2025年7月13日日曜日

南こうせつ(シンガーソングライター)   ・歌は自然との共作

南こうせつ(シンガーソングライター)   ・歌は自然との共作 

南こうせつさんは1949年大分県出身76歳。  1970年にソロ歌手としてデビューし、その直後にかぐや姫を結成、「神田川」「赤ちょうちん」「いもうと」などのヒット曲を発表、グループ解散後もソロ歌手として活動を続け、今年デビュー55周年を迎えています。 40年以上故郷大分県の国東半島にある杵築市の大自然のなかで暮らし、その環境を生かしながらシンガーソングライターとしての活動を続けています。  深夜便の歌の「愛こそすべて」の制作に込めた思いや、現在暮らしている故郷大分県での自然に囲まれた生活などについて伺いました。

デビュー55周年を迎えました。  来援3月までツアーがあります。  76歳ですが、1970年代、「神田川」がヒットしましたが、ほとんどの方が還暦を越えてゆくんです。 その方たちがお客さんで来ていただいています。  改めて聞くとこういう意味だったのかと、不思議な感じがすると、味わいが違ってくるというようなことを聞いています。  人生を深く味わいながらもありかなとコンサートを進めています。  「神田川」の歌との出会いが私の人生だったですね。  「神田川」喜多條忠さんからぎりぎりで出来たという電話があって、メモをして、2番を書きながら何となくメロディーが浮かんできました。 (喜多條忠さんが、早稲田大学在学中に恋人と神田川近くのアパートで暮らした思い出を歌詞にした。) 電話を切って3分後にはもう曲が完成していた。 

今回のツアーのテーマとしては55年間の自分と言うものをステージで再現してみようという事です。  ひょっとしたらこの町で歌えるのは最後かもしれないと思うと、切ない気持ちにもなります。  

深夜便の歌「愛こそすべて」、テーマとしては二つあって、今迄歌って来た人生を歌うか、夏の時期なので夏を歌うか、迷いました。  結果的には夏を歌う事にしましたが、いろいろな体験、誰かさんを好きになった思い出などを歌にしようと思いました。  

*「愛こそすべて」 作詞:渡辺なつみ  作曲:南こうせつ 歌:南こうせつ

出会い、別れ、縁と言うのはちょっとしたことで変わってゆくんですね。  あの人はどうしているんだろうというのはどなたにもあると思います。  青春時代の思い出を思い出してもらえればいいと思います。  幸せを感じると思います。  

大分で暮らして43年になります。   波の音からメッセージを感ずることがあります。   新しい町の歌を作って欲しいという要望があり、「おかえり」の歌があり、この町にぴったりだと思いました。  星野先生の詩が素敵だと思いました(50年前に書いた詩)

*「おかえりの唄」  作詞:星野哲郎 作曲:南こうせつ 歌:南こうせつ

喉が続く限り自分の気持ちを歌っていきたい。  歌っている瞬間をお客さんと共有したいです。  

*「神田川」  作詞:喜多條忠  作曲:南こうせつ 歌:南こうせつ



 









2025年7月12日土曜日

眞貝理香(東京大学森林風致計画学研究室) ・ミツバチが教えてくれたこと

 眞貝理香(東京大学森林風致計画学研究室) ・ミツバチが教えてくれたこと

パンに塗ったりヨーグルトに掛けたりと食卓に欠かせない蜂蜜はケーキをはじめ洋菓子や料理にも広く使われてい居ます。  そんな蜂蜜を集めてくれるのは蜜蜂です。  蜜蜂には西洋から入ってきた西洋蜜蜂と在来種の日本蜜蜂がいますが、現在スーパーなどに並ぶ蜂蜜のほとんどは西洋蜜蜂の蜂蜜です。  一方近年趣味としての日本蜜蜂の養蜂がブームになっているという事です。 眞貝さんは和歌山県古座川町を中心に日本蜜蜂による伝統養蜂を調査研究し、情報を共有しようと日本蜜蜂養蜂文化ライブラリーと言うホームページで、その成果を発信しています。 

