有賀究(福島県石川町) ・【戦争・平和インタビュー】
原爆の原料 ウラン採掘に知らずに動員された少年たち
終戦間際、福島県では秘密裏に原子爆弾の原料となるウラン鉱石の採掘がおこなわれ、その作業に地元の中学生が学徒動員されていました。
場所は福島県の南部の石川町です。
石川町はおよそ150種類の鉱石我採掘できる全国でも有数の産地で、ウランを含む鉱石があったために旧陸軍が原子爆弾の研究場所として目を付けたということです。。
石川町で育った有賀さん(87歳)が当時採掘に従事した中学生の一人でした。
当初その目的が聞かされないまま作業が進められたと言います。
自分達が掘っていた石が原子爆弾の原料と知った時、何を思ったのか、二度と若者が戦争に巻き込まれないようにと戦後教員として平和の尊さを訴えてきた有賀さんに伺います。
昭和20年になると4年生、5年生の上級生はほとんど関東方面に勤労動員されて働いていた。
残ったのは旧制中学3年が最高学年でいずれ勤労動員があるだろうと思っていました。
3月に先生から勤労動員の話がありました。
石川山と沢田、2つ行き先を言われました。
石川山に着いた時にはいったい何をするのか分からなかった。
白い石の層を出してそれをつるはしで掘って石を一定の場所に運ぶのが仕事でした。
わらじばきでモッコに棒を通して運びましたが、大変でした。(雨の日以外は毎日)
4月12日にB29の編隊が飛んできて、石川町が銃撃されました。
人的な被害はなかったが、体育館とか家がぶち抜かれたりしました。
校庭は食べ物がなかったので、野菜を作ったりしていました。
全体的に追い詰められたような感じがあったが、日本は負けそうだとはだれも言わなかった。
或る日将校が皆を集めて、「君たちが掘っている石は、マッチ箱一つで米国の大都市を破壊できるのだから、一生懸命掘れ」との話がありました。
目的がはっきりしたので子供ながらに馬力がかかったような気がしました。
(石川での原爆研究と云うのは終戦後判りました。)
軍部にしてみれば内地は攻撃され、敗戦濃厚になってきて、ひっ迫していた。
出征していった親たちを思うと、子供ながらに勝ってほしいとは思っていました。
或る日キャラメルを渡され、励ます為とは思いますが、おいしかった思い出があります。
制空権、制海権も連合国側になっていたので、自由に飛行機が飛んできました。
8月6日 9日 ラジオで特殊爆弾が落とされたことを聞きました。
戦後、原爆ドームを見に行きましたが、戦争で殺し合うということ、焼けただれた衣類とか見ると、大義名分をいくら言っても、人間が人間を殺し合うということは許せない。
理研は昭和20年4月13日の大空襲で6割方の施設が破壊され、一部の工場が石川町に疎開し、原爆開発の研究が進められた。
私は石川で原子爆弾の研究していたことは判らなかった。
出来なくてよかったと思います。
戦争をしないようにみんなが努力していかなければいけないということだと思います。
作業からは逃れることはできなかった、上からの命令には忠実に従わなければならなかった。
教育勅語を読んで、国を守るために戦えという思想を植え付けられました。
8月15日、家で天皇陛下の放送があってよくきこえなかったが、父親が戦争に負けたと云ったが、ほっとした感じがあった。
平成22年から、「故郷と戦争を語り継ぐ会」を始める。
戦後何年か経つと、出征して戦死したことも忘れられてくるし、若者は8・15も判らない人もいるし、だから具体的に資料を出していかないといけないと思った。
事実を多くの人に知ってもらうことです。
石川の研究所に勤めていた人に手紙を出して、基礎的な研究をしていましたと言っていましたが、今にも爆弾が出来るような状態ではなかったとの回答を貰いました。
広島、長崎、戦争の事実を知ってもらいたいし、きちっとした意思表示をして貰いたい。
伝えていかなければならない責任があります。