2019年12月14日土曜日

椎名保友(NPO法人スタッフ)       ・障害者の災害避難を支える

椎名保友(NPO法人スタッフ)       ・障害者の災害避難を支える
椎名さんは障害者の日常生活を支援する傍ら、有志が仲間を集めて災害時に障害者が避難しやすい環境を整えるための活動を行っています。
椎名さんが中心となって立ち上げた活動の一つが、仕事や観光など外出先で被災したことを想定した避難訓練、「街中被災シュミレーション」です。
2011年にはじまって8年目を迎えたこの活動、そして椎名さんが活動に打ち込むようになったきっかけについて伺いました。

街中をアロファを着て歩いているときに「街中被災シュミレーション」のスタッフですよと、判るように着ています。
8名のメンバーでやっていて、5人が障害のあるメンバーです。
申し込んでいる人が30名います。
10名づつに分かれて、スタッフが2名つきます。
電動車椅子の人、視覚、聴覚に障害がある人達がスタッフとして付きます。
8年間で23か所やってきました。
梅田の地下街でやったときには、地上に逃げるためにエレベーターが止まっていて、電動車椅子の人が困ると思ったんですが、実際にはパニック障害がある方が人混みでは怖いと思ったりとか、盲導犬ユーザーの方が方向が取れないから動けないという事を聞いた時に、情報を得ることの困難とか判断の困難とかが都心部ではあるのかなと感じました。
地上に上がったときに多くの人がいる中で、自分たちはちゃんと非難ができるのだろうか、そういう不安も感じました。
直近は大阪の難波で行いました。
30名の方と一緒にぶらぶら歩いて、途中で災害が起きたという事で障害の方と一緒に逃げていただくという事をやりました。

東日本大震災があったときに、障害のある人は地震があったときに生きずらさがでてきて、避難した後、病気などいろんな問題が出てくるので、テーマを障害に絞った避難訓練は作れないのかなと思いました。
阪神淡路大震災の時に被災した障害のメンバーもいて、いろいろ経験したことを話してもらって大きなヒントになりました。
2011年の11月に大阪の扇町で第一回は行いました。
障害者の人と一緒に歩いてみようという事になりました。
50人集まってみんなで歩きました。
想定した問題点などを話しながら歩きました。
その後発表しあってもらいました。
子どもたちは人混みが圧迫感があるとか、障害のある人と街を一緒に歩いたことはないという様なことを言っていました。
23回続いてきたのはその都度新しい発見があるのでメンバーに飽きが来ないし、新たに発見したいという事で続いてきています。
車椅子の人が困るのだけではなくていろんな人がいろんな局面で困るんだなということが判りました。
お互いに補えるという事も気づきました。

芸術大学を卒業後劇団に就職して、残業もなくて土日も暇で、アルバイトをしようと思ったら障害者の生活支援というものがあり応募したのがきっかけです。
最初に指定された障害のある方のところに行ったら、うちのアルバイト先の代表の家でした。
昔のヒ素ミルク事件で手足にマヒが出ている人で歩行が困難な人した。
食事を温めてとか、野菜炒めを作ってほしいといわれて対応しました。
食べ終わったらお風呂に入るので対応してほしいといわれて、言われるままに洗いました。
マニュアルがなくて本人に聞きながらやってというのが衝撃でした。
聞く、聴く、訊く、3つがあるが、いかに気付くか、相手に確認するかが重要です。

来年2月に外国人、子ども、障害者に対してどんな避難訓練ができるのかを行う予定です。
避難所での訓練も想定しています。
障害のある方が避難所での生きずらさを周りの人にも知っていただきたいと思っています。
周りの方の目くばせ、気くばせが大事だと思います。
障害がある方、困っている方などの「される経験」を日ごろから積んでほしいと思います。
障害がある方、困っている方などの事を「知ってほしい」という思いがあります。
「街中被災シュミレーション」をインターネットで検索してもらって、観てもらえたら嬉しいです。














2019年12月13日金曜日

中島かおり(NPO法人代表理事)      ・【人権インタビュー】 (5)孤立する妊婦と赤ちゃんを救いたい

中島かおり(NPO法人代表理事)・【人権インタビュー】 (5)孤立する妊婦と赤ちゃんを救いたい
虐待で亡くなった子どものうち、多くは実は生まれたその日に死亡しています。
その場合その加害者のほとんどが母親で、背景には複雑な事情を持つ妊婦が孤立している現状があります。
こうした中、東京を拠点に活動するNPO法人「ピッコラーレ」では電話、メールでの妊娠相談や妊婦の居場所探しをしています。
何故妊婦が孤立してしまい、今どんな問題を抱えているのかNPO法人の代表理事で助産師の中島さんに伺いました。

