2023年6月9日金曜日

辺泥敏弘(アイヌの伝統楽器、製作・演奏者)・〔人生のみちしるべ〕 アイヌのルーツででっかく生きる

辺泥敏弘(アイヌの伝統楽器「トンコリ」製作・演奏者)・〔人生のみちしるべ〕  アイヌのルーツででっかく生きる 

辺泥さんは昭和50年東京生まれ、東京育ちで48歳。  7年前に東京から北海道釧路市の阿寒湖畔に妻と共に移住しました。   釧路はアイヌの曽祖父の故郷です。     20代から30代は東京で音楽のプロを目指していた辺泥さんは、釧路へ移住後弦楽器トンコリ」の魅力に惹かれ会社勤めの傍ら、「トンコリ」の制作を始めます。       楽器としての精度が高くいい音を出せる「トンコリ」を目指して、学びながら試行錯誤で作り続けて居ましたが、去年7月に務めていた会社を辞めて、「トンコリ」の製作者として独立しました。  今では口コミで全国の楽器店から注文を受けるという事もあるといいます。 

阿寒湖畔に移った当初はギャップだらけでした。   一番感じたのは人の距離が近い。   東京で暮らしていたころはマンションの隣の人が誰だかわからないような感じで何の違和感もなく過ごしていましたが、阿寒湖畔に下見で行った時に僕を繋いでくれた方がいて、あれよあれよという間に近所の人が集まって来て、人の距離が近さを感じました。      助け合う気持ちがあります。  マイナス30℃にもなることがあり、外には出られないのかなと思っていましたが、普通に過ごしているという事でした。 

冬は異世界です。  湖が全部凍っていて、湖の上が駐車場になったりしていて吃驚しました。     氷の上を散歩してみたり、しぶき氷と言って、湖畔にかぶさるように枝があったり倒木があるところに、波がちょっとづつかかって細長い水風船が一杯垂れ下がっているような、氷の芸術みたいなものが見れたりします。  自然環境は驚きの連続です。

「トンコリ」の製作は、それまでは会社勤めの空いた時間で作っていましたが、知人が欲しいという事で作り始めて、口コミで増えて行って、製作は続けて居ました。  会社を辞めて製作と演奏もしてきました。   「トンコリ」の形は細長くて、長さが110cmぐらい、胴体は細長い流線型で丸木舟に蓋をしたような形で、舳先を下にして立てて持つ。  上にはギターのような弦を巻いている部分があり、一番上にはアイヌ文様の装飾がついている。  女性の身体を表していると僕は聞いています。  頭、首、肩、胴体、へそとか身体の部位を表しているといわれています。  鳴り、楽器の精度など意識していますが、ほとんど違うんです。  だから作っていて楽しいです。  製作の工程も大変でくりぬくのも大変です。  最後に弦を張って音を出す時には毎回ワクワクします。  

*「イケレソッテ」という曲  魔物が足をずって歩く音をイメージした曲。

「トンコリ」を初めて触ったのは12,3年前です。  八重洲にアイヌ文化交流センターがあり、行ってみました。  本格的に楽器としての魅力を感じ始めたのは阿寒湖に来てからです。  阿寒湖に行って音楽としてやりたかったのは、自分のバンドを作る事、種まきしたい。   すそ野を広げたいという思いがありました。  小、中学生に声をかけてバンドを作って3年半ぐらいやりました。  

僕は東京生まれですが、ルーツは釧路のアイヌです祖父の時代に東京に出てきました。  父は今年80歳になります。  アイヌの文化というよなものはありませんでした。   父が18歳の時に祖父は亡くなっていて僕はあったことがありません。   辺泥五郎という曽祖父の写真がアルバムにあって、嬉しいと言う記憶がありました。(小さいころ)  或る時、父が「アイヌっていい顔するひとばっかいりじゃないぞ。」と言ったんです。 その言葉が小さかった頃の僕の心に残ったこともあり、家ではアイヌのことを聞いて回る事をしなくなりました。  

