2018年4月20日金曜日

ジュディ・オング(歌手・女優)         ・【わが心の人】ペギー葉山

ジュディ・オング(歌手・女優)         ・【わが心の人】ペギー葉山
ペギー葉山さん、昭和8年東京生まれ、青山学院女子高等部在学中から進駐軍のキャンプで歌い始め昭和27年「ドミノ」でレコードデビュー、昭和34年には「南国土佐を後にして」で大ヒット、歌謡界での人気を不動のものにしました。
又ミュージカルや司会などでも活躍し、更に「ドレミの歌」を自ら訳して歌い広く紹介しています。
2007年からは女性で初めての日本歌手協会の会長も努めました。
昨年4月12日亡くなられました。83歳でした。

元気な姿を見てから台湾に行ったんですが、悲しい知らせでした。
オシドリ夫婦と言われた夫の根上淳さんが2005年に亡くなられました。
ご夫婦は子役としてのジュディー・オングを見ていて下さった。
私はその後17歳になった時に歌手としてレコードを初めて出しました。
父が仕事で台湾からGHQの仕事できて、ラジオ局のチーフを勤めました。
小さい時は寝る時にジャズを選択していたので聞きながら寝ました。
ペギーさんの声にはあこがれました。
TV番組でペギーさんとはNHKの「ザッツミュージック」と云う番組で長い時間ご一緒しました。
その時になんと素敵な方だと思いました。
その時に歌の事、声の出し方など細やかにアドバイスして貰いました。
ペギーさんがルイ・アームストロングに会いに行った時に、赤い振袖を着て行って、黒のドレスの上にそれを肩からパーっと長く付けて凄くかっこ良かったです。
舞台に立った時に後光が射すように姿勢がぴしっとしていました。
言葉も綺麗であこがれの女性です。

ペギーさんに大切にしていただいたということを感じたのは、お葬式の時に一度も会ったことの無い御子息が走って来て、「僕はジュディーさんに会いたかった、いつも話にでていたから」と言われて泣いてしまいました。
根上淳さんは先生のような存在で歴史を面白おかしく、話してくれました。
私は台湾から2歳の時に日本に来ました。
劇団に入って子役としてTV、映画などに出ました。
1961年に日米合作映画『大津波』で映画デビューしました。
のちNHKのテレビドラマ『明日の家族』を2年位続きました。
ペギーさんは細やかで人を大切にして、品も良くて教わることは多かったです。
「出番の前は早く袖にいなさい」ということはよく言われました。
気合いを入れて舞台に立つ直前の姿までが大切である、という事をよく言われました。
常に上を目指していて、「努力をしないと後ろに下がってしまうので、努力をして初めて維持する」、とおしゃっていました。

ペギーさんは新しいことにも貪欲でした。
ドレミの歌も、ニューヨークに行ってブロードウェーで見て大感動して帰って来て、日本の子供たちに是非歌ってほしいという思いからホテルで書いたと言っていました。
ミュージカル、舞台、お芝居、なんでも自分の世界にしてしまうような方でした。
ペギーさんの「ケセラセラ」が好きで、今回シンガポールのレコーディングで「ケセラセラ」を入れました。
一つ一つ曲への思い出を書いたんですが、それにはペギーさんの事を書きました。
「魅せられて」 扇が広がるようなドレス、私自身でデザインしました。
エーゲ海を映したかったが、映像が間に合わなくて、後ろからライトを当てたらいいんじゃないかということで、結構いいじゃないかということで定番になってしまいました。
紅白でもっと大きいドレスにしようと言うことで、手に持って広げて「おーっ」と皆が言って好評でした。
それから大きな衣装が登場するようになりました。
自分の洋服はほとんど自分でデザインしています。(今はチームがしっかりしていますので、スクリーニングに行きます。)
ステージでの衣装は全く自分の手書きのデザインです。
余り横とか後ろは気を使わない事があると思いますが、ペギーさんの後姿の綺麗な事、いつも思っていました。

私は3月21日に「微笑をありがとう」というCDを出しました。
微笑むと言うことは愛に充ち溢れているから微笑む、幸せな気分になる。
版画家としてもやっていて、8月に版画展を名古屋で行います。(版画とスケッチ)
5月に介助犬フェスタがあり3000頭位来て、Tシャツを売って介助犬のサポートにしましょうということで、絵を描いて多くの方に介助犬の事を知っていただきたいと思います。
人生今日が一番若い日、だからこの一瞬一瞬を大事に楽しくということがあります。
絵を描いている時は身体の中が気がバーっと回ってじっとして坐っているという感じではないです、頭がぐるぐる回っています。
台湾は生みの親で日本は育ての親です、どちらも大切です。
生涯現役、身体の細胞を活性化させながら生涯現役を生きたいなあと思います。













