2026年3月31日火曜日

伊与原新(作家)              ・わが心の人「猿橋勝子」

伊与原新(作家)              ・わが心の人「猿橋勝子」 

猿橋勝子さんは1920年東京生まれ、帝国女子理学専門学校(現在の東邦大学理学部)を卒業後、現在の気象庁に勤務し、オゾン層や海水の研究に取り組みました。1980年気象庁を退官する「猿橋賞」を創設し、若い女性科学者を励ます活動を始めます。  2007年9月亡くなられました。(87歳)

伊与原さんは、昨年猿橋勝子さんの生涯を描いたいた小説「翠雨の人」を発表しました。 伊与原さんは1972年大阪出身、大学は神戸大学で、その後東京大学大学院に進み、専門は地球惑星科学、博士課程終了。 地球惑星科学と言うのは地学のことを最近はそういう風に呼びます。 2010年「お台場アイランドベイビー」で第30回横溝正史ミステリー大賞受賞。 その後もたくさんの文学賞を受賞します。   特に作家志望のスタートではありませんでした。昨年「藍を継ぐ海」で直木賞を受賞。

猿橋勝子さんは地球化学の分野の研究者でした。 猿橋勝子さんがどういう生涯を歩んできたと言うことについては全く知りませんでした。 資料を集め始めたのが10年近く前でした。  翠雨の人」、猿橋さん自身は幼い少女の頃から雨にすごく興味のある人で、雨の日は空を見上げて、なぜ雨は降るんだろうとずっと考えているような子供だったということです。 彼女の自然科学に対する興味の原点は、やはり雨だったわけです。  彼女のキーワードは雨です。 

1920年生まれ、帝国女子理学専門学校(現在の東邦大学理学部)の1期生として入学します。 中央気象台研究部に勉強に行くことになり、三宅泰雄先生の指導を受けます。 その後三宅先生のいる中央気象台に入ることになります。  終戦後も中央気象台の研究部はなかなか立ち直るのに時間がかかりました。 1954年アメリカがビキニ環礁での水爆実験を行い、第五福竜丸の乗組員の方が被爆します。  彼女はオゾン層の研究を、その後海水の研究、海水中に二酸化炭素がどの程度溶けているかと言うことを詳しく調べる研究をしてました。 当時から科学者は地球が温暖化するかもしれないと言う危惧を抱いていました。

彼女の研究が世界的に評価されて名前が知られるようになっていきました。   そんな折にビキニ環礁での水爆実験が行われました。 持ち帰られた「死の灰」(放射能を帯びたサンゴのかけらが灰として降ってきた。)を猿橋さんが分析して、それがきっかけで放射能汚染の研究に突き進んでいくことになります。  海水の中にどのぐらい放射能が含まれているか、あるいは降ってくる雨にどの程度の放射能が含まれているかと言うことを詳しく調べていきました。

環境汚染はないというのがアメリカ側の主張でしたが、三宅先生と猿橋さんが詳しく調べてみると、海流に乗って高いまま流れていくと言う事はわかりました。(アメリカの調査データよりも10~50倍の数値)  アメリカは、捏造ではないかと言ってきました。  アメリカと日本では違う分析方法でやっていました。   同じサンプルをそれぞれのやり方でやって、どちらが正しいか白黒をつけろと言う話になりました。 それで彼女がアメリカに行くことになりました。  女性が1人で行くと言うことが、当時としては前代未聞のようなことでした。

研究室はボロボロの小屋を与えられました。 海水の中に含まれているセシウムの量を第一回目は既知のセシウムを入れておいて、その値は知らされない状態で測定するわけです。 第1回目はわずかな差でアメリカが勝ちます。 猿橋さんは落ち込みますが、三宅先生から励ましの手紙をいただきます。  2回目、3回目は日本側が勝ちました。  4回目も猿橋勝子さんが勝利を収めました。アメリカはだんだんと猿橋さんを認めるようになっていきました。 アメリカと共著の論文を出すと言うことで幕を閉じました。

猿橋さんは研究者としては、日本よりも欧米で高く評価されている面があります。地球温暖化研究の先がけの1人として認識されています。  社会のために何ができるかと言うことを認識して活動されていたと、そこは見習うべきことと思います。三宅先生は科学者は哲学者であるべきだとおっしゃっています。 猿橋さんも後輩に伝え続けていきました。  猿橋さんは、日本学術会議で初めての女性会員(1980年)、東京大学理科系で女性で初めて理学博士になりました。 

自分が先頭に立って、後進の女性研究者が研究しやすい環境を作る義務があると考えたようです。 ですから、自分が先頭に立っていろんな壁を破っていくために学術会議の会員になったのもその理由だと思います。 その後の社会活動に力を入れていくのも、後輩の女性研究者のためにと思ってやられていたようです。    退職金等すべてのお金を全て後輩の女性科学者のために使えばいいんだと言う考えられたようで、女性科学者に明るい未来の会と言う会の設立に使ってしまいます。「猿橋賞」が作られて、女性の科学者のためを思って応援をすることになります。女性研究者はなかなか昇進できない状況でしたが、猿橋賞をもらうことによって助教授になれたとか研究費をもらえたりすることが、実際に起こっていきました。 そうそうたる方々が、「猿橋賞」をもらって育っていきました。

今は発達障害とかアスペルガー症候群(自閉スペクトラム症(ASD)の一種)とか、そういう子供たちがたくさん登場する小説を書いています。 彼らの存在自体が人類のために実はなっているじゃないかなぁってそういう観点で小説を書いています。 科学と言うものを歴史的に眺めてみると言うことが面白いと思い始めています。 時代、時代で科学はどういう役割を果たしてきたのか、そういうテーマで書くのは面白いんではないかと思っています。





2026年3月30日月曜日

小田美樹(いわき市立玉川中学校音楽教師)  ・「合唱曲『群青』~作曲者の震災15年の葛藤~」

 小田美樹(いわき市立玉川中学校音楽教師)  ・「合唱曲『群青』~作曲者の震災15年の葛藤~」

全国で歌われている合唱曲「群青」、この歌は東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所で、避難指示が出された地域にある福島県南相馬市立小高中学校で生まれました。 歌詞には震災直後の2年間を過ごした生徒たちの率直な思いが綴られています。 作曲したのは当時の小高中学校の音楽教師だった小田美紀さんです。群青が誕生した経緯やそこにこめられた思い、そして震災から15年、小田さんの心の変化を伺いました。

*『群青』作詞:南相馬市立小高中学校 平成24年度卒業生 作曲:小田美樹

ああ あの街で生まれて君と出会い
たくさんの想い抱いて 一緒に時を過ごしたね

今旅立つ日 見える景色は違っても
遠い場所で 君も同じ空
きっと見上げてるはず

「またね」と手を振るけど
明日も会えるのかな
遠ざかる 君の笑顔今でも忘れない

あの日見た夕日 あの日見た花火
いつでも君がいたね
当たり前が幸せと知った

自転車をこいで 君と行った海
鮮やかな記憶が
目を閉じれば 群青に染まる

復興については、当時はたくさんのものが奪われて、震災によって何もなくなったところからパワーを持って変化してる感じがあったので、新しい街が作られているなぁと感じました。 卒業式が終わって職員室に戻って一息入れたときに揺れが来ました。 体験したことのない大きい揺れでした。 小高中学校よりも1段高いところにある小高工業高校のところに徒歩で移動しました。 初めて津波を見て信じられないような光景でした。 小田区では津波だけではなく、第一原発の事故はそこから長く続きました。 3月12日に爆発の音が聞こえましたが、その時は何があったのか全然わかりませんでした。 

私も福島市の親戚のところに避難しました。 小高中学では4人の生徒が亡くなりました。 4月22日に鹿島中学校を借りた形で、新学期がスタートしました。    体育館で始業式をしましたが、参加した生徒は10分の1に満たない位でした。   生徒たちとは交換日記みたいな形でやりとりをしていました。 毎日20人とやりとりしました 。たわいのない毎日のことが書いてあるのがほとんどでした。 家を取り壊すことになったとかそういった話もありました。 震災に関わる内容がどうしても多くなります。

震災の次の年の卒業式に歌を歌ってもらおうと思って、卒業式の歌として提案しました。 子供たちは全く歌いませんでした。 歌詞が「明日があるから幸せを信じて」と言うような歌詞なので、まだそんな思いにはなれていなかった。     自分が生きているうちに帰ることができるのかわからんような時だったので、あさはかだったと思いました。 前年と同じ失敗を繰り返さないために、作るしかないと思って、彼らの言葉に合わせて歌詞にまとめていきました。

「明日も会えるかな」と言うネガティブな歌詞もあるんですけれども、今隣りにいる友達が明日は会えなくなるかもしれない、と言うことを身をもってわかってしまっているんだなぁ、と言うことにすごくショックを受けました。 「あの日見た夕日、あの日見た花火。 いつでも君がいたね。」 と言う歌詞の部分ですけれども、小田中の音楽室から見る夕日が本当に綺麗なんです。 学校の近くで花火を見たりしました。 合唱部の女の子が1人亡くなっているんですが、彼女を思って作った部分です。  「群青」と言う題名にしたのは、小高中学校の校歌に「群青」と言う言葉が入っていまして、文化祭も「群青祭」という名前になってます。タイトルは最初から「群青」と決めていました

群青を1番最初に歌ったのは、京都のコンサートでした。  彼らが一生懸命歌ってくれたからこそ、客席の皆さんも「群青」を聞きながら涙をした客さんもいらっしゃいました。 客席の方たちの様子を見て感極まって、彼らたちも歌いながら泣いていました。 出版すると言う話になりましたが、震災のことを題材にして作った曲を出版する事は、辛い思いをした子たちを売り物にしてしまう、そういうふうに思われるのではないかと思って、躊躇はありました。 子供たちに相談したら子供たちはすごく喜んでいました。

辛いこと、悲しいことが題材になっているので、早くこの曲が歌われなくなるような、この曲がいらなくなるような平和な時代が来ればいいなぁと思ってた時期も結構長くありました。 私は大病をしてお腹を切って悪いところを取ったのですが、そうすれば元気になると思ってましたが、1年後に別な病気になってしまいました。 元気だったので何の備えもしていなかったと言うことに気づきました。 震災も同じだと思いました。 震災の復興が進んでいけばそのまま復興が進んでいてもらうと思っていましたが、穏やかな状態は震災後だけれども、次にまた次に震災が起きれば、今のこの時間が震災前の状態だと思いました。 震災前の時に次のことを備えておかなければいけない。私はそれをすごく怠っていたと言うことに気がつきました。

この「群青」を歌ってもらうことによって、次の震災のための準備を促す、思いをつなぐたった5分間の曲で、東日本大震災のことを知ってもらえるきっかけになのではないかと思いました。 この曲は歌われなくなればいいのではなく、そういう風に役に立ててもれるのであれば残しておくのがいいなあと、考え方が変わったのは病院のベッドの上でした。 あれから15年経って、15歳の春を迎える子たちが育つと言うのは、本当に大きな節目だなと感じます。

あれから二年の日が 僕らの中を過ぎて
三月の風に吹かれ 君を今でも想う

響けこの歌声
響け遠くまでも あの空の彼方へも
大切な全てに届け

涙のあとにも 見上げた夜空に
希望が光ってるよ

僕らを待つ群青の街で
ああー

きっとまた会おう
あの街で会おう 僕らの約束は
消えはしない 群青の絆

また 会おう
群青の街で



2026年3月29日日曜日

リュークルー(国際線CA・ユーチューバー) ・「“自分らしさ”の翼広げて」

 リュークルー(国際線CA・ユーチューバー) ・「“自分らしさ”の翼広げて」

カナダの拠点の航空会社でCA、キャビンアテンダントとして勤務する傍ら、旅行のお得な予約方法、これまでに訪れた国々のエピソードなど、CAならではの情報を発信するユーチューバーとして活躍しています。 前向きに自分らしく生きることを大切したいと話すリュークルーさんにとって自分らしいとは何なのか伺いました。

リュークルーさんは大阪出身です。 11年前からカナダで暮らしていて、国際線のCA、キャビンアテンドとして働いています。 その一方で、CAならではの情報を動画で発信するユーチューバーとしても活動しています。 2026年2月の時点でチャンネル登録者数34万人を超えています。 CAの仕事からいろんなホテルに泊まりますが、多い時は月の半分ぐらいホテルに泊まります。得た知識などを動画で発信しています。 

