さかもととしえ(絵本作家) ・子どもがみた戦争
金沢出身の絵本作家、さかもとさんは長い間忘れようとしても忘れられなかった戦争の記憶を、思い出すままに少女の目線で語り始め、勧められて絵本にして出版しました、2002年のことです。
平和の大切さを知ってもらおうと戦争を知らない子供や親、先生たちに頼まれて絵本の読み聞かせを行っています。
終戦の時は小学校3年生でした。
国民学校に入った時に教えてもらった音楽の歌詞、国語教科書を読んだものは覚えているのでいかに教育が大事かが判ります。
終戦の時は新潟にいました。
父の転勤で新潟に来て強制疎開が全市に命令があり、市内から郡部に疎開しました。
食べ物は悲しい思い出ばかりです。
次の世代を育てることが必要と云うことで最初東京、横浜、大阪に給食が行われその後6大都市に展開しましたが、すごくまずかったです。
フスマ、ヌカ、ドングリの粉で作ったパンなので想像が付くと思います。
そのコッペパンとお汁が出て、おかずはなしです。
お汁には一切れの豚肉が出ましが、学校で飼っていた豚を給食につかっていたことが判った時にかわいそうで食べられませんでした。(お汁だけすすりました。)
焼夷弾の怖さ、夜な夜な敵機が来て空襲警報が鳴る怖さよりも、親から離れて経験した悲しさ、恐ろしさの体験がはじめてでした。
横浜では2年生まで居ましたが、その3月10日に東京大空襲がありました。
窓に映った真っ赤な美しい景色が綺麗で思わず「綺麗」と云いましたが、東京大空襲の時の景色でしたが、あの下で10万人が亡くなった命の炎だったということが、心の重荷になっていました。
絵本の字が読めるぐらい明るかったです。
トラウマになっていて夕焼けが厭です。
新潟の海岸での夕焼けを見ているときに横浜での記憶が戻ってきて、太陽が沈んでゆく絵を書いていました。(私は記憶がなかったが大人になって妹から言われました。)
焼夷弾の音と花火の音は同じで、江の島での花火は近くでは見れません。
焼夷弾が落ちる前に照明弾が落ちてきて、目標を定めてそのあとにバラバラ焼夷弾が落ちるわけです。
空襲は夜だけだったが、その後昼間も行われるようになりました。
登校の中途で空襲警報が鳴って戦闘機が来ると、地面にぱたっとして動いてはいけなかった。
新潟で8月の初めころ、父が来て特殊爆弾で広島は全滅だと言いました。
その後だったと思いますが、毎日グラフを父が見せてくれて、めくるページが炭のように鼠色か黒で、眼を凝らすと電信柱を折ったもの、薪が燃えているような形がうっすら見えて、それが手や足が曲がっている人間の焦げた姿だと判ったページがありました。
しかし、それは直ぐに発売禁止になったようでした。
見た衝撃は忘れられません。
広島に落ちる前に、行政は新潟に原子爆弾が落ちるという秘密情報を入手して市民を強制疎開させたわけです。
新潟に原爆を積んだ飛行機が来たが、天気が悪くて引き返したということを後で知りました。
天気がもしよかったら、私は今こうして生きていなかったです。
8月15日は特別な放送があるから集まるようにと云うことで、村長さんの家に行きラジオを聞きましたが、良く判りませんでした。
大人の人たちが泣いていました。
その時よりも私は真珠湾攻撃に高揚した大人の人のほうが強い記憶がありました。(5歳)
1942年に初めて大きな飛行機(B29)を見た覚えがあり、恐怖感がありました。
父は疎開のためのキップを購入するのに、攻撃の飛行機が来る中桜木町の駅で5日間かかりました。
上野駅から金沢に経つわけですが、2日間地べたに待ちました。
20時間ぐらいかかって直江津に行きました。
新潟はアルミニュームの精錬工場があると言うので、原爆投下の対象になったようです。
色々親戚をたらいまわしになったりして、学校は6回ぐらい転向しました。
友達と佐々木 禎子さんの話しているときに、戦争体験を本にしたらどうということがきっかけになって、本を出すようになりました。
映像を文にしただけですが。
子供は強烈に残ったところは忘れられません、消せません。
小学校4年生の教科書に「一つの花」今西祐行さんが書かれた戦争の物語が出てくるが、平和教育として私が呼ばれて、朗読して話をする機会が何回もありました。
2度とあの怖さは体験したくないし、子供に体験させたくはないです。
当時の日常は生と死の境目ですが、子供はそんなことは考えずに、空襲警報が終わったら遊ぼうと云う感じでした。
焼夷弾などで何時死ぬか判らないので、「行ってらっしゃい」の後ろに言葉にならない通じ合うものがありました。
緑内障といわれて、いずれ両目失明する状況ですと云われました。
最近、頸動脈に狭窄があり、小脳が委縮してゆく病気だと宣告されてしまって、そのうち歩けなくなるといわれてしまいました。
喋れるうちに喋ろうと、出来るうちに出来ることをしていれば悔いがないのではないかと思います。