2017年11月22日水曜日

岩井喜代仁(茨城ダルク代表)      ・薬物依存からの回復25年

岩井喜代仁(茨城ダルク代表)薬物依存からの回復25年
昭和22年京都府生まれ 70歳、家が貧しく中学卒業後すぐに働きますが、不良行為で仕事を無くします。
18歳で暴力団に入り、その後覚せい剤に手を出したのがきっかけで、薬物依存になって仕舞います。
頭の中は覚せい剤のことばっかりになり、妻や子を捨てて家族や友人との交わりを断ち、警察にも逮捕されます。
幻覚症状などに苦しみ抜いた末、助けを求めたのが薬物依存症の回復施設、ダルクを創設した近藤恒夫さんでした。
45歳の時、近藤さんの支援で岩井さんはやり直しの人生に踏み出したのです。
岩井さんは現在薬物依存症の人達の回復サポートをして、中学生や高校生に自分の体験を語り薬物依存症の注意を呼び掛けています。
人の助けや善意のお陰でここまで来られたと言う岩井さんはカトリック信者となり、祈りと黙想で一日を振り返り、薬物依存に戻らないようにと毎日自らを戒めているそうです。
薬物依存は回復可能と言う強い信念を持って、活動を続ける岩井さんに伺いました。

今の施設のあるところは売人さん(覚せい剤を売っている人)が住んでいたところで、ダルクの事を知った持ち主が誰も家を借りてくれないということで、近藤さんと会って、そこに連れて行かれたのが始まりで僕にも因縁の有った所です。
ダルクは薬物依存回復センターの略です。
23歳の時に組のかしらをしていて、博打打ちでしたが、博打だけでは飯が食えないので、覚せい剤を売るということで、薬を扱いだした時に、当時フェリー会社で近藤恒夫さんが乗っていましたが、薬をよこせと言うことで、お客さんになってはじまりました。
自分も薬を使うようになって止められなくなっていきました。
自分は意志と根性はだれにも負けないから、1回だけなら止められると思っていたが、やめられないところに陥って27歳まで使って、どうにもならなくなりました。
組の掟を破ったので、(薬は売るが使わない)自分の指を落として、それでもやめられずに2カ月後に2本目の指を落して、33歳のときに破門となり組をでました。
薬を売りながら日本中を駆け巡りますが、昭和60年に薬10gの保持で逮捕されて東京拘置所に60日間入れられ、留置所のなかでは真剣に止めようと思いました。
執行猶予で出て、歌舞伎町の若い衆の処に行って薬を要求しました。
拘置所を出てから3時間半後のことでした。

家に帰って、働こうと思ったが働けない、山に入って行って薬を使い始めて、仕事をしたら止められると思って、コンビニに行き雑誌をみました。
最初に目についたのが、不良時代の仲間のことが書いてあって、薬物依存症は病気で辞められない、治らないが使わないでいることが出来ると書いてありました。
近藤恒夫さんの文面でした。(23年ぶりの再会でした。)
近藤恒夫さんは東京ダルクを立ち上げていました。
日暮里で再会しました。
仕事をしたいので保証人になってほしいと言って、調理場を紹介してほしいと言いました。
食事をしようと天ぷら屋に来ましたが、混んでいて食事に有りつけるまで2時間がかかりこの2時間が自分の運命を変えました。
近藤さんはその2時間で色んな事を聞いてくれて、最後に子供を捨てて無いんだと、それなら薬を止められるかもしれない、お前の努力次第だ、俺の仕事を手伝えと言われました。
連れて行かれたのが今の施設でした。
しかしここは俺が薬を下ろしていたところで持ち主は逮捕されていて、持ち主がいないので近藤さんは月1万円で借りていると言うことだった。
東京ダルクに来る人達の入れ墨を入れている人、不良っぽい奴を預かれと言われました。
一緒に生活することによって、給料をやると言われて始めて25年になります。
以後一切薬物は手を出していません。

薬物依存、ギャンブル依存、アルコール依存、食べ吐き(痩せたい為に吐き続ける)依存等色々あるが世界保健機構では病気として認めているが、日本では遅れている。(25年のずれがある)
大麻、覚せい剤、危険ドラックは使ってみるまで自分がどうなるか分からないし、治療法がないから危険ドラックなんだと、日本にある薬物は全部危険ドラックと若い人たちに言っています。
使ったらどうなるかと言うことを話して、みんなで考えてほしいと言います。
①薬を使えば病気になる。
②使ったら自分の身体でどんな責任をもたなければいけないのか。
③薬物から自分の身体を守るのにはどうしたらいいか。
④使い続けたらどこに相談に行ったらいいのか。
⑤人間として使い続けたら自分から何が無くなるのか。
これを伝えるとちゃんと感想文を書いてきます。
最初体験だけ話をしていたが、感動すると言う事を書いてきて薬物防止にならない、怖いと言うことがなくて、5つのテーマで話すとそれぞれ色々と感想文を書くようになりました。

1993年に茨城ダルクに来たが、或る日栃木県の行政から講演依頼が来て、近藤さんと一緒に行って話をしたが、校長先生が家の学校に来てほしいと言うことで、何校かいきました。
県庁と話をして社会福祉法人を作りたいと言って準備を始めているうちに、反対運動が起こりました。
自助グループがあり1953年にアメリカで出来たグループで、地域の中に自助グループのミーティング場を作る、その時に薬物と言うと会場を貸してくれないので、カトリックの教会を借りろということで(神父は理解しているので)、近藤さんがダルクを作るきっかけになったロイ神父が私の友人ウイリアム・ドネガン神父が下館にいると言って、会場を貸して下さいと言ったのがはじまりでした。
ローマから総長が来て、色んな事がある中で僕が洗礼を受けるきっかけになりました。
僕はドネガン神父と聖書の勉強をする訳です。
神様はあなたを作って来て今あなたは私の前に会わせてくれた、今生まれ変わりませんか、洗礼を受ければあなたは生まれ変われる、と言われてやくざの私としては都合のいい話と思いましたが、やってみようと初めて洗礼を受けて変わっていきました。

