2018年12月12日水曜日

紅谷浩之(在宅医療専門医)        ・【人権インタビューシリーズ】医療的ケア児にも"Happy"を

紅谷浩之(在宅医療専門医)・【人権インタビューシリーズ】医療的ケア児にもも"Happy"を
医療的ケア児というのは、タンの吸引、人工呼吸など医療的ケアなどを常に必要とする子供達のことです。
以前は生き続けることが難しいとされましたが、医療の進歩によって医療的ケアさえあれば成長することができるようになったために、医療的なケアを常に必要とする子供の数がこの10年でおよそ2倍のペースで増え続けているという事です。
しかしそうした子供達の多くはケア体制が無い限り、子供時代を特別支援学校などで過ごして、成人したあとも働くこともままならず、病院や自宅で過ごす生活を余儀なくされています。
さらに教育のほか家族をサポートする介護の制度など社会全体の支援体制も追い付いていないのが現状です。
全国でいち早く医療的ケア児を支援する施設を立ち上げた福井県の医師、紅谷さんにお聞きしました。

医療的ケア児というのは病気や障害があって医療的なケア、いろう、タンの吸引、人工呼吸、導尿、栄養の点滴の必要のあるもの、などの子供達です。
人工呼吸器を付けても走ったり、パソコン操作ができる子たちもいます。
サポートする仕組み自体がまだ足りていないという事が現状だと思います。
一般的に19歳までを指しています。
平成28年で1万8272人という数字が出ています。
医療の発達があって、今までは命を落としたお子さんが一命を取り留めて、医療のサポートによってしっかり育つようになりました。
7,8年前に在宅医療を立ち上げて、在宅医療を始めた時に尋ねてきて、医者と患者という関係で出会いました。
高校3年生の子に対して、卒業後にどうするのか母親に聞いてみたが、医療的ケア児障害者はデイサービスは非常に数が限られていて、探したがすべて断られましたと言われました。
新たに離れた病院に入るか、自宅で閉じこもって過ごすかどちらかの選択しかないと言われました。

ワンフロアーにマット、ベットを置いて過ごすという事を始めました。
最初彼が3日ぐらい過ごす施設として作り運営しました。
福祉施設として成り立つわけがないので、ラボというようなイメージで始めました。
2カ月後には、子供達が5,6人来ていました。
1、2歳~20歳代の人達でした。
全員が在宅医療で私が診ていたお子さんたちでした。
使いたい希望者が他にも沢山いたことに驚きました。
楽しそうに過ごしていることを見て、御家族も喜んでくれて、居場所をつくることに対して最初にきっかけを作ってくれた子は、すごいパワーが持っているんだと思いました。
彼等の強みとかできるところを引き合わせると、こういう場所をつくる勢いを僕たちにくれて、そこに他の子たちが来れる場所も、そういうふうにエネルギーを発散する力がこの子たちにあるんだと気が付いて、この子たちに何かをしてもらいながら、僕たちも含めてみんながハッピーになるような仕組みを、一緒に考えていけるきっかけになるんだと思いました。
看護師のほかに保育士も入ってもらって活動の幅が広がって行きました。

今のケアラボは一軒屋の民家を借りて畳の部屋を中心に30人ぐらいが登録されていて10~15人が来て居ています。
スタッフも10~15人以上は来ています。
家族の人も、ケアラボに行って成長したわが子を見ると、私が365日死ぬまで一緒にいなくてはいけなかったと思っていたのが、ひょっとして違うのかなと気付いてきて、お母さんたちが自分のやりたい仕事をやる事が出来るようになったと思います。
ここのケアラボのお母さんたちは仕事に就いている人が7割になります。
全国の似たような施設では5%未満と言われています。
この子らも学校に行くことが普通だと感じたので、できる事があればサポートしたいと思いました。
ケアラボに通ってもらってお母さんと離れた経験をして貰って、どんなサポートが必要か、半年間かかって医療的な事などをを理解して、保育園の人にシェアして貰って、サポートの手法を段々に移行して、私達の手を段々離して行きました。
小学校に通った事例もありました。(今は3年生)
初めは責任問題などがありましたが、当人が学校に通いたいという事を言って、段々動いて行きました。
医療、教育それぞれが補いながら、やっていこうという事で受け入れていただ行きました。
子供達は吃驚するぐらい当たり前と、自然に受け入れて行ってくれました。
幼稚園、小学校から医療的ケア児が一緒にいれば理解の仕方が違うと思う。

