2019年10月14日月曜日

永里正彦((永里源気・優季・亜紗乃)の父) ・【アスリート誕生物語】プロサッカー選手・永里3兄妹

永里正彦((永里源気・優季・亜紗乃)の父) ・【アスリート誕生物語】プロサッカー選手・永里3兄妹
3人のプロサッカー選手を育てた永里さんに伺います。
次女亜紗乃が出産し孫ができました、かわいいです。
長男源気には二人の妹がいて、我が家では先駆者です。
それを二人の妹は見ているわけです。
源気にはコツコツやるのともって生まれたもの、両方とも兼ね備えているような形があります。
長女優季はコツコツやるタイプ。
次女亜紗乃はもともとセンスがいいんで、ちょっとやると難しいこともできてしまう。
高いレベルでスポーツをして欲しいという希望がありました。
たまたま厚木市がサッカーが盛んでサッカーと出会いました。
幼稚園にサッカークラブがあり源気はボールをよく蹴っていました。
やったことはなかったですが、私もサッカーのコーチを目指すようになりました。
サラリーマンをやっていましたが、1993年に会社を興して同時にサッカーのコーチを始めました。

私自身、スポーツで得られた協調性、協力して何か一つ物を作り上げるとか、成功もあり失敗もあり人生の糧となり、自分に戻ってくる、そういう経験をしたので子どもと一緒にスポーツを考えて見ようと思いました。
高いレベルでやって欲しいと思いました。
海外に行ってほしかったので、厳しくしてあげた方がいいと思いました。
ベースをつくってやって後は子どもたちで考えてもらうようにしようと思い、あれしろこれしろとは言いませんでした。
サッカーを深く知るためにはコーチをやるという事につながっていきました。
コーチとしては厳しかった、答えを言わない。
一番厳しかったのは妻に対してあんだけやってくれているのに、なんでそんな口を利くの、そのことを物凄く叱りました、お母さんがいなければサッカーできないんじゃないのって。
イエス、ノーで答えられない質問をずーっとしていました。

サッカーを始めて、リフティングがあるが、ある時期から毎日やるようになりました。
目標をもってやりました。(テニスボールでのリフティングで何回とか)
子どもたちはサッカーを辞めたいとは言いませんでした。
私は言う立場、妻は聞く立場でやっていました。
厳しく言う人がいて、聞く人がいる、その環境が良かったと思います。
今でも同じです。
理不尽な親父のお陰で俺はプロに成れた、と源気は言っていますからひどいい方もしたと思います。
妻は絶対いなければいけない人だとみんな思っていると思います。
小学生低学年の時に「精力善用自他共栄」という言葉があり、加納治五郎さんが弘道館を作るときに掲げた言葉です。
この言葉が気に入って家に掲げました。
子どもの頃には意味とか説明しませんでした。
そのうちに子どもも判ってきました。
目からの情報と耳からの情報があると思いますが、耳からの情報は歳をとらないと判らないことがいっぱいあるが、目からの情報はずーっと残ると思います。

考えたら全部答えが出るかというとそんなことはない。
そのことは判ったと思う、でも考えないといけない。
どうしたらできるか、それを問い続けたからだと思います。
同じ競技を子どもたちがしてきたが、それは親は楽ですね。
コーチとして伝えられない部分は考えてやって、と言いました。
本質はゴールを決めることと、ゴールを決められないことだという事は一生懸命伝えたつもりです。
だから3人ともフォワードです。
親として心掛けてきたことは、一つができるからと言ってこれもあれもとやらなかったこと、例えば数学ができるからと言って国語も社会もできるようになれとか、という様には言いませんでした。
出来ないものはできないでいいという気持ちでいました。
しつけも同様でした、自分がなにかされたことに対して、してもらったことに対しては必ず礼儀を尽くしてほしいといいました。
勉強は一切、やりなさいと言ったことはないです。

