2018年1月22日月曜日

茂山逸平(能楽師狂言方)        ・【にっぽんの音】能楽師狂言方 大藏基誠

茂山逸平(能楽師狂言方)        ・【にっぽんの音】
案内役 能楽師狂言方 大藏基誠
私は京都の茂山千五郎家の14代当主の千五郎のいとこになります。
父が前千五郎の弟です。(二世茂山七五三)

大蔵流には5家があるがそのうちに一つ。(大蔵家・山本家・茂山千五郎家・茂山忠三郎家・善竹家)
17人います。
正月は1日の観世会館の謡初めと平安神宮の奉納があります。
2日は狂言会があったりします。
3日は八坂神社の奉納、滋賀県の多賀大社での奉納があったりします。
大槻能楽堂が新春能が必ずあります。
4日に家のけいこ場で舞い初め式をしてひと段落します。
観世会の催しなので、観世会会長の片山九郎衛門さんのまえ囃子「高砂」があり、もう一番まえ囃子があって、獅子舞、狂言方から一つ小舞いを出す、と云うことになります。

大藏基誠:東京では1日は謡初目があって、2日は東京薬師寺別院で狂言の初笑いが有って、3日は舞い初め式で、奉納はないです。

狂言「唐相撲」:中国のお相撲さんと日本のお相撲さんが舞台の上で10番ぐらい取る。
日本のお相撲さんは一人で戦う。(自由な動きがある)
10年に一回出るかどうかぐらい。(一昨年やりました)
柱にものぼったりしますが、それが出来るのは従兄弟の茂さんだけです。
兄の正邦がバク天などもやりました。
NHK連続TV小説のドラマ「ごちそうさん」にも出ました。
ドラマに初めて出たのは小学校5年生の時の朝ドラに出ました。
京都弁が喋れる子供が欲しいと云うことで出ることになりました。
お爺さんが能の振り付けなどで出ていたので抵抗感はあまりなかったです。
出ることに対してどうかというような方もいます。
発信力が公演だけだと低いのでメディアの力を借りないと、と思っています。
私は茂山家にとって次男の次男だったので、活動がしやすかった。
ドラマにでるとそれぞれプロフェショナルがいるので、次の環境の興行形態がこういったこともあるのではないかと思います。
いたずら心のエッセンスを入れると父は怒りますが、表現するのに役立っていると思います。
狂言方は器用でないとなかなかできない。
兄弟で仲良くやっています。(地方で飲みに行ったりします)

狂言のお勧めポイント、登場人物と観客がいい距離感だと思います。
自分ではないと思える距離感で、気楽に笑える。
たいがいの登場人物にそんなに罪がない、おおらか。
誰も死なないので、本当に平和だと思います。
終わり方がもやっとしているのでその後どうなるのかなと、想像するのが面白い。
「おち」はない。
その場の大爆笑よりも、家に帰って布団に入って思い出してて笑う、これが狂言なんじゃないかなと、思います。
お客さんが笑うと演座も盛り上がりますね。
舞台上で凄くふざけたことを大真面目にやっていて、これが面白いんじゃないかと思います。
観賞すると云う目的でくるお客さんがいるが、楽しむと云う方向だと思います。
リラックスして楽しんでみていただければいいと思います。

自分の好きな演目、「口真似」。
(*あらすじ
主人は酒をもらったので、だれか酒の相手になる人を探してこいと太郎冠者に命ずる。太郎冠者は顔見知りの人を訪ね、主人と交際がないというのを無理に連れてくる。主人が客を見ると有名な酒乱の人なので、無理に連れてきた手前穏やかに帰そうと考え、太郎冠者に自分のいうとおり行動するよう命ずる。冠者は、主人の物まねをすればよいと勘違いし一挙一動主人の真似をするので、怒った主人が冠者を打つと冠者は客を打ち倒す。)

あれこそ狂言だと思っています。
太郎冠者がご主人様の云う通りに言ってしまう。
わざとやっているのか、天然なのか、気軽で面白い。
三番叟」を舞う気軽さはだれにも負けない。
能楽の囃子方以外の楽器で舞った回数の方が多いぐらいです。
津軽三味線とやったこともありますし、一番変わったのではロック三番叟、エレキギターとドラムを三番叟風ににアレンジした曲を京都市役所の前でやりました。
五穀豊穣、誰にでもわかる精神性と跳んだり跳ねたりする動きはやっていて楽しいし、見ても楽しいと思います。(歳を取って出来ないので若いうちにやっておきたい)
父は高校大学が剣道部なので厳しいです。
39歳になるので40歳で一区切りつけたい。
40歳からは仕事を選ぼうと思います。(そのための地盤を作っていきたい)
次の世代を前に出していかないといけないと思っています。
次の代の狂言師として子供が食えるようにしたいと思っています。

