2019年5月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】トルストイ

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】トルストイ
「結婚なんて決してするものではない。 
そうでないと、とんでもない取り返しのつかない失敗をすることになる。 
君の持っている美しい気高い資質が、すっかり駄目になってしまう。
くだらないことの為に何もかも使いはたされてしまう。」 (「戦争と平和」の一節、トルストイ)

小説を読むと退屈するけれどトルストイの人生は面白くてしょうが無い、興味が尽きない。
今回はトルストイの晩年の結婚生活の話です、これがとっても興味深い。
1828年生まれ、(江戸の後期にあたる。)1910年亡くなる。(82歳)
ほかにも
「全く結婚しないことである。
これができる人間はめったに居るものではない。
だがこれができる人間は幸福である。」
「いよいよ結婚する前に十遍でも、二十遍でも、いや百編でも考えてみる方が言い。」
凄く結婚に対する否定だが、それは自分が結婚しているからです。
34歳の時に18歳のソフィアと結婚する。
「戦争と平和」を書いている時にはうまく行っていたが、晩年になるとお互いに酷く苦しめるようになる。
82歳で家出をして小さな駅で亡くなる。

理想と現実のぶつかり合い、トルストイは理想を激しく求めるタイプ。
生れながらの貴族で身分が高くてお金もちだった。
晩年には私有財産を持つことはよくないと言う事で、領地も農民に与えて、著作権も放棄しようとしていた。
妻にしてみれば大変なことなので反対するが、世界3大悪妻に例えられている。
(病気をするとお金があるなしで切実な問題で、何にもできない人間になるとお金に綺麗なことは言っていられない、現実はシビアだと感じます。(頭木))
妻の方にしてみれば現実ががっちりあったはずで当然そう思います。
トルストイには13人子どもがいました。
「子どもは神の祝福である、子どもは喜びであると言うのはみなウソだ。
それは昔の話で今ではそんなことは全然当てはまらない。
子どもは苦しみである。
ただそれだけのことである。」 (「クロイツェル・ソナタ」の一節)
子どもがいることで子どもが夫婦の喧嘩の種になってしまう。
トルストイに娘が付いて妻に息子が付いて、子ども同士も反目し合っていた。
親がいがみ合っていると子どもにとっては、かなり不可解だと思います。

「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」 (「アンナ・カレーニナ」の一節)
健康と病気の関係を直ぐ思い浮かべます、健康は一種類ですが、病気は凄く種類があります。
自分とはまったく関係ないと思っていた思いもよらないことが、突然自分のことになる。
どんな不幸が来るかわからない凄味がこの言葉にはあると思います。
トルストイは自分の日記を婚約時代からソフィアに読ませた、結婚後も読ませた。
日記を読ませることは変わっていて、赤裸々に本音が書いてありそれを妻に読ませる。
激しい色んな女性経験の話も書いてありそれは妻にとってはショックです。
理想としては夫婦関係に秘密があっては良くない、自分を受け入れてほしいと言う事だが、妻にとってはたまったものではない。
これは特殊な不幸です。

晩年になるとチェルトコフという中年男性が一番弟子のような形でついて、トルストイの言ったことを世界に広める役をしていて、これに対して妻は厭がっていた。
妻に読ませた日記の中に「私は女性に恋をした事はない。所が今までしばしば男性には恋をしてきた。」と書かれている。
チェルトコフが財産放棄とか著作権放棄を勧めていた人でもありました。
チェルトコフが来てからその後妻に日記を見せなくなる。
ソフィアとしては大変だったと思う。
秘密があってはいけないと言う事は潔癖過ぎると思いますし、晩年は日記を見せてもらえなくなる。

「私の行為はそれがどのような行為であろうと早晩全て忘れられてしまい、この私と言うものは完全に無くなってしまうのだ。
それなのになんであくせくするんだ、どうして人はこの事実に目をつぶって生きて行くことができるのか、実に驚くべきことだ。
そうだ、性に酔いしれている間だけ我々は生きることができるのだ。
が、そうした陶酔からさめると同時に、それが悉く欺瞞であり愚劣な迷いにすぎないことを求めないわけにはいかないのだ。
つまりこの意味において人生には面白い事や可笑しい事など何にもないのだ。
ただもう残酷で愚劣なだけなのである(「懺悔」の一節)
懺悔はトルストイの本音が書かれていて吃驚する。
トルストイは若いころはよくないことを一杯している、ギャンブル、酒、女、さんざんです。
家族、名声、財産、才能、健康など全部揃っている訳です。

だけど虚しい、それは結局死んでしまう。
あと身近な人が沢山亡くなっている。
母親を2歳で亡くして、9歳で父親を亡くして、お婆さんに引き取られるがお婆さんも翌年亡くなって、伯母さんにひきとられるが伯母さんも亡くなり、兄のニコライも結核で亡くなって、13人の子どもも5人は幼くして亡くなる。
お気に入りの次女のマリアも35歳の若さで亡くなる。
死んだら虚しいと言う思いがどうしてもなる、そういう虚しさに晩年とらわれる。
全て満たされても最期に残るのが、死と言う問題なんです。

トルストイが東洋の寓話だと言って紹介しているものがある。
「猛獣に追いかけられて井戸に飛び込むが、井戸の底には龍が口を開けて待っている。
井戸の側面の草にしがみつく。 そうすると2匹の鼠が草をかじってそのままでは下に落ちるしかない。
しかし、掴まっている草に花が咲いていて、蜜がたまっていてそれを舐めるわけで、蜜のおいしさに夢中になることが生きることに夢中になることだと、でも今こんな状態なんだと気付いてしまうと、蜜の甘いおいしさなんて感じることが出来ない、今自分は気付いてしまったと、そういうふうに言っています。
我々も蜜の味に執着するか、蜜の味がしないか。
今の人生の楽しみをなるべく味わってどうせ死ぬんだから、だからこそ今の楽しみをどんどん味わおうとする人と、どうせ死ぬんで虚しいんだから、楽しみなんか何もない、いっそ禁欲的に生きていく方がいいのではないかと両極端に別れる場合が多い。