高校進学して凄くギターの上手い級友がいて、彼とバンドを組んで僕はボーカルをやりました。   20代になって本格的にやろうという気持ちになり、30代前半ぐらいまでやっていました。   レベルの高い人達と巡り合って、今ではプロとして活躍している人達もいます。   或る時、高校時代に組んだギターリストの親友と話をした時に、彼から僕には将来性を感じないといわれてしまいました。   言わなければいけないと思った辛さは向こうの方だと思いました。   その時はただただショックという感じでした。    解散して自分でバンドを立ち上げてみたりしましたが、自分の中の薄っぺらさに気が付いてしまいました。   それから10年ぐらい音楽活動を辞めました。    

八方ふさがりの中、自分の根っこを全部ゼロにして、もう一回組み立て直そうと思いました。  ルーツ、戸籍に遡ることから徹底的にやろうと思いました。  北海道に行きたいと思いました。  阿寒湖に来て7年になります。  いろんな人から影響を受けました。アイヌの先輩に言われた言葉ですが、「いろいろあるけれど、気にせずでっかく生きろ。」とズバッと言われました。   それが今の行動にも影響したかなあと思います。     いろんな人のお世話になって、今の状況になってきたと思います。   世の中の人たちに、アイヌという認知、これが広がることが、アイヌに関わらず、いろんな意味で暮らしやすくなってゆくことに繋がると思います。  











 









 




























 

2023年6月8日木曜日

吉田和生(文楽人形遣い)        ・かしらが繋(つな)ぐ芸の道

 吉田和生(文楽人形遣い)        ・かしらが繋(つな)ぐ芸の道

人形浄瑠璃文楽で使われる頭は約80種類会うといわれています。    どの役にどの頭を使うかを決める頭割を担当しているのが、人形遣いの人間国宝 吉田和生さんです。    

愛媛県の山奥の自然に中で育ちました。 本が好きで本を読んでいました。    高校3年生の5月の中間テストのころ夕方になると熱が出てきていました。   病院に行くとはいしん病?ではないかと言われました。  休学することになりました。   それで乱読して、その中の一冊が漆芸家の松田権六さんの「漆の話」という本でした。  復学して先生が「大学に行くという事は大学に行く資格を取るために行く人と、大学の4年間の中で自分が進むことを決めようか、という二つの方法がある。」と言われました。  両方ないなあと思いました。  

大学にはいかないことに決めて、卒業後京都の方に遊びに行きました。  帰り道に文楽の頭を作る大江巳之助という人に会う事にしました。  その後手紙を頂いて、大阪の道頓堀の旭座?に行って、文楽に出会いました。  文楽の師匠から泊ってゆくように言われて、翌朝「で、どないする。」と言われて、そこで「やります。」と言ってしまいました。  舞台を観て感動したわけではなかったが。  

研究生として入ったが、特に抵抗はなかったです。  師匠は「和夫」でしたが「和生」という名前をいただきました。   私が入るまでは10年間入っていなくて或る意味「金の卵」みたいでした。   当時足使いは10年やっていて上にあがりたくて仕方なかった。  今の玉男さんとか勘十郎さんと同時入門なので、待ってましたという感じで、有難かった。  足使いを習っていきました。  

今は役柄をうまく三人ともすみ分けています。   手の大きさ、指の長さ、握力が違うから、私がこうやったと説明して真似しても駄目で、自分に合ったサイズのやり方をやってゆくようにと言われました。   人形使いは自分で使う人形の着付けをします。  それがまた厳しい。  今は1時間ちょっとで仕上げますが、始めのころは3,4時間 かかります。  やっと出来たと思うと、それでは舞台では使えないといわれると最初からやり直しという事になります。  見た目がきれいでないと駄目だといわれます。   絶対に守らせなければいけない部分と、自分でやって良い部分と、そういった育て方をされました。  有難かったです。  

基本的には、何のために出て、何のためにお客さんにやって、何のために・・・(聞き取れず)でしょうね。  表面じゃない部分もあります。  狐は血が通っている、柳は血が通っていなくて植物だといわれて、「どうする」といって後は何も言わなかったです。  両方やっていますが、考えて自分に成りにやっています。   違いは、人間に近い表現方法で、柳は感情をストレートに出さずに、サラサラっというような形でやっています。  お客さんが判るかどうかは分かりませんが。  