3日に「三番叟」、7日に「那須語(なすのかたり)」、5月に「釣狐」、6月に「花子(はなご)」をします。
凄く忙しいです。
「釣狐」は特殊な演目で他の舞台には還ってこない。
体を鍛えないといけないと思っています。(アスリート並みのトレーニングが必要)
8年前に1回やっていて身体が劣化していて、更に劣化しているので大変です。
3月から4月にかけては海老蔵さんと地方公演を一緒に回ります。











2018年1月20日土曜日

寺内順子(シンママ大阪応援団・運営)   ・シングルマザーに寄り添う

寺内順子(シンママ大阪応援団・運営)   ・シングルマザーに寄り添う
生活に困窮する母子家庭を物心両面から支える活動をしています。
運営は民間団体大阪社会保障推進協議会で、その事務局長の寺内さんがシンママ大阪応援団の運営の中心メンバーです。
シンママ大阪応援団はどんな活動をしているのか、シングルマザーの暮らしはどうなのか、どんな悩みが有るのか、伺いました。

民間団体大阪社会保障推進協議会は医療関係団体、福祉関係団体、労同組合、女性団体、障害者団体などが加盟していて、大阪府内に43市町村ありますが、そこを相手にして社会保障制度の問題を話したり、制度を作ってほしいとか、良くしてくださいとそういった運動をしています。
色んな方の相談に乗っていたが、高齢者の相談は多いがシングルマザーの相談はほとんどありませんでした。
2014年に生活保護についての電話相談員をやっていまして、シングルマザーの方からの相談がありました。
夫からの暴力から逃げて乳児を抱えながら一人で暮らしていた人でした。
離婚調停中で1年間で15kg体重が減ったそうで、役所に言っても生活保護の申請に行ったがことごとく働きなさいと言われて、弁護士の介入でやっと受けられるようになったそうです。
ケースワーカーからその後も色んな事を言われたそうです。
夜働けとか、身体を使って働けとか言われたそうです。
子供も重度障害者で、家族介護料も一切出ていなかったのが判りました。

若い人はあまり新聞は読まなくてTVも見なくて、ラジオも聞かない、スマートフォンから情報を得ている状況でしたので、ホームページを立ち上げるようにしました。
2015年5月にシンママ大阪応援団を作りました。(シンママの言葉を初めて知りました)
貧困問題の弁護士さん、司法書士さん、研究者の方とかに呼びかけてホームページの中身を半年かけて練り上げました。
SOSメールが入ってこられろようになっていて、現在70件を超えています。
必ず一回は会うようにしています。(自宅に行くか、最寄り駅まで行きます)
生活保護、借金とか、医療機関への問題とか話によっていろいろ動きます。
機関へは一緒に行くようにしています。
DV問題、結婚しているが子供が出来たとたんに男性がいなくなるケースが多いです。
夫のギャンブル依存とその借金の問題、暴力が絡み合っています。
結婚に至らなくても子供が出来て男性がいなくなるケースも多いです。
相談に来る100%が男性が悪い状況です。
子供がいる為とかお金を一切渡さないケースもあり、逃げるにも逃げられない。
自分への暴力は我慢するが、子供に暴力が及んで逃げる場合が多いです。
夫が謝って優しくなり、元々は優しい夫なんだと思って今回は逃げない、そういうケースが多くて自分の方に非があると感じてしまう、こういったこともDVから逃げられない理由ですね。

シングルマザーの半分以上は貧困です。
乳幼児期、小学校の低学年の子を持つ人はまだいいが、中学以上になると厳しい。
教育費の問題です。
削るところは食費からしかないので月1万5000円と言うのも珍しくない。(親子3人で)
一昨年の11月から食糧支援をするようになりました。
フェイスブック、ブログなどで呼びかけて応援してもらっています。
若い人の労働がない、時給900円程度で月に18万で手取りが15万円。
子供の為の休みが必要なので正規雇用ではなくパートが多くなる。(給料が安い)
女性の賃金が安い。
生活保障が生活保護制度しかない。(制度の問題)
児童手当(1万円位)と児童扶養手当(一人目が4万3000円で二人目目は1万円)
国民保健料が大阪市の場合、所得が100万円でも16万6000円。(親子3人)
これが暮らしを圧迫しています。
就学援助制度があるが実態に見合わない。