医療的ケア児が母親と一緒にいると、ケアを受ける側にずーっといるという思いがあるが、学校など繋がりのある処に行くと、友達とのコミュニケーションとか、役割とか循環が生まれて来るというのは、人としての成長が大きいと思います。
軽井沢への宿泊旅行もしています。
家だけではない体験を通して、次にやりたいことに繋がって行くと思います。
今年で4年目になるますが、段々違和感が無く声をかけてくれたりするようになりました。
大げさに言うと地域社会を変えていっているような感覚があります。
病気や障害といった課題、悪いところを一個一個潰してゆく作業を続けて居ても、なかなか先が見えなかったりすることが多くなったとしても、何が出来るか何が楽しいかという、いいところを見つけて繋いでゆく作業をして行くほうが、人はハッピーを感じるという事なんです。
繋がりを持つということは重要な時代になってくるので、彼等は軽井沢の事などを通して私達に教えてくれるのではないかと思います。
繋がりと選択肢があるということは、凄く人間として必要だし、みんなが持てればいいと思っています。




































2018年12月11日火曜日

小井塚千加子(NPO法人MMA 事務局長)・【人権インタビューシリーズ】人生を変えるファンデーション

小井塚千加子(NPO法人MMA 事務局長)・【人権インタビューシリーズ】人生を変えるファンデーション
メディカルメイクとは皮膚の変色、傷害、事故の傷跡などをファンデーションを使って自然に隠すメークアップ技術の事です。
小井塚さんも顔に生まれつきのあざがあります。
自らも悩みながら20代の頃からから肌に疾患がある人達などに寄りそって来ました。
17年前NPO法人メディカルメイクアップ アソシエーションの設立に携わって、講演会などを通じてメディカルメイクの普及に努めています。

生まれつきあざがあったり、交通事故で傷になったり火傷になったり、皮膚の色が変わっているところにファンデーションを付けて判らなくする技術です。
黒いあざなど簡単に隠れてしまいます。
病院で治療している途中にこのファンデーションを使いなさいとか紹介いただいています。
一番最初に来たのは広島の原爆乙女の人がアメリカに治療に行った時に、アメリカで教えて貰って、1セット持って帰りました。
メディカルメイクアップというものがある事が判りました。
アメリカで黒い肌の人が真っ白くなる技術があることが判って、この製品が最初に入ってきました。
私は顔半分にあざがあり、中学の時にはじめてファンデーションの事を知りました。
高校卒業後にデパートに行って、やってもらった時に凄く厚化粧されて、黒いのが隠れて良かったと思う反面、こんなに厚くしなければいけないのかと思って、このメーカーに入ってしまえと思ったのが動機でした。
私は顔の半分はあざになっています。
中学の時には目の周りだけでしたが、高校卒業するころは顔半分になりました。
講演会などにはテーマがあり、白斑の時にはその方々及び関係の方が来ます。
接する時には相手の身になることだと思います。

赤ちゃんのお尻にある蒙古斑が顔に出たと母が言っていました。
治療はドライアイスを皮膚に当ててやけどをさせて皮を剥いていくという方法でした。
傷が残るので先生がメディカルメイクアップを教えてくれました。
明るい子ではあったと思うが、子供時代のことはあんまり覚えていないですね。
表面上明るくふるまっていたという事があったと思います。
友達とはあまり深入りしたくないという事があったと思います、そうすると顔の事を言わなければいけないし、しょっちゅう会わなければいけないという事があったと思います。
素顔でいた時の自分の気持ちは、今お母さん達にも言えるし子供達にも言えます。
保育士になりたいと思って、保育専門学校に行きました。
メディカルメイクアップに出会って、黒い所が白くなったので嬉しいと思った。
壁みたいだから(凄い厚化粧)一緒に行った姉は帰ろうと言いました。
保育士は素顔の人が多くて、化粧をしていたのは私だでしたので、化粧が子供の洋服についてはいけない、触られたら取れてしまうという事を絶えず考えていて、合わないなあと思いました。

このメーカーに入ってお化粧を上手になろうと思いました。(20歳)
症状をカバーするメイクアップアーティストの部署に入りました。
同じ立場になってものが考えられるので、共有できる部分がいっぱいある訳です。
あざに関する悩みの部分、あざの人の多さなどが判りました。
悩みは計り知れないと思う、手紙、電話などで相談するのはまだ救われると思うが、相談もできず引きこもってしまう人などもいます。
聞いてあげることが一番かと思います。
色々悩みを聞いてきましたが、会って相談するという事が一番かと思います。
NPO法人メディカルメイクアップ アソシエーションの設立に携わりました。(51歳)
化粧の仕方だけでなく、悩みを聞いてもらいたい、製品販売ではなく指導を中心にやろうと思って2001年に開設しました。
一日4名程度来ます。
中学からポツンポツンと出てきて20歳過ぎてほぼ全身白斑になってしまって、どうやってこれから生きて行こうかと言う人にも出会いました。

