2018年6月18日月曜日

木場大輔(胡弓奏者)           ・【にっぽんの音

木場大輔(胡弓奏者)      ・【にっぽんの音】
案内役能 楽師狂言方 大藏基誠
胡弓 竿の長さが三味線の半分、材質 棹にインド原産の紅木 (こうき)、胴は中国原産の花梨(かりん)で出来ている。
縦に構えて弓で弾く、弓は紫檀、花梨、竹などで出来ていて毛は円筒状に束ねた馬尾毛を使って緩めに無造作に束ねているような状態。
弦を擦って音を鳴らす原理の楽器を擦弦楽器と言って、擦弦楽器としては日本では唯一の楽器です。
約400年の歴史のある楽器で江戸時代初期にはすでに記録が残っています。
三味線、琴の後方の目立たない様な位置で演奏します。
胡弓が主役になる曲はほとんど残っていなくて、古典の世界で言うと「鶴の巣籠」「蝉の曲」「千鳥の曲」の三曲が西日本における伝統的な本曲として有ります。
江戸の方でもいくつかありましたが、ほとんど演奏することはない状態です。
大抵三味線と一緒に演奏されて、単独では演奏されることのなかった楽器です。
伊勢神宮への参道で街道を行き来する人達に路上で聞かせていた、女性の芸能者たちが演奏していたり、それが歌舞伎の中に取り入れられたりしています。

中国の擦弦楽器である二胡とよく間違われるが、二胡は弦が二本しかないが、胡弓は三本有ります。
二胡は二本の弦の間に弓の毛が挟まっていて、弓の毛の裏側、表側の両面を使って二弦を弾き分ける、世界でもまれな構造をしている。
胡弓の弓は楽器から独立している。
雅楽の時代を除くと明らかな外国起源の音楽が曲として残っていなくて、おそらく外国から楽器自体がやってきて曲と一緒に伝承されると言うことはないと思います。
胡弓は哀愁が漂う音です。
指ではじいて鳴らすこともできる。(三味線のような演奏)
弦二本同時に演奏することもできる。(二本同時に音を出せ音の深みが増す)
義太夫のように激しく演奏することもあります。
新しい奏法も有ります。(昨年作曲した「空中都市」という一部分を演奏)
弦を一本足して四弦にして低音域まで音源が広がっています。

大正時代に宮城道雄先生が開発された宮城道雄胡弓あるいは大胡弓という楽器が有ります、三味線と大きさがほとんど変わらない胡弓があるが、大胡弓の音域を兼ね備えた楽器としてこの四弦胡弓を8年掛かりで作りました。
古典曲も演奏できるし、新しい表現もできます。
三味線、琴の演奏家が伸びる音が欲しい時に胡弓に持ち替えて演奏すると言うスタイルなので、胡弓を前面に押し出して活動してくると言う人が出てこない形なので、そこを何とか誰か一人でも変えて行く様な演奏家が出て来ない限り、ずーっと胡弓は影の存在であり続ける宿命を背負っている楽器なので、私は胡弓に出会って魅力を感じるものがあってこの楽器に人生を捧げてみようかと思っています。

父がフォークソングが好きで歌っていてギター、バンジョー、コントラバスが家にあったが触ることはあまりなかったが、エレクトーンを中学の時に習い始めてピアノをやろうとして、ジャズピアノを始めました。
高校生の時に作曲に興味を持っていました。
世界の楽器にも興味を持っていました。
二胡も面白いと思って大学で一年間習いました。
二胡をやっていくうえで伝統音楽の体系を習わないといけないということもあり、二胡の音色は魅力的だが自分のものにはならないのではとの思いもあり、悩んでいる時に胡弓という別の楽器があるらしいということを見聞きして、胡弓の存在を知りました。
(それまで二胡を胡弓と勘違いしていた面が有った)
原一男先生に習い始めました。
胡弓の背負ってきた歴史を考えると、胡弓に専念する人が出てこないから知られない楽器で居続けたのかと思って、自分が胡弓に専念して胡弓の為の作品を作って胡弓の可能性を色んな方に知ってもらいたいと思うようになりました。

*「焔(ほむら)」 胡弓に秘めた炎を爆発させるような表現にしたいと思って作った曲です。

日本の音 僕は余韻だと思います。
日本人って、ぱっと出た瞬間の音ではなくてその後に響いている余韻の方を聞いていると思います。
琴、三味線とか撥弦楽器のような余韻を楽しむのが日本の音感覚だと思うので、胡弓のように音の伸びる楽器はともすると撥弦楽器の余韻を殺しかねない。
胡弓がメジャーになれない一つの要因だったのかもしれない。
胡弓の演奏技法を工夫すれば同じ様な余韻を表現できるので、余韻ができるように工夫をしていて、もっと胡弓が余韻を楽しめる楽器として広まってくれたらなと思っています。
優れた独創曲を発信すること、胡弓のアンサンブル 琴、三味線、三曲合奏があるが、胡弓だけでアンサンブルを組む、その面白さの可能性を色々胡弓の低音域を開発したりしてもっと広めていきたいと思っています。