おつきあいをするのにはお金がかかるのでどうしても孤独になってしまう。
いろいろ企画してそれを解消するようにしています。
安く出来る工夫をして京都旅行をしたことがありましたが、その時の感想文があります。
おいしい食べ物、周りの人との楽しい時間など、感謝の気持ちを書いてくれました。
ぶどう狩りも企画して30人近くの親子が来ましたが、同様に感想文を頂きました。
私は料理が好きなので家で料理レッスンなどもします。
成人式とか他の行事での振袖支援などもやっています。
気楽に来ておしゃべりをする安心できる場を提供したいと思っています。

今140人ぐらいのサポーターがいます。
独立して一般社団法人として法人格を取ろうとしています。
拠点がないので場所を構えて1階にカフェを構えて、2階に事務所と居場所(泊れるような)があればいいなあと思って進めようとしています。
スキルの高い人たちが多いが、実際は時給の仕事をやっていて、何とかこういった力を生かせるような仕事が出来ないかなと思っていて、能力を生かせる仕事が出来ないかと思っています。
温かな人のぬくもりを経験したことがなくて、心配してくれる人がたくさんいると云うことを知ってもらいたいと思います。
大阪では難しいが自然と接する機会を作っていきたい。
文化に接する、そういった機会も作っていきたい。
熊本でも同様な組織が立ちあがりました。
私自身がシングルマザーですが、両親が助けてくれましたので、その分をシンママ大阪応援団でやっていきたいなあと思っています。













2018年1月18日木曜日

鈴木潤吉(日本語学校顧問)       ・100年飛び続けた“赤い鳥”

鈴木潤吉(日本語学校顧問)       ・100年飛び続けた“赤い鳥”
大正7年に作家で詩人の鈴木三重吉が子供の楽しい空想や感情を素直に表現できる詩と歌を作ろうと知人北原白秋の協力を得て児童文芸雑誌「赤い鳥」を自費出版して今年で100年になります。
留学生に日本語を教えてきた鈴木三重吉の孫の鈴木潤吉さんは10年前父の「三重吉のことは頼むぞ」と言い残した言葉を受け、爺さんのこと、どんなことを成し遂げた人なのか知ろうと、196冊の雑誌「赤い鳥」を購入し、三重吉が選んだ童話、童謡を全て読んだとおっしゃいます。

爺さんのことなので、両親も話していたし、父が広島の爺さんのお墓参りに連れていってくれたりもしました
本もあったし子供ながらに家と関係有るんだなと知りました。
小学校2,3年の国語の本に「少年駅伝夫」という物語が載っていました。
「これは潤吉君のお爺さんが書いた話だよ」と先生が言ったが、あの時は恥ずかしかった。(何故かは判らなかった)
爺さんのことは中学、高校でも無関心を装っていました。
10年前に父が亡くなりましたが、その前頃に、「三重吉のことは頼むぞ」と言われました。
今まで爺さんのことはほとんど知らなかったし、作品も真面目に読んで無かったので自分でも愕然としました。(50代なかば)
その後小説などを読みあさったりしました。
「赤い鳥」の雑誌、小説などを神奈川近代文学館、広島の中央図書館、成田の市立図書館に分散して全部寄贈してしまっていましたので、家には何も残っていませんでした。

4,5年前にインターネットの古本サイトで復刻版を三万円で買いました。(196冊)
「赤い鳥」は大正7年から20年の間に毎月1冊出して全部で196冊でした。
自費出版で出した文芸雑誌でした。
子供向けの大衆雑誌は当時沢山ありました。
内容は立志伝、勧善懲悪もの、おとぎ話、冒険談とかでした。
三重吉は東京帝大に入学して夏目漱石に会って心酔します。
夏目漱石に勧められて三重吉は小説を書いたのが「千鳥」と言う小説です。
「ホトトギス」に載って文壇デビューしたと云うことです。
10年ぐらいの間に80編の小説を書いたが、花魁に淡い恋を抱いたと云うようなものが多かった。
もっと生身の人間を描かなければいけないと言われたが、時代遅れとなってしまって、何が出来るのだろうかと言うことになる。(研究者の意見)
「すず」伝説と言われているものがある。(すず:三重吉の長女)
子供のために何かいいものがないかと本屋を回ったが、当時の雑誌に対して憤慨して、それならば俺が芸術的なセンスのあるいい物語を出してやろうと決心するわけです、それがすず伝説と言われている。

