2019年1月18日金曜日

後藤暢子(音楽史研究者)         ・【わが心の人】山田耕筰

後藤暢子(音楽史研究者)         ・【わが心の人】山田耕筰
山田耕筰は明治19年生まれ、早くから音楽の才能を発揮し、日本の音楽の父ともいわれ多くの作品を残しました。
又N響の前身であるん日本初の交響楽団を作った事でも知られています。
昭和40年12月亡くなられました。(79歳)

1975年から10年とちょっと遠山音楽財団付属図書館という処に務めましたが、隅っこにダンボールの箱が20箱積まれていて、何かと思ってみたいなあと思って、開けてみたら手書きの楽譜がかなりの量ありました。
山田耕筰が書いた直筆の原稿を探りたいと、朝、図書館が始まる前にみていました。
楽譜の書き方が判ってきました。
必ず鉛筆で書くことと、五線紙を凄く贅沢に使うと言う事で興味を持ちました。
文房堂 で購入さている事が判り紙の分類をしました。
倉田印刷がとなりにあり、楽譜を刷っていた機械を見せてもらいました。
五線紙の紙を切断する部分、五線紙のインクのの違いなど、五線紙に凄く執着しました。
いつ書いたか年代が入っているものと入っていないものとがあり、入っていないものには、五線紙の研究から2,3年のばらつき以内で判明しました。
その後作品研究の段階に来ました。
作品のおよその製作年代の見当が付いてきましたので、こういう歌を書いていた時期がある、こういうふうな様式スタイルの歌を書くようになった、というふうにクリエーティブな側面が、どういうふうに展開していったのかが判って来ました。

一番大事なのは山田耕筰は何処から書き始めて最期まで書きあげたかという、手順ですね。
鉛筆は最初とがっているが段々丸くなって行って、どういうふうに書いていったのがが判るわけです。
山田耕筰は旋律だけ先に書いて、その後にピアノ伴奏を付けて行くと言う手法でした。
山田耕筰は詩歌がとっても好きな人でした。
詩人本人と作曲家本人がお付き合いしている。
湧いてきたメロディーを詩集の余白に自分で五線引いて書くわけです。
メロディーが出来た時がその作品の作曲日と考えていたようです。
消しゴムで消して書きなおすという事は無かったようです。
山田耕筰はドイツに4年ぐらい留学して、好きなところがはっきりしていて、そのうちの一つが東ドイツのバルチック海でした。(人口500人の海辺)
ベルリンの下宿先の一家の方と一緒に行っていたようです。

リヒャルト・シュトラウスのサロメを見て物凄く感動して、自分も日本語でこういうのを書くんだと言って、日本のオペラを作ってみせるぞ、と言う思いは死ぬまで持っていたと思います。
完成できないで亡くなった作品があって、それを山田耕筰の17回忌に團伊玖磨が自分でオーケストレーションして初演しました。
團伊玖磨さんと知り合いになって山田耕筰の話を色々聞くことができました。
山田耕筰は教えることが嫌いなんです、だから弟子達にはあんまり教えないんです。
自分で勉強しなさいと言う感じでした。
1926年に日本交響楽団のオーケストラを作りましが、弟子たちはみんなオーケストラのメンバーでもあったので色々面白い話があります。

私は山田耕筰には会えなかったが、自分のイメージを膨らませたという良さもありました。
一言で言うといい人だったと思います、女性関係が激しかったとか、お金に多少ルーズだった、戦争責任の問題、口論すると直ぐに手が出てしまう、でもそれで山田耕筰は乱暴な人とは言えないし、基本的に研究者の立場から言えば、時代を観る目が非常にシャープだったと思います。
どんな音楽が求められているのか、同時に自分はどういう音楽がかきたいのか、その二つが常に彼の心の中にあって、戦争協力で軍歌を50何曲書いているんですね。
戦時中はそういうものが必要だったから、兵隊さんたちを励ましたいから軍歌を書くんですね。
時代の進展とともに自分を開いてゆくという事が非常に見事だと思います。
北原白秋とも一緒に作品を作りましたが、作品が気に入らないと北原白秋は相当な事を言ったようです。
あの二人は二人三客だったと思います、一緒に仕事をするのが楽しくってしょうがないという関係だと思います。










