2017年6月26日月曜日

6/27,28日は休みます。

6/27,28日は小旅行の為、休みます。
後日追って投稿しようと思います。 秋田 宏

頭木弘樹(文学紹介者)      ・【絶望名言】芥川龍之介

頭木弘樹(文学紹介者)  ・【絶望名言】芥川龍之介
「どうせ生きているからには、苦しい事は当たり前だと思え。」(「仙人」芥川龍之介
没後90週年を迎える芥川龍之介。
太宰治は芥川龍之介を大変尊敬していた。
短編小説「仙人」は23歳、翌年「鼻」を書いて夏目漱石に認められる。
「どうせ生きているからには、苦しい事は当たり前だと思え。」
は短編の中で貧しい男が鼠に向かって言っている言葉。(自分に言い聞かせる言葉)

芥川は生まれて8カ月後に母親は精神病院にはいってしまって、母親の実家に預けられて、叔母に育てられる。
芥川が10歳のときに母親が亡くなり、12歳の時から伯父の養子になって、芥川の姓を名のる。
「仙人」を書く前の親友への手紙のなか、「周囲は醜い、自己も醜い、そしてそれを目の当たりに見て生きて居るのは苦しい。」と書いている。
芥川、太宰ともに繊細で敏感な人だった。
私が病気になった時には生きるだけで大変でした。
よくよく考えるとみんなだれでも生きるのは苦しい。
文学を読むと暗い心、辛い心をとことんまで描いているが、普通に生活していると会話でそこまで心の内を見せることはない。
苦しい時に読むと自分だけではないと言う思いになるし、共感もできるので非常に救いでした。

「人生を幸福にするためには日常の些事を愛さなければならぬ。
雲の光、竹のそよぎ、村雀の声、こうじん(幸甚?)の顔、あらゆる日常の些事のうちに無情の甘露味を感じなければならぬ。
人生を幸福にするためには、しかし些事を愛する者は些事のために苦しまなければならぬ。
人生を幸福にするためには、日常の些事に苦しまなければならぬ。
雲の光、竹のそよぎ、村雀の声、こうじん(幸甚?)の顔、あらゆる日常の些事の中に、堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。」
前半はささやかな細部を大切にして、美しさ素晴らしさに気付きていくことが人を幸福にして言うと云うことを言っている。
後半、道端の花の美しさに気付く人はその花が枯れて行く悲しさにも気付いてしまう。
蝶がひらひら飛ぶ事が美しいと感じられる人は虫の死骸が落ちている無残さにも気付いてしまう。
些細なことで幸せを感じる人は、些細なことで辛さも感じてしまうと、芥川は後半で言っている。(鋭い指摘だと思う)
「敏感」はいい面と苦しい面がある。
一番避けたいのは小さな幸せは感じないが、小さな苦しみだけは感じる人もいる、それだけは避けたい。

「万人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖である。
道徳的に自殺の不評判であるのは、かならずしも偶然ではないかもしれない。
あらゆる神の属性中最も神のために同情するのは、神には自殺のできないことである。」
死が恐怖でありながら一種の救いとしても扱われている。
病気をした後は、いかに生きるか、ほうっておくと死んでしまうので病気によって首を絞められている感じがしました。
死んでしまいたいと思うようなことは、心のことだけではなく、痛いと云うこともそうで、手術のときに麻酔ミスが合って非常に痛かった。
一晩中苦しんで、これだったら窓から飛び降りると言ったら、ようやく薬を変えてもらえたが、飛び降りたくなるほどの痛みはあるということは判るので身体にしろ、心にしろいくら生きたいと思っている人間でも、耐えがたいほど死にたくなると云うことは判りります。