頭割は師匠のを見ていて無理だと思っていました。 全部頭のなかでやっていた。400ぐらいあると思います。 一興行に60ぐらいですかね。  師匠が言ったのは「頭によって構え方を変えなければいけない」という事でした。  2017年には人間国宝に認定されました。  師匠が前の年の8月に亡くなりました。 内定が6月に来ました。  まさかそういう時期に頂くとは思っていませんでした。

今は映像と音が自由に出来るから、直接師匠や先輩に聞かなくても大まかなことは手軽に分かる。   しかしなんでその動きをしたのか、裏にどんな意味があるのか、その部分は映らない。  そこが大事なんでしょうね。  教える方もそこを考えないといけないと思います。  映像を見る以上に頭を働かさないとものにはならない。  師匠に言われたりすることは色々余分なものが付いてきますが、映像にはそれがない。  ですから話はいろいろしておいた方ががいいと思ってやっています。  研修生が集まるのが難しくなってきています。  文楽教室とかいろいろやっていますが、入門に直結は難しいです。  建て替え前の今の国立劇場で「曽根崎心中」(近松門左衛門の「おはつ」をやらさせてもらいます。













 










 

















 







 

                                                                                                                             

2023年6月7日水曜日

波乃久里子(女優)           ・舞台に立つ喜び

 波乃久里子(女優)           ・舞台に立つ喜び

昭和20年歌舞伎役者十七代目中村勘三郎の長女として神奈川県鎌倉市に生まれる。    弟さんは十八代目中村勘三郎さん、甥御さんは六代目中村勘九郎二代目中村七之助さんです。  波乃さんは16歳で新派に参加して、初代水谷八重子さんに師事しました。             以来舞台に活躍しています。

普段はGパンとTシャツです。   劇場と家の往復は忙しさの中に入っていないです。   3,4歳が初舞台になります。    劇場と家の往復だけで生きてきた人間なので、コロナのことでいろいろなことを覚えました。  金子信雄先生が「劇場と家の往復だけじゃあ馬鹿になる。  有とあらゆるものを見なければいけない。」と言われましたが、それがよくわかりました。   今も踊りの師匠に習っていて、師匠につくという事は大事なことだと思っています。   父からは甘やかされ過ぎて育ちました。   母は見事に厳しい人でした。

16歳で新派に参加して、初代水谷八重子さんに師事しました。   15歳で水谷八重子さんの舞台を見て、天人の様に余りの美しさに椅子から転げ落ちてしまいました。    それからとりこになりました。   物言わぬ雲といった感じで、凜として人間味がなくて、おならを聞いたら3日間ぐらい私は寝てしまいました。  この世の人ではないという感じでした。   皇女和宮の時には目が和宮の目になり、娼婦の唐人お吉の時にはお吉になって何人も男を知っているような感じになってしまう。  論理的なことは嫌いでした。  言葉が深いです.。   30代で10代の役を貰った時に先生に聞いたら、「10代だと思っちゃえばいいのよ。」と言われました。  

20年先生のもとにいました。  杉村春子先生、森本薫先生の「女の一生」はいい作品でした。  もう一度、死ぬまでにもう一回やりたいですね。  舞台、映画など見るものが好きです。   歌舞伎が一番好きです。  新派も1888年(明治21年)に始まる。   今年135周年。  角藤定憲大阪で「大日本壮士改良演劇会」を起こして不平士族の窮状を訴えた壮士芝居を路上で始めた。  川上音二郎で「改良演劇」を謳った一座を興して書生芝居を始めた。  喜多村緑郎は歌舞伎が好きだけど、旦那衆で作ろうという事で新派が出来た。   

横溝正史の「犬神家の一族」の松子(長女)という役をやらせていただきました。  私に新しい風が吹きました。   「八つ墓村」2020年の上演がコロナで中止になる。   樋口一葉先生のものは全部やりたいです。   樋口一葉先生は水谷八重子先生によく似ているんです。  心の中が燃えていて冷静に見える、緻密で秘めている。  小学校6年の時には樋口一葉の作品は全部ソラで言えるようになっていました。  井上やすしさんの「頭痛肩こり樋口一葉」で樋口一葉役をやりました。  楽しかったです。  

