2017年8月22日火曜日

さかもととしえ(絵本作家)    ・子どもがみた戦争

さかもととしえ(絵本作家)    ・子どもがみた戦争
金沢出身の絵本作家、さかもとさんは長い間忘れようとしても忘れられなかった戦争の記憶を、思い出すままに少女の目線で語り始め、勧められて絵本にして出版しました、2002年のことです。
平和の大切さを知ってもらおうと戦争を知らない子供や親、先生たちに頼まれて絵本の読み聞かせを行っています。

終戦の時は小学校3年生でした。
国民学校に入った時に教えてもらった音楽の歌詞、国語教科書を読んだものは覚えているのでいかにに教育が大事かが判ります。
終戦の時は新潟いいました。
父の転勤で新潟に来て強制疎開が全市に命令があり、市内から郡部に疎開しました。
食べ物は悲しい思い出ばかりです。
次の世代を育てることが必要と云うことで最初東京、横浜、大阪に給食が行われその後6大都市に展開しましたが、すごくまずかったです。
フスマ、ヌカ、ドングリの粉で作ったパンなので想像が付くと思います。
そのコッペパンとお汁が出て、おかずはなしです。
お汁には一切れの豚肉が出ましが、学校で飼っていた豚を給食につかっていたことが判った時にかわいそうで食べられませんでした。(お汁だけすすりました。)

焼夷弾の怖さ、夜な夜な敵機が来て空襲警報が鳴る怖さよりも、親から離れて経験した悲しさ、恐ろしさの体験がはじめてでした。
横浜では2年生まで居ましたが、その3月10日に東京大空襲がありました。
窓に映った真っ赤な美しい景色が綺麗で思わず「綺麗」と云いましたが、東京大空襲の時の景色でしたが、あの下で10万人が亡くなった命の炎だったということが、心の重荷になっていました。
絵本の字が読めるぐらい明るかったです。
トラウマになっていて夕焼けが厭です。
新潟の海岸での夕焼けを見ているときに横浜での記憶が戻ってきて、太陽が沈んでゆく絵を書いていました。(私は記憶がなかったが大人になって妹から言われました。)
焼夷弾の音と花火の音は同じで、江の島での花火は近くでは見れません。

焼夷弾が落ちる前に照明弾が落ちてきて、目標を定めてそのあとにバラバラ焼夷弾が落ちるわけです。
空襲は夜だけだったが、その後昼間も行われるようになりました。
登校の中途で空襲警報が鳴って戦闘機が来ると、地面にぱたっとして動いてはいけなかった。
新潟で8月の初めころ、父が来て特殊爆弾で広島は全滅だと言いました。
その後だったと思いますが、毎日グラフを父が見せてくれて、めくるページが炭のように鼠色か黒で、眼を凝らすと電信柱を折ったもの、薪が燃えているような形がうっすら見えて、それが手や足が曲がっている人間の焦げた姿だと判ったページがありました。
しかし、それは直ぐに発売禁止になったようでした。
見た衝撃は忘れられません。

広島に落ちる前に、行政は新潟に原子爆弾が落ちるという秘密情報を入手して市民を強制疎開させたわけです。
新潟に原爆を積んだ飛行機が来たが、天気が悪くて引き返したということを後で知りました。
天気がもしよかったら、私は今こうして生きていなかったです。
8月15日は特別な放送がありから集まるようにと云うことで、村長さんの家に行きラジオを聞きましたが、良く判りませんでした。
大人の人たちが泣いていました。
その時よりも私は真珠湾攻撃に高揚した大人の人のほうが強い記憶がありました。(5歳)
1942年に初めて大きな飛行機(B29)を見た覚えがあり、恐怖感がありました。
父は疎開のためのキップを購入するのに、攻撃の飛行機が来る中桜木町の駅で5日間かかりました。
上野駅から金沢に経つわけですが、2日間地べたに待ちました。
20時間ぐらいかかって直江津に行きました。
新潟はアルミニュームの精錬工場があると言うので、原爆投下の対象になったようです。
色々親戚をたらいまわしになったりして、学校は6回ぐらい転向しました。

友達と佐々木 禎子さんの話しているときに、戦争体験を本にしたらどうということがきっかけになって、本を出すようになりました。
映像を文にしただけですが。
子供は強烈に残ったところは忘れられません、消せません。
小学校4年生の教科書に「一つの花」今西祐行さんが書かれた戦争の物語が出てくるが、平和教育として私が呼ばれて、朗読して話をする機会が何回もありました。
2度とあの怖さは体験したくないし、子供に体験させたくはないです。
当時の日常は生と死の境目ですが、子供はそんなことは考えずに、空襲警報が終わったら遊ぼうと云う感じでした。
焼夷弾などで何時死ぬか判らないので、「行ってらっしゃい」の後ろに言葉にならない通じ合うものがありました。
緑内障といわれて、いずれ両目失明する状況ですと云われました。
最近、頸動脈に狭窄があり、小脳が委縮してゆく病気だと宣告されてしまって、そのうち歩けなくなるといわれてしまいました。
喋るるうちに喋ろうと、出来るうちに出来ることをしていれば悔いがないのではないかと思います。

























2017年8月21日月曜日

大藏基誠(能楽師狂言方)      ・【にっぽんの音】聴きどき和楽器 2017夏編

大藏基誠(能楽師狂言方)         ・【にっぽんの音】聴きどき和楽器 2017夏編
一噌幸弘さん(能楽師笛方・笛演奏家) 6月にも出演。
わらぶき 日本のうたのCDから 
*「五木の子守唄」演奏 一噌幸弘さんの田楽笛とギターリストの高木潤一さんとの共演

*「ねぶた」 津軽三味線 はなわちえさん演奏 「Hello,World.」から
  2004年CDデビュー 世界20カ国以上の舞台で演奏

LEO(今野玲央) 16歳でくまもと全国邦楽コンクール最優秀賞・文部科学大臣賞に輝いた。
父親がアメリカ人、母親が日本人の1998年横浜生まれ。
*「さくら変奏曲」 LEO(今野玲央)さん琴の演奏(17弦琴)

箏曲演奏家  高橋雅芳さん
5歳より母(高橋雅楽郁)から箏(こと)をならい始める。15歳より箏・三味線を安藤政輝に師事。
第17回万里の長城杯国際音楽コンクール、邦楽部門第2位。第16回大阪国際音楽コンクール民族音楽部門第3位。
箏(こと)の魅力を海外の人たちに紹介しています。
*「à Paris」より 「ミステリアスな女性」 高橋雅芳さん 箏(こと)の演奏

小山豊さん 父は津軽三味線小山流家元小山貢。
国際交流基金派遣事業にてアフリカ・ヨーロッパ・アジア諸国など様々な国々を訪れ、日本文化の伝承に貢献している。
古典芸能という概念にとらわれない津軽三味線の新しい魅力、可能性と発展への活動も精力的に行っている。
*"YO" から「りゅうじゅ?」 小山豊さん(津軽三味線)小湊昭尚さん(尺八)Ty Burhoeさん(タブラ)の演奏
 インド音楽と邦楽のミックス

HANABIプロジェクト スターマイン 狂言バージョン
津軽三味線 久保田 祐司さん 尺八 中村仁樹さん(なかむら まさき)の演奏 大藏基誠さん 狂言





2017年8月19日土曜日

菅野寛也(日米戦没者の慰霊を続ける医師)・【戦争・平和インタビュー】

菅野寛也(日米戦没者の慰霊を続ける医師)・【戦争・平和インタビュー】
真珠湾、たったひとりの慰霊祭
84歳、少年時代2000人以上が犠牲になった静岡空襲を体験した菅野さんは、昭和47年から45年間にわたって空襲の犠牲となった市民と、静岡市内に墜落したB29のアメリカ軍兵士の合同慰霊祭を続けて来ました
平成3年からはハワイの真珠湾を毎年訪問し、真珠湾攻撃で沈んだ戦艦アリゾナの上に作られた記念館、アリゾナメモリアルで日米戦没者の慰霊を続けています。
その活動は年々広がり、去年初めて開かれた日米両国の公式の追悼式典の実現に繋がりました。
安陪総理大臣とアメリカの当時のオバマ大統領の共同会見も行われ、菅野さんも出席しました。
菅野さんは敵味方無く死者を悼むことこそ、平和への道筋だと考えています。

静岡に空襲のあった6月に静岡で、真珠湾攻撃のあった12月にはハワイで、それぞれ慰霊祭を開催しています。
毎年200人ぐらい、横田の米国軍の人達40~50人ぐらいが参列してくださっています。
真珠湾の方は真珠湾攻撃の生き残り、生存者協会があるが、一般の人も多くなった感じです。
小さいが厳かな雰囲気で行われます。
鎮魂慰霊ということは国境とか民族、時代も越えて、人類共通の気持ちだろうと思います。
静岡では日米双方に犠牲者が出ている、日本の市民だけの慰霊祭をやっていたらアメリカの人たちにはその気持ちは通じないです、逆も同じです。
死んでしまえば敵も味方もない。
両国の合同慰霊祭をやらなければ、ほんとうの和解とか理解は得られないんじゃないかと思います。

当時11歳、毎晩B29が大編隊で空襲に来ました。
富士山を目標に来ていて、東京がまたやられているなあと言っていました。
11時過ぎにラジオで少数機が伊豆半島を西北進行と云う放送が入って、父がこれはいつもと違うと言ってました、市の中心街に火の手があげりました。(焼夷弾攻撃)
安陪川に逃げて、河原の近くにあった土管の中に隠れていました。
「落ちるぞ」と云う声があり、爆弾かと思ったら敵機が衝突して落ちたようだった。
一機が安陪川橋の近くに、もう一機川向こうによたよた飛んで行った。
町は黒こげの真っ平らな土地だった。(皆焼けてしまった)
防火用水の中に上半身を突っ込んで黒こげで死んでいるのを見ました。
敵愾心もわいてきたし、これでは戦争は負けではないかと思ったりしました。
アメリカ軍23人いたが、何人かの遺体をみました。
中には石をぶつける人もいました。
私はこいつらも戦争の犠牲者だとは一瞬思いましたが、口には言えませんでした、回りから袋叩きに会いますから。

祖父が日露戦争で満州で戦っていたときに、弾が飛び交う中で、ロシア兵の戦傷者にも手当をしたと、これが軍医の務めだと、私が小さい頃祖父から聞いていました。
敵兵だけどもし生きていれば祖父だったら手当をしたんではないかと私は考えたんでしょうね。
昭和47年に静岡市で初めて日米合同慰霊祭をしました。
医者になって静岡に帰って来て、浅間神社のある賤機山(しずはたやま)に登った時に、平和観音像の横にB29墜落搭乗者の碑を見て、一瞬思い出したが、慰霊碑を建てた人がいたことが吃驚したと同時に山の上に石文を作る人が凄い人だなと思いました。
伊藤福松さんが建てたということが判り、話をしたいと思いました。
死んでしまえば敵も味方もないということでした。
伊藤さんは当時市会議員だったそうで、伊藤さんのお兄さんの桑畑に落ちたそうです。
最初木の十字架を立てたそうですが、その後伊藤さんはB29の死者を弔うために修行をして坊さんに成ったと聞いています。
私財をなげうって、静岡市民のための慰霊の観音像と、B29の石文の碑をつくったということです。

米軍にそのことを連絡して、2~3人と後で電話がかかってきて、アメリカ兵の人たちと一緒に慰霊祭をやりませんかと云うことで、大使館のひとを含めてバス2台で80人ぐらい来ました。
それが日米合同慰霊祭のスタートでしたが、抵抗はありました。
間接的にもありましたが、直に私の方に2~3人来て言われました。
或るおばあさんが最初反対だったが、2から3年してから有難うと私に言って下さって、判ってくれて良かったと思いました。
あとの懇親会で、或る人が「ここへきて日本に対する印象が全く変わりました、有難うございました」と言ってくれました。
亡くなった方は新婚早々の御主人だったそうです。
それを聞いた時には慰霊祭をやって本当によかったと思いました。
遺品の軍用水筒、燃えさかるB29の中で関節の跡までくっきりと残っている、死の瞬間まで握っていたんでしょう。
たった一つの遺品で、慰霊祭の時にバーボンを入れて慰霊碑に注ぐというセレモニーを行っています。

兵士の死の瞬間を記録する様な水筒でも水はもらない。
墜落しないで帰っていたら、バーボンを飲んでいるだろうなと思って、この水筒にバーボンを入れて献酒する、インパクトの強い行事の様で献酒をしてきたことが広がる訳です。
この水筒は宝物、平和の武器かもしれません。
慰霊祭、鎮魂式、戦死者に対する行事はよりアメリカでの反響の方がはっきりしている。
評価してくれています。
真珠湾攻撃ではアメリカ側は民間人を含む約2400人、日本側は65人でした。
平成3年(日米開戦50年)ハワイの真珠湾でも慰霊を行おうと決心しました。
戦争のはじまった土地で慰霊祭をするということは意義があるのではないかと、その年の夏にハワイに行きましたが、大変厳しい空気でした。
想像は或る程度していたが、アメリカ人に知ってもらわなければならないと思って、自分はこういうことをしている知ってもらいたいと思って、12月にたった一人で慰霊に向かいました。