妥協しなかった点は、睡眠、我が家の消灯時間は9時だったので、年に一回チームでのカラオケ大会があって、9時に寝るためにみんなで帰ったことがあります。
食事については冷蔵庫には牛乳とオレンジジュースは常にありましたし、コンビニの弁当はかわさせないで、どんなに忙しくても妻の手で作った弁当にしました。
後に母親に対する献身さが判ってきたと思います。
健康管理のポイントは睡眠と食事は当たり前ですが、自分の体を大切にすることだと思います。
例えばサンダルを履かないで靴を履くとか、自分の体は自分で守ることを小さいころからやっていました。
エアコンは使わず寝ていました。
エアコンを使っていると発汗作用が劣ってきます。
普段は私がしゃべらないと怖かったと思います。
頭ごなしに言われる方が楽だと思います。
厳しい状況の中で選択する能力、判断する能力、決断する能力は絶対高まったと思います。

2015年女子ワールドカップのカナダ大会、長女優季、次女亜紗乃が姉妹同時出場をしました。
夫婦で海外で試合を見るのはその時が初めてでした。
旅費は娘が出してくれました、嬉しかったです。
私が亜紗乃の、妻が優季のユニホームのレプリカを着てスタジアムで見ていましたが、目立たないところにいましたが、パッと抜かれて私たち二人がビジョンに出ました。
それが国内に放送されていてびっくりしました。
その試合では指導者の目ではなく親の思いで娘しか見ていませんでした。
妹がグランドに駆け寄って、・・・優季の肩を抱える姿を見たときには・・・涙が出ました。(涙ぐんで言葉を詰まらせながら話す。)
自分の人生なのでやり切ってほしいなと思います、それが私からすればそれが一番の親孝行だと思います。
























2019年10月13日日曜日

紙ふうせん(フォークデュオ)       ・紙ふうせんで45周年(中止)

紙ふうせん(フォークデュオ)       ・紙ふうせんで45周年(中止)
台風19号のニュースにより「紙ふうせんで45周年」は中止になりました。

以倉紘平(詩人)             ・言葉の海に漕ぎ出でて ・・・夜学生と見つめた戦後の日本(初回:2018年12月15日)

以倉紘平(詩人)    ・言葉の海に漕ぎ出でて ・・・夜学生と見つめた戦後の日本
(初回:2018年12月15日)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/12/blog-post_15.htmlをご覧ください。

2019年10月11日金曜日

田口亜希(パラリンピック射撃元日本代表) ・車いすからパラリンピック、そして2020年へ

田口亜希(パラリンピック射撃元日本代表) ・車いすからパラリンピック、そして2020年へ
射撃は来年の東京オリンピックパラリンピックで埼玉県で開催される競技です。
田口さんは大阪府出身、25歳の時に脊髄の欠陥の病気を発症し車いす生活になりました。
アテネ、北京、ロンドンと3大会連続でパラリンピックに出場アテネでは7位北京では8位に入賞しました。
現在は東京オリンピックパラリンピック競技大会組織委員会アスリート委員、東京2020聖火リレーアンバサダーなども務めています。
テーマは「車いすからパラリンピック、そして2020年へ」

パラリンピック、身体障害者を対象にした競技大会では世界最高峰の障害者スポーツ大会でパラリンピックは同じ場所でオリンピックの後に夏も冬も行われることになっています。
卒業後客船飛鳥のパーサーとして働いていました。
25歳の時に突然身体全体に激痛が走り救急車で病院に運ばれました。
気づいたときには両足は動かなくなっていました。
原因がわからずいろんな検査を受けて1週間後に判明したのは、脊髄の中の血管が破裂して中枢神経を圧迫して胸椎の神経を傷つけたことが判明しました。
交通事故による脊髄損傷と同じものでした。
リハビリを一生懸命すれば元に戻れて船の仕事に復帰するんだと思っていたが、3か月後に脊髄損傷専門のリハビリのある病院に転院しましたが、いきなり医師から現在の医学では脊髄の中の神経は一旦切れてしまうとつなぐことはできない、君は一生歩けないよと言われてしまいました。
リハビリすれば歩けるんだと思っていたので最初は理解できませんでした。
車いすでのリハビリを受けることになりました。
辛かったのを覚えています。
どうやって生きていくんだろうと落ち込みました。

