2018年7月15日日曜日

16,17日は休みます。

16、17日は小旅行の為休みます。
追って投稿できるかとは思いますが。
秋田 

三宅義信(ゴールドメダリストを育てる会理事長)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言(2008/10/24OA)

三宅義信(ゴールドメダリストを育てる会理事長)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言(2008/10/24OA)
昭和39年東京オリンピックの金メダル第一号は重量挙げの三宅義信さんでした。
身長が155cmと小柄ながらローマで銀、東京で金、メキシコ金、ミュンヘン4位と4回のオリンピックに出場し、オリンピック二連覇と、世界選手権では6連覇を達成し、当時重量挙げの代名詞と呼ばれました。
そっくりの弟さんとはメキシコ大会で 金と銅、同じ表彰台に兄弟で上がって話題になりました。
その弟の義行さんの娘さん三宅宏美さんもロンドンで銀、リオデジャネイロで銅メダルを獲得しています。
自衛隊体育学校の校長を務められた後、選手の育成や御自身が立ち上げたゴールドメダリストを育てる会の理事長として活躍する三宅義信さんに伺いました。

東京オリンピックでは金メダルを期待されていた。
ローマでは金を取るつもりだったが、取れずこの悔しさをどうぶつけていいかわからなかった。
金を取るためにはどうするか、ローマで1460日のトレーニングスケジュールを組みました。
ローマでは法政大学3年生、20歳でした。
昭和38年の世界選手権で世界新記録で優勝したので、金メダルの期待が有った。
昭和39年東京オリンピックでは競技の2日目だった。(昭和39年10月12日)
凄いプレッシャーだった。
会場は渋谷の公会堂でした。
代々木の宿泊所から歩いて10分位の所でした。
スナッチ、ジャーク、プレス3種目有った。
最初はプレスで重量が115kg、苦手の種目だった。
スナッチも115kgで予定通りだった、得意種目。115kgのスタートで6本失敗も無く通過しました。
順位はトップに立ちました。
ジャークは145kgでスタート、ほぼ金を手中にしました。
プレスは会場にいた母親の為にあげました。
スナッチは父親の為、122.5kgは親族や私を助けてくれた人の為にあげる。
一つ一つメンタルを作りました、そんな中でやっていました。
ジャークは145kgはこれを上げなければ今までの苦労が水の泡となるので、国民の皆さんの為にあげると、そういう思いであげて150kgは自分の為にあげる、152.5kgは世界タイ記録でしたが、皇太子殿下のまえであげることができました。
合計397.5kg 驚異的な世界新記録で金メダルを獲得することができました。
先生方の教育、周りとの勝たなければならないということが一致したものと思います。

宮城県柴田郡村田町生まれ、7人兄弟の5番目、6番目が義行。
養子に出され中学卒業後就職するが、自分の将来を考え自分で宮城県立大河原商業高等学校に進学を決める。
1956年メルボルンオリンピックを見て初めてオリンピックと重量挙げという競技を知る。
同じ高校生が重量挙げで8位になったのを見て自分の立場との差を感じる。
高校時代は柔道をやっていましたが、無差別だった。
肩を痛めていてウエイトリフティングを思い出して、パワーを付けようと思った。
トロッコの車輪(約50kg)を挙げる人は5人ぐらいしかいなくて彼らは柴田農林高へ行っていた。
そこでトレーニングを教えていただき、センスあるなあと褒められました。
3年の春の宮城県大会で3位になりました。
ユニホームも無く借りて、靴はなくて地下足袋だった。
10月の秋の国体ではチャンピオンになる。
いつも何で負けたの、という事を追及してきました。
法政大学在学中、1960年ローマオリンピック大会で銀メダルを取る。
金メダルを取れず東京オリンピックまでの長期計画を立てる。

練習は辛くはなかった。
メンタルな部分、人との調和、食べられないのが苦しかった。
マメができるが焼け火箸でそのマメを焼くと、水分が出て皮が剥けなくて済むので、そういったことを自分で考えてやりました。(皮が剥けなくて済むので直ぐ練習ができる)
国体で優勝して校長先生が全校生徒の前で褒めてくれて、この褒められたということが感動しました。
大学に行くお金も無く校長先生とかと話を進めて1年間は面倒を見てもらえることになる。(2年目以降は自分で対応)
何のために大学に行くのか、大学には重量あげをやる為、重量あげはご飯を食べていけない、それにはオリンピックで金を取らなければいけない、そういう思いでやってきました。
法政大学に小暮さんという軽量級アジアチャンピオンがいてこの人のものを全部盗んでこの人をやっつけないとオリンピックでは勝てないと思いました。
練習をやり過ぎだと言っては殴られたりしました。

