2020年10月22日木曜日

阿部直美(ライター)          ・おべんとうは人生を映すカガミ

阿部直美(ライター)          ・おべんとうは人生を映すカガミ 

お弁当から見える人生模様を書き続けているご夫妻がいます。  「お弁当の時間」と題する航空会社の機内誌のエッセーコーナーは13年間続く人気コーナーとなり、すでに4冊の単行本にもなりました。   カメラマンはHNKの番組「サラメシ」でおなじみの阿部了さん、ライターは奥様の阿部直美さんです。  直美さんは最近以外にも「おべんとうの時間が嫌いだった」という本を書きました。  中学生時代お弁当の蓋を開けるのが嫌でたまらなかったというご自身の体験をもとに、お弁当はその人の普段の生活を映し、もっと奥深い家庭環境や歩んできた人生をも映し出すといいます。  お弁当の取材を通してどんな世界が見えたのか、伺いました。

「おべんとうの時間が嫌いだった」という本は、逆に私しかこのタイトルはできないのかなという気持ちもあります。   子供時代はお弁当の時間が好きではありませんでした。  中学校時代からお弁当が始まりましたが、母が作るお弁当はちょっとしゅんとなるような感じでした。   前の晩の状況が判るような感じで、父と母は仲が良くありませんでした。  夕飯の残りが入っていて、昨夜の嫌な思いが蘇ってしまいました。

群馬の田舎で育って、家の環境とかもあり、飛び出してどこかへ行きたいという思いがありました。  小学校の時に映画「IT」を観てアメリカに行きたいという思いが募り、アメリカで生活したかったので、高校になったら留学しようと思って、中学時代は過ごしました。  YFUという留学の機関でテストを受けて交換留学しました。   カリホルニア州の効率の高校でした。 

マンモス校でいろんな国の子がいっぱい来ていて日本人でも珍しさはなく友達も作れませんでした。  お昼はカフェテリアにいつも行っていました。  

帰国して大学に行って東京で就職しました。  夫は友達の紹介で知り合いまして、写真家の立木 義浩さんのアシスタントを5年間していました。  食に興味のある人でした。

タイプが違っていて、私は誰と食べるかという事に興味がありましたが、料理そのものに興味がありました。

結婚して、その後夫は手作り弁当を撮るという事に目を向けていきました。

そのころ子育てで私は手一杯でしたが、「一緒に行く?」と誘われました。

撮影していろいろ話をすると楽しそうに弁当のことを話していて残しておきたいと思いました。

子連れで取材をするようになりました。  授乳しながら話を聞いた時もありました。

1週間から10日のルポ巡業しました。  誰が弁当を持っているかなどまるで分らない中、探すのが大変でした。  

10何年も前に始めたころは、なんでお弁当を撮りに来るのかという事でなかなか話が通らなかったので、どう説明したらいいのか難しかった。    兎に角ライターとして、そのうち本にしますという事で繰り返しやってきました。

航空会社の機内誌の「お弁当の時間」というコーナーに2007年から13年間続いています。 4冊書籍になりました。   私はお弁当よりその人に興味があり、その人が歩んできた道とか生き方とかが見えてきて、印象深いです。

熊本県の球磨川八郎さんは船頭をなさっていた方でした。 球磨川の手前側に小屋があり反対側に駅があり、駅を利用する人たちのために渡し舟をしていました。 車利用が多くなり高校生の通学の為だけになっていきました。  行った時には雨が多くて川の水位が上がってしまい取材ができそうもなかったが、ぎりぎり水位が下がってどうにか取材させてもらって、その数か月後に引退されました。  矢張りタイミングを逃してはいけない、という事を思いました。

海外のメディアから取材を受けることがあります。 シンガポールからきたレポーターの方に弁当を作って食べてもらうという場面がありましたが、日本のお弁当がすごく海外で知られてきて興味を持っているという事を最近凄く感じます。