「人生最期の日だと思って今日を生きろ」みたいな言葉があるが、疑問があります。
人生本当に最期の日だったら仕事なんか行かないし、恨みのある人を殴りに行くかもしれない。
本当は明日もあると思う、明日の為に今日は犠牲にしていることはどうしてもあるが、そういう毎日を過ごしていると虚しさはどんどん増します。
虚しくないように頑張るが、それも限界があり答えの出ない難しいことだと思います。
トルストイの理想はいずれ死んで全てが消えうせてしまうとして、それでも無意味ではないと確信できる生き方、そういう生き方をずーっと探していたんだと思います。
トルストイは神の教えに従って生きようと言うところに行きつく訳です。
自分よりも他人を愛して、人の為に生きるというこういう生き方をしていれば、例え死んでしまって消えてしまっても、全く無意味な人生とはいえないと言うふうに到達する訳です。

しかし矛盾が生じる、他人の為に生きようとすると、一番身近な他人は妻で、妻の為に生きようとすると、財産を放棄しようとする理想が叶わない。
当時トルストイ主義と言って世界中に広まっていた。
ガンジーはトルストイの非暴力主義に凄く影響を受けてインド独立の父になったわけです。
世界をよくしていくために役立っているが、一番な身近な家庭ではうまくいかなかった。
トルストイは葛藤をどうにも解決しようがなくて、最期に家出をして小さな駅で亡くなるわけです。
トルストイは、みんな思っているけどやれないことを、全部やろうとするわけです。
しかし身近な周囲は犠牲になってしまう面があるわけです。
それが簡単に善し悪しが言えないところです。

トルストイは字が汚くて自分でも読めない位で、それを読めるのが妻だけで、それはトルストイがどう考えるか判るわけで、かなりソフィアの手が入っていて、だから結婚していなかったら名作が生れたかどうか、できたとしてももっと違った内容だったかもしれない。
結婚3か月ごろのトルストイの日記
「家庭の幸福が私をすっかり飲みつくしている。
夜中や朝目が覚めて彼女の姿を見ると愛おしさを覚える。
彼女は私を見つめ愛する。
彼女が私のすぐそばに座っていると愛おしい気持ちになる。
私たちはこの上なく愛し合っている。」
私は彼女を愛している。」
















2019年5月26日日曜日

高野進(東海大学教授)          ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪陸上ファイナリストの証言

高野進(東海大学教授・【特選スポーツ名場面の裏側で】五輪陸上ファイナリストの証言
(初回2013.12.13)
静岡県富士宮市出身 58歳、東海大学時代から頭角を現し、日本人選手が最も苦手と言われる種目の400mでオリンピック、世界選手権に3回出場、バルセロナオリンピックでは昭和7年のロサンゼルスオリンピック100mで吉岡隆徳さんが6位に入って以来、60年ぶりにオリンピック短距離での決勝進出を果たしました。
400mを44秒78は30年近くたった現在でも日本記録です。
現役引退後は母校の東海大学で指導、研究を続けるかたわら、日本ランニング振興機構を設立、理事長として子どもたちを中心にした、幅広い年齢の人達に走ることの楽しさを教えています。
日本陸連理事、北京、ロンドン二つののオリンピックの代表監督を務めた高野さんに伺いました。

湘南キャンパスには2万人の学生がいます。
7,8階建ての校舎が18在ります。
400mトラックの全天候型6レーン 公認トラックがあります。
19歳の時からここで練習してきました。
当時は土のトラックでした。
4年に一度のアジア大会では400m2連覇を含めて200,1600、リレーを併せて4個の金メダル、世界選手権大会でも3回連続で1991年東京世界選手権では日本の短距離界では初めて決勝に残って7位になりました。
400mの日本記録は自己更新を含めて10回以上出し、日本選手権400mは7回の優勝。

1984年ロサンゼルスオリンピック、23歳 初オリンピック。
開幕直前の競技会で日本記録45秒85を出す。
80~90人のエントリーがあったと思います。
準決勝の1組目で8位となり決勝に進出できなかったが、上出来だと思った。
1988年 ソウルオリンピック、27歳
一次予選45秒42で全体で2番目の記録で通過、二次予選も通過、準決勝第二組で44秒90(日本新記録)だったが、惜しくも決勝進出を逃す。
45秒00を2回くらい出していて、44秒台は壁だったが壁を破ったのは日本人として歴史を作ったなあと当時思いました。
1991年世界選手権400mで日本選手で初めて決勝進出、7位となり世界から注目を集める。

1992年バロセロナオリンピック
44秒90はもう限界かなと思って、1989年には400mを辞めて100mしか走らなかった。
1990年にアジア大会があり200mで代表で出て、これまでこの種目だけ金メダルを取っていないと言う事で、金メダルを取ることができました。(29歳)
ハイペースにシフトして400mも30歳で日本記録を出せました。
これが大きな自信になりました。
バルセロナオリンピックでは31歳になっていました。
教師としての仕事もある中で調整をしなければいけなかった。
世界選手権400m決勝進出で周りから注目されるようになりプレッシャーを感じるようになりました。
毎日トラックにカメラが来るような状態になり、メダリストになれるのではないかと周りが騒ぐようになりました。
自分ではファイナリストになりたいと言うようになり、ファイナリストと言う言葉が日本でも浸透するようになりました。

8月1日 一次予選余裕で通過、二次予選通過、8月3日準決勝1組で45秒09で4位
ゴール、ファイナリストとなる。
胸をなでおろしました。
決勝では8位だったが、力が残っていなかった。
決勝まで4回を5日をかけてやるので31歳の年齢では体力が限界で大変でした。
記録は45秒18でした。
400mを走り終わって1分後には全身に疲労物質が回ってきて、頭は痛くなるし筋肉は痛くなるし呼吸は乱れっぱなしで、30分ぐらいはまともには歩けなかった。
日本人としてスプリント種目で決勝に残ったと言うのは、個人としても嬉しかったが日本人としても嬉しかったです。
44秒78はトラックの中では日本記録として一番古い記録として残っているが、指導者としてはあまり喜べるものではない。
100mのタイムも上がってきているし、日本人のスプリント力も大分上がってきて400mもいずれ破ってくれるのではないかと期待しています。

