2017年7月24日月曜日

松本隆(作詞家)          ・【謎解き うたことば】

松本隆(作詞家)   ・【謎解き うたことば】
日本語学者 金田一秀穂
言葉の魔術師といわれている松本さんの作った歌は2100を越えて400組近くのアーティストに歌詞を書いています。
松本隆さんに日本語学者 金田一秀穂が聞きます。

「木綿のハンカチーフ」
普遍 木綿は一番安いもの 木綿は死語に近い、死語は好きです。
スニーカーではなくて「ズック」が好きです。
「ビー玉」 京都の一流料亭で食事した時に、いとさん(女将さん)が最後に出てきて、あらかじめ用意する間がなかったと思うが、ポケットからビー玉出したんです、嬉しかった。(「硝子の少年」がヒットした半年後ぐらい)

「木綿のハンカチーフ」
恋人よ ぼくは旅立つ
東へと向かう 列車で
はなやいだ街で 君への贈りもの
探す 探すつもりだ
いいえ あなた 私は
欲しいものは ないのよ
ただ都会の絵の具に
染まらないで 帰って
染まらないで 帰って




ハンカチーフも死語です。
恋人よ という呼びかけも死語に近いかもしれない。

「セクシャルバイオレットナンバー1 」・・・
外来語と日本語の組み合わせが多い、反対語を組み合わせるのも多い。
「しあわせ未満」、「ふられてBANZAI」・・・
ジャンルを超えています、派閥にも属してもいないし、作詞家協会にも入っていません。
詩を作ってから曲を作って行ったり、逆もあります。
順番的には詩が先にあるとは思いますが、抑揚がついて、メロディーになって、それに膨らませるとサウンドになって、日本の場合真逆になっていて、それが音楽が衰退している一つの原因になっていると思います。

漠然と何となくこんな形かなあと最初浮かびます。
自分の日常のなかで心は動いていて、詩を書くようなポジションの心の位置があって、そこに持っていくのが大変です。
もやもやとしたものが詩に成って行くと思います。
タイトルが思い付いて半年後ぐらいに詩が出来ると云うようなこともあります。
長い詩を2時間ぐらいで作って、吉田拓郎に渡してたら、3分ぐらいで作ってしまったものもあります。
「はいからはくち」
ノスタルジック つげ義春さんの絵の世界に似ている気がします。
「・・・です」「・・・ます」 は話し言葉と書き言葉の合間をねらいたいと思いました。
「・・・だぜ」石原裕次郎の言葉に良く出てくる、ちょっと不良っぽい湘南言葉。

今の日本の言葉は荒っぽい、いい加減さがあるが、言葉は大体いい加減で、地方によっても時代によっても違う。
曖昧模糊としたまんま流れて、行ってその時代の日本語になって行く、それはしょうがない。
最近僕の詩を朗読するのが流行っていて、「初恋」をすーちゃん(田中好子)が朗読してくれたが、物凄いインパクトだった。
朗読すると凄く新鮮で、音楽を取っ払っても歌詞は成立すると思いました。

中原中也にささげる詩 「砂時計」 松本隆作詞 つんく作曲

海鳴りのもっと深くで
人魚たち 泣いてるみたい
無理やりに鋏で切った
愛だから逆に縺れる


運命を遮りたくて
出した手がもう折れそうで
ほら雨が雪になりそう
泣き言は喉で封じた














2017年7月23日日曜日

河西昌枝(東京五輪女子バレーボール主将)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】

河西昌枝(東京五輪女子バレーボール主将)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】
東洋の魔女の金メダル
山梨県の出身、昭和39年東京オリンピック女子バレーで日本が金メダルを取った時のセッターでキャプテンでした。
大松監督のもと大阪の実業団チーム日紡貝塚のメンバーで全日本チームを構成し、当時日本国内では6年間、175連勝無敗で海外からは「東洋の魔女」と呼ばれました。
東京オリンピックのチームは世界バレーボール連盟から2001年20世紀の最優秀チームに選ばれ河西さんは個人として2008年世界バレーボールの殿堂入りも果たしました。
日本バレーボール協会女子強化委員長を務め、2004年のアテネオリンピックでは女子バレーの団長でした。
亡くなる3年前、喜寿77歳の年の平成22年10月15日の再放送。

