヘンと連覇を果たすなど世界一の体操選手となりました。
日本男子体操、ローマからモントリオールとオリンピック5連覇を果たしましたが、そのうちの3回の優勝をささえた加藤さん、身長163cm 安定感のある美しい体操が特徴でした。

3つのオリンピックに出場して、8つの金メダルを含めて12個のメダルを取る。
8個の金メダルは日本の全オリンピックの中で歴代一位。
一番最初、メキシコの時の金メダルは印象があります。
最後欲をかいて取れなかったモントリオールの時の銀メダルが二番目に印象深いです。
1968年メキシコ大会(50年前の大会)3連覇目
遠藤選手以外は全員初出場という大会でした。
ライバルはソビエトでした。
遠藤幸雄さん、加藤武司さん、中山彰規さんと、僕と監物永三君、塚原光男君でした。
ベテラン3人と若手3人の構成でした。
規定でソビエトに1.25リードされていた。
自由に入って、ソビエトから差を広げて行く、最後の床を残して優勝を確定的にした。
ボローニン選手は5種目を終えた時点で個人総合で一位だった。
床で9.85ならばボローニン選手と同点となるが、結果は9.90で優勝だった。
ボローニン選手はあん馬で足をひっかけてその差だったと思う。
団体で金を取り、個人総合でチャンピオンになる。
種目別 床で金メダルを取る。(日本が金、銀、銅を取る。)

昭和47年ミュンヘン大会
僕と、中山 彰規さん、塚原 光男君、監物 永三君、笠松 茂君、岡村 輝一君でした。
団体ではソビエトに7.20の大差で優勝する。(4連覇達成)
小野さんからメダル全部持って来いと言われました。
個人戦で5種目終わった時点で、トップの監物選手とは0.075差だった。
監物選手は跳馬で9.60、鉄棒で9.675以上で金メダルとなるが、9.75を取り、逆転で2連覇が決まる。
2位に監物選手、3位に中山選手となり金、銀、銅を獲得する。
メキシコが終わってアキレス腱を切ってしまって、世界選手権には出られなかった。
メキシコでは跳馬の練習中に腰を痛めて(腰椎分離)しまって、跳馬以下は棄権をする。
羽田に帰って来た時には胴周りを石膏で固められていました。
勝つための材料を仕込まなくてはいけないので、色々するので練習も無理がかかります。
種目別の平行棒でも金メダルを取る。
ミュンヘンでは団体、個人総合、平行棒で金メダル3個、銀メダル2個を獲得する。

昭和51年モントリオール大会
日本選手団の主将を務める。
僕と塚原 光男君、監物 永三君、笠松 茂君が残り、笠松選手がエースでしたが、笠松選手が急性の盲腸を患って手術しエースを欠く事態になる。
ソビエトにリードをされる展開になる。
3種目目、吊り輪で藤本選手が9.70の高得点を出すが、着地の時にボキっという音がして右足を痛めて医務室に行き帰ってこなかった。
実は最初の床で痛めているんです。
あん馬は足を使わないのでやりおうせて、吊り輪でも頑張って、着地を踏ん張って床でやったところをもう一回やってしまったんです。
あとは5人で演技をせざるをえなかった。(だれも失敗が許されない状況となってしまった。)
日本が団体で奇跡の逆転優勝をすることになる。
日本人の練習の仕方が出てきたんだと思います。
個人総合ではアンドリアノフ選手に敗れて銀メダルとなる。(3連覇は成らず)
種目別決勝 平行棒で9.90を出して2連覇を達成。

倒立に代表される美しさ。
体操はなにをやるのかと、どういうふうな出来具合なのか、の二つ兼ね合わせですが、自分はO脚で左ひじが曲がっている(中学の時のひじの骨折)ので、美しい姿勢を目指す。
練習では目いっぱい色んな事をやります。(開発的な)
試合を前にすると試合を前提にした練習をしないといけない、色んなことがありますが結局は、敵は自分なんです。
団体戦は6人がお互いに高得点を願うが、個人総合ではチームメイトがライバルとなるが、格闘技ではないので楽ですが、突然切り替えるのはなかなか難しい。
やっぱり練習しかないですね。