400mは毎回死ぬつもりで走らないとだめです、自分のエネルギーを出しつくすわけですから、必死に逃げきるというそういうエネルギー系です。
今思うと荒業のような感じです。
苦労と言うふうには全く考えていなかった。
当時は日常の当たり前なことで生活習慣の一つになっていました。
振り返ってみると同じことはできないと思います。
小学校からずーっと走り続けてきたが、何故自分をそう言うふうに掻きたててきたのかと言うと、ゴールした後の先にいつも新しい光景があります。
新しい自分が待っている様な気持になってきて、スタート地点に立った時に、それまでの自分に別れを告げる気持ちになっていました。
400m走り終わると必ず新しい自分になっていると、それが次の自分に会うような気持で走っていました。
中学時代の同級生にったら多分別人だと思います、ほとんど人前では話せなかったし、スポーツもあまり好きではなかったし、オリンピックに出る様な選手になり、東海大学に勤めて学生に講義したりと言う自分は想像がつかなかった。
一方、どんどん自分自身の幹が太くなって枝葉が出て、色んな世界に自分の生きざまが広がっていくような、それがやってきて良かったことだと思います。

日本ランニング機構の理事長になっていますが、私の自身のライフワークとして走ると言う事は人類の挑戦なんです、ようやく2本足で立った時代から進化を重ねてきて、我々は走りながら進化をしてきた。
或る生物学者は「持久力を持った捕食者」と人間のことを言っているが、我々は狩猟採集時代に足の速い草食動物を追い詰めてしとめてきた。
その間に実はセオトニン、ドーパミン、アレドナリンとかが出てきて、やる気、粘り強さが人間自身に備わってきた。
さらに栄養素が運動することによって脳に送られていき、知能が非常に高くなってきた。
脳の成長には運動が欠かせないと言う事でランニングが欠かせないと思って、自分が走り続けてきたら、小学校、中学校時代あんなに駄目な人間だったのに、走り続けてきてまともな社会人になれた。
鍛えればいいと思っている人がいるが、ランニング技能が必要です。
走り方を疎かにしてしまうと一生直らない。

小学生時代のように脳が柔らかいうちに、ターゲットにしたアカデミーや色んな指導形態を取って走り方を覚えてもらっている。
寝たきりにならないように高齢者は元気でなければならない。
そのためには走ると言う運動も取り入れた方がいいと思っている。
散歩中に3歩走れば(10歩でもいいが)ずーっと走らなくても良いと思っています。
2,3セットやればいいと思う。
ランニング技能検定をやっています。
遅くてもいいから正しく走れるようにすれば、それも立派な目標となります。
日本ランニング機構を作った大きな目的の一つはランニングを技能として浸透させていきたいと言う事と、それを教える指導者を増やしていきたい。
日本人のファイナリストを筆頭に、子どもたちの走り方をよくする、高齢者の健脚、運動の指導など、これを総称してを日本人総アスリート計画と言う事で推進しています。




















2019年5月25日土曜日

立川志の輔(落語家)           ・【舌の記憶】あの時あの味(2)

立川志の輔(落語家)           ・【舌の記憶】あの時あの味(2)
圧倒的なパワーと重層的に語られる志の輔落語、その濃密な世界は何処からどのようにして生まれるのか、志の輔落語を貫くものは何なのか、立川談志の話もたっぷり伺いました、「落語でなにがいいたいんだ」という題で伺います。。

師匠はこんなにお茶目なんだ、こんなに不思議な人だと思ったのは「ガッテン」25年続けている中で15年経った頃でした。
スタッフが「ガッテン」に出てもらえないかと言う事で、師匠に伺いました。
出て質問してもらえればいいといったら、「唐辛子は何故辛いのか」、と言うんです。
動物に食べてもらって、熟して甘くなったものをおいしいから鳥に食べてもらって糞とともに種をばらまく、そのおかげで自分の子孫は世界中に広がって行く。
辛い唐辛子を喜んで食う鳥なんていないのに、なんで辛らくなっているのか調べてこいと言う事で、スタッフが当時の志の吉を連れてメキシコまで行きました。
調べてみたら、辛味や甘味が判らない鳥がいて、唐辛子を食べてくれていて、他の動物に食べてもらいたくない、味の判らない鳥だけがたべてくれればいい、と言う事で辛らくなっているんだと考えられると言う事で放送して、カメラに向かって「ガッテン」して頂けましょうかと師匠もTVを見ていると思っていったんですが、放送後、「俺は立川談志だ、あんなことでガッテンできると思っているのか」と製作室に電話がかかってきて、師匠から苦情が来ました。
わざわざ放送直後にかかってきたわけで、大騒ぎになりました。
恐ろしいし、きびしいが振り返ってみるとお茶目な人でした。

古典落語で5年ぐらいたってうまくできたと思っていたら「お前、今の落語でなにがいいたいんだ」と言われました。
「落語を教わった通りとか、俺が教えた通りならば、俺がやればそれで済むんだ」と言う訳です。
お客さんが満足する中には、笑う、良い時間であった、もうひとつは人間こう生きれば楽なのかとか、こう考えれば幸せかとか、ここまではしてもいいけどここからしてはいけないとか、判ったと言う感じの満足感の大きな種類の一つだから、それをもって、と思ったら、新作落語でも、全ての落語、全部の作品に談志の何とか論(金銭論、教育論とか)が入っているんです。
古典落語の根底に人間ってこういうもんなんだ、という談志論がそれぞれの作品の中に結果的にはいっている、酒を飲んじゃあいけないがこの状況なら人間飲んじゃうよなと言う様な、談志論がそれぞれの作品の中に入っている、だから「落語でなにがいいたいんだ」と言って、そういった事に対して気が付かせようとしたんでしょうね。
お客さんが笑っただけで、良くできましたと思っているんじゃねえだろうなと、いつも思いだす言葉ですね。
『牡丹燈籠』は全部を読んでみた時に『牡丹燈籠』は違うテーマの作品だと思った時に、初めから終わりまで2時間半で全部やろうと考えたのは15年前からで毎年やっています。
毎年登場人物がこの人は素敵だなと、毎年違うんです。
三遊亭圓朝師匠の大作です。
「忠臣蔵」は文楽の為の戯曲であって、その大元になった赤穂事件の出来事で、忠臣蔵ではないんだと、歌舞伎座で観てあーそうなんだと思って、「忠臣蔵」を初めから終わりまで説明出来て2時間半で何とかできないかと思って、これも7年目になり毎年これもやっています。
やっていて毎年角度が違うので、やっていて飽きないです。