何気なく「アッ」と言われたりするが、言われた方はショックなので見せない方がいいなということと、相手にも不愉快させたくないというのが、メディカルメイクアップだと思います。
メイクをしないで生きることは、私としては生きずらいです。
症状などは違ってきても、昔から悩みの内容は変わらないです。
隠させてあげられたという喜びはあります。
昔は判らなくて相談に来ることが多かったが、ネットなどで購入して色々経験して最期に相談に来る人が多いです。
一度隠すと素顔が出せないという悩みがあり、自分の欠点を出せないということはあると思います。
日本人は肌に対して、皮膚に対して敏感で、なくなってくれればいいと思うが、人と違う処をあまり気にしないで欲しいというところもあります。
かける言葉ではなくて、黙って寄り添うしかないのかなあと思います。
人と同じでなくてもその人の個性としてみとめてあげましょう、ということではないかと思います、違っても異様な目で見ないでほしいということではないですかね。
私はメディカルメイクアップ で人生を変えられたので、悩んでいる方は是非一歩前に進んでもらいたいと思います。















2018年12月10日月曜日

山田ルイ53世(お笑いコンビ 髭男爵)  ・【人権インタビューシリーズ】ひきこもりからのルネサンス

山田ルイ53世(お笑いコンビ 髭男爵)・【人権インタビューシリーズ】ひきこもりからのルネサンス
兵庫県出身、中学2年生の夏から6年間引きこもり生活を送りました。
内閣府に依ると山田さんのように学校、職場になじめず、自宅に半年以上閉じこもっている引きこもりの人は15歳~39歳までだけで推計54万人に昇ります。
山田さんはどんなきっかけで引きこもり生活が始まり、どの様にして現在まで生きてきたのか伺います。

本名は山田順三、1975年兵庫県三木市出身 43歳、1999年デビュー。
2006年お笑い番組の準決勝進出でデビュー。
2015年「ヒキコモリ漂流記」を出版。
「一発屋芸人列伝」が第24回編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズムの作品賞に選ばれる。
小さい頃は結構活発でやんちゃで、リーダー的な存在でした。
勉強もできた方でした。
名門の六甲中学校に進学する。
勉強、部活などにも頑張っていました。
通学は2時間かかって、寝るのが12時で起きるのが5時頃で結構ハードでした。
登校途中にお腹が痛くなり大便の方のそそうをしてしまいました。
汚れたズボンなどは洗って乾かしていたが、臭いが出てきて両隣が気が付いて、周りに広がって言った。
それがきっかけとなったのか、すぐに夏休みに入り学校には行かなくてもよくて、普段なら直ぐに片付けてしまう宿題もなぜか宿題にも手が付かず、夏休み明けの登校初日に学校には行けなくなってしまった。
しばらくしたら行こうと思っていたが、1日休むと1日分行きたくなくなり、どんどんと負債が溜まって行くような感じになり、なんとなく休んでいたら全然いけなくなってしまった。

それまで優等生的に生きてきたのに、親はパニックでした。
昼夜逆転生活になって行きました。
調子のいい時は昼間にパンツ一丁で屋根の上で日焼けしたりしていました。
小学生の時親から貰った天体望遠鏡で友達の登校風景などをみていたりしてました。
夜中に2,3時にジョギングすることはできたが、昼間は外を歩くことはできませんでした。
引きこもり始めて1年後ぐらいには町中が知っているような状況でした。
厄介なことに神童感がとろ火のようにあり、今は休んでいるがちょっとその気になれば以前のようになれると、それが心の安定を保っているような状況だったと思います。
虚無感にもとらわれました。
働かなくてはいけなくなって、近所のコンビニに行かざるを得なくなりました。
友人が見に来たりして、話しかけてきて、「勉強全部終わったからちょっとバイトしている。」と答えて、また完全に引きこもりました。
いまでもちょっと出無精的なことはあります。

引きこもりはだれでも起きる可能性はあると思う。
いつも真面目に頑張っている人はなっちゃう可能性があるかもしれない。
20歳手前まで引きこもっていました。
成人という言葉がパワーワードで、そこで焦りました。
なんとか勉強できるようになって愛媛大学法文学部に入学することになります。
とりあえず山から転げ落ちるのが止まったというような感じでした。
大学の1年先輩がお笑いをしたいという事で、先輩が付き合っていた女性が短大の文化祭の実行委員長をしていて、学園祭で披露できるという事で、私がネタを書くことになりました。
漫才をやったらめちゃくちゃ受けて、全国大会に出場しようということになり、相方が頭が真っ白になってしまい、台詞が全部飛んじゃって、恥ずかしい思いをしました。
帰りに先輩は他にやる事があると言いだして、裏切られた感じがしてその晩に一人でやる決心をして、大学を辞めて東京に行きました。
売れなかったらどうしようと、引きこもりの時と同じような感覚がありました。