ウエイトリフティングはスピード、タイミング、バランス、パワー、呼吸などいろんな要素がある。
呼吸は非常に大事なこと。
スピードは肝心な時にないと駄目。
タイミングは全体的なタイミングが必要。
バランスは身体全体のバランス。
パワーは親から貰った土台、自分のパワー。
この5つの要素をマスターしないと強くはならない。

明日のことを5分間考えてそれに集中することが、事故の未然の防止、練習にも影響してくる。
日常生活の中で親から、兄弟から貰ったものを身につけてければいい、人生に大きなプラスになる。
「俺がやらずに誰がやる、今やらずしていつできる」
今やらずしていつできるんだと言う事、望んでくる時にそれをやるという事が信念。
見て見ぬふりをしては駄目。
それが積み重なっていって夢、目標が到達されると思う。
オリンピックが私に与えてくれたもの、人の模範になる、いつも明るく、極めたものを真似していただきたい。





2018年7月14日土曜日

蓬萊泰三(合唱組曲『チコタン』の作詞家)  ・89歳、反骨の"ドラマ屋"人生

蓬萊泰三(こどものための合唱組曲『チコタン』の作詞家)・89歳、反骨の"ドラマ屋"人生
こどものための合唱組曲『チコタン』は昭和44年度文化庁芸術祭のレコード部門で優秀賞を受賞しました。
この歌を作詞したのは脚本家の蓬萊泰三さんです。
蓬莱泰三さんはこれまでNHKTV「中学生日記」、教育TV「できるかな」を初め多くのTV番組の脚本を手掛けて来ました。
若い頃の作品は関西弁にこだわったストーリーが多く、「中学生日記」では教育の在り方を問う作品をブラウン管を通して送りだしてきました。
子供の為の合唱曲の作詞にも取り組み劇的な展開の歌詞は多くの子供達の胸に突き刺さる作品として知られています。
これまでの65年、どのようなまなざしを子供達に向けてドラマや合唱曲の作品作り続けてきたのか伺います。

兵庫県加古川市生まれ、父親がメリヤス工場を経営していたが、第一次世界大戦後の大恐慌で倒産しました。
物心付いた時には工場で遊んでいました。
母親は呉服屋の店をはじめてそれで食いつないで上の学校に行かせてもらえました。
(今の姫路西高等学校)
兄が優秀で朝礼の時に全校生徒に号令を掛けていました。
勉強が嫌いでハーモニカを買ったが、譜面が無くて面白くなく、合唱を始めました。
それが合唱との最初の付き合いになりました。
旧制の姫路高校に入って合唱部に入って、いつの間にかコーラスの棒を振るようになりました。
戦争が終わったのは中学の4年か、5年で落第もしていて、浪人もしていて、同級生よりも2年遅れています。
神戸大学文学部に入りました。

合唱団があり入ったが馴染めなくて、旧制校で一緒に行った人もほとんど辞めてしまいました。
友達にテノールの人がいて、演劇研究会募集のチラシがあり友人と一緒に入りました。
NHK大阪が学校放送劇連盟での自作自演のコンテストをやっていて、6校位が参加、真船豊の本を真似て父親と息子の物語を書いて、出たら1位になってしまった。
色々新聞社など受けたが全て落ちてしまった。
或る人が知り合いの新聞社(神港新聞)を紹介してくれました。
入って1週間ぐらいでいきなりサツ周りに出されました。
新聞社が厭になりました。
或る時学校放送劇連盟の面倒を観て下さったNHK大阪のプロデューサーの女性から声を掛けられて、うちの劇団で募集しているということで受けました。
NHK大阪放送劇団に受かってしまいました。
人気番組「お父さんはお人好し」にも参加することになる。
5女静子の婚約者(岡野)として登場する。

子供のTVドラマを大阪で書かせてもらうようになって、昭和33年(1958年)「がんばれ土管隊」の脚本を手掛ける。
空き地にある土管を基地にして腕白坊主たちが遊んでいる姿を書いたものです。
関西弁で行いましたが、東京から標準語やるようにとの電話があり怒りを覚えました。
やりとりがあったが、関西弁でやることになりました。(東京に対する反抗心)
劇団を辞めることにしてしたが、NHKからは切られてしまいまして、2,3年は満足に食べられなかった。
昭和35年「がんばれ!ヒデヨシくん」、昭和43年「海から来た平太」、昭和44年少年ドラマシリーズ「幕末未来人」など幅広く活躍。
1974年から2000年まで26年間「中学生日記」、批判されたこともありました。
子供が色々問題を起こすのはその原因は、我々大人が作っているんだということが私の根本的な考え方なので、そういうことをやっている大人から見れば自分が責められているような気がするんだと思うんです。
だから不愉快なんだと思います。
1978年から1990年まで「できるかな」を担当。
山元護久さんがやっていたが急死してしまった。(『ひょっこりひょうたん島』など担当)
明後日の分が無いので書いてくれと頼まれました。
引き受けてみたら面白い番組でした。

1969年「チコタン ぼくのおよめさん」の作詞をする。
「なんでかな?
なんでかな?
なんでチコタン 好きなんかな?
なんでこないに 好きなんかな?