蜜蜂の群れには女王バチがいて働きバチは全員メスです。  オスは生殖の時働いて後は亡くなる。  働きバチの寿命は1か月ぐらいです。  女王バチは2年~4年とか状況によって違いがあります。  女王バチと働きバチのDNAは全く同じなんです。  王台という特別な部屋に産み付けられると、働きバチはこれは女王様になるハチだという事で、特別なエサを与えます。 (一生涯)  そのエサはロイヤルゼリーと言います。 働きバチが1か月生きると言いましたが、蜜を取る期間は最後の1週間ぐらいなんです。 その前は巣の掃除をしたり幼虫の世話をしたりします。  働きバチは1週間でスプーン1杯ぐらいの蜂蜜を取って来る。  花蜜を取ってきて、口移しで花蜜を渡して20%ぐらいの水分量に濃縮します。 口には酵素を持っているので成分が変ります、それが蜂蜜になります。  蜂蜜は餌でもあり越冬用の餌でもあります。  蜂蜜は常温保存が出来ます。  糖度が高くて微生物が繁殖できないので腐らない。  結晶するかどうかは蜂蜜の種類によります。   ブドウ糖が多い蜂蜜は結晶化しやすい。 

日本人の蜜蜂との関りは海外とは違うのではないかと思いました。  環境と食と蜜蜂のことを研究してみようと思いました。  主に日本蜜蜂の研究をしていて、和歌山県古座川町を中心に行っています。  熊野地域は養蜂の歴史が古くて江戸時代から特産でした。 祖母が古座川町の故郷です。  丸太を空洞にして巣箱を作っている家庭が多いです。  

日本蜜蜂は東洋蜜蜂の一亜種という事です。  1590年代朝鮮半島との文禄の役の時に熊野の或る人物が朝鮮半島から熊野に持ち帰って、広まったと言われています。 巣箱で飼うようになったのは江戸時代からです。  北海道と沖縄以外には居ます。  西洋蜜蜂が日本に入って来たのは明治10年と言われます。  アメリカから輸入しています。  採蜜量が日本蜜蜂に比べて数倍から10倍と言われています。  女王バチを人工的に育成することが出来ますから、群れを増やしたり分けたりすることが出来ます。  日本蜜蜂は非常に難しい。 西洋蜜蜂は日本蜜蜂よりも一回り大きいです。(12~14mm)  西洋蜜蜂は半径2~3km、日本蜜蜂では1~2kmの範囲になります。  西洋蜜蜂の方が働きバチの数も多くて2~4万匹ぐらいで、日本蜜蜂は数千~1万匹ぐらいです。   蜜蜂の輸入が93%で国産は少ない。  輸入の66%は中国からです。  日本蜜蜂は自家消費とかが多くて正確な量はわかっていません。  

西洋蜜蜂は飼い方が標準化されていて、スワップ式巣箱が使われています。  日本蜜蜂は中が空洞で自由に巣をつくるようなものです。  西洋蜜蜂は咲く花を追って移動が出来るが、日本蜜蜂の場合はそれが難しい。  珍しい蜂蜜5種類持参。  柿の蜂蜜、そばの蜂蜜、いろんな花が混じった蜂蜜、日本蜜蜂の古座川町の2種類。 (1種類は2回越冬させた蜂蜜熟成度が高い)  

昭和60年と令和2年の花の量の比較でレンゲ草では16%になってしまっている。  みかんでは24%ぐらい、アカシアで50%ぐらい、主要な蜜源が減っている。  暑いことも蜜蜂にとっては大変。  昆虫全体が減ってきている。  昆虫の総数が1年に2,5%ぐらい減ってしまっている。  農薬、都市化(緑が少なくなる。)、気候変動などいろいろな問題がある。  受粉に関わる昆虫(送紛者)が減ってゆくと人間にとって大問題となる。  受粉に関わる昆虫(送紛者)が日本のもたらしている利益(経済価値)を推定した値は2013年では約4700億円で、3300億円分は野生の送紛者による。  生物多様性が大事。