2019年1月17日木曜日

森田みさ(司法書士)            ・震災孤児 見守り続けた7年

 森田みさ(司法書士)             ・震災孤児 見守り続けた7年
東日本大震災から今年3月で8年になります。
死者行方不明者は1万8000人に及び、その中には育ち盛りの子供が親を亡くしたケースも少なくありません。
宮城県内で震災後に司法書士が、震災孤児の後見人になって支援する活動を続けています。
震災の翌年から中心となって取り組み始め、今も2人の孤児の後見人を務める森田さんに伺いました。

宮城県では東日本大震災で当時18歳未満の孤児が126人と全国でも最も多かった。
未成年後見、親権者がいなくなってしまった子供の親権者の替わりをする。
裁判所で選任されるが、多くは身近な親族がなるケースが多いです。
財産の金額によって一定数以上の財産がある子に関しては、後見の監督人を付けるとか、司法書士、弁護士など専門職が財産管理の為に一緒に後見人をやるという制度があります。
震災孤児には義援金、亡くなった方の弔慰金、亡くなった方の保険金、色んな種類のお金が入ることになって、親族の方だけで適正な管理ができるかどうか裁判所が慮って、私達のような専門職が後見人になったというケースが沢山あります。
大きいお金があればそのまま預金をお預かりしたり、毎月の生活費で不足があれば里親、親族に渡すとか、大きなお金(教育費など)が掛かる時には相談を受けてこちらからお金をお送りすることがあります。
20歳までですが、成人になる時に後見人から本人に全部財産を引き渡して、自分で管理してもらうことになりますが、それまではむやみに減ったりしないように管理をしなければいけませんし、適切な支出なのかなどを考えなければいけません。
進路を選ぶ時にどういう進路を選ぶのか、子供とか親族と一緒に考えながら意見を述べなければいけないので、責任があるところだと思います。

今も男の子、女の子の2人を支えています。
出会った当初、1人の男の子は赤ちゃん返りみたいになっていて、大分大きいのに指しゃぶりをしていたりして暫く戻らなかったり、勉強にも身が入らない。
女の子は不登校ぎみで学校生活がうまくいかないということがありました。
良くなったり悪くなったりする時期がその子によって違います。
津波の震災を経験してしまって、湯船には入れなくなったという子がいます。
海が怖いという子はよく聞きます。
被災して年齢によって、多感なころに被災すると印象が強烈に残っているかもしれないし、小さかった子はあまりおぼえていないという事はあると思います。
成年後見というのもあります。
高齢者、障害者、判断能力がなくなった方の為の後見制度があります。
多くの司法書士が後見人として沢山活動していますが、未成年はもともと数が少なかったので推薦依頼は来ませんでした。
段々裁判所から依頼が来るようになって、10件/月来るようになりました。

宮城県の場合は引き取った親族の内訳は、祖父母、叔父叔母がほとんどで半分半分ですが、後見は親族の理解を得ると言う事が非常に難しいです。
未成年後見人という人が戸籍に乗ってしまいます。
子供の戸籍に関係ない人の名前が出てきたりするのに抵抗を覚える親族がいます。
子供の独自の財産という観念があまり一般の家にはなじまないので、管理しているものがおうちの金というふうになってしまうと間違った使い方というふうになってしまうので、なかなか裁判所からすると適正な運用にはならないという事が多々あったのかもしれません。
震災孤児の食費などもなかなか分けられないので、なかなか難しい。

震災孤児を引き取って育てている親族の方々の状況も様々です。
仕事がなくなっていたり、家をながされたりして家計が苦しいという家庭があったり、自分の子がいるなかで震災孤児を引き取っているという方もいます。
養子にしたというところもありましたが、そういう家ばかりでは無くて親族と震災孤児がうまくいかないという所も何件かありました。
祖父母が育てる場合は、8年歳をとると言う事は高齢になってしまうケースもあり、亡くなってしまったり認知症になってしまうと言う事もあります。
子供が祖父母の介護をしなければいけないというケースも出てきたりします。