チコタン チコタン チコタン チコタン
・・・・」

最終章ではチコタンがダンプに轢かれて死んでしまう。
それまでの明るい曲から最終章では突然悲しい曲に変わる。

交通戦争 最後は「アホウ」と叫ぶしかない、子供の叫びと同時に僕自身の叫びです。
昭和59年 交響詩劇「海に落ちたピアノ」はイタリア賞。 
文化庁芸術祭賞、放送批評懇談会ギャラクシー賞、放送文化基金賞など。
私の根っこにあるものは敗戦の経験、通った旧制中学は県下で指折りの軍国主義的名門校でした。
或る朝突然、朝礼の整列が悪いということで配属教官が一人で殴った。
掌が真っ赤だったのを私が見て、なんだその顔はということでビンタを縦に一杯殴られて目じりが切れた経験があります。
抑圧されっぱなしの時代でした。
抑圧しているものは単純に見て行くと大人であると、最終的には大人に対する抗議のようなものが根っこにある訳で「アホウ」という叫びの言葉になるわけです。

















2018年7月13日金曜日

米田佐代子(らいてうの家館長)       ・平塚らいてうの思いを受けついで

米田佐代子(らいてうの家館長)       ・平塚らいてうの思いを受けついで
1934年(昭和9年)東京生まれ。
1950年戦後の男女共学の一期生として米田さんは長野北高校に入学します。
その後東京の都立大学で学び、1958年東京都立大学人文学部(史学専攻)卒業後、山梨県立女子短期大学教授として日本近現代女性史、主に平塚らいてうの研究に取り組んできました。
戦前女性は選挙権も無く、自由に意見を述べることができない時代でした。
「元始女性は太陽であった」の言葉を残した平塚らいてうは女性の自立、男女同権、命を大切にする、という考えを広く訴えて来ました。
米田さんは平塚らいてうの考えに共鳴し、その考え方を知ってもらいたいと人生をかけてこられました。

平塚らいてうの研究に50年以上関わっている。
最近これが平塚らいてうかなというふうに思うようになりました。
ペンネーム 「森のやまんば」 やまんばは恐ろしいイメージがあるが。
らいてうの家は標高1500m近い山中にあり、そに通っているから「森のやまんば」と呼ばれたのが始まりです。
野上八重子さんもやまんばと言っているし、、鶴見和子さんもやまんばについての短歌を残している。
人間はいつか歳を取っていくが、自然に還って行くのがやまんばという発祥の根底にあると鶴見さんがが言っていて、私もやまんばになりたいと思いました。
やまんばは決して恐ろしいイメージではない。

平塚らいてうは明治19年生まれで昭和46年まで健在だった。
平塚らいてうさんには一度も会っていませんでした。
「新しい女」「未婚の母」ということで大変な非難を受ける。
戦後憲法9条に共鳴し、戦争反対ということで強い信念で活動した方。
私が学生のころは関心が無かった。
私達のころは女性が学問をするということは独身でないと務まらないと思われていました。
それはおかしいと思って結婚して子供を産んだが、大変非難されました。
今から100年ほど前に平塚らいてうは奥村博史と出会って、奥村家の嫁になるのをしたくないということで結婚届けをださないで、平塚姓のままで同居する、いまでいう事実婚のはしりです。
子供は産まないと言っていたが身ごもって産むことにして、子供を産んでから子供の素晴らしさを思う。
命を生む女たちは子供達の為に戦争に反対し、貧しさを無くしていかなければいけないと社会運動を始める。
それで私は気に入ってしまったんです。
私も平塚らいてうみたいになろうと思いました。
女性の権利が全くなかった時代にそのことに気がついて発言したということが私を平塚らいてう研究に惹きつけた一番大きな理由です。
私は職場結婚で同姓になるのは不都合なこともあるので、そのまま米田の姓を名乗りましたが大変でした。