ドイツのバイエルン州では蜜蜂を守るための条例を2019年に作りました。



2025年7月11日金曜日

松本猛(美術・絵本評論家 作家)    ・母・いわさきちひろから受け継いだ平和への願い

松本猛(美術・絵本評論家 作家)    ・母・いわさきちひろから受け継いだ平和への願い 

戦後80年の今年、改めて注目を集める絵本があります。  淡い色の水彩画で可愛らしい子供の絵をえがいた画家いわさきちひろさんが昭和48年に出版した「戦火の中のこどもたち」戦争に巻きこまれた子供たちの姿が詩のような文章と共に描かれた作品です。  当時いわさきちひろさんは東京芸術大学の学生で21歳の息子松本猛さんに、「この絵本を一緒に作ってみない。」、と初めて声を掛け母と子で制作に取り組みました。  絵本完成の翌年いわさきちひろさんは病気のため55歳で亡くなります。  松本猛さんはその3年後、世界で初めての絵本の美術館「いわさきちひろ美術館」を設立、その後50年余り絵本に携わって来ました。 松本猛さんは今年74歳、50年余りの研究の集大成として、「絵本とは何か、起源から表現の可能性まで」と言う本を今年出版しました。  半世紀前に母とともに作った最後の絵本、そこから引き継ぎ切り開いて来た人生について、美術評論家で作家の松本猛さんに伺いました。

東京に来るのは月に2,3回ぐらいです。  絵本がいま平和のことを語る絵本が凄く増えてきているので、そういうものの関連の仕事が増えてきています。  あちこちで紛争があり、戦争を描いている絵本も増えてきている。  1970年以降毎年のように必ずそういう絵本が出ています。  特にウクライナのことがあって増えてきているような気がします。 絵は共通言語で国境も越えられ、親と子が絵本を通して語り合えるんです。  子供の時から平和を知ってもらいたいという人たちが多くて、だから戦争の絵本が出てくるんだと思います。   どうしても戦争が地球上からなくならないからだと思います。 

ちひろは戦争が終わった年は26歳でしたが、その世代前後は、戦後スタートラインが皆同じだったんですね。  やっと戦争が終わって自由に表現できるようになった。  戦争抜きには表現が出来ない人たちだったと思います。  自分たちの創作の原点は多くの人が戦争だったんじゃないかと思います。  

「戦火の中のこどもたち」母と子の共同作業で作られたものです。  母にとってはある程度自由に話しあえる相手だとは思っていたと思います。  絵はそれぞれ独立した作品として描かれていました。  それが20、30点溜まった時に僕に声を掛けて、構成を考えてと言ったような感じでした。  何となくゆるやかな流れは作れそうな気がしました。  出版まで半年以上かかっています。  第二次世界大戦のことについていろいろ本を読んだり調べたりしました。   5月29日の山の手大空襲で家は被災しましたが、母からはあまり聞く事は無く、谷川俊太郎さんから詳しく聞くことが出来ました。  元々想像力の豊かな人で、原爆のことも資料館に入るつもりが、資料館に足が運べなくなっちゃって帰ってきてしまったりしました。  原爆の絵、戦争の絵はきつかったと思いますが、描かなければいけなかったんだと思います。 

僕は高校時代から芝居の脚本を書いたり、演出をやったりしていました。  芸術一般を勉強できる場所は無いのかなあと思っていました。  芸大の芸術画家に入りました。  大学の先生の話を聞くよりも母親から映画に関する事とかを聞くことの方が面白い事は結構ありました。  絵に関しては非常に厳しいところがありました。  

「戦火の中のこどもたち」

(女の子の後ろ姿が立っていて、背景にはシルエットで爆撃機が何機も描かれている。)    

「赤いシクラメンの花は去年も一昨年もその前の年も冬の私の仕事場の紅一点。 一つ一ついつとはなしに開いては、仕事中の私と瞳を交わす。 去年も一昨年もその前の年もベトナムの子供の頭の上に爆弾は限りなく降った。  赤いシクラメンのその透き通った花びらの中から死んでいったその子たちの瞳が囁く。  私たちの一生はずーっと戦争のなかだけだ。       (ほとんどモノクロですが、赤いシクラメンだけが色が付いている。 花びらの中から子供達の顔が浮かんできている。)