毎年何人が虐待死しているのか、2017年度では52人が亡くなっています。
そのうち0歳で亡くなった赤ちゃんが28人亡くなっています。
厚生労働省が15年前から発表しているが、それほどは変わっていないです。
減らすことができない数字です。
0歳児では0か月、0日死亡が最も多いといわれています。
妊娠という課題を抱えてながらほかの課題も抱えてきたといわています。
例えば今日寝る場所をどうしようとか、今日食べるものをどうしようとか、明日仕事がなくなるかもしれないとか、そういった課題を抱えて妊娠という課題が乗っかって来た場合、それと向き合う余裕がない。
経済的な問題だけではなくて暴力にさらされている場合もあります。
妊娠したことを誰にも言えない方もいます。
母子手帳をもらう事は妊娠したことをひとに言う事になるので、恐ろしくて言えないという事もあります。

0か月、0日虐待死が多いというのは、赤ちゃんに対する虐待というよりはネグレクトとしての虐待死が多いような気がします。
父親からのDVという事もあり、妊娠は10か月後には必ず生まれるが、お腹が大きくなって孤立している妊婦を見つけることができない、私たちの社会からのネグレクトともいえるかもしれません。
その時の女性の気持ちは終わったという気持ちなのかもしれません。
一人ぼっちで進んできているなかで妊娠出産というもの、赤ちゃんが亡くなるという事で終わるという事は10か月間赤ちゃんをお腹の中で育ててきた女性にとってみて、どんなものだろうという事は私には想像できないです。
虐待死の責任がその母親だけが責任だとは思わないです。
一人で抱えさせてしまって、その一つ手前での相談先になれなくて申し訳ないと思うし、頼り先になれなかったという事に対して情けない気持ちにもなります。
かける言葉がないです。

0か月、0日死亡の母親は母子手帳を9割は持っていない方です。
彼女らはスタートラインにさえ立てない方々で、もっと手前のところでどうやったら彼女たちと繋がるのかを考えたのがきっかけです。
NPO法人「ピッコラーレ」の前身の「妊娠SOS」を2015年に立ち上げました。
今年の10月までに相談してきた方が4700人以上になっています。
相談件数では1万8000件以上になります。
緊急性が高い、リスクが高い人は電話、メールではサポートしきれないので実際に面談をすることをやっています。
行政、病院の紹介などをしていて、延べで201件になっています。
たった一人で自室で生んでしまったというケースがありましたが、最初メールできました。
妊娠をしていることが判ってしまうと、職場の寮から出ていかなくては行けなくて言えなかった、という事でした。
経済的なことも抱えていました。

母子ともにサポートしなくては行けなくて、2週間の間、24時間、2時間おきにメールで伴奏したという事がありました。
電話でのやり取りが事情によりできない状況がありました。
匿名相談窓口なのでメールアドレスしか判りませんでした。
信頼関係が出来上がってくると住所、年齢、ニックネーム、そのうち本名を名乗るようになって、そのうちにつなぎ先を確保できるようになります。
相談はハードルが高いものだと思っています。
最初に「相談してくれてありがとう」と言って、話してゆく中で「ここからは一緒に考えさせてね」という様になって行きます。
SOSを言っているのにそれをキャッチしてもらえなかった、キャッチできない社会の仕組みだったり構造があるかもしれないという事もあります。

ネットカフェにいる方からの相談、ネットカフェで生活している妊婦からの相談が結構あります。
一晩3000円ぐらいで過ごせるが、日雇いのアルバイトをして、3日間ぐらい暮らして、又無くなったら日雇いのアルバイトをするという様なパターンです。
お腹が大きくなって、相談するという事もあります。
漂流する妊婦さん、居場所を転々として生き抜いてきてる。
VDなどに会ったりすると安心安全な居場所探しを一人でしますが、そういった場所をうまく見つけることができずに、転々と居場所を変えてゆく事になります。
妊娠してしまって、居場所がなくなってしまう事になります。
性搾取のために泊めてご飯を食べさせてくれるところがあり、そういったところに流れていってしまうという事もあります。
社会側の不備というか、裏の福祉の人たちに負けてしまっている表側の福祉という事は言えると思います。
ある程度判っていながら裏の福祉に行ってしまうという事があると思います。
差し出すものが自分自身しかないと思っているので、自分を大事にするという事を大切に扱われてきていないという生育歴のなかで自分を大事にするという事が難しいのかなあと思います。
性的なことを含めて傷つくことが敏感だと生きていけなかったという様に、感じないようにやり過ごす状況にある事もあるものと思っています。

子どもを保護する児童福祉法は18歳未満の子供が対象になっていて、18歳を超えてしまうと対象にはならない。
未成年だと契約ができないので、家を借りられないとか携帯電話も契約できない。
保護者の許可が必要だが保護者から虐待を受けていると、にっちもさっちもできなくなる。
未成年で未婚の場合は自分のおなかの赤ちゃんの親権は自分にはない、親にあるので親の許可が必要になってきてしまう。
特別養子縁組は契約になるので、契約ができるのは自分の親になってしまうので、親の許可が必要になるので、なかなかこうしたいという事の選択が難しくなってしまう。

