2018年8月17日金曜日

鎌田七男(医師)            ・"被爆の継承" その意味を問う

鎌田七男(医師)            ・"被爆の継承" その意味を問う
81歳、50年以上に渡り広島の原爆で被爆したた人たちの染色体を調べ、放射線がもたらした影響を第一線で研究してきました。
被爆者をな長年診察し、その人生を見守り続ける中で、原爆による放射線がが身体だけでなく、精神的にも被爆者を苦しめてきた実情を目の当たりにしてきました。
鎌田さんは原爆の恐ろしさを自らの体験を通して語ることのできる被爆者が少なくなる中、原爆の放射線の影響を正しく理解し、その非人道性を訴え続けることが必要だと話しています。
原爆による放射線の恐ろしさとは何なのか、どのようにすれば被爆の実態を伝えられるのか、被爆者を見つめ続けてきた鎌田さんに伺いました。

原子爆弾は普通の爆弾と違う爆弾で放射線を含む爆弾であることを強調したいです。
遺伝子が傷つけられて、5年たって身体が不自由に、弱くなって十分に働くことができなくなる。
いつ癌になるかしれないと言う不安がある。
生涯に渡って虐待が続いている、そういう人生になっている。
染色体を調べるとどのぐらいの傷が付いているのかが判る。
被爆した占領、どの程度被爆したのかが判ります。
身体には細胞が60兆個あるが、細胞の中に染色体があるが、遺伝子というものは染色体という器の中に入っていて、放射線が当たることによって、切られます。
近くにある切られた染色体同士が元に戻ると言うのが98%ありますが、2%が他の染色体とひっついてしまう。

遺伝子の傷も中に入っていて後々色んな災いを作って行く。
100個の細胞を調べて60固の半分以上の細胞に染色体異常が有ったと言う人がいます。
その方々から色んながんが出来て来る。
病気になる素地を作っている。
白血病が被爆から7年、甲状腺が10年、肺がんが15年、胃がん、結腸癌とかが20年、30年でだんだん増えて来る。
皮膚がんも4年、50年たっても増えてきている。
そういった病気になる予測は不可能です。
被爆者はいつ何の病気になるのか判らないという不安を持ちながら生活をしている訳です。
被爆者の心を痛めている。

原爆が落ちて7年までは日本人でさえ広島、長崎に原爆が落ちたことを知らなかったんです。
プレスコードということで一切原爆に関する書物、材料を公表したらいけないということがあって世に知らせなかった。
昭和29年、第五福竜丸の被爆をきっかけにして、広島、長崎の研究が始まりました。
昭和30年私は鹿児島から広島に来ましたが、被爆という概念、知識が何もなかったです。
当時、帽子を深々とかぶったり、夏でも長袖を着ている人がいて、ケロイドを隠しているんだなということはありましたが。自分から被爆者ということは言っていませんでした、隠したがるんです。
被爆者だと企業に雇ってもらえないというようなことがありました。
大学の友人も被爆者で、みんなと一緒には風呂には入りませんでした。
亡くなる前に実は被爆者であるという書類を書いてくれないかとは私に言ってきましが。
学生時代はかけ離れた問題でしたが、昭和37年に広島大学が被爆内科という外来を作って、被爆の病棟を作って、その頃から被爆者を診察するんだと切り替わりました。

その後55年以上に渡り関わることになりました。
胃液の検査科ら始まり外来の診察、入院患者の診察、夜には研究と言う様にめまぐるしい毎日でした。
教授は2つのテーマを準備していて染色体を鎌田が研究しろ言うことになりました。
遠くで被爆した人は染色体異常が少なく、近くで被爆した人は沢山の異常がありそこに驚きました。(それまでは判らなかった。)
半径500m以内で被爆した方で奇跡的に生き残った78人の方を調査するプロジェクトが昭和47年に広島大学の研究所で始まりました。
その人達の健康管理をするように言われました。
どの程度染色体異常があり、どの程度の影響を受けているのか、どういう病気が潜んでいるのか、どういう病気が表になってきているのか調べて行ったわけです。
昭和50年になって初めて被爆者に骨髄性染色体異常があるという事を話したという経緯があります。
データがでたが社会に発表するまでに5年のギャップがありました。
言っていいかためらっていました、子供への影響があると受け取り易かった。
研究すればするほど被爆者にマイナスになるようなデータしか出てこない。

