2017年8月8日火曜日

佐野博敏(元東京都立大学総長)   ・原爆投下 川を泳ぐ焼き魚

佐野博敏(入市被爆者・元東京都立大学総長) ・原爆投下 川を泳ぐ焼き魚
89歳 1945年8月6日、当時17歳だった佐野さんは広島工業専門学校(現広島大学工学部)の学生でした。
学徒動員されていた広島県内の工場で原爆投下を目撃、翌7日の早朝に広島市に入った佐野さんは市内を流れる川で背びれを失いうろこが焼け落ちた魚が水面に漂っているのを見ました。
死んでいるのかと思って手を差し伸べて見ると魚はふらふらと泳ぎ去って行ったそうです。
その後市内で原爆の惨状を聞いた佐野さんは魚は被爆したのだと知ったと云うことです。
被爆の翌年、佐野さんは記憶を元にこの魚の絵を描いています。
佐野さんはその後大学に進んで放射化学を専門に研究して、ビキニの水爆実験の際は死の灰の分析等にも携わりました。
被爆から72年を迎えた今年、佐野さんは自らの被爆体験について語ってくださいました。

大腸がんを2回やりましたが治療してからは、元気にしています。
母親が被爆者で、被爆者づらをするなと当時時々耳にして、高度成長期で被爆の体験を人にいうことはあまり受け入れられなかった。
東京都立大学の弟子にも被爆の話をしませんでした。
大妻女子大学の学長になってしばらくして、経験した極限状態を学生に話してほしいとの話があり、原爆の体験の話をしました。
非常に熱心に聞いてくれて提出されたレポートも細やかなな感受性で受け取った印象がありました。
若い人にも話をしなければいけないと気付きまして、大学、高校、私のいましたお茶の水女子大学などで話をするようになりました。

8月6日、17歳で広島工業専門学校の生徒でした。
三菱化学で働いていました。(勤労動員)
8月6日の午前中は授業があり、軍事教練の将校が来る時間帯になっていて、寮を出て教室に行くために8時過ぎに玄関を出ようとしたときに、ぴかっと光りました。
外へ出て数歩歩いた時にドンという大きな爆音がしました。(ピカドンと云う現象)
広島からは約30km離れた場所でした。
その時はまだそんな大変なことが起こっているとは判りませんでした。
キノコ雲の成長過程が見えました。(変な入道雲だと言っていました)
将校が8時半過ぎても来なくて、9時半になっても来ない。(来ないことによろこんでいました)
11時頃になって、山陽本線の列車が通っていないと、誰かがいい始めて、原爆のせいだとはだれも想像できなかった。
負傷者が沢山入って来ることが判り、広島で大変なことが起こったと云う噂が入ってきた。

着物はぼろぼろ、皮膚は焼けて皮が垂れ下がっている、5~10人並びながら帰って来る。
広島は火の海だと云う話を聞いて、ますます何が起こったのか判らなかった。
B29が沢山飛来して焼夷弾を落としたと云う訳でもないのに、なんかが燃えていると云うのは考えられなかった。
暗くなるに従って、真っ赤な空になって、広島方向は全面赤くなっていました。
工場が蒸気船を何艘か出すから希望者は広島に帰る様にと云うことで私も夜中2時ごろ出発して、朝の4時半ごろにつきました。
太田川の河口に着く予定になってました。
そこで川を「泳ぐ焼き魚」に出会いました。
30cmぐらいの鮒がよろよろ泳いでいる。
鮒の背中の背びれがなくて、中の肉が見えました。
手を伸ばすと手から逃れてうろうろしている。
1946年に「泳ぐ焼き魚」を色鉛筆で書きました。
背びれは無く、頭の部分からしっぽの部分まで背中が裂けていて、裂けた肉の部分が黄色に描かれれている。