2018年4月19日木曜日

假屋崎省吾(華道家)          ・美をつくる 夢の力(2)

假屋崎省吾(華道家)          ・美をつくる 夢の力(2)
自分は決して有名になりたいとは思わなかった。
子供のころは引っ込み思案だった。
作った家はエネルギーをチャージする場所だと思っています。
父親が鹿児島出身で次男坊で、東京の大学の建築科を卒業して、中央区役所で働いていました。
母は長野県の上田で代々質屋をやっていた家で次女として生まれて、銀座のOLになって、父と出会って結婚しました。
都営住宅に住んでいました。
庭が広くて、二人とも園芸が大好きで、日曜園芸をやっていました。
父はゆくゆくは鹿児島に帰るつもりでいた様です。
父は都市計画を担当していて付け届けがあったが、硬物ですべて断っていました。
預金をする訳ではなかったので食べ物、エンゲル係数は高かったです。
「趣味の園芸」、「婦人百科」の番組がありテキストを買って勉強していましたが、月に一回生け花があり、今までは花を作ることが専門だったが、生け花と出会ってやってみたいと言うことを強く思うようになって生け花の教室に通うようになりました。(大学2年)

子供のころからスポーツは苦手で、教室で答えを発表することも苦手だった。
薔薇の花が咲いた時に、母を呼んだらその花を切ってしまって、「学校に持って行きなさい」と言われて、教壇の上に一輪ざしで活けてくれて、「綺麗だね」とあちこちから聞こえました。(小学校1年生)
母は家族で花を楽しむのもいいけど、学校の皆が花の美しさを感じてくれることが素敵なことだと教えてくれたんだと思いました。
これが原点になりました。
生け花の教室に通う様になったら本当に面白くて、その後師範になりました。
銀座、神田とかの画廊で展覧会をやっていて時間を作って通うようになりました。
就職したが比較的早く辞めてアルバイトをしていたが、個展をしたいと思うようになってはみたものの、画廊は借りれない。
母に個展をやりたいとポロっといったら、母が100万円出して「これを使いなさい」と渡してくれました。(父はすでに他界していた)
それで個展をやることができました。

父と母のお陰で生け花に巡り会えたし、父と母と云えば園芸、土いじり、土を素材にしてなんかやってみたいと思って、色々アイディアが膨らんで土の作品を作るようになりました。
現代美術の批評家が面白いと注目してくれて、企画展がありお金も出していただいて、色んな人に見ていただき、そのうちに花を教えてほしいということに繋がりました。
空間が自分は好きだったので空間構成を色々手がけて、世界が広がって行きました。
その後自分のスタジオを持つようになりました。
ユニークさが評価されたと思います。
母も他界してしまい、借金をして家を建てました。
私も母も美輪さんが大好きでした。
小劇場で月一回の美輪明宏さんのコンサートがあり、壁に寄りかかって始まるのを待っていた時に「これからは美輪さんのお世話になるんだよ」と云う母の声が聞こえたんです。
それからは足しげく通う様になり、交流が始まりました。
人生色んなことがあるが乗り越えて行くしかないですね。

母は明るくて自分のことよりも人の事を思うような人でした。
私は本当はピアニストになりたかったが、コンサートなどはよく行きました。
園芸、料理、ピアノなど父や母から育ててもらったものだと思って感謝です。
物心ついたころから一般的な男の子とは違っていましたが、虐められるということはなかったです。
虐められるようになったのはお花をやるようになってからです。
新しい事を発表しても真似されるんです。
嫉妬心、ねたみなどほっぽらかしておくしかないと美輪さんから教えられました。
見ざる、言わざる、聞かざる、それに関わらざる、これが秘訣といわれましたがつくづくそう思います。
着物は日本の伝統文化なのでもっと気楽に楽しんでもらえた方がいいと思います。
父母は他界しても存在しているような気持です。












2018年4月18日水曜日

假屋崎省吾(華道家)          ・美をつくる 夢の力(1)