NAグループのプログラムは聖書に近くて入りやすい、それが生まれたのは1930年代 、のんべえと神父さんが始まりで良く出来ていて、全世界で依存症の回復に行われている。
ダルクは辞めさせる所ではなくて、使わない生き方を仲間とともに学び取る、それがダルク。
自立、ダルク、刑務所、これが唯一薬を使ってきた人たちが選べる道です。
ダルクに来るには深く親が関わってくることが必要。
自分のモラルの棚卸表を作る、今まで生きて来た事を書きだす、プログラムには未来はなく過去、今どうかだけです。
山登りのそう快感、達成感、・・・薬を使わないで山に登って楽しかったという思い、薬を使うのは14歳ぐらいからで子供の頃の遊びを知らない。
最終的にたどり着いたのは褒められたことがないということ、達成感がない、山登りすることによって達成感と握り飯のうまさを感じ始めたときに顔の色が変わる、天然温泉に浸かることによってイライラ感が消えてゆく、ミーティングで喋ると楽しかったという言葉が出てくるようになる。
人間は自然の中で回復して行く。

節分に鬼役を頼まれるが、太鼓を叩くのに園長さんがダルクの子達に叩かせませんかと言うことになり、家族がたいこを買ってくれるようになり、回復への凄い力になりました。
壇上に出て褒められる、拍手が貰える、こんなことはそれまでには無かった。
大切なのは達成感と薬ではない気持ちの良さ、それをいっぱい詰め込むために依って変われる。
ダルクを出てからのサポートはそのグループのミーティング場に行くことによってサポートになる。
日本にNA(自助)グループは300か所ぐらいあり、1500人集まる。
ハワイでは10万人集まる。
日本はようやく治療と言うことに向かいはじめた。
最後に残るのは薬物を使ったための後遺症、統合失調症という精神病、身体の異変に依っての病気を持っている人、こういった社会に戻れない人たちをどうするか。
NPO法人茨城依存症回復支援協会(通称IARSA)と言う障害者の施設を作ってもらったが、薬物で駄目になって生きられない合併症をもった人達の施設を茨木に初めて作りました。

刑務所に行くのを防ぐし、親がどうにも面倒できない子もそこで生活が出来る。
社会にもどれない子達と最終的に一緒に生活することが最終の仕事ではないかと思っている。
親はどこに相談したらいいか、警察には相談にはいけない、海外では薬物の相談窓口がある。
ばらばらになった家族が最後には家族構成が再びできる、これが最終目的です。
30分間、神様との出会い、今日何が有った、どんなふうに生きてきたか、目の前の事をきちっと評価する、その積み重ねが10年薬を使わないで生きてきたという証、それ以外に何もない。
今はダルクは47か所あり、関連施設を入れると77か所ぐらいあります。





2017年11月21日火曜日

五街道雲助(噺家)             ・らくご街道半世紀

五街道雲助(噺家)     ・らくご街道半世紀
平成25年度芸術選奨文部科学大臣賞を受賞し、平成28年度には紫綬褒章を受章しています。
昭和23年墨田区本所生まれ、通好のみの本格化として親しまれている噺家です。
明治大学に入学してそこで落語にはまり大学を中退、古今亭 志ん生の長男の金原亭馬生に入門しています。
弟子3人、桃月庵白酒、隅田川馬石、蜃気楼龍玉、いずれも実力、人気のある落語家3人の弟子を抱えています。

五街道雲助の名前の経緯、二つ目になるときに何かいい名前がないかと思ったが、小粋な名前は好きではなかった。
師匠が俺は隠居したら五街道雲助になると言っていてそれが頭に残っていました。
五街道雲助を貰いたいと伺ったら、お前ならいいだろうと言われました。
本来「五海堂雲輔」だったが、五街道雲助になった。
なった当座は非難ごうごうだった、良い名前だなと言ってくれたのは立川談志師匠だけだった。
今の若い人は雲助の意味を知らない事はちょっとさみしい。
平成25年度芸術選奨文部科学大臣賞を受賞し、平成28年度には紫綬褒章を受章。
最初の賞の時は地味にやっていたので意外だった。
皇居に上がって天皇陛下にお会いすると聞いて、雲助が天皇陛下の前にいっていいのかと思いましたが。
立川談志師匠からは江戸の風を感じると言われました。
芝居話はやっています。

芝居はお袋が好きだったので子供のころから歌舞伎座に連れていかれたりしました。
団十郎、幸四郎、松緑3人が勧進帳を交代でやったのを小学校の頃観てたりしました。
落語もお袋が好きで鈴本等によく行きました。
三亀松(みきまつ)師匠の時は色っぽ過ぎて、子供には聞かせられないとその時はお袋には連れていって貰えなかった。
昭和23年墨田区本所生まれ、(戦後すぐは爆弾あられ屋、せんべい屋)蕎麦屋をやっていました。
子供のころは病弱だったので注射慣れしていました。
さん助師匠は当時爆笑王だった、川柳さん、談志師匠の小ゑん時代とか面白かったです。
両国中学(墨田区の学習院と言われた)にいって、12クラス有りました、そこで挫折しました。
明治大学付属高校に行きましたが、クラブ活動もやっていませんでした。
高校2年の時に進路指導があり、明治の商学部に行きたいと言って、3年の時に受験勉強を開始して商学部に入ることが出来ました。