聖水を桟橋で献水して帰って来ました。(たった一人の慰霊祭)
一回だけでは意味がないと思った。(続けなければ成果は出ないと思いました)
恨みつらみはあると思います、数年は突っかかって来る人はいました。
しかし、水筒を見せて、説明をすると全然ガラッと変わってしまいます。
日本に対するイメージを打破しようと、そういう意味では20数年かかったけれども、それなりの目的、成果はあったと思います。
2年目からはアメリカ海軍の人たちがプライベートでエスコートしてくれました。
段々広がってきて、たった一人で慰霊祭で行ったことが、きっかけにはなったかなあと思います。
あなたと水筒がないと始まらないよといわれました。

日米双方の戦死者の慰霊をアメリカの海軍と日本の領事館の主催で行われ、80名ぐらいでやりましたが、吃驚したのは両国の国旗が入場してきて、両国国家の吹奏が行われました。
恨みつらみのある場所で君が代を聞いた時は身震いするほど感激しました。
12月には日本の総理大臣とアメリカ大統領が真珠湾で一緒に戦没者の慰霊が行われました。
もっと早く実現してほしかったなあと思うことと、安陪総理もオバマ大統領もまず第一に慰霊鎮魂と云う意を表してくれました。
かつての敵同士は本当に心底から理解しあえるかどうか、判りませんがお互いの犠牲者を鎮魂するということは、心に伝える行事だから、親善だとか、和解だとかの結果をもたらすには、まず第一にそのようなことをやらなければ始まらないと思います。
心が通じなければそれ以上は進まない。
謝罪と云うことは物凄く難しい、謝罪をしても謝りにならないこともあるわけです、却って恨みつらみに火を付けることもあり、難しい。
後何年続けられるか、できるだけ続けられるように活動するのが目標です。
国家とか自治体とか、力を持った者が顔を向けてほしいです。
私がいけなくなった時にはどうしようとすることは、相談しようと思っています。












































2017年8月18日金曜日

井上万吉男(全国強制抑留者協会元理事長)・【戦争・平和インタビュー】

井上万吉男(全国強制抑留者協会元理事長)・【戦争・平和インタビュー】
今こそ語り継ぐシベリア抑留 最後の証言
井上さんは1925年今年92歳、19歳で軍隊に入り、終戦は北朝鮮で迎えました。
当時のソ連によって3年間北朝鮮やウラジオストックに抑留され、厳しい食糧事情の中、炊事班長として抑留者たちの食事作りを担当しました。
日本に帰国してからは平成元年に設立された全国強制抑留者協会の一員として、何度もロシアを訪問し抑留中の労働に対する賃金の支払いなどを求める活動に取り組んできました。
また地元の鳥取県では抑留体験を語り継ぐ会を毎年開催し、戦争を知らない世代にシベリア抑留の悲劇を伝え続けて来ました。

抑留体験を語り継ぐ会を今年は5月に開催しました。
体験者は若くて91歳ぐらいで、体力的になかなか難しいと思っています。
この辺で区切りをつけようと思っています。
戦争は二度と起こしてはいけないので子や孫、国民に伝えたいというのが、思いです。
19歳で軍隊に入りましたが、よろこんで入ったのは事実でした。
郷土の繁栄を願いながら、戦争はやらねばいけないというのが本音でした。
北朝鮮に行き、教育を受けて、幹部候補生になりたいという思いがあり、夜も勉強しました。
日本が敗戦と云うことは全然頭にありませんでした。
重大な放送があるということで非常招集があり、戦争に負けたんだということが判りました。
日本を出る時にはもう二度と家族には会えないだろうというような気持で出ていたのですが、ラジオ放送を聞いた後、冷静になって考えたときに、故郷に帰れるかもしれないと思ったのも事実です。

日本に帰れるかもしれないということで、テントを使ってリュックサックを作り、出来るだけ色々な物を詰め込みましたが、ソ連兵に全部没収されてしまいました。
脱走した者もいますが、成功したのは1割ぐらいであとは射殺されたりしました。
誘われたが言われるままにした方がいいという思いがあり、脱走すると云うことは思いませんでした。
北朝鮮に1年いて、その後ソ連に行くことになります。
満州鉄道で行き、その後3日3晩歩いて着きました。
その間、道端に疲れきって倒れている日本兵もいましたが、我々自身も疲れきっているので助けるということはできませんでした。
強制抑留されたのは約60万人、そのうち亡くなったのは6万人といわれるが、不明が何万人かいます。
ウラジオストック郊外だといわれて場所が判りました。
ウラジオストックから船で日本に帰してやろうとうそを言っていました。

厚生労働省によると、57万5000人が抑留されてそのうち5万5000人が命を落としたといわれています。
体育館のような建物があり、そこに収容されていました。
寒さは零下40度ぐらいの寒さがありました。
ウラジオストックは1mぐらいの氷が張ります。
防寒具は日本の兵隊の防寒具ですが、零下30度ぐらいまでにはぬくもりを感じますが、零下30度を過ぎると動けば動くほど寒いです。
漁船が捕ってきて冷凍された魚を箱詰めしたり、箱作り樽作りしたり、缶詰め工場の作業をしたりしました。
50~70kgの魚の箱を一人で担いで貨車に積み込み、ノルマがあり終わらないと帰してもらえない。
私は水虫で靴が履けなくて、下駄ばきで出来るのは炊事が出来るということで、炊事班長と云う役割でやっていました。

器具はあるが薪がなくて、魚の箱があるのでかっぱらってきて炊き上げました。
ソ連兵に尋問されて、魚の箱は国家の財産だということで、鉄格子の暗闇の中にぶち込まれ、これで人生はおしまいかなと思い一夜を過ごしました。
一夜明けて又尋問されて、帰ることが出来ました。
主食は粟、稗、こうりゃん(モロコシ)、大豆かす、小豆など。
栄養もたらないし、栄養失調になったりして亡くなって行った人もいます。
食べるものでは、誤魔化したのではないかと云うことで、喧嘩になるようなこともありました。
或る晩夜中の12時ごろソ連の兵隊に起こされて、棚にパン、肉が残っていてくれといわれて、日本人のものだからやらないと言ったが、撃つといって足元に撃ってきたので、とびかかって行きました。
銃声を聞いて向こうの憲兵がきて、私が事情を説明すると、兵隊は連れていかれました。
1週間後、ソ連の囚人を50~60人を見かけ、その中にその兵隊がいました。
捕虜として取り扱っていたものの、我々に対するソ連兵への規律も厳しいものもあると思いました。

ここでは死んではならないという思いがあるので、何とかしのげたと自分では思っています。
何時本土に帰れるかわからなかったが、船に乗れといわれて、そのまま日本に帰ることができました。

ソ連に抑留されていた時期は青春の時期でした。
無謀な国策によって奪われたという腹立たしさは全体に感じています。
戦争自身は愚かなものであって、我々の青春が奪われと云う気がしてなりません。
捕虜は国際法で或る程度労働を課してもいいが、我々はそうではない。
ポツダム宣言があるが、ソ連だけがそれを破って、北朝鮮、満州にいた日本の連中を強制的に自分の国に引っ張って行って、重労働させたと云うことで、我々は捕虜ではない。
労働に対する報酬を出してほしいと要望した。
戦友が亡くなって、いい加減な埋葬されてるので、我々が行って整理しなくてはいけないということ、遺族を含めて墓参したい、と交渉したが全然できてなくて残念に思います。
抑留体験を語り継ぐ会では、基本的には戦争をしてはならないと云うことが根本で、事例を挙げて事実を話す、どういう労働をしたか、道路作り、鉄道作り、木の伐採、建築などを話しています。
三重苦即ち、寒さ、栄養失調、重労働に悩まされながら、何年か働いてきました。
語り部が繋がって行ってくれればいいと思っています。
ソ連に対する憎しみ悲しみはありますが、それを乗り越えて平和でなければならないと思っています。




























2017年8月17日木曜日

上野麻実(国境なき医師団 助産師)・【戦争・平和インタビュー】

上野麻実(国境なき医師団 助産師)・【戦争・平和インタビュー】
紛争地から世界を変えてみよう!
福井県出身33歳、妊産婦の死亡率の非常に高い紛争地のアフガニスタンやイエメンなどで国境なき医師団の助産師として働いてきました。
戦争が身近にある過酷な環境のなか、7000人以上のお産に立ちあって来ました。
帰国した際には、地元福井、横浜、大阪などの中学生や高校生たちに自分が見た戦争の平和、命の尊さを伝えています。

7000人以上のお産に立ちあって来たこと自身に対して自分でも驚いています。
現場では数を数える時間すらない忙しさなので、帰国してお産を振り返ってみると、すごい数の出産にかかわったんだなあと思います。
2013年からイエメンに6か月、2015年にはアフガニスタンに7カ月派遣されて13カ月間で7000件余りと云うことになります。
アフガニスタンでは月に900人の出産がありましたので、1日に25~30人の赤ちゃんが生まれています。(30分おきに一人の赤ちゃんが生まれる。)
赤ちゃんの産声を聞いたときにはほっとします。
基本的にはアフガニスタンの助産師を支援する働きなので必要な技術、知識の指導したり、薬剤や機材の物品が補充されているか、しっかり動くかどうかを確認する為の指導監督する立場ではありました。
新しい助産師をリクルートすることもしていました。

カブールのその地区には100万人以上の人口がいると言われていましたが、緊急のお産に対応できるのは、私たちが支援していた病院だけでした。
金曜日、土曜日は休みですが(イスラム教のカレンダー)、外に出るのは安全上難しいのでできませんでした。
外国人スタッフは誘拐されるリスクが高い。
病院の隣に家を借りて、病院への移動も5分ぐらいですが、車の移動をしていました。
市場に行ったりすると、アフガニスタンでは普通に暮らしている人たちは居るんだなあとも思いました。
他の国のスタッフとバーベキューをしたり、色々楽しみも見付けました。

イエメンでは紛争で傷ついた兵士が実際に運ばれることもありました。
イエメン人の男性はみんなカラシニコフという旧ソ連の銃を持っていて、ジャンビーアというナイフを身につけて歩いています。
イエメンに初めて行ったときに、6歳ぐらいの少年が銃の隣に坐っている様子を見たが、こういう環境にある国なのだなあとショックでした。
行ったときに、恐怖感よりももっと何が起こっているのかと云う方が強かったように思います。
或る少女との出会いがあり、16歳で結婚、出産するが、初めての赤ちゃんを亡くてしまうことが起きてしまいました。
病院に行く事が出来ず、運ばれた時には赤ちゃんの心臓の音は止まっていました。
誰が一緒にいたのかを聞いた時には、資格を持っていない女性だったようです。
病気にも成っていて、難産で苦しんだ時に直腸と膣がくっついてしまって、意識のない時に失禁失便をしてしまったりする病気(フィスチュラ)でした。(破水もしていました。)
聞いた話だが、3日かかってお産するということは、時間がかかり過ぎている。
フィスチュラという病気も合併していたので、病院で1週間ほど入院しました。(ふつ普通は1日で帰れるが)
彼女は一人ぼっちだったので、彼女とは言葉は通じないが、一緒に涙することもありました。
折り鶴を折ってやったりもしました。

彼女が願っていたのはお産をして、赤ちゃんを胸に抱きたかったろうなあと思います。
紛争によって必ず弊害があり、医療施設が正しく機能しなくなり、人もいなくなり薬品も届かない、安全にお産できる病院も少なくなってしまう。
戦争の背景には絶対に貧困で困っている人がいます。
彼女も同様で学校にも行っていなくて、二番目の奥さんになっており、家族が減ることによって家族の生活としては楽になる。
イエメンでは絶望感を味わいましたが、これを変えるためにどうしたらいいのだろうと考えるきっかけになったと思います。
医療の枠組みからすこし離れて勉強したいという思う様になりました。
公衆衛生という分野で、政策、法律、地域を巻き込んだ保健システムについて勉強したいと考える機会になりました。

高校3年生の時にインドにボランティア旅行に行ったのが、国境なき医師団への一番の始まりになるのではないかと思います。
或るきっかけで母親から行ってきたらどうといわれて、行きたいと思いました。
マザー・テレサも好きだった。
2週間ほど滞在して、そこには孤児院、訓練施設、教会があり、病院での出産を目撃する機会がありました。
突然呼ばれて、マスクとエプロンを渡されて、入るとお母さんが寝ていて、生まれる瞬間だった。
赤ちゃんが生まれてきてて女医さんの手の中で動き出す瞬間、泣き声を目撃して、赤ちゃんはピカピカしていて、命の輝き、平和の瞬間だなあと云うことを思いました。
その出来事が私の進路変更のきっかけになりました。
助産師の仕事が独り立ちできるようになり、新入社員のスタッフに指導できるレベルになってから挑戦しようと思いました。
そういった置かれた環境に感謝しています。