現役時代174cm、今は171cmです、いまは中村昌枝です。
動ける間はなるべく出てみなさんに会いたいと思います。
昭和39年10月10日 東京オリンピック開会式
女子は金メダル、男子は銅メダルを獲得。
決勝は日本対ソビエト。(共に全勝で決勝を迎える)
10月23日 駒沢体育館で始まる。
日本が2セット連取、第3セット14-9 あと1ポイントで日本が優勝。
鈴木文弥アナウンサーは金メダルポイントと連呼するが、ここから4連続ポイント14-13
まで追い上げてくる。
普段ないようなミスがあり、焦りが出て追いつかれるが、自分では「大丈夫だから」とみんなに言っていたが(冷静さをよそおっていたが一番ドキドキしていたのは自分だったかもしれないが)、6回のローテーションがあって宮本さんのサーブを相手がレシーブしたが、放っておけば日本に入ってきたところをバックプレイヤーが手をだしてネット上で日本の方に手が出たと云うことで、オーバーネットで15-13日本優勝と決まった時は「終わった」と思いました。
もしジュースに成って取られたらと思うと必死でした。
視聴率は80%を超えた。

審判はオーバーネットを良く見ていたと思います。
大きな期待で日本の女子バレーは金メダルといわれながらやってきたので、期待にこたえることが出来て良かったと云う嬉しさと、これを最後にみんな辞めるつもりだったので、こういうところで試合をするのは、これが最後だったと云う思いもありました。
プレッシャーと感じるのか、応援と感じるのか、個人と団体だと違うと思います。
応援しているのだから勝つしかないと思っていました。
前の晩は普通に寝て、プレッシャー(当時はこういう言葉はなかったが)はなかったです。
当時は一段高い所にキャプテンだけが上がる訳ですから、キャプテンの役目としてそこまでは泣かなかったです。

バレーボールはオリンピック種目ではなかった。
日本が世界のヒノキ舞台に立ったのは1960年ブラジルの世界選手権でした。
あれよあれよと勝っていって決勝でソ連に負けて2位だった。
ソ連に勝てば世界一になれるんだと思いました。
そこから世界一を目指して死に物狂いの練習を4年間しました。
1962年モスクワで世界選手権があり、日本が初めてソ連を破って優勝する。
(モスクワへ行く前に東京オリンピックでバレーボールが正式種目になることが決まる)
オリンピックまでやりますかと質問されて、私はオリンピックまではやりませんと云いました。
世界選手権で優勝したら世界一周旅行をさせてくださいと約束しました。
優勝してイギリス、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、ハワイと回って来ました。
大阪に帰って来て凄い人盛りで、あらゆるところからこのメンバーでという話もありましたが、29歳で辞める覚悟でいました。
4歳下の宮本さんにキャプテンをと思っていました。

それぞれ家族との相談をしてとの事で、正月明けメンバーが集まって「やりますからお願いします」と云うことになりました。
それからの2年間は内容的にも時間的にも全然違う2年間でした。
応援にこたえるには勝つしかないと思いました。
昭和34年から6年連続の無敗の175連勝。
オリンピック前年、日紡貝塚単独チームがヨーロッパに遠征してソビエト、東ドイツに圧勝してこの時の余りの強さに対して「東洋の魔女」といわれた。(遠征戦22戦全勝)
回転レシーブなど当時はやらないことをやって、人間業ではないと云うことでそういう表現に成ったものと思います。

受けたらすぐ立って次のボールの行方を追ってという一連の動作をする、ということを大松監督が考えて、なんでっもいいから転がってみろといわれて、小さい人の転がり方がいいと云うことで、毎日やってるうちに先生の思うような見本が出来てきて、左右前後どこに投げられても飛び込んであげられる様になって行くが、それまでに1年ぐらいかかる。
とにかく打撲がひどかった、頭、首、肩、肘、一番ひどいのが腰の骨、背骨、膝、体中打撲だらけでした。
回転レシーブの時は恰好が悪くてシャットアウトとしていました。(マスコミからは秘密練習しているといわれましたが)
練習でできるようになると、かするぐらいで何処も打たなくなる。
「やればできる」と云うことは一つ一つの練習から身につけていきました。
できたと云うことは結果であって、できるまでの過程で何を身に付けるかと云う事が物凄く人間を強くして来ました。

