2019年3月27日水曜日

佐治晴夫(北海道・美瑛町美宙天文台長)  ・昼間の星を見る(2)回目

佐治晴夫(北海道・美瑛町美宙天文台長)  ・人生の星をつかみ続けて(2)

音楽に憧れましたが、音楽家になろうと思ったことは一回もありませんでした。
楽器の演奏もできないし単なる憧れです。
音楽に一番近い学問が数学の様な気がしていました。
数学は一つの仮定から始まって推論を重ねて行って一つの結論を導きだします。
それには証明が必要で、それが正しいかどうか吟味して証明の操作が終わる。
音楽も同じで、一つの主題があって、その主題が第一、第二と主題が変わっていって、大きく展開して結論に達して、それを吟味するようにして回想しながら最初に戻ると言う、その形式論、考える事、表現手段としては音楽と数学は近いのではないかと思いました。
もう一つ、音楽は見えない音が素材、数学も見えない数が素材なんです。
情緒の数学が音楽であり、論理の音楽が数学であると言ってもいいかもしれない。

1949年に日本人として最初にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹先生の論文を読んで数学から物理学へと進みました。
数学の美しさが私の心を打ちました。
星、太陽も興味がありました。
大学院の時に理論物理学の道に進みました。
人生はほんの少しのきっかけでどうにでも変わって行く、数学ではカオスと言うが、人生は一種のカオス的な要素があり、どういう状態になっても諦めるしかないという結論はだせないと言うことです。
カオス的であるからこそ、どうなるかわからないし、何らかの解決策がある、未来は決まっていないと言うことです。
お墓が多摩霊園にあり、近くに東京天文台があり昔は構内に自由に入れました。
又プラネタリュムに連れて行ったもらったと言う事もあり宇宙に興味を持ちました。

1977年にナサ、アメリカ航空宇宙局が打ち上げた宇宙探査機ボイジャーに、地球の生命とか文化を伝えるために、音楽、画像を収めたレコードが搭載されたが、そのレコードにバッハの音楽を載せることを提案しました。
ナサのジェット推進研究所のスタッフと仲良くなりました。
人類の進化から考えると言葉に先行するのが音です。
音楽の中で人間を離れた宇宙の普遍的な真理があるとすれば、それは結局は数学になるだろうと思って、数学の性質をもっていてなおかつ、音の素材であることの音楽を一緒にして要件を満たすのは何かと言ったら、やっぱりバッハだと言うことになりました。
演奏者としてグレン・グルードにしました。
ナサではボイジャーの事を機械だとは思っていないですね、彼だとかあの子だとか、僕もボイジャー君などと言っています。
当時の大統領のカーター氏がメッセージをレコードに入れていますが、そのメッセージが本当に凄いですね。
「これは小さな遠い世界からの贈り物です。 
私たちの音、科学、画像、音楽、思考、感情を表したものです。
私たちはいつの日にか現在直面している課題を解消し、銀河文明の一員となることを願っています。
このレコードは広大で荘厳な宇宙で私たちの希望、決意、友好の念を表象するものです。」
何か宮沢賢治さんみたいですね、こういう大統領がいたと言う事も凄いですね。
宮沢賢治さんは自分の信念を打ち出した「農民芸術概論綱要」の中で「銀河文明の一員として生きましょう」と言っています。
「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じていくことである」と言っています。
結論として「我らに要るものは銀河を包む透明な意志、大きな力と熱である。」と言っています。
ボイジャーは地球文明のタイムカプセルだった、と言った方がいいかもしれない。
どこかで地球外知的生命体と遭遇することを夢見てひたすら旅をしていると言うことです。

人生のある時点でその時の状況が良かったとか、悪かったとかという事が、言えないのではないかという事を学びました。
もし戦争がなかったら音楽への関心が芽生えなかったかも知れませんし、全てがその時が最善だと思って努力することが、最善の人生なんじゃないかなと言う実感があります。
過去は過ぎ去ったもので存在しませんし、未来もいまだ来ていないのでこれも存在しない。
あるのはこの一瞬しかない、過去が積み重なって今があるので、未来をどういうふうに今から生きるかによって、いかようにでも未来も変わるし過去も変わって行くと言うことになると思う。
従来はこれまでの過去がこれからを決めてしまうと言いますが、これからどういうふうに生きるかということによって、これまでの過去の価値が変わってくる。
これまでがこれからを決めると言う事ではなくて、これからがこれまでを決めると言う事ではないでしょうか。
何かを始めようとする時に良い時期、悪い時期はないんじゃないかなあと思います。
思い立った時が最良の時期だと思う。

詩にも音節、リズムがあり言葉にも文法があり、詩の中に音楽的要素があると言うことです。
数学的構造もある。
数学者が詩を好きだと言う事は不自然なことではないと思います。
童謡詩人金子みすゞさんも好きな詩人の一人です。
「さびしいとき」
「私がさびしいときに、
よその人は知らないの。