平成28年宮城県内で東日本大震災で両親を亡くした小学生の甥の未成年後見人として家庭裁判所から選任された親族が甥の預金を着服して逮捕された事件がありました。
裁判所は不正なお金の使用をしないように監督はしているが、それでも裁判所までもだまそうというところまではなかなか防ぐのは難しいと思う。
その事件の為、後見人はあまりいい目でみられなくなってしまったのは残念です。
虐待を受けたりして、その子のその後の人生も凄く心配になりました。

8年の間に半分ぐらい成人しましたが、その後の生活についてはあまり分からないが、今も未成年の子について言うと、選択しながら生きていかないといけない。
相談する相手がいる子もいればいない子もいて、孤独な状態で成長している子もいて支えが必要だと思います。
後見人は親代わりにはなれないと思います。
距離感をもった関係性は必要だと思います。
自立する時に、財産、預貯金を引き継ぐ場合、お金がどうしてそれぐらいあるのか、まず説明する必要があります。
これからの人生でお金が必要で大切なことだと説明します。
一人で管理することが不安な場合は親族との相談等も行います。
困った時に誰かにSOSを出せるのが、まず自立の条件だと思っています。
東北人特有な特性があり、なかなか他人に自分の困っていることを話すのが恥ずかしいというような事があると思います。
抱え込んでしまって誰にも相談できなくなって、暗闇に入ってしまうというケースが多くて、どうやってSOSを発信してもらえるのか、課題だと思っています。

最近では震災という事が困っていることの事実としては埋もれているが、その影響は大きくてまだまだ残っているものがあると思います。
目に見えていない部分がたくさんあると思います。
何処でまた災害が起きて、同じ様なケースが出てくるのか判らないので、私たち司法書士がこういう未成年後見をやって来たという事を発信したりだとか、やってみたがこういう問題点があると言う事を、発信していかないと制度改善につながらないと思います。
これを全国に広めて行きたいと思います。





























2019年1月16日水曜日

先崎学(将棋棋士)            ・うつ病九段、プロ復活までの一年間

先崎学(将棋棋士)            ・うつ病九段、プロ復活までの一年間
1970年青森県生まれ、小学校5年で米長邦雄永世棋聖門下で奨励会に入会、1987年4段になりプロデビュー、1991年大40回NHK杯戦で同い年の羽生善治現九段を準決勝で破り棋聖戦初優勝、2014年に九段となります。
2017年7月にうつ病を発症し、慶応大学病院に入院、精神科の医師である兄のサポートを受けつつ、闘病をうけ2018年6月順位戦で復帰を果たします。
7月に自らの闘病から復活までの経緯をまとめた「うつ病九段」を出版し大きな反響をみました。

本も27冊になります。
「うつ病九段」の後に将棋の本上下巻を出しました。
昔話みたいなものを纏める機会が無かったので、中村太地 氏と『先崎学&中村太地この名局を見よ! 20世紀編』を書きました。
往年の名棋士などを語りました。
羽生さんとか私は大山先生に可愛がられました。
将棋は白星と黒星しかないので、厳しい世界です。
AIが出てきたおかげで純粋な知恵比べみたいな印象を持たれることが多いが、実際は密室で一対一で朝から晩までぶつかり合う格闘技的な空気もあります。
将棋差しは「気合」という言葉を重んじます。(気合いで負けない事)
将棋も芸術的な側面もあって、音楽の世界に似ている感じはあります。

