本郷和人(東京大学史料編纂所教授)・福澤諭吉【近代日本150年 明治の群像】
講談師 神田蘭
文明開化の時代の啓蒙思想家、慶応義塾大学を作った教育者。
福澤諭吉の紹介(講談)
「天は人の上に作らず、人の下に人を作らず。・・・」 「学門のすゝめ」
明治5年刊行 340万部が売れる。(当時の日本の人口 3300万人)
1835年1月10日 大阪の下級武士の息子として生まれる。
当時の識字率は男子50~60%、女子がおよそ30%。
多くの人に読まれました。
人間みな平等と云うが世の中を見ると、賢い人、愚かな人、貧しい人、富める人がいる。
そのような違いが生まれるのは、ただその人が学問をするか、しないかにある。
難しい字を知り和歌をたのしむ様な実なき文学ではなく、実践に役立つ、実学である。
いろは47文字、手紙の書き方、そろばんの稽古等簡単なことから始まり、地理、物理、歴史、経済などである。
西郷隆盛なども激賞、広く読まれる。
文章がとても判りやすかった。(お手伝いに読ませて、判らないと書きなおした)
現代と比べる識字率は低いが、当時の世界で比べると、日本の識字率は世界一だった。
福澤諭吉は机上の学問を嫌った。
福澤先生が人権、人間は平等であると云ったことが、日本の社会に根付いた結果として現在の我々があると云うことです。
当時の社会にとってみれば吃驚するような内容だった。(身分制度があった)
中津藩(福澤諭吉の藩)は門閥制度が厳しいので有名だった。
諭吉の父親は才能があったが出世できなかった。
福澤諭吉は1回目1860年(27歳)咸臨丸に乗ってアメリカに行った。
福澤諭吉は懇願して乗せてもらった。
勝海舟は福沢諭吉とはそりが合わなかった。
西海岸を見て帰って来た。
1862年 29歳 ヨーロッパに1年間行って来た。
銀行制度、保険制度など色んなものを見てきて、後に日本にしっかり紹介するのが凄いところ。(他にも一杯行ったが実際に動いたのは彼だけだった)
フランス、イギリス、オランダ、プロシャ、ロシア、ポルトガルに行って、各地で写真なども撮っている。
ほかに病院を見たり郵便局を見たり、選挙制度、議会制度を勉強したりしている。
1867年 34歳の時にアメリカに行く、ニューヨーク、ワシントン等。
福沢諭吉はアメリカへの1回目の時の質問でジョージ・ワシントンの子孫は今何しているのと聞いたら「さあ」と云うことで吃驚するが、世襲がないことに感銘を受けた。
「独立自尊」(気高く生きよ、日本人たる誇りを忘れるな)慶応義塾では一番有名な言葉。
人に迷惑をかけるなと良く言っている。
「一身独立、一国独立」
当時の日本は列強が植民地にしようとして虎視眈々と狙っている。
一人一人の国民が独立すれば一国がきちんと自分の足で立つ、日本が一つの国として植民地ではなく立派な国として世界に伍してゆくことができると云う思想。
一人ひとりの国民の責任がある、と云う気がします。
今泉みね(蘭学者桂川甫周(7代目))の娘『名ごりの夢』に福沢諭吉のことが書いてある。
「・・・始終懐は本で膨らんでいました。
何時も本のことばかり心にかけて桂川から洋書を借りていましたが、他の人がそれを写すのにひと月、ふた月かかるのにあの人は大抵4~7日で写して返しました。
福沢さんのおなりは一番質素でした。・・・
父の前できちんと足を重ねて話を聞いている時に、私は足袋の穴に気づいて、松葉を10本ぐらい束にして突っつきましたが、話に聞き入っていて、動くには動かれず大分お困りのようでした。
福沢さんはめったにお遊びになりませんでしたが、時には私の相手をして下さることがありました。・・・
なにをしてもお上手で面白く、物知りで色々お話していただきました。
私が6つのころ、福沢さんにおぶさって行ったことがあります。
その背中が広かったことを思い出します。・・・
外国から戻って頂いたものは二品、一品は羊羹のようなもので食べるものではなくいい匂いがして水にぬらせば泡が出てくるものでした。
今から思えばシャボンでした。
もうひとつはリボンぐらいの幅の綺麗な布を頂ききました。
今も手元にあるので時々出してみてはその昔を思いだしております。・・・」
明治新政府とは付かず離れずの関係だった。
やろうと思えば明治政府の中で出世できたが、あえて距離を取った、これはできることではない、武士を辞めて平民になる。
本当にやりたいのは日本国民を教育したいという志、その実現のために生きている、そういうところが偉い人だと思う。
大隈重信との関係は仲良かったようで、家族ぐるみの付き合いだったようです。
大学院教育は日本では日本語でできるが、アジアのほかの国は自分の国の言葉では大学院教育はできないため積極的に留学しないといけない。
福澤諭吉はヨーロッパの言語、アメリカの言語を日本の言葉に置き換えてくれたので、大学院の教育まで日本語で出来ると云う事なんです。(経済 動物園 授業料とか・・・)
明治34年に亡くなる。
小泉信三氏
小さいころ福澤諭吉の屋敷の中に一緒に住んでいた。慶応義塾の塾長、天皇陛下の先生。
美智子さんとの出会いを演出した方。