被爆者は「ピカドン」という、ピカッと光ってドンという音がするが、500m以内で被爆された方はどなたも「ピカドン」を感じなかったとおっしゃいます。
異句同音に目の前が真っ暗になり気をうしなって、目が覚めた時には目の前が真っ暗で薄明かりが段々見えてきたという証言をされています。
外に出ると火が回ってきて竜巻みたいに炎が舞うわけです。
防火用水には傷いた人がその中に入って何人もいる訳です。
助かったその人たちは奇跡としか言いようがありません。
その時の事を理解してくれる人が居ないので言ってもしょうがないと思われる方が多いんです。
首のない人、内臓が出ている人、目の玉が突きき出て顔がただれている人、そういったことを言ってもなかなか信用してもらえない状況ですから喋りたくない。
喋りたくない期間がある。
或る方は65,6年目にして初めて語ってくださいました。
娘さんを見て合点がいきました、生きて行くためにはそういう外国の人と付き合いをしなければいけない状況が有ったということです。

家も親も兄弟も失って原爆孤児になるとかいっぱいありました。
一人一人によって色んな出来事がある訳です。
原爆孤児として住み込みに入り24歳で結婚して、流産をして離婚をして再婚した後に又流産して、家庭らしきものを持った後に病気が出て最初甲状腺、次が大腸がんで、髄膜腫などで、2年前に亡くなっていったという方がいました。
後半生は貧困と病気、病気の連続だった。
50%の細胞が染色体異常があり病気になり易い状況でした。
その方の人生は生涯に渡っての虐待が続いている、身体的、精神的、社会的に虐待が続いている人生になっていると考えていいと思います。
それを生じさせる放射線、原子爆弾は決してあってはならないと思います。

一旦放射線によって傷ついた染色体、遺伝子を治すすべは持ち合わせていません。
私の役目は明日への影響を明らかにして行くという事で、明らかにされたら嫌なことを私が探求して言っているということになるので、それはよかってねという受け止められ方はないわけです。
そういう意味では私自身は悲しい研究の連続であると思います。
つまびらかにしたら被曝者にとってネガティブな事ばかりですから。
逃げ出すにはいかない、やるしかない。
放射線の影響を一般の人に説明して行くこと、役立つこともあるが、放射線が暴走すると身体に悪影響をしてしまう。
その悪影響の最たるものが原爆です。
伝える人間が放射線の事をその影響を理解していないとうまく伝わらないので、少しでも役に立てれば嬉しいと思う。






























































2018年8月16日木曜日

松本零士(漫画家)            ・人は、生きるために生まれてきた

松本零士(漫画家)            ・人は、生きるために生まれてきた
銀河鉄道999」などのSF漫画で知られる松本さん、もう一つのライフワークとして戦場マンガと呼ばれるシリーズを手がけています。
戦争にかりだされた若者達の姿を描くもので、昭和30年代の後半から断続的に150以上のエピソードを発表してきました。
この戦場漫画を始め松本さんの全ての作品には自身の戦争体験と陸軍のパイロットだった父親の言葉が大きく影響していると言います。

今年で80歳になります。
15歳から新聞連載を始めて、漫画家になってから60年になります。
昭和30年代の後半から断続的に150以上のエピソードを発表してきました。
私の父親が陸軍航空隊のパイロットで飛行機の羽が複数あった最初の時代の飛行士でした。
戦艦武蔵がやられたころ、父はフィリピンにいて部下の2/3をうしない、バンコックに移って終戦の当日正午は空中戦をやっていて、部下の3/4以上失って着陸したら様子が変なので聞いたら負けたということで、2年半抑留されて帰ってきました。
私は昭和18年まで兵庫県明石にいました。
父が昭和19年に戦場に行ったので愛媛県大洲市に移りました。
7歳の時に終戦です。
父親が帰ってきて小倉に行きました。
父親が公職追放されて路上の八百屋など色々しました。
新しい戦闘機が飛び始めるし、電車道はトラックは走ってはいけないと言いながら、米軍の戦車が走って来る。
帰還した兵隊たちから一杯戦地の出来事などを聞いて漫画にしてきました。

戦場マンガの一つ「音速雷撃隊
旧日本軍の特攻兵器の桜花、飛行機に取りつけて切り離してロケットエンジンで体当たりする。
私はパイロットになりたかったが、中学で近眼になりパイロットを諦めた。
原爆を落としたという情報が伝わってアメリカ軍の兵士が「敵も味方もみんな大馬鹿だ」と言って最後終わるというもの。

私は機械マニアでした。
戦争の悲惨さも経験しました。
戦争漫画を書く時にメカの問題と心の問題とを通じ合わせて書く癖が付いてしまいました。
8月15日家に帰ったら雨戸が閉め切ってあって、こじ開けては入ったら婆さんが日本刀、槍、薙刀を持ち出して磨いているんです。(昔武家の家だった)
どうするのか聞いたら「敵が来たら刺し違えて死ぬんだ、お前も侍の子だから覚悟せい」
といって、家族で刺し違えて死ぬと言うことだった。
戦争が終わったと聞いた時はピンとこなかった。
父親が帰ってきて、小倉に来ました。
線路わきの処のボロ長屋(5軒長屋)に住んでいました。
いつも列車が通っていて「銀河鉄道999」で列車を正確に書けたのはそのせいなんです。