小学校1年生の時に将棋に興味を持ちました。
スキーをやっていたが春になるとやる事が無いので、将棋をやるようになりました。
父親は将棋をやっていましたが、全然強くは無かったです。
兄は精神科の医師ですが、今回の私の病気にはちょうど良く助かりました。
6月22日の誕生日の翌日に変調があり、その後2カ月ぐらいたって入院しました。
30数日入院していました。
8月末に退院して12月、1月になってきたら、まともになって来ました。
そうすると暇になるので(悪い時には暇という事を感じない)、兄から貴重なものだから今回の体験などを纏めてみないかといわれて書き出しました。
軽く鬱っぽい時などと、本物の鬱とはまるっきり違うということは間違いないと思います。
入院中から退院してから1カ月半ぐらいは全く頭が回らない状態で、色んな事を後で聞くと妻と兄で来院して決めていたようです。
妻は囲碁のプロです。

私のうつ病は将棋のプレッシャーでなった訳ではなくて、将棋連盟の全体的な不祥事と私の個人的に関係する映画という華やかな世界、両方をいっぺんに騒いで、午前中は物凄く明るい話をして、午後は凄く暗い密談みたいなものをしなくてはいけなくなって、感情が揺れ動いてそれが良く判らなくなってしまいました。
毎日の様に色んな事が降ってきて、自分の仕事と感情をコントロールできなくなって振り回されてしまいました。
スケジュールをコントロールできなくなると危ないらしいです。
兄からは絶対治ると言われていました。
一般的には絶対とか、100%とかは医者はなかなか言えないが、兄は主治医では無いのでそういう事を平気で言える訳で、こちらとしては有難かったです。
自分自身で出来るだけ外に出て歩い足りして、自分で治すんだという気持ちを持った方がいい病気だと言われました。

或る時からすこしずつ華やかな世界を見ても疲れなくなりました。
鬱が一番ひどい状態の時は何も考えられない、何もできない、活字は一つも読めない、写真なども華やかな色を観ると疲れる世界でした。
少しずつ華やかな世界にも感情が対応できるという事になってきました。
少しずついろんな情報が自分の頭の中に入って来るようになりました。
退院して半月で落語を聞きに行きましたが、全く頭の中で理解できませんでした。
記憶力は鬱でも少し残っていたんで後に書くことが出来たんだと思います。
段々良くなって仲間にずいぶん将棋を指してもらって、意欲が出来た事自体症状が良くなってきたのかと思います。
でも負けると辛いです。
何故か声が大きい人は疲れます。
元気づけようと明るい話をする人も疲れますね。

7,8,9月は悩むことは無くて、灰色の雲の中を延々と毎日いるような感じで、憂鬱とは違うんです。
あらゆることに無反応なんです。
決断力が極度に鈍るらしいです。
あの時少し良くなったなという事は、後になって判る訳です。(1カ月ぐらいの単位)
退屈だという感覚をもてば、症状が良くなってる絶対的な証拠だと、兄からは言われました。(エネルギーが戻ってくる)
症状が悪い時には、暇だという感覚がない、全くもてない。

中学生の時にはいじめに遭いました。
他人とコミュニケーションを持つのが苦手で、クラスになじめなくていじめに遭い、不登校になり将棋をやっていました。
17歳から棋士になって暇になり、その頃本を一杯読みだした記憶があります。
文章を最初に書くようになったのは19歳のころでした。
週刊誌に連載されるようになった最初の3年間はきつかったが、文章を書くと言う事は辛いとは思わないです。
後輩たちを纏めて行く立場になってきたのかと思います。
将棋は集中持続力、根気が必要で若い人に対しては、その辺ではきついところがあります。
自分が病気になってわかったことは、世の中には病気の人がいぱいいるんだな、ということです。




















2019年1月15日火曜日

大江英樹(経済コラムニスト)         ・"定年起業"は自由への扉

大江英樹(経済コラムニスト)              ・"定年起業"は自由への扉     
66歳、新聞や雑誌への原稿の連載やTV出演、年間100回を越える講演で活躍する経済コラムニストです。
大手証券会社で個人営業の仕事をしていた大江さんはその後、社内で確定拠出年金に関する教育に携わりました。
60歳の定年後、会社の再雇用制度に応募したものの、僅か半年で会社を辞め自分の会社を設立、定年前に担当した確定拠出年金に関する教育やサラリーマンの定年後の生活支援を事業の柱にしました。
ところが仕事は簡単には来ない状態が続きました。
大江さんはこうした状態をどうやって乗り越え、経済コラムニストとしての道を切り開いて行ったのか伺いました。