「みどりの窓口」「歓喜の歌」これは新作落語ですが、清水義範さんの存在が無ければ沢山の新作落語は出来なかった。
「ゴミの定理」と言う本にゴミがどんどん増え続けて行くとお金を払わなければいけない時代が来ますよ、と言われた時代に、ゴミは人それぞれに定義が違っていて、物が届いた時に人によってはゴミになってしまう。
清水義範さんのエッセーの作品を新作落語に練っていきました。
自分の体験談から来たものもあります。(「歓喜の歌」など)
いくら落語でもリアリティーが半分、面白さが半分ないと、と言う事はあります。
新作を作ると古典落語の凄さが判ります。
江戸時代は短い話だったろうが、何十人、何百人と携わりながら、練ってたしてひいてを繰り返し、一番いい状態の物を僕等は師匠に教わりながら来るので、無駄なく見事なセリフだけが残ったのが古典落語だと思います。
談志師匠は古典落語しかやりませんでしたが、「みどりの窓口」を談志師匠が面白いと言ってくれたのは凄く嬉しかったです。

「ガッテン」が週に一回来るのが、リフレッシュになります。
TV、ラジオ、映画それぞれに携われましたが、それぞれのジャンルの作り方、楽しみ方、表現の仕方が全然違うので何をやってもリフレッシュになります。
パワフルなのは富山県民の血ですかね。
持久力があると言うか、地道にこつこつとやる県民性ですかね。
毎月富山で落語会をやっていますが、富山の人にあうたびに富山に生れて良かったなと思います。
富山弁で「気の毒な」と言う言葉がありますが、「有難う」「すみません」など全部含めて言う言葉です。
「あなたに気の毒な想いをさせました」と言う意味です。
富山弁でこの「気の毒な」と言う言葉が一番好きです。











2019年5月24日金曜日

萩谷由喜子(音楽評論家)         ・オペラ史を彩った明治の女性を追いかけて

萩谷由喜子(音楽評論家)       ・オペラ史を彩った明治の女性を追いかけて
昭和29年生まれ、幼い時から音楽や舞踊を習い、立教大学を卒業後音楽教師やライターを経てオペラや女性音楽家の評伝を書き続けています。
明治150年プッチーニ生誕160年と言う年に当たる去年、「蝶々夫人と日露戦争」を出版しました。
世界の三大人気オペラの一つプッチーニのこのオペラは、明治の長崎を舞台にした物語ですけれども、沢山の日本の旋律が多く取り込まれています。
この曲を作るにあたってプッチーニは当時イタリア公使夫人だった大山久子から様々な協力を受けオペラを書きあげたと言うことです。
華やかなオペラ史の陰で埋もれていた女性たちの活躍を、これからも掘り起こして伝えたいと言う萩谷さんに伺います。

大体、年にオペラコンサートを合わせて300公演位いきます。
去年、「蝶々夫人と日露戦争」を出版しましたが、蝶々夫人の知られざる一面が結構出てきています。
「蝶々夫人」に関わった大山久子さんという女性のことに気が付いたのは1998年なんです。
蝶々夫人のオペラの中には沢山日本の旋律が出てくることには気が付いていましたが、プッチーニが何故取り入れることができたのかは、それほど疑問はありませんでした。
大山久子さんのお孫さんが書いた文章に出会って詳しくやりたいなあと思いましたが、20年近くかかってしまいました。
2017年からラストスパートを掛けてようやく書き上げました。

立教大学の経済学部を卒業しましたが、日本舞踊と邦楽をピアノなどはやっていました。
友人の紹介で音楽評論家の志鳥栄八郎先生の門を叩きました。
その後先生のアシスタントをやるようになりました。
祖母がお稽古事を沢山やってきた人で、日本舞踊、長唄、三味線、を習い歌舞伎にも行ったり邦楽、ピアノなどもやり、邦楽と洋楽が融合していきました。
大学卒業後、お琴の先生、ピアノ教室も15年やりました。
志鳥栄八郎先生のもとで音楽評論の勉強を並行してやりました。
最初の評論は「五線譜の薔薇」と言うタイトルでした。
女性音楽家10人の評伝集と言う事で、本を出版しました。

幸田 延(こうだ のぶ)と言う人の事を書きたくて妹の安藤 幸(あんどう こう)の姉妹のことを次に出しました。(2003年)
幸田 延の兄は海軍軍人・探検家の郡司成忠、作家の幸田成行(露伴)、弟に歴史学者の幸田成友。
幸田 延の資料はあまりありませんので自分で書こうと思いましたが大変でした。
書き始めたころは幸田 延のピアノ教室のお弟子さんがまだいました。
幸田 延が亡くなったのは昭和21年でした。
「幸延会」(こうえんかい)という先生を偲ぶピアノの同好サークルを半世紀以上続けて来ました。
その方たちに取材ができたことはラッキーでした。
伝説のヴァイリニスト、諏訪 根自子(すわ ねじこ)、ピアノでは田中 希代子(たなか きよこ)の評伝を出しました。