人前で話すのが苦手で、落語研究会に入ることになりました。
文化祭では落語は花形だった。
新宿末広亭、人形町末広亭、鈴本、池袋にも毎日のように通っていました。
2年の終わりごろ、不可が10幾つありやばいと思って勉強しようと思ったら、教科書が無かった。(全部落語を聞く方に費やしてしまった。)
最初の文化祭ではお袋が聞きに来てくれて面白かったと言われて自信が付きました。
蕎麦屋、鮨屋、天ぷら屋などを父が広げてやるようになりましたが、後を継ぐことはありませんでした。
噺家になって二つ目になった時に父からもそろそろやめないのかと言われました。
噺家になろうと決めて、師匠としては小さん師匠か、馬生師匠かどちらかにしようと思いました。
小さん師匠の家を訪ねていったら、沢山弟子がいて、師匠にも合うことが出来ず断わり続けられました。

馬生師匠の所にいって、2回目に両親をつれていって入門することになりましたが、誰もいないはずの弟子が5,6人ました。(当時落語がブームで多かった。)
噺家の生活が新鮮でした。
師匠は朝の10時から日本酒でちびりちびりとやるわけです。
昼寝して1,2時になると風呂を沸かして風呂からあがって又ちびりちびりやるわけです。
雪駄を履いておかみさんが後ろから切り火をきって行ってらっしゃいと言って、「おう」と言って出かけて、なんと良い師匠なんだろうと、俺もいずれこういうことが出来るんだろうかと思ったがとんでもない、出来なかった、羨ましいと思いました。
当時年始に5.6か所回っていい気持になってしまいますが、今はないですね。
入門当時は「駒七」と云う名前で、1972年にふたつ目になり「五街道雲助」となり、1981年に真打ち昇進。
当時真打ち試験があり、山口百恵の結婚式と同じ日だった。
10数人試験を受けて7人が受かりました。
幹部が桟敷にいて、拍手もないし座椅子に坐っている人が一人いてそれが談志師匠で今までの中で最悪の客でしたね。
今は真打ち試験はなくなりました。

1982年に馬生師匠が亡くなり、残念でした。(54歳)
師匠みたいになりたいと思っていましたが、いきなりいなくなり稽古してもらえないで困ってしまいました。
落語の速記が大変多くて(古速記)、それが残っていて勉強できるので、それに頼った所があります。(調べながら勉強しました。)
44歳ぐらいで弟子を取ることになりました。
桃月庵白酒、隅田川馬石、蜃気楼龍玉。
桃月庵白酒は落とし話、隅田川馬石は人情物もできる、蜃気楼龍玉は圓朝ものが得意でやっています。
それぞれに持ち味があって面白いと思います。
入門志願者は10数人いたんですが、3人でちょうどよかったのかなと思います。
今は孫弟子もいます。
今までやってきた話の中で、こう変えれば面白いかな、と言うようなやり方で話は斬新になるなあと思っていて、そういうふうにやっていければなあと思います。
「なんでもいいんだよ、でもどうでも良いと言う訳ではないんだよ」うちの馬生師匠がよくいっていました。(役がつかめていればどうでもいい)


















2017年11月20日月曜日

東儀博昭(宮内庁式部職楽部首席楽長)   ・【にっぽんの音】能楽師狂言方 大藏基誠

東儀博昭(宮内庁式部職楽部首席楽長)   ・【にっぽんの音】
聞き手:大藏基誠 (能楽師狂言方)
式部職楽部、式部は儀式を担当する部署、楽部は楽を司る部署。
音楽には雅学、洋楽ふたつを仕切っています。
楽士として20~60代まで24名がおります。
私は「篳篥(ひちりき)」、クラリネットを担当します。
篳篥(ひちりき)」も管楽器です。
(篳篥(ひちりき)の解説 篳篥は漆を塗った竹の管で作られ、表側に7つ、裏側に2つの孔(あな)を持つ縦笛である。 発音体にはダブルリードのような形状をした葦舌(した)を用いる。 乾燥した蘆(あし)の管の一方に熱を加えてつぶし(ひしぎ)、責(せめ)と呼ばれる籐を四つに割り、間に切り口を入れて折り合わせて括った輪をはめ込む。)

募集の時期に試験に合格した人が楽部での修行ということになります。
15歳からが受験の資格となります。
実地試験が主になっています。
楽師間では下の名前で呼び合います。
東儀家と大藏家(大藏基誠 能楽師狂言方)は遡ると先祖が一緒と言われているが。
聖徳太子に使えた秦河勝氏が私たちの東儀の祖と言われているが、大蔵家と親しみを覚えているところではないたと思いますが。
大藏家も遡っていれば秦家になるので1000年を越えた遠い親せきになると思います。
雅学は1300年以上の歴史をたどることになります。