「貴方の弟が死んだのは去年の春。」                                    (うつむいた少女が小さな花びらをもっている。  弟を思い出しているシーン。)

「あの子は風のようにかけて行ったきり。」                                  (男の子の強い目線の少年が描かれている。)

「もうずっと昔に事と言えるのかしら。  東京の空襲があけた朝、親を捜していた小さな兄弟の思い出。」                                          (激しいタッチの黒い太い筆で周りを塗りつぶしているが、真ん中にあいた空間のところに、女の子が弟をおんぶして歩いている姿が描かれている。)

(つぎのぺージは言葉がない。 ボロボロの服を着た男の子がただ佇んでいるだけ。少年のことをいろいろ考えて欲しいということ。)

「母さんと一緒に燃えて行った小さな坊や」                          (凄く厳しい顔をしたお母さんと腕に抱かれた赤ちゃん。 赤ちゃんの瞳は可愛いが、お母さんの瞳は本当に厳しい瞳です。 戦争を起こしたものへの怒り、そういう表情にも見える。)

「兄ちゃん、昨日登った木は。」                              (3人の男の子が焼け焦げた木の方を眺めている。)

(つぎのシーンは表紙にもなった女の子 呆然としてどこを見つめているのか判らなよな表情。)

「暑い日 一人。」                                         (鉄条網が描かれていて、その下に裸の男の子が横を向いている。  当時ベトナムで一つの村を全部鉄条網で囲まれていた。  ゲリラと交流しないように。  その中の少年を描いている。)

「うちの兄ちゃん強いんだぞ。  私のお姉ちゃんだって強いんだから。」               (防空壕の中と言うような設定。) 

「B52 森 ファントム 原っぱ トカゲ 炎 ヤシの実」                    (ここは傷ついた男の子や女の子たちが描かれている。)

「雨が冷たくないかしら。  お腹もすいて来たでしょう。」                         (雨の中に座ってじっと横を見ている少女が描かれている。  ベトナム戦争の時代にはいろんな人がゲリラ戦に関わっていた。  この子はいろんな連絡を待っている子だったのかもしれない。)

「牛と遊んでいた暑い夏の日。」                                (水牛と一緒にいる子供達と少年のことが描かれている。  ベトナムの平和な時のイメージだと思います。)

「風 母さん」                                             (このころベトナムではお母さんが出勤するように戦いに出掛けて行ったという小説がありますが、帰ってきたのかなと思う女の子の表情が描かれている。)

「赤いシクラメンの花のなかに、いつも揺れていた私の小さなお友達。  赤いシクラメンの花が散ってしまってもやっぱり消えない私の心のお友達。」                       (大きなシクラメンとそこに少女の横顔が描かれている。  ここで終わりになります。)

戦争の中で子供はどうなってしまうのか、そういったことを絵を通して表現したかったもので、言葉は最小限にとどめました。  この本が出版されたのは昭和48年。 翌年ベトナム戦争は終わるが、終わるのを知らずに母は亡くなってしまった。  肝臓がんが判ってアッと言う間に亡くなってしまいました。 

絵本と言うものをきちんと位置付けたいという思いが、母にも私にもありました。  それには絵本の美術館を作るのがいいのかなあと思いました。  

「絵本とは何か、起源から表現の可能性まで」を出版。  7年かかりました。  自分が感動したものを子供に伝えれば、親も子供も両方その絵本の魅力を知ることになると思います。 大人こそ絵本の魅力を知ってほしい。   作ることの歓びみたいなものを追いかけ続けてきたような気がします。  強くないと優しくなれないんじゃないかと思います。 それを母から学んだような気がします。




 






                                            





2025年7月10日木曜日

植田まさし(漫画家)           ・ほのぼのが人気の秘密

 植田まさし(漫画家)           ・ほのぼのが人気の秘密

現在4コマ漫画を中心に活躍している植田さん、1982年の4月から新聞の連載が始まった「コボちゃん」は今年の4月で1万5000回を越えました。  ほのぼのとした漫画で人気がある「コボちゃん」、ちょっとしたいたずら書きで始まった漫画家人生ですが、もう55年も続いています。 