気持が折れてしまって、もう立ち上がれかもしれないと思うときはあります、決して自分は強いとは思わないです、ポジティブな姿勢は常に持っていたいとは思います。
廻りで支えてくれる人も必要です。
中学生、高校生に経験を話す機会を与えられて感謝ですが、自分自身の思春期の悩みと今の10代が抱えている悩みは同じだと思うので、悩みを解決する手助けになればいいなあと思っています。
講演活動を依頼された時には写真を使って、見せて、現地での活動、経験などを話します。
学生さんたちの反応を書いて送ってくれますが、それを見ると私自身が励まされるコメントが色々あります。
日本の若い世代と紛争地の若い世代と比べて、まず環境が一番違うことだと思います。
生まれた場所が違うだけで、こんなにも人生が変わってしまうんだなあと感じます。
望むことは自分の可能性を100%表現できる、そんな将来を一人一人に掴んでもらいたいと思います。
私はいつも希望を持ちたい。
難民がいて、戦争は収まらないし、そういったなかでも希望を持っていたい、一人の心が変わればそれが行動になって、一人の力が沢山の力を借りて何時か大きな力になるのではないかと信じたいし、願っています。
お母さんと赤ちゃんの命を守る、それが本当に大切に育まれて皆が笑顔で赤ちゃんの誕生が迎えられるような、そう云う社会を作ることの助け手になりたいと思います。






































2017年8月16日水曜日

有賀究(福島県石川町)       ・【戦争・平和インタビュー】

有賀究(福島県石川町)       ・【戦争・平和インタビュー】
原爆の原料 ウラン採掘に知らずに動員された少年たち
終戦間際、福島県では秘密裏に原子爆弾の原料となるウラン鉱石の採掘がおこなわれ、その作業に地元の中学生が学徒動員されていました。
場所は福島県の南部の石川町です。
石川町はおよそ150種類の鉱石我採掘できる全国でも有数の産地で、ウランを含む鉱石があったために旧陸軍が原子爆弾の研究場所として目を付けたということです。。
石川町で育った有賀さん(87歳)が当時採掘に従事した中学生の一人でした。
当初その目的が聞かされないまま作業が進められたと言います。
自分達が掘っていた石が原子爆弾の原料と知った時、何を思ったのか、二度と若者が戦争に巻き込まれないようにと戦後教員として平和の尊さを訴えてきた有賀さんに伺います。

昭和20年になると4年生、5年生の上級生はほとんど関東方面に勤労動員されて働いていた。
残ったのは旧制中学3年が最高学年でいずれ勤労動員があるだろうと思っていました。
3月に先生から勤労動員の話がありました。
石川山と沢田、2つ行き先を言われました。
石川山に着いた時にはいったい何をするのか分からなかった。
白い石の層を出してそれをつるはしで掘って石を一定の場所に運ぶのが仕事でした。
わらじばきでモッコに棒を通して運びましたが、大変でした。(雨の日以外は毎日)
4月12日にB29の編隊が飛んできて、石川町が銃撃されました。
人的な被害はなかったが、体育館とか家がぶち抜かれたりしました。
校庭は食べ物がなかったので、野菜を作ったりしていました。
全体的に追い詰められたような感じがあったが、日本は負けそうだとはだれも言わなかった。

或る日将校が皆を集めて、「君たちが掘っている石は、マッチ箱一つで米国の大都市を破壊できるのだから、一生懸命掘れ」との話がありました。
目的がはっきりしたので子供ながらに馬力がかかったような気がしました。
(石川での原爆研究と云うのは終戦後判りました。)
軍部にしてみれば内地は攻撃され、敗戦濃厚になってきて、ひっ迫していた。
出征していった親たちを思うと、子供ながらに勝ってほしいとは思っていました。
或る日キャラメルを渡され、励ます為とは思いますが、おいしかった思い出があります。
制空権、制海権も連合国側になっていたので、自由に飛行機が飛んできました。
8月6日 9日 ラジオで特殊爆弾が落とされたことを聞きました。
戦後、原爆ドームを見に行きましたが、戦争で殺し合うということ、焼けただれた衣類とか見ると、大義名分をいくら言っても、人間が人間を殺し合うということは許せない。

理研は昭和20年4月13日の大空襲で6割方の施設が破壊され、一部の工場が石川町に疎開し、原爆開発の研究が進められた。
私は石川で原子爆弾の研究していたことは判らなかった。
出来なくてよかったと思います。
戦争をしないようにみんなが努力していかなければいけないということだと思います。
作業からは逃れることはできなかった、上からの命令には忠実に従わなければならなかった。
教育勅語を読んで、国を守るために戦えという思想を植え付けられました。
8月15日、家で天皇陛下の放送があってよくきこえなかったが、父親が戦争に負けたと云ったが、ほっとした感じがあった。
平成22年から、「故郷と戦争を語り継ぐ会」を始める。
戦後何年か経つと、出征して戦死したことも忘れられてくるし、若者は8・15も判らない人もいるし、だから具体的に資料を出していかないといけないと思った。
事実を多くの人に知ってもらうことです。
石川の研究所に勤めていた人に手紙を出して、基礎的な研究をしていましたと言っていましたが、今にも爆弾が出来るような状態ではなかったとの回答を貰いました。
広島、長崎、戦争の事実を知ってもらいたいし、きちっとした意思表示をして貰いたい。
伝えていかなければならない責任があります。
































2017年8月15日火曜日

張本勲(元プロ野球選手)     ・【戦争・平和インタビュー】被爆者としての使命

張本勲(元プロ野球選手)     ・【戦争・平和インタビュー】被爆者としての使命
77歳、昭和34年にプロ入り、球界を代表する打者として活躍しますた。
日本のプロ野球で最も多い3085本の安打の記録は今も破られていません。
張本さんは5歳の時、広島の自宅で被爆しました。
爆心地からは山の反対側にあたり、原爆の熱風や爆風を直接受けなかったため、けがはありませんでした。
しかし、4人兄弟の内、長女の点子さんは原爆で亡くなりました。
張本さんはみずからの被爆体験はもとより、自分が被爆者であることも現役時代から引退後しばらくまでは周囲に語りませんでした。
しかし、次第に戦争を経験した人が少なくなり、若い世代に平和への意識が薄れて来ていると感じた10年ほど前からは、積極的に自分の経験を語り伝えようとしてきました。
張本さんの野球人生に原爆はどう影響したのか、被爆体験を語らせるよう張本さんを突き動かした物は何だったのか、被爆者として何を思いを伝えようとしているのか伺いました。

戦争はおわったが被曝者には終わりはないですから、8月になると厭な思いをします。
当時5歳で、路地裏で遊ぼうとしてドアを開けたら、ピカと光ってドンと音がしたということしか覚えていないです。
おふくろが覆いかぶさってかばってくれました。
ぶどう畑に逃げなさいと言われました。
2km先の人たちは全滅でした。
うめき声叫び声がひどかった、人肉の臭いがして、この二つは覚えています。
熱いのでどぶ川に飛び込んでいました。
11歳の姉は勤労奉仕で比治山のてっぺんにいたそうですが、全員全滅だったようです。
翌日担架で運ばれてきた姉は自慢の綺麗な姉だったが、ケロイドでこれが姉さんかと思いました。
朝方おふくろが大きな声で泣いたそうですが、亡くなったのはその時だったような気がします。
韓国から来たおふくろですから、文化の違いで姉の形見は一切残さないです。

今考えると人間の所業ではないと思います。
友人知人は沢山亡くなりました。
被爆した人に対して転校してきた子は一緒に遊ぶなといわれたんです、うつるからと、ケロイドなのでうつるわけがないのに、保護者がそういったんです。
差別されるのではないかと思って、私は物ごころついてから一切言わなかった。
夫婦で先生をやっていた私の担任の先生が、被曝の関係で子を作らなかったそうです。
被害は爆弾だけでなくもろもろの不幸を抱え込んでいる、戦争、原爆は罪が重いですね。
5年後、10年後に亡くなった人もかなりいます。(原爆症)
球団で年に1回健康診断がありますが、なにかあるのではとその時は厭でした。
38,9歳の時に目の病気になりましたが、原爆とは関係なかったのでほっとしました。

私は365日、300回素振りをすることを課しました。
王貞治さんと食事をする時には、お互いに俺の方が振ったと笑いながら言いあったりしますが。
原爆で亡くなった人たちは20万人以上と言われますが、ノーベル賞を貰った人がいるかも知れない、私より凄い選手がいたかもしれない。
犠牲とは言っていない、私たちの身代わりですから。
TVを見ていて若い人たちの座談会で原爆の落ちた土地も知らない、せめて広島、長崎に原爆が落ちたことぐらい知ってほしいと思った。
6日と9日は飛ばして無くしてもらいたいと新聞に投書したが、小学校5年生の子が逆ではないでしょうか、忘れないためにも6日と9日は残した方がいいということが新聞社経由で私のところに届きました。
その小学校5年生の子は原爆資料館に行って怖かったけれど全部見てきたそうです。
以前私は原爆資料館に行ったが手が震えて、汗が出て、入れなかった。(2回行ったが)
その小学生に動かされて私も原爆資料館に行ってきましたが、涙なくして見られませんでした。(10年以上前)

原爆資料館は全世界の人に見てもらいたい。
修学旅行での見学が少なくなったと聞くが、中学、高校生に是非見てもらいたい。
オバマ大統領が来てくれたことに対してはほっとしています。
国連加盟国が193ぐらいと思うが、核廃絶しようと云うのが122カ国ぐらいで、70国ぐらいは核保有国に守られているから一概には言えないが、核廃絶すべきです。
核兵器禁止条約が採択されて、日本が賛成しなかったのは残念だと思うが、一方核の傘に守られていると云うことで難しい問題だと思いますが、核廃絶はしてもらいたい。
我々は最後のメッセンジャーだと思っているので、責任があると思っています。
私は被爆者でもあり、非常に貧乏だったし、王さん、長島さんとはちょっと違った野球道だったと思います。
こんないい国はほかにはそうないですよ、優秀で控えめで、義理人情が強く勇敢な民族だが最近ちょっとずれているような気もします。
今は自分さえよければいい、と云うような雰囲気があり不満です。
そこで色んなところで発言をする訳ですが。
いろんな意見を寄せてくれるので、参考にしながら又TVで発言する訳ですが。
礼儀そして、家族、市、県しいては国を守る人になってもらいたい。

































2017年8月14日月曜日

王貞治(世界少年野球推進財団)・【“2020”に託すもの】世界少年野球から羽ばたく夢

王貞治(世界少年野球推進財団 理事長)・【“2020”に託すもの】世界少年野球から羽ばたく夢
野球の普及を目指して王貞治さんが中心となって、進めている世界少年野球大会がいま横浜市で開かれています。
大会の狙い、自身の少年時代のこと、去年亡くなった恩師の荒川博さんの思い出などを世界少年野球推進財団理事長、王貞治さんに伺いました。

世界少年野球は27回目を迎えました。
子供たちの笑顔、瞳の輝きを毎年見ているので、やっぱり子供達のそばにいたいと思います。
最初彼らに何かプラスになるものがあればと思ってスタートしましたが、今はこちらがパワーを貰うような思いです。
30年間ジャイアンツのユニホームを着ていたので、ユニホームを脱いだ時に何をしたらいいか悩んだが、自分が一番得意なものをやったらいいんじゃないかと友達に薦められて、野球を通して子供達にチャンスを与えることが出来ればと思いました。
ハンク・アーロンにこういうことをやろうと思うがどうかなと云ったら、それはいいじゃないかと、出来たら協力すると言ってくれて、いつの間にか世界と言うよな名前が付くほどになりました。

スタートするまでに1年かかっています。
そのころは日本経済もよかったので、子供達のことをやるのでよろしくお願いしますと言うことでお金、好意を受けましたがバブルがはじけて、予算を組むのに苦労するようになりました。
大会規模も縮小して行って、基本的には子供たちにどういうふうな正しい野球とか、交流の場を与えるという原点に戻りました。
家庭の両親からの手紙を貰って、子供はこんなに変化したというようなことを頂き、やってよかったなあと思います。
体験した人が財団を運営していければと思っていましたので、そういう方向に向かいつつあります。
午前中は野球教室、野球の上手い子も、まるっきり野球をやったことのない国の子も来るので、べそをかいている子もいて差が大きいが、たった1週間でもちゃんと当たるようになって、取れるようになって、ものすごくうれしそうな顔になり、その変化を見るのも楽しみです。
サッカーはボール1つで遊べるが、野球はそうはいかないので、最初セッティングして体験させて、興味を持ってもらえればと思います。

体験させるということが、工夫して率先してやる様になる。
午後食事をした後、観光、歴史、文化に触れる、地元の子供達との交流などがあります。
子供は白紙みたいな物なので、何か体験したことが強く焼き付いて残るので、こういうことがないと絶対日本に来ることがない子が来る訳です。
団体生活をして、すぐ順応してそれなりの対応をします
どういう言葉で話しているのか判らないが、なんとなく話しています。
日本の子は外国から来た子に自分から積極的に話しかけることはあまり上手くいかないが、外国の子が日々近づいてくるので1週間でガラッと変わります。
横浜は外国からのものを受け入れるのがものすごく速いので、他でも色々開催しましたが、今回が一番市長さん初め色々な方が張り切ってくれて、盛り上がるのではないかと思います。

