2018年9月20日木曜日

香取章子(ちよだニャンとなる会代表理事) ・ペットは終生責任をもって!

香取章子(ちよだニャンとなる会代表理事) ・ペットは終生責任をもって!
今日から動物愛護週間、犬や猫を家族の様に可愛がっている家族も多いと思います。
一方で飼い主がなく殺処分されてしまった犬や猫は、平成28年度1年間で全国で5万6000頭にのぼります。
実にその8割に当たる4万6000頭が猫です。
東京都千代田区では2011年から猫の殺処分ゼロが7年間も続いています。
行政とボランティアがうまく連携した猫の保護、譲渡活動は千代田モデルと言われ全国の注目を集めています。
そのボランティアグループ「ちよだニャンとなる会」代表理事の香取さんに先駆的な千代田モデルの活動の実態と猫と人間のあるべき環境について伺いました。

5匹飼っていますが、全部飼い主がいなかった猫です。
私は千代田区に生まれ育ちました。
かつては千代田区内でも飼い主がいない猫が暮らしていました。
ビル街にも猫がいました。
元々猫が好きでしたが、悲惨な状態が目について仕方なかった。
当時は雑誌の編集の仕事をしていて時間が無かった。
18年近い取り組みがあって、2011年から猫の殺処分ゼロが7年間も続いています。
2011年から千代田区内で保護された猫が東京都動物愛護相談センターで取り扱われて処分になることはないということになっています。
2000年に千代田区の飼い主の居ない猫の去勢不妊手術費助成事業を始めました。
繁殖を抑えようと立ち上がりました。

2000年は動物愛護管理法、動物愛護法が施行された年でもありました。
猫の繁殖力は生後半年の雌猫が妊娠し始めたりして、年に2~3回出産します。
1度の出産で4~5頭の子猫を出産します。
一生に200頭の子猫を産むと言われています。
交尾するとほとんど100%妊娠します。
猫は爆発的に増えて行きますので、不妊去勢手術が一番の猫問題を解決に向けての鍵になります。
手術の費用が雄が1万7000円、雌が2万円。(妊娠中は2万5000円)
ボランティアも募集しました。
会報を作り始めたりしました。
「ちよだニャンとなる会」という名前がいつの間にか出来ました。
2011年に殺処分ゼロになりました。

歩きたばこの禁止も全国で一番最初に千代田区が始めました。
猫の飼い主がいるかどうかを調べ、一時保護して協力動物病院に運んで去勢手術をして、耳先をV字カットをして手術をしたという目印にしました。(ピアスを付けたが取れてしまう)
TNR活動(トラップ(Trap)、ニューター(Nyuta 去勢不妊手術)、リターン(Return)を千代田区が事業を推進して行く中で、相当猫の繁殖が押さえられてきて、劇的に減っていきました。
猫の譲渡活動も進めて来ました。
2014年から保護、譲渡にお金が掛かるので、検査医療処置費を1頭6000円助成するようになりました。
TNTA活動、(ニューター、テイム(Tame 人に慣らす)、アダプト(Adapt 譲渡する))
人に慣れていない猫を人に慣らす、そして譲渡する。
協力動物病院に安価で預かっていただくことになりましたが、その費用が一番おおいです。
1匹7万5000円を上限に預かり費用を助成されるようになりました。

ワクチン、病気も治す、そして初めて譲渡できることになる。
ウイルス検査、ダニ、寄生虫の駆虫もして、ワクチン接種、去勢手術、個体識別のマイクロチップも埋め込んで責任譲渡します。
譲渡会は年間5~6回開催しています。
次は10月14日、千代田区役所で行います。
譲渡は年間50頭位です。(おとなの猫が多い、病気障害のある猫を含めるので)
情報の受発信を大事にしています。(インターネット、フェイスブック、会報など)
イベントもやっています。(2016年から開催)
今年は1万4000人が来ました。
イベントの収益は経費を引いて猫の医療費に活用しています。
このイベントでも譲渡会を行っています。

「千代田モデル」と言われています。
行政、ボランティア、区民、在勤者も巻き込んで、みんなで取り組んでいこうと言うことでやってきました。
年間予算は750万円位です。
今年4月に動物愛護係を創設して珍しい係だそうです。
猫の活動を通して物凄く知り合いが増え、話ができたりして楽しいです。
人口は6万人を越えましたが、一時期3万人台だった時もあります。
昼間は85万人位になります。
6万人の9割がたはマンションに住んでいますが、猫の繋がりから話が盛り上がったりしています。
17年間の活動で猫を介在して、コミュニケーションネットワークが広がってきました。
一番の課題は殺処分ゼロの記録を続けて行くためには、譲渡しにくい猫ばかりで、譲渡型保護猫カフェを秋葉原地区でオープンする予定です。
旧旅館を使ってやります。(古民家再生ということで)