「三婆」、有吉佐和子さんの原作。  舞台化される。  私が本妻で夫が愛人宅で亡くなり、三つ巴になって面白い。(水谷八重子、波乃久里子、渡辺えりがそれぞれ、武市の妾・駒代役、本妻・松子役、実妹・タキ役で出演する。)  人間ドラマです。       役者に取って「慣れ」は一番駄目ですね。  

十八代目中村勘三郎、57歳で亡くなる。(10歳下の弟)  あの人は舞台から愛をあげたい人だから、自殺者を3人助けているんです。  死のうと思っていたが、貴方の舞台を観て生き返ったと言う手紙が来て、それを読んで弟は泣いて、「生きてください」とその家まで行きました。  苦しい思いをしている人が明るくなってほしいですね。

敷地は一緒で、玄関は別ですが、中から行き来できるようになっていて、甥御の六代目中村勘九郎二代目中村七之助らと一緒に住んでいます。  「久里子」の『くり』から「マロン」というあだ名で呼ばれています。  樋口一葉の作品の朗読もやって、満員になりました。  映画で年寄りの役をやりたいです。  















































2023年6月6日火曜日

中尾ミエ(歌手・俳優)         ・喜寿を迎えてますます元気に

中尾ミエ(歌手・俳優)         ・喜寿を迎えてますます元気に 

1946年(昭和21年生まれ、1961年園まりさん伊東ゆかりさんと3人でスパーク3人娘を結成し人気者となります。  16歳の時に出した「可愛いベイビー」が大ヒット、一躍人気歌手、その後は歌は勿論映画、ドラマ、バラエティーなどマルチに活躍をされ、最近はミュージカルでアクロバットを披露し話題になりました。  芸能生活60年を超えた中尾ミエさんに伺いました。

いまが一番元気なんですよ。  喜寿(77歳)になりました。 福岡県小倉市生まれです。6人兄弟の4番目です。   書店を経営していたが、父が事業に失敗して東京に出てくることになりました。   習いごとに行かされてバレエ、ピアノ、タップをやっていました。  中学の時にオーディションを受ける事になりましたが、歌をやりたいという事を思っていたので、渡辺プロに紹介状を書いてもらう事になりました。   米軍キャンプではオーディションの前に歌っていました。  歌は好きでした。  15歳で社長のうちに住み込みとなり、高校はいかないことにしました。   国語以外は必要ないと思っていました。  自分の人生は凄くいいタイミングで生まれたと思っています。  自分の人生と戦後史がイコールという感じです。   

歌手としてデビューして『シャボン玉ホリデー』、映画にも出演しました。  俳優の方が先で、そのころの新人賞が私と、加賀まりこさんと北大路 欣也さんでした。  器用貧乏で駄目だといわれましたが、でも身を助けてくれました。  目標があって20歳で家を建てることができました。(借金もありましたが)  借金をすることがモチベーションになっているというようなところもあります。   30歳になってから、勉強しないといけないと思って、勉強したり習い事をするようになりました。  一つなにかを始めると、思ってもみなかった出会いもあるし、思ってもみなかった自分の才能を見出すかも知れない。   トライしてみない事にはもったいないと思います。  

人に助けてもらうのが上手いのかもしれません。   自分にかけている部分を誰かに補ってもらえれば、それは凄く楽だと思います。   逆に頼れると嬉しいものだし。    お互い様です。   昔NHKで「八百屋お七を取り巻く七人の男」というドラマをやりました。   一人に一つしか才能がない男の人でした。  おしらすで調べられた時に「私は七人みんな平等に愛しました。」という設定でした。  私の人生もこれで行こうと思いました。   いまだに実践しています。 

やりたいことは自分で見つけなければ駄目ですね。  時間無駄なく達成するように毎日毎日生活する。  楽しみは自分で見つけないといけない。   志は死ぬ最後まで持っていないといけないと思います。 そのプロセスを楽しめればいいと思います。  ミュージカルでアクロバットをやれと言われてやったらできたわけです。  日々トレーニングをしていたら健康になってしまいました。   やれば出来るんだと思いました。  尾藤さんと二人で50年ぶりぐらいにロックンロールを歌うんです。  最終的に残るのはぐっとくる言葉だと思います。
















   





