「プロジェクトホーム」という新たな取り組みをしています。
居場所のない妊婦さんの居場所を作るプロジェクトという事でやっています。
貧困、虐待、家出、DVなどいろんな問題をかかえていて、妊娠してしまっている。
彼女たちがいつでも来ることができて休めるような場所を作るというのが中身です。
東京の豊島区に一戸建ての地域貢献型空き家利用の第一号として利用できるようになりました。
来年4月からスタートできます。
最終的には自分の居場所が見つかればいいなと思っています。
ホームを探すような、見つけるようなプロジェクトなんじゃないかという事で「プロジェクトホーム」と名付けました。
自分がやりたいことができて心地よい自分の場所に行ってほしいという願いがあります。
妊娠が困り事になってしまわない社会になってほしいと思います。
「ピッコラーレ」は大きな波が来ても避けてもらって、休んでもらって回復した後に新たなところに行ってもらうという事で、潮溜まりみたいな場所でありたいねと言っています。































2019年12月12日木曜日

山口健太(会食恐怖症元当事者)       ・【人権インタビュー】 (4)『一緒に』食べられない僕はダメですか?

山口健太(会食恐怖症元当事者) ・【人権インタビュー】 (4)『一緒に』食べられない僕はダメですか?
会食恐怖症をご存じでしょうか?
代表的な症状は誰かと食事をする場面になると、極度に緊張してしまい吐き気を催すなどして食べられなくなるものです。
精神障害の一つとされ国内では専門医の少ない会食恐怖症、悩んでいる人たちをサポートしようと支援団体を立ち上げて活動をしているのが、自らも患者として苦しんだ経験のある、岩手県出身の山口健太さん(26歳)です。
おおくの人たちが日々普通にとっている食事が思うように出来なくなった時に人はどんな状況に陥るのか、普通とは一体何なのか伺いました。

何らかの症状が起きてしまって人と一緒に食事ができなくなって、半年以上続いてしまって日常生活に支障が出る。
症状もいろいろあり、多くが吐き気、ご飯を飲み込めない、動悸、汗が出てしまったり、手が震えてしまったり、しゃべれなくなる事もあります。
社交不安症がその上位にあり、その一つとして会食恐怖症があります。
医師も会食恐怖症に関することは詳しい医師は日本ではまだあまりいません。
10代の方が多いといわれます。
学校の給食などで間食を強要されたりして、強く言われたりしてなる場合が一番多いようです。
私は高校時代に発症しました。
野球部で合宿があり、体つくりを兼ねてご飯を朝2合、昼2合、夕方に3合食べようという事でノルマとして課されるわけです。
それが出来なくて、プレッシャーを感じる様になり、監督がそのことに対してみんなの前で怒ったんです。
又言われるのかもしれないと思うようになって、ご飯の匂いを嗅いただけでも食事が困難になって行きました。

教室で弁当を食べるとか、一緒にラーメン屋に行くという様な時でも食べられなくなりました。
いつの間にか一緒には食べられなくなってしまいました。
一番は将来が不安でした。
一度打ち明けたことがありましたが、理解して貰えなくて、その後は言わないようにしようと思っていました。
ネガティブな気持ちになって行きました。
家では普通には食べていました。
本当に仲のいい高校生で一緒に食べていた友達と、家族は大丈夫でした。
自分をさらけ出してもいいという様な関係の人たちだったように思います。
高校生の時にはインターネットで検索していたら似ているなという感じがしました。
あまり書かれてはいなくて克服するような内容などは一切書かれてはいませんでした。
まず食事をなるべく避けずに行くというところを大切にして行動していったという事を大切にして行動していったというのが最初のステップでした。

大学では前向きな気持ちも少し出てきました。
1年生の夏にアルバイトに行きました、日本料理屋さんでした。
まかないが定食の中でもがっちり出してくれるところで、店はやめたくないと思って店の人に打ち明けたら、無理せず食べられる分だけ練習するつもりで食べればいいといわれました。
最初はうまく食べれなかったが、半年後ぐらいには食べられるようになり転機になりました。
「食べなきゃ」ということが「食べなくてもいいや」という風に変わるとうまくいくようになりました。
ポジティブにとらえられるようになり、こうしたいという様にとらえられるようになりました。
悩んでいる方たちに伝えたいと思うようになりましたが、どうしたら発信できるのか、情報発信をちゃんと学ぼうと思うようになりました。

大学を中途でやめて、ウエブサイトを作るとか、情報発信し方をちゃんとやるとか始めました。
段々自分の仕事が成り立って行ってアルバイトも辞めてその仕事をするようになりました。
経営の勉強会に参加した時に、「山口君がやっていることは誰でもできるようなことなので、もっと自分がやるべきことをもっと追求した方がいい」といわれました。
会食恐怖症とかメンタルなことで悩んでいる人たちにメッセージを届けたいという思いで今の仕事のことを学び始めたという事を思い出して、やり始めようと思いました。
会食恐怖症について高校時代とあまり変わらない情報内容だったので、置き去りにされている分野だと思って、やっていこうという気持ちがますます高まりました。
今まで一人で悩んでいたことに対して、前向きに行動している人がいることを知ってよかったという声が多いです。