当時食い物が無くて海に行って魚を取ったりして食いつないでいました。
戦場マンガの一つ「帰還影の老兵」
戦地から帰還した兵士の自殺がある。
戦地から帰還した兵士は食べるものも無く家族も全員居なくなってしまっている。
実際に3人見ました、それは無残です、子供心に衝撃でした。
鉄道には柵も無く身体が真二つになっていました。
校舎から道を挟んでアメリカ軍専用の連れ込み宿がありました。
そういった日本人女性をみて最初は厭だったが、途中から彼女らも全てを失って生きる為、戦争の結果だと言うことに気が付いて、気の毒だなあとみんな同情しました。
そうしないと家族を養えないということが判ってきて、戦争が全てだと思いました。
「いつかまたやっつけんといかん」といったら、親爺に怒られて「そんなことを言う奴がいるから、こんな戦争になるんじゃ。 何人死んだと思う、二度と戦争はやってはいかん」と怒鳴られました。
十分惨めさを味わいました。

アメリカのコミックを沢山捨ててあったのでミッキーマウスなどを見て英語の勉強をして読めたり喋れるようになり、漫画の道にも繋がっていきます。
アメリカ兵が摺れ違うとものをばらまいてくれるが、私は受けないと言って踏みつけました。
学校の門前で付きつけるが、いらないと言うと怒鳴って来る、子供なりのプライドがある。
私は外国に行く時に小さい子にものを上げる時は膝を付いて手を握って渡すと受け取ってくれる。
絶対に馬鹿にしてはいけない。
負けると言うことがどんなに無残で悔しいものかという事を厭っと言うほど味わった訳です。
世界中を相手にするので漫画の内容の表現には十分注意しています。
相手にも相手の家族がある、それが前提でないと書けない。

関門海峡の海底には手りゅう弾とか戦争の機器類が一杯捨ててあってそれを運んできては遊んだりしていました。
機銃掃射に会った時もありますが、ダダダダダと音が聞こえてきて1回の音で6発出てきていました。
父は新型機のテストパイロットをしたり、南方戦線でも部隊長をしていて、相手を撃ち落としたりもしました。
相手にも家族があり、個人には何の恨みも無い、相手の顔も見え一瞬ひるむが、鬼になって戦わなくてはいけない。
部下が次々に撃ち落とされてゆく場面も父は見て来ました
そういった父親の話を聞いて戦争とはつらい残酷な出来事だと感じてきました。
父が公職追放された後に、又パイロットにならないかとのは話が来たが、アメリカの飛行機に乗れるかと言って断ってしまいました。
父は沢山の部下を失ってきてどの面さげて飛ぶのか、絶対飛ばないと言って生涯飛びませんでした。
「人は生きる為に生まれてくるので、死ぬために生まれて来るものではない」と父は言って、「それを頭に叩き込んでしっかり頑張らねばならんのだ」と言っていました。
書く時にはついそういう癖が付いているんです。
敵にも生きる命がある、殺し合わなければいけないという事は悲劇である。
人は限りある命であるから生涯の中で成し遂げようとして頑張る。

世界中の戦死した若者たちの中には生きていれば人類の文明に本当は物凄い貢献をした人たちが一杯いたはずだが、大勢死んでいる。
人は争っている場合ではない。
戦場漫画も沢山翻訳されているので、外国人も見てくれているので判ってくれる。
漫画には国境が無くなって、どうしても歴史を学んでおかないと、どうかして侮辱したり傷つけることになる、決して傷つけてはいけない。






































2018年8月15日水曜日

梅本安則(元球児)            ・幻の甲子園の記憶を100回につなぐ

梅本安則(元球児)         ・幻の甲子園の記憶を100回につなぐ
長い歴史の中でこの全国高校野球大会、昭和16年から20年まで戦争の為開催されなかった空白の期間があります。
しかしこの期間に一度だけ全国大会が甲子園球場で行われました。
全国から16代表が参加しておこなわれたこの大会は、国が戦意高揚のために開催した大会だったために、公式の記録には残されていない幻の甲子園と呼ばれています。
徳島市出身の梅本さんはこの幻の甲子園で優勝した徳島商業の7番ファーストで、今では当時を知るただ一人のレギュラーメンバーとなりました。
梅本さんに当時の記憶をたどっていただいて100回大会に臨む選手たちへの思いをお聞きしました。

