2018年5月26日土曜日

秋川リサ(女優・モデル・ビーズ作家)    ・母を送り、これからの私

秋川リサ(女優・モデル・ビーズ作家)    ・母を送り、これからの私
秋川さんは15歳でモデルとしてデビュー、現在も女優、タレント、ビーズ作家
の顔を持っています。
母の介護のことをつづった本を出版して話題になりました。
秋川さんの母親は82歳で認知症になり、7年間の介護の末に2016年89歳で亡くなりました。
介護中に自らも介護施設で働いて様々な事を学んだといいます。

現在65歳。
「60歳、だからなんなの」を出版。
1968年化粧品会社のサマーキャンペーンとしてモデルとして活躍、雑誌のトップモデルとしても活躍、役者、舞台でも活躍。
ビーズの刺繍の教室をやってもいますがBS放送で仕事をしたり、舞台、ラジオの仕事、NHKの介護の番組、講演もやらせてもらっています。
母が店をつぶしてしまって働きなさいと言われて、校則の厳しい学校だったのでアルバイトなどできなくて、学校を変更して、ひょんなことからモデル事務所の面接に行った時に或る人に出会って、その人は繊維メーカーの広告を一手に引きうけてた方で、繊維メーカーの専属になって、同じスタッフの人が化粧品メーカーの宣伝もしていて、あっという間にTVコマーシャルなどに出るようになりました。
人生って一瞬で変わるんだと言うことを高校生の時に経験してしまいました。
それから自分のイメージについてゆくのが大変だった。
金銭的な問題も解決しました。

40歳代で、娘の花嫁衣装は自分で作ると勝手に決めて、ビーズ刺繍の教室を始める先生と出会って、ウエディングビーズ刺繍は綺麗だと言われて、習おうと思いました。
何年かして大腿骨骨折という大けがをしてしまい、キャシー中嶋さんがお見舞いに来て教室を開きなさいと言われて、全国15か所ぐらいのカルチャースクールで教えていました。
生徒が300人ぐらいいましたが、辞めて行く理由がほとんど介護でした。
今は細々とやっています。
2014年7月に「母の日記」を出版、「60歳、だからなんなの」を去年出版。
「母の日記」は親子の確執のあるなかでの介護で覚悟して書いたが意外と批判は少なかった。
あけすけに書いてよかったと思います。(親の介護はそうそう綺麗事では行かない)
2016年6月に89歳で亡くなりました。
ほっとした思いはあります。

2年前ぐらいからは家族を認識することもできませんでしたし、言葉を発することもできなくなり、施設に入って施設の人には感謝です。
私なりにやることはすべてやったという自負はあります。
息子31歳、娘は30歳で特に娘には介護を手伝ってもらって感謝しています。
私の父はアメリカ軍人で私が生まれる直前にベルリンに行ってしまって、ほとんど私を育てたのは祖母で、母は店をやって好きな人が出来てしまうと、店はどうでも良くなってしまうタイプでした。
母の認知症が発覚したのは2009年ごろでした。
買い物をしても後で持ってきますと言って、払わなかったことが色々ありました。
これからどうしたらいいだろうと深刻になりました。
足腰は丈夫だったので2,3時間は歩きまわることもありました。
ケアマネージャーさんを紹介してもらう事になり、デイサービスのことなどを商店街の人達から教えてもらいました。
2年の在宅介護、3年間の有料老人ホーム、2年間の特別養護老人ホームに入ることになりました。

通帳は母に預けておいたので、見事に全部0円に近かった。
詐欺に引っ掛かっていたのか、男性に貢いできたのかなと、その時に思いました。
唖然と思いましたが、笑うしかなかった。
仕事を始めてから最も貧乏になりました。
母の日記を見付けて、大きなお金が動いている時にNとか、Mとか書いてあり、誰かに貸しているのなら取り戻そうと思ったが。
日記には、私、家族に対しての罵詈雑言が書かれていました。
常にストレスを持って、余り前向きな人ではなかったし、人生を余り楽しまなかった。
母に言わせれば戦争のせいと思ってネガティブに思っていて、常に不満を持って生きてきて、その救いを男性に求めるけど男性もお金目当てだったのかなと思います。
母の存在を認めているつもりだったが、喪失感というか、そういったものが段々と出てきて、この思いのままで在宅介護は無理だと思いました。
介護の現場ってどうなのか、いくら用意したら良いのかとか、介護する側はどんな現実なんだろうと言うのを見たいと言ったら、或る企業の社長からではうちで働いて見ますかと言われて、介護施設で働きました。