*「五常楽急」 演奏
仁義礼智信の「五常」の5つの言葉を基本に作られたというのが「五常楽」で、同じ「急」を何度も繰り返して、何回もやっているうちに、一行目と三目の出だしの音にガイドとして「と」と「ち」と言うのがあてはめていて、「とちる」の語源と言われているが、この「五常楽」です。
ガイドとして笛が鳴ったらその頭に戻ると言うことで、何回も繰り返していてるうちに、あいまいになって来ると「と」と「ち」が逆になってしまうと、とちってしまうのが語源になったと言われます。
(「五常楽」解説:雅楽の舞楽および管弦の曲名。舞楽としては左方の舞で,平舞の代表曲の一つ。4人舞で,蛮絵 (ばんえ) 装束または襲 (かさね) 装束で舞われる。平調 (ひょうぢょう) 調子および品玄 (ぼんげん) の演奏のうちに舞人が登台してから当曲 (中心曲) となるが,この当曲は「序」「破」「急」の3章が完備している珍しい例となっている。「序」のあとに「詠 (えい) 」と呼ばれる特殊な章も挿入され,「急」のあとは「入綾」と呼ばれる「急」の章の反復のうちに舞人が降台して退場する。仁,義,礼,智,信の「五常」を,音楽の「五声」に配して作られたものという。)

雅学は日本最古の音楽。
日本に有った様な歌や舞と、中国、高麗等から伝わってきた舞、楽器を元に作られて音楽を纏めて雅学と言います。
現在の形に完成したのは平安時代です。
管楽器、龍笛(唐楽用)、高麗笛(高麗用)、神楽笛(日本古来の演奏用)の3種類の横笛、
縦笛として「篳篥(ひちりき)」、神楽、高麗、唐楽にも使います。
管楽器「笙(しょう)」と言うのは、高麗笛、神楽笛にも使っていないです。
唐楽には笙(しょう)、龍笛、篳篥(ひちりき)が使われます。
管楽器は家々に伝わる伝承の一つで、「篳篥(ひちりき)」を吹きながら笙(しょう)を吹くことはあり得ないです。
他の楽器の事をやる様だったら、ひたすら(只管)やれと、只おのれの家の管を伝承しろと言うのも、語源のひとつで、「ひたすら(只管)」と言うことです。

篳篥(ひちりき)は短いたて笛、長さが18cm位の竹笛、そこに1寸9分ほどの「ろぜつ」(葦:よし)が入っていて、葦を生えているものから取って、茅葺の屋根の様な所に囲炉裏の方にかざして煤をかける、数十年した家を壊すときに貰い受けて、それを削って夏の一番暑い時(湿気のむんむんしている時)に火鉢の前で、削ってそれを素材にして葦舌(した)を作る。
削り方もめんどくさいし、音をよく鳴るように作ることも年季の要る作業で、篳篥(ひちりき)吹きはこれを一生やらなければいけないと言う修行をうけて現在に至るわけです。
「ろぜつ」はお茶に浸さないといけないので時間がかかります。(お湯だと腐ってしまう。)
お茶に浸けると葦の繊維が締まって来る、消毒になる、口を開かせるためにもなる。
湿らせて葦舌(した)の元には「図紙ずがみ)」という和紙がまいてあり、和紙と篳篥(ひちりき)の「ずもち」と言うところに差し込んで空気の漏れがない様にして演奏するのが、篳篥(ひちりき)の楽器の特徴です。
ダブルリードではないと思っていて、筒リードで湿らせて軽く口が開きます。
*篳篥(ひちりき)の音を披露

小さい楽器からおおきな音が出る。
篳篥(ひちりき)の音域は人間の声と同じように1オクターブちょっとぐらいしかなくて、人間の言葉の様に感じると思われる、心に響くように聞こえる。
楽部生活50年になります。
篳篥(ひちりき)を代々やっていたので、子供のころから吹いていました。
12歳で予科生として入りました。
昼間は稽古、学校は夜間に行きました。
遊びたいと思った事もありましたが、使命もあるし、面白さもありました。

*「千秋楽」 演奏
歌舞伎、相撲でも千秋楽と言われるが、雅学の千秋楽は平安時代日本で作られた曲、仏教の行事の最後に必ず演奏されたと言われている事から「千秋楽」と言われたので、舞台などでも千秋楽と言われるようになったと言われています。
















2017年11月18日土曜日

國森康弘(看取りの“写真絵本”を出版)   ・“温かい死”で“命”のリレー

國森康弘(看取りの“写真絵本”を出版)   ・“温かい死”で“命”のリレー
國森さんは人が亡くなる最後の瞬間まで、家族や親しい人達が見守り看病する看取りの様子をカメラに納め、写真の絵本として出版してきました。
これまでに取材した看取りの現場は国内の100以上に上ります。
國森さんが看取りを取材するようになったのは、海外で多くの人の命が無残に奪われる冷たい死を目の当たりにしたからです。
近しい人々に看取られる温かい死を集めた写真絵本に國森さんはどんな思いを託したのでしょうか。

きっかけは戦争取材がきっかけでした。
冷たい死を戦争や紛争地で知って、自分はそんな冷たい死は無くしたいと思いました。
これからは天寿全うできる温かい死を知って伝えて共有して行けたらなあと思いました。
2000年に地元の新聞社記者になり、2003年にイラク戦争を取材、新聞社を辞めてフリーランスになる。
子供のころからいい加減な性格でしたが、戦争だけはやってはいけないと思ってきました。
イラク戦争で、必ず子供たちが巻き添えになって殺されてしまう、そんな人災を抑制するためには現場での報道が不可欠だと思って、新聞社を辞めてフリーランスになりました。
10年で15カ国近くを取材。
イラク、ソマリア、スーダン等の紛争地、ケニア、ウガンダ、カンボジア等のスラム街、孤児の村とか、生活困窮地を回っていました。
特に子供たちが亡くなって行く姿に衝撃受けました。(銃撃、爆撃、病院が破壊され治療が受けられずに亡くなって行く人たち、子供達)
イラクでは車に仕掛けられた爆弾があって、最初は小さな爆発音が鳴って小さな子の鳴き声が聞こえて、皆が助けようと思って車に駆け寄ると、大きい爆発がドーンとして、何人も亡くなり、女の子もいて亡くなってしまった。
写真を撮るかどうか躊躇しているときに、お前がシャッターを押さなくて誰がこれを伝えてくれるのか、写真を撮って世界中の人に伝えてこの戦争を止めてほしいと言われました。
その言葉がなかったら写真は取れてなかったと思うし、報道して世界に伝えることが出来なかったと思う。
その言葉は自分の胸に深く突き刺さっています。

