2020年3月31日火曜日

〔「ラジオ深夜便」30周年特集〕

〔「ラジオ深夜便」30周年特集〕アンカー大集合
後藤繁榮アンカー:2014年4月から担当。
「ラジオ深夜便」を担当してくれと言われた時には本当に跳びあがって喜びました。
50歳ぐらいからいつか「ラジオ深夜便」を担当したいと思っていました。
或る人が会場に行くのを楽しみにしていたが、安心感からいつの間にか眠ってしまったという事でしたが、こういう仲間たちが一緒に時間を共有しているんだという、時空を越えた番組だと実感を持ったという話を聞きましたが、こういう番組なら是非やらしてもらいたいと思いました。

高橋淳之アンカー:2011年8月から担当。 アンカーの中に同期が5人います。
夜がめっぽう弱い、アウェイ感があります。
リスナーとアンカーがしっかり作り上げてきた世界がしっかりあるような気がします。

二宮 正博アンカーからのメッセージ:自分が企画立案し番組を制作できる「ラジオ深夜便」は大袈裟に言えば生き甲斐を与えてくれると思います。
取り上げてきた企画は「サイエンスは今」という30分ほどのインタビュー番組です。
様々な先端技術を判り易く伝えようとするものでした。
その道の専門家に話を聞いた方が手っ取り早いと思ったのも、その動機の一つでもありました。
この企画は自己満足だったのかなあとも思いました。
今年度で終わります。

徳田章アンカー:2010年4月からと2016年4月から2度にわたって出演しました。
インタビューで唯一亡くなったのがペギー葉山さんでした。
「夜明けメロディー」「思い出の岬」に2曲を歌っていただきました。
「ドレミの歌」はどうしてできたのかとか話を聞きました。

村上里和アンカー:2014年7月から担当しています。
40代の後半から担当していて命、生きることに深く考えるようになりました。
明日はかならず来ると思っていましたが、明日が来るとは限らない、どう生きてゆくか、どう死んで行くかといったことを考えるようになりました。
リスナーからいろいろ手紙を頂き、どう生きてゆくか、どう死んで行くかといったことを人間だれしも考えなくてはいけないんだなあという事をひしひしと感じるようになりました。
思いがけない言葉が急に聞こえたりして力が湧いてきたりします。

中村博アンカーからのメッセージ:アンカーになって丸10年、自分で製作したインタビューは199本、191人になりました。
子どものころからのあこがれの大村崑さんに会うことができました。
会う前に電話でどんな話が聞きたいのか、とか 再放送の際はお礼の電話がありました。
メールで済ましてしまう事が多くなってきた中で、人間は声と声で話すことで気持ちが通じるものですとおっしゃいました。

住田紘一アンカーからのメッセージ:元NHKアナウンサーの山口岩夫さん(当時96歳)の言葉が一番印象に残っています。太平洋戦争末期には大阪放送で連日空襲警報を伝える勤務についていました。
「戦争って詰まんないですよ。 何か色々戦争の意味とか大義名分を作るようですが、やっぱりやっては駄目です。戦争で解決するというのは愚かですねえ」とおっしゃいました。
二人の兄さんを亡くして悲しみを背負って生きてきたんだと感じました。

迎康子アンカー:2006年6月から担当。 14年になります。 日本列島全部が大家族「深夜便」ファミリーみたいな感覚でお便りが来るのを温かく思っています。
或る中学生からの便りがあり高校、大学、そして社会人になりましたという便りで月日の経つのは早いなあと思い、これからも見守ってゆく、そういったものが「深夜便」かなあと思っています。

石澤典夫アンカー:2009年10月からの担当。 11年目に入ろうとしています。
ラジオはパーソナルなメディアだと思っています。
いろんな人々がそれぞれの生活時間に合わせて聴いています。
毎回全国からたくさんのお葉書を頂きます。
番組の最後に「二度と来ない今日という一日をどうぞ大切にお過ごしください」という風に申しあげるんですが、元気が出たとか、もうちょっと頑張って見ようと思っているから今から計画を立てますとかいろんな言葉を頂きます。
一言一句おろそかにはできないんだなあと意識しながらやっています。