戦後学校ががらりと変わって、旧制中学と旧制女学校があったが、旧制中学は新制高校になって男女共学、旧制女学校は名門女学校だったので男性を入れない学校で、どっちにしようかと思ったが、女子ばっかりの学校には物足りないものを感じて長野北高に願書を出したら女性は2人しかいなかった。
二人とも合格してしまった。
一人女性の転校生が来て、全校で三人しかいなかった。
体育の更衣室も無く、女子トイレも無く全部一緒でした。
男子校に入ったからと言って女の子らしくすると言うことはありませんでした。
差別されずに面白かったです。

1945年8月15日は10歳で国民学校の5年生、兵庫県の福知山の近くの山の中に疎開していました。
玉音放送を聞きましたが雑音だらけで聞き取れなかった。
校長先生も聞き取れなかったらしく間違ったことを言っていました。
家に帰ったら戦争が終わったことを知りました。
姉が旧制女学校に行っていたが、私達との落差はありました。
私たちは軍国少女とか玉砕と言われても何のことか良く判らなかった。
戦後私たちは比較的素直に民主教育に順応しました。
兄や姉はそうはいかなかった様です。
終戦で電気を明るく点けていいということが最大の解放感でした。

母が一番喜んだのが、戦争に行った次男がまだ国内にいて帰ってくるはずだと思っていた。
しかし9月になっても帰ってこなかった。
9月中旬に戦死という通知がありました。
兄は15歳で海軍少年飛行士に応募して行きました。
1945年6月10日に茨城県土浦海軍航空隊で米軍の空襲の為爆死、16歳だった。
考え込んでいる次男(芳次?)の望みをかなえてやりたいという不思議な気分になってしまって、「海軍の飛行隊なら志願してもいい」と言ってしまった。
母は「今思えば一生の不覚でした」、と思い悩んでいたことを吐露している。
人間の魂は自分が一番大事にしているところに、誰にも知られないで死んでしまうのが辛いので知らせに現れるというふうに書いている人もいる。
松谷みよ子さんが母の本を読んでくださってこれは本当よと言って下さいました。
夢に現れると言う経験を母がして、心のつながりという事を求め続けているんだと凄く思いました。

インドネシアのカリマンタン(ボルネオ島)で父は軍人ではなかったが(今の郵政省の役人)、派遣されて行政を担当していて、ポンティアナックの街で日本軍による住民虐殺事件が起こっている。
現地では沢山の人が殺されている。
穏やかな町だったが陰謀があるという噂に海軍が震えあがって、罪のない人達を殺してしまったという事件で1944年6月ごろでした。
父親がいたならば虐殺事件にかかわったのではないかと記録を調べてカリマンタンに行って現地の人に聞きました。
結論的に言うと事件は事実として間違いがないが、2000人説、2万人説とかがあり研究中だが、虐殺現場には大きなレリーフが飾ってある。
しかしこの事件は日本ではあまり知られていない、父が関与したのではないかという事、もしそうだとしたら見過ごすことはできないと思っていた。
結論的に言うと父親はその事件がある何カ月前に、別の街バンジャルマシンという都市に転勤していたので事件には直接かかわっていないことが分かった。
親日的なインドネシアで日本のやった行為は忘れてはいけないと思います。
日本の戦争を反省する時に、そういった知られていないことがまだまだ沢山あると言う事を、世の中に出していきたいと思って出しました。

どんな場合であれ必ず戦争は無辜(むこ)の人々に犠牲を強いるという事を痛感しました。
戦争は二度としてはいけないのは、母の辛い思い、身近な父親たちも一歩間違えれば戦犯になっていたかもしれない様な、そういう経験を繰り返してはいけないと思います。
第一次世界対戦の後、平塚らいてうは新婦人協会という団体を作って市川房枝さんらと婦人参政権運動をやりますが、男性と同じ権利をと言うだけだと、男たちが戦争を引き起こしたと同じようなことを女たちがやってしまってはいけない、女性に参政権を与えると言うことは世の中が差別を無くすということになる訳で、差別が無いということは世の中が平和になること。
平塚らいてうはインタビューで言っているが、女性の権利は大事だと思ったが、権利を何のために使うのかといったら、平和のために使うふうにしたいと思った。
平和は女性の文化としての平和としての立場がある。
女性にとっての平和は戦争が無い状態だけではなくて、女性が文化的に豊かに生きて行ける。だから権利もあるし、幸せに生きて行く、子供を育てることができるというそれが平和なんだと言う事を発言しているが、それは本当に大事なことだと思います。
女性たちが平和を作りだすということは、命を産む、命を守るという立場なんだなあと思います。
自分の産んだ子が戦争にはいかないでほしいと思いました。
「私の生涯に無知による犯した数々の戦争犯罪を一人悔しむ。
意志?も叫ぶ、何百万の若者の死を何百万の母を忘れぬ。
戦争を引き起こしたものの重罪を一矢報いて墓に入ろう母たちは」と書きつけて90歳で母は亡くなりました。
平塚らいてうのいった女性が自ら立ち上がらなくてはいけないという思いと、母の思いが、私が何かやらなければいけないという原動力になっています。


