病院のベッドで暮らせばいいんだと思った時期もありましたが、友達が病院へ来てくれたり、飛鳥の同僚、船長が休暇の度にきてくれていろんな話をしてくれました。
みんな一日一日きらきらするように過ごしていて、自分としても何かしないともったいないなあと思いました。
退院後の車いすでのリハビリに励むようになりました。
ふたつの目標を決めました。
①車に乗る事 
今は片道60km 車を運転して仕事場まで通っています。
②床から車いすに乗る事
穴が開いてたりして前の車輪がおちて転げ落ちたり、スロープの2~3cmの段差で前のめりに落ちてしまうことなどがあります。
段差は視覚障碍者にとっては歩道にいるのか、車道にいるのかのわかるようになっている。
外出して車椅子から落ちてしまったら、自力で載れるようにしないといけない。

あきらめきれず治るのではないかと4つの病院で1年半入院生活をしてから家での生活をすることになりました。
発病後2年半後仕事に復帰しました。(日本郵船)
飛鳥の会社の人たちが働ける場所を探してくれて、働く環境があったという事は恵まれていると思いました。
仕事で心掛けていることは手を抜かないという事です。
最初は周りの人が不安でいろいろ助けようとしていました。
今は私が言わない限りはだれも手伝わないです、私自身はそれでいいと思っています。
障害者にも権利と義務があると思います、自分でできることは自分でやらなければいけないと思っています。
できることがあるという事がうれしいし、やって行くとどんどん増えていきます。
仕事以外にも何かできることはないかなあと思って、以前リハビリで同じ病院にいた友達から誘われてビームライフルの教室に月に数回行くようになりました。

ビーム大会に出られるようになり優勝することができました。
実弾の銃、空気銃をやるようになりました。
国内大会に出たり世界大会に出場するようになりました。
世界大会でいい成績を収めるようになり、コーチからアテネパラリンピックに出られるかもしれないといわれました。
2年後のアテネパラリンピックに出るためには、3か月後の国内大会で上位になれたら海外遠征の日本代表に選ばれるんじゃないか、国際大会で上位の成績を収めたら世界ランキングが高くなるのではないかという事で、2年先のことを考えている自分にはっと驚きました。
それまでは先のことを考えることが怖かった。
前向きな自分になっていることに驚きました。
目標を持ったことで努力ができたんだなと思います。
周りのコーチ、監督、同僚友人、家族の支えがあったからできたんだと思います。

ピストルと、ライフルがありますが、私は屋内競技 10m先の標的を狙う空気銃、10点は0.5mmの点です、50分の間に60発撃ちますが、現在の世界のレベルでは60発全部を当てないとファイナルベスト8になれません。
もう一つ屋外競技、50m先の標的を狙うフリーライフル。
22口径の火薬の弾を使用する銃で、10,9,8点とありますが、10点圏は直径1、4cmで狙って打ちますが、60発中52発ぐらいは10点台に当てないといけない、残りは9点に当てないとファイナルベスト8に残れないです。
集中力、精神力が必要になってきます。

2020年に埼玉県で射撃が開催されます。
パラリンピックの原点は1948年ロンドンのオリンピックに合わせてイギリスのストーク・マンデビル病院で開催されました。
車いすスポーツ競技と言われている、第二次世界大戦で脊髄を損傷した軍人のリハビリのための科が専門にあり、ドイツから亡命したユダヤ系医師ルートヴィヒ・グットマンの提唱により始められました。
グットマン博士の言葉に「失ったものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ」という言葉があります。
当初は入院患者のみだったが、毎年開催されて国際大会になり、1960年、ローマでオリンピックが開催されたときに、第一回パラリンピックが開催されました。
1964年東京オリンピックが行われ第二回(第13回国際ストーク・マンデビル競技大会)になりました。(パラリンピックが正式名称となった年です。)
その時には中村裕先生が尽力されました。
中村先生はストーク・マンデビル病院に留学して、スポーツを医療の中に取り入れて多くの脊髄損傷患者がリハビリの一環としてスポーツを行い、治療するのを目の当たりにして強い衝撃を受けました。
中村先生は日本でのパラリンピック開催を使命と考えて、開催の意義を説いて回って東京オリンピックの開催の後に開催されました。
東京パラリンピックを機に日本の障害者スポーツが広く認知され、普及し、障害者の自立や社会参加が考えられるようになりました。