中国の方からのインタビューで印象的だったのは、「日本人はすごく弁当にメッセージを込めたがりますね」と言われて、なるほどとは思いましたが、凄く面白い不思議だという風に言われました。

弁当は日常生活の延長線上にあるものと思っていて、日常生活がどうであるかという部分が大事であって、作る弁当もそうなりますね。 弁当の奥深さはやり始めて気が付きました、弁当を介していろんな方向に話が弾みます。




 

2020年10月21日水曜日

斎藤雅樹(プロ野球評論家)       ・【スポーツ 明日への伝言】"ミスター完投"が語る投手論

斎藤雅樹(プロ野球評論家) ・【スポーツ 明日への伝言】"ミスター完投"が語る投手論 

1982年ドラフト1位で川口高校から巨人に入団、1989年日本記録となった11試合連続完投勝利という記録を達成、平成初めの2年間で40完投、13完封を記録してミスター完投、平成の大エースと呼ばれるようになりました。  引退後は巨人のコーチ、2軍監督を歴任、2016年にはサムライジャパンU23代表監督も務めました。  投手人生を振り返っていただきながら投手論を伺いました。

通算勝利が180勝、完投が113完投、11連続完投勝利、沢村賞が3回、最多勝利5回、最優秀防御率3回、勝率第一位3回、ベストナイン、3年連続開幕戦完封などいろんな記録があり、2016年には野球殿堂入りを果たす。

11試合連続完投が誇りですね。  

野球は小学校5年生の時にリトルリーグに入ってキャッチャーをやっていました。  3人ピッチャーがいて自分が入れる余地はなかったです。 中学ではピッチャーと内野手の掛け持ちでやっていて、高校では1年ではセカンドで、ピッチャーもやりました。   高校2年生の秋に地方の高校と練習試合をやる時に投げることになり、その頃スピードも出てきました。

高校3年最後の夏で決勝戦で負けてしまいました。(1-3で負け)

1982年ドラフト1位で川口高校から巨人に入団しました。 1年目は1軍には上がれなかった。  藤田監督からサイドスローにという事を言われて、9月まで多摩川で練習していました。  腰の回転が横回転になっていると気う事で腕の振り方も合わせるという事でした。 

翌年デビュー、初登板で2/3回で降板して自信を無くて、2軍に行って、8月に復帰して4勝しました。  3年目は12勝しました。 フォームが身についてきて変化球も操れるようになりました。  平成元年(1989年) 藤田監督が戻ってきて、開幕2戦目に先発と言われて、投げれて自信にはなりました。 それからローテーションを守って行きました。 

大洋戦で投げて、8回にピンチになり投げ切って交代だと思っていたら、9回も行けと言われて完投できて勝って自信がついてその後11試合完投できました。

藤田監督時代は抑えはまだ確立していなくて、先発ピッチャーが元気で最後まで投げさせるような展開でした。  最近は役割分担がはっきりしてきているが、最後まで投げてベンチに帰ってゆくという事も何回も体験してくれたらいいと思います。

甲子園で連続完投の記録が途切れてしまいました。  

1994年10月8日 巨人ー中日戦で勝ったほうが優勝という大一番で、この試合の勝利投手になりました。   10月6日にヤクルト戦があり僕が投げて勝ったら優勝だったんですが、負けてしまって、最終決戦になりました。  先発は槇原さんでした。 長嶋監督は事前に槇原、桑田を呼んでいましたが、僕は呼ばれていなかったので、まさか投げるとは思っていませんでした。  敵陣の名古屋球場の雰囲気は異様な雰囲気でした。  先発の槇原さんは不運な展開になっていました。   2回裏2-2同点でノーアウトでランナーが1,2塁の場面で登場することになりました。   ベンチから「斎藤」と呼ばれて流石に嫌だなあと思いました。

この回を抑えることができて、5イニング投げ切って勝利投手になることができました。  あの試合を経験してどんな状況でも出来るというような自信を貰いました。  中途で内転筋を痛めてしまったが行くことになりました。  槇原-斎藤-桑田のリレーになりました。