2018年7月10日火曜日

秋山邦雄(歴史環境計画研究所代表)      ・東奔西走"遺跡デザイナー"

秋山邦雄(歴史環境計画研究所代表)        ・東奔西走"遺跡デザイナー"
1943年(昭和18)年東京生まれ、大学の建築学科を卒業後、建築設計事務所に 18年間務めました。
その後文化保存関連の団体を経て昭和61年に歴史環境計画研究所を設立。
秋山さんの研究所では全国の史跡、保存指定された遺跡を保存し、整備し、公開し、活用されるまで計画の立案から実際の環境作りを行っています。
研究所の設立から32年間で130件あまりの実績があり、中には当時の通産省選定のグッドデザイン賞や当時の建設省の手作り郷土賞を受賞した作品もあります。
秋山さんは遺跡現場を訪れた見学者が、自分で考え歴史を体感できる様な環境作りを称して遺跡をデザインすると言っています。
自らを遺跡デザイナーと言っています。

東京都の利島、縄文時代の敷石住居、竪穴住居の中に石を敷いている様な遺跡がある。
(5000から4000年前のもの)
本格的には調査はこれから進めます。
愛媛大学の下条先生が遺跡クリエーターはどうかとのサゼスチョンが有ったが、一回使ったが辞めてしまって、考えた挙句に「遺跡デザイナー」ということにしました。(自称)
考古学者、古墳屋さんと間違えられる。
遺跡そのものをどうするか、遺跡を保存し、整備し、公開し、活用されるまで計画の立案から実際の環境作りを行っています。
資料館などを含めトータルに対応しています。
遺跡の整備には、
①調査研究がまず必要でそれを理解する。
②保存整備を考える。
③公開して活用する。
遺跡の説明のための看板だらけだった。
雰囲気をどういうふうに出すか、自然の状態をつくる。(縄文時代ならその時代の雰囲気)

建築設計の仕事は40歳ごろまで大阪に住んでやっていました。
その後東京に戻ってきて筑波学園都市の仕事があり、その後こっちの世界に入ってきました。
大阪芸術大学を作った時に環境が意外と影響していました。
キャンパスの近くには古墳があり、大阪から通うと古い古墳群を通っていて、いわば遺跡の中にいました。
最初歴史的なことを知りませんでしたが、目の当たりにして面白いと思っていました。
建築の対象を旧石器時代まで広げました。
1986年(昭和61年)に歴史環境計画研究所を設立しました。
32年間で130件あまりの実績があります。
範囲は旧石器時代から現代まで、場所は日本全国に渡ります。
第一号、群馬にある岩宿遺跡、考古学的にも非常に重要な日本の歴史を変えた。
黒曜石がそこから見つかった。
(*相沢忠洋によって発見された。この発見によって、それまで土器時代以前の日本列島に人類は居住していなかったとされた定説を覆し、日本にも旧石器時代が存在したことが証明された。)
掘った後なので地形を復元すればいいと思って土の中に発掘した時の状況を見せようと言うことで土の中に建物を作ってしまおうと考えました。
良い雰囲気になりました。

ほぼ同時期に千葉市にある加曽利貝塚の仕事をいただきました。
貝層をどういうふうに見せるか、発掘調査で溝状に掘られたところがあり、そこに土中のなかに建物をデザインし貝層を見せるようにしました。
加曽利の周りの植物を調べてもらったら、縄文時代の植物の残存種が残っていました。
環境全体は重要なんだと感じました。
秋田県、4000年前ぐらいのものでストーンサークルがふたつある。
秋田県鹿角市十和田大湯にある縄文時代後期の大型の配石遺跡。(大湯環状列石
遺跡の範囲が段々広がって最終的には30ヘクタールになり、世界遺産になる寸前というところです。
縄文時代の景観が保護されている。
伊勢堂岱遺跡 秋田県北秋田市脇神にある縄文時代後期前半の遺跡。
大湯環状列石よりももっと静かなところ、環境を大事にしています。
水子貝塚、埼玉県富士見市にある貝塚遺跡。縄文時代前期(約5500~6000年前)の遺跡
東京のベッドタウンが予想され、遺跡の周りを縄文時代の樹木でうめようと思い、縄文の森を作り真ん中は縄文の広場を作りました。