2023年6月5日月曜日

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕馬場あき子

 穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕馬場あき子

馬場さんの日常を追った映画「幾春かけて老いゆかん 歌人馬場あき子の日々」が公開されました。   監督はテレビドキュメンタリーの世界で活躍する田代裕さん、歌人らしからない気取らないいつものままの馬場さんの姿がスクリーンに写し出されています。

1928年(昭和3年)生まれ、東京都出身。 実の母親を病気で亡くして、祖母の元で育ち、父親が再婚してからはこちらで暮らす事になる。  戦時中は軍事工場で働くなど戦争のご苦労がありましたが、大学に入って日本文学を学び、能と短歌に出会ったことが人生の転機となります。   大学卒業後は教師となり中学、高校で教えながら能も短歌も続け1955年に発表した第一歌集『早笛』は高い評価を受けました。  1977年教師を辞職し、学生時代から参加してきた「きっしゃ」?を脱会、夫である岩田正さんと新たに「かりん」を立ち上げました。  またそのころ現在に続く朝日新聞花壇の選者になりました。  これまでに迢空賞、読売文学賞、朝日賞、日本芸術院賞などを受賞、2019年には文化功労者に選ばれました。  一昨年これまでの集大成として1万首を収録した「馬場あき子全歌集」を出版、今年は馬場さんに密着したドキュメンタリー映画「幾春かけて老いゆかん 歌人馬場あき子の日々」が公開されました。   

馬場:田代さんをお能の関係者から紹介されて、30分番組と思っていたら「これを映画にしましょう」と言われて、ドキドキしました。    1年の密着でした。  穂村さんとか俵万智さん辺りまでは下の句がいいんです。   でも最近は下の句が弱い。  時代的にも結論がないから、上の句を見て下の句に行く。  上の句、下の句の意識がなくなった。   言いたいことを言っちゃおうというのが多くなった。   だから短歌人口が増えたんです。   会話の様に歌ってしまう。  

穂村:あの映画を観て恐ろしいのはあの活力ですよね。  

馬場:謡いを60年もやっていれば死ぬまでこの声量ですよ。   

穂村:歌が時々バシッと出てくるのが気持ちよくて。

馬場:クラス会に出ました。 最初に受け持った子、と最後に受け持った子がよくやっています。 生徒が82歳が最初でこの間のは77歳が最後の子です。 昔の生徒をよく覚えています。  『早笛』に詠った子が来るんです。  教科書から脱線して面白い話をしてもらった事などよく話します。  うちのクラスが書道の展覧会で一番入選します。 国語の教師が書道を教えなければならなかった。   私は書道が出来ない。 書道の塾にうちのクラスから一番行ってたと思います。  

穂村:馬場先生に源氏物語を習うんですが、テキストから脱線するところが生き生きしていて、当時の下着はこうだったとか、おやつはこんなものを食べていたとか教科書的なものには出てもない。  国文学であると同時に民俗学的な素養がある馬場先生は生き生き教えてくださった。   そうすると覚えられるんです。

馬場:能は型にはまったもので古典と同じ、古典と短歌と言ったら現代においてはなんとなく発展性がない。  判らないが能面に惹かれました。   「墨田川」を見に行きました。  結構心理劇になっています。  短い会話の中に複雑な心理があったり、やり取りがあったりして面白い。  「道成寺」で「花のほかには松ばかり」で始まるが、松は「松」と「待つ」の両方にかかってるとしか考えない。 「暮れ染めて鐘や響くらん」 鐘が響くというと、待つ?のは鐘が落ちるのを待っている」という風に響いて来る。  最初の言葉から怖い訳です。  怖い予告編の言葉じゃなかったかなという事を考える。  残念ながら現代には生きない。  だから能と両立と言われると猛烈に困ってしまう。  

穂村:馬場さんには「鬼の研究」という名著がある。  敗れたもの、押しつぶされ続けてきたもの、弱者、への視線がある。  安保闘争に敗れた怨念、押さえつけられてきた女性の立場への眼差しに、凄く馬場さんを感じます。   若いころから有った視線ですか。