母が亡くなる前から働き始めました。
レクレーション施設の運営を手伝いをするのが仕事でしたが、人手が足りないのが現実で、介護される側もお金を払っているんだから何をやっても許されるだろう的な考えの方の人もおり、寄りそう介護一人ひとり個性に合わせた介護は理想的ですが、現実はいつも人手不足で厳しい現場でした。
腰をみんな痛めます。
ロボットにも手伝ってもらわないと大変だと思います。
ジュエリーコーディネーター3級という資格を取りました。
体力を考えると介護の資格は厳しいと思いました。
私はお金の援助はできないが、人、いろいろ人材で伝手を使ってと言うことが私に出来ればと思って、若い方を巻き込んで一緒に人生を楽しんでいかないといけないと、いろんな分野の人たちと話をしてお互い刺激をし合うので、お年寄りも勿論呼ぶし面白いです。











2018年5月25日金曜日

柚木沙弥郎(染色家)           ・【人生のみちしるべ】愉快に“今”を生きる(2)

柚木沙弥郎(染色家)     ・【人生のみちしるべ】愉快に“今”を生きる(2)
工芸とか手仕事とか、それまで興味をもたなかったが、一つのことを極める、柳先生にしても芹沢先生にしても、色んなことをやるな、何か一つの事を一生懸命やる様に言われました。
特に工芸は材料、仕事のプロセスが非常に大事な仕事なので、およそ半分以上材料、仕事の工程から生まれていると思うんです。
体でもって覚えないといけない、良い材料は僕たちの時代は自然の物、絹、木綿とか、手紬の物が段々そういうものは日本では作れなくなったがまだありました。
良い材料があれば染めなくてもいい、そのもの自身に美しさがあるから。
簡単に言うと染色なんか無くたっていいわけです。
生地を生かすことが大事。
模様を感じないほどそこに一体化すると言うこと、生地を生かすような模様を付ける。
洋服にするとかカーテンにするとかは、後半の問題、布を獲得した人がすればいいことであって、布を生かすような模様を作ることが私の仕事という考えです。
日常の色々なものを見ていると、見過ごしているようなものの中に面白さがあるものがたくさんあります。
自然の石が美しいと思っていたが、柳先生はそれに人間の手を加えた、彫刻すると言うこと、その時やっぱり美しくなる。

生け花と同じように手を入れていって、そういうものを作ると実物の花よりももっと美しいものになる、人間が作る造形の面白さというもの、我々にはそういうところが面白いんです。
伝統に縛られたら面白くない。
インドの刺繍なども親から伝わったものだと思いますが、それを繰り返したらあんなには続かない、自分のひらめきを入れて行くと続いてゆく。
決まりごとがありながら今自分が心惹かれるものを入れていく、だからその仕事が繋がって行くと思うんです。
こうやんなさいといわれて仕事は続くものではない。
面白さを発見することです。
そういう状態にもっていくしかない、社会全体の問題だと思う。
一杯ものがあって便利で、特に都会などはそうだが、そういうものの中でも静かでいられるか、社会全体を静かにして統一のある感じ、そういう方向に持って行く必要がある。
パリなんかそういう街ですね。
成熟したというのはそういう文化だと思う。
どんなに忙しくてもバカンス、そういうことを優先させる、前からの流れがある。
自分がやっている仕事が安心してすることができる、そういう社会が一番幸せだと思います。

欲しいもの、ものではなくて人間の本質的なものは何か、それは結局生きていること生き生きしている者には魅力があり、みんな生き生きしたい。
そこんところがだんだん薄れちゃったと思います。
誰かが「こんにちわ」と言い出せばいい。
ゴミ出しに持って行くが、高齢者がいて「お早うございます」と言っても声を出さない。
都会の生活というものはそういうもんなんですよ。

60歳代にスランプがあったが、窮屈な考えがありました。
こうでなくてはならないということが心の中に壁を持っていました。
そのことに気が付いたのは大きな展覧会があって、やりつくしたような思いがあって染色は辞めようかと思って、後は自分の真似の繰り返し。
たまたまアメリカのサンタフェに行って、サンタフェはメキシコに近くて、フォークアートミュージアム(おもちゃの美術館)があって、アレキサンダー・ジラードがハーマンミラーのテキスタイル部門デザインディレクターをしていて、世界のおもちゃの展示をしていて、メキシコの人が藁とか針金だとかそこらにあるもので作ってあって、それを見た時に生き生きしていた。
それを見ている時に染色にこだわることはないと思った。
自分の中に帰れば何をやってもいいんだと思いました。
つまり生き生きしていることはこういうことだと思いました。
印刷に元々興味があって、72歳で初めて絵本を出版。
絵本は子供の本だが子供に限らないと思う、大人が見てもいいと思う。
僕自身が面白いからやるんです。
芸術という言葉は好きではなくて、もうちょっと気楽に考えたらいいと思う。