今91歳です。
昭和17年、太平洋戦争が状態が悪くなってきている年で、4月には東京大空襲、6月にはミッドウエー海戦で大敗北という様な年でした。
一般の国民には知らされてはいなかったというのが実情です。
当時学校では軍事訓練、軍事教練が教育に組み込まれていました。
戦闘に必要な基本訓練を軍人さんが来て色々教えると言う教科でした。
徳島商業の場合は恵まれていて、野球部の猛練習を高く評価していただきました。
日本全体としては敵勢のスポーツをやるとは何事かというような考え方がありました。
昭和16年全国大会が辞めると言うことになって残念な気持ちでした。
監督さんはどういう状況であったとしても必ず野球をやれる時期が来るはずだ、という信念を持っていたのでついて行きました。(稲原幸雄監督)
昭和17年文部省から全国大会が開催されることになる。
目標が出来て素直に嬉しかった。

監督さんが優勝戦迄の1週間分の米を持って来いと選手全員に伝えられました。
優勝を目指すんだと言う事を暗に固く申し渡すという感じで言っておられました。
厳しい状況だったが母親がなんとかしてくれました。
徳島から毎日新鮮な牛肉を旅館まで送ってくれました。(後援会の配慮がありました。)
大日本学徒体育大会というふうな大がかりな大会でした。
野球以外に柔道、剣道など戦時色豊かな体育、運動競技がありました。
昭和17年8月22日に橿原神宮外苑広場(奈良県)で開会式が行われました。
手りゅう弾を投げる、銃を携えて走る、土嚢を運搬して走るなどといった競技もありました。
それ以外に柔道、剣道等多岐にわたりました。
人数も7500名という大変な数の若人が集まりました。
東条英機総理大臣がきて若人を激励するという意味合いの話をしました。

8月23日 甲子園で中等野球だけの開会式が開催されました。
球場に入るとスコアーボードの両横に「勝って兜の緒を締めよ、戦い抜こう大東亜戦」という横断幕が掲げられていた。
国民の士気高揚が大義名分にあるので、試合のルールも戦時色が濃かった。
デッドボールもよけてはならんというようなルールでした。
朝日新聞主催ではなくて文部省の主催なので、伝統の優勝旗も無かった。
その後その大会は幻の甲子園と言われるようになりました。
観客席は超満員でした。
甲子園の土は柔らかい、心情的には温かいそういう気持ちで初めての甲子園の土を歩きました。
観客の皆さんの温かい気持ちが伝わってきました。
16チームのなかには当時日本の統治下であった、台湾の台北チームの台北工業も参加しました。
みんな台湾で生まれて内地に一度も渡ったことのない日本人の選手たちだったようです。
東シナ海、台湾海峡などはアメリカの潜水艦が出没する戦場なので、学校関係者は出場を取りやめた方がいいのではないかという話が出たそうですが、部員らは死んでも本望だと言うような気持で話あったそうです。
14人の家族に承諾書を出してもらう事を決めました。
彼等は無事神戸港に着くことになりました。

空襲と勘違いされるので大会開始のサイレンは使うことができないので、ラッパが合図になりました。
1回戦で東京の慶応商業と戦って延長14回戦って2-1で勝利。
2回戦は水戸商業に1-0で完封勝ち。
準決勝は近畿代表海草中学に1-0で勝利。
決勝は京都滋賀代表の平安中学と戦う。
平安は準決勝が決勝当日の午前中に行われた。(雨で順延のため)
平安中学の富樫投手はこの大会でノーヒットノーランを達成するなど前評判は高かったが、終盤疲れからコントロールが悪くなるということが見られた。
試合はシーソーゲームになった。
11回の裏まで行って、6-7で追いつめられていた。

監督は選手を全員集めて「最後の1秒まで諦めるな、君たちのプレーが徳島県の歴史を塗り替えるのだ」と力強い声でおっしゃいました。
ツーアウト満塁となる。
フォアボールを8番が選び7-7の同点となる。
9番の林がバッターボックスに入る。
2ストライク-3ボールとなり、つぎのボールが外れて押し出しで勝つことになる。
終わった時には何かいいしれぬ解放感を覚えています。
文部大臣の表彰状を一枚頂くだけだったが、観客の皆さんは平和な時代と全く同じようにプレーを喜んでみて下さいました。
戦時下という事を忘れてプレーをすることができました。