2018年6月17日日曜日

川島良彰(コーヒーハンター José.)     ・【“美味しい”仕事人】

川島良彰(コーヒーハンター José.)     ・【“美味しい”仕事人】
61歳、1年のうち100日以上世界のさまざまなコーヒー生産国で過ごしている川島さん、幻のコーヒーの木マスカロコフェアや幻の品種ブルボンポワントゥを発見して、コーヒーハンターのホセと世界中に知られている人です。
10代で単身エルサルバドルに渡ってから、現在まで海外で長きにわたりコーヒー栽培に携わっている川島さん、「生産者と消費者をコーヒーでつなぐ」というテーマでコーヒー人生について伺います。

コーヒーの香りは本当に癒されます。
良いコーヒーは香りの余韻の長さが違います。
エルサルバドルは中米で一番小さな国です。
この国に行って僕の人生は変わってしまいました。
1999年にマダカスカルに行って、マダカスカルにしかないマスカロコフェア(カフェインがほとんどないコーヒー)を探しに来ましたが、マダカスカルではマスカロコフェアを知っている人が誰もいませんでした。
ジャングルで探す旅が始まりました。
フランスの植民地時代にフランスの研究者たちがやっていた森になった試験場跡を探し当てました。
その時に現地人からコーヒーハンターと呼ばれるようになりました。

静岡市のコーヒー焙煎卸業の家に生まれ、幼稚園の時から父がおいしいミルクコーヒーを作ってくれて、長男だったので継ぐことを意識していました。
どうしてもコーヒーの取れるところに行きたくて、小学6年生の時に東京のブラジル大使館に手紙を書いて、コーヒー園で働きたいと出しました。
父親から中学を出てからとか高校をと、どんどん伸ばされてしまいました。
高校2年の時に父がコーヒー視察旅行でメキシコ、中米を旅をしてきて、メキシコの大学にいくかと言ってくれて、父の知り合いが駐日エルサルバドルの大使ベネケ氏だったので、父と一緒に相談にいったらエルサルバドルに来なさいと言うことになり決まりました。
18歳でエルサルバドルのホセ・シメオン・カニャス大学に留学しました。
言葉を覚えて、国立コーヒー研究所にアポなしで所長に合わせてほしいと行って、コーヒーへの思いを伝えました。
追い出されたがその後毎日1カ月研究所に通って、所長室に坐り込みました。
一カ月後に所長室に入れてもらって話を聞いてくれて、若い農学博士が僕の為にカリキュラムを作ってくれました。
後で知りましたが、そこは世界最先端の研究所でした。
1975年にエルサルバドルは四国よりちょっと大きな国ですが、世界で3番目のコーヒー生産国でした。

大学は休学届を出して研究所に通いましたが、父にもばれてしまって父の家業の後を継がないと言ったら勘当されてしまいました。
人工授粉、剪定、などいろいろ教えていただきました。
その時の所長はその後農務大臣になりました。
駐日エルサルバドルの大使ベネケ氏、所長など恩人が一杯います。
格差が激しく70,80年代は中南米は一番荒れた時代でした。
反政府活動が始まり、首都攻防戦もあり79年には革命が起きましたが、そのころもずーっといました。
友人も7人組がはいって家から連れ出されてどうなったのか判りません、多分殺されていると思います。
ベネケ大使も実業家になられましたが暗殺されて、知り合いは7人位は殺されてしまいました。
首都から出てはいけないと言われていたが、結局ロサンゼルスに疎開しました。
大手のコーヒーメーカーの創業者との出会いが有り、ジャマイカのブルーマウンテンの農園開発を手伝って欲しいと頼まれました。
その人は奈良の田舎からリヤカー一台で今の会社を作った人で、リヤカーでコーヒーの行商をしていた時の夢が農園を持てるようなコーヒー屋になることで、農園を持つならブルーマウンテンの農園で、日本には判る人がいないから君に会いに来たんだと言われました。
私に会う前に、会長は父の所に行って「うちの会社に入れたいが」といったら、父は「もう勘当しているので好きなように」と言ったそうです。(笑い)

エルサルバドルは母国のように思っていたので、エルサルバドルに戻りたくてその話はお断りしました。
政情が安定していたら研究所に戻り、駄目だったら日本に帰ろうと決めました。
もし日本に帰ることになったらと言って会長が名刺を渡してくれました
2カ月後にエルサルバドルに戻ったら先生もゲリラから脅迫されて国外追放になり、研究所も縮小され駄目だと思って日本に帰ることにしました。
会長の名刺から電話をしたら、「来ると思っていた、ポジションは残してあるので直ぐジャマイカに行ってくれ」と言われました。
農園経営はやったことが無いのでと言ったら、「君はコーヒーを栽培することができるのでワシよりましだ、責任は全部取るから暴れてこい」と言われました。(25歳の時)
3億円を資金として渡されました。
凄くいい勉強になりました。
ジャマイカは治安が良くなくて銃を持ちながらの仕事でした。
山火事が大変でした。
隣りの農園から火が出て2/3やられてしまい、精神的にも肉体的にもくたくたになりました。