私がさびしいときに、
お友だちは笑ふの。

私がさびしいときに、
お母さんはやさしいの。

私がさびしいときに、
佛さまはさびしいの。」

寄りそうという事の真髄を詠っていると思う。
私というものと仏様が完全に一体化してしまっている。

リベラルアーツの教育。
戦後アメリカから入ってきて、日本では教養教育と訳してしまったが、これは問題だと思う。
自由に心を解放するための学問で、7つの教科があるとされる。
数学(算術、幾何)天文学、音楽、国語(文法学・修辞学)、論理学。
例えば「月がなかったら音楽が無かったよね」・・・テーマ
40億年前に火星の1/3位の天体が地球にぶつかって、地球の片が飛び散って重力により固まったのが月。
衝撃で地球の自転軸が23度半位傾いたことにより四季がある。
潮の満ち引きで地峡の自転軸にブレーキがかかり今の時間になった。
月がなかったら一日5,6時間で回っていた。(風速400mだった)
と言う事で「月がなかったら音楽が無かった」ということになる訳です。
リベラルアーツの教育の結果、究極的に言うと、宇宙の産物としての人間の位置づけができる。
どうあらねばならないと言う事で、ひいては平和教育に繋がる。

ボイジャー1号が海王星の探査の終了後、太陽系の家族写真を撮るが、送られてきた写真には針の先のような青い孤独な地球の姿が見える。
全てはあの点の中にいるんだよ、大事件が起こってもどこからも助けにきてくれる気配なんかゼロだよね、と言う事であります。
世界の指導者たちに宇宙から地球を眺めてもらうと、何か変わるのではないかと思います。
4年前に前立腺がんが見つかり、治療の非常に難しいと言われる導管癌ということだった。
統計的には3年が限度、5年生存率は非常に低いと言われる。
統計は中央値があると言う事ですが、5年経ったら必ず死ぬと言う事はならない、と言うことです。
確率論につきつめて言うと、先に一日でも二日でもいいから生きちゃった方が勝ちだと言うことです。
病と闘うと言う表現が使われるが、病気と闘うとこっちも疲れてしまうのではないかと思います。
「僕が死んだら病気君、君も死ぬんだから二人で死んでしまうのはもったいないよね。
だったら、しばらく一緒に行きましょう」と言うのがいいんだと思います。
自分の体は存在しない、だから病気になった時は一緒に住みましょうか、という位の気持ちでいた方がいいんじゃないかと思います。
私の身体も宇宙の一部、星のかけらですと言うことになります。
「詩人のための宇宙授業: 金子みすゞの詩をめぐる夜想的逍遥」を出版。
80冊位書いているが、一度こういう本を書きたかった。
カバーには数式が書いてあるが全部僕の思い出のある数式で、隅々まで僕が楽しみながら作った本です。
生きるためには一歩一歩、望標?を自分で作っていくことが必要だと思います。
身近な目標から何年後までの目標。
目標を達成するためには準備が必要。
ピアノ演奏発表、ボイジャーに関する事を自分でシナリオを作りながらやりました。
ショートレンジでは各シーズンごとに数学物理の講義もしています。
身近なところから自分の目標を立てて考える、と言う事をやることによって、その一日を生きることが、これから先の生きることの確立を大きくする、と言うことです。
















2019年3月26日火曜日

佐治晴夫(北海道・美瑛町美宙天文台長)  ・人生の星をつかみ続けて(1)

佐治晴夫(北海道・美瑛町美宙天文台長)  ・人生の星をつかみ続けて(1)
1935年東京生まれ、東京大学物性研究所や大手電機メーカーの研究所を経て、玉川大学、県立宮城大学教授、鈴鹿短期大学の学長を務めました。
1970年代にナサ、アメリカ航空宇宙局が打ち上げた宇宙探査機ボイジャーにバッハの音楽を乗せることを提案したことでも知られています。
今佐治さんは美瑛町の天文台長を務めながら、講演活動や小中学校でリベラル・アーツの教育に取り組んでいます。
80歳の時に前立腺がんを患い病気を抱えながら、人生を生き生きと精力的に活動する佐治さんに伺いました。

現在84歳、あっという間の84年でしたが、太平洋戦争を初め、今話しておかなければ永遠にうずもれてしまう話もありますので、貴重な体験事実などを含めて書き遺したいと思って忙しくしています。
美瑛町美宙天文台は2016年にオープンしました。
40cmの反射望遠鏡と太陽表面観測専用の望遠鏡を備えています。
天文台の設置の提案をしました。
現代は〇○ファーストの時代で戦争にも繋がる危険な考え方で、私たちは相互依存の関係の存在だという意識の欠如から来ていると言うふうに感じる訳です。
我々の宇宙は138億年の昔にたった一つの光からできたと言う科学的事実から明白なことで、根源が同じならばお互いに相互依存していると言うことです。
宇宙と人間とのかかわりを科学的な立場から伝えるには、宇宙を見上げることが一番で、そこで天文台ということになったわけです。
講演会、学術講義などもあり、海外の方からも含めて来訪者が多く来ます。
60%位が町外から来ます。

世の中は見えないものが多い。
昼間も星は見えないが、万一星が見えれば見えなくてもあると言う事が感じていただければいいと言う事で、昼間の星を見せることにしました。
「星とたんぽぽ」 金子みすゞ
「青いお空のそこふかく、
 海の小石のそのように
 夜がくるまでしずんでる、
 昼のお星はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。
ちってすがれたたんぽぽの、
 かわらのすきに、だァまって、
 春のくるまでかくれてる、
 つよいその根はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。」