桜井洋子アンカー:1975年にNHKに入りました。
2016年4月から担当しました。
深夜便の集いはリスナーの方と直接会えるのが楽しみですが、陸前高田市にお邪魔した時、平成16年の秋でたんぼ、海などいろんなところへお邪魔してインタビューしました。
2011年の大震災の時にTVから流れてくる映像に冷静に見ることができませんでした。
電話して声が聞こえなかったらどうしようと思って、電話できなかったんです。
大震災から5年経って電話を掛けたら「もしもし」という電話の声が聞こえたんです。
その時に全身から力が抜けてしばらく声が出ませんでした。
集いの時には会場に来てくださって無事を喜び合いました。

須磨佳津江アンカー:2003年5月からです。 最初はピンチヒッターで入りました。
17年になります。 スタジオではリスナーだと思って凄く楽しんでいます。
自然に流れて行くんだんあと思って、それがそれぞれ違うから個性となって喜んでいらっしゃるんだなあと思ったのが最初でした。
色々なハガキを頂きリスナーの方ってつくづく良い方だなあと思います。
人は繋がりたいんだなあ、繋がって安心して夜を過ごせるんだなあとつくづく思います。
妻の手と流されないように木はつかんだが、自分の前でおばあちゃんが流されていくのを見て、しばらくは話すことができなかったが、時を経て話さなければいけないと思うようになったと言っていました。
深夜便は一方通行のようですが、繋がっていてそれで力を持ててる人がいて下さるのなら嬉しいと思っています。

遠藤ふき子アンカー:1993年10月から26年半担当。
あっという間でした。 当時私は最年少でした。
最初早口で聞き取れないと不評で落ち込みました。
企画、出演交渉、編集まで全部やって、やっているうちに母親の介護の事が出てきて、悩んでいるときに色々励ましてくださった方々がいてリスナーに救われました。
ラジオは生放送なので矢張りチームワークだなあと思います。
チームに支えられて、あっという間に26年間過ごしてきたなあと思います。
「母を語る」も24年間続いています。
自分自身の悩みの中から生まれてきました。
午前2時に寝て朝10時に起きて、睡眠はしっかりとります。

*入れ替わり立ち代わりでまとめが難しい、うまく伝えられなかったと思います。













2020年3月29日日曜日

佐塚元章(元NHKアナウンサー・スポーツジャーナリスト)   ・【スポーツ名場面の裏側で】「オリンピック放送の裏側で」

佐塚元章(元NHKアナウンサー・スポーツジャーナリスト)   ・【スポーツ名場面の裏側で】「オリンピック放送の裏側で」
56年前1964年の前回の東京オリンピックの放送が記憶に残っていると思います。
中学2年生でした。
オリンピックを伝えた放送ってすごく創造的で素晴らしいと思いました。
10月10日東京国立競技場で行われた開会式。
鈴木文弥氏のラジオ実況。
*「ラジオ深夜便」でのインタビュー
(絶対にラジオの開会式を完全にものにしようと思いました。 参加94か国を全部覚えて人数が違うのでその時間内に選手団のことを言えるようにしました。
ジョギングしながら架空実況を一か月やりました。 もうひとつは酒井義則君の聖火台でこれには架空実況を何度もしました。 163段の階段でどういったらいいか、53秒でやらないといけないと思って本当によく練習をしました。 本に書いていますが、この開会式は自分の最高傑作であるとうぬぼれています。)