現在新聞、雑誌の連載が10本抱えている。
3日に一回締め切りが来ます。
セミナーの回数も140回やっていますので、ほぼ2,3日に一回の割合でセミナーをやっていて、その合間に原稿を書くという、こんな日々です。
何を書くかという情報収集が大変です。
ネットで情報を得ると言う事も最近はありますが、中にはいい加減な情報もありますので、複数のニュースソースを調べたうえで原稿を書きます。
大手証券会社を志望した訳は等に無かったです。
就職しようとしていた1973年、日本列島改造論が叫ばれて景気もよかったが、株価も高かったですので、証券会社の採用も多かった。
支店に配属されて、個人を対象にした営業の仕事でした。
自分でお客さんを開拓していきました。
クレームが色々ありますが、一番大事なことは逃げずにお客さんに会うことです。
25年ぐらいは個人の営業をやっていました。(約3万人のお客さん)
お客さんから色々といい勉強をさせて貰いました。
本社に異動になって確定拠出年金の仕事を始めました。(2001年)
加入しているのは700万人位です。
個人型確定拠出年金に加入しているのが100万人位です。
管理運営を企業がやる訳ではなくて、個人一人ひとりが行うと言うことです。

資産運用をやったことのある人は非常に少ない訳です。
従業員に対して投資教育をしなさいと言う法律があるので、事業主は必ずやらなければいけない。
その投資教育の仕事をやっていました。
1500社の企業を担当していました。
投資教育をすることによって知識を広めて行って、新たな投資家を育成するとか、拡大する事になるわけで、当初頑張ってやろうと言うことになりました。
収益を生み出す事業ではないので本流というふうにはみられていなかったです。
50歳ぐらいからこの仕事をやっていました。
54,5歳ぐらいまでは定年が待ち遠しかった、定年になったら絶対仕事はやるまいと思っていました。
今忙しくてできなかったことを一挙にやろうと思っていました。(旅行、音楽、読書等)
毎日が日曜日になるとどうなるのかを考えると、微妙に変化していきました。
高齢者雇用安定法が改正されて、60歳以降の雇用については、自分が希望すれば最長65歳までは雇用を義務付けると言うことに変わりました。

会社の再雇用制度で65歳までは働き続けようと思いました。
管理職ではなくなり、責任権限も全く違うものになりました。
自分が想像していたものとはかなり違うものでした。
どうやって働いたらいいのか判らなくなりました。
起業するという事も真剣に考えた方がいいのかなと思いました。
定年記念旅行という事でクロアチアに旅行しました。
「どんなに黄金を積まれても、決して自由を売り渡してはならない」という言葉がありまして、雷を打たれたような気持になりました。
会社を辞めたら自由じゃないかと、定年を迎えるまで会社に雇われている必要は無いと思いました。
再雇用に応じたものの半年で辞めました。
起業するための準備活動を再雇用になってから始めました。

確定拠出年金に関する仕事をやっていたので、これを仕事にできないものかと考えました。
中立的な立場で情報提供したり、投資教育をするという事の方が事業主さんには受けるのではないかと考えました。
年金がもらえるので大変な決断という訳ではなかった。
最初の一年ぐらいは仕事はほとんどなかったです。
肩書きが無くなった人に対しては世間は冷たいです。
仕事以外の趣味の集まりなどの会合に顔出しているうちに、講師をやって欲しいとの依頼が来るようになりましたが、最初講師料は貰いませんでした。
そうこうしているうちに声がかかってくるようになり、講師料を払ってくれるような処が出てきました。
自分がどんな事ができる人間なのか知ってもらう必要がありました。
そのためには自分の専門分野について本を書けばいいのではないかと思いました。
出版社と交渉して75万円を出して本を書いて、その本を渡して行きました。(名刺代わり)
収入を伴う仕事が出てきました。
2015年ぐらいからぼつぼつ忙しくなりました。
人とのつながり、口コミ、評判とかがが意外と大きいです。