2年ぐらい前に病気をしまして、その時までは夜の3時半に寝て10時半に起きて始めるという一日でした。  病気後は7時に起きて12時に寝るという事にしています。  読売新聞での「コボちゃん」の連載がことしの4月で1万5000回を越えました。  43年ぐらいですがあっという間でした。  その日その日を書いているうちのそうなっちゃったと言う感じです。  ネタは何かの目次とか、辞書、カタログ、新聞と言ったものから取っていました。 観てその場で選ぶと言う感じです。  雑誌だと4ページ貰って7本考えないといけないので、一日8時間ぐらい考えないと出ないです。  連載は40年間変わっていないのですが、枚数が減って、新聞と雑誌が3つです。  1年で600本ぐらいは考えないといけない。  ネタ帳に絵を描いてみる。  描いているうちにハッと見つかるんです。(見つからない時の方が多いが。)  まずは面白い事の落ちを考える。  前の3つを話にする。 

突飛なことはコボちゃんの場合に合わない。  私は新聞を取っていた時に「サザエさん」が連載されていて、夕刊が「クリちゃん」でその後にサトウサンペイさんの「フジ三太郎」で、漫画と言うとそれしか見ていないです。  一般家庭のリアルな感じの漫画でした。  コボちゃんは私が子供の頃呼ばれていた名前です。 

1947年生まれの78歳です。  3人兄弟の末っ子です。  母が絵が好きで、祖母も美術学校に行っていたらしいです。  親戚でも絵を描く人は多いです。  自分でも絵を描いていましたが、絵で行こうなどとは全然考えていませんでした。  近くに貸本屋があり小学校低学年のころよく読みました。  中学では野球、高校ではラグビーをやりました。  大学ではカメラマンになろうと思って、2年の時から夜間の写真学校に行きました。  大学紛争の時で4年間のうちの1年ぐらいしか大学にはいかなかったです。  新宿騒乱事件を撮りました。   渋谷音楽堂で決起集会をやっていて、そこに赤軍派と京浜安保系などがなだれ込んできて、全学連が排除されてしまいました。  それをみて学生運動はおしまいだと思いました。その日から学生運動を追いかけることを辞めました。  写真への興味もうすれてしまいました。 

炬燵に母と兄と私がいた時に、私が広告に漫画みたいな絵を描いて、それを兄が見て面白いじゃないかという事で、母も同様で、ちゃんと描いて出版社にでも持って行ったら、と言われました。  8本ぐらい描いて持っていったら、面白いから預かりますと言われました。  しばらくししてから又描いて持っていきました。   半年間ぐらいしたら初めて注文が来ました。4コマ漫画では食っていけないので、数ページのものを描いて欲しいと言われました。  自分ではやったことがないので、作っても面白くなかった。  4ページを全部4コマで埋めちゃえと思って、7本持っていったらこれで行こうよ、という事になりました。  あっという間に連載が始まりました。良い漫画家だと思うのは、長谷川町子さん(サザエさん)、根本進さん(クリちゃん)、サトウサンペイさん(フジ三太郎)、秋竜山さん(面白いと思って始めてみた漫画家)です。 

「ああ ちょんぼ」デビュー作 23歳(1970年)  月刊誌の連載を引き受けることになったが、4ページを描いてゆくのに、本当に1か月かかりました。  それが3,4か月続いた時にもう一本持ってくれませんかと言われました。  無理だと思ったが、月に2本になりました。  何とかこなしながらやっていたら、数か月して隔週誌をやらないかと言われました。  どんどん倍になって行きました。  次に週刊誌をやらないかと言われました。   他の週刊誌からも声がかかってきてしまって、どんどん増えていきました。  

普通の家庭、普通の人間のやる面白さ。  新聞は多くの人が読むので、いろんな人に判ってってもらえるようなものを心掛けています。  朝刊なので読んだ人が厭な気持になって出かけないような、そんな感じは最初から思っています。  1枚漫画は描いてみたいが、普通の生活の中の1コマ漫画を描くというのはあると思うが、発表の場がない。