展示会をしたときに、かわいそうだけどどこか遠くで起きた出来事であって、自分とはかかわりがないとか、命がけであなたがいっても日本の社会が変わるとは思えないとか、行くのは自己責任で国や世間に迷惑をかけるなよ、と言う様な事を言われることもありました。
共感してくれる人もいれば距離作って避けて行く人もいました。
身近な人の命を大事に思うことが出来て、それが出来て初めて遠い立場の人の命も思いやることが初めてできるようになるのではないかと考えるようになりました。
温かい死、悲しくも幸せな死を先ず自分が知って、取材したいと思うようになりました。
新聞記事で温かい死を書いてある記事があり、島根県の病院の無い小さな島に看取りの家がある、そこには幸せな死を寄り添って手伝っているヘルパーさんの話が載っていたので、取材に行きました。
2008年から取材を開始しました、生まれ育ってきたお爺さんさんお婆さんがいて、年老いたらそのまま島の中で亡くなって行くのが自然の流れだったが、最近最後は病院でと言うようなことになるが、死ぬ時だけ島を去らねばならないのが辛いと泣いている人たちがいて、何とかしたいと思ったヘルパーさんがその島で最後までいられるように看取りの家を建てたと言うことです。

今年『いのちつぐ「みとりびと」』と言うタイトルの写真絵本12巻を完成させ出版。
看取られてゆく本人、見送って行く家族、医者等の想い、あとがきには自分の思いなどを含めてつづらさせてもらいました。
2008年から本格的に看取りの取材を始めました。
写真と簡単な説明。
100以上の看取りを取材、れんちゃん(当時小学校5年生の女の子)と一緒に暮らしていたひいお婆さん、たけこさんの事は話は第1巻にあり心に深く残っています。
れんちゃんが大きくなってゆくに従っておばあちゃんは足腰が弱くなり、認知症が重くなり、れんちゃんの名前も忘れて行く。
おばあちゃんが亡くなって冷たくなってゆく身体を一杯触って「大事にしてくれてありがとう」と言って手をしっかり握って、おばあちゃんの土色の手とれんちゃんの血が通っているピンク色の手を見て命のバトンが手渡されていると感じました。

三重県との県境にちかい山奥の君ヶ畑という集落、なみおばあちゃんは認知症も深まっているが、長年一人暮らしをしておる。
生まれ育ちも、結婚、育児、家事、旦那さんの介護、看取った人生、なみおばあちゃんの所には息子さん娘さんがいて、或る時急に息子さんが立ちあがっていった時には息が止まっていたが、娘さんの呼びかけにもう一度息をし始め、手を握って「もういいよ」(もうゆっくり眠っていいよ)という娘さんの言葉に安心するかのように、おばあちゃんは完全に息を引きとりました。
おばあちゃんの顔を見ると目から涙がこぼれていましたが、それを見て「これでよかったんやね、ばあちゃん」と娘さんはぼろぼろ涙を流していました、涙の中にもほほえみのようなものが伺えました。
亡くなっていっても心の中に生き続ける、悲しみの中にも或る安心感が生まれて行くように感じました。

最初は看取り、死の現場は、悲壮感の漂う苦しい悲しい辛い現場と身構えていたが実際にその場にいると、エネルギーを感じてしまいます。
冷たいだけの死とは違って、温かさと希望も感じる様なものがありました。
内側にたまっているエネルギーを見て行く必要があるのではないかと段々思うようになりました。
私たちは生まれてくるから死ぬ、それを肌で知ってほしいと思っていました。
『いのちつぐ「みとりびと」』の絵本を学校とか、自治体などにも取り上げられたりしていて、両親お爺さんお婆さんと一緒に読んでほしいと思っています。
死、生、命のバトンというものを五感で感じてほしいと思いました。
小さいころから知ってほしいと思ったので写真絵本にしました。
生老病死は避けては通れないし、逃げてはいけない、逃げられない。
生きていくうえで死を意識して、家族も、自分もいつかそういう日が来る、だからこそ今日と言う日をどうやって生きるのかを強く考えなければいけないと思っています。

自宅で最期を迎える人は1割しかいない。
れんちゃんが住んでいる滋賀県東近江、永源寺地域では自宅で亡くなる方が5割前後です。
都市部では人のつながりが希薄、高齢者人口が増えて行くが、どのように温かい看取りを実現させているのか、取材しないといけないと思って共暮らしに注目しました。
ガン、認知症が深まったりして、身寄りが亡くなったり、家族では介護出来亡くなった人たちが一つ屋根の下で最後まで暮らすホームホスピス(「ゆずりは」)が小平市に有って、2014年春から通わせてもらいました。
最初はぎくしゃくしていたそうですが、一緒に暮らすうちに、同時代を生き抜いてきた苦労を分かち合って、身体、心の苦痛を分けあっていたわるようになります。
皆で看取る温かい旅立ちがあります。
地域によって事情は違うとは思うが、地域地域の人のつながりを築いていけば、その中で温かく満たされてゆく、そういった営みが出来ると思うようになりました。