鈴木文弥さんは「ウルトラC」とか「金メダルポイント」という新しい言葉も使って放送しました。
土門正夫さんはローマ大会からロサンゼルス大会まで7つのオリンピック放送を担当しました。
11年前「ラジオ深夜便」に出演した時に一番思い出に残るオリンピック放送で東京オリンピック大会のTVでの閉会式の話をしてくれました。
*(閉会式では何分何秒までびしっと決まっているわけです。 ふっと見たら旗の後ろから選手団が山のようになってくるんです。 あとはめちゃめちゃでした。
こっちは真っ青になってしまって、何にもなし、こういってやろうと思っていたことなど何も言えず、言っていたことは覚えていないです。 放送が終わった瞬間には全員真っ青でした。 放送スタッフの部屋のところに入ったら大拍手でした。
イギリスの有名なスポーツジャーナリストが「東京オリンピックの最高の成功は閉会式である。」と言って嬉しかったです。
それからのオリンピックの閉会式はあのスタイルです、定番になっています。)
伝える夢中さが放送の効果を上げたんだと思います。

1932年ロサンゼルスオリンピックでラジオ実況中継をやろうとしたが、地元の組織委員会との交渉が上手くいかなかった。
見てきたものを実感を込めて伝えるという放送になってしまった。
1936年ベルリンオリンピックから実況中継になりました。
*ベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎの河西三省アナウンサーの実況放送。
「前畑 頑張れ」は30数回、「勝った 勝った」は連続12回言っています。
放送と聴取者が一体となりました。
1964年東京オリンピック TVオリンピックの幕開けとなり1968年メキシコ大会ではスロービデオが開発されてスローモーションビデオでも観られるようになりました。
1984年超高性能の望遠レンズが開発され、機材が小型化され、無線で映像が送れるようになった。
女子マラソンでアンゼルセン選手がS字を描くように動く姿を7分間優勝争いとは別に映して、超高性能の望遠レンズでアンゼルセン選手の表情を克明に映してTV放送の見方が変わってきた出来事でした。

日本のオリンピック放送はNHKと民放が合同でジャパンコンソーシアム( Japan Consortium)という組織を作って一体となって放送しています。
1976年のモントリオールオリンピックから続いています。
前回のリオデジャネイロオリンピックではNHK,民放半分づつで、TV、ラジオを合わせて30人ほどでした。
オリンピック放送機構(Olympic Broadcasting Services OBS)が世界共通の映像を作ります。
世界中のオリンピック放送の拠点となるのが国際放送センター (International Broadcasting Centre, IBC)です。

海外に行って担当すると沢山の競技を担当します。
例えば1992年バロセロナオリンピックでは体操をメインで6日担当、その後卓球、ハンドボール、ヨット、フェンシング、サッカーなど実況しました。
オリンピック放送は体力放送だと思います。
放送する資料を準備しなくてはいけなくて睡眠不足にもなります。
担当内容も流動的になり担当したこともないようなときもあります。
国内放送の環境を10とすると、2,3という様な状況です。
食べる事にも苦労します。
バロセロナオリンピックの女子200m平泳ぎ、岩崎恭子さんの金メダルを取ったときの放送を担当させてもらいました。
ふっと56年前のベルリンオリンピックの河西三省アナウンサーと同じことをしているんだなと思いました。

松本:1984年ロサンゼルスオリンピック体操競技 具志堅9,875 以上なら金メダルといったが正確かどうかわからなくて足がガタガタしたが、9.90でした。
涙が出て放送が続けられなかった。
世界最高の技、スピード、美しさ、戦術、トップ選手の精神力の強さなど垣間見みて、それを表現できる喜びはスポーツアナウンサー冥利に尽きます。




2020年3月28日土曜日

木野花(女優・演出家)          ・「自分を変えたい 芝居の世界で半世紀」

木野花(女優・演出家)        ・「自分を変えたい 芝居の世界で半世紀」
木野花さんは青森県出身、幼少期は青森市や陸奥の横浜町で過ごされました。
弘前大学教育学美術学科を卒業して中学校の美術の教諭になりますが、一年で退職、上京して演劇の世界に入りました。
1974年に女性だけの劇団「青い鳥」を結成、翌年旗揚げ公演をして80年代の小劇場ブームの中で活躍されました。
1986年には劇団を退団されて、以降は女優、演出家として舞台、映画、TVドラマ、コマーシャルなど幅広い分野で活躍されているほか、若い俳優さんたちの育成などにも取り組んでいます。