3・11の時に仙台市からの要請を千代田区が受けて、被災地で生まれた子猫を引き受けて譲渡先を見つける活動を行っています。
ペットを災害時にどうするか、という問題がある。
人命優先とはいえ、ペットも家族の一員であるという認識はたててほしい。
逆の言い方をすると、被災したとはいえ、その人、家族に終生飼育を全うしてもらいたい。(同行避難)
高齢者の多頭飼育の崩壊の問題もあります。
世話をし切れなくなって不妊去勢手術を怠り、増えて行ってついに世話をしきれないまま
不衛生な環境の中で共にいると言う、多頭飼育の崩壊が全国各地で発生しています。
これからの課題となって行くと思います。
ペットが行き場を失わないように、最低限のことをしていかないといけないのかと思います。(次の飼育者を紹介等)
公正証書の遺言、ペットとお金を一緒に遺贈するという形の遺言。
養育費、医療費、謝礼の3つの意味を込めて金額を設定すればいいのかと思います。
私は猫を引き受けてくれる人を指定して、公正証書に書いてあります。
動物愛護管理法という法律が有るが、飼い主が終生責任を持って飼育すべき愛護動物と定められている。












































2018年9月19日水曜日

美輪明宏(歌手)             ・平和への思いを歌に込め(2)

美輪明宏(歌手)             ・平和への思いを歌に込め(2)
美輪さんが見た戦時中の親子の愛、無償の愛を歌った「愛の賛歌」に込められた想いなどを伺います。

原爆の後で死体を掘り起こすが、焼けただれた親子の死体が出てきて、自分は焼けただれても子供だけは助けたいと、必ず覆いかぶさってお腹の下にしっかり子供を抱き込んで亡くなっている。
親子というものはやっぱりこうでありたいと思います。
炭みたいにまっ黒けでした、それを見ました。
うちに勤めていたボーイさんが出征して、駅に行ってホステスさんらとともに「万歳、万歳」と言って汽車を送り出しゆっくりと動き出して行きました。
さんちゃんはタラップに立っていました。
出発し始めた時に、さんちゃんのお母さんが人々を押しのけて、タラップに立っているさんちゃんの足元にしがみついて「死ぬなよ どげんしても死ぬなよ、生きて帰ってこい」と言ったんです。
軍属みたいな人が立っていて、「貴様」といってお婆さんの襟首を掴んで放り投げたんです。
鉄柱が有り鉄柱に頭をぶつけて、即死しなかっただけ不思議でした。
さんちゃんが最後に見たのは、母親が憲兵に突き飛ばされて、血だらけの顔を見ながら出征して行ったわけです。
さんちゃんの顔はすさまじい顔でした。
二度と徴兵制度なんかしてはだめですよ。

愛の中でも色んな種類の愛が有ると思う。
恋愛、恋が先で愛が後、愛恋とは言わない。
恋の段階では待ち合わせをした時に遅れたりすると、待たされた自分の方のプライドや怒りの方が大事で、相手のことは考えていない。
愛迄行くと、自分が待たされているという事よりも、相手のことが心配になり、やっと来てくれると「アー良かった」と言って相手を気遣う言葉を言ってあげたりする。
買い物をしても相手のことばかり考える。
そういうことができるのが愛だと思います。
愛だけになると、永遠、与えっぱなし、見返りが返ってこなくてもそんなの平気なんです。
だから私の「愛の賛歌」がNHKの紅白で歌った時は、「花子とアン」での柳原白蓮の駆け落ちのシーンで「愛の賛歌」の歌がまるまる4分使われて大反響がありましたが、それが愛だからです。
原詩がそういうふうにできているんです。
色んな方が「愛の賛歌」を歌いますが、みんな恋なんです。
越路吹雪さんが歌ったのは、あれはあれでポピュラーにするには、あれで必然性があってそれはそれで良かったと思いますが、でも愛ではないんです。
岩谷時子 日本語詞
「あなたの燃える手で 私を抱きしめて ただ二人だけで生きて行きたいの
ただ命のある限り私は愛したい 命の限り私は愛したい ・・・・」

原詩をよく読んでみると、それとはどうもしっくりしない。
「高く碧い空が 頭の上に落ちてきたって この大地が割れてひっくり返ったって
世界中のどんな重要などんな出来事だってどうってことはありゃしない
貴方のこの愛の前には  
朝目が覚めた時 あなたの掌の下で私の身体が愛に震えている
私はそれだけで十分 
もし貴方が行けと言うんだったら 世界の果てまでだって付いてゆくし
もし貴方が盗めと言うんだったら どんな高い宝物だって お月さまだって盗みにいくわ
もし貴方がそうしろと言うんだったら ブロンドだって染めるし
もし貴方が言うんだったら 愛する祖国も友達もみんな裏切ってみせるわ
もし貴方が言うんだったら どんな恥ずかしい事だって 人前であろうとなんだろうとやってのける
そしてやがて時が過ぎて死が、私から貴方を引き裂いたとしても それも平気よ
だって私も必ず死ぬのだから そして死んだ後でも 二人は手に手を取って
あのどこまでもどこまでも広がる真っ青な空の碧の中で 
永遠の愛を誓い合うのよ そしてそういう私達を神様が永遠に結びつけて下さる
祝福して下さるだろう」
そういった歌詞だったんです。
ピアフはそういう人だったんです。

