王貞治(世界少年野球推進財団 理事長)・【“2020”に託すもの】世界少年野球から羽ばたく夢
野球の普及を目指して王貞治さんが中心となって、進めている世界少年野球大会がいま横浜市で開かれています。
大会の狙い、自身の少年時代のこと、去年亡くなった恩師の荒川博さんの思い出などを世界少年野球推進財団理事長、王貞治さんに伺いました。
世界少年野球は27回目を迎えました。
子供たちの笑顔、瞳の輝きを毎年見ているので、やっぱり子供達のそばにいたいと思います。
最初彼らに何かプラスになるものがあればと思ってスタートしましたが、今はこちらがパワーを貰うような思いです。
30年間ジャイアンツのユニホームを着ていたので、ユニホームを脱いだ時に何をしたらいいか悩んだが、自分が一番得意なものをやったらいいんじゃないかと友達に薦められて、野球を通して子供達にチャンスを与えることが出来ればと思いました。
ハンク・アーロンにこういうことをやろうと思うがどうかなと云ったら、それはいいじゃないかと、出来たら協力すると言ってくれて、いつの間にか世界と言うよな名前が付くほどになりました。
スタートするまでに1年かかっています。
そのころは日本経済もよかったので、子供達のことをやるのでよろしくお願いしますと言うことでお金、好意を受けましたがバブルがはじけて、予算を組むのに苦労するようになりました。
大会規模も縮小して行って、基本的には子供たちにどういうふうな正しい野球とか、交流の場を与えるという原点に戻りました。
家庭の両親からの手紙を貰って、子供はこんなに変化したというようなことを頂き、やってよかったなあと思います。
体験した人が財団を運営していければと思っていましたので、そういう方向に向かいつつあります。
午前中は野球教室、野球の上手い子も、まるっきり野球をやったことのない国の子も来るので、べそをかいている子もいて差が大きいが、たった1週間でもちゃんと当たるようになって、取れるようになって、ものすごくうれしそうな顔になり、その変化を見るのも楽しみです。
サッカーはボール1つで遊べるが、野球はそうはいかないので、最初セッティングして体験させて、興味を持ってもらえればと思います。
体験させるということが、工夫して率先してやる様になる。
午後食事をした後、観光、歴史、文化に触れる、地元の子供達との交流などがあります。
子供は白紙みたいな物なので、何か体験したことが強く焼き付いて残るので、こういうことがないと絶対日本に来ることがない子が来る訳です。
団体生活をして、すぐ順応してそれなりの対応をします
どういう言葉で話しているのか判らないが、なんとなく話しています。
日本の子は外国から来た子に自分から積極的に話しかけることはあまり上手くいかないが、外国の子が日々近づいてくるので1週間でガラッと変わります。
横浜は外国からのものを受け入れるのがものすごく速いので、他でも色々開催しましたが、今回が一番市長さん初め色々な方が張り切ってくれて、盛り上がるのではないかと思います。
昔は普通の通りでは野球が出来ました、車が来たらタイムと云うことでやっていました。
集まった人数によってルールを決めて、神社、道路、公園などでやりました。
いろんな店の若い人、工場の人とかも相手にして、終わった後の酒屋さんのジュースの味は忘れませんでした。
用具もバット、グローブなどはなくて、工夫して野球ができるということが楽しかったですね。
中学に入って、草野球のチームに入って、勝つと勝丼負けるとカレーで、それで一生懸命やって野球にどんどんのめり込んでいきました。
私はそういったことで年齢の割には或る程度上手になれました。
11月30日か、草野球をやっているときに荒川さんが見に来られて、私はピッチャーで左で投げていて、右で打っていましたら、呼ばれて左利きだから左で打ったらどうかといわれて、左で打ったら2塁打が打てて、それからは左になりました。
その時は中学2年生で、周りは高校生でした。
直ぐに転校するようにと荒川さんに言われました。
結果的に早稲田実業に入ることになりました。
荒川さんとの出会いは運命の出会いでした。
厳しい指導をされれば、されるなりに吸収していく訳です。
荒川さんはマンツーマンで、教える側がどんどん私を引っ張って行ってくれました。
荒川さんも、別当さん、千葉さんも足をあげて打っていました。
私は球に食い込まれてしまい窮屈なバッティングをしていて、10月から8カ月やったが上手くいかなかった。
ピッチャーが足をあげたら足を上げろと言われて、試合で初めてやったらその日にホームランが出ちゃったんです。
その時に4打数ノーヒットだったら、1本足打法はお蔵入りになっていたと思います。
ボールとの距離感がとれれば、芯に当たりさえすれば、早い打球、距離も出るわけで、距離感のタイミングをどうするかということを工夫すれば、今の人ももっと打てると思います。
荒川さんからはぼろくそに言われるが、最後はこれだと打てると、必ず言ってくれて終わるんです、その一言で明日もやる気が出る訳で、コーチはいかに話術が大切かと云うことです。
荒川さんは選手のやる気を引き出す名人でもありました。
荒川さんは私のために自分の生活スケジュールを組んでくれました。
帰れるのは午前2時ぐらいでした。
練習に行く前に荒川さんのところで一汗かいて、みんなと一緒に練習をして、終わったら帰ってきて風呂に入る前に一汗かくわけです。
練習の終わった後は筋肉がほぐれているからバットが振れるわけです、試合後の練習がいかに大事かと思います。
キャンプでも夜ミーティングが終わって9時から大広間でバットスイングが始まりますが、その後荒川さんと12時前後までやりました。(他の人は20~30分)
私は上手くなってゆくということがありましたが、荒川さんは育てたいという情熱だけでずーっとやってくれて感謝の一言です。
昨年荒川さんが亡くなって、あの時に教える予定が組んであったそうですが、食事をして気分が悪いと言って、救急車で運ばれました。
荒川さんは後悔もあるかと思うが、荒川さんぐらい自分の思いを貫き通した人はいないと思うので幸せな方だったと思います。
国際少年野球が終わった後の彼らの活動をもうちょっと調査しておけばよかったと思います。
国に帰ってそのあとの流れが続かない、輪を広げてくれるように、教える側になって広がってくれればいいなあと思います。