2025年7月5日土曜日

桂文枝(落語家 六代)          ・落語家60年目にみる景色(前編) ~創作落語300本超え~

桂文枝(落語家 六代)     ・落語家60年目にみる景色(前編) ~創作落語300本超え~

桂文枝さんは今年落語生活60年目を迎えました。  若手のころからテレビ、ラジオで超売れっ子となり多くのレギュラー番組を持つ一方、落語家としては300を越える創作落語を手掛けてきました。  60歳からは上方落語協会の会長として活躍、上方では60年振りとなる定席「天満天神繁昌亭」を開場するなど尽力し、文枝さんが入門した当時は数十人だった上方の落語も、今では250人を越えました。  長年上方落語を牽引してきた文枝さんの思い、今の落語界をどう見ているのかなどお話しいただきました。   

先代の文枝さんに入門したのが1966年、今年で入門60年目となります。  人数は少なかったけれどそうそうたるメンバーに出会えたことは良かったです。  先輩師匠方とお別れすることになって、先輩方から引き受けたものをこれからどうするのか、今考えています。  黒柳さんが現在91歳で100歳を目指していて、私は90歳を目指して元気に落語がやれるようにしたい。  私は歩いて舞台に行く、そして降りてゆく事が出来なくなったら最後だなあと思っています。 足腰を鍛えていつまでも高座に出られるようにしたいと思っています。

落語の中だけにいたら井の中の蛙になってしまうので、いろいろと勉強して、それを又落語に持ち帰って行くという事で、いろんなことにチャレンジしたいと思ってきました。  創作落語は350近いと思います。  創作落語は同じ名前は使わない。  昔やった創作落語をもう一度覚えるという事になると物凄くエネルギーが要るんです。  名前が全部違うし、80歳を過ぎると物忘れもするようになりました。   時代と共に昔のものができにくくなる。  昔は待ち合わせで行き違いがあってそれをネタにするようなものもありますが、今は携帯があるので行き違いはない。  次の時代に合う落語を作って、それをいろいろな方に覚えていただく。  古いものほど古くならないという感じはしますね。  

1982年作、坂本龍馬が近藤勇にゴルフの勝負を持ちかける、近藤勇がゴルフに夢中になって行くという展開。  これは作るのに凄く時間が掛かりました。  テーマ、時代背景も様々で、家族愛を描いたもの、日常のふっとした出来事、時代の世相、とか多種多彩です。 2003年作「妻の旅行」、 定年退職した夫の妻へのぼやきを息子とする。  「宿題」、では兄弟愛が必要なのではないかと問う様なものでした。  塾などに行って取材をしています。 事実があってそれが誇張されて、飛躍して又事実に戻るという、そういうのが無いと、やはり落語は市井の生活のなかから起こる笑いでないと同調できないところがある。  第一作は1964年「アイスクリーム屋」 「アルバイト幽霊」 学生時代いろいろなアルバイトをしたので役に立ちました。  

作風は最初のころとかなり変わってきたと思います。  笑いで客が中心でしたが、落語はもっと人間の深さ、想いを描かないと(親子愛、夫婦愛、兄弟愛、友情など)、そこに根底がないと面白いものは作れないというのが段々わかってきて、そこには笑いが無くても深さが大事だなあと思います。  深さがあるから又笑いが大きくなる。  現代の古典を作るというのはぴったりするような気がします。  「温故知新」古いものを温め直す、皆に伝わるように温め直す。   

目標を500作と大きなことを言ったものですから、それをやるのにはどうしても時間が掛かります。  90歳まで頑張らないと絶対作れない。  作った後に練り直して練り直して覚える作業が大変です。   若い弟子(30人ぐらい)に勉強して貰おうと思って、グループラインを使って毎日問題を出しています。   答えを観て順位をつけて、又問題を出します。  弟子にはきっちり教えていかないといけないと思っています。  