経済コラムニストとしては、人との出会いという事が一番の楽しみです。
地方を重視していて去年140回やりましたが、84回が地方でやりました。
「定活」 「終活」の前にこの「定活」があると思います。
50歳ぐらいから取り組むことによって、60歳以降の定年が豊かになる。
定年までに如何に充実した活動をやって置くかによって、定年後の充実した生活が決まると言い換えてもいいかと思います。
①会社以外の人との付き合いを増やす事がとっても大事だと思います。
②「ねばならない、べき論」とかをあまり気にしないという事。
私の場合は〔自由」がキーワードでした。
夢があってビジネス書は20冊ぐらい書いているが、小説を書いてみたいと思っています。















2019年1月14日月曜日

阿部雅司(リレハンメルオリンピック金メダリストリスト)   ・【2020に託すもの】オリンピック金メダリストが選んだ新たな道

阿部雅司(リレハンメルオリンピック金メダリストリスト)   ・【2020に託すもの】オリンピック金メダリストが選んだ新たな道
リレハンメルオリンピック、ノルディックスキー複合団体の金メダリストで現在は北海道名寄市の特別参与、スポーツ振興アドバイザーをなさっている阿部さんに伺います。

次に北京に向けてという感じになっています。
1965年8月13日 生れ  北海道留萌郡小平町出身。
東海大学付属第四高等学校卒業後、東京美装興業に入社、その後スキーノルディック複合の選手。
1988年カルガリーオリンピック、1992年アルベールビルオリンピック、1994年リレハンメルオリンピック、に出場して、リレハンメルでは複合団体で金メダルを獲得。
世界選手権でも金メダル2個獲得。
引退後は19年間日本代表のコーチを務める。
現在は北海道名寄市の特別参与に就任し、冬季スポーツの振興を行っている。
ジュニア選手の育成、地方の指導者のかたがたのスキルアップの為の講習会、小学校、中学校の体育の授業での、運動改善プログラムなどでスポーツを好きになってもらいたいと活動したり、ノルディックウオークの普及などを行っています。
名寄市は物凄く寒くて、雪質日本一という事を掲げて、雪に関しては自慢になっています。
スキーが盛んな町です。
冬になると体力が落ちると言う事で、モデルの学校で指導をして、効果があることが判り、広めるような動きになってます。

冬に特化したスポーツセンターが無いので名寄市で展開しようと、11月にフィンランドにシステムを学んだりしに行きました。
その前にも一人で半年間いった時もありました。
フィンランドは日本人に似たような気質の処があります。
スキートンネル 1.2kmのトンネルになっていてマイナス4,5度になっていて、いつでもクロスカントリースキーができる施設です。
ドイツなどにも大きなスキートンネルがありますが、アジア圏には無いので名寄市にも欲しいと思っています。

小学校1年生の時からリフトに乗ってスキーをしていました。
小学校3年生の時にジャンプとかを指導する熱心な先生が来まして、ジャンプをやって見ないかと声をかけてくれました。
先生が役場に掛け合って30m級のジャンプ台が出来ました。
クロスカントリースキーも熱心に指導して、全国大会で上位に入る選手が何人も出ましたが、先生がいなくなってからはそういった選手もいなくなりました。
複合はその先生から勧められてやるようになりました。
先生との出会いが僕の中では大きかったです。
高校3年生の時にはスキーの成績が良くなくて、就職先も無かったが東京美装興業に入社する事が出来ました。
早坂 毅代司(はやさか きよし)さんが引退したばかりで、全日本複合チームのコーチに就任して、複合の強化が始まりました。
3,4年するとワールドカップでも上位に行けるようになりました。