私は神戸の三菱重工神戸造船所にいって働きました。
その後神戸が空襲を受けて職場が被災して徳島に引き上げざるを得なくなりました。
昭和20年7月に徳島市の大空襲がありました。
実家も学校も空襲で焼失しました。
野球に夢を抱き慶応商業の宮崎さんは野球をやることに執念を燃やし満州に渡って社会人野球をしていたが、ソ連軍に抑留されてそれは大変だったようです。
平和な時代に思いきり野球に打ち込むことができると言うことは、大変な幸せだと思います。
若い人たちには自分たちの出来うる限りの力を尽くして、自分を更に大きくするように頑張っていただきたいと思います。


































2018年8月14日火曜日

村上敏明(旧満州からの引き揚げ者)    ・ぼくは、妹と母を手にかけた

村上敏明(旧満州からの引き揚げ者)    ・ぼくは、妹と母を手にかけた
83歳、1946年の夏、日本に引き上げる直前指示されるままに、当時1歳だった妹と病気の母に毒薬を飲ませるという経験をしました。
長旅に耐えられないものは殺そうと誰かが決めたのか、はっきりしたことは判りません。
当時11歳だった村上さんはそのショックで前後の記憶を失ったと言います。
戦後、この出来事を覚えていた友人の小林誠さんの話を聞いて村上さんは失われていた記憶と向き合います。
2010年妹と母がなくなった旧満州を再び訪れたあと、断片的な記憶を詩に綴り徐々に人前でも語るようになりました。

詩「消え去った記憶」
「多くの人が文子を囲み見つめていた。
母が文子を抱いて飲まされた水薬、黒い瞳が僕をじーっと見つめ息を引き取った。
文子、文子だけが僕の記憶にある母の声。
衝撃に吹き閉ざされてしまった僕の記憶。」

毒の入っている水薬を僕が飲ませました。
黒い瞳が僕をじーっと見つめ、なんか語るようだがそこだけは覚えている。
そのほかのことは一切覚えていない。
衝撃は大きかったと思います。
36年後に親友の小林君が昭和21年7月上旬に泣きじゃくりながら駆けつけてきて「僕が妹を殺した、泣きながら言ったんだよ」とそういうことが有ったと小林君と再開した時に知る訳です。
妹をあやめた時以降の記憶が飛んでいる、断片的な記憶になっているんです。

4歳(昭和13年)父と母と弟2人と京都から大連に行きました。
小学校2年の時に四平に転勤します。
空襲が始まったのがサイパンが占領されて以降で、大連とかが空襲されました。
1945年文子が生まれると同時に父が招兵されました。
父はそれまで民間人で鉄道と荷車、馬だとかでその他の地域に荷物運ぶ仕事をしていました。
関東軍が南に進軍して行き、抜けた後を父だとか民間の人達が守りに着くわけです。
8月9日にソ連が侵攻する。
ソ連の飛行機が飛んでこないか北の空を監視する仕事をしていました。
8月15日大事な放送があるということでラジオを聞きましたが、内容は判らず戦争で負けたということだったようです。
ソ連兵により略奪されたり、女を出せと叫んでいました。(後で判ったことだが)
ソ連兵が撤退すると同時に中国共産党の軍隊と国民党との軍隊が合同して日本軍と戦うことが行われました。
その後中国共産党の軍隊と国民党軍の内戦が行われる。

日本政府はポツダム宣言を受諾する前に8月14日に大本営が「満州、朝鮮を切り捨てる、満州にお前らは土着せよ」と言う事を正式に伝える訳です。
満州には150万人、他の地域にも沢山行っている。
満州の経済界の有力者高崎達之助さんが日本人会を作って、日本に密使を送って大連から朝鮮半島ルートで東京に到着して、吉田茂さんとかに陳情する。
最後は直接マッカーサーと交渉すると言う事をする訳です。
功を奏して船はアメリカが出し、旧満州の内部から葫蘆(コロ)島まで日本人を送るのは中国の国民党が担当して、日本人の引き上げが実現するわけです。(46年5月 第一船)
母親はがんもどきなどを作って生活の足しにしていたりしました。
1946年7月7日に四平からの引き上げが始まって最初の団体が僕らでした。
逆算すると5日か6日に妹を殺したということです。
引き揚げの準備をしている中で男の人が5,6人来て、渡されたコップを進んで水薬を飲ませる。
黒い瞳の印象が残っていてそれ以降は全く記憶を失われてしまっている。
毒薬だと言われたかどうかは判らない覚えていない、医者、お坊さんがいたことは記憶には残っている。