85歳で初めてパリのギャラリーで個展を開く。
新人として挑戦。(元女子美術大学の学長ということは伏せて)
父親が第一次世界大戦の時に留学して、写真集があり3冊になったが、戦争で焼けてしまった。
父から聞いていたことは文化、アートを大事にするところだとよく聞いていたので何としてもパリに行きたいと思っていました。
ギャラリー・ヨーロッパという画廊があったが、認めてくれないと貸してはもらえない。
反響があり3年連続で開催しました。
フランス国立ギメ東洋美術館の学芸員の人が来て、92歳の時にギメ東洋美術館で私の展覧会が行われることになりました。
作品も今パリの国立の美術館に収蔵されています。(寄贈しました)
寄り道があったとしてもそれでいいと思います。
オファーがあれば僕は張り切るんです。

ネガティブな部分があるが(体力が追いつかないとか)、楽しくなくちゃつまらないはず、本当は人間というものは明るいと思う、肯定的、ただそれが見えていないだけ、現在色々苦しい事があるから見えないだけであって。
軍隊で周りに囲まれても、草一本が生えているだけでそこに楽しみを見つけるとか。
人間は区切らない、今何歳だとか区切らない。
そこをどうやって仕事、遊びととかをどうするか、これからの一つの問題だと思います。
気力、情熱、熱があれば出来ると思う、冷めてしまったら駄目ですね。
或る程度のおっちょこちょい性、母親からくぎを刺されてる調子に乗るなということを余り自分でセーブしてしまうと駄目。
チャンスがあればやる、やってみないとわからない。
作品自身と周りの環境、その両方がうまく溶け合って展示はあると思う。
くそ力みたいなものが民芸館にはある。
民芸館には出来るだけ一人で行ってほしい、自分で自分に自問自答する時と場所なんだと、自分の場を作って欲しい。

















2018年5月24日木曜日

麿赤兒(舞踏家・俳優)          ・75歳、倒れても踊り続ける

麿赤兒(舞踏家・俳優)          ・75歳、倒れても踊り続ける
1965年唐十郎の劇団・状況劇場に入団、劇団を象徴する俳優として活躍、1972年に舞踏集団・大駱駝艦を創立、以来46年に渡って国内外で講演を続けて来ました。
麿赤兒さんにその波乱の人生と舞踏にかける思いを伺います。

中学高校時代から演劇部でした。
親がいないとか、親が戦争で亡くなったとか訳ありの子がいろいろ居ました。
見よう見まねに勝手に演劇部を作って部長をやって、7,8人集まりました。
奈良県立畝傍高等学校へ行ったが、演劇部は一人もいない。
1年から部長になり、図書室で高校演劇の物を読んだり、段々欲が出てきて色々本を読んで勉強しました。
早稲田大学に入学しました。
1,2カ月で挫折して授業は出なくて、アルバイトを探して、色々やったんですが遊び(映画芝居を見たり、パチンコなど)に使って、授業料を払えなくて、中退しました。
劇団『ぶどうの会』の研究生になりました。
その劇団も半年で解散してしまって、宮本研さんとかが「変身」という劇団を作り、そこに入って主役をやることになり、一生懸命稽古をしていましたが、突然おまわりさんに捕まることになってしまってその芝居に穴をあけることになってしまいました。
酒を飲んでこわもての人と喧嘩になりましたが、そのうち忘れていたが、1年後に警察から来るようにいわれて、警察署に出かけていったら逮捕状を出されてしまいました。
2日間泊められてしまって、劇団を首にするかどうかで擁護派と反対派に別れて、その後政治的なものになり、段々居たたまれなくなりました。
ヒッピーがはやり始めた頃、喫茶店に入り浸れているうちに、唐十郎さんから声を掛けられました。
一緒に飲みに行ってそのまま彼のアパートに居候することになりました。
彼は芝居を書いていたりしていました。
21歳から彼と芝居を7,8年一緒にやりました。
最初の公演はテント公演を思い付いて花園神社にテントを立てて「腰巻お仙」をやったら好評でした。
青年男女の恋愛がもつれにもつれて迷宮に段々旅をするようなお芝居ですが、時空を越えてしまっていつの時代かわからないような芝居でした。
嬉々としてやっていたが、段々覚めてきて、台詞が長くなり難解になり、一生懸命にはやったが、子供が出来てお金も必要になったりして、辞めて金を儲けることにしようと思って、産地直送の米を売ったりすればもうかると言う話もありやったが駄目だった。