毎日1時間ぐらいストレットとか筋トレをやっています。
舞台は体力が必要で訓練しています。
NHKの連続TV小説「あまちゃん」の長内かつ枝役(メガネ会計ばばあ)」に出てからのまわりの反応はちょっと半端ではなかったです。
映画「愛しのアイリーン」(2018年9月)キネマ旬報ベスト・テン 助演女優賞受賞。
ハードな映画で、夏は熱中症、冬はインフルエンザにかかりながらふらふらで撮っていました。
息子を溺愛する保守的な母親役でした。
子どもの頃転校が多くて、虐められましたが気が強くて倍返ししていました。
東京に出てきて凄く不器用な人間だという事が判りました。
物心ついてからひねくれて、中学、高校の頃生きているのがむなしいような時期がありました。
引っ込みがちになって行きました。
家で本を読んだりしていて、絵をかくことは一人で好きな時に絵をかくことができ楽で、美術をやり始めました。

大学時代は家から離れたとたんに解放されて気が楽になりました。
教職に就いたのは全く異次元の世界でした。
職員室が一つの社会で、男尊女卑でお茶を出すことも器用に出来ず、失言が多かったです。
このままやって行けるのか考えてしまい、ストレスが重なっていきました。
2か月を過ぎていろいろと体調が悪くなっていって、病院に行ったらストレスだと言われました。
環境を変えるのが一番だと言われて、辞めようと思ったら何かスーッとしました。
自分を変えようと思いました。
たまたま演劇の特集をしていた雑誌があって、アングラの世界でもまれたら相当に強くなるのではないかと思って、自分を鍛えようと思い養成所に履歴書を出していました。
津軽弁なので東京に来ても1か月は何も言えなかったです。
目標は早く自分を変えて青森に帰る事でした。
朝から晩まで働いて、演劇のレッスンもして3年で帰ろうと思っていました。
ふっと周りを見るとみんな演劇を楽しんでいるんです。
やっているうちに健康になって行って、みんなとも話を積極的にやって、人にまみれていきました。

1974年劇団「青い鳥」を5人の女性だけで立ち上げました。
自分を難しい方へと苦労させようとしていました。
役者だけなので台本を書くとか演出とか、すべて自分たちでやる事になりテーマ、ストーリー、役など話し合っていきました。
台本、演出もなんとなくやるようになりました。(1980年代)
55歳まではまだいつかやめてなんかの職に就こうかと思って役者をやっていました。
55歳過ぎてそんな都合のいい仕事はないと言われて、芝居しかないんだよと言われて、変わってきているのに、自分には満足していませんでした。
どこへ向かうのかなと考えたときに、自分を変えるのに期限はないなと思ったんです。
これが私の仕事だと思って自分に言い聞かせて、役者の仕事に向き合う様になったのは55歳からです。
青森の人は割としつこくてとことん行こうと言う事と頑固さはあると思います。
今、目標は置かないことにしています。
今という時間、一瞬一瞬だと思って、目一杯その時間を悔いのない様に生きていったら、どこにたどり着けるのか、どういう人間に自分はなって終わるのかなあという感じで、一日一日を大事にして一年一年を積み重ねていくという感じで、楽しみに生きていこうと思っています。