1988年9月にハリケーン ギルバート(20世紀最大と言われ、風速95m)にやられて全滅しました。
ジャマイカで屋根が残った家は一軒も無かった。
9月なので倒れている木に実がなっているが、地上30cm位の所から切りました。
根を守ることができて、2年で再生しました。
その後会長からハワイのコナを元気にさせろと言われて、いい生産者からコーヒーを買って日本に送るようにいわれ、なおかつ自社の農園を作って技術革新をしたものをコナの生産者に指導するように言われて行きました。
ブルドーザーで溶岩をはがして、溶岩を細かく砕いて土を掘り起こして反転させて畑作りをしていきました。
ハワイで払う労働者の時給がジャマイカの日給ぐらいで、人件費がめちゃくちゃ高かったです。

1999年マダカスカルでマスカロコフェアを探しに行き、ブルボン島でブルボン種から突然変異でできた品種ブルボンポワントゥが絶滅してしまって、文献では香りが非常に高くてカフェインが通常の半分しかないということだった。
ブルボンポワントゥを探しに行ったが、農政局長に会いに行ったが鼻で笑われて無いと言われて、ブルボン種のこの島の重要性を話したら一緒に探そうと言うことになり、その時は見つからなかったが、3カ月後にハワイに連絡が有り30本近く見つかったからすぐ来いということで行きまして、ようやく2007年に日本でデビューさせました。
当時、100gで7000円でしたが、社内からは絶対に売れないということだったが、2週間で完売しました。
51歳で会社を辞めて独立しました。
年の1/3位は産地には行っています。
どうやったらちゃんと競争力のあるコーヒーを売れるようになるのか、ルワンダで作ってちゃんと売れるように助けるのが僕の使命だと思っています。
コーヒーを通して生産国と消費国を繋ぐ懸け橋になりたいと思っていたが、気が付いたら生産国同士をつなげる活動(木の育て方、生産方法など)をするようになってきました。





2018年6月16日土曜日

前畑洋平(産業遺産コーディネーター )   ・“廃墟”から“遺産”へ

前畑洋平(産業遺産コーディネーター NPO法人J-heritage代表 )・“廃墟”から“遺産”へ
39歳、群馬県の富岡製糸場や長崎県の端島、通称軍艦島がユネスコの世界遺産に登録されるなど産業遺産への関心が高まっています。
しかし保存整備が行われている産業遺産はごく一部で廃墟と化した場所も少なくないのが現状です。
前畑さんは人知れず解体されてゆく産業遺産を見学記録することを目的に、9年前30歳の時にNPO法人を立ち上げ、神戸を拠点に全国でツアー見学会や保存活用に関する企画運営を行っています。
又或る廃墟を残そうとインターネット上で寄付を募るクラウドファンディングを行い、国の登録有形文化財の指定を目指して活動をしています。
産業遺産の価値と魅力は何なのか、伺いました。

産業遺産というと広くなってしまいますが、人間が生きていくうえで必要な活動を全て産業と言いますが、特に後世に残す価値や意味がある遺構を産業遺産と言います。
国内だと軍艦島、富岡製糸場などが有ります。
文化庁が文化財として認められている、幕末から戦前戦時中の時間軸になるものもあります。
軍艦島は江戸時代には炭鉱として発見されていました。
明治の産業革命で島津家が操業していた集成館工場群であったりとかも江戸時代から開発が進められていた。
石見銀山も有ります。

軍艦島は最盛期には5000人が住んでいて、人口密度は東京の9倍と言われていました。
明治時代に鉄が必要で八幡製鉄所に石炭を供給すると言うことで、明治の近代化に大きく貢献したという意味で価値が注目されています。
炭鉱住宅は日本の試験的な高層住宅ですが、文化財的な価値は評価されていない。
古くは大正一桁の時代の高層住宅の建物が残っています。(最高で9階建て)
海底水道、海底ケーブルで電気を送っていました。(日本初)
昭和49年に閉山、無人になる。
世界遺産に登録されたのは明治時代のもので大正、昭和の物は対象になっていない。
建物は廃墟の状態、30号棟(1916年(大正5年)に建設された日本初の鉄筋コンクリート造アパート)は倒壊してもおかしくないような状態だが保存の対象にはなっていない。
知られていない産業遺産はあるが、人知れず崩落する場所もある。
地域の人は負の遺産として考えてしまう。

私は昔廃墟に興味を持っていたが、そのうちこのままではいけないと思い、NPO法人J-heritageを立ち上げて神戸を拠点にしています。
全国を回っています。
小学校のころに映画を見て廃墟に関して興味を持つようになりました。
会社に入って車に乗るようになり全国を回るようになりました。
兵庫県の神子畑選鉱所(みこばたせんこうしょ)があり、見学に行ったら、建物は壊されていてコンクリートの遺構だけになっていた。
人が勝手に入って事故があったりしてはいけないということで、壊してしまう場所があると言うことで、許可をもらって遺産としての価値が有るのならば、そういったアプローチをしていった方がいいと思いましてNPOを立ち上げました。
僕たちはコーディネートをする立場で多くの人に情報を発信してそこに連れてゆく役割です。
地域の人がやはり主役です。