モットーとして「残念ながら日本人はいまだかつて子供の為の純麗な芸術性のある物語を持っていない。」と書いている
大正7年に出版する。(漱石は2年前に亡くなる。)
北原白秋、島崎藤村、芥川龍之介などが筆を担当する。(一流の作家を総動員する)
西条八十の「かなりあ」の詩と楽譜も載るようになる。
北原白秋が中心になって童謡も載せていった。
「蜘蛛の糸」「杜子春伝」「一房の葡萄」「ごんぎつね」など戦後の教科書にも載っている。
時代を越えて読み継がれているものがたくさんあります。
昭和11年に亡くなりますが、196冊目を出版して続かなくなる。
「小さなものたちへいい童話を届けたい」というその情熱を死ぬ前まで抱いて生きてきたことは凄いと思います。
「赤い鳥」は飛び続けました。
松谷みよ子先生の「モモちゃん」シリーズ、坪田譲治、「犬のおまわりさん」を作った佐藤 義美が若い頃「赤い鳥」に書いています。
巽聖歌も「赤い鳥」に作品を載せています。
金子みすゞが書いた詩も稿欄に載っている。
海達公子 17歳で亡くなっているが、その詩も投稿欄に載っている。

ファンタジーという形での宮崎駿の作品を見たら三重吉は感動すると思います。
時代を越えて読まれるものは大人も感動する。
漱石四天皇、鈴木三重吉、森田草平、小宮豊隆、安倍能成。
漱石崇拝の権化みたいな人たちだった。
鈴木三重吉は大酒飲みだったが、また完璧主義、凝り性だった。
昭和6年ぐらい、北原白秋とちょっとしたきっかけで絶交してしまう。
白秋が童謡の原稿を出すのが遅れて間に合わなくなってしまって、三重吉は怒り心頭してしまう。
悪いことにたまたま酒を飲んでいるときで「そんな童謡は捨ててしまえ」と言ってしまって、白秋のプライドを傷つけて絶交と言うことになったようだ。
しかし鈴木三重吉の「赤い鳥」運動には白秋は敬意を表している。
言葉で人間性を豊かにして様々なことを受け入れることが出来る人達を育てたいと云うことで祖父とどこか通い合っているところがあるのかなと思っています。













2018年1月17日水曜日

早坂暁(脚本家)            ・母を語る(H16/10/19 OA)

早坂暁(脚本家)       ・母を語る(H16/10/19 OA)
昨年12月に亡くなられた早坂暁さん。
昭和4年愛媛県生まれ、旧制松山中学を経て、海軍兵学校に在学中に終戦を迎えました。
日本大学芸術学部演劇科を卒業後、新聞社の編集長を経てTVドラマの脚本や演出を手がけるようになります。
代表作には「戦艦大和日記」や、生家をモデルにした「花へんろ」、胎内被爆者を主人公にした 「夢千代日記」などがあります。
常に庶民の目線で描く独自の作風が多くの共感を呼びました。

渋谷が一番長いです。(30年になります)
緑も一杯あり(明治神宮、代々木公園)、劇場、デパートなども近くにあり珍しいです。
若者も集まりファッションの流行なども判ります。
愛媛県の瀬戸内の北条町に生まれました。(今の松山市内)
河野水軍の発祥の地でもありました。
母方が河野水軍の7將の一人だったらしいです。(出城を任されていた)
父親は隣町の北条町で商売をしていました。
商家に嫁いだので母は非常に戸惑ったようです。
両親はいとこ同士でした。
母は女学校に行っている時から歌が上手で東京の音楽学校に行きたいと言ったが許可してもらえなくて、家を出て行くと言うふうに思ったそうです。
お金を借りに伯母さんの所に行って、お金を借りて出かけようとしたら船が出なくて、関東大震災が起きた時だったそうです。
東京が無くなってしまったと言う号外が出て、そんな所に行ってもしょうがないので暫く家にいなさいと言うことになりました。
伯母がうちが貰うからと言うことに親の方で勝手に決めて父の処に嫁ぐことになったそうです。