世界は見えないものだらけなんですね。
現在の宇宙論から言うと、見えるものは5%位だと言うことです。
後の95%は暗黒物質とか暗黒エネルギーというようなものになっています。
見えなくてもあると言う事で、昼間の星を見せることにしました。
昼間の星を観るとまるでダイアモンドの炎がはじけているように見えるんです、物凄く美しいです。
それは一等星から二等星位です。
まど・みちおさんに真昼の星を見せたことがありますが、観測室の中に数時間いらっしゃったと思います。
最期に一言「あー、これが光そのものですね」とおっしゃいました。

景色を見る時には景色の中の一点は見ない、望遠鏡で星を見る時には、星と一対一で向き合っていると言うことになるわけです。
星を見ているのは私ですが、星から逆に見られている、という感覚です。
正岡子規が詠っています。
「真砂(まさご)なす数なき星の其中(そのなか)に吾に向ひて光る星あり」
今見ている光は過去の光です。
オリオン座は数百年前のもので、過去から現在までの時間の厚みを一瞬に凝縮して見ているということです。
時間空間が自分と一体になる。
戦後間もなく、中学生の頃の事ですが、戦前戦後にアマチュアの彗星探索家として世界中に知られていた本田実という方がいました。(生涯に彗星12個、新星11個を発見した)
本田実さんに憧れて岡山県の倉敷の天文台まで尋ねて行ったことがあります。
「どうして本田先生は星を観るのが好きなんですか」ときいたら、「お金のある人にもない人にもどんな人にも訳隔てなく、星は姿を見せるからね」とおっしゃいました。
本田さんはその後岡山県の長島に、愛生園というハンセン病を隔離してしまうところですが、このハンセン病棟に天文台を作っています。
もう二度と家にも帰れない、肉親にも逢えないと言う、ハンセン病の方々に星を見せたいと言う事だった。

10年前ぐらいに、金子みすゞに関する講演会が旭川でありました。
主催者の方に美瑛町に連れて行ってもらいましたが、その方から電話があり、土地を紹介して貰い、見に行きました。
そこで吹く風の音に魅入られて来てしまいました。
私が6歳で太平洋戦争でした。
兄とは年齢差があり一人っ子のような感じでした。
国語の教科書を読んで、月光の曲に関する作り話に共感して、音楽に憧れました。
昭和16年には太平洋戦争がはじまり、ピアノを弾くような状況ではありませんでした。
昭和17年4月18日に前触れもなくアメリカの爆撃機が飛んできましたが、初空襲でした。
学級担任の先生が宮沢賢治の童話を読んでくれる仙台出身の先生で、日本には2台しかないプラネタリウムを見ておいた方がいいと言う事で、有楽町に連れて行ってもらいました。
プラネタリウムを見て虜になりました。
父からはパイプオルガンを聞くように言われて、一緒に行きました。
軍服姿でゲートルを巻き、「軍艦マーチ」、「海ゆかば」、「空の新兵」などでした。
軍歌に混じって天の奥から舞い降りて来るような不思議な音楽が聞こえて、兄が「これがバッハだよ。」と言ってくれました。
パイプオルガンとバッハに目覚めた一瞬でした。

東京の初めての空襲を伝えておきたいと思いました。
空襲警報もならず、戦争の悲惨さ、非合法化、子供達の体験、非戦闘員がどのようにして戦争に巻き込まれていくのかという実体験です。
機銃掃射も受けました。
庭先に防空壕を作って段々食料も少なくなり、東村山、所沢などに買い出しに行って、金では売ってくれないので、着物帯締めなどを持って行って物々交換でした。
兵器を作るためにお寺の鐘も無くなりましたし、金属はすべて国が召し上げました。
空襲が激しくなって疎開をすることになります。
「夕焼け小焼け」の替え歌をうたっていました。
「夕焼け小焼けで日が暮れない。 山のお寺の鐘鳴らない。お手手つないで帰れない。」
なんて歌っていました。
街は焼けているのでしょっちゅう夕焼けなんです。 
山のお寺の鐘は兵器をつくるために召し上げられて鳴らない。
だからお手手つないで帰れない。

灯火管制、電燈に黒い布を掛けたんですが、爆撃機からはレーダーで見て居た訳ですが。
私はヴェートーベンの月光のレコードを布団をかぶって聞いていました。
鉄の針が無くなって、竹の針を使って聞くようにしました。
竹槍にするため竹の針も作れなくなりました。
最期ははがきの角を利用して聞いたこともありました。
特定の視点からだけから眺めるのではなくて、他との関連において総括的に理解してゆく能力が問われると思うので、専門馬鹿にならない。
リベラルアーツ教育がとても大事なことだと、心の中に再び燃えて来ました。
昭和、平成と科学が物凄く発展して、人間がやるべきことと人工知能がやるべき事の振り分け、役割分担が非常に曖昧になってきて、非常に危ないと言うような陰りが出てきたように感じます。
宮沢賢治の最期の仕事、自分の信念を打ち出した「農民芸術概論綱要」の中で「銀河文明の一員として生きましょう」と言っています。
宇宙とのかかわりの中で、我々のありよう、生き方とか、そういうものを頭に置きながら第一歩を踏み出せる時代になって欲しいと思っています。


