豊かな看取りが出来る社会とは、大前提は戦争があってはならないし遠ざけなければいけない、社会的弱者に優しい社会が大事だと思います。
命のバトンリレー、あなたが生まれてくるのには両親、祖父母・・・、100万人存在する。
自分の命は何百万人の命もかかわっていることを意識することがないと、他の人、遠い国の人のことを思いやれないのではないか。
戦争、貧困に関心を持ってもらうことが必要だと考えています。
写真を撮る人、映っている人の共同作業で、それを観る人、それぞれどう共鳴するかは千差万別で、自分の人生経験と照らし合わせながら一枚の看取りの写真を観ると言うことで、看取りの写真は自分ごととして、心を膨らませていって捉えていって欲しい。
戦争で亡くなって行く子供たちの事を思い浮かべながら日本のお爺さんお婆さんにカメラを向けて来ました、世界中の子どもたちがお爺さんお婆さんの様に、命を全うして命のバトンを繋いでいけるような世の中になればいいなあと思って撮っています。










2017年11月16日木曜日

飯島春光(篠ノ井西中学校 社会科教諭)  ・教室に残る満蒙開拓の“現在”

飯島春光(長野市立篠ノ井西中学校 社会科教諭)・教室に残る満蒙開拓の“現在”
飯島さん64歳、1930年代から終戦までの間におよそ27万人の日本人が国の政策満蒙開拓のために旧満州、中国東北部へ渡りました。
終戦直後の混乱の中8万人もの命が失われ、家族と離れ離れになった多くの子供たちが中国に取り残されました。
開拓団に全国で最も多い3万3000人を送り出した長野県には、戦後70年以上たった今も中国から帰って来る人がいます。
長野県でそうした中国帰国者の孫、曾孫を教えてきた飯島さんは家族の歴史をしっかり学び堂々と生きていって欲しいという思いを胸に日々教壇に立っています。

中国帰国者の方々が大勢住む団地があり曾孫、10数人が通学しています。
私が勤務した2000年以来、10数年変化なく毎年のように、多くは黒竜江省からの転入生がいます。
旧満州では、遼寧省、吉林省、黒竜江省が有ります。
今でも中国から長野県に帰ってきています。
県の数字では300人近い中国帰国者がいて、2世、3世までで4000人弱です。
今現場の学校に来ている人たちは4世で、赤ん坊の5世を含めると少なくとも1万人いるのではないかと思います。
彼らは日本で生まれて、普通に日本語を話せますが、家に帰ると日本語の不自由な親、祖父母と一緒に暮らしています。
おばあさんが病気のため通訳のために休んだと言うようなこともあります。
言葉の問題、文化、経済が日本とは違うので、さまざまな困難をしいている側面があります。
彼らは日本語は話せないが日本人です。

今から17年前、初めて中国から帰国した子供たちに接して、言葉が判らなくて、クラスメートから聞くに堪えないようなことを言われていたことが多かった。
中には殴り合いのケンカになることもありました。
中国では日本人と言われ、日本に帰ってきたら中国人と言われて、一体自分はどこの国の人間なんだと、振り絞るような叫びで訴えた子供もいました。
中国から帰って来た人々に対して受け入れずに、差別する心があったと思います。
心細い思いでいる転校生にたいして、冷たい態度を取っていた。
転校生が中国から来た子たちと言うことです。
歴史への無知があったと思います。
彼らがどういう空気を吸って、どういうところで生きて来たんだろうと、それを知らないと授業にならないと思って、2002年に中国黒竜江省に行ってきました。
いろいろ交流してきました。
写真を見せて話をしていたら、彼らとの距離がぐっと縮まったと思いました。
社会科新聞に自分の祖父母の事を書いてもらいました。

或る14歳の女性は混乱の中はぐれて、4人の女性たちと逃げたが村人たちに囲まれて、手に鎌などをもった人たちがやってしまえと言って取り囲んだが、村の老人が説得して4人を助け、その後3人は中国人の嫁に貰われていった。
彼女は14歳なので、おじいさんと共に過ごして、結局15歳でその家の嫁さんになりました。
翌年子供が生まれてその子が3歳になった時に、日本のお母さんと連絡が取れて、帰って来いと言われるが、置いて帰る訳にはいかず、11人の子供を産んで現地で生きてきたと言う方です。
或る人は推定2歳で衰弱しきっているところを中国人夫婦に育てられて、小学校高学年で違う村の子と一緒に学ぶようになり、子供達から中国人の生活が苦しいのはお前の親のせいだと言われたそうで、養父母の事を思ってじっと耐えていたそうです。
中国の学校の先生はこの子のせいではないと守ってくれたそうです。
又収容所に入って兄、弟1人が死んでしまって母と弟と3人になってしまって、がりがりにやせ細ってしまって死を待つばかりだった、当時15歳でここで死ぬと言ったが、中国人が入って来て助けるので家に来なさいと何度も言われて中国の家に行き、段々体が回復してゆき、翌年昭和21年に母と弟は日本に帰ることになり、その方に3カ月経ったら迎えに来るから残りなさいと言われた。
助けてくれた御礼としてお嫁になりなさいと言うことだったようで、中国でずーっと生きて来たと言う人もいました。