昭和4年に生まれました。
いとこ同士なので子供を産む事に対してしてはちゃんとした子が生まれるかどうかと言う疑念は持ってたようです。
結婚の承諾を得ようとしたときに医者に相談に行ったそうです。(遠縁の医者)
3人目が僕です。
生まれてきてもしばらく泣くこともなく死産かと思ったそうです。
超虚弱児で3歳まで立てなかったそうで(這うだけ)、奇妙な病気ばっかり掛かって、この子は10歳まで生きれるかどうかと医者に言われたそうです。
骨がちゃんとしてないせいか、立てなくて、お坊さんに相談したら名前が悪いと言うことを言われて、最悪の画数だそうです。
理由もなく名前を変えようとするには、本籍から変えないとダメと言われたそうです。
本籍を変えるには一つだけ方法があると言うことで、僧籍に入れば変えられるとのことでした。
河野水軍の菩提寺の処で、うちで得度式をやりましょうと言うことになりました。
すこしその時の記憶があります。
お坊さんが二人あらわれて剃刀を持ってきたので泣き叫んだことを覚えています。
本当に剃る訳ではなくて、刃を反対にして剃る真似をするだけでした。

名前を変えましたが一向に立って元気になる気配はありませんでした。
四国遍路をするしかないかと言うことでした。
四国遍路では難病の人もたくさん歩いていました。
母は私を乳母車に乗せて母の知り合いと四国を回ったのですが、かすかに覚えています。
急な坂道、山道、峠があるのでその時はおんぶして歩くしかなくて、背中に負われて坂道を上がった坂道とか、一緒に転んで痛い思いをしたとか、断片的に覚えています。
2カ月半かかって帰ってきました。
しばらくして立つことが出来ましたが、こんなにうれしいことはなかったです。
オリンピックの三段跳びのラジオの中継をしていた時でした。(西田 修平選手)
皆がワーッと騒いでいた時で、おふくろが振り向いたら僕がよろよろしながら店に出てきたと言うんです。
大きくなったらおまえは四国を回らないといけないと言われて、30歳頃に回りました。

四国遍路は1400km有るんで大変でした。
平坦なところばかりではなくて急な坂はあるし、雨の日もあるし風の強い日もあるし、そういった中で1400km歩くのですから、母はさぞやたいへんだったろうなと思います。
うちはデパートだったのでアメリカ製の頑丈な乳母車がありそれを使って行って修理をしたりしながら乗り潰しています。
親爺は半ばあきらめていたようですが、母親の一念と言うものは凄いですね。
文房具も扱っていたので、下関の金子みすゞさんの家が大陸へ文房具、本を輸出していた卸屋さんでうちの富屋も納入していた関係で、おふくろはそこの娘さんが金子みすゞさんと言うことをよく知っていて、おふくろは金子みすゞさんの詩をよく知っていて夜などに良く読んでくれました。
30歳前で自殺するわけですが、僕が2歳ぐらいの時でどうしてあんなに素敵な詩、童謡を作ってくれる人が死んだんだろうとしきりに言っていました。

小学校の6年に太平洋戦争がおきまして、軍国主義教育が徹底して行く中で、松山中学に入った時には身体を鍛えることばかり前面に出ました。
その頃から急速に元気になりました。
裸足で駆けて上半身裸になり乾布摩擦をしたりするわけですが、それが良かったのかなと思います。
海軍兵学校に入れる肉体になっていました。
大きな軍艦に乗りたいと思いました。
戦艦大和が有ると言うことで大和に乗りたいと思って海軍兵学校に入ることになりました。
母親は戦場に送り込むことを喜ぶ人はいなくて、男は全員戦場に狩りだされると言うような状況になり、拒否する訳にも行かず、母親としては力が及ばない時代だったと思います。
半年で終戦になり助かりました。
兵学校では赤痢にかかりがりがりになって帰ってきました。
母が迎えに来ましたが僕を判らずにいて、それほど痩せていました。
松山中学に復学して、国の為に戦えと言って教育した教師が悪かったとも言わずに、教科書を取りだして黒く塗りつぶせと言って授業を始めるので本当に腹が経ちました。
教師、教育に対する不信感を持ちました。
先生は間違った教え方をしたという一言も言わなかった。