「人生は地獄よりも地獄的である。
地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。
例えば、餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。
しかし、人生の与える苦しみは、不幸にもそれほど単純ではない。
目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に存外楽々と食いうることもあるのである。
のみならず楽々と食い得た後さえ腸カタルの起こることもあると同時に、又存外楽々と消化し得ることもあるのである。
こういう無法則の世界にに順応するのはなにびとにも容易にできるものではない。
もし、地獄に落ちたとすれば私は必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯もかすめ得るであろう。
いわんや針の山や血の池などは2~3年そこに住み慣れさえすれば、格別跋渉の苦しみを感じないようになってしまうはずである。」

現世はいい事が起きるのか悪いことが起きるのかが判らない、その方が悪いことが続く方よりはましだと思うが。
芥川はそうは思わず、悪いことが起きるとわかっている方がましで、先行きが判らないと言う方が地獄よりも地獄的だと言っている。
自分が自殺する理由について、僕の場合はただぼんやりした不安である、何か僕の将来に対するただぼんやりした不安である、と友達への遺書に書いてある。
漠然とした不安が非常につらいと言っている。
あいまいさになかなか人間は耐えられない。

「災害の大きかっただけに今度の大地震は我々作家にもおおきな動揺を与えた。
我々は激しい愛や憎しみや哀れみや不安を経験した。」
大地震は関東大震災のことで31歳のときに田端に住んでした。
芥川は真っ先に逃げるが、奥さんは子供を2階から連れ出した。
奥さんは怒ったが、芥川は人間最後になると自分のことしか考えないものだと云ったとのこと。(翌日熱を出して寝てしまう)
こういう弱さを持っているからこそ文学者には必要なのではないかと思います、そうでないと人間の本当の弱さ駄目さを描けないと思う。

「自然はこういう僕には何時もよりもいっそう美しい。
君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑うであろう。
けれども自然の美しいのは僕の末後の眼に映るからである。
僕は他人よりも見、愛し、かつまた理解した。
それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。」(友人にあてた遺書の一説)
私は病院生活で自然の美しさを実感したが、なかなか本当に自然は美しいのだということに気付けない、死にかけるような極限状態だから初めて自然の美しさに気付ける。

「僕の今住んでいるのは氷のように澄み切った病的な神経の世界である。」
研ぎ澄まされた、張りつめた神経、それでもって世の中をとことん突き詰めた作家だと思う。
芥川は自殺するところまで、鋭い神経で世の中をとことん突き詰めて行って、書き残してくれた。
読んでおくと自分が淵まで行ってしまったときに、非常に役立って、自殺まで行かず助けになるかもしれない。













































2017年6月25日日曜日

森田淳悟(日本体育大学特任教授)・【スポーツ名場面の裏側で】ミュンヘンの逆転金メダル

森田淳悟(日本体育大学特任教授)・【スポーツ名場面の裏側で】ミュンヘンの逆転金メダル
森田さんは現在69歳、北海道生まれ、東京日大鶴ケ丘高校でバレーを始めました。
日本体育大学、日本鋼管時代は194cmの長身で全日本のセンタープレーヤーとして活躍して、日本男子バレー全盛期の中心のメンバーでした。
メキシコオリンピックで銀、ミュンヘンオリンピック準決勝のブルガリア戦、決勝の東ドイツ戦でいずれも奇跡の逆転勝ちで金メダルを獲得しました。
現役引退後は、森田さんが考案した一人時間差攻撃が世界で認められ、バレーボール国際殿堂入りをはたされました。
日本バレーボール協会の協会委員長も務められ、現在は母校日体大特任教授です。

車はドイツでナンバープレートは8、金メダルを取った時の背番号8です。
1972年ミュンヘンオリンピック大会
12カ国が出場、A,Bに分かれて日本はBで5戦して一つもセットを落とさずに、トップ。
決勝ラウンド、A組はソビエト(優勝候補)、ブルガリア B組は日本と東ドイツ。
ブルガリアと対戦 最初2セット連取される。
(その前に日本に来て3-0、3-0で勝ったが、その時に日本の研究をしてクイック、時間差をマークされた)
松平監督が指示を出すが、「後2時間コートに立っていろ、そうすれば勝てるから」と普通に話すように語っただけでした。
(2年前にブルガリアと世界選手権で戦って、逆に日本が2セットとってそのあと逆転されて、銅メダルだったが、その時の事も言われた)