2016年パラリンピックは159の国、地域難民選手団で、選手は4300名、22競技、528種目となりました。
国際パラリンピックの価値として
①勇気
②強い意志
③感動
④公平
2020大会 3つのコンセプト(オリンピック、パラリンピック)
①全員が自己ベスト
②多様性と調和
③未来への継承

アクセサビリティー 日本ではバリアフリーともいわれています。
WHOの調べでは世界の人口の10%は障害者だそうです。
妊婦、ベビーカーを押している人、けがをしている人、高齢者を含めると20%がアクセサビリティーが必要だといわれています。
ハード面のバリアーフリーとソフト面のバリアフリーは日本ではまだイコールではないのかなあと思います。
障害者用の駐車場、トイレなど健常者が使っているのを見ると外国人はびっくりすると思います。
お互いができることで尊重しあって思いやることが共生社会なのではないかと思います。
東京2020パラリンピック聖火リレーのコンセプトは「あなたはきっと誰かの光だ」です。
パラリンピック聖火リレーは初めて出会う3人がチームを組んでリレーを行います。
新しい出会いが共生社会につながるという期待を込めて3人で行います。










































2019年10月10日木曜日

曽根原久司(農村社会づくりNPO代表)  ・耕作放棄地をよみがえらせる

曽根原久司(農村社会づくりNPO代表)  ・耕作放棄地をよみがえらせる
57歳、大学を卒業した後経営コンサルタントとして主に金融機関を対象に経営相談にあたってきました。
しかしバブル崩壊、経済がガタガタになると直感した曽根原さんは東京を離れ、山梨県北杜市に移り住みました。
農地を借りて野菜作りからスタート、その後都市と農村の交流を行いながら地域を活性化させようとNPO法人を設立しました。
このNPO法人で曽根原さんが力を入れてきたのが、高齢化や過疎化で耕作の担い手がいなくなった耕作放棄地を復活させる取り組みでした。
曽根原さんはどのように問題を取り組んで来たのか、そこにかけた意味合いを伺いました。

東京を離れて24年になりました。
山梨では耕作放棄地の開墾活動をやってきました。
企業の皆さんとその農地を活用するというプロジェクトを多くやっています。
大学時代は経済系の学校でしたが音楽浸けになっていました。
就職はしないで音楽をやりながらフリーターをやっていましたが、作曲、編曲、イベントなどもやったりしているうちに、経営コンサルタントの道を選びました。
最初は経営コンサルタントの企画会社に5年間就職して、その後独立しました。
銀行の経営コンサルタントの仕事が増えてきました。
当時経済バブルでその後バブル崩壊しました。
社会では表面化しないころ、不良債権問題がちらほら発生し始めたころから予兆を感じました。
日本の右肩上がりの経済成長はこれで収れんしたという直感がありました。
日本の右肩上がりの経済成長とは違った視点での働き方、暮らし方が必要だと思ってリサーチしました。
農村にある資源に着目しました。
日本の森林率は先進国中2,3位というデータがあったり、耕作放棄地の面積は数十万ヘクタールになったりしていて、東京都と大阪府の面積を足した面積に匹敵するという事も知りました。
自分自身が試してやってみようと思って移住地が山梨県となりました。
山梨県は日本の耕作放棄地が第2位でした。

高齢化のために農地が耕されなくなってしまった農地が沢山あります。
10,20年放棄されると木が生えてきたジャングルのようになってしまっている。
まず家を建てて、地元を観察して回りましたら、1/3が耕作放棄地になっていました。
荒れた耕作放棄地を借りて一人で復活させる活動を始めました。
木を伐採して、木の株を伐根する作業などをしました。
2ヘクタールを開墾して野菜や米を作る事から出発しました。
地域との関係が重要で、水田を行うためには共有の用水路の管理が必要です。
「組」に入ることを検討して、組長さんに相談に行ったら、新しく移住してくる人が増え始めたが、その人たちとの人間関係がうまくいっていなかったりしていて、逆に何とかならないかと相談を受けました。
移住者だけの組を新設して、既存のところに組み入れられないかという事を考えました。
新しい組が誕生しました。
新しい組も一緒に用水路の管理をするなどして関係性ができました。