登校拒否をして家でごろごろしていましたら、母親が新しい教科書を持って来なさいと言って、歴史書など以外の理科系は全然塗られえていないじゃないか、こういうところがあるから行きなさいと云うんです。
1年近くいかなかったが学校に行き出しました。
理科系は変わっていないから医者になりなさいと言われました。
医者になるのは嫌で演劇の方に入ってしまう訳です。
家は劇場も持っていましたので、映画、芝居浸けになっていたのでその方に逃亡する訳です。
僕の作品を母親はよく見てくれていました。
なかなか地元では喜んではくれませんでした。
NHKが放送してくれた時にはようやっと一人前になったと言ってくれました。
「夢千代日記」などを見ていて、日本海側の暗い話を書かないで瀬戸内海の明るい話を書いたらどうと言われて、母親がうちらの街の事は楽しいよと言われて「花へんろ」を書きました。
おふくろが生きている間はあそこが違うのではないかとか言われそうで、描きにくかったですね。
結局おふくろが亡くなってからでした。
ちゃんと生きれる子供にしてくれたのはお袋のお陰だと思いますから、本当に凄いなあと思います。
お遍路文化、遍路の持っている意味みたいなものを凄く人生の中に取りいてれ、取り入れざるを得ない様になって行きました。
遍路さんは小さい頃は陰気くさくて嫌でしたが、段々大きくなるにつれてあそこは日本中の人の悲しみ悩み喜びまで表現して歩いている。
遍路道に佇めば今の日本人が良く判る。
今日本人が何を考え、何を悩み、悲しみ、何を喜ぼうとしているのか遍路道にいるとそれが判ります。
78歳で母はなくなりましたが、親爺が介護し、看取られて行きました。
母は姉しか聞き取れない言葉でいって、その時姉がクスッと笑って、「メガネをお掛け」と言ったと私に言ってくれて、(メガネをかけると素敵に見える様で)、最後の言葉として「メガネをお掛け」はないだろうと思ったが、おふくろが亡くなった後に「メガネをお掛け」と云うことを思い出すと思わず笑ってしまうんですよ、悲しませずにしてくれたんだなあと思います。




2018年1月16日火曜日

田中昭雄(国立小山工業高等専門学校 准教授)・ロボコン30年

田中昭雄(国立小山工業高等専門学校 准教授)・ロボコン30年
正式名称は「アイディア全国対決高等専門学校ロボットコンテスト」30回を迎えました。
今では高専のほかに学生ロボコンという大学生、高専など参加枠を広げた大会が有ってロボコンも何種類も行われているが、そのスタートと言ってもいい「高専ロボコン」、NHKでも毎年放送行っていてもっとも歴史のあるロボコンです。
異なる競技課題が毎年与えられて、例えばお互いのロボットやゴールにくっついている風船をいかに早く割るか、又別の年は障害物を交わしながら敵陣にいかに早く箱を積み上げるか、その年その年の課題に対してアイディア満載のロボットを製作しその成果を競うと言う大会です。
先月おこなわれた30回大会のタイトルは「大江戸ロボット忍法帳」と言うタイトルでした。
25年にわたって学生に指導している国立小山工業高等専門学校 准教授 田中さんに伺いました。

第一回は乾電池カースピードレース、昭和63年 全国で12校参加。
35mを60kg以上の人を一人載せて乾電池2個を動力源に早く走ってゴールに行くと言う決まりでした。
もの作りの喜びを教えようと言うことで当時東京工業大学の森先生が授業で始めたことを知り始めたが、1回で終わると思ったら、2回目からが今のロボットコンテストになりました。
小山高専を卒業し、大学を卒業して小山高専に戻ってきたが、93年の大会から高専ロボコンの指導教員としてかかわるようになりました。(第6回)
高専では最終学年は研究テーマが与えられてテーマを発表します。
前回の大会は57校、62キャンパス、124チームとなる。
4月にルールが発表となります。
昨年末の大会ではロボット自体に風船を付け、相手陣地にも風船がありいかに早く相手の風船を割るかを競う。

ルール設定が重要です。
ロボット同士がぶつかり合うので、どうやってうまく進行するかなど、ルール設定が難しい。
チャンバラなのでアームをロボットに付けるが刀の裁き方などアイディアのポイントになります。
壊れないように耐久性、信頼性などが重要になります。
秘密道具の設定もありいかに面白い道具でいかに相手の風船を割るか、そこの部分に期待しました。
大きさと重量だけが決まっています。
4月にテーマが発表された後に、6月の終わりが第1回目のアイディアシートの提出があり、その1カ月半位の間に学生の間でアイディアを出し合って、10~20のアイディアが出てきますが、アイディアを絞っていきます。
前回はバトミントンのシャトルの形状した飛び道具を当てるとか、ムチをロボットが振り回すとかを考えました。
ブーメランを使った処もありましたが、難しいと思いますが、良く挑戦したと思います。
デザイン賞もあります、勝つことも大事だがデザインで楽しませるとか、各校色々な挑戦をしています。