エッセイの執筆もやってます。 今年で第3弾を発表しました。 最初は、出版社からの要請がありました。 乗客として乗っているときに、パニック障害になったことがあります。 カナダで暮らし始めて11年になります。カナダ移住のきっかけとなったのがカナダ人パートナーということです。 性格は私と正反対ですごく静かです。 カナダの田舎町に10ヵ月ほど留学していました。 知り合って1年、日本で一緒に住んで、そうするとカナダの永住権が降りて、私がカナダに行こうと思って行きました。 同性とのパートナーの位置づけとしてはカナダでは特に気にしてないです。 私が大学へ通っていたときの女性の先生のパートナーがやはり女性でした。 最初はびっくりしたんですけれども、いろいろ話を先生とするようになりました。 そこから私の人生観が変わりました。 自分らしく生きると思った瞬間でした。 

子供の頃、宝くじが当たってグアム旅行に行くことになりました。 CAの働く姿を見て、本当にそれに憧れました。 1番しんどかったのは言語です。 いまだに自信は無いですが、ある時吹っ切れました。 自分のアクセントなども気にしなくなりました。 プライベートで飛行機に乗っているときに、パニック障害が起きてしまいました。 かなり無理して仕事をして、その後旅行に出かけようと思いましたが、急に心臓がバクバクして息ができくなってしまって初めての経験でした。  隣の人に話すことによって落ち着けました。 病院に行って診察してもらいました。 CA 、パオロットは意外とこの病気を持っている人が多いらしいです。 実は時差ぼけが常にあります。 そうなると自律神経がおかしくなってしまって、直すためには深夜便だったら早朝便を間に入れないとか、なるべく睡眠のサイクルを同じ様にするようにしました。 

エッセイの中で公表することによってびっくりする人もいましたけれども、同じ当事者の方から力になれたらいいかなぁと思っています。  ファンの皆さんからの声、話はありがたいの一言しかないです。 本を出すことによって、自分の頭の中の整理ができたと言うのはあります。 1冊目はパニック障害のことについて書きました。 ちょっとでも背中を押すきっかけになれたら、そんなうれしい事は無いなぁと思いました。 本の力に気づかされました。 

私の自分らしさは、信頼している家族、大切な人が理解してくれていて、私も大切な人たちをできる限り理解できているみたいな状態にあることが、1番自分らしくちょうどいいバランスで自分らしくあると思います。  昔は海外に住んでいる自分が待ってると言うような、生き甲斐見たものを感じてましたが、今はだんだん自分が生まれ育ったふるさとで何かできたらいいかなぁとか、ふるさと盛り上げたいとか、ふるさとにいろんな人が来て良さを知って欲しいなぁと逆に思ってくるようになりました。 カフェをやりたいと言う夢がありまして、みんなが気軽に伝える場所、コミュニティーが作れたらいいなぁと言う思いはあります。

2026年3月28日土曜日

木内昇(作家)               ・私の人生手帖(ちょう)

 木内昇(作家)               ・私の人生手帖(ちょう)

江戸時代の後期新潟県の豪雪地帯の風物や暮らしを記した「北越雪譜」と言うベストセラーがありました。この本が世に出るまでの作者鈴木牧之の強い思いや、江戸の出版事情などを壮大に描いて、第52回の大佛次郎賞などを受賞した作家木内昇さんに伺いました。 木内昇さんは、1967年東京生まれ、出版社勤務を経て、2004年に作家デビュー、その後4作目にして直木賞を受賞しました。 去年の末から短期間に多くの文学賞を受賞して、改めて高い評価と注目が集まっています。  これまでの半生とともに、「北越雪譜」を軸にして、まるで息使いまで聞こえてくるようなリアルな小説世界がどのように紡ぎ出されたのか、併せて時代小説の基礎からの楽しみ方などを伺いました

浅田次郎さんが、私が「中央公論文芸賞」を取ったときに、木内さんと言う人は、険阻な道を行くだろうと、王道ではなくて、厳しいところをわざわざ登っていくじゃないかと言うことを書いてくださって、私はなんとなくこういう道を登っていくんだろうと予感していた時にだったので、そこに踏みとどまって頑張らなければいけないだろうと思いました。 物語自体もすんなりいかないし、取り上げる素材も決してみんなが好むようなものでもない、でもどうしても取り上げたいと思いました。 表現の仕方にしても、通りいっぺんなところをやらないのかなあと気がしていました。 それを言い当てられたような気がしました。

「雪夢往来」では40年の歳月を書いております。 鈴木牧之と言うのは、越後の商人で代々続くを切り盛りしながら、地域の民族学みたいなものを記録をずつ書き続けます。 出版したいと言う野望があって失敗しますが、頓挫するのが繰り返して、出版するまで40年かかったと言う歴史があって、その歴史を描いた作品です。

方言についてが難しくて、細かく直していく作業がを経て出版することを毎回繰り返しました。 本当に好きなものって時間をかけてもやりたかったり、最悪夢が叶わなくてもやりたいものっていうのはあると思います。 やりたいものとか夢とかは叶う叶わないと言うのは、そこは重要ではなくて、たとえ評価されなくても日の目を見なくても、大事に自分の中に持っていけるかと言うところが、その人の幸福か不幸かと言うところにつながっていくと思っていて、死ぬまで夢を持っていたら1番いいんじゃないかと思います。  

小説のなかに不思議な世界を取り入れていますが、当時の精神性と言うまででは無いんですが、どういう感情とか、どういう気持ちで生きていたかと言うことを考えると、どうしても取り入れざるを得ないと言うところで、自然に入ってきちゃう感じです。   自分の感情としてはそういうところはないです。 理論的に考えたいと思う方です。  江戸の文化と言うのは太平な時代が260年続いたし、識字率も高かったし、浮世絵なども普通に楽しんでるし、芝居も楽しんでます。  財産は残さないんだけれども、きえものにはお金を使うと言う文化には、お金を使うと言う文化が爛熟したのが、江戸時代だったのかなあと思います。 そういったことで江戸時代が見直されてるのかなあという感じがします。

なるべく体の動きとかで、その人の人柄とかを書きたいなぁとふうに思っていて、江戸時代とか昔の頃の方が、体にその人の特徴が出ます。武士は左に刀を差すので、武士の歩き方と町民の歩き方は違いますし、身体的特徴とか動き方を書くと言うのが楽しかったりします。 時代物の楽しみというのはそういうところにあります。

私は小さい頃は、野球が好きで、王選手に憧れていました。 つい動きと言うものに注目してしまいます。 動きをどうやって臨場感を持って書くかとか、職人の手で裁き1つにしても、情景がどれだけ浮かべられるか、そういうのを1番気にしながら書いています。  資料は結構集めます。 全国の古書店から取り入れることができるので、便利さはあります。  資料読む方が書くより時間がかかるかもしれません。 

もともと作家を目指した事はなかったです。 出版社でインタビューの仕事をやっていました。 「新選組幕末青嵐」というのを書きました。その後「茗荷谷の猫」を書きました。自分で書いていてもものすごく面白い作品でした。 書いてみませんかと言う話になったのが、2008年の終わり位です。 書いている事は楽しいです。 登場人物たちに自分の主義主張とか、自分の意見と言うものを代弁させないと言う事は大事にしています。(登場人物ではなく私になってしまうから) どういう風に思うのかなと言うのは、読書に委ねると言うのが小説ではないかと思います。 

歴史のある土地は好きです。 昔は地域の差によっていろいろ違っていて、食べ物とかも違っていたし、風習習慣も全然違っていたので、そういうのを調べるのがもともと好きです。  登場人物の土地はすごく歩きます。 作家としていつも挫折感を感じているように思います。 もうすぐ出る本ですが、女性で望東尼言う50代の後半で急に勤王に目覚めて、高杉晋作を最後に看取った人で、この女性を書きますが、年老いてからすごく花開いた人を書きますが、そういう人たちを書いていきたいと言うのと、江戸時代がすごく文化が開いた時期なので、もうちょっとそこを掘り下げたいなぁと言うふうに思っています。 母を弟を介護していて、今が一番つらい時期ですが、大変な時も出口になったりします。 書くと気持ちが整理されたりします。 何十年も続けているので、作家気分ではないと言いながらも書いていると言う事は、何か燃えるものがあるんだろうなと思います。




2026年3月27日金曜日

浅川保(山梨平和ミュージアム理事長)    ・山梨で戦争と平和を伝え続ける

浅川保(山梨平和ミュージアム理事長)    ・ 山梨で戦争と平和を伝え続ける

甲府市にある山梨平和ミュージアムは2007年5月に開館しました。 今年で29年になります。  2005年から5年ごと「戦争体験記」を募集し出版しています。    去年は「戦後生きて思うこと」と題し、5冊目の体験記を出版しました。 戦後80年戦争体験者が少なくなり、その体験を聞くことが難しくなってきて、どう次世代へつないでいくかが課題になっています。

2003年からこういう資料館を作ろうと言うことで取り組んできました。3800万円の給付が集まりました。  土地を買って建物を建てました。 ある方は1000万円を出しました。  年間で1500人位来ます。 1日約5人ぐらいです。 甲府空襲は1945年7月6日の夜中です。 約1127人の方々が亡くなりました。  常設展の1階は甲府空襲、甲府連隊、暮らしです。  2階が石橋湛山の生涯と思想ですが、その他に企画をやってます。 2階で講座もやってます。 あと年に1回著名な先生方を呼んで講演をしてます。 5年に1冊戦争体験記を発行しています。

昨年は戦後80年と言うことで5冊目の本を出しました。 今後は生の声が聞けなくなるので、今まで出した本とかビデオの映像活用したり、自分の父親、母親の戦争体験をどう受け継いでいくかと言う形の伝え方にならざるを得ないと思います。  石橋湛山の母校が山梨県の甲府第一高校です。 生れは東京ですが、父親の実家が山梨です。 たまたま私が甲府一高の山梨の教員になって赴任して調べたら、彼の書いた作文が7つ出てきました。 資料をまとめ上げて石橋さんのことを展示することになりました。

私は1945年に生まれました。 叔父が2人とも戦死しました。 明治以降の近代史の歴史のことを勉強しようと思って、東京大学は歴史学科に行きました。  その後高校の教員になって、生徒の身近な人の体験記を書いてもらって、それを元にして生徒がそこから戦争のことに入っていくと言うことが有効だと思いまして、退職するまでずっとやっていました。  戦争を伝える資料館の必要性を感じました。  大学時代は学生運動が盛んで授業はあんまりありませんでした。 

家永三郎先生(東京教育大学の先生)と言う先生がいて、家永教科書訴訟が始まったころで、 家永先生は、仏教史が専門の先生ですが、その先生が太平洋戦争の話をすると言うことで聞きに行きました。  自分は戦争反対をしないで、終戦を迎えてしまって、自分の友達教え子がなくなってしまったので、自分の戦後は戦争のことをしっかり調べて、それを若い人たちに伝えるのが私の責任だと言うふうにおっしゃいました。 それに大変感激しました。 その後山梨の高校の先生になりました。 3校目が甲府一高で私の人生を変えました。 

山梨平和ミュージアムには中心になってるのは理事が10名ほどいます。その他に協力員が30人ぐらいいます。 ほとんどが退職者でボランティアです。 他にサポーターの方々が300人ぐらいいます。  国際社会が日本をどう見てるかと言うことですが、国際連合事務次長に中満泉さんと言う女性の方がいます。 赤根智子さんと言う女性の裁判官の方が国際刑事裁判所の所長を務めてます。 ロシアがウクライナを侵攻したときに、プーチン大統領に国際刑事裁判所が逮捕状を出しました。   戦後の日本の憲法とか、国際協調の日本の外交とか認められたということです。日本国憲法とか戦後の日本の歴史から培われた国際協調の精神とかを世界にアピールするそういう事は大事だと思います。 

今年80歳で来年開館30周年になりますが、今後分担しながら若い人に引き継いでいきながら運営してやればいいかなと思ってます。 しっかりと日本の近代の勉強すると同時に、自分の祖父母から聞き取ったり、周りの人たちから聞いたりしたり、幅広い勉強をしてほしいなと思います。 プラスとマイナスの日本の歴史をしっかり学んでどういう風にしてプラスの方向に向けて発信していけるか、そういった繰り返しが世界の平和の方向に行くと思っています。 

甲府空襲は、甲府市にとって大変大きな出来事でした。 地域の資料をもとにしながらどうやって見てもらえるようにするのかとか、関心のあるものにするかと言うことを工夫しています。 甲府連隊を展示してますが、ほとんど知らない人が多いです。  それを正確に知ってもらうということが、うちの展示物の特徴の1つだと思います。 中国との戦争の発端は1931年の満州事変ですが、中国との戦争は14年間もやってます。アメリカとの戦争は4年です。 日本と中国の歴史、日本と中国の戦後の歩みについてはしっかり紹介していく必要があると思います。 去年は6回講演を行いました。依頼があればできるだけ行って講演したいと思います。  石橋湛山に関する学校への出張授業をやってみたいと思ってます。