假屋崎省吾(華道家)          ・美をつくる 夢の力(1)
子供のころから両親の影響でNHKの「趣味の園芸」を観て、庭で植物を育てるのが得意だったという假屋崎さん、大学生の時に生け花と出会い、空間を大胆に使う斬新な作風で注目されるようになります。
今では生け花に留まらず、TVでのタレント活動や、着物のデザインなど幅広く活躍する假屋崎さんの話を伺います。
35年の華道家生活を振り返ります。

TVに出るようになって時間的に難しくなって髪の毛を切る時間が無くなり長くなってしまって、黒だと重たいので金髪にしました。
服装も花柄など選んで着るようになりました。
TVなどに出る時も自前でやっています。
華道歴35年になりました。(59歳)
一日一日が早すぎて、あっという間に過ぎました。
展示会などで作り上げてしまうと、もうそれは過去のものとなってしまいます。
振り返るとああすればよかったこうすればよかったということが一杯あり、嫌悪感があったりするので振り返らないようにしています。
小さい頃は人見知りする性格でした。
今ではサービス精神が旺盛でついお客様の立場にたって思ってしまいます。

26時間位製作にあたって、スタッフも入れ替わりしましたが、展覧会の会場で行ったこともあります。
枝ものはありとあらゆる花木があり、3m位なものもあり、枝ぶりを観てその場でどこにしようか、配置を決めます。
いろんな角度、広がり、色のコントラスト、香り、など迫力あるものが楽しめると思います。
自然の色を謳歌してもらうようにしたことと、枝に色を塗ることによって再生するとか、具体的には竹を割って内側に何色も塗って構成した作品もありました。
自然の色の良さと人工的な色彩との対比、そういった形で構成しました。
土を使った作品、「舟」という作品も作りましたが、人気がありました。
園芸店で買った黒い土を300袋使用して半分水を使って練って作りましたが、段々乾燥してくるとひびが出来てしまいます。
最終日近くには芽が出てきて、植物は土から色んなものが成長する、輪廻転生みたいなものを感じました。
タイトルとか説明とかを余りしたくは無い方です。
観る人がなんでも感じてほしいと思います。

生け花は活ける空間がとても大事で、花材、器、活ける人、この4つの出会いで生け花は成立するが、活ける空間を一番大切にしています。
小さいころから好きだったのが古い建物でした。
神社仏閣、歴史的な建築物に花を活ける展覧会を数多くしてきましたが、ライフワークと言えるのが城で活けると言うことをやってきました。
松山城で活けさせてもらったことがありますし、名古屋城本丸御殿で絢爛豪華な空間の中で、お花を活けさせて貰ったのも思い出深いものです。
古い建物(目黒雅叙園の保存建築「百段階段」)の開かずの間がありそこでもやらせていただいたこともあり、一番多い時で7,8万人来て下さった年もあり、毎年恒例の行事になりました。
長い階段があり両脇に部屋があり一つ一つの部屋に作品があります。
朝から晩まで3日間かけて搬入して作品化して、全エネルギーを注ぎ込みました。
花と建物が融合するように個性的に毎年テーマを決めてやってきました。

生け花は日本独自の文化です。
エネルギー源だし、四季を感じさせるし、癒してくれるし、これからも身近に感じていただければと思っています。
日本の建物に花を活けると本当にしっくりします。
色は自然界が生みだしたもので、生きていると言ったものをいとおしむとか、大切にするとかそういったものを日本人は忘れてはいけないことで、そういうものも感じさせてもらえる。
つぼみが段々と咲いて花が開いて、散って行くさま、刻一刻美しいという思いをさせてくれます。
花は自然の中で一旦完成形として出来ているものだから、それを活けると云うことについては襟を正すような思いで向き合っています。
一旦自然界が完成させた美を、自分の手によって新しいものに創造させるということが自分の生け花だと思っています。
父が59歳で他界して10年たって69歳で母がこの世を去ったので、一日でも長生きしていろいろ経験して感動してもらえるように取り組んでいますが。

TV、教室、デザインなどよくこんなにやらせていただけているかなと思います。
糖尿病なので主に自分で作って食べています。
海外旅行が大好きで1~2カ月に一回行っています。(自分が好きなことができる時間、美の探索)
やりたいことはいっぱいあり、花は若い方に教えたり、活けたことのない空間があるのでチャレンジしたい、作風ももっと違うものを生み出せるように挑戦したい。