3,4年生あたりが設計を担当します。
イメージした通りには動かないとかいろいろ問題が起きるので、図面を修正して作り直したりして行きます。
これでいいのかとか迷いもあったりしますが、時間との関係が勝負になってきます。
地区予選があり、テストランが前日にあり、そこで他校のロボットを見て吃驚します。
他校のロボットの動きを観察して作戦を練ります。
決勝までに4~5回の戦いがあります。
壊れたりするので次の試合までに調整します。
小山高専ではメンダコをデザインしましたが、見せたい為には勝たないといけないのでその辺のバランスが難しい。
ロボットの製作活動はクラブ活動になります。(授業では出来ない)
授業では出来ないいろいろな経験をするので自分たちで勉強し加工したりするので、授業よりも一生懸命やっているんじゃないかと思います。
設計も3次元CADで図面も描きますが、会社に入っても使えるソフトなので勉強になっていると思います。
チームワーク力が高専ロボコンでは重要になります。
形になって無線操縦して動くと、先ずやったと言う気持ちになります。

会場に持ち込んでトラブルが色々あったりします。
空気の動き、照明などでトラブルをすることもあります。(飛び道具、センサーとか)
戦っているときにも予期しない色々なトラブルがあります。
何ヶ月も時間をかけて試合に負けて泣いてしまう学生もいます。
全国大会も5回勝たないと優勝できない。
ぶつかり合いでどう試合展開するのか判らないので、大変です。
ほかに技術賞、デザイン賞、アイデア賞、アイデア倒れ賞などがあるがロボコン大賞を何処の高専も狙っています。
優勝がロボコン大賞と言うわけではない。
大分高専が倒れてもすぐ起き上がって風船割りをする、ロボコン大賞をもらった。
長岡高専のブーメランがアイデア倒れ賞を貰うことになりました。(もっと当たればロボコン大賞になっていたのではないかと思いました)
遊びの部分が有ると言うことが第一回からずーっとあります。
発想力等会社に入っても研究開発の仕事では力になって来ると思います。
ロボットの性能、制御技術、アイデアなども多彩になって、今後のロボコンがどんなものが出てくるのか期待があります。
今後の日本のもの作りの世界で活躍してもらいたいと思います。
学生のもの作り大好きということは今も昔も変わっていません。
チームがまとまらない様な時期には厳しく指導する時もあります。
でもやっていて楽しいです、授業中には見せない処を見ることが出来ます。
真剣にやるから色々なところが見えて来ます。










2018年1月15日月曜日

上村愛子(NHK放送 ナビゲーター)   ・【“2020”に託すもの】笑顔で伝えるオリンピック

上村愛子(NHKピョンチャンオリンピック放送 ナビゲーター)
・【“2020”に託すもの】笑顔で伝えるオリンピック
1998年長野オリンピックが最初、それからソルトレイク、トリノ、バンクーバー、ソチ、ずーっとオリンピックに参加してきて、中学校以来オリンピックに何もない時を迎えてます。
ピョンチャンオリンピックは初めてそとから見るオリンピックの様な気がしています。
1998年の長野オリンピックが高校3年生でした。
今度は放送ナビゲーターとしてピョンチャンに行きますが、スキーに関してはある程度良く判りますけど他の種目については私でいいのかという気持ちはありますが、選手の気持ちとか感じることを皆さんに伝えることが出来るのではないかと思っています。
ソチはよく覚えていて、一番自分らしくスタートに立てた試合だったと思います。
自分らしく戦えた試合だったと思います。
決勝で3本目を滑れる人は6人で、その最初のスタートでした。
自分でも驚くほど落ち着いてはいました。
フルアタックの滑りを出すのは難しかったが、滑り終わったときにはもうこれ以上ないと思うほどやりきった気持ちが凄くあってタイム、ポイントを待っているときにはこれが最後なのかと想うほど感極まった状態でした。