今年82歳なので、中継風景で「屋島の合戦」を伝える落語を、30~40年ぐらいやっていないのですが、チャレンジしようと思っています。 




 


2025年7月1日火曜日

小池真理子(作家)            ・〔わが心の人〕 「倉橋由美子」

 小池真理子(作家)            ・〔わが心の人〕 「倉橋由美子」

倉橋由美子さんは昭和10年高知県生まれ。  大学在学中の昭和35年初の小説集「パルタイ」が芥川賞候補となりました。  その後は留学や海外生活をしながら、独自の作品世界を描きました。平成17年6月に亡くなりました。 (69歳)  今年は倉橋由美子さんの生誕90年、没後20年に当たります。  小池真理子さんは倉橋由美子さんのエッセイをまとめた本「精選女性随筆集」の選者を務めました。  

私の17歳年上の方になりますが、全く面識がありません。  1968年、69年(高校生)のころに倉橋さんの本に接していました。  『聖少女』は文学好きの文学青年、少女が全員読んでいた。  『聖少女』のテーマが近親相姦、父と娘、姉と弟。  なんて非道徳的なことを書くんだろうと非難を受けるようなことを、むしろ好んで書いていた方ですね。   その中の一つがインセスト(近親相姦)と言う大きな一つのテーマになっていました。    

『聖少女』では交通事故で記憶を失った少女(22歳)が出て来る。  彼女と出会った少年の目を通した箇所と、彼女が記憶を失う前にかいた日記がそのまま作品のなかにあります。  日記の出だし、「今血を流しているところなのよパパ。 何故、誰のために。 パパのために。 そしてパパを愛したためにです。」  衝撃的な出だし。  文体が冷たい。 正統的な日本文学も嫌い。 影響を受けたのはヨーロッパの近代文学、カフカカミュ、サルトルの影響を受けた。  いかにも自分自身のことを書いている様に思われる作品も多々あるけれど、それは自分の死体を自分で解剖するようなものだ、という風に書いています。  世界と自分を凄くわけていて、アウトサイダー的な位置で作家をやっていくという、深い信念のもとに書いていたという印象です。  本人は恥ずかしがり屋で人の多くいるところが苦手。 現実に興味がない。  タブーとされていることを言葉によって、事もなく破って見せるという事に興味がある。  

結婚して二人の娘さんがあるが、結婚制度には物凄く反発していた。  多くの人が望むロマンチックな局面を完全に追放したいという風に書いています。  人間世界の消滅を夢見ている、と言う風に断言している。  徹底したニヒリスト振りが倉橋由美子であり、当時の文学好きの読書好きの憧れを誘った。  女性であること自体を否定しようとしている。

その裏にあるものは何なんだろうと、私なりに出した結論としては、実にこの方は女性的なものを沢山持っていた方ではないかと思います。  その中で自己嫌悪みたいなものを感じる局面が多かったのではないかと思うんです。  倉橋さんの作品はどれを読んでも女の子なんですね。  女性を感じるんです。   いろいろなものの紆余曲折を経て、女性性を持つ自分自身に対する自己嫌悪が若い頃からかなり強かったのではないでしょうか。  彼女は昭和10年生まれで、普通であることに彼女は耐えられないところがあったのかもしれません。

私は三島由紀夫が好きで影響を受けました。  倉橋さんは、「もし私が男だったら盾の会に入りたい。」といったらしいんです。  新聞に掲載されて、それを読んだ三島由紀夫は感動したらしくて、「豊饒の海」シリーズの「暁の寺」をサイン入りで倉橋さんに贈ったそうです。 三島事件で思い知らされたのは、自分が男ではなかったという悲しい現実を突き付けられたと書いています。  自殺してしまわなければいけないぐらいの思想であるとか、想いの強さ、そういうものを女には持てない、女には三島さんのような行動は出来ない、と言うようなことも書いています。  男と女は根本的に違うとはっきりと言っています。 

倉橋さんの小説を書く心構えが箇条書きになっている。

主人公は道徳や世間の常識などに縛られずに行動する人物であること。           実在の人物をモデルにしない。  主人公の名前すら記号になっている。          内面を描くとか、精密な心理分析とか 、とりとめないことを延々と書いて読者に苦痛を強いたりしない。                                                                                                     