昔は普通の通りでは野球が出来ました、車が来たらタイムと云うことでやっていました。
集まった人数によってルールを決めて、神社、道路、公園などでやりました。
いろんな店の若い人、工場の人とかも相手にして、終わった後の酒屋さんのジュースの味は忘れませんでした。
用具もバット、グローブなどはなくて、工夫して野球ができるということが楽しかったですね。
中学に入って、草野球のチームに入って、勝つと勝丼負けるとカレーで、それで一生懸命やって野球にどんどんのめり込んでいきました。
私はそういったことで年齢の割には或る程度上手になれました。
11月30日か、草野球をやっているときに荒川さんが見に来られて、私はピッチャーで左で投げていて、右で打っていましたら、呼ばれて左利きだから左で打ったらどうかといわれて、左で打ったら2塁打が打てて、それからは左になりました。

その時は中学2年生で、周りは高校生でした。
直ぐに転校するようにと荒川さんに言われました。
結果的に早稲田実業に入ることになりました。
荒川さんとの出会いは運命の出会いでした。
厳しい指導をされれば、されるなりに吸収していく訳です。
荒川さんはマンツーマンで、教える側がどんどん私を引っ張って行ってくれました。
荒川さんも、別当さん、千葉さんも足をあげて打っていました。
私は球に食い込まれてしまい窮屈なバッティングをしていて、10月から8カ月やったが上手くいかなかった。
ピッチャーが足をあげたら足を上げろと言われて、試合で初めてやったらその日にホームランが出ちゃったんです。
その時に4打数ノーヒットだったら、1本足打法はお蔵入りになっていたと思います。

ボールとの距離感がとれれば、芯に当たりさえすれば、早い打球、距離も出るわけで、距離感のタイミングをどうするかということを工夫すれば、今の人ももっと打てると思います。
荒川さんからはぼろくそに言われるが、最後はこれだと打てると、必ず言ってくれて終わるんです、その一言で明日もやる気が出る訳で、コーチはいかに話術が大切かと云うことです。
荒川さんは選手のやる気を引き出す名人でもありました。
荒川さんは私のために自分の生活スケジュールを組んでくれました。
帰れるのは午前2時ぐらいでした。
練習に行く前に荒川さんのところで一汗かいて、みんなと一緒に練習をして、終わったら帰ってきて風呂に入る前に一汗かくわけです。
練習の終わった後は筋肉がほぐれているからバットが振れるわけです、試合後の練習がいかに大事かと思います。
キャンプでも夜ミーティングが終わって9時から大広間でバットスイングが始まりますが、その後荒川さんと12時前後までやりました。(他の人は20~30分)

私は上手くなってゆくということがありましたが、荒川さんは育てたいという情熱だけでずーっとやってくれて感謝の一言です。
昨年荒川さんが亡くなって、あの時に教える予定が組んであったそうですが、食事をして気分が悪いと言って、救急車で運ばれました。
荒川さんは後悔もあるかと思うが、荒川さんぐらい自分の思いを貫き通した人はいないと思うので幸せな方だったと思います。
国際少年野球が終わった後の彼らの活動をもうちょっと調査しておけばよかったと思います。
国に帰ってそのあとの流れが続かない、輪を広げてくれるように、教える側になって広がってくれればいいなあと思います。
































































2017年8月12日土曜日

河原忍(兵庫県警察歯科医会 監事)・父を奪った日航機事故が出発点

河原忍(兵庫県警察歯科医会 監事)・父を奪った日航機事故が出発点 
32年前 昭和60年、8月12日、羽田発大阪行きの日本航空123便のジャンボジェット機が群馬県の御巣鷹の尾根に墜落、乗客乗員524人の内520の方が亡くなる大惨事になりました。(日本航空123便墜落事故
兵庫県豊岡市の歯科医河原さん(68歳)はこの事故で父親を亡くしました。
現場近くに駆け付けた河原さんは地元の群馬県の歯科医師とともに、検死場に入り歯型の照合で遭難した人たちの身元の特定に当たりました。
その後地元の兵庫県で警察に協力する警察歯科医会の結成を呼びかけ、阪神淡路大震災の被災地などで活動してきました。
父親と共に歯科医院を開業していた河原さんはあの日の夜、兵庫県歯科医師会の幹部だった父の出張先の東京から帰ってくるのを待っていました。
NHKが7時のニュースの最後で羽田発大阪行きの日本航空機が消息不明になったことを伝えたのは午後7時26分ごろでした。

当時36歳で家族と漁火をみに行こうとホテルに入った時に、大変な事故があったみたいですとの話を聞き、自宅に帰って来ました。
母親がTVにかじりついていて、歯科医師会の会長と専務が飛行機事故に会ったみたいだと言いました。(父親と一緒に出張していました。)
父親はANAのチケットを取っていたので、一瞬ホッとしたような感じになりました。
歯科医師会の方から歯科医師会の会長と専務が飛行機事故に会ったので、歯科医師会の方に直ぐ戻ってきてほしいとの電話がありました。
TVで父親の名前が出てきて吃驚しました。
タクシーで急いで歯科医師会に行きました。(12時前)
特別便で羽田に行き、そのままバスで群馬に行きました。(10台以上のバスが向かう)
ようやく小学校とかの体育館に入る様に言われて暑い中パイプ椅子だけがあり、情報をじーっと待つだけでした。
上野村の山中に墜落した事が判って麓の藤岡の町に向かったわけです。

遺体安置所は藤岡の市民体育館でした。(棺を置く場所もなかった)
ばらばらになった遺体ばかりでした。
DNAの鑑定もできない時代で、在宅指紋の照合をしようとするが、役に立たなかったりで、歯型の情報が必要だろうということで、警察署から歯医者を探して、歯型の資料を探して調べました。
524名が搭乗していて、520名が亡くなり、歯型身元確認者は45.4%と云うことになっています。
群馬県の歯科医師会では、日本で一番早く医科と歯科が一緒になって、警察医会が組織としてあり非常にスムースに御遺体の確認が出来ました。
群馬県では色々大事件とか、連合赤軍の事件などがあり、検死に対する認識があったのでいち早く組織が出来ました。

群馬県の歯科医師会の会長などから、手が足りないということで一緒に検死所に入りませんかといわれて、検死所に赴きました。
体育館には空調もなく42,3度になっていたと思います。
御遺体の悲惨な形を見ると、絶対父は助かっていないと覚悟決めていたので、お手伝いをしなければいけないということで、検死の手伝いを何週間もやりました。
腕にミッキーマウスの人形を抱えた子供さんの遺体を見た時には、嗚咽と云うか、ワーと・・・(話が途切れる)
自分が歯科医師であるということと、みなさんの御遺体を早く見つけたいと、使命感が一番燃えた時でもありました。
父は当時63歳でした。
父は戦時中、中国に軍医として転々としました。
父はラグビーをやっていたし、頑強な体だったが、現場の状態を見たらいくら元気な父親でも駄目だと打ち砕かれました。

母親も来て、「あそこにお父さんの靴がある」と云った、特殊な靴だった。(片方)
それから何週も遺留品を掻き分けて、ついに両方見つかりました。
8月25日に葬儀を済まそうとしている最中に、御遺体の一部が見つかりましたとの連絡がはいり、大阪から急遽群馬に向かいました。
指紋で左の腕の部分であることが判りました。
東京歯科大学の鈴木和夫教授が見てほしいものがあると言ってきた、確か白髪交じりでウエーブが掛かっていなかったかといわれて、お父さんに近い年代のかたの頭皮があり、髪も綺麗にしてあり元に近いようにしてあるということで、母親と弟と3人で見に行きました。
棺を開けて頭皮を見た瞬間にみんなが「親爺だ」と云いました。
毛髪鑑定をしようと云うことで鑑定依頼して、間違いなかった。
歯科医でありながら、歯型で親を見つけられなかったのが、一番つらかったところですね。

DNAはこの数年で精度が随分上がって来ましたが、高温度の焼死、長年海中に沈んでいて白骨化した遺体などはDNAの判定のしづらい御遺体はあります。
歯からは年齢の推定、性別の判定もできるし、1本あれば歯から得られる情報はいっぱいあります。
硬組織(爪、髪、骨など)の中では歯が一番残ります。
同じ形をした歯はないです。
残存歯、喪失歯の組み合わせも千差万別で43億通りあります。
32本の歯のそれぞれの状況を考え併せると10×16乗あります。
日本人の98%は歯科受診歴があるので、情報が得やすい。
スポーツをやった方、楽器をやった方、美容師(ピンをくわえる)などの判別もできます。

兵庫県にも群馬県のような組織を作ってほしいと要望して、翌年6月には立ちあげることが出来ました。
阪神淡路大震災の時に捜査一課から電話があり、歯科医の先生を集めてほしいということで、そのまま神戸に27日間寝泊まりしていました。
長田で火災があり、焼死体があり、歯からしかわからない御遺体がどんどん増えて来ました。
6千数百名が亡くなりましたが、最終的には70体の検体をしました。
独居老人の死亡、閉鎖されたマンションでは発見が遅れてしまう。
事件とか払拭するために特定ができないといけない。
身元の特定率を上げてゆくためにはどうしたらいいか、もっとデータベースに各医療機関が残して、もっと確認、発見しやすくなるように情報をストックしていかなければならないと思います。
名前、住所など個人情報の取り扱いを慎重にしないことにはなかなか先には進めないので、日本歯科医師会も取り組んでいるのでそのうちにできると思います。
47都道府県全てに警察歯科医師会が出来上がって、臨床以外でも貢献できるようになりました。
発足当時は年間15~6遺体だったのが、その後毎年100件近い要請があります。
家族のもとに一日も早く帰してあげたい、その使命感でやっています。



























2017年8月11日金曜日

小野山亮(日本国際ボランティアセンター)・市民が作るアフガンの平和

小野山亮(日本国際ボランティアセンターアフガニスタン事業統括)・市民が作るアフガンの平和
2001年9月に起きた同時多発テロ事件以来、アフガニスタンではさまざまな勢力いの間で紛争が続いています。
地域社会、家庭の中にも銃や武器が入り込んで状況はさらに悪くなっています。
世界の紛争地などで支援活動をしている、日本国際ボランティアセンターでは、2001年の10月からアフガニスタンで医療支援や保健活動を続けています。
小野山さんは20年にわたってNGO活動に携わっていて、現在はアフガニスタン事業の統括として平和な地域作りの仕事をしています。
小野山さんは力ではなく、話し合いに依って問題解決に導く、アフガニスタンピースアクションという運動を進めようとしています。

アフガニスタンの状況は9・11後、アメリカを中心とする外国の軍隊が現地にいて治安維持活動をしていたが、国内の事情等があって近年撤退している状況で、武装勢力のタリバンが拡大している状況で、国土の半分~7割で支配、戦闘が行われているといわれます。
別の武装集団ISの勢力の影響力も近年拡大している。
米軍を含めて国際勢力の軍事介入が又増やしている状況にあり、治安状況が悪化しています。
都市部での自爆行為とか爆発物を使った攻撃が非常に増えて居て、市民の死傷者数が最悪になってきている状況です。
都市部で起こったISの自爆攻撃で家族、親戚、事業地の村の方も巻き添えで亡くなっています。
緊急救援で9・11後すぐに入り、医療活動、教育活動を行ってきました。
アフガニスタンの東側が紛争が多い。(パキスタンとの国境沿い)
2012年に参加して、アフガニスタンの担当スタッフになりました。
支援団体は人の命を救う為、平和を作るためにはいっているので国によって区別したくはないが、日本人のイメージは中立、勤勉とか製品の質の高さとか評価が高いので、日本人への親近感、尊敬のようなものもしていただくこともあります。

40年ぐらい前、小学校の低学年の時代に、父が韓国に企業の一社員として派遣されて、日韓の問題がある中で、父も色んなこともあって最終的には韓国人の同僚と酒を楽しく飲み交わしているのを見て、国境は無いのではないかとか、戦争、民族とか過去両国間にあったということも気づくようになって、特に戦争の問題に関心をひかれました。
個人として平和を作ることが、国を離れて出来るのではないかと、父親の姿を見て考えるようになって始めたというような状況です。
大学でも戦争に関わる勉強をしましたが、実地、実務と理論は違うものがあることを後で思いました。
現場で起こっている事実は冷酷で厳しくもあり、がんばっても変わらない現実の壁もたくさんあるので、見聞きすることとは違うと思ってはいます。

アフガニスタンピースアクションの活動を始めたきっかけは、現地スタッフからの発案で出てきたものです。
日本人の駐在は難しい状況になっていて、日々の運営は現地スタッフが行っています。
発案した現地スタッフは力が全てを決めるとか、支配する状況を沢山見てきて、彼の父は村の長老の一人で武装勢力側が彼の父を殺そうとしたので、彼は父と一緒に家族でパキスタンに難民として逃れるという少年時代を過ごす。
力で稼ごうとして武装した警備員の仕事、銃撃戦に加わったりして青春時代を過ごした。
彼はアフガニスタンに戻った時に国軍に入ったが、米軍の活動、アフガニスタンの歴史を踏まえて、タリバンに入って米軍を打ち負かそうと思う。
日本国際ボランティアセンター(JVC)にたまたまドライバーとして入る。
変わるきっかけがあり、今のアフガニスタンピースアクションの活動を始めることになりました。
米軍による演習、攻撃によって村人が負傷、診療所の壁に被害が出たりした事件があり、私達は抗議、原因の説明を求めたりしていました。