2026年3月26日木曜日

濱崎加奈子(有斐斎弘道館館長)       ・「伝統に学ぶことは未来を創ること」

濱崎加奈子(有斐斎弘道館館長)  ・私のアート交遊録「伝統に学ぶことは未来を創ること」 

濱崎さんは京都大学文学部、さらに東京大学大学院で美術を専攻、その後京都の町の古民家の保存活動や平安時代の宴や行事の再興など、幅広く京都の歴史文化に関わる活動をしています。 中でも今1番力を入れているのが、今年12月6日に予定されている「寛永行幸400年祭行列」の再現イベントです。 今年2026年は寛永3年に行われた「寛永行幸」から400年。 この時代は、戦国の世を乗り越え、後の日本文化に大きな影響を与えた芸術文化が花開き、日本の文化の故郷と呼ばれる時代です。 歴史を知る事は未来を生きること、先人が残してきた有形無形の資産を、私たちは未来へとつないでゆく責務があると言う崎加奈子さんに、伝統文化の現状と未来への展望を聞きました。

高校生の時に京都に憧れを抱きました。 京都にいってなるほどなと思う事はたくさんあって、神戸にいたときの身の回りにはなかったような、美しい街並みだったりとか、人々の言葉遣い、着物などいろんなものに心をときめく瞬間が何度もありました。 京都大学で美術を学びました。 東京大学大学院でも美術を専攻しました。 歌舞伎にも惹かれました。 歌舞伎の演目の中の神輿にも興味を持ちました。実際に神輿も担ぎをした。

京都にいる時は、日本舞踊、三味線、常磐津節などを習う。 東京にしばらく住んだのち、また京都に移り住みました。 かつらを作る制作技術ですとか、京町屋が一日に2軒から3の割合でなくなっている現状を知りました。  何か自分でできる事はないかと思い至りました。  有斐斎弘道館は全国から3000人門弟が集まってると言う学問所です。  この建物が2009年に取り壊されると言うことを知って保存活動を進めました。 皆川淇園(みながわきえん)は詩文や書画にも優れた風流人で私塾として運営してました。 江戸時代の勉強は机の上で学ぶだけではなくて、歌ったり絵を描いたりそういう中から学んでたんじゃないかと思います。

そういった学び舎として復興、復活させると言うコンセプトでいます。     北野天満宮さんで、1000年以上前に行われていた曲水の宴を再興したり、猿楽を再興したり、過去にあったことを蘇らせてみると言うことをいろいろやっております。 伝統文化をプロデュースすると言う事は、自身で作った言葉ですけれども、消えていく物に対して何とか伝えていければいいと思ってます。 

つないでいくために実は会社を作りました。 「伝統文化プロデュース連」と言う名前ですが、収益を得る難しさを知りました。 国として文化財を活用しましょうと言うのは、当時の方針転換だったと思います。 文化財を生かすための政策がいろいろ湧き起こっていますが、国の方針転換は悪いことではないと思いますが、次のステップに入らないといけないんじゃないかと思っています。 

現在力を入れてるのは寛永行幸行列再現プロジェクトです。 後水尾天皇が二条城に行幸されて、ちょうど今年400年の節目を迎えます。 戦乱の時代がようやく終わって11年です。 家康が作った二条城を大幅に増改築します。 その1部が残されているのが国宝の二条城です。  寛永時代に様々な文化人がスターのように誕生しました。 全国から大名たちが9000人募って99000人の行列ができました。 30万人位の大名の家来たちが半年位滞在しました。 当時の京都の人口は20万人位と言われています。 地域に戻った大名たちが、京都の文化をまた伝えていたということになります。 俵屋宗達、本阿弥光悦、狩野 探幽、落語の祖と言われる安楽庵策伝、小堀遠州などが活躍。

この「寛永行幸」の行列を再現したいなぁと思いました。 300人の規模で考えました。行列に歩きたい人を募集中です。 できれば全国から募って行事をしたいなと思っています。 現時点で1300人です。 装束などの問題、協力していただける業者さんとかをあたっている最中です。 12月が予定になってます。 文化が社会の根底にある、今は経済の尺度で測りがちだと思うんですけれども、文化の面で言うと、それがお金になるんだろうとか、そうではないんじゃないかと思います。 

社会全体に浸透していた各階層を超えて、見事に結実した日本のような時代が、寛永時代だと思います。 政治、経済、商売人、技術者、アーティスト、宗教とかもみんなが一緒になって、この時代を作っていこうと言うことが本当に見て取れるようにわかります。今の時代に置き換えることによって、これからの時代をどういう風に私たちは歩んでいいのかと言う知恵を得られるんじゃないかなと思います。 文化がみんなのものになった時代ですから、とても参考にできるものがたくさんあると思います。 なので「寛永行幸」をもう一度再現しようと思ってます。 お勧めの1点は「二条城行幸図屏風」です。  この時代の中に没入していけるような、そういった時代の空気を読み取ることができるので、本当に素晴らしいと思います。

2026年3月25日水曜日

小川洋子(翻訳家)             ・「古代の植物誌を夢中で翻訳~いつの間にか50年~」

小川洋子(翻訳家)   ・「古代の植物誌を夢中で翻訳~いつの間にか50年~」 

今から2300年前紀元前のアリストテレスの時代の話です。 アリストテレスの同僚の植物学者のテオプラストスの事を御存知の方は多分あまり多くいらっしゃらないのではと思います。  実は植物学の祖と言われるリンネやテオプラストスは植物学の祖であると言っているそうで、古代の偉大な植物学者です。  紀元前の書物テオプラストスの「植物史」を自宅でコツコツ50年かけて翻訳されたのが、今回の小川洋子さんです。 その翻訳本は日本を翻訳協会特別賞を受賞しました。 なぜそんな古い本を翻訳しようと思ったのでしょうか? しかも50年もかけて翻訳したことをどのように思っているのでしょうか?

アリストテレスは生物学の祖と言われていますけれども、アリストテレスは動物のほうに熱心に取り組んで、テオプラストスのほうは植物に取り組んだと言われています。  「植物史」を読むほどに素晴らしい研究をしていると言うことで、だんだん引き込まれて勉強しながらやっていたら50年かかってしまいました。     当時見た植物を詳細に厳密に記録しています。 言葉で葉の特徴とかいろいろなことを文章で非常に丁寧に書き残しています。 それを読むと植物が同定出来る。

2300年前と言うと、アテネに地中海中から人が集まって学問をしていました。  アテネは文化都市でした。 テオプラストスは植物分類学の元を築いた人でもあったわけです。  植物の形態学などもしっかり書き込んでいます。 アリストテレスは動物の性については、生殖行動まで詳しく書いていますが、植物には性がないと言ってます。 テオプラストスは現代の受粉について述べているのと同等の説明をしています。  15世紀頃になって顕微鏡ができた後、雄しべ,雌しべの働きと言うのを発見した人がいました。 その後雄しべ,雌しべの役割は違っていて、それが新しい命になると言うことを説明するようになるまでの間、テオプラストスの時から1歩も進んでないわけです。 植物は自然発生的に出てくると言うな考え方でしたけれども、テオプラストスはすべての植物は種子から生えると言うことを言っています。

 私は学生のときには植物学ではなくて、経済学を勉強してました。 あることから、ギリシャ語を学ぶようになりまして、ギリシャ語の面白さを感じました。  ギリシャ史の勉強始めました。 ギリシャ古代の農業の勉強しようとしていましたが、テオプラストスと言う名前が注釈に頻繁に出てきます。 それでテオプラストスの本を読むようになりました。 それが「植物史」です。  テオプラストスに関する学会もできました。 英訳の本ができたのは1916年でした。 フランスの先生が公定翻訳本を出したのが1988年でした。

植物を説明するためには植物を理解してないとできませんので、植物園に行ったり海外まで見に行ったと言うこともあります。 有毒植物などを見に行くときには、薬品会社とか薬用植物園にいろいろ行きました。 日本では見られない植物の種とかギリシャとかイタリアなどに見に行きました。 海葱(かいそう)という6弁の白い花が咲く植物がありますが、その姿は日本では見られませんでした。 行ったらどこにでもあって驚きました。

植物は自分の好む環境のところで、育つと言うことを言いたいと言う意図があったんではないかとと思います。 科学的と言う姿勢が身に付いている人だなと言うのは大きな驚きでした。 中途半端にわかった事は断言しないでこれはまだ問題が残っていると言うことをちゃんと書いています。  今の科学者と姿勢としては全く変わらないと思います。

この本を通して植物と言うのはこんなに役に立っていると言うことを知る機会になるんじゃないかなぁと思います。 「匂いについて」と言う本がありまして、それを訳してみたいと思っています。  抽出したものをに薬用に使ったりしてまして、それをこれから勉強し始めています。 自分で見たこと、自分で本当に考えたということだけを書いているから古臭くないと思います。 自分で考えると言うことを学ぶと言う事は大事なことでないかなぁと思います。 時間をかけると言うことも大事なのではないかと思います。



2026年3月24日火曜日

萬田緑平(在宅緩和ケア医)         ・「2千人の“幸せな最期”を支えて思うこと」

萬田緑平(在宅緩和ケア医)    ・「2千人の“幸せな最期”を支えて思うこと」 

萬田緑平さんは61歳、群馬大学学部附属病院に所属する外科医として、17年間にわたり、がんの手術や抗がん剤治療を行う中で、がんの終末期に家に帰りたいと言っても見てくれる医師がいなかったことから、43歳の時に癌の終末期を自宅で暮らしたいと言う、患者さんを支える在宅医となりました。 2000人以上看取ってきた経験をもとに自分らしく生きるとは、どういうことかを綴った著書「棺桶まで歩こう」は、大きな反響を呼んでいます。

基本的には、僕の患者さんは亡くなるまで歩こうと言うのが目標で生きています。表現するのに棺桶まで歩こうと言う表現になりました。 歩けなくなってから辛いし苦しいですね。 やっていることの99%ができなくなってしまいますから。

群馬大学医学部附属病院で外科医を17年間していました。 当時、外科医は1番ハードだと言われていました。 亡くなろうとしていくときに、呼吸が弱くなって人工呼吸器に繋がれて、心臓が弱ってくると血圧を上げる薬を使って、心臓が止まると心臓マッサージをして、全員そういう風になくなっていきました。 外科医は亡くなるまでは、病院に泊まって看取ってきました。 

心臓マッサージをすることに疑問も抱くようになりました。 2年目からは、主治医としてからは自分の担当で亡くなっていく患者さんに心臓マッサージ、人工呼吸器は一切していないです。 がん告知もしました。 辛いなくなり方がかわいそうだと思っていました。 偉くなるよりも現場にいたいと言いう思いもありました。 外科医をやっているうちに、だんだん何歳まで外科をできるんだろうと言う風な思いに至りました。 

緩和ケアの世界に行こうと言うふうに思いました。 在宅医の小笠原先生が家に来ないかと言われました。(42歳) 50歳位にと言う思いではいたのですが、半年考えてやめてしまおうと思って、小笠原先生のもとに入りました。 在宅緩和ケアと名のっています。 緩和ケアと言うのは癌にまつわる痛みとか苦しみを和らげると言う治療です。 でもやってる事は病院に行きたくない人、治療したくない人、家で暮らしたい人を支える在宅ケアです。 訪問診療と外来診療の二本立てです。   午前中は外来、午後は訪問診療1日6人程度を見ます。 

人は1日1日確実に老化してって弱っていって亡くなる。 筋力とかは頑張れば維持できます。 体の元気よりも心の元気です。  体の状態が弱ってても幸せそうです。 そうすると周りも幸せになります。 心の状態を良くするとみんな生たいと言います。 もっと生きたい飲み食いできなくなって1週間ぐらいしか生きられないと言う人がいて、どうしたいって言ったら、酒が飲みたいと言います。 一般的には酒を飲ませないですね。 健康のために飲ませてあげようと言ったらわかったと言ったら飲ませました。 その日から水も飲まなかった人が日本酒を飲むようになって、だんだん元気なってきてトイレも行くようになって、3ヶ月ぐらい元気に生きてその後1週間ぐらい弱っていって亡くなりました。

体の状態はダメなんだから、心の状態では良くしてあげよう。 結果的にそっちの方が本人も頑張れるし、頑張りたいと言う長生きすると言う考え方です。    「ありがとう」と子供が言えることが、ハッピーエンドに近くなるので1番良い薬なんで何とかそれを投与しようと思って、そこに1番エネルギーを使います。    褒められると生きたいと言うことになって、生きるためには歩こうと言うことになります。  