大松監督は一口でいえば格好よかった。
当時は練習の時などは男性は常に先生一人でした。
男女の遠征でのバスのなかで喋ったり笑ったりするのが先生は厭で、それから男女は別々でした。
大松監督の本の中に、
ソ連に勝つためにはソ連の一倍半は練習した。
精神鍛錬こそがアマチュアスポーツ本来の目的であり世界制覇はその副産物である。
バレーボールにヒロインはいらない。
精神力でしっかり支えられて6つの歯車がかみ合ってさえいればそれで十分。
勝たねばならぬと考える前に、やらねばならぬ根性、人間の限界を超えた苦しい練習で鍛えることによってそれが培われる。













































2017年7月22日土曜日

岩根順子(三方よし研究所 専務理事) ・ 近江商人の商いに学ぶ

岩根順子(三方よし研究所 専務理事) ・ 近江商人の商いに学ぶ
かつて近江を本拠地に全国各地で商いを展開したのが近江商人です、八幡商人、日野商人、琵琶湖の東の湖東商人など、今の滋賀県から生まれた商人達のことで、その経理理念は売り手よし、買い手よし、世間よし、の三方よしの精神だったといわれています。
近年企業の倫理が問題になる中、その近江商人の経営理念を学ぼうと、滋賀県内で研修を行う企業が増えています。
そんな三方よしの精神を広げようと活動しているのが、滋賀県彦根市に拠点がある、NPO法人三方よし研究所です。

三方よしは昭和10年~20年に急に広まった言葉で、近江商人が共通の経営理念として考えていたのが、三方よしといわれ、売り手によし、買い手によし、世間によし、三つをまとめて商売するのが一番大事だと云うことでした。
中村治兵衛が孫にいい伝えたことを書いた巻物があります。
自分の商売を子々孫々に残してゆくためにはこういった心がけが必要だと云う事が書かれています。
以前県庁の仕事をしていまして、近江商人の事についてのイベントをすると云うことで、手伝うことになり、近江商人の考え方を滋賀県の産業おこし、街作りに生かしていこうと云うプロジェクトでした。
全国各地の近江商人の足跡を調べて、平成3年の世界あきんどフォーラムを迎えました。
記念品を作ろうと、滋賀大学の小倉栄一郎先生に『近江商人の理念 近江商人家訓撰集』を作っていただきました。

小倉先生が講演とか本で紹介していて、近江商人の理念を本にして三方よしがトップに出ていました。
堤清二さん(セゾングループのトップ)が新聞で素晴らしいことで学ばなければならないということ言っていました。
そういったことから急速に広まりました。
近江商人あきんど委員会を発展的に解消しようということになり、もったいないと云うことでNPO法人をたちあげ啓蒙運動を始めました。(会員30名+賛助会員30名ぐらい)
世界あきんどフォーラムを迎えるにあたって、江南 良三さんが本を作りたいと云うことでそれが「近江商人列伝」と云う本でした。(反響がすごかった)
近江商人をルーツにしている企業としては伊藤忠、西川産業、高島屋、日本生命、東洋紡など他にもたくさんあり、初代豊田自動車の社長の豊田利三郎さんは彦根藩士の方で豊田家に婿入り、住友鉱山の広瀬 宰平さん、伊庭貞剛さんも滋賀県の出身です。
全国にある近江屋と呼ばれるのもそうだと思います。

海の国(琵琶湖)、道の国(街道が一杯走っている)、仏の国(比叡山延暦寺)この3つの要素が沢山の商人を生んだ源泉ではないかと話しています。
最澄の「利他」と云う言葉、それがイコール「三方よし」じゃないかと思います。
近江商人が長い時間を掛けて理念を積みかさねてきたんだと思っています。
信長が安土に城を作って楽市楽座を作って、商売の源泉を作りました。
幕末に成って来ると先進的な藩主が出てきて、百姓をやりながら暇なときは他のことで稼いでもいいと云う御触れをだしています。
そういう人が繊維を紡いだりとか、よそから仕入れたものをよそに売ったりしていました。
東北には手形なしで行けたという特権があります。
近江は87万石で半分は彦根藩、膳所藩であとの半分はほとんどお殿さまが複合している。
山形の紅花を持ち帰って京都でべにに変えて売りに行くと云う、「諸国産物回し」という商売をしていました。(ニシン、昆布、アワビとか北前船を使っていました、そして肥料にしたり綿業を盛んにしていて、行きも帰りも商売する)
本宅は近江において、あちこちに商店を設ける。
よその国で商売するので、その藩としては面白くないので排斥しようと云う圧力があり、他国で商いする時にはその土地の人の気持ちをくみ取って商売する、いい加減な商売はだめ、高く売ってはだめ、という風な商いをした。