諏訪 根自子は或る時から突然活動を停止して、又晩年になってバッハの無伴奏全6曲のレコーディングをして、どうしてブランクのある方が一番難しいバッハの無伴奏全6曲の録音ができたのか、これも謎だと思うし、戦中ヨーロッパでナチスドイツのゲッベルス宣伝省から頂いたと言うストラディバリウスの謎など、自分で突き止めたいと思って書きました。
そしてようやく書きたいと思っていた「蝶々夫人と日露戦争」を去年出版しました。
越後獅子、君が代、さくらさくら、お江戸日本橋、など全部で8曲でてきます。
プッチーニは日本に来ていないし不思議だと思っていました。
ジャポニズム、日本文化への憧れの風潮が高まりますが、音楽の流出は判らなかった。
イタリア公使夫人だった大山久子から様々な協力を受けたと言う事が判りました。
それ以外にもパリ万博でミラノ公演をした川上貞奴もプッチーニは見ているんですね。
大山久子はヨーロッパの語学が堪能だったので、プッチーニは直接日本の音楽に関することを聞くことができました。
プッチーニは明治37年に「蝶々夫人」を初演する。
原作は4年前にです。
蝶々夫人は元々はアメリカの新聞記者の方が日本に滞在歴のある姉の話をもとに書いた短編小説ですが、デーヴィッド・ベラスコと言う劇作家が戯曲にしてその戯曲をロンドンで上演した時にプッチーニが見て、これだと思ったのが始まりです。

プッチーニの異国趣味の最初が「蝶々夫人」でした。
その後アメリカの「西部の娘」などを書くわけです。
最期は中国の「トゥーランドット」ですが、広く世界に題材を求めてゆきました。
生涯に12作で、数としては少ないが、一つ一つに対して磨き抜いたものを提供したと思います。
大山久子はイタリア公使大山 綱介の奥さんですが、幸田 延とは東京女子高等師範学校の小学校の同級生でした。
幸田 延はその小学校に日本に最初に洋楽を教えに来たルーサー・ホワイティング・メーソンに見出されました。
大山久子も長唄、お琴を習っていました。
二人は将来に渡って親友でした。
大山久子はプッチーニに日本のことを教えるにあたって資料を提供してもらったのが幸田 延でした。
当時は日露戦争で緊張していた時代でイタリア公使大山 綱介は政治の世界で、大山久子は文化の方面で尽力しました。

「蝶々夫人」は本当に旋律が美しいと思います。
日本の音楽の旋律をそこに自分のペーストを加えて源曲が判らない位に使ってしまう。
「豊年節」をオペラのなかで子守唄にしてしまう。
他にもドラマチックに変貌させる曲が色々あります。
いろいろ突き詰めて行く面白さがありました。
大山久子に関してはイタリアでの取材もありましたが、日本でも関係者から色々提供していただき資料、表紙の写真、本の中の写真なども提供させてもらって感謝しています。
凄く向上心、勉学への強い意欲とか、自分が学んだ事を後進に伝えて行きたいと言う両方の気持ちを取材を通じて当時の女性たちに対して感じました。
津田梅子が最初の女子留学生として、アメリカに留学するが、一緒に永井繁子が留学して彼女がアメリカでピアノを勉強して日本に帰ってきて、幸田 延も教えました。
今書きたいと言う人、戸田 極子(とだ きわこ)さんと言う方で、岩倉具視のお嬢さんで、戸田氏共伯爵夫人となりウイーンでブラームスとお付き合いがあった方です。















2019年5月23日木曜日

真珠まりこ(絵本作家)           ・【私のアート交遊録】「もったいないが地球を救う」

真珠まりこ(絵本作家) 【私のアート交遊録】「もったいないが地球を救う」 
かつて「もったいない」が日常の中で当たり前のように使われていたと思うが、最近では死語になったと思われていたが、この真珠さんの絵本から飛び出して子どもたちの心を掴んでいます。
真珠まりこさんの代表作「もったいないばあさん」は頭にカンザシ手にはツエ、ご飯を食べ残したり、電気の点けっぱなし、水の出しっぱなしをすると「もったいないことをするんじゃない」と姿を現すちょっと怖そうな婆さんです。
このもったいないばあさんが闊歩する絵本は今年誕生から15年を迎えて累計100万部を売り上げる人気絵本となっています。
この間様々な賞や小学生新聞に連載されるなど、常に注目される絵本となっています。
真珠さんは「もったいないばあさん」を通して地球の環境問題についてもアクションを起こしています。
日本の暮らしに古くから流れる「もったいない」という考え方に付いて、「もったいないばあさん」に託す思いを伺いました。

「もったいないばあさん」の話を書くために常に「もったいない」と言う事を意識してもう15年生きているので身にしみていますが、書き始めた時は子どもたちに伝えて行かないと「もったいない」という意味が判らない暮らしをしているなと気がつきました。
子どもが4歳の時にご飯を食べ残したので、「もったいない」といったら、どういう意味と聞かれて、言葉に詰まってしまって、他の言葉に置き換えられないと言うことに気がつきました。

長々と説明したが判らなくて、意味が判るような絵本はないかとさがしたがなくて、それでは自分で作ってみようと思ったのが「もったいないばあさん」でした。
昔だったら修理していたものが、新しいものを買った方が早かったり安かったりして、使い捨てが当たり前だと思ったら、地球がゴミだらけになってしまうのでどうなんだろうと怖くなりました。
「もったいないばあさん」を連載するようになって深く考えるようになって、ケチは自分だけのもの、執着、「もったいないばあさん」の「もったいない」はそれを大切に思う、大好きだからもったいないと思う、大切な人に貰ったからたいせつにしたいとか、自然、頂く命に対して有難うと言う感謝の気持ち、愛情があって言っているんだと言うふうに思うようになりました。

「もったいない」という言葉は元々仏教の言葉で、全てのものは仏になる、すべてのものには命があって、命があるものを大事にしないのは「もったいない」という、命の大切さを伝える言葉だと言うふうに伺いました。
「もったいないばあさん」は、頭にカンザシをしていて、カンザシは七、五、三の時に買ってもらったカンザシを大事に持っていると言う設定です。
鼻メガネで、ネッカチーフを首に巻きモンペ姿です。
考えた末に眼は観音様のような半眼にしました。

