2020年1月19日日曜日

井出留美(ジャーナリスト)        ・【"美味しい"仕事人】食品ロスを減らしたい

井出留美(ジャーナリスト)      ・【"美味しい"仕事人】食品ロスを減らしたい
豊かな食生活の一方で食品ロスが大きな問題になっています。
売れ残り、食べ残し、期限切れの食品など本来は食べる事の出来たはずの食品が大量に廃棄されているわけです。
こうした状況から去年令和元年10月1日に食品ロスの削減の推進に関する法律が施行されました。
今日は食品ロス削減推進法の成立に尽力されたおひとり、食品ロス問題専門家でジャーナリストの井出さんにお聞きします。
井出さんは小さいころから食に強い関心を持って栄養学の博士号も取得しています。
青年海外協力隊では食品加工の援助活動、外国資本の食品メーカーでは広報室長として東日本大震災の被災地を支援、退職してからはフードバンクの活動に取り組むなど食をめぐる課題に向き合ってきました。

2800万トンの食品廃棄物の中でまだ十分に食べられるにも関わらず、捨てられるのが643万トン、東京都民が一年間に食べられる量と同じぐらいと言われています。
飢餓で苦しんでいる世界各地に回せたらと考えると胸の痛い数字です。
世界の食べ物に困っている人に寄付をされている量が年間で390万トンぐらいですから1,6倍の量を日本で捨てています。
令和元年10月1日に食品ロスの削減の推進に関する法律が施行されました。
声をかけて頂いたのが2016年の1月でした。
講演でいろんな人に啓発をしてゆきました。
2019年5月24日に国会で法律が決まりました。
2008年から食品メーカーとして食品ロスの問題には取り組んでいました。
会社を辞めてからフードバンクの活動に取り組み、3年間関わり、12年目ぐらいです。

コンビニとかスーパーの棚が空いてしまう事が許されない世界で、作りすぎざるを得ない仕組みがあって、当事者にならないとなかなか判りづらい。
賞味期限、消費期限が混同されてしまいますが、消費期限は5日以内の日持ちの食べ物に表示されています、お弁当、おにぎり、サンドイッチ、お惣菜、生クリームのケーキなど。
賞味期限はおいしさの目安に過ぎず、過ぎても食べたり飲んだりすることができます。
ペットボトルのミネラルウオーターは長期保存すると水が蒸発してゆき、書いてある量と違ってきて、計量法という法律があり、内容量が満たないものは販売してはいけないという法律があります。
ですから内容量を担保されている期限が表示されています。
実験では卵は10度以下で保存した場合生で57日間食べられるが、今は2週間で切ってしまっています。
安全係数があって美味しく食べられる期限に0.8とか0.7とかをかけて表示されている。
出荷してしまうといろんな環境にさらされるので。

5歳の時に風邪を引いて葛湯を作ってくれたが、最初は液体だが火にかけると粘度が上がってきてなんでだろうと思いました、それが興味のきっかけでした。
母の菓子つくりの本も読んでいました。
高校1年生の時に食品成分表をよく読んでいて、大学は食物学科に行こうとその時に決めていました。
食品メーカーに就職する予定でしたが、銀行員の父が亡くなって家の近くの日用品メーカーの研究所に入りました。
その後会社を辞めて青年海外協力隊に参加しました。
日用品メーカーでコンテストをやっていて、そこで準優勝に成って東南アジアでした。
介護のボランティア、食に興味があったり、東南アジアに興味があったという事で青年海外協力隊に参加しました。
食、環境とかインターネットも発達していない時代だったので大変でした。
言葉とかわからないなかで、フィリピンではモロヘーヤのネバネバが嫌いで、いろいろ加工法を考えたりしてやっていました。

その後外国資本の食品メーカーに広報室長のアシスタントとして入社して、室長としてもお客さんからの対応の仕事などをしていました。
父が銀行員だったので47都道府県を回ったので方言なども覚え役に立ちました。
3月11日が私の誕生日でその日に東日本大震災が起きました。
社長から自社の食料を支援物資として手配してほしいといわれ、その活動のなかで理不尽な食の無駄、必要なところに食べ物がいかないという事があり、考えさせられてその年に会社を辞めるきっかけになりました。
被災地支援する中でフードバンクから広報を手伝う事になりました。
3年間フードバンクの公報をやりました。

食に関して例えると水道の水を出しっぱなしのような状態だと思います。
作りすぎ、売りすぎ、消費者は買いすぎです。
適量を作り、売り、買うという事が大切です。
日本のごみ処理費が約2兆円です。
食べ物をリサイクルするある社長さんが言っていましたが、そのうちの40~50%は食べものではないかという風に言っています。
8000億円~1兆円がそのために使われるのでもったいないです。
お寺は7万8000ぐらいありコンビニは6万弱ぐらいでお寺の方が多くて、お寺ではお供え物などが捨てられるわけです。
お寺の仏さまのおさがりとして、必要な子どもたちにあげようという事で「お寺おやつクラブ」が始まり、47都道府県に広まっています。
フードバンクは全国で100団体ぐらいあります。
フードドライブというものもあり、イベントなどで食べ物を集めて必要なところで使うという活動です。