秩父事件が起きた時、大きな店は全部略奪されるようなことがあったが、矢野喜兵衛さんところだけはなかった、事件から50年前に天保の大飢饉のときに殿様の命令ではなくて矢野さん自身で布施米を出しました。
そのことが地元の人にずーっと云い伝えられ地元の事を思って商売しているということで、秩父事件の時にもあそこには手をかけてはいけないと云うことになったらしい。
この土地のために何か役に立ちたいと云うことで塚本 定右衛門さんは山梨に植林をして100年たって素晴らしいヒノキの山に成っているらしいです。

伊藤忠兵衛さんは「商いは菩薩の行」と云っていて、利益はこちらから設けてやろうという事では無くて、高望みするのではなくて、成る様になると云う考え方だと思います。
近江八幡、西川利右衛門さん、「先義後利栄」と言っている、いい事を先に施しをすると利益は後から付いてくる、そして栄える。
豊郷小学校 土地、建物を寄付した。
当地出身の豪商・薩摩治兵衛をはじめとする有力者から寄付金を得て、校舎を新築
丸紅の専務取締役であった古川鉄治郎が学校の新築費用の寄付を申し出、2代目校舎が建築された。
自分の家を建てる時にも、世の中が不景気の時に自宅を普請すると云う事が良くあった様です。(そのほかに橋の普請とかもいとまがありませんでした)
若い人にこの現実を良く知ってもらいたいと活動しています。
民間の経済団体が多いですが、婦人会の方が近江商人の奥さんはどのような暮らしをしていたのかと云う問いがありました。
近江商人は単身赴任だったんです、上り口に男の下駄を並べていたり(亭主はちゃんといます)、奥さんは読み書きそろばんを指導したり、人事権を持っていて、仕事ができるようになったら出店先に送り込んだりします。

三方よし研究所では、今年から講師養成講座を設けました。
堅実に企業存続させて行く時に何が必要か考えた時に、社員のための会社に成っているか、それがあって始めて相手さんが満足していただける、そういう関係が持続することによって社会が潤ってくるのではないかと、今振り返る時期ではないかと思います。
先人の工夫を改めて見直されています。
日本は長寿企業が多いので、海外からの研修があります。
企業の歴史が少ない中国、韓国、台湾が多いです。
月に2~3社来ます。
一番大きな世間と云う輪の中がうまく収まる様に二つの物(売り手よし、買い手よし)が調子よくリンクして行くという、そういうふうな社会になればいいと思うので、本来の世間よしと云う考え方を広めて行く必要性があるのではないかと思います。
いい事は密やかにする、そして自分がやったと威張らない。



















2017年7月21日金曜日

大野義夫(カントリー歌手)     ・アイ・ラブ・ヨーデル!

大野義夫(カントリー歌手)     ・アイ・ラブ・ヨーデル!
昭和6年東京杉並生まれ。
中学生の頃お兄さんからウクレレを教わり、その後自作自演のスチ-ルギターでハワイアンバンドを作って、お祭りの演芸会などで演奏していました。
法政大学入学と同時にウエスタンジョリーボーイズを結成、6大学音楽リーグ戦、アメリカ軍のキャンプなどで活躍しました。
その後、マウンテンボーイズ、サンズオブドリフターズ等いくつかのバンドに参加、1957年3月、「堀威夫とスイングウエスト」発足と同時に参加し、以後60年余りにわたって、戦後のカントリーアンドウエスタンの世界をリードしてきました。
1960年にオーストラリア、ハワイ、アメリカ本土をバンジョーとヨーデルの武者修行で回ったことが今日の大野さんを作ったと言います。
85歳の今も現役歌手としてライブやコンサートで活躍しています。