風月堂でも知られるようになった頃、ある女性が来て付いてきてほしいということで付いて行ったら、舞踏家の土方巽さんの稽古場でした。
50坪ぐらいありました。
ドテラを着て一見ホームレスのような格好でしたが、眼光の鋭い人でした。
金粉ショーをやることになり、あまり稽古もしないで放り出されました。
昼間は空いているので稽古場として使わせてほしいということで稽古をしていました。
土方のブレーン 澁澤龍彦さん、細江英江さん、種村季弘さんとかの文学者、文化人が一斉にうちの劇団に芝居をみに連れて来て、面白いと広げてくれて人気が上がってきました。
状況劇場を私が辞めたということが広がって、若い人が来るようになりました。
夏に裸で寝ている若者たちの姿を見て、これにクラシックを掛けて、このまま舞台にして少し加工すれば面白いと思って、色々なイメージが出てきました。
天賦典式という形でコンセプトを広げればいいと思って、どんな身体にハンディーがあろうが、精神的にハンディーがあろうが、生き物としての尊厳みたいな事を思い出して、天賦の才能にしようと、体が宝だと言うようなことから始まりました。
1972年に独自で舞踏集団・大駱駝艦を旗揚げしました。

金粉ショーで若い人が動くと言うのを売りでやってみようとしました。
舞台で20分なら20分、えっと思わせたいと言う思いが出てきて、急に奇声をあげたり突然松明をお客さんに放り投げるとか、スタンドプレイをして目をこっちに向かせたいと、色々なことに目覚めると言うことはありました。
結構お金は儲かりました。
そのお金で劇場を借りて踊りに注ぎこみました。(20年位続ける)
1982年に初めて海外公演をする。
日本で前衛と言われているものがこういうものだと素直に受け取ってくれる。
アメリカンダンスフェスティバルは歴史があり、お客さんの眼が高い。
今年で大駱駝艦創立46年目になります。
3月に新国立劇場でも公演しました。
舞踏も曲がり角に来ている。
もう一度見直したいという気持ちがふつふつと出てきて、舞踏全体をもっと浮き彫りにする努力はしていきたい。
生きているのが、あらゆるる仕草、動作、精神的な作用みたいなものが全部踊りだと言うふうなことが判ってくると楽しいと思います。
20年前に胃がんの手術をして4/5を切除、筋肉がたるんでこないようにはしているが、筋肉を鍛えたり歩いたり走ったりしています。







2018年5月23日水曜日

合瀬潤一郎(ギター製作者)         ・目指せ!佐賀発ビンテージギター

合瀬潤一郎(ギター製作者)         ・目指せ!佐賀発ビンテージギター
3月まで放送された連続TV小説「わろてんか」のオープニングで流れた主題歌の「明日は何処から」この曲のボーカルバックは佐賀市の合瀬さんが製作したアコースティックギターが使われていました。
合瀬さんは49歳、16年間ギター製作会社でギターを製作していましたが、最初から最後まですべて自分で作りたいと、11年前会社を辞めて独立、佐賀市内の工房でギターを作り続けています。
注文を受けてから作るオーダーメイドで、音楽界で活躍するギターリストから多くの注文が入っていると言うことです。
手にする人に使い込まれていくことで佐賀発のビンテージギターになれば、というのが合瀬さんの目標です。

家の車庫を改造して工房にしました。
自分だけでやりたいと思ったので、一人で最初から最後までやっています。
3月まで放送された連続TV小説「わろてんか」の主題歌でギターを弾いていたのは佐橋 佳幸さん。
佐橋さんのお弟子さんが私のギターを使っていてそういう流れで、お会いして、作って欲しいということになりました。
軟らかめな感じの音がほしいというで、佐橋さんは凄いギターを沢山持っていて、かぶらないようにうちのギターらしさが出るような材料を選んで作ったのですが、頻繁に使ってもらっています。
小さいころからプラモデルをつくっていて、祖母が作ると褒めてくれて、もっと上手に作りたいと思ってものを作るのが上手になったのかと思います。
漠然とものを作りたいという思いはありました。
工業高校に入って、基本的なことしか学べなくて、自分で思い描いていたものとは違っていました。
発電所を建設する会社に就職しました。
部品を組み立てて発電所を作る作業をしました。
プレハブの宿泊所に詰めて作業をしていました。
金属を扱う作業でやっているうちに体に合わない様な感じがするようになりました。
木工をやりたいという気持ちが大きくなってきました。

暇な時間に自分で木を持ってきてギターの改造とかやっていました。
退職してギターを作ろうという思いの中で、佐賀県なので楽器を作るところがなくて、あるギターを製作する学校があり問い合わせて、東京の学校で一年間学びました。
エレキギターの製作を学び3本作りました。
就職先がなくて、佐賀県に帰って来た時に、電話帳の中から楽器関係を探して、久留米で楽器を作る工場があることが判り電話をしたら、たまたま辞めた人がいたので入社することになりました。
クラシックギターの専門の工場でした。
一番最初材料を仕入れて乾燥させてギターの部品を作るところでずーっとやっていました。
材料を仕入れるのに大量に仕入れるので、短時間で調べることを10年以上やっているうちに、手にもった感触、重さ、湿り具合とか、これは良いなということが瞬間で判るようになって来て、材料の見極めが出来るようになりました。