50代の患者さんの女性がいましたが、抗がん剤の治療を辞めてから1年ぐらい通ってましたが、3人の息子がいました。 訪問診療するようになって同席してくれていまして、そこで「母ちゃんにありがとうと言ってあげよう。」と言いました。   生きてる間にありがとうと言おうねと言って、親孝行と言うのは産んでもらって育ててもらってありがとうございました、と言う言葉にすることが親孝行だと思うわけです。  3人の息子がありがとうと言った。 3日後に亡くなりました。天外孤独な人はありがとうの幸せさはあんまり感じられません。

昨年夏から12月まで診療所閉じて患者さんをゼロにして、世界一周旅行に女房と行ってきました。  オーロラを見に行きたかった。  5,6年の準備期間を設けきました。  高齢になればなるほど、いろんな楽しみが楽しめなくなる。      生前葬をしましたが楽しかったです。  死んでからではみんなの言葉を聞けなかったです。 やってみたい夢があって、緩和ケア世界一周旅行、治療ではなくて世界一周旅行にちゃえと言うものです。 死んでもいいような形にして連れて行ってしまうと言うのはやりたいなと思ってます。 病院に行ける元気なうちから、地元で自分の人生を支えてくれる医者を探しなさいと言って帰します。



2026年3月23日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言 「孤独」

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言 「孤独」

今回は、井伏鱒二色川武大、哲学者ニーチェの言葉などを取り上げて紹介してきます。

「あぁ、寒いほど一人ぼっちだ。」  井伏鱒二

僕(頭木)は、20歳で難病になって13年間病院にいたわけですけども、13年間の間にほとんど孤独になってました。 ベッドの上で、自分はどんどん知り合いが減っていて、親も亡くなって、本当に一人ぼっちの孤独な病人なってしまうかなぁと怖かったです。 そういう時に出会ったのが最初に紹介した言葉です。     「あぁ寒いほど一人ぼっちだ。」 井伏鱒二(山椒魚と言う短編小説の一節)

代表作に「ジョン万次郎漂流記」、「黒い雨」などがあります。「山椒魚」も有名な作品です。 山椒魚が岩屋の中で一人ぼっちで外で水すましやカエルが、自由に動き回っているのを見て、辛くなって目をつぶり、その暗闇の中で言うセリフです。

「僕は生まれながらに孤独のたちなんだが、決してその孤独を愛することはできないんだ。」 牧野信一 (「露路の友」と言う小説の1節)

牧野信一の代表作には、「父を売る子」、「ゼーロン」、「吊籠と月光」などがあります。 人と一緒に居たくないのに、1人だと寂しいと言うことになると困ります。 

「神は人間に孤独を与えた。しかも同時に、人間に孤独ではいられない性質をも与えた。」 佐藤春夫 (退屈読本と言うエッセイの一節)

佐藤春夫の代表作には、「田園の憂鬱」、「西班牙犬の家」などがあります。 佐藤春夫は群衆は地獄であると書いていて、でも同時に孤独はまさに煉獄であると書いてます。

「どこかで、ラジオの合唱だとか、子供の声だとかが聞こえると、不意に鼻孔の奥に嗚咽が溜まって、自分でびっくりしたことがあります。 孤独と言うものは結構いろんなものにすり替えて過ごしていて、普段はそれほど感じないですが、身体の奥にじんわり溜まってるんですね。」色川武大(「私の旧約聖書」と言う本の中の孤独と言う文章の中の一節)

広川武大の代表作には、「狂人日記」「百}などがあります。孤独と言うのは貯まるもんだと思います。

「孤独は山になく街にある。 1人の人間にあるのではなく、大勢の人間の間にあるのである。」 三木清(人生論ノートの一節)

孤独の分類っていうのは4つのタイプがあって、Aは人と一緒にいれば孤独を感じないで済むけれども、ひとりでいると寂しい。 Bは周りにたくさん人がいても、心が通じ合わない。 Cは人と人とはそもそも本当にわかりあえない。 表面的には付き合えても、本質的には孤独なんだというより深い孤独です。 Dは人と人とは本当にわかり合えないんだけれども、だからこそ少しでも理解し合おうとすると言うふうに考える。

「孤独は良いものです。 落ち着いて自分らしく生きることができて、やるべきことがはっきりしているなら。」ゲーテ (ゲーテの手紙の一節)

「君は自分だけが一人ぼっちだと思うかもしれないが、僕も一人ぼっちですよ。 一人ぼっちは崇高なものです。」夏目漱石 「野分」と言う小説の中の登場人物の言葉) 代表作には「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「三四郎」「心」などがあります。

哲学者のショーペンハウアーもこういうことを言ってます。

「孤独は、幸福と平静な気持ちとの源泉であるから、孤独に耐える修行をすることを若い頃の主要な研究題目の1つとすべきだろう。」 ショーペンハウアーは19世紀に活躍したドイツの哲学者。 代表作には、「意志と表象としての世界」「読書について」「自殺について」などがあります。

「孤独であるときに、その孤独の中に持ち込んだものは成長する。だから、内なる獣も成長する。だから、多くのものに孤独を進めてはならない。」ニーチェ   代表作に「善悪の彼岸」「道徳の系譜」等があります。内なる獣とは例えば憤りとか恨みとか。 社会全体を敵と思えてしまうことがある。

「人気のない住まいで暮らすのが、僕にはとても好ましい。 かといって、全く人気がないのも良くない。 住んでいた人たちの思い出が詰まっていて、しかもこれからの生活のために準備されている。 そんな住まいが良い。 ただし、住民が実際に現れてはいけない。」  カフカ 代表作に「変身」「審判」「城」などがあります。 

「孤独は僕の唯一の目標であり、僕は最も心惹かれるものであり、僕に可能性をもたらしてくれるものだ。 にもかかわらず、これほど愛しているものを、僕は恐れている。」  カフカ  孤独を愛しながら孤独を恐れている。ではどうしたらいいのかその答えが今回の答えです。 人気のないところで暮らしたいかといって全く人気がないのも良くない。 面白いですね。但し、住人が実際に現れてはいけない。

突き詰めるとすべての人が孤独なのかもしれないですね。 理解し合えないと言う事は一人一人が違っていると言うことで、それは悲しいことではありますけれども、一人一人が違うと言う事は尊いことでもあります。

人との関係が孤独であったとしても、自然を愛して深く見つめる人が孤独をあまり感じないで済むという面もあるかなと思います。

「地球の美しさと神秘を感じ取れる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれる事は決してないでしょう。」 レイチェル・カーソン






2026年3月22日日曜日

黒田尚嗣(日本遺産普及協会 監事)     ・「人生100年時代 ときめく旅しませんか」

黒田尚嗣(日本遺産普及協会 監事)     ・「人生100年時代 ときめく旅しませんか」

高齢者やシニア世代の皆さんに観光旅行とは、一味違う五感を研ぎすます旅の仕方、学びの旅の魅力などをお伝えします。黒田さんは、松尾芭蕉に憧れ、その旅に習い文化庁の認定する各地の日本遺産などで、様々なテーマ旅行を企画し、自らツアーガイドを務めています。

ペンネームは平成芭蕉。 私は松尾芭蕉が生まれた三重県伊賀市の隣町に生まれました。 母方の実家の裏手が、松尾家の菩提寺愛染院と直結していました。    俳句を詠んで有名になった方ですけれども、もともとは藤堂藩の若殿様に使えた、非常に人間味溢れる人であったと言う風な説明がありました。 主計良忠さんて言う方から俳句を教わったらしいのですが、その良忠さんから「人は阿呆に生きろ。」と教わったらしいです。  余裕を持って遊び心を持って生きるとおっしゃったらしいんです。

芭蕉さんの人生はまさしくその通りなんです。 ただ単に見聞すると言うよりは、知らない世界を見に行くと言うことです。  先人の足跡を研究すると言うところにも関心があるわけです。 先人がどのように感じたかと言うことを、自分自身で感じようとした人なんです。 そこに惹かれました。 人は感動すると言葉を失うわけです。 その瞬間を楽しむことです。旅行は目的地を目指して、ただ 帰って来るだけ、旅は過程を楽しみながら自分自身の感情をフル活用するんです。 旅の究極は五感を磨くことだと思っています。

「旅行+知恵が人生のときめき」 学問と言うものは3つある。 1つは文献とか本を読んで身に付ける「知識」。 先生、他の人から貴重な話を聞かせてもらう、これが「教養」。 行動を起こして体験して学ぶことが「知恵」。  ほとんどの人は知識と教養で終わってしまう。 「聞恵」 まずその土地に行ったら人の話を聞くこと。  聞いた話を知識と教養で噛み締める、それが「思恵」。  聞いて考えて、自分でもう一度行動を起こすそれが「修恵」といいます。 そのためにはあらかじめ知識と教養が必要です。

人は好奇心を持ち続けるべきだと思っています。 人にフォーカスすることが面白いです。 究極のテーマは人なんです。 昔は街道に名前がついていて、目的地の何々街道と言うふうにつけていました。 どんな人が歩いてどんな文化を運んだのか考えるわけです。 縄文文化に惹かれて、それをテーマにした企画を考えて、実際に提供しています。 山の中で育ったので、子供の頃は縄文人のような生活をしていました。 縄文人は、扇状地に住んでいて、水はちゃんと流れ風も流れます。  滞ると病気になり、人にとって大事です。 縄文人は土器を発明して、食のレパートリーが増えました。 

縄文人は朝起きたら何をするんだろうとか、そういったことを考えていると生きるコツはここだと考えたわけです。 人が楽しく生きるためには、限りなく縄文人の生活から学んだほうがいいんじゃないかと感じました。 それをお客さんに提案したくなりました。 最初僕は縄文の講義から始めます。(講座付き) 自分に近い歴史上の人物をまずは探します。 その人がどんなことをやったのかと言うことをテーマにすると1番良いと思います。 旅に人物を絡ませるといいと思います。   一人旅をすると、本来の自分はこんなものかなと気づくわけです。 究極は生まれ変わりの旅です。

アナログ旅は基本的には地図を徹底的に研究していただくのが原点だと思います。  昔の地図で興味ある地名を探して、その地名を結びつけていくわけです。    アナログ旅は自分で歩いて線とか面を作っていくものです。 歴史の道調査報告書というものがあります。 その街道にどんな歴史があるかとか、その当時の地図が載ってます。 アナログの旅は歩くことです。 消えている地名がどうなってるかと言うのを探すのが究極のアナログの旅です。 地元の人は、いまだに昔の地名を名乗っています。 

日本遺産は現時点で104あります。 テーマはいろいろありますが、基本は信仰なんです。 日本遺産には必ず神社仏閣が入ってます。 鎌倉から室町時代に、たくさんの神社仏閣が建てられました。 春の旅としては、花とお寺などの組み合わせが良いと思います。 健康は自然光を浴びて森林浴で新鮮な酸素を吸収して、夜はやはり温泉です。 高齢者の旅は無理な計画を立てないと言うことです。

 

2026年3月20日金曜日

岡部たかし(俳優)             ・「おもしろがって、生きていく」

岡部たかし(俳優)           ・「おもしろがって、生きていく」 

岡部孝さんは、和歌山県出身の53歳、現在放送中のNHK連続テレビ小説「ばけばけ」でヒロインの父親松野司之介を演じています。長い下積み時代を経て手にした演じる楽しさについて伺いました。

ヒロインのトキの父親役、松野司之介は、松江藩の上級士でしたが、江戸から明治に時代が変わると、収入がなくなって、貧しい生活になり、家族のために頑張ろうとしたら、借金をしてしまうと言う訳です。 司之介の要素は、自分の中にもあります。 司之介と言うのは、武士の世と明治の間で立ち尽くしている人と言う表現ですが。台本に忠実にと言う思いでやってきました。 脚本家が一生懸命書いたものを変えると言うのはちょっと違うのかなと思いました

高校卒業後、一般企業に就職してから24歳で俳優を目指すことになりました。  その間立ち尽くす時期はありました。 漠然と俳優になりたいと言うような事は口にしていましたが、行動には至っていませんでした。 背中を押されて東京に行って劇団に入ることになりました。 標準語もなかなかしゃべれず、自分とは乖離したものをやってるような感じでした。 自分らしさが全くなかったです。 九十九 一(つくもはじめ)さんという大阪の芸人であり、俳優でもある人とお付き合いをするようになりました。 

その後村松 利史(むらまつ としふみ)さんて言う人に出会って、僕は自分のことをとにかく全部正直にネタにすると言う、離婚したこと、女の子と遊んだようなことをネタにするようなことでやってました。 どうやったら、自分の売りになると言うことを考えるようになりました。  ある日、突然自分の中に何かが通ったものがありました。  九十九さんとは20年以上の付き合いになります。

2022年49歳の時にNHKの「あなたのブツが、ここに」と言うドラマに出ました。なぜかコロナが始まってから仕事が入るようになりました。 同じ年の10月からは、民放の「エルピス」と言うドラマで、テレビ局のパラハラ上司を演じました。第60回ギャラクシー賞を受賞しました 。 