家庭でできる食品ロスを減らすための10か条
①買い物に行く前に冷蔵庫などの種類と量を確認する。
②空腹の状態で買い物には行かない。(アメリカの実験では64%増えてしまう。)
③買い物では直ぐ食べるものは手前からとる。
④期間限定、数量限定まとめ買いに注意。
⑤調理の時に食材を使い切る。
⑥残った料理は別の料理に変身させる。
⑦賞味期限はおいしさの目安、五感を使って判断する。
⑧保存用食材はローリングスストック法、サイクル保存で。
⑨外食時に注文し過ぎない。
⑩残さないで食べる。

どんな食べ物も命から来ている。
一つの食べ物でもたくさんの人々がかかわっている。
子どもの時代からこういった食に関する大切さを知ってほしいと思います。












2020年1月18日土曜日

有森裕子(バルセロナ五輪銀メダリスト)  ・【わが心の人】人見絹枝

有森裕子(バルセロナ五輪銀メダリスト)  ・【わが心の人】人見絹枝
人見絹江さんは明治40年岡山県御津郡(現:岡山市南区)に生まれる。
運動能力が高く走り幅跳び、三段跳び、槍投げなどに非凡な才能を見せました。
女子の陸上競技が初めてオリンピックの正式種目となった1928年のアムステダム大会では銀メダルを獲得しています。
昭和6年亡くなりました。(24歳)
有森さんはオリンピックでは1992年バルセロナの女子マラソンで銀メダル、96年アトランタでは銅メダルを獲得しました。
有森さんは人見さんと同じ岡山県の出身で女子のスポーツの普及に貢献した人見さんの思いを受け継ぎたいとおっしゃっています。

今は年に一回だけ岡山のマラソンには出ていますが、普段トレーニングなどしていません。
私は試合では4か月前から組み立てていましたが、最低でも3か月は必要です。
当時女性がスポーツの場に足を出して出るというのがはばかられた時代にスポーツを盛んにされていったのは人見さんからだと思います。
祖母と同じ学校で先輩にあたって祖母から聞いています。
女子のロードレースが初めて岡山で出来て、トロフィーを人見記念杯と名付けられました。
人見さんは最初はテニスをやっていましたが、何をやっても強い選手で、陸上の先生に見出されて始めて高跳び、走り幅跳び、短距離など記録をどんどんだしていって、女性選手とは思えないぐらいの強さと記録を更新していったといいます。
おしゃれでモダンだった人でもありました。
字体もかわいい感じでした。

1984年に女子マラソンが入ったぐらいで、人見さんの時代は女性がスポーツをすることに対して社会的に受け入れられないような雰囲気がありました。
三段跳び、やり投げから、やれば世界記録になってゆくような選手でした。
1928年アムステルダム大会で銀メダルを獲得。
彼女は短距離、跳躍が専門でしたが、800mは全く彼女の専門外で取った銀メダルでした。
銀メダルを取ったことによってその後の彼女の活動に繋がって行きました。
日本ではたった一人参加した女性選手でした。
女子の個人種目全て(100m、800m、円盤投、走高跳)にエントリー、他の種目は結果が出せなくて、残りが専門外の800mしかなくて、それに挑戦し銀メダルを獲得することになりました。
日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となった。

その後オリンピックで陸上でメダルを取ったのが64年ぶりに私が取るという事になりました。
不思議なつながりになりました。
人見記念杯をもらったのは実業団に入って一年目の冬です。
私が陸上を始めて8回目の時でした。
それがオリンピックに繋がっていきました。
亡くなった友達の写真と祖母の写真をもってバルセロナに行きました。
バルセロナで銀メダルを取ることができましたが、この日が人見さんが銀メダルを取った日でもあり命日でもあったわけです。
人見さんが付けたゼッケン番号を足すと13で、私の付けたゼッケン番号を足すと13で、ここも一緒かと思いました。
そこから人見さんのお墓参りも行くようになりました。
彼女の生き方、性格的なところ、彼女のしてきた活動とか精神的なところで、伝え残したかったものが受け継いでいるのかなあという事はアトランタ以降で見出しました。

人見さんは競技生活を続けながら新聞社に入ってスポーツ観戦記事を書いたり、女性スポーツの普及に講演もしていました。
自分の信念を信じて必死になってされて、心身ともに体に影響していったと思います。
海外に行って親友が出来て自分の気持ちを素直に表現できて、エネルギーを入れれる時間がそこにあって、そういうものを持って日本で求めるものにつなげていったんだろうと思います。
女性のスポーツへの参加の運動のために資金集め、講演会を行いました。
1930年にプラハで国際女子競技大会があり、人見さんが若い女性たちをつれて行って、自身でも競技に参加しました。
夢が叶って選手たちを継続して育てていけるという事を物凄くしたかったと思います。
24歳で亡くなられたという事は本当に無念だったと思います。
人見さんが作った道をしっかりと受け継いでいった女性アスリートのスポーツの道はできたと思っています。
その道に乗れたのは感謝と共に光栄に思っています。