第3セットも4-7とリードされる。
松平監督がメンバーを変えて中村祐造(30歳)、南将之(31歳)ベテランを使う。
第3セットは15-9、第4セットは15-9を取り、最終セット3-9とリードされる。
ブロックをしてその後ブルガリアのバレーが変わった。(勝ちたいと云う意識)
5-9になり、5連続ポイントなどもあり12-11に逆転、14-12 マッチポイント。
私がサーバーで、来たボールを左手一本で受けたボールが嶋岡健治の所に飛んで行って、彼が後ろにジャンプしながらアタックした。
大逆転で破る。
決勝の相手はオリンプック2連覇を狙っていたソビエトを破った東ドイツ。
第1セットを11-15で落とす。
松平監督は試合前「昨日お前たちは一度死んだんだ、もうこれ以上悪いことはないから今日は思い切って行こう」と話した。
その後日本は第2、3、4セットを連続してとって、セットカウント3-2で金メダルを取る。

45年前のことですが、鮮明に覚えています。
それまでには8年計画があり、松平さんの妥協しない厳しい練習をしました。
徹底したレシーブ練習でした。
松平監督がいたから金メダルを取れたと思っています。
選手を上手くする、チームを強くするのは、①良い指導者、②良い練習をする環境、③一緒に目標を同じにする仲間、この3つだと思います。
松平さんからは、選手から良い監督と言われるようでは駄目だ、選手から徹底的に嫌われるほどの監督になってみろと言われました。
南さんはレシーブが苦手だったが先輩に対して、コーチに言われて思いっきり大古誠司らとともにアタックして練習したりしました。

北海道北見市でお姉さん4人、お兄さん一人の末っ子として生まれる。
中学は東京の狛江市で野球、陸上を、バレーと出会ったのは日大鶴ケ丘高校に入ってからです。
中学の時はハイジャンプだったので、つい身体をひねってしまい最初のスパイクは空振りでした。
2年の夏、東京都の選抜チームの合宿に選ばれ、日本の高校選抜にも選ばれる。
高校卒業直前、全日本合宿にいくように言われ、松平監督と出会う。
日体大に行くことになり、1年からレギュラーで使われて、バレーを始めて3年目で全日本12人のメンバーに選ばれて、1966年世界選手権に出場。
まだまだバレーの右も左もわからないような状況でした。
得意技、ドライブサーブ、一人時間差攻撃。
1967年ポーランドで大会があり、ドライブサーブの練習があり打っていたら松平監督から試合で使ってみるように言われました。
サインに従ってドライブサーブを打ったら、相手ははじいてしまって、それからドライブサーブをするようになりました。

ロシアでは一人時間差のことを「モリタ」と言っているようです。
メキシコオリンピックが終わって、松平さんがミュンヘンに向かってどんなことでもいいから技を開発しろと言って、ブロックを分散する方法はないかを考えた。
或る時にクイックの時にセッターが間違えて私の真上に1mぐらいの時間差のトスを上げてしまって、落ちてくるのを待って打ったらブロックがなかった。
ジャンプするふりをすることによって相手もジャンプさせておいて、もう一回ジャンプして打つ、それを改良していって、一人で時間差をつけて打つやり方を5種類ぐらい作り上げました。
一人時間差攻撃が世界で認められ、バレーボール国際殿堂入りをはたす事が出来ました。
33歳で現役引退、監督として日体大で大学日本一に4回なる。