1988年カルガリーオリンピック 個人31位、団体9位。
1992年アルベールビルオリンピック 4年間で大きく状況が変わり結果が出始める。個人30位
    団体のメンバーからは外れてしまう。(自分はキャプテンだったのでショックだった)
    ふてくされたい気持を封印していたら、周りも理解してくれて頑張ってくれて金メダル
    を取ってくれた。 辞めたいと一度は決心していた。
    妻が妊娠している事が判って、前向きな気持ちになり、続けることにしました。
1994年リレハンメルオリンピック 子供の写真を貼り付けて試合に臨みました。
    個人10位、又補欠かなとよぎったが阿部と呼ばれて安堵。
    荻原さん、河野さんは調子が良くて自分としてはプレッシャーがかかったが、開き直っ
    った気持ちになり、K点をそれまで越えていなかったが、越える事が出来ました。
    ノルウエーとは約5分の差を付ける事が出来ました。
    最初1分近く詰められたが、自分にはまだ3分或ると思って、いい滑りができて1分逆
    に引き離す事が出来て、荻原さんにタッチして団体金メダルを獲得することができまし
    た。

コーチとしては、ルールも変わって大変だったが、渡部選手がようやくクロスカントリーでも負けない選手になって、メダルを取った時には物凄く嬉しかったです。
コーチを辞めた時には会社への恩返しということも考えたが、名寄市から呼びかけがあり妻の後押しもあり行くことに決めました。
講演活動も多くなり子供達に話す機会が多くなりました。
スペシャルオリンピック 知的障害の方がスポーツを通して世の中の人と交わえるようにしたり、スポーツで笑顔を作ると言う事がコンセプトでやっていますが、スポーツって傷害がある人もない人も笑顔になれる活動だと思っています。





















2019年1月13日日曜日

ファイティング原田(日本プロボクシング協会前会長) ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】日本初の二階級制覇

ファイティング原田(日本プロボクシング協会前会長)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】日本初の二階級制覇(2009・4.24 OA)
72歳、本名 原田政彦 今から57年前の昭和37年若干19歳で世界フライ級タイトルマッチに初挑戦、原田ラッシュというモノクロのTV中継をかたずを飲んで見詰めた方多かったと思います。
そのフライ級の世界チャンピオンになりますが、防衛戦で敗れその後減量の苦しみもあって一つ重いクラスのバンタム級に転向、この階級でも世界チャンピオンとなって日本史上初めての二階級制覇を果たしました。
歴代もっとも偉大な日本人ボクサーと言われた原田さん、20年以上にわたって日本プロボクシング協会会長を務められ、文部科学大臣によるスポーツ功労章も受賞されたファイティング原田さんに伺いました。

今は世界チャンピオンは女性が3人、男性が6人で9人います。
白井さんが日本人で初めて世界チャンピオンになったのが、昭和27年。
白井さんが敗れて10年間は世界チャンピオンはいませんでした。
昭和37年(40数年前)10月10日 19歳6か月で世界チャンピオンに挑戦。
相手はタイのポーン・キングピッチ選手。
僕は世界ランキングに入っていなかった。
同級1位の矢尾板貞雄が突然引退し、10位にランクされたばかりの僕に挑戦のチャンスが回ってきた。
迎えに行って握手しようとしてもそっぽを向いて、馬鹿にしたような感じを僕は受けました。
試合になってゴングが鳴って、11回に打って打って連打連打で倒して、そうしたのはお前がいけないんだよ、ファイト、ファイトで俺にファイトを沸かしたのがいけないんだよ、と思いました。
それからは外国に行く時には相手を思いやり必ず笑顔で握手をする、そう考えました。

TV中継をしていて、11回の連打でアナウンサーが原田ラッシュ、原田ラッシュと連呼していました。
史上最年少世界フライ級選手という事で新聞の一面を飾りました。
3カ月後バンコクに行ってポーン・キングピッチ選手とリターンマッチをしてきわどい判定で初防衛を失敗する。
会場は物凄い人達で、会場に入ってリングに上がるまで30分近くかかりました、揉まれて揉まれて上がりました。
上がったら疲れていて、セコンド陣がリングの角から降りられないとか、倒しても早くゴングが鳴ったりとか、全然めちゃくちゃでした。