おしゃれな感覚を持っている人。  今後も出てこない作家だと思います。  晩年は体調が良くなかった。  69歳で亡くなる。  物語を嫌っていて、物語性が希薄です。  自分自身の生きた青春の一コマの中に倉橋由美子と言う作家がいたという、それだけで素晴らしいことだと思います。

私(小池真理子)は家に閉じこもっている方が好きで、運動もあまりしないです。  夫(藤田宣永 作家)を5年前に亡くしましたが、夫も私と同じで家を出ない人でした。  ぼんやりしているなから浮かんでくるものをキャッチしていきたいと思っています。  倉橋さんと類似しているところはあると思います。  推理小説から始まって、恋愛小説、最近は人間存在そのものに焦点を当てて書いています。  死ぬこと、生きる事、出会い、と言ったような事。  両親と夫を10年の間で看取ったので、書くテーマも違ってくるなと自分では思います。















2025年6月30日月曜日

岩崎加根子(俳優)            ・〔私の人生手帖〕

 岩崎加根子(俳優)            ・〔私の人生手帖〕

1948年15歳で研究生候補となった岩崎さんは、翌年俳優座養成所第一期生となって、以後舞台を中心に映画やテレビドラマで幅広く活躍を続けてきました。  92歳の現在も劇団俳優座代表として年間100回を越える舞台公演を精力的に行っています。  昨年の秋にはシェークスピアのリア王に史上最高齢の挑戦をし、今年紀伊国屋演劇賞個人賞と読売演劇大賞最優秀女優賞を受賞しました。  ライフワークとしてきた「戦争とは」のシリーズは今年夏31回目を迎えます。  強靭な精神力と体力で舞台に立ち続ける岩崎さんに、芝居にかける執念、原動力と共に「戦争とは」のシリーズの裏側に潜む記憶、想いを伺います。

「猫獅子になる」という芝居で全国を回っていて、半分ぐらい回り終わって75ステージ終わりました。  評判が良かったです。  俳優になって78年になります。  大きな賞を頂きました。  シェークスピアのリア王の日本版と言いますか、女性がリアになるわけです。  炭鉱の女性の物語です。   「芝居はいい気になってやるものではない。」と千田是也先生から教わっていました。  千田是也先生の書いた『近代俳優術』を教科書にしてきました。   立華女学園に入って戦後で中学で終わりになりました。  演劇部に入って、先生から俳優座に入ったらどうかと言われました。  15歳で俳優座に入ることになりました。  兄は医者になって次兄は物理学者になりましたが、私は数学は苦手でした。      

私は身体も弱くて恥かしがり屋でした。  自分なら恥かしいけれどほかの人になれば構わないわけです。  「その人間になたっつもりでおやり。」と言っていただいた千田先生のお陰でやってこれたと思います。  俳優座がこの4月で閉館となりました。  劇場を立てるための資金つくりのために皆で映画にも出ました。  勝新太郎さん、萬屋錦之助さん、石原裕次郎さんなどと共演しました。  

舞台はやはり生の空気というか、それをお互いが感じると思うんです。  アンサンブルが大切だと千田先生はいつもおっしゃっていました。  

「取り敢えずの死」?という中国残留婦人のことを舞台にした話ですが、終了することになり、新たに別の企画を考えました。  朗読会を始めました。  その後舞台にしてやりたいという事になり、 3年前から舞台をやるようになりました。  今年で31年になりました。 集団疎開でお寺の本堂に布団を並べて寝ていて、自分と言うものが無くなってゆくような感じがしました。  「戦争とは」というタイトルにしました。  戦争とはどういうものであるか、どういう人間にしてしまうのか、という事を判てもらいたかった。  

辛いことをすればするほど、苦と言うのは終われば楽になる。  仲代さんとかインフルエンザに劇団員が結構罹ってしまって42℃の熱の中でやりましたが、治ってしまいました。   芝居をやっていたら年齢のことを考える暇はないです。