ブレークした時には安心感がありました、引きこもりの脱出が出来たと感じました。
社会復帰できたなあと感じました。
自分の人生をリセットできるのは自分しかいないので、何回でもリセットしていいと思います。
リセットするということは今までの自分を全否定するのではなくて、あったことはあったこととして、受け止める。
引きこもった6年間をばねにしてというふうに思われるかもしれないが、引きこもった6年間は自分自身としては完全に無駄だったという思いはあります。
無駄があるのが罪悪だというふうな風潮が強すぎる気がして、しんどい思いがすると思う。



































2018年12月9日日曜日

木村興治(日本卓球協会名誉副会長)   ・【スポーツ名場面の裏側で】日本卓球 王者復活

木村興治(日本卓球協会名誉副会長)・【スポーツ名場面の裏側で】日本卓球 王者復活
77歳、秋田市出身、県立秋田高校から早稲田大学に進み日本選手権でシングルスに2回優勝、世界選手権では男子ダブルスと混合ダブルスで3個の金メダルを獲得しました。
現役引退後は日本卓球協会副会長、国際卓球連盟副会長としてルールの改正など活躍をされました。
日本卓球 王者復活と題して伺います。

11月の中旬、上海には一緒に激戦した仲間がいて、民間の卓球愛好家の方との交流に日中平和友好条約記念の年という事で、行ってきました。
35年前に国際卓球連盟の理事になって、2005年から2期8年副会長を務め、現在会長アドバイザー。
卓球は狭い所で誰でもできるスポーツですが、福原愛さんが3歳の時からプレーをして、世界で活躍する素晴らしい選手になりました。
それを見ている若い選手が福原愛さんから学んだと思います。
プロの試合を見ていただくような環境が出来て来ました。
水谷選手、張本選手などに声援が飛び交っています。
女子団体ではロンドンオリンピックで銀、リオでは銅、男子団体はリオで銀を取りました、これが大きいです。
中国では女子も背が高くて台から少し離れて正確なプレーをしますが、日本選手は背が低いのでそれが出来ず台にへばりついて、リスキーですがそれをやってのけて、それは中国にとってもいいと率直言ってくれました。
中国にもそういう選手が欲しいと言っているわけです。

1950~1970年代は卓球と言ったら日本のお家芸でした。
1952年ボンベイの世界選手権に参加、7種目中3つ優勝するという事で世界を驚嘆させました。
自分たちが考えた用具を使って、当時守りの選手が中心だったが、攻撃で打ち破って行きました。
男子は世界選手権では団体5連覇でした。
女子も団体4連覇でした。
シングルスの世界チャンピオンは男女13人出ています。
中国の台頭があり長い低迷の時期もありました。

早稲田大学2年の時にマッカーサー杯があり、荻村 伊智朗選手に勝って、昭和36年北京で行われた世界選手権の日本代表の6人の中に選ばれる。
団体5連覇を続けていたが、中国との戦いになる。
荻村選手、星野選手、木村選手3人が出場、木村選手が2勝したが、荻村選手が1勝2敗、星野選手が0勝3敗 3勝5敗で中国に敗れ、6連覇は成らなかった。
中国の練習を見た時にこれは日本にはないタイプだなと新鮮に映りました。
前陣で守りもやる、攻撃もやる、速攻でした。
男子ダブルスの決勝も行われる。
星野、木村組とハンガリーのシド、ベルチック組の対戦となる。
第一セット日本、第二セットハンガリー、第三セットは星野選手がつないで木村選手が強打を決めるというパターンで取って、第四セットも連取、3-1で優勝する。
団体が破れて、ホッとしたというのが実感でした。
昭和36年12月全日本選手権大会、三木選手と木村選手の決勝となる。
第一セット、木村選手、第二第三セットは三木選手、第四セットは木村選手、第五セット21-12で勝って、優勝する。