そういったことを見てきているうちに、武器を持って戦うのではなく、彼は別のやり方があるのではないかと意識する様になったと言っています。
米軍の攻撃の証拠などを集めたり写真を撮ったりして、抗議活動をしました。
昔は銃をとっていた彼が、対話によって物事を解決するということを、団体の中で自分でも行う様になったという経緯があります。
彼は自分が変わってきた過程を、皆にも体験してほしいと言うふうに思ったみたいで、力には力で戦ってきた彼が対話で治めた体験と似たような事例を、日常生活のなかでもあるだろうとみんなに聞きだして発表して貰う、と云う活動を始めました。
集まって体験談を発表して、暴力を使わなくても解決する方法があるのかということをお互いに学び合うきっかけを作りました。

色々事件があると、力を使ってしまう環境があるのは間違いなくて、暴力を振るわない事例を見せることはリアルな問題としてあって、彼自身は出会った活動の中で変わったので、皆にも発表しあって学んでほしいと言う思いで始めたと聞いています。
彼の個人的な活動を団体として支援したいなあと思って、2年ぐらい前から形にしようとして今年の4月からお互いに報告し合うという実際の活動を始めました。
土地をめぐる争いがあり、武装勢力を引き入れようとしようと思ったが、長老たちが止めたという事例もあります。
暴力以外の解決手段があるということを学び合えればいいと思っています。
若者が我々の活動に加わってもらえればいいなあと思っていて、戦闘に向かう若者たちは増えているので、非暴力で解決したと云う事例があると知ってもらう事は非常に大事です。

若者達から女性グループ、地域指導者との話し合いへも始まっています。
日常生活の中での喧嘩をどう解決したのかと云う事例とか、小さなものが大きな暴力に繋がるとか、イラストなども作成中です。
リアルな事例はやはり活動していないとわからないこともあって、現場と繋がって一市民として現地の市民の活動、喜怒哀楽に触れることは大事な点と思っています。
日本人は公正な、誠実なイメージを持っていただいているので、そういった処を生かすことはできると思っています。























2017年8月10日木曜日

鳥越不二夫(広島平和文化センター証言者)・子守唄に救われた命

鳥越不二夫(広島平和文化センター証言者)・子守唄に救われた命
72年前8月6日、中学3年生の鳥越さんは爆心地から2km離れた自宅で被爆、1週間ほど生死をさまよいましたが、お母さんが歌ってくれた子守唄が死にかけた命を引き戻してくれたとおっしゃいます。
小学校の校長を定年後、65歳から生かされた命で原爆の恐ろしさや、平和の大切さを訴える鳥越さん、86歳の今も酸素ボンベをひきながら活動を続けています。

骨髄異形性症候群という病名を貰っています。(血液の癌)
放射能を受けたときに赤血球が壊されている。
赤血球が正常になることが難しい 。
3年ぐらい前から酸素ボンベを使用、1週間に1度は特別な注射をしなくてはいけない。
ABCC、アメリカの医者が来て検査ばかりして治療は一切してくれなかった。
日赤にお世話になっています。

山手町、爆心地から2km離れている。
学徒動員があり、動員中で広島市の祇園の工場で飛行機のプロペラを作っていました。
4日健康診断があり受診したときに、脚気だったようで、8月6日、市内の病院で再検査するように言われました。
6日、爆音が聞こえてきて半袖のシャツ着ていて外に出て見たら、何も姿が見えなかった。
その後黒い物体が空中に見えて、何だろうと思ったその瞬間凄い光が眼に入りました。
あっという間に空がオレンジ色に染まり、きれいだなあと思ったが、物凄い熱風が私の顔等に襲って来ました。
両手で顔を覆って、その先気を失ったようで、気が付いて立ちあがろうとしたときに、凄い地響きと凄い風が巻き起こったような気がしました。
あっという間に空中に浮き上がったように思います、そこからは全く分からなかったです。
気が付いた時には目の前に防火用水があり、立っていたところから10mぐらいのところでした。(防火用水にぶつかって止まったようだった。)

何が起きたのか判らなかった。
しばらくしたら両腕が物凄く痛みました。
見たら真っ赤に焼けただれていて、顔も痛くてどうしようもなかった。
水槽の中に腕を入れて、顔にも水をあてがったりしたがますます痛みが増しました。
母親は爆風で家から飛び出して、私を探していたようでした。
母親の声を聞いたのでここにいると叫びました。
母親は防空壕に連れて行ってくれましたが、痛みと苦しさで狂い回ったような感じでした。
それから意識を失い、夕立のような雨の音で気づきました。
防空壕の中にまで水が流れてきました。
雨があがり外に連れ出されたが、人が右往左往していました。
みんな髪はぼさぼさ、顔は血だらけ、焼けただれている、服はぼろぼろでした。
水が欲しいとあっちこっちで叫んでいました。
廿日市まで軍のトラックで運ばれ、治療を受けたが、薬は無くなっていて小麦粉に酢を掻き混ぜたものをやけどの応急手当の治療として使われました。
ハサミで切り取られて、その上にそれを付けられて包帯で巻かれました。

家に帰ったようですが、その姿を見て母親はお化けの様だと言っていました。
その後まったく意識がなくて、母親は生きているのか死んでいるのか分からない状態だったようで、翌日軍の医者が来てこの子は助からないと云ったようで、天国に送ってやろうと母親が膝に抱きよせて、子守唄を歌ってくれたようです。
私には微かに聞こえて来ました。
その時に身体をちょっと動かしたようで、母親は生き返ったと大変喜んだようです。
新しい命を授かったと今も思います。
入院生活をして、その時にハーモニカを母親が枕元に置いてくれました。
病院で母親の歌ってくれた子守唄を吹きたいと云うのが夢で、吹けるようになりました。
母の心境を考えると辛かっただろうなあと思います。

医者になりたいと思ったが、教職の道に入りました。
山口県に10年いて、その後広島に帰って来て30年余り勤めました。
自分自身原爆を思いだしたくない、やけどを見せたくないと云う思いもあり、いつも丸首のシャツを来てプールでも指導していました。
赤血球が減ってきているので立って授業が出来なくて坐って行なったりしました。
60歳で退職をして、1週間目に社会を勉強したいとサラリーマンになりました。
まるで勝手が違ってましたが、段々コミュニケーションをとりながら続けられて、その後学生の採用の担当官になり、どんなことでもいいからと作文を書かせたことがありました。
その時に1点、原爆について書いている学生がいました。
小学校の卒業前に校長先生から原爆の話を聞いて、命の大切さ、命のことを聞いてとっても忘れることができないと書いてありました。
こういう校長は誰だろうと読んでいるうちに、私だったことが判りました。
原爆は伝えていかなければいけないのではないかと思って、証言をすることに決めました。

広島を語り継ぐ会に所属して証言をしたりして、本格的に平和文化センターの職を受けました。
4年目に、修学旅行生に対して色々話をするようになりました。
広島の蝋人形が撤去されました。
私の証言を伝承したいと云う人が出てきて、今後若い人に伝えてもらわないといけないと思います。
平和教育に対して、学校としての取り組みに差があります。
中学3年生がオバマ大統領が来て謝罪をしなかったことに対して、鳥越さんはどう思うかとの質問があり、戦争はどちらにも責任があり、来られたことの心を理解してあげないといけない、と云うふうに言いました。
①幸せと云うものは何でしょう。②命とは、③平和とは と問いかけて、帰って話し合って自分の考えをまとめてほしいと言います。
私の幸せは息が出来ることが最大の幸せ、命は宝だから一日中大事にしてゆく、周囲から支えられているという感謝の気持ちを持ちたいと思う、平和は身近なことに思いをはせて、友達が仲良くする、思いやりのある優しい心を持っていこうと、そういったことが基本になると話しています。

広島の悲惨さは、あらかじめ指導なり、勉強しておいた方がいいと思う、目で見ないといけないこともある。(広島の蝋人形が撤去)
やけどを負った証言者は本当に少なくなりましたので、伝承者が必要になって来ます。
月に5~6校を対象に話をしています。
今日を大事にしていこうというのが私の思いです。
40歳で薬は止めて、自分の体は自分で鍛えようという思いがあり、実業団、マスターズなどで50歳の時に400mで日本新記録を作ることが出来ました。
子供たちを理解して行く、子供に接近していかなくてはいけない。
被爆した時の年齢差があり、年齢が低ければ低いだけ両親から話を聞いて自分のものとして話をしますが、自分の経験を通して苦しかったことを話す事は出来ます。
母親から、おまえは奇跡的な人間だと、生き返ったことに対して、命を粗末にしたら罰が当たるとよく言われました。










































2017年8月9日水曜日

千田ハル(岩手県釜石市)       ・砲弾の雨をくぐり抜けて

千田ハル(岩手県釜石市)       ・砲弾の雨をくぐり抜けて
1924年大正13年釜石市生まれ 93歳。
昭和17年に盛岡高等女学校を卒業し、上京し商事会社に勤めました。
戦争が激しくなるとともに、釜石に戻り釜石製鉄所でタイピストとして働きました。
昭和20年の夏、釜石市民は突如戦艦3隻を含む連合軍の大艦隊の艦砲射撃に二度もさらされます。
製鉄の街は武器の原料を作るところと連合軍の標的になったのです。
一回目は7月14日、2回目は8月9日でした。
長さ160cm直系40cmの戦艦の砲弾を含め5300発以上の砲弾が釜石の街に降り注ぎました。
空気を引き裂く砲弾の音、大地を揺るがす激しい爆発、艦砲射撃で街は壊滅状態、ハルさん21歳の時でした。
1000人を越えると云う犠牲者の数は今も確定していません。
終戦から2年後、生き延びた職場の仲間と同人誌を立ち上げ、戦争の恐ろしさとその体験を長く伝えて来ました。
いまでは当時の仲間も亡くなり、2年前その体験を後世に残したいと絵本を作りました。

宮沢賢治も釜石に親戚があるので、よく来たそうです。
遠野の街を越えると、山が急峻になる。
600名以上の子供たちが疎開するために仙人峠を荷物を持って歩いて越えました。
1回目は空からの爆撃と思って艦砲射撃とは思わなかった。
翌日艦砲射撃と判りました。
「ああ、わが街に砲弾の雨が降る」と云う絵本を作りました。
卆寿で自費出版しました。
絵は村上 伊三雄さんです。
「7月14日はとても暑い日でした。・・・突然の空襲警報のサイレンが鳴り響きました。 私は釜石製鉄所の総務課のタイピストとして2年ぐらいたっていました。
・・・事務所にいた30人ぐらいと一緒に防空壕に逃げ込みました。・・・大きな衝撃を感じました。・・・空からの爆弾と思っていました。・・・しばらくして爆撃の音がぴたりとやんで不気味に静まり返っていました。・・・最初に目にした光景に大ショックを受けました。街の方は黒い煙で何も見えず、駅前の大きな5本の煙突はみんな破壊され、余りの変貌に声を失いました。」

1回目も2回目も砲撃の時間は2時間ちょっとで、始まった時間もお昼近くでした。
街中は建物らしいものは残らないように一面焼け野原だったが、事務所は進駐軍が後で使ったが、計画的に攻撃してたんだろうなあ後で思いました。

「2度目の艦砲射撃があった8月9日は朝から警報が出たり解除になったりで私は出勤していませんでした。
昼近くになって、急に空襲警報のサイレンが響き渡りました。・・・警報とともに布団にもぐりこみましたが、悪夢の様な音が始まったのです。 私は近くの山に逃げ込みました。素手で山肌の地面を掘って顔をうずめていましたが、突然大きな音がして空から土が降ってきたことが記憶しています。しかし記憶があいまいで多分気絶していたのでしょう。・・・我に返り、家に戻ってみると畑の処に大きなすり鉢状の穴が開いて、背筋が凍りつくようにぞっとしました。」

砲弾の破片が家に入って、暴れまくって、布団が破れたり衣類などがクシャクシャになっていました。
親しくしている人から聞いた話では製鉄所の地下のトンネルに入ったが、折り重なるように様に人が一杯で、そういうトンネルが3つあったがとてもいられなくて、海岸の近くの出口に出たら、山の上には防空壕がいっぱいあって住民が逃げたがそこが攻撃されて71名亡くなったそうです。
駅の方に戻ったら、途中も倒れていたり、けがをした人がいてそれを見て駅の方に行き、防空壕が直撃されて23名が亡くなりました。
1971年ごろ、犠牲者の名前を発表したが、だぶったり、未整理のままでして、それはずっと公式の名簿として通ってきました。
今年3月発表されたのが19人認定で773人となったが、現実はもっと多いと思う。
当時製鉄所には海外の捕虜(アメリカ、イギリス、オランダ、中国、朝鮮等)も500人以上いたといわれている。