バレーから得たもの「プライド」
メキシコオリンピックの前にプラハにいて、プラハの春(チェコにワルシャワ軍が侵入)があり、明けに4時ぐらいのドアを叩かれた。
オーストリアへの南の国境でチェコの国旗が立っていれば安全にスルー出来ると言う事で
、乗合バスに乗ったがチェコの選手も一緒に乗ってきて、日本の選手たちは僕らのお客さんだから、お客さんが安全な場所に行ける所まで見届ける義務がる、と云うんです。
ナショナルチームの選手は国旗を背負って、バレーボールが強くてそれだけやっていればいいんじゃないんだなあと強く思いました。
色んなことに配慮することがないと、一流のメンバーではないんだなあと思いました。

バレーから得たもの「我慢」
当時はサーブ権がないと得点にならなかったので、とにかく我慢が必要だった、松平さんから我慢しろということは強く言われました。(人生に通じる言葉です)

ここのところ日本はオリンピックへの出場が出来て居ない。
2020年は開催地で出ることはできるが、メダルを狙えるような力を付けてもらいたいと思っていますが、もう間に合わないかもしれないが。
やはりスターを作らないといけないと思います。
























2017年6月23日金曜日

島袋淑子(ひめゆり平和祈念資料館館長)・“生かされた命”で語り継ぐ

島袋淑子(ひめゆり平和祈念資料館館長)・“生かされた命”で語り継ぐ
島袋さんは17歳のとき、ひめゆり学徒隊員に動員されました。
アメリカ軍の上陸で激しい戦闘となった時、悲惨な光景に出会い戦争のひどさ、虚しさを感じたと言います。
島袋さん達元ひめゆり学徒隊員は28年前ひめゆり平和祈念資料館を立ち上げて平和の大切さを訴え続けて居ます。

現在89歳、車も運転しています。
私たちは語り部とは言わないで、証言員と言っていて体験したことをそのまま伝える。
1989年、資料館が出来る。(61歳の時)
その前は自分たちの体験を二度とこのような戦争があってはだめだと云うことで、北海道から鹿児島まで行って、学校、一般の方に話をしたりしていました。
70歳過ぎてからは無理をしないようにと言うことで、資料館に来て下さった方に話をしています。
55歳のときに先生を退職して、それから資料館を建てるために頑張りました。
亡くなった友達の何かが見つかるかと、何でもいいからと思って、各壕に入って櫛、下敷き(名前が書いてある。)とか持っていったものが見つかり、みんな泣きながら集めました。
資料館を作るときに、それを綺麗にして展示しようとしました。

学徒隊として行った、先輩、同級生とかが学校に勤めて居ましたが、一斉に55歳で依願退職しました。
亡くなった友達、先生方の事をみんなに知らせようと、相談して、資料館を建てようと云うことになり、そのことに必死になって頑張りました。
壕に何か一つでもあればと、探し集めました。
6つの壕には一般の人が入っていましたが、軍が追い出してそこに入ったと云うことを後で聞きました。
6月18日に1kmさきまで敵が来て、解散命令が出されました。
病院が解散だから、これからは自分の自由にということで、皆一緒に死んだ方がいいと云うことで、壕から出ないと云ったがそれを軍が許しませんでした。
19日の朝までにでていかなくてはいけなくなって、何時、何処で、どんなふうにして死んだのかさえもわからない状況でした。

主に那覇、糸満など南部にいる人たちが、相談して27人が証言員として活躍していたが、28年たった今は8人になってしまいました。
建てたらこれで終わりと思っていたが、開館日が6月23日で御遺族に会わす顔がないと言う思いがあり、御遺族に生きて居てすみませんと言ったら、御遺族があなた方が生きてい
たからこれが出来たんでしょう、何処で亡くなったか、どうして亡くなったのかあなた方がいたから判ったので有難う、と言われました。
私達も生きて居ていいんだと思うようになりました。
私たちも時々ここに来て話をしようと言うことになり当番を決めて、辛いけれども話すようにしました。
まずは自分の体験のことでした。(亡くなった友達のことなど)
沖縄戦のことを段々判っていただけるようになりました。
70歳になった時に後継者を集めるようになりました。