2019年3月25日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】小泉八雲

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】小泉八雲
「私ほど境遇の奴隷と呼ぶにふさわしいものはいないでしょう。
色々な力に押しまくられ最も抵抗の少ない方向に流されてきたのです。」 
(ヘンリー・ワトキンへの手紙の一節 小泉八雲

ドナルド・キーンさんが亡くなられました。
日本人が日本の古典文学等にあまり関心を示さないようなことをうれいていました。
アメリカから日本にやってきて、日本国籍を取って小泉八雲という名前に変えて、日本人に日本のどこが素晴らしいのか教えてくれた人でした。
頭に浮かぶのが「怪談」です。
NHKの「日本の面影」と言うTVドラマ、小泉八雲の生涯を描いたドラマで、見てこんなに魅力的な人かとびっくりしました。

境遇の奴隷、おいたちがかなり複雑です。
1850年6月27日  レフカダ島(地中海の小さな島)生れ。
母親はギリシャ人、父親はアイルランド人でイギリス人の軍医としてギリシャにやってきて結婚する。
アイルランドに戻るが、父親は任務で海外に赴任してしまう。
母親は慣れない土地で精神を病んでしまう。
母親は子供のハーンを残して一人でギリシャに帰ってしまう。
両親はそれぞれ別の相手と再婚してしまう。
ハーンは大伯母に育てられるが、大伯母は若い投資家にいれあげて破産してしまう。(ハーン17歳)
学校にも行けなくなって、ロンドンのスラム街をさまよいあるくことになる。
19歳で一人でアメリカに渡り、職を転々としながら図書館でむさぼるように文学を読んでいた。
22歳になった時に原稿を新聞社に持ち込んで採用され旅行記を書くようになる。
日本に行って旅行記を書かないかと出版社から提案があり、日本に来ることになる。

「いかなるものも愛すまいと心に誓いながら、くるおしいほど激しく愛してしまう、さまざまな土地に、さまざまな事物に、様々な人物に激しく惹かれてしまう。
そしてごらんなさい、すべては泡沫の方に消え去り一条の夢と化す。
まるで人生そのものの様に。」 (ヘンリー・ワトキンへの手紙の一節 小泉八雲)

日本に来たハーンは日本の素晴らしさに夢中になる。
「知られざる日本の面影」という本に、日本に来た時の印象を克明に描いている。
島根県の松江の中学校の先生になり、松江が凄く気に入る。
松江の朝の情景を美しい文章で書いている、特に音に対する感性が鋭い。
16歳の時に事故に遭い左目を失明して、以後性格が変わったと言われる。
右目もかなり近眼であったようで、耳の鋭さが敏感なのが特徴だと思います。

「神々を相手に途方にくれないものがあるだろうか。
生そのものが迷夢以外の何ものであろう。」
(「夏の日の夢」から引用)
両親との別離、貧乏、失明とか神様はどうしてこんな目に合わせるのだろうかと思ってしまう。
松江の中学校の西田先生と凄く仲良くなるが西田先生は結核になってしまう。
「あの病気 いかに神様は悪いですね。 私、立腹。
あのような良い人です、あのような病気まいります。
ですから世界はむごいです。 何故悪しき人に悪しき病気まいりません。」

ハーンは松江でヘルンさんと間違われて呼ばれたが、面白がってそのままにしていた。
妻もそのように呼んでいた。
妻は小泉セツ(島根県士族小泉湊の二女)
困窮していて、外国人の家にお手伝いさんとして働きに行くことは、屈辱的な仕事だったが、それほど困っていた。
セツさんも境遇の奴隷と呼ばれるような状況だった。
ヘルンさんはちいさいもの、弱い者に対して優しいが、その反対の人には物凄く腹を立てる人です。
そのせいで人間関係の問題を色々起こす。
優しくて怒りっぽい人です。
私も病気をしましたが、病気をすると自然の美しさが物凄く胸に刺さるんですね。
ハーンも自然が大好きで鳥とか虫とかが大好きで、そういうものの見方には不幸の環境とか失明した事が関係していると思います。
幸せで元気な時には見逃していた魅力が、気づけるようになったんだと思います。
「耳なし芳一」は気に入っていてのめり込んで書いて行った。

「虫の声一つあれば優美で繊細な空想を次々に呼び起こす事が出来る国民から、たしかに私達西洋人は学ぶべきものがある。
自然を知ると言うことにかけては大地の喜びと、美とを感じるということにかけては、古のギリシャ人のごとく日本人は私たちをはるかにしのいでいる。
しかし西洋人が驚いて後悔しながら自分たちが破壊したものの魅力を判り始めるのは、今日明日のことではなく、先の見えない猪突猛進的な産業化が日本の人々の楽園を駄目にしてしまった時、つまり美の代わりに実用的なもの、月並みなもの、品のないもの、全く醜悪なもの、こういったものをいたるところで用いた時になるだろう。」
(「日本の心」より)
ハーンが日本に来たのが明治23年(1890年)、日本が西洋化を進めている処を目にしている。
後の日本を予測している、警告を含めている。
役に立たないものは否定されてしまう、不要とされている人とかものとかが実は世の中をどれほど潤しているのか知れない。
ハーンはいいところがあると言って、妻を蛙の鳴き声のする墓場に連れて行く。
怪談を好んだのも同じことで、迷信とか怪談は世の中がどんどん発展してゆく世の中では
真っ先に追いやられてしまうが、小泉八雲はそれをいつくしむわけです。