(インターネットからの美輪明宏 日本語詞
「高く碧い空が 落ちてきたとしても 海が轟いて 押し寄せたとて
あなたがいる限り 私は恐れない 愛する心に 恐れるものは無い
貴方が言うなら この黒髪を何色にでも
貴方が言うなら たとえ地の涯(は)て 世界の涯ても
貴方が言うなら どんな恥でも 耐え忍びます
貴方が言うなら 愛する国も 友も捨てよう」)

皆さんに愛というものはこういうものですよ、という事を知って欲しかったんです。
フランスで2本映画が出来ているが、全部中途半端で恋なんです。(我まま、無教養)
私は若い皆さんに気付いてもらおうと、何度も何度もお芝居にしてやっています。
今はIT社会、デジタル社会は便利で利便性ばっかり考えて作られたもので、それの引き換えに健康を失ってしまった。
人間は肉体と精神で出来ているが、健康を維持する食料は過剰なぐらい出回っている。
精神の健康を維持するものは何かというと良質な文化です。
若者が大音響で歌う歌はエネルギーを発散させるにはいいかもしれないが、優しくする、安らぎ、癒す、それには程遠い。
名曲はメロディーが美しい、音楽はメロディー、ハーモニー、リズム、強弱の4つがそろって良質な音楽となる。

人間は自分の身を守ろうとしてアップアップする。
親が子を殺し、子が親を殺す恐ろしい時代になり、無差別殺人事件などが起きてきている、言葉、文化です。
昔は言葉が綺麗でした。
丁寧語を使っていた。
ねぎらいの言葉、感謝の言葉を気前よく使っていた。
そうすると節度、儀礼、人としてちゃんと尊敬されていると思う。
感情を理性で抑えたりバランスを取って、自分が自由自在に感情を処理することは一番難しい。
怒るは感情的、叱るは諭すという事(主体性を持たせて自分で答えを出させるように順々と説いてゆく。)
親子では無くて、子供でも人間としてとらえる事が大事です。
人間として世の中を上手くしていくための通行手形が「微笑み」です。
微笑んでいる人間を嫌いな人はいないと思います。
愛にも色んな愛があるので、秋のコンサートにはそれを並べて曲にして進行していくことにしています。
人間はみんな天命を持っている、この世の中に役目を授かっていない人は誰もいません、だから私はこうやって元気に生かされているんだと思います。。






























2018年9月18日火曜日

美輪明宏(歌手)             ・平和への思いを歌に込め(1)

美輪明宏(歌手)             ・平和への思いを歌に込め(1)
歌手、俳優、演出家など様々な活躍をされている美輪さん、1935年長崎県で生まれました。
料亭やカフェなどを営む裕福な家庭で育ちました。
15歳で歌手を目指し上京、音楽学校に進学します。
しかし実家が破産し、学費が払えず退学を余儀なくされ生活は行き詰まります。
その状況を救ったのが、東京銀座に開店したばかりのシャンソン喫茶「銀巴里」でした。
17歳だった美輪さんはそれからおよそ40年店のステージで、愛と平和をテーマに歌い続けました。
今日は美輪さんの戦後と重なる思い出の地「銀巴里」、そして代表曲「ヨイトマケの唄」の誕生についての話を伺います。

「銀巴里」跡という石碑が建っています。
喫茶店が一軒潰れただけで、その喫茶店の跡に石碑があって記念碑が建つなんてないですよ。
入口から地下に入って行くようになって、壁一面パリの街の景色が見下ろすように描いてあって、中に入ると廊下があって広々としていました。
ソフトドリンクを飲みながらシャンソンを聞くわけです。
普通のお客さんではない方が多かった。
美術、文学、音楽、政治、経済、スポーツなどんな話をしても丁々発止でやっていけるだけの凄い知識をもった文化人が多かった。
有名人も沢山いました。(三島由紀夫、川端康成、野坂昭如、大江健三郎、なかにし礼、吉行淳之介、寺山修司、中原淳一、遠藤周作、絵描きだと岡本太郎ら 数えきれないほど)
北海道の青年たちが冬に仕事が無いので出稼ぎに来て、なかにはなけなしのお金をはらって来てくれますが、はたしてこのお金に匹敵するだけの歌を歌っているんだろうかと思いました。
それが原点になっています。
「銀巴里」からプロとしての私の歩みが始まりました。

お客さんが悲しみ、苦しみやいろんなものを抱いて来る方もいるので、私が苦しいとか悲しいとかうちひしがれて、内的な問題をそのまま抱えてお店の中をうろうろすると雰囲気が悪くなるので、だから私はプライベートをお客様の前に持ち出してはならないという気概で接します。
お客さんと顔見知りになり色々話をしますが、自分のことは一切しない、聞くだけです。
思い出が山ほどできます、それが私の宝物になっています。
お国訛りには暖かくて愛が有ると思います、
15歳まで長崎にいました。
お風呂屋さんもやっていて番台にいて、当時中流の上の人でも来ますが見ると、着物は皆立派でも裸になると情けない気の毒な身体をしていました。
逆にヨイトマケの若者、労働者は粗末なものを脱ぐが、ギリシャ彫刻のような素晴らしい身体をしていました。
着る物ってなんだろうと思いました。