部品を作るのは単調で、凄い良い材料を使って凄い良い部品を作りたいと思うようになってきました。
20人位の会社で、自分の思いとは違う製品になってしまって、忸怩たる思いがありました。
どうやったらいいものが出来るか試していましたが、海外製の良いブランドにはかなわないと苦労したし、悩んでいました。
海外製のものを調べてコピーを何度となく作ってきたが、思うようなもの出来なかった。
ガレージを改造してテーブルなど作りながら、ギターを一本作ってみたら良い音の出るギターを作ることができました。
2,3本と作っても良いものが出来ました。
一人で作るようになってから、道具も自分で作らなくてはいけなくなって、道具も作って、そうしたら作り方も変わって、音も変わってきたことが判りました。
作業の方法、工程は見ただけでは判らない。
色んな作り方でやったら面白い様にいろいろ音が変わってきて、言われた音を出せるようになってきました。

会社を辞めて独立しました。(11年前)
その頃にリーマンショックが起こって、1,2年は作っても売れませんでした。
佐賀の地元の楽器店と懇意にさせていただくきっかけがあり、地元のミュージシャンに使ってもらって、口コミで佐賀県内に広がって行きました。
プロに使ってもらって評価してもらった方がいいのではないかと言われて、ギターに携わっている音響の方からの評価が高くて、プロの方にも広がって行きました。
コンサートツアーでは楽器にダメージを起こすことが多いらしくて、数百万円のギターを簡単に持っていけるかというとそうはいかないので、それに順ずるものが求められるので、うちのギターを選んでもらえるものと思います。
値段は30~40万円位です。
電話をかければ直ぐ通じて、直してと言えば簡単に直せる人がいて、替わりをと言えば出せる状況などが、重宝にされている理由かと思います。
どういうギターを作って欲しいということは、言葉によって伝えられるが、音のニュアンスがそれぞれ感じ方が違うので、それが難しい。

「バシャーン」というのを作ってくれと言われて、作って渡したが、「バシャーン」という感じではないと言われた。
私にとっては「バシャーン」は出ていたが、その人にとっては「バシャーン」ではなかった。
その人の「バシャーン」は僕にとっての「ドカーン」だった。
言う人と受け取る側の違いを掴むのが難しい。
音源を聞かせてもらって、これがいいと言ってもらえるのがやりやすい。
良い物を作るということに関しては順調には来ていると思います。
ギター屋さんとしてはポンコツです。(なかなか稼げない)
工場にするということはあり得ない。
基本はいい音がしてみんなに大切にして貰える様なギターを作って、僕が居なくなっても大事にして貰えて、それがいつかビンテージと呼ばれる日が来るのではないかと思っています。











2018年5月22日火曜日

原田尚美(第60次南極観測隊副隊長)     ・両極を究める

原田尚美(第60次南極観測隊副隊長)     ・両極を究める
海洋研究開発機構の地球環境観測研究開発センターの研究員でセンター長代理も務めています。
専門は生物地球化学、もう一つが古海洋学。
学生時代にも南極観測隊の一員として南極に行ったことがあります。
南極、北極が原田さんの研究対象です。
日本の南極観測隊で女性が副隊長以上を努めるのは、原田さんが初めて。
今年の秋に出発する第60次南極観測隊の副隊長、夏隊の隊長を兼務する原田さんに伺いました。

地学、生物学、雪氷学とか専門分野ごとに分科会をして、次にどんな研究をするかを毎日のように開始されていて、そこに出席してどんな観測を計画しているかと勉強している段階です。
副隊長としては隊長を支える仕事になりますが、夏隊長と副隊長の区別はないような気がします。
輸送、建築、観測とか多くの仕事を二人で役割分担をしながらこなしています。
6月の中旬には隊員が決まります。
越冬隊は1年半分の計画を立てないといけない。
専門は生物地球化学、もう一つが古海洋学。
生物地球化学は地球上で生物が存在している場所における生き物を介した循環、流れと環境と生物の間の相互作用、さまざまなそこに存在しているプロセスを明らかにする学問で、私の場合は海洋に生息している植物や動物のプランクトン、そういった生物が作り出す物質、炭素、水素とかを材料にした有機化合物の存在量とか、化合物同士の濃度比を環境の指標にして、海洋の環境の変化を調べると言う研究をしてきました。
そういった海洋の環境を古くまでさかのぼる学問が古海洋学ということになります。
両者は密接に関係しています。