愛媛県の今治市にある四阪製錬所、船でしか見られないが、吃驚するほど貴重な建物工場群が残っていました。
病院、学校、住友家の別邸、明治期から使われている工場群が有りました。
公害克服の為に島に移して、象徴の煙突があります。
長崎県の諫早市の旧長崎刑務所が印象に残っています。
明治の5大監獄の一つで、明治時代から使われていたもので壊されることになっていて、レンガ作りの立派な建物で感動したが、壊されてしまいました。
奈良少年刑務所はほぼ当時のままの状態で残っています。
前身は奈良監獄で、当時明治41年(1908年)に竣工した山下啓次郎設計による「明治の五大監獄」の一つ。
寮美千子さんが受刑者に対して詩の先生をしていたが、協力をしていただいて見学をさせてもらいました。
(参照:「寮 美千子(作家・詩人)・心をほぐす詩の授業」
http://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/01/blog-post_21.html
2017年に国の重要文化財に指定され、残ることが決まりました。
ホテルとして利用することが計画されています。

神戸の麻耶観光ホテル、廃墟になってしまった戦前のホテルがあるが、壊そうとしているところを何とか残せないかということをNPOでお手伝いをさせてもらっています。
20年以上廃墟になってる。(人気スポットになっている)
所有者と会う機会が有り、地元団体、NPOなどで残して活用していこうと検討しています。
インターネット上で寄付を募るクラウドファンディングを行い、720万円支援をいただいて、国の登録有形文化財の指定を目指して活動をしています。
昭和4年に建物が出来て、1990年代までは活用されたがその後廃墟になってしまいました。(その後復活の時期もあったが、又廃墟になる)
産業遺産にはそれぞれ物語が有り歴史が有ります。
姫路モノレール、戦後復興の象徴の一つですが、赤字で営業を終えてしまいました。
1966年に行われた姫路大博覧会(地方博覧会)の会場輸送の手段として作られたもの。
いろいろな問題が有り8年で営業を終えてしまった。
円形校舎、資材が少なくて済むが増築できなくて、その後生徒が少なくもなり壊されていってしまっているものが結構あります。
遺産を継承していく仲間を作っていけたらと思っています。









2018年6月15日金曜日

本田美和子(国立病院機構東京医療センター ) ・ユマニチュードを日本に紹介して

本田美和子(国立病院機構東京医療センター 総合内科医長)・ユマニチュードを日本に紹介して
認知症患者の数が、団塊の世代が75歳以上になる2025年には、700万人になると予想されるが、認知症の人達とどのように接したら良いのかが、医療や介護の現場で大きな課題の一つになって来ました。
本田さんは1993年筑波大学筑波大学医学専門学部を卒業、アメリカの大学病院に勤めるほか、日本で内科医として20年余り働いてきました。
認知症の医療介護と向き合い、試行錯誤の日々を過ごす中で、本田さんはプロのケア技術を誰にでも出来るように体系化し効果が高いと注目されている、フランス生まれの認知症ケア、ユマニチュードに出会いました。
6年前から日本に導入し、普及に努めています。

ユマニチュードというのは人間らしさを取り戻すという意味のフランス語の造語です。
フランスで介護の施設、病院の職員向けにどうやればいい介護が提供できるかということを40年間現場でやってきた方々がいるが、その方々が作り上げた基本的な考え方と(哲学)と具体的な技術が一体化したケアの技法です。
英語で読むとヒューマニチュード(Humanitude)になります。
私は内科医になって、仕事をやり始めたころと今では社会の状況が変わって、20年前ごろは病院にいる患者は自分の病気が判っていて、病気を良くしたいと思って検査、治療などに協力してくれ、協力し合うと言うことが前提になっていた。
今は90,100歳以上の方が入院するが、非常に脆弱な状況で認知機能が落ち来てしまっている方がおり、自分が何処にいるのか判らない、目の前にいる人が何をする人なのかが判らない、どうしてこんな痛い事をされるのかわからない。
働いている人にとっては提供したいという治療を受けとってもらえないという事態になる。
そのような思いを届ける技術が無いと駄目な時代になってきたがどうするかわからない。
フランスではそういう取り組みをしている人がいることを雑誌を見て知りました。

知っておきたいと思って、或る日聞きに行きたいと思って2011年夏にメールを送りました。
エイズについての仕事をやっていましたが、良い薬が出来て、長生きが出来るようになり、エイズの高齢の方の問題が出てきて、ユマニチュードを知りたいと思いました。
新しい分野で高齢者への医療を実践したいと思いました。
日本の看護師、介護士さんには絶対出来ると思いました。
あなたと私はここにいてとってもいい関係にあるんだと言うことを互いにやりとりをし合うと言うことが大事なんです。
言葉によって色々話すが、これだけでは一方通行になり、相手から持ってきたものを受け取っているんだと頷いて返してくれることで、良い関係があると言うことが二人は判る、それを医療で実現すると言うことがユマイチュードなんです。
ケアされる人からは色々の情報を発信している。(声、音、仕草等)
限界まで近づいたと思った時に声をかける。
良い語彙を選ぶ、声は低く大きくしない。
目を合わせて声を掛けた2秒以内に触れた方がいい。
なるべく鈍い所、背中、肩等にゆっくりと触る。
掌、顔は敏感なので触らない。
ケアをする時には腕を掴むと言うことは吃驚するので、下から支えて広い範囲にする。