24歳はあまりにも若すぎたと思います。
バルセロナで銀メダルを取りましたが、その人の生き方、その人の生かし方を考えられているわけではなかった。
スポーツを通して社会にどう生きていくかなどほとんど考えられていなかったところはあります。
そんな中で落ち込んだ時がありました。
スポーツをすること、頑張ることが社会に価値と意義を見出されているかと言えば全然まだないという事に私たちはぶつかりました。
疑問と前に進まない時間を過ごしていました。

バルセロナ以降身体がボロボロでそんな中で練習をしていて、両足が痛くなり痛みを取るために手術をして痛みは取れました。
頑張るしかないと思って、リハビリをやって兎に角メダリストになりたいという思いがわきました、それがアトランタでした。
もう二度とこういう事を考えないといけない選手は出てほしくないと切に思いました。
アトランタでは銅メダルを取ることができました。
誰の評価もいらなかった、自分が自分に対して最高に課したことに対して実現できたという事であのコメントになりました。
人見さんの自分の信念をもって突き進む難しさを乗り越えようとする思いは私の力になったことは事実です。
スポーツそのものが単に競技会、お祭りで終わるのではなくて一つでも二つでも今ある社会に何か生きてゆくのに通ずる様な部分に、私は応援と思いをはせて形づけていきたいと思います。

















2020年1月17日金曜日

〔震災報道の経験を語り継ぐ〕特集 知らない世代に伝えたいこと

〔震災報道の経験を語り継ぐ〕特集 知らない世代に伝えたいこと

阪神淡路大震災発生後25年となる。1995年1月17日5時46分
テーマ ラジオについて

AMラジオ災害問題協議会が開催され防災シンポジュ-ムについて。
前半 震災直後の経験などについて
ABCラジオ 道上氏
縦揺れが2,3秒あった後に横揺れが始まりました。
学校で毛布が足りない、ここの病院で透析ができるというと、そこにばっかり義援品が届いたり行列が出来たりしていました。
インタビューした時に80歳の女性が「私の命の恩人はラジオだからよろしく言っておいてや」と言われました。
半壊の状態でがれきの中でラジオを聴きながらいて、救急隊に救助されたそうです。
「遠い親戚よりも近くのラジオ」と言っていました。
被災地に行ってボランティアの人の手伝いをしました。
魚屋さんが妻も子供もなくしたが、自分のところにある商品を並べて魚屋さんもも音凄いテンションで前向きに行きようとしていましたが、半年後に行ったときには魚屋さんは自殺していました。
八百屋さんはどこかに行ってしまいました、そんなことばっかりでした。
東灘の元気村の山田和尚が毎週末炊き出しをしていて、そのお手伝いをしに行きました。
取材した人にラジオを渡していきました。

ラジオ関西 谷氏
須磨に社屋があり番組の準備中に揺れました、四つん這いになってもこけるぐらい揺れました。
コンクリートの壁が全部落ちて土埃とガスの臭いがしていました。
外に出ていたら放送ができるという事で社屋に戻りました。
6時5,6分でした。
6時の時報と同時にラジオ関西が放送を始めていました。
*その時の放送を流す。
 火の元を注意するように伝える。
これをきっかけに69時間ノンストップで放送することになる。
ラジオ関西が中継地点になって安否確認などを流すようになる。
リスナーの方からラジオ関西に情報を寄せてくれて、アナウンサーとは関係ない社員の方もメディアとしての意識が高かったです。

NHK 住田氏
東京のNHKの「おはよう日本」のアナウンサーをしていました。
神戸に帰省していて団地の3階の実家に帰っていて地震に遭いました。
簡易ベッドに寝ていたらドーンという突き上げるゆれがあり何度もベットの上で飛び跳ね、立ち上がれないし、這い出せないような状況でした。
停電でしたが両親も無事だということが判りました。
現場に行かなければという事を思いました。
自分の家の電話は通じず向かいの家の電話が通じて東京に連絡できました。
見た儘を伝えようと徹しましたが、灘区でも一番被害の少なかったところだったと後で判りました。
東灘区の高速道路の倒壊現場などにいきましたが、離れたところとの温度差,感じの違いが凄くいら立ちにもなりました。
交通情報を主体にして欲しいとの要望がありました。
とりあえずそのまま手短かに話して、救援の車を通してほしいと伝えました。
限られた情報の中から全体像はなかなかつかみにくい状況にはありました。
情報の入ってくる断片から何を読み取ってこの後に備えることが難しいという事を感じたのが1月17日でした。

司会者:NHK全国ネットワークの中で被災地ので起きていることを、被災地の外の人にどう伝えるか、どうつなぐかという役割を担っていたこと。
現場での奮闘。
住田:東京からのリクエストにはこたえながらも こっちの言いたいことはこれなんだと
こちらの状況を伝えることが現場の役割かなと思います。