カフェ(バーに近いような)もやっていましたが、要職にあるような方(政治家、お坊さん、学校の先生など)がお忍びで来る訳です。
酔うほどに正体を現して、ホステスさんのスカートに手を突っ込んだり、頭を突っ込んだりして、頭にビールを掛けられてへらへらしている、一体昼間の顔はなんなの嘘じゃないかと思いました、ですから私の前に権威は通じなくなりました。
人を見る時に、年齢、性別、国籍、肩書き、容姿、一切吹っ飛ばしてしまって見えないものを見る、それは心、目の前にいる人の心が綺麗か汚いか、清らかか、まともか、それだけが問題であって、それを見る癖が付いてしまいました。
小学校の低学年の時に、父兄会が有り皆さんおしゃれしてきていて、遅れてきたお母さんがハッピ姿で臭いも凄かった。
一番できの悪い子のお母さんだった。
休憩時間になって自分の子が鼻を垂らしていて、そのお母さんは自分の口で鼻をすすって窓から吐いたんです。
どうして手拭を使わないのかと思ったら、頭にかぶる商売ものだから手拭いは使えなかったということだった。(後から聞いた話)
可愛くてしょうがないと言う様に、一生懸命自分の子供の身なりなどを整えてやっていました。

気取っていてお互いに着ているものを品定めしているお母さんたちが、凄く卑しく見えました。
汚いお母さんが光明皇后の前に現れた薬師如来の様に見えたんです。
或る時その子がいじめられてお母さんの所に戻って行く時に、一緒に付いて言ったら、貧乏人だからと言っていじめられたというようなことを言ったら、金持ちだからと言って偉いんじゃない、勉強ができると言っても偉くはない、人間で一番偉いのは神様の前できちっと立って真っ直ぐに神様の目を見える、優しくて清らかで、一生懸命働いて、正直でそれが一番偉いんだとだから泣くな、お前は一番偉いんだ、と言いました。
それを聞いた時に、感動しました。
 
或る屋台でトラブルがあって、やくざが縄張りの件で青年を脅かしていた。
その親分がシャンソンファンで「銀巴里」に来ていて知っていたので、可愛そうなので赦して貰える様に話をしました。
そうしたらその青年が売り物の香水を持って「銀巴里」に来ました。
売り物の香水は受け取りませんでした。
その青年が時々来るようになって、話を聞いたら波乱万丈の人生でした。
満州で終戦後にロシア兵が襲ってきて、父親がエンジニアだったが、その両親が目の前で殺されて、お手伝いの中国人が私の子だと言って助けてくれたそうです。
船に乗せてもらって九州に帰ってきて、廃品回収業のおじいさんの元に引き取られたが、お爺さんが亡くなってしまって、遺体をリヤカーに積んで、焼き場に持って行って、これからどうしようかと考えたそうです。
戦争孤児を引き取る施設があって、そこへ自分から行ったが、中学になると追い出されてしまう。
あらゆることをやって、今大学に行っているとの事であった。

ヘルメットで工事現場にいたので、その若者はエンジニアを目指していたが、なれなかったのかと聞いたら、なれたということだった。
別れて「銀巴里」に向かう途中に単純なメロディーが聞こえてきた。
忘れていた小学校時代の同級生のお母さんのヨイトマケの姿が焼き付いていたのが蘇ってきて、直ぐうちに帰って譜面を書いて詩を書いたら、1~2時間足らずで出来上がってしまいました。
「銀巴里」から帰って、友達呼んで赤飯炊いてお祝いしたら、彼が両手をついて泣きだしました。
自分は生まれてこの方、自分のことでお赤飯を炊いて祝ってくれた人は一人もいなかったということで嬉しいと言って、一生忘れませんと言って、みんな貰い泣きしました。
その時私はこういう歌が出来たといって、披露したら皆良い歌だと言って泣いてくれました。

ビジュアル系の「メケメケ」を辞めて、素顔でワイシャツ一枚で歌う様になったもんだから、商品価値がなくなったということで、仕事が全然来なくなりました。
戦争反対というようなものはだめだと言われました。
或るTV局から電話があり、歌ってほしいということで、歌ったら凄い反響でした。
2万通の手紙が来ました。(労働者、母子家庭などから)
TV局からアンコールが有り、そうしたら5万通の手紙がまた来ました。
社会派と言われていたが、それから受け入れてもらえるようになりました。




