「25年前のある夏の夕方、ロンドンの或る公園で私は少女が通り過ぎる或る人に向かって「さようなら」と行っているのを聞いたことがある。
それはただ「さようなら」「Good Night」という短い言葉にすぎなかった。
私はこの少女が誰であるかを知らない、顔さえ見なかった。
声も二度とは聞いてはいない。
それなのにその後100回も季節を送り迎えした後まで、その「さようなら」「Good Night」という少女の言葉を思いだすと、喜びと苦痛の不思議に入り混じった感動に胸を締め付けられる思いがする。
愛情から出た言葉には全人類、幾百億の声に共通する優しい音色がある。」
(「門付け」という本の文章の一節)
通りすがりの人からの何でもない一言で、こんなにも胸をゆすぶられるのは絶望している人にしかあり得ないことだと思います。
今失われてしまっている、軽視されていしまっている、思いやり、はかなさ、脆さ、美しさ、そういったものがとっても魅力的に描かれている。
とっても大事なものを失ったんだぞと、気付かせてくれるのが、小泉八雲だと思います。




























2019年3月24日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】
*「フレンチカンカン」 ジャック・オッフェンバック作 歌劇「天国と地獄」から「地獄のギャロップ」
運動会で良く演奏される曲。
オッフェンバックは1819年生まれ 生誕200年
沢山のオペレッタを作曲。
オッフェンバックの遺伝子。

*「ホフマンの舟歌」 オッフェンバックの遺作『ホフマン物語』の二重唱
1858年に初めてオッフェンバックの音楽がウイーンの劇場で上演される。
スッペはオッフェンバックに刺激されてオペレッタを作る。

*「軽騎兵序曲」 スッペ作曲
勇ましいメロディーはなじみ深い。
晩年に「ボッカチオ」と言うオペレッタを書く。

*「恋はやさし野辺べの花よ」  スッペ作曲 オペレッタ「ボッカチオ」より

浅草オペラ 1917年から6年間ぐらい、日本に西洋音楽が入ってきて、浅草オペラは大衆のものになってきた。
浅草オペラはスッペの作品を沢山上演したが、オッフェンバックの「天国と地獄」、ビゼーの「カルメン」、モーツアルトの「魔笛」をもとにした歌芝居なども上演しています。
 
*「麗しの人よ聞いて ベアトリーチェ」  スッペ作曲 オペレッタ「ボッカチオ」より
*「 ベアトリーねえちゃん」 浅草オペラでの同曲 

*ワルツ「春の声」 ヨハンシュトラウス作曲

2019年3月23日土曜日

池内紀(ドイツ文学者・エッセイスト)   ・「楽しく老いる秘訣」

池内紀(ドイツ文学者・エッセイスト)   ・「楽しく老いる秘訣」
古希を迎えた70歳から市販の手帳に「すごいトシヨリBOOK」という題名をつけて自分や身の回りの人の老いのしるし、兆候などを観察して記録してきました。
77歳にはこの世に居ないと予定を立てて書き始めたこの観察手帳も、いつの間にか期限を過ぎ、老人になって気付いた事の記録も膨大になっていました。
その記録を整理し、手帳と同じタイトルの「すごいトシヨリBOOK」を出版されました。
池内さんが老人になって気付いたことを記録し続けてきて、発見した楽しく老いる秘訣とは何なのか、伺いました。

老いた人間はそのなかに結構若さがあったり、悟りがあったり色んなものが混じり合っているので、タイトルも混じりあったものがいいだろうと思いました。
70歳を迎えて、60歳に対してかなり老けているので、記録を77歳までとってみようかなと思いました。
77歳を越えたらこの世に居ない事を想定して記録を取って見ようと始めました。
これは年寄りくさい、如何にも年寄りだとか、毎日気がついたりした事の記録です。
気力、体力も衰えて来るが、そこから身をそらすのは卑怯ではないかと思いました。
わざと老いに逆らってみると言うこと自体が老いのしるしです。
新しい言葉、カタカナ、若い人の言葉、早口がわからなくなってくる、だから世界が段々疎くなる、言葉から見放される。
しかし老人の宿命です。
元同僚、元同窓、元同じクラブとか、元がついて、そういうところに仲間ができて、共通点が多いし、年齢的にも近いので集まって話がしやすいので、元なんとかと群れるという特性があります。
群れる中では何にも出てこないんじゃないかと思います。

年寄りは不機嫌ですね。
おしゃべりが終わった後のなんかうつろな感じがする。
群れないで色々観察したり耳を傾けてひとりでいることを選んだほうが、毎日が楽しいんじゃないかと思います。
物がなくなって探してしばらくしてから見つかったりしますが、ものがもののけになって悪戯をしてると考えるんです。
老化早見表 三角のピラミッドがあり底辺が老化の始まりで、段々進行して行って頂点に達する、その現象が書いてあって自分がどのあたりにいるか、一目でわかるようにしたものです。
3段階ぐらいでいいです。