2018年4月17日火曜日

田辺鶴瑛(講談師)            ・泣き笑い介護40年

田辺鶴瑛(講談師)            ・泣き笑い介護40年
昭和30年函館市生まれ、若いころから3回親の介護、(義理の親を含め)初めての介護は大学入試を目指している時期に母親の付き添いの看護をし、母を見送った後、その後、陶芸家、女優など様々な道を目指します。
その後夫と出会って26歳で結婚、子育て、夫の母親の介護を次に経験、その母を見送ってその後出会ったのが講談で、33歳で講談師田辺一鶴に弟子入りします。
3度目の介護は夫の父親の介護でした。
認知症と寝たきりの父親の自宅の介護、ストレスがたまって家族が崩壊するのではないかという危機を迎えたそうですが、介護の仕方に工夫を凝らして危機を乗り越えたそうです。
その自分の介護の経験が介護で悩んでいる人に役に立てばということで、思い付いたのが現在田辺さんが行っている介護講談です。

今は女性の講談師が増えていて1/3が女性になりました。
やる気のある優秀な女性が多いです。
母親がうっとうしくて逃れたくて東京の大学を受験しましたが、いずれも落ちてしまって予備校に通っていたころに、母に脳腫瘍があるのではないかということで、記憶をつかさどる所に障害が出て、認知症に近い症状でした。
母は美人でおしゃれだったが、病気になって母に対してつっけんどんでした。
手術したところ、脳動脈瘤で近いうちにその手術をしようということだったが、その夜脳圧が上がって痙攣を起こして、緊急手術になりました。
脳が痙攣を起こしてしまって脳がぐしゃぐしゃになり意識の回復がありません、と云われました。
医学が進歩して何年でも生きられると言われました。
母に暴言を吐いたことが罰があたったんだと思って一生懸命看病しようと思いました。
半年、1年と続くうちに孝行はどこかにふっ飛んでしまって、自分だけどうしてこんな目に会うんだろうと思いました。
母の介護が地獄のようで、いやいや介護をしていました。

母は4年ほどで亡くなりました。
好きなことができる自由になり、絵描きだとか女優になりたいと思っていました。
本屋で「マンハッタン自殺未遂常習犯」草野弥生さんという本に目が留まりました。
難解な文章で、この人に逢いたいと思いました。
電話をして会いに行きました。
函館弁で喋って見てといわれてかっこ悪くて話せなくて、荒井由美さんの歌を歌ったりしたら喜んでいました。
草間さんの助手になって、草間さんからあなたの人生を全てを私にかけてと言われて、わたしは自分の花を咲かせたいと思って辞めました。
当時夫は川崎の看護師さんに絵を教えていました。
独身主義ですといわれたが、私は惚れっぽい性格で、プロポーズ大作戦を開始しました。
夫は親友から紹介されましたが、函館の実家の片づけがあり3人で一緒に1週間ほど過ごす機会がありましたが、その時に「1週間もいると情が移るもんだよね」と言ったので、「じゃあいっしょに住みましょう」と言ってしまいました。

夫から言われたのは、おふくろは広島で原爆に遭って腎不全になっていて沢山薬を飲んでいるから、おそらく老後は介護ということになると思うがどうかと言われて、わたしも介護をしますと言いました。
しかし、若い時だったので余り深くは考えていませんでした。
自分はいい人になりたいとの思いがあるので、いい人になりたいと言う介護ということで見返りを期待する。
そうするお腹の中は地獄になる訳です。
間違いは相手に対して病気を治そうとした。
甘いものが好きだったが玄米を食べさせ様とするが、食べたくないということで思い通りにいかない。
ストレスがたまって悶々としました。
或る時ヒステリーの大発作を起こしました。
夫に頭からソースをかけましたが、それを見て大反省しました。
かっこ悪くて仮病を使って寝て夫が介護してくれて、翌朝夫が「所詮他人だものなあ 出来るだけの事をこっちもやるし、おやじにもやらせる」と言いました。
夫の弟も独身で同居していたし、介護もあるし、ストレスがたまりました。
老夫婦は夫が出張で飛び回ったり女性問題等で口もきかない夫婦だったが、あと3年ももたないかもしれない、親爺も罪滅ぼししたらどうかと夫が告げて、それから病院の送り迎え、背中のマッサージを毎晩やりました。
「いまさら何よ」といっていたが、3年後おばあちゃんが亡くなる時は「ありがとう」と言って感謝していました。