2020年3月27日金曜日

田島征三(画家・絵本作家)        ・【人生のみちしるべ】「押し寄せる情熱で描く」後編

田島征三(画家・絵本作家)  ・【人生のみちしるべ】「押し寄せる情熱で描く」後編
『しばてん』と『ちからたろう』、『ふきまんぶく』はそれぞれ違う書き方になっています。
『ふきまんぶく』を書いた直後に、「すてきなおかあさん」というフューファミリー向けの雑誌ができて、毎号絵を挟み込みたいという事で編集長が訪ねてきました。
毎月は無理だとお断りしたんですが、隔月でもいいからという事でしたが、それもお断りしましたが、飼っているヤギのことをかくならば隔月でも大丈夫だと思って引き受けました。
『ふきまんぶく』は単行本にもなった凄く売れました。
現金収入が凄く増えてしまいました。(35歳)
これではいいのかという思いがあり、絶版にしてしまえば印税も入ってこないので、不退転な決意で、全く新しい世界を書こうと思いました。
5年掛かりました。
食べ物さえあれば怖くはないと思いました。(野菜、ヤギのミルク、ちゃぼの卵など)
1980年『ほらいしころがおっこちたよね、わすれようよ』ができました。(40歳)
今までとは絵が全然違います。
絵本の一つの規則を踏みにじっているんですが、面白いんです。
考えてみたらこれが売れるわけがないでしょう。
これさえ出したら売れると最初思って出したら案の定売れませんでした。
今までの本は自分の個性の範囲を広げていましたが、これは範囲が広がったが平面上ではないんです、全然違います。
とらわれることなく何をやってもいいという感じなんです。
『はたけうた』という本ですが、畑の四季が歌になって出ていますが、この絵は普通でしょう。
普通でもいいんです、何でもいいんです。
『ガオ』これは木の実で作っているんですね、木の実でも絵本が描けるんです。

高校の時に高知市の公民館で夏期講座をやっていて東京から偉い人たちがきてしゃべっていましたが、岡本太郎さんが来ました。
「芸術家というものは努力を重ねて階段を一つずつ昇って行って成り立つもんじゃないんだよ、毎日真っ白にならなければ駄目なんだよ、昨日の経験を生かして次今日なんか作ってはいけないんだよ、そんなもの毎日捨てなきゃいけないんだよ」と言われました。
縄文の土偶がどんなに素晴らしいものかという事、アトリエに籠っていては駄目だという事も言われ、今それで生きているという様なところがあります。
心酔していたわけではないんですが、いつの間にか聞いてしまったんですね。
僕の尊敬する人達がもう死に絶えてしまったのが残念です。
『つかまえた』 少年と魚の絵本は又新しい展開、これから40年を戦い抜く絵本になるかもしれない。
魚を摑まえたときの話でこれは命懸けで取り組まないと難しいんです。
少年が手づかみにしたときの魚と少年との間に流れた感触を,見る人に伝えないといけない。
魚に対する気持ちを絵で表現するのは結構難しいんじゃないかなあと思います、具体的に感じないといけないので。
最期は逃げられるというシーンがあって、茫然としたそのあとで少年があの魚素晴らしかったなあという愛情というか慈しみの心が少年の心に芽生えてきている。
今度は魚の気持ちになって少年の気持ちを描いてみようと思っています。

『とべバッタ』も少年期の思い出が重なってできているが、『とべバッタ』ももうないという事にして、そのためには僕自身が登場して、魚自信が登場するという、今までの僕の肉の中に潜んでいたものを白日の下にさらしてしまうという暴挙に出るわけです。
3年前から始まっています。
体力もないし、才能もないし、何にもないが情熱という事で生き抜いてきましたね。
新しいものを作りたいという気持ちですね。
自分が驚く作品は作り続けたいです。










2020年3月25日水曜日

涌井史郎(造園家・東京都市大学特別教授) ・「心に花を咲かせて ~庭から見える日本人の生き方」

涌井史郎(造園家・東京都市大学特別教授) ・「心に花を咲かせて ~庭から見える日本人の生き方」
涌井さんは大学で教えるだけでなく、国際博覧会の総合プロデューサーを務めたり地域計画にかかわったりと日本の内外で活躍されています。
庭には日本人の生き方が表れているという事です。
自然との付き合い方が日本人は巧みで知恵があるというのですが、どういうことなのでしょうか。
庭を見て未来に向けて学ぶことはあるのでしょうか。