35、 6歳の頃に他力でやってきた僕が、面白いと思っているショー劇場のオーディションを受けまくりました。 環境を変えたかったんですね。 自主公演などもやりました。 知名度がどうのこうのと言うのは諦めました。 或る種覚悟が決まって、そんな形でやっていたらテレビでブレイクするようになりました。 趣味はお酒とヨガです。 ヨガは10何年もやってます。 最近思うのは、体が動くうちに体を動かせる演技というか、仕事やりたいなと思います。 「ばけばけ」では、家族の絆が深まっていって、本当の家族っぽくなってきてますし、どういう結末を迎えるのか見守ってほしいと思います。

2026年3月19日木曜日

鈴木堅之(足こぎ車いす製造・販売会社代表) ・「“自分らしさ”をあきらめない」

鈴木堅之(足こぎ車いす製造・販売会社代表) ・「“自分らしさ”をあきらめない」

 車椅子に自転車のようにペダルが付いています。 足こぎ車椅子、30年以上前に東北大学の医学部と工学部が、病気や障害により歩くことが困難となった人でも、人間に備わるある機能を使えば自由に移動できる、そんな研究を進めていました。  その研究に共感し、足こぎ車椅子の実用化を進めてきたのが、元小学校教師の鈴木堅之さん。 自分らしさをあきらめないと言う開発者の思いを受け継ぎ、活動を続ける鈴木さんに伺いました。

東北大学医学部の半田康延先生と言う方と、工学部が連携して開発したペダルのついた車椅子と言う変わった車椅子です。 ペダルからタイヤのほうにチェインが伸びていて、駆動が伝わって動き出します。 手元にハンドルがあって引っ張ったり押すことによって方向が変わるようになっています。 足が動かないと思われていた方たちが、自分の足を使って再び自分の体を動かす可能性があると言う、そういった車椅子になります。 脳梗塞の方、パーキンソン症の方たちとかが使っていただいています。 

自分の体が動かせるかもしれないと感じた途端、心が向きになって今まで閉じこもっていたところから1歩出れると言う、そこが足こぎ車椅子の特徴かもしれません。 内科的疾患でも外科的疾患でも、足が思うように動かなくなると言う症状がありますが、そういった方たちでも足こぎ車椅子に乗った場合、不思議と1歩踏み込めて、自分の足が動けるぞ、と体験していただけるわけです。 ある小児癌のお子さんがいました。 自分に自由に動けない状態でした。 そのお子さんに足こぎ車椅子を乗っていただきました。 乗った瞬間すっと動けるんです。 兄弟仲良く楽しそうに遊んでいる姿を見て、お母さんが喜んでました。  そのお子さんは亡くなってしまいましたけれども、最後の瞬間まで楽しんでいる様子をお母さんは見て、悩んでいるお母さんには、是非知ってほしいということで広めてくださっています。

人間の本能は、原始的な歩行反射を持っていて、人間が持っている本能です。   足こぎ車椅子はその原始的な歩行反射を、出しやすい角度と姿勢を作っている原始歩行を導き出す装置なんです。 麻痺しているはずの足からも自ら筋肉を動かすと言う波形ができて出ています。 足こぎ車椅子で最初に現れるのが、左右のバランスが整ってくると言うことです。 足は第二の心臓と言われる位、全身に血液を送るわけです。 脳も正常な人と同じようなレベルまで血流を上げることができます。医療機関ではリハビリとか緩和ケア病棟、認知症の方たち向けにも使われています。

足こぎ車椅子を偶然テレビで見ました。 小学校の教師をしていましたが、その足こぎ車椅子を使ってもらいたい子がいました。  私は足こぎ車椅子を世の中に出したいと言う思いだけで、先生のベンチャー企業設立に参加しました。  私は営業を担当しました。 最初はほとんど断られてしまいました。 ベンチャー企業は倒産してしまいました。 欠点がいろいろあったので、半田先生とともにさらに改良を進めることになりました。 足こぎ車椅子を作ることの企業を立ちあげしました。(2008年) 重さ80キロ、価格300万円でしたが、それを軽くて価格の安いものを作ろうと思っていました。

最後にたどり着いたのは、テニスの国枝選手が使っている車椅子を作る会社でした。 図面を書いて、実際にものが出来上がって、大学のリハビリ室まで持ってきてもらえました。 軽くて片手でモテてデザインもかっこよかったです。 その企業の社長は漕げるわけはないだろうと、大学の研究なんて世の中にの役に立たないんだよっていうのを言いたかったらしいです。 でも感動しました。本気にさせることができました。 

動かすことによって本人が喜び、スタッフも喜ぶ、それを見たご家族の方も喜ぶ 今まで負担だった大人が精神的にも身体的にも24時間介護するんだと頑張っていたご家族の方もほっとするわけです。 そんな中、東日本大震災が発生しました。  会社が東北大学の中にありましたけれども、半壊状態になってしまいました。  足こぎ車椅子を世の中に出すと言うのは難しいかなぁと感じました。 実用化して2年の時でした。 避難所では、ご高齢の方の体が動かなくなってくる、もともと動きがなかった方はさらに動けなくなる。 そういう現象がたくさん起きてきました。 足こぎ車椅子を使っていただければそうならないんじゃないかなぁと思いました。避難所をいろいろ回りました。 

足こぎ車椅子は生活の中に溶け込んで、さらにまた周りの方たちにも何か変化を起こしていく不思議なものだなぁと感じていました。 能登半島大地震の時にも足こぎ車椅子を使っている方がいらっしゃいました。半田康延先生は2023年に77歳で他界されました。 半田先生は後半は自分が足こぎ車椅子のユーザでした。    ご自身が生活の中で足こぎ車椅子を使っていました。 リハビリの中に限らず、生活の中で使う、それこそがそのまま身体の機能を維持したり、向上したりすることにつながると先生はおっしゃっていました。 買い物、旅行、リハビリ、それぞれのところで、足こぎ車椅子はちゃんと使える、それを半田先生自身が見せてくださいました。 SNSで取り上げてくれるようになりました。



2026年3月18日水曜日

鬼嶋一司(元慶應義塾大学野球部監督)    ・「果敢なる闘士たれ、潔い敗者たれ!」

鬼嶋一司(元慶應義塾大学野球部監督、元NHK高校野球解説者)    ・「果敢なる闘士たれ、潔い敗者たれ!」 

まもなく甲子園では選抜高校野球大会が始まります。 城島さんは昭和31年生まれ。 東京6大学野球の早慶戦に憧れて慶応に進み、大学卒業後は社会人野球の川崎製鉄千葉の選手、監督として活躍しました。 その後2002年から2005年まで慶応義塾大学の監督を務め、2004年の秋のリーグ戦では、母校を6シーズンぶりの優勝に導いています。 そして2006年から2016年までの11年間、NHKの高校野球解説者として甲子園球場から球児を見守りながら、優しくときには熱く解説をしました。   今年の1月に誕生日を迎えて70歳になります。

横浜の生まれですが、子供の頃は遊び場には苦労しませんでした。 野球もどきを夢中でやってました。 中学ではサードには憧れましたが、先生の指示でキャッチャーをやることになりました。 昭和49年に大学に入学しました。 法政大学には江川投手などがいて、やられっぱなしでした。 ボールが見えない投手は江川投手だけでした。 福島監督はとても厳しい方でしたけれども、人を一人の人間として見てくれた監督でした。 さり気ないやさしさのある監督でした。

昭和53年に川崎製鉄千葉に入社して、その3年目に創部25年目で都市対抗に初出場しました。 昭和61年は春先からなかなか勝てませんでしたが、都市対抗に駒を進めることが出来ました。  監督プレイヤーとしてやってました。 時間がなくて時間の使い方をいろいろ覚えていきました。 2002年から慶応の監督になりました。当時早稲田は最強のチームと言われてました。 1番から6番まではその後プロに入ってます。 ピッチャーも好投手が何人もいました。この時まで早稲田に対しては10連敗していました。

野球っていうのは確率のゲームだと思ってまして、セオリーが大事ですけれども、でもセオリーと言うのは落とし穴があります。 我々のような力のないチームは、そこに付け入れるチャンスがあるわけです。 奇襲は奇襲の理屈が十分にあると思います。 逆に言えば、奇襲はセオリーにはならないわけです。 6シーズンぶりの優勝になりました。

鬼嶋さんは2006年から2016年までの11年間NHKの高校野球解説者として甲子園球場から解説をしていただきました。 東京6大学野球の早慶戦の解説も17年間お願いしました。これからは解決者としての話を伺っていきます。

高校野球の解説は楽しいです。  プレーに心の模様が現れます。 選手の心の模様を感じながら話さなければいけないんじゃないかなと思います。 心に残る試合としては、2010年沖縄の興南高校が春夏優勝した時、2012年大阪桐蔭が春夏優勝した時解説をしました。 沖縄の興南高校は地元の選手で固めた手作り感のチームです。日大三高との春の決勝戦でも、日大三高にリードされるんですが、じわじわと最後にひっくり返す、そういう粘り強さを持った印象的なチームでした。 

大阪桐蔭は、沖縄とは対照的に非常に力のあるチームでした。 春の選抜のときには、大阪桐蔭は1回戦で大谷翔平選手のいる花巻東と試合をしますが、9対2で大阪桐蔭が勝ちますけれども、藤波くんから大谷選手はホームランを打っています。  この試合も本当に楽しい試合でした。  基本的なプレイにも忠実で相手にプレッシャーをかけました。 日々の練習の成果だと思います。連覇をするチームと言うのは勝負にこだわりますね。チーム全体が集中します。

勝つことを目的にすべきだと思います。 勝ちに行くことによって、選手同士の協調性とか知恵も培われます。 負けたチームに対しては、よくやったとねぎらいの言葉を言う。 負けた選手に対して悔しいだろう、辛いだろう、だけどこれから頑張れよと言う。 そういう意味合いを込めて、激励の言葉を必ず指導者はかけます。勝ちに行く事は勝利至上主義ではないとは思います。 負けることにも1つの大きな意義があると思います。 痛みを知ることであり、人の痛みを知ることにもなるわけです。 1年生菊池雄星くんが出てきて、菊池雄星くんの腕を振る速さにはびっくりしました。  

野球は楽しいんだと言うことをがベースにあると思います。 勝利を目指して全力で戦って欲しい。 その中で負けることも多いわけです。 負けた時どう対応するか負けて知る事は許すということ。 野球と言うのは、運不運が作用する。 不運の時にそれをどのように飲み込めるか。 許す、寛容さを身に付けていかなければいけないんじゃないかと思います。



2026年3月17日火曜日

浜野佐知(映画監督)            ・「怒りが私の原動力」

浜野佐知(映画監督)            ・「怒りが私の原動力」 

浜野さんは1948年徳島県で生まれ、静岡県静岡市で育ちます。  高校卒業と同時に映画監督を目指し上京、ピンク映画の制作会社で助監督として働き始めます。 23歳の時に監督としてデビュー、その後300本以上のピンク映画を監督。  1984年「株式会社旦々舎」を設立、監督とプロデュースの両方を兼ねるようになります。 1998年「第七官界彷徨―尾崎翠を探して」で、一般映画の監督としてデビューし、国内外で高い評価を得ました。 2000年日本インデペンデント映画祭で「林あまり賞」受賞。 同年第4回女性文化賞受賞しました。 今年3月浜野さんの7作目の一般映画「金子文子 何が私をこさせたか」を公開します。 この映画は、1920年代、国家や社会のあり方に対して強く批判的な姿勢を持っていた朝鮮の若い活動家朴烈(パクヨル)と、日本人の同志で、恋人の金子文子が逮捕、投獄された朴烈(パクヨル)事件を題材にしてます。 金子文子は自身の信念を最後まで貫き通し、獄中で亡くなりました。 その生き方を克明に描いた作品です。浜野佐知さんの話を伺いました。

「金子文子 何が私をこうさせたか」と言う映画の監督をしました。 私は金子文子と言う、100年前の時代に自分を曲げずに貫き通した生きた女性に惹かれました。それまではピンク映画の制作監督を300本ぐらいやってます。 1998年頃に獄中手記を読みました。 裏表紙に「・・・東京に行く。お前は私に何を与えてくれるのかそして私は17である。」と言う一文がありました。 私も映画の監督なりたいと思って東京に行こうと思って、家出同然に東京を目指したのが、やはり17歳でした。  文子はものすごく悲惨な育ち方をして、戸籍もなく学校にも行けず、親にも親類にも日本と言う国家にもういじめ抜かれて生きてきた文子がいるわけです。