チームのエースは任された試合にしっかり結果を出せるという事はもちろんですが、何年も連続していい成績を残すことがエースだと思います。

僕は直球、カーブ(スライダー)、シンカーが主な球種でした。

技術的なことで言うとコントロールだと思います。  自分で操れる球が多ければ多いほどいいピッチャーだと思います。  精神的なことを言えば度胸だと思います。

若い人にはいろんな人のいう事をしっかり聞くという事も大事ですが、自分に合っているかどうかしっかり試せるかどうか、言われたことを自分で考えて行動することが大事だと思います。














  

2020年10月20日火曜日

赤塚りえ子(現代美術家・プロダクション代表 ) ・笑いはパパの生きる表現~これでいいのだ!

赤塚りえ子(現代美術家・プロダクション代表 赤塚りえ子)・笑いはパパの生きる表現~これでいいのだ! 

日本を代表するギャグ漫画の巨匠と言えば赤塚不二夫さんです。  「おそ松くん」、「ひみつのアッコちゃん」、「天才バカボン」などの大ヒット作を生み出しましたが、2008年肺炎で72歳の生涯に幕を下ろしました。   今月「おそ松くん」が原作のTVアニメおそ松さんの第三期も始まってます。  赤塚不二夫さんの一人娘赤塚理恵子さんは赤塚さんの作品に関する著作権の管理などを行うプロダクションの社長として15年間赤塚イズムを伝えてきました。 りえ子さんが父から受け継いだものは何だったのか伺いました。

もしコロナ禍であっても、父はどんな状況下でも必ず面白いことを見つけて前向きに楽しむという毎日を過ごすと思います。

父はとにかく笑うという事、笑うという事は父の表現なんだと感じています。

父に怒られたことは全くなくてよく遊んでくれました。  褒め言葉が「バーカ」と言って、嬉しそうに愛情をこめて「バーカ」というんです。

アシスタント、編集者を交えてアイディアを出し合ってギャグを纏めてゆくやり方で父が指揮をしていきました。  面白いものはみんなが全部出しあいました。

自分が一番劣っていると思えば人の言葉が耳に入ってくるし、人は何でも言ってくれるよと言っていました。

「俺は笑われながら死にたい」ふっと言った事があります。 それが気になっていました。

笑われると笑わせるの違いは何だろうと思いました。  笑わせるは力が働くと思って、父は自然に場が笑っているみたいな、自分が下になって笑われたい、というのが父が目指していたのかなあと思いました。

8歳の時に両親が離婚しました。  6歳ごろには父は家にはいませんでした。

父は大好きでした。  中学生の時に父と会うことができました。  何も言えなくてただ泣きじゃくるだけでした。

18歳から20歳ごろはかなり頻繁に会っていました。  父の勧めで20歳の時にヌードになることになりました。  「いやだ」と言ったら「お前は赤塚不二夫の娘だろう、つまんねえな」といったんです、そうしたら「つまんねえな」が気になって、父をがっかりさせたくないと思って家に帰って母(2番目の母、眞知子)に相談したら、「有名な写真家の方に撮ってもらうんでいいんじゃない」と言われてやってみることにしました。

29歳の時にイギリスに行くことにしました。  イギリスの音楽が好きなこと、エレクトロダンスミュージックが大好きで、アートを勉強したいと思っていきました。

イギリスでは自由奔放にやれてよかったと思います。

2002年父が脳内出血で倒れてしまったと電話がかかってきました。 ショックですぐに戻りました。  一ヵ月ICUにいてその後普通の病棟に戻ってきましたが、コミュニケーションが取れない状態になっていて、目がこっちを見ないし重度の後遺症が残りました。

周りが父についのことを話し始めて、それを聞いてゆくうちに父は凄い人なんだと思うようになりました。

母(眞知子)は介護をしながら社長の仕事をこなしていって大変だったと思います。

私はイギリスに戻って、2006年の時に母(眞知子)がくも膜下出血になったという連絡が入りました。意識がなくなり、何時なくなるかわからないという状態で、すぐに日本に戻ってきました。 現実ではない感覚でした。  会社を継ぐという事にという話もありました。