家族がみんな医者で、医者になるか医者と結婚すると言う様な雰囲気でした。
専攻は栄養学でしたが、やりたいことがあまり見当たらなかった。
結婚して、或る時に高校時代の友達に出会って、美大を卒業後イラストレーターをしていると言う事でした。
それと絵本科と言う看板があり、面白そうと思ってパンフレットを取ったのがはじまりでした。
絵本だったらずーっと続けられると思いました。
自分を表現することに合っていたんだと思います。
「もったいないばあさん」の連載、本が出るうちに自分で一回やって見ることが必要だと思って味噌を作ってみたり色々なことをするようになり、「もったいないばあさん」のような暮らしが出来たらいいなあと思いました。
「もったいないばあさん」ももう15年になりましたが、あっという間でした。
100万部と言うことですが、想像が付かないです。

ケニアのマータイさんがノーベル平和賞を受賞されて、2005年2月に御自身が推奨される3Rを一言でいえるのが「もったいない」と言う言葉で、判りやすいから世界に広めようと言う事で話題になり、広がって行きました。
リスペクト(respect)が含まれているということで、共感していただきました。
マータイさんは「もったいない」と言う言葉は清水寺の一番偉いお坊さんから伺ったそうです。
深い意味を理解されたのは凄いと思います。
子どもたちがその一冊を読めば、今地球で何が起きていて自分たちとどうつながっているかと言う本が見当たらなくて、「もったいないばあさん」のワールドレポート展をしようと言うことになりました。
ユニセフに協力していただき、データ、写真も提供していただきました。
「もったいない」と言う言葉をキーワードにして、「もったいないばあさん」をガイド役にすると言うのは良かったなと思いました。
3年前からユニセフさんが全国の市部で巡回展をして下さるようになりました。
人、物、心を大切にしたいと言うメッセージを込めた作品、例えば「おたからパン」は、本当の宝とは他人から奪うものではなくて、自分の中で育てるものとか、にこちゃんとぷんぷんまる」シリ-ズでは発達障害のある子どもが、この絵本しか見ないんだと言う反響を聞いたところから更に出版が決まる。
何故発達障害のある子がその本しか見ないのかは私にも判りませんが。

「もったいないばあさん」のワールドレポート展のメッセージとしては、自分さえよければと思わず、分けあう気持ちがあれば平和な世界ができると言うこと、命は全て繋がっていて、一つ一つの命が大切なんだよ、という二つのメッセージがあるが、その二つが「もったいないばあさん」の全ての本の根底に流れる筋のようなものです。
民族、国、宗教、言葉、文化が違っても人が大切に思っているものも同じ様に大切に思う、敬う、リスペクトすれば世界は平和になると思う、そこに全て繋がって行くと思います。
命の大切さ、小さい時に愛されて育つと言う事がとても影響しているのではないかと思います。
姉も弟も医者になりましたが、小さい頃はわからなかったが、大人になって私は傷ついていたんだとおもって、自分はいらない子だったんじゃないのかなあみたいなコンプレックみたいに思っていたんだ私はと言う事に、「もったいない婆さん」を書くようになって「もったいない」と言う意味を考えた時に気がつきました。
何人子どもがいても「貴方が生まれてくれてありがとう、どんなにうれしかったか」と言う事をちゃんと伝えて行くことはとっても大事だと思いました。
最新版「もったいないばあさん 川を行く」 もったいないばあさんが川を旅する話ですが、水の循環とか、命の繋がりを考えてもらえたらいいなあと思います。










































2019年5月22日水曜日

銭谷欽治(日本バドミントン協会専務理事) ・【スポーツ明日への伝言】世界のメジャースポーツにするために

銭谷欽治(日本バドミントン協会専務理事) ・【スポーツ明日への伝言】世界のメジャースポーツにするために
東京オリンピックが迫るなか、日本のバドミントン選手は世界の大会で好成績を残し続けています。
日本バドミントン好調の理由、オリンピック更にはその先への期待について銭谷日本バドミントン協会専務理事に伺います。

この20,30年マイラケットは持っていないです。
選手の代表が決まって行きますが、今、5月1日から来年4月末までの全ての国際大会のポイントで決まってきます。
大会に出るためには実際には2年前からスタートしています。
今5種目ともトップランキングにきているので、本番ではメダルを何とか獲得したいと思っています。
女子のダブルスは熾烈の戦いが始まっています、世界のトップ3になっている。
怪我が一番怖いと思っています。
男子シングルスは桃田選手がトップになっていますが、研究されて楽に勝てると言う訳にはいかなくなってきている。
女子シングルスは山口が若いので未完成な所もあり、奥原選手も頑張ってもらいたいと思っています。

銭谷さんは1953年生れ、石川県出身 石川県立大聖寺高等学校から中央大学に進み、卒業後は河崎ラケット工業、三洋電機で選手として活躍。
 全日本総合バドミントン選手権大会男子シングルで1976年から4連覇など7回の優勝。
1985年に選手を引退、その後コーチを経て監督に就任。
1996年から三洋電機女子チームを全日本実業団バドミントン選手権大会4連覇に導いた。
現在は日本バドミントン協会専務理事としてバドミントン界をけん引。

バドミントンが強くなったのは15,6年前からジュニアの育成に力を注いできました。
2004年から朴柱奉(パク・ジュボン)ヘッドコーチが来て、2008年1月から開設したナショナルトレーニングセンター、コーチ陣のサポート支援などそういったものの総合力だと思います。
小倉、潮田選手(「オグシオ」)、彼女たちが入ってきたのは2003年で、その前後ぐらいからです。
ジュニアは全国大会の整備、アンダー16の充実、コーチングスタッフもかなり多くの先生などに協力していただきスタートしました。
成果がどんどん出てきました。
ナショナルトレーニングセンターの設備の効果も大きかったです。
いち早く利用したのが卓球とバドミントンでした。
パクさんはオリンピックの金メダルを取っているので、その後イギリスに数年いって、マレーシアにいって、日本に来てからも日本語を貪欲にをマスターして、選手に対するカルチャーショック的な、ベスト8にはいると喜んでいた時代だったので、それをぶち壊してくれてた、意識改革は大きかったです。
パクさんとコーチ、選手との調整役として立ち回った時期もあり、苦労したこともありました。
パクさんも日本のシステムを理解して4,5年かかって信頼関係が生まれてきました。