東日本大震災で戦争記念館が被害を受けて資料も散逸しました。
当時集団疎開した子供たちは9月に遠野から帰ってきたが、家族が被害を色々受けていた。

「8月15日重大放送があると聞き、ラジオ放送に耳を傾けました。
初めて聞く天皇陛下のお声でした。内容は良く判りませんでしたが、日本が全面降伏したらしいと云うことは理解できました。何の疑いもなく、聖戦と思い大本営発表を信じてきた私たちにはよくわからないながら、涙がとめどもなく流れたのでした。」
言葉はさっぱり分からなかったが、負けたんだということで、私は何の疑いもなくそのうち神風が吹いて助かるからと思ってきたので、考えの及ばないことがわかって立っていられないほどのショックでした。
詩人集団「花貌」を12,3人で立ち上げる。
憲法の草案が発表されて、憲法の草案を勉強しました。
言論の自由、書ける、読める、そういう自由な雰囲気のグループを作ろうと云うことで「花貌」を立ち上げました。
花はそれぞれの持ち味で咲くし、だれにも遠慮もなく自由に生きて行きたいという気持ちで決めました。
自分は詩人ではないが自分の気持ちを発表する場にしたかった。

昭和22年に創刊、57年間続いた。
最初は紙すらなかなか手に入らなかった。
2004年に終刊、先輩たちも亡くなり、私が編集長になり、その後はっきりと幕を下ろそうと云うことになりました。
齢90歳、聖戦と信じた日本の戦争はひどい侵略戦争と判って、当時の自分の無知を思い知らされました。
この絵本は測り知れぬ命の犠牲の中から生まれた日本国憲法の戦争放棄を詠った精神とその意義を改めて考えるきっかけになればと念願し、戦後70年の大きな節目の年に次の世代へのメッセージとしたいと思いました。

ひ孫のここみちゃんが作文コンクールで平和についての作文募集があり優秀賞になる。
「・・・砲撃を受けた人たちはどんなに怖くて辛かったことでしょう。釜石の街中は一面焼け野原になり、ひいおばちゃんの家も焼けてしまったそうです。その後家族全員無事に生きて会えた時にはおいおいと涙を流して抱き合ったそうです。2回の艦砲射撃で1000人以上の人が亡くなりました。・・・この釜石にそんな悲しいことがあったと知って怒りがこみ上げて来ました。なんで戦争なんかするのでしょうか。どんな理由があっても人が人を殺し合う残酷な戦争をしてはいけないと思います。なぜなら戦争は憎しみと悲しみしか残さないからです。残さなければならないのは人々の優しさと笑顔だと思います。・・・人が人を思いやって仲良く暮らして笑顔があふれる幸せな世界を私達が作っていかなければならないと強く思います。」















































2017年8月8日火曜日

佐野博敏(元東京都立大学総長)   ・原爆投下 川を泳ぐ焼き魚

佐野博敏(入市被爆者・元東京都立大学総長) ・原爆投下 川を泳ぐ焼き魚
89歳 1945年8月6日、当時17歳だった佐野さんは広島工業専門学校(現広島大学工学部)の学生でした。
学徒動員されていた広島県内の工場で原爆投下を目撃、翌7日の早朝に広島市に入った佐野さんは市内を流れる川で背びれを失いうろこが焼け落ちた魚が水面に漂っているのを見ました。
死んでいるのかと思って手を差し伸べて見ると魚はふらふらと泳ぎ去って行ったそうです。
その後市内で原爆の惨状を聞いた佐野さんは魚は被爆したのだと知ったと云うことです。
被爆の翌年、佐野さんは記憶を元にこの魚の絵を描いています。
佐野さんはその後大学に進んで放射化学を専門に研究して、ビキニの水爆実験の際は死の灰の分析等にも携わりました。
被爆から72年を迎えた今年、佐野さんは自らの被爆体験について語ってくださいました。

大腸がんを2回やりましたが治療してからは、元気にしています。
母親が被爆者で、被爆者づらをするなと当時時々耳にして、高度成長期で被爆の体験を人にいうことはあまり受け入れられなかった。
東京都立大学の弟子にも被爆の話をしませんでした。
大妻女子大学の学長になってしばらくして、経験した極限状態を学生に話してほしいとの話があり、原爆の体験の話をしました。
非常に熱心に聞いてくれて提出されたレポートも細やかなな感受性で受け取った印象がありました。
若い人にも話をしなければいけないと気付きまして、大学、高校、私のいましたお茶の水女子大学などで話をするようになりました。

8月6日、17歳で広島工業専門学校の生徒でした。
三菱化学で働いていました。(勤労動員)
8月6日の午前中は授業があり、軍事教練の将校が来る時間帯になっていて、寮を出て教室に行くために8時過ぎに玄関を出ようとしたときに、ぴかっと光りました。
外へ出て数歩歩いた時にドンという大きな爆音がしました。(ピカドンと云う現象)
広島からは約30km離れた場所でした。
その時はまだそんな大変なことが起こっているとは判りませんでした。
キノコ雲の成長過程が見えました。(変な入道雲だと言っていました)
将校が8時半過ぎても来なくて、9時半になっても来ない。(来ないことによろこんでいました)
11時頃になって、山陽本線の列車が通っていないと、誰かがいい始めて、原爆のせいだとはだれも想像できなかった。
負傷者が沢山入って来ることが判り、広島で大変なことが起こったと云う噂が入ってきた。

着物はぼろぼろ、皮膚は焼けて皮が垂れ下がっている、5~10人並びながら帰って来る。
広島は火の海だと云う話を聞いて、ますます何が起こったのか判らなかった。
B29が沢山飛来して焼夷弾を落としたと云う訳でもないのに、なんかが燃えていると云うのは考えられなかった。
暗くなるに従って、真っ赤な空になって、広島方向は全面赤くなっていました。
工場が蒸気船を何艘か出すから希望者は広島に帰る様にと云うことで私も夜中2時ごろ出発して、朝の4時半ごろにつきました。
太田川の河口に着く予定になってました。
そこで川を「泳ぐ焼き魚」に出会いました。
30cmぐらいの鮒がよろよろ泳いでいる。
鮒の背中の背びれがなくて、中の肉が見えました。
手を伸ばすと手から逃れてうろうろしている。
1946年に「泳ぐ焼き魚」を色鉛筆で書きました。
背びれは無く、頭の部分からしっぽの部分まで背中が裂けていて、裂けた肉の部分が黄色に描かれれている。

丘に上がって負傷者の肌を見てから、あーそうだったのかと思いました。
街の様子は動けない人が道端にうずくまって痛いよーと叫んでいる人、息絶えている人も沢山いました。
母は富士見町という爆心から1.1kmのところなので、私は自宅まで歩いて帰りました。
家は完全に焼け崩れていて、2本の石の門柱だけが残っていました。
門柱の間に女性の焼死体がありました。(足は無く顔はどうなのか判らなかった)
母親は亡くなったと判断ました。
罹災証明書をもらって、親戚に連絡したところ、遺体を取りに行かなければいけない葬式をしなければいけないと云うことでリアカーを曳いて歩いて広島まで帰りました。
親戚の方が母親かどうか確認しないといけないと云うことで、歯を見ることになり、口を開けてみたら、母親とは違っていた(母親は虫歯が多かった)

それからは親戚の方と行方不明の母親を探すことになりました。
6日間探しまわりました。(テントだけの収容所など市内を歩き回りました)
母親の識別はできなかった。(負傷者にお母さんと云いながら反応を見ました)
川にも沢山の死体もあり、川の中の死体までは近付くことはできなかった。
眠るのが怖かった、眠ると母親が夢枕に立つのではないか、夢枕に立たれたらもうおしまいだと思って、眠らないようにしようと思ったが、6日目の朝にうとうととして、夢の中に母親が出て来ました。
その夢を見たとたんにしまったと思いました。
絶望的6日目の朝でしたが、お寺から連絡があり酒蔵?(酒蔵通り?)の国民学校に収容されていると連絡がありました。
酒蔵?(酒蔵通り?)の国民学校に行って、東京の暁部隊の下士官に案内され聞いたところ、母親が「博敏、博敏」とうわごとのように叫んでいたそうです。
お寺の連絡網を使って連絡してもらえたそうです。

母親は右半身ガラスが刺さって、右腕の付け根の動脈が切れて出血多量で、逃げたが意識不明となり、そこに暁部隊のトラックが通って幸いに母親を助けてくれて暁部隊に収容されて、余りにも子供の名前を呼ぶんで気にかけてくだすったと思います。
あれだけ博敏、博敏とうわごとのように叫んでいたのに、私と出会うと、「博敏、どうしてここに来たの」と言って、私も母親がそこにいるのは生きていて当然だと云う気がしました。
6日間、死体を見たり、けが人を見たり、死体を焼くところを見たり、首が焼け落ちて又火の中に入れられるところを見て、無感動のまま6日間を過ごして、極限状態だったと思う。
極限状態だと人間は何の感動もしない、平気でいられる。
その後その話をすることもありましたが、ほんとうに感動しなかったのかといわれましが、感動らしい感動がないぐらい感動したのかもしれません。

広島工業専門学校から東京大学理学部に進学、放射化学を専攻する。
放射性元素、人工の放射線元素など 始まったばかりでGHQは放射能の研究はしてはいけないことになっていました。
ビキニ事件が発生して、私の先生は放射能の専門家でビキニの灰の分析などが木村研究室に依頼が来ました。
ビキニの水爆は汚い水爆だと判りました。
核分裂に使われないウランを原爆の周りに取り囲んでおくと、核分裂が出来ないウランですが、非常に高速の中性子が出るためにそれまで核分裂するので、放射性物質が沢山出る。
その後東京都立大学の教授、総長、大妻女子大学の学長を歴任する。
わたしが専攻したテーマの一つにホットアトム(周囲の熱平衡系のエネルギーをはるかに超えるエネルギーを持ったり、高電荷を帯びた原子のこと)化学があり、高速の粒子を物質の中に叩きこむと色んな相互作用を起こすわけですが、人間社会に突然原爆が落ちて広島の社会が滅茶苦茶になったような、そういう現象と、原子分子の世界と人間の社会と割に似ているんですね。
一回破壊されたものが完全ではないが少しずつ復元すると云うことが、原子分子の世界でもあるわけです。

物質を壊す最大限の壊し方なので、普通の化学反応とは違うわけで、世界全体を壊すような兵器に核兵器は成ったんだなあと云う気がします。
この経験を忘れたら、人類社会が最終的な面を迎えるのかなあと云う気がします。
人間自身が作った核兵器が人間社会を壊すんだろうと云う気がします。
どう実感出来るように伝えることができるかと云うとこれは、よほど皆さんの想像力に期待するよりしょうがない。
被曝者としてだけではなくて科学者として、人類が得られた真実を伝えることが一番の目的だと思います。
誇張でもなく縮小でもなく、公平な実感として伝えることが大切なことだと思います。































2017年8月7日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)・福澤諭吉【近代日本150年 明治の群像】

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)・福澤諭吉【近代日本150年 明治の群像】
講談師 神田蘭
文明開化の時代の啓蒙思想家、慶応義塾大学を作った教育者。

福澤諭吉の紹介(講談)
「天は人の上に作らず、人の下に人を作らず。・・・」 「学門のすゝめ」
明治5年刊行 340万部が売れる。(当時の日本の人口 3300万人)
1835年1月10日 大阪の下級武士の息子として生まれる。
当時の識字率は男子50~60%、女子がおよそ30%。
多くの人に読まれました。
人間みな平等と云うが世の中を見ると、賢い人、愚かな人、貧しい人、富める人がいる。
そのような違いが生まれるのは、ただその人が学問をするか、しないかにある。
難しい字を知り和歌をたのしむ様な実なき文学ではなく、実践に役立つ、実学である。
いろは47文字、手紙の書き方、そろばんの稽古等簡単なことから始まり、地理、物理、歴史、経済などである。
西郷隆盛なども激賞、広く読まれる。
文章がとても判りやすかった。(お手伝いに読ませて、判らないと書きなおした)

現代と比べる識字率は低いが、当時の世界で比べると、日本の識字率は世界一だった。
福澤諭吉は机上の学問を嫌った。
福澤先生が人権、人間は平等であると云ったことが、日本の社会に根付いた結果として現在の我々があると云うことです。
当時の社会にとってみれば吃驚するような内容だった。(身分制度があった)
中津藩(福澤諭吉の藩)は門閥制度が厳しいので有名だった。
諭吉の父親は才能があったが出世できなかった。
福澤諭吉は1回目1860年(27歳)咸臨丸に乗ってアメリカに行った。
福澤諭吉は懇願して乗せてもらった。
勝海舟は福沢諭吉とはそりが合わなかった。
西海岸を見て帰って来た。
1862年 29歳 ヨーロッパに1年間行って来た。
銀行制度、保険制度など色んなものを見てきて、後に日本にしっかり紹介するのが凄いところ。(他にも一杯行ったが実際に動いたのは彼だけだった)
フランス、イギリス、オランダ、プロシャ、ロシア、ポルトガルに行って、各地で写真なども撮っている。
ほかに病院を見たり郵便局を見たり、選挙制度、議会制度を勉強したりしている。