2018年9月17日月曜日

寺澤康行(日本鳴く虫保存会)       ・【にっぽんの音】能楽師狂言方 大藏基誠

寺澤康行(日本鳴く虫保存会)       ・【にっぽんの音】
能楽師狂言方 大藏基誠
くさひばり 
ラフカディオ・ハーンがこの虫が好きで自宅で飼っていた。
午前中にも鳴くので、朝鈴という別名もあります。
1cm程度の大きさ。
11月位まで聞ける。
この会が出来てから51年目で、私が虫を飼い始めたのが昭和25年です。
担任の先生が5匹鈴虫をくれて、そこから始まりました。
作ったきっかけはカンタンという虫がいますが、この虫の人工飼育がなかなかできなかった。
小野さんという方が成功して、その技術をみんなに広げたいと言うことと、鳴く虫全部をやろうじゃないかと言うことになりました。(都市開発で虫が段々居なくなってきた)
①虫の飼育能力の向上。
②虫の文化を皆さんに知ってもらおう。
この二つの目的で活動しています。

鈴虫を無料配布をやってその時にアンケートをやりましたが、なんで飼いたいのかというと男性は郷愁なんですね。
今年3月には去年よりも3.1℃平均気温が高かった、4月は2.5℃高かった。
そうすると虫に対しる影響が有り早く孵化して、早く成長することになる。
9月にコンクールをやるが、その時にはお爺さんになってしまって鳴かなくなってしまうと言うことがある。
虫の寿命は大雑把に、土の中に8カ月、地上に出てきてから4カ月です。
暑いとどんどん成長してしまう。
鳴く虫コンクールは20回目になります。
鈴虫、松虫、カンタンの3種類の競技を行います。
この3種類は声がいいので選びました。
鈴虫は地面に卵を産みますが、松虫、カンタンは草の茎に産みます。
カンタンは茎の20cm以上の処に産む、松虫は地面の近くの茎の処に産む。
鈴虫は黒、松虫は茶色、カンタンは黄色から緑色。
体色が保護色になっている。(場所を住み分けている)
審査員は15名程度で、①綺麗な声、澄んだ声、②大きな声、③長く鳴く
この三つでポイントが入ります。

鳴き声もある程度飼育で工夫ができます。
コンクールで優勝した虫の子供がそれを引き継ぐかどうかですが、、卵を100個以上産むので、どれが引き継いでいるのかどうか判らないので、中途で匙を投げてしまいます。
審査の時間が夕方6時~6時40分ぐらいで、普通これらの虫が鳴くのは7時30分過ぎなので、早いからなかなか鳴かない。
暗くするがそれだけでは鳴かない、がっかりして帰ると電車の中で鳴いたりするわけです。
ですから誰が優勝するかはやってみないと判らない。
一緒に鳴くので聞き分けが難しい。
鈴虫は リーン リーン リーンと3回鳴いてお休みします。
松虫は チンチロリン チン チン チンチロリンと鳴いて休みます。
カンタンはルー ルー ルー・・・、と1時間以上鳴いています。

カンタンの鳴く好きな温度は24~26℃位です。
それ以上高いと声が高くなって行って、それ以上になると鳴かなくなります。
求愛の声なので、鳴くのは雄です。
実験で若い雄、ちょっと歳取った雄と、雌を置いて同時に鳴かせた時にどっちに行くかというと、雌は高い音、澄んだ音の方に行くということが判りました。
雌は、若くて大きな声で元気に鳴くのがいい、結局若い方に行きました。
人間が聞いても澄んだ声で大きな声で鳴く方がいいですね。

かねたたき くさひありとおなじ位の大きさ
くつわむし  6cm位の大きさ 馬のくつわのガチャガチャする音から来たらしい。
       昔には何処にでも居たが今は東京にはいないと思う。
綴れ刺せ (つづれさせ) 着物のボロを刺す様に鳴く。
 10月ごろでも鳴く。 ぼろを繕って春からの野良着に使いなさいよと鳴いている。(肩刺せ、裾刺せ というふうに聞こえると言う訳です)
つづれさせコウロギの誘い鳴きを録音したが本当に貴重なものです。
エンマコウロギ 閻魔様に似ているということだがいかつい顔をしています。
        縄張り宣言の声、求愛だと違っている。

ピアノの一番高い音が4100ヘルツだが、カンタンが2500~3500ヘルツ、
エンマコウロギもほぼ同等。
それよりも他の虫は全部高い、ウマオイは高い方は1万4000ヘルツ位あります。
「スィーッチョン スィーッチョン」と聞こえる。
高い周波数は歳をとると聞こえなくなる。
5種類位鳴いていてもどの虫かどの虫かは判ります。
青松虫は「リ リ リ リ リ リ」と鳴いて鈴虫と間違われますが、鈴虫は東京にはいません。
青松虫は都会の街路樹などでも鳴いています。
虫の声には自分が癒されます。
















2018年9月16日日曜日

小池理雄(お米マイスター)        ・【"美味しい"仕事人】お米の魅力を伝えたい

小池理雄(お米マイスター)  ・【"美味しい"仕事人】お米の魅力を伝えたい
小池さんは東京原宿精米店の3代目です。
原宿はファッションの街として、若者や外国からの訪問客で賑わう町です。
町からお米屋さんが消えて行く中で、小池さんは生産者と消費者を結ぶ活動を続けています。
お米マイスターとしてお米の魅力を伝えている小池さんのお話です。