阪神淡路大震災の後に入局した人たち
KBS京都 森谷氏
放送が全くできなくなってしまった場合に、関西のラジオ局の間で双方で困ったことがあれば放送でもお互い助け合おうという協定を双方で助け合う環境、この数年そういった環境が有効になってきていると思います。

ラジオ大阪 藤井氏
大震災の時には7歳でした。
2011年に福島TVのアナウンサーとして東日本大震災を経験しました。
揺れが収まった福島市の被害状況を取材に行きました。
福島第一原発2号機の放射能漏れの恐れありという第一報でした。
本社からの指示でVTRをもって戻って来いと言われました。
県庁の階段の踊り場でマイクを繋いでしゃべっている人がいました。
ラジオ福島のアナウンサーさんでした。
会見で見たまま聞いたままを彼はリスナーに届けていました。
その時に負けたと思いました。
TVとラジオではメディアの特性が違っていると思います。
被災地の必要な情報は被災地の津波の情報などではなくて明日も生きるための生活情報に尽きるのではないかと思います。
数年前生活情報を取材するための電話帳を作成しました。
警察、消防、行政、インフラ、主要スーパーなどの窓口の番号を網羅したものです。
明日も生きるための情報をきちっとリスナーの皆さんにお届け出来るラジオ大阪でありたいと思っています。

和歌山放送 覚道氏
混乱期には間違った情報も一人歩きしてしまう事も課題にあげられます。
復興の段階でどの段階でどういう風に伝えるのか、取捨選択、どういうふうに汲み取っているのかお聞きしたいです。
森谷:透析をするところについてろ情報が欲しいという事でダイレクトに入ってきて、そもまま訴えたら答えが返ってくるという事もありました。
ラジオは停電でも電池式で聞いていられた。
スマホでは電源が無くなると同じようなことが期待で来るのかといったことを逆に聞きたいです。
道上:災害は規模も違えば日々の生活の様子も各家庭で全部違います。
できることをできる時にできるだけ、これしかできないです。
スマホ、SNSで伝わるものはラジオより早いと思いますので、それはそれでやっていただいて結構だと思います。
そういった方法と連携してやって行くような時代で、ラジオで何ができる、TVでなにができるという時代ではないんじゃないかと思います。
住田:大切なのはキャッチボールで、呼びかけの方法もいろいろありますが、キャッチボールの中から答えが返ってくる場合がり、その仲立ちの一つがラジオかもしれません。
孤立に対してラジオは役に立つのではないかと思います。
ケーブルなどが切れた場合、ラジオの電波は最期の手段になるかもしれない。
覚道:今お話を聞いてやっぱりラジオは生の声で聴いて、SNSもありますがラジオの可能性があるという事を感じてもっと頑張らなくてはという気持ちになりました。
















2020年1月16日木曜日

中村多仁子(元東京オリンピック体操団体銅メダリスト)・オリンピック半年前(2)

中村多仁子(元東京オリンピック体操団体銅メダリスト)・オリンピック半年前(2)10歳若く生きよう
現在は東海大学名誉教授、新潟県出身の76歳。
大学卒業後東海大学で体操を指導、1978年には東海大学を全日本選手権など優勝させるなど指導の面でも活躍されました。
中村さんは高校2年から始めた体操でオリンピックに出場します、当時19歳。
東京教育大学の学生でした。
大学卒業後23歳で一緒にオリンピックに体操で出場したみつくりたかしさんと結婚、2人のお子さんを出産、そして離婚も経験し舞田。
中村さんは現在は背筋が伸びて姿勢はいいんですが、体操を辞めてから背筋も丸くなってしまい、これではいけないと自分で簡単にできる体操を本にまとめて出版しています。

1943年新潟県生まれ。
兄弟4人の3番目に生まれました。
ちいさいときから動くことは大好きでした。
活発な女の子でした。
中学校の時に9人制のバレーボールの中位のセンターの役をしていました。
団体徒手体操にも先生から声をかけられて終わってからいいから来なさいと言われて二つを掛け持ちでやって県大会で二つとも準優勝しました。
大学は経済的に無理だと思って女子高に行こうと頑なに思っていましたが、担任の先生が家に来て両親を説得に来て両親も納得して高校は進学校の三条高校に行きました。
先生が即願書持って先生が提出してくれました。
その先生がいなかったら体操とも出会わなかったし、オリンピックとも縁がなかったと思います。
三条高校ではスポーツをするクラブ等は一切なくて演劇部に入りました。
演劇部は面白くなくて体操の先生がスポーツをやらした方がいいと親を説得に来ました。
体操部も女子も設立することになりまして、2年生になるときに体操部が発足して体操の練習を始めました。
床運動、跳馬、平均台、段違い平行棒の4種類です。