移住後5,6年してから、隣町の役場の職員と知り合って、限界集落エリアがあり耕作放棄率が半分以上になっていて、集落が消滅する可能性があるので何とか力になってほしいという相談があり、新たに始まりました。
開墾ボランティア制度を考えてボランティアを集めました。
メディアにも取り上げられて、500人以上のボランティアの人たちが集まりました。
平均年齢が26,7歳で、若干女性が多く、東京、神奈川、埼玉、千葉のエリアから来た人が全体の8割でした。
就職飢餓期でもあり、社会から否定されるような思いもあり、自分探しというものが流行りました。
そんな若者たちが沢山訪れてきました。
空き家、空き施設が結構あったので、開墾に来てくれるのならただで泊まれます、開墾後は温泉に浸かってリフレッシュして帰れます、という事で開墾ボランティアを進めました。

参加者も私同様にはまっていました。
数年で4ヘクタール(野球場の4倍分ぐらい)を開墾しました。
開墾ではお金にはならないので、復活した農地を企業とのタイアップによって新たな経済を作れないか、考えました。
お菓子の会社の或る役員の人と話をして、社員が送り込まれてきて、復活した農地でその企業で使う農産物の栽培を始めました。
大豆を使った和菓子が開発されて大豆が利用されました。
その後さまざまな企業との連携が始まりました。
2008年に東京の大手不動産会社と提携し、耕作放棄地を開墾し、社員が農産物の栽培を経験、収穫して、新しい商品を開発する作業が始まっていきました。
ストレス解消、達成感も私と同様にどの企業の皆さんんも同じ感想を持ってもらいました。
様々な米の栽培、トウモロコシ、大豆などを栽培しました。
棚田エリアで酒米を作り、2社の酒蔵で純米酒、純米焼酎などを作り、好評です。

その後森林資源を活用するプロジェクトもやっています。
間伐材問題、間伐した材料が切りっぱなしになっていて、企業とタイアップして活用していこうとプロジェクトも進めています。
間伐材を使った一般住宅を建てて販売する。(国産材が80% 通常は10%ぐらい)
日本の農村、都会にはそれぞれニーズや課題があると思います。
農村の課題は過疎高齢化、担い手の減少など、都会の課題はストレス、メンタルなものなど、両者を助け掛けすることによってウインウインの関係が生まれてくると思っています。
24年間活動を行ってきたが、地域には素晴らしい資源があったという事を再認識されている事と思います。
人材育成が大切なんだという事を思っていて、起業家の育成(農村起業家)を課題として考えていて、広めていきたい。
10年前ぐらいから始めていまして教えた生徒は1000人ぐらいにはなり、その中で起業した人は200、300人ぐらいになりました。
日本の耕作放棄地、森林、空き家などを何らかの事業に成立したならば10兆円ぐらいになると思って活動しています。





2019年10月9日水曜日

室屋義秀(エアレースパイロット)     ・自分を制し世界で勝つ!

室屋義秀(エアレースパイロット)     ・自分を制し世界で勝つ!
1973年奈良県生まれ、46歳、20年前から福島市を拠点にして操縦技術世界一を目指して練習を重ねてきたという事です。
出場していたエアレースは空のF1ともいわれるモータースポーツで世界のトップパイロットが時速370kmで飛ぶ小型機を巧みに操って、障害物を避けながら速さを競うものです。
アジアから唯一参戦していた室屋選手,2017年に世界チャンピオンに輝きました。
そのエアレースは先月千葉市で行われました、今回の最終戦を持ちまして大会の開催が終了しました。
最終戦に優勝し有終の美を飾った室屋さんですが、そこに至る道は借金や敗北など険しいものでした。
それらをどう克服してきたのか、今だから語れる本音や子どもたちへの将来の手助けになりたいという今後の活動について伺いました。

エアレースの最終戦、11年取り組んで最終戦も優勝できてほっとしています。
国内では各地でエアーショーもありますし、フライトの量としてはあまり変化はありませんが、海外への遠征は減ると思います。
飛行機の最高時速は370km、高さ25mの空気で膨らました障害物を巧みにかわしながら1分ぐらいのレースを世界14人のトップパイロットが繰り広げてゆく。
勝敗をわけるのが1/1000秒という言こともある、距離にしたら10cmになる。
飛行機の準備、自分のコンディション、緊張の度合いによって、1/100秒は簡単に変わる。
コンディションを10年以上保つというのは、基本的には休みが無い状態がずーと続いていました。
海外では空軍のパイロットなど、かなりいい環境があり、トレーニングを重ねてきているので、彼らよりは努力を3,4倍もトレーニング、準備を重ねてきました。