お米マイスターはお米屋さんが持っている資格で、お米屋さんの組合が認定している資格です。
お米マイスターは日本全国のお米の特徴をきちんと説明出来たり、お米の食べ方、お米の特徴、稲の育ち方等、お米に関すること全て詳しい人で、且消費者の人に判り易く説明できる人です。
三つ星と五つ星があって、私は五つ星の方で難しい試験もあります。
試験の事前にお米が送られてきて食べて感想を述べるなど、口述試験、どういう品種なのかなど、お米を知らないと受かることができない試験です。
お米屋さんなので精米技術が大事なので、精米のやり過ぎ、少な過ぎなど食べてみたり触って見て判るのでそういう試験もあります。
精米は玄米のぬかの部分を取って白米にする作業で、目方の約1割がぬかですが、玄米のぬか層と白米の層の間に亜糊粉層(あこふんそう)という、うま味が詰まっている薄い層が有り、それを残しつつ、お米粒が割れないように精米する。
品種、気温湿度によって違ってくるので、お米を見ながら精米するというのが我々の仕事です。
生産者さんのお米の種の選択、どうやって栽培、収穫後の調整、我々がどうやって精米するのか、おいしさジャンクションがあります。

色々なイベントにも出かけて行きます。
皆さんは品種は判っていると思いますが、食べ比べは無いと思います。
お米に関心を持ってもらうことが、お米消費拡大の大事なことだと思っています。
毎年農家さんとも10か所ぐらい話をします。
生産者と消費者は興味の持ちどころが違うので、それをつなげるのが私の役目だと思っています。
今年は石垣島まで行きます。
稲は元々南方、東南アジアから伝わってきたので、沖縄も一つのルートで稲作の歴史は古い。
沖縄の早場米、「ひとめぼれ」が6月には都内に出て来る。
田んぼが有ることで治水が出来て、里山の風景も守られている。
田んぼは自然と調和をして作物を作っている、優れた設備だと思っています。
佐渡島に朱鷺(とき)が300羽ぐらいいるが、そこは田んぼが餌場になっていて、そこには魚、昆虫がいないと絶滅してしまう。
農薬を使わない、田んぼの面積を増やそうと言う取り組みを佐渡ではしています。
今はおいしいだけでは差別化できなくなって、そこから先はどうするのかということが今の話のようになるわけです。

原宿でやっているが、情報発信がしやすい。
サラリーマンを10年前までやっていて父の具合が良くなくて継ぎました。(3代目)
日本全国でお米屋さんから買っているのは、
7%位と言われて少ない。
お客さんへのヒアリングをして、粘り、甘味、もっちりさ、価格などを聞いて新しい別のお米の紹介などをします。
レストラン、食べ物屋さんが多いが、お付き合いをして販売しています。
お届けするものはブレンド米が多いです。
以前は一般的には価格調整などでしたが、それぞれの美味さの要望に合わせたものを調整します。
要望に対して単一銘柄では表現できなくなってきている。
原宿の「穏田キャットストリート商店街」で80年以上やっています。
昔、穏田川が流れていたが、暗渠になってしまっていて、猫が結構いまして、このような名前になりました。
「おんでん」には二つあって隠田、穏田 江戸時代の葛飾北斎の冨嶽三十六景の中の一つに「おんでん」の水車と言う絵が有り、その水車は穏田川にかかっていた。
元々は伊賀者の忍者の里がこのあたりと言われて、穏田と言われた。
当時水車が結構あって、水車で精米をしていた、歴史のある街です。

大学卒業後出版社に勤務して編集の仕事をしていました。
社会保険労務士の試験を取って、コンサルティング会社に入って7,8年勤務しました。
父が倒れた時に、周りを見渡すと私しかいなかった。(長男の末っ子だった)
小学校時代から手伝っていたので、すんなり入れました。
やって見て本当に奥が深いなと思いました。
10年近くやっているが、判らないことが一杯あります。
お米を食べて評価する時に、お米面接表を付けていて、8つの切り口で評価して作文して点数を出しています。

最近の代表格は山形の「つや姫」と、北海道の「ゆめぴりか」です。
新潟県の「新之助」、福井県の「いちほまれ」、富山県の「富富富(ふふふ)」、石川県の「百万石」、宮城県は「だて正夢」などが出てきています。
生産量では「コシヒカリ」が30%を越えています。
「コシヒカリ」の子供である「あきたこまち」「ひとめぼれ」「ヒノヒカリ」と合わせると全体の6割を占めています。
新しくいろいろ出てきているが、まだ少ないのが現状です。
お米の消費量は毎年さがってきていますが、広めるためには新しい品種は大事だと思います。
ブレンドもみなさんがやってみても、いいのかなと思います。
そういった楽しみ方もあると思います。
玄米を食べたがるのが奥さんで、白米を食べたがるのは旦那さんでそういった時に、5分突きのものもあります。

