鳥越不二夫(広島平和文化センター証言者)・子守唄に救われた命
72年前8月6日、中学3年生の鳥越さんは爆心地から2km離れた自宅で被爆、1週間ほど生死をさまよいましたが、お母さんが歌ってくれた子守唄が死にかけた命を引き戻してくれたとおっしゃいます。
小学校の校長を定年後、65歳から生かされた命で原爆の恐ろしさや、平和の大切さを訴える鳥越さん、86歳の今も酸素ボンベをひきながら活動を続けています。
骨髄異形性症候群という病名を貰っています。(血液の癌)
放射能を受けたときに赤血球が壊されている。
赤血球が正常になることが難しい 。
3年ぐらい前から酸素ボンベを使用、1週間に1度は特別な注射をしなくてはいけない。
ABCC、アメリカの医者が来て検査ばかりして治療は一切してくれなかった。
日赤にお世話になっています。
山手町、爆心地から2km離れている。
学徒動員があり、動員中で広島市の祇園の工場で飛行機のプロペラを作っていました。
4日健康診断があり受診したときに、脚気だったようで、8月6日、市内の病院で再検査するように言われました。
6日、爆音が聞こえてきて半袖のシャツ着ていて外に出て見たら、何も姿が見えなかった。
その後黒い物体が空中に見えて、何だろうと思ったその瞬間凄い光が眼に入りました。
あっという間に空がオレンジ色に染まり、きれいだなあと思ったが、物凄い熱風が私の顔等に襲って来ました。
両手で顔を覆って、その先気を失ったようで、気が付いて立ちあがろうとしたときに、凄い地響きと凄い風が巻き起こったような気がしました。
あっという間に空中に浮き上がったように思います、そこからは全く分からなかったです。
気が付いた時には目の前に防火用水があり、立っていたところから10mぐらいのところでした。(防火用水にぶつかって止まったようだった。)
何が起きたのか判らなかった。
しばらくしたら両腕が物凄く痛みました。
見たら真っ赤に焼けただれていて、顔も痛くてどうしようもなかった。
水槽の中に腕を入れて、顔にも水をあてがったりしたがますます痛みが増しました。
母親は爆風で家から飛び出して、私を探していたようでした。
母親の声を聞いたのでここにいると叫びました。
母親は防空壕に連れて行ってくれましたが、痛みと苦しさで狂い回ったような感じでした。
それから意識を失い、夕立のような雨の音で気づきました。
防空壕の中にまで水が流れてきました。
雨があがり外に連れ出されたが、人が右往左往していました。
みんな髪はぼさぼさ、顔は血だらけ、焼けただれている、服はぼろぼろでした。
水が欲しいとあっちこっちで叫んでいました。
廿日市まで軍のトラックで運ばれ、治療を受けたが、薬は無くなっていて小麦粉に酢を掻き混ぜたものをやけどの応急手当の治療として使われました。
ハサミで切り取られて、その上にそれを付けられて包帯で巻かれました。
家に帰ったようですが、その姿を見て母親はお化けの様だと言っていました。
その後まったく意識がなくて、母親は生きているのか死んでいるのか分からない状態だったようで、翌日軍の医者が来てこの子は助からないと云ったようで、天国に送ってやろうと母親が膝に抱きよせて、子守唄を歌ってくれたようです。
私には微かに聞こえて来ました。
その時に身体をちょっと動かしたようで、母親は生き返ったと大変喜んだようです。
新しい命を授かったと今も思います。
入院生活をして、その時にハーモニカを母親が枕元に置いてくれました。
病院で母親の歌ってくれた子守唄を吹きたいと云うのが夢で、吹けるようになりました。
母の心境を考えると辛かっただろうなあと思います。
医者になりたいと思ったが、教職の道に入りました。
山口県に10年いて、その後広島に帰って来て30年余り勤めました。
自分自身原爆を思いだしたくない、やけどを見せたくないと云う思いもあり、いつも丸首のシャツを来てプールでも指導していました。
赤血球が減ってきているので立って授業が出来なくて坐って行なったりしました。
60歳で退職をして、1週間目に社会を勉強したいとサラリーマンになりました。
まるで勝手が違ってましたが、段々コミュニケーションをとりながら続けられて、その後学生の採用の担当官になり、どんなことでもいいからと作文を書かせたことがありました。
その時に1点、原爆について書いている学生がいました。
小学校の卒業前に校長先生から原爆の話を聞いて、命の大切さ、命のことを聞いてとっても忘れることができないと書いてありました。
こういう校長は誰だろうと読んでいるうちに、私だったことが判りました。
原爆は伝えていかなければいけないのではないかと思って、証言をすることに決めました。
広島を語り継ぐ会に所属して証言をしたりして、本格的に平和文化センターの職を受けました。
4年目に、修学旅行生に対して色々話をするようになりました。
広島の蝋人形が撤去されました。
私の証言を伝承したいと云う人が出てきて、今後若い人に伝えてもらわないといけないと思います。
平和教育に対して、学校としての取り組みに差があります。
中学3年生がオバマ大統領が来て謝罪をしなかったことに対して、鳥越さんはどう思うかとの質問があり、戦争はどちらにも責任があり、来られたことの心を理解してあげないといけない、と云うふうに言いました。
①幸せと云うものは何でしょう。②命とは、③平和とは と問いかけて、帰って話し合って自分の考えをまとめてほしいと言います。
私の幸せは息が出来ることが最大の幸せ、命は宝だから一日中大事にしてゆく、周囲から支えられているという感謝の気持ちを持ちたいと思う、平和は身近なことに思いをはせて、友達が仲良くする、思いやりのある優しい心を持っていこうと、そういったことが基本になると話しています。
広島の悲惨さは、あらかじめ指導なり、勉強しておいた方がいいと思う、目で見ないといけないこともある。(広島の蝋人形が撤去)
やけどを負った証言者は本当に少なくなりましたので、伝承者が必要になって来ます。
月に5~6校を対象に話をしています。
今日を大事にしていこうというのが私の思いです。
40歳で薬は止めて、自分の体は自分で鍛えようという思いがあり、実業団、マスターズなどで50歳の時に400mで日本新記録を作ることが出来ました。
子供たちを理解して行く、子供に接近していかなくてはいけない。
被爆した時の年齢差があり、年齢が低ければ低いだけ両親から話を聞いて自分のものとして話をしますが、自分の経験を通して苦しかったことを話す事は出来ます。
母親から、おまえは奇跡的な人間だと、生き返ったことに対して、命を粗末にしたら罰が当たるとよく言われました。