体操部の先生が段違い平行棒を一生懸命すればオリンピックに出られるかもしれないといわれました。
鬼のような先生でしたが情熱があるとも思いました。
一流選手のフィルムを撮ってきて体育館に写して技を覚えろとか言われて、観る練習がかなりありました。
私にとって非常な財産になりました。
3年の夏の大会があり、4種目を個人で出てファイナルに出られて、段違い平行棒だけは凄くよくできましたが、知らなくて止まる動作が無いため減点しますと言われたが、段違い平行棒だけは3位に入ることができました。
大学は東京教育大学に行きました。
大学1年の時には段違い平行棒だけはよかったが、ほかは駄目でした。
インカレでは5,6位に入りました。
2年生の時には世界選手権の代表に選ばれまして、3位になりました。
東京オリンピックにはローマ大会のメンバーが残っていて銅メダルが期待されました。

プラハの大会があり新人(19歳)で凄く刺激がありました。
平均台では頭が真っ白になり何も覚えていないです。
ヨーロッパでは日本人は繊細な動きがあるという評価がありました。
何も覚えていない中でやりましたが、日本でやった点数よりも高く出ました。
1964年東京オリンピックで団体で3位になりました。
大会前には体操女子は銅メダルでなければならぬ、という様な雰囲気でした。
プレシャーがあり街に出ると期待の声があり街に出るのも嫌でした。
規定問題が初日にあり、2日目は自由問題があります。
初日ドイツが3位でしたので絶対銅は取れないと思ってみんな大泣きでした。
自由問題ではもう銅を考えないで、練習してきた通りやりましょうと全員が思いました。
4種目終わって控室に戻ったら3位になったという事でした。
ドイツは普段では考えれれないようなミスをしてしまっていました。
自分がゼロになったときには、捨て身になったときにはやり切れるものだと思いました。
私は幸運だったと思います。

三条高校を薦めてくれて中学の先生、東京教育大学でのいい先輩たちに出会っていい環境にも出会って、東京オリンピックの強化選手にもなれて、体操浸けみたいな月日を過ごしましたが、支えてくれ周りの人がいなければ現在の私はいなかったと思います。
オリンピックの2年後のドルトモント世界選手権でも団体3位になりました。
段違い平行棒でも3位になりました。
他の国の選手がやってない技を3,4個組み入れてやって9.8という得点が出ました。
メキシコオリンピックでは団体4位でした。
帰ってきて全日本選手権の後に26歳で引退することになりました。
62歳ぐらいからメニエール病にかかって退職するまでの3年間学校で何回も倒れました。
運転中に発作が起きて死ぬかという思いを何回もやりました。
全日本学生選手権でチームとして東海大学を優勝させるのが夢でしたが、それにかけて一日5,6時間休みの日は10時間ぐらい体育館にいて、ストレス、家庭の仕事もあり、教員、コーチなどがありそれがたまったと思います。
退職して10日間で発作が出なくなりました。

67歳で股関節の痛みが出てきました。
右の股関節が外れてしまい手術をしました。
退院まで一か月半かかり、歩けるようになるまで大変な経験をしました。
身体者障害4級になってしまいました。
学生たちとの合言葉は綺麗なな体操をしようねという事でした。
自分自身の体と鏡を見たら汚かったので、学生たちは納得しないと思っていたので、正しい姿勢を意識した中で「シルキー体操」を考えました。
一日一分でいいという事で、意識して立ってみる、意識して座ってみる、これが一日一分のカギでそれが続けていったら身体は若く動けるという事をコンセプトにしています。





2020年1月15日水曜日

金戸 俊介・久美子(元東京オリンピック飛び込み日本代表)・オリンピック半年前(1)

金戸 俊介・久美子(元東京オリンピック飛び込み日本代表)・オリンピック半年前(1) 三代続く飛び込み競技
金戸 俊介さんは石川県出身(79歳)久美子さんは東京出身(83歳)
1960年のローマ、1964年の東京と2大会連続でオリンピック飛込競技日本代表として活躍されました。
パートナーがいたから頑張れたと語るお二人は東京オリンピ後に結婚して、その後高校や大学日本水泳連盟の強化コーチとして飛込競技の指導に当たってこられました。
息子の金戸 恵太さんと幸さんご夫妻も飛込競技のオリンピック飛び込み競技の代表としてソウル、バロセロナ、アトランタの大会に出場しています。
さらに孫たちがオリンピックを目指すという三代続く飛び込み競技のスペシャリストです。
競技には高飛び込みと板飛び込みという種目がありますが、いずれも2秒足らずのうちに空中で美を表現して水に飛び込みます。
この一瞬の美を作り上げるために一日8時間100本以上の飛び込みをすることもあるそうです。
俊介さん久美子さんが飛び込みを始めたのがいずれも高校時代。
二人にはそれぞれユニークなきっかけがあったそうです。