表現することをしたかったが、介護をやって来て我慢してやってきて、或る時何か自分の情熱を表現したいと思っていたところ、夢に田辺一鶴がでてきて新聞に道場を開くという記事が出てきて早速行きました。
家でやってみたらストレス発散しました。
私が家でやっていたら子供が直ぐ覚えてしまって、これは凄いということでちびっこ講談師としてデビューしました。
講談師として夫にも了解して貰いましたが、33歳の時でした。
前座から二つ目になり仕事が無くなり、池袋で男の介護教室があり、北欧の介護のビデオを見せられて、プロのヘルパーが快適な環境で介護しているのを見てびっくりしました。
介護講談を依頼されました。
実話を思いだしながら、明るい話を作り上げました。

その後、おじいちゃんが高齢者お見合いの会に入って69回もお見合いしました。
愛人の家で10年ぐらいして、認知症が酷くなり、白内障にもなりました。
大嫌いなおじいちゃんだが、誠実な優しい夫がいるのもおじいちゃんがいたからこそと思って、何か恩返ししないと一生後悔すると思って、明るく楽しい介護をしようと在宅介護をしようと思いました。
脳梗塞をおこして、愛人もお手上げということで、私の大丈夫だという一念から周りも納得しました。
大きな声を出したりするので、外に漏れない工夫をしたり、目薬の購入なども工夫してわざと無いと嘘を言って大急ぎで買ってきたふりをしたりして、献身さをアピールしたりしました。
私の持っている常識とおじいちゃんが考えている世界は違う。
おじいちゃんの世界も間違っていないということに気が付き始めて、おじいちゃんの世界に会わせるようにしました。
おじいちゃんが「たすけてくれー」というと「助けに来たぞ、じじい」というと「おーたすかった」と言って、認知症の世界と私の個性とが凄く合ったんです。

おじいちゃんとの会話の方が面白くなりました。
本音を言うと言うことは大事です。
最初のころは重苦しく疲れてしまってやる気が無くなる様な状態でしたが、段々「ありがとう、お前は天使だよ」というようになり重苦しさが軽くなっていきました。
介護して3年ぐらいすると、あの世と行ったり来たりするような話をしたりしています。
介護で一番大事なのは相手の喜ぶ会話をすることだと思います。
その人の歴史、どの時代一番楽しかったのか、苦労したことなどそういうのを把握しているとその人の満足する話ができる、そうすると介護は楽です。
最初の妻は原爆で亡くなり、2度目の奥さんで夫が生まれ、結婚して娘が生まれたわけです。
誰か一人欠けても生まれてこない、本当に偶然の重なりだと思います。
介護が無かったらおじいちゃんにも興味をもたなかったし、生まれてきたことに感謝して嬉しい楽しい感動を、日々自分のことにして生きていったらぽっくり逝けるかもしれない。
それを決めるのは自分、創意工夫するのは自分です。











2018年4月16日月曜日

林家彦いち(落語家)           ・【にっぽんの音】

林家彦いち(落語家)           ・【にっぽんの音】
能楽師狂言方 大藏基誠(案内役)
1969年生まれ、鹿児島県出身、国士舘大学文学部地理学専攻中退後、1989年林家木久蔵師匠に入門、1993年に二つ目、2000年には自ら作った創作落語でNHK新人演芸大賞落語部門大賞受賞、2002年真打ち昇進、冒険落語家としても有名。

落語はお寺の和尚さんから始まっているので、講釈の方は辻講釈などがある。
エベレストの5200mの所で落語をやりましたが、酸素が少なくほとんど声になっていなかった。(プライベートで行く)
酸素が半分でした。
時そば」 扇子を箸に見立てて、蕎麦をすする音。
「蕎麦」と「うどん」は微妙に違う。
「とろろそば」は又違う。(古典落語には出てこない)
普通海外では食べる時に音を出すのは失礼にあたるが、海外公演では音が出ると喜ばれます。
戸を叩く音、これも擬音で行う。
植木を剪定している音、開いたり閉じたりして剪定の音を扇子で行う。
雨が「ワーッ」と降って来るというが、おもむきでこれは音であってほしい。
京都で川舟に乗って酒を飲むと時間が「ほろほろ」と過ぎて行く、この「ほろほろ」ってたまらなく好きですね。
「ほろほろ」は様子であって欲しい。
酒を注ぐ時に「どぶどぶ」「ちょろちょろ」とか、行ったりします。