第一段 ①失名症(名前を忘れる) ②横取り症(話を横取する) ③同一志向症(靴など決めた所に置いていないと非常に不愉快) ④整理整頓症(きちっと整理して置かないと落ち着かない)⑤せかせか症(せかせかしている) ⑥過去すり替え症(過去の武勇談、自慢話があるが、願望が事実になってしまうようにすり替えてしまう)
⑦一時的記憶脱落症(二階から降りてきてなにしに降りて来たんだっけと一時的に忘れてしまう)
第二段 ①年齢執着症(やたら年齢に執着する 相手の年齢が気になる) ②ベラベラ症(対話を始めたら直ぐに横取りして、ベラベラとしゃべってとどまる処が無い)
③失語症(言葉が出てこない) ④指図分裂症(指図したがる 指図される側になるのを嫌がる) ⑤過去ねつ造症(過去すり替え症のもっと進んだ形) ⑥記憶脱落症(出掛けた理由が判らず天をにらんで立ちつくすような脱落状態)
第三段 ①忘却忘却症(話したと言う事を忘れて、忘れたと言う事を忘れる 老化の極みに近い 自分では手の施しようがない)

「お金を使わないで暮らす術」
暇ができて、お(O)金を使(T)わないで暮(K)らす時間を楽しむ術(J)、知恵を養った方がいいのではないないかというのが私の考えです。
「OTKJ」
①自分が住んでる街、近所の街の祭りをメモしておいて、月に一回ぐらいはその祭りを楽しむ。
②美術館はいつ行ってもいいし、何時間居てもいい。
常設館では安いし、いいものがある、人も少ない。
③自立の進め、TVと手を切りなさいと言うことです。(情報からの自立)
TVの製作は若い人がやっている。(老人からの目線ではない)
自分で考えることが必要。
ラジオはいつでも自由に聞ける。
「ラジオ深夜便」の人気のあるのは、そこに自分が求めている馴染みやすい声の時間があるという素朴な喜びと、自分の感覚が或る程度納得できるような形で番組が作られている、それが特徴だと思います。
TVを置かなければ夫婦の対話もできる。
家族からの自立、一緒という事がよきことのように感じるが、妻からの自立。
夫婦旅行をする時には、各々自由に見て回ったりすることで、お互いの見聞の話ができる。
④自分の行きつけの店をあちこちに作る、休みどころ。(喫茶店、居酒屋など)
宿などもいくつかあるといいと思う、自分の別荘といった感覚で。
⑤老いたらおシャレになりなさい。
しゃれた服を着ると言うのではなくて、近くのコンビニとか郵便局に行く時でもちゃんと着替えをするという事が書いてありましたが印象的でした。

老いと病
故障が治るものと治せないものが出てきて、治せないものが病に繋がって行き、死が徐々に近づいて来ると言う事があるが、目をそらさないで見ておく。
自分の責任でどう生きるかというその生き方が、どう死ぬかという死に方に結びついていると思います。
病があっても、強い薬を飲むとか手術をするとかして治そうとするが治そうとしない、、自分の中にある病気と共に生きる、共生、そして何年間か過ごして終わりになる、そういう生き方を私は考えています。
風の様に亡くなる、そういうふうに亡くなりたい。
目標の77歳は過ぎてしまったので、もし生きていれば3年単位で「おまけの人生手帳」として、3年単位で更新して行こうと思っています。





























2019年3月22日金曜日

大竹昭子(作家)             ・【わが心の人】須賀敦子

大竹昭子(作家)             ・【わが心の人】須賀敦子
須賀敦子さんは昭和4年兵庫県芦屋市生まれ、昭和33年からミラノに暮らし、日本の近代文学をイタリア語に翻訳し、イタリアの人達に紹介しました。
日本に帰国してからは、大学で教えながらイタリア文学の翻訳などに取り組みます。
平成2年イタリアでの体験をもとにした初の著作 「ミラノ霧の風景」で注目されます。
平成10年3月に亡くなられました。(69歳)

亡くなってからファンが増えてきて、段々若い人のファンが増えて来ました。
「ミラノ霧の風景」が出た時には吃驚しました。
インタビューをしたのをきっかけにお付き合いさせていただきました。
須賀さんは自分の過去のことについてあまりお話にはなりませんでした。
職業作家とは違って、自然と書くことが自分で書くことが必然であって、その切迫した思いが形になったのが60歳を過ぎてからで、生きることへの思い、もどかしさ、困難、そういう事が行間に溢れているわけです。
素晴らしい文学作品だけではなくて、須賀さんが生きてきた道を知りながら読む事によって作品をより深く読めるし、それが須賀敦子という作家を本当の意味で知ることになると感じました。
「ミラノ霧の風景」で女流文学賞を受賞することになりました。
自分の体験を蒸留して、どのように文章として伝えるか真剣に問うて書かれたものので他にはない文芸作品です。
ジャンル分けを虚しくさせてしまうほどの文芸書だと思います。

『コルシア書店の仲間たち』が出た直後に、話を伺いに行きました。
一見静かで控えめな態度ですが、親しくなると物凄くお茶目でユーモラスでお喋りです。
言葉の世界を豊かにもった方です。
あっという間に現れてあっという間に亡くなられました。
ミラノ、ベネチュア、ローマ 同じ風景の処に身を置いてみたい思いと、作品の中に出て来る地名、固有名詞を全部リスト化してその場所にいったり、人物にお会いすると言うような形を取りました。
土地を知ると言う事は作品の理解に繋がるし、豊かな旅でした。
須賀さんの作品の中から最善のものを引き出そうと言う覚悟を持って旅をしました。
写真と文章が一緒になっていて、ガイド的な意図をもって本を作りました。
帰国後から書き始める時間の方がずーっと長いので、一体どうしてこの人は時間を過ごしてきたんだろうと思いました。
「書きたいと思っても書けなかったのよ」とインタビューの時に言っていました。
過去の仕事を含めて一番自分で気になっていたことに、答えなければならないという思いがあったのが「須賀敦子の旅路」という本です。
前に書いたミラノ、ベネチュア、ローマの後に、東京での日々を取材して新たな一冊が生まれました。
ようやく宿題が終えたと言うような思いでした。