精米機の性能がいいので、今はヌカが取れている。
研ぐのもいい加減でいいと思う。
米を水に浸けるのに、冬は1時間、夏は30分と言われているが、できればその倍は浸けてほしい。
お米の中にしっかり水が浸透します。
水が熱伝導の役割をして、しっかり熱が行き渡って結果として、でんぷんがもっちりと仕上がる。(アルファー化米
水に浸けておいた方が、でんぷんを糖化するアミラーゼが活発に動くといわれていて、水に浸けておくとそれだけで全然違います。
炊飯器は水を浸けないことを前提に設計されている事が多いので、浸けたものを普通のモードでやると間違えるかもしれないのでモードの確認が必要です。
土鍋も結構いいと思います。
お米は精米した時点から酸化が始まります。
できれば空気を密閉した状態で低温で保存するといいと思います。
お米は呼吸しているので、呼吸すると養分が失われて行くので、呼吸しないようにした方がいいと思います。
玄米は保存していると臭いが付きやすいので気を付けてほしい。
地域が発展するように一つの商店として頑張っていきたいと思います。
稲作文化を守る最前線にいると思っているので、少しでも寄与できればと思っています。




















2018年9月15日土曜日

延原武春(日本テレマン協会音楽監督)   ・大阪からバロック音楽を広めて55年

延原武春(日本テレマン協会音楽監督)   ・大阪からバロック音楽を広めて55年
この楽団はステージのある大きなホールではなく、室内楽にふさわしい場所を求めて演奏活動行って来ました。
大阪、船場の大正末期に建てられたレトロなビル大阪倶楽部の一室や、阪神間の閑静な住宅街にあるカトリック夙川教会の聖堂、大阪中之島にあるレンガ作りの大阪市中央公会堂などで定期的に演奏会を開催しています。
17世紀から18世紀にかけて活躍した作曲家、ゲオルク・フィリップ・テレマン(Georg Philipp Telemann) このテレマンに魅せられた延原武春さんが、室内楽団や合唱団を立ち上げて音楽活動を続けて来ました。
今年活動を続けて55年になります。

バロック音楽、1700年代に入ってからのバッハ、ヘンデル、テレマン、ビバルディーを中心に始めた楽団です。
特にテレマン 有名な作曲家です。
いままでの作曲家で一番沢山曲を作った人と言われています。
ヘンデルとはライプツィヒ大学時代からの友人です。
バッハとも交友関係が長く、バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの名付け親にもなった。

私は小学校の頃、絵とヴァイオリンを習っていました。(戦後間もない頃)
中学ではコーラス部を立ち上げたりしました。
ヴァイオリンはあまり一生懸命ではなかったが、オーケストラを立ち上げてた時に役に立っています。
大阪音楽大学付属高校に入って、宮本先生から大笛を始める様に言われて始める。
クラリネットに似ているが、2枚リードになっていて難しい木管楽器です。
リードを自分で削って作らなくてはいけなかった。
リードは葦(フランスのある場所で取れる葦)
毎日8時間位勉強しました。
そこでテレマンの楽譜と偶然に出会うことになりました。
テレマンの研究会を作ってテレマンの事を調べだしたりしました。
バロック音楽に魅力を感じました。
外交官のお別れなどの会で呼ばれて、演奏して素敵な経験を何回かしました。
大阪音楽大学に入って、テレマンアンサンブルを結成し、本格的な活動を始める。
1963年 始めて外で演奏会を正式にしました。(名古屋)
大笛、リコーダー、チェンバロ、チェロ 4人でやりました。

根拠地となったライブハウスが、伯母がやっていたバーのような店をやっていて、そこを強引にバロックが出来るスナックにしたいと言うことで、チェンバロを置いてやりました。
本当に酒を飲みながら聞いてくれる人が聞いてくれるのだろうか、ちゃんと生活に結びついてるのだろうかとか、自分で実験したかったが沢山のお客が来てくれました。
しかし、店の経営は回転が悪くて駄目でした。(2,3年は続いた)
仲間も増えてきて、津村別院に理解あるお坊さんがいて、バロックをやってもいいと言うことで、チェンバロを運んで月例会を行いました。
その後人も増えてマネージメント出来る様な体制を作りました。
合唱団も作る事になり昭和44年に、バッハの作ったカンタータという宗教音楽をやってみたかった。
大阪テレマン協会になり、1979年には日本テレマン協会になる。
日本と言うふうに名前を付けた方が動きやすいということで日本テレマン協会としました。(ほかにも理由があるが)
教会ではなかなか演奏会はさせてもらえなかった。

1980年代は外国からやって来るアーティストとの共演も増えた時代でした。
1984年12月にライプツィヒのゲヴァントハウス・バッハオーケストラを、1985年にズール・フィルハーモニー、1989年にはライプツィヒ放送管弦楽団を客演指揮しました。
ヨーロッパでは産業革命以降、沢山のオーケストラが出来ました。
1990年ぐらいから古楽器を使おうと言うことで、日本テレマン協会でもやり始めました。
援助もして貰いながら楽器を集めて、できるようにしました。(大変だったが)
1995年にはほとんど集まりました。
2015年から中之島にあるレンガ作りの大阪市中央公会堂の集会室で演奏会を始めました。
ヴェートーベンのピアノ協奏曲が5曲あるが、それを全部やりたいと言うことで、探して中央公会堂の集会室でやったらすごくいい音がしたんです。
天井が高いのと響きが良くて、大正時代に建ったというのが凄いですね、宮殿のようです。(建て27m 横35m)
演奏者のステージとお客さんが同じ床面。