音が話の伏線になっている場合がある。
蕎麦のすする音は他の師匠に教わったりしました。
酒を飲む音も、喉を鳴らしたりするが、飲む量によって色々変化させる。
二つ目になると話をアレンジしたりするが、間のびしたりする時があるので、メトロノームを使ってやったり練習することがあります。
伝えたいところをリズムを壊すと、伝わりやすい。

創作落語を発表するが、隔月でやるが作らないといけない。
年間5~6本作ります。
「パラレルワールド」の創作落語 翼がある世界。
三遊亭 圓丈師匠に影響を受けていました。
最初唐突無稽な話をしましたが受けなくて、リアルなものを作ろうとして電車の風景の話を作りました。
今までに200ぐらいの話を作ってきました。
落語のある話の中で、花魁が客を追い払う時に中に立った喜助が右往左往するが、語る人によっては花魁の味方になる様な話っぷりになることもある、私もそうですが。
人柄がいい先輩がいて人をだます落語でも全員皆いい人で、意地悪な師匠の話はいい人までもちょっと意地悪になるんです。(性格が出て来ます)
話は同じ話でも長くなったり、はしょったりします。
お客さんの乗りがあまりない時は、くすぐりは言わないですね。
一言でガラッと変わることもあり、友達になれたという雰囲気がします。
そういった雰囲気は場所によっても違います。
国立はちょっと品がありますね。
弟子には前座のころから作らせます、その方が自由度があります。

演目「遥かなるたぬきうどん」 マッターホルンにたぬきうどんを届けるが、アイガー北壁を昇っているところから始まる。
扇子を2本使っているが、ピッケルの様子を表している。(2本の扇子を使う落語はこれだけ)
最小のもので最大の表現をする。
高田渡さん(ミュージシャン)が息子に「見えるものは皆のもの、見えないものが僕たちのものだ」といったが、この言葉は大好きです。
一番は想像力ですね。
古典落語で好きなのはシリアスな話は好きです。
今後挑戦したいと思います。
落語は笑うものだと思っているので、笑わせてなんぼだと思っています。
笑って楽しんでくれればいいと思います。












2018年4月15日日曜日

ヨーコ・ゼッターランド(スポーツイコメンテーター)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言

ヨーコ・ゼッターランド(スポーツコメンテーター)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
元女子バレーボールのアメリカ代表選手ヨーコ・ゼッターランドさん。
父がアメリカ人、母が日本人でサンフランシスコで生まれる。
6歳の時に母親と一緒に日本に移住し、小学校から大学まで東京で暮らしますが、その後バレーボール女子アメリカ代表の入団テストを受けて合格。
バルセロナ、アトランタの2度のオリンピックにアメリカメンバーとして出場し、バルセロナの大会では銅メダルを獲得しました。
その後日本の実業団チームで活躍し現役引退後はスポーツコメンテーターとして活躍しています。

引退してから20年近くになります。
179cmほっそりしたスタイル。
バレーボール教室ほか東京オリンピックを控えて様々な競技の人たちとの交流もあります。
1992年のバルセロナ大会
女子は8チームが出場、EUN(旧ソ連連合)、キューバ、中国が3強との前評判だった。
日本はA組、初戦に相手がアメリカ、2-2となり最終セットを迎える。
控えのセッターとして私がいました。(アメリカナショナルチームに入って1年目)
9-11と日本が2点差に迫る。
日本は一挙5点連続ポイントを挙げて逆転14-11とマッチポイントなるが、14-13となり、日本が粘って15-13で勝利する。
最後のポイントは私が大林さんのバックアタックをはじいてしまいました。
23歳の時でした。
EUNに3-2、スペインにも勝ってAリーグ2勝1敗となる。
日本は5位となる。
アメリカはキューバに敗れて、3位決定戦でブラジルに3-1と勝って銅メダル獲得となる。

