千田ハル(岩手県釜石市) ・砲弾の雨をくぐり抜けて
1924年大正13年釜石市生まれ 93歳。
昭和17年に盛岡高等女学校を卒業し、上京し商事会社に勤めました。
戦争が激しくなるとともに、釜石に戻り釜石製鉄所でタイピストとして働きました。
昭和20年の夏、釜石市民は突如戦艦3隻を含む連合軍の大艦隊の艦砲射撃に二度もさらされます。
製鉄の街は武器の原料を作るところと連合軍の標的になったのです。
一回目は7月14日、2回目は8月9日でした。
長さ160cm直系40cmの戦艦の砲弾を含め5300発以上の砲弾が釜石の街に降り注ぎました。
空気を引き裂く砲弾の音、大地を揺るがす激しい爆発、艦砲射撃で街は壊滅状態、ハルさん21歳の時でした。
1000人を越えると云う犠牲者の数は今も確定していません。
終戦から2年後、生き延びた職場の仲間と同人誌を立ち上げ、戦争の恐ろしさとその体験を長く伝えて来ました。
いまでは当時の仲間も亡くなり、2年前その体験を後世に残したいと絵本を作りました。
宮沢賢治も釜石に親戚があるので、よく来たそうです。
遠野の街を越えると、山が急峻になる。
600名以上の子供たちが疎開するために仙人峠を荷物を持って歩いて越えました。
1回目は空からの爆撃と思って艦砲射撃とは思わなかった。
翌日艦砲射撃と判りました。
「ああ、わが街に砲弾の雨が降る」と云う絵本を作りました。
卆寿で自費出版しました。
絵は村上 伊三雄さんです。
「7月14日はとても暑い日でした。・・・突然の空襲警報のサイレンが鳴り響きました。 私は釜石製鉄所の総務課のタイピストとして2年ぐらいたっていました。
・・・事務所にいた30人ぐらいと一緒に防空壕に逃げ込みました。・・・大きな衝撃を感じました。・・・空からの爆弾と思っていました。・・・しばらくして爆撃の音がぴたりとやんで不気味に静まり返っていました。・・・最初に目にした光景に大ショックを受けました。街の方は黒い煙で何も見えず、駅前の大きな5本の煙突はみんな破壊され、余りの変貌に声を失いました。」
1回目も2回目も砲撃の時間は2時間ちょっとで、始まった時間もお昼近くでした。
街中は建物らしいものは残らないように一面焼け野原だったが、事務所は進駐軍が後で使ったが、計画的に攻撃してたんだろうなあ後で思いました。
「2度目の艦砲射撃があった8月9日は朝から警報が出たり解除になったりで私は出勤していませんでした。
昼近くになって、急に空襲警報のサイレンが響き渡りました。・・・警報とともに布団にもぐりこみましたが、悪夢の様な音が始まったのです。 私は近くの山に逃げ込みました。素手で山肌の地面を掘って顔をうずめていましたが、突然大きな音がして空から土が降ってきたことが記憶しています。しかし記憶があいまいで多分気絶していたのでしょう。・・・我に返り、家に戻ってみると畑の処に大きなすり鉢状の穴が開いて、背筋が凍りつくようにぞっとしました。」
砲弾の破片が家に入って、暴れまくって、布団が破れたり衣類などがクシャクシャになっていました。
親しくしている人から聞いた話では製鉄所の地下のトンネルに入ったが、折り重なるように様に人が一杯で、そういうトンネルが3つあったがとてもいられなくて、海岸の近くの出口に出たら、山の上には防空壕がいっぱいあって住民が逃げたがそこが攻撃されて71名亡くなったそうです。
駅の方に戻ったら、途中も倒れていたり、けがをした人がいてそれを見て駅の方に行き、防空壕が直撃されて23名が亡くなりました。
1971年ごろ、犠牲者の名前を発表したが、だぶったり、未整理のままでして、それはずっと公式の名簿として通ってきました。
今年3月発表されたのが19人認定で773人となったが、現実はもっと多いと思う。
当時製鉄所には海外の捕虜(アメリカ、イギリス、オランダ、中国、朝鮮等)も500人以上いたといわれている。
東日本大震災で戦争記念館が被害を受けて資料も散逸しました。
当時集団疎開した子供たちは9月に遠野から帰ってきたが、家族が被害を色々受けていた。
「8月15日重大放送があると聞き、ラジオ放送に耳を傾けました。
初めて聞く天皇陛下のお声でした。内容は良く判りませんでしたが、日本が全面降伏したらしいと云うことは理解できました。何の疑いもなく、聖戦と思い大本営発表を信じてきた私たちにはよくわからないながら、涙がとめどもなく流れたのでした。」
言葉はさっぱり分からなかったが、負けたんだということで、私は何の疑いもなくそのうち神風が吹いて助かるからと思ってきたので、考えの及ばないことがわかって立っていられないほどのショックでした。
詩人集団「花貌」を12,3人で立ち上げる。
憲法の草案が発表されて、憲法の草案を勉強しました。
言論の自由、書ける、読める、そういう自由な雰囲気のグループを作ろうと云うことで「花貌」を立ち上げました。
花はそれぞれの持ち味で咲くし、だれにも遠慮もなく自由に生きて行きたいという気持ちで決めました。
自分は詩人ではないが自分の気持ちを発表する場にしたかった。
昭和22年に創刊、57年間続いた。
最初は紙すらなかなか手に入らなかった。
2004年に終刊、先輩たちも亡くなり、私が編集長になり、その後はっきりと幕を下ろそうと云うことになりました。
齢90歳、聖戦と信じた日本の戦争はひどい侵略戦争と判って、当時の自分の無知を思い知らされました。
この絵本は測り知れぬ命の犠牲の中から生まれた日本国憲法の戦争放棄を詠った精神とその意義を改めて考えるきっかけになればと念願し、戦後70年の大きな節目の年に次の世代へのメッセージとしたいと思いました。
ひ孫のここみちゃんが作文コンクールで平和についての作文募集があり優秀賞になる。
「・・・砲撃を受けた人たちはどんなに怖くて辛かったことでしょう。釜石の街中は一面焼け野原になり、ひいおばちゃんの家も焼けてしまったそうです。その後家族全員無事に生きて会えた時にはおいおいと涙を流して抱き合ったそうです。2回の艦砲射撃で1000人以上の人が亡くなりました。・・・この釜石にそんな悲しいことがあったと知って怒りがこみ上げて来ました。なんで戦争なんかするのでしょうか。どんな理由があっても人が人を殺し合う残酷な戦争をしてはいけないと思います。なぜなら戦争は憎しみと悲しみしか残さないからです。残さなければならないのは人々の優しさと笑顔だと思います。・・・人が人を思いやって仲良く暮らして笑顔があふれる幸せな世界を私達が作っていかなければならないと強く思います。」