昭和39年東京オリンピックの年だったが、卓球は種目には入っていなかった。
12月全日本選手権大会が行われる。
決勝は木村選手と小中選手、第一第二セットは木村選手、第三第四セットは小中選手が取る。
第五セットは21-19で木村選手が勝つ。
バックハンドが強い選手だったので、相手が待っているバックに逆に強いボールを打ってぎりぎりの処で勝つことができました。
1963年プラハ(22歳)、1965年ユーゴの大会(24歳)で混合ダブルスで2連覇を果たす。
プラハでは木村興治,伊藤和子組-三木圭一,関正子組
ユーゴでは木村興治,関正子組-中国
1967年ストックホルム大会の混合ダブルスでは木村興治,深津尚子組-長谷川信彦,山中教子組の決勝で敗れる。
私としてはダブルスはプレーしやすいタイプだった。
当時は選手自身が練習計画を立てて、どういうような新しい技術に挑戦するかというのがスタンダードでした。

1971年名古屋の世界選手権をきっかけにピンポン外交が行われた。
1967年、1969年の世界選手権には中国は文化大革命で試合に出ていませんでした。
1971年の大会には是非中国も出てほしいという事で解決のめどが立ってきて、世界選手権の後半になって中国がアメリカ選手団を招くということになって、ピンポン外交がスタートしたと言われています
1972年の5月にはニクソン大統領が中国訪問、田中角栄総理が9月に訪中し、国交正常化を果たす事になる。
荻村さんは周恩来首相に何度ともなく接触して実現に向けて努力したと言われています。

国際卓球連盟としてボールの大きさを変えたり、1ゲーム21点から11点に変えたりしました。
ラバーの質、接着剤などにより攻撃中心の卓球となり38mmのボールではラリーが続かなくなり、卓球の面白さに欠けるようになる。
ボールを大きくして40mmにしました。
21本だと長く、ギリギリの勝負にしようという事で11点にしました。
卓球は世界NO1の加盟です。(国ではなくて協会の加盟です)
アフリカでも高価な投資が無くできるスポーツです。
雨の日でも老若男女ができます。
伊藤 美誠(いとう みま)選手を破ろうと中国の選手が頑張っていますが、伊藤 美誠選手もこれからいろんなことをまだやりますから。


































2018年12月8日土曜日

プラユキ・ナラテボー(タイ・スカトー寺副住職)・"今ここ"に気づく

プラユキ・ナラテボー(タイ・スカトー寺副住職)・"今ここ"に気づく
56歳、プラユキさんはタイの北東部、チャイヤプーム県にあるスカトー寺で副住職を務める日本人の僧侶です。
30年前に大学を卒業後、タイで出家しました。
プラユキさんの元には、今不安や悩みを抱えた数多くの日本人が訪れます。
人々は今どんな悩みを抱え、その悩みにどう向き合うのかお聞きしました。

スカトー寺にはこれまで2000人以上の日本人が訪れました。
人間関係が大きいです、親子関係、夫婦関係など、ラインとかフェースブックなどを通じての苦しみなどもあります。
自己否定につながり、それが自分等は生きてる価値がないというような感じになってしまったりします。
先ず安心して貰う、自分にも居場所があったんだなと、自分らしくあっていいんだという、その辺の安心感が起こると非常に楽になっていきます。
次に問いかけて行く、虐げられてきたとか、表面では怒りですが、その奥にはこうあってほしいというそのような気持ちがあり、それが叶わなくてて落胆して、叫びが怒りになったりしている。
一緒にどうしたら実現できるか、一緒に考えてみようという感じです。
あるがままの感情を先ずは認めて行く、というところから始まります。
苦しみには原因がある、原因を取り除いて、取り除ければ苦しみからの開放がある。
無明、見ていない、はっきり判っていないから、闇雲に動いて行ってしまう。
欲が起こったり、怒りも起こったり苦しみにはまってゆく。
無明を消して言ったら、誰でもが苦しみから解放される。

仏教への影響については、一番のベースは母親でした。
お経を読んだり浄土宗の保育園に勤めたり、ボランティアなどをするなど、後姿を見てきて、段々と自分も影響を受けてきたと思います。
高校時代読書が好きで影響を受けたのが宮沢賢治で、「世界全体が幸せにならないと個人の幸せが無い」というフレーズに直観的に「そうだよ」と感じてしまいました。
進学先も哲学科を選びました。
アジア、アフリカ、難民問題、飢餓の問題を考えたり、ユニセフの募金活動に参加して呼びかけたり、NGOのボランティア活動などをしました。
闇雲にやればやるほど疲れてしまったりして、無力感を感じたりしました。
タイの農村地域に2週間滞在するワークショップへの参加がありました。
水道、ガス、電気が無かった地域だった。
そこでの手伝いが大きな体験でした。
ものがあれば幸せになれるというふうに感じていたが、一緒に生活していて村人たちの方が幸せそうにしているし、子供達も目を輝かして行き来している姿を見て、幸せはものとかではなくて、心が関係しているのかなあという体験でした。
自然と共存している感じでした。
もう一つは仏教だと思いました、タイでは95%仏教の信仰があります。
そこには宮沢賢治の思いを実践する姿がありました。