1996年アトランタ大会
日本、アメリカともほとんど同メンバーだった。
今回も私は控えのセッターだった。
4年間正セッターを目指して練習してきたが駄目だった。
12カ国、6チームずつのリーグ戦の後の決勝ラウンドに向かう。
日本は1勝2敗、アメリカは2勝1敗で戦うことになった。
第1セット日本は9-0でスタートするが、監督から行けとの指示がありました。
なんで今なのかと思ったが覚悟を決めて行きました。
アメリカのスパイクが決まるようになり11-11になり、その後4連続ポイントでアメリカが第1セットを取る。
その流れでその後2,3セットを取り、3-0でアメリカが勝つ。
日本は決勝トーナメントには行けなかった。
決勝はキューバが中国を破って2連覇を果たすが、アメリカは決勝トーナメントで7位となる。
自分自身では貢献できたのはアトランタの方が貢献できたと思った。

1996年秋に日本の東芝シーガルスに、翌年ダイエー・オレンジアタッカーズとプロ契約をして活躍することになる。
前年6位だったのが、見違えるようなチームに変わった。
予選ラウンドは1位ダイエー、2位NEC、3位イトーヨーカ堂、4位ユニチカ。
4チームによる決勝ラウンド、1位ダイエー、2位NECの一騎打ちとなる。
ダイエーはバレー部の休部が決定していたので最後の戦いであった。
第1セット15-11、第2セット15-10でダイエーが取るが、第3セット 8-7とNECがリードその後15-11となり 3-0で優勝する。
旗を振りながらウイニングランをしました。
その後チームが存続する事になる。
全日本選手権でも優勝するが、1999年の全日本選手権でも優勝して2連覇を達成する。
この試合で退団ということになる。
外国人選手枠で来ていたので、女子の外国人選手枠の撤廃のルールがあり、引っ掛かってしまった。
残念でした。
引退の時に2連覇で優勝できて本当に嬉しかったです。(30歳)

日本名は堀江陽子、父はアメリカ人、母が堀江方子、女子バレーボールの日本代表選手。
1969年サンフランシスコに生まれ、6歳で東京に来る。
文京区立第十中学校に入学、1983年全日本中学選手権で優勝、中村高校に入学、全東京メンバーとしては、国体優勝、中村高校では春高バレー・インターハイで3位入賞を果たす。
早稲田大学人間科学部スポーツ科学科へ入学、当時関東大学リーグ6部最下位にあったチームを2部優勝まで導く。

1991年2月に単身渡米し、アメリカナショナルチームのトライアウトを受験し合格。
引退後はスポーツコメンテーターとして、テレビ、ラジオ、雑誌をはじめ、講演、解説、バレー教室、エッセー執筆などで活動。

オリンピックに行けるチャンスだと思ってアメリカの代表の入団テストを受けました。
3番手のセッターを探しているということで頑張れば一番手になれると思って行きました。
アメリカの選考は公募すると言うことで日本とは違います。
体力トレーニング、インタビューを受ける時のメディアトレーニングなどもあります。
アメリカでは幅広いトレーニングがあり、練習内容はボールを持つ時間が日本の場合は多かったと思います。
他の球技に繋がるという共通点、球技に対する臨む姿勢、抱える悩みなどは他の競技でも共通する問題はあると思います。
単純には比較できないが、暴力、ハラスメントが一つの手段になってしまうのは、よろしくないことだと思います。
子供達を指導する機会が多いのでどういうふうにしていったら、どう可能性が少しでも伸びてくれるかどうか、指導の仕方普及の仕方ができればいいと思います。










2018年4月13日金曜日

上村淳之(日本画家)           ・自然の意思を描く

上村淳之(日本画家)           ・自然の意思を描く
祖母が国の文化功労者に認定され、女性初の文化勲章をうけた美人画の上村松園、父は花鳥画家でやはり、文化勲章をうけた上村松篁と云う日本画壇屈指の名門に生まれました。
淳之さんも先年文化功労者となり、祖母、父の仕事を更に深く豊かに追求する日々を過ごしていらっしゃいます。
淳之さんは花鳥画でも鳥の世界に魅かれ、奈良市の小高い丘で多くの鳥に囲まれて暮らしています。
鳥と共に生きているという一体感を大切にし、自分を鳥の化身と思えるほどに凝視してこそ日本独自の花鳥画の世界が描けると言う上村さんのお話を伺いました。