介護が楽しくなったと言う人が増えました。
介護される人も穏やかに過ごすことができる。
互いに良い時間を過ごしたということを互いに認識し合う時間が増えて行くのではないかと思います。
今年は新しく地域社会でユマニチュードを学んで、みんなで高齢の人にお元気に過ごしていただけるようにという自治体が増えてきました。
福岡市では「プログラム100」というプロジェクトが出来て進められていて、リーディング事業として採択されて2年前からやっています。
公民館でユマニチュードを学ぶということを行っています。
小学生にも学んでもらっていて、先生に対して教え方を教えることなどもやっています。
救急隊の隊員の方にも学んでもらうと言うこともやり始めました。
家族介護をしている方に対しては、短い時間で教材を渡すような形で役立ててもらえればということをしていてDVDの教材も作りました。

家族の心持ち、考え方、技術が変わったという声をいただきました。
一人では頑張り過ぎないということは重要で、助けを求めてもらいたい。
地域で支えて行く、そのためには様々な取り組みが有ります。
日本科学技術振興機構から研究費をいただいて、5年間に渡ってユマニチュードが何故有効なのか、多くの方に学んでいただくためにはどうしたらいいのか、大学の先生たちと一緒にチームを作ってやっているところです。
困っている様子をビデオにとって安全なサイトに持ってきて提案することができる。
試行的ですがやっています。
課題は学ぶ時はしっかり基本から学んで、ビデオなども使っていただけたらと思います。
上手く行かないに時にユマニチュードを学ぶと判るようになります。
教える人が圧倒的に足りないのでAIを使ったり様様な技術を使って行きたい。
介護に困っている方にはユマニチュードは伸び代があると思います。
地方への展開も進めています。

海外に付いても講義に出かけたりしています。(アメリカ、アジアなど)
病院は病気で困ってる人を待っている、ユマニチュードは介護士に限らず、医師、看護師、家族、店員など誰かを大事に思ってその人を尊重するという社会は、日本に限らず必要になって来ると思います。
困っている人を助けると言う考え方を実践するにあたって、ユマニチュードという技術は役に立つのではないかと思います。
そうして行くと人と人が良い関係を結んでゆくという社会が実現されて行くと思います。
社会の中で目を合わせて「こんにちわ」と言ったりすることで、人と人との良い関係を生みだすきっかけにもなります。
人が人とやりとりがある時には、その人を大事にすると言う気持ちがなければ駄目なんじゃないかと思います。












2018年6月14日木曜日

浅井隆(映画館経営・プロデューサー)     ・人生はミニシネマ・パラダイス

浅井隆(映画館経営・プロデューサー)     ・人生はミニシネマ・パラダイス
63歳、寺山修二が主催した演劇実験室「天井桟敷」を経て1987年に映画の配給会社を設立、その後ミニシアターを作り30年に渡って映画の世界に携わってきました。
浅井さんにミニシアターの面白さとその可能性を語っていただきます。

ほぼ毎年カンヌ映画祭に行っています、20年近く行っています。
「万引き家族」はカンヌでは見ませんでした。
ファッション系、メークアーティストとかのドキュメンタリーとかの映画を数本買付けました。
ベルリン映画祭は2月にあるので、こちらも出かけます。
トロント映画祭にも行っています。
渋谷宇田川町の雑居ビルに映画館が3つありそれぞれ40から58席あります。
年間上映数は200本以上になり、3スクリーンで毎日平均10作品ぐらいは上映しています。
お客様が観たいものを上映する、DCP(デジタルシネマパッケージ)システムで、映画がデジタルデータになったのでハードディスクの中に映画一本入っています。
極端に言えばインターネットでダウンロードして手元に映画を手に入れる時代になっているので映写室はない。
コンピューターのサーバーに入れれば上映が出来る状態になりました。
デジタルの恩恵を受けて幅広い上映をやっています。

配給会社としてスタートしてここ10年は映画上映を大きな柱として進めています。
洋画は海外から日本で上映する権利、パッケージ(DVD、ブルーレイにする)、TV放送、インターネット配信等の権利を買って、それを行使してお金を得るのが基本のビジネスです。
スマホでも見られるようになったが、映画館への影響はないです。
2017年から映画館はちょっと増えています。
少子高齢化は避けられないが、東京に関してはお客さんは増えています。
大阪の府立池田高校に通っていたので、その時に寺山さんの本に接して、演劇実験室「天井桟敷」をやっている事を知りました。
「邪宗門」を公演することを知って観たいと思って観に行きました。
凄い衝撃を受けました。
唐十郎の赤テントなども大阪にやって来た時には通いました。
高校卒業後上京して予備校に通っていました。
天井桟敷の「盲人書簡」というチラシを見て、そこに劇団人募集の事が書いてあり、面接を受けて劇団の研究生になりました。