自然との付き合い方が日本人は巧みであるという事ですが、日本列島の特殊性にあります。
一つは花ずがれ列島といわれるぐらいに、桜も沖縄の2月からの満開から8月の終りにかけて樺太桜が咲くように、ずーっと花で繋がれている南北に細長い列島です。
火山列島なので非常に火山性の自然災害が多い。
急流河川が多くて、水害も多い。
じつは日本列島は災害によって作り出された美しさであるという風に見ても言い過ぎではない。
災害といかに付き合うか、自然をどうリスペクトして災害の力を最大化させないために土地利用の仕方をどうするのか、一生懸命考えてきた歴史があるわけです。
災害は予測がつかないから、しのぐという方法と、いなすという方法が非常に重要です。
例えば洪水があるとすると、日本人は堤防をやたら高くして洪水から身を守ろうとは考えなかった。
武田信玄の「かすみ提」、日本の水の勢いは怖いが、勢いを失った水の流れは逆に利用したらいいのではないかという考え方です。
水の勢いをそぐためにいろいろな方法をとるわけです。
そして水を溢れさせてあふれさせたところには竹藪などがあり、内陸に入らないようにして、その水を農地の方に誘導して、サトイモなどをつくったりするわけです。

建築物も同じで、木造軸組み構造は地震に対してどれだけ頑張るか、そういう建て方ではなくて、揺れればかしがっても外れない仕組みを作るわけです、揺れても壊れない。
五重塔などはまさにそうで心柱が上からつるしてあって、下にはついていなくて、揺れを吸収しながら周りはいろんな組み合わせをして、全体の地震は心柱が吸収して、周りのところは継ぎ手と仕口で様々な複雑な構造で、揺れを吸収するという事で倒壊しないという方法をとってきた。
免振、制振は昔から日本人が培ってきた知恵です。
正倉院の柱は平らな台石には乗っていなくて、わざわざでこぼこの石を基礎にして、それに合わせてノミなどででこぼこのある形にして、その石の上に柱を載せている。
揺れは或る程度吸収できる。
災害は不幸な出来事だがそれを受け止めようと、受けとめながら恵みを引っ張り出す。
恵みを最大化して、災害は最小化するという考え方です。

庭の見方、見せ方。
ベルサイユ宮殿は歩きなが全体像は判らない、空中写真を見ればわかる。
ベルサイユ宮殿の庭は一義的には神様に捧げている庭です。
アンドレ・ル・ノートルという人が造園しているが、目線が神の目線なんです。
イスラム庭園もそうですが、絶対神が一人だからです。
おのずと三角形になる、絶対神がいて、キリストという伝達者がいて、イスラム教であればマホメッドという伝達者がいて、その下に人間がいて、その下にありとあらゆる生物がいる、ピラミッド構造になっている。
日本人を含めアジアの国々では「八百万の神」(やおよろずのかみ)という様にどこにも神様がいるんだという風に考えているので、ピラミッド構造に対して、円環の構造を持っている。
人間とほかの生物は差別化されていない。
それが庭に現れています。
日本の多くの庭は座観(座って観る)なんです、見下ろすというよりは見上げる構造になっている。

日本人は月を愛でるが、太陽はありとあらゆる生命の根源ですが、生命に力を与えるのは月だという風に考えたんです。
人間の体液は全部月の引力に引っ張られている。
女性の生理もそうです。
木材の伐採も新月伐採が良くて、2月の新月の月の引力が働いていない時に伐採する。
木材の中にある水分が全部根っこの方に降りているからです。
今は乾燥システムが良くなっているので行われていないが。
時間のプロセスと共に自然が移り変わることを知ることが大事で日本独特です。
日本庭園には滝を作り、急流を作り、緩やかな流れを作り、池に導く。
どのように洪水が起きるのかというメカニズムをミニチュアにしている。
水を知るという事です。
枯山水でも同様で場所場所での石の組み方が全く違うわけです。
「見立て」、自然の景観を庭に持ってくる。
縮景庭園とも言われます、常に自然から学ぼうとしている姿勢だと思います。