花鳥画をやろうと言うことで、オキナグサと言う野草が一本もなかったが、種が散ってようやく増えて他の野草と一緒に育ってきた場所が出来て、ようやく頃あいになる。
そうならないと絵の対象にはならない。
梅の課題で学生に描いてもらうが、枝を切って室内で書いたものは判る。
リアリティーのある写生にはならない、余白が生きてきていない。
デッサンは再現を目的とするものではないと言うことで、デッサンが出来ているということは自分の胸中にどれだけの世界がしっかり展開したかどうかによって、デッサンができたか出来ていないか、と云う意味に理解しました。
日本画と洋画の根本的な違いです。
感性の違い、自然に対する人間と自然とのかかわりあい方の違いによって、西洋画には花鳥画が生まれたことは絶対ないです。
日本に伝えられたのは中国の作品、文化が奈良時代に到来して日本で育まれました。
中国では文化大革命などでガラッと体質を変えて、花鳥画が日本にしか残っていない。

西洋の影響を受けた人にはもう余白の意味が判らない。
余白にはそのものが存在している世界を表す空間であって、花画であれば当然花の香りがしているし、春の空気が流れている、そういう空間でなくてはいけない。
当時3回生になると人体になるが、女の人が裸になって立っていることに物凄く気分が悪かった。
書く気がしなかったが、物凄く怒られました。
裸体は描いていません。
日本画でヌードの絵が出てくるのは戦後ですね。
西洋の方がリアリティーがある中で、リアリティーの有る花鳥画が無いか探し歩いていて、ヨーロッパの美術館を巡って帰ってきました。
判ったのは西洋には花鳥画は無いということでした。
鳥の絵はいっぱいあるがそれはイラストでした。

小さい頃京都に父が家にいて、父が小鳥の小屋を幾つも作っていましたが、鳥小屋に入って水の流れを作ったりして遊びました。
動物園の飼育員になりたいと思っていました、それほど鳥が好きでした。
第二次世界大戦がはじまり、空襲があり疎開させて生活が始まります。
親が猛反対でしたが芸大に進みました。(絵描きは生活が不安定なので)
今までも相当デッサンしたつもりでもまだまだなのでここから離れられません。
交尾期に入って、鳥が雄と雌の間柄が良くないと雌が突っつき殺される、雄が発情を促すために雌の頭を突っつくんですが、雌が発情期が来て居ないと殺すほど追いかけるんです。
動物園との交換が始まって家の種類が増えて行きました。
鳥は1500~1600羽、種類は280種類位います。
生きているもの(魚など)を食べる鳥に人口の餌を食べさせるのが大変で試行錯誤を重ねながらやってきました。
シギ・チドリは日本で一番最初に飼いました。(ドックフードを食べました)

鳥を描くことはひょっとすると自分を描いているのかもしれない、デッサンが出来たという実感が持てた時は自分の化身と思えれば非常にリアリティーのあるデッサンができます。
ヨーロッパなどの一神教と日本の多神教の違いで、ヨーロッパなどでいかに一生懸命に克明なデッサンをやっても鳥は鳥で、日本人がやると人間のような鳥になっていると私は思います。
モデルにいかにこちらがいたすかによって、リアリティーのある空間になるかどうかです。
デッサンを重ねていると段々よく見えてくる。
そうするとこれで絵になるなあと思うんです、しかも日を置いて(熟成)本紙にかかりなさいと私は教わりました。
若い頃は判らなかったが段々判って来るようになりました。
自分の化身で有るかのごとき思いの中で、自分が思いを鳥に託して描こうと言うのが花鳥画なので、雀なら雀になって一緒に遊んでいるという思いの絵になって初めてリアリティーのある空間が展開すると言っても間違いではないと思います。
その点がヨーロッパと違うというところだと思います。

よほど馴染んで来ないと駄目、よっぽど対象のものに惚れこまないと駄目。
向き合う中で感情移入されて美しい存在になる。
だから日常的に鳥と向き合っていないと駄目です。
鳥を見ていると全部が不思議です。
巣作りの雄雌の役割分担が決まっている、巣作りは全部雄がやり卵を産んだら雌が抱卵に入り、その後雛になると雄雌で餌を運ぶ、糞を袋にしてくわえて持ち出す。
そうしないと臭いを嗅ぎ付けて蛇がやって来るから。
巣が気にいらないと巣を雌が壊してしまう。(極楽鳥など)

一番残念なのは不忍池の鴨を見るのが大好きで見るが、今は池に鴨が来て居ない。
池が汚れるから追い出したということです。
新種を探しに行ったりとかあるが、まずは目先のものから大事にしてやれよと言いたいです。
日本画も洋式におもねるようなものが出てきたが、もう一遍原点に返って花鳥画を極めていきたいと思っています。