スタッフの仕事の方がおもしろいと思って、その後舞台監督になりました。
劇団からはお金をもらったことはないです。
お金になるならなんでもアルバイトをしました。
海外公演もあり、親からお金を借りて行きました。(1975年ごろ 20歳位)
1か月ぐらいオランダに行きました。
オランダのミルキーウエイ、カルチャースポットがあり(東京にはない)、そこに毎晩遊びに行きました。
色んなことがごちゃ混ぜにやっていました。(演劇、ダンス、音楽とか細分化されてなかった)
イランのシラーズのペルセポリス演劇祭で「阿呆船」という公演を市場でやったことが有るが、オフの時にコロシアムに行った時にはモーリス・ベジャールが横に座って見ていました。
海外ではいろいろ著名な劇団との接触が有りました。
天井桟敷には約10年いました。(寺山さんが亡くなるまで)

アップリンクシアターで劇団をやっていましたが、活動を中止することになりました。
映画の配給をやってみようかなと思いました。
渋谷に事務所が有り、そのビルの30畳の空き室があると言うことで借りて、映画、イベント、その他いろいろやっていました。
宇田川町にその後移りました。
カフェ、レストランは作りたかったので作りました。(映画などを見た後の喋る場所)
DCP(デジタルシネマパッケージ)のプロジェクターは昔は1台2000万円位したものが、今はプロジェクターが300万円前後になったって処理スピードも速い。
機材は500から600万円あれば揃います。
映画館自体は手軽に作れるレベルにはなったが、何を上映するかが問題だと思います。

地方でもミニシアターが90年代に出来た映画館があるが100席前後で今では大きすぎるような状況で、50席前後のマイクロシアターの映画館がいくつか出来つつあります。
映画に触れてほしいと思います。(他人と一緒に見る空間)
映画を見ながら叫んだり、歌ったり、クラッカーを鳴らしたり、お客さんは映画と一体になって騒ぐ楽しみ方を発見したので、或るインド映画以外にもそういう楽しみ方が広がってきています。
映画には観たことも無い世界、観たことも無い時代に連れて行ってくれる面白さがあると思います。
配給会社の人は映画の監督に会えたり色んな人に逢うことができます。
吉祥寺に映画館5スクリーン30から90席ぐらいの映画館を12月に作る予定です。
音にこだわる映画館にしたいと思っています。
もっと全国にマイクロシアターを作ってコミュニティーの場にして貰えればいいと思います。
色んな国の作品を上映しているので映画を見てもらって、映画を通して世界へ繋がる窓として楽しんでもらえればいいと思います。












2018年6月13日水曜日

立川談春(噺家)               ・落語の格闘家

立川談春(噺家)           ・落語の格闘家   
談春さんの大ホールでの独演会は常に満員で、チケットが取りにくい噺家さんの一人です。
1966年東京生まれ、高校を中退して立川談志さんに入門。
1997年に真打ちに昇進、来年で噺家生活35年になります。
噺家として林家彦六賞や国立演芸場花形演芸会大賞など、受賞の他に師匠の立川談志さんとの関係などをつづったエッセー「赤めだか」が講談社エッセー賞を受賞しました。
俳優としても才能豊かな面を見せています。
談春さんは2010年から精力的な活動をして新しい世界を広げようと活動しています。

師匠が忙しかったので前座のころが一番忙しかったです。
チケットの取り辛さ。
落語は何処でチケットを買っていいのか売り出しの場所はどこなのか 横断的な組織が無い、落語は個人芸なので人の為に汗を流す人がいないと出来ないので、見に行こうと思った時に取り辛いということはあると思います。
落語はあまり大きなホール、マイクをつかって聞いても面白くないと言うことでぬくもりのあるホールでやる、呼べる人数からすると小さめなホールでやるので取り辛いということはある。
落語ってこういうもんだと言う思いこみすらお客さんに無くなりました。
聞いていると喋っていることが絵に浮かぶ、何であろうと興味を持ってくれて、面白いからと思って観客動員数が増えてきた。
落語家は1000人を越えました。ぼくがはいったときは300人ちょっとでした。
落ちるところまでとことん落ちたからだと思います。
かたくなに変えないでやっていることを振り向いてくれた幸運が、今の落語の観客動員数の増加の一番の理由だと思います。
談志が独演会をやる、古今亭志ん朝が独演会をやって300人のホールが満員になる、やっぱり凄いと言っていた時代で、今は1000人のホールを満員にしても落語界で何のニュースにもならない。