12年間イギリスに住んでいましたが、夫は仕事があるので私だけ帰りました。

母(眞知子)は10日目に亡くなり、会社のことは全く分からないまま社長の仕事をやることになってしまいました。極限状態を支えてくれたのは大好きな父への気持ちなのかなあと思いました。

父とはコミュニケーションが取れないのですが、耳元で愚痴を言っていたら、いきなり目が私のほうを向いて、口をもぐもぐし始めて、「馬鹿野郎」といったんだと思いました。 最後の親子喧嘩だったと思います。

実母(登茂子)が子宮がんの末期だということが判って、実母(登茂子)とはなんでも話をしていたので、号泣してしまいました。  病院に着いたら意識がなくなっていました。 68歳でした。

実母(登茂子)が亡くなった3日後に父が亡くなりました。  手を握って「パパを愛しているよ パパ、パパ」と言ったらほとんど心拍数がなかったが、ぱっと戻って聞こえているんだと思いました。  そのまま亡くなりました。 72歳でした。 何が何だか分からないような状態でした。  私は栄養ドリンクも飲めないような状態まで衰弱してしまいました。

祭壇から離れられなくて泣いていたら、発売された「鉄腕アトムなのだ」という父の本がそこにあり、読み始めたらあまりにもくだらなくて、面白くて気が付いたらお腹から笑っていたんです、その時に笑うって凄いなという感覚と、悲しみの底をガーンと足で蹴って浮上した感覚がありました。  笑うって生きるエネルギーなんだという事を体感して、こんな悲しい状況でも人間って笑えるんだと思って、その時にパパってこれがしたかったんじゃないかと思いました。

過去、未来からも解放された瞬間という感じがしました。 笑う事がものすごく大切なんだという事を実感しました。

父の作品を通して皆さんに一人でも多くの人が楽しい気持ちになっていただければ嬉しいなあと思います。  どんな悲しい時でも人は笑えるんだと私は実感で思いました。





2020年10月19日月曜日

古今亭文菊(落語家)          ・【にっぽんの音】

 古今亭文菊(落語家)          ・【にっぽんの音】

1979年2月23日生まれ、学習院大学文学部卒業後落語の道に入る。  高校時代に何をしたいかわからなくて、日本映画学校に行きたかったが、親から駄目だと言われて、大学に行って、大学2年生のころに外部の劇団(文学座から分かれた劇団)のオーディションを受けて研究生として入りました。   フランスのコメディーをやってゆく劇団でした。   君がやると落語っぽいと言われてしまいました。  高校の時に古今亭圓菊を聴いて凄くよかったので、探して寄席とかホール落語に行きました。  大学卒業後劇団も辞めて師匠のところに弟子入りしました。

「付き馬」という話をTVで師匠がやっていて二人が明け方の大門を出てゆく吉原の情景に感動して、落語はお客さんを違う世界に連れていけるものなんだと感じたんです。

うちの師匠は入門のお願いに行ったときには74歳でした。   真打になるのには12,3年かかりますが、真打になる前に師匠が旅だってしまうと預かり弟子になってしまうのでお前を取るわけにはいかないといわれました。   断られたが何度も行きました。

私は10年で真打になることができました。  真打のお披露目をしている最中に師匠が亡くなってしまいました。

師匠は昔気質の考え方の人でした。  直弟子以外の人には優しい人でした。

刑務所の篤志面接員をやっていて刑務所に慰問によく行っていました。  入っている人には優しくて刑務官とか所長には怒鳴るんです。(なんだふんぞり返って・・・みたいに)

師匠は前座見習いの時に理不尽という環境を弟子に与えて生皮をはがざるを得ない状況を作っていくわけです。 前座見習いの時もそうですが、真打になっても師匠が旅立っていなくなっても、なにかしらの師匠の言う苦労が自分の前に現れて、自分がその苦労によって生皮をはいでゆくと、とっても苦しいが、それをやっていかなくてはいけない商売なんだろうと思います。