相談には2000、3000人の方がいらっしゃいます。
50代の方からのメールがありましたが、小さいころからの会食恐怖症だったんだと知ったという様な方もいました。
会食ができないという事で、その後の人生全般に直接的な影響が出てしまっている状態です。
症状のある人たちとの会食会などをして,食べれなくても構わないという事でやるわけですが、表情なども変わってきます。
親から、学校の先生などからの指導する側からの対応の仕方の相談もあります。
胃袋にも個性があるという思いで考えていただきたいと思います。
普通とは多くの場合という意味だと思うので、普通に当てはまることが正しいかというとそうではないと思うので、普通に当てはまらなくてもいいと思います。
違いを受け入れるという事が大事だと思います。








2019年12月11日水曜日

大谷順子(NPO法人代表理事)       ・【人権インタビュー】 (3)虐待の悲劇を許すな!

大谷順子(NPO法人代表理事)  ・【人権インタビュー】 (3)虐待の悲劇を許すな!
84歳になる大谷さんはこれまで子どもにかかわる様々なNPOの立上げにかかわってきました。
日本で初めて親と暮らせない子どもが里親と生活する家庭を集めた子供の村を福岡に開設するなど、子どもへの支援活動を50年以上続けてきました。
近年子どもの虐待に関するニュースが数多く報道されています。
子ども自身がSOSを発信していたのにもかかわらず、救われなかった命も少なくありません。
どうすれば子どもの虐待が防げるのか、大分にさんはそのカギが地域だと言っています。

大学を卒業した後しばらくTV局で働いていて、子どもの番組の制作にかかわりまして、そのご縁から子ども劇場という市民団体(今でいうNPO法人)、にかかわったのがきっかけです。
当時の子どもの状況が変わっていくという事で危機感を持ちました。
遊び、仲間、ゆったりした時間そういったものがどんどん失ってゆく予感がしました。
68歳の時に「子どもNPOセンター福岡」を立ち上げました。
子どもの問題が多様化して深刻な問題が多発するという事で、多くの市民がその課題に取り組むという方たちが出てきて、NPO法人として立ち上がりました。
当時子ども虐待という言葉はありませんでした。
しつけ、指導という名のもとに体罰はあったと思いますが、今でいう子供虐待が認識されたというのは、2000年に児童虐待防止法が成立しましたが、その少し前ぐらいから認識されてきたと思います。

子ども権利条約が子ども虐待を発見したという風に言われる。
子ども権利条約が国連で採択されて30年になります。
日本で批准して25年経ち、いまだにそのことが浸透し社会に根付いていかないという問題がもろもろの問題を引きおこすという事に関連があるのではないかと思います。
子どもは一人の独立した権利があるという見方が重要な事で4原則があります。
①生きる権利
②発達する権利
③保護される権利
④参加をする権利
生まれながらに持っている権利です。
国、大人社会は子どもに対してちゃんとそれを保証する責務を負う。

2005年69歳の時に市民参加型の里親普及事業に着手。
色んな背景を持った子供たちが次々児童相談所に連れてこられて(虐待が一番多かったが)、児童相談所が非常に困って、一時保護され、児童養護施設に子どもを委託したりしますが、一杯になってきて、他県にまでお願いするという様なことになりました。
里親を増やすことしかないという事で、私どもに相談があったという事がきっかけでした。
里親制度が知られていないことが判りました。
或る里親から世間から隠れるようにして生活してきたという話を聞いて、これは変えなければいけないと思いました。
2006年に子どもの村を作る事に着手。
複数の里親家庭が集まって専門家の支援を得るという事がポイントですが、一緒になって子どもを育てる村という事です。
5棟建っていますが、今4っつの家庭があります。
里親の愛情だけではどうにもならないということが判ってきて、専門的な支援があまりにも日本の中では不足しているという事です。
苦労してきた子どものトラウマを専門的な力がないとできないことで、一つ一つほぐしてゆく作業をするのでこれは大事なことだと思いました。

資金、土地、人材の確保、地域の方たちの合意を頂くこと、すべてが大変でした。
悪い子が来るとか噂が飛んだりして、反対されたりしました。
説明会を開いたりしましたが、反対する人達がいて収まるまで1年半かかりました。
2010年に村が開村しました。
子どもの顔を見たらいっぺんに変わりました。
一番反対していた人が開村半年後に、のし袋を持ってきて「子どもたちに罪はないけんね」と言って渡してくれました。
5万円入っていてびっくりして泣きました、今でも忘れられません。
殆どの子が厳しい経験をしてやってくるが、何か月かすると表情が変わってきて、柔らかい感じになってきて、子どもらしい顔になって行きます。
子どもの村ではいろんな大人と交流することがあり、それがとてもよかったと思います。
お祭りに参加したり、農作業をしているところを見たり、いろんなことを教えてもらったりしてとかいろいろあります。
オープンにするという事が大事なんじゃないでしょうか。
地域とのつながりが大事だと思います。