絶望の泥の中を這いずり回って掴んだ思想で、その思想が無政府主義と移っていくわけです。 その彼女の思想が本当に素晴らしいと思ったし、私は17歳で上京しましたけれども、監督になれるのは大卒男子でないとなれない、と言う大きな壁にぶち当たったわけです。 女にはなれない職業があると言うことに怒りを感じまた。その怒りが文子の怒りとドッキングしたというか、文子に強烈にひかれたのが最初です。 

精神的なものだけでなく、肉体的にもダメージを受けてます。 冬の深夜0度以下のところで木に吊るされたとか、9歳から16歳7年間ですが、よく生き抜いたと言うほどのことがありました。 そこから始まった人生は、自分を阻害したもの、認めなかったものに対する大人、社会、肉新、あらゆるものに対する復讐だったと思います。その復讐が生きるエネルギーになったと思います。 

ほとんど書き物が残されてなくて、獄中で書いた九首の短歌から中のストーリーを作り上げました。 自分が拘束されて生きると言う事は、ただ息をしてるだけじゃなくて、自分の意志で行動して初めて生きる、と言うことだと言うことを文子は言ってます。 自由に生きると言う文子のたったひとつのためには、今の自分を殺さなければいけないんじゃないかと言う矛盾してますが、転向声明さえ書けば外に出られる可能性はあるけれども、転向声明を書く、謝ると言う事は、彼女にとって思想をもぎ取られるものと一緒なんですね。 

未来の自分を生かすためには、今の自分を殺さなければならないと言う結論に達したんだろうなと思います。 小さな雀に自分の未来を託して、大空に飛ばせていくという、満足して未来を見て文子は死んでいったと思います。 今の人たちに「自分の頭で考えろ。」と言うメッセージを託したかったんです。 どんなことでも1分1秒でも無駄にしないで全身全霊で生きるという人なんですね。 字が書けなかった人がある時から字を学び、文章を書き思想的なことも理解できるようになるまでほんと短期間でした。  文子にとって学ぶと言う事は経験なんです。体験なんです。叩かれて叩かれて、炎のような人だったんだと思います。

私の父親が映画が好きで、毎週土曜日になると映画館に連れてってくれました。 私は10歳の時に突然父親が亡くなりました。 父親は41歳、母親は36歳の時でした。 弟が7歳で母親は全く働いたことがなかった。 母親はすごく苦労して私たちを育ててくれたと思います。 お金がなくて映画館には行けませんでしたが、ある時おじさんが映画館に連れて行ってくれることになって、そこが映写室でした。  毎日毎日映写室に通って、映画のことをいろいろ教えてくれました。

高校生になってアルバイトをして、自分でも映画を見に行けるようになりました。調べてみたら、当時女性の映画監督は1人もいませんでした。 私が監督になって等身大の日本の女性を描こうと思いました。 東京に出て行ってみましたが、周りが大卒の男子でないと監督になれないと言うことで、ピンク映画の世界に飛び込みました。  映画監督になる勉強しながらやってきました。 

1971年23歳で映画監督になりました。この業界にしか私が映画監督になれないならば、女の視点で性を撮る、女のセックスを女の手に取り戻そうと言うことをライフワークにしました。 女の欲望が主体と言うピンク映画を撮り続けてきました。女優さんの協力がありました。 同性であったので、安心感があったと思います。フィルムからデジタル化することによって徒弟制度が崩れて、手軽に撮れる様になったので、女性映画監督が増えていきました。 

1997年の東京国際女性映画祭にて、日本の長編劇映画の女性監督で最多本数は、田中絹代の6本であると言う発言があり、その時私はピンク映画を200本ぐらい撮っていました。 私はいないのと同じだと思いました。 金子文子と一緒だと感じました。 1998年「第七官界彷徨―尾崎翠を探して」と言う映画を撮りました。 私が撮ってきた女性たちはみんな100年前ですが、私が映画にするまではそれまであまり知られていませんでした。でも世界でも知られるようになると言うことが映画はいいなあと思います。  彼女たちの生き方を今の女性たちに見てもらいたい。 

大逆事件を朴烈、文子事件とよく言われますが、やはりそういうものであって、金子文子と言う一人の人間、一人の女性を描きたかったと言うところから始まりました。  何が私を突き動かしているかと言うと、やはり自尊心じゃないかなぁと思います。 自分は守る、自分以外には誰も守ってくれない。 絶対に私は私を裏切らない、私は私自身を生きると言う大きな生きてきたテーマだったと思います。  ですからピンク映画もずっとやり抜いてこられたし、今もこうして映画監督でいられることだと思います。 人が生きていく上で、自分を認めてあげられないと言うことが1番悲しいことだと思います。 「金子文子 何が私をこさせたか」と言うのが私の集大成です。 人との関係性を平等に戻す。 誰かのために生きると言うのは、愛じゃないからと言いたいです。 愛と言うのは自分のために生きてこそ生まれるもので、相手に対する愛も。

2026年3月15日日曜日

山内惠介(歌手)              ・「深夜便のうた『午前4時』への思い」

 山内惠(歌手)          ・「深夜便のうた『午前4時』への思い」

山内惠介さんは、1983年福岡県糸島市の出身。 高校1年生の時作曲家水森英夫さんに見出され、高校3年生だった2001年「僕はエンカな高校生」のキャッチフレーズでデビュー、2015年にNHK紅白歌合戦に初出場して以来、現在まで10回連続で出場。 2025年には第67回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。  演歌の貴公子と呼ばれ、ラブソングから硬派な歌まで親しまれています。  山内さんに「午前4時」に込めた思いや、節目の年デビュー25年を迎えた気持ちなどを伺います。

深夜便の歌「午前4時」を作っていただきました。 「午前4時」っていうのはほっとする作品です。  詩を書いていただいたのが、直木賞作家の桜木紫乃先生です。「午前4時」と言う題名の割には、「午前4時」という言葉が入ってないのでお伝えしたところ、入れていただきました。 演歌に関してはこぶしをつけるということですけれども、この歌に関してはあまり必要のない作品です。 ですから極力意識して抜いています。 自分が歌うことで緑の草原、ふるさとの風景みたいものがファーっと浮かぶことができれば、伝わってるって言う証拠なんだと思います。 ステージで歌っててわかる時もあれば、わからない時もあります。 「午前4時」と言うこの作品は難しい歌ですね。 さらっと歌うと言うのが1番難しいです。

高校生でデビューして伸び悩んだ時期もあり、辞めたいと言うものがありましたが、辞めたい時期は俺がやめろと言うから、と先生から言われました。     先生とはほぼ30年近い付き合いになりますが、いまだに何かがあったら先生からいろんな言葉をいただいています。 「生きるという事は地獄道なんだ。」と先生から言われました。 ステージ、コンサートは、僕の発散させる場所でもあるわけです。 それは歌い手の醍醐味かなと思います。  

コロナ禍のときにはこの先どうなっていくんだろうなと思いましたが、助けてくれたのはフアンの方ですね。 オンラインライブなどをやってます。 出会いは広がりました。 紅白歌合戦には2015年から10年連続で出さしていただきました。2025年は止まってしまったと言うのは、僕にとってはちょっと落ち込んでしまいました。自分がもっと穏やかになりたいと言うのが課題ですね。 短気なんですよ。喜怒哀楽を表現するので、自分で自分の空気の入れ替えをできるようにならないといけないと思ってます。

僕は曹洞宗で25分のCDがあって、それを楽屋で聞いています。(法話)     30周年に向かっては若さとは違う、自分の武器みたいなものを持っていたいです。  渋さとか味わいのあることを歌っていたい。 

*「この世は祭り」 作詞:松井五郎 作曲:村松崇継            最初この曲のタイトルは「明鏡止水」でしたが、「この世は祭り」と言うふうに変わりました。





2026年3月14日土曜日

飯田未希(立命館大学教授)         ・戦時中、外地で就職した女性たち

 飯田未希(立命館大学教授)         ・戦時中、外地で就職した女性たち

飯田さんは、戦中、戦後の新聞、雑誌の記事や投書、企業の社員誌、個人の手記等丹念に徹底的に調べる手法で、戦時中の女性たちの実像をつかむ研究を続けています。 その飯田さんが去年「女たちよ天使を抱け 戦時下 外地で就職する」と言う著書で、戦時中にもかかわらず、海を渡って外地、中国や南方にある軍の施設や企業で働いた若い女性たちにスポットを当てました。 女性たちは、なぜ戦時中に海を渡って就職したのか、どんな体験をしたのか伺いました。

2020年に「非国民な女たち 戦時下のパーマともんぺ」と言う本を書きました。 戦時中にもかかわらず、髪にパーマをかけ、スカートときにはミニスカートを履く人たちがいた事など、したたかにおしゃれを楽しんだ姿を明らかにしました。 その飯田さんが、「女たちを大志を抱け 戦時下 外地で就職すると言う本を書きました。 調べていくと、ドレスメーカーの女性たち、タイピスト、電話交換手、そういった仕事をするために、外地に渡っている人たちがいると言うことをわかりました。

多くの求人は満州、中国北部とかの交通会社、電信電話会社その他の会社が多かったです。 最初に求められたのは高学歴の女性たちでした。 東南アジア地域が日本軍によって占領されて、占領された地域に出て行った女性たちもいます。 軍で働いたり満鉄とか、鉄道会社に就職した人が多かったです。 1930年代後半には満鉄では10万人近い人を雇用していました。 1945年頃には20万人近くになっていました。 その1割が女性だったと言われています。 

タイピストは高等女学校卒の高学歴の方が多かったと言われています。 電話交換手は高等小学校卒が多かった。(外国語用に大学卒もいた。) 総動員令が敷かれ、女性も多く働くようになっていきました。 女性たちもお国のために外地で働くと言う新聞記事が出たり、女性たちもそういう意識になりました。 どうせ南方に行くならば、少しでも戦争を感じられるところに行きたいと言う様なことも中には言ってます。 女性の仕事は、男性の補助者だと言うような見方がされていました。女性の立場は、内地より遅れていたかもしれません。 「満州の女」とか「大陸の女」とか、偏見で見られるようなこともありました。 

内地ほどの締め付けがないので、いろんな服を着ていたりはしてました。 日本語を教えるために行った女性たちに対して、これが日本婦人だと言うことを現地の人に教えなさい、と言うようなこともありました。 西洋化されていた現地では、なかなか受け入れられなかったようです。 中国で戦況が悪化していって、前線に近いところへ行かざるを得ないようなと思いました。 

中国に渡った女性たちそれから南方に渡った女性たちも、戦後すぐには日本には帰れませんでした。 南方に関してですが、タイピストとかで働いていた女性たちが危険に会うといけないと言うことで、臨時看護婦と言う形で、戦後現地にしばらくいた女性たちが結構いました。 女性の軍属も、山の中をさまよったと言う話もあります。 外地に働きに行った女性たちは座談会などでも、結構自己主張があって面白いです。 今の人よりも元気なんじゃないかなと思います。

2026年3月13日金曜日

落合恵子(作家・子どもの本の専門店 主宰) ・「“わたし”を生ききる覚悟 後編

落合恵子(作家・子どもの本の専門店 主宰) ・「“わたし”を生ききる覚悟  後編

後編、子供の本を主催する専門店として、まもなく50年と言う落合恵子さんに絵本と人生について伺いました。

子供の本の専門店を作ったのが昭和51年31歳の時に誕生させました。 子供の頃に本って、こんなに面白いもんだと言うことを知りました。  母と接した中から、人は本を記憶とし、同時に人の大事な部分の要素は本からもできてるのかなと思います。  東京に母が私を連れて、アパートの1部屋で生活を始めたのが最初の東京の日々でした。   

母が台所の仕事を終えて私の寝ている布団に潜ってきて「さぁ、絵本の時間ですよ。」と始まるんです。  大事な私たちの親子の儀式でした。そこには必ず絵本がありました。 本って、自分にとって大事な栄養になるからねと買ってくれたのを覚えています。  子供の絵本の専門店は、その後オーガニックレストランや八百屋さんとか食べ物屋さんケーキ屋へ発展させました。  500何十人の応募者から30数人がケーキおばさんになってくれました。 その時の最も若い子がまだいらっしゃいます。

そこで誰かと出会う、本と言う誰かと出会う、何かと出会う場所ではあります。 10代の秋の日に母からもらった言葉「される側の人と柔らかく、手をつなぎなさい。」と言う言葉  あなたは残念だけど、差別される側の子供かもしれない。  だからこそいろんな場面で、される側の人で柔らかくつながって離してもいい、また繋げばいいそれを頑張りなさいって言うふうに言われました。 私が本とであったのは4万から5万だと思います。  今ちょっと焦っているのが、本がどんどんなくなっていってしまうということです。 