人前で芸と呼ばれる目に見えないものを、人に感じていただけるようになるのには、そういう作業を人生をかけてやりなさいと、そういう事だったんだと思います。

人を育てるという事には自信がなかったんですが、自分なりにやればいいのかなあと思って、今年の初めにそう思って、見習いを取ることになりました。

私の初舞台は鈴本でして、ほとんど何も覚えていないです。

2015年文化庁芸術祭優秀賞、2020年国立演芸場演芸大賞、受賞。

師匠は新作を少しでもやってしまうと、古典の空気感が消えてしまうので絶対に手を出すべきではないとずーっと言っていました。    私もいまだに古典をやっています。

古典のなかでもふり幅があると思うので、根底にある空気感は損なわれないようにして、すこし変えるという事はあると思います。

「蕎麦を食べる音」 「うどんを食べる音」など 師匠からは一切言われず自分で考えてやっています。  

日本の音とは、お茶のお稽古に行ってましたが、移り変わる四季の自然があり、茶釜の音、水の音、などから自然を感ずるという事で、四季を感じるのが日本の音だと思います。

日本の音の場合、律するほうに行くような音だと思います。 こじつけかな。  






2020年10月18日日曜日

小泉武夫(東京農業大学名誉教授)    ・【美味しい仕事人】発酵を暮らしに生かす

 小泉武夫(東京農業大学名誉教授)    ・【美味しい仕事人】発酵を暮らしに生かす

免疫力向上の効果が期待できる発酵食品に今あらためて注目が集まっています。 東京農業大学名誉教授の小泉さん(76歳)は長年にわたって発酵学を暮らしに生かす研究を続けています。 食文化の研究から発酵技術を地球にやさしい技術として幅広く活用する活動にも取り組んでいます。  27年続く新聞の連載や200冊近い図書の出版など文筆家としても活躍、さらに食にまつわる発明家の顔もお持ちです。 自らを「発酵仮面」と名乗る小泉さんに伺いました。

「発酵仮面」と共に「味覚人飛行物体」(未確認飛行物体ではない)とも自分で考えて名乗っています。 両方とも登録商標してあります。

1943年福島県の造り酒屋の6人兄弟の末っ子として生まれる。  1962年東京農業大学農学部醸造学科に入学、40歳で教授に就任。  酵母が増殖するときに水素電位を出すが(酸化還元電位)を使って、それを電極にして、電気エネルギーに変える研究をしました。  いい論文だといいう事で卒業時の成績は首席で学長賞を与えられました。

発酵の研究で世界40か国の地域に出かけました。  あまり食べられないような蜘蛛とかいろんなものを世界各地で食べてきました。  大学で最初にした仕事は世界の中の発酵食品の研究、食と民族との研究、酒と民族との研究をやっていました。

鹿児島大学別府大学琉球大学広島大学新潟薬科大学客員教授を歴任。

全国地産地消推進協議会の会長、発酵文化推進機構の理事長も兼務。

コロナの関係で発酵商品はとても注目されてきました。  発酵商品には免疫力を高めることは前々から知られていました。  発酵商品は本当にすごい免疫力を持っています。  納豆一個を食べると納豆菌が700万匹います。 発酵食品は生きた食べ物なんです。  ヨーグルト、チーズ、味噌、キムチ、漬物などがそうで、腸まで行くと腸が免疫力を作るところで、そこで作ってくれる事がわかってきました。  日本でコロナの陽性患者が少ないが、日本人は衛生観念が発達しているからというが、食べ物のことは誰も触れていない。

東北6県で全部で現在1500人以下だと思いますが発生率が少ないと思います。  人の出入りも少ないと思うが、発酵商品を一番消費しているのが東北で、納豆の消費量が一番が秋田、山形、福島で、東北では味噌、漬物を一杯食べます。