大学卒業後、25歳の時に小さな村のスカトー寺で出家しました。
朝3時~3時半に起きて、4時にはみんなと一緒に読経をします。
先生の説法とか瞑想をして5時過ぎまで行います。
その後托鉢に出かけます、5kmぐらい歩きます。
7時に戻ってきて、食事をします。
夜6時ぐらいからもう一度読経して説法を聞いて、瞑想したりします。
日中は全部瞑想していてもOKです。
瞑想中に蚊が飛び交ったりしましたが、かゆみ痛みがきて、感じているうちにそれを乗り越えると集中する感じになれたりしました。
蚊に献血しているような感じで、或る種の母親疑似体験をしたような感じになりました。
しかし外界からの騒音などに対して悩むようになりました。
スカトー寺の住職のルアンポー・カムキアン師はタイでは優れた瞑想の指導者として知られていました。
「どういう心の現象であっても、あるがままに気付いて見ることだ」と言われて、瞑想にも色々種類があることを知ることができました。
目をつむるのではなくて、目を開けたまま手を動かす、手動瞑想と言っています。
手は昨日の手でもなく、明日の手でもない、ここにあるもの。
現実的な手をハッと気づくと、妄想、雑念が消えてゆくというようなところがあります。
それを中心に教えていただきました。

集中する心をコントロールをしていって、心の状態を変えて行くという、集中瞑想的な事を目指すが、こっちはそれを目指していない、コントロールを入れないで、ただ起こってくるがままに、ただちゃんと気付いて観察して理解して行こうという、そういったスタイルの瞑想法です。
気付き→今ここにある現象、あるがままに淡々と明晰に見て行こうという感じです。
「過ぎ去れるを追うことなかれ、いまだ来たらざるを想うことなかれ、過去そはすでに過ぎ去りたり、未来そはいまだいたらざるなり、さればただ現在するところのものをそのところにおいてよく観察すべし。
揺らぐことなく動ずることなくそを見極め、そを実践すべし。
ただ今日まさになすべきことを熱心になせ。」

手動瞑想
背筋を正して、手を膝に置く、右手を立てる、上に持って行く、お腹にもって行く。
左手を立てる、上の持って行く、お腹にもって行く。
右手を胸に持って行く、外側に伸ばしてゆく、下ろします、伏せます。
左手も同様に胸に持って行く、外側に伸ばす、下ろします、伏せます。
これが一サイクルです。

気づきのエッセンス
今自分の膝の上に手が立っているなと確認する事、上に持ってきたらここにあると気付く事。
自分で確認する感じ。
一コマ一コマを位置確認する感じ。
記憶が蘇って心の中でおしゃべりが始まるが、それは雑念、妄想と言っているが、
気づきの瞑想コンセプトだと、それもある種の色付けになってしまう、あるがままにという事が凄く大事で、それが起こった時にはたぶんそれは思考は思考として、気分は気分として、雑念だと思わないで(雑念を増幅させない)、受容してあげようという感じです。
このプロセスが大事です。

暴言を吐くとか暴力になるとか、心が止まらずに発展してしまうが、知らずに無意識にやってしまっていることを、じゃあもっといい選択があるという事を見付けられる、心を暴走させない。
怒りにはまり込んだら見えないので、怒っていることが見えて来ると、その奥の気持ちに目が行くことが可能になって来る。
怒りの原因が見えるようになって来る、その奥には願いがあるという事が見えて来るようになって、願いを叶え行くにはどうやったらどう実現してゆくのか、吟味できるようになる。
安らいでいる人が、イライラしている人に対して安らぎを与えられて、波及効果が更に広がって行く。















































2018年12月7日金曜日

高島悦子                 ・"大連、私の戦争記憶

高島悦子                 ・"大連、私の戦争記憶
中国大連で生まれ育ち、今年87歳。
昭和18年4月大連羽衣高等女学校に入学、12歳でした。
戦争は日に日に厳しくなり、敵の言葉という事で、英語の授業は無くなります。
授業時間も削られ、モールス信号や、小銃の扱いなどの軍事訓練、つるはしを振り上げ穴を掘りモッコ担ぎの労働など、痩せて小柄な少女には大変つらいものだと言います。
8月15日に終戦、社会秩序は大混乱、ソ連軍兵士の乱入で、女性が襲われ乱暴狼藉の状態の中、高島さんのお母さんはいつでも子供達と死ぬ覚悟で、青酸カリを身に付けていたと言います。
そして抑留生活の1年半は生きるのに必死、虚弱体質のうえ栄養失調で高島さんはとてつもない不安の中にいたと言います。
昭和25年2月厳しい寒さの中、引き揚げ船が大連の港を離れた時、高島さんの耳に強く残るのは雪交じりの甲板で、男たちの血を吐くような怒号と罵声でした。
多感な少女時代を戦争に巻き込まれた高島さんは、悪魔の様な戦争体験を伝え残す義務があると、その思いを本にまとめました。