大好きなものを1冊でいいんだよと伝えたいです。 好きな本のうち1冊が「お休み僕」。  これは「がんと生き切る。」でも紹介してるんですが、部分と全体、人間の体は部分でできているけれども、全体を忘れてはだめだよね、と病気の人にとっても意味があります。 人は全体で生きてるんですが、病気になるとある部分がクローズアップされてしまう。でも全体を忘れるのはだめです。 

2冊目は2010年初版長田弘さんが原稿を持ってきて本にしたいということです。   長田さんの書いた詩の最初の読み手は、連れ合いである瑞枝さんと言う方です。その瑞枝さんが入院されている。 花と木だけをまとめました。 あと数日と言うところで、瑞枝さんは残念ながら亡くなってしまいました。 死ではなく、その人が自分の中に残していった確かな記憶を私は信じる。 自分の中に亡くなった人が記憶を残してってくれた。 それを信じて、私は今ここに生きていると言う、死と言うものが、ありありと私たちに教えてくれるのは、その人と自分の間にあった絆であると言うふうに長田さんはおっしゃってます。 

3冊目は(書店さんにない本。) 「ハーレムの闘う本屋 ルイス・ミショーの生涯」 ハーレムに本屋さんを作った。 ニューヨーク7番街に1939年に小さな本屋さんを作ったルイス・ミショーの生涯を描いたものです。 どうして僕たちには僕たちの本がないのか、アフリカ系の人間がアフリカ系に向けて書いた本があってもいいと言うことで本屋をやろうと決めます。 色々な人たちがその本屋さんに来ました。 キング牧師も来ました。 気がついたら彼は70代になっていた。 癌になって彼は考えます。  一体自分がやった事は誰の役に立っているんだろう。 ただただ忙しく働いてきた。一体どこに向けてメッセージを発信してきたんだろう。 でも答えが出ました。 

若い男が近づいて、私はあなたの店で父に医学についての本を買ってもらいました。 あなたは「この子は医者になるといい。」と言いました。  1冊の本が彼を医者にさせることになりました。 彼は、古くからの友人のように、私の背中に手を回した。 私は涙が溢れて、私は赤ん坊のようにワンワン泣いてしまいそうだった。  本って、そこに1冊あればあっちともこっちとも繋がれるすごいものです。

扉が1個開くとこっちも空いてないなと、気づいて全部開けちゃうって言う感じでやってきました。 子供専門店は今年12月5日に50周年になります。  その間にもいろんなピンチがありましたけれども、続けてこられました。  次の世代に手渡していかなければいけないと考えるようになりました。 その社会において、最も声の小さい側の人が、声の出せる、みんなに伝わる社会でありたいと思います。 

外に出るのがしんどくなってしまっている人が、土をいじったり、自分が食物、食べ物を作ることができたらどんなにいいかなと思ってます。  病を体験することによって風景が違ってくるものってありますね。  それらは書いていきたいと思っています。  変わってないものとしては、「悲観にも楽観にも傾かず。」です。  私は自分の人生に大好きな3冊の本があればいい、大好きな3本の木があればいい、大好きな3つの料理があればいいと思ってます。 そばが好きです。 「癌と生ききる、悲観にも楽観にも傾かず」を自分の真ん中に置きたいと思ってます。






2026年3月12日木曜日

藤原稔三(映画監督・プロデューサー)    ・「人生は生き直せる」

 藤原稔三(映画監督・プロデューサー)    ・「人生は生き直せる」

映画監督藤原俊三さんがメガホンを取った映画「ミックスモダン」はベルリン国際映画祭で注目されました。 この映画は、藤原さん、自身3本目の映画でメジャーデビュー作となりました。  映画「ミックスモダン」は少年院から出た少年を周囲が再生させて行くと言うもので、現在上映中です。 4月にはフランスでも公開される予定です。 藤原さんは23歳で黒澤明監督の「影武者」で俳優デビュー、その後様々な映画、テレビなどに出演して、俳優として順調に動き出しました。 しかし38歳の時に、舌癌を患い舌の1部を切除する手術を行って、それまでのような発声喋りができなくなりました。 俳優としての仕事は諦めざるを得なくなり、すさんだ生活をするようになりました。 しかし、それを救ってくれたのが映画だったといいます。 作ることならできると、プロデューサーや映画監督として仕事をするようになったのです。 映画監督であり、俳優、保護司でもある藤原俊三さんに伺います。

「ミックスモダン」 映画館で、自分の作品が一般公開は全く初めてです。    2月7日公開、今回が3本目の映画です。 映画のタイトルが「ミックスモダン」、「ミックスモダン」はお好み焼きに焼きそばを一緒に入れて焼きそを挟むように焼くものです。 映画の内容は、罪を犯すことでしか自分を感じられなかった少年が主人公ですが、お好み焼き屋の夫婦に会って、生きる意味を見つめていくヒューマンドラマ。 お好み焼きを営んでいる夫婦が、元受刑者や少年院の出身者を雇いながら、社会復帰の手助けをしている。  主人役を、私がやってます。 

映画監督、出演俳優、脚本、プロデューサー、編集の5役をやってます。 学生時代は8ミリで自主映画を作っていました。 30年前ぐらい舌癌になりました。 放射線治療をやってました。 一旦収まったんですが、再発してしまいました。 舌の両側にできて片方を切除しました。 仕事ができなくなってしまいました。  23歳の時に、黒澤明監督の「影武者」でオーディションに出て受かりました。 「乱」にも出ました。 北野武監督の「あの夏、いちばん静かな海」にも出演しました。    俳優の仕事が順調に行くようになりました。 舌癌になってしまい事務所もクビになりました。 芝居の本を書くようになりました。 舞台の台本も書きりました。 ワークショップで、ユニットを作ってメンバーはいろいろ変わりますけれども、40歳の頃からだんだんやり始めました。 その後映画に取り組み、2002年に「シアター」、「空の裏側」を2014年、「ミックスモダン」が2025年と言うことになります。

1956年生まれ、現在69歳です。 大阪で綿織物の工場を営む経営者の孫として生まれました。(三男) 6歳の時に会社が倒産しました。 父親は働こうとせずやけ酒を飲んでました。 母親はため込んでいたへそくりを使って喫茶店を始めましたけれども、父親は邪魔をしたりしました。 中学、高校、大学と暇さえあれば映画館に通ってました。そこで本を書く事、映画に関することが勉強出来ました。 経験が今の本や映画になっていると言う感じです。

子供が犯罪を犯して周りがどう支えたらいいのかとか、悪い思いなんかみんなないのに、それが社会ではうまくいかないと言うような、すごく大きな問題を抱えた映画と言うふうに思います。 彼らのお父さんお母さんとまず仲良くなると言うことをすごく大事にしてます。 仲良くなることで絶対息子さんは変化があるはずだと僕は信じているんです。 

僕は高校で停学するようなことをしましたけども、ずっと親は見てくれていて見捨てなかった。 それは今の自分のベースになってます。 僕が保護司として担当した少年の半分は、小学校、中学校で勉強があまりできなかった子です。 でもできなかったんじゃなくて、やる感情がなかったと本当に思います。 できない子じゃなくて、やるチャンスがなかったんだと、それだけなんです。 ちょっとした環境の違いで、やるチャンスをもらえなかったと言うのは、段々その子たちが集まって、悪さをし始めてしまうと言うことだと僕は思います。  映画を通して多少なりともこういうことをわかっていただいて、広がっていけばうれしいなと僕は思います。




2026年3月11日水曜日

垣添忠生(日本対がん協会会長)       ・「Dr.カキゾエ みちのくの沿岸を歩く」

垣添忠生(日本対がん協会会長・国立がん研究センター 名誉総長) ・「Dr.カキゾエ みちのくの沿岸を歩く」 

垣添さんは3年前82歳の春に、東日本大震災で被災した沿岸を南北に走るおよそ1000キロの「みちのく潮風トレイル」を歩き抜きました。 多くの出会いを得ながら歩みを進めるその姿を追ったドキュメンタリー映画「Dr.カキゾエ歩く処方箋」が今全国で順次公開されています。 がんの専門家でもある垣添さんがなぜみちのくの沿岸を歩こうと思ったのでしょうか。 旅の途中で出会った震災で被災した人やがん患者達との交流からどんなことを感じたのでしょうか?

参照 https://asuhenokotoba.blogspot.com/2012/02/blog-post_15.html

1941年生まれ、今年の4月で85歳になります。 がんの専門家でもあり、連れ合いをがんでなくした患者遺族でもあり、さらにはご自身もがんと戦ったがんサバイバーでもあります。 現在は国立がん研究センターの名誉総長でもあり、日本対がん協会の会長として、がん予防や検診の推進、患者や患者家族の支援、がんの正しい知識の普及や啓発などに取り組んでいます。

何故東北を歩くようになったのか、8年位前に全国がんセンター協議会に加盟している32施設、南は九州から北海道まで半年かけてずっと歩きました。(2500キロ位。)その前に妻を亡くした後で四国のお遍路を3年がかりで歩きました。 2022年にドキュメンタリー映画監督の野澤和之さんから、私の書いたものに感動したと言うことで映画を撮らしてほしいと、できるならば歩いて欲しいと言われました。 それでみちのくトレイル1000キロを歩こうと思いました。 この道は青森県の八戸市から福島県の相馬市までの1025キロ。  北山崎、浄土ヶ浜などが印象的でした。 岩のところに松が生えていて植物とは強靭なんだなぁと思いました。

一瞬にしてご主人とご主人の両親を失ってしまった方とか、酒のお店をやっていて「負けねぇぞ気仙沼」と言うラベルを作って、一升瓶を売って、何とか店を立ち直らせたとか、その他いろいろ凄い体験された方に出会うことができました。 岩手県の大槌町吉祥寺と言うお寺の高橋住職にお話を伺いましたが、その一角では2000名近い方が亡くなったり、行方不明になったりもしてます。 巨大な苦しみや悲しみをどうやって一人の身で受けられたのかと聞きましたらば、どんなに忙しくても夜5分でも10分でも座禅を組んで、自分の心を空っぽにしたと言ってました。

3時間、4時間の睡眠時間が続いたと言うことでした。 無私の精神、仏教徒の原点を見たような気がしました。 若い女性の方の両親と姉さんが津波で行方不明になってしまって、私も人の役に立つ仕事をしたいということで、薬剤師になって戻ってきたときに、心臓発作でなくなってしまったと言う女性がいました。 お寺でお預かりしてると言うふうに住職はおっしゃってました。 こういう苦しみ悲しみに会っている方が無数におられると言うことを強く思いました。 乳がんの女性は私を追いかけてきて、15年化学療法をやっていて、頭がすっかり髪の毛が抜けてしまった方がいまして、明るい方でそれだけの苦しみを耐えてきて、お話できたと言うことがありました。その方も亡くなったと言うふうに、お姉さんから連絡がありました。

俳句を作っています。

「春風に防潮堤の遺構立つ」?

「二人の子授かり災後十二年」(被災した時には高校生だった人。)

「災後十二年千の話千の意味」 (伺った話が全部違う。)

俳号は冬瓜(ガンと戦う)

「がん語る女性の顔に春日さし」?(15年がんと闘ったった人への句)

私は大腸癌を内視鏡で切除して、早期発見だったので1日も仕事を休まずに直してしまいました。 妻の昭子も癌で亡くなりました。 二つのがんは直しましたが、三つ目の小細胞肺がんと言う、肺がん4種類の癌の中で1番の悪い癌が見つかりました。 再発して抗がん剤治療をやりましたが、癌が全身に広がっていきました。  妻は自分の余命が3ヶ月位であると言うことを自覚しました。 

ほとんど動けなくなった時に家で死にたいと言いました。 あら(魚)鍋を食べたいということで作って、大きなお茶碗2杯おかわりしておいしいと食べました。  苦労して家に連れ帰りましたが、家に連れてきて本当によかったなぁと思いました。 その翌日12月29日から意識が途切れ途切れになりました。 31日の朝から完全に昏睡状態になりました。 呼吸困難であえていましたが、夕方6時15分突然妻が半身を起こして、私の方を見て自分の右手で私の左手をぎゅっと握って、その後心肺停止になりました。 言葉にはならなかったと思いますが、ありがとうと言って亡くなったと思います。

亡くなった後、妻との対話が一切できないと言う事は本当に辛かったです。   亡くなってから3ヶ月間本当に鬱状態だったと思います。 心を紛らわすためにウイスキーとか強い焼酎を飲み、泣いていました。 よくあんな状態でアルコール依存症にもならず、肝臓も痛めないでこっちの世界に戻って来れたと思います。    仕事はやっていましたけれども、私は仕事は普通にやってるつもりでしたが、周りからは声をかけられないような雰囲気だったと言ってました。 百箇日の法事を過ぎた頃から、腕立て伏せ、腹筋、背筋の運動を始めました。 だんだん生活も規則正しくなってきました。 