アジアを見ても発酵食品を持っているのが、東南アジアと、東アジア(日本、韓国、台湾、中国)だけです。  東南アジアもベトナム、タイ、ミャンマーもコロナは少ないが、発酵食品の無いインド、イラク、イランは沢山出ています。   アメリカ、ブラジルも発酵食品はなく、ヨーロッパはチーズぐらいです。

今後新型コロナと付き合っていかなければいけないと思うと、マスク、三密を避けると同時に食べ物で免疫力を高めていかなくてはいけない、発酵食品を意識して食べることが必要ではないかと思います。

大根を漬けた漬物だけでも80種類あります。  野菜の漬物だけで何百種類あると思います。

私には「走る酒壷」「鋼鉄の胃袋」「人間リカオン」「ムサボリビッチ・カニスキー」といった自称を含めたあだ名があります。

日本経済新聞』の夕刊に連載しているコラム「食あれば楽あり」は28年間連載していて一度も休載はありません。  この間まったく病気はしませんでした。  パソコンは使わずに全部手書きでやっています。

日本は米が余っていて牛乳もそうなので、米に牛乳を吸わせて、スチ-ムドミルクライスができて、ヨーグルトから分離した乳酸菌を入れて40℃で発酵させたら3日後にチーズになっていました。  こういった発想でやっています。

南瓜が豊作すぎて、送ってもらって南瓜で甘酒を造りました。  それを絞ると黄色い砂糖ができて販売まで行いました。  特許を取っています。

本来捨てるエビの殻をラードで溶かしたところの鍋に入れてさっと焼いて、冷凍するとラードにエビの香りがしてエビチャーハンとかエビラーメンとかを作って凄く好評でした。

北海道の鮭のアラ(捨てるもの)を発酵させて鮭の醤油を作って、商品化されて、それを使ったラーメンがいまの有名な石狩ラーメンになっています。

マツタケは人工栽培ができない。  マツタケの胞子を集めて液体で培養したら、ある特殊な物質を入れると綿くずのようになって増殖するが、その液体の中にマツタケの味と香りが出てくるんです。

納豆ドリンク、納豆菌だけ培養すると、培養液の中に納豆の味と匂いが出るので、それを一回とって、カルシウムを使うとネバネバが無くなる。  納豆嫌いな人にも飲める納豆ドリンクができるわけです。

発明は人のためになるという事が大前提です。  考えることは若返られます。  食以外でもいろいろ発明もしています。(バックにベルを付けた盗難防止装置とか、自動犬ウンチ取り機とか)

NPO法人発酵文化推進機構,大きな組織で全国の発酵会社が集まって勉強会をやっています。  全国発酵の街作り推進協議会というネットワークを作って発酵で街おこしをしようという事でやっています。  70ぐらいの県、市が参加しています。

千葉県神崎という街がありますが、発酵で街おこしという事で神崎で発酵のお客さんが100万人を越しています。

福島県須賀川市に世界一大きい生ごみを燃やさないで土にするシステムを作っています。 日本では生ごみの90何%は燃やしているので大気汚染、地球温暖化もあり燃料代もかかるので、微生物で発酵させると完ぺきな土になり、それを畑に撒けば肥沃な土になります。  余ったものを山に撒けば山が豊かになり、ひいては海が豊かになります。

発酵によって人間は物凄く助かっています.。  抗生物質を打つことによって手術ができますが、抗生物質は発酵生産物です。  大半の制癌剤、そしてビタミン、ホルモン、アミノ酸まで発酵で作っています。

「大豆は畑の牛肉」と言われていますが、牛肉のタンパク質は17,8%、大豆のタンパク質は16,7%でほとんど変わりません。  

豆腐の味噌汁を作って納豆を引き割り納豆にしていれて、油揚げを千切りにして上にかぶせて飲むと、汁の中に4種類(豆腐、味噌、納豆、油揚げ)の肉が入っているわけで大変なスタミナ食ですが、牛肉ではコレステロールは沢山ありますが、これはコレステロールはゼロなんです。 是非お勧めです。

