日本の植裁は刈り込むという方法をとることがままありますが、徹底的に人工物にするという事はしません。
西洋庭園ではトピアリーという形でいろいろな形に、造形物のようにする。
同じ日本庭園でも江戸時代に見た景色と今観た景色は違ってくる、木が成長するからです。(時間のデザインでもある)
「桃太郎」の冒頭のおじいさんは山へ「しば」刈りに、おばあさんは川へ洗濯に・・・。
「しば」は芝ではなくて、薪であるとか小枝のようなものを「しば」といいます。
里山を大事にする行為です。
野辺という地があるが、採草放牧地という草原で馬や牛を育てると同時に草を刈って馬糞などと共に農地の肥料に替えて行く。
森林性低帯と草地生態系がいっしょに里の周りをくるんでいて、自立循環的に上手に自己完結する、そういうものを持っていた。
おばあさんが川へ洗濯に行く、というのは日本は湿気が多いので清潔にして病気などにならないようにという事で、娘も手伝いなさいと子どもたちに教えて行くわけです。
その延長線上に庭があり、常に自然を観察して、自然の恵みに感謝して、手入れを怠らずにして、自然の厳しさも庭を通じて学ぶ、それが日本の庭です。
庭は命との共鳴です。

鎌倉に育ったので四季折々の変化を体感しました。
昭和20年生まれで、古い日本を代表するような家でした。
時代が変わる時期で翻弄されました。
父は戦犯にはならなかったが、かなりな地位に居たので追放され、私は養子になりました。
屋敷も進駐軍に接収されて将校クラブにされるとか色んな激動がありました。
子ども心に傷ついたものを自然が癒してくれました。
自然を奥深く観るという事の習慣は身に付いたかもしれません。
自然の本質を損なわないで自然を、ちょっと止まっていてねという事で、あなたの本質は侵さないからここの土地だけは利用させてよ、という使い方を日本人はしてきたと思います。
里山を守るという事が日本人には凄く大事だった。
地球は庭なんです。
半径6400kmという膨大な地球ですが、多様な生き物がにぎわっているのはたった3kmです、生存ができるかどうかというところで30kmぐらいの厚みしかないです。

日本は度重なる災害と戦ってきたわけですが、同時に日本列島ほど豊かな命のさんざめいている列島はないという事実もあります。
箱庭のような列島です。
それぞれのライフスタイルを編み出してきた。
今、絶滅危惧種の筆頭にあるのは人間だと思っています。
地球人口はどんどん増え続けているが、好き勝手に資源を浪費して、生命圏の庭をゆがめさせたら、我々自身が地球の上で存在できなくなるという事です。
2050年 自然と共生した世界をこしらえようという目標がありますが、重要なテーマは自然とどう共生するのか、共生のメカニズムとしての自然の資源の再生循環をどう担保するのかという事です。
昔から日本人が大事にしてきたことです。
作りまわし、使いまわしは日本では当たり前にやってきたことです。
豊かさを追い求めるライフスタイルではなくて、常に豊かさをどうやって深めてゆくのか、こういうライフスタイルを選択してきた訳です。
我々が再生循環してお互いが上手にシェアしてゆくのか、それしか道が無いんです。































2020年3月24日火曜日

村松修(プラネタリウム解説コンサルタント)・「きのうの自分よりも一歩先に」

村松修(プラネタリウム解説コンサルタント)・「きのうの自分よりも一歩先に」
村松修さんは1949年生まれ71歳、短期大学卒後、一度はプラネタリウムとは縁のない会社に入社しました。
やがてプラネタリウムの技術者に転じ、解説員も務めることになりました。
村松さんは古希を経た今も、元気に解説員をなさっています。

プラネタリウム解説コンサルタントは基本的にはプラネタリウムでやる番組、投影の解説などをサポートするのが役目で、自分でもしゃべらせてもらっています。
解説が週3日、投影は2回ぐらいです。
「星空散歩」という番組があり解説員が好きにテーマを選んで喋れる番組がります。
その季節その季節の珍しい天体、天文現象などのCGを自分で作ってしゃべっています。
お客さんとは「一期一会」の出会いと思って解説を心がけています。
ボイストレーニングとか一切教わっていません。
小学生の時に学習投影というのがあって、プラネタリウムとの出合いは一回経験があります。
天文少年ではありませんでいた。
NHKのTV番組でほうき星を発見した関勉さんが出演されて、素人が発見するんだという事に衝撃を受けて、本屋で天文の雑誌を見たりして、それがきっかけで星を見上げるようになりました。(高校時代)
会社に勤める時に航空関係の会社を選びました。
五島プラネタリウムに行く機会もあり段々はまっていきました。
五島プラネタリウムから技術係の募集があり、採用されました。