大学に進学して航空部に入って18歳の時にグライダーに乗りました。
20歳の時にアメリカに行って免許を取って、いろいろ飛行機を見たりする中で知らない世界を知りました。
1995年卒業の年に兵庫県の但馬空港でフライティングワールドカップという大会があり、最上級クラスのアクロバティック飛行を見て凄く衝撃を受けました。
自分も操縦士と目指すならこれだなと思いました。
バブルが崩壊して、エアラインパイロットの採用はゼロでした。
アメリカに渡って訓練をして日本でアルバイトをしてという事を2年間過ごして、その中で操縦技術を極めたいという事が明確になってきました。
25歳で日本に帰ってきました。
エアショーを生業として生きてゆく事は少なくて非常に難しい世界であることは判っていました。

福島にできた農道空港(ふくしまスカイパーク)が1998年にできて翌年ここを拠点にして活動を本格的にやる事にしました。
当時飛行機が無くて、個人機のオーナーもいて、その人たちに教えることができたので自分も勉強するという事が3年ぐらい続きました。
生活水準は非常に厳しくて、食べるのにも苦労しました。
中古機を3000万円で借金をして購入しました。
銀行は貸してくれないので、エアロバティック操縦技術で世界一になるという事を言っていたので、周りからお金を何とか借りました。
お金は返せないかもしれないとは言っていました。
2002年に購入して活動を始めましたが、飛行機を維持して飛ばしてゆく事は、購入前よりも厳しかったです。
2003年にはエアロバティックの世界選手権に挑戦しました。
2007年にスペインへ挑戦しましたが、スポンサーが本格的に付くようになってパイロットとして生活ができるようになりました。
2006年にデモストレーションをする機会を得て、スポンサーとなってくれる社長の目に留まって翌年の世界選手権への道が一気に広がりました。

2008年には10か月ヨーロッパでトレーニングをしていたので、周りは超一流の選手ですが、かなり行けるのではないかと思って2009年に参戦しました。
デビューの年はコースを飛びきるのがやっとで厳しかったです。
15名飛んだ中の14位でした。
2010年 機体の改良などもしましたが、最も戦えなかったです。
失敗したりして悩んでいたので、本を読んだりする中でメンタルトレーニングをすることになりました。
それまでは気合と根性で乗り切れると思って誤解していました。
どういうことをしたらいいのか、何が足りないのか、徹底的に見直してゆく事から始まりました。
能力、自信など丁寧に一個づつやってゆくわけです。
一日の人間の活動の中で余計なことを考えている時間が50%ぐらいあるらしいです。
余計な時間をいかに少なくして効率を上げてゆくか、朝考えてこれこれをこうするんだと明確にして、雑音に振り回されなくなるので一日の効率が良くなります。
それを毎日やるわけです。(30分ぐらいかけて考えをめぐらします。)
習慣になってくると気持ちいい一日が送れることが判ってきます。
自分のイメージ通りに飛ぶようになってくるし、チームの体制を含めて何が必要か明確になってくると、全部がゆっくり育ってゆくので実感できるようになりました。

2017年では年間総合優勝、操縦技術世界一になりました。
世界チャンピオンになるんだというイメージトレーニングはそれこそ何万回もしてきました。
福島県民栄誉賞をもらうことができました。
エアレースが無いのは一つのビックプロジェクトが終わって、エアショーは20年続けてきていますし、「空ラボ」という新しいプロジェクトもできて今後もフライトしてゆくと思います。
小学校3年生~中学校2年生まで、空に関心を持ってもらうためのものです。
グループとしてコミュニケーションをとって一つの目標に向かってどう進んでいくのかという事を学んでもらって、将来の自分探しをしてもらう事が大きなテーマです。
自分のやりたいことが判って来たら、生きてゆくきっかけになれればいいなと思っています。
自分が飛べる限りはエアショーは続けていきたいと思っています。


