地球温暖化という深刻な状況におかれていて、海洋でも起きていて、海洋の中における温暖化を主体とした様々な変化が起きている。
そこに生息している微小プランクトンがどのように応答して変化しているのか、そういうことを調査するグループで研究しています。
北極海については海氷がどんどん溶解してしまって、2030年には夏場はほとんど海氷は無くなってしまうのではないかと予想されている。(環境が激変している地域の一つ)
生息生物が減ってしまったり、他の生物に置き替わるのではないかと調査研究をしています。
北極海は海洋酸性化にしても常に先取りして起きているが、亜寒帯域の我々の所にもやがてやって来るかも知れない環境の変化なので、将来起こりうるかも知れない環境の変化と生物の応答を先取りして調査することのできる、海域の一つでもある訳です。
海洋酸性化は大気中の二酸化炭素が海洋の表層に溶け込んでいって、現在海洋は弱アルカリ性ですが、二酸化炭素が溶け込むことによって中性あるいは酸性の側に傾いていく、それを海洋酸性化と呼んでいます。

炭酸カルシウムを甲殻に持つ生物(貝とか)が海洋酸性化の環境にさらされると殻が作りにくくなるとか、溶けてしまうそんな状況が来るのではないかと懸念されています。
防ぐと言うことはもうできない。
排出の量を最大限に抑制して行くと言うことが出来れば最悪の状況は免れることができるかもしれないが、二酸化炭素が吸収される場所は海で、海洋酸性化は確実に悪化するという事象です。
かつて二酸化炭素濃度が高かった時代の海の深い生物の一部は絶滅しているということが報告されている。
種類が大きく入れ替わる可能性もあり、食物網にも影響を及ぼす可能性があります。

北海道帯広で生まれました。
運動はあまり好きではなかったので家の中で遊んでいました。
理科系は嫌いでした。
本は良く読んでいたので国語が好きでした。
国語の学校の先生になりたいと思っていました。
高校に入って専門的になり、系統だてることに理解して、特に興味を引くことになったのが化学の授業でしたが、自分で参考書を買ったりして勉強してたら面白いことに気づきました。
3年生の時に地球化学の弘前大学の先生から地球化学があると言うことを聞いて、非常に興味を持ちました。
地球温暖化という言葉を雑誌を通して知ることになり、名古屋大学の半田暢彦先生の記事でした。
弘前大学に進んで地球化学の研究室に入りました。
卒業論文が大気化学で、指導してくれた先生が南極に行かれた経験のある先生でした。
名古屋大学の大学院に進みました。
半田先生から海洋学の面白さも教えていただきました。

修士課程の2年間厳しく指導されました。
せっかくフィールドワークの研究室に来たので、一度海に出たいと半田先生に頼みこみました。
修士論文の目途を付けて、東京大学の海洋研究所の白鳳丸という研究船に乗せてもらいました。
非常に楽しくて、色んなサンプルを採取して、サンプルの貴重さに感動して虜になりました。
すでに就職は決まっていたが、「分析は君の後輩やるから大丈夫だから」と言われて、その瞬間「私がやります」と言っていました。
博士課程の進学を決めました。
南極で海水中の生物が作りだす粒子(セジメントトラップ(Sediment trap)係留系)を定期的に取って、季節変化、海洋環境との関係性などを調べる観測をする。
南極でそれをやることになり派遣して欲しいと半田先生の所に話が来て、男性の先輩は厭だと言うことで私が行きますと立候補しました。
先生からは大反対でしたが、なんとか説得しました。
博士論文はどうするんだと言うことだったが、既定の論文を仕上げて且、南極の論文を仕上げるといって了解してもらいました。(1991年 27年前)

当時女性としては2人目でした。
南極は景色はほぼ想像通りでしたが、風が無いとシーンとして音がしなくて本当に凄く驚き感動でした。
海洋観測をしながら昭和基地に向かいました。
復路で設置したあった係留系を回収することにしていました。
2カ月位生物が作り出す粒子を取り続けるという観測でした。
回収しようと地点にいったら無くなっていました。(原因不明)
2010年ごろから北極に携わるようになりました。
北極は温暖化が顕著に現れているところで、南極では兆候が無いです。(非常に大きな大陸の上に大きな氷があるので、ひとたび兆候が現れた時にはインパクトは計り知れないと思います。

先ずは自分が動く、そうありたいと思っています。
夫と共通な趣味を持ちたいと思っていて、それが山登りでした。
年間7~8つ昇っています。
大雪山は花が見事で思い出に残っています。
今回は役割も大きくて、冷静に一歩引いて心の中は第一回目よりも落ち着いた感じでいけそうだと思っています。