丘に上がって負傷者の肌を見てから、あーそうだったのかと思いました。
街の様子は動けない人が道端にうずくまって痛いよーと叫んでいる人、息絶えている人も沢山いました。
母は富士見町という爆心から1.1kmのところなので、私は自宅まで歩いて帰りました。
家は完全に焼け崩れていて、2本の石の門柱だけが残っていました。
門柱の間に女性の焼死体がありました。(足は無く顔はどうなのか判らなかった)
母親は亡くなったと判断ました。
罹災証明書をもらって、親戚に連絡したところ、遺体を取りに行かなければいけない葬式をしなければいけないと云うことでリアカーを曳いて歩いて広島まで帰りました。
親戚の方が母親かどうか確認しないといけないと云うことで、歯を見ることになり、口を開けてみたら、母親とは違っていた(母親は虫歯が多かった)

それからは親戚の方と行方不明の母親を探すことになりました。
6日間探しまわりました。(テントだけの収容所など市内を歩き回りました)
母親の識別はできなかった。(負傷者にお母さんと云いながら反応を見ました)
川にも沢山の死体もあり、川の中の死体までは近付くことはできなかった。
眠るのが怖かった、眠ると母親が夢枕に立つのではないか、夢枕に立たれたらもうおしまいだと思って、眠らないようにしようと思ったが、6日目の朝にうとうととして、夢の中に母親が出て来ました。
その夢を見たとたんにしまったと思いました。
絶望的6日目の朝でしたが、お寺から連絡があり酒蔵?(酒蔵通り?)の国民学校に収容されていると連絡がありました。
酒蔵?(酒蔵通り?)の国民学校に行って、東京の暁部隊の下士官に案内され聞いたところ、母親が「博敏、博敏」とうわごとのように叫んでいたそうです。
お寺の連絡網を使って連絡してもらえたそうです。

母親は右半身ガラスが刺さって、右腕の付け根の動脈が切れて出血多量で、逃げたが意識不明となり、そこに暁部隊のトラックが通って幸いに母親を助けてくれて暁部隊に収容されて、余りにも子供の名前を呼ぶんで気にかけてくだすったと思います。
あれだけ博敏、博敏とうわごとのように叫んでいたのに、私と出会うと、「博敏、どうしてここに来たの」と言って、私も母親がそこにいるのは生きていて当然だと云う気がしました。
6日間、死体を見たり、けが人を見たり、死体を焼くところを見たり、首が焼け落ちて又火の中に入れられるところを見て、無感動のまま6日間を過ごして、極限状態だったと思う。
極限状態だと人間は何の感動もしない、平気でいられる。
その後その話をすることもありましたが、ほんとうに感動しなかったのかといわれましが、感動らしい感動がないぐらい感動したのかもしれません。

広島工業専門学校から東京大学理学部に進学、放射化学を専攻する。
放射性元素、人工の放射線元素など 始まったばかりでGHQは放射能の研究はしてはいけないことになっていました。
ビキニ事件が発生して、私の先生は放射能の専門家でビキニの灰の分析などが木村研究室に依頼が来ました。
ビキニの水爆は汚い水爆だと判りました。
核分裂に使われないウランを原爆の周りに取り囲んでおくと、核分裂が出来ないウランですが、非常に高速の中性子が出るためにそれまで核分裂するので、放射性物質が沢山出る。
その後東京都立大学の教授、総長、大妻女子大学の学長を歴任する。
わたしが専攻したテーマの一つにホットアトム(周囲の熱平衡系のエネルギーをはるかに超えるエネルギーを持ったり、高電荷を帯びた原子のこと)化学があり、高速の粒子を物質の中に叩きこむと色んな相互作用を起こすわけですが、人間社会に突然原爆が落ちて広島の社会が滅茶苦茶になったような、そういう現象と、原子分子の世界と人間の社会と割に似ているんですね。
一回破壊されたものが完全ではないが少しずつ復元すると云うことが、原子分子の世界でもあるわけです。

物質を壊す最大限の壊し方なので、普通の化学反応とは違うわけで、世界全体を壊すような兵器に核兵器は成ったんだなあと云う気がします。
この経験を忘れたら、人類社会が最終的な面を迎えるのかなあと云う気がします。
人間自身が作った核兵器が人間社会を壊すんだろうと云う気がします。
どう実感出来るように伝えることができるかと云うとこれは、よほど皆さんの想像力に期待するよりしょうがない。
被曝者としてだけではなくて科学者として、人類が得られた真実を伝えることが一番の目的だと思います。
誇張でもなく縮小でもなく、公平な実感として伝えることが大切なことだと思います。