家族ぐるみの支援になってきていると思います。
困難をかかえた子がいくらでもいます、親が子を罵ったりしていること見かけることがありますが、私は声をかけたりしています、それだけでも違うと思います。
アドボケイト(Advocate 代弁者)の育成に力を入れています。 
児童相談所、一時保護所などで訪問して子供の声を聴くという事です。
聴いた事を社会に届けるという役割を持つ人です。
親が怖い、先生が怖いので言わないでおこうという様な子どもたちがいるので、子どもの立場に立って言えないようなことを時間を掛けて聴こうとするものです。
子ども支援にかかわらない別の人がなるという事です。

今年6月に参議院本会議で通過して法律として成立したという事があり、子どもアドボケイトの構築というのを2年後を目途にして実現するという方針です。
その時に備えて人材を供えておくというものです。
子どもの人権を尊重することが一番で、しっかりと子どもの声を聴く社会に向けて歩いてゆくと、きっといい社会になるのではないかと思います。
虐待の相談数が増加しているという事がありますが、空振りでもいいから電話した方がいいというその意識の表れだろうと思います。
思いすぎでもいいから代わりにSOSを発信してという事で 虐待防止に備えてゆく事が必要だと思います。
子どもへの温かいまなざし、子どもにかかわると自分が柔らかくなってゆくと思うので、気に掛けることが大人も変わってゆくきっかけになると思います。





























2019年12月10日火曜日

木下洋一(元法務省職員)         ・【人権インタビュー】 (2)見放されてきた外国人収容問題

木下洋一(元法務省職員)・【人権インタビュー】 (2)見放されてきた外国人収容問題
日本に在留する外国人の数は過去最多を更新しました。
日本での仕事や留学にはビザの取得が必要ですが、中にはビザの期限が切れた後も日本に滞在するオーバーステイの状態になる外国人もいます。
日本に在留する資格がなく国外退去を求められている外国人は、法務省出入国在留管理庁、通称入管の施設に収容されてしまう。
実は今収容が長期化ている人が増えていて、中には5年以上収容されている人もいます。
収容に期限が示されず精神的に追い込まれ自ら命を絶つ人がいます。
そうした中、入管の元職員の男性が外国人の収容問題に取り組んでいます。
木下洋一さん(55歳)です。
木下さんは外国人を管理する制度自体に問題意識を持ち大学院で研究しました。
ことし退職し現在講演などでこの問題の発信に取り組んでいます。
この問題の背景に何があるのか、あるべき制度の姿とはどういうものなのか、伺いました。

今年、入管問題救援センターを立ち上げました。
18年間入管に居ていろんなことを感じ、入管行政に関する矛盾もありいろんな人たちに知っていただきたいと思いました。
皆さん方の考えるきっかけを作っていきたいと思いました。
2001年に入管に移り、実態調査部門というセクションで、ビザを持っている人の現状調査する仕事でした。
在留特別許可に関係する審判部門でも仕事をしました。
ビザがない人たちの手続きをするセクションですが、事情を聴く仕事をしていました。
オーバーステイであっても日本人と結婚、オーバーステイ同士の人が結婚して子供が生まれ学校に通っている、オーバーステイをしている中で怪我をして日本で治療をしている、そういうような事情を抱えている人が結構います。
収容されたうえで強制退去手続きを受けて本国に帰りなさいという命令書が出されれば
送還されるまで収容される、それが原則です。

2019年6月街で収容人数は1253人で半年以上収容が679人、長い人では5,6年収容されている。
厳格化する方にかじを切って、長期化が出て来ている。
不法滞在者が増えると犯罪が増えるという様なイメージ的なことがあるが、外国人の犯罪者が増えているかというと必ずしも増えているわけではない。
外国人の入国者が右肩上がりに上がっている状況において、外国人の犯罪率はさがっているが、安易なイメージは慎重に考えるべきだと思います。
収容に期限がないので召還されるまではずーっと継続するわけです。
何年も収容されている人たちは国に帰りなさいという命令書が出ているにもかかわらず、それに従わない。
理由は家族がいるとか、難民認定申請をしたのに認められなかったりで、本国に帰ると迫害されてしまうという事で、帰りたくないという事で継続されてしまい、先が見えない。
収容の長期化が出て来ている。
精神的な問題を抱えることになる。
実際に命を絶つという事があり、5人の方が亡くなっている。
収容は一時的なはずなのに今は半分が長期収容者になってしまっている。