2018年5月21日月曜日

里アンナ(歌手)             ・【にっぽんの音】

里アンナ(歌手)             ・【にっぽんの音】
能楽師狂言方 大藏基誠
NHK大河ドラマ「西郷どん」にメインテーマ歌で参加。
奄美大島の出身で島唄の歌い方で歌っている。
作曲家の富貴晴美さんがコンサートに来てくれて、NHK大河ドラマ「西郷どん」の音楽担当し作曲することになり、歌ってほしいという話をいきなりいただきました。
テーマ曲で歌わせていただくことになりました。
西郷さんが奄美で暮らしていたときを自分でイメージしながら歌いました。
奄美の皆さんにも喜んでいただきました。

鹿児島県奄美大島出身、島歌を習い始めたのは3歳からで祖父から教えてもらいました。
最初は祖母から機織りをしながら口ずさんでいるのを覚えました。
母方の祖父が三線も弾けるから一緒に歌ってみてはどうかということで習いました。
奄美民謡大賞などの大会で度々受賞、その後高校卒業後は歌手を目指して上京しました。
ポップスの歌手として歌っていました。
原点に戻って島歌を歌おうと考えました。
ミュージカルのオーディションがあると言うことを知って、悩んで居た時期でもあったので挑戦してみようと思いました。
ミュージカル『レ・ミゼラブル』でファンテーヌを演じる。
奄美で島歌というと集落の歌を指していて、集落ごとに少しづつイントネーションとか言葉も違います。
メロディーが一緒でも50ぐらい歌詞があります。

*「朝花節」 歌を歌う時に一番最初に歌う歌、お祝いなどにも歌われる。

奄美大島で大きく分けて笠利節(かさんぶし)とひぎゃ節(東唄)があります。
私は笠利節の方ですが、一般の人には判らないです。
北の方は波も穏やかで高い山が無いが、南は波も荒いし高い険しい山が多くて、地形なども歌に影響しているようです。

*「糸繰り節」 大島紬の糸繰りしながら歌ったもので、糸は切れてしまっても結び直すことができるけれども、人と人との縁は簡単に結び直すことができないと歌っています。

薩摩の時代に作られた歌詞が多く残っています。
琉球王国だった時代のものは聞いててたのしいようなメロディーとか歌詞が多かったようですが、薩摩の時代に入ってからはやはり歌詞も生活の苦しみだとか辛さなどをポジティブに捉えて、書かれている歌詞も沢山あります。
豊年節は本土では豊作を祝うと言うことが多いと思うが、奄美では薩摩から運ばれてくる食糧などを自分たちの作った砂糖とか大島紬と替えて食糧を貰うという形で、舟が来るのを喜ぶという歌詞になっています。

西郷さんの二番目の奥さんの愛加那さんのお兄さんの奥さんの役、里千代金役で出演する。
この役に出演することによって歌詞の解釈だったりとかも、違うところから見えてくるものがあったりして良い勉強になりました、今後活かせていけたらいいと思いました。
奄美の三線は沖縄の三線とほとんど同じ大きさですが、弦は沖縄の弦よりも細いです。
皮は昔はニシキヘビでしたが、今はプラスチックが多いです。
バチは耳かきのような長さの道具です。
元々は竹でしたが、これはプラスティックです。
奄美では女性のキーに合わせて調弦するので高いです。
三線は男性が弾くものでした。
裏声も、女性が歌う時にキーに合わせてお囃子と掛け合いで男性が歌うが、その時に地声では出ないので裏声を使って歌ったことからはじまったという説もあります。

スイスにいって歌いましたが、日本の歌なのに日本語に聞こえない、そこが興味深いとか美しい音楽だと言ってもらえることが多かったです。
海外に行って音楽の伝統のものの力とか素晴らしさを改めて感じます。
*「行きゅんにゃ加那













2018年5月20日日曜日

鳥居大資(ソースメーカー社長)      ・【“美味しい”仕事人】和のソースに挑む

鳥居大資(ソースメーカー社長)      ・【“美味しい”仕事人】和のソースに挑む
美味しいモノがあふれている日本の食、そのおいしいものの舞台裏で食を支えている人たちがいます。
フライなどにかける、ウスターソースはイギリスが発祥と言われています。
それが日本に伝わり、独自の製法が生み出されました。
現在大手メーカーの他、全国各地で地ソースを製造している会社が多数あって、それぞれの地域の嗜好に応じて生産されています。
静岡県浜松市のソースメーカーは大正13年の創業で、地元産の野菜や果物を原料に昔ながらの木桶で熟成させるなど丁寧なソース作りを続けています。
3代目社長の鳥居さん、(47歳)は大手商社や世界的な電機メーカで海外を飛び回る仕事をしていましたが、16年前に家業を継ぎました。
外国の人にも日本の出汁文化をアピールできるような和のソース作りに取り組んでいる鳥居さんに伺います。