古墳時代のもので妙見山古墳、愛媛県今治市大西町宮脇にある古墳。形状は前方後円墳。
竪穴石室で石室を掘る時に雨水がぬけるように排水溝を作っている。
石室を横から見えるようにした。
通産省のグッドデザイン賞を受賞する。
秋田県 払田柵跡 89.4ヘクタールが指定面積、周囲3.6kmで30cm角で高さ2.7mぐらいの杉の柱で囲っている。(801年に作っていることが判るが一切文献が無い)
通産省のグッドデザイン賞を受賞する。

最初に自然の環境、歴史的環境、現代の環境をチェックするために市内を回ります。
建築の設計をやっていなかったら出来なかったことが色々あります。
本質的な価値を掴む迄が大変です。
吉野ヶ里遺跡、伊勢堂岱遺跡など住民運動が大きな影響をしています。
府中市の武蔵府中熊野神社古墳 上円下方墳。
府中に国府を埼玉から持ってくるが、持ってきた主が熊野神社の豪族であったのではないかと言われている。
保存会があり300人ぐらいいてお祭りなどもやっていると言うことです。
仕事をして一番大事なのは時代の背景、歴史の流れが重要だという気がします。
客観的に歴史を見て行くことが重要だと思います。
日本の国家が成立して行く時期は面白いと思います。
縄文人は国家の概念がなかったと思うので、大陸から入ってきた政治、経済、権力が日本の国を作り上げて行ったと思う。
1998年から始めているが、遺跡展をやって、今年もパリでやることになっていますが、ブルガリアでもやってほしいと云うことでブルガリアでもやりました。
縄文時代の展示をやりましたが、弥生時代もやって欲しいとの要望があります。






















2018年7月9日月曜日

渡辺元智(横浜高校野球部前監督)     ・【“2020”に託すもの】人生の勝利者たれ

渡辺元智(横浜高校野球部前監督) ・【“2020”に託すもの】人生の勝利者たれ
高校野球の地方大会が行われているが、今年の夏の高校野球は100回を迎えます。
およそ50年コーチとして監督として野球の指導にあたってこられた、横浜高校野球部前監督の渡辺元智に伺います。
1944年(昭和19年)11月3日神奈川県生まれ、73歳。
横浜高校に入学して野球部に入部して外野手として活躍、甲子園への出場はかなわなかった。
神奈川大学に入学するが右肩を痛めて野球部を退部、大学も中途退学するが、恩師笹尾監督の推薦もあり当時黒土校長からの依頼を受け、母校横浜高校のコーチに就任したのが1965年(昭和40年)、1968年に24歳で監督に就任、2015年まで監督を退任するまで指導歴が50年、その間関東学院大学の夜間部に通って教員免許を取得、春夏27回の甲子園併せて5回の全国優勝、多くの名選手を育てていかれました。

生まれて直ぐに父が結核を患ってい平塚の結核療養所に移ってきた為、両親がいないむなしさを癒す為野球をやっていました。
田んぼの稲を刈った後の凸凹のところとか、細い道路でやったりして気持を癒していました。
法政二高は当時憧れていて補欠入学が決まったが、学費は無理ということで諦めました。
横浜高校の試験を受けて入学しました。
笹尾監督に出会いました。
厳しくて、上級生も厳しくて良く殴られていました。
親のことを思うとしがみついてやり通しました。
法政二高が全盛で他にも強い学校がありました。
横浜高校は当時荒れていて笹尾先生が横浜高校に呼ばれてスポーツによってそういった私学の学校に仲間入りしたいとスタートしたと思います。
神奈川大学に入学するが右肩を痛めて、バットで頭を殴られたような衝撃を受けました。
十何年間の思いが全て消えて行きどうしたらいいのかと思いました。

即千葉の方に逃げて来ました。
一途にやってきたことが頭の中は真っ白で見当が付きませんでした。(目標を失った人生)
荒れた生活をして喧嘩をしたり、酒を飲んだりしていました。
恩師笹尾監督のコーチへの推薦があったが、野球をやれるということで一つ返事でしたが、心構えはなにも無かった。
荒れた学校で脅かされたりしたが、にらみ合って、はったりを効かせたりしました。
お金も無くて、物をもらったものを売りさばいたりして生活の足しにしました。
監督になったときにはいまの女房と一緒になろうと思いました。
妻のお金で生徒への補助をしてやったりして、感謝感謝でした。
理念は特になかったが、笹尾監督の踏襲、他校をみてそれを見習うとかしていきました。
日本一長い練習、厳しい練習をすれば全国優勝できるであろうと邁進しました。
昭和48年に選抜で初出場、初優勝したが、夏は行けなかった。
渡辺では夏は行けないのではない化ということで、監督交代の声が耳に入ってきました。
北海道に逃避旅行をしたりしたが、生徒は気持ちよく迎えてくれて何かを変えないといけないと思って、「会話と、忍耐」という事を位置付けて練習に臨みました。
打倒原貢さん、東海大相模の存在は大きかった。
打倒東海大相模に執念を燃やしました。(家族にもめちゃくちゃ迷惑をかけました)