1867年 34歳の時にアメリカに行く、ニューヨーク、ワシントン等。
福沢諭吉はアメリカへの1回目の時の質問でジョージ・ワシントンの子孫は今何しているのと聞いたら「さあ」と云うことで吃驚するが、世襲がないことに感銘を受けた。
「独立自尊」(気高く生きよ、日本人たる誇りを忘れるな)慶応義塾では一番有名な言葉。
人に迷惑をかけるなと良く言っている。
「一身独立、一国独立」 
当時の日本は列強が植民地にしようとして虎視眈々と狙っている。
一人一人の国民が独立すれば一国がきちんと自分の足で立つ、日本が一つの国として植民地ではなく立派な国として世界に伍してゆくことができると云う思想。
一人ひとりの国民の責任がある、と云う気がします。

今泉みね(蘭学者桂川甫周(7代目))の娘『名ごりの夢』に福沢諭吉のことが書いてある。
「・・・始終懐は本で膨らんでいました。
何時も本のことばかり心にかけて桂川から洋書を借りていましたが、他の人がそれを写すのにひと月、ふた月かかるのにあの人は大抵4~7日で写して返しました。
福沢さんのおなりは一番質素でした。・・・
父の前できちんと足を重ねて話を聞いている時に、私は足袋の穴に気づいて、松葉を10本ぐらい束にして突っつきましたが、話に聞き入っていて、動くには動かれず大分お困りのようでした。
福沢さんはめったにお遊びになりませんでしたが、時には私の相手をして下さることがありました。・・・
なにをしてもお上手で面白く、物知りで色々お話していただきました。
私が6つのころ、福沢さんにおぶさって行ったことがあります。
その背中が広かったことを思い出します。・・・
外国から戻って頂いたものは二品、一品は羊羹のようなもので食べるものではなくいい匂いがして水にぬらせば泡が出てくるものでした。
今から思えばシャボンでした。
もうひとつはリボンぐらいの幅の綺麗な布を頂ききました。
今も手元にあるので時々出してみてはその昔を思いだしております。・・・」

明治新政府とは付かず離れずの関係だった。
やろうと思えば明治政府の中で出世できたが、あえて距離を取った、これはできることではない、武士を辞めて平民になる。
本当にやりたいのは日本国民を教育したいという志、その実現のために生きている、そういうところが偉い人だと思う。
大隈重信との関係は仲良かったようで、家族ぐるみの付き合いだったようです。
大学院教育は日本では日本語でできるが、アジアのほかの国は自分の国の言葉では大学院教育はできないため積極的に留学しないといけない。
福澤諭吉はヨーロッパの言語、アメリカの言語を日本の言葉に置き換えてくれたので、大学院の教育まで日本語で出来ると云う事なんです。(経済 動物園 授業料とか・・・)
明治34年に亡くなる。

小泉信三氏 
小さいころ福澤諭吉の屋敷の中に一緒に住んでいた。慶応義塾の塾長、天皇陛下の先生。
美智子さんとの出会いを演出した方。






















2017年8月6日日曜日

山寺宏一(声優)          ・【時代を創った声】

山寺宏一(声優)          ・【時代を創った声】
山寺宏一(第二回目)
子供のころは内弁慶で、家庭内ではふざけたりしていました。
小学校のころ、3,4年生は物まねとか始めていました。
5,6年生で思春期を迎えて、そこから高3まで女子と話が出来ない、そういった時期でした。
高校3年生の時に仲のいい女の子が出来て、それをきっかけにそこから他の子とも話せるようになりました。
でも女子の前では物まねはできませんでした。
宮城県で生まれ、大学まで仙台でした。
物まねタレントを目指そうとは思ったが、TVを見てとても駄目だと思って、大学で落研にはいってた友人がいて、誘われて入りました。
直ぐに落語が好きになって落語にどっぷりはまりました。
最初小話からはいって毎日稽古をして、発声練習したりしました。

訛っていたので訛らないようにするのが大変でした。
大学で勉強することはほとんどなかったが、毎日部室にはいっていました。
CMのオファーが落語研究会に来て、でないかといわれてそれに出て、就職が決まったのか聞かれたときにまだと言ったら、うちに来ればいいじゃないと言われた。(広告代理店)
「声優になるためには」という本を読んだら、養成所があると云うことが分かった。
広告代理店への誘いは辞めて、演技の基礎から学ぶことになりました。(週5日)
舞台の面白さが判りました。
大学まで親に面倒見てもらっていたので、養成所に入る前は不安はありましたが。
養成所に入ってからは何の不安もなく楽しかったです。
2年間通ってオーディションを受けて、合格して事務所所属になりました。

1985年メガゾーン23のロボットアニメの主人公の友人役がデビューでした。
そこから徐々に仕事が増えていきました。
「別撮り」と云う意味もわからず、やってしまってひどく怒られた時もあります。
他の人がやっているのを聞くのも凄く勉強になります。
観察力が演技力に繋がって来る。
印象に残ったものは一杯あります。
「どんどんドメルとロン」のポリス役でセリフは無くて、ホイッスルで表現する。
(変わった役)
難しかったのは一杯あり、大変だったのはセリフの量が大変なのはデンゼル・ワシントンが主役をやった映画『マルコムX』という作品は演説がすごく多くて、演説にオーバーラップして芝居する様なことがあって、大長編もののふきかえで、リハーサルの時間(徹夜になてしまう)と喉がやられず声が持つ時間を考えてやったのを覚えています。
名優がやるのを違う言語で吹き替えすると云うのは難しいと思ったのは一杯あります。
どれもこれも難しいです。

先輩の引き継ぎはやりたくないが、他の人がやるんだったらやってみたいと思います。
「銭形警部」「ヤマト」など大好きでした。
富山敬さんの後を色々継がせてもらいました。
声優はやる幅が広いので、色んなものに興味を持って引き出しを多くしておくことは大事だと思います。
いろんな俳優さんの吹き替えをするときに、余り自分のクセが強すぎると全部同じになってしまうと云うことがあるので、己を知る、自分の癖は難しい、人のは直ぐ判る、それを何とかしようとすることは大事なのかなあと思います。
個性は必要だが、クセとはだれもがもっていると思う。
KUSE へこんだUを伸ばしてOにしてKOSE そのあとにIを付けるとKOSEI
個性になる。
ときめくような役に出会いたいし、準備を怠ってはいけないと思います。
舞台の方も充実させていきたいと思います。

2017年8月5日土曜日

岸博実(日本盲教育史研究会事務局長) ・視覚障害者と戦争

岸博実(日本盲教育史研究会事務局長) ・視覚障害者と戦争
戦争中視覚障害者はどういう状況に置かれていたのでしょうか?
資料が乏しい中 30年以上資料を集め体験者の聞き取りを行うなど、ライフワークとして調査研究しているのが、日本盲教育史研究会事務局長で京都府立盲学校非常勤講師の岸博実さん68歳です。
戦後72年、戦争中に視覚障害者が直面した悲惨な状況と戦争のむごさを後世に残していこうと活動している岸さんに伺いました。

日本盲教育史研究会は全国の盲学校の現職、あるいはOBの教員、大学の先生だった人、若い学生さんを含めて有志が集まっている研究会です。
盲教育に関する資料が散逸して行く状況を心配して保存のことなどを考えたい、歴史そのものをしっかり調べて論文などにまとめて学びあって行きたい、今後に生かせるものはなにかということを探って行きたいと云う団体で、5年経とうとしていて全国で会員が190人います。
京都府立盲学校に勤めはじめて間もなく創立100周年記念の300ページを超える本を作られて、戦時中のことが10数ページしかなくて、これでいいのかなあと考えたのが最初のきっかけです。
調べて、①障害のある子たちが差別を受けた側面、②盲学校、見えない子供たちが空襲で被害を受けた側面でした。
その後③見えない子供達なども戦争の体制に組み込まれて、参加した事も判ってきて驚きでした。

明治時代に富国強兵政策が設けられ、徴兵制度が敷かれ、体に障害のある人たちが合格できない、国の役に立たない存在と見られがちになって行った、心ない言葉を浴びせられる。
空襲をうけると、どちらに逃げると安全なのか、そういう情報が入って来にくいことになるので逃げまどうと云う風になりやすかったと聞いています。
逃げるときに悲惨な状況にあったと云うことが書かれていました。
障害のある子たちは戦力にならないので後回しにされた。(学童疎開等)
疎開先も行った先が危ないところだったりしました。
盲学校そのものが空襲に会い、学び場が失われたと云うことも沢山報告があります。
沖縄の場合は本当に激しい空襲があり、その中で見えない人たちも逃げ回らねければならなかった。

盲教育、ろう教育の義務化は明治39年から国に要望していたが、国家余算の使い方が軍備の方に偏っていったので、義務教育の実施が遅れた。
見えなくても戦争への参加の仕方があると云うヒント、呼び掛けを色んな形で与えられると、取り組んでみたいというきもちに駆られていったということは判るような気がする。
昭和15年奈良の橿原で全国盲人大会が行われて、決議として全国の盲人の募金を集めることによって海軍にゼロ戦をプレゼントしようと云う取り組みがあり、それには日本盲人号と云う名前が付いている。
お披露目の式には大阪の歌舞伎座で行ったことを示す絵葉書、案内の文書が残っています。
盲人防空監視哨員、見えない人が耳で敵機が近づくのをいち早く察知する、そのことを求められる役割だった。(主に夜だったそうです。)
石川県で盲人を集めて実験して、多少早く聞きわけたと云うことで募集をして10人選び出して配置したそうです。(どれだけ役に立ったのかは微妙とのこと。)

盲学校で良く行われたのは鍼灸で、工場で疲れた人の回復、戦場で失明した軍人たちの治療などにも、間接的に国の役に立とうと云うことが多くありました。
海軍技療手、健常のマッサージ師、弱視の人を全国から募集して、選抜をして技療手として養成して、国内の基地に配置、南方の基地などへ配置して疲れた兵士の疲労回復、けがをした人の治療などに従事させようとしたようです。
軍に属して南方に行き、戦艦に乗り組んで魚雷により沈没して戦死した人もいるそうです。
盲学校の生徒たちへの教育、昭和18、19年に満州建国大学の教授を招いて京都府立盲学校で講演、その3回目に「見えないあなた方は敵に体当たりして散って行く若い人たちに比べて役にたたない存在だと行って、そんな諸君でもできることがある、自分の事は自分ですることにより親への負担を掛けるのをへらす、そうすることで国の役に立っていける、
国のためになると云うことを考えて取り組まなくてはいけない」、そういう講演がありました。

「盲人でさえもこの様に頑張っている・・・」と云うような記事がよく掲載されていた。
国民の士気を高める材料として、盲人の頑張りが扱われていた。
厭戦の言葉を発した盲学校の生徒がいたことも文献から知り始めているところです。
小野兼次郎がエスペラントを学ぶ中で、日本の軍備増強、対外的な争いを求めて行くような動きは反対だと云うことで、ビラまきに参加して治安維持法に引っ掛かって逮捕されたという例もあります。
失明軍人へのリハリビは新職業の開拓という側面を持って展開されました。
それも戦争初期ことで戦争末期には扱いは段々ぞんざいになって行った。
戦争と云うものは最も大量に障害者を作る、命を奪うので、戦争は起こすべきではない、起こしてはならないものと思います。
戦争と障害と云うことについて過去の例から学ぶ必要があると強く思っています。
若い世代に伝えていきたいがそこがカギだと思います。
文字、映像、資料にして次の世代に見聞きして頂ける条件を作っていきたいと思います。






































2017年8月3日木曜日

村田浩一(よこはま動物園ズーラシア園長)・動物たちが開く扉

村田浩一(よこはま動物園ズーラシア園長)・動物たちが開く扉
神戸出身 65歳、宮崎大学で獣医学を学んだ獣医師で、地元神戸の王子動物園で20年間勤務した後、日大で動物園学を教えるかたわら、2011年から横浜動物園ズーラシアの園長に就任しました。
動物園は単に動物を見せるだけではなく、動物と人が同じレベルで接し、自然界の仕組みを知り、人の生き方、地球環境の大切さを知ってほしいと言っています。

ズーラシアは愛称で、よこはま動物園です。
ズー=動物園 ライア(ユーラシア) 広い地球の動物たちを一日で見て回れる 、と云うようなイメージです。
人の暮らしと動物と、生息環境の3つを体感してもらうというコンセプトです。
楽しみながら学んでもらいたいと云う思いはあります。
明治時代に初めて動物園が出来たときに、明治天皇に大久保利通が博物館建設の義という意見書をあげるが、動物園は博物館付属でした。(植物園も同様です)
歩きながら、楽しみながら過ごしている間に知識が付く、そういうところなんだと、明治天皇に説明しているが、今世界中の動物園の目指しているところです。
動物から学ばなくてはいけないし、動物を通して自然、地球環境を守って行く、動物を保全してゆく、そう言うことを学ぶ場として動物園が存在している。
1999年4月にズーラシアが出来て、2011年にここに来ました。
理想の動物園が出来たとのうわさがあり、見に来た時は木もすくなかったりして一部砂漠のような状態で、大丈夫かと思ったが、今は当初建設した人たちの予想通り素晴らしい場所になっています。