今は月に2から3回やっています。(1時間を2回で一つ)
声は最近歳とともに出るようになった感じはしています。
ヨーデルの場合が半音下げて歌います。
風呂に入って20~25分歌っています、それが練習です。
ヘッドホーンして30分ぐらい歌ったりもします。
以前は腕立て伏せ100回やっていたりしました。
ヨーデルはアメリカからレコードを取り寄せて擦り切れるまで聞き練習しました。
1945年 14歳の時にウクレレが置いてあるのでいじってそこから始まりました。
或る時スチ-ルギターの音が聞こえてきて凄い音だと思って、購入するには高かったので作ろうと云うことになりました。
友人が楽器屋のスチ―ルギターのメッキ屋で失敗したものから集めて作りました。
買うと7000円が1000円ぐらいでできました。
9月にお祭りがあり申し込んで出演しました。

昭和26年5月11日に新橋のRAAビアホール米軍専門のホールに行ったときに原田さんのスチールギターを聞いたときに凄く上手くて自分では無理だと思って辞めると言ったら、歌も歌うと云うことでそこに入りました。
ウクレレ、ギターをやっていたら、バンジョーを頂き(オーストラリアのジョン・ベスパーさんがヨーデルを歌う、バンジョーを弾く人)周りは誰も弾いていなくて、弾き方が判らなくて、オーストラリアにいい先生がいるのでいかないかと堀さんからいわれて、それが本気になってきてほんとうに行く事に成りました。
ヨーデルはスイスのアルプス地方とは違うが、ウエスタンスタイルはステージでもうけるように自分なりに勉強しました。
ウイリー沖山さんとはヨーデルの言葉が違いますが、共演するようにもなりました。
23年前喉にポリープが出来て、ヨーデルの声が出にくくなりました。
平成6年6月6日に手術をして貰って、声が出るのかと思って心配だったが声が出て嬉しかったです。

法政大学に入学して、6大学音楽リーグ戦がありそこでやっていました。
法政大学ではウエスタンジヨリーボーイズで2年ちょっとやっていました。
サンズオブドリフターズには変遷してゆきますが、坂本九、井上ひろし、岸部清、桜井輝夫などがいました。
1957年(昭和32年)3月に「堀威夫とスイングウエスト」を結成し、そこに加わりました。(9人バンド 今も全員生きています)
昭和34年8月から12月までオーストラリアでバンジョーの勉強をしました。
午前中は庭で練習して、自分が思っている習いたいバンジョーのスタイルではなかったが、一生懸命やりました。
週末にはパーティーがあり、日本の歌を歌えと云うことで黒田節などを歌い他にも向こうの歌も歌いました。

ハワイ経由でアメリカに渡って、グランド・オール・オプリ(テネシー州ナッシュヴィルのラジオ局WSMの毎週土曜夜のカントリー・ミュージックの公開ライブ放送のラジオ番組 「カントリーの最も有名な舞台」と呼ばれる)に東洋人として初めての出演となりました。
テンポが早くてヨーデルを入れてみんなを知っている曲を選べと云うことで、「コロンブス監獄のブルース」をやったら大喝采を浴び、一生忘れられない思い出です。(1960年5月7日)
帰国後、スイングウエストから独立して、自分のバンドを作って3人で始めて、その後編成が増えて行きました。
米軍キャンプがまだ華やかだったので、稚内から青森から関東、横浜、九州、沖縄(返還前)まで行きました。
韓国、グアム、フィリピンなどに行きました。
「大野義夫&カントリー メイツ」と「マウンテンプレイボーイ」(ジミー時田)と一緒に成って「フォーークソングとカントリーの夕べ」と云うことで日本国中回りました。
頑張って新しい歌も挑戦しています。


























2017年7月20日木曜日

渡辺祥二(農業生産法人代表)     ・新しい発想で魅力ある農業を

渡辺祥二(農業生産法人代表)     ・新しい発想で魅力ある農業を
岐阜県出身、元々建設関係の仕事をしていました。
あるとき自然を守る農業の仕事をしたいと、思いたち作物を探していたところ、熱帯原産のドラゴンフルーツという珍しい果物に出会いました。
10数年前にこの植物の苗木を輸入して栽培に取り組み、今では果物として食べるほか、ジュースやジャムに加工して商品化に成功しました。
一方渡辺さんはヤギさん除草隊と云うものを組織して、ヤギを利用して緑地などの除草にあたり里山の保全や景観の保持に努めています。
これらのユニークな活動が認められて、今年の2月には第46回日本農業賞の食の架け橋の部の特別賞を受賞しました。