終戦後翌年1月、先生になるための文教学校が出来て、そこに行くことにしました。
私は重症を負って右手、右足が不自由だったので、体育は持たなくていいよと言われたが、戸惑うこともありましたが受け持ってやりました。
最初受け持った子供達はみんなそれぞれ家族を亡くしていて、戦争をよく知っていた子供たちでした。
資料館での話すことは、まずは自分の体験してきたことから始まって、段々友達、戦争の事などに広がっていきました。
後継者に対しては話をして聞かせて、正しく伝える様にしました。
後継者としては学芸員が3名、説明員が3名で6名の人がやっています。
28年前の立ち上げ時からの人たちは、私を含めて8人です。

学校によって事前に勉強してくるところと、そうでもないところがありますが、今は私たちはフォローをしっかりやっています。
10年ほど前、生きていく事に悩んだ内科の女医さんが資料館を訪れて、入ったら自分の悩みは何でもないことだと判って、よし生きようと言って、自分の思いを書き残して行きました、人助けにもなっていると思いました。
戦争は災害と違って人が起こすものなので、止めることが出来ると思います。
戦争のこと、広島、長崎の事をもっと深く理解して、戦争はだめですと、言ってほしいと思います。

































2017年6月22日木曜日

小林大祐(加賀の井酒造第18代蔵元)・糸魚川大規模火災から半年(2)

小林大祐(加賀の井酒造第18代蔵元)・糸魚川大規模火災から半年(2)酒蔵復興にかける
江戸時代創業で360年以上の歴史がある加賀の井酒造も一つの蔵を残して消失してしまいました。
蔵元の小林大祐さんは会社勤めをしていた弟久洋さんに酒蔵に戻って来るように永年説得を続けて兄弟二人で新たなスタートを切ろうとした矢先に火災が起きました。
火災の直後、酒蔵の再建を目指す事を表明した大祐さん、富山県の酒蔵の設備を借りて酒作りを行い、先月糸魚川市内の酒店などで販売を再開しました。
弟の久洋さんは酒作りを学ぼうと3か月間岩手県の酒蔵で修行をしました。
火災から半年が経った今、酒蔵の建設の計画が進み、この冬には元の場所で酒作りの再開することを目指しています。
大規模火災を乗り越え加賀の井酒造の復興にかける思いを伺いました。

火事があってみんな焼けてしまったんだなあと云うような感じです。
酒屋の機能を失ってしまって寂しい気持ちはありますが、街も大分無くなり街の一員としても寂しいと感じます。
前田家の参勤交代の本陣でもあった歴史のある街でした。
これから建物は新しくなりますが、建物で伝えられない部分を私たちがしっかり伝えて行くことによって歴史が伝わって行くと思うので、しっかり伝えていかないといけないと思っています。
火事の当日は、すこし煙が見えて火事かなあと思っていましたが、前のブロックに火が点いたら声を掛けてほしいと言って酒造りの方に戻りました。(忙しい時期だった)
前のブロックに火が点いたと云うことで信じられなかったが、確認したら火が点いていて避難の準備をしました。

火事の方向には高い建物があり火事の様子があまり見えなかった。
TV放送では大規模火災の報道があり、自分たちがいる場所からは炎が見える訳ではないので、不思議な感覚、身近で起きて居ることが体感できないままでした。
焼けた臭いがすごかったのは記憶にあります。
目の当たりに見て大変な事になってしまったと思いました。
弟と一緒にやっていこうとしているところに火事が起きてしまいましたが、ここで辞めるという選択肢は無かったです。
多くのお客様から応援していただいていたので、前を向いて進めていきたいという気持ちが一番強かったです。
火事が起きてしまい、今はもう一度酒蔵を建てて酒屋に戻ると云うのが今の目標です。
会社として回せていけるのかということに関しては非常に不安を感じています。
(1年市場から姿を消しているので)