自分から帰っていきますという以外は出れないという事で、希望が無くなってしまう。
収容者のハンガーストライキがありました。
一番の不満が仮放免が認められない、認められないこと自体よりも認められない理由がわからない、教えてくれないという事に不満が大きい。
病気になって収容が耐えられない体にならない限り出られないという事で自らの体を痛めつける行動を起こしてしまう。
200人近くの人がハンガーストライキを行いましたが、体調を崩したり亡くなってしまった人もいました。
収監側と収容者側の根競べのようになってしまって出口が見えないような状況です。

在留特別許可がもらえなかったから収容されているが、在留特別許可がもらえなかったという事が正しかったのかどうか。
正しく機能しているのであれば自己責任論の説得力を持つが、フェアかどうか立ち返って自己責任論を語るべきだと思います。
仮放免、解放の判断基準は実はないです。
仮放免の可否判断は入管の裁量で決められている。
基準がないこと、プラス理由がわからないという事、そこが問題です。
或る基準を示して方向性を持たないと人権という視点から見ると問題があると思います。
裁判を起こしても外国人が勝つという事はあまりない状況です。

日本にいる夫婦が子どもを設け、夫婦がオーバーステイだとその子もオーバーステイなわけです。
その子が成長して日本の学校に通い、コミュニティーの中で成長してゆく。
夫婦がオーバーステイ容疑で摘発されると子どもを含めて退去強制手続きに乗せられる。
しかし子どもには何の罪はない。
子どもの強制送還には慎重になるべきだなと思います。
入管制度に疑問を持ちながら仕事をしている人は多いです。
職員の気持ちと制度は必ずしもリンクはしていない。
幅広い裁量があるなかでどうしても前例で判断することが多い。
外国人に対して上から目線で見てしまう事が多々あります。
経済的優位性を意識していたところはあると思います。

入管に18年間いましたが、裁量が公正に行われているとは思えなくて、そのシステム作りが不可避だと思って大学院に行って学ぼうと思いました。
入管の裁量権は基準が曖昧な事、入管だけしかコミットしていないため判断自体がブラックボックス化してしまっているので、システム自体を変えないとブラックボックスから抜け出せないという事から、研究して論文にまとめて活動につなげていっています。
大学院を卒業と同時に入管を辞めました。
外国人の人権に根差した出入国管理在留システムが不可欠だと思います。
手続き的な保証が欠けている。
収容期限をもう一回検討すべきだと思います。
政治が動かないとシステムは変わらないと思います。
日本人の人権意識が問われている問題だという視点でとらえるべきで、それをもとに考えてゆくべきだと思います。
出入国管理行政の根幹にあるのは人権だと思うので、正面から見据えないと公正な行政は行われない。
人として同じ目線でいるべきだと思います。
外国人の助けを必要とするときが目の前にあり、同じ目線でいるべきだと思います。
お互いが尊重することが国際化、共生化の礎になると思います 。





























2019年12月9日月曜日

入江杏(世田谷一家殺害事件被害者遺族)  ・【人権インタビュー】 (1)怒りより、悲しみへの共感を

入江杏(世田谷一家殺害事件被害者遺族)  ・【人権インタビュー】 (1)怒りより、悲しみへの共感を
今から19年前2000年の年末に東京世田谷区に住んでいた、宮澤みきおさん、泰子さん夫妻と長女のにいなちゃん、長男の礼君が何者かに殺害されるという事件が発生しました。
犯人は見つかっておらず未解決です。
入江さんは亡くなった泰子さんの姉です。
被害者遺族として自らの悲しみと向き合ってきた経験から現在は様々な喪失体験に寄り添うグリーフケアという活動を行っています。
悲しみとともに生きそこから生きる力を取り戻してきた入江さんに伺います。

事件後葬式がありましたが、犯人逮捕、事件解決の報告ができると思っていました。
沢山遺留品もあるし手がかりもあるので警察からはすぐ犯人は見つかるという様な話もありました。
いまだに犯人は全く分からないし動機も判りません。
宙ぶらりんの状況が19年経ってしまいました。
家の取り壊しの要請があり、未解決のまま現場が無くなってしまうのかという葛藤の中にあります。
グリーフケアという学びの過程を経て今悲しみの意味を考えて、悲しみの意味を問いかける、いろんな悲しみと向き合いながら、新たな縁を作って行って、今があるという風に感じています。

宮澤家とは2世帯住宅になっていましたが、独立はしていました。
長女のにいなちゃんは8歳、長男の礼君は6歳でした。
子どものことを思うと今でもつらいです。
うちの子とにいなちゃんは一緒に通学していたこともあります。
2000年の12月31日に事件が起きました。
9時半過ぎににいなちゃんと礼君が「おばちゃん、おはよう」といっていつも来るんですが、その日に限って子どもたちが来ませんでした。
母にゆっくり寝かせてあげたらといったんですが、母が起こしてくると言って隣に起こしに行って、15分ぐらいして血相を変えて何か言っているんですが、言葉が耳に入ってこなかったです。
殺されてしまっているみたいという事でした。
全員で行って扉を開けると普段とは明らかに違っていて、本は散らかっている、子どもたちの洋服も乱雑になっていて、ふらふらと中に入っていきそうになったら、普段穏やかな夫が本当に厳しい口調で「見るな、触るな、行くな」と私たちを引き戻しました。
直ぐに110番だといって夫が電話しました。