バンタム級に転向して、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪、世界バンタム級3位・ジョー・メデル(メキシコ)と対戦するが、6回にKO負けする。
1964年10月29日、東洋王者・青木勝利に3RKO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権を掴んだ。
世界バンタム級王者・エデル・ジョフレ(ブラジル) 8回防衛に成功し、すべてKOがちだった。
昭和40年5月18日、当時私は22歳でした。
ジョフレ選手は奥さんと子供を連れて来ていたので、試合をしに来たのにそんなことはないと思って自分なりにファイトがわきました。
僕のボクシングは下がったら負けだと思って、前進、前進だと思いました。
今までのボクシングスタイルを捨て、アウトボクシングに出た。
4回でいいパンチが当たっていたが、次の5Rには、ジョフレが強烈な右をヒットし、僕はコーナーを間違えるほどのダメージを負った。
15R迄行って、勝敗の判定は、日本の高田(ジャッジ)が72-70で原田、アメリカのエドソン(ジャッジ)が72-71でジョフレ、そして、アメリカ人バーニー・ロス(レフェリー)が71-69で原田、2-1の判定勝ちで僕は世界王座奪取に成功しました。
フライ級、バンタム級の2階級制覇をする。

翌年2回目の防衛戦でジョフレ選手と再戦をして、前回以上の大差で勝ったが、その時にTVの視聴率は63.7%という数値だった。
4回の防衛に成功して、オーストラリアのライオネル・ローズ選手と対戦、15回判定で敗れて王座を失う。
減量苦との闘いがあり、フェザー級と階級を上げていくことになった。
1969年7月28日、WBC世界フェザー級王者ジョニー・ファメション(オーストラリア)への挑戦が決まった。
この試合で2R、11R、14Rと3度のダウンを奪ってみせる。
判定でジョニー・ファメションの手を上げると、地元の人たちは足をバタバタさせたりして判定に対するブーイングだった。
地元の新聞によると、圧倒的に勝っていたと思うのに結果的に判定で敗れたが、潔く
ファメションの手を上げて祝福したと書いてあった。
結果として、地元判定に泣いた「幻の三階級制覇」だった。
翌年昭和45年に東京でファメション選手に再戦をするが、いい所が無いまま14RでKO負けし、この試合を最後に引退した。
プロ10年間で63試合で56勝7敗、23KO勝ち。

小学校の頃、勉強は大嫌いでしたが学校は大好きでした。
色々いたずらをしたりしていました。
中学卒業後米屋さんに行きました。
ボクシング入門は昭和33年でした。(15歳)
16歳でプロデビューしました。
小学、中学では野球をやっていたが、野球では大成しないと思って、ボクシングを見ていたりしてボクシングかなと思ってボクシングを始めました。
デビュー後26連勝負けなしでした。
ライバルに青木選手、海老原選手がいましたが、3人の中ではドンジリだと思い、彼らよりもとにかく余計に練習することを心がけました。

フライ級限度は50.8kg、普段は65kgで減量に苦しみました。
最期の落とし量なかなか落ちない。
減量の為水を飲まないように水道の元栓を閉めて、トイレに行った時に流す水を飲みたいなと思いした。
食事で腹いっぱい食べるのは、試合後の一日、二日だけです。
寿司、パン、ご飯などは食べません。
笹崎ジムの練習はハードでした。
19歳で世界チャンピオンになり、当時の総理大臣とか色んな方とお会いできたのは、やはり世界チャンピオンになったから、会えない人に会えたのは良かったと思います。
TV等にも出さして頂いたし、世界チャンピオンだという事で若い人達が目指すような、頑張れるように、作っていきたいという気持ちです。
「根性」という言葉は大好きです。
今の時代は食べれないという事はない、昔は終戦直後でそうはいかなかった。
昔はボストンバック一つで一人で来て、郷里には帰れないという思いがありましたが、今はお母さんと一緒にジムにお願いしますと言ってきて、いつでも帰れるような時代です。
そういった中でも頑張れる人はやはり凄いと思います。
努力なくして成長は無いです。
指導のモットーは挨拶と笑顔だと思います。