「青い山脈」の歌には癒されました。
昭和55年愛甲投手を擁して全国制覇を果たしました。(早稲田実業を破って優勝)
この時が分水嶺だったと思います。
愛甲選手が入ってきて物凄い選手が入ってきてくれたと思いましたが、冬に辞めてしまいました。
原因を色々考えたりしましたが、愛甲選手を家に置いたりして寝食共にしているうちに、もっと選手のきずなを強くしないといけないと思って目標を明確にたてました。
全国制覇を狙おうと、明確にしました。(愛甲投手が3年の時)
愛甲選手も不遇な子でした。
内面的に入って絆を作ろうと思いました。
愛甲選手さえしっかりすれば後は付いてくるだろうと思いました。

2年の夏に愛甲選手が戻ってきた時に、ピッチャーとして支えてくれてていた川戸選手が辞めてしまった。
川戸投手も愛甲選手とともにエースだといって、或る選手に呼びに行かせたら戻ってきてくれました。
詫びを入れて初めて二人のエースが誕生しました。
3年の夏には二人のエースで優勝することができました。
決勝は川戸投手に託すと愛甲投手も私の考えと同じで愛甲投手がグラブを川戸に託してマウンドに上がりました。
この時高校野球の理念を確立することができたと思いました。
選手を信頼する事、選手がやることであると、そういうことが分かった大会でした。
その後松坂、涌井投手など排出するこちになる。
その陰には多くの生徒が犠牲になっています。
それらの生徒たちに贈る言葉として「人生の勝利者たれ」という言葉が浮かんできました。
言霊のように毎日ミ―ティングがあるたびに「人生の勝利者たれ」という言葉を掛け続けました。
頭の中に残ってくれたのかユニホームを着れない子たちが今会うと、「人生の勝利者目指して頑張っています」と言ってくれてそれを聞いてやっていて良かったと思います。

「愛情が人を動かす」、愛情をどうやって気づきあげるか、絆とか真剣に向き合うことによって確立され、努力によって愛情という言葉が動き出す。
愛情の中には育てる為の厳しさも必要。
今後の若い指導者に対してはスポーツ、野球によって力強く生き抜くんだと人生論を教えてもらいたい。
助言者から教訓を受けて私の人生に役立っています、そこから姿勢を正さなないといけないと思っています。
高校野球を外野から立体的に見てみたいです、人生そのものだと思います。























2018年7月6日金曜日

伊藤昌輝(元ベネズエラ大使)       ・スペイン語で百人一首

伊藤昌輝(元ベネズエラ大使)       ・スペイン語で百人一首
1941年昭和18年大阪市生まれ、高校生時代に見たスペイン映画でスペイン語の発音に魅せられ、スペイン語を人生の伴侶として過ごされました。
大阪外国語大学でスペイン語を学び外交官となりその大半をスペイン語圏の中南米で勤務し、ホンジュラス、ベネズエラの大使を歴任し退官されました。
伊藤さんは在任中日本へのファンを増やそうと日本の古典方丈記をスペイン語で出版しました。
これが中南米で大きな反響を呼び、退官後は次々と古典の対訳版日本語とスペイン語を併記した本を出版。
2年前に「小倉百人一首」を出版しました。
スペイン語で読む小倉百人一首はピアニストによりコンサートが開かれるなど思わぬ展開を見せています。

詩は比較的やり易いと思われるが、百人一首は5、7、5、7、7という規則があるし、中身も平安、鎌倉時代で簡単ではないが、百人一首は日本人の心を一番伝える古典であろうと言うことで、出来たら自分の手でスペイン語に訳したいと以前から持っていました。
高校時代から日本の古典にはかなり関心を持っていました。
大学でスペイン語を習い始めてから、日本文学をスペイン語の世界に紹介できればなあと思っていました。
日本から外に向かって発信できないかなあと思っていました。
日本人の心を伝えるには古典ではないかなあと思いました。
現役を退く頃から「方丈記」、「閑吟集」(16世紀初めの室町時代の小歌集)、「梁塵秘抄」(平安時代末期に編まれた歌謡集)、「芭蕉の日記紀行文集」(『奥の細道』『野ざらし紀行』『笈の小文』など6品)、井原西鶴の「世間胸算用」などスペイン語で海外(ベネズエラ、アルゼンチンなど)で出版しました。
日本で日本語とスペイン語の対訳版を3冊(「方丈記」、「小倉百人一首」、石川啄木の「一握の砂」)を出版しました。