初めに来たのが救急車でした。
殺人事件に巻き込まれたという事は判らなくて、何か異常なことが起こったと思いました。
その後警察の方が次々に来ていきなり捜査がはじまりました。
電話が鳴って叔父から「いま殺人事件のニュースをやっているが、名前が同じだが違うよね」という電話でした。
TVをつけたら宮澤みきおさんという名前が出ていて、殺害という事をはじめて知りました。
母は「もうすべてを失ってしまった、この事件誰にも知られてはいけないといいました。知られたら私も外を歩けないし、夫も仕事ができなくなるかもしれない、学校で子どもたちがいじめられるかもしれないから、事件とのかかわりは知られないようにしなさい」と、言いました。
母としては犯罪に巻き込まれてしまったこと自体が穢れという風に感じたんでしょうね。

事件後、私が世田谷一家殺害事件の遺族ですと言えるようになるまでには丸6年かかりました。
7回忌の年に絵本を出版することがきっかけになり、世間に語り掛けるという道を選ぶわけですが、それまでは周囲に言わないで秘密をかかえた6年間でした。
動機が全く分からず、警察が言うには一般的に考えられるトラブルを想定してくださいと言われるが全く分からなかったです。
殆どトラブルとは言えないような事例も警察に話すことになり、それに対して警察も裏を取った段階でお姉さんは犯人だと思って申し立てているのではないかと思われてしまったりしました。
かつて作られていった人間関係がぎくしゃくしてきたりしました。
一番つらいことの一つでした。
普段付き合っている人たちがすべて容疑者になってしまうという事になります。
容疑者の血液型がA型で、私たち家族はA型ではありませんでしたが、近所の方が「よかったわね、疑われないで済んで」といわれて、私たちでさえも疑われるんだと思いました。

にいなちゃんが2年生で亡くなったんですが、友達が6年生の卒業の時期になり、十分に中学校生活を楽しんでほしいと思って、喪失から再生に向かうメッセージを何かできたらいいなあと思った時に絵本をにいなちゃんの同級生に届けられたらと思いました。
絵も文も私が書きました。
「どんなに待っても帰ってこなかった。 どんなに待ってももう会えなかった。
どんなに願ってもかなわない願いがあることを僕は知った。
でもね、ある朝空気が冷たくて霜がきらきら光る朝、霜柱を踏んだら足元から聞こえてくるひそやかな音。
ほら耳を澄ましてごらん、ミシカ、ミシカって僕を呼ぶ声がする。
にいなちゃんと礼ちゃんが呼んでいる。
僕が霜柱を踏むたびにミシカ、ミシカってささやいでいる。
いつも一緒にいたんだね。 風にも水にも光にもいつでも一緒にいるんだね。
空にも地にも昼にも夜にも、どんなに遠く離れていても、ずっと繋がっているから。
有り難う、忘れないよ。」
事件が起きるちょっと前一緒に冬の霜を踏んだ時の情景です。
ミシカはにいなちゃんが大事にしていたクマの縫いぐるみの人形です。

出版していろいろな反響がありました。
出版して10年以上たっていますが今でも絵本の感想を頂きます。
表現できない時期があったので表現できてよかった、楽になったという思いがあります。
悲しみにもいろいろあると思いますが、悲しみを横糸にして繋がって行ける場があってもいいと思います。
グリーフケア、悲しみの種で繋がって行ける、それだけ愛情が深かったからそれだけつらいんですね、と語りかける時間にしています。
今年の5月に川崎市登戸でスクールバスを待っていた小学生を次々に襲って多くの人を死傷させ、男の犯人も自らを刺して死亡したという事件がありましたが、インターネットなどでは「死にたいのならば一人で死ね」という言説があふれました。
その時に投稿した内容として
「犯罪により家族を失った私、犯罪を憎む気持ちは人一倍だからこそ、怒りに任せて「死にたいのならば一人で死ね」という言葉はいかなる理由があろうとも暴力も殺人も許されないという理念を裏切ってしまうと感じます。
暴力や憎悪を助長させることなく子どもたちを守ってゆく責任を自覚したいです。」
という事をインターネットに投稿しました。

「死にたいのならば一人で死ね」という言葉を一人歩きさせてはいけないし、犯罪により家族を失った私として聞いてほしいと思いました。
被害者の存在が憎悪か許し、二項対立、バッシングしないと、じゃあ許すんですか、という風な二項対立でとらえられる。
どっちを選ぶというのではなく、折り合いをつけながきちんと選んでいかなくてはいけないのに、最も悲しみを受けた被害者の遺族に対して二項対立の決定権をゆだねる、それを出来たら避けたいと思いました。
川崎の事件に対して「死にたいのならば一人で死ね」というとあたかもすっきりしたような気がするが、実はすっきりしてはいない。