家畜ではなく益畜、昔からある言葉ですがもう一回復活させようとするのが今のとりくみです。(除草管理)
第46回日本農業賞の食の架け橋の部の特別賞を受賞。
農業に挑戦し始めた頃は冷ややかに見られていたが、10年余り継続して大きな賞を取れるまでになりましたが、評価が一転するのは明らかに時代の流れが変わったと云う印象の方が強いです。
高校大学でも農業は学んだことは無く、何をするんだろうなと云う目で見られていたのではないかと思います。
建設業の仕事を10年ちょっとやっていました。
当時公共工事の減少の時代で、不安を漠然と抱えていました。
農業用水、ため池、インフラ整備など農業の方々との接点はありました。
年何回も収穫できるもの、熱帯果樹に着目して、経験も一年のうちに何回かはできるので、アセロラ(フロリダスイーツ)にこだわってスタートしました。
アセロラの苗を買い付けに行ったときにドラゴンフルーツを知って、そこからドラゴンフルーツにはまって行きました。

今はドラゴンフルーツは3次ブームに成っています。
元々はサボテンの実です。
ドラゴンフルーツにも色々あり30品種があって、果肉の色、味も違うので、本来持っているポテンシャルをどう引き出すか、答えがないのでそういったところに魅かれました。
海外と日本では栽培環境が違うので、最初温度を上げないといけないのかなと思っていましたが、一番重要なのは5月6月太陽の光がどれだけ浴びれるかによって、蕾を出すタイミングとかがあると思っていて、冬場、収穫時期を考えて行くことによって案外いいものが出来るのではないかと思いました。
一番ネックになるのは冬場の温度ですが、重油を炊いていたが、温泉を使えばいいと地元の方からの助言もあって、是非やってみようと思いました。
ドラゴンフルーツは夜に花が咲くので、花を見に来る温泉観光客もいて、観光業とリンクする形になっていて、出荷先もなかったので観光客に食べてもらう仕組みをどう作っていくか、地域に循環できるような仕組み作りに心掛けました。
始めた当初、人脈もなかったし、資金もなかったし、その中でどうやるか、苦肉の策でした。

ハウス栽培なので梅雨の時期も問題ないです。
月下美人よりも1周り2周り大きくて、直径30cmある様な大輪を夜咲かせます。
花も営業ツールの一つでもあります。
ヤギを使った除草。
建設業時代公園なども作って森林の開発をやったりしていて、測量で入ってゆくと開発行為自体に対してあまりいい思いは無くて、その後の維持管理をしっかりしなくてはいけないと思っていた。
ベトナムに行った時に道路の土手に牛と牛飼いさんを見て、なんとなくいいなあとおもいました。
九州でヤギをレンタルすると云う話題を耳にしました。
ハウス脇の銀杏畑で高齢で面倒見れないと云うことで、ヤギが草を食べて除草管理ができるし、動物がいることで従業員が毎日元気かなと思って、仕事に来るのが楽しみになると言われて、それに魅かれて銀杏畑の管理を始めました。

2頭から7頭へと増えて行って、市の職員が草刈りをやっている光景を見て、ヤギでやってみようと実験が始まりました。
業務としてスタートしました。
ヤギさん除草隊として業務を遂行するためには、コストの管理もしっかりして行かないといけないと思いました。
人との比較計算が必要になり、岐阜大学の先生達と実証実験を始めて、一緒にやらせてもらっています。
大学、自治体と私達とで始めて、5年目になります。
食性が保たれるか、健康管理も見ていかないといけない。
現状人力よりも1/3削減できているが、安くなった分をコストをあげて農業
者の収入を増やすか、あるいはどこに投資するのか、地域全体を見た仕組みを作れないかやっています。

次の世代のためにも3/3でもいいのではないかと思っていて、焦点を当て直して、昔あったいい循環を今の形にどう展開するかが、次の世代を育てることに良いヒントになるのではないかと思います。
ヤギさんと学生のふれあい授業などもやったり、ヤギの堆肥を使ってヤギとともに耕作放棄地などの開墾してスイーツをと云うような活動もしています。
日本は学生がやる研究費をサポートする仕組みがないので、やれる範囲で研究費を出したり一緒にやったりしています。
地元の若い優秀な人たちが残る仕組みを作れるようにして行かないといけないし、現実に岐阜大学の学生が入ってくれています。
地域の子供は地域で育てると云う仕組みのことに対してヤギさん達はヒントを与えてくれていると思います
農業は夢があります、政府の云うような儲かる農業もありますが、お金ではなくて夢を
実現できる、夢に向かって突き進む様な人がいないといけない、そういった選択肢を提供する必要があると思います。
コミュニケーションさえ生まれれば、何とかなるような気がします。




















