俊介:一回目のローマでは成績が良くなかったもので二回目は頑張ろうと頑張っていたら二回目も出れました。
試合中に怪我をしてしまって、その後子どもの指導に当たって、高校、大学、社会人の選手をずーっと教えてきました。
久美子:当時は今みたいにいろんな機器が発達していなかったので、コーチのいう事を信じて想像力を働かせて練習をやっていました。
俊介:怖がりだったので飛び込むときには苦労しました。
種目がいろいろあり10、11種目を飛びますが、新しい種目を飛ぶときには怖かったです。
一回やるとこんなものかとなるんですが。
1m、3mとかバネのついた板を利用して高く飛び上がって飛び込むのと、5m、7、5m、10mと固定台がありますが、高飛び込みの2種類がります。
その後シンクロ飛び込みも入ってきました。
最初10mを飛ぶときに1時間ぐらい粘ってようやく飛んだことがあります。
久美子:目は開けてないと怖いです、水の中にはいると目は閉じますが。
私はエイやっちゃえという感じでやっていました。
しかし1シーズンに一回はお腹を打ったり、背中を打ったりして気絶していました。

俊介:中学時代鉄棒とか跳び箱など好きだったので高校に入ったら体操部に入ろうとして、鉄棒などをしてるクラブがあり、先生に体操部にはいりたいといったら一緒に練習するように言われて、2,3日経ってから友達から飛び込み部に入ったのかと言われてましたが、面白かったのでそのまま続けました。
6月ごろにプールに入ることになりました。
その先生に出会わなかったら飛び込み部には入らなかったですね。
久美子:終戦後アメリカから映画が入ってきて、シンクロナイズスイミングとダイビングをやるスターでエスター・ウィリアムズという役者ですが、白い水着を着てやっていたのでやってみたいと思いました。(中学時代)
高校の時にお茶の水のYWCAの飛び込みの教室をやっていたのでそこに入りました。
1936年のベルリンオリンピックの代表だった大沢礼子さんに教えていただきました。
YWCAは水深が3mで浅かったです。
種目を考えずに落ちていました。

俊介:最初は怖いんですが何回もやっているうちに慣れてきて、うまくいった感じが得られるから続けられました。
久美子:当時はみずしぶきは関係なかったが今は駄目です。
俊介:永田修三先生に巡り会えてよかったです。
久美子:100本飛んだことが2,3回あります、朝7時から12時ぐらいと、1時から7時ぐらいかかりました。
アメリカに行ったときに気が付かないで飛んで、下に友達がいて頭がぶつかってしまって、彼女は5針、私は26針縫いました。
丁度マリリンモンローが亡くなった日で、看護師さんたちがそっちにか駆けつけて、30分ぐらい ほったらかしにされました。

俊介:プロペラ機でローマに着くまで40時間かかりました。(1960年)
久美子:東京オリンピックの前の大会という事で、全種目に出るという事で300人ぐらいいたと思います。
俊介:ユニバーシアードの大会がローマの次の年にブルガリアであり、そこで優勝することができました。
その2年後のブラジルに行かせもらって優勝出来て、東京にも出ましたが、上腕の肉離れを起こしてしまい十分な練習ができなくて、最悪の状態で東京オリンピックの試合に出て、飛び板に頭をぶつけて、水に落ちて水の中で気が付きました。
久美子:東京オリンピックの後に日大の桜ケ丘高校に指導と言う事で行きましたが、生徒を集めるのが大変でした。
俊介:夏休みになると息子をどっちかのプールに連れていくしかなくて、或るときに息子が大阪の大会に出て一番下の方の成績で悔しがって、練習して翌年にジュニアの部で優勝して、本格的に練習するようになってオリンピックまで繋がって行きました。
勝つには努力しかないです、自分でやる気になってやらないといけないです。
まず陸の上で回る練習、トランポリンでベルトを着けて補助して回転を覚えて、次には水の上でやるわけです。
ローマで私が飛んだ種目は前宙返り3回転エビ型は世界で初めてでしたが、今は孫が簡単に飛んでいます。

今は選手に束になってサポートしないと難しい種目をこなして練習を続けることは難しいです。
空中の感覚は飛んだ本人でないとわからないです。
飛んでいるときの補助は声ぐらいしかないです。
続けてこられたのは人ができないことをできたという満足感ですかね。
水しぶきを出さないためには水に入った瞬間に手で受けて手で水をかいて泡を消していきます。
落ちる時の水は硬い、27,8度ぐらいになると水は柔らかくなりますが、16度ぐらいでは本当に硬いし、痛みも2倍ぐらいになります。
久美子:あざだらけになっていましたが、やり遂げたかったです。
自分では満足して辞めました。
ローマで燃え尽きてしまって東京では28歳でしたから。
俊介:中国は人口も多いし、全国から集めて子どもの時から厳しい練習をして、エリート中のエリートが最後に出てくるわけです。
世界の選手のビデオを集めて研究して、トランポリンを中国のコーチがうまく使えるようにして練習をやらしていました。
久美子:主人がいたから東京オリンピックまで続けてこられました。
小さい子から興味を持ってくれたらうれしいと思います。

















2020年1月14日火曜日

桑村 綾(京都料亭会長)         ・故郷へ全力で"恩返し"