何年か前に国際スポーツ記者協会が選んだ20世紀を代表する25人の選手に日本人でただ一人選ばれる。
体操をやってきて思うことは、練習はきつくやれ、あこがれを持っていないと続かない。
有る程度の失敗を許容される所では失敗しないといけない、いざという時にしてはいけないだけの話で、経験を生かしてやるべきこととやってはいけないことを練習の中で区別をつけなければいけない。
モントリオールでのアクシデントみたいなことは、有ってはいけないが有りうるわけです。
内村 航平選手には3連覇の夢を実現すべく頑張ってほしいと思います。





































































2018年10月13日土曜日

2018年10月12日金曜日

岩渕宜輝(NPO法人理事)       ・一人で始めた遺骨探しの51年

岩渕宜輝(NPO法人理事)       ・一人で始めた遺骨探しの51年
岩渕さんは1941年(昭和16年)生まれで今年77歳です。
岩渕さんが2歳の時に父親がニューギニアで戦死、戦死の知らせが届いたのは終戦の翌年、昭和21年の7月でした。
しかし父親の戦死の状況はさっぱり判りませんでした。
岩淵さんが父親への思いを強くしたのは小学校1年生の頃。
家族が疎開先から東京に戻るときも、長男だから一の関に残り墓を守れと、祖父母に引き取られて一人残ります。
高校卒業のころには父の戦死したニューギニアに行ってみたいと心に決めます。
父親の眠るニューギニアに行くにはどうすればよいのか、岩渕さんは高校卒業後上京し働きながらニューギニアに行く手段を模索します。
そして働きながら英語を学び貿易会社や航空会社など英語が身に付く仕事を転々とします。
苦学6年、東京オリンピックの翌年念願の航空会社に就職することができて、入社2年目1967年、長い間念願だった父の眠るニューギニアを訪れたることができたのです。
初めて現地を訪れた岩渕さんはなにを思い、その後どのような活動を続けたのか伺いました。

太平洋戦史館の前には田園地帯が広がっていて、2km先に中尊寺があります。
おびただしい戦時下の遺品が展示されています。
遺留品を展示して遺族の方に持ち帰ってもらいたいと思っています。
戦争の悲惨さを知って欲しいと思います。
父親は33歳と6カ月で亡くなり辛い思いをしました。
父親の記憶は全然ありません。(2歳の時父親は亡くなる)
父親がどんな所で亡くなったのか、一遍ニューギニアに行ってみたいと思いました。
1960年代のころは海外への渡航は簡単にはいけない状況でした。
航空会社に入ればひょっとするとタダでいけるのではないかと思ったりしました。
英語の勉強をしなければいけないと思って、給料の中から通うためのお金をなんとか捻出して、原宿のワシントンハイツへ行って生の英語を聞きました。
求人広告でハウスボーイを見付けて雇ってもらいました。

父親が亡くなった場所は後に判るが、キャセイ航空に務めた時代は何処で死んだか全くわからなかった。
昭和42年に「ラエ」というところに行った時に、神父さんに言われたのが、「貴方の立っている芝生の下に何百という日本の兵隊さんの屍が埋まったままですよ」と言われた時の衝撃は大変なものでした。
1978年(昭和53年)の時に遺骨を収容している写真などが展示されている。
政府が1975年を持って遺骨帰還運動をおおむね完了ということになった。
ブーゲンビル島のタンタリキという場所を掘ったらシャレコウベが沢山出てきました。
(野戦病院の跡だった)
100万を超える兵隊さんが未帰還で、やれるのに何故やらないのか、政府の怠慢としか言いようがないです。
日本とインドネシアの間に遺骨帰還の協力覚書が有るのですが、2015年9月に行って10月にはそのままゼロ帰還で返されました。
11月に遺骨帰還の協力覚書が失効してしまった。
再調印できるようなことをやってもらえればいいが、2018年4月なっても何にも進んでいない。

魂があるとするならば、ご飯茶わん、水筒など形のあるものに魂が宿っており、私はこういうものが残っているんですよ、と伝えたい。
現地では銃弾、手投げ弾などの解体などで腕を飛ばしたり、命を落としたという事を聞かされている中で、まだあちこちに散らばっているという事実を伝えたい。
色々な未処理の問題 次世代の子供達に先送りはしたくない。
戦争が終わって73年経ってもこの体たらく。
非戦をどうすればいいのか子供達と考えながらやっているのが現状です。
3,4年前までは先生が熱心に連れてきているが、ここ3,4年総合学習関係の訪問者が消えてしまいました。
事実を伝えて行くこと、語り部は必要だと思います。