馬場:そうですね。 一番嫌いで怖いのが蛇です。  蛇のなろうとどうして思えるのだろうか、異様ですよね。  なろうと思うまで屈折が重なってゆく、一番嫌いなものになってやろうという、そう言う事じゃないかしら。  一番嫌いだったものが逆に絢爛たるものに高まってゆくだけだから。   短歌と能のどっちかを辞めようと思ったことは全くないです。  能の面白さといったらないです。  言葉そのものでは表せないことは歌う事によって現れる。  型を付けることによって、涙ぐましいほど出てきちゃう。  思想含んだ、哲学を含んだものがいっぱいある。  それが時々はっと思わされる。       安保闘争でめちゃくちゃになっていたころ、師匠が「「」、舞いなさい」、と言われて拒否できずに巴を舞うわけです。  戦場から離脱する人、巴御前は故郷で語り部になるわけです。義仲の戦場から離脱して故郷に帰る女の役目と言うようなものを教えてくれたわけです。  私が舞う事によって決別できる気持ちになりました。

三島が切腹する前の昭和44年、「葵上」を舞いなさいと言われました。 鬼になる女を教えてくれた。  師匠がなんで踊らせるのか判らなかったが、二つとも時を経て自分のターニングポイントになりました。  型に押し込められながらなおかつ自己表現してやろうと思う時、物凄い快感がある。  師匠は型を教えるだけ、自分で考えるとちがってくるわけです。  師匠はいい時にいいことを言ってくれる。  好きなのは短歌の世界では近くでは宇都野研、どうしても窪田空穂の歌が40代までは好きになれなかった。 自分が「かりん」を起こしてから、窪田空穂の全集を3回読みました。  私の作品が抒情的であるという批判を受けた時に、窪田空穂の短歌思想では短歌は抒情の様式であるという事は窪田空穂の魂であったわけ。  抒情的であるという批判を受けた時に窪田空穂は筆を執ってくれて、直ぐ防衛を張ってくれました。  抒情は短歌の生命だといって、有難かった。        抒情ではなく乾いた知的なもの見方をしなければ、日本の新しい時代には短歌は生きれれないと、抒情というものを小さいものだと、皆思っていたんです。  抒情というのは時代を越えるものだと思います。  

穂村:馬場さんは強靭な論理を持っていたから、これが違いました。

馬場:あの頃、女は論理を持つべきではなかった。  男の眼でもって批判されて、なおしていって、男の文体の短歌でありながら女の、艶が滲むというところが良かった。 そこのところが能と似ていた。  男がやっていても艶(中世の最高の美学)が滲む。      失敗は大きな流れのなかの部分だから、傷を負いながらも治ってゆく。  大きな決断は決められないことがいっぱいありました。  そういう時には黙っている、これは秘訣です。岩田(夫)の姑はいい姑で私の話し相手になってくれました。  だから迷惑この上なかった。  勉強できなくて出ちゃいました。  

穂村:岩田さんの有名な短歌が映画死にてにも出てきましたが、「イブモンタンの枯れ葉愛して三十年妻を愛して三十五年」。  岩田さんが亡くなった時の馬場さんの歌は「夫(つま)のきみ死にてゐし風呂に今宵入る六十年を越えて夫婦たりにし」  

馬場:ここで死んでいたんだと思うと入る時に怖い気がしました。 

穂村:印象的だったのは最後の方に出た、*「ふと思えば我情熱く愛淡き事おりふしのあやまちなりや」?というものです。  

馬場:愛というのは長く続くものでなくてはならないでしょう。  私は情に燃えやすいけれども、愛情を注ぎ続けることが出来るのか、を問うと判らないなあという事になるのでは。  ドラマがあったりするのがあるわけではなく、愛はもっと静かで深いもので、その人間を見つくしてあげる事なんじゃないのかなあと思います。                    孤独は人間の本質で、生まれた時は一人で、個で生きてゆかなければならないという時は時々あります。   私が頼ったというのは父であったり、自分を守り手であったりする人、でも相談したことはないですね。  自分のやることに対して信念を持っている人は好きですね。  

穂村:馬場さんに対しては失言してもきっと大丈夫だろうというような、そういう柔らかさや大きさがあるからいいですね。

馬場:失敗のない人間なんて厭だね。  

*印の短歌は漢字、かななどの表記が違ってる可能性があります。


































































 








   





