2016年には賭博問題が起きました。
私が就任して2年目あたりの頃で、吃驚しました。
先ずは検証してできるだけすみやかに処分をちゃんと出さないといけないと思って対応させていただきました。
スポーツの高潔性、ルール、倫理規定をつくっても結局は個人本人なんですね。
関係者全員がインティグリティ(Integrity「誠実さ」「高潔さ」「真摯さ」) の意味合いを学んで行かないと、大きな課題だと思っています。

シャトルは今、初速は最高で473km/hと言われています。
30年前は250km/hでした。
昔は木のラケットで140gぐらいだったが、今はラケットがカーボン製になり80g位でスピードも出ます。
相手の到達するまで0.2秒ぐらいなので瞬間的な判断、感覚、動体視力などが求められる。
テニス、卓球などと違いバドミントンはワンクッションをおかないのも特徴です。
動きが激しいところもあり大きなけがに通じることもあります。
俊敏性、反射能力、読み、心理的駆け引きなどが求められる。
ガットの張りは桃田選手などで33~35ポンドです。(昔は20ポンドぐらいでした)
球離れが早いです。

私は中学の時には野球でピッチャーをやっていて、高校では最初陸上部にはいりましたが直ぐに辞めて、バドミントン部に入ることになりました。
始めてから2年ちょっとで全国高等学校総合体育大会バドミントン競技大会にでて、準優勝することができました。
バドミントンの面白さは0~400km/hぐらいまでのスピードの変化の中での駆け引き、心理戦、色んな要素があります。
バドミントン協会登録者数は平成20年が23万2000人、平成29年には29万8000人に増えています。
実施人口、2002年81万人、2018年104万人と増加傾向にある。
生涯スポーツとしては取り組みやすいスポーツだと思います。
室内なので天候に左右されない。
バドミントンを日本のスポーツの中でメジャーなものにしていきたいと思っています。
東京オリンピックの後、2022年には東京で世界選手権が行われ、その先はパリ大会もあるので繋げて行きたいと思います。












2019年5月21日火曜日

曽我貢誠(詩人)             ・力一杯生きてきた ~『秋田人 100人の物語』

曽我貢誠(詩人)       ・力一杯生きてきた ~『秋田人 100人の物語』
秋田県出身の同郷組織「秋田ひぇばなの会」が一昨年の11月首都圏在住「秋田人の100人物語」と言うタイトルの詩集を出版しました。
寄稿した人は117人、各自写真入りで291ページの記録集です。
「ひぇばな」とは秋田県の言葉で「じゃあまたね」と言う意味を表しています。
曽我貢誠さんは1953年昭和28年秋田県河辺市に生まれました。
『秋田人 100人の物語』に原稿を寄せると共に編集スタッフの一人として本の刊行に携わりました。
曽我さんは東京理科大学を卒業後、足立区、墨田区、北区の中学校で定年まで理科の先生を務めました。
日本詩人クラブの理事でもあり、作品には詩集「学校は飯を食う処」などがあります。
曽我さんはこの『秋田人 100人の物語』には人々の故郷秋田を思う気持ちと庶民の貴重な生活記録が載っていると言います。

「ひぇばな」と言う言葉は秋田県の言葉で「じゃあまたね」と言う意味を表しています。
「ひぇばな」の会は今から24年前の平成7年に初代が金子信也さんと言う方が代表で立ちあがりました。
主に秋田の文化や芸術みたいなものを人に知っていただくと言う活動を続けていたそうです。
金子さんが7年前に亡くなり、その後、田村輝夫さんが代表になりました。
その田村さんの一言で始まりました。
無名の人達の生の声を残す活動をしたいと考えたそうです。
今まで物を書いたことのない人に貴方の人生を書いてみませんかと言うことから始まったそうです。
秋田県人会とは別になっています。
私は日本詩人クラブに参加していて、その中で秋田の大先輩の詩人である山口敦子さんから突然電話頂きました。
秋田と東京に付いて2000字程に纏めてこの場に来なさいと言うことでした。
持って行ったらいつの間にかスタッフの一員となり雑用をするようになりました。

そこでは喧々諤々の議論をやっていました。
一人の字数制限は2400字となっていましたが、多い人もあり少ない人もあり、写真を入れたりして一人2ページに抑えるようにしました。
東京生まれで秋田大学で学んだ人、仕事の関係で秋田に来た人も原稿を頂いて別枠で載せました。

序章 春夏秋冬の詩が載っています。
「上野駅で初めて降り立った日、直ぐに到着する電車に驚いた。 人の多さにはすこしづつ慣れていった。
でも飲み水と飯だけには身体に合わなかった。  ・・・・。
青空に東京タワーがそびえていた。・・・・。 ここで生きる勇気を貰った。
この日から私の未来への第一歩が始まった。」

第一章 私の歩んだ道
第二章 人ありて今
第三章 あの頃あの時
第四章 こだわりと生き甲斐
第五章 故郷を思う
第六章 ありがとう、これで

かみやかつじさん
「我人生 演歌」金子克司さん
「我が幼少期を思い起こすと 戦後母はシングルマザーで私は実の父を知らなかった。
食べるものも無く母は農家の堆肥場から野菜の葉っぱを持ってきて食べさせてくれました。 ・・・私は栄養失調から肺結核となり誰も遊んでくれない。
この生活環境が私の人生基盤となったのです。・・・・。昭和35年15歳で飛び出した。
・・・見送る義父からの言葉「錦を飾らず家の敷居を跨ぐな 風邪ひくな」・・・とぎれとぎれに聞こた餞別の言葉が今でも脳裏に鮮明に残り忘れることはできまん。・・・。
今は芸能活動をしていて地域の為に活躍していて、いろいろなことがあってそれで優しいんだと思います。・・・
デビューから40星霜、平成28年五月売れない作曲生活40周年記念コンサートを街興しと熊本大地震チャリティーを兼ね、「輝け横手」として開催。
大勢のお客様からは最高によかったと賛辞の言葉を頂戴、感激、感謝、感謝、感謝。
波乱万丈の人生が不幸なのではなく、己に負けることが不幸なのである。
演歌人生 ブラボー」