黒い瞳の印象しかないが「お兄ちゃんなにすんの」と言っているように思えた。
小林誠君が36年後に記憶を取り戻すきっかけを作ってくれました。
列車の中、船の中でも亡くなる人が沢山いて、それを防ぐためにはやむを得ないということで、どういう経過かわからないがそういうことがありました。
母は妹が死んだ瞬間にショックで足腰が立たなくなりました。
母親が荷車まで運ばれていた。(小林君の記憶)
11歳(私)、8歳、4歳の子供3人と列車で四平から葫蘆(コロ)島まで向かう。(450km)
普通なら1日でいけるところだが3,4日かかったと思います。
病院の畳の上で寝ていたりしていました。
或る時にいつも飲んでいた薬と違うと思いながら飲ませたら飲んだ途端に泡を吹いて死んでしまいました。(青酸カリ?)
またショックでその時の記憶が無くて、気が付いたのは安置された遺体の前で私達3人がそこにいたということでした。(8月5日)
母の遺体は病院の裏山の中腹に他の方の亡骸と一緒に埋葬されました。
私が最初に、3兄弟で土を順番にかけて行きました。(4歳の弟はそのシーンを覚えていた。)
母にかけてやった着物の色は覚えています。(記憶は断片的)

港から高砂丸(1200名が乗船)に乗って長崎の佐世保に9月10日に着きました。
亀岡市が祖母の家だったのでそこを目指して行きました。
1月には弟が病気にかかってやはり「文子、文子」と言って亡くなりました。
父親が1948年に帰ってきました。
その後京都市役所に就職できて一人で生活をするようになりました。
満州のことなどは父親と話をしたことはないです。
戦争で両親、兄弟で仲良く話し合うと言うことは極端に失われたと思います。
自分の体験を語らなければいけないと思うようになったのは最近です。
3・11が起こり近所に避難してきた人に話したのがきっかけだったかもしれません。
一昨年位から聞かせてほしいと言う機会が凄く増えて反響を呼んで、時代がそうさせているのかもしれません。






































2018年8月13日月曜日

桂竹丸(落語家)             ・創作落語で語り継ぐ「特攻」

桂竹丸(落語家)             ・創作落語で語り継ぐ「特攻」
61歳、竹丸さんの出身地鹿児島には戦時中特攻隊の出撃基地があり、多くの若者が飛び立っていきました。
子供の頃祖父母や両親から戦争、特に特攻隊の話を聞かされて育ったと言う竹丸さん、13年前その特攻隊を題材にした創作落語を作り、東京の寄席や学校などを回って上演を続けています。
鹿児島生まれの落語家として特攻の悲劇を伝えて行くことは自分の使命だと言います。
明後日で終戦から73年、戦争を経験された方が少なくなり戦争体験を若い世代に伝えて行くことが年々難しくなっています。
戦後生まれ戦争を知らない世代に、その悲惨さや平和の尊さを伝えて行く一つの手段として竹丸さんが創作した落語とそこに込めた思いを伺います。

演目「ホタルの母」
入門者が多くて現在東京だけで550名いる。
昔特攻の基地がありました。
子供の頃特攻の話を聞きました。
知覧は陸軍の所属の基地だった。
特攻平和会館が建っていて、1036名の遺影があり遺書などが展示されている。
特攻平和観音堂が建立されている。
年間60万人以上が足を運んできている。
出来たのが昭和62年。
鳥濱 トメさん(特攻の母と言われる)が手を合わせていると、ほたるが飛んできて観音様の肩に止まる。
遡ること45年前、昭和16年12月8日アメリカに宣戦布告する。
太平洋戦争が勃発、真珠湾攻撃、あっという間に東南アジアを占領する。
物資不足に苦しんでいた国民には朗報であったが。

知覧に飛行学校が建設される。
昭和17年3月になると少年訓練生が知覧にやって来る。
楽しみは食べること、寝ること、たまの休日の外出でした。
知覧は小さい町なので遊ぶところも無く、富屋食堂の存在が知れ渡る。
休みになると大勢の少年訓練生が富屋食堂にやって来るようになる。
少年訓練生を我が子のように思えるようになる。
その後日本は段々壊滅的状況になって行く。
そこで出した上層部の結論は特攻隊でした。
町長が頼んで軍指定の食堂となって米の支給などはあったが、それでは足りないのでトメさんは自分の箪笥などを売って少年訓練生の為の食料に変えていた。
兵舎ができて全国から特攻の兵隊が来ることになる。
トメさんは特攻の話を聞かされるが、特攻の重みを知る由も無かった。
昭和20年3月28日 知覧は桜がきれいに咲いていた。
富屋食堂に一人の青年将校がやって来る。
小林少尉でした。