1年がかりで見かけ上普通の生活に戻れましたが、やっぱり心の底には深い苦しみ、悲しみは残っています。 そういう経験をすると他者に対して寛容になると思ってます。  癌になった人の苦しみ、悲しみの心情がよくわかるようになったと思います。 いろんな被災の経験者が、どういう状況からどうやって立ち直られたのかとか伺っていくと、すごい勉強になりました。 

毎朝予定よりも1時間早く起きて家でトレーニングをやってます。 腕立て伏せ110回、軽い腹筋500回、スクワット10回ずつツーセットとか相撲の四股を10回とかやってます。  最初のころはそれほどはできませんでしたが、妻が亡くなった、2007年以降ずっとやってます。 人間と言うのは歩くことが1番体を健康に保つためには大事だと思います。 毎日家から事務所まで片道3300歩往復6600歩、歩いてます。 他に歩いているのを足すと10,000歩なんて軽く行きます。 

私は完全高齢単独世帯者です。 家で死のうと思ってます。 往診してくれる良い先生を見つけられました。 玄関ドアを遠隔で施錠したり開錠したりできるように変えました。 信託銀行にエンディングノートのサービスがあって、書類の手続き、スマホ、カード、パソコンの解約とかを全部代行してくれます。 今度のトレイルでだいぶ無理をしたので右膝を痛めました。 

私が思ってきたのは、がん検診の受診率を上げることです。 早期発見すればもう普通の病気ですから。日本に組織型検診と言って、台帳管理をして対象の年齢の人はみんな受けてもらうと言う体制を導入したいと思います。 これは法律をいじらなくてはいけないので大変な作業なのでその方向性だけでも実現したいなと思ってます。 ガンサバイバーを支援すると言うことも私のライフワークです。 家で亡くなりたいと言う人が沢山いて、それを実現できるような体制を実現したい。 38万人ぐらいが癌で亡くなって、そのうちの20万人が配偶者を亡くしている現状です。 医療の中にグリーフケアとかといったことを取り組んでいければなぁと思ってます。

人生の途中で津波で足元を救われた人癌で足を救われた人、そういう意味では同じ経験なんじゃないかと思います。 過酷な体験をしながら、人は何か立ち直ってこられる。 人は何か少しでも希望があれば生きられると言う結論に至りました。  「行動をすることが希望につながるんだ。」と言うふうに思ってきました。

グリーフケアは専門家が手を差し伸べ支えること、グリーフワークは自分で立ち上がるために努力すること。 反跳力が人間には備わっていると思います。    人はどんなに苦しい状況にあっても、かすかな希望があれば、生きられると言うのは映画の重要のテーマであり、私が生きていく上でも大事なテーマになってます。



2026年3月10日火曜日

田内洵也(シンガーソングライター)     ・「“流し”こそ、わがスタイル」 

田内洵也(シンガーソングライター)     ・「“流し”こそ、わがスタイル」 

 このほど東京近郊の飲食店で、いわゆる流しと呼ばれる活動をしているシンガーソングライターの田内洵也さんが、サザンオールスターズの桑田佳祐さんにその才能を評価されて、田内洵也さんが作詞作曲した「深川のアッコちゃん」と言う曲を、桑田さんがアレンジしたり、コーラスをつけたりして発表し話題を集めています。田内洵也さんは長野県生まれの37歳、小学生までは愛知県で過ごし、中学の3年間はタイのバンコクで育ちました。  この時にビートルズや桑田佳祐さんの影響で、音楽に目覚め、ギターを覚えて路上ライブを始めます。  高校から日本に戻り、大学卒業後は世界各地を旅しながら、路上ライブやミニライブを続けました。  都内のバーで活活動中に偶然桑田佳祐さんと出会い、流しのシンガーソングライターとしてこだわって、音楽活動を続ける田内さんの気持ちにも弾みがつきました。現在全国21カ所を回るツアー中です。 田内さんに音楽活動の原点や、流しとして歌う魅力、桑田佳祐さんとの出会いについて伺いました。

 「深川のアッコちゃん 」(produced by 夏 螢介 a.k.a. KUWATA KEISUKE) をリリースされました。 愛知県の実家から上京した際に、隅田川の近くにずっと暮らしていました。 下町の人情あふれる光景を目にして、それと自分の経験を混ぜ合わせて出来上がった曲だと思います。

*「深川のアッコちゃん」 (produced by 夏 螢介 a.k.a. KUWATA KEISUKE)  作詞、作曲:田内洵也 編曲、コーラス:桑田佳祐

当時、毎週演奏していた店があって、そこに偶然桑田さんが来ました。(2017年、27歳) 桑田さんの前で歌って、その後交流が始まりました。  桑田さんの方から一緒にレコーディングしてみたいと言う話がありました。  すごく丁寧に直していただいたり、教えていただいたりしながら曲が出来上がってきました。    一期一会で出会った人との前でギターを弾くと言うことをずっとしてましたが、顔の見えない人に対して発信する音楽の作り方とか、聞く人のことを深く思って丁寧に作り上げていくと言うことを桑田さんから教えられました。  僕が想像していた以上のものが出来上がりました。

長野県で生まれて、愛知県の春日井市で幼少期を過ごして、中学の3年間は父親が新聞記者をしていたと言う関係で、タイのバンコクで過ごしました。  最初ギターを手にして、近所の公園で覚えたてのビートルズを歌ってました。  だんだん演奏すると言う音楽にのめり込んでいきました。  高校から日本に戻りました。東京の大学に通い始めてもライブ活動はしていました。 グループで、音楽をやるよりも、1人の方が性に合っていました。 オリジナル曲は50曲ほどあります。

「深川のアッコちゃん」に関しては、立ち寄った居酒屋が地元出身の方が多い店でした。 海外にも1ケ月ぐらいアメリカ、イギリス、フランスドイツなどに行きました。  そこでもギター1本持って歌ってました。  ギターで世界中の人たちとつながることができました。  全国ツアー中で車にギター1本乗せて1人でやってます。  

去年10月12日に桑田佳祐さんが主催する日本武道館での九段下フォークフェスティバルで前座としてステージに立つことができました。 10,000人の前で「深川のアッコちゃん」を弾き語りしました。 凄く緊張はしましたが、ギターがいざなってくれました。 流しと言う自分のスタイルを、しっかりと残していきたいと思ってます。 今まで世の中に活かしてもらってた人間なので、自分が少しでも良い音楽を作って、世の中に貢献していきたいなと、心の底から思うようになりました。  自分の心をさらけ出す曲を作りたいと思います。 47都道府県に行ってみたいと言う夢があります。

*「街の音」 作詞作曲、田内純也

2026年3月9日月曜日

山崎まさや(俳優・お笑い芸人)       ・師匠を語る「志村けんを語る」

山崎まさや(俳優・お笑い芸人)       ・師匠を語る「志村けんを語る」 

日本の笑いの最前線で活躍し続けた志村けんさんが突然亡くなってから、まもなく6年が経とうとしています。志村けんさんと山崎まさやさん、どんな師弟関係があったのでしょうか。

志村さんとの年齢差はちょうど20歳違います。 僕は1970年生まれです。 僕が物心ついた小学校4年生の頃「8時だよ。全員集合」を見てなんて面白いおじさんたちなんだろうと思いました。

志村けんさん、本名志村康徳さん、1950年(昭和25年)2月東京東村山市で誕生します。 小学校の教頭を務める父親のもと厳格な家庭に育ちましたが、テレビで喜劇の舞台中継を見ている時だけは、家族一緒に笑えたことから、笑いが持つ力を実感、生涯の仕事にしようと決めました。 ザ・ドリフターズのリーダー、いかりや長介さんに弟子を志願したのは、高校卒業する間際の18歳の時でした。 「ぼうや」と言う付き人をし始めます。一時はドリフから離れ、「マッククボンボン」と言う漫才を結成したこともありましたが、1年ほどでそのコンビは解散。 再びザ・ドリフターズの「ぼうや」に戻った志村さんは、その後メンバー見習いに昇格して、配役として8時台の「全員集合」の舞台に立つことになりました。 

荒井忠さんの脱退に伴って、ザ・ドリフターズの正式メンバーになったのは、1974年4月志村さん24歳の時でした。  加入から2年後の1976年には、東村山音頭が大ヒット、さらにヒゲダンスなどのギャグで国民的な人気を博し、1985年に「全員集合」が終了した後も、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」「志村けんのだいじょうぶだ」「志村けんのバカ殿様」などで大ブレイク、バカ殿、変なおじさんを始めとするユニークなキャラクターを生み出し続け、1999年にはゴールデンアロー賞芸能賞を受賞しました。 日本の笑いの最前線で活躍し続けた志村さんでしたが、2020年3月29日新型コロナウィルス感染症に伴う肺炎のため70年の障害を閉じました。 志村けんさんのテレビドラマ初出演にして遺作となったNHK連続テレビ小説「エール」の放送がスタートしたのは訃報が届いた翌朝の事でした。

人を笑わしたいと言う夢があり、高校を出るときに東八郎さんのコメディアン養成所「笑塾」に入りました。 高校を出て18の春、その3ヶ月後東さんが亡くなられました。 志村けんさんが1人ぐらいは面倒見られると言うことで、私が選ばれていくことになりました。  初めて志村さんと会うことになり名前を言った後に「教えてやることはできないけども、見てやることはできるから」と言われました。  それで最初の出会いは終わりました。 

付き人として70,000円貰いました。当時としては良い額だったと思います。  送り迎えはやらないでそばにいて、空気感、間とかタイミング、その場の状況などを勉強するために横にいると言うことで、僕には運転させなかったです。  志村さんはテレビの前で見る志村さんではなく、すごくクールで人見知り、恥ずかしがりさんです。シャイな方です。 本番に入るとキャラクターに豹変する。それが尊敬です。

番組に出演するようになって、最初は「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」で前説をやることになりました。   何も用意してない状態で、300人いる前でドーンと出されて、頭が真っ白でした。僕が前説を始めた頃からずっとスタジオの後ろで、ずっと見てくれてたそうです。(あと後から知った話) 付き人を始めてから半年後からスタートして、やめるまで約4年半位ずっと前説をやってすごく勉強になりました。 コントも脇役をやってもらえるようになりました。 表を歩く時には「通行人をよく見るように。」と言われました。 10人いたら10人違うと言われました。 1番よく言われたのは「相手に対して好演しなさい。」ということでした。  「相手がやりやすい演技をしろ。」と言われました。  

一回加トちゃんケンちゃんごきげんテレビの現場で遅刻したことがありました。 加藤ちゃんが「俺についてこい。」と言って、そこには志村さんがいました。  加藤ちゃんの一言「志村、今日から俺の付き人になった山崎」と言ったら、志村さんが突然立ち上がりまして「どうもはじめまして。志村と申します。と言われて「よろしくお願いします。」それがドーンと受けました。 その後志村さんが「馬鹿野郎早く仕事に戻れ。」と言われました。その後加藤さんから「次は自分で考えろよ。」と言われました。 

ある時、志村さんに「一人立ちしたい。」と申し入れました。 怒られるかなと思ったら「やっと言ってきたか、遅い位だよ。」と言われました。 付き人の最後の日に、車の後ろに一緒に乗せてもらって、六本木の高級な店に連れて行ってもらえました。そこで初めて「こいつが俺の弟子だ。」と紹介されました。 すごく嬉しくてトイレで泣きました。 独立後もそっと見ていてくれたようです。

2020年3月29日新型コロナウイルス感染症に伴う肺炎のために亡くなりました。 ちょっと前に志村さんのマネージャーからコロナで体調崩してしまって、入院したと言う話が聞きました。 その後状況があまり良くないって言う話も聞きました。スマホに入ってきた訃報の情報で初めて知りました。 まさかまさかと思いました。 最後に会ったのは亡くなる1ヵ月位の誕生日の時でした。「ありがとう。またね。」と言うのが最後の会話でした。

志村さんへの手紙

「初めて会ったのは、師匠が38歳僕が18の時のことでした 。笑いはもちろんいろんなことを教えていただきました。たくさん笑いました。たくさん怒られました。そして少し褒めてくれました。・・・ 師匠と桜を見に行ったことがありました。最高の思い出の1つです。 僕はきれいな桜を見るたびに少し悲しくなります。  この先花見をするたびに思うんではないでしょうか。 師匠が亡くなられて日本中が驚き、コロナウイルスの恐ろしさを知り、政府まで動かし、本気の注意喚起が始まったのではないかと思います。 たくさんの国民の爆笑させて、たくさんの国民の命を助けて、本当に凄い方だと心の底から思います。・・・僕もいずれそちらに行きます。・・・お会いできたらまた付き人をやらせてください。その時までもう少しこの世で頑張っていきます。」