2019年10月8日火曜日

横山泰賢(大本山永平寺 国際参禅部長)  ・禅僧が聞いた元戦闘員の苦しみ

横山泰賢(大本山永平寺 国際参禅部長)  ・禅僧が聞いた元戦闘員の苦しみ
53歳、現在国際参禅部長を務める横山さんはこれまで世界各地の禅寺を訪問して、禅の教えを伝える中でかつて戦争や紛争の最前線で戦った元戦闘員たちに出会いました。
座禅を通して打ち溶けていった彼らは戦地から帰ってからも消えることのない心の苦しみを吐露するようになったといいます。
元戦闘員たちの告白を通して私たちは何を学ぶことができるのか伺いました。

15年、アメリカ、イタリア、フランスに行きました。
ニューヨークに居たときに、そこのお寺に住み込んで修行していた人で、医師になりたくて政府が医学部を卒業するまで学費を政府が出してくれるシステムがあり、学費が欲しくて衛生兵としてベトナムに従軍する訳ですが、ある村に駐在しているときに伝染病が蔓延してゆき、子どもに予防注射をすることになって、予防注射をすると翌日腕を切り取られていた。
アメリカ軍の駐留を村が受け入れるとこうなるよと、見せしめになったのかもしれない。
その後医学部に行って医師になりますが、自分が戦地で体験した事、何の戦争をしているのかわからない、自分が良かれとやってもその子は腕をとられてしまった。
医師として携わってきたが、物凄くトラウマを抱えながら医療に従事してゆく事すら疑問を感じるようになった。
そこで禅と出会い、私と話をすることになりました。
それとどう向き合うべきか気づくことができたのではないかと思います。

やはりベトナム戦争に行った人で暗い人で、悩んで苦しんで、苦しみからどうやったら解放されるのか、という事でお寺に来られました。
町の中にいる時寄ってくる子どもがいて、その子をかわいがっていたが、その子がある日突然箱を持ってきて笑顔で渡された。
友人が箱を開けようとしたら爆発して友人は亡くなり、たまたま離れていたのでその人は助かった。
あんなにかわいい子で気持ちが通じ合っていたと思っていたが、その子がそういうことをしたという事がショックで、又自分の戦友が戦闘ではなくてそういう事で亡くなったというショックで、聞いてほしいという事で話をし始めました。
兎に角聞くしかなかった。
1995,6年ごろの話です、ベトナム戦争が終わって30年ぐらいたっているころです。
長い間悩んでいて、本を読んだりいろんなことをやってきたんだと思いますが悩みが解放するに至らなかった。

座禅を組んでいる間は物を言わないから、一緒に座禅を組んで修行をしたり仏教の勉強をしているうちに心を開いてきて悩みだとかを話し始めるという、自然の流れの中でそういう事が行われる。
こちらから聞き出そうという思いがあると、苦しんだり悩んでいる人は言いづらい、なかなか心を開いてくれないんじゃないのかなあとは後で感じました。
座禅の実践がそういった方々の心を開いてくれる。
聞いた内容から私が学ぶ方が多かったと思います。
永平寺で修行をしてその後副住職になったとき、お檀家さんを訪ねていくわけですが、命日にある家に行ってお経をあげたときに、奥さんが急にご自分が原爆で両親家族全員なくしてしまって一人ぼっちになって、他人に育てられて苦労したという事を話してくれました。
何故話してくれるのか、何か求めておられているのかなあと思って、お釈迦様はこういう風に言われています、道元様はこうおっしゃっていますと理屈を申し上げたら、その方は泣き始めて最後に、「和尚さんはまだ若いからわからないんだ」と言われショックでした。