桑村 綾(京都料亭会長)         ・故郷へ全力で"恩返し"
京都府の日本海側京丹後市の周辺はかつてちりめん工場が多く集まり多くの商社が買い付けに来ていました。
地元の老舗旅館に嫁いだ綾さんは経営の才覚が道められ旅館の経営を任されるようになりました。
しかし1970年ごろからちりめん産業に陰りが見えたところで心機一転、地元の旅館を閉じ京都高台寺近くの当時旅館として使われていた建物を買い取り料亭として京都市内への進出を果たしました。
その後京都駅ビルで和食レストランを開業、関西や東京のデパートで「おもたせ」と言われるお菓子、加工食品などを販売事業の拡大を図りました。
70代に入って社長の座を娘さんに譲った桑村さんの心に強く残ったのは京丹後への思いでした。
桑村さんはまず京丹後市の工場造成地を買い取りそこに植物生態学者の宮脇昭さんの指導のもと、3万本の植樹をおこない、今では「和久傳の森」と言われています。
一部の区画では山椒やシイタケの栽培をしたり、食品の工房も建設し多くの地元の人々を雇用しています。
さらに知人の建築家安藤忠雄さんの設計で画家安野光雅さんの美術館を開設、工房のそばにレストランやミュージアムショップも開きました。
又地元農家の協力を得て無農薬有機栽培の食材を育てています。
地域の活性化への取り組みや京丹後市への恩返しへの思いを伺います。

2007年に京丹後の方で和久傳の森で植樹を始めましたが、森の木が相当大きくなっています。
植物生態学者の宮脇昭さんが言われたのは多品種の木々を密集させることです。
3・11の後もそこにあった木は残っているようです。
密植して競争原理を働かせるんだと先生はおっしゃっています。
風雪に耐えて残った木は本物の木だとおっしゃっています。
56種類3万本の木を植えました。
8000坪を購入することになり、200坪の工房を建てるとがらんとしてしまいます。
宮脇先生がTVに出ていたのを見まして相談に伺いました。
先生の苗木は380円と500円ですと言われて、それならできるということで植え始めたら森になってゆきました。
「和久傳の森」という名前を付けました。
工房も狭くなり増築すると森に申し訳ないという思いもあり、たまたま空いた隣にある3500坪のところに増築しようと思いまして、植樹もして観光の一環として見ていただく工房にしようと思いました。
根本にあるのは丹後を知っていただきたいという事です。

丹後ちりめんができたのは桑があるという事で、桑の商品をゆくゆくは作っていきたいと思いました。
生産の森という事で山椒、シイタケ、みょうがなどを作っています。
指導してもらって米も無農薬でやっています。
蟹の甲羅は土壌改良によくて粉砕して入れると、スイカなどは甘みを増します。
自分のところで作ったものが加工され販売されるという、6次産業になっています。
第一工房を改装して1/3ぐらいをレストランにして工場を見ていただくための人寄せとして作りました。
安野光雅さんが洛中洛外を描いている最中で、丹後の絵も描くと言ってくださいました。
絵を買っていまして、安野先生の美術館を作りたいと思いました.
安藤忠雄さんにお願いしようと思って、来てくださって安藤さんが森を見てそれに感動して引き受けていただきました。
お二人が意気投合してくださいました。
安野さんの絵だけではなくて、安藤さんの建築も見に来られる方もいます。
地元のものを簡単に食事してもらうという事にしています。
従業員は店舗、本社などを含めて150人ぐらいになります。

和久傳は明治3年からやっていますので、丹後ちりめんと共に歩んできましたので 丹後ちりめんが衰退してきて丹後ちりめんは地元でもできますが、私どもはほかでもできるという事で思い切って京都進出を考えました。
和久傳は丹後の象徴だから出ないでくれという声もありましたが、いつか帰りますという事で考えていました。
全体的に着物離れは否めないと思います。
ちりめん産業に替わる食産業を作っていきたいと思っています。
お中元、お歳暮時期は普段の2倍以上の忙しくなるので、ばらしてくださいということで梅雨見舞いということでやったら、夏には緩和されました。
工夫をして働き方改革をしていきたいと思っています。
11月には小春日伺いとか春にもとか、日本語にはいい言葉がいっぱいあるのでそういう風に進めていきたいと思います。

蟹を焼いてみたら物凄く甘くてこれが当たりました。
冬の時期にやっていてそれ以外は普通の料理です。
丹後は出旗方式で親旗は生糸を持って行って、お宅は夏物、お宅は無地ですなどといって織っててもらいます。
織ったものに対して工賃を払うわけで、私はそれを食に生かそうかと思っています。
そうすると好きな時間だけ働けるわけです。
調理場はこちら側が作って、工賃の中から返却していってゆくゆくは自分のところのものになる訳です。
一生懸命考えるとひらめきが出てきたりします。
坂東玉三郎さんの鼓童を和久傳の森の10周年記念に来ていただいて、鼓童の皆さんとご本人も来てくださいました。
舞いも地元の人に見てもらいたいという事で、舞踊公演をしたら全国からファンが集まってきました。
5年間丹後に公演していただきました。
恩返しという意味で土壌がいいので食産業を広めていきたいと思っています。