悲しみとともにどう生きてゆくのかというのをしっかり考えてゆく事が、いろんなプロセスを大切にするという事に繋がっていって、個人に悲しみを負わせるのではなくて、個人の悲しみを社会がどう支えてゆくかを考える、社会の潤いのあるまなざしがグリーフケアなんじゃないかなと思う立場から「死にたいのならば一人で死ね」という言葉は乱暴と思って投稿しました。
悲しいことに出会った人に対しては、それぞれ違う事であると思いますが、きちんと耳を傾けることがとても大切だと思います。
途方にくれたり、一緒に悲しんだりする。
妹が或るとき「あなたといると楽しいよね」と言ってくれたんです、一緒にいて一緒に「困ったね」と言って、ただそれだけでよかった。
妹が私にくれた花束だと思っています。












2019年12月8日日曜日

柴田秀勝(声優・俳優)          ・【時代を創った声】

柴田秀勝(声優・俳優)          ・【時代を創った声】
柴田さんは82歳です。
1958年TVドラマに出演し俳優としてデビュー、22歳の時には「熱血カクタス」というドラマで主役を演じます。
そのおよそ10年後から、アニメ「タイガーマスク」のミスターXや「マジンガーZ」の阿修羅男爵の声などで声優として活躍してきました。

これまで3000本近いアニメに出演。
「タイガーマスク」のミスターXは善人ではないので悪役を2/3は悪い人を演じてきました。
最近はおじいさんの役を担当させてもらっています。
デビューはヒーローの役ですが、声優になってみると悪役が多くてわがまま一杯演じさせてもらうので結構楽しいです。
結末がまだわからないで演じるのは難しいです。
小学校の頃から吃音症で、小学校の先生が歌を歌うとドモリはドモらないといわれました。
歌手になろうかと思ってのど自慢に出たこともありましたが、歌手の才能はないあと諦めました。
麻布高校に入り、演劇部に入って役者としてスタートするときに考えたのが歌舞伎だと思いました。
大学まで歌舞伎をやっていました。

「た」行が言えませんでした。
虎ノ門に住んでいましたが、中学でバスで帰ってくるときに「た」行の入っている「虎ノ門」、次の駅が「田町」が言えなくて「新橋」は言えるので毎日新橋から帰って来ました。
歌舞伎をやって努力でなおりました。
歌舞伎で一番気に入ったのが、みえを切る、振り向きざま、振り向くさまに心を表現する。
それが存在感を生んでくれるので、みえ、振り向きざまを、そこで表現できるか楽しさがあります。
歌舞伎は世襲制ですが、一般の人からも関西歌舞伎は取ることになっていて、歌舞伎俳優になれると思っていましたが、昭和33年に関西歌舞伎が倒産して辞めてしまって、就職先が無くなってしまいました。

TVが開局することになりTVタレントになりました。
映画スター、映画会社、劇団が握っていたのでそれ以外の人が出るのは難しかった。
1958年TVドラマに出演し俳優としてデビュー、22歳の時には「熱血カクタス」というドラマで主役を演じます。
昭和33年の卒業の時に新宿でバーの経営を始めました。
売春防止法ができてゴールデン街一帯が商売ができなくなって、一斉に店を売りに出たんです。
土地付き74万円という看板が出ていたが(当時一般の給料1万数千円だったころ)、見に行ったら買えという事で、交渉しているうち月々1万円払ってくれればいいという事になり(残りの1万円分は俺が飲むからという事で)、アルバイトを探して購入することになりオープンすることになりました。
店がもらい火になったことがあり120人ぐらいの劇団の人から改装費を集めて貸してくれたこともありました。

東映映画にも先輩がいて、声の仕事の話があり、アニメーション専門のプロダクションを作ってくれたら業務提携してもいいという話がありました。(青二プロダクションを設立)
「タイガーマスク」が終わって「マジンガーZ」があり役が違っても毎週出ていました。
「宇宙戦艦ヤマト」の再放送が馬鹿当たりして、第一期声優ブームができましたが、まさかそうなるとは思わなかったです。
今では声優プロダクションが100を超えたというぐらいになりました。
若い人に対しては、役作りができない中でいかにキャラクターを演じてゆくかというためには、いかに想像力が豊かになるのかという事と、想像力を豊かな自分を作るためには興味と好奇心、その先に見えてくる進むべき我が道なんじゃないでしょうか。
そこから自分に与えられるキャラクターの役作りに役立つと思います。
最近は活舌はきれいだが何か物足りないと思います。
60年間ぐらい仕事をしてきましたが、風邪をひいたりして休んだことは一度もありません、それは毎日の手洗い、うがいだと思います、手洗い、うがいは大事です。