ここを去るのでお礼にきたということだった。
行く先を問われたがいえない、特攻との事だった。
トメは溢れる涙をじっとこらえる。
「俺たちの分まで長生きしてください、行ってまいります」と言われると、人前では絶対に涙を見せないトメさんはこの時だけはあふれる涙を止めることができませんでした。
トメさんは何もできないことに気を揉むが、手紙を両親に送ることを思い立つ。
「・・・小林殿は昨日突然やってきて、どちらに行くのと言っても口を開きまん。・・・ハッと気が付きました。・・・特攻隊の隊長として3月29日夕方には立って行きます。私から一筆知らせたいといったら、急に驚かせたくないので長く日が経ってから知らせてほしいと言われたが、父親様には知らせておきます。 お元気で長く長く生きて日本の勝つ日をお待ち下さい。・・・急いでお知らせします。 トメより」
2カ月の間に若い命が何百と飛んで行きます。

トメの気持ちは張り裂けんばかりだがグーッと堪えます。
昭和20年6月5日夜、富屋食堂では明日出撃する宮川軍曹の為に手料理を作っていました。
空襲警報が鳴り出して、防空壕に逃げ込む。
通りすぎると表に出るが表は真っ暗だった。
トメさんと兵士たちが歩いていると、何処からともなくちいさな光が横切る。
「ほたるだ」 川には無数の蛍が飛び交っていた。
宮川軍曹が「明日死んだらおばさんのもとに帰って来たいよ」というと一匹の蛍がスーッと宮川軍曹の前に止まる。
「おばさん俺明日死んだら蛍になって帰って来るから、追っ払ったりしないで」
「おばさんは待っているからきっと帰ってきてね」

一匹の蛍が富屋食堂に入ってきます。
「宮川軍曹が蛍になって帰って来たんだ。」
蛍は柱の梁に止まってほのかな光をともしています。
兵士たちは立ちあがって人前では決して見せない涙、大粒の涙を流して敬礼をしていました。
それから5日間特攻の盛期は続いて、最後は6月11日、たった2カ月で南方に消えた特攻兵の命、439名でした。
8月15日終戦を迎える。
トメさんは思う「あの子たちは死なんでもよかったんじゃないのか」
「誰か教えて下さい」トメさんは観音様に手を合わせ祈り続けます。
昭和62年2月特攻平和会館がオープンします。
トメさんは85歳になっていましたが、車椅子で列席、穏やかな顔をしていたと言います。
「うちの次女は宮川さん、あんたが好きだった。 宮川さんあんたが生きていてくれたらね・・・。 どんな時代になったとしても決して皆さんのことは忘れない。」
兵士の仮の姿だったのか幻だったのかトメさんの祈りが済むと、暗闇にほのかな明かりをともしながらスーッと飛んで行きました。
志半ばにして散った命、我々は宮川軍曹に恥じない人生を送っているんだろうかと問いたいと思います。」

この材材は決して軽いものではないので、涙した人もいたが、落語だから楽しく終わって欲しいというお客さんがいたことも事実です。
「ホタル帰る」の本 著者赤羽礼子さんがいて寄席でやってもいいかと問い合わせたらOKでした。
「ホタルの母」は落語だからこそ柔らかく伝えられると思う。
自分の想像の中で特攻、トメさんを捉えてもらえればいいのかなあと思います。
戦争の事を伝えて行くことが大事だと思います。
2005年にはじめて上演するがお客さんの反応は微妙でした。
泣いて下さる方と複雑な顔をしている人、二つに別れましたね。
平凡な一日、平凡な毎日はどれだけ尊いかということが、戦争を思うと判ると思います。
戦争は人を狂わせる、絶対してはいけないと思う。































2018年8月12日日曜日

大古誠司(男子バレーボール 元全日本監督) ・特選【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言

大古誠司(男子バレーボール 元全日本監督) ・特選【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言 (2007年11月23日OA)

1972年ミュンヘンオリンピックで金メダルを取る。
72年から25周年、30周年、35周年(今年)ミュンヘンに行ってきました。
20数名で行ってきました。
準決勝がブルガリア戦
日本は予選リーグは5戦一つのセットも落とさず。
ベスト4に残ったのが優勝候補筆頭のソビエト、東ドイツ、ブルガリア、日本。
日本とブルガリアが戦うことになる。
日本が2セット連取される。(1時間半経過していた)
「今から2時間お前たちが戦っていれば絶対勝つ」と松平監督から言われる。
第三セットも4-7とリードされる。
15-9で第三セットを取る。
第四セットも15-9で取る。
第五セットも3-9とリードされる。