2017年7月19日水曜日

池田澄江(中国帰国者・日中友好の会 理事長)・三つの名前で生きて(2)

池田澄江(NPO法人中国帰国者・日中友好の会 理事長)・三つの名前で生きて(2)
今村明子の名前は1982年に国籍取得のために付けました。
日本に永住が出来て、中国から主人も来てもらいました。
正式な仕事を探さなければいけないと河合弁護士に相談しました。
河合弁護士は残留孤児の戸籍を取るための仕事を進めていました。
河合弁護士に仕事の手伝いをすることになり、使用期間が2年間在り、そののちに正社員になる様に先生に相談しました処、承諾してもらいました。
厚労省の残留孤児の肉親捜しが代々木のオリンピックセンターで行われていた。
1994年12月14日の肉親探し説明会での通訳をした後に、喫茶店で60歳台の女性と出会いました。
姉も中国もに残されていて、話す中で同じ土地にいたことが判りました。
段々話すうちにどこの家に住んでいたのかを絵に書きました。
まさか姉ではあるまいかと思ったが、連絡先を確認して河合弁護士と相談して、DNA鑑定することになりました。
1995年2月にDNA鑑定してもらい、結果が1996年7月31日でした。
姉妹であることが間違いないといわれました。
51歳の時でした。

戸籍には死亡と書かれていました。
本当の名前は「池田澄江」と云う事が判り、心から安心しました。
親に逢いたかったが、母親は半年まえに亡くなっていました。
養母は立派な人で養母の思想、想うことが私に伝わってきたので養母には本当に感謝しています。
戦争がなかったらみんな親がいる、兄弟がいる、自分の幸せな家庭がある。
残留孤児に対する政府の政策を作ってほしいと思って、113万人の署名をして貰って、政府にも対応を持ちかけました。
2002年から帰国者の待遇改善の裁判を日本各地で行って、全国の代表として活動しました。
原告側に参加たのは2212人でした。

生活保護の人がほとんどでした。(国民の税)
言葉が出来ないと働く場がない、全国で同じような思いをしていた。
2007年に裁判が終わりました。
15か所で控訴した結果、7か所は敗訴、1か所は勝訴、7か所は和解となりました。
残留孤児20歳~60歳までの国民年金全額6万6000円が日本にいなかった期間があっても65歳になったら貰えるようになりました。(2008年4月~)
帰国した配偶者も4万4000円貰えるようになりました。
生活をするために他に支援金もあります。(二人で17万円位になり生活は安定する)
2009年に日中友好の会をスタートさせる。
裁判の時は団結したが、その後はバラバラになってしまって、組織があった方がいいと思いもあり、日中友好の会を作りました。
5回訪問しましたが、会の最高齢は83歳です。
2世、3世も訪問団に参加しましたが、今後は若い世代に続けてほしいと思います。
日本に帰って来て、言葉が通じないとか、生活習慣の違いがあり、高齢化してきて、政府として残留孤児の介護、老人ホームの事を考えてほしい。
日中の関係がぎくしゃくしていることに対して心が痛みます。
仲良くするとみんな温かい心になる、行き来して友達に成り、戦争は絶対にしないでほしい。





























2017年7月18日火曜日

池田澄江(中国帰国者・日中友好の会 理事長)・三つの名前で生きて(1)

池田澄(NPO法人中国帰国者・日中友好の会 理事長)・三つの名前で生きて(1)
1944年旧満州黒竜江省生まれ。
終戦の混乱の中、中国人に預けられ、養父母の元で育ちます。
36年前肉親を探し求めて来日した池田さん、長い時間を掛けやっと実の姉達との出会いを果たし、日本で生活しています。
日中国交正常化45周年の今年、NPOの会員102人で中国を訪ね養父母の墓参りや、現地の人たちとの交流を深めて帰国しました。