中国から帰った生徒たちは、彼ら自身も祖父母が中国で助けられたことはわかっていても、詳しい状況はよくわかっていないので、極限状態の中どのように失われたのか、助けられたのか、それが自分にどのように繋がっているのか、歴史をきちんと知ってほしいと思いました。
彼らは必ずルーツと直面する訳ですが、祖父母への感謝を胸に収めながら堂々と生きていってほしい。
自分の一族の歴史を知ってお互いを尊重し合える大人になってほしいと思います。
本格的に或る方の事を授業で扱ったのはその方の孫がいるクラスだった。
おじいさんは開拓団でソ連が攻めてくるなかで集団自決をすることになり、当時14歳だった彼は俺は生きて帰りたいと言うことで、回りは理解して日本に帰れたらこういった状況を説明して欲しいと言うことで、周りの人はお金も差し出してくれました。
そのことを授業で話しました。(涙ながら話始める)
クラス全員が泣きました。
「先生あれはいい授業でしたね」と言ってくれました。
他のクラスでも誤解偏見がとれて差別が無くなっていきました。
ある女性の生徒が塾で隣の学校の生徒と話をしたときに、そんなのテストにでないよと言ったそうで、彼女はテストにいい点を取るために授業をやっているのではなく、人間として絶対に忘れてはいけない事柄、知識を詰め込むことに意識を集中する事だと云っています、でも点数とは何かと云うことです。
生身の歴史を大事にしていきたいと思っています。
時節を通して学び考える、そこから得て生きる力となるものが本当の学力だと思っています。

私の村から、(東索林)埴科郷(はにしなごう)、という「大地の子」のモデルになった開拓団に6家族が行っている。
我が家の近くにも合計すると60戸程の中で15人の方が旧満州で亡くなっています。
教科書に載っている満蒙開拓は知っていたが、身近にいる人たちがそういった事実が有ったことは全く知りませんでした。
親も語りませんでした。(親から子へ歴史が語り継がれてこなかった)
学校の授業でも具体的な事例は扱ってもらえなかった。
17年前赴任した時に中国から沢山子供たちが来て、これはしっかり勉強しないといけないと思いました。
事故で5年間休むことになり、職場復帰して3年たって篠ノ井西中学校に赴任しました。
母親も脳梗塞でそちらにも行かなくてはいけなくて、遅れを取り戻すことが精一杯で詳しい歴史を教えることが出来なかった。
教師としての悔しさを強く感じていました。

彼ら自身がどういう歴史を負っているのか、周りの子にも教えてあげないとだめだと思いました。
満蒙開拓の詳しい歴史を教師も知らなかった。
自分のルーツを知らない、ルーツを語るすべがない、自分はこういうわけでここにいるんだと言うことが皆に言えない、そういった子どもたちにその子のよって立つ歴史をきちんと教えることが一番大事だと思いました。
中国人に命を助けられた事をさらさらといえばいいと言っています、そして堂々と生きなさいと言っています。
今年度末に退職することが決まっています。
6月に例年行われる学習の一環として、「自分が当時の子供なら君は満州にいくであろうか」と言うテーマの授業をしているが、今までは私一人でやって来ましたが、7クラスそれぞれ担任の先生が授業しました。

長野県の平和教育は満蒙開拓の問題を抜きに語れないと思っています。
長野県の全ての市町村から開拓団ということで満州に渡っていった。
現在でいう中学2年生全てに教師が満蒙開拓青少年義勇軍への志願を呼び掛けていったという歴史がある訳です。
これからも学習への協力はしたいと思っています。
満蒙開拓の学習をするということは戦争の時代の学習をするということで、戦争の様々な側面にも目が行きます。
沖縄戦、特攻隊、原爆、長野空襲、松代大本営、アウシュビッツ、インパール作戦など多岐にわたって調べました。
人を愛する人間として、どう生きることが本当に人間らしい生き方なのかと言うことを、自分の頭で考えて行動できる人になってほしいと思って授業をしています。
開拓団の入った土地の多くは中国人が耕していた土地で、自分たちの土地を奪った侵略者だと言うことで、それにたいする反感が襲撃の背景にあったと思います。

一方、命を助けられた人もいて、国と国の関係ではなく人と人の関係の中で一人の人間としてお互いを大切にしながら生きていきたいと思います。
満蒙開拓の授業の発展として、自分の家でも家族の戦争体験を聞こうね、と呼びかけています。
事実を自分の目でしっかり見つめて学んでほしい、自分の頭で考えて行動できる大人になってほしいと思います。
どういう未来を作っていったらいいのか、そういうことを考えられる子供に成っていってほしいと思います。








2017年11月15日水曜日

笠原知子(カンボジア・美術スクール主宰) ・美術を通して生きる力を

笠原知子(カンボジア・美術スクール主宰) ・美術を通して生きる力を
1948年昭和23年栃木県生まれ、1974年東京教育大学大学院芸術科を卒業、28歳のときに都立高校の美術の教師となり31年間現場で教えました。
2007年定年の1年前に退職し、ある程度自分の人生を生きたら、どこかアジアの国の子供たちの支援をしようと言う以前から抱いていた思いを実行することにしました。
笠原さんが美術スクールを建てる国探しをする中で、選んだのがカンボジアでした。
カンボジアは1975年4月から3年8カ月に及んだポルポト政権時代に、社会制度が徹底的に破壊され、その後学校教育は復活したものの教育できる人材が育っていない状態でした。
笠原さんはさまざまな困難に直面しながらも、2008年12月、アンコールワットのある町、シェムリアップに小さな美術スクールを立ち上げました。
現在350人が学んでいます。
美術スクールの開校10周年を記念して、10月中旬の1週間東京銀座の画廊で絵画展が開かれました。
絵画展のために6人のカンボジアの青年画家をつれて一時帰国した笠原さんに伺いました。