ズーラシアは動物病院の規模も日本一です。(規模、人員、施設等)
繁殖センターがあり、希少種繁殖に関する研究をしています。
バク、カンムリシロムクを増やして、カンムリシロムクをバリ島の西部に140羽以上送っています。(野生に戻す協力)
希少種を増やすのは難易度が高い。
人間に依る開発、密猟などで減ってきています。
100年ぐらいかけて元に戻せるようにしようとしています、100年ぐらいたてばもう少し人間も賢くなり、自然を守るような方向に人は変わってきているだろうと、それまで希少な動物を何とか動物園で維持し続けようと云う考えに元づいています。
100年を設定したのは30年前です。
一番顕著なのが地球温暖化です、北極熊、ペンギン、クジラなどが影響を受けています。
そのうちに人間にも影響が及ぶと考えられています。

ホモサピエンスと云う動物の一種である人間が、他の動物の危機と同じような状態に陥ると云うのは生物多様性の危機の象徴のようなものです。
人間が変わらなければ地球の危機は救えないと思います。
人間が変わらないと環境も変わらないし、最終的に人間の生活自体が崩壊してゆくと云うことでしょうね。
地球温暖化で、海表面上昇し島が水没、気候変動等に対して人間はなかなか動かない。
重要なことは体で感じることだと思います。
動物園は絶えず進化ています。
ゴリラは従来オスメス1匹で飼っていましたが、社会性を持っているので集団で飼うようにしています。(自然の状態を動物園でも再現する)
心の健康まで補償する様にします。(ストレスから守ることが世界的な潮流になっている)
餌の与え方、餌を探して歩けるような仕組みなどを考えています。

雨、雷で繁殖行動がうながされると云うこともあります。(或る種のワニとか)
1年間同じ食事内容を全く同じ量を与えると云うことはやっていません、なるべく野生に近いものを手に入る範囲(出来るだけ四季に応じて)で与える様にしています。
動物園の4つの役割
①環境教育、保全教育 ②調査研究 ③保全(絶滅危機種の保全) ④レクレーション(人々の楽しみ、慰安)
人間の医者になりたいと思った時もあったが、北杜夫の本を読んで船医にあこがれ、そのうちに獣医の道に進みました。(40年以上前)
動物園にしばらく勤務するようになって、動物の医者になってよかったなあと思います。
動物の死因を突き止めるために解剖するが、臭いが染み付いてしまっていくら風呂に入っても消えなくて、通勤電車で誰だと大声をあげられたこともあります。
動物園で自然に触れて動物の生きざまを見て、自分のライフスタイルを見つめ直す、これが人間の生き方なんだろうかという再認識を抱くことが、地球環境への保全につながって行くと思います。








































2017年8月2日水曜日

祖父江真一(JAXAミッションマネージャー)・すごいぞ地球観測衛星

祖父江真一(JAXAミッションマネージャー)・すごいぞ地球観測衛星
今年は日本初の地球観測衛星が打ち上げられてから30年になります。
地球観測衛星はオゾン層の破壊、地球温暖化などの気候変動や、台風、地震、火山などの災害に対応するために、宇宙から地球を見つめて必要なデータを集める人工衛星です。
東日本大震災や熊本地震の時などに衛星から送られてきた画像をご覧なった方も多分おいでになると思います。
祖父江真一さんは52歳、平成元年に現在のJAXAに入社しました。
以来地球観測衛星の開発、運用などに携わり日本の観測衛星を熟知されている方です。
祖父江さんにご自身の社会人人生と重なる日本の地球観測衛星の開発を振り返りながら開発に挑む熱い思いを聞きました。

役割は上がった後の人工衛星を、どういうふうに色んな形で使っていくかを調整して行くかという様なことをやっています。
2011年東日本大震災の時に、沢山の衛星写真を送って、被害状況の把握、災害対応計画の立案に役立ちました。
その時の衛星は「大地」と云う衛星でした。
衛星としては定年(5年)を迎えましたが、働くことが出来ました。(その2カ月後に終了)
1987年初めての衛星を打ち上げ、海洋観測衛星1号「もも1号」
陸と海を観測する衛星両方を検討していたが、先に海洋衛星をと云うことになり、海洋衛星を打ち上げました。
JAXAは技術の進歩に合わせて高性能化する、高機能化すると云うこともやりますが、地球の環境を見ると云うことは、30年は少なくとも観測しないといけないと言われている。
30年間同じような観測装置で同じように観測した方が、変化が判りやすいと云うこともある。

私が関わるようになったのは「もも2号」からです。(1990年2月打ち上げ)
種子島で打ち上げを見た後に、埼玉県の鳩山町に地球観測センターがあり、もも2号の衛星のデータを受け取ってどういうふうにやるかと云うところから参加しました。
日本が打ち上げた観測衛星は10個で、運用中は4つです。
①「だいち」後継機の「だいち2号」 陸上の状況を見ている。 災害など。
②二酸化炭素を測る衛星「いぶき
③雨を測る衛星「しずく」 気候変動が一番出てくるのが雨の降り方、台風。
④アメリカと一緒にやっているGPM 衛星は米国、日本の観測装置を搭載。3次元で雨が判る、台風の構造がより判る。
いかに海の上の情報を多くするかで予測精度が高まる。

最も残念なのは、「みどり」(ADEOS)、「みどり2号」(ADEOS2号)です。
衛星が大きくなると大きな観測装置を載せることができるので、1つの衛星に8個の観測装置を載せて、同規模の衛星をアメリカも先にあげるはずだったが遅れて、日本は世界トップの衛星を上げることになり、最初打ちあげて動き出した時には凄い成果を出して期待されたが、10カ月の運用で止まってしまった。(太陽電池が壊れてしまった)
「みどり」の失敗の轍を踏むまいと、「みどり2号」を打ち上げたが、太陽電池パネルのところの問題が起こって約10カ月で止まってしまった。
この二つの失敗でその後冬の時代でした。
もし失敗していなかったら、完全に日本のデータがスタンダードになって、国際的な環境、気候変動の変化では日本のデータを使わないとしょうがなくなっていて、日本に対する依存度が違ったような気がします。

やっと失敗を繰り返さないとうことで、みどり、みどり2号は太陽電池が一つだったが、しずく、だいち2号は両側になり、片方が壊れても衛星は死なないという形になり安定して動けるようになりました。
ようやく気候変動の観測衛星が今年度中に打ちあげるのを予定しています。
しずく(GCONW)と今度打ち上げる衛星(GCOMC)で二つ合わせてみどり2号と同様な機能をはたしています。
みどり2号のさらに進化したものが「いぶき」になっていて、GCOMCが上がればみどり2号のあとのものが全部そろう形です。
こういった仕事を判り易く説明できるように心がけています。
2011年東日本大震災があり、タイで大規模な水害があった年で、自分たちの生活には影響がないように思われるが、日本の工場も被害に会って車の部品が入らないと云うことになりました。
アジアで被害があった時には、もろに日本の生活、経済に影響があるので、一つの国だけで何かという話ではないと云うことです。

名古屋市生まれ。
宇宙もののアニメがあり一生懸命読んだりして、小学校の頃に天体望遠鏡を買ってもらって木星、土星を見ていました。
大学の研究生の時に、コンピューターシュミレションをやる研究室に行って、宇宙に近くなってきた感じがしました。
1989年NASUDAに入社。
2003年に「みどり2号」が運用停止して、「しずく」が打ち上げられたのが2009年になります。
「いぶき」をあげようとするまでに、組織的な管理の問題があるのではないかとか、組織の改善、地球観測をこれからもやるのかとか、議論があり、先が見えなくてそのころが一番つらかったです。
環境省が一緒にやりましょうと云うことになり、京都議定書の問題もあり「いぶき」が動き出しました。

地球の問題は日本人がよければいいと云う話ではなくて、世界に利益があれば必ず日本にも戻ってくることを信じていること、仏教でいう自捨他利、自分を捨てていかに他人に利するか、と云う処の話が原点にないと、地球観測をなんでやるの、日本の為だけなら衛星をあげなくてもいいんじゃないのという話になりがちだが、将来のことを考えたら地球全
体のために貢献しないと意味がない。
或る程度部下を使う立場になった時には、一度こうだと決めたらよほどのことがない限り
変えないと云うことは信条にしています。(頑固だとは言われますが)
仕事だけが人生のすべてではないと云うのもあるので、いかに効率的に仕事をして行って、自分の時間を大切にすると云うこともあると思います。
判断をする時に、自分の狭い立場で正しいと云う風に考えるのではなくて、広い立場、人として他の人のことも考えて判断して何が正しいかを判断してもらいたい。
さらに観測することによって、地球はどう変わりつつあるのか、これから20年の観測が重要で北極の氷の融け方の傾向を見ていると、ここ何十年で北極の氷はゼロになるかも知れなと云うペースで氷が減ってきている。
今の現実がどうなっているのか、正しく把握して明日に備えることが大切だと思っています。
「いぶき」「だいち2号」の次が動き出しているが、そのあとは明確ではなくて、継続的に人工衛星を使って地球を見ていくことを日本としてやっていこうと、できるところまではやっていければと思っています。
































2017年8月1日火曜日

リチャード・フレイビン(和紙アーティスト)・漉き舟がわたしのカンバス

リチャード・フレイビン(和紙アーティスト)・漉き舟がわたしのカンバス
1943年アメリカ、ボストン生まれ 73歳。
美術大学を卒業し、広告代理店で仕事をしながらボストン美術館に通い、浮世絵、水墨画、日本画など日本美術に魅かれ、25歳で来日しました。
以来48年日本に在住し、和紙をすいてアート作品を製作しています。
作品はふすまや屏風、和紙のインテリア、壁紙、かみこなど多彩です。
こうぞの素材の魅力を巧みに生かしています。
来日して2年間、東京芸術大学で学び、その後日本各地にある和紙の産地を訪ね歩き、埼玉県小川町で手すき和紙の技術を身に付け、小川町を拠点にアート活動を続けています。
日本に長年伝えられてきた手すき和紙の技をこれからもしっかりひき継いで行きたいということです。

紙を薄い藍色に染めるが、染め方がいろいろある。
刷毛そめ、スプレイに入れて染める、その後乾燥させる。
これは千切って張って、壁紙にします。
漉き舟は畳1畳ぐらいあります。
けたにすだれを敷いて、濡らして紙すきが始まります。
からまりがいい、こうぞの繊維が長い、薄くてもできあがった紙はとても丈夫です。
紙すきは重労働です。
特に展示会などがある前には漉き舟の前に立ちます。
もみじの葉を漉き込むときは位置など色々考えます。
紙を作る技術を覚えれば自分の作る作品の発想が変わる。

現在は二つ目のアトリエ、最初は慈恩寺があり、そこに蔵がありお布施によりそこで暮らして、工房がほしかったが、それは簡単に建物は立てられなくて、京都の本山と話し合い、座禅堂という名目でアトリエを作ってもいいと云うことになり(紙を作ることも禅の一つと云うことで)そこで紙すきが出来ましたが、2005年に大火事に会って消失してしまいました。
縁がありこちらの方に来ました。
4枚のふすまの作品があります。
上の方はごつごつした岩があり、下は青い水が流れている図になっています。
和紙の中にかえで、花などを配置したりしています。
書を書いて漉き込んだり、古い紙を生かして入れる。
漉き込むことと染めることで色々な和紙の作品を作り上げます。
紙を触ってみると味がないが、和紙の魅力は、和紙を触ってみると、音を感じたり、丈夫でもある。
これは杉の皮、こうずの黒い皮をアクセントのために入れています。
繊維が長いからにじみが多い、綺麗に滲みます。
かみこ、着物の羽織、帯を作りました。

ボストン美術学校にいたときに、ボストン美術館があり東洋のコレクションが沢山あって、浮世絵、水墨画などがありました。
浮世絵はできないが、ぼかしたやりかた、抽象的な作品に浮世絵を取り入れたいと思いました。
25歳の時に、日本に行きたいと思い両親に話ました。
東京芸術大学に入って、木版教室に入りました。(2年間勉強)
和紙に魅力を感じて全国を回りました。(金沢、美濃、高知など)
紙すきは家族、地元の人だったら入りやすいが、地元の人は入りたがらない。
体験センターがあり、いろんな先生がいて、1年間紙すきのやり方を覚えました。
小川町でスタートしました。

小川町は和紙の産地として有名でむかしはこうぞなど原料もたくさん作っていたが、最近は無くなってしまって、対策としてこうずの苗を栃木県から買ってきて、こうずの畑が増えました。(その声かけ運動をしました)
25年前は100本植えて、いまは600本になりました。
小川町にこうずをよみがえらせる事が出来ました。
里山クラブのメンバーで畑を管理しています。
会長は学校の先生で若い人も入っていて自然保護したいと、さまざまな活動していて、そのひとつがこうぞの栽培ということになります。
和紙の保存、和紙の展示会も増えて和紙を理解してくれる人は多くなったと感じています。
ダイニング以外は坐る生活をしています。
夕食はご飯を食べます。(毎日和食です。)

楽しめればいい、アートの場合は、発想を色々変えて自分の作品に満足すれば金よりも宝物だと思います。
宇都宮で二人展を妻と一緒にやりました。
和紙を沢山使って家の壁を和紙で飾る事を考えています。
和紙の作り1300年の歴史があり、和紙を大事に守りたい。