1966年生まれ、51歳。
17歳で入門したが、ボートレーサーになりたかった。
戸田に競艇場があり、小学生の時に見に行って、かっこいい選手に出会って、中学卒業したらボートレーサーになろうと思いました。
腕さえあればいいじゃないかという思い込みは早いうちからありました。
相撲、競馬が好きだった。
相撲は中入り後の取り組み内容などを全部覚えて銭湯で大人に向かって喋っていました。
段々期待されるようになりました。
競馬は馬の名前を覚えて自分なりの実況していました。
テープレコーダーを買ってもらって、競馬のアナウンサーの実況を録音して覚えていました。
そういったことが落語をやる時に有利だったと思います。
落語は聴いて覚えました、聞く量が圧倒的に多かった。(他の人は喋って覚える)
師匠の噺を完璧に覚えてやろうと思いました。
しかし完璧に似ませんでした。
リズム、息継ぎを真似ようとしました。
2011年11月に立川談志師匠が75歳で亡くなる。
71歳位にどうしたんだろうと思っていたら、亡くなってしまいました。
改めて物凄い人の弟子になったと思いました。
半分までのところまでいけるかどうかとか、生きている時とは違う複雑な思いがあります。
師匠は落語に関してはピュアでした。
落語を何としても次の世代にも娯楽として届けたいという強烈な意志があり、それがゆえの行動だったが、行動の仕方が大多数の落語家さんにはなかなか理解されない。
その組織にいて改革が進まなければいらつく。
真打ち昇進試験というきっかけがあって出た。
全く勝算があって出たのではなくて、いい度胸だと思います。

「赤めだか」福田和也さん(文芸評論家)から書いてくれと言われて、書き始めました。
辞めたくて、本にすれば辞めるのも可能だと言うことで本にしたら講談社エッセー賞をもらうことになりました。(10年前)
それが3,4年前にドラマになりました。
真打ちは落語家の最高の位だが、真打ちは落語協会、芸術協会なり組織が決めるが、談志は立川流なので談志が決める訳ですが、1年半後輩の立川 志らくに真打ちを抜かれました。
そこで序列が変わってしまった。
抜かれて、どうしたら世間的にチャラに出来るのか、抜かれて怒らない奴なんだ、というイメージが僕に付いて、その後頑張って無いじゃないかと、酷い事を談志はするなと思ったが、やっぱり談志の眼は正しかったとなりそうになっているのをどうするんだと言った時に家の師匠を驚かすのにはどうしたらいいかと言ったら、柳家小さん師匠の所から出て行った談志師匠に対して、柳家小さん師匠は破門にした。(内容がいまいち判らない)
柳家小さん師匠が真打ちトライアルの会に来ていただいたことは世間的には柳家小さんもOKとしているということ。
弟子としては傲慢だが談志に対する当て付けでした。
柳家小さん師匠は出てくれるということになって、それならば談志師匠も挨拶に行くと言うことになりました。
俺はとんでも無い事をしているということと、落語における師弟(柳家小さんと談志)というものを最後に書き記したのを感動してくださった。
師弟、理不尽と矛盾しかないと思うことが多いが、或る年齢になってからでないと判らない、血が繋がっていない師弟だからこその情緒があるのではないか。
立川談志の実像はよっぽど気を付けないと、とても怖いことだと思っています。
TVドラマ、映画など出演して勉強になりました。
スタッフの頑張りには吃驚、貴重な経験でした。
大きなホールでやるとなると落語本来を伝えるやり方では次にお客さんが来てくれないという感性が働きますが、落語の匂いは残したい。



















2018年6月12日火曜日

太田朋子(国立遺伝学研究所名誉教授)   ・遺伝の世界はワンダーランド

太田朋子(国立遺伝学研究所名誉教授)   ・遺伝の世界はワンダーランド
生物の進化について19世紀のチャールズ・ダーウィンが唱えた自然選択説と、適者生存が良く知られていますが、偶然に発生した突然変異のうち、環境に適したものが生き残るという説に対して分子進化のレベルでは進化に寄与する突然変異はどれが残るか全くの偶然ではないし、また環境に適合するものだけが生き残るものではないという、ほぼ中立説が定説になっています。
このほぼ中立説を45年前に発表したのが日本の国立遺伝学研究所名誉教授の太田さんです。
84歳になります。
近年DNAの解読が進んで、膨大な遺伝子データが発表されました。
それ等のデータが太田さんのほぼ中立説の正しさを実証しました。
太田さんは猿橋賞の第一回受賞者であり、2015年にはウェーデン王立科学アカデミーからクラフォード賞 を受賞しています。

午前中は毎日研究所に来ていて次々に新しい論文が出されているので目を通すようにしています。
メンデルはこつこつとエンドウ豆の実験をして、現在でいう統計処理をしていて、誰も考えていなかった凄い法則を見付けたのは凄いと思います。
ゲノム、DNAの研究がそんなに進んでいなかった頃は、花が赤いか白いかというような形質に関する遺伝子があってその遺伝子が増えたり減ったりすると言うことで解析してきた。
現在の遺伝子構造から考えることとは単純すぎていました。
1981年には猿橋賞の第一回受賞者となりました。
2015年にはクラフォード賞 を受賞しました。
生物の多様性の分野はノーベル賞の対象になっていないので、何年に一度対象が回ってきます。
とてもうれしかったです。