須賀さんは日本に帰ることに関しては思い悩んだと思います。
長い間外国に出た人にとっては日本はしんどいところだと思います。
新たに仕事を見付けなければいけないので、悩まれたと思うが、帰ってきてよかったと割に直ぐに新聞取材で言っていました。
戦争に突入して、戦争をくぐりぬけて、戦後日本はどうやって生きていけばいいのだろうと、国として日本人としてと言うような問いを、せざるを得なかった世代ですよね。
みんなが同じ方向に歩かされて、戦争に突入してもそのことに声をあげられなかった、そういう姿をどのように変えてゆけるか、考えざるを得なかったと思うので、私たちの世代とは違う使命感はあったと思う。
日本に帰ってくることによって、自分がこれまで考えてきたことを実現できるという確信を持っていかれたのではないかと思います。
13年暮らしたイタリアから42歳の時に日本に帰ってくる。
「ミラノ霧の風景」で私たちを吃驚させる、その間20年余り、知らない事がいっぱいあります。

大学の教授として仕事をする。(50歳過ぎて)
翻訳、通訳などもこなしていた。
カトリックの団体でボランティアを束ねる事もやっていました。
社会に具体的に関わりたいと言う思いが強いし、身体を使いたいと言う思いがあったようです。
戦後間もなく大学院まで行っていましたが、結婚というよりも学者の道を歩むのが当然なわけですが、作られた道を歩むのはどうしても厭だと言っていました。
道は自分が切り開くものであって、社会が作った或るルートに乗っかることは、生きることではないと言う強い思いと確信があったと思います。
自分のどうしても気になる生きると言う事、自分にとって必然の意味を探るために勉強していると言う事はどうしても譲れなかったと思います。
なので当然廻り道になるわけです。
60歳になって自分の生きる道を探ることと、社会に対して自分を表現するものが文学において一致した処が貴い長い道のりだったと思います。

美しい文章だといわれるが、ああしか書けない、決して美しく書こうと思ったことはないと須賀さんは言っていました。
必然から出た美ですね。
自分のまわりで亡くなる人が出てきて、死者の世界が近くなった時に、初めて自分が書く意味を見出したところもあったのではないかと思います。
追憶すると言う事が自分にとって自然にできた時に、文章が流れ始めたと言う事はあったと思います。
イタリアにいる頃詩も書きましたが、やめて散文家としてデビューされました。
それも謎に残ります。
日本の文学もイタリア語に翻訳して紹介していました。
1965年に出した日本現代文学集には25の文学作品が紹介されています。
夫ジュゼッペ・リッカと協力して、夏目漱石・森鷗外・樋口一葉・泉鏡花・谷崎潤一郎・川端康成・中島敦・安部公房・井上靖・庄野潤三などをイタリア語訳。
後半の作家の作品はあまり知られていない作品が紹介されている。
イタリアでは手にするのが困難なものをどうして本、資料を集めたのか、そしてどうしてその本を選んだのかも謎です。
この本によってイタリアの若い世代の日本文学ファンが育ったんです。





























2019年3月21日木曜日

三木善明(元 宮内庁掌典補)        ・「宮中祭祀に仕えて」

三木善明(元 宮内庁掌典補)        ・「宮中祭祀に仕えて」
70歳、皇室の祭祀をつかさどる部署、宮内庁掌典職の一員として昭和48年から28年間使え、昭和の大葬と平成の即位の大礼など、宮中祭祀の伝統を守り伝えて来ました。
神社の家に生まれ育った三木さん、京都御所に出仕していた24歳の時、皇居で働くことになりました。

普段は白い着物と白い袴、白衣白袴と言います。
権禰宜(ごんねぎ)の場合は青い袴を付けます。
皇居での神職の仕事は色ものはありません。
色が着くと言う事はそれだけ人の手の手を経ると言う事なんで、穢れが多くなるという考えがあります。
今上陛下が4月30日に、皇太子殿下に譲位されると言う事で、5月1日に天皇の位につかれます。
天皇陛下が変わられても宮中のお祭りは脈々と続きます。
退位は譲位という言葉が正しいと私は思っています。
践祚(せんそ)は「践」とは位に就くこと、「阼」は天子の位を意味する。
神職に付いている人は「践祚」が一般的です。