ボールが僕の処に良く回ってきました。
12-11と日本が逆転しました。
セッターの猫田さんに「俺のところに持って来い」と叫んでいました。
エースは劣勢場面、辛い時に踏ん張れるのがエースだとずーっと教育を受けていたので、
踏ん張らなければいけないと思っていました。
奇跡的な逆転だったと思います。
決勝は翌日東ドイツ戦でした。
試合前に監督が「昨日お前らは死んだんだから、もう死のうと思っても死ねないから、今日は行こう。」という話をしました。
第一セットを失うがその後三セットを取り、金メダルを獲得する。
試合を開始する前に金メダルはいけそうだという思いがあり、最初ちょっと気のゆるみが有ったのかもしれない、東ドイツには負けたことが無かったので。
4年前のメキシコオリンピックは銀メダルだった。
東京オリンピックから8年計画でやってきましたので、これを逃したらないだろうと思っていました。

私は9人制上がりで、攻撃的な部分は自信が有ったが、レシーブ、守備のいいチーム作りを目指していたのでかなり毎日絞られました。
2m近くの人間のウエイトを二の腕で立てるぐらいのバランスが無いとボール処理ができないということで、当時私だけが出来なかったので逆立ち9m歩きを監督から言われてやりました。
1週間で出来ないとオリンピックに連れていかないと言われていましたが、まさか逆立ち9m歩きが出来ない位でオリンピックに連れていかなということはないだろうとたかをくくっていました。
1週間経とうとしててもできなかった。
練習は4時間でくたくたでしたが、その後に逆立ちをする訳です。
今日の夜12時までが期限だと言われて、段々松平さんの目が厳しくなってゆく。
1時間半が過ぎいつの時点からか力がスーっと抜けて行き、9m歩くことができた。
11人の選手が駆け寄ってきて良かったよかったと言ってくれて、訓練のなかで涙が出たのは初めてでした。
凄く友情を感じました。

神奈川県川崎市生まれ、5人兄弟の末っ子。
父を幼いころに亡くす。
小学校3年から朝学校に行く前に野球をやって、6年生までやっていました。
何故かキャッチャーが好きで将来ジャイアンツに入れたらいいなあと思いました。
中学では野球部が無くて2年生からバレーを始めました。
その前はブラスバンドのクラリネットをやっていました。
東芝学園から日本鋼管に入りました。
6人制は日本鋼管で始めました。
父も兄も日本鋼管でした。
昭和42年第一回に日本リーグでスパイク賞2位、敢闘賞、ベスト6にもなった。(19歳)
翌年松平監督の要請で全日本に入る。
同期の森田淳悟、横田忠義とともに全日本ビッグスリーとも称された。
6年間日本鋼管に在籍して、4回優勝、MVP2回、スパイク賞3回、6回ともベスト6に選ばれる。

メキシコ、ミュンヘン、モントリオールのオリンピックに出ましたが、毎試合試合前に痛み止めの注射をして膝、肩などの痛みをこらえてやっていて、満足に戦えたということはないです。
気力でやっていました。
昭和48年サントリーへ移籍をする。(25歳)
兄から「お前の学歴だと将来は工場に回されて3交替されるぞ」と言われました。
バレーボールを通して自分を見つめてくれるような会社があると嬉しいと思っていましたが、佐治敬三社長から話を頂き、「日本一のバレーボールのチームを作って欲しい、バレーボールの王古が欲しい」と言われました。
意気に燃えて入ることにしました。
チームが出来てから2年でトップリーグ入りを果たす。
現在のサントリーバレーの基礎ができたと思います。
1991~1995年に全日本の監督を務める。
その後オリンピックに参加出来なかったが、92年バルセロナオリンピックで6位になる。
初戦に3連覇を狙っていたアメリカと戦うことになる。

アメリカの選手が1セットで2回イエローカードがでた。
本来2回目はレッドにならないといけないが、イエローカードだった。
レッドになれば1点が加算され勝つことになり、試合は終わっているはずだった。
相手監督、審判団、国際バレーボール連盟の人達などに抗議して、私達の主張が通って2日間がかりの勝利を挙げた。
当時のメンバーがVプレミアリーグの監督かコーチになっています。
そのうちの3人を一度渾身の力で殴ったことがあります。
負けた時は物凄く悔しいので次に勝ってみせるということに持ち込まなくてはいけないので練習をする、そうすると勝つんです。
自分たちから向上心が生まれてくる。
ナショナルチームの監督になった時もあるが、選手はそれぞれの監督に指導されてきているが、やはり私自身尊敬されるような立場の監督でなくてはいけないと思います。
12人トータルでチームは出来るので、みんなを引っ張ってくれるので僕のチーム作りには上田は欠かせなかった。
松平さんと僕の気持名前は彼の頭の中にははいっていると思います。
彼のやっている練習は厳しいです。
男子はバレーボール離れになってきているのでオリンピックで活躍している姿を彼等になんとかやって欲しいと思います。。



























































2018年8月11日土曜日