2023年6月4日日曜日

高橋洋子(歌手)            ・〔時代を創った声〕

高橋洋子(歌手)            ・〔時代を創った声〕 

*アニメ 新世紀エヴァンゲリオンの主題歌「残酷な天使のテーゼ」

テレビアニメが放送されて25年以上たった今も知名度が高く、多くの人に歌われています。 作詞:及川眠子  作曲:佐藤英敏  歌:高橋洋子

新世紀エヴァンゲリオン』がテレビで放送されたのが、1995年、その後映画化される。   「残酷な天使のテーゼ」が発表されてから28年になります。  バブルがはじけて社長が何人も変わるようなめまぐるしい時期に、社長と共に移動することになり、1995年の春にロサンゼルスに歌の勉強に行きました。  半年後戻ってきた時には浦島太郎状態でした。   新世紀エヴァンゲリオン』のエンディングの歌の企画があり、主題歌も歌うという事になりました。  

東京都出身、21歳のころから父親(国鉄職員)にピアノを習う。  合唱は、父は大人になってもやっていました。 自分の夢を子供に託したといったタイプでしょうか。 兄、姉、私、弟の4人兄弟です。  小学生時代には滝野川少年少女合唱団のメンバーでもありました。    そこが歌のスキルの基本になっています。   小学校2年から高校2年まで在籍しました。  大学には行きましたが、途中で辞めて、バンドはやっていました。   バンドオーディションを受けて、優勝できませんでしたが、歌が歌えるということでレコード会社が推薦して、バックコーラスグループ「LOVE MACHINE」のメンバーとして久保田利伸さんのサポートをすることになりました。  オーディションの時には物凄く緊張して100%落ちると思っていました。  審査員10人中9人が×を付けていて、久保田さんだけが〇をつけてくれました。    

不器用で歌いながら何かをすることができないタイプです。  歩きながら歌えないんです。  何故緊張するのかを考えましたが、人に評価される、その評価されることに自分がコントロールされるのが嫌だという事が判ったんです。   父は厳しかった。 話しているうちに父と喧嘩になって、父が殴ろうとしたように見えたので、「殴るんだったら殴れ。」と大声で頭を出しました。   「私はただ褒められたかっただけだ。」と言って、厭だった父に自分から抱き着いて行って、泣いたんです。  そうしたら父も泣いて、「お前はよく頑張った。」といってくれて、そこで初めて和解が出来ました。  昔気質の父であったので褒めてもらうという事はなかったです。  和解以降は褒めてくれるようになりました。  

1991年民放のソロとしてデビュー。  1992年には「もう一度逢いたくて」で第34回日本レコード大賞新人賞(最優秀新人賞ノミネート)を受賞、同年には「P.S. I miss you」で第25回日本有線大賞新人賞も受賞しました。  1997年に映画『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』の主題歌も担当した。

*「魂のルフラン」  作詞:及川眠子  作曲:大森俊之  歌:高橋洋子

新世紀エヴァンゲリオン』という作品が世の中に認知されて、ヒットしたと認識していて、私が売れているわけではないという事を自分でも理解していました。

2000年から歌手活動を停止。  上げ底してもらっているような感じで、このままでは勘違いして、もしかしたら人として駄目になってしまうかもしれないと思うようになりました。   子供には自分の足で立ってしっかり生きている姿を見せたいと思って、5年間別の仕事(介護職)をしていました。   学びの多い充実した時間になりました。    音楽療法もやらせてもらって音楽の力を再認識することもできました。  

一人でも歌ってくださる人が居たら、どんなところへ行っても歌おうと決めました。    仕事を始めたら、びっくりするほどの仕事が入るようになり、歌の世界に戻って来ました。 若い人に対しては、やるもやらないのも自分次第なので、自分で納得するまでやりたいんだったら是非やってほしいと思います。  私は歌手として毎日の自分の練習のルーティーンがありまして、自分のなかのルーティーンを是非作るといいと思います。  頑張ってきたけど躓いたという人が居たら、一番嫌いだと思う事にチャレンジすると、割と答えが早く出ると思います。  嫌いなことを言葉化して人に説明できるようになると,もう一個先にいっている現状と出会っているという事なので、何か違ったことをやってみるという事はいいことだと思います。  

*「罪と罰 祈らざる者よ」  作詞:高橋洋子  作曲:大森俊之  歌:高橋洋子
































  

