人の苦しみ悲しみが判らないで私はいったい何の勉強をして何の修業をしてきたんだろうと思い始めました。
そのまま住職になる訳にはいかないと思いました。
周りの人が心を開き始めたらまず聞こうという事がまず自分にとって大切なことなんだろうという事はよく心の中で自分自身に言い聞かせていたことはあります。
私は広島で育っていて、自分のお寺も爆心から1kmのところにあるので、原爆で焼けて当時お寺もなくなっています。
母親が一人娘で当時5歳で、両親とそのお寺で過ごしていました。
ぴかっと光ってドーンと来た時に、本堂も庫裡も全部倒れたが、たまたま助かって両親もがれきから這い出してきて、郊外へのがれました。
両親はお寺があったところに戻ってきてしまい、祖母(母の母親)は1か月後に原爆症で亡くなっていきました。
祖父(母の父親)はその後9年間生きていましたが、放射能のせいだとおもいますが背中に大きなこぶができて母が中学生の時に亡くなりました。
母はあまり語りませんでした。

お寺と原爆の関係を知っていた或るお寺のお弟子さんが、或るとき突然自分の父が広島に原爆を落とした飛行機の搭乗員だったという話を食事の場でしました。
言わないと苦しいからという事で話をしたという事でした。
その搭乗員だったという事でその父はどんどん出世をして基地も変わってゆき、そのたびに転校しなくては行けなくて、友達ができてもすぐ分かれなければいけないのでつらかったと言っていました。
元になっているのは爆弾で30万人ぐらいを殺している、というのが彼女のトラウマになっていたそうです。
戦争に行っている、戦災にあったというだけではなくてその家族も或る意味被害者だと思います。
彼女には恨みも何も感じないです、父親に出会っても同様だと思います。
恨みは恨みを持って消せることはできない、恨み以外のものによってのみ恨みを消すことができるという一節があります。

戦争で人を殺してしまうという事はそこには家族もあり、その奥さん、子どもは自分と同じ気持ちなんだと思うと、許す以外に方法はないでしょう。
自分が絶対正しいという価値観に基づいて、夫婦でも「あなたそれ何」という部分が出てくる、その時に喧嘩になるがどんどん大きくなったのが戦争です。
そのもとは私たちの生活の中にあり、人としてそういうものを持ち合わせてしまっている。
カッとなるときもどうしてもあるが、そのつど自分に反省するわけですが、その繰り返しをやっているわけです。
戦争は勝っても負けても人の心を間違いなく傷つけてしまう。
戦争をしても根本的解決は何もできない、人が苦しむだけ傷つくだけ。
座禅というものは何か目的をもって実践するものではない。
動機はそれぞれありますが、座禅を組み始めたらそうした動機も全部手放して座る。
そうしないと座禅を組もうと思った動機がずーっと頭の中で働いて座禅にはならない。

戦争は人を傷つけて大変なことだという事は勿論伝えていかなくてはいけないが、今の時代、今の世界に生きている人たちのこの現状において向き合わなければいけない問題、苦しみ悩みは一杯あると思うので、昔と変わらないと思う。
今向き合っている問題を通して同じことを学んでもらうためには、どうすればいいかという方向に私は行ってしまいます。
社会問題と向き合う中に、それが苦しみになっている人とそうでない人とがいる。
それがトラウマになってうつ病になる人もいるが、自死を試みようとする人もその中にはいると思う。
そこまで行くとその人たちの苦しみは同じだと思います。
戦争はそれが自分たちが日々生活している中で向き合っている問題、いわゆる自分たちの悩みや苦しみとどう関係があるかという事です。
元にあるものは人が作り出す幸、不幸も全部ひっくるめて人が作り出すものは何も変わらないものが元にあるんだという事で、それとどう向き合っていくか。
一人づつの人がそれとの向き合いを判ってゆけば、2人、10人、100人・・・1万人になりという風になってゆけば世の中はよくなっていくんじゃないですかね。

日本は平和がゆえに危機感がないといわれる。
両面が常にあるという事を我々は理解しないといけない
「生死」 生と死を切り離して別個に見ない。
我々は危うい命を生きている。
平和への思いというのは、世の中を平和にしようと思ったらまずは自分から、自分の心が穏やかで平和に生きているのか、そこからだと思います。
カッとなるときもあるかもしれないが、自分を振り返る。
「回向返照の退歩を学すべし」と道元禅師はいっています。
前に進めばっかりではなくて後ろに下がれと言っています。
後ろに下がって自分自身をもう一度照らし見る。
自分自身が心穏やかに平和に生きてゆくにはどう自分と向き合うか、どうすべてのことに向き合っていかなければいけないか、そこだと思います。