6月の末、1週間日中友好の会102人とともに中国に行ってきました。
黒竜江省に行ってその後北京に行きました。
黒竜江省は残留孤児の70%が生まれ育ちました。
中国は第二の祖国です。
ほとんどの養父母は亡くなっています。
お墓参りをしてきました。
戦争がなかったら外国に残されることはなかった。
その後北京大学で交流会が行われました。
わたしたちの命は中国の養父母、みなさんによって支えられました。
今回で4回目になりますが、北京大学で若い人たちと交流を持ったのは初めてです。
去年の12月3日に北京大学のいん?教授が日中友好会の事務所にきて、残留孤児の歴史を研究する仕事で、先生の大学に行って若い人と交流が出来たらいいなあと話したら、最初快い返事ではなかったが、大使館にお願いして日中友好協会から向こうにお願いして、OKに成りました。

1944年(昭和19年)10月14日生まれで、戦争が終わった時には10カ月だった。
実の親は母乳が出なくて、泣く泣くB?さんという中国人に渡しました。
子供がいなかった除さん夫妻がお金を出して引き取ってくれて、「徐明」という名前になりました。
明るく優しい人でした。
8歳のときに(1953年)養母と日本の公安局2人と話をして日本人の児だと云うことでしたが、養母は反対して違いますと云ったそうです。
しかしその時に初めて日本人の子だと云う事が判りました。 
当時同級生達は日本人は鬼と呼ばれていて子供は小鬼といわれていました。
先生はいじめはだめですと、当時は助けてくれました。
養母に私は悪い人の子供ですかと云ったら、(人を殺す、家は焼く)みんな悪いのではなく兵隊ですと。
子供でも日本人は挨拶をするし、女性は優しくて、当時はその事を教えてくれました。

小学2年生、3年生の前半までは徐さんの家では人を雇ったりしていて裕福でした。
私は一人でいた時は衣服も綺麗にしていましたが、3から4歳のときに突然子供が来て、食べ物などいいものはその子にあげて残ったものを私にくれて、凄くやきもちを持ちました。
男の子は母親が亡くなりお父さんも仕事で面倒を見る人がいない、それに比べてあなたにはお母さんがいる、この子はかわいそうだと教えてくれてくれました。
9歳の時にお父さんが商売に失敗して、借金の取り立てに来て、お母さんは朝マイナス40度の寒いところで商売をしました。
夜中にそばにお母さんがいなくて台所に行ったら、お母さんが自殺しようとしていて、今の生活はどうにもならないが、子供を育てるのは自分の責任だと云うことで自殺は止めました。
服は買えませんでいたが、正月だけは嫁入りの時に持ってきた服のサイズを変えて、作ってくれた服を着ました。(血のつながりはないけど凄いお母さんでした)
教師になるため師範学校を卒業して、目標だった先生になって、結婚もして3人の子にも恵まれました。

1972年 日中国交正常化、1978年日中平和友好条約が結ばれる。
文化大革命の時には、初めて日本人、やばいなあと思いました。
中国にいるといくら頑張っても優秀な人間に成れない、公安局の人が来てあなたは日本人だから登録しなさいと言われました。
近くに日本人の女性が居てその女性と付き合うようになって、日本は悪いところではなくて、肉親を探すことはできると言われました。
養母にも話をして承諾して貰って申請をしました。
自分の親兄弟など本当のことを知りたかった。
1981年(36歳) 子供3人とともに帰国しました。
1980年の時に肉親捜しの件を朝日新聞の菅原さんに書面で渡して、そのことが朝日新聞にでて、北海道から直ぐに手紙が来ました。
中国では血液型は調べて無かったので病院で調べて、その人に送りました。
あなたは私の娘だと言われました。

戸籍取得にはまだ不足なのでDNA鑑定をすることになったが結果は違っていました。
中国に帰るだけのお金もなくて、法務局に行って日本での親捜しをしたいと云うことで
交渉したが、期間が切れたら強制送還するといわれてしまいました。
7つの遺書を書いて、自殺しようと思いましたが、3人の子供を見て、子供への責任を感じて生きる力を得ました。
東京では助けてくれる人がいるかもしれないと思って、菅原さんを介して東京に来ました。(1981年12月17日着)
12月24日、朝日新聞に大きな記事で全国から凄く応援してもらって、桜共同法律事務所の河合弁護士が電話をかけてきてくれて、助けてくれました。
1982年5月31日、日本の戸籍が取れました。
親の欄は親不詳、名前は通訳の方が今村と云う人で今村という姓を使ってもいいと云うことで、「今村明子」と云う名前になり、日本国籍を取得しました。(身元未判明孤児として初めて取れました)