今回全てのものを失っているので、同時に進めなければならないことが余りにも多いので、復興への取り組みを一緒にやってくださる方に、どうやったら進められるのか、くじけそうな気持ちに対して、意識を変えて向き合う様にしています。
兄が頑張って来て、戻ってきてほしいとの話があり、よほど大変なんだなと思って二人で力を合わせれば、もっといろいろなことが出来るのではないかと戻ってきました。
弟は家族もあって、12月は色んな意味で節目の年だったと思います。
こういうことになってしまったが、一緒にと言ってくれたので、私は頑張らなければいけないと思いましたし、有難いと思っています。
酒米の生産者さんにとっては売り先が無くなってしまうと云うことになってしまって、他の蔵元さんとの協力などで酒米をうまく処理でき感謝しています。

弟:1月20日ぐらいの岩手県の酒蔵(廣田酒造)に勉強のためお邪魔することができました。
廣田酒造さんも東日本大震災で被害を受けて、周りからの支援があり、困っている方がいたら支援したいと云う気持があったそうです。
ゼロの状態から復活された方々のお話を直接聞くことが出来たのは、貴重な体験だったと思います。
いろんな人から声を掛けていただいて、有難いと思いました。(一人じゃないんだなと感じました。)
何でお返しが出来るのかなと思ったときに、今の現実を前に進めてしっかりやってますよと見せることがそういった方々に対しての恩返しと言うか、結果をみせることで多くの方へのお答えになるのかなあと感じています。

繋がってこなかったお客様からも応援します、との温かい言葉を頂き、印象的に残っています。
この経験を踏まえて、大変な人達とか、災害とかが起きた時に、手を差し伸べる存在にならなければいけないなあと思いました。
酒は冬場しかできないので、今年の冬には必ず糸魚川でお酒を作って、色んな方々にお届けしたいと云うのが当面の大きな目標です。
当初描いてきたスピード感でここまでやってこれたと思うので、しっかりやりきれるところまで進めて、図面にあるものを現実に持っていきたいなあと思います。
にぎわいの一つにと、期待していただけること対して、行政の方針にお応えできるような形に織りこんできたつもりです、ガラス越しに酒作りの作業の風景を見ていただけるようにレイアウトした酒蔵にしました。
何がゴールか判らないような大きな取り組みだと感じていましが、街の期待、多くの人たちの期待とかありますが、先ずはおいしいお酒を届けたい、糸魚川がよりいい街になって行くために私達に何が出来るのか、取り組んでいくことが大事だと思っています。

































2017年6月21日水曜日

山岸美隆(糸魚川商工会議所副会頭)・糸魚川大規模火災から半年(1)

山岸美隆(糸魚川商工会議所副会頭)・糸魚川大規模火災から半年(1)にぎわいふたた

昨年2月22日、新潟県糸魚川市で大規模火災が発生し、住宅や店舗147棟が焼けました。
町の中心部にある本町通り商店街も半分が被害を受けました。
現在、その糸魚川市の街作りの検討委員会などが、復興に向けて計画作りなどを進めて居ます。
今月上旬に発表された糸魚川市の構想案には消失した商店街に昔の街並みをイメージした新たな商業施設などを
建設することなどが盛り込まれました。
その検討委員会の一人が糸魚川商工会議所副会頭、山岸美隆さん62歳です。
商店街にある呉服店を経営し、店舗の一部が被災しました。
山岸さんは火災直後からにぎわいのある街作りを訴え、ご自身の考えが構想案に反映され始めたと感じていらっしゃいます。 

昨年の大規模災害でおおよそ180mにわたって店舗や住宅が焼けました。
がれきが撤去されて景色は一変しました。
この街そのものが空洞化していて、新たな店を呼び込んで商店街の再生をしたいと思っています。
煙を見て、2~3軒が焼けてしまうのかなあぐらいの感覚で見て居ましたが、なかなか放水が始まらないのでもう少し燃えてしまうのかなあぐらいの感覚でした。
途中から風が一気に出てきて、消火の手伝いなどをしていたが、飛び火がすごくて、100mぐらいずつ飛び火になり、避難指示が出ました。
昼間なので火の粉は見えなくて、風に飛ばされて屋根に落ちて瓦の隙間に火の粉が入って燃えていくパターンです。

子供のころから慣れ親しんできた町なので、一瞬で無くなると云う感覚が受け入れられなくて、暫くすると実感してきました。
一番いい時代の裕福な時代の建物がそのまま残っていたが、それが全部消失してしまったと云うのは寂しいです。
なかなか受け入れられなかった。
私の家は2階から火が出て、消火活動もあり、屋根には穴が開きましたが、全体とすれば残ったと云うことです。
仮店舗での店の再開をして、販売に間に合わせました。
成人式の着物をお正月に展示、販売することが年間のスケジュールにあって案内もすでに出してあったので、見ていただく機会をなんとか作ろうと思いました。
元の場所での再会は2月3日で、あらかじめ2月3日に日程を決めて実行していきました。

残ったところは元気にやっている姿を見せることも大事なので、早く営業してあげることが勇気づけになるのではないかと思いました。
私の店が燃えてしまった、私の店が残ったという感覚で、お互い喜んだり涙して、お客様の店に対する想いがあるのだと思って、嬉しかったです。
火災前中心市街地の空洞化があり、郊外型、インターネットでの販売などで生活の商品を商店街で調達する時代では無くなって、それに火災で追い打ちをかけられて、もう一回再生するには新たなニーズに答えられる再建がでてきたのでやり方次第だと思います。
ただハードルは高いので、ピンチをチャンスにしていきたいと言う思いは強いです。
集客、誘客のための海、新幹線があるので、ちょっとした日帰りで楽しむことができる環境作りが出来ればとの思いはあります。
2040年になると3万人を切りそうな範囲になりますし、内需だけでは右肩下がりになるので、外からのお客さんがおいでいただける街の体系を作っていただきたいと云うのが行政に対するお願いです。

日本海に面していて、新幹線の駅が近くにあり、高速インターもあるので、外から入るには好都合なので、日本海の魚、物産をたのしんでいただくため等を核にしたいと思います。
海の街ということを前面に出せる様にしたいと思います。
長い将来どうするのかとなると、変化が出てくると思っているが、共に暮らしてきた人たちなので理解、協力はでてくると思っていますが、まだ具体的な事が出てきていないが、具体的になって来ると協力が得られると期待しています。
にぎわいを出すのに、人口2万人台がいずれ来てしまうと云うこともあり、長いスパンで商人は生き続けなくてはいけないので、人を呼び込むための努力をしていくための環境作りをしていくことが、大事だと思っていたが、考え方の違う人たちもいて、方向付けに対してせめぎ合いをしたこともありました。
主張が通らない時期もありましたが、段々取り入れていただいてきました。

商工会議所内にも特別委員会を設置して8~9回委員会を開催して、内需型、観光型などもあったが、私どもの考え方を率直に話す機会が出来たことはよかったと思います。
回数を重ねることで溝が埋まってきたんだろうと思っています。
商人としてここで営んできたと云う事実があるので、災害で負けるわけにはいかないと思うので、復興した姿を見ていただくと云うのも商人のプライドだと思っています。
新しい街を作るスタートと言うことで、ゼロからのスタートなので大変な事は事実ですが
、歴史、街並みとかは戻しますが、住まいとする人、商う人は新しい方が入って貰うと云う考え方だと思います。
外に向かって商売をしようという人の集まりを作る訳なので、魅力のある店作りをやって行くと云うことで目的は重なっているので、力を合わせることはできると思っています。