2017年8月18日金曜日

井上万吉男(全国強制抑留者協会元理事長)・【戦争・平和インタビュー】

井上万吉男(全国強制抑留者協会元理事長)・【戦争・平和インタビュー】
今こそ語り継ぐシベリア抑留 最後の証言
井上さんは1925年今年92歳、19歳で軍隊に入り、終戦は北朝鮮で迎えました。
当時のソ連によって3年間北朝鮮やウラジオストックに抑留され、厳しい食糧事情の中、炊事班長として抑留者たちの食事作りを担当しました。
日本に帰国してからは平成元年に設立された全国強制抑留者協会の一員として、何度もロシアを訪問し抑留中の労働に対する賃金の支払いなどを求める活動に取り組んできました。
また地元の鳥取県では抑留体験を語り継ぐ会を毎年開催し、戦争を知らない世代にシベリア抑留の悲劇を伝え続けて来ました。

抑留体験を語り継ぐ会を今年は5月に開催しました。
体験者は若くて91歳ぐらいで、体力的になかなか難しいと思っています。
この辺で区切りをつけようと思っています。
戦争は二度と起こしてはいけないので子や孫、国民に伝えたいというのが、思いです。
19歳で軍隊に入りましたが、よろこんで入ったのは事実でした。
郷土の繁栄を願いながら、戦争はやらねばいけないというのが本音でした。
北朝鮮に行き、教育を受けて、幹部候補生になりたいという思いがあり、夜も勉強しました。
日本が敗戦と云うことは全然頭にありませんでした。
重大な放送があるということで非常招集があり、戦争に負けたんだということが判りました。
日本を出る時にはもう二度と家族には会えないだろうというような気持で出ていたのですが、ラジオ放送を聞いた後、冷静になって考えたときに、故郷に帰れるかもしれないと思ったのも事実です。

日本に帰れるかもしれないということで、テントを使ってリュックサックを作り、出来るだけ色々な物を詰め込みましたが、ソ連兵に全部没収されてしまいました。
脱走した者もいますが、成功したのは1割ぐらいであとは射殺されたりしました。
誘われたが言われるままにした方がいいという思いがあり、脱走すると云うことは思いませんでした。
北朝鮮に1年いて、その後ソ連に行くことになります。
満州鉄道で行き、その後3日3晩歩いて着きました。
その間、道端に疲れきって倒れている日本兵もいましたが、我々自身も疲れきっているので助けるということはできませんでした。
強制抑留されたのは約60万人、そのうち亡くなったのは6万人といわれるが、不明が何万人かいます。
ウラジオストック郊外だといわれて場所が判りました。
ウラジオストックから船で日本に帰してやろうとうそを言っていました。

厚生労働省によると、57万5000人が抑留されてそのうち5万5000人が命を落としたといわれています。
体育館のような建物があり、そこに収容されていました。
寒さは零下40度ぐらいの寒さがありました。
ウラジオストックは1mぐらいの氷が張ります。
防寒具は日本の兵隊の防寒具ですが、零下30度ぐらいまでにはぬくもりを感じますが、零下30度を過ぎると動けば動くほど寒いです。
漁船が捕ってきて冷凍された魚を箱詰めしたり、箱作り樽作りしたり、缶詰め工場の作業をしたりしました。
50~70kgの魚の箱を一人で担いで貨車に積み込み、ノルマがあり終わらないと帰してもらえない。
私は水虫で靴が履けなくて、下駄ばきで出来るのは炊事が出来るということで、炊事班長と云う役割でやっていました。

器具はあるが薪がなくて、魚の箱があるのでかっぱらってきて炊き上げました。
ソ連兵に尋問されて、魚の箱は国家の財産だということで、鉄格子の暗闇の中にぶち込まれ、これで人生はおしまいかなと思い一夜を過ごしました。
一夜明けて又尋問されて、帰ることが出来ました。
主食は粟、稗、こうりゃん(モロコシ)、大豆かす、小豆など。
栄養もたらないし、栄養失調になったりして亡くなって行った人もいます。
食べるものでは、誤魔化したのではないかと云うことで、喧嘩になるようなこともありました。
或る晩夜中の12時ごろソ連の兵隊に起こされて、棚にパン、肉が残っていてくれといわれて、日本人のものだからやらないと言ったが、撃つといって足元に撃ってきたので、とびかかって行きました。
銃声を聞いて向こうの憲兵がきて、私が事情を説明すると、兵隊は連れていかれました。
1週間後、ソ連の囚人を50~60人を見かけ、その中にその兵隊がいました。
捕虜として取り扱っていたものの、我々に対するソ連兵への規律も厳しいものもあると思いました。

ここでは死んではならないという思いがあるので、何とかしのげたと自分では思っています。
何時本土に帰れるかわからなかったが、船に乗れといわれて、そのまま日本に帰ることができました。

ソ連に抑留されていた時期は青春の時期でした。
無謀な国策によって奪われたという腹立たしさは全体に感じています。
戦争自身は愚かなものであって、我々の青春が奪われと云う気がしてなりません。
捕虜は国際法で或る程度労働を課してもいいが、我々はそうではない。
ポツダム宣言があるが、ソ連だけがそれを破って、北朝鮮、満州にいた日本の連中を強制的に自分の国に引っ張って行って、重労働させたと云うことで、我々は捕虜ではない。
労働に対する報酬を出してほしいと要望した。
戦友が亡くなって、いい加減な埋葬されてるので、我々が行って整理しなくてはいけないということ、遺族を含めて墓参したい、と交渉したが全然できてなくて残念に思います。
抑留体験を語り継ぐ会では、基本的には戦争をしてはならないと云うことが根本で、事例を挙げて事実を話す、どういう労働をしたか、道路作り、鉄道作り、木の伐採、建築などを話しています。
三重苦即ち、寒さ、栄養失調、重労働に悩まされながら、何年か働いてきました。
語り部が繋がって行ってくれればいいと思っています。
ソ連に対する憎しみ悲しみはありますが、それを乗り越えて平和でなければならないと思っています。