モーグルはターンとエアー、タイムの3つの要素で得点が決まるが、タイムは一番早かったが、エアーとタイムは全体の4割しかなくて、ターンが6割を占めます。
ポイントを見たときには、自分のやりきった気持ち、思いとは違って順位は下だったと感じました。(20.66 タイムは30秒68)
トップ3の位置には厳しい得点かなあとは思いました。
カービングの得点が世界の流れのなかで違う技術の中での得点だった。(評価の仕方がいろいろ意見の有るなかでの得点だった)
モーグルでは50回ターンがあるが、細かくジャッジを見ているが、カービングの難しいところはアタックするからこそ板がたまにはじかれるとか危ういシーンがあるので、板を少し横にずらしながら滑って行く選手がほとんどで板が開くとか、はじかれるとかというミスが少ない。
そういった滑りは減点要素が少なくなると言うことになる。
私はチャレンジャーする気持ちが強かったので、横に滑らす事ではなくて果敢に攻めてそれからがミスが出ないようにと言うことをやってきました。
結果は4位でした。
ソチは硬いバーンだったので、押さえる選手の方が多い中でアグレッシブに滑ることが見ている人には伝わったのかなあと思うし、私としては凄くいいオリンピックだったと思います。
滑り終わった時にはすでに泣いていたので、出し切れる物をようやく出せたという達成感とか、もうオリンピックも最後と決めていたので、自分の中から沸き上がってくる気持ちをそのまま受け止めて過ごしたので笑ってもいたし泣いてもいました。
オリンピックを目指して皆さんに応援していただいて、一番いい恩返しはメダリストになることだと思ってきましたので、金メダルを目指して自分自身がやってきたことに嘘はないので胸を張っていられるように皆さんから見てもらえると選手としては有難い、幸せと言う気持は有ったので、皆さんにすがすがしいという気持ちを伝えられて良かったと思います。

5大会連続入賞しましたが、バンクーバーの終わった後に「なんで一段ずつなのか(4位)」、と言う思いはありました。
それぞれ4年ごとに有るので、進化した状態で臨ませてもらって、自分に対する期待もありますし、それぞれに感じたオリンピックだったと思います。
やはり選手として金メダルを狙っているからにはと言う思いがあり、なかななかジャンプアップすることが出来ないのはどうしてか答えとして出てこなかった時でした。
総合優勝もしたりしていたので取れないわけではないと思っていたが4位に終わってしまって、この競技人生は何なんだと思って、悔しい気持ち、情けない気持ちで「なんで一段ずつなのか」と泣きながら話してしまったことを覚えています。
長くやって来てオリンピックの金にこだわることによって、進化しながらメダルを争える様になり結果として、総合優勝、世界選手権の結果に繋がったと思います。
オリンピックの目標は自分にとっての大事なモチベーションになったと思います。
オリンピックいうものがなかったら、あそこまでスポーツを一生懸命取り組めない凄く大きな目標だと思います。

モーグルを始める前はアルペンスキーを6年間やっていましたが、モーグルを初めて見たときにコブを上手に滑る方は当時いなくて、中学生だったが、コブを上手に滑れて恰好いいだろうなと思いました。
コブを滑って行く技術、エアーを決めたり音楽も鳴って会場が盛り上がると言うことを感じて、楽しんでもらえる競技だと感じて、出来たら主役になりたいと思いました。
初めてワールドカップの大会を見ることが出来たので、コブを上手に滑る姿を見て、幸運だったと思います。(中学2年生の時)
上手な人を見て何を自分が受け取るかと言うことは大事だと思いました。
モーグルを観た後はひたすらコブ斜面に毎日通って、その後日本のトップ選手のモーグルの合宿に参加させて貰って、そこでしっかり教えてもらえる環境になり、オリンピックに出られた下地になったと思います。
変わることはたいへんですが、アルペンからモーグルに変わることはあんなふうに滑ってみたいと言うイメージが持てたことがモーグルに飛びこめるきっかけの一つになったと思って、でる大会も評価してもらったので、モーグルが合っているのかなあと思いました。
いつかは引退するとは思っていましたが、怖かった。
バンクーバーの後に考えたことはあるがもう一度やるというチャレンジが出来たことは、いま引退したことを自然な流れだと受け入れています。
バンクーバーの後に休んだ1年がなかったら悩んでいたかもしれない。

昨年からNHKの放送の現場に行かせて頂いていて、氷の世界の競技にはなかなか見る機会がなくてカーリングとフィギュスケートを見て現場に行って感じさせられて、フィギュアスケートは華麗で美しいイメージですが、生で見ていると着氷の音が凄くやっぱりスポーツだと感じるし、手に汗を握ることに毎回なります。
5回オリンピックに行っていますがフィギュスケートを観たことがなかったです。
生でないと判らない部分が沢山あります。
日本と言うのはスポーツ文化は根付いていると感じています。
オリンピックを見て、スポーツに色んな夢を持っていただけると考えます。
2020年は直ぐ目の前で、目の前でスポーツを見て肌で感じた人は絶対何かしら感ずるものがあって夢を持ったり、前向きな想いとかポジティブな気持ちが沸くのがオリンピックかなと思っています。
感動はこれからもズーっと続いていくんだと思います。