昭和46年に宮内庁京都事務所で認容されました。
昭和47年に第88代の後嵯峨天皇山稜700年祭が京都で行われました。
その時に私の出身が神社であることが判って、掌典職の人が足りないので来てくれませんかと言われて、48年に3月に行くことになりました。
実家は御香宮神社です。
宮中三殿は、皇居の西側、吹上御苑の一角にあり、およそ2200坪位の敷地があります。
宮中三殿は、賢所(かしこどころ)、皇霊殿(こうれいでん)、神殿(しんでん)の3つがあります。
賢所(かしこどころ)は皇室の先祖である天照大神がお祭りされています。
皇霊殿(こうれいでん)は歴代の天皇陛下と皇后陛下初め皇族の御み霊(おみたま)およそ2千数百をお祭りしています。
神殿(しんでん)は日本中の神々、八十万神(やそよろずのかみ)、全ての神々をお祭りしている御殿です。
総檜作り、屋根は銅板葺きです。
天孫降臨という、天照大神の孫邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原から日向国の高千穂峰へ天降(あまくだ)ったこと。
天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(あまのこやねのみこと)などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。
『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である。
それ以降天皇陛下がお祭りをされると言う事で、住まいの御殿にお祭りをされていたが、第10代崇神天皇(すじんてんのう)の時に、そこでするのは畏れ多いと言う事で、大和の笠縫邑に祭られました。
第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の時に伊勢の五十鈴川(いすずがわ)川上にお祭りをされました。
これが現在の伊勢神宮の内宮様になります。
全く同じ御鏡を作りまして、別の御殿でお祭りをされましたのが、賢所(かしこどころ)になっています。

皇霊殿(こうれいでん)はもともと京都御所時代はお黒戸と言うところで、女官が仏式でお祭りをされていました。
明治になって国家神道、廃仏毀釈になって、仏式でお祭りをしていたのを神式に改めました。
それで皇霊殿(こうれいでん)を作ったわけです。
神殿(しんでん)は京都の吉田神社でお祭りをされていました。
明治天皇のおぼしめしで皇居に移され神殿(しんでん)が作られました。
三つの部屋があり内々神に神様がお祭りされていて、内神は天皇陛下がお参りをされる場所、その外に下神があります。
宮中三殿をお守りするのが、掌典職の職員の人達です。
私がいたころは23人居ました。
掌典長が1人、掌典が6人、掌典補が6人、出仕が3人、女性で内掌典が5人、雑仕が2人という構成です。
天皇陛下の私的機関で、掌典補だけは国家公務員です。
歌会始の事務全般を掌典補がやります。

平日は8時半から5時までの勤務になります。
宿直の時は午後5時15分から翌朝8時30分までとなります。
神様というより貴い方がお住まいになっているという考え方で対応させていただいています。
明治の建物なので火災には気を使っています。
年間60回位の祭祀があります。
皇霊殿の御祖先のお祭りもあり、御命日に行います。
毎月1日11日21日に旬のお祭りもあります。(35回/年)
大嘗祭は天皇陛下が即位された最初の年に行う新嘗祭をいいます。
新嘗祭(にいなめさい)は11月23日に、天皇五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、また、自らもこれを食べ、その年の収穫に感謝する。宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われます
2月17日に祈念祭 としごいのまつり、一年の五穀豊穣などを神様に祈るお祭りがあります。
そしてお陰さまで立派なものが獲れました、どうぞお召し上がりください、と言うのが新嘗祭です。
お願いと御礼の表裏一体なんです。
天皇陛下が自らお供えになる。(新嘗祭)
正座で2時間で2回、合計4時間行います。
気持ちを入れないといけないので大変です。
皇太子も同席しますが、ずーっと同じ姿勢です。
国が平和で繁栄しますように、国民が安寧に幸せに暮らせますように、とお祈りします。

一番大変だったのは昭和天皇の大葬であり、今上陛下の大礼をどうするかという事でした。
一番ネックは天皇陛下がお元気なころに大葬の研究をすることは不敬であると言う事で、隠れてやるしかない。
昭和26年に亡くなられた大正天皇の皇后さまの記録がありましたので、それを書きうつすことから始めました。
その後大正天皇の大葬の記録にかかりました。
当時掌典次長をしていた前田利信 (旧富山藩主前田家15代当主)さんに頼んでその記録を貸していただきました。
200冊位ある膨大な資料で、墨で書かれていたのを原稿用紙に書き写しました。

平安時代から続く儀式で、「斎田点定の儀」では、宮中において、亀甲を焼き、その焼け方によって神意を伺う「亀卜(きぼく)」が行われる。
悠紀殿供饌 (ゆきでんきょうせん) の 儀 ・ 主基殿供饌 (すきでんきょうせん) の 儀 があり、悠紀殿と主基殿にお供え物をします。
お供えのお米を悠紀田、主基田から獲れたお米からお供えします。
悠紀の国、主基の国を選ぶのに「亀卜」といって亀甲を焼き、その焼け方によって決めます。
アオウミガメの甲羅を手に入れないといけないが、何処に声を掛けていいか全く判らなかった。
小笠原で養殖しているのを聞いて、探していただいて自然死した亀を送っていただきました。(130cmの長さが必要)
昭和63年9月病気回復の記帳に来た人の中にたまたま「亀卜」の細工を作ったと言う人が来ました。
はぼ60年ぶりに作っていただき、無事におさまりました。
うわみずさくらを燃やしてその上に亀の甲羅をかざすと、うまくヒビが入ってそのヒビによって吉凶を占う訳です。
桜も探して吉野から送っていただきました。
その時これだけ国民が思って下さるなら大嘗祭は成功すると思いました。 
自分が受け継いだものだけは変えないで伝えていきたいと思います。