生物の進化については自然選択説と適者生存説が良く知られているが、遺伝子レベルではどの突然変異が残り継承されるかについてはほぼ中立だと言うほぼ中立説を立てる。
或る程度の選択は働くけどほぼ中立に近い。
遺伝子レベルの突然変異を考えた時に、その突然変異は自然淘汰に良いか中立か悪いかとクラスわけして考えたのが、私の上司の木村資生先生が提唱されました。
中立は全く偶然、突然変異を持っているかいないかは個体にとって生存に全く関係ない、そういうのが中立突然変異です。
突然変異はその多くはDNAの塩基を一つ置き換える、それに伴ってタンパク質のアミノ酸が一つ取りかわる、それが一番よく遺伝子進化で研究されてきた類の突然変異、アミノ酸が取り変わる、それが一番おおきいです。
自然淘汰が働くかどうかの間に僅かですが、ちょっとだけ効果をもつような突然変異があるのではないかと考えました。

生物のタンパク質の働き塩基の問題を考えるにあたって、非常にうまく働いて機能が調和されている。
一般に言われていたことは突然変異とはランダムに起きます。
おそらくはその調和を乱すような働きをするのが弱い効果をもった突然変異のなかにも一杯あるに違いないと考えました。
ほぼ中立説を提唱した時に弱有害突然変異仮説とも呼ばれます。
全く突然に起こった突然変異が継承されるかどうかは、環境に適した良い効果が残るという説だけではなくて、弱い有害な効果を残しつつ淘汰されてゆくという説を考えました。
自然淘汰説の人達からは批判されました。
タンパク質の高次構造(ヘモグロビンとか)など或る程度の知識はありましたので複雑な構造をしていて、その構造がどううまく保たれているのか、ランダムな突然変異が起こったら、そういったうまく調和した構造の配列を乱すだろうと考えました。
ある幅を持たす為にも弱有害突然変異は意味がある場合があります。

遺伝子レベルの進化と形の進化とを直接調べて検討することが出来るようになったのはごく最近のことです。
70年代には全然できませんでした。
ゾウの鼻を長くするとか遺伝的形質は遺伝子そのものよりも、遺伝子を発生の段階でいつどこでどのように使うかが大事なんです。
受精卵から分裂分化して凄い複雑な過程を経て人間になるわけですが、どの遺伝子がどう働くのか、それが判りかけてきたのは最近です。
人間の遺伝子は2万数千と言った数です。
ゲノムは30億の塩基対からできていて、巧く折りたたまれていて目に見えない細胞の中の核にしっかり入っている。
30億のゲノムの中に2万数千個の遺伝子がパラパラと存在している。
タンパクコード遺伝子は1.5%でほんのわずかです。
ほとんどは、発生の過程で遺伝子をどう発現するか、そういうことに関わっている、発現調節に関係している。
遺伝子はヒストンと呼ばれるたんぱく質があるが、ヒストンタンパク質と一緒になってクロマチンという構造を作っています。

クロマチンがどのように働いているのかということについて、ごく最近面白いことがわかってきました。
遺伝子発現が実に巧妙なシステムで行われています。
人間の存在する環境は色々あるが、環境に応じて必要な遺伝子を発現する仕組みが見えて来ました。
環境とコミュニケーションするシステムがクロマチンにある訳です。
柔軟にできていて、環境にも適応出来れば、一つの遺伝子が何かの都合で巧く働けなくなった時にも、システム全体としては変なことにはならないでなんとか機能できる、ロバストな仕組みがある。(ちょっとした変化に鈍感なシステム)
本当にうまくできていて感心します。
どの生き物も出会った環境の変化を仕組みに取り入れながら進化してきているので、みんなすごいシステムを持っています。

愛知県出身、東京大学農学部を卒業。
中学、高校は数学が好きだったが、働き口がないということで農学部に進みました。
幾何などは好きでした。
考える事は好きだったので、1962年から66年までアメリカに留学しました。
分子生物学が発展していました。
遺伝学の大学院のコースで又我が国の研究者が遺伝番号を見付けたと話していたことを思い出します。
PHD(博士水準の学位)と子供の子育てと並行やってきて周りから関心されました。
1966年日本に帰国、国立遺伝学研究所での研究生活に入りました。
分子進化学(遺伝子の進化)、集団遺伝学の理論と結合して自然淘汰説、中立説など進化の機構を検討しようという学問分野がちょうどスタートした時期でした。
木村資生研究室では毎日議論していました。
ほぼ中立説に関しては木村先生は論理的なことを好み中立説で物事を説明しようとされた訳で、私は現実的でややこしいほぼ中立説でした。
子供は児童館がありそこから4時頃に帰ってきて、家ではそんなに長くは考えたりはしませんでした。
当時は子育てを支援する施設は少なかったが、何とかやってきました。
木村先生からは早く帰っても結果さえ出せばいいと温かく見てもらえました。
私が始めたころは分子進化学が出来たばかりの頃だったので、或る意味幸運だったと思います。
ほぼ中立説が広く一般に認められるまでにはいきませんでしたが、ゲノムプロジェクトが進んで、人とチンパンジーと比べられるようになって、一般にほぼ中立予測が当てはまると言うふうになってきたと思います。
若い人には定説にこだわらないで自由にデータをしっかり謙虚に見て、自分がどう感じてどう考えるかどのようなひらめきを得たかとか、ということを大事にして仕事を進めて行ってもらいたいと思います