プラネタリウムは精巧な機械などで普段メンテナンスをしないと、いろんなトラブルが起きてしまうので普段から保守点検が必要で、部品の寿命が近づいてきたら交換、ランプが切れる前に交換、そういった事をメインにやっています。
今まで経験してきた航空機の保守と似ていました。
投影中一番困るのが星が消えてしまうので解説員は全然しゃべれなくなるので、緊急でランプ交換することがあります。
夏休みは忙しくて解説員のローテーションが難しくなったり、病気になったりもするので、技術係にもやってもらってはという話が起きました。
解説員の話は自然と耳に入ってくるし、星座の説明の手順なども判ってきました。
気が付いてみるとシフトに組み込まれていました。
天文学の知識が必要になり、勉強もしました。
東京天文台のご指導いただく機会が多かったので、判らないことがあるといろいろ教えてもらいました。
夜になると空を見上げるようになります。
仲間たちと一緒に八ヶ岳の方に出かけて行って一晩中星を見つめて、話のネタを自分なりにメモって帰ってくるわけです。

先輩説明員にはかなわないので、実況中継風にやればいいんじゃないかと思いました。
シュミレーションして今晩何を見たらいいのかという様なスタイルにしようと思いました。
やっぱり本物を見ていただかなければいけないと思うので、どうやって本物の魅力を伝えるのかそこに苦心するわけです。
高校生の頃気になったのが、地球にもクレータがありアリゾナの隕石孔という有名なクレーターがあります。
小惑星のいくつかが地球にぶつかることがあるわけです。
我々が知らない小惑星がもしかして地球にぶつかってくるかもしれないので、監視して危険性のある小惑星を発見しなければいけないという記事が頭に残っていました。
小淵沢に自前の観測所を仲間と建てて、星を見たり写真を撮っていたりしていましたが、もう少し意味のあることをしないかという事になり、未発見の小惑星を見つけたらいいのではないかという事になりました。
仲間が本当に小惑星を見つけることになりました。
そしていくつか自分たちでも見つけることになりました。
小惑星だと思っていたらほうき星だという事がありました。
天文台に報告にいったら、新発見という事で名前が付いたりしました。
共同の発見だったので「串田・村松彗星」という事になって行きました。

自宅で出来る観測はやろうと思って、一等星は見えるので、オリオン座のベテルギウスという一等星があり変光星で普段より暗いという事で、それならばできると思いました。
現在それをやっていてわくわくしています。
昔ながらの星座、ロマンチックなギリシャ神話などもありますが、生の新しい情報は接するようにして、知識の補給は続けないといけないと思っています。
「昨日の自分よりは一歩先を進む今日でありたい。」という言葉が好きです。
出来るだけ時間を割いて自分に鞭打つように口で唱えています。
ちょっとでも新しいことが増えたらいいなあと思っています。
プラネタリウムは自治体も学校学校教育に使うために建ててきたという事もありますが、あの空間をどれだけ生かされるかという事が大事だと思います。
今は技術の進歩でいろんなことができて新しい技術を取り入れた空間になってきているわけです。

一般の方にも星に興味がない方たちがそこに来て楽しんでいただける様な工夫も必要だと思っています。
人と人とのつながりを芽生えさせたり、星と芸術を結び付けたり、音楽で楽しんでもらったり、和歌俳句を詠みながらプラネタリウムで演出をするという様な文学との結びつきとか、そういう様な人たちが出てきています。
星と結びつくものならば何でもいいと思っています。
結婚式、ポロポーズの場、ファッションショー、朗読主体のものなど。
次の世代の最新型のプラネタリウムを使って解説ができるように努力は続けたいと思っています。
人に恵まれた人生だったと思います、その人たちへの感謝しかないです。
感謝があるからこそ若い人に私が持っているものを伝えたいと思います。