「スペイン語で詠う小倉百人一首」という本。
表紙には小野小町。
「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」小野小町
(現代訳:桜の花の色は、むなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降っている間に。
ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。)
スペイン語では5、7、5、7、7に合せるのは不可能に近い。
作者が言いたいことを出来るだけその通りに気持ちを伝えることを重点にしています。
掛け言葉はなかなか難しい。

「奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき」  猿丸太夫(5番)
(現代訳:人里離れた奥山で、散り敷かれた紅葉を踏み分けながら、雌鹿が恋しいと鳴いている雄の鹿の声を聞くときこそ、いよいよ秋は悲しいものだと感じられる。)
スペイン語は論理的で必ず主語はどれかとなっているので、「奥山に 紅葉踏みわけ」
の主語は人なのか、鹿なのかという事を決断しないといけない。
2説あるようだが私は鹿が主語と捉えて訳しました。

スペイン語で詠う百人一首コンサートを去年から発足して、ピアノを弾きながらコンサートをする。
百首について作曲していて、スペイン語で読んでもらいながら弾くことを昨年3回やりました。
ゆくゆくはスペインにも海外公演をというグループが出来ました。
「方丈記」はベネズエラの大使をしていて帰る直前に現地で出版しました。
詩が美しい、人生の教訓にも満ちているといった反響がありました。
本を読んで信じがたいほど内面の安らぎを感じます、(弟が事故に遭ったが意識不明の状態に一入り苦しいい時だったので)と言っていただいたりしました。
退官後ホンジュラスに行く機会があり、カルロス・ロベルト・フローレス大統領に方丈記を贈呈しましたが、ギリシャの哲人のヘラクレイトスにそっくりですとおっしゃいました。
「何もとどまらない。全てが流転する、君は同じ川に二度はいることができない。
なぜなら私が二度目に浸かった時には、川の流れも私自身もすでに変わっているから」
無常感は世界の色んなところにある感情だと思いました。
世界中に日本のシンパをじわじわと作って、日本の政策、考え方を理解してもらう。
そうすると外交もやりやすくなるのではと思います。
日本のにじみ出た教養、文化は向こうの首脳も当然惹きつけられて理解しようという気持ちになると思います。

高校時代に大阪でスペイン映画「汚れなき悪戯」をやっていて、スペイン語が綺麗だなあという思いがありました。
スペイン文学も深いものがあるに違いないと思って魅せられて、大阪外国語大学のスペイン語学科に行くことにしました。
スペイン語ははっきりしていて発音は日本人にはしやすい。
当時は生のスペイン語と接する機会が無く、色々考え行動しました。
スペイン語の国に住みたいと思っていて、商社か外務省位だと思って外務省に入ることになりました。
現役生活のうち30年は向こうに勤務して良かったと思います。
メキシコ(2回)、アルゼンチン(2回)、ドミニカ共和国、リオデジャネイロ、ホンジュラス、ベネズエラなどの国に勤務して来ました。
ホンジュラスではハリケーンがあり自衛隊が初めて海外派遣があり印象深かったです。
要人と知り合えたのは良かったです。
昭和天皇の通役を担当したりスペイン国王夫妻と食事を共にしたり、中南米のいろんな大統領と通訳を通して知り合えたのも貴重な経験でした。

中南米は親日的です。
日系人の方が沢山行っています。
日本人は真面目で正直だと言うことで何処に行っても定評があります。
中南米は対米感情はあまりよく思っていなくて、負けてしまったがアメリカと戦争をしたことに対しては凄いというような思いは持っています。
戦後日本が民主化して経済成長をして自分たちに援助してくれた経済援助、それに物凄く感謝しています。
そういったことで仕事はしやすかったということは言えます。
中南米に対して政府も一般の人もメディアももうちょっと目を向けて欲しいと思います。
ベネズエラの現地のラジオ番組で俳句の話をしました。
俳句をスペイン語で読んだり俳句のことについて3回位番組に呼ばれました。
退官したら、次に何を訳そうかなあと思っていましたが、関心を持ってくれる作品、その選択が難しいです。
スペインの出版社から要請があり石川啄木の「悲しき玩具」、「ローマ字日記」が今年中にスペインで出る予定です。
「奥の細道」対訳版、前にアルゼンチンから出ているが翻訳も見直しをして秋に出そうと思っています。
スペイン語は私にとって人生の伴侶だと思います。