2023年6月3日土曜日

かみじょうたけし(高校野球大好き芸人) ・高校球児の熱い思いを伝えたい

かみじょうたけし(高校野球大好き芸人) ・高校球児の熱い思いを伝えたい 

甲子園球場で開かれる春、夏の大会は勿論、全国の地方大会や練習試合にも足を運んで、高校生の活躍や成長を見つめてきました。   年間の観戦試合数は100を超えるそうです。   去年の秋にはこれまでに出会ったこのない高校生たちとのエピソードを綴った「野球の子」を出版しました。   

年間試合は100~150試合ぐらい観ますかね。   劇場へは8回というような感じの時もあります。   今は春の大会をやっていて、大阪大会の3位決定戦、決勝戦、大阪桐蔭が大阪府56連勝でストップしてしまった。  あの試合は金光大阪の応援が凄かったような気がします。   春、秋の大学のリーグ戦も観に行きます。   自分が敗れ去った後でも、負けてなるものかという立ちあがるところが、高校野球の一番の神髄だと思うんです。     挫折を教えてくれる場所だと思います。  

この間北海道の春の大会にも行きました。   北海道の独立リーグを観に行っていて、仕事が終わってから高校野球を観に行きました。   行った時には6回裏で8-1でコールドゲームになるかもしれない時でした。  光星高校が負けてしまいそうでした。  コールドを免れて、次の回も免れて、結局1時間ぐらい観ることが出来ました。 知らなかったけれど背番号1の柳沼君という選手の活躍がありました。 背番号1なのでどっか怪我でもしているのかなあと思いました。  夏の大会にはもう一回観にいってやろうかなと思いました。   

大学生の時に競輪場でアルバイトをしていました。  先輩に誘われて松竹のオーディションを受けに行きました。   合格したのがきっかけとなりました。   芸人になる前から高校野球は観に行っていましたが、或る番組に出た時に「あんたどれだけ高校野球のことを知ってんの。」と言われてそれからですね。  板東英二さんの物まねをやります。   相方が辞めてしまって、どうするか考えていたところ、或る人から板東英二さんの物まねをやったらいいんじゃないかと言われて、やったら似ていると言われてやり始めました。  物まねを始めて1週間で板東英二さんと共演しました。   

普段遊んでくれていた人が高校野球の大会に出て、それを観た時に豪速球を投げているのを観て、吃驚しました。  これがあのお兄ちゃんの本気な姿だったんだと思って、僕のなかに熱くなる始まりでした。   甲子園で一番好きなのがアルプススタンドです。 一番熱が熱い場所だと思います。   城東高校で永野さんという女の子がノックしていましたが、女子部員によるノックの第一号になりました。  中学時代は吹奏楽部だったそうで、練習して豆も何回もつぶして、野球部員からノックバットをプレゼントされたというエピソードもあるようです。  

「野球の子」を出版。 いろいろなエピソードが詰まっている本です。  うまくいっている人がすきなんじゃなくて、うまくいっていないのに、もっとうまくいきたい、頑張りたい、人生を豊かにしたい、必死にもがいている背中がきっと好きなんだなと思います。   そういったエピソードを集めて書きました。  沖縄で出会った子ですが、「このまま野球をやってもいいんですかね」と初対面で言われてしまいました。  「野球はもういいというまでやり切れと、それから次の道に行っても素晴らしい人生になると思うから」、と言いました。  就職を辞めて福井県の独立リーグに入って、NPB(日本プロフェッショナル野球組織)を目指すという人生を送るわけです。  

最後にはNPBには行けませんでしたが、リーグでもトップの成績を納めました。    彼はピッチャーでしたが、僕に声をかけて来た時にはイップスという投げられなくなる病気だったみたいです。  当時回りからの声は「絶対無理です」と言われていたようです。  高校時代の最速球が146キロで、リーグに入って148キロをだして、そのことを伝えてくれました。  この人は凄いと思いました。  今、彼は引退して群馬の方で働いていて、この7月に結婚することになっています。

甲子園は高校野球の一部であって、地方大会はその分母がもっとおおきい。  ヒューマンドラマが好きなのかもしれません。  夏は出来るだけ多くの地方大会を観に行きたいと思っています。   多くの選手と出会いたいと思っています。