ウスターソース、中濃ソース、トンカツソースそういったものを作っています。
粘度の差で分けています。
イギリスのウシターが発祥の地と言われています。
イギリスのウシターソースはしょっぱい、酸っぱいというような味でした。
日本に渡って来たのは明治になってからです。(西洋醤油と言われていた)
以前はカレーにかけていた。
コロッケ、メンチカツなどは油であげているので、酸味が入ることで脂っこさをソースが和らげてくれる。
今年で創業94年になります。
地ソース、地域地域でソース屋があります。
全国では100社以上あります。
西日本、関西の方に多くあります。
粉もの、お好み焼き、たこ焼きなどが関西が多いのでその関係で関西の方が多いです。

洋食屋さんが増えてきて祖父が教えてもらいながら作ってきたと言われます。
工場の食堂に卸していました。
最初は野菜を煮込むところから始まります。
玉ねぎ、ニンジン、ニンニク、セロリ、トマトなどを使っています。
生が良いので地元を優先的に使っています。
酵素、タンパク質なので高温では失活してしまうので、なるべくゆっくり低温で煮込んでいくことを心がけています。
コクが出る、甘みが増すことを狙ってゆっくり低い温度から煮込んでいきます。
煮込んだ野菜を石臼の機械に入れて行くと、種や皮も丸ごとすりつぶしてくれる。
石臼だと食感が滑らかな感じになって行く。
パウダーやペーストは簡単に買うことができるが、すでに加熱されていて、煮込むほど風味、香りが飛んで行ってしまう。
加熱する回数は少ない方がいい。

味付けは「さ し す せ そ」の「さ、し、す」 砂糖、塩、酢を入れます。
酢は重要なので自家製です。(30年前から)
自家製の酢はつんとした感じはないです。
香辛料を次に入れていきます。
ティーバックに紅茶を入れたようなふうに、香辛料を入れて出来上がったソースに浸けこんでいきます。
欲しいのは香りだけなのでこのような方法でやります。(味をいれこまない)
こんぶ、鰹節も使っています。
アンチョビはイギリス人にとってのうま味だったが、日本に来てからはアンジョビではなくて昆布、うちではそれに鰹節を加えて出汁を取っています。(和のうま味の基本)
グルタミン酸とイノシン酸を足すとうま味が1+1が3ぐらいになる。
私の代からそのようにしました。
寝かせておくとそれぞれの味がなじんでくるので、木桶熟成をやっています。
木桶は上手に使えば100年以上持つなということが判りました。
木桶はメンテナンスが大変で高価でもあります。
素材を楽しみたいと言うお客様が増えてきているので、調味料が素材を邪魔してはいけないということで、私どもにとっては追い風だと思います。
それが大手メーカーとは違うところです。

学生のころは海外の方に目が向きました。
外交官になるにはと言うことを考えて、外務省でアルバイトをしました。
その後カナダに留学しました。
学生論文で入選して日米学生会議にも出席しました。
大学卒業後、スタンフォード大学の大学院で学び修士課程を修了する。
アジアに特化した政治、経済の国際関係の勉強をさせてもらいました。
大手商社に入社、バブルがはじけた時で審査部で不良債権になるならないのぎりぎりのところの取引先を勉強しました。
大手電機メーカー(GE)に就職。
2004年家業に戻る。
会社を運営スタイルはこうも違うのかと言うことを勉強しました。
私が家に戻って来る直前に父が倒れてしまうと言うことがありました。
2001年から毎年新しいものに挑戦してきました。
すこしずつ素材が改良されている中でソースがどれだけ変わっているのかということに対して、一つのアンチテーゼとして出したかった。
食の世界では直ぐに新しいものには飛び付かない傾向にあり、半歩先をねらってきました。
スパイス感のしない状態に持っていこうと試みました。
香辛料の量を押さえたものを作っていきました。

2012年には半径50km以内の原料で作る、地ソースのベースのような考え方。
東日本大震災を経験して、本当に地元だけで回せるのか、その時にどういう味になるのかということのトライアルでした。
2014年には和食に合うソース、2015年には浜名湖産の牡蠣を使ったオイスターソースには塩麹八丁味噌を使い、2016年には米の甘みを生かしたソースなど和の原料を使う。
ソースが世界の中に受け入れられた時に、原材料だけを見たらすぐにぱくられてしまう。限り無く日本ならではのものを使ったソースだと言うことになると、日本からという起点が出来るので、原材料をより日本ならではのものにしています。
和食に使える芯が無いと、着地点がないのではないかということになってしまって、日本人が普段食べているものによりソースを浸透させたいという狙いはあります。
ウスターソースも進化して、ウスターソースでいいのかなあとの思いもあり、名前も考えないといけないのかも。