ヨーロッパでは凄く古楽器が盛んで、館、教会、お城などが有り盛んになります。
中之島ではいい場所が有ったと思っています。
中之島を中心にもう一回新しい文化を上げたいと思います。































2018年9月14日金曜日

桜沢エリカ(漫画家)          ・人生55(GOGO)!

桜沢エリカ(漫画家)          ・人生55(GOGO)!
東京都出身、55歳 10代でデビューして以来、コミック誌やファッション誌などで活躍、1990年代に発表された「メイキン・ハッピィ」で人気漫画家としての地位を確立しました。
時代や社会の制約に負けず、しなやかにしたたかに生きるヒロインの姿に声援を送るファンも多く、女性の気持をリアルに表現した作品には定評があります。
そのほか、猫との生活を描いた「シッポがともだち」や、「もふっ・とさせて」ご自身の出産、育児といった経験をもとに描いた「今日もお天気」など、エッセー漫画も桜沢さんのプライベートを垣間見えると好評です。
最近では趣味やファッションにまつわる記事を発信するブログなど、活躍の場を広げています。

よく続けてきたなという感じがします。
平成前後のバブル期は謳歌していないです。
その頃の代表作が「メイキン・ハッピィ」です。
宝くじが当たって、豪邸を経て東京に戻ってアパートに戻るがそこから又一歩踏み出してゆく。(主人公が女性だったからよかったのかもしれない)
お金よりも大事なものが有るのかもということ、最終的に残るものはなんだろうと言うことですかね。
その後飛ばして書いたが、失恋とかあって落ち込んで半年休業しました。(30歳前位)
その間に貯金を使い尽くしてしまった。
働いていたからお金が有ったんだと気が付きました。
そこから生きて行くために書くんだ、という方向にチェンジしました。
その5年間ぐらいは辛かったです。
その後結婚して子供が授かって、子供のためにとかということで辛いという気持ちが無くなりました。

現在「こまどりの詩(うた)」を週間誌に連載。
20代の女の子が主人公。 母親、おばあちゃんに遡って行く。
その前が「スタアの時代」 昭和の映画スターを主人公にして書いている。
女性週刊誌らしいものをと思ったが、今では考えられない様なお金の使い方とか色々なエピソードが出て来ます。
「スタアの時代」の1,2,3巻は高倉健さんと江利チエミさんを中心にお話を作っています。
義理のお姉さんと一緒に住んでいて、そのお姉さんに邪魔をされて高倉健さんと離婚したんです。
本当の原因が何だったのかはわからないところが多くて、創作して書いた部分もあります。
週刊誌は毎週流れて行くので「つづく」でいいんです。
一番難しいのが背景(風景、小物、着ているものなど)で、資料を集めてやっています。
黒電話の実物を買ったりしました。
男性のズボンの履き方の位置も昔よりも下がってきています、そういったことも注意しています。
水、木、金で仕事をしていて金曜日にアップします。
夫には家事の事を色々やってもらっています。

夫とは5年付き合ってきて、子供が授かり結婚することにしました。
専業主夫としてやってもらっていますが、当時としては目立ちました。
私は子供におっぱいをやっただけで、後は夫に全部やって貰いました。
今は猫が3匹いてエッセー漫画を描きました。
仕事は自分の為だけにやっていたら息詰まりすね、誰かの為でないと続けられないのかなと思います。
上の子が小学校卒業ぐらいでエッセーを止めました。(今は18歳)
男の子は優しいと思います。
夫は3年前から友達のカレー屋さんの手伝いをするようになりました。(週1~2、3日)
ベビーシッターも始めて、5歳児から大人気だそうです。(才能かも)
子供に手がかからなくなって、夫は持て余してジムに行っていたりしていました。
夫はお金も稼ぐようになり旅行に連れて行ってもらったりしました。

私の趣味はバレイ、歌舞伎などの観賞。
バレエに関する漫画も描いています。
若いころはセックスシーンを描くのが有る意味楽しかったが、今はバレエを描くのが好きです。
和服も好きです。
3年前にお茶を始めて和服にのめり込みました。
20歳で着付け教室に行ったりして、30代になる頃に友人が着ているのに触発されました。
妊娠して着物との付き合いは無くなり、40代にはいった時に地味な訪問着などを作りました。
3年前にお茶を始めて又、和服にのめり込みました。
お茶はそのことに集中して無になれるので面白いです。(日常の生活と切り離せる)
今の目標は60歳で赤い振袖を着ることかもしれない。(20歳で振りそでを着れなかったから)
知られざる人にスポットを当てたものを書いてみたい。