2020年1月13日月曜日

秋山竜子(秋山里奈の母)         ・アスリート誕生物語

秋山竜子(秋山リナの母)       ・アスリート誕生物語
秋山里奈さんはロンドンパラリンピック大会で100m背泳ぎで金メダルを獲得しました。      
秋山里奈さんはロンドンパラリンピック大会後に現役を引退されました。

里奈は今は一人暮らしでOLをしています。
料理を覚えレパートリーもたくさん増えました。
部屋もきれいに掃除が行き届いています。
水泳から引退後は泳いではいません。
生後2か月ぐらいで網膜剥離を医師から伝えられました。
意味が分からず直さなければいけないと思いました。
これから先まず視覚障碍者としての育て方をした方がいいといわれましたが、1年ぐらいは病院をいろいろ探して直す事にかけていました。
その後視覚障碍者の小さな子が行く「ひよこ教室」のところに行きました。
ピアノ、水泳も習い始めました。
成長してゆくにしたがって普通の子と同じようには育っていきました。

水泳は3歳の時から姉が始めたので一緒に始めました。
水を怖がらない子でした。
コースロープを使うようになったのは小学校に上がってからなので、そういったことはコーチに任せました。
自分からもっと行きたいという様になりました。
小学校5年生の時に、河合純一さん(全盲のパラリンピックのメダリスト)が「夢を繋ぐ」という本を出して、パラリンピックというものがあるという事を知ったんだと思います。
学校の先生が読書感想文を書くように言われたときにパラリンピックを目指そうという考えを書いたようです。
本人が目標をもってやる事はいいことだと思って応援したいと思いました。
兎に角本人が楽しめればいいと思いました。
眼が見えないという事は家族の中では禁句にしていました。
自然と自分が判ってゆく事だと思いました。
幼稚園に通い始めて周りとは違うという事が判り始めました。

見えないと普通に言えるようになったのはある程度大人になってからでした。
何倍も時間が掛かりましが縄跳びとか自転車にも乗れるようになりました。
姉と何でも同じようにさせました。
当時は一般の小学校に入るのは難しいので、週に一回交流という事で地域の小学校に通うという形を取らせてもらいました。
人数も多いし遊びも全然違うのですごく生き生きしていました。
私が好き嫌いが多かったもので、里奈も好き嫌いが多いので里奈が何か好きなものを沢山食べてもらえればいいと思いました。
素材を生かしたシンプルなものが多いです。
中学からは親元を離れて筑波大学付属視覚特別支援学校に進学します。
本人が友達が欲しいから人数の多いが校に行きたいといいました。
私は無理だと思って諭すように言いましたが、「私の人生だから私が決める」というので了解することに至りました。
12歳なので何から何まで一人でするので私としては大反対でしたが。
週末は必ず帰ってくることを約束しました。
お稽古事、英語、ピアノ、水泳を週末に稽古をしました。
寮の料理はなかなか食べれないので痩せて帰ってくるので、家では目いっぱい好きなものを食べさせて送り出しました。
高校卒業後明治大学の法学部に進学しました。
大学院にも行きましたが、すべて当人が決めていきました。

最初のパラリンピックはアテネで16歳で代表になりました。
当時TVなどでの放送が無かったので、パラリンピックはあまり理解していませんでした。
近所のかた、親戚、私の友達とか24,5人で応援にアテネに行きました。
100m背泳ぎで銀メダルを獲得することになり、素晴らしいことだと思い私たちは涙涙でした。
本人は金メダルが欲しかったようで私たちと会った時には笑顔はありませんでした。
北京では視覚障害の背泳ぎは実施種目から外され、自由形50mに出場8位入賞でした。
決勝に出場できたのはメダル取ったときよりも、里奈は喜んでいました。
ロンドン大会では100m背泳ぎが復活して金メダルを獲得しました。
里奈が苦しんで苦しんだ一年間で、兎に角金メダルを取って引退をするというのが目標でした。
私としては嬉しい反面寂しい一面がありました。
周りの50人以上の応援団の人たちは大喜びでした。
ロンドンの直前は当人は絶不調でしたので私も眠れない日々でした。

里奈は引退することになり一人暮らしに向かって用意を始めました。
自分が立てた目標に向かってコツコツやる負けず嫌いな娘です。
私としてはただ里奈についてゆくだけでした。
外資系の会社に入り、一人暮らしを始めました。
今度は本当にまるっきりの一人暮らしになるので心配で心配でしょうがなかったです。
私はめそめそ泣いて体重が3,4kg痩せました。
コンビニへ一緒に行ったり簡単な料理を教えたりして、この子だったら大丈夫だと自分で納得しました。
親孝行という意味では健康第一、よく食べよく寝ること、もう少し気楽になってまわりにも甘えて、自分に自信をもってこれからもいろんなことに挑戦してほしいです。