2020年10月17日土曜日

菊地まどか(浪曲師)          ・【人ありて、街は生き】「災害の教訓、話芸で語り伝える」

菊地まどか(浪曲師)    ・【人ありて、街は生き】「災害の教訓、話芸で語り伝える」 

稲むらの火」の話、題材となったのは江戸時代末期の1854年11月5日(現在の12月24日)の夕方4時半ごろに起こった安政の南海地震によって引き起こされた津波の際に和歌山県広村で醤油製造業を営む濱口儀兵衛(梧陵)が取った行動です。  一刻も早く村人を高台に避難させるために田んぼに積んであった稲わらに火を付け丘の上の神社に誘導しました。  このエピソードを明治時代に小泉八雲が取り上げ、さらに昭和の初めに小学校の教諭中井常蔵が子供にもわかりやすい作品にして、これが戦前の国語の教科書に取り上げられました。   この「稲むらの火」を浪曲にして学校などで演じているのが浪曲師の菊池さんです。  菊池さんは2018年9月この舞台となった和歌山県広川町の耐久中学校を訪れ生徒や地域の人達の前で浪曲「稲むらの火」を演じました。   防災をテーマにした作品に取り組む理由を菊池さんに伺いました。

語りがあり節があり浪曲という形で聞けたことによってすんなり頭の中でイメージができたという事を聞くと浪曲でやっていてよかったと思います。

新作で昨年の9月に作り上げました。  実話をもとにしたもので作者は宮本麗子さんです。

濱口儀兵衛らが創設した耐久中学校の卒業生である中井常蔵が小泉八雲の「A Living God」を読み、感銘を受け児童向けに翻訳・再構成し、「燃ゆる稲むら」として応募、この作品はそのまま国語教材として採用されました。(昭和12~22年まで)

地震の後、井戸の水が乾いた時には津波が来るという事が言い伝えられていた。  どうしたら誘導できるか考えたときに、貴重な稲ではあるが積み重なった稲束に火を点けていって、火事になるとみんなが消火に集まるので、積み重なった稲束のを目印として高台を目指していって、高台に向かって人命が助かった、という話です。

「稲むら」は天日で乾かすために刈り取った稲を積み重ねられた稲束のこと。

作品はいろいろつけ足したり削り込んだりしていきました。

1854年11月4日に地震があり、翌日の5日の夕方4時半ごろに起こた安政の南海地震が立て続けに起きました。

浪曲の源流はいくつかあり、その一つが仏様の教えを説くというものもありました。   説教節といわれていて、今の形につながっています。  江戸末期に大阪では浪花伊助という方が四天王寺で今の浪曲という形を披露して、節があり語りがあり三味線を取り入れて浪花伊助が初めて演じたので、浪花節という風に当時言われていて、その後浪曲という形になったといわれてれています。

浪曲は「一声、二節、三啖呵」、と言われて先ずは声が大事で、二番目にどういう風に自分なりの節まわしを付けるか、三番目が情景、喜怒哀楽を表現するのが啖呵です。

「一息三段流し」、一息で長い三段のところを流してゆく。

入門が2003年で古典を教えてもらって、現代風なものは無いか師匠に聞いて、「吉岡訓導」(昭和9年の室戸台風の時の話)をいただきました。

室戸台風は最大瞬間風速が60mで京阪神を中心に3000人を超える死者、行方不明者を出す。 「吉岡訓導」は豊津第一小学校に吉岡藤子先生(26,7歳)が赴任してきたときの室戸台風の災害時の事実を描いた浪曲です。  5人の生徒を自分を犠牲にして身をもってかばって助けたという話です。   2階建ての木造校舎が倒壊、児童51人と先生二人が亡くなりその一人が吉岡藤子先生でした。  毎年9月21日には全校生徒を集めて吉岡先生の話など催しがあり、是非講演をしてほしいという事で体育館でやらせていただきました。