「父母ありて」 岩崎恭子
「かつて鉱山で栄えた町、阿仁町 私の両親はその阿仁鉱山の鉱石を選別する選鉱場で知り合い結婚しました。・・・。昭和38年12月職場で父は大きな転落事故に遭い診療所に運ばれました。・・・誰もが途中で死んでしまうと思ったそうです。姉が7歳私が5歳の時のことです。・・・一命は取り留めましたが脊髄損傷と言う重度の障害となりました。
・・・差別があったり笑われたりしたことがあったと思います。親身になってくれた人もたくさんいました。・・・なんでも挑戦している二人の姿は周りの障害者に勇気を与えました。・・・「まげねで(負けないで) いぎでれば(生きていれば) だれがのやくにたつ」が父の口癖でした。
父からは境遇や環境に左右されない心の強さと逞しさ、母からは誰かのために尽くす生き方で自分自身が生き生きと輝いてゆく姿を教えられたと答えました。」
彼女は高校時代フェンシングで全国優勝している。
両親から学んだことを生かして現在は福祉関係の仕事をしています。

「カラフト サハリンからの逃避行」前田三保子
戦争末期ソ連軍が侵攻、避難をするため南下したが、又ソ連軍により元に戻される。
戦後日本に帰ることができた。
その後半部分
「そのうち日本への引きあげは婦女子優先で順次行われることになった。・・・
着替えをリュックに詰めただけだった。・・・身体検査がありお金はすべて没収された。
着いた港は函館でした。 ・・・青森からは汽車で秋田に向かった。・・・
父母の故郷は何と美しいものかと感動した。・・・戦争は残酷で悲惨です。
貴い生命が奪われます。 勝っても負けても不幸です。 戦争の悪を若い人達にも語っていかなければと思います。」

私は東京の中学で理科の先生として35年間教えて来ました。
校内暴力が盛んなころでした。
子供達とその親に支えられて色んな事をまなんだと感謝しています。
日本詩人クラブは70年ほど前にできた組織で初代理事長は西条八十さんで全国に800人で詩を書いている団体です。
「学校は飯を食う処」
「卒業間近の4時間目、むーにゃんはゆっくり教室に入ってくる。・・・「学校何しにくるんだ」、「飯食いによ」「学校は勉強するところだぞ」・・・卒業させて早二年、むーにゃんの言葉の意味を今にして気付く、むーにゃんには母がいない、兄弟も居ない。
居るのは寝たきりの父と夏の縁日に買った金魚3匹だけ。
夜はカップラーメン、朝はパンをかじったりかじらなかったり。・・・
中学を出て直ぐに中華料理店に就職したが、もしかしたら勉強も飯を食うためと言う事を初めから知っていたのかもしれない。
私は生徒に云う様にしている、学校は飯を食う処、一人のこらず旨い飯を食いたまえと」
とにかく学校に来てくれればいいと言う子もいました、学校に来てしっかりご飯を食べてくれればどうにかなると長年の経験で感じた次第です。

「いじめている君へ」 「いじめを見ている君へ」 「いじめられている君へ」
三篇の作品を作っています。
廻りの見ている子がそのことをどう見ているのかと言う事がすごく大事だと思います。
いじめは無くならないと言う本もあります、どうしたらそこから脱却するかと、子供自身に教える、何処にでもアンテナを張って、我々が出口を教えてあげることが大事だと思っています。

「私の生い立ちとゆりてつのこと」 畑澤富美夫
ゆり高原鉄道
「平成20年10月 秋田内陸線廃止反対のPR活動で伺いました。・・・
全体で2億4000万円程度の赤字で、現在は2億円程度に削減されているようです。
・・・その後悶々としながらゆり鉄の為に立ち上がろうと決心しました。・・・」
それから奮闘が始まる。
ゆり高原鉄道は鳥海山が見えて素晴らしいところです。
終点の屋島町には佐藤まつこさんが「まつこのへや」というお店を開いていて、この方は全国的に有名で全国から来るようで、話を聞いて元気を貰って帰るそうでいつからか「まつこリラックス」と呼ばれるそうです。

「恩返し」 吉岡潤
特別養護老人ホームでお年寄りにリハビリと体操、心のケアをしていましした。
・・・ある老夫人とのやりとり。 
「・・・自分の両親の介護は一度もしていません。 両親、小、中、商高の恩師、街の方々にはさんざんご迷惑をおかけしてきましたので、皆様に対する恩返しのつもりで身近にいる御老人ペアに真心をこめて尽くしました。」
会ったことはないんですが、終末のお年寄りを600人見送ったと、今の手紙では1000人見送ったと書いてありまして、最期に住職さんからの言葉が書いてありました。
「私たち住職はお亡くなりになってからでなければできませんが、吉岡さんは大変御立派に生前に成仏させています。私たち坊主は頭が上がりません。」と
住職さんから貰った手紙の中の言葉と言う事を吉岡さんから私に手紙をいただきました。

「そして今」 
「秋田を離れてもう何年経つだろう。 ・・・こちらでの生活がずーっと長くなった。 とにかく無我夢中で生きてきた。 汗と笑いと涙の人生、首都圏で暮らす秋田人、100人の生きざまがここにある。」
スカイツリーの写真がある。
秋田だけでなく全国の地元の人達に声を掛けて、無名の人達の生活の歴史を書いていただきたいと思います。
「みちのく秋田・赤い靴の女の子」の映画製作も進めています。
ある舅の包丁を手で払った嫁が、近くにいた子供にあたってその子供を殺してしまいます。
母親のお腹の中には別の子を宿っていて、刑務所で女の子が生れて、その子は「はつ」と言いますが、アメリカから来たハリスンという女宣教師が育てて、差別、貧困、病気を乗り越えて、「はつ」はロサンゼルス、ハワイでハリスンと一緒に生活をして32歳で亡くなります。
それを後世に残したいと言う事で大山雅義さんが発起人で脚本監督の石谷洋子さんが監督を務めています。
ホームページを立ち上げてお金の面などで全国の皆さんに協力していただいて映画を完成させたいと思っています。