絵画展は大変多くの日本人の方が来て盛況でした。
約200点持ってきました、年齢は4歳から30歳までです。
カンボジアに2007年に来ましたが、活動を始めてから日本の人に見せたらどうかと言う話がありギャラリーの方が無料で貸してくれて、絵を売りまして彼らの生活に活かせるようにと思って作品展をしています。
6人の方には絵の具工場で絵具の作られ方とか、版画の勉強などもして貰っています。
彼らは飛行機、電車に乗るのも初めてです。

7歳で母を亡くして、7歳で人の人生に終わりがあることを感じました。
小学校4年生の時に、桜の写生会で桜の老木が根を張って根から若葉を出して花が咲いて、生きているんだなと実感して、絵を描くのは面白いと思って絵が好きになりました。
終わりのある人生をどう生きたら自分が納得できるかと考えて、美術を選びました。
人生の最後はちょっと人の役に立つことをしようと漠然と考えました。
ゴーギャンのタイトルについても考えさせられました。
「我々は何処から来たか、我々は何であるか、我々は何処へ行くのか」
大学院卒業後、フリーの画家として作品を描いていましたが、その後28歳で教師になり都立高校4校経験して、都立新宿高校では11年間勤めました。
赴任した時には3人の女性教師しかいませんでした。(女性の生徒は1/3でした)
新入生にたいする案内書、ゲーテの「生き生きと生きよ」新入生にたいする新宿高校の伝統から考えられた贈る言葉だと思います。
31年間教えて定年1年前に退職しました。
段々教師も締め付けられるようになって来て、追い詰められたような感じがして、資金も出来てきたのでカンボジアで自分の新しい生き方を試してみようと思いました。

ネパールを対象にしようと思ったが駄目で、インドはきついと思って、カンボジアの方と東京で知りあって、その方のいった、「ポルポト政権時代は何処からも何の助けもなく真っ黒な時代」と答えてそれが印象的でした。
2003年に初めてカンボジアに行きました。
2005年に土地を買って、2007年に学校建設を始めて2008年に開校しました。
電気、水道、ガスもない、すごく驚きました。
1975年4月から3年8カ月に及んだポルポト政権時代に社会制度が徹底的に破壊されました。
子供達は10年前はゴミ拾いをしていましたが、今は減ってきています。
貧富の差が激しい感じはします。
社会保障制度が全くないので、家族がお互いの収入を持ちあって何とか食べていく状況に有ります。

20年間貯金をして退職金を投入して、自己資金で学校を建てて、完全無料の学校を目指して始めました。
土地の登記台帳がちゃんとしていない、購入した土地の道に関する政府案との対立で訴えられて5カ月工事が中断しました。
住民案を拡張するということで調整が付きました。
カンボジアでは外国人は土地を買えないので、名前を借りますが、このままだと危ないので名義変更した方がいいと言われて、お願いしたがなかなかOKして貰えず大変でした。
悪いことをしに来たのではないのに、どうしてこういう目に会うのか、考えさせられた時がありました。
色々なことが同時進行して、解決する見通しが立たなくて、髪の毛が抜けて禿になり、胃を痛めて体力を落としてデング熱にもなり、初めてカンボジアで入院しました。

最初は1人男の子から始めました。
日本語学校だと思ったらしい。
兄さん、友達が来て、絵の学校だと言うことで絵を描きだしてそれがスタートでした。
最初何を描いていいかわからない、経験がない、絵を見たことがない子がほとんどです。
或る学校に教えに行ったときに、90人いるうち絵の具をもった子は2人で、親の出稼ぎ先のタイで絵の具を使ったと言うことだった。
生徒は一時期は400人を越えましたが、今は350人位です。
日本語の教室も行っています、貧しくて月謝(10ドル)を払えないので学ぶ事もできない。
このスクールでは完全無料でやっています。
2013年までは私の完全な個人資金でやって来たのですが、子供たちの作品を見てくれた方々、大学の後輩が活動支援システムを作ってくれて、会員制サポートクラブを作ってくれてすこし資金援助をして下さってもらっています。
ある企業の方がインターネットのウエブサイトに資金援助のサイトを作って下さって、送ってくださっています。(100%だった個人運営資金が43%になりました。)

画材は日本から1トンの画材を送ってそれを使っていましたが、カンボジアでも外国産ですが買えるようになって、購入しています。
子供たちの作品展を日本でやった時に、日本の絵の具メーカーの社長さんが見て素晴らしいと言って下さって、絵の具を寄付してくださっています。
展示販売活動、坂田優子さん(小さな美術スクール・アートコーディネーターとして制作、広報等を担当。) 事業組織にした方がいいと言うことで販売活動しています。
大きくなった子供達が出張授業にいってやっています。
日本にいた時は豊かさに疑問をもたなかったが、色んなものがたりていない国での生活でありながらも、人間としての一番基本の大事なものを忘れないでいると思っています。
子供達は家の手伝いをしないと成り立たない。
喜捨精神、年老いた老人、地雷で手を無くした人たちが物乞いするが、カンボジア人が喜捨していますね。
自分も困っているが貧しい人が貧しい人を支えていると言う感じはします。
子供たちの目の輝きには感動します。(内面からの力)
後継者、展覧会に来た人たちの何人かは継いでくれると思っています。
こういった形になってきたのも、通訳の青年チウ ヒーア(2006年度日本語スピーチコンテスト優勝。現在、小さな美術スクール通訳及び日本語教師の傍ら美術制作にも励んでいる。)がずーっとやってくれたおかげ、坂田優子さん、多くの方の善意で色々なことが出来るようになってきました。