戦争体験も薄れる一方で、この本(「あれから70年」)を3年前に書いて良かったと思います。
女学校では同級生は250名ぐらいいました。
小学校は6年間組み変えなしでした。
大連聖徳小学校でしたが、今年同級生は年に4回集まりました(7、8人)が、人数は段々減ってきています。
「配られし隣組なる寄合に青酸カリなる薬包のあり」高島悦子 
母は万一の時にはこれで命を捨てるんだと言っていました。
8月15日の記憶は空は青く物凄く暑い日でした。
もっこ、ツルハシなどで海岸線に沿って戦車壕の穴を掘るので、おなかがぺこぺこになってしまうので梅干し弁当と焼きおにぎり二つ持って行って、焼きおにぎりは3時に食べました。
当時みんな栄養失調でした。

秘録大東亜戦争満州編(昭和28年)
「8月21日午前10時、ソ連軍の進駐部隊が大連駅を出発して町を行進してきた。
戦争が終わった平和的な進駐とは見えず、戦場に突入してくるような勢いだった。」
私は3階の窓から隠れて見ていました。
戦車がものすごい音でした。
一番初めに入ってきたのは、頭は坊主で刺青をしていて、囚人部隊だったと言われています。
日本人街に入ってきましたが、当時12歳だったのではっきりしたことは判らなかったが、友達のお母さんが「大連物語」という一冊の本を出して、それが終戦直後の大連の事を知るのに大変参考になりました。
8月15日で世の中がひっくり返ってしまってとにかく怖いという雰囲気でした。
「玄関のベルに茶の間をたちし娘は野獣の兵に連れ去られゆく」高島悦子 
その女性は19歳の女性で妹が私と同級生でした。
翌日血みどろの状態で帰ってきて亡くなってしまった。
大連はヨーロッパ風の街でした。
「満州唱歌」がありました。(高島悦子さんが歌う。)
冬は氷点下10度位になります。

小学校6年の時には遠足で旅順まで45km歩いて行きました。
匍匐(ほふく)訓練(伏せた状態で移動すること)などもやらされました。
木銃を持って、救急看護品を必ず持って通学していました。(終戦の年、女学校3年生の時)
コロ島には引き揚げ船が来るが、大連港には1年半全然来ませんでした。
帰れるのか疑心暗鬼で孤独にさい悩まされました。
「非民かと疑心暗鬼の飛び交えり引き揚げ船は姿を見せず」高島悦子
食べるものは露天に豊富にありましたが、職場を失った日本人が多いから自分の家財道具、着物を売って購入していました。
女学校1年生の1月ごろに男の国語の先生が突然姿を消しましたが、隠密召集だったようです。(戦争末期には兵隊不足で40代の男性が招集されるようになる。)
先生がお亡くなる前に、原稿を戦後史の一端だと言って私にことづけてくれました。
それによるとミズリー号で条約が結ばれたが、まだ上官の命令で先生たちは蒋介石の国民軍と一緒に八路軍と戦っていたという事が書いてありました。
「あれから70年」を書き残してよかったと思いました。

大連から戻ってきて、ずっと後になって中学から基礎の勉強をやり直したいと相談に行ったら、卒業終了証を持っていると、駄目だと言われたが、定時性の高校からでないと駄目だと言われて、大阪市立都島工業高等学校で勉強のスタートができました。(平成9年卒業)
戦争の話などできるような状況ではなかったが、知って欲しいと思いました。
引き揚げ船の中でも一騒動ありましたが、船長が厳しく言っておさまりました。
船中で病気で亡くなると海に捨てるしかなかった。
佐世保に着くころ、船上からみんなで懐かしく眺めたことは思い出します。
広島の山国の田舎の駅に着いて、祖母が待っていてくれて、よもぎ餅を食べて本当においしかったです、生涯忘れられない味です。
























2018年12月6日木曜日

杵屋勝国(長唄三味線方)         ・伝統芸能の継承者として

杵屋勝国(長唄三味線方)         ・伝統芸能の継承者として
福岡県出身73歳、幼い時から三味線を習い始め、14歳で名取りとなり勝国の名を許されました。
高校2年生で上京、家元である 7代目杵屋勝三郎さんの元に稽古に通いながら、東京芸術大学を卒業、以後プロの演奏家として活躍しています。
力強く華やかな演奏に定評があり歌舞伎舞踊の出囃子で、立て三味線を務めるなど、長唄界をけん引する存在で、先ごろJXTG音楽賞邦楽部門を受賞されました。

第48回JXTG音楽賞邦楽部門を受賞。
繊細さ豪快さを併せ持つ名人芸、歌舞伎の縦三味線として、長唄界をけん引するという事で受賞。
勘三郎さんご一家とは17、18代目、今回の勘九郎さん、3代に渡って私は後ろで三味線をひかせてもらっています。
17代目は花道に出てくるだけで絵になりました。
18代目は踊りに人間味が出て、彼も楽しく踊って私も楽しく三味線をひかせていただきました。
勘九浪さんの場合は踊りは18代目の勘三郎さんよりはお上手だと思っています。
人間味という意味ではまだ若いので足りないのかなあと思っています。

八丁八舞で今回やりました、丁は三味線のことで(八丁=三味線が8人)、舞は唄(八舞=唄が8人)のことです。
お囃子さんがその前に7,8人でやっています。
立て三味線は中央にいて、重要な役割です。(指揮者のような役割をします。)
私は立て三味線を30年以上やらせてもらっています。
私の掛け声が指揮者の指揮棒の役割をします。
坂東玉三郎さんなどとも舞台で一緒にやらせてもらいますが、玉三郎さんは天才ですね。
テンポのいいのが我々では「乗り」がいいと言います。
玉三郎さんは自分のいいように弾いてくれと言われて、それに合わせて踊るので非常に私はやりやすいです。
玉三郎さんとは35,6年の付き合いでもあります。
玉三郎さんの「鷺娘」、500回以上一緒にやらせていただいています。
18代目は亡くなるのが早すぎました、もっともっといい役者になるところでしたが。
(57歳で亡くなる)
歌舞伎は25日間ですが、自分であー良かったなと思うのは2,3日間しかないです。
欠員になると大変なので、風邪など一番心配しています。

私は三味線は6歳の6月6日から始めましたので66,7年になります。
柳川の隣りの街で料理屋をやっていて、両親が趣味で長唄をやっていました。
唄が父親で、三味線がは母親がやっていました。
隣りが先生の家で週のうちに5日間15分ぐらいやっていました。
子供用の三味線は無くて大人用のを使ってバチは小を使っていました。
中学になるころには、杵屋寿太郎先生の処に1時間半かけてお稽古に行きました。
そのうち、高校2年の時に東京に行くことになりましたが、プロになるということは考えていませんでした。
東京芸大の邦楽科に行くことになり、山田抄太郎先生がいて、人間国宝で文化功労者でその方から習いました。
先生の弾いているものから、こんな素敵な長唄三味線はあるのかと思って、なんかひらめきました。
その時プロになりたいと思っていプロを目指して行きました。
本来は15歳にならないと名取りの試験は受けられなかったようだが、杵屋寿太郎先生の強い後ろ盾で14歳で名取りの試験を受けて、受かる事が出来ました。
14歳で七代目家元、杵屋勝三郎先生より杵屋勝国の名を許される。
杵屋勝三郎先生は財団法人を立ち上げ、その理事長でもありました。
その後私も副理事長になり、杵屋勝三郎先生が亡くなる前に、理事長就任を要請されて理事長になりました。

これからは世の中の常識知り、とにかく基本が大事だと家元からは教わりました。
家元から受け取った事を今度は後輩たちに、正しく伝えようという気持ちです。
邦楽は普段あまり触れる機会がないが、若い人たちに観たりやっていただくしかないです
ね。
学校の音楽の先生たちに三味線を教えて、現物を学生たちに教えていただきたいと思っています。
長唄は長いので、一番短いものでも10分かかり長い曲だと1時間以上のものがあるので、曲のいいさわりのいいところを4,5分に纏めてそれを5曲位にして、短かくしものの抄曲集をやると興味を持ってもらいます。
僕はやはり古典が好きです。
8代目襲名の時には国立大劇場で400名を集め大合奏をしました。
歌舞伎の舞台に立ったり、弟子の指導、色々演奏会もやっています。
若いころはがむしゃらに三味線を弾いていたと思いますが、人生経験を踏むと、人間味のある弾き方はないだろうかと考えまして、もっと深みを研究しようという気持ちになってきています。
芸を研究することは当たり前で満足という事は無くて、今